高校時代(1961〜64)


盛岡第一高等学校に入学
 入学試験も無事終わり、合格発表は祖母キヌ及びその友人数人の恒例となっていた湯治の荷物運びのお供をして 花巻志戸平温泉に送っていった日の夕方、ラジオで聴いた。希望通り盛岡第一高校に合格したが、 自身としてはちょっとホッとした程度で特別の感慨は生じなかった。
 しかし、私にとって盛岡一高の3年間は通学、 クラブ活動、成績低迷、進学問題等で数々の壁にあたるミニ試練の時期となる。

 当時、盛岡一高は県内では抜きん出た進学校であり、岩手県内ばかりでなく 秋田県や青森県からも入学者が来ていた。一学年の定員は400名で、そんなに狭い門とは思わなかったが、 ど田舎でもない乙部地区から盛岡一高への進学は5-6年振りのことであったと言う。だから、 乙部中学の職員室ではそれなりに喜んでくれたようである。しかし、盛岡一高への進学は別に 成績が良かったから久々に進学出来たと言うわけではない。乙部地区は盛岡の中央部から せいぜい20Kmも離れていないが、当時の乙部地域の住民や中学生にとって盛岡一高など殆ど価値が無く、 受験者がいなかったからに過ぎない。
 理由の第一は当時の進学率である。 昭和36年の中学の同級生のうち僅かに16/74名だけ、しかも、 進学組の16名中普通科への進学は2-3人のみであった。大学に進学したのもやはり2人のみらしい。 私以外の一人は美術系の大学に進学したらしいが、確実な情報ではない。要するに私の育った地域では、 その時代、普通科の高校なんて殆ど価値がなかったからである。

 入学後は前と同様に自転車で通学した。盛岡一高は自宅から見て岩手中学より更に北に2-3Km 奥まっていたので若干時間がかかり、7:00に家を出ると8:40ギリギリに学校に着いた。



入学式、応援歌練習に度胆抜かれる。
 入学式自体は県立高校として先ず当たり前のものであっただろう。来賓の祝辞が長くて疲れた。クラス別のミーティングの終わり頃、バンカラスタイルの応援団が入ってきて校歌や応援歌が書かれたガリ版刷りの紙を渡された。12曲ほど、ほぼ全部4番まであるので膨大な量である。これを明日までに暗記してこいと言う。私はざっと読んだがとても暗記なんて出来るモンでない。校歌ぐらいでやめといたが、これが超難解な歌詞でとても覚えられる代物でなかった。
 翌日から昼休みに新入生は体育館に集められ、厳しい応援歌練習が始まった。プリント持参など認められず、新入生数人ごとに2年3年生が脇に立つ。自信を持って歌えるほどには暗記できていないから
当然声が小さくなるが、その度に脇の上級生がわめきちらす。彼らの目は異様な光を帯びていたね、病的な・・。10分歌わせられては10分ほど正座させられ応援団の説教を聴く。体育館の壁際にも大勢の先輩諸氏が居てわめきちらす。怒号の中の練習、そんな練習が10日間ほど続いた。
 今思い出すのも嫌な体験であったが、これが数10年も続いた伝統行事とのことで何を言っても通用しない。こういうときには従順に従うに限る、と割り切るしかない。この応援歌練習には嫌悪感を抱き続け、私は2年3年の時には一度も参加しなかった。それがせめてもの意思表示であった。
 最近ある情報筋(!?)から応援歌練習が未だに続いているとの噂を聞いた。多分様変わりはしているとは思うが、馬鹿な行事だ。
校歌は今でも歌えないことはないが、些か怪しい。さすがにメロディは絶対に忘れないが、歌詞は極端に難しく意味などおぼろげにしか解らない。下に参考までに校歌を載せたが歌詞をそのままで読める方は殆ど居ないだろう。まして、これを含めて12曲も一日で暗記してこいと言う方が異常である。校歌・応援歌練習の時に何回かはプリント持参でも何ら練習効果には変わりはないはずだ。

●校歌
 一部の方々の間では有名な校歌である。歌詞はオリジナルだが,曲はいわゆる「軍艦マーチ」。厳しいGHQの監視を何とかすり抜けたらしい。校名を示す句が一つも入っていないというのも校歌としては珍しいという。

1. 世に謳はれし浩然の 大気をここに鍾めたる
    秀麗高き岩手山 清流長き北上や
    山河自然の化を享けて 汚れはしらぬ白堊城

2. 明治十三春なかば 礎堅くたたまれて
     星霜ここに幾かへり 徽章の松の色映えて
    覇者の誉れは日に月に 世に響くこそ嬉しけれ
3. 忠実自彊の旗高く 文武の海にわたる日の
     久遠の影を身に浴びて 理想の船路一筋に
    雄々しく進む一千の 健児の姿君見ずや
4. 振えや杜陵の健男児 海陸四方幾万里
     巉峭峙つ起伏の岨 澎湃寄する激浪の
    其処奮闘の活舞台 其処邁進の大天地

 昭和43年、私が卒業して4年目頃、久々に甲子園出場を果たした盛岡一高野球部は名門校である津久見高校、簑島高校を破り準々決勝まで進出し校歌が2回演奏された。TVで観ていたが、演奏開始と共に甲子園が一瞬で静まりかえり、アナウンサー、解説者も絶句し、校歌の最後まで不思議な雰囲気になったことが思い出される。観客にとって、TV・ラジオで聴いていた全ての人にとって、この校歌のメロディ、画面に映し出された歌詞はよほどショックであったと思う。今でも、時に甲子園野球大会で校歌が演奏される放送を垣間見ることはあるが、あれだけの静寂の中、校歌が流された事は無いように私には思える。

 


バカ騒ぎだが結構楽しかった「土人踊り」
 応援歌練習が一段落すると5月13日の開校記念日に行われる大運動会の準備である。この中に伝統行事であるところの「土人踊り」の練習が始まる。太鼓の音に合わせて何だか意味の解らない歌や歓声、嬌声をあげながら原始的?と思える振り付けの踊りである。ポイントは腰の動き。男子生徒だけであるが、まともな格好での練習は最初の頃は気恥ずかしくもあったが、数百人も一堂に会して毎日同じ事をやっていると慣れてくるから恐ろしい。(群集心理ってやつかな)


 当日はパンツ一丁で藁とか葦で作った腰簑をつけ、目と口の周り以外の全身にドーランを塗りたぐり、手が届かないところは互いに塗り合う。顔が隠れると誰が誰だか解らなくなるので互いに側のもの同志で塗り合う。こうなってしまうと、もう恥ずかしさとか何とかは全く消失して気が楽になる。何十人かはこの姿で高校付近の街に出て嬌声をあげながら宣伝に回る。私も上田近辺に割り当てられた。
 運動会自体は関係者しか集まらないが、伝統的に有名なこの土人踊りの時間になると周辺の住民や高校生なども結構集まり黒山の人だかりになった。



「土人踊りは人種差別か否か」問題
 土人踊りはいろいろな演出も繰り出されて30-40分程度で終わるが、出演した我々はそれからがまた大変、プールの水、水道の水を互いにかけ合ってドーランを落とす。盛岡の5月13日はそれほど暖かくないだけに寒く辛いものであった。最後の仕上げは学校脇の銭湯で洗い落とすのだが,芋を洗うがごとしでゆっくりなどしてはおられない.十分色を落とす間もなく、冷え切った身体を十分には暖めることもできずあがらざるを得なかった。短時間とはいえ、それでも風呂の温かさ,有り難さが身にしみた。それにしてもこの銭湯の汚れは大変なもので掃除に難渋したと思うが,協力してくれていたのだろう。当時は街全体が若者達のやることを暖かく支えてくれていた。

 ところが、昭和63年「土人踊りは人種差別か否か」問題が生じた。カルピスのシンボルマークやちび黒サンボが黒人差別として問題になったあの時期である。結局、カルピスは長年親しまれたトレードマークの黒人女性が飲んでいるイラスト・ロゴの使用を諦めた。(なんだかその後カルピスは力を失ったような気がしてならないが・・。)
 校内では平成3年まで毎年のように大論争となり,地元新聞,「AERA」、ひいてはNHKニュースにまで取り上げられたという。問題を抱えながらも投票の結果で踊りは続けられていたが、平成5年ついに「猛者踊り」と改称し,黒以外の色を塗って続けることになるが、やはりかつてのように全身を黒く塗った「黒猛者」も少数は必ず出てくるとのことである。

 高校生の行事一つにも時代の流れを感じられるが、この「土人踊り」は私の高校時代の数少ない楽しい思い出の一つになっている。

これが盛岡一高名物 土人踊りだ!
土人踊りの歌
ノーナマニサパヤンプリマ 
ノーナマニサパヤンプリマ
ノーナマニサパヤンプリマ 
ウササノヤマガダギ
キタイナウリピネ
ウウヤワウウヤワ
テンヤワウー
(以下略)




化学部に入部、実験の楽しさを知り、キャンプなど体験
 入学と共にクラブ活動としては化学部に所属した。部員は30名前後。結構学年別の上下関係が厳しく、挨拶その他の規律なども厳しい決められていた。一方、クラブとしての行事も多く、年に何回かは登山やキャンプなども計画され、ほぼ強制的に参加させられた。私は山や森は嫌いではないが、集団で・・というのがどちらかといえば苦手であるが、やむを得ない。夏には山に3泊ほどする合宿もあり、テント生活などをしたが、お陰でいろいろ体験できた。姫神山へ登山した際には男子部員と競争して登ったが、長距離自転車通の効果もありそこそこの早さで登ることが出来たが、これで私は登山というものをすっかり嫌いになってしまった。どちらにせよ、私のアウトドア体験の多くはこの化学部の2年間に集中している。

 化学部は数グループに分かれ、それぞれが一つずつ研究テーマを持っていたが、私が属したのは植物色素アントシアンの研究グループであった。他のグループが何をやっていたのか、今は全く思い出さない。
 アントシアニンは赤、青、紫等の色を呈する色素名で、ブルーベリー、ブドウ、リンゴ、イチゴ、チェリー、モモ、ナス、紫蘇、紫陽花、ムラサキイモ等に含まれる。この色素は植物成分との結合状態、生育温度、水分量、日照条件、品種などによって特有の色を呈す。果 実中のアントシアン系の色素は、健康にいいと最近注目されているポリフェノールの一種で、特にブルーベリーの色素は視力回復、眼精疲労改善の効果 があるといわれ、パイロット達にも注目されている。

 実験材料としては八百屋から大量の紫蘇の葉を仕入れ、細かく刻み乳鉢に入れ乳棒で材料を押しつぶし、ろ過し、紫色の抽出液を作り更にアセトンなどの有機溶媒で不純物を取り除く。この色素はpHの変化で微妙に色が変化する特徴がある事から、溶液の酸性や塩基性とどう関係しているかをまとめ、紫陽花の色の変化や紅葉のメカニズムを知ろうというものであった。
 詳細は忘れたが、2年の時に読売新聞社が募集した研究会に応募し「読売化学賞」を受賞し、読売新聞地方版にメンバーの写真入りで紹介された。
 当然、ハンカチとかへの染色も試みたが、本来水溶性であることと、酸性では比較的安定なものの光やアルカリ環境では不安定ですぐに脱色する。明礬液とかで染色堅牢度を上げる研究もしたがこの点では不十分な結果を出せなかった。

 化学部での体験は集団行動を強制されることや、対人間的な部分で嫌な思いも沢山あったために2年の夏休み後に退部しその後一切関わらなかった。実験や遊びの面ではそれなりに良い思い出にもなっている。



下がる一方の成績 自信を持って書いた作文が悪い見本として壁に!!
 今はかなり平均化されたようであるが、当時の盛岡一高は県内ではダントツの進学校であり、岩手県全域のみならず秋田県や青森県の県境地域からも結構優秀なのが集まって来た。私などは中学までそれほど努力はしなくても比較的成績は良い方であったが、盛岡一高では凄いのが沢山居て、ハッキリ言って十分には通用したとは言えない。自分として最大限、本当に最大限、努力してやっと何とかみんなについて行けた。ちょっと手を抜いていると成績は直ぐに直滑降した。国公立の医学部に進学したいと大きな希望だけは持っていたので、友人が寝ている時間に起きてカバーしなければそれなりについて行けなかった。このころの自分に言い聞かせた標語は「頭の不足は時間でカバー」。だから、私の盛岡一高の想い出なんて長距離の自転車通学、人一倍机に向かった記憶と、下宿の経験、家にいる時には側に常に一匹のネコと鳩が居たこと、それ以外にたいしたものは残っていない。

記憶に鮮明に残っているのは国語の試験問題で、ある文章に対する感想文が出た時のことだった。早とちりだったのか、インスピレーションが湧いてさらさらと書き上げて自信を持って提出した。かなり良い評価をもらえるものと期待して心待ちにしていたが、成績発表の日に真っ赤に添削された私の答案が「悪い見本」として廊下に張り出されてしまった。(勿論、誰の答案であるかは解らないようにしてあったが。)

  要するに国語教諭の期待する答案でなかったらしい。この時の期末試験の総合点はこの国語の赤点数のために自分としての最悪記録となり、全校での順番は279番/400名であった。私にとってこの記録的な279と言う数値は今は好きな番号になっており、この近くや279を途中に含む番号が割り当てられると何となく良いことが起こるような気がしてならない。

 一年時の担任は入学後徐々に成績が低下する私を心配してくれ、長距離自転車通学は無理があるだろうと寮に入ることを勧めてくれた。寮は規律上十分な勉強時間確保できない可能性があるために下宿することとした。



下宿を2回経験する 完全に音ノイローゼに
 1年の冬は嫌なバス通学をしたが、担任の奨めもあって2年の秋口から冬期間は盛岡市内に下宿することになった。とは言っても家には鳩もネコも居て世話しなければならず毎週土日は家で過ごした。
 2年の冬は北山と言うところの古い家で70歳ほどの老婆が生活の糧を得るために下宿をおいているところで知人の紹介があった。岩手大学農学部8年生の強者、盛岡工業高校生、盛岡工業高校の夜間部生の4人。当時は一人部屋の下宿はむしろ珍しいくらい。私は工業高校生と一緒に8畳住まい、とは言っても襖を開ければ一部屋になる構造で4人で共同生活したようなもの。ほぼ同年代?の他人との生活を通じ反面教師的内容から前向きまでの種々の刺激、多様な価値観の存在を知ることが出来た。
 3年の時の下宿は南部藩城跡の、いまは公園となっている下の橋付近であった。40歳ころと思われた未亡人が二人の子供を育てるために5-6人の下宿人を置いていた。当時は自宅に下宿人を置いて生活の糧を得ることは比較的珍しくはなかった時代である。学生やサラリーマン達もアパート暮らしで自炊生活などしているのはホンの一握りであった。今回は中学生の長男の隣の、一応ドアを閉めれば独立した6畳ほどの部屋であった。そのために他の下宿人、多くは大学生、と直接接することはほとんど無く、その意味では快適であったが、この長男が部屋にいる間中ずっとラジオをならしていて私は音の暴力に苛まれた生活となった。注意しても止めるわけでなく、この時の生活を通じて私は音に極度に敏感になってしまい、それが未だに続き私を悩ませている。私はずっと嫌煙権ならぬ嫌音権を主張し続けているが、その時のルーツはここにある。




私を変えた言葉
 高校1-2年の担任はU教諭、当時30歳後半か40歳程度であったと思う。東大卒の国語教師でであった。特に優秀な教育者との印象は持つことはなかったが,何かにつけて東大卒を鼻にかけているような言動がみられ,私は不快な気分と,ここまで誇りに思えるなんて東大とはそれなりにたいしたところのなのだろうと感じていた。「東大卒が,何でこんな片田舎の高校の教師なんかしているんだ。もっと別な道に進めなかったのかね。こんなところで高校生に自慢話してなんになるんだ・・」というのが彼に対する当時の感想であった。

 高校も2年になると進路指導が始まる。
 ある春の夕方,私の順番が回って来てその担任と面接した。しばし世間話した後,私の成績表を前に出し本論に入っていったのだが,進路希望を尋ねられた。私は疑問なく,淡々と「医学部,しかも国立の・・・」と述べたのだが,それを聞いた担任の反応は実におもしろかった。最初は私が話したことは理解できなかったらしく,信じられないといった風な,笑顔ともとれない複雑な表情を浮かべた。その後,絶句し,しばし対話が途切れた。
 
U教諭 (満面の笑みを浮かべて)「国立と言っても,具体的にはどの辺の大学を志望しているの?」。
私 「
親が無職(中学時代参照)だし,経済的事情があるので,国立なら何処でも・・・」。
U教諭 「フーン,まだ決めていない??フーン,・・・そんなら
いっそ東大医学部でも受験してみてはどうかね??どうせ同じ結果なら良い思い出になるよ・・」。
私 「・・・」。
U教諭 
君には,無理だね,国立の医学部は」。
私 「
・・・・そうですか。いっさい可能性はないですか??」。
U教諭 「
・・・,無理でしょう,国立の医学部は・・・」。とにべもなく答えた。

 これがその時の会話,約5分間。私の人生はここで決まったようなもの。この会話のわずかな時間の間に私の心にはとてつもなく大きな目標が形成された。「私は国立大学医学部を目標にする。担任の言うことも一部は本当だろうから,後2年で足りない,本日から3年計画で行こう。U教諭には今日彼が見せたようなヒトをバカにしたような笑顔で結果を報告するぞ・・・。」




高校生活余談:受験勉強に専念、鳩との別れ、新婚の担任の話
 私の高校生活の方向性はこの担任とのミーティングの話題に集約されると言っていい。
とにかく残りの2年ほどは「医学部進学3年計画」の遂行にひたすら走った。それ以外の記憶や想い出はほとんど無い。
 3年になってからは、長年飼ってきた鳩も全て近所の子供達に分け与えるなど、身辺の整理を進めながら私はひたすら受験勉強に走った。3年の夏頃には一つだけ笑えるような思い出がある。

 盛岡一高はいわゆる修学旅行はない。理由はかつて何10年か前に修学旅行生が乗った列車が転覆事故に遭い、何10人かが死傷したことがあるらしく、それ以降中止になったのだというが詳細は知らない。その代わりに各クラス毎に自由に計画出来る、いわゆる遠足調の一日が設定されていた。
 私のクラスはその年、小岩井農場に出かけた。林野や牧場、名物(?)のジンギスカン鍋などを楽しみ帰路に就いたが、われわれの小グループ数人は駅に行く途中、林野に入り込んで道に迷い、駅前の集合時間に間に合わなかった。汗びっしょりで駅に到着したときには既に他のグループは数分前に全員列車で盛岡に向かったあとであった。駅の伝言板には担任の教師の書いた紙切れが貼ってあり、「○○君達へ 家庭の事情で早く帰る。学校に戻ったら連絡せよ」と書き置きがあった。2時間ほど後一列車遅れて高校に着いたところ、教室の黒板に「
○○君達へ 家庭の事情で早く帰る。学校に戻ったら自宅に連絡せよ」と書いてあった。これで一件落着ではあったが、担任教諭の気軽な無責任さをみんなで笑ってしまった。
 この教諭は3年のクラス替えから新しく担任になったもので、2ヶ月ほど前に結婚したばかりの新婚ほやほや状態。何かにつけてほやほやムードを身辺に漂わせてみんなを刺激していただけに、この行動は予想はしてはいたが、「まあ何と無責任な!!」と思ったものである。それ以外、彼に関してはほとんど記憶に残っていない。受験指導の際に何を話したかも思い出さない。「東大医学部を受験したら??」と言った教諭の名前は未だに忘れ得ないが、この担任はもはや名前も思い出せない。昭和38年の時のことで、あれから40年にもなる。今はどうしているのかね?



ついに来た大学受験、予定通り不合格。
  時は流れ、3月、遂に受験の時期を迎えた。高校3年の卒業時は私の医学部進学3年計画の2年目だったから始めから大きな期待は抱いていなかったが、私は東京大学でなく、新潟大学と弘前大学医学部を受験した。昭和39年3月の話である。当時、国立大学は一期、二期校とに2大別されており旧帝国大学を始めとする比較的古い伝統のある大学が一期校となっていた。新潟大学と弘前大学を選んだのは、もしかすれば・・・との気持と、比較的盛岡から近いという地理的な点からである。

 結果は、両方とも不合格。新潟大学の入試問題はそう難解ではなかったが、もっとも得意とし確実に点数を稼ぐと意気込んでいた理科のうち化学部分で、ここだけは出ないだろうとヤマから外していた「亀の甲の分子化学」が出されて目算が狂ってしまったのも失敗の一つの因子であった。弘前大学の試験問題はひねりもなく比較的単純であったが、それだけ広範な、バランスの良い力が試されたことになる。かなりの高い得点であったと思うが、結局は募集人員の範囲の順番には届かなかったのだろう。ただ、気持の上では補欠合格の知らせもあるかもしれないと言う夢はしばらくの間抱いていた。

 さて、今後はどうするか??盛岡一高には進学できなかった卒業生が集まって自主的に勉強し合う教室もあるが、ただがむしゃらにマイペースで頑張って自己満足しないように、かつ客観的な指標を得るために、私はあえて仙台の文理予備校を選択した。経済的面では何とかなりそうだ、という。
 家を離れるにあたり、もっとも気がかりであったのは、常に私の側に寄り添い、私の全てを支えてくれた13歳のネコがめっきりと体力が乏しくなってきたことであった。このネコは私が下宿するたびに明らかに元気がなくなるために土曜毎には帰宅して共に過ごしていたがこれからはそうはできなくなるからである。


自伝 ★浪人時代★へ続く






ご意見・ご感想をお待ちしています

これからの医療のあり方Send Mail


戻る