8/31(水)早朝から降雨終日 午後飯川病院
1:20起床、文献検討、データ整理。書斎隣の作業室整理、不要物廃棄。降雨の合間をぬって12:12バス飯川病院、微睡。14:00-15:30勤務。COVID-19ワクチン接種は中止となる。病棟患者対応なし。読書と書籍データ化進める。新聞入力。微睡若干、座学、散水。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計7603歩。
こころと体2022(66) 自己肯定感(9) 外向き自己肯定感と内向き自己肯定感(2)
私の自己肯定感はひどく低い。だから、「必死に周囲に合わせて」生きて来た。単語として並べてみると「イエスマン」、「八方美人」などなどの人間像に合致する。この言葉は本来大嫌いな言葉なのだが、人嫌いの私自身の処世術の一つ、として身につけた。
私は真面目に生きてきた。 必死に努力してきた。 結果として、社会的に見れば「日の当たるコース」を歩んできた、と評価すべきだろう。その立場だったから経験できたことも多いし学んだことも多い。それなのに人生の満足感はとても低い。
喜寿を迎えるまで生きた現時点で振り返ってみて、「三人の子を育てたこと以外に意味のある足跡は何もない・・・」、と思っている。私は自己を誇るものは何もない。そう考えるのは私の自己肯定感が低いから、と思う。
一方では、私は個人的には自己満足のレベルでしかないが、ほぼ満足できる良き人生を歩んできた。
(1)だから、私の場合の自己肯定感は、外的なものと内的なものに分けて考えれば良いと思う。
(2)私が言う「外向き自己肯定感」は社会的な肯定感、「内むき自己肯定感」は全く自分一人の個人的な問題である。
(3)「外向き自己肯定感」は、友人関係の付き合いと、医療や病院管理、医師会などの仕事上での問題に分ければいい。
前者に関しては人との付き合いを中心に考えると、本当に自分をあまり主張することなく、人を傷つけることなくソフトに生きてきた。だから私には「知人はいるが友人はいない」。多分、他人から見て「毒にも足しにもならない、影の薄い、人がいい、都合のいい」人間だったのであろう。
「日の当たるコース」については、大きな誤りを経ずに過ごし得たが、自分で評価すべき実績は残さなかった。今更ながら、その地位を占めていたことを恥ずかしく、罪深いことと考えている。だから、それを恥じて今は「準引きこもり状態」で過ごしている。私はよき社会人では必ずしも無かった。
(4)一方、「内ち向き自己肯定感」は全くパーソナルな問題である。この部分に関しては確個たる自己肯定感があった、と考えている。「内ち向き自己肯定感」の面から考えれば、「継続は力なり」の格言に沿って生き、いい人生であった。スケールは小さいがやりたいことは大抵やってみた。この徒然日記、福田の雑記帳はその一例である。乏しい「外向き自己肯定感」を十分補完して生きる力をもらった、と考えている。
要するに、自分の世界の範囲だけでは自己を心置きなく発揮できていたし、そのことが拠り所となって楽しく生きられた、と思う。今も「準引きこもり状態」に自分を置きながら、この内向き自己肯定感を満足させながらチマチマと生きている。
8/30(火)早朝降雨 曇りのち快晴、時に降雨 外来 飯川病院ボランティア
1:30 起床、医学文献・新聞ほか。5:15可燃ゴミ提出、バス予定なるも間に合わず。家内に同乗、8:00飯川病院着、COVID-19抗原検査陰性。新聞切り抜き。8:45-12:30外来、13;00飯川病院、微睡、14:00-19:10ボランティア。座学中心。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数7347歩。書籍自炊化数冊。
こころと体2022(65) 自己肯定感(8) 思春期の自立を支える自己肯定感
生後間も無くの赤ちゃんは、親から引き継いだ個々の性格の素地は備わっているが、画材で言えば白いキャンバスの様なもの。毎日のコミュニケーションを通じて徐々に色が塗られていく。その頃に塗られた色が将来の基礎になる。赤ちゃんは脳や心の発達進化から言えば「白ちゃん」と呼んでいい。
脳機能の発達進化は、従来から言われていたよりもずっと長い時間が必要で、人間の場合約25年かかる、という。【人の発達の謎を解く(明和 政子京都大学教授 ):ちくま新書】。
自己肯定感は乳幼児期に求めた甘えをしっかりと受けとめられ、この世界が温かく安心できる世界であるという信頼感を獲得していく過程とも言いうる。それを育てるために、「共感的な他者」の存在が大事である。それが親であり、家族である。子供は共感してくれる他者との交わりの中で、「自分を受容し、 自分を信頼する心」を育ていく。この心に住みついた 「共感的な他者」を真似ながら、子どもは「自分がこれで大丈夫なのだ」という心を育ててゆく。
(優しい家族像を描く「にしださちこ氏」の作品 日経の2022.8月クイズ欄より借用 とても暖かい家庭像で私の文脈に合っている)
思春期に至り、自分の頭と心で立ちあがり、「自分が感じたこと」 「真実心を動かされたこと」などの体験を自分のものとして行く過程が必要である。それを内面から支えるのは「自分がこのように感じ、このように感動する自分であってよいのだ」という自分自身への信頼、すなわち「自分が自分であって大丈夫なのだ」という「自己肯定感」である。
ところが、共感してもらえず、それを受け容れてもらえない子どもは「自己肯定感」を育むことができない。 親や家族から思ったことを否定され続けられれば、自分が素直に感じたことを、いけないことであるかのように感じ、罪悪感のような感覚をもちはじめる。
そのうち、親と同じに感じないといけないような気がしてくる。
それがさらに進行すれば、親が好きだと感じそうなことを先取りするようになる。そうすると親は満足して「そうだね」と肯定してくれる。親の顔を窺いながらビクビクと落ち着かなく生きる子供が出来上がる。
そして、いつの間にか、親の感情と自分の感情とすりかわってしまう。こうして、自分自身の感情を見失っていく。
親の感じ方、価値感 (観)を押しつけ、子どもに共感できない親は、こうして子どもの感情を奪っていく。
こんな状況は、躾や教育なのだと置き換えられることがあり、こんな環境の中では芽生えてきた自己肯定感は摘み取られてしまう。
私の環境はこれに近かった。
私を救ってくれたのは、本の中の言葉であり、ネコの存在であった。
8/29(月)晴 健康クリニックドック 飯川病院
1:00飯川病院で起床。新聞・文献チェック。データ整理、医学文献・新聞ほか。7:00検食、COVID-19抗原検査陰性。9:00-11:00健康クリニックドック12人+結果判定14人。ドック受診者とは距離あけて対応。11:45飯川病院、微睡ほか、14:00-18:50勤務。新聞チェック、読書他、患者対応はガウン着用で。15:30許可得て歩行訓練、千秋公園コイ給餌、バス長崎や古書店にて7冊購入、19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数9051歩。
こころと体2022(64) 自己肯定感(7) 幼少・少年期(少女も含む) 自己肯定感に大事な時期
職業柄、とはいえ私は小児科医ではないから滅多にないが、心に傷を負った子どもたちに接する機会がある。子供のこの様な病的(?)状態こそが、子供を取り巻く社会や環境、その過程が抱える問題の表れであろう。いわば、自我が乏しい時期の子どもが社会や環境の犠牲になっている。
子供は、時代とか社会とか周囲の環境に影響されながら育つ。
私自身が、自分の育った家庭と過程、成人してからの子育ての経験、孫たちを観察することを通じて観察したその親達、について以下の如く感じ取っている。
――――――――――――――――――――――――
少年たちにとって一番大切なのは「自由な空間と時間の保障」、である。
年少の子供たちにとっては「遊び」の保障であり、年長の子供たちにとっては「自我の成長に合わせた個性の尊重」が大切なのではないか。
そして、それらを見守る親の心には「ゆとり」が必要である。
――――――――――――――――――――――――
世をあげての「教育」「教育」と叫ばれている今日、私の感覚など時代錯誤的、寝呆けたこと言っている、と自分でも思う。が、「遊び」 や母の「やさしさ」、家族たちの「やさしさ」を味わうことができなかった子どもが将来どんな大人になっていくか、考えただけでもゾッとする。大人になってから、その分だけの、いやそれに数倍する代償を払わされることが多いのではないだろうか。
私は世を震撼させた大事件に関するの詳細な記述本が出ると積極的に集めて読んでいる。メディアの報告だけでは何もわからない。それらを読むと、今更ながら、少年には真の「自由」を保障する時間と空間、それに少年らを受け入れる親のやさしさとゆとりが大切だと、つくづく思う。
参考となる文献は50冊以上手許にあるが、その一部を例として示した。
○一橋文哉 尼崎連続殺人事件の真実
○一橋文弥 オウム帝国
○永田洋子 16の墓標(連合赤軍/あさま山荘事件)
○森 達也 相模原に現れた世界の憂鬱な断面(障害者施設19人殺害事件)
○佐木隆三 深川通り魔殺人事件
○杉山 春 虐待 大阪二児置き去り事件
○中島岳志 秋葉原事件(通魔事件)
○共同通信取材班 大津中2いじめ自殺
・・・・
これらの文献中には「残念な少年期」を過ごした若者達の実例が示されている。だからと言って犯した罪が軽減されるべきものではないが、犯人の心理的背景の一部は理解することができる。
私はもう何ができるわけではないが、子育ては「子供達の自己肯定感形成に大事な時期である」ことを機会があれば示したい、とは思う。
8/28(日)快晴 飯川病院日当直
1:00起床、歴史本、医学論文読み。ネコと微睡、8;30回診に行く家内に同乗、飯川病院に。日直業務に就く。大学病院COVID-19関連で派遣医師来院できず。急遽代行となる。院内の患者は平穏、読書、新聞データ化。蓄積データ整理。微睡と読書三昧。12:00、18:00検食、20:30就寝。歩数4146歩。
こころと体2022(63) 自己肯定感(6) 私の自己肯定感はなぜ低い? 優秀な兄と従兄弟
自己肯定感について再度考察を進める。
?今までの自己肯定感の記述
(1)こころと体 自己肯定感(1) 私は自己肯定感が身に付かなかった
(2)こころと体 自己肯定感(2) 対人関係で漫然とした不安感・恐怖感
(3)こころと体 自己肯定感(3) 私は一見優しいイエスマン
(4)こころと体 自己肯定感(4) イエスマンは不満を抱えているが、私は・・・
(5)こころと体 自己肯定感(5) 外向き自己肯定感と内向き自己肯定感
私は自己肯定感がとても低い。言い換えれば劣等感の塊とも言える。私は何でこんなに自己肯定感が低く育ったのだろうか。この歳になって今更どうしようもないが、自分の足跡として振り返ることは重要であろう。
自己肯定感は小児期に形成される。
小児期は人間形成の中でとても重要な時期である。
?私が育った家庭環境は以下の特徴があった。
問題を感じるが、時代の問題、社会の問題の反映であり、さらに家庭の個別性があり、誰が悪いわけでもない。私の環境がそうだったということ。
文章化するとニュアンスがボケるが、私はこの環境を全てネガティブに捉えているわけではない。
―――――――――――――――――――――――――――――
○厳格な祖父が我が家の空気を全て支配していた。躾も厳しかった。私は常に恐怖を感じ、萎縮していた。抜き身の刀を持って追いかけられた時には死の恐怖を味わった。小学5年祖父から解放された。
○父母の影は薄かった。母は多忙で甘える雰囲気ではなかった。父から時折投げられる嫌味がこもった言葉では傷ついた。
○母よりも住み込みのお手伝いさんの手によって育てられた。
○私は二人兄弟で、11歳上の兄はとても優秀で、長男として大切にされていた。全てにおいて比較の対象であり、私は常に劣勢の立場であった。兄と同じ中高一貫校に進んだが、耐え難くて2年で中退した。2015年死去し、私は長い呪縛から解放された。実兄死去に際して(3) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わって成長(1)https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20150117
○同年齢の従兄弟が盛岡にいて、常に比較され続けた。私は田舎者で常に劣勢の立場であった。高校は将来の進路が同じだったから3年間同じクラスで学んだが、辛かった。彼は東北大医学部に、私は新潟大に進みこの時点で私は解放された。
○書籍は豊かに与えられた。書籍から生きるべき道を学んだ。
○1匹のネコと出会い、小一から高卒まで13年間共に過ごした。彼女は私の全てを受け入れてくれ、心からリラックスできた。大きな存在であった。
―――――――――――――――――――――――――――――
この環境は心理的には厳しかったが、これを私はポジティブなエネルギーに変換することに成功し生きる力を得た。しかし、自己肯定感の確立にまでは至らなかった。
8/27(土)曇り夕方から降雨 飯川病院午前日直 大曲花火競技会 新ドラレコ装着
1:20起床、新聞・文献他、本読み、各種データ整理。8:35回診に行く家内に同乗、飯川病院へ。9:00午前日直に就く。新聞チェック、読書、データ整理三昧。結局午後も飯川病院で過ごす。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。書籍データ化。歩数計4614歩。10:00千秋ホンダにてドライブレコーダー交換。昨年居間のメインのiMac27(2015)急に不調に、種々対応するも昇天。
徒歩通勤2022(2) 歩行は高齢者にとって最も基礎的運動だが
今、私は伊能忠敬の足跡を辿りつつ、2回目の日本一周に挑戦している。 一昨日、北海道を終了し秋田に渡った。
2回目の日本一周スタート日は2020年4月15日だから、北海道終了まで861日かかった。
(ズルして2015年の第一回目の秋田終了時の状況を示した)
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2022年8月25日現在の歩数計のデータ(積算開始後9.4年間)
全歩数 3.120万歩 / 3433日=9.359歩/day
距離累計 24.966Km / 3433日=7.27Km/day
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徒歩通勤を始めた頃にはファイト満々であった。一日25.000歩に達したこともある。この頃に比較すると歩行のモチベーションが低下している。ただ、積算開始後9.4年間のデータを各年ごとに見てもモチベーションの低下は数値上からははっきりしない。そのデータを見てまたちょっと元気が出てきた。
秋田の海岸線は266Kmと北海道の一割程度である。短期間に通過できるだろう。
?ここで、高齢者にとって歩行の意義を考えてみる。
野生の、原野に住む四つ足動物は生まれてから30-60分で立ち上がり自分で哺乳を始める。これが上手くいかないと死に至る厳しい現実がある。
ヒトの場合は生後は寝返りもできない。手足をバタバタさせているが筋力はほとんどない。狭い子宮の中で制限されていた四肢の自由運動を味わっているのだろう。個人差が大きいが、赤ちゃんが寝返りするのに4-6ヶ月ほどもかかる。ハイハイは8-10ヶ月、立つのは10ヶ月、歩行開始もそのことからやっとである。
ヒトの場合、これほど時間がかかる理由は立位歩行の準備のためである。立位歩行のためには全身の筋力、特に骨盤周辺、下肢の筋力が強くなくてはならない。それに必須なのはバランス感覚である。
ヒトの場合、異常に生存期間が長い。筋力が最も充実するのは30歳代でそれ以降は徐々に退行し10年間で5%ほどずつ減少し、成長の逆コースを辿って立位歩行→つかまり歩行→立位歩行不可でハイハイ移動期→寝たきり状態になる。
歩行関連筋肉の退行は避けられない。100寿者では寝たきりは男性で 20.0%, 女性で 33.9%であり,全体として約8割の百寿者が日常生活に何らかの介護を必要とした(東京都健康長寿 医療センター)。
その意味で高齢者が自分で可能な範囲で日常から歩くことの意義はとても大きい。しかし安易にサプリメントに頼っている方が多い。
私もその視点で日常の行動を考えていて、可能な範囲で努力している。
8/26(金)午前降雨午後快晴 大曲中通病院 飯川病院ボランティア プリウス車検
1:20起床、文献他、本読み。5:10可燃ゴミ提出。7:35Taxi、8:11こまち、9:00大曲中通病院外来、往復Taxi、市内書店訪問、15:10広表古書店4冊購入、今月で閉店となる「いきなりステーキ」で遅めの昼食、略満足。閉店は残念。飯川病院ボランティア。院内でCOVID-19感染広がる、要注意。新聞記事チェック、微睡、19:30帰宅、軽夕食、20:30就寝。歩数計8528歩。
徒歩通勤2022(1) 2周目北海道終了秋田に到着
自転車通勤をやめ、片道7Kmを徒歩で通勤することとしたのは2013年4月。
その際に購入したのが歩数計「新・平成の伊能忠敬」である。
伊能忠敬の足跡を、ゲーム感覚で日本一周約18.000Kmを地図を作りながら進んでいくという優れものであった。
この歩数計開始してから9年半近く、失くする事もなくいまだにこれで毎日の歩数を計測し続けている。am2:00にその日のデータが締め切られるので毎日確認する。密かな楽しみの一つである。
(8月25日 画面上に祝・秋田到着の表示が出た)
第1回目の日本一周達成は2013年4月7日に東京を起点に北上開始した。
2020年1月17日、6.8年かかって日本一周を達成した。
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第1回目日本一周達成時の最終的積算データ(2020年1月)
所要日数2.290日目、6.8年。
総歩数Σ2.171万歩 (平均9.480歩/日)。
歩行距離Σ17.372Km(平均7.59Km/日)。
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この間、一日8Km/dayを目標にした。
しかしながら、2019年あたりから1時間余の徒歩は体調不良が生じうるため、全コース徒歩をやめ往路をバス通勤にし、天候や業務の都合ではボロ・レガシーを用いたので歩行距離は一層低下した。
2020年9月運転免許を返上、ボロ・レガシーも売却した。それ以降再び若干歩数が伸びている。
最近では自宅や病院周辺をこまめに歩いて、また、仕事に余裕がある際には院長の許可を得て歩行訓練と称して外出し、30-60分歩いて歩数を稼いでいる。
8/25(木)快晴 午後飯川病院 職員検診
1:40起床。データ検討。録音データ整理。午前ダリアは枝の処理と肥料追加。散水など、草刈り21回目南側のダリア周辺、11:50バス飯川病院。13:00-18:45勤務、入院患者対応。15:45職員検診。18:00丁酉会役員会でキタスカに行く家内に同乗、帰宅、19:00夕食、21:00就寝。歩数計11311歩。
季節の話題2022(20) 家庭菜園・園芸(13) 小モモ リンゴ
我が家には栗の木、柿の木、モモが各1本、リンゴの木が2本ある。
各々の花にも風情があるが、果樹には花を愛でるだけでなく結実も楽しみである。
今年は我が家の庭の小モモが200-300ケほど結実した。あまりタワワになり過ぎて枝折れするほどであった。実もとても小さい。その理由は春先にあまり真面目に剪定作業をしなかったこと、実を減らすための摘花、摘果をしなかったこと、農薬など一切散布せずに自然に任せたのが原因であろう。木々が一生懸命に開花し、結実していくその過程が美しいだけに、私は手を加えることをしない。
果実の熟成と共に樹の周辺には甘いモモの匂いが漂った。
実は香りがよく美味であったが、多くの実にはすでに虫がついていて食べられたのはほんの一部だけであった。これほどの良い香りを周囲に発散していては、虫が寄ってくるのは当然である。
福島や岡山はモモの産地として有名である。見事な無傷の形の良いモモが店先に並んでいる。私の興味はモモの味はさておき、これらのモモがどのような環境、どのように栽培がされているのか??ということである。農薬??機会があれば見学に行きたいほどである。
2本のリンゴの木には100ヶほどが結実している。同様に自然に任せている。私は青
リンゴが好きである。熟成の過程でこれから虫もつくだろう。その前に、と毎日2ヶほど採って食べている。市場にある青リンゴは立派であるが、実は軟化し始めていてがっかりすることが少なくない。我が家の採りたては美味である。虫との競争になるがもうしばらく楽しめそうである。
8/24(水)快晴 午後飯川病院 COVID-19ワクチン担当
1:20起床、文献検討、データ整理。9:00ダリア世話若干、10:50バス、二丁目橋下車、木内前から長崎屋に。古書店にて8冊購入、12:30バスにて飯川病院へ。微睡。14:00-15:30 COVID-19ワクチン接種担当、病棟患者対応。読書と書籍データ化進める。新聞入力。微睡若干、座学、散水。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計7603歩。
季節の話題2022(19) 家庭菜園・園芸(12) ダリア(3)
「ほんまに、なんで桜は(花は)こんなに一生懸命咲くのやろか・・・」。
緋毛の床に両手をつき、槙子がつくづく呆れたという声をあげるのに、里子は甘酒を飲みかけた手を止めて、「一生懸命って、なんえ?」「そやかて、なにもこんな精一杯、火がついたように咲くこともないやろ」
「あほらし、花はなにも、一生懸命咲きたくて咲いてるのとは違う。花が花を開くのは、花に備わった宿命やないの?」
「へえ、宿命? 可哀相な宿命や」「可哀相?」「そうやんか。見ず知らずの人にまで、こんな美しいの、全部さらけ出して、うちはそんなのはご免や」・・・・
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これは渡辺淳一著の小説「化粧」の出だしの台詞(一部改変)である。
私が花を、ダリアを自分で育てる様になってから10余年、ずっと心に思い、時に花に話しかけながら育てているが、この小説は私がずっと抱いている疑問のせりふから始まる。いまだに解けない謎であるが、氏の言葉で的確に表現されている。
ダリアは酷暑の季節が苦手であり、8月中旬過ぎから旬を迎える。
今年の7-8月、最もダリアにとって大切な成長期、とても暑かった。ダリアもそうだであったが世話する私の方ものびてしまった。でも、空を見て雨が期待できない日には散水給水は欠かせない。まず欠かさず給水をした。
8月下旬になって急にイキイキとなって咲いた花々が自己主張している。
8/23(火)午前から降雨終日 中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:30起床、文献検討。5:00可燃ゴミ集積所に。6:40バス飯川病院、8:45-13:00中通外来、中等度混雑内容的に疲弊。13:25飯川病院。微睡、入院患者対応なし。新聞文献チェック入力、19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計8672歩。
美術館探報2022(2) 冨田伊織:透明標本展
(1)透明標本作家 冨田伊織氏の標本展が秋田県立博物館で開催されている。
冨田伊織氏は1983年生まれ。北里大学水産学部水産生物科学科卒業、在学中に研究用の透明骨格標本に魅せられ独自に制作を開始。岩手県で漁師見習いをしながら透明標本制作を続けた。
2008年5月、新世界『透明標本』として活動開始。その独特の世界観で一躍脚光を集め、透明標本作家として現在に至る。
透明標本は実際の標本とはかけ離れた存在で、生物でありながら目に写る造形は、まるで微細な筆によって描かれたかのような美しさを持つ。
「肉質を酵素により分解し、透明にし、硬骨を赤紫、軟骨を青色に染色をする」という骨格研究の手法をベースとし、「いのち」をより身近に感じる造形作品としている。
元々の学術標本として、サイエンスの入り口標本として、芸術やアート作品として、今までにない新しい世界が投影されている。
「透明標本」とは、魚などの生物の骨だけに色をつけて、筋肉などそれ以外の部分は透明にし、瓶などに入れたもの。「透明標本」は小さな生物の骨格観察をするために作られるもの。
作成方法は、・・・
1 ホルマリンにつけて固定する。「固定」は防腐処理にあたる。
2 ピンセットなどを用いて生物の皮や内臓を取り除く。筋肉は骨の支持体として残す。
3 染色液などで染色する。硬骨が赤色、軟骨が青色に染まる。
4 他の薬品に浸し生物の筋肉の色素を抜く。
5 グリセリンを浸透させ、標本瓶にセットする
見た印象
赤と青系統に染色された小動物の骨格の標本で、美しい造形美を見ることができた。通常知ることのできない繊細な骨と骨、骨と軟骨の連結とかがよくわかって興味深かった。ただ、これほど数多くの標本が一堂に会すと興味を通り越してグロテスクなイメージになってしまう。ある限られた生き物の詳細な姿を多方面から解析して提示する目的の一つとしてならその価値は大きいと思う。
その感覚は私の職業上の感覚かもしれない。私どもはモノクロの世界であるが日常的にレントゲン写真で類似の構造を観察している。また解剖関係の研究所などには人間の全身の骨格復元標本を見ることができる。また、文献的ではあるが、小動物のレントゲン像を見ることも不可能ではない。
やはり動物は、魚類は動物園とか水族館で自然の姿を観察しながら、内部の構造に思いを馳せるのがベストである。
人間の姿、特に女性の姿はどんな年代の方であってもそれなりの美を見出すことができる。若い女性の姿だけが美しいわけではないと思う。高齢者のシワ、体の線の弛みにも、美しさを感じることがある。
でも、レントゲン写真は虚しい。裸体はどうか?それもTPOによる。いつも良いとは限らない。それが、衣服を着けることによって個性的になり美しさが醸し出される。服飾デザイナーの技能は素晴らしい。上手に着こなす技術も必要である。そういえば森英恵氏がお亡くなりになった。
透明標本展を見てのもう一つの感想である。衣服の意義は大きい。馬子にも衣装とは(2)そもそも人は何で衣服をまとうのか
(2)秋田県内の代表的美術館の本年の予定
秋田市立千秋美術館は、令和4年6月から約2年間大規模改修工事にて休館中。
以下は県立美術館の開催予定、ちょっと寂しい。
●藤田嗣治 パリへの郷愁展
●藤田嗣治 子どもへのまなざし展
●岸田劉生の軌跡
8/22(月)晴れ34℃ 健康クリニックドック 飯川病院 透明標本展
1:00起床。文献、新聞チェック。データの電子化。6:40バス飯川病院。新聞チェック、9:00-11:45健康クリニック、ドック診察12名。先週分の結果判定13名分。12:00飯川病院へ、微睡。 14:00-19:15勤務。入院患者対応、許可もらって透明展、散水、渡辺淳一関連文献入手、自炊。19:10帰宅、夕食。20:00就寝。歩行Σ7842歩。
美術館探報2022(1) 木村伊兵衛 嶋田 忠 川瀬 巴水 松本明鏡展
かつては秋田県内の美術館を、といっても秋田市にある県立美術館、秋田市立千秋美術館、横手市にある県立近代美術館が中心である。前二者では年間パスポートを購入して頻回に観にいったが、COVID-19の蔓延で企画も縮小気味であり、訪れる機会も少なくなった。今年は年間パスポートを購入しておらず、その都度入館料を払っている。県立近代美術館には今年はまだ行っていない。
(1)木村伊兵衛写真展(県立美術館) 木村伊兵衛回顧展
昭和を代表する写真家・木村伊兵衛(1901~74年)の作品を集めた「生誕120年 木
村伊兵衛回顧展」。木村氏は昭和初期から、東京・下町を中心に、街角の人々を写真に収め続け、50歳のころからは秋田の農村で撮影を重ねた。旧大曲市、現大仙市で撮影した「秋田おばこ」(33年)は近年、本県のPRポスターに使われた。
本展では、木村が残した133点を撮影地や時代、テーマなどで区分。庶民の日常を記録した「昭和の列島風景」や、「秋田の民俗」などの六つの章があった。古い写真の展示会であり歴史の記録には良いが文献や写真集で確認できるからわざわざ出かけてみる値はそれほど大きくない、と感じた。
(確かに美しい しかしこれは農作業の姿ではなかろう)
(2)嶋田 忠 野生の瞬間展(千秋美術館)
嶋田忠氏 (1949- )は、カワセミ類を中心に、 鳥獣の写真家として知られている。神々しいまでの生命力をもつカワセミやアカショウビンを力強く捉えた作品から、「自然から学ぶ」意識と感性に裏打ちされた目で捉えた繊細な作品までその多彩な表現は高く評価されている。
本展では、鳥ごとの魅力が凝縮された一瞬を切り取り、野鳥の魅力を多くの人に伝え続けている嶋田作品の数々を見ることができた。
家内は野鳥の会会員である。その機関紙を通じ私も鳥の生態に興味が高まった。それを受けての観覧で、今回の展示には略満足した。
(3)川瀬 巴水展(県立美術館)
川瀬 巴水(カワセハスイ1883年- 1957年)は、浮世絵師、版画家。新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者で、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、「昭和の広重」などと呼ばれる。
欧米で広く知られ、葛飾北斎・歌川広重等と並び称される。私は今回まで氏を知らなかったが、今回の展示の作品は見事なもので満足した。
(4)松本明鏡展(秋田西武百貨店)
松本明鏡氏(1945-)は平成の大仏師と呼ばれる。氏の展示会は11年前にも企画されその時も鑑賞した。その時会場で氏が語った「資材をじっと見ているとその中に鎮座されている仏様が見えてきます。私はそのお姿をノミで具現化しているだけです・・・」との言葉が忘れられない。深い信仰心を背景にしているのだろう。
私はパソコン上の原稿用紙をじっと眺めていても全く何も浮かんでこない。
今回も250点ほどの作品を見ることができ、満足できた。
8/21(日)曇りのち快晴
0:30起床、食欲若干戻る。家内用意したショートケーキ食べられた。臥床。7:00検食半分ほど、座学に。11:17バスに遅れ千秋公園からタクシー帰宅、NHKニュース、のど自慢、新聞チェックといつものパターンに近くなる。ダリア世話若干、16:00-19:00音楽関連録画視聴。19:00夕食通常通り、20:00就寝。歩行Σ6951歩。
COVID-19(2022)オミクロン株(19) ワクチン(4) 副反応 私の場合きつかった
私は一応医療従事者なのでワクチンは優先的に接種する機会が与えられている。ある程度の副反応は容認せざる問えない立場にある。
今まで4回接種した。回を重ねるごとに副反応がひどくなり、3、4回目は注射部位の局所痛と食欲不振、強度の倦怠感などできつかった。
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●1回目 2021年3月23日(水) ファイザー
注射部位疼痛軽度、翌日まで
●2回目 2021年4月13日(水) ファイザー
注射部位疼痛軽度、翌々日まで 頸部筋肉痛軽度、翌々日まで
●3回目 2022年2月9日(水) ファイザー
注射部位疼痛中等度、翌々日まで 頸部筋肉痛中等度、翌々日まで
強度全身倦怠感、翌日まで。食欲不振にて夕食摂らず帰宅後すぐに臥床。
翌朝は改善。
●4回目 2022年8月19日(金) モデルナ
注射部位疼痛にて腕挙上難 頸部筋肉痛、持続3日間
食欲不振強度にて当日夜摂取できず。強度全身倦怠感にて帰宅後そのまま臥床。
2日目は飯川病院日当直であったがなんとか出勤。
幸い患者は落ち着いており、終日臥床して過ごす。
この間、水分のみで食事一切摂らず。トイレ歩行も難。
翌々朝は改善。
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私の場合の副反応は発熱とか頭痛はないものの全身倦怠感が回を重ねるごとにひどくなっている。
3回目は全身倦怠感が強度であったが一晩で解消した。
4回目は全身倦怠感が前回と同様、強度で持続時間も長かった。接種が金曜日でよかった。翌日は飯川病院の日当直であったが、ほとんど臥床して過ごした。通常勤務ならかなり辛かっただろうと思う。
COVID-19ワクチン接種は今後もしばらく続くだろう。私は外来診療を通じて患者に接する機会があるし、基礎疾患を有する高齢者にも相当する。だから接種せざるを得ない。
次回の接種は何時になるかわからないが、5回目には何が起こるか楽しみである。
8/20(土)曇り時折降雨 飯川病院日当直 終日体調不良COVID-19のため
1:15起床、体調不良COVID-19のため、全身倦怠感強度文献他、本読み。8:30回診に行く家内に送られ旭川のコイに給餌後飯川病院。そのまま日直につくも体調不良でダウン、終日微睡、12:00、18:00検食摂取せず水分のみ。ずっと臥床、就寝。歩数計2560歩。
COVID-19(2022)オミクロン株(18) ワクチン(3) 安全性 / 副作用/ 後遺症
(1)ワクチンの副反応疑いーーー死亡例1780人
医療機関や製造販売業者からCOVID-19ワクチン接種後の死亡疑い例として報告は、1780人(7月10日時点)。
「ワクチンを接種後に死亡した」は「ワクチンが原因で死亡」ということではない。接種後に死亡例が出た時は、ワクチン接種との因果関係を調査することが大切。
日本において、現時点でワクチン接種との因果関係があると判断された死亡例はない。また、超過死亡(ある時点において全ての死因を含む死亡者数)も、ワクチン接種が原因で死亡が発生したという科学的根拠は確認されていない。
今回、私は詳細なデータを得ることはできなかったが、1800人近くも死亡しているのだから一定の傾向は出なかったのだろうか??
「ワクチンが原因で死亡」という判断が一例もなかったこと自体、私は信じ難い。
1800人の内訳はどうなっている?? 医療関係者が知れるようなデータがどこかに発表されているのだろうか??
「ワクチンが原因で死亡」の判断できなかったとしても死亡を早めたと思われる例は?? 病状への悪化因子となった例は? 接種が危険な年齢層は? 基礎疾患は? 消耗状態は?・・・などなどの貴重なデータは導き出せなかったのだろうか。
厚労省はワクチン接種を勧奨するために不都合なデータを隠蔽しているのではないか?現時点で疑問は解けない。
上記とは別に、7月25日、厚労省の疾病・障害認定審査会(感染症・予防接種審査分科会)は、急性心筋梗塞を発症した90代の女性の「死亡一時金と葬祭料」の請求を認めた。この制度は、厳密な医学的な因果関係を必要とせず、否定できない場合など幅広く認定の対象としている。
(2)副反応疑い報告事例
重篤な副反応疑い(7月10日時点) の報告は、医療機関からは7585件、製造販売業者からは2万3436件。一 部に重篤ではないケースも含まれる。
●ギラン・バレー症候群
ギラン・バレー症候群は、末梢神経に麻痺が生じる疾患である。製造販売業者から副反応疑いとして5月15日までに211件報告。統計学的にはワクチンを打っていない人との差が認められないが、専門家が「ワクチンとの因果関係が否定できない」とした事例が15件あった。
厚労省は、6月10日、「重要な基本的注意」として、同症候群を疑わせる症状が現れた場合はただちに医師に相談するよう説明を要する旨をファイザーとモデルナのワクチンの添付文書に記した。
●心膜炎/心膜炎
製造販売業者からの心筋炎と心膜炎の疑い報告は、それぞ れ801件と273件で若い男性が多いのが特徴。7月10日時点で、専門家によって123件が心筋炎、53件が心膜炎であったと評価されている。
厚労省は、ワクチン接種 のメリットの方が上回るとしているが、ファイザーとモデルナのワクチンの添付文書に「重大な副反応」と明記し注意を呼び掛けた。
国は被害を訴える声に向き合い、因果関係について実態調査に取り組む責任があるのではないか?
8/19(金)快晴 大曲中通病院 飯川病院ボランティア COVID-19ワク4回目接種
1:00起床、家内不在、夜半に帰って再度出勤したのか。映像データ処理。文献他、本読み。5:10可燃ゴミ提出。6:00家内帰宅、7:30Taxi駅東、8:11こまち、9:00大曲中通病院、駅病院間往復Taxi、暑さのため。書店訪問、15:00中通病院でCOVID-19ワク4回目接種、飯川病院ボランティア。19:30、夕食多少の不快感あるも完食、20:30就寝。歩数計9928歩。
COVID-19(2022)オミクロン株(17) ワクチン(2) 安全性 / 副作用
(1)インフルエンザワクチンの場合
最近まで、多くの高齢者が受けたワクチンは新型インフルエンザワクチンであろう。これは鶏卵を利用した製品であること、皮下への投与であること、COVID-19は化学的合成によって製造されるワクチンで筋肉内投与であるなどの違いがあって単純には比較できないが、秋口になると毎年話題になる、国民に全般的によく知られているワクチンである。
ワクチンは接種時、あるいはその後の副反応がある。古いデータであるが、2009年の新型インフルエンザに対する不活化ワクチン(1回接種のみ)の副反応の調査研究がある。それによると、発熱3.1%、倦怠感19.0%、頭痛14.1%と記載がある。
調査方法、母集団などのデータが不明なので詳細は論じられないが、新型インフルエンザ不活化ワクチンは広範に接種されていることから、COVID-19ワクチンとざっと比較するには良い対照材料となる。
(2)COVID-19ワクチンの場合
COVID-19ワクチンはわが国では2021年2月に接種が開始されている。接種後の副反応について、国内の解析結果を厚労省が発表している。
●初回接種(1,2回目)および3回目接種後の副反応について、国内の解析結果を厚労省が発表している。(新型コロナワクチンの副反応について|厚生労働省 (mhlw.go.jp)参照)
●当初の集計では全身倦怠感、頭痛、発熱等の全身症状は、1回目接種後は稀、2回目接種、3回目追加接種後は高頻度に認められる、という。
厚労省のより新しいデータによると、
●発熱、倦怠感、頭痛などの全身反応は、高齢者の方が若年者より頻度が少ないと報告。例えば、2回目接種後の37.5℃以上の発熱は、20歳代約50%、50歳代約30%、70歳代約10%であった。
●2回目接種後の全身倦怠感は、20歳代約80%に、70歳代約30%に認められている。
●接種部位の疼痛は1回目、2回目とも約90%に、接種部位の発赤や腫脹は、1回目、2回目ともに約10%に認められている。
●発熱、悪寒、倦怠感、頭痛などは2回目接種後の方が、そして若年者の方が、それぞれ発生頻度が高いと報告されている。
●副反応は接種の翌日に最も頻度が多く、1回目接種においては、接種部位の疼痛約65%、倦怠感、頭痛、筋肉痛約20%に、悪寒や発熱約7%と報告されている。
●2回目接種においては、接種部位の疼痛は約65%に、倦怠感、頭痛、筋肉痛が約40%に、悪寒や発熱が約20%となっている。65歳以上と65歳未満を比べると、65歳以上の方がいずれの副反応の発生頻度も低かった。
(3)インフルエンザワクチンとCOVID-19ワクチンの関する粗な比較
両者は基本的に性質が異なる製品なので直接比較はできない。ただ、接種後の副反応に限定してみれば粗いレベルの比較は可能である。
両者の比較を見ると数字上でもCOVID-19ワクチンの副反応の出現頻度が多いことが示されている。接種時の担当医として希望者に状況を確かめてから判断するが総じてCOVID-19接種時の副反応はインフルエンザに比して発症頻度、症状の強さも著しいと実感する。
8/18(木)夜半から終日降雨 飯川病院勤務
1:20起床。文献処理、読書。8:30家内に同乗して飯川病院で過ごす。午後勤務となる。入院患者対応、座学終日、家内救急患者対応で帰れず。19:30急遽タクシー帰宅、クレジットで支払い。20:00夕食、21:30就寝。歩数計4520歩。
COVID-19(2022)オミクロン株(16) ワクチン(1) ワクチンがあるから現状がある
私はワクチン実施時期が来ると接種担当係の一翼を担っている。
最近、ワクチンに対する信頼度が低下し、いつまでやるの? 効果は本当にあるの?? などの疑問の声が聞かれることが多くなってきた。確かに接種者の感染が報じられることも多く、接種の手続きが煩雑なことも関連しているが、医療関係者としてはワクチンがあっての現状であることを認識させなければならない。
●COVID-19ワクチンの意義
COVID-19ワクチンは、予防接種法で12歳未満の小児を除いた全国民に努力義務が課されている。個人の感染予防だけでなく、周囲に感染を広げないためにも接種が望まれる。ただ、最終的には個人の判断が優先される。また、接種していなことで何らかの差別を受けることがないよう配慮が必要。
なお、ワクチンによって安全が保証されるわけではない。接種者の一部は発症するし、発症しなくても無症状病原体保有者として身近な人に広げる可能性もある。重症化が予防効果、感染後の後遺症の発症予防効果は認められる。
だから、COVID-19はワクチン接種の有無に関わらず、マスク、換気、3密回避、手洗い等の基本的な感染対策は今後も必要。
●ワクチンの意義
ワクチンはこれまで多くの疾病の流行防止と死亡者の大幅な減少をもたらし、現在もたくさんの感染症の流行を抑制している。もし、ワクチンがなければ、特に小児、青年、高齢者の疾病構造は今と全く異なり、平均寿命は大幅に低下すると思われる。
ワクチンが普及した現在だからこそ、逆にワクチンの意義が過小評価される傾向がある。
COVID-19の感染拡大防止に、ワクチンの開発と普及が重要であることは論を待たない。
●ワクチンは治療薬ではなくあくまでも予防のために用いられる。
健常人や基礎疾患のある人に接種することから、安全性が必要。ワクチン導入の緊急性だけが優先され、安全性の確認がおろそかになってはならない。
わが国の予防接種に関する基本的な計画では、以下の如く定められている。
(1)ワクチンで予防できる疾患はワクチンで予防する。
(2)施策の推進にあたって科学的根拠にもとづき評価する。
●COVID-19ワクチンの推移
COVID-19ワクチンはわが国では2021年2月に始まり、2022年6月時点で2回接種完了者は全人口の80.7%を占め、先進国の中でも比較的高い接種率を達成している。 COVID-19感染防止に大きく貢献している。
しかし、2回接種しても数か月たつと発症予防効果が減衰するため、2021年12月から医療従事者に3回目接種が開始された。
2022年1月には免疫回避力の強いオミクロン株が流行する中、同年2月から18歳以上、3月から12歳以上にも3回目接種が奨められている。
6月末時点で3回目接種率は全年齢で61.8%、高齢者では 89.8%。12~19歳では 29.7%、20代44.9%、30代48.6%と若い世代の3回目接種はまだ十分ではない。
2022 年3月からは5~11歳への接種も始まったが2回接種は6月末時点で 15.7%と低い。
また6月からは60歳以上の高齢者とハイリスク者に4回目接種も開始された。
8/17(水)快晴暑い 午後飯川病院 COVID-19ワク担当
1:30起床。文献・読書。収穫、昨年早朝トイレが詰まった。解決せず。午前、ダリアが結構風雨の影響で枝折れがあった。まとめた。11:50バスにて飯川病院へ。検食、微睡、新聞チェック、書類等処理。14:00-15:30COVID-19ワク担当、コブシ連絡後入力終了したiMac21(2015)リバビリ病院に、明日大曲に。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計6790歩。
77回目の終戦記念日(3) こんな質問が来た(2)
(2)戦争終結について
なぜ日本人はあれだけ悲惨な状況でも敗戦を決断出来なかったのか?
陸海軍間の意思疎通がうまく行っていなかった。それと時の政府が互いにすくみあった状態であった。
発言力で言えば、開戦時は陸軍>海軍>政府。終戦間際では海軍>陸軍>政府。その中では政府が全体を俯瞰して最もまともな考えであったが、軍と政府では発言力に差がありすぎ、政府の意見が取り上げられなかった。
でも、戦争終結に向け最後に力を発揮したのは政治家であった。
天皇は御前会議で決断したとされるが、天皇には政治的決断を下す公的資格はなかった。
(3)なぜあんなに投降にこだわり続けたのか、
1941年に、当時の東條陸軍大臣が、軍人に軍規を徹底させるために示達した『戦陣訓』に「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節がある。これにより、日本軍の間で捕虜になることを拒否する思想が広まった。東條の言葉が後まで影響し、軍規に近くなった。
元々日本軍、特に陸軍は人命尊重の意識に乏しい集団で、陸軍兵士の8割ほどは補給が乏しく、戦闘に参加出来ない状況で疾病、栄養障害で死んだとされる。そういう姿勢だから、敵の捕虜を虐待した記録にも事欠かない。
軍の上層部は安全なところで空虚な戦略討論を繰り返していただけ。戦略的に見れば山本五十六を含めて傑出した人材に乏しかった。山本五十六は展望のひらけない戦局に責任を感じて自決したのではないかと思っている。
さらに、「生きて虜囚の辱めを受けず」は民間人の集団自決の一因となったといわれる。
(4)なぜ悲惨な原爆を経験していながら世界に発信出来ないのか。
当初は無差別殺戮の原爆投下、容共空襲はGHQに完全に抑えられ東京裁判では一切取り上げられなかった。
日本がサンフランシスコ条約を経て独立した頃にはあまりにも急速に経済が発展したために米国様様で糾弾できなかったこと。
広島・長崎でソ連の日本進出を抑制し得た事実があること。広島長崎がなければ日本は北海道を失っていた可能性があった。
その後の世界は冷戦状態が世界を覆っており、核武装の積極的意義が高まっていった。その中では被爆国の意見は主流になり難かった。
その後、核の意識が変化し、発展途上国の発言力も高まり、非核の意義が叫ばれるようになったが、既に日本はアメリカの核の傘に入っていたことから、政府は二枚舌的発言になることを恐れたこと。
―――――――――――――――――――――――――――――――-
「簡単ですが、私は上記のごとくに考えています」と返信した。
8/16(火) 降雨強風 中通病院外来 飯川病院ボランティア iMac21(2015)届く
1:30起床,論文読み、データ処理・整理他、5:30可燃ゴミ提出、6:40バスの予定であったが盆体制のために7:20となっていて諦め、出勤する家内に同乗、飯川病院、8:45-12:45中通病院外来、13:00飯川病院、COVID-19陽性職員複数発生。微睡、読書、文献読みほか。大曲用 iMac21(2015)届く、条件設定。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計8508歩。
77回目の終戦記念日(2) こんな質問が来た(1)
太平洋戦争について以下の如くの質問がメールで届いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――-
『8月15日は一応終戦の日という事で、YouTubeで大人の教養「第二次世界大戦」を3時間見ました。後に残った感想は、(1)なぜ日本は勝ち目の殆どない戦争に突入したのか、(2)なぜあれだけ悲惨な状況でも敗戦を決断出来なかったのか、(3)なぜあんなに投降にこだわり続けたのか、(4)なぜあれだけの悲惨な原爆を経験していながら世界に発信出来ないのか。
さまざまな事象における日本人気質に疑問が残りました。・・・・・・・
――――――――――――――――――――――――――-
これらについて意見をうかがいたい、という内容であった。
私が答えるのは荷が思いが、私が理解している範囲で、簡単に以下の内容で返事を送った。その後連絡なく返信に満足されたのか不明である。
(1)開戦回避について
開戦当時の日本の国力が米国にはるかに及ばないことは、戦争指導者たちもよく認識していた。国内総生産(GDP)の実質的な差は12倍程度とされていた。しかも、日本が必要とする石油や鉄といった戦略物資のほとんどを米国からの輸入に依存していた。
当時の、力を背景にした国土拡張策、中国への進出に対して米国の我が国に対する締め付け厳しさを増し、日本は窮地に陥りつつあった。政府は官僚、軍人、民間有識者らを集めて「総力戦研究所」を設け検討した。その結果、「敗北は避けられない。戦争は不可能」との結論に達し、近衛首相や東条陸相にも報告された。
にもかかわらず、戦争回避との判断に至らなかった。
識者の一部は強力に開戦を主張した。それもあって、必敗を知りつつ、開戦させたのは、ひとえに日本軍のメンツゆえであったと思われる。陸軍・海軍が姿を消したいま、そのメンツを大和魂だったと呼ぶのは、あまりにもむなしい。
組織の体裁を優先し、現実から目を背ける日本人のこうした体質は、いまの社会のゆがみにも相通じるものがある。COVID-19対策、東京五輪の強行を見てもそう感じる。
太平洋戦争・大東亜戦争突入の責任は陸海軍だけにあるのではない。世論が後押しした。開戦前年、月刊誌「文芸春秋」が読者アンケートで、米国との外交交渉について聞いたところ、「強硬に出る」が431票で6割を占めた。
大衆は集団の威を借りて強硬論を後押しする傾向がある。慎重論は次第に力を失っていった。ドイツでも国民の熱狂的指示でヒトラー政権が誕生し、悲劇が始まった。
東条首相ら指導者に、開戦回避のプラン、開戦後の講和プランが全くなかったわけではない。世論の過熱が政治決断を難しくした。
軍部とともに大衆を戦争へと導く一翼を担ったのが、当時の新聞。開戦を煽れば煽るほど発行部数が増えた。言論人の多くが戦争支持に回った。
ネットの発達などで、ポピュリズムが勢いづきやすい時代を迎えている。だからこそ、メディアは一歩引いて冷静な視点、客観的状況分析、感情に流されない情報を提供する役割を担って欲しい。
8/15(月) 曇り午後から降雨 健康クリニック 飯川病院日直 ポツダム宣言受諾日
2:00起床。文献・新聞、医学論文チェック、録音データ整理。8:00回診に行く家内に同乗、旭川の、千秋公園のコイに給餌。9:00-11:20健康クリニックドック12名、結果判定14名。11:30飯川病院。12:00検食読書、微睡、新聞切り抜きなど。13:00飯川病院盆休みのために午後日直。14:00旧知の同僚来院歓談。降雨の中19:20迎えあり帰宅当。18:00検食、19:30就寝。歩数計5423歩。
77回目の終戦記念日(1)
太平洋戦争終結から本日で77年。今年は開戦から81年に当たる。国内外の多くの犠牲者に哀悼の意を表し、平和の尊さを再確認し、反戦への誓いについて考えたい。
戦前・戦中生まれは全人口の7人に1人になった。戦争を経験した旧軍人は1万人を割り込んでいる。私もギリギリ戦中派に属す。だから戦争について学ばなければならないと思う。
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(1)私は太平洋戦争に関しては以下のように感じている。
■日本は1931年、中国東北部で軍事行動を起こし翌年には満州国建国を宣言し、日本の傀儡とした。力による現状変更を試みた。国際連盟が満州での中国の主権を認めると、連盟を脱退。その後、日中戦争、太平洋戦争と突き進んだ。
■8月15日はポツダム宣言受諾の日。正しい終戦日は降伏文書の調印式が行われた9月2日。
■日本は実質的には敗戦した。しかし、戦争は外交手段の一つで勝ち負けはない。あるのは降伏したという事実、残ったのは悲惨さだけであった。
■二度と戦争という過ちを繰り返さない、と平和の誓いを新たにした。素晴らしいことだが、それでも武力衝突は起こりうる。
■日本は過ちを犯した?複雑な国際関係の中で追い込まれ、止むに止まれず開戦に至った、と考える。開戦回避の方法はあったが生かせなかったことが悔やまれる。
■アジアの国々の人々も巻き込んで多大な犠牲を強いたが、列強の圧政からアジア諸国を救ったのも事実。
■最終的には米国の無差別爆弾や原爆の投下という国際法に反する非人道的行為を受けた。しかし、国際的にも国内でもまともに評価されていない。戦後政府の姿勢は良くなかった。
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(2)最近の国際情勢について
ロシアによるウクライナ侵攻が長期化し、終結の見通しが立たない。ロシアはNATO加盟を目指すウクライナの動きを阻止しようと軍事侵攻を開始。独立国への明白な侵略行為で容認できない。
中国は台湾周辺を含む東・南シナ海、沖縄県・尖閣諸島周辺で、不穏な動き起こしている。台湾問題は日本を含む先進G7が「一つの中国」の原則を認めている。先のペロシ米下院議長の訪台に対抗した大規模軍事演習では、日本の排他的経済水域(EEZ)に弾道ミサイルが数発着弾した。台湾有事が日本の安全保障に深刻な影響を及ぼす懸念がある。
時間はかかるだろうが血を流さずに解決してほしい。武力による解決は歴史上のしこりを残す。そういう意味では国際的監視は必要だ。台湾問題は難しい。
北朝鮮の動向にも警戒が必要だ。
日本の安全保障環境がかつてないほど緊迫の度を高めている。直面する危機の打開のため、地道に外交努力を続けることが日本には求められる。
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(3)日本国憲法は戦争放棄を掲げている
平和外交こそ日本の取るべき道であると再確認することは当然であるが、それが限界を迎えそうになったらどうするかも考えておくべきである。
政府、自民党は防衛費を大幅増額し、防衛力を強化することを目指している。「敵基地反撃能力」の保有検討も進める。有事の際、国民の命を守る手段は必要と思う。
日米同盟は抑止力になっているだろうが、どれだけ我が国が守られるのか、実際にはどうなるのか、よくわからない。
8/14(日)晴
1:45起床、文献チェック。本読み、録音データ整理他。8:30外仕事、草刈り20回目、家周辺北側、畑。北側ダリア周辺。野菜収穫。腐食した金属の回収廃棄準備。11:00暑くて終了、読書、微睡。NHK昼のニュース、のど自慢。微睡読書三昧。16:00書斎にて。録画、マーラーNo2、モーツアルトNo29、N響パガニーニVn協No1、チャイコNo5、Beeth No3など楽しむ。19:00夕食。20:30就寝。歩行Σ7369歩。
音楽談義2022(9)歌謡曲が好き(9) 歌謡曲、演歌の衰退で私は寂しい
歌謡曲、演歌業界には「大阪頼み」があるそうだ。大阪を題材にしたご当地ソングは売れるという。
確かに大阪を舞台にした演歌は多い。 「宗右衛門町」、「法善寺横丁」など魅力的な地名や地域にも事欠かない。題名に「道頓堀」がついた歌だけで200はあるそうだ。ぴんからトリオの「女のみち」は1972年の発売で300万枚超えのメガヒットとなった。将棋棋士・坂田三吉をうたった「王将」は高度成長期、急発展する首都・東京を追う大阪の応援歌でもあった。「東京ラプソディ」に対して「大阪ラプソディ」が作られヒットした。
演歌は庶民の心のよりどころであり、慰めであり、共感の歌であった。
朝鮮戦争による特需による経済復興、1972年(昭和27)に発効したサンフランシスコ平和条約で主権を取り戻したが、その後の日本の復興と成長はめざましかった。 昭和30年代~40年代のほぼ全期間を通じて、日本経済は右肩上がりの高度成長をつづけ、一気に繁栄のきわみに達した。
庶民の楽しみの中心であったラジオはステレオ装置となり居間や座敷に鎮座し、家族みんなで楽しんだ。
ところが、日本が輝ける時代への入り口に立ったこの時期、歌謡曲は総じて清新さと活力に欠けるようになった。専属制の作曲家、作詞家、アレンジャーによって生み出されてきた歌謡曲の世界に、停滞と衰退の兆候が見えはじめた。型にはまった詩と曲、ヒット曲のスタイルを踏襲することで満足する歌づくり、 そんなふうにして量産される歌。 そこに新しさなど生まれるはずもない。
ところが1980年代になると、「泥臭い」、「グジュグジュ・メソメソ」調の歌謡曲を嫌う若者たちが台頭し、能ある若者は自分で作曲し自分で歌うシンガーソングライターとして、いわゆる「メッセジソング」を発表し世に問うようになった。
「君は一人じゃない」とか、「元気をあげる」とか、「勇気を出せよとか」、「オンリーワンだよ」、という湿りけのないカラッとした前向き志向の歌である。演歌と異なり、そこに偽善が見え見えであるが、だから良いのであろう。
私としてはとても寂しい時代となった。「グジュグジュ・メソメソ」調の歌謡曲を好む私は口ずさむ曲がなくなった。曲が複雑化し煩くなった。かつて大晦日の「紅白歌合戦」は私にとっても大きなイベントで小学校の頃から殆ど欠かさず見ていた。TVの時代になり、大勢の少年少女が舞台を埋める人海戦術、過剰演出、面白くもない歌の数々、放送時間の拡大・・・、ついに2005年頃に耐え難くなり、私は紅白と完全に決別した。これはしかし、発想の転換が出来ない私側に原因があるのだろう。
音曲の楽しみ方の変化も大きい。ウオークマン、iPodを利用してヘッドフォンで一人一人が個別に楽しむ時代になった。
それでも、私は未練断ち切れず最新の歌謡曲にも準積極的ながらアプローチし、何かいい曲はないか??と毎日井戸を掘りつづけている。
8/13(土)曇り小雨のち午後晴れ 飯川病院は盆休み一日目 北秋に降雨被害
2:30起床、文献チェック等、本読み等。午前は座学、午前は自炊ほかのデータ整理。午後微睡、15:30草刈り19回目、家周辺北側、畑。結構暑い。17:00書斎で音楽録画楽しむ、バーンスタイン、マーラーNo2復活。19:00夕食、20:30就寝。歩数計7735歩。
音楽談義2022(9)歌謡曲が好き(9) 歌謡曲の主旋律を生かす前奏、伴奏が素晴らしい
歌謡曲とは、「歌詩・曲・歌い手」の三つをセットとし、ヒットをねらって売り出される商業的歌曲のこと。そのうちの主役は何と言っても歌い手、すなわち歌手であるが、重要度から言えば歌詩・曲を含めて優劣は決められない。
ただ歌手の場合は、最終的表現者として個性と歌唱力等がその音曲そのものの価値を決める別格の立場にある。歌謡曲、演歌の場合は歌手と音曲は切っても切れない二卵性双生児の関係にある。
余談であるが、著明な歌手のヒット曲をカバーして若手が歌うと違和感が拭えない。モノマネに徹すれば良いのであるがプロはそれができない。だから個性を発揮しようとする。そうすると歌のイメージが激変する。多くはオリジナルを超えることはできない。それだけ歌手とか曲は一体の関係にある。
その点ヒットしなかった曲、忘れ去られた曲がカバーされることによってその音曲に新しい命を吹き込まれる場合がある。その良い例が1922年(大正11年)の二村定一が歌った流行歌「君恋し」。1961年(昭和36年)フランク永井のカバーにて命を吹き込まれレコード大賞まで受けている。二村定一が歌った流行歌「君恋し」はほとんど忘れ去られていたからこの現象が起きた。
しかし、私が歌手と同様に注目するのは編曲者(アレンジャー)の存在である。日本のポピュラー音楽におけるアレンジとは、作曲家の旋律に前奏や伴奏をつけ楽曲を豊かにする作業を指す。主旋律は住宅で言えば骨格であり、アレンジャーの仕事は外装、造園にあたる。
日本のポピュラー音楽におけるとても重要で固有の職業であるが、アレンジャーの名前がCDなどのライナーノートなどを含め外に出る事は滅多になく、影の脇役、立役者ともいえる。
歌曲は編曲によって多種多様に変化する。編曲によって完成度が高まると言っていい。アレンジャーは音楽そのものの作曲技法、シンセサイザー等の高度な知識、録音機器等の知識も必要なため、音楽理論にとどまらず音楽制作全般に関する知識と技術を要求され、経験を重ねた演奏家や作曲家が担当している。楽曲によってはストリングス、ブラス、コーラスを専門的に担当するアレンジャーもいる。また、クラシック畑のアレンジャーもいる。導入部がブルックナーの交響曲を思わせる作品もある。松島アキラの歌う湖愁にそれを思う。
アレンジャーは作曲家、レコード会社、音楽出版社、芸能プロダクション等の依頼、指示を受けて編曲をする。勿論、自分でアレンジまでする作曲家もいる。冨田勲氏がそうであった。
8/12 (金)降雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 秋田県北部に降雨被害
1:45起床,文献・新聞チェックその他。5:30項羽の合間を縫って一般ゴミ提出、7:35Taxi駅東。8:11こまち。大曲市内は雨と足低痛のために往復Taxi。8:55大曲中通病院外来。帰路の新幹線は乗客少ない、長崎屋古書店訪問、7冊ほど購入、16:00飯川病院ボランティア。新聞チェック、電子化。19:30帰宅夕食、20:30就寝。歩数7705歩。
音楽談義2022(8)歌謡曲が好き(8) 歌謡曲の歌詞は感傷に満ちている
歌謡曲とは、「歌詩・曲・歌い手」の三つをセットとし、ヒットをねらって売り出される商業的歌曲のことである。当初は流行歌と言われていたが、昭和7年にNHKによって歌謡曲と命名された。その後、数々の作品が歌われてきた。
演歌は1960年代半ばに歌謡曲から大衆芸能として人気となったジャンルで、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な曲である。当初は「艶歌や「怨歌」の字も当てられていたが、1970年代初頭「演歌」が定着した。
男女間の悲しい情愛を歌ったものが主たるテーマであるが、他に母物・家族、人生、股旅物・任侠・望郷物などがある。いずれも私の心の中に染みてくる。
私は人生経験は決して豊かとはいえない。だから、仮想体験として小説や演歌を楽しんできた。
かなえられぬ恋に身を焼いたり、失恋を悔やんだり、 大抵は悲恋のドラマが歌われている。中には、男や女の深い心情を歌い上げるしっとり物もあるが、中身は単なる強がりだったりする。
ご当地ソングといわれる曲も良い。各地の風景や盛り場などを背景に作られた歌謡曲からは見知らぬ地方の魅力を知れるが、男女の切ないドラマが織り込まれている。
私は人前で歌う、歌われるのは共に好きではないからカラオケは行く事はないがNHK「のど自慢」で歌われる歌謡曲を視聴するのは私にとって至福のひときである。
歌謡曲は、歌い手も聴き手もそんな「あり」もしないドラマを想像力をかき立てて想起し、その感傷を自分の心にのせて楽しむのである。
歌謡曲にある、人妻との恋に人知れずもだえ悩む仮想恋愛は、この歳になっても私を元気づける。
進歩的文化人の間で日本的な流行歌や演歌は「下品だ」、「くだらん」と否定され続けていた。立場はちょっと弱いが、「不況になれば演歌が流行る」という単純な図式もある。これが大衆文化であり、大衆の心情でもある。
演歌は、「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを歯を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」である(五木寛之)、と言っている。五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の歌謡曲のジャンル分けのどれとも異なる新しい枠組みであった。私もそう思う。
小説の場合は読了するのに何日もかかるが、歌謡曲はそれを3分間で完結させる。見事な芸術である。
私はここ3ヶ月ほど、クラシックの分野では特にブルックナーの交響曲3番から9番を集中して聴いている。いずれも60-90分を要する素晴らしい大作であるが、歌謡曲を決してこれに劣らない。両者を味わえる感性が備わっている私は幸せ者である。
8/11 (木)夜半から午前降雨、午後晴時折降雨暑い
23:00飯川病院で起床,夜半から午前降雨激しい。秋田県濁部では被害も出ているらしい。徒然ほかこなす。早朝涼風ありむしろ寒い。立秋も過ぎたが私は秋の訪れが怖い。12:00回診に来た家内に同乗、帰宅。畑で収穫作業のみ。微睡、16:00書斎にて音楽関連録画確認。バーンスタイン、ベームの復刻画像。テーレマンVPOのブルックナーNo4。Mac mini(2014)にソフト入れ替え。19:30夕食、20:45就寝。歩行Σ4974歩。
大谷快挙(2) 大谷にとっては通過点に過ぎない
大谷の10勝目を挙げ、シーズン「2桁勝利、2桁本塁打」は1918年のベーブ・ルース以来104年ぶりの快挙だという。
しかし、実際には近代野球はルースの時代とは比較にならないほど変化している。ルースの記録は古過ぎて「ダブル2桁」を比較する意義を見いだし難い。
その理由は以下。
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(1)2桁本塁打の価値
104年前と違い過ぎる。2018年のルースは11本で本塁打王となった。2桁本塁打を打った選手はわずか2人だけだった。
だが今シーズンの大リーグは2桁本塁打は100人が達成している。
この差は何なんだろう。
バットかボールか、はたまた選手の打撃技術の進化か?肉体の鍛え方の差なのだろうか。確かに写真を見るとルースの体型はそれほどの機能美はない。
(2)2桁勝利への評価
大谷は初の10勝によって投打の「2桁」を達成したが、現在の大リーグは投手の個人記録としての「勝利」への評価は低い。先発投手以外の因子で勝敗が決まることが多いからである。
先発としていかに責任を果たしたか、イニングあたりに出した走者数、被本塁打数などが評価を決める。
―――――――――――――――――――――――――――――
先発投手の勝利数は、いろいろな因子が反映した結果であり、勝利数単独の数値は評価されにくい。一昔前は完投することが評価されたが、現代では投球数約100球で降板するのが通常となった。
先発として素晴らしい投球で勝利投手としての権利を得て退いたとしても、打線が低迷したり、後続の投手陣が撃たれて逆転を許すと勝ち投手にはなれない。大谷の場合はこれで失った場合が何度かあった。
ただ、大谷の2桁勝利は、チーム打率が低迷し、弱体リリーフ陣を背景に得た記録だけに、特別である。
大谷は先発投手として勝利を呼び込むダントツのパフォーマンス、打者としての抜群の能力が評価を得ている。だから、「2桁勝利、2桁本塁打」は特別価値があるのだ。
要するに、「野球の神様」として今でも崇められているルースと比較して大騒ぎされているが、比較にそれほどの意味がなく、ルースと優劣を論じることはできない。
あえて比較すれば・・・、結論は自ずから明らかであろう。
大谷が別のチームなら・・・、二刀流の機会が潰されるかもしれない。二刀流であることは選手たちの機会を奪うことにもつながるから、納得と理解のあるチームでなければ力を発揮できない。シーズン途中での移籍しなくてよかったと思う。
8/10(水)降雨続く午後快晴 午後飯川病院+当直 COVID-19ワクチン接種担当
1:30起床,画像データ整理、文献・新聞ほかこなす。9:20ダリアの世話、10:30受診の石井さんを迎えに行く車に同乗飯川病院、12:30:飯川病院ボランティア。14:00勤務、COVID-19ワクチン接種担当、微睡。17:00当直に就く。18:30検食、20:30就寝。歩行Σ5763歩。大谷ベーブルースの記録に並ぶ。
大谷快挙(1) 最高の一日
私は野球にはちょっぴりだけ興味がある。最近の関心は大リーグが中心である。
高校野球、2018夏の甲子園を席巻した金足農業高校が準優勝した時にも驚いた。決勝は見れなかったが、準決勝の2点スクイズでさよなら勝ちの試合の終盤を見ていて感激した。金農は秋田市の北にある県立の高校で全員が近隣の子供たち。私が診ている患者の親戚の子が2名いて、彼らは興奮し通し診療にならなかった。地域全体が盛り上がっていた。
それ以前の関心は、昭和43年夏の盛岡一高の活躍、昭和44年夏の三沢高校の準優勝くらいであった。
それ以前も以後も新聞で結果を見る程度の関心であるが、年2回の甲子園の優勝校は目まぐるしく変わり記憶にも残り難い。
国内のプロ野球はチーム名はわかるがセパの区別もわからず、まして監督や選手名など一切わからない。
大リーグに関心があるといえども選手個人の活躍に関してのみ。それも、野茂、イチロー、松井・・・程度、ほかはほとんど知らなかった。
最近は、大谷、菊池雄星、ダルビッシュ。
何しろ大谷 菊池雄星は岩手が生んだヒーローである。自然と関心が湧く。盛岡の程近く花巻東高校出身である。ダルは仙台育英高校出身と東北関連。新聞のスポーツ欄の下段にある大リーグ日本人選手の活躍は心待ちして読む。その中では大谷の活躍は目が離せない。
7月23日は土曜日で休日。1918年のベーブ・ルース以来の「2桁勝利&2桁本塁打」記録がかかっている試合。歴史的瞬間を観れるのではないかと9:00-11;30大リーグの実況中継の試合を初めてそっくり見た。
対ブレーブス、6回まで1安打とほぼ完璧な投球だった。ほとんど記録を手中に収めたかに思われたが、打線の援護がなく7回に崩れ負け投手となった。その後、7月29日のレンジャーズ戦、8月4日のアスレチックス戦と3連敗し記録達成はならなかった。
で、迎えた本日、打線の援護と自らの25号アーチでチームは5得点、ついに勝利した。さらに5奪三振で、日米通算1000奪三振を達成した。
彼の偉業は日米だけでなく国際的なニュースとなったらしい。岩手日報は号外を発行した。
大谷は試合後「しっかり投げていればいつかは達成できる、と考えていた」と喜びを語った。彼は偉大な記録を次々と打ち立てたがその度のインタビューの言葉は、あまりにも謙虚で淡々していた。日本人らしい、東北人らしい、謙虚さと思った。
今日は大谷のニュースでいっぱい。私にとってもとても気分の良い最良の日だった。
8/9(火)早朝曇り午後篠突く雨 長崎原爆投下77年 中通病院外来 飯川病院ボランティア
2:00起床,文献・新聞ほかこなす。5:30家庭ゴミ集積所。花壇の対応散水、立秋も過ぎ、早朝涼風あり快適・・というより私は秋の息吹に恐怖感を覚える。6:40バス飯川病院。8:45-13:00中通病院内科外来。13:20飯川病院、疲弊する。14:00微睡1時間、読書ほか、19:20帰宅夕食。20:30就寝、歩数9351歩。恒例の墓参り、鎮魂・家族親睦小旅行今年もなし。
被爆投下77年目の夏(4) 核廃絶に希望の一歩も刻まれた年
広島は8月6日、長崎は8月9日、被曝77年を迎えた。
2045年末までの推計死者は広島約14万人、長崎約7.4万人。
長崎の記念式典は本日しめやかに行われた。両市の式典に非人道的な無差別殺戮を行ったアメリカに対する非難の雰囲気は見られず、慰霊の式典を淡々と重ねているだけのように私には見える。日本人はもっと怒るべきである。これでは死者の霊は浮かばれまい。
生存する被爆者の高齢化が進み、被爆の悲惨さや実態を肉声で伝えられる時間は限られる。
核兵器の保有や使用を禁止する核兵器禁止条約が1月に発効してから最初の原爆の日。米国の「核の傘」に頼っている事情はあろうが、唯一の戦争被爆国である日本が条約を批准しないのはどうなのだろうか。この辺の政府の見解も明らかにされているとは言えない。
1954年4月1日に広島平和記念公園が完成した。日本の文化はなんでも問題点を曖昧にしたまま収めてしまう。なんで国際法に違反する無差別大量殺戮兵器が使用された公園に「平和記念」と名がつくのか?もっと直接アメリカの暴挙を糾弾する名称をつけるべきだった。たとえば「原爆による無差別殺戮を忘れないための公園」などが良い。「Remember Pearl Harbor」は日本を非難する言葉として使われる。トランプも用いた。ならば「広島・長崎を忘れるな」と言いたい。
1945年(昭和20)東京裁判(極東国際軍事裁判)で日本の戦争指導者を裁いたが、戦勝国が敗戦国を捌くといった国際法的に違法な裁判であった。この時も無差別殺戮、原爆投下は審議の対象から外された。
原爆投下、終戦間際の東京空襲などの無差別殺戮はアメリカにとっては戦争戦術上はもはや不要であったが、巨大な開発費をかけたために兵器として残しておけなかったという国内事情と対ソ戦略で使わざるを得なかった。すなわち兵器として残しておけなかったのだ。
日本は兵器のゴミ処理場と化した。広島、長崎の被曝犠牲者は実にお気の毒である。終戦工作をいたずらに引き伸ばした軍部にも責任がある。
1952年(昭和27)4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復したが、その前もそれ以降も、無差別殺戮、原爆投下に関して米国の非人道性、違法性を国際社会に訴え続けなかった。北方領土、兵士のシベリア抑留も同様。この点については日本の責任は大きい。これを死者にどう説明するのか。
核廃絶運動が実効性を持たないという背景には、平和や秩序を守るルールや枠組みが作り難いという現実がある。その主たる原因は、大国の拒否権専横でなにも前に進まない国連安全保障理事会にある。
一方、今年は核廃絶に関して希望の一歩も歴史に刻まれた。核兵器禁止条約の締約国会議がウィーンで初めて開かれた。核禁条約が規範の新しい支柱になる一方、冷戦以降のルールを支えてきたのが核不拡散条約。この二つは核廃絶をめざす両輪である。
だが核禁条約の初会合に、日本政府の姿はなかった。今月は核不拡散条約の再検討会議がニューヨークで開かれている。こちらには岸田首相が日本の首相として初めて出席し、演説した。「被爆の実相の正確な認識を世界に広げる」と約束したのは前向きな一歩である。「核は過ち」というメッセージを国際社会に力強く語りつづけるべきだ。
核禁条約の会議には日本から多くの若者が参加した。国家間の壁を飛び越え、世界に共感と連帯を広げる規範の造りの新たな担い手たちとして期待したい。
8/8(月)早朝曇りのち晴れ、暑い 健康クリニックドック 飯川病院
1:00起床。文献チェック他。エッセイ読み、データ整理。6:40バス飯川病院、9:00-11:30健康クリニック。12人、結果判定14名、11:45飯川病院に。読書、データ整理。微睡。14:00-19:30勤務。本読。撒水。許可得て外出、千秋公園コイに給餌。バス長崎や、古書店店舗受け取りと別に4冊購入。19:10店舗に迎えてもらい帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計積算9530歩。
被爆投下77年目の夏(3) 国際法は国連機能不全でほぼ形骸化
国際法は存在する。しかしながら、とても脆弱である。とても法と言えるものではない。
各独立国では国内法は充実してきている。
日本の国内法と国際法を比較してみれば以下のような差異があり、国際法の問題が浮き彫りになる。
―――――――――――――――――――――――――――――――
●立法機関がない
国際社会には各国の議会に相当するような立法機関がない。そのため、すべての国家を拘束する強い法になりえず、理念的慣習的の形態でしか存在し得ない。
●裁判機関ががない
国際社会には裁判機関がない。現在では国際連合の主要な司法機関として国際司法裁判所が設けられている。今回のロシアの戦争犯罪を論じる際にも時折話題になっている。しかし、当事国間の合意がなければ裁判できないことになっている。その結果、国際法に違反を持つような紛争でも、裁判所の判断に服するとは限らない。果てしない水掛け論が繰り返されたり、結論まで至らずに審議が終了する可能性もある。
●法の執行機関がない
国際社会には法の執行機関がない。国家の場合には、警察などがあって犯罪を防止し秩序を維持するから裁判所の判決も実効的に執行できる。国際社会には、統一的な権力的機関は存在せず、国際法違反を実効的に監視・執行する制度がない。
侵略戦争に対して国連が防止措置や強制措置をとる制度はあるが、その実効性は保証がない。
―――――――――――――――――――――――――――――――
国際法には、このような脆弱性がある。だから、法にそぐわないレベルの機能しかないとの見方がある。
一方、国際社会に国際法という社会規範が存在することも事実。しかし、基本的原理の確認であり実効性は乏しい。
19世紀以降、国際的の商品取引、資本輸出が増大し、交通・通信手段も発達するにつれて、国際法の必要性は増している。通商航海条約をはじめ、領事関係、犯罪人引渡し、郵便、電信、鉄道、著作権、工業所有権などを規制する無数の条約が締結され、国際法の内容を豊富にしてきた。これらの中では国際法は一部機能している、と言えるようである。
国家間の対立関係に関しては、第一次世界大戦以前は、戦争そのものを実行する国家の行為については、まったく放任し、法的規制の対象としなかった。いわば戦争は、国家の大義を認めさせる最後の手段とされてきた。しかし、第一次世界大戦後は、このような戦争の地位を否定し、侵略戦争すなわち攻撃戦争を違法化する一般的な条約が結ばれてきた。国際連盟規約、不戦条約、国際連合憲章はその代表的な例である。
今日では侵略戦争の違法性は、世界のすべての国によって法的に確信されている・・・と、今年の2月までは思われていた。
しかしながら、これらの約束はかつてのソ連の時代、それと本年ロシアによって見事に破られた。
ソ連は日ソ中立条約があるにもかかわらず1945年(昭和20年)8月8日に対日宣戦布告を行い漁夫の利を得た。これにも日本は戦後沈黙し、犯罪性を問うことなく有耶無耶にした。
今回のロシアのウクライナ侵攻は国連の常任理事国であり、核保有国であるロシアが、他国の領土の一体性や政治的独立を脅す武力の行使を禁じた国連憲章や国際法を無視し、大規模な武力行使によって現状変更を試た。ロシアは核兵器など大量破壊兵器の使用もちらつかせている。さらに、ロシア軍は民間人を標的とする非人道的な攻撃をあからさまに行っている。
ロシアは批判を受けているだけで、どこからも軍事的実効的抑制を受けていない。プーチン批判は何ら実効を果たしていない。
国際法はこの程度の力しかない。
日本の大学にも国際法専門学者が大勢いるが、ほとんど沈黙している。何故なのか?
8/7(日)曇り降雨午前から晴れ 秋が始まる日立秋
1:30起床。読書、徒然、音楽関連データ整理。特に歌謡曲に集中。徒然など。ダリア写真撮影散水後、診断書記載の家内に同乗飯川病院、散水、データ入力ほか。Book Offのソフト不調、入れ替えなど。改善なし。千秋公演コイに餌。15:00バス帰宅予定も時間見間違った。Taxi千秋公園前から天徳寺まで。DIY店にて草刈り用ブレード購入。微睡以上の熟睡18:30まで。19:00夕食、のど自慢宮古市見る。20:30就寝。歩数計8214歩。
被爆投下77年目の夏(2) 揺らぐ「核のタブー」、そのルーツは東京裁判に立ち戻る
広島、長崎の惨禍を経て、戦後世界が堅持してきた得体の知れない規範がある。
「核兵器を使うことは本質的な過ち」とする、モラルによる不文律である。越えてはならぬ一線として共有されてきた。しかし、この規範が今大きく揺らいでいる。そんな評価が今なされている。
ただ考えてみるとそんな規範、誰がどんな根拠を持って作ったのか??国連が関与しているのだろうとは思うが、実効性はあるのか??私は不勉強にして知らない。
「なんとなく形作られてきた??」、規範どころかイメージ的レベルの規範でしかなかったか。私はそう思う。核兵器を用いてはならないと明確に示した条文はあるのだろうか。多分ないだろう。国連では中露の反対にあい条文化できないだろう。
それでも、今までは、このイメージ的規範が世界を覆っていた。そんなレベルだったから、核には抑止力ががあるもの、との漫然とした期待されていた。その規範を真っ向から否定したのはプーチンであった。
私は、今問題になっているロシアのウクライナ侵攻、非戦闘員の殺戮、核兵器使用の脅しは、東京裁判を有耶無耶にして処理した日本の態度にも辿り着くと思う。
東京裁判(極東国際軍事裁判)は、1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた。戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという報復的なあり得ない裁判であった。A級「平和に対する罪」で25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
おかしなことに、日本国政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約によりこの判決を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示した。
独立のための政治判断だったと思うが、ここで歴史的過ちの中に日本が大きく加担した、と私は思う。
裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は一切取り上げられず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及もなかった。
こうした欠陥の多さから、東京裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者も多い。
サンフランシスコ平和条約は、1951年9月8日調印、1952年4月28日発効したが、これにより連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復した。
日本は、東京裁判の判決を受け入れたが、そこに政治的判断が行われた。
しかしながら、連合国側は原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など最悪の国際法違反を繰り返した。
だから、日本は裁判とは別に連合国軍の行為の問題点を明らかにすべき立場は残しておくべきだった。
岸田首相首相や閣僚はEUやバイデンと同調していることを背景に外交を盛んに進めている。その際、各国に対し「ロシアのウクライナ侵攻は明らかに国際法違反であり・・・」と述べているが説得力を欠く。
確かに、東京裁判の時代は国際法はまだ十分なものではなかった。
今はどうなのか?今でも実効力を伴わない骨抜き法でないのか?それを前面に出して主張して何になる?
8/6(土)快晴暑い 広島原爆投下77年 竿灯最終日
2:00起床,読書、入浴、専門書など座学、8;00広島原爆投下77年平和記念式典みる。9:00甲子園開会式一部みる。10:00外仕事、ダリア周辺の草刈り18回目、散水、ダリアの世話など。暑さにて継続は無理休息。午後微睡後畑収穫など。散水他、読書など。17:00書斎にて音楽関連録画視聴。ザクラダファミリアでのウイーンフィル、ブルックナーNo4ほか堪能。新作楽曲も良かった。19:00夕食、20:30就寝。10545歩、意外に動いたものだ。
被爆投下77年目の夏(1) 核兵器への考え方が変わってきた
被爆投下77年目の今回はこの日を前回と様相が異なった状況で迎えた。
私はここ数年広島/長崎の平和記念式典中継をラジオで聴いている。業務で聞けない時には録音する。従来まではややマンネリ化した式典と考えていたが、今年は新しい気持ちで聴いた。
広島平和公園にある記念碑(原爆死没者慰霊碑)は昭和27年(1952)8月6日設立された。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と主語のない言葉が刻まれている。誰の過ちなのか??まさか被爆者が主語ではなかろう。日本の軍部か??投下したアメリカなのか??アメリカなら、トルーマンなら納得できるが、はっきりしない不思議な碑である。
それとは別に、核兵器のあまりの破壊力に現実の兵器としては使用し難いことから、全世界の多くの人たちが「過ちは繰り返すことはないだろう」、と漫然とした期待感を持ってきたが、ロシアが、プーチンが核の使用も辞さないと脅しに使い、今年2月に現実にウクライナを侵略している。
核兵器使用の現実味が深まって迎えた被爆77年の夏である。
「核兵器の危険が冷戦最盛期のレベルに高まっている」。平和記念式典に来日した国連の事務総長はそう警告する。
たとえ核兵器を使用しないにしても独立国に対し力で侵略することは許し難いことである。ただ許し難い、というのはあくまでも理念だけのレベルであることが今回のウクライナ侵攻によって示された。国際法違反と騒いでも、誰もプーチンを、ロシアを捌けない。国連ですら捌けない。
主義主張は異なっても、たとえロシアと友好関係にあって政治経済的に利害関係があるとしても、一国の主権を力で犯すロシアの暴挙に対して明確に反対しない国々があるのは驚きである。そのような国はロシアの行為をを容認するだけでなく、期が熟せば自らもそのような方法をとる可能性を示しているようなものだ。こんな国は信用できない。
77年前に刻まれた広島・長崎の教訓を忘れられたわけではなかろう。ロシアの暴挙後に各非保有国で核保持の論議を始めている国もある。
核の唯一の被爆国である日本でさえ米国の核兵器を共に使う「核共有」が一部で語られている。
核軍縮の国際合意に背くばかりか、核リスクをむしろ高めかねない、懸念すべき状況である。
8/5(金) 晴れ暑い 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 竿灯三日目
1:05起床,文献・新聞チェックその他。5:30一般ゴミまとめだけ、7:40Taxi駅東。8:11こまち。大曲市内は暑さ足低痛のために往復Taxi。8:55大曲中通病院外来、混雑なし。帰路の新幹線は乗客混雑、書店訪問、15:20飯川病院ボランティア。散水など。新聞チェック、電子化。19:30帰宅、車はスムーズに、夕食、20:30就寝。歩数7910歩。
音楽談義2022(7)歌謡曲が好き(7) 繁栄の時代の歌謡曲界 ひばりvs千代子
日本が戦後の窮乏、混乱期から本格的な復興期に入ったのは、昭和20年代中盤である。その大きなきっかけは、昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争である。戦争特需で日本経済は息を吹き返した。
その後の日本の復興と成長はめざましかった。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和31年前後から、 昭和30年代~40年代のほぼ全期間を通じて、日本経済は右肩上がりの高度成長をつづけ、一気に繁栄のきわみに達した。
この時期の歌謡界を考えるときに、不世出と思われる美空ひばりの存在を挙げなくてはならない。
美空ひばりは昭和12年(1937) 横浜生まれ。8歳で初舞台、12歳で「河童ブギウギ」でレコード・デビュー。次作「悲しき口笛」では素晴らしい歌を聞かせる。その後、「東京キッド」、「リンゴ追分」、「お祭りマンボ」、 「港町十三番地」などのヒットで、昭和三十年代には押しも押されもせぬ歌謡界の大スターになった。
私は鉱石ラジオで、次いでトランジスタラジオでひばりの歌はよく聴いていて好きであったが、TV時代となってから評価が一変した。あまりにも堂々とした仕草、周囲を睥睨する不遜そうな表情は、若く気の小さな私には理解をこえていた。その後、ひばりには少し距離を置いたが、ちょっと遅れてきた島倉千代子の方が身近な温かさが感じられた。
ひばりの楽曲はその後も広く聴いてきたが、私も中年になってひばりしか出せない世界に納得できるようになった。「柔」、「悲しい酒」、 「川の流れのように」等の抒情豊かな表現を心から味わった。ひばりはどの曲もこれ以上の表現はないと思わせる完璧な歌唱で、誰よりもうまく歌いこなした。
ひばりは昭和が終する前後に亡くなったが「昭和の大スター」の名に値する名歌手であった。歌謡曲の世界を語るときにひばりの存在を抜きには語れない。
歌謡曲は、「歌詩・曲・歌い手」の三つを一セットとし、ヒットをねらって売り出される商業的歌曲のこと。
だから歌謡曲の世界では歌手の持つ個性が重要である。だから、各作品ごとに特徴と価値がある。優劣を評価しあってもしょうがない。ひばりと千代子は共に素晴らしかった、と思う。
一方、他の歌手によって歌われた、私の好きな曲はたくさんある。私は歌謡曲が好きである。
8/4(木)晴れ暑い 午前レセプト処理 午後飯川病院 竿灯二日目
1:00飯川病院で起床、新聞データ化と整理。画像データ処理。午前は昨夜忘れたレセプト処理、このまま暑くて病院で座学。15:00入院患者対応、読書。家内は弥高会館での講演会に出席。18:00千秋公園コイに給餌、18:32バス帰宅、19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計積算6090歩。
音楽談義2022(6)歌謡曲が好き(6) 戦後の窮乏時代を支えた歌謡曲
1945年(昭和20)、東京大空襲、沖縄戦、2発の原爆という国際法違反の無差別殺戮などの悲劇的出来事を経て、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し戦闘を停止した。この日が終戦ということになっているがそれは正しくない。
8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸し、2日後には占領地である日本の最高権力者となったD・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った。
9月2日に米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われ、マッカーサーが終戦を宣言した。降伏文書が調印され、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。だから、この日が終戦日ということになる。
並木路子が歌った「リンゴのうた」は日本の戦後のヒット曲第1号となった。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。
私は昭和27年頃鉱石ラジオを作ってもらい、以降ラジオの虫となった。その中で最も楽しめたのは落語と歌謡曲であった。
当時、ヒットした歌謡曲の寿命は今より遥かに長かった。「リンゴのうた」は終戦間も無く発表になったが、その頃も頻回に放送されていた。
私は2008年以来、NHKで放送された歌謡曲は録音し、ライブラリーとして蓄積してある。多分、1.5000曲は溜め込んでいると思う。
その中から、昭和20年代にヒットした曲、私の記憶にある曲を抜き出し分類してみると以下の如くである。
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(1)昭和20年代 焼け跡・復興の街に頻回に流れた歌
●リンゴの歌 ●長崎の鐘 ●長崎のザボン売り ●帰り船 ●君待てども ●東京花売り娘 ●東京ブギブギ●星の流れに ●異国の丘 ●モンテンルパの夜はふけて ●東京キッド ●東京シュウシャインボーイ ●テネシーワルツ ●お富さん ●東京の屋根の下・・・・・
(2)昭和20年代 男性歌手のヒット作
●夢淡き東京 ●憧れのハワイ航路 ●上海帰りのリル ●ハバロスフク小唄 ●ダンスパーティの夜 ●伊豆の佐太郎 ●町のサンドイッチマン ●若者よ恋をしろ
(3)昭和20年代 女性歌手のヒット作
●愛のスイング ●港の見える公園 ●かりそめの恋 ●東京の門 ●赤い靴のタンゴ ●連絡船の歌 ●ドミノ ●愛のスイング ●三味線ブギウギ ●お祭りマンボ ●君忘れじのブルース ●情熱のルンバ ●星屑のタンゴ ●静かな夜のビギン ●水色のワルツ ●東京ワルツ
(4)昭和20年代 デュエット作
●しらとりの歌 ●トンコ節 ●黒いパイプ ●誰か夢なり ●サムサンデイモーニング ●夢で逢いましょう ●火の鳥 ●頬寄せて ●モダン金色夜叉 ●さいざんすマンボ ●花の命は ●貴方と共に
(5)昭和20年代モダン歌謡集
●愛のスイング ●待ちましょう ●巴里の夜 ●銀座カンカン娘 ●ユトリロのうた ●午前2時のブルース ●東京の門 ●夜の囁き ●陽気なバイヨン娘 ●そよかぜのビギン
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昭和20年代といえば私は小学校3年であった。もちろん、童謡や唱歌にも親しんでいたが、よくまあこんな大人の曲を聴いていたものだ、と思う。
8/3(水)午前降雨午後晴れ 午後飯川病院+当直 COVID-19予防注射担当外来 竿灯初日
1:30起床,昨晩よりは寝苦しからず。読書、録音のデータ整理中心。読書データ整理、10:50バス、2丁目橋で降車、川反入り口前から長崎屋バスターミナルへ、古書店2冊購入。バス12:45飯川病院、14:00-15:30 COVID-19ワクチン接種担当、外来入院患者対応。17:00当直業務、18:00検食。20:30就眠。歩数計積算8457歩。
音楽談義2022(5)歌謡曲が好き(5) 戦時下の芸術家、その作品を批判出来ない
日本人は軍歌を介して文化的に、感情的に洗脳された。それほど音楽の持つ力は大きい。歌は直接聞き手の情緒に訴えるのでその影響力は計り知れない。戦時音楽には影響力があったが、罪があるとまでは言えない。
軍歌の多くは名曲である。
名曲だから名曲なのか、聴くものの心を深く打つ厳しい時代だったから、国民の心の深くまで浸透したから名曲になったのか、私は判断できない。当時の若者は人は勇躍、戦地へと赴いたが、その際、身近に勇壮な音楽があった。
軍歌は人を煽り、洗脳する効果があった。軍歌は、いい歌であればあるほど、名曲であればあるほど影響力は大きい。
戦後、音楽界で「戦犯論争」が起こった、とされるが関係者が処罰されたりすることはなかった。
同じことは絵画の世界でもあった。
画界の中で「戦争協力者」として突出して非難を浴びたのは藤田嗣治画伯である。氏は「秋田の行事」で秋田県民には広く親しまれている画家であり、私も好きな画家の一人である。
氏は太平洋戦争に突入した時点で陸軍美術協会理事長に就任し、軍部の依頼で戦争画の製作を手掛けた。戦地を訪問し『ノモンハン事件』や『アッツ島玉砕』などの作品を描いた。戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、数多い戦争画の中でも傑出していると思う。
戦後、氏は画界で「戦争協力者」批判された。最も強く批判したのは同業者たちであった。彼はその状況に嫌気が差し、日本を去った。
著名な作品を残した音楽家、画家が戦後批判にさられたのはその時代を顧みるにあたって通るべき道の一つである。しかし、彼ら芸術家はその時代に住み、優れた才能、技術を国家に提供し、そこで最良と思われる作品を作り上げた。これは芸術家としてあるべき最良の姿で自然の姿である。戦闘の現場にいて戦った戦闘員と立場に大きな差はない。
結果的に聴くもの、歌うもの、鑑賞するものに大きな感銘を与え、戦意を高揚したとしても振り返って罪に問うべきものではない。
異なった時代、異なった年代の者が戦時下での判断を軽々に批判してはならない。批判するなら自らをその時代に同化できるほど、その時代を十分に学び、掘り下げた後でなくてはならない。私はそう思う。
ただ、日本を戦争に導いた軍部、政治家、識者達の責任はもとより、世界の同様の立場にあった人々の足跡は検証し尽くさねばならない。
8/2(火)曇り時折降雨 28℃ 外来 飯川病院ボランティア
2:00起床,寝苦しい、汗びっしょり、腓返りあり。いつもの如く。5:00可燃ゴミ廃棄。散水。6:40バス飯川病院、若干濡れる。8:45-12:00外来、予約患者10名程度と少ない。12:15飯川病院、19:00までボランティア。19:15帰宅、夕食。20:30就眠。歩数計11012歩。竿灯明日から。
音楽談義2022(4)歌謡曲が好き(4) 歌には洗脳作用もある
明治維新は見事な無血革命であった。その背景には列強からの脅威があった。
そのため明治政府の政策は最初から富国強兵にあった。あらゆることがこの方針のもとに進められた。
結果として日清、日露戦争では、・・・本当は綱渡りではあったが、目覚ましい成果を挙げ、国際的にも日本の存在が認められることとなった。実際にはこれ以降、日本の行き方に暗雲が覆う様になる。
迎えた昭和中期は戦争の時代である。
満州事変は、中国軍が相手とはいえ、実質的には張学良の中国東北軍との限定戦争で、短期間で満州全土を制圧した。 しかし、日中戦争 (昭和12年7月) は中国国民党に加えて、精強な中国共産党軍も相手にしなければならない。
そんな事態に、国民の戦意高揚が必要と見てとった政府は、開戦1月後の8月に、「歌の統制」に乗り出し、退廃的な歌を事実上禁止した。翌9月には、政府の肝いりで 「威厳と力のある国民歌」を公募した。 入選歌が 「愛国行進曲」(昭和12年12月)で、レコードは100万枚売れた、と言う。 当時それほど蓄音機が普及していたのか??信じ難いことである。
一方、日中戦争開始早々の昭和12年9月に出たのが、「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは・・・」の「露営の歌」で、この曲は日中・太平洋戦争期を通じて最も歌われたという。 他に「出征兵士を送る歌」、「暁に祈る」もある。
他の国にも軍歌はあるが、それは兵士が歌うものであった。
しかし、日本の軍歌は、戦闘をうたって士気を高めるだけのものではない。むしろ、天皇のために挙国一致で戦っているということを強調した国民歌の様相である。 「御稜威」、「皇国」などの表現から、天皇が確固たる中心となっていることがわかる。
当時の日本人にとって、天皇はすべての価値の源泉であり、日本人としての美意識であり、心の拠り所だった。
天皇のために進んで死地に赴くことをうたい、靖国神社で会おうという形が軍歌の一つのパターンとして美しく完結する。明治以来の天皇制国家日本がつくり出した美意識であった。
おりしも、昭和15年(1940)は、神武天皇即位から2600年目にあたるとされ、さまざまな奉祝式典が開催された。音楽界でも、新作の楽曲を発表する奉祝芸能祭や、ドイツのR・シュトラウスら一流作曲家に委嘱した曲の演奏会などが開催された。 その天皇と国家のあり方を象徴する歌が 「紀元二千六百年」であった。
歴代の為政者は日本を強大にしてゆくために、天皇を崇め、軍国主義を進めることが最もふさわしい、と判断してきた。
日本人は軍歌を介して文化的に、洗脳されてしまった。それほど音楽の持つ力は大きい、と認めざるを得ない。
8/1(月)朝に小雨のち快晴32℃ 健康クリニックドック 飯川病院
1:30起床,書斎暑くて汗びっしょり。文献チェック他。エッセイ読み、6:40バス飯川病院、9:00-11:30健康クリニック。12人、結果判定14名、11:45飯川病院に。読書、データ整理。微睡。14:00-19:30勤務。本読。撒水。19:45帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計積算8290歩。
音楽談義2022(3)歌謡曲が好き(3) 初の歌謡曲は「カチューシャの唄」
歌謡曲とは、「歌詩・曲・歌い手」の三つを一セットとし、ヒットをねらって売り出される商業的歌曲のこと、と定義される。当初は流行歌と言われていたが昭和7年にNHKによって歌謡曲と命名されたという。
その第一号は1914年(大正3年)松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」とされている。詩は島村抱月・相馬御風、作曲は中山晋平。
この歌が生まれる前、1897年(明治30年)頃、滝廉太郎は「花」、 「箱根八里」 、「荒城の月」などの素晴らしい歌曲を発表した。愛唱歌というべきほど親しみやすい作品であるが、これらはもちろん「歌謡曲」とは言えない。歌う人を限定していないからである。
「カチューシャの唄」は公演を見た人からの口コミに端を発し、次いで新聞各紙が各地での「流行」を伝え、レコードが発売され、当時としては大ヒット、松井は大スターのはしりでもあった。
昭和初期は自由を求める革新思想の時代にはいるが、庶民の楽しみは「浅草オペラ」の流行に象徴される「エロ・グロ・ナンセンス」隆盛の時代を迎える。当時、風俗店は全国で3万店もあったとされる。爆発的隆盛であった。
しかし、南京事件勃発、5.15事件もあって政局は不安定となって当局の取り締まりが厳しくなった。
この時代、私は生まれていないが、「出船の港」、「波浮の港」、「東京行進曲」、「東京音頭」、「影を慕いて」、「酒は涙か溜息か」 、「丘を越えて」、「二人は若い」、「東京ラプソディー」などがあり、SPレコードの復刻版、再録音盤で楽しむことが出来る。ラジオ深夜便でも時折取り上げられる。
昭和の中期は戦争の時代である。
ここでは何でもあり、多彩であった歌謡曲は発売禁止などとなり、軍歌調の歌で占められるようになる。国民精神を高揚させる目的があった。「国境の町」、「人生の並木道」、「九段の母」、「満洲行進曲、「肉弾三勇士の歌」などであるが、私は軍歌は勇壮すぎて好きになれないので自分で口ずさむことはない。
例外的に、私が身近に感じるのは行進曲「軍艦」、いわゆる「軍艦マーチ」である。明治の終わり頃に作られていたが、戦前盛んに演奏され、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。海軍省の制定行進曲であった。
私が卒業した岩手県立盛岡第一高等学校の校歌は、行進曲「軍艦」の旋律に別の歌詞をつけたものである。1968年(昭和43年)の第50回全国高校野球選手権大会では甲子園球場で校歌が流れたが、一瞬球場がフリーズしたが如くに静まり返った。半信半疑、何かの間違い??と全国の誰しも思ったに違いない。その時私は23歳、その時の様子は新潟大学の学生寮のTVで見たが、その後は残念ながら勝利校の校歌として流される機会はまだない。
この項を記載するにあたって盛岡一高の応援風景をYouTubeで見た。バンカラスタイルの応援団はかつてとは変わっていない。ちょっと涙腺が緩んだ。