0歳〜小学校まで(1945〜52)
岩手県紫波郡乙部村に(町村合併にて都南村乙部に、再度合併し現在は盛岡市乙部)昭和20年5月14日に生まれる。超未熟児だった。戦時中だったので米の粉を炊き、上澄みを母乳の他に飲んでいたらしい。

三歳の時同い年の従兄弟が水死する。

歩きながらお茶を飲んでいて転倒、茶碗で鼻をあと一歩で切断、という大怪我をする。 


小学校時代(1952〜58)
 
近所の農作業時の火の不始末で家が火事になり全焼。火事の恐ろしさ、悲惨さを身をもって体験する。
避難する時昼食の大きな卵焼きを残したことが心残りであった。医者であった祖父から麻薬の入った手提げ金庫を託され、背負って避難し責を果たした。 今でも「火」と「卵焼き」「麻薬」には異常反応を示す。
 
虚弱で何度か死にかける。

小四から離れ屋で三毛猫と暮らしいろいろ教わる。

高熱から臨死体験し「生老病死」に関心高まる。

祖父が喜ぶので往診に同伴、このころの印象が今の医療観に影響している。
 
アッペの手術を受ける。手術の恐怖から病状を回りに隠して腹膜炎発症、膿瘍形成し、またもや死にかけた。
 
この頃から鳩に熱中し始める
ある鳩の思い出 

畏敬していた祖父が亡くなる。医院を廃業する。

教師が病欠の時は代わりに授業をすることもあった。
卒業式のとき総代として壇上にあがる栄誉を受けるが校長からは
「字をもっときれいに書くように」と一言付け加えられ恥ずかしい思いをする。
 

 中学時代(1958〜61)
入学間もないころ英語の時間にうっかり欠伸したため教師に平手打ちされる。 

 校風が嫌で三年のとき中高一貫の岩手中学校から地元の乙部中学へ転校する。

走り高跳びで足を負傷しながらも紫波郡で三位になる。
虚弱児から健康優良児へと変化しつつあった
 
来日したオイゲン・ヨッフム指揮のベートヴェン「エグモント序曲」をTVで聴き全身に鳥肌が立つほど感動しクラシック音楽の魅力に取り付かれる。
 

高校時代(1961〜64)
毎日往復30キロの通学路をを自転車で走破することが現在の健康に繋がる
 
自信を持って書いた国語の作文が「悪い回答例」として廊下に張られ、自分としても最低点を更新する
 
化学部に入部、実験の楽しさを知る

受験勉強に専念するため鳩と別れる
 
東大出身の担任に医学部希望と言ったら東大医学部にせよと言われ頭に来た。予定通り大学受験に失敗し、挫折感と開放感を味わう。視野が広くなった。

浪人時代(1964〜65)
仙台の予備校に通う。親代わりの猫が死の旅立ちしたらしいと連絡があり慟哭。 
2週後兄も結婚式のために帰省、窓下に猫の鳴き声、弱り果てた猫と感動の再会30分、細く汚くなった手を握り続けた。水を飲ませようと汲んで戻ったら居らず、永遠の別れとなる。以後30年他の猫に関心示さなかった。 

父が定年前に突然仕事を辞め、お先真っ暗になる
父親に捨て台詞を言われてそれ以来捨て台詞を嫌悪する。
 

大学時代(1965〜71)
六華寮に入る(卒業時まで)

祖母が亡くなる。このころ万巻の書を読破する。
オーケストラに入る。ヴァイオリン、後にヴィオラパートを担当。ハーモニーを乱す 
 
ヴァイオリンを教えてくれた先輩が「燃えるヴァイオリン」事件を起こす
 
教科書にはさんでいた仕送りを間違って使い込み、1ヶ月間極貧生活をおくる
 
7年後にとなる女性に出会う
 
パチンコで学費や生活費の一部を捻出する。景品を友人に売り、教科書などを購入した

卒業時に病理学ほかいくつかの基礎研究室からお誘いを受けるも臨床に進みたくて辞退する

卒業まで納めた学費2万円ぽっきり。国に感謝
 m(__)mペコ

宮古病院時代(1971〜73)
 
研修中。奨学金を2年分借りていたので赴任。
 
当時大ブームだったボーリングでスコア236を記録し、喝采を浴びる
 
このころが一番給料を自由に使えていた両親に仕送りをして残りはオーディオ、レコードやコンサートで散財する。初めての車を買う
 
本荘市の寺で仏式にて結婚する。列席者全員カメラを持ってこなかったため披露宴の写真が一枚もない。
 
長女誕生。一児の父となる。  子育てと血液内科学の勉強のため、宮古を去る

秋田大学第一内科時代(1973〜75)

宮古から妻の実家のある秋田市に移る
第一内科に入局。
 
秋田大学第三内科時代(1975〜85)
 新しく三内科が創設されたのでそこに移動する
妻から教わりテニスを始める。(現在進行形)

長男誕生する。母が亡くなる。 次男誕生する。 自宅を建築する。
 
津軽海峡上空で私だけ死の恐怖を味わい身辺整理を始める。
学生の頃から念願であったチェロを購入する。うれしくて京都のホテルでチェロを抱いて寝る。
練習のし過ぎで腱鞘炎になる。

造血幹細胞に関する論文で博士号を取得する
 
乗っていた特急電車が脱線し遊佐駅プラットホームに激突する。網棚に頭をぶつける

仲間とアンサンブルを楽しむ。アンサンブルを乱す。

父死ぬ。これも自然の摂理か・・・

秋田大学医学部の講師になる努力の割に成果あがらず これ以上の税金は使うのは罪だと研究に目処をつけ、大学を去る
 
論文その他の資料を焼却炉で燃やし、学問からひとまず足を洗う
 
次の職場に移るまでの間、ヨーロッパに音楽の旅にでる(二週間)ハンブルグ、ミュンヘン、ウィーンで本場のオペラを見て感涙する

 中通総合病院時代〜現在(1985〜)
 
患者さんと直接触れ合う臨床の道に入る。(1985)
 
外来診療部長になる (87)
 
ヴァイオリンの名器 「オッドアルディ」と出会う(90年ころ)

秋田市医師会の理事になる(91) ハーレーダビットソンの名車ファットボーイを購入する 
 
窓下の野良猫と目があい、昔の猫の面影に思わず招き入れる。2匹目の猫となる。  

を飼う。 秋田県医師会の常任理事になる(96)
 
入院総合診療部長になる。(97)

欧州医療事情視察団に加わりポーランド、スイス、オーストリア、フランスなどを訪問する(2000年9月)
 
明和会理事になる(2001)  Website「これからの医療のあり方」を開設(2001年11月)

中通総合病院副院長を拝命する(2002) 

健康増進のためのテニス中、アキレス腱断裂する(2003年10月19日)
 (その後の経過などくわしくはアキレス腱断裂体験記 を参照してください)

還暦を迎える(2005年5月)   中通総合病院 院長を拝命する(2005年9月1日) 
酷い腰痛に悩まされる(2005年10月頃)

秋田県医師会副会長に就任する(2006年4月)

人生初の全身麻酔下での膀胱頚部硬化症手術を受ける (2007年8月) 
(詳しくは50年来の苦痛からの解放をご覧ください)

健康診断で肺がんを濃厚に疑われ、身辺整理を始める。結果はシロ(2008年3月)
(詳しくは肺がんを濃厚に疑われた日々の心境をご覧ください) 

初孫誕生。名実ともに爺となる(2009年11月) 

日本医師会代議員 、秋田県医師会副会長職を辞任(2010年4月) 

交通事故に遭い警察署にて自分の車の車検切れが発覚。  二匹目の猫なんなん20歳大往生慟哭す(2010年5月) 

労働契約期間満了にて中通総合病院を退職。嘱託医として週5日間診療に従事(2011年5月)









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