50年来の苦痛からの解放
膀胱頚部硬化症手術体験記


8月上旬、休暇をとって未体験ゾーンにちょっと旅します(1)
 私自身が約45年近くもかかえてきたある懸案がついに限界を迎えつつある。  まだまだ、このまま何とか行けるかな、とつい2週間ほど前まで考えていたが、その後いろいろなことが分かってきて、そんな甘い考えは通用しないと判明、状況は急転した。その解決のために8月上旬、2週間ほど休暇を頂く計画を立てている。

 ちょっと未体験ゾーンに足を踏み出してみる、自分としてはそんな雰囲気で軽くとらえ、結果にも期待しているが、業務が立て込んで大変な時期に、全くの個人的理由で一定期間離れるのはとても辛いが、やむを得ない。今回は割り切らせて頂くこととした。

 この間の私の業務は同僚の医師の方々お願いしなければならないが、その負荷をより小さくするためには医局のスケジュールの関係で一月以上の準備期間が必要である。だから、これ以上は躊躇出来ない。本日午後、その決断し、しかるべき立場の方々の了解を得た。夕方から早速少しずつ準備を開始した。

 医師会、県の各種の委員会等の調整は明日から始めることとする。 多くの方々にご迷惑をお掛けすることになりそうですが、ご理解の程お願いいたします。

                         (2007/6/26)



8月上旬、未体験ゾーンにちょっと旅します (2) その理由
 

私自身が約45年近く抱えて来たある懸案がついに限界を迎えた。
 もう何年か程度、定年を迎えるあたりまではこのままごまかし、ごまかししつつ行けるかな、とつい一月ほど前まで考えていたが、頻発する発熱を機会に検査を受け、その所見から遂に限界の時期を迎えたと判断し、専門医に対策をお願いした。

 その解決のために8月上旬、2週間ほど休暇を取る手続きをした。6月26日に記載した「未体験ゾーンにちょっと旅します 」、はそのことである。100%私的な問題であるが、業務上で院内外に少なからざる影響・・で済めばいいのだが・・を与える可能性があることから、ことの概要を提示して関係の方々のご理解と協力を得たいと考えている。

 検査を受ける気になったのは特にここ2-3年来、時折、主に土日、祝祭日などを中心に微熱、時に高熱を発することを若干気にし始めていた事から始まる。実際には高熱と言っても検温などしたことはないから具体的には何℃あったかなどは分からない。体熱感、高熱感だけからの判断である。

 私は幼少のことから病弱で発熱なんて慣れていたから、発熱があっても特別の配慮も対策もしたこともない。医師になってから発熱で業務に穴を空けたこともない。高熱がある時でも通常に外来等をこなし、私より遥かに元気な患者に「お大事に・・」と言ってきた。自分への対策としては、時間がある時はひたすら横になってじっとしていること、これは、母親代わりのネコが教えてくれた対応策である。

  私は薬物に関してはとても慎重でかつ保守的な考えを持っている。だから服薬と言えばせいぜい葛根湯だけで、成人になってからこの方、アキレス腱縫合手術まで解熱剤、抗生剤の類は一切使用したことはなかった。2003年のアキレス腱縫合手術に際しては一週間ほど抗生剤を服用したが、消炎鎮痛剤は術後1錠服用しただけ。2005年秋の激しい腰痛の際には整形外科医の助言を得て鎮痛目的と言うより局所の消炎目的に初めて消炎鎮痛剤の座薬を10日間ほど使用し、その劇的な効果に驚き、薬に関する保守的な考えを若干改めた。
 しかし、その後はこれらの薬物を使用する機会は幸い、一度もなかった。

 通常は高熱があっても特別の局所症状もなく、一晩程度で改善することからウイルス感染でも生じているのだろうと軽く考えていたが、今回、珍しく発熱が数日続いたので血液検査を受けてみたところ、白血球増多とCRP 6.0程度で細菌感染の所見である。特に際だった局所的症状はなかったのであるが、感染部位は直ぐに予想がついた。
 そのために腹部超音波検査を受けたが、モニターを見て私は一瞬にして事態を理解し、限界を悟った。



                          (2007/7/5)


8月上旬、未体験ゾーンに旅します (3) 超音波上、異常なしが大きな異常だった!!
 私自身が約45年近く抱えて来た身体上の一つの懸案がついに限界を迎えた。  
 発熱があり、感染が疑われたために腹部超音波検査を受けた。

 手慣れた技師によって手際よく肝臓、脾臓、胆のうなど次々にモニターに映し出されるが、一見、異常はなさそうである。左腎臓にはピンポン球に近いサイズの嚢胞があるが、両側とも水腎症も無い。腫瘍陰影もない。膀胱は尿で中等度に満たされ、壁が若干不整に見えるものの大きな異常はなく、前立腺も大きくない。

 要するに、腹部超音波検査上では殆ど異常が無かったのだが、一見異常が無い像が得られたことが私にとっては予想していた以上に異常であった。私は一瞬にして事の深刻さを理解し、限界を悟った。

 記載すれば上記の如く大げさになるが、事は簡単である。その理由は、私はある結果を予想して、あえて排尿してから検査を受けてみた。腹部超音波検査は下部尿路の状態を知るためには膀胱が尿で満たされている時の方が情報は多い。だから、一般的には排尿前に検査するのが通常である。従って膀胱がある程度膨らんだ状態に映し出されるのは検査上当たり前で、異常な所見ではない。  

 私は、恐らく、ある程度の残尿はあるだろうと予想していたので、その量を知りたいことと、左側の逆行性の水腎症も疑っていたのであえて排尿してから検査を受けてみたわけ。だから、尿で中等度に満たされた膀胱が映し出されたこと自体がが、異常だという事になる。しかも、私が密かに予想していたよりも遥かに大量の残尿量であった。要するに、下部尿路の抵抗のために膀胱が収縮しきれていないことを示している。これでは尿路感染を生じても当然であり、このままでは一時的に改善しても繰り返すのは必須であり、進行性に悪化していくだろう。

 上記の如くの事情で、当院の泌尿器科のお世話になることになった。

 7月中はスケジュールがタイトであったので、7月31日の外来と常務会終了後入院し、夜はちょっと抜けてHIV学習会の司会をして、翌日手術と言う計画を立てた。

 8月中旬までの外来と病棟、医師会業務等についても患者や関係者に余り迷惑にならないよう、対策を進めている。

 私にとっては小学校4年生の時の盲腸周囲膿瘍以来の入院で、未体験ゾーンへの旅立ちになるが、ちょっとした旅であって欲しいし、良い気分で戻って来たいと願っている。
                           (2007/7/9)


8月上旬、未体験ゾーンに旅します (4)
CT上、だめ押しの所見が得られた
 私自身が約45年近く抱えて来た身体上の一懸案がついに限界を迎えた。ホントはごまかしごまかし何とか定年退職時まで持たせたい、その時点で治療を受けられれば最高だね、と思っていたが、そこまで持たせられなかった。

 先日の採血検査、超音波検査等から深刻な事態を迎えつつあることは理解出来た。とりあえずは合併している感染の治療のため抗生剤の服用を開始した。これが著効して発熱は止み、一週間後には検査成績もすべて正常化した。これだと炎症さえ治まればもう暫く余裕が生まれるか?十分仕事を整理してから治療を受けられないか?と、また新たに小さな期待が生じてきた。ちょっと良い兆しがあるとつい期待してしまう。勝手なものだと自ら思う。

 二日後、主治医の指示で腹部CTを撮影した。

 かつて造影剤で強度の腹痛を生じたことがあり若干心配したが、何事もなくCT撮影は終了した。側で仕事をしていた放射線科医に判定をお願いしたところ、予想した所見以外に大きな所見はなかったが、膀胱憩室が指摘された。膀胱の右後ろ側に飛び出した容量20-30ml程度の袋状の構造である。恐らく膀胱内圧の上昇に耐えられなかった壁の一部が外側に飛び出したものである。要するに膀胱に小部屋が出来たもので、これがあれば尿の一部が停滞し、感染はなかなか治癒せず再発しやすくなる。

 私の場合、抗生剤が奏功し体調は改善したが、抗生剤などそう長く服用すべきでないから、この憩室の存在がだめ押しになって、甘い考え、期待をスッパリと捨て、手術療法を受ける決心をし、主治医に申し出た。主治医の都合では7月中旬に手術を受けることも不可能ではなかったが、7月中は院内外のスケジュールの関係で休むと同僚方に多大な迷惑をかけることになるから8月1日に決めた、ということである。

 恐らくは大丈夫であろうが、若干の回り道をする可能性もあるために医局スケジュール上には2週間の休みを申請した。医師会や県の仕事も整理した。現在、8月中旬までの外来の予約患者数を少なくする努力をしている。

 私の健康問題を知った内科の同僚達にとって今の最大の関心事は院長の健康なんかではなく、そんなことはどうでも良いのだが、院長担当のあの外来の代診だけは何とか回避したい、と言うことらしい。さもありなん、と自分でも思う。対応困難な患者が目白押しである。だから今まで極力代診をお願いするのを避ける配慮をしてきた。アキレス腱縫合術を受けた翌日も通常に外来をこなしたが、今回はさすがに血尿を流しながら外来をするわけにはいかんだろうから、と心は痛むが、割り切っている。

                                                                    (2007/7/11)

8月上旬、未体験ゾーンへ (5) 24時間心電図上、不整脈が散発・・でなく3発のみ、だった
 私は5-6年ほど前から不整脈で悩んでいる。当初は寝不足とよく相関していたが、徐々に関連がはっきりしなくなってきて、かつ、時間も長くなっている。週のうち半分以上不整脈状態のままで過ごすこともある。若干胸部不快感、倦怠感、意欲低下を伴うこともある。からといって特に生活を変えるわけでもなく、仕事もテニスも通常にこなしてきた。

 要するに、自分としてはそれほど深く悩んでいたわけではないということ。不整脈で不快だと言っている限り心臓は動いているのだし、不整脈死をするときは一瞬で意識を失うだろう。それはそれで良いじゃないか。もう、還暦まで生きたし、と思っている。この自分の命に対する軽さも私の人生観であり、生き態、死に方の一つと割り切ってきた。決して一般的に言われる医者の不養生、なのではない。

 循環器科のスタッフはおそらく発作性心房細動だろうから脳梗塞予防のために抗凝固剤を服用すべき、と脅かしをかけてくる。しかし、あまり深刻な顔つきで勧めているわけでもないから気持ちだけ戴いて、無視してきた。

 検査も今まで一切受けて来なかった。運が悪いことに、年2回の健康診断の心電図にまだ一発も不整脈の波形が記録されていない。だから、病態は未だに解っていなかった。しかし、今回は、自分一人の問題でなくなった。治療していただく主治医に不整脈のことで迷惑はかけられない、と考えて術前検査の一環として自分で24時間心電図を受けてみた。

 結果は、今度こそ診断が付くものと期待していたのであるが、完全に空振りであった。24時間約10万3000回の心拍の波形が記録されているが異常波形は散発しているどころか、3発のみで、上室性不整脈が2連発1回、単発1回のみであった。これでは全く診断をつけようがない。

 もうあまり時間がないから、不整脈の診断に関しての解決策は現実に不整脈が起こった状態で生理検査室に飛び込み、心電図をとって貰うことだろう。検査課にもいろいろ迷惑を掛けそうである。

                           (2007/7/13)

8月上旬、未体験ゾーンへ (6) 45年間の懸案事項(1)
 私が45年間も抱えてきた懸案事項というのは、尿線が細く排尿時間が誰よりも長いと言うことである。

 その異変に自分が気づいたのは小学生のことだったように記憶するが、具体的にいつからと言うことは出来ない。何かを切っ掛けにそうなったというわけでないからであるが、小学生の高学年の時に友人の誰かに「おめのションベンいつも長げー」と言われたことをうろ覚えに記憶している。実際はもっと前からだったのだろうが、具体的に意識し始めたのはこのころである。勿論そのころはその意味も分からず、然全深刻に考えていたわけではない。

 思い出してみると、当時は地域の男の子達は学校が終われば毎日の如く徒党を組んで外で遊び、野山を駆け回り、川に入って遊んでいたものであるが、誰かが立ち小便をし始めるとみんなオレもオレも、とよく並んでいわゆる連れションをしたものである。何かをめがけて一斉に排尿したり、飛距離を競ったり、短くくるりんと可愛いかっこうしたペニスを振り回してあちらこちらに小便を飛ばしたものである。当時は排尿自体も遊びの一つだったし、競争の項目でもあった。今思い出しても懐かしい。

 その中で、途中で途切れさせずに誰が一番長く小便をするか、という競争もあってこの場面では大抵私が一番であった様に記憶する。

 要するに、私は幼少の頃からこの件に関して問題を抱えていたように思うが、成長と共に排尿そのものが自然と遊びとか笑いの対象から外れていき、話題になることもなくなっていってみんなの前で指摘されたり感心されたりすることもなくなっていった。しかし、私自身は学校のトイレなどで私より遅くきた友人達が私より早く終わって行くのを若干であるが気にし続けていた。

                           (2007/7/17)

8月上旬、未体験ゾーンへ (7) 45年間の懸案(2)

 尿線が細いというのは幼少の頃からだから、数えてみれば50数年のはずであるが、私があえて45年としているのは一つの切っ掛けがあるからである。

 18歳の時に福島医科大学を受験したが、試験科目終了時に大勢の受験生がトイレに殺到した。寒かったし、膀胱には大量にたまっていたし,大勢の中で緊張していたことなどもあって、自分でもいつもより長くかかりそうだ、後ろに並んだ方に悪い、と感じていたが、後ろの受験生から「まだか!!・・・」と声をかけられた。「いま終わる・・」とか何と答えたか忘れたが、終わりかけていたので早めに終わらせてそそくさと立ち去った。幼少の頃を別にすれば、他人から指摘されたのは初めてで、この時に感じた気恥ずかしさはずっと忘れない。私はこれ以降、排尿に関してはコンプレックスを持ち続ける事となった。このエピソード以降、45年経過したということ。

 その後、トイレに関してなるべく連れションにならぬようとりわけ気を遣い何とか凌いでいたが、うまくいかないことも何度かあった。女性から指摘を受けた際にはさすがに深く傷ついた。

 医師になって3-4年目のころ、秋大医局の慰安旅行で羽黒山方面に車で移動していた時のこと、途中の駅でトイレタイムをとった。田舎の駅のトイレは小さく、男女共用であった。連れションにならぬよう、みんなが終わった頃を見計らってトイレに入ったが、やや遅れてある女医さんが入ってきた。女医さんも驚いたようであるが、私にとってこれは100%誤算であった。「まずい、必ず何か言われる!!・・」と、何とか先に終わらせようと祈るような気持でいたが、このときも種々の条件が重なってなかなか終わらない。結局、女医さんが早く終わって出てきたが、手を洗いながら、呆れたように「すいぶん長いわね、・・・」と私の気持ちを逆なでするような言葉を2、3かけて出て行った。その時に私が何と答えたか忘れたが、この時はコンプレックスをかかえた傷つきやすい心に、相手が女性だけに言葉の刃がグサグサッとつき刺さった。その後も、何かの機会にこの時の話題を出されたことがあるが、何とか笑ってごまかした。

 幸か不幸かこの女医さんとはいまだに縁が切れない。秋大でもしばらく一緒であったし、いまの病院でも私より先輩格として一緒に働いている。この女医さんはその時のことなど、もうすっかり忘れたであろうが、ホント忘れてて欲しいが、たまに廊下ですれ違うとあのときのことがいつも私の頭をよぎってしまう。

                          (2007/7/20)



8月上旬、未体験ゾーンへ (8)  排尿関連の基礎的、臨床的分野に強い興味
 1965年、運良く医学部に進学でき、3年目から専門教育を受けた。実に広範にわたる分野であったが、やはり自分の体調に関連している所には興味が惹かれた。当時、自分の健康上の問題と言えば175cm、50Kgと極端に痩せていたことと、尿線が細いという問題だけであったと思う。前者に関しては体調が良く、気にはしていなかった。体重は徐々に増えて卒業間際には55Kg程度にまで増加した。

 だから、医学部の授業のうち、基礎系では排尿に関連する臓器の解剖学、排尿の電気生理学機能、尿路系の病理学に興味を持ったし、臨床の分野ではとりわけ泌尿器科学に興味を感じ,講義に真面目に出席したほか、自分でも文献や図書を求めて学習した。しかし、自ら進む道としてこの方面は選択しなかった。

 学習の過程で、自分の尿線の細い原因は、先天的に尿路が狭いのか、敢えて疾病と考えるならば膀胱頚部硬化症と言うべき状況であろうと自己診断し納得していた。 当時は当然今よりは臨床的知識は乏しかったが、先のことまでいろいろ予測していた。 当面は若さもあるし、差し迫った問題点はないだろうが、膀胱頚部硬化症ならば長い間には徐々に排尿抵抗が増していくだろう。排尿時の膀胱内圧が徐々に上昇し、それに抗するために膀胱壁が肥厚し、進展障害のために頻尿になるだろうし、更に残尿が生じ、場合によっては尿閉や膀胱尿管逆流現象、さらには水腎症、尿路感染合併、腎機能障害と進行していくだろう。そして、他の原因で命を失わない限り、いずれは必ず尿路系のトラブルが前面に出て、外科的対応が必要になるだろうし、場合によってはこれが私の命取りになるかも知れないと考え、納得し、覚悟を決めていた。

 その後、1978年だったと思うが、札幌からの帰路、大揺れに揺れたYS-11機内で膀胱尿管逆流現象が生じた時は、ちょっと早過ぎるが来るべき時がきたか、と焦ったが、永続性はなくその時だけで済んだ。その後、予想に反して幸いも約30年近くも、最近まで大きなエベントもなく過ごし得た。

 本年6月に発熱を機会に検査を行い、ついに限界を迎えつつある事が分かった。その時感じたことは、来るべき時が来たが、よくぞ今まで何事も起こさずに働いてくれたものだという感謝の気持ちであった。が、大量の残尿と膀胱憩室を伴っている以上、感謝だけでは解決しないので、直ぐに泌尿器科科長に治療の相談に行った。

 明後日、術前検査が予定されている。7月31日外来と常務会終了後に入院、夜は外出してHIV関連の院内学習会を司会し、翌朝に全身麻酔下に開腹と内視鏡的治療が同時に行われる予定になっている。手術を受けるにあたって私のいまの心境はさわやか、と言っていい。ただ、こんなに大変な時期に業務から離れ、患者やスタッフ達に迷惑をかけることには忸怩たる思いでいる。

                           (2007/7/21)

8月1日、未体験ゾーンへ (9)  私の45年のストレスとは?
 この45年、いろいろ気遣いしながら、なるべく連れションにならないようにトイレを使ってきた。勿論、終日じくじくとこの事ばかりを考えていたわけではない。普段は100%何ともないから意識しないが、一日10回ほどの排尿の度には大なり小なり必ず意識してきた。

 これを回数で言えば、1年に約3650回だから、これが45年だと何と16万5千回にも上る。私の膀胱は徐々に増してくる抵抗に抗してホントによくまあ今日まで頑張って収縮してくれたものだ。耐えきれなくなって憩室が出来たんだね、知らなかったよ、ごめんなさい、と改めて感心し、深く感謝し、今まで放置してきたことを誤りたい気持ちである(笑)。

 この間どんな感じだったのか?と問われれば、どんなに巧く説明しても経験ない方には、特に女性には分かってもらえないだろう。例えて言えば、ギアが故障で3速に固定した状態のマニュアル車をごまかしごまかし、そろそろと発進させる時の様な状態に近い。アクセルとクラッチを微妙にコントロールしながらゆっくりゆっくり速度を上げていく。なかなか速度は上がらないが、一定以上に達すれば後は問題なく走らせることができる、そんな感じである。一人で走っている分には慣れれば実用上問題はないが、混み合う道路や交差点では後続車に迷惑をかける事になる、迷惑にならないまでも気持ちの上でストレスになる。こんな感じかな? 空いた道路は誰も居ないトイレ、交差点での発進は講演会やエベント等の休憩時間の混み合うトイレの例えである。

 こんな感覚を毎日感じながらも、今まで、母親代わりだったネコにはそっと話した事があったような気がするが、家内や三人の子供達の誰にも話したこともなく、ひっそりと、ちょっと悩みながら45年ほど過ごしてきた。古くなってだんだん調子も悪くなってきたものの、もう少しこのまま使えると思っていたが、この6月に、いつもと違う?と感じたのを機会に検査をしたらやはり故障していた。ザッと言えばそんなところである。

 来週8月1日、手術を受ける。憩室を切除して容量を少なくして、かつ、膀胱の頚部を削り取り、排尿時の抵抗を少しでも軽くして、今まで弧線奮闘してくれた膀胱をそっと楽にしてあげたいものである。

                           (2007/7/24)

8月1日、未体験ゾーンへ (10)  望郷なのか子供達も来るそうだ
 まもなく、である。それに向けて、いま私は業務をいろいろ整理し申し送りの準備をしている。業務を離れるのにより相応しい時期と思って選んだのだが,その後もいろいろ会議とか行事とかの予定が飛び込んでくる。それらはすべて丁寧にお断りした。

 ここ数日、診療外、対外的行事が続いたほか、外来で経過を見ている患者が悪化して入院し、近所の診療所の医師からも入院治療要請の連絡が入るなど、結構忙しい。まだ数日あるからと、何とか引き受けているが、今月中に目処が付かなければ同僚にお願いしなければならない。余り良い状態の患者ではないので、お願いするのは結構プレッシャーである。

 業務の整理だけでなく、この機会に持ち物もドンドン廃棄している。古いマック3台、関連した周辺機器もソフト類もかなり廃棄した。書類、書籍も捨てた。何となく身軽になった。

 家族もいろいろ下準備を始めたようである。家内は私の予定に併せるよう病院に休暇を申請したらしい。ハッキリは言わないが、これまでの借りを返そうといろいろ世話を焼くつもりらしい。が、彼女が頑張れば頑張るほど私は不安になってくる。恐らく、術後の痛みに耐えている私に、側でいろいろあーだのこうだと指図するのではないか??と心配になる。

 子供達も夏季休暇を取って集まってくるらしい。確かに、子供達にとっては単に父親が手術を受けると言うだけでなく、治療部位は自分達にとってはふるさと付近だから、とりわけ望郷の念に駆られているのかも知れない。自分たちが生まれ育った所の脇まで切り開かれて切除縫合されるとのことだし、かつて一度だけ通った事のある管は切断され、一部拡張され、切り取られるのだから当然かも知れない。

 願わくば、私の傍らにべったり付いていないで、家でみんなで団欒していて欲しい。私はふだんの寝不足をこの機会に取り戻そうと楽しみにしているのだからね。

                          (2007/7/26)

8月1日、未体験ゾーンへ (11)  調子が良いと気持ちが揺れる
 まもなく、である。一部業務の申し送りがまだ残っているが、入院する病棟師長との打ち合わせ、麻酔科科長の術前診察の予定も立てた。周辺の条件はほほ順調に整ってきた。そろそろ必要な物品をそろえなければならない。とりあえずは手のひら大のMDミニステレオを持ち込んで術後の痛みが和らいだら録り貯めておいた「ラジオ深夜便 心の時代」の録音を集中的に聴いてみようと思っている。

 6月中旬に体調に異変を感じ、自ら検査を進めて状況を理解したが、主治医となって下さった科長の判断は、「何れは対応しなければならないしょうが、秋口とか、来年でも・・」と、時間的には比較的余裕を持たせての対応であった。むしろ、私自身の方が来るべき時はきた、と納得し、ずっと考え続けてきたことだからこの際、と比較的簡単に早期に手術を受けることを決断した。スケジュール表を前にして8月1日を第一候補に挙げ、私の希望を受け入れて主治医が決定したと言うことである。

 6月の段階では感染を伴っていたのでいろいろ違和感があった。それ以降は経口抗生物質、抗菌剤を服用しているが、検査結果は正常化し、自覚症状は全く消失し、今のところ体調はすこぶる良い。

 やはりそうなると、少し判断を焦りすぎたか、少しでも先送りできないか、出来れば手術を回避できないかという気持ちがチラチラと頭をもたげてくる。別に悪性疾患でないし急ぐことはないんだし、もう少し様子を見たら? 何も危機的状態でないし自分から急いで受ける必要はないのでは?・・などの考えである。一方、先送りしても何れは必要だから今がチャンスだ、抗生剤なんて長く服用すべきでない、憩室があるなら感染は必発、難治だから避けられないよ・・などの考えも湧いてきて、両者が私の心の中で勝手に言い争っている。

 決断した時点で周辺の業務を整理し始め、代理をお願いする方も決め、実際にはもう動き始めているからもう何ともならないし、変更する気も勿論一切無いが、心は若干揺れ動いている、と言うのが現時点での正直な感想である。

                          (2007/7/27)

8月1日、未体験ゾーンへ (12)  私の未体験ゾーン(1)「全麻下手術」と「遊」
 まもなく、である。明日の午後入院する。
 私が未体験ゾーンと表現しているのは大別すれば三つある。
 その第一はやはり入院、手術である。

 私は入院が一度、手術は2度経験している。小学校4-5年頃盲腸周囲膿瘍で1ヶ月入院した。この時の手術は腰麻下で排膿だけで終わってしまった。術中の医療器具の音、術者と助手・介助者の会話、麻酔が覚めていく過程での両下肢のしびれ、違和感はどれも不快であった。もう一つの手術の機会は3年前のアキレス腱の縫合術で、これは局麻で入院はしていない。

 今回は経腹的に憩室を摘出し、次いで内視鏡的に膀胱頚部切開術ということで全麻下に行うこととなった。これは全て未体験である。何れは内視鏡的治療を受ける事になるだろう、最悪時には尿路変更も有り得る、その時は開腹、と覚悟をしていたから今回の事態は素直に受け入れている。ただ術後の疼痛が不安であるが、麻酔科医がいろいろ配慮しているので、お任せである。

 未体験ゾーンの二つめは、実はこっちの方が大きいのだが、術後約2週間業務から離れられるという貴重な体験「遊」である。医師になって36年、病欠は一日もなく、今の病院に赴任後にわずかに一度高熱でダウンし外来を途中で代わって貰って早退したことがあるだけである。

 今回、限界を感じて手術を受けなければならないと覚悟した時に同時にわき上がってきた感覚は、まとまった自分の時間が得られる機会がついに来たという、半ば喜びに似た不思議な感覚であった。今までずっと、好不調はあったにせよ前向きにやってきたが、やはり心の隅では「遊」、すなわち、気持ちのゆとり、を求めていたのだと思う。

 折角得られる貴重な機会である。出来ることなら100%「遊」にひたりたい。だから、この間、出来るだけ人に会わずに過ごしたい。だから、病棟に面会謝絶の手続きもお願いした。尤も、術後はそれこそ疼痛、発熱などで「遊」にひたる余裕などないのかもしれない。それでも折角得られた未体験ゾーンである。何とかして「遊」のこころを求めたい、と思っている。

                          (2007/7/30)





8月1日、未体験ゾーンへ (13)  私の未体験ゾーン(2)「長いトンネルを抜けるとそこは・・だった」
 まもなく、である。本日午後、常務会終了後に入院した。
 すぐに外出の手続きを取り今日の紹介患者に対する返事書きなどこなす。院内エイズ学習会の謝辞を最後に公的な業務は終り、と線を引き二番目に挙げた未体験ゾーンに漬ることにした。まだ数時間でしかないが開放感を得て良い気分である。一番目の未体験ゾーンである明日の手術は麻酔科、手術室の都合で若干開始時間が遅れるとの連絡があった。

 未体験ゾーンの三番目は、長い間あこがれていたきつい排尿感覚からの開放された状態のことである。限界を感じて手術を受ける決心をしたとき頭に浮かんだのは川端康成の名作の出だしの一節、「長いトンネルを抜けるとそこは・・だった」の一節であった。言い換えると「麻酔から覚めたら、そこには45年間ずっと待ち望んでいたスムーズな排尿感覚を持つ健康体になっていた・・」、の期待感であり、夢である。

 是非そうなって欲しいのだが、現実にはそう期待したようにはなり得ない事は十分に分かっている。第一、麻酔から覚めたら身体にはいろいろ違和感が残っているだろうし、時間と共に手術創や尿道カテーテルの痛みなどが襲ってくるだろう。恐らく数日は多かれ少なかれ痛みとの闘いになるだろう。順調に経過した場合は一週間後には尿道カテーテルからも開放されるだろうが、それ以降しばらく排尿はかなりの苦痛を伴うのだろうと思う。

 更に、長期間の病態である。硬化し、細くなったルートに切開を加えて開放したからと言って直ぐに排尿機能が戻るものでもない、とクールに思っている。膀胱頚部硬化症という病態そのものもは前立腺肥大と比較して治療効果がそれほど明確でない場合もあるとされているからでもある。

 そう考えつつも手術を受ける決断したのは、少なくともこれ以上は放置出来ないという限界を感じたからで、憩室の切除と、膀胱の負荷を減じる方策があるのであればそれを回避すべきではなく、願わくば、手術を受けてホントに良かった、と感じる状態になってほしい、との希望であり、夢であった。

 さて、結果はどうなるのだろうか。楽しみである。
 どんな結果であれ、明日麻酔から覚めた以降に迎える世界は、私にとって45年間いつかは来るはずと待ち続けていた未体験ゾーンの、新しい日々と言うことである。その迎える状況に応じて今後の生き方、過ごし方を変えていく必要があろう。

 明日、この徒然日記がアップされる頃、手術に向けて前処置が始まる事になっている。何日続くかは分からないが、暫くは徒然からも離れなければならないだろう。
 同じように再開出来る日が無事に来ることを願っている。

                           (2007/7/31)




手術の感想(初日)何が何だか全く分からないうちに終了し、全く無痛

 9:00点滴開始、留置針だから痛い。9:30筋肉注射を受ける。これも痛いものだ。数分後には殆ど意識が無くなったらしい。その後のことは全然記憶がない。手術室に運ばれたことも全く分からない。

 次ぎに覚醒した時にまず目に入ってきたのは無影灯であった。麻酔科科長の声も聞こえる。私は前処置の過程で覚醒し、これから硬膜外麻酔でも始まるのか、と思ったが、「もう終わりました。上手くいきましたよ」と主治医を声も聞こえた。  

 10:00頃から開始し、覚醒したのは13:00頃であったらしい。驚いた。

 暫く様子を見て安定しているのを確認し病室に戻った。ストレッチャーが床の凹凸を正直に拾う。夕方までトロトロ眠っていた。痛みは全くない。ホントに無い。これも驚きである。担当の看護師も何度も何度も訪室し声をかけてくれる。 

 19:30頃、麻酔科医、主治医の回診も終わり、家内を残して家族も帰宅した。異様に口渇があり氷の小片を口に含む。トロトロ、氷小片、トロトロ、氷小片、を朝まで何度か繰り返す。全く痛みはない。当日の感想は、とにかく予想外に楽で驚き、と言うことであった。

 鼻には酸素と胃管が入っており、そのために喉に若干の違和感がある。尿道カテーテルも入っているはずだが違和感は全くなし。

                            (2007/8/1)

術後1日目、時間つぶしに苦労 手術は結構大変だったらしい

 ベット上では出来ることは限られている。ラジオは終日台風5号関係のニュース。人的被害については同じ内容を繰り返している。録り貯めていたMD「ラジオ深夜便・心の時代」を集中して聴き、本読みなどで過ごすが、時間つぶしに苦労する。何かに飽きるとトロトロと眠る。ふだんは味わえない贅沢な感覚だ。

 結局、この贅沢さに飽きて夕方からマックを持ち込む。これが一番時間をつぶすのに向いているようだ。ふだん出来ないデータの整理、まとめなど進めることとした。ドック判定総括用のカルテがあると仕事も出来そうだが、しばらくは手を付けないことにしよう。

 手術の様子を聴いた。また、回診時に主治医がカルテを置いていったので手術の様子を知ることが出来た。前処置の筋注でかなり深く眠ってしまい手術場に着いたときには舌根が沈下しかなりイビキをかき、血液酸素飽和度も80%前後まで低下したらしい。硬膜外麻酔のテューブ挿入時には痛みに反応し体動もあったとのことである。更に、下顎の発達不全なのか喉頭展開が出来ず、挿管に難渋し何度か試みたあと最終的には経気管支鏡下に挿管テューブをいれたとのことである。

 泌尿器科的にも膀胱の出口に大きな土手状の構造があって通常なら内腔が見えるレベルまで内視鏡を進めても土手が邪魔して十分見ることが出来なかったらしい。その土手をかなり削った様である。広くトンネル状に内腔が作られていたが、今後どうなるのか楽しみ半分以上だが、若干の不安が残る。

 手術場では使われた薬品も20種類ほども記載されている。これらの過程が全く気がつかない状況で進められたことは全身麻酔下だから当然であるが関係者の皆様方には随分迷惑をかけた様である。感謝感謝である。

 硬膜外麻酔テューブ抜去後疼痛が襲ってきた。看護師達は鎮痛剤の使用を勧めてくれるが、この疼痛は術前予想したレベルであり、暫く疼痛と対話することとした。

                                                    (2007/8/2)

術後2日目、疼痛は徐々に軽減してきたが、やはり辛い

 手術翌日に「先生の性格なら早期離床をお望みでしょうから」、と主治医が回診時に硬膜外麻酔のテューブを抜去してくれた。「痛みが出てきたら座薬で十分でしょう」、とのことである。術後まだ18時間程度しか経っていないからちょっと早いのではないか?と思ったが、経験豊かな主治医と麻酔科医の合意とすればそれも一方法かと思いその判断に委ねることとした。

 テューブ抜去後、1時間ほどして徐々に創部痛が始まり、2時間後ほどには結構激しい疼痛が襲ってきた。どれほどまでひどくなるのかとじっと観察していたが大体ピークの様でじっとしている限りそれ以上はならないようで若干安心した。 

 硬膜外麻酔のテューブ抜去前には100%疼痛はなかったから、随分この*麻酔が効いていたものだと感心した。麻酔科科長がじっくりと検討してくれ、疼痛の分布に合わせ2本テューブを入れてくれたものである。   

 私自身、手術野は広く深いから術後疼痛でかなり苛まれるだろうと覚悟していた。それから見れば想定内のレベルより幾分軽い。ただ、挿管後の喉頭違和感もあって咳払いなどした際とか、体位変換する際の創部痛はかなり厳しいものがある。それでも痛みのピークがこの程度なら耐えられそうである。訪室する看護師はほぼ全員私の姿を見かねて鎮痛剤の使用を勧めてくれるが、気持ちだけ戴いてやんわりとお断りする。

 私は子供の時の腰麻での手術の経験から、今回は全身麻酔下でやって欲しいと願っていたが、憩室切除も同時に行うこととなり、主治医が全身麻酔を選択してくれた。完全に無痛状態で前処置や手術が行われ、術後も約一日無痛状態でいられたことだけでも十分である。術後の疼痛に耐えるのも医師として患者の気持ちを味わうための研修だと思えば重要な機会であり、無駄では無かろう。

 折角硬膜外麻酔のテューブ抜いていただいたので早速手術翌日から室内を何度か歩く。歯も磨けた。姿勢は前屈み、一足毎に下腹に響いて痛みはあるが、結構まともに歩くことが出来た。洗面とか歯磨きとか、元気なときは何とも思わずに出来た当たり前の日常行為が手術翌日から出来るということは最高に恵まれた事なのだという実感を味わうことが出来た。

                                                        (2007/8/3)

頭の先から爪先まで看護師方の世話になる 申し訳ないほど有り難い

 肩書きとは関係なく、私自身は単なる泌尿器科の患者の一人であるが、入院を受け入れる病棟スタッフはそれなりに緊張したらしい。それは当然でもある。私にとっても同業者や同じ病院のスタッフの主治医になるのは快適ではなく、出来れば回避したい。が、立場上出来ない事もある。

 私は模範的な患者になるつもりなど全くないし、出来るはずもない。せめてこの間は自分を取り憑くろったりせず、あるがままの自分で過ごしたい。だから、「面会謝絶」とさせていただき、マイペースの療養生活に漬っている。

 そうは言っても、主治医、病棟の看護師達から「わがままで扱い難い」患者との評価を貰うとのも本意でない。だから、医療・看護に関しては100%「まな板の上の鯉」に成りきり、全てを委ねることにした。数ある申し出、提言の中で私がやんわりとお断りしているのは鎮痛剤の使用に関してのみである。それも、決して拒否しているのではない。

 主治医は私より若干年長のベテランである。毎日回診に来てくださるが、言葉は少ない。単語に若干のつなぎの言葉が挟まるだけ。まるで小泉首相の様な表現である。私は話すときの主治医の表情から十分な治療をしていただけたと読み取って安心している。やるべき事はやっていただいた。あとは時間をゆっくりかけつつ私の排尿機能の回復を待つだけだ。

 看護師はとにかく優しく、機会ある毎に言葉をかけてくれ、笑顔も豊で表情も良い。当院の看護師は親切で優しいと患者からの評判はすこぶる良い。そう評価されるのは管理者としてとても嬉しいことであるが、患者の立場で接したことは殆どなかった。今回はそれを実際に体験した。実にこまやかな気配りである。

 手術当日から、頭の先から足の爪先まで、陰部まで含めて清潔保持の清拭をして貰った。男性患者の看護にも陰部洗浄、清拭があるのを初めて知った。2日目には洗髪と洗足をして貰った。小学生時の入院は約一月に及んだがこのような看護を受けた記憶はない。自分の身体を他の方々から洗ったり拭いて貰うことなどホント初体験の私は何か申し訳なくて複雑な気持ちであったが、100%「まな板の上の鯉」に成りきり、乳飲み子のようになされるままに身を委ねた。この全身の清拭、洗髪がなかったらこの暑さと発熱による発汗で大変なことになっていたのではないかと思う。看護師の仕事の領域はとても広い。私は今まで看護師の仕事のうち患者の生活援助、清潔保持などの価値を若干過小評価してきたような気がする。

 動けばまだ結構痛いが、看護師達の労を少しでも軽減させてやりたい。清拭は今日から自分でやってみる。

                                                       (2007/8/4)



私が今回提出した「リビング・ウイル」

 今回、私が受けた手術は術前の説明から察するに、泌尿器科的にも手技的に見てもそれほど困難なものではなく、おそらくその道のプロにしてみれば日常的なレベルのものだろうと推定される。一方、麻酔科科長の説明は手技的には同様であるが、不測の事態はゼロではないことを強調していた。それは当然で私の考えと一致する。

 医療とは何かという問いにいろいろな答えがあるが、私は医療行為とは「大きな危険を回避するために小さなリスクを合法的に与える行為」と定義している。医療行為には必ずリスクを伴う、だから、どんな医療行為でも100%安全とは思っていない。不測の事態はいくらでも生じうるし、芋づる式に悪化の一途もたどる事もある、と割り切って考えている。

 私は内科医だから治療上で患者に与えるリスクは麻酔科や外科系診療科の医療行為に比較してより小さいとは思っているが、自分が担当する患者に対して行う医療行為は結構慎重に選択するし、不測の事態まで予測しながら行っている。

 私を担当している看護師達は、私が何故鎮痛剤を使用せずに痛みに耐えているのか理解できないようであるが、基本的にこの考え方に沿っている。抗生物質や点滴は今の私には必須だから受けているが、不足の副反応が生じる可能性については同様である。

 今回、私は手術を受けるにあたって、もし不測の事態にて私が意思表示を一切出来ない事態に陥った際のその後の医療について、私が先々から決めていたことをリビング・ウイルとして以下の如くカルテに明示しておいた。

 意思表示が出来る状況であれば、その後のことはその時点で私が決めればいいことであるから明記せず単純化した。家内は4週間は短すぎないか?との意向であったがこの書状の提出には反対しなかった。

              お願い

                    中通総合病院院長代行  殿
 

 この度、私が入院治療を受けるにあたり、不測の事態にて私が意思表示を一切出来ない事態に陥った際には、4週間に限り治療の継続をお願いいたします。

 その時点で、同様に意思表示が出来ない状況にあった場合、栄養・水分補給を含めてあらゆる医療行為を止めて下さいますようお願いいたします。

 上記により生じる結果の全責任は私自身にあります。

 なお、上記の記載内容については、家族を始め、私以外の方々の介入を一切お断りいたします。

              平成19年8月 1日   福田 光之 印

 幸い、今日の時点でこのリビング・ウイルは無駄になりそうである。しかし、これを明記しておいた意義は小さくないと思っている。 

                                                     (2007/8/5)  

      

術後5日目、未体験ゾーンのその後(1)「入院」・「全麻下手術」の経験

 私が術前に未体験ゾーンの意味として挙げたのは、第一は「入院・全麻下手術」、第二は「遊の心」、第三が「きつい排尿感覚からの開放」であった。

 本日は術後5日目で尿道カテーテル、点滴も抜去となった。形として体内に残っているのは下腹部と陰嚢部の縫合糸だけである。

 私は小学生の時に受けた腰麻下での盲腸周囲膿瘍の手術の際の不快感の記憶が鮮明に残っており、今回は心の隅では全麻による手術を望んでいた。当初は憩室も内視鏡的治療を試みるとのことで腰麻予定であったが、開腹で一度に切除することとなり、希望通りに全麻となり内心喜んだ。

 前日夕方入院したのだが、実際には当日朝までほぼ通常のパターンで業務をこなし、病室には前処置開始に合わせて7:00頃に戻った。緊張感を欠く、我が儘な患者と思われたであろう。

 手術は、前処置の筋注一本で完全に意識を喪失、目覚めたときにはすべてが終わっており、全麻の威力に驚いた。実際には麻酔科科長、術者もそれなりに苦労したとのことであるが、私は一切感知していない。「なんか解らないが目覚めたらこの世だった」、という感じであった。術後も硬膜麻酔の威力だろう、約一日は完全無痛であった。これほど無痛状態で過ごせるとは予想もしていなかった。

 不快な感覚として、異様に口腔内乾燥感があった。これは時折氷の小片を口にふくむことで凌いだ。それ以外では、翌朝まで鼻に酸素投与のカヌラと鼻から胃にテューブが入れられ鼻と咽頭付近が若干痛かったこと、気管内挿管に伴う咽喉頭違和感があったことだけで、前2者は翌朝には外され解消した。後者は全麻には必発と聞いているが私の場合、挿管に難渋したことの影響なのか解らないが、本日の段階でも若干残っており、時折必要となる咳払いの際の創部痛はいまだに辛い。

 硬膜外麻酔テューブは主治医の配慮で予定より早めに抜去となったが、抜去後強い疼痛が襲ってきた。それだけ効果があったと言うことである。看護師達は鎮痛剤の使用を勧めてくれたが、この疼痛は術前に予想したレベル内であり、結局一度も用いないで済んだ。お陰で術翌日には痛みに耐えつつ洗面所まで歩け、歯も磨けた。実に恵まれた状況であったと思う。

 術後は主治医、麻酔科医、担当看護師達の訪室も頻回で、これからのことを細やかに配慮して戴き、むしろ恐縮した。

 その後本日に至るまでの看護師達の働きには感心し驚いた。ひたすら感謝、感謝である。

 これで私は腰麻、局麻、全麻と三方法の麻酔の下で手術を受けたことになる。私が費やした医療費は如何ほどになるのか見当もつかないし、多くの方々の手を煩わせ、迷惑も掛けたから、良い経験をしたとは言いたくはないが、良い経験をしたものだと思う。

 この経験を公私ともに前向きに生かしていくことが私の務めの一項目に付け加わったのだ、と今は考えている。

                            (2007/8/6)


術後7日目、未体験ゾーンのその後(2)「遊のこころ」(1)

 折角得られた「未体験ゾーン」である。この開放感、時間を無駄には出来ない。無駄にしては私自身にも、業務を肩代わりしてくれているスタッフ達にも申し訳ない。

 まず「惰眠」と楽しみにしていたので術当日は終日トロトロと、積極的に、家族も心配し呆れるほど、ひたすら寝た。麻酔薬の影響、手術のストレスもあったのだと思う。しかし、10数時間連続に寝たあと、更に惰眠を楽しもうと思ってももうダメであった。

 術翌日の夜は、家内とも会話も途切れがちとなったので、23時頃入眠しようとしたが、ついに入眠出来なかった。振り返ってみればその夜は痛みがピークだったので、ひたすら動かず、動けず、じっとしてNHK「ラジオ深夜便」を聴いていた。折しも台風5号も九州山陰地方を通過し、勢力もピークであったために通常番組は無く、徹夜で台風情報を聴いていたようなものであった。15分毎に台風の現在位置とスケールを告げたあと、昨日夕方のまとめと同じ被害状況を何度も何度も繰り返す。録音を使っても良いほどのワンパターンだが、アナウンサーは毎回手抜きもせずしっかりと読み上げた。呆れ、飽きた。

 痛いが、豊かな時間を得る事が出来ている。さあ、「遊のこころ」を楽しむことが出来る、と意気込む。「遊」という字は「心を自由にして何事にもとらわれず、いろいろ発想、空想などを楽しみ、哲学する・・」と言った深い意味がある古く由緒ある言葉とのことであるが、時代と共に解釈が変わっていったのか、身近な国語辞典のレベルではこの意味は出てこない。関連法人に「遊心苑」なる老健施設があるが、当初から実に素晴らしい名称を付けたものと感心していた。ただ、第一線を退いた方々が「遊のこころ」を楽しめるような環境なら良いのであるが、実際に入所されて居られる方々は年齢的に更に更に、更に上の方々で、どんな「遊のこころ」をお持ちなのか、今の私には知るよしも無い。確かに、「こころが遊んでいる」方々とも言えそうだから、マア良いか。

 さて、時間が出来たので何を考えるか、どうやって心を遊ばせるか・・と言っても、創部がひどく痛くて心は現状からなかなか離れて行かない。こりゃ「遊のこころ」を楽しむなんて現状では無理だ、と割り切る。

 こうなると次の手、具体的には本、新聞、MD、CDにたよることである。更に、マックまで持ち込んだ。そう割り切ると悪い性格が頭をもたげ、「遊のこころ」などそっちのけでむさぼりの世界に入っていく。 

 本は溜めていたうちの6-7冊ほど読破できた。「禅」「論語」の勉強も若干ながら出来た。簡易な解説本3冊ほどを利用した。小説も久々読めた。新聞は自宅に未読で溜め置いていた3紙約一ヶ月分に目を通し、必要部分は切り抜き大量に廃棄した。私にとって新聞は解説や論評を中心に時の流れを読む資料であり、じっくり読むと捨てるに惜しくなる。

 ヴェルディ「リゴレット」「椿姫」「ドン・カルロス」、モーツアルトの各種協奏曲などヘッドフォンで微細な音も聴き逃すまいと集中して、じっくり味わう。久々である。作品の素晴らしさもさることながら演奏、録音、エレクトロニクスの発展の成果を考えつつ良い時代を過ごしているものだと、ふだんは味わえない贅沢な感覚の中で感心した。

 結局、この贅沢さにも飽き足らなくて術翌日の夕方からマックを持ち込む。記録したいもの、整理したいものも沢山たまっており、一部ながら処理できて満足した。

 さて、明日は退院である。あと数日時間を戴いているので今度は自由度の高い自宅を中心に次のステップの「遊のこころ」に漬ってみることにしたい。

                                                     (2007/8/8)

術後8日目、未体験ゾーンその後(3)入院生活 ベット、点滴、食事など

 成人になってから入院は初めてで未体験ゾーンの一つであった。

 疾患、治療内容から術後にいろいろ手がかかるだろうから、病室は泌尿器科病棟の病室か?と思っていたが、主治医の気遣で新館の個室に入院出来た。

 僅か10日間の入院であったが、もし、個室でなかったら、また、室にトイレ、洗面所が付いてなかったらかなり大変だったと思う。まず、他人に遠慮して唸ったり声を上げたり出来ないとすれば、術後の疼痛はより耐え難かったと思う。

 術後は自分では動けない。同じ体位では辛くなるので適宜ベットの角度を変える必要があった。二日間付き添ってくれた家内や娘に頼んだ用事の大部分は、勿論これだけではなかったが、このベットの角度の上げ下ろしが主で、歩けるようになっても結構ハンドルは重く、回すと下腹部のキズに響いた。やはり電動ベットが欲しい。

 尿道カテーテル、持続点滴も勿論初体験である。私は術後翌日から離床できたが、点滴台に双方をぶら下げての押しながらの移動は室内だけでも大変で、段差があって狭い洗面所の中は動くのは大変であった。

 動くには点滴の方が遥かに厄介で、夜間点滴から開放された以降は早朝から朝食までの間は自室で過ごした。尿道カテーテルからも解放された後の3日間は許可を取って日中もかなりの時間を自室で過ごしていた。あの「千の風」をもじると、「私の病室の前で、私をさがさないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません・・(以下略)」という感じで、元気になってくるとベットとその周辺だけで過ごせという方が土台無理で、私は次第に落ち着きのない患者になった。

  私は下腹部を大きく切開したが腸管には手を付けていないから、食事は術翌日の昼から可能となり、流動食を皮切りに普通食まで一食毎に変更して貰った。日常一食で十分な私の場合、一日三食は私には拷問に近かった。対策として主食は1/2以下で止めておいた。五分粥で止め置くのも一方法である。

 上記の如くいろいろあったが、何と言っても最大のインパクトは看護スタッフの働きであり、とても表現できないくらいである。

                            (2007/8/9)



術後11日目、未体験ゾーンその後(4)結局排尿はどうなったか、

 私が未体験ゾーンとして第3に挙げたのは、長い間あこがれ続けて来た、きつい排尿感覚からの開放で、勿論、憩室切除も必要であったが、これが治療の第一の目的であった。

 康成の名作の出だし、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の一節を書き換え、「麻酔から覚めたら、そこには45年間ずっと待ち望んでいたスムーズな排尿感覚を持つ健康体になっていた・・」、の期待感であり、夢であった。

 麻酔から覚めたら確かに別世界ではあった。まず、予想外の無痛状態であった。この無痛状態は硬膜外カテーテル抜去迄で、抜去2時間後は創痛が襲って来たが、想定内の範囲で鎮痛剤は不要であり、3日目ほどから徐々に改善しつつある。でも、未だに痛い。

 麻酔から覚めた時点でのもう一つの別世界は、排尿からの解放である。尿道カテーテルも初体験であったが、意外と苦痛は少なく、術後大量の点滴の他、お茶も大量に飲んだので、この4日間5リットル以上の尿が出た。この間、排尿する必要が無く実に快適であった。

 5日目についに尿道カテーテル抜去した。

 予想として、その後の排尿はかなりの苦痛を伴い、切開されより小さくなった膀胱、膀胱頚部の切除に伴う過活動膀胱、括約筋の機能不全などからかなりの尿漏れも伴うものだろうと覚悟していた。しかし、これらの苦痛に関しては大部分が杞憂であった。確かに少量の尿がたまる度に強烈な尿意が襲ってきたし、尿は見事なワインカラーで白い便器がピンクに見事に染まった。薄い血尿は実に奇麗なものと感心する。しかし、排尿に伴う苦痛は殆ど無くこの面ではおおいに助かった。尿漏れは殆ど無かった。

 それよりも、明らかに異なったのは私がいままでに体験したことのない、抵抗のないスムーズな排尿感である。これこそ求め続けてきた未体験ゾーンであり、最高の感覚である。その度毎に大きな満足感を覚える。経過と共に膀胱容量も徐々に増してきたし、尿の色調も徐々に薄くなってきている。

 手術を受けても直ぐに排尿機能が戻るものでもない、と半分クールに考えて、半分は夢を抱いて手術を受けたが、今日までの経過では全てが良い方向にある。ホントに良かった、と100%満足している。長年の夢がついに叶った。在トイレ時間も明らかに短縮した。いま、毎日私は一日に何度も未体験のさわやかな排尿感覚を味わっている。

 ここまで調子が良いと、失われた時間も計算してみたくなる。
 実にくだらん計算であるが、私の排尿時間が一回2分長と仮定して計算してみると、この45年間約16万回の排尿で、何と、よその方よりも220日分も長くトイレで排尿していた計算になるね。ああ、我が人生である。     

                                                    (2007/8/12)


術後12日目、未体験ゾーンのその後(5)「遊のこころ」(2)

 折角得られた「未体験ゾーン」である。この開放感、時間を無駄には出来ない。

 8月9日午後退院した。診断書上は一応16日まで病欠としているが、体調も比較的良好なので、早めに出勤することとした。
 療養期間を短縮したので、一層貴重になった時間を何とするか、一昨日、突然西方の海に沈む夕陽を見たくなったがこれも「遊のこころ」の一つだったかもしれない。 

 入院中はヴェルディ、モーツアルトをヘッドフォンでじっくり味わった。繊細な表現を十分味わい満足した。自宅ならば大きな音も出せる。この際、こんなにまとまった時間は得難いだろうから、と久々にワーグナーの楽劇に取り組んでみることにした。

 この作品のレコードを取り出すのは久々である。1961年のバイロイト音楽祭の実況盤、サバリッシュ指揮の「さまよえるオランダ人」、1962年の「タンホイザー」、1967年のベーム指揮の「ニーベルングの指輪」四部作である。全部でレコード24枚、古い録音であるが、音質的にはそう不満はない。購入してから30年ほどは経過しただろうか。この間まだ数回しか針を通していない。

 この間、猛暑で汗だくになりながら「タンホイザー」と「指輪」四部作中「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリード」を約15時間かけて聴き通したが、この勇壮な音楽、音の洪水の中に身を置いているうちに、この程度の感受性と気力が維持されているのであれば、これ以上は療養休暇を取っていることは冒涜だろう、との結論に達した。

 未体験ゾーンの(2)としてあげた「遊のこころ」に関しては、この豊かな時間を有効には使ったとは思うが、いささか本や音楽を楽しむ事をむさぼり過ぎ、本当の意味での「遊のこころ」を持てなかったようである。これは多分に性格的なものだろうと思う。その反省のついでに、今週末にかけて残りの「さまよえるオランダ人」、「神々の黄昏」を聴いて一つの区切りにしようと考えている。出来うれば「ローエングリン」も加えたいところであるが、やはり欲張りすぎか。

 この2週間で設定した未体験ゾーンをまず充分味わう事が出来たので、病欠期間を終えることとした。良い体験、経験が出来たと思う。その満足感と共に明日から通常勤務に戻ることとした。(終わり)


                        (2007/8/14)





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