徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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4/30(金)晴天 医師会打ち合わせ,脳卒中症例登録関連打ち合わせ、療養病棟診療部会議 療養病棟発足一周年記念会
2:00起床、その他。ドック総括x1, 紹介状返事等.秋田医報校正作業、5:30久々バイクで病院に。事務処理、回診、9:00ドック説明、10:30-13:30外来新患補助、混雑。13:30ドック説明。14:30ドック診察x5。15;30県医師会に、16:00県の脳卒中症例登録関連打ち合わせ、17:00療養病棟診療部会議、18:30療養病棟発足一周年記念会 「大昌苑」。21:30Taxi帰宅、自宅は誰もおらずネコのみ。21:30就眠.

療養病棟発足間もなく一年(4)部長の総括、キーワードはスタッフへの感謝
●病棟にデイルームを設置したのみのスタート、スタッフにとって全てが始めての経験であったが、徐々に改善もされ、大きな事故もなくほぼ順調に推移した。
●患者・家族の満足度も高い、と評価出来る。
●療養病棟の改装、新方式による処方箋の発行、温度板・看護記録の改良など、運営上での合理的な考え方が実行に移されたことも大きい。
●年間を通じての予算は達成し得た。
●ジェネリック(後発)品の薬剤の使用に関しても問題は生じていない。
●当初作成した机上レベルの入棟基準は殆ど役に立っておらず、亜急性期の患者まで入棟対象としてきたが、これは当院に求められる独自の姿であり、他の選択肢は無い。
●当初予定された介護福祉士等の導入は患者層の面から当面困難である。
●当院の療養病棟は県内同規模病院内に設置された療養病棟に比較して利用率は高く、在院日数は短い。
●在宅への復帰率も高く、老健施設への入所率、老人病院への転院も比較的スムーズである。MSW等のコ・メディカルとの連携の結果である。
●当院の療養病棟では積極的にリハビリを行ている。PT/OTの配置の結果であるが、各メンバーの努力にも
●当院の療養病棟は一般病床の在院日数の短縮化、活性化に十分に寄与しており、
経営上でも一定に寄与したと判断出来る。
●当院の療養病棟は全経過に責任を持つという当院の診療姿勢にも合致した機能を果たしている。
●疾患としてのターミナル期の患者のみならず、人生のターミナル期の患者にも比較的良い療養環境を提供出来た。殆どが静かな死を迎えている。
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●当院の療養病棟の2年目の課題も少なくないが、部長・師長を始め全スタッフで対応していく。
●療養病棟における医師、看護師が仕事上で十分なアイデンティティを持てるような運用方針、意義付けをする必要がある。
●当院のマンパワーの厳しい時期には当然影響を受けるが業務上の工夫等を行いつつ乗り切る。
●療養病棟としての一定の機能は果たすためには明和会グループの機能を有機的に統合する方向が求められる。
●療養病棟として一定の機能を果たしてきたが、医療制度上の改変に併せて、経営上の視点も含めて亜急性期病棟等に様変わりする場合もある。
●・・・・
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●診療を担当した部長の立場からは、正直言って大変な一年でありました。当面はこれで行きます。他の選択肢は無いのです。


4/29(木)みどりの日休日 快晴、病棟拘束
2:00起床。ドック総括処理x1等。医報文章校正。Vn練習等、オーディオ改修、次男と庭でボレー練習など。13:00病院着、回診等業務種々処理。18:30帰宅。七輪焼肉店(ハイカラ屋)にて夕食。21:30就眠.

療養病棟発足間もなく一年(3)。当院療養病棟のスタッフは大変
 療養病棟には在宅ケアが困難な高齢者の方、リハビリテーション目的の方々が中心に入院してくる。
 療養病棟は法的にいろいろな制限があって、特に検査や治療上での制限は大きく、やれる範囲はとても狭い。実際にはやってはいけない事は一つもないのだが、保険診療での給付は一把一絡げで低額で定額(これをマルメと称している)だから、治療を深くすると保険給付の範囲を簡単に越えてしまう。給付の範囲を越すと言うことはその分医療機関側で支払うという事と同義である。
 
 一般病棟でこれほどの制限があったらとても医療として成り立たたず、救命出来る方も助けられない事態が頻発するであろう。否、それ以上に医療機関として存続が出来なくなるだろう。しかしながら、日本の医療は現在その方向に確実に向かいつつある。

 療養型病棟の最大のメリットは医療機関の在院日数の算定の対象外と言うこと。すなわち、患者さんは一般病棟よりもよりゆっくりと療養や医療、リハビリテーション等に専念出来ると言うこと。
 当院の療養病棟に入棟される患者さん・家族に予め納得いただかなくてはならないことは、内服薬の一部の銘柄が変わること、主治医が交代すること、具合が悪くなった場合には元の病棟に戻ることもあり得ること、概ね2-3ヶ月で退院していただくこと・・・などがある。

 本来なら上記の条件があるから、病態的に安定した方々だけが入棟の対象になる。現に余所の病院では病状の不安定な患者さんは引き受けない。だが、われわれの療養病棟では本人達の納得さえ得られれば、病態がより不安定な患者さんも引き受けている。この一年間、入棟申込者は200名をゆうに超えたが、適応外としてお断りしたのは僅か10名ほどのみである。
 だから、私も含めて医師、看護師達、療養病棟のスタッフ達は実に大変である。私のことはそんなに考慮していただかなくて良い。24時間頑張ってくれる看護師達の苦労を思えば、私はとても病棟方面に足を向けては寝られないし、寝たこともない。・・・実は家の構造がそうなっているからであるが、このことはずっと内緒にしてある。


4/28(水)雨のち晴れ 家内ICU当直  郡市医師会長協議会+懇親会
2:00起床。いつもの業務ほか医報用文書校正。5:25病院着,回診その他。「すこやかさん」用作文着手,9:00-14:30午前外来連休前ということで後半混雑.患者にも医療関係者にも地獄に近い日々。入院患者諸処置、院内業務,16:30-18:30郡市医師会長協議会。18:30-19:50懇親会。20:20帰宅、21:00就眠。

療養病棟発足間もなく一年(2)。治療オーダー簿は連日チェックし患者を覚える
 療養病棟には在宅ケアが困難な高齢者の方、リハビリテーション目的の方々が中心に入院してくる。全介助状態で、私と言葉を交わすことも出来ない方から整形外科術後状態でリハビリテーションの仕上げのために1-2週間の予定で入棟されて来る元気の良い方、まで様々である。

 退院に関しては、自宅に帰られる方、ほかの病院、施設に移る方、より濃厚な治療が必要になって一般病棟に再度移って行く方、死去される方々・・・と行き先は様々であり、入退棟数も相当になる。そのうちの大部分を私が受け持っているからカルテを見ても患者さんの顔が浮かんでこないこともある。その一つの理由に回診が早朝なのでその時にまだ眠っている方が多く、ベットサイドで言葉を交わすことが少ない、と言うこともある。そのために師長に依頼してカルテには顔写真を添付してもらっている。

 治療や処置の指示は主治医の仕事であり、これがまた大変な作業である。筆記用具、印鑑を片手に各人のオーダー簿に必要項目を記入し捺印する。ここ数日の経過、朝の回診時の患者さんの様子、定期処方箋の内容などを思い出しながら、点滴、抗生剤投与、経鼻・胃瘻からの栄養剤の量、水分量・・・をチェックしていく。

 数日分まとめてチェック出来ないわけではないが、看護師からチェック漏れを厳しく指摘されるし、患者さんの顔、病状を把握するにはやはり毎朝のチェックが必要な様である。 回診、オーダー簿チェック、カルテ記載、書類記載、併診依頼状の記載・・・これらが私の月曜から土曜日までの毎朝の日課で、6:30-8:45の時間をこれに充てている。


4/27(火)雨 県医師会打合せ 医局カンファ「栄養障害と脳所見」
2:30起床、3.5時間か、さすがに眠い。ドック総括処理x1その他。
5:20Taxi病院.回診、定期処方発行等。9:00-14:00外来他。大型連休前で混雑。途中で入院患者さん死亡。15:00-15:50県医師会に17:30-18:20医局カンファ、後半は眠ってしまった。20:30帰宅、21:00就眠。

療養病棟発足間もなく一年(1)。火曜朝は40枚もの定期処方を発行、いい気分
 療養病棟には在宅ケアが困難な高齢者の方、リハビリテーション目的の方々が中心に入院してくる。看護・介護の手間は、勿論、質的に異なるから簡単には比較出来ないが、一般病棟の看護・介護よりも遙かに大変な様にも見える。病棟の看護師、補助者達はよくやっていると頭が下がる。
 一方、医療面ではより安定している患者が中心だから医師は手がかからないと考えられている様である。確かにその傾向はあるだろうが一人で40人近くも受け持つとそんなことはない。殆ど連日、発熱、嘔吐、脱水、転倒・・・と急な変化が生じるし、気管切開の部の管理、尿道カテ交換、経管栄養チューブ交換等、担当としては結構大変である。

 その中でも大変なのは薬品の処方である。
 定期処方として週一回火曜日にほぼ全員分の処方箋を書かねばならぬほか、臨時の処方箋も連日10枚程度は発行する。これが旧来の一般病棟の方法を踏襲していた時期にはカルテへの転記等を含め気が狂いそうな作業であったが、発足間もなく中間的作業をばっさり省略する合理的な方法を導入してからはとても楽になった。
 
 火曜日の朝は定期処方日である。6:30前からファックスの前に陣取り、一週間の治療方針を勘案しながら処方内容を記載、薬局にファックスする。病棟のファックス機器は旧式なので時間がかかる。院内のファックス通信が混み合う通常時間帯にこれほどの枚数を処理するにはコピーして薬局に届ける方が遙かに早い。しかし、この朝の時間帯は機器もカルテも独占出来るし、機器の反応が適当に遅いからその間に治療方針を考える時間もあって丁度好い。

 一時間+α程度で何とか作業を終了するが、最期の一枚を送った瞬間、実にいい気分に浸る。週間の治療方針の作成も兼ねるから単なる手作業ではない。どっと肩の荷が下りる。後は患者の安全、安定、快方に向かうことを願うだけである。

 火曜日の早朝、私だけのいい気分・・の時間である。


4/26(月)曇→晴れ 管理会議 長副会議 M製薬講演
2:20起床。ドック総括x1等。
5:20病院.回診等。8:00管理会議,9:00-14:00外来他。15:00病棟対応、16:30-17:50長副会議18:30-19:50M製薬講演「MRと医師の良い関係」、終了後夕食いただきながら懇談、22:30帰宅、23:00就眠。

坪井前日本医師会長、表情も柔和に
 昨日の日曜日、夕方から仙台勝山館にて前期限りで引退された坪井前日本医師会長、星前日本医師会常任理事、東北医連の関係の宮城、福島、山形の各医師会長の慰労会が催され出席した。
 上席に並んだ上記の元各役員は現役・・と言うより前回お目にかかった一ヶ月ほど前の表情と一変して表情がおしなべて柔和になっている。一番顕著であったのは坪井氏であった。如何に日本医師会長のポストの責任が重いかが推し量られるという感じである。

 坪井氏の挨拶では今回の日医会長選挙の顛末、新体制による日医の方向転換などに対する厳しい意見が聞かれるかと注目したが、何ら踏み込んだ話はなく、支持していただいた医連に対する感謝と今後の身の振り方について簡単に言及したのみで、肩すかしを喰らった感じであった。星氏、3人の前県医師会長の挨拶も同様。僅かこの一ヶ月間と言う短い間のの変化であるが、実際は心からホッとしておられるのであろうし、この様な挨拶をなされたのも一つの見識かも知れない。

 私は坪井氏の日医の運営、3人の前県医師会長の東北医連での考え方、ご意見には必ずしも同調出来なかった部分も少なくなかったが、今は果たしてきた足跡に対して心から労をねぎらいたいと思っている。星前常任理事は40代の気鋭であり今後の活動に注目したい。4名の方々は何れも70歳を優に超えた方々である。今後のご健康、自適の生活をされるようを望みたい。

 組織を離れるととても表情がよくなることは私どもの病院から独立して開業された中堅どころの医師にもおしなべて共通してみられる現象である。それだけヒトにとって組織というのは光と影とを伴っているものだろう、と改めて感じてしまう。
 私も生きていれば、何れは、と言うより間もなく、その時期が来る。その時の私の表情は一体どうなるのであろうか?・・・楽しみである。


4/25(日)秋田・仙台共快晴→降雨降雪 FF tennis(中止)病棟拘束 東北医連坪井前医師会長慰労会  
2:00リハビリ当直室起床。外は降雪、湿った大きな雪。ドタドタと降る。ドック総括処理x2等.ホームページ原稿等。ラジオでは秋田自動車道雪のために一部通行止めという。8;30-11:30病院、事務処理,回診等。14;00こまち、仙台に。17;00-19:00勝山館にて坪井前日本医師会長、東北医連関連役員の退任された方々の慰労会。おのおのかつての顔のきつい表情が穏和に。19:30こまち、途中田沢湖付近でまた降雪。22:30帰宅、23:00就眠。花見の時期は概して寒いが、降雪とはこれまた時季外れ。

自伝 大学時代 (1965〜71)(39)
なるようになるさ、と考えて気が楽になった
 そのうち、彼女との間はなるようになれば良い、と思ったことでとても気が楽になった。専門課程4年の秋の頃である。
 私が漫然とイメージしていた好みの女性とは異なっている点も決して少なくもないが、予想していたよりもデリケートだが、いい人だし何も今決めることはない。奨学金の関係で彼女は卒後数年間は秋田に行くと言うし、私は岩手県医療局との話し合いの結果2年間は三陸の宮古病院に赴任する予定になっている。だから、まだ時間はたっぷりあるし、最終的にもし将来一緒になることになっても十分やって行けそうし・・・などと考えたような気がする。
 郷里では母親が私の将来の結婚相手として何人かの候補を持っているらしいと言うことは多少は気がかりではあった。
 卒業試験も無事クリアし、私は卒業式には出るつもりはなかったから3月上旬にクラスメートとは別行動になったが、最後の集まりが終了したとき実習グループのみんなからは二人に対して祝福の言葉をもらった。このまま順調に行ってもまだまだ遠い先のことだし、実感は全くなかったがうれしく気恥ずかしかった。

 後日談:ずっと私は欠席し続けていたが、ここ数回は大学のクラス会に一緒に出席している。二次会になると元の悪友どもから、何で二人一緒になったのか、何でうまく続いているのか??コツは何だ・・・などと聞いてくる。それほどみんなから見ても奇異な組み合わせだったのか??30数年になろうとしているが、未だに小さな話題を提供しているのが面白い。


4/24(土)雨→晴 秋田だるまの会40周年記念大会 病棟拘束 リハビリ当直
2:00起床。2;30家内帰宅。ドック総括x1等.だるまの会挨拶等検討。5:10病院着、事務処理、回診等。10:30千秋会館。秋田県だるまの会創立40周年記念大会へ院長代理出席、挨拶。秋田脳研安井所長の講演は夢うつつに聴いた。12:00祝賀会、13:00中座、予定の高血圧講演キャンセルし残務処理。16:40当直でリハビリに、講演画像処理。20:30就眠。

患者は医師の言葉より友人・知人等の意見を受け入れる 
 本日、秋田県だるまの会創立40周年記念大会へ院長代理として出席した。だるまの会とは脳卒中に罹患した患者の自主的組織である。私は会の名前は時折耳にはしていたが詳細を知っていたわけでなく、前日に30周年記念誌を取り寄せ挨拶の準備をした。記念誌を読んだこと、本日の記念式典は脳卒中の患者会を知るために良い機会であった。懇親会では患者同士実に和気藹々、お元気そのもので診察室での姿とはまったく別人の如くである。
 
 患者会の意義は、患者同士の対話や触れあい、励ましが機会となって、病のショックから立ち直り、新しく生きる意欲を見い出す役割を果たしていること、が一番大きいと思う。「同病相憐れむ」と昔から言われているが、そんな消極的なものではない。積極的な効果、意義の方が遙かに大きい。たしかに、組織がなければただただ相哀れむだけなのかも知れない。この、患者に生きる力を与えることは医師と患者との関係、医療・福祉面からだけでは何とも出来ない領域である。
医師も単に口で患者を慰め、治療薬を与えるだけでなくこの様な会を積極的に紹介する必要がある。

 医師と患者の良い関係は、病気の診断治療に必須であることは論を待たないが、患者は医師よりも友人とかマスコミ、特にTVの影響を良くも悪くもより大きく受ける。これは何故なのか・・。

 昨日、外来診察室の机上に上部消化管内視鏡の申込書が置いてあった。患者は数日前に胃透視の予約をしたその人である。患者からのメモもある。「友達から勧められましたので思い切って受けることにしました。お手数をおかけして申し訳ありません・・」とある。具合の悪かった患者に胃の内視鏡診断を受けるように勧めたのだが、過去の辛かった経験を楯にガンとして聞き入れず、やむなく胃透視の予約したばかりであった。この方は10数年来私の担当する外来に通院している方で、毎年胃の検査だけは近所の診療所で受けている。

 これは、友人という同じ土俵に立つもの同士の共感のなせるワザであろう。患者も気持ちの上で余裕を持ってじっくり話し合い、考えたのであろう。これも医師患者関係という立場では踏み込むことの出来ない領域である。勿論常に良い方向にだけこの効果が発揮されるわけではない。私は日常患者の気持ちにより近づく様に心がけているが、医師と患者という関係で対応しする限り、決して同じ土俵に上がる事は出来ないのだ・・と思う。

 今日は患者会に出席し、挨拶、講演を聴きながらこんな事を徒然と考えていた。


4/23(金)雨  医師会打ち合わせ  法人理事会 
2:00起床、ほぼ同時に家内帰宅。ドック総括処理x1等.5:15Taxi病院着.事務処理・回診等。10:30-13;00外来、13:30ドック診察x4。15:00医師会打ち合わせ。17:30-19:30法人理事会+α。20:30帰宅、21:00就眠。

秋田県だるまの会(脳卒中の患者会)の40周年記念式典挨拶 
 秋田県だるまの会とは脳卒中後遺症に苦しむ人たちの会で、患者さん自らの力で会を運営し、励まし合い、助け合い、明るい生活を築こうと集まった会である。4/24はこの会の設立40周年記念式典が予定され、所用で出席出来ない院長に代わって挨拶することになった。以下がその予稿

 中通総合病院副院長の福田です。本日は「秋田だるまの会」の40周年記念とのこと、このようなお目出度い席にお招き頂き、誠に光栄に存じます。
 本来であれば院長が出席して祝辞を述べるところでありますが、所用にて出席出来ませんので、甚だ恐縮でございますが、私から一言ご挨拶申し上げます。
  昨日、30周年記念誌を読み返し「だるまの会」の歩みを振り返ってみました。会の設立は昭和39年とのこと、この年は東京オリンピックが開催された年であり、私にとっては高校を卒業した思い出の年にあたります。
 一口に40年の歴史がある、と言葉にして言うは簡単ですが、大なり小なりの障害を抱えた、ご高齢の患者さん方の自主的運営によって今日まで脈々と受け継がれてきたこと、更に、この会が秋田県のみならず、東北地方やわが国の医療や福祉の改善に多大な影響を与えてきた足跡に接し、改めて大きな感銘を受けました。

 この会がこれほど長く続いてきた背景は、矢張り、患者さん同士、人間同士の対話や触れあい、励ましを通じて、病のショックから立ち直り、新しく生き甲斐を見つけて人生を歩んでいく切っ掛けとなる、という大きな役割を果たしているから、だと思います。このことはどんなに医療が発達しても、医師と患者との関係、医療面、福祉面からだけでは何とも出来ない領域であり、極めて貴重な、大きな意義があるものと思っております。
 この、何者にも代えることの出来ない、患者自身の、患者自身のためのこの会の、今後の発展を願って止みません。

 私は現在、毎週200人ほどの外来患者に対し、脳卒中を始めとする生活習慣病の予防を中心とした診療をしております。療養病棟に於いては、在宅ケアが困難な患者、約40名ほどのの診療を担当しております。また、県の社会福祉審議会の委員として各種身体障害の認定もしております。
 「だるまの会」や皆様方と直接接する機会は多くはないと思いますが、この様な日常の診療等を通じて、間接的ながら皆様方のお役に立ちたいと思っております。
 「だるまの会」の今後の一層のご発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます。


4/22(木)雨、 鶴岡共立病院副院長一行来院  医師国家試験発表日・祝賀会
療養病棟診療部会(延期)
2:00起床。ドック総括処理x1等.かなりの雨、5:15車で病院着.事務処理・回診等。9:00-14:00午前外来、14:00医師国家試験発表、6/7合格。16:30-17:30鶴岡共立病院副院長一行来院、派遣医師関連の打合せと懇談、中座して18:00-20:45大昌苑にて祝賀会。21:30Taxi帰宅、22:00就眠。終日多忙・・・であった.

私は自己満足男(2)  医師としての「喜びの因子」
 医師としての喜びは、第一が「学び、知る喜び」、第二は「診療に当たる喜び」、第三は「患者の喜びを感じる喜び」とまとめることが出来るのではないかな、と思う。

 第一の「学び、知る喜び」とは、医師だけでなくあまねく万人に与えられた喜びである。私には毎日の診療が毎日新に学ぶ刺激をもたらしてくれる。創造主はその無限の豊富な創作欲によって 宇宙自然の万物を作ったのかも知れないが、私にはそんな資質なんて微塵もあるはずはない。しかし、毎日のように、学ぶ刺激があって、しかも、学べる環境があること、これは何物にも変えがたい喜びである。資料も探せば手に入る。医療、医学の世界、深く魅力的。神秘にも満ちている。しかも、その学びが次に生かされ、患者自身及び病態が理解出来たとき、更に患者に喜ばれたとき、 喜びは絶対無比であり、日常のストレスなんか忘れてしまう。

 第二の喜びは「診療に当たる者の喜び」である。医師として、患者の相談に対応する、診察する、治療する・・は、われわれ医師にのみ与えられた特別の資格である。医師法という法律でわれわれは実際には雁字搦めである。しかも、その医師法の基礎となった法律は刑法である。われわれ医師は医師免許証がないと業務上の殆どは刑法によって処罰の対象になる行為である。要するに、患者にリスクを与える業務である。勿論、この場合の医師免許とは紙切れを指すのではなく、能力を伴った免許のこと。実に恐れ多い職業である。だからこそ医師の資質として求められるのもはとてつもなく大きいが、それだけに喜びも大きいのだ。

 第三の喜び、すなわち「患者の喜びを感じる喜び」こそ、最も医師としての喜びの大きな因子であり、公平に医療の価値、医師としての自分の価値を決定するものだ。医療、医師の価値を最もよく知り、 最後の審判を与えるものは誰でもない。日常、受診に来ていただいている患者その人である。この医療機関にかかって良かった、この医師に巡り会えて良かった、という喜びこそ、最高の栄冠である。しかし、私は単純には喜んでいない。それが新たなプレッシャーにもなるのだから。でも、それが新たな学びの意欲になる ・・・という風に、私の医師としての喜びは循環している。

 これら私の3つの喜びは、端から見れば自己満足程度であるのかもしれない。でも、そんな評価はどうでも良いのだ。これら三つの喜びをを感じ取れて新たなエネルギーに転嫁出来る私は幸せ者なのだ。 だから、時間に追われていても日々が楽しいし、充実感もある。


4/21(水)晴れ→夜半雨 医師会理事会 大曲中通病院との懇談 
2:30起床。ドック総括処理x1等。睡眠1.5時間程度ではさすがに眠い。5:15バイク病院着.事務処理・回診等。9:00-13:00外来、混雑。14:00-15:00入院患者家族と面談。16:30-17:40県医師会第1回理事会、中座し病院に戻る。18:00-19:40大曲中通病院管理部との懇談。残務。21:30帰宅、22:30就寝。眠くてかつ多忙であった一日。

私は自己満足男  医師としての「喜びの因子」を考えてみた
 私の最近の一日の時間配分は、病院業務>>医師会業務>>私的時間 ・・・で恐らく一日のうち15-6時間は外来・入院の診療、ドック、書類処理、院内業務、医師会業務で追いかけられるように費やしている。
 盆・正月、日祭日にはさすがに時間的にも、心理的にも若干の余裕があるが、殆ど積み残し業務の処理に充てているため、外来がないと言うこと以外は大差がない。
 間もなくゴールデンウイークであるが、あてにして後回しにしている業務で、予定がびっしりである。齢を積み重ねるごとにいろいろな立場が増えてきており、病院臨床医としての業務だけでは済まなくなってきた。医師として患者との接点は合理化は出来ない分野であるし、これに費やす時間も年々増え続けているから、さらに何かが増えれば睡眠を含む私的時間を削るしかない。最近起床時間が更に早くなっている。過去の自分を振り返った場合、activeに何かをこなしながら過ごしてきたと思うし、暇があって何をしようかなど考えた経験は殆どない。しかし、過ぎ去った過去の記録や資料を振り返ってみれば、あのころは今よりは余裕があった、と懐かしんでしまう。

 今、私自身は充実していると思っているし、現状には殆ど不満はない。むしろ満足している。ただ、それに見合ったアウトカムが得られているか??というと自己判断では大したことをやっているわけではないが・・・と言わざるを得ない。それがチョッピリ寂しいが、これは資質上、やむを得ないと割り切る。インカムに関しては院内で最も安い賃金で働いている医師だと思う。こなしている業務量から見て、研修医よりも安いだろう。それでも良い、貰えない分は寄付するよ、法人に。

 こんな生活が出来るのも全ての環境がそれなりに恵まれているから。だから、私は感謝の気持ちで一杯である。可愛いしぐさ、表情で私を慰めてくれる飼い猫一匹に対してすら感謝している。子供達はそれなりに成長し独立しているし、衣食住に関する日常生活上の懸案は大部分は賄いの石井さんがこなしてくれる。更に、家内は私以上の超マイペース人間で自分のことに集中しているから、健康保持に関する心配以外はあまり気遣わなくても良い・・・とても挙げきれないからここまで。

 医師としての喜びは、第一が「学び、知る喜び」、第二は「診療に当たる喜び」、第三は「患者の喜びを感じる喜び」とまとめることが出来るのではないかな、と思う。


4/20(火)風雨 ABS-TV収録 医師面談 医局カンファ(急性腹症内視鏡手術)
 
1:30起床,最近起床時間が早くなっていく傾向にある。ドック総括x1、etc.5:15車で病院、回診他、 午前外来9:00-14:00.14:00-15:00ABS-TV収録、16:00医師面談、17:30医局カンファ(急性腹症内視鏡手術)。新入院、退院患者あり対応。入院患者不調に、各種対応。20:30帰宅21:00就眠。入眠と同時に電話あり再度病棟に。脳出血合併23:10患者さん死亡。1:00再度帰宅、1:30再度就寝。家内はいつもの事ながらまだ帰っていない。

桜の根本に、山吹がひっそりと、しっとりと、雨に濡れている
 私が毎日通る天徳寺付近は桜の名所でもある。秋田に向かい、天徳寺の地下道を抜けた後の土手の両側の桜は、私の心を和ませる。今朝は雨が降って、折角の今年の桜も散り始め、色もくすんで来た。その側を、私は往き去りつつある桜の季節を名残惜しみつつ、ゆっくりとゆっくりと車を進める。早朝で、路上にはまだ誰もいない。車も疎らである。

 ふと、土手の一隅に目をやると山吹が生えていた。しっとりと濡れて良い色調である。 山吹といえば、私には二つのことが思い出される。
 雨に濡れた山吹といえば、あの太田道灌の山吹伝説である。 遠乗りにでかけた道灌は、ある日、突然のにわか雨に会い、蓑を借りようと、たまたま側の農家に駆け込んだ。声をかけると、出てきたのはまだ年端もいかぬ少女であったが、蓑の所望を聞くとすっと外へ出た。まもなく戻ってきた少女は蓑でなく、山吹の一枝を手にしていた。滴に濡れた山吹の花は美しかった。道灌は山吹の一枝を手に、雨の中を濡れながら帰途についた。あの異様に気品のある少女は、頭でもおかしいのではないかと思いつつ。後日、彼は「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき」という歌を知り、己の不明を恥じ、この日を境に歌道に精進したという。 これは後世の作り話との見方が有力であるが、いい話である。学問の世界、医学の世界にも通じるものがある。

 もう一つは幼少期に遊んだ山吹鉄砲である。山吹の枝は中空になっていて発泡スチロールのような髄が入っている。それを上手にくりぬき、口に含んで湿らせた後、笹竹で作った外筒に入れ、細い内筒を押し込むことでポンといい音がして飛んでいく。野山でよく遊んだものだ。いつも今が最高なんだ、と言いつつ暮らしているが、野山を駆けていたあの頃、実に懐かしい。今日は多忙で時間に追われホッとする間もなかったが、良い一日だった。


4/19(月)晴→夕方小雨 管理会議  ABS収録「風疹」 長副会議
2:00起床、人間ドック総括x2。5:30車で病院へ、回診など。8:00管理会議. 9:00-14:00外来+ドック説明x1、何故か後半大混雑。14:00-15:00入院患者家族と面談。15:00-16:00ABS-TV収録。 16:30-19:00長副会議。19:00某クリニックスタッフ来訪。20:20帰宅.21:00就眠。

感染症のジレンマ。先天性風疹症候群を防ぐために若い女性はワクチン接種を受けよう
 最近、風疹が減少しつつある。風疹は、発熱、発疹、リンパ節腫脹を特徴とする感染症で、これ自体は一般的には軽くすむので、罹患してもそれほど問題になることはない。しかし、妊娠中に初感染すると先天性風疹症候群(心臓病、難聴、脳障害、白内障など)を生じることがある。従って、妊娠可能年齢とそれ以前の女性に対するワクチン接種が重要である。風疹が減少しているからこそむしろ危なくなっているという認識が必要。

 現在25-17歳(昭和54年4月-62年10月生)の女子は感染症予防法の改正に伴ってワクチン未接種となっている方が少なくないので要注意である。昨年9月まで無料接種を受けることが出来たが十分普及しなかったようだ。

 平成6年以前は中学生の女子のみが風疹ワクチン接種の対象であったが、予防接種法改正によって1〜7歳半未満の男女(標準は生後1〜3歳以下)とされた。これは社会全体の風疹患者を減らすための措置。その結果、ワクチン接種率は幼児で増加、逆に中学生での接種率は減少している。12歳女子における風疹抗体陽性率は52%にすぎない。出産適齢期の年代では更に減少していると思われる。

 幼児期にワクチンを受けた場合でも、途中でウイルスとの接触とかの機会がなければ、その効力は成人までには消失してしまう。だから、風疹自体が減少して来ている今の方が妊娠中に初感染する可能性が増していることになる。だから、現時点では幼児期のみならず中学生以降の女子に対してもワクチン接種を積極的にすすめる必要がある。

 妊娠可能年齢でワクチン接種癧が不明の方、風疹罹患歴が不明の方は医療機関に相談する方がいい。過去に風疹にかかったことがある場合でも検査で確定診断を受けた場合以外は極めて不確実で、記憶に安易に頼るのは危険である。

 なお、抗体ある人がワクチンを受けても何ら問題はないし、ワクチン自体安全性は高い。値段は自費で6000-8000円前後と医療機関ごとに異なり、決して安くはないがそれ以上の価値はある。妊娠中には接種は出来ない。将来に向けて自己への投資の一つと考えればいい。


4/18(日)快晴 FF tennis中止 除雪機清掃格納、自転車バイク等整備 来客
2:00リハビリ病院当直室で起床、人間ドック総括x2、新聞チェック。紹介状など作成数件。2-3時間本読み。7:10検食、8:30病院に、回診、残務処理、11:30帰宅。テニスハメンバー不足で中止になり除雪機清掃格納、自転車バイク等整備。17:00-21:30来客Miss S.S、間もなく秋田を去ると言うことでル・シャトレにて送別会、。22:00就眠。

自伝
大学時代 (1965〜71)(38)
 F嬢の本命は私? 私はえん下困難を経験。心身症か?
 それ以降、2週に一回ほど食事の招待を受けた。例の2年ほど前に喫茶店で「こんなの私も作れる・・・」と言って私を驚かせたミートソースも作ってくれた。その日まではとても信じられなかっただけに感心するやら驚くやら。忘れたが、多分とても美味しかった、と思う。私は完全に餌を与えられて、餌を通じて彼女を見直していったことになる。

 2-3回は数人でご馳走になったが、その後は何故か私一人だけ招待されるようになった。二人だけで、しかも彼女のアパートで食事をするなどと言うことは想定もしておらず、かなり緊張しギクシャクした様に思うが、徐々に慣れていった。

 そのうち、数人で招待されたのは、気が小さく決断力のない私を上手に誘うために彼女が仕組んだプロセスではないのか??と、ある日ふとしたことを切っ掛けに考えた。このことはつい先日も確認したから本当らしい。で、多分、間違いではないだろう、今後どうなるのだろうか??と考えてから責任を感じて、否、感じすぎたのであろう、2週間ほど全く食事が喉を通らなかった時期があった。
 空腹感はあって食卓に向かうのだがどうしても飲み込めない不思議な体験である。水分なら何ら支障なく飲み込める。これは理屈に合わない現象である。恐らく、心因的原因で身体に変調を生じたのではなかったのかと思う。 この間の2週間ほどは誰にも気付かれないように配慮しながら殆ど水と味噌汁、牛乳等だけで過ごし、3-4Kg痩せてしまった。しかし、むしろ体調は軽やかで良好であった。
   この時の体験は私の食に関する考え方のルーツ、すなわち、ヒトは生きていく上に一日3食など必ずしも必要でないのだ、水だけでも体調良く暫く生きられる、食べれないときは無理して食べる必要などはない、という考え方のもとになっている。


4/17(土)雨 リハビリ当直
1:30起床、ドック他業務、次回講演用原稿作成etc。 5:20今晩当直でトランクを運ぶためデルソルにて出勤.病院近辺、道路脇の桜は殆ど満開に近くなった。7;00回診他、ABSからTV取材の申し込み、風疹について、月曜夕方に設定。10:30-13:00外来。残務処理、医報原稿送付その他。某クリニックのケースワーカー来訪。入院患者の退院延期について。主治医意見書など。16:50リハビリに移動、当直業務に。病棟対応、尿道出血の患者、主治医を介して救急室に。他2件対応。20:30就眠。

イラクで拘束の5邦人とも解放。 国も国民にとっても貴重な体験
 NGO活動、フリーのジャーナリストがイラクのテロ組織に拘束され、約一週間後に無事解放された。喜ばしいことである。一方では米国の軍関係の運転業務に就いていて拘束されたイタリア人のうちの一人は犠牲になったおぞましいニュースも報じられている。
 NGO等の活動、特に国際協力は、経済的、文化的な諸問題から発生している領域の援助などではとても意義あることだろうし、其処に参加し活動している方々の活動は評価したい。イラク問題でも。イラク国民が置かれている厳しい実情などはこの人達の報道や活動報告を通じて刻々と伝えられてきた。私どもはそれを通じて遠い世界で起こっている状況の一部を知ってきた。その意味でもすごく価値は高い。政府があの福田官房長官を通じて発表するクールな内容だけからはイラクの実情、現実を知ることは不可能である。

 しかし、イラクは現在実質的には戦時下にあると言うべき状態で治安はひどく悪い。イラク側のテロ組織の実態すら、いくらあるのか、どんな思想を掲げて活動しているのか、解っていない。この様な状況下でのNGO活動、個人資格でのジャーナリスト活動は極めて危険である。それだけでなく、相手方に利用される可能性を常に考えなければならない。生物兵器、人質作戦は「貧者の武器」と言われているが、自らの意志、精神に拘わらず、日本人である限りは、自らがミサイルや砲弾以上の有効な抗日用の武器になるかも知れないと言う一面までも考える必要がある。要するに、個人のレベルで考え行動する域を脱してるのだ。

 国はイラクへの渡航は危険とし控えるように勧告している。それでも出かける方々は、恐らく国の方針を是としない、とても黙ってはいられない確固たる意志を持っている、常人とは異なる思考や行動力を兼ね備えた、いわゆる活動家と言っていい人達のだろう。彼らにとってはイラクへの渡航は国に対しては基本的人権の行使と言うことになる。単に人権の主張どころか、実際には国に対する反発・反抗であり、政府や日本国民へ痛烈に問題提起している積もりでないのか??少なくともその一面はあるだろう、いい気になりすぎているのではないか??と私は思う。しかし、同時に、彼らにはイラクのために何もしない、出来ないとして批判しているはずの日本という国や一般大衆に対して甘えの論理が無いのだろうか、とも思ってしまう。自衛隊派遣でNGO活動にいろいろな面で障害が出ている、との発言があったようだ。事実そうだろうと思うが、分をわきまえない甘えの発言だ。安易に対立の構造に持ち込むのは良くない。

 敢えて勧告を無視して出かけていると言えども、国は拘束された邦人や危険な目に遭っている邦人を無視することは出来ない。国民の一人である限り国はその安全確保、救出には全面的責任がある。国民の命を大事にしない政府、国は根本から存在意義すら問われることになるからである。特に民間人の場合には尚更である。何処で折り合いを付けるか,であるが、何はともあれ、最悪の事態は避けられ、政府も国民も危機管理の分野で良い経験をしたことになる。拘束された方々の家族に首相が会おうとしなかったことを、甘えに対する毅然とした態度として私は評価したい。ところで外交官二人の殉職問題は、国としてもう何もしないのだろうか??こっちも毅然として欲しい。

 どんなに高邁な精神、目的があろうと、今は個人的に動く時期でない、と私は思う。


4/16(金)花曇  エホバの証人の面談、医師会打ち合わせ
1:30起床、ドック判定総括x1.紹介状返事、メール返事 他。家内帰らず、どうしたのか? 4:30病院へバイク。回診他。ドック説明なしで若干余裕。机上懸案書類かなり処理出来た。10:30-14:00外来・ドック説明x1・ドック診察x5。15:00-16:00県医師会館、エホバの証人のお二人来訪歓談、県医師会打合せ。回診ほか業務、20:30帰宅。21:00就眠.イラクで拘束され、解放された邦人3名は出国したという。

タイタニックの悲劇と日本人への説得
 1912年4月14日、当時世界一の豪華客船だったタイタニック号が大西洋上で氷山と衝突、1503名の命が失われた。
 タイタニック号は、最大幅28m、全長259m、バーやレストラン、娯楽室、絨毯、絵画・・・一流ホテル顔負の豪華さであったとされる。安全対策も当時としては十分で絶対沈没はあり得ないと保証されていた。処女航海に乗船したのは世界各国の名士や大富豪1316名と、乗員合計2224名で、ニューヨークまで一週間の航海予定であったが、ニューファウンドランドのレース岬付近で氷山に衝突した。救命ボートが次々と降ろされたが、20隻しかなく乗り移れなかった人々からは絶望の声がもれた。残った乗客は早く海に飛び込み、出来る限り船から離れてもらわなければならない・・・・。

 ・・・上記あたりまで調べると心が痛み、先が書けなくなる。が、敢えて進む。
 先日読んだ本に掲載されていたが、ソフトバンクの孫正義氏がある時に米国人が作ったという、国民性をうまく言い当てているジョークを紹介している。

 女子供をボートに乗せた後で、残った客を海に飛び込ませなければならない。しかし、春とは言え氷山の浮かぶ海に飛び込むことは取りも直さず死ね、と言うこと等しい。パニック状態の乗客に乗員達は乗客の国籍によって次のように言葉を替えて説得したという。
 英国人には「貴方は、真のジェントルマンですね」と説得、これでみんな飛び込んだという。米国人には「貴方はヒーローになれます」、ドイツ人には「これがルールですから・・・」と説得したという。日本人には何と説得したかというと「皆さんがそうなさいます・・・」と言うものであったという。

 勿論これは事実ではなく、後に考えられた作品。国民性を十二分に表しているものだと感心してしまった。しかもこれば日本人が作ったのでなく米国人が作ったこと。個性的であることよりも、平均的であること、大衆的であること、常識的であること・・を好む国民性を良く分析し、言葉少なく真実を言い当てている。実に傑作なジョークである。


4/15(木)晴れ 医局会(欠) ABS 「みんなの健康」収録
1:30起床、ドック判定総括x1。本日の放送収録ほか。家内3:00帰宅、若干疲れた表情、連日ご苦労様。5;30バイク病院着.天徳寺さくらほころび始めた。回診その他。9:00-14:00外来。14:00患者・家族と面談。医局会出席出来ず。17:00-17:50ABS収録、一発で終了。18:00-20:00残務。20:30帰宅、21:00就眠。

医師・患者関係は世代間ギャップ、嫁姑問題に似る??(2)
 
私は医師・患者関係には年代間のギャップ、嫁姑間のギャップのような、埋めがたい溝があると思う。要するに医師と患者は求めるものも全く異なり、互いに立場が100%異なる。知識の差は例えようもないほど大きい。一方、医師だからといって相手の感じていることを理解するなんて無理だ。私は自分のことすら良く分からない。家族であろうと理解は無理。ましてや他人である患者が感じていることなど、何故に知ることが出来るのか??分かるのは病気としての一面だけ。患者は、しかしながら、理解してもらえるという幻想を抱いて頼ってくる。だから、医師患者間の溝は絶対に埋まるはずはない、と考え、私は割り切って対応している。蛇足だが、私には女の気持ち、身体すら全く理解出来ていない。この世に男と女の2種類しかいないというのに、毎日が????の連続である。

 医師・患者関係を論ずる場合一般的に一方的に医師側が責められるが、良い医療は良い人間関係を背景にした共感がなければ成り立たないことを考えれば、双方から歩み寄って埋める努力をするしかない。

 結論を急ぐと、医師側にはどんな状況、どんな患者に対してもまず一定レベル以上の対応が出来る職能としての技能・技術を身につけるべきである。その上で、どうしても対応がうまくいきそうのない患者には他医にうつるよう提言するか紹介すべきである。私も今まで何十人かの患者を断って来たが、その方が双方にとって絶対に良い。逆に、私も何百人かの患者には断られて来た、と思う。患者側には月並みだが、ウマの合う、自分と相性が良さそうだと思われる医師を探してかかりつけ医として置くことだ。

 その上で考え方の割り切りが必要。患者の性格や人間の内面からくるコミュニケーションの阻害因子もある。例えば、診察時に患者に強度の緊張感、恐怖感があったりすると、その後のコミュニケーションがすべてうまくいかなくなる。

 また、医師と患者という立場の違いから、患者が「医師に治してもらう」と受身になったり、医師が患者に迎合したりする場合はもう駄目だ。更に、片方にとって常識的ことが相手にとって非常識のこともある。一般的に「医師の常識、社会の非常識」という医師をバカにした言葉もまかり通っている。

 相手の言葉にどんな意味付けをするかは、聞き手側の勝手である。言葉の暗示的意味は、その人の生活環境や価値観で変わる。医師に対して少しでも嫌な印象を感じた患者にとっては、その医師の言葉、行動は全て刃に等しい。その場合、溝はどんどん深まっていく。こちらの意思は言葉だけではすべて伝わらないと割り切って考えておかなければならない。


4/14(水)快晴 
1:30起床。ドック総括x1、紹介状の返事・対応に手間取る.3:30家内帰宅。土崎医談会ご病院に戻ったという。5:10バイクにて病院着、やはり寒い。回診他業務.9:00-14:00外来、その後自室に引き籠もり院内、対外的業務、主治医意見書,訪問看護指示書ほか懸案事項多数処理.急遽出演することとなったABSの話題準備の準備開始したので余裕ない一日となった。20:30帰宅.21:00就眠。

医師・患者関係は世代間ギャップ、嫁姑問題に似る??(1)
 本日午後、予定の医師が突然キャンセルしたので、広報担当として急遽ABSラジオに出演することになった。何度か取り上げているが「医師患者関係をどう考えるか」について述べようと思って昨日午後からから準備し始めた。以下の要旨で話してみる。

 何時の時代でも年輩の方々は「今の若い者達は・・・」と言う意味の発言をする。この様な言葉は紀元前6世紀のエジプトのピラミッドにも刻まれていた?と言う。事実であるか否か確認はしていないが、十分にあり得ることと理解出来る。これは時代や文化に関係のない、幅広い年齢層が入り交じって暮らす人間社会の宿命のような気がる。
 私は医師と患者の関係もこれに似ていると思う。更に、嫁姑の関係にも例えられるかもしれない・

 紀元前から現在まで繰り返し繰り返し「心ある医師」、「心ある医療」が求められている。ヒポクラテスは紀元前400年頃の医師であるが「医の倫理」として10数項目にわたる「誓いの言葉」の中に「医師は患者のためのことだけを考えて医療を行うべき」、とか「治療で知り得た患者の秘密は絶対に口外してはならない」、とか「医師は人生を清く送り患者の治療に専念すること」・・・と言うような言葉を残している。
 同じような言葉は、漢の時代の中国の文献にも残っているし、日本では江戸時代に貝原益軒も残しています、貝原益軒の場合には特に「医は仁術である」という有名な言葉を残し、長い間医師に無言のプレッシャーとなっていた。
 面白いのは、僅か一ヶ月ほど前に発表された日本医師会の「職業倫理綱領」にも、「医療が発達して専門分化が進んだ今、大切なのは医師と病気の関係ではなく医師と患者関係である、その良い関係の構築のためには、医師は常に最善の治療をすべきである」と実に当たり前のこと、ヒポクラテスの記載と似たような内容が書かれている。

 要するに医師・患者関係は、紀元前の未発達の医療、21世紀の高度に発達した医療とか医療レベルには関係のない、共通した懸案である。これは理屈を越えた難しい関係なのだと思う。

 いかなる時代にも同じような意味の言葉を残していると言うことは、要するに、そう言わなければならない様な医師が少なからず居たこと、とか医師患者の関係がそう言わざるを得ない関係だと言うこと、を示している。時にマスコミを賑わすような問題のある医師はごくごく少数ながら居ることも確かだが、私の周りには、「患者への対応があまり上手ではない医師」は居るものの、「心ない対応をしている医師」は一人もいない。なのに、私の周辺でも大なり小なりの医師・患者間のトラブルは頻発している。これは何故なのだろうか。


4/13(火)花曇り-晴 秋田県感染症評価会議 県医師会打ち合わせ 導入研修講義「医師の心得」 医局MC「妊娠と薬」
2:00起床,ドック判定総括x1、紹介状その他、5:10病院着、バイクでの走行はまだ身を切る様に寒い、が、快適。身が引き締まり働く意欲がわいてくる。回診等,新入院患者も落ち着いている。9:00-13:45午前外来+HDD説明1名.14:00ー15:00秋田衛生検査研究所にて感染症情報検討委員会,15:00-15:30医師会書類チェック,打合せ大急ぎで処理。15:45-17:10初期研修医に「医師の心得」講義。17:30-18:30医局カンファ。残務20:30帰宅21;15就寝。多忙な一日であった。

外科医のエネルギーのルーツは何なのか
 先に医局内のカンファレンスで胆道系疾患の話題が取りあげられたことがある。外科医の術前の診断、評価、長時間にわたる複雑かつ繊細な手術手技、過程に接し、深く感心し、感動した。外科医にはどこからあのようなエネルギーが沸いてくるのか??週に何度も、時には数時間ないし10時間にも及ぶ手術を、臨床医として何年もの長期間にわたってやりきることが出来るのか。私には理解を超えた世界である。当院の前院長である瀬戸泰士氏が出版された著書「臨床外科医の半世紀」を読んでも同様のエネルギーを感じ取ることが出来る。外科医は山があると登らずにはいられない特別の方々なのか??

 それから見たら私の仕事など、ヒトには自然治癒力があるのさ、内科的治療なんてたいしたこと出来ていないのさ、・・・などと適当に割り切って毎日をザッと流していることになる。
 思い切ってカンファレンスの時にこの点について聞いてみた。担当した医師は「患者さんの喜ぶ顔を見て自分も成長してきた。患者さんから医師としてのエネルギ?命をもらっている」と話していたが、ここにもまさに「共育」の考え方があった。


4/12(月)晴れ 管理会議  初期研修必修化研修開始 長副会議
1:30起床、寝不足感、脱力感で全身ボーとする。HDD1名総括。家内当直で不在なので早めに.4:40病院着。残務、回診その他、時間的には余裕。8:00管理会議.8:50初期研修医を迎えて院長挨拶。9:00-13:30外来。入院患者関連の書類、主治医意見書、総括・紹介状数編用意。16:30-19:10長副会議。難題多数。20:45帰宅、21:30就眠。一昨年のいま頃は桜満開であったが、今日が今年の秋田の開花日で1週間早いのだという。

医師と患者 患者の満足は問診開始後19分あたりから。ある米国の調査を読んで
 1993−95年に行われた米国の研究で解ったことがある医学雑誌で紹介されていた。
 ほぼ全ての医師達は、問診の最後をうまく締めくくることで患者とのコミュニケーションはうまくいった考えがちだが、実際には患者の54%が相談事を医師に打ち明けられずにいると言う。
 また、最初に医師が親しみの気持を込めて「どうなさいましたか?どうですか?」と患者の気持を引き出す様な、やさしげな態度がみられると、問診の結果はいい方向に向くことも明らかになった。このことから、問診の際、最初のトーンの設定が如何に大事であるか、と言うことがわかる。マア、この辺は当たり前の結論に近い。

 医師は患者が話を始めてから平均18秒後にはその話を遮っており、患者と一緒に時間をかけて話し合う時間をとっていないとのこと。医療スタッフとのコミュニケーションで患者が満足するのは、問診開始後平均19分たってからだという結果も示されている。日本の医療の実態とは大きく異なっていることは解っているがコミュニケーションの為にこんなに時間がとれるものか??

 医療に限らず、教育の場面でも、親子関係でも、立場の違う二者間におけるコミュニケーションは、立場が上のものが下のものへ指示することで行われがちだが、それは通達・命令であって本当の意味でのコミュニケーションではない。最近、双方向性のコミュニケーションが重要とされているが、もともとコミュニケーションというのは双方向性のものなのだ。例えば、教育の現場では、生徒が理解したときの感動の気持、歓びの気持を教師がくみ取ってその感動を一緒に分かち合ぅことができれば、生徒はヒトと通じ合えることに喜びを感じ、その結果、新たな意欲に結びつく。これが「共に育む」ということである。「教育」では駄目、「共育」でなければならない。

 親子関係、兄弟間のコミュニケーションはその面では同じ、あるいはそれ以上に重要。ヒトは子育てをしながら実は親育て、あるいはヒト育てをされているのだ。「育む」ということイコール「育まれる」である。ここ数日、娘、二人の子供達と共に過ごす時間を持てたが、私は年を経るに従って子供達に育てられ続けているな、と実感し、ほのぼのとした感動を味わっている。


4/11(日)晴れ  FF tennis. 次男転居 家内ICU当直
2:00起床、ドック判定総括x1。新卒医師導入研修講義用資料整理追加。次男札幌より帰秋、引っ越し。9:30-12;30病院回診その他。13:00-16:00S.I医師を交えて梅林園FF tennis。2-6、4-6、4-6と黒星。園の梅は2分咲。16:30-18:30病院残務。17:00患者さん死亡、見送りほか残務、19:00バイク帰宅。20:30就寝。

自伝 大学時代 (1965〜71)(37):F嬢から食事のさそいを受けた
 弥彦行きから1-2週間後以降、F嬢から食事の招待を受けた。住んでいた寮の電話当番から「医学部4年のフクダさん、お電話です」との呼び出しがあった。「何だ??誰だ??心当たり一切なし・・・」と訝りながら電話に向かった。六花寮では女性からの電話は「お電話です」、男からの電話は「電話です」と呼び出すことになっていた。もう記憶も定かでないが、弥彦行きからそう長い時間がたっているわけではないので多分、専門4年の10月頃だと思う。電話口にはF嬢がいて、グループの何人かも来ているのでアパートでご飯でも食べませんか・・と言う。みんなも来ているなら良いだろう、と私も誘われたのをうれしく思い、気軽に出かけていった。
 メニューは何であったか、もう忘れてしまったが年老いた母の手作りの田舎料理しか知らず、寮の130円/日の食事にもそれほど大きな不満もなく耐えていた??いや、順応していた私は、出された食事にいたく感心し、喜んでご馳走になり、集まった同じ実習グループの4-5人のメンバーで楽しく一時を過ごした様に思う。

 今から考えれば、私は完全に餌で釣られた空腹の痩せ魚の一匹だったのだと思うが、私自身にも友人としての長いつきあいを通じて、釣り上げられるための、それなりの準備状態があったのだろうと思う。


4/10(土)東京快晴  No101日本内科学会総会三日日 
2:30起床、初期研修導入研修用準備他、読書などでゆっくり過ごす。10:00-12:30学会場に。総会三日日は以下の講演を聴講した。●自己免疫性肝炎から癌免疫療法へ●鉄欠乏、鉄過剰症の分子病態と臨床●EBMに基づいた心不全の治療●成人GH分泌不全症の臨床。13:40学会場を離れ母娘の買い物に付き合う。16:55こまち。21:00秋田着。病院へ、机上は書類の山。回診、懸案患者比較的安定。23:00ハーレーにて帰宅。手袋なしではまだ厳しい。23:30就眠。

三越本店、食品売り場でちょっと一息。田舎もののため息、ルイ・ヴィトン
 本日午後、母娘の買い物に付き合う。日本橋の三越本店なるところである、私は初めてであるが、彼女たちは何度も一緒に来ているようだ。
 歴史がありそうな建物、余裕のある売り場面積、綺麗なレイアウト、多数の美形の、生き生きした表情の販売員達にまず驚く。単なるデパートだろうと思ったが、ギャラリーあり、小劇場あり、英国風ガーデンあり・・・とたいしたモンだ、とまた驚く。
 女共の買い物にずっと付き合っているのも辛いものがあるので時には別行動しいろいろ見物して歩いた。名前しか知らない世界の名品がここには揃っているようだ。

 圧巻てきだったのはルイ・ヴィトンのコーナー。私は茶色のビニール風の、超高価な、得体の知れない鞄、されど超センスのいいコマーシャルが時折新聞に載る会社、偽物もあるんだそうだ・・程度しか知らなかった。入ってみて驚いたのは種々の色調のバッグもあると言うこと、多くはビニールではなく皮革製品、一部は布製品らしい。これが第三の驚き。

 バッグだけではない。履き物あり、筆記用具あり、ネクタイや衣料品もある。第四の驚きはその値段。私の想定価格の10-50倍である。私から見れば何ということのない様な、秋田で買えば500円程度、それよりも安いようなビーチサンダル風のスリッパ,何と!!・・・79800円。ちょっと良いなと思った万年筆が128000円、財布が198000円!!。私が普段ガラガラと引っ張っているキャリア付きの旅行鞄風の製品が620000円・・・もう止めた。それが、目の前で結構売れていくのだから驚く。

 私は心底驚いた。人生観が変わるね。こんな世界にしょっちゅう触れていたら労働意欲すら失われていく。1ヶ月働いて革鞄一ヶ分にしかならないなんて。

 地下の食品売り場、ここもすごい。こんなもの毎日食べて暮らしている人種もいるのか??ホントに日本の景気は悪いのか、と思った。
 「オ-イお茶」のペットボトルが120円で売っているコーナーにさしかかって私はホッと安堵した。歩き疲れてお休み処でアイス500円散財。さすがに美味しかったね。田舎ものの中年医師の戯言、ここまで。


4/9(金)東京晴天 No101日本内科学会総会二日日 法人理事会(欠)
2:30起床。総括・紹介状追記。9;00朝食。9;55東京国際フォーラムへ。No101日本内科学会総会二日日は以下の講演を聴講した。但し、半分くらいは夢うつつ状態であった。
 ●抗菌薬の適正使用●造血の分子機構●びまん性細気管支炎とマクロライド●肺癌の分子標的治療●急性腎不全の病態と治療●良質の医療を求めて●高脂血症の臨床の進歩●慢性関節リュウマチの薬物治療●ウイルス性肝炎の治療戦略。 
 三越本店で買い物若干、娘と合流、Taxiにて浅草ビューに。夕食ほか、21:30就眠.

10数年振りか
,JRはグリーン車にしてみた。
 今回の学会出張は家内も一緒であったために、単独行動の時とペースが大きく異なった。
 変わらなかったのは準備不足のための出張直前のドタバタである。出張直前になると何故か入院患者の何人かの状態が悪化し、対応はしていくのだが時間が限られるだけに満足出来るほどにはならない。いつも患者さんや代理で診てくれる医師に申し訳なく、 後ろ髪引かれる思いで出発する。今回も3-4名気がかりな状態で、深夜に病棟で対応してから出てきた。困ったら連絡を、と病棟に申し送ってきたが携帯も鳴らないからかえって気がかりである。

 2月に雪道で転びそうになって痛めた家内の膝関節が完治せず、痛みでやや不自由な事と座席が狭そうなのでこまちはグリーンを利用、都内の移動はタクシーを用いた。

 私はJRのグリーン車は10数年ぶり。殆ど経験がない。こまちのグリーン席は前後の幅はやや広いが、横幅は広くなく若干不満。しかし、もともとこまちは車幅の関係で横4席しかとれないから幅は広げようもなくこれは当然。しかし、満席でも人数が一両あたり20数人と少ないから静かであり、人口密度は少なく人疲れせずこれはとても良い。空調はやや寒かった。グリーンアテンダントなる若い女性が同乗していて何度か廻ってきて、にこやかに飲み物サービス、おしぼりなど持ってくるがこれはやや煩い。放っておいてくれる方が良い。グリーンの客だけのために乗務しているなら無駄なような気がするが、居ないよりは良いか。

 都内の移動は歩く距離は長く、かつ段差が大きく階段の昇降も頻回で、身体的に何らかの障害がある場合とても不便。一人の場合、都内でタクシーに乗車する事はまずないが、今回は移動にはタクシーを利用した。運転手さんは何れも親切な対応で悪名高かった昔の雰囲気は殆どない。サービス競争時代の流れかな、とも思った次第。

 一人なら昼食、夕食は通常は摂らないか、簡単に済ます。今回はしっかりつき合わされている。秋田に戻ったら私はまた厳しく減量せねばなるまい。


4/8(木)秋田・東京とも超快晴、No101日本内科学会総会初日
1:00起床。ドック1名判定総括。2;00-5;00病院。患者対応、出張申し送り。5;30帰宅、家内と共にTaxiにて駅に。6;02こまち。9;55東京着。東京国際フォーラムへ。   No101日本内科学会総会初日は以下の講演を聴講した。
 ●急性期脳血管障害の治療戦略●慢性心不全の病態と治療●2型糖尿病の病態と発症機構●血小板減少症の病態と治療●腎性骨異栄養症●家庭血圧の臨床応用●アレルギーによる中枢神経障害●市中肺炎、細菌性と非定型肺炎の鑑別●膠原病の自己抗体●Q熱の臨床●貧血の病態と治療。 
 買い物若干、Taxiにて浅草ビューに。夕食ほか、20:30就眠.

日本内科学会総会はとても良い・・が、本日も座長の元教授に不快感
 日本内科学会総会は年一回4月に開催される。私はこの学会は医師になって以降殆ど欠かさずに出席している。会長講演、宿題報告、教育講演、パネルディスカッション、シンポジウムなど朝から晩まで続く。
 各演者も同じ演題名であっても関連の専門学会では詳細に話すのであろうが、この学会では聴講者は老若男女、専門外の広い分野の医師達であるから、内容をより平易にかみ砕いて話してくれる傾向があるから比較的理解しやすい。
 私は血液分野を勉強してきたが、日本血液学会や臨床血液学会に出かけても日本内科学会ほどの満足感は得られない。内容が私から見れば微にいり細にいり過ぎているからである。それに専門学会だと結構知人に会うが、これも面倒である。この点でもこの学会は気楽なものだ。明日のパネルディスカッション「良質の医療を求めて」は楽しみである。
 私は会場では前列に席を確保し、終日会場で過ごす。昼食の休憩時間も持参の本や音楽を聴きながら居眠りしたりしてそのまま会場で過ごす事が多い。実に気楽で至福な時間を持て、更に広い臨床分野について最近の進歩に触れることが出来るからである。今回は10数年ぶりに家内も一緒の出席なので多少気疲れする。

 ところが、本日の教育講演で座長をされた元教授の演者紹介が、資料を見ながらであったがアー、ウーが頻回で、さっぱり話が進行せずもどかしかった。講演された教授も本年定年退官された方で、司会の元教授はその先代の教授だというのでかなりの年輩なのであろう。30分の教育講演のうち司会者が5分近くもウー、アー・・・とやっていた。折角の時間が勿体ない。どんな方でどんな業績のある元教授か解らないが、名誉職としてのこの人選は誤りである。

 高齢者にとって、過去の栄光よりも今の状態の方がむしろ重要な問題なのだ。それを自ら自覚しなければ栄光も錆びてしまうのだ。


4/7(水)晴れ 医師会常任理事会 
1:00起床。ドック、紹介状など。学会前患者対応・申し送り作成、他。5:20病院着、回診、9:00-14:00 外来、病棟患者処置ほか。17:30-19:30今期執行部初常任理事会、順調にスタート。出張前病棟準備。21:30帰宅、22:00就眠。学会出張前の準備等で多忙な日。それでもやり残しあり。夜半に病棟で処理する予定。

会議の発言前には準備をすべきだ。1分で話せる内容を数分も話す長老達に閉口
 
2月から4月にかけて郡市、県、東北医連、日本医師会・・・等、各種の医師会関連の会議が続く。特に今年は各医師会でも役員の改選時期であり、更に、重要な日本医師会長選挙もあり、いつもより緊張感の高い・・はずの会議が続いた。ところが、何れの会でもご高齢の、長老と言うべき方々から緊張感をまるで欠く様な発言が続いた。アー、ウーが頻回に発声され、さっぱり話が進行しない。

 この道に経験の長い、それなりに業績もある長老達である為に何か決定的な重要な発言するのかと聞き続けていても、結局何を言いたいのか解らない発言である。5分もかかって話して、結局、要領よく話せば1分もかからないで伝える事の出来る内容である。この様な発言が数人から続いた時には私は心底ガックリきた。大勢の出席者を前にしてのこの様な発言は迷惑千万である。
 突然予想外に発言を求められた場合ならまだしも、自ら求めての発言ならなおさらである。発言の前に内容を考え、如何に要領よく伝えるか考えて準備欲しいものである。発言を始めてから考えを構築している様子は言いたいことが重要であっても切迫感も感じられないだけ聞いていて実に空しく嫌なものだ。時間が勿体ない。

 この点、3/20の青柳日本医師会長候補の激励会で聞いた数人の政治家のスピーチは見事。実に淀みなく立て板に水の雰囲気。決められた時間を上手に用いて論旨を展開する。しかし、この会での政治家の発言の内容はどちらかというと空虚であった。単純な結論を、枝葉を上手に付けて時間稼ぎしている様子が感じられた。医師会のちょっとした会合に招待されてきてもそれほど話す内容は無いからであろう。

 結局、自覚していただくことしかないのだろうが、時には、周囲の方々の助言も必要であろう。しかし、この様な長老の取り巻きの方々はこれも準高齢者達で有り難く聞いているような状態だから何ともしようがない。

 医師会は、医師会自身のためにも、国民医療を守るためにも、早め早めの世代交代が絶対に必要である。私自身も医師会の役員や代議員の中では若手に属する世代であるが、ソロソロその時期かな?と感じている。


4/6(火)晴れ 医師会打合せ 県医師連盟執行委員会 西島参議院候補激励会 医局会(欠)
1:30起床、ドックx1。紹介状、メール対応ほか。5:30病院、回診、定期処方発行他。9:00-13:20外来、13:30人間ドック説明1名。新入院患者対応。17:00医師会書類チェック+打合せ、17:00医師会書類チェック+打合せ、18:00県医師連盟執行委員会。今期の概要を決定した。西島参議院候補が来秋し激励会を持った。医局会は欠席。19:20病院で残務。20:40帰宅、21:00就眠。

ミニ随想の一覧表を掲載した やはり「継続は力なり・・・」だね
 私が連日記載しているミニ随想も2年続いた。その時々の気分次第で、気の向くままに徒然に書き綴ったもの。内容的にはちょっとした時間を使っての記載で、かつ、連日と言うこともあって、それほどのことは記載出来ていない。実に表面的である。
 しかし、私にとっての利用価値は高い。講演やちょっとした文章書きの時などに結構利用出来る。何処にいてもネットさえあれば資料として使える。そのためにタイトルだけを一覧表に作って利用してきたが、その表も今回掲載してみた。
 
 徒然日記のページのバックナンバーの下の部分に「徒然随想 題名一覧」として2002、2003年分を載せた。自分の資料としての一覧表よりも随分すっきりとした。つらつらと眺めているだけでもいろいろ思い出される。

 まあ、私にも好きな言葉もあって「山上に山あり、山また山・・」「Proceed at your own risk」など時折記載して来たが、「継続は力なり・・」と言う言葉も好きな言葉である。心に染みる好きな言葉のうちで自己を啓発してくれるようなものは何とか実行したいものと思っているが、この「継続は力なり・・」と言う言葉に関しては、このミニ随想を並べてみると何とか実行して来たなとチョッピリではあるが満足感を感じてしまう。それほど資質として恵まれていないと自認し、ならば「継続を力にすべき」と思っていろいろ地道にコツコツとやってきたがその過程を形に出来るものはそれほどあるものではない。自分以外の目から見た場合、問われるのは結果だけだから、その意味では私は大したことはやってこなかった、出来なかった、と総括すべきであろうし、そのように評価されるだろうが、その寂しさ、空しさのなか、このミニ随想は自分の一面を形に出来ている一点としてちょっと満足している部分である。それがまた毎日継続するエネルギーの源にもなっているのだろう。


4/5(月)快晴 管理会議 長副会議 医師会医事紛対策委員会(欠) 
1:30起床。人間ドックx1、紹介状他、他2,3処理.5:20病院着。回診ほか。8:00管理会議.9:00-13:30外来。14:30入院患者処置。15:30障害児等の判定医の推薦について県子育て支援課及び健康福祉部部長がわざわざ来訪された。16:30-19:00長副会議。重要案件ほかでことのほか時間がかかった。その後に患者対応もあり、医師会医事紛対策委員会は出席出来なかった。20:30帰宅、21:00就眠。

大逆転!―コンチネンタル航空-奇跡の復活 日経BP社
ゴードン・ベスーン (著), スコット・ヒューラー (著), 仁平 和夫
価格: ¥1,890 (税込)

 私は航空関係の本が大好きである。新型航空機の紹介、ヒトや巨大なシステムの運用、安全対策、サービス、危機管理、緊急事態への対応、事故の際の原因究明過程、事後処理など、どの点を見ても興味津々たるものがある。特に羽田空港内の書店にはこの関係の書籍が沢山陳列されている。出張時の飛行機のなかで航空機事故や墜落等の書籍を読んでいることも希ではない。
 航空関連の各種の対応、経営などは医療機関にとっても医療関係者にとっても共通点が少なくなく参考になることも多い。また、事故への緊急対応や事故の究明過程は診断困難な重症患者の分析、診断、治療の過程ともよく似ている、ということも私が好んで読む理由の一つでもある。

 2ヶ月ほど前に横浜の娘の家を訪れた。婿殿は大変な読書家で引っ越しからそれほどたっていない新居の自室には広いジャンルの書籍が未整理のままうずたかく積まれていた。それを眺めているときに目に入ってきたのがこの本である。
 手に取ってみると、内容的には航空機の話ではなく左前になっていた航空会社の経営の建て直しの話である。
 米国のコンチネンタル航空と言えば超一流の航空会社として評価されているが、この本で実際には大変な会社であったことがよく理解出来た・・・と言うより驚いた、と言うのが感想で、この分厚い本をとりつかれたが如くに一気に読み切ってしまった。

 この本は、コンチネンタル航空が、破産・倒産直前から見事に立ち直った戦略を記した本で、CEOの視点から記載されている。記述は第1部: 最低のエアラインからナンバー1企業へ。第2部: 成功へのフライト・プランの二部構成になっている。

 著者の経営を立ち直すための事実のクールな分析過程、それを元に打ち出す数々の戦略について記載されているが、例えを交え記載されているなど、実に解りやすく、この種のジャンルの本の中ではとても読みやすい。戦略としては斬新なものはないものの共感できることも多く、考えさせられるものが多々あった。

 著者は従業員との信頼関係がいかに大事であるか、を何度も何度も強調している。そして的確で分かりやすい戦略を打ち出し、一つ一つクリアする実績をしめしながら、働く意義や喜びを少しずつではあるが確実に与えていく。その過程が面白い。
 コンチネンタル航空と言う巨大企業の知られざる内情を知るためにもとても参考になった。


4/4(日)快晴、今季初テニス 病棟拘束 
2:00起床、人間ドック判定総括x1,紹介状3,NP、評価機構など種々。休日の朝はさすがに時間的に余裕あり、Vn練習etcも。10:30出勤、回診、業務種々。13:00-16:00梅林園,家内は右膝の故障で参加出来ず。F一家とテニス,7-5,7-5,6-4。10/19のアキレス腱断裂以降初めてで、約半年ぶりのテニス、低レベル.初日なので早めにあがる。16:30-19:00病院.怪我のために乗れず、半年病院の駐車場に放置してあったハーレーのエンジンをかけてみたところ、うまくかかり心底驚いた。もう少し気温が上がるのを待って通勤に利用する。19:30帰宅,21:00就眠。

自伝 大学時代 (1965〜71)(36)
突然の休講。実習グループの一人のF嬢と弥彦に出かけた
 専門4年の9月頃だと思う。もう記憶も定かでないが、二時限に予定されていた何科かの講義が突然休講になった。その日は午後は授業がなかったために私どもは突然フリーとなった。帰り支度しているときにたまたま実習仲間のF嬢と一緒になり、あまりの天気の良さにどちらからとなく何処かに行こうかと言うこととなった。私はそうは言っても新潟市内のそれなりの場所は一切知らないし、・・と言うことで、一度自転車で往復したことのある弥彦神社に行ってみることとした。国鉄(1982年にJRへ)で吉田駅乗り換えで弥彦駅に向かい、弥彦神社を見学、時間があったためにバスで弥彦山の山頂付近まで行った。山の上は景観はとても良かったものの、思いがけなく風が強く、実に寒かったこと以外あまり覚えていない。
 この時は休講を利用した、一寸したハイキング程度であったが、以降、若干だけ彼女と親しくなるという効果はあったようである。


4/3(土)雨-曇 散髪
2:00起床、HDD判定総括x1他。医師会関連文章校正。6:00病院着、3日間留守で机上は郵便物、院内書類、ファックス、カルテの山。本日は比較的時間あり次々と処理。紹介状返事x3、総括x2など各種残務処理10:30-12:30外来。今日を逃すとしばらく出来ないので散髪に、その間ぐっすり。何かに身を任せて受け身になると直ぐ寝てしまう。14:30-18:00残務処理、回診等。帰宅。知人から戻ってきたマック
Performa5320 (1995/12発売)が病棟の看護師の弟さんが卒論のために使うと言うことで貰われていった。医師会選挙についてのまとめ作成。21:00就寝.

秋田県農業試験場を見学。アウシュビッツ、ビルケナウを感じたショック
 先日3/19午後、秋田県農業試験場で講演する機会があった。初めて訪れるところであり迷うと困るので若干早めに病院をでた。実際に来てみると数年前まで時折バイクで通過していた道路沿いにあったために迷うこともなく、思った以上に早く着いた。当試験場は平成12年に河辺郡雄和町の雄物川沿い、高尾山の登り口にからそれほど遠くない当地に移転したという。私がバイクで大曲の外来に通っていた時、帰路は適当に回り道をしながら病院に戻ったが、その時に何度かこのルートを通過したことがあるが、そのころ影も形も無かった場所である。そこに試験場が忽然とあらわれた・・という印象である。

 40分ほど前に着いたので川沿いや周辺をぐるりと回って見たが、高尾山の登り口はまだ閉ざされており、更に、時間が余ったので農業試験場の敷地に入ってみた。駐車場とかもからなり広くとられており、事前に抱いて来たイメージとはかなり異なっている。裏には農場もあるようだ。部外者が車を入れるには、許可が要るか?何処にも書いていないので恐る恐る建物の裏に回てみた。裏には予想した以上に広大な農場が広がっていた。秋田県もたいしたモンだ。緊縮財政の折りにすごいことをやるモンだ、と感じてしまった。更に、単に広大なだけでなく、道路は整然と延び、建物やビニールハウス、畑地も実に整然と区画されて見事な風景であった。
 
 私はそこに乗り入れた途端にこれは何処かで見たことのある風景だと思った。2000年9月に訪れ強烈な受けたたアウシュヴィッツビルケナウ のイメージである。全く場違いの農場試験場で、しかも秋田の・・で受けたこと自体に自ら大きなショックを受けた。
あのような、急造された施設であっても実に整然と作り上げたことに、ルールを重んじるドイツ人の気質の一端をみ様な気がしたものであった。

 その受けた印象が強烈であった故に、その印象を講演のイントロとして話したが、後に戴いたお礼状には、試験場の職員の多くが私の言葉に大きなショックを受けたと記載されていた。
 
 実際に花が咲き、葉が萌える時期にはまた別の印象を持つものと思う。機会があったらもう一度見学に訪れてみたい
  
  秋田県農業試験場のURL:www.agri-ex.pref.akita.jp/#intro

  


4/2(金)晴天   日医N0110 定例代議員会二日目
3:00起床、読書、病院から持参の業務など。7:30葉っぱとコーヒーで朝食。9:00日本医師会館着、9:30日医N0110 定例代議員会二日目。会長挨拶では植松新会長の落ち着いた、抑制の利いた就任挨拶と施政方針。会内・会外政策共に前体制とは一線を画する方針もチラホラ。期待が持てる様に思えた。会長の能力は折り紙付きだが、執行部各員の能力は未知数。日本医学会会長は森氏から高久文麿氏に交代。当たり前だが、かなり老けた印象。代議員会の議事は予算案、代表質問、個人質問共にまずスムーズに進行。昼食休憩1時間はさみ、思いがけず15:00に終了した。会長・局長と共に帰路に。途中病棟より電話。患者数人不調らしい。18:10JAL。AirBus A300-600型。秋田地方悪天候で羽田に戻る可能性を秘めての離陸。さすがに大揺れ。19:30無事着陸、20:00病棟回診、 21:45帰宅、22:30就寝.

私はソファー類が嫌い。 ゲーテも同じ感覚だったらしい
 私は一日のうちの大部分の時間、基本的には病院での回診の時間、歩いている時間、若干の運動の時間を除くと殆ど椅子に座って過ごす。多忙な時には尻に褥瘡が出来るのではないか、あるいはエコノミークラス症候群を発症するのではないか、と心配になるほど長時間椅子に座っている。私はこのような生活パターンが嫌いではないからそれほど苦痛に思っていない。基本的に高めの固い椅子を好み、ソファーやクッションの良い低めの椅子を好まない。キャスター付きでどの方向にも動ける機構であれば通常の事務用机で十分である。

 高級な椅子、応接セット等の椅子、ソファー等はかなり安楽に過ごせる様に出来ているが、この様な椅子に座ると私の身体も気持も安楽モードにセットされてしまう。だから好まない。秋大第三内科で勉強していたとき医局のソファーを買いに行った際に試しに一度座ったが、その後数年間一度も座ったことがなかった。そう言えばソファー族と言いたくなるほどソファーを好む医師も何人か居た。今の病院の医局のソファーにもまず座らない。会議の場として応接室は用いないし、その様な場合には替えて貰う。自宅でも殆ど食卓の椅子に座る。要するに座った時のあの安楽モードが嫌なのだ。

 数日前たまたま読んだ本にゲーテと彼の椅子のことが書かれてあった。
 ゲーテ記念館にある彼の愛用の椅子は殆ど背もたれが直立した、頑丈一本槍で単純なものであるらしい。彼は椅子について「安楽というのは全く私の性格に合わないものだ。私はいつも木の椅子に座っているのだ。安楽で上品な家具を身の回りにおくと考えがまとまらず気楽な受動状態になってしまうのだ。若い時からそのような環境になれているなら別だがきらびやかな部屋とかしゃれた家具といったものは思想も持たず、また持とうともしない人達のものだ・・・・」と述べている(岩波文庫:ゲーテとの対話)。

 彼が残した言葉をそれほど知っているわけではないが、医師にについては「医者なんて信用できるものでないが、医者なしでやっていけないところに我々の苦悩があるのだ!!」と言っている。この言葉も面白い。ゲーテがちょっぴり身近になった様な気がした。彼の作品を何時かまた読んでみたい。


4/1(木)東京 快晴 温暖 日本医師会N0110 定例代議員会初日・選挙 植松氏会長に選出
2:30起床、徒然など記載。本読み。ホテルの電話ではメール、ネット共に動かず更新は諦めた。持参の本3冊ほどに目を通す。7:00朝食、8:30会長と日医会館に。9:30-14:00昼食時間を除き選挙。選挙はまず代議員議長選挙が行われわれわれが押す石川副代議員議長、岩手県医師会長は残念ながら落選した。この結果は出身母体が同じだけに次の会長選挙の結果を予想されるものであり、結果的に会長選挙は青柳陣営は票読みよりも大幅に少ない票で大差を持って落選、植松新会長が当選した。その後、青柳キャビネットの副会長候補が辞退せずに選挙を行ったが、会長選挙と同じ傾向で全員落選した。15:00本購入して帰ホテル、読書+業務。19:30外食。21:00就眠.

日医会長選挙(4) ブロックごとの推薦などはやるべきでない
 4月1日の本日、日医医師会、代議員議長、会長選挙日であった。選挙結果は代議員議長に立候補した石川岩手県医師会長、青柳会長候補共に敗退した。日本の医療を左右する大事な日本医師会長選挙が推薦ブロック間の代議員数にほぼ一致した結果になったのは現状の人物、政策優先でなくブロック推薦を前景に出した選挙方法に沿っている以上予想通りの結果であった。大阪+関東+近畿連合に対して、全代議員数の僅か1/3-1/4しか占めていない北海道+東北+九州が対抗しても始めから勝ち目はない。実際には基礎票よりも若干でも集票出来た青柳候補は善戦したと評価すべきであろう。

 今回の選挙は事実上、植松vs坪井の選挙と言うべきであった。植松候補は明快に坪井前会長に対抗した政策を掲げて立候補、桜井候補は前キャビネットの中で重要な働きをしてきた常任理事であり、その面では植松候補とは一線を画するべき立場であった。宮崎候補は医系の参議院議員であり、日本医師会も選挙運動を展開してきた。前回の参議院選挙では落選したが、日本医師会参与として繰り上げ当選の時期を待った方である。従って、彼もどちらかと言えば親坪井の姿勢であった。この3人が結局は談合したということはそれだけ青柳候補が先んじていたと言うことである。談合が発表されないまでは票は分散し、青柳候補が一歩優位に立つものと予想していた。その危機感が植松陣営にこの様な動きを画策させたのであろう。各候補の主張を見た場合、3名の談合は信じがたいものがあるがそれが現実になされたのだから驚いた。恐らく、その陰には単に両候補が副会長として入ると言うことの域を超えた、何らかの取引があったことを推論させる。ハッキリ言えば次期または次次期は桜井氏・・・と言うことであろう。

 今回の選挙は、主義主張をめぐる選挙と言うより候補者の出身母体をもとにした地域勢力間の選挙と言うことが出来る。各候補はキャビネットを構築して出馬したが、地域選挙であるために非推薦母体からの人選は行われていない。これはこの方法である限り当然であり、バカなことである。結局、植松キャビネットには理事としてはブロック代表として各地域から1名ずつ入っているものの、実働部隊としての役員には東北・北海道・九州から一人も入っていない。

 日医の会長選挙はこの様にブロック単位での推薦を背景に行われてきた経緯があるが、私は基本的にブロック単位で特定の候補者を支持したり、推薦するようなことは止めるべきであると考えている。推薦・支持の表明は選挙を、日本医師会の会長の性格、業務遂行を妙なものにしてしまう。勿論選挙であるから推薦者、支持者は居て良いが、これは全て個人の資格でやるべきである。大体、ブロックの絶大な支持を得て選挙を制した会長など、業務の遂行でも他のブロックとの意見の摺り合わせなどに下らないエネルギーを必要とする。
 先に示した事と重複するが、東北医連は医連としての支持を表明すべきでなかった。表明せずとも良識のある各代議員の意向はほぼ固まっていただろうと思う。支持表明の有無は大きな得票数に変化を与えないだろう。だからこそ、真の選挙をするために、日医会長のポストの意義を高めるためにも、表明などすべきでなかったのだ。その新しい行き方こそ日本医師会が新しい時代を迎えた事を示す事になったはずである。各地の若い代議員達なら解ってくれるだろうと思う。
 東北医連は全国に向かってブロックごとの推薦表明を止めるよう積極的に働きかけるべきである。

 植松新会長の働きと手腕に期待したい。植松キャビネットに日医の医療関係者等対策委員会で一緒に仕事をした青木重孝氏が入った。この委員会からは常に常任理事が選ばれてきた。活躍を期待したい。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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