日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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1/31(土)曇り、比較的温暖 病棟拘束
2:45起床、夕べは遅く寝たのでさすがに眠い。ネコのナンナンが約一ヶ月前から健康状態不調で見舞いに長女また帰秋。全員居間でごろ寝中。人間ドック1名分,院内職場討議質問事項への対応.5:30出勤,回診,その他。9:00人間ドック説明2名。10:30-13:00外来.14:00散髪。17:00まで種々業務,回診再度、帰宅。18:30夕食.読書若干。22:30就寝.
3分以内に話はまとめなさい―できる人と思われるために
高井 伸夫 (著) かんき出版
価格: ¥1,300
病院の近くの行きつけの書店、と言うより老夫婦二人で細々と経営している本屋で、月払いの会計をしている間にたまたま見た背表紙のタイトルが気に入って、半ば衝動的に購入した。各種の会合で司会をする機会は多くなったが、発言者の話が長く、何時途切れるのか、何を言いたいのかつかめなくて閉口することも希でない。私自身は出来る限り結論を先に提示して話すようにしており、通常の会合での話が長いとはあまり感じていないが、発言の機会が多いだけに、出来ることであれば更に短くすべきだろう。
著者は、話を短くする効用を得々と説く。なるほどと思う。ただし、本書は話を短くすることばかりに終始しているわけではない。数値化した表現を交える方法など、印象的な話をするうえで身につけておきたい技法にも言及している。また、講演などの長い時間が与えられている場であっても、「1つの話を3分以内にまとめる」という姿勢が肝要とも説いている。時折有名人のスピーチが引用されているが、カルロス・ゴーン社長の引用部分は参考になった。
この本は主にスピーチの技法を説いているが、著者の意向が構成にも生きており、小項目ごとに程良く簡潔にまとまっている。この考え方は小文を書く際にも大いに参考になると思う。
結局、著者が最も言いたかったことは最終章の「自分を磨けば言葉が生きる」と言うことに集約されている。
この様な、常識的で分かり切った内容のことを解りやすい文体で延々と説くことは簡単なことではないと思うが、著者は上手くやりきっている。別著に「朝10時までに仕事を片づける」があるが、私は朝8時半までにルーチン業務は終了させることにしているが、彼はどの様に論旨を展開しているのか、興味を覚えた。これも是非読んでみたくなった。
1/30(金)雪-曇り 県医師会打ち合わせ 国際医療福祉大学員来訪
家内1:00帰宅。2:00起床、人間ドックx1、 紹介状他処理 etc .夜間の積雪5cmほど、5:20病院着、回診他。10:30-11:30外来新患補助、患者数人のみ.入院患者家族との相談2件。県医打ち合わせ。19:30-21:30国際医療福祉大学の加藤尚子氏来訪、秋田県・秋田市の医療連携についての調査関連。市医師会高橋理事と対応し、秋田県の連携や医師会の関与の現状の説明など。 22:00帰宅、22:30就寝。
万年筆:シェーファーを修理に出してみた(2)。
シェーファー万年筆のキャップ部分が使用中に、何ら特別の力を加えたわけでは無いのに3つのパーツに分かれてしまった。何とキャップが3層構造になっている。これは思いがけない構造であった。層間の接着が不足だったのであろう。貰い物でもあるし、そう高価にも見えないからこのままにしようか、ボンドでも使って自分で治そうか、と迷ったが一応、日本の総合代理店をしている日本シーベルヘグナーKKに連絡を取ってみたところ、修理可能とのこと。外資系の会社との対応で今まであまり良い思いしたことのないが、担当の女性の対応は実に爽やかであった。早速送ったところ翌日には完了との電話連絡あり、更に翌日には宅急便で戻ってきた。実に早い対応で4-5日で解決してしまった。モンブランの時とは大違いで驚いた。実はその時に同封されてきたカタログでシェーファー、ラミーの値段を知って意外と高価な品であったので驚いた次第。それまで、NHKの記念品であるし、せいぜい2-3千円の品かとの印象を持ったというのが正直なところで、この万年筆をちょっとばかり見直した。
昨日、この時の担当者の配慮で同社が扱っているラミー(独)、シェーファー(米)、オーマス(伊)、ファーバーカステル(独)、等の筆記用具カタログが送られてきた。見事な装丁の小冊子となっており、そこには私の知らなかった超高級、精緻な万年筆から実用品に至るまでの製品の世界が展開していた。一部の品は100万円ほどの値段が付いている。最初は、実にくだらん世界・・との印象をもったが、微細な部分まで詳細に紹介されている写真、説明文を見ている内に見事な芸術品としての価値として容認したくなった。
このカタログだけでもかなり高価なはずである。私みたいな実用品一辺倒のユーザーに送っていただいても会社で利するところはないはずである。ただ、この会社は秋田の一人の万年筆愛好者に新たな感動を与えてくれたことは確かである。担当者には心から感謝したい。
故障したモンブラン、これも芸術品である。机の中に眠らせて置くには惜しい。修理して使いたいという気がしてきた。
1/29(木)曇・晴れ 院内感染対策会議(欠) 療養病棟診療部会議
1:30家内帰宅を機に起床。人間ドック1名分等いつものごとし.5:25病院着、回診他。総括・紹介状などに追われる。9:00-13:00外来、14:00院内感染対策会議には時間の調整つかず欠席。評価機構関連業務。17:00-18:00療養病棟診療部会。入院患者不調、対応。20:30帰宅、21:00就眠。昨年は新雪と吹きだまりで帰宅後除雪機で8回目の除雪をした日であるが、今年は自分ではまだ一度も行っていない。
万年筆:モンブランからシェーファー、ラミーに代えてみた(1)。
20年以上も長く愛用してきたモンブランの万年筆、2年ほど前に先に机から落としてペン先を傷め、大阪の代理店に送って修理した。2万円ほどの経費と約2ヶ月かかった。手作りだというのでやむないかと思っていたが、最近キャップの金属クリップが疲労のために亀裂が入り折れてしまった。本質的故障でないので何とか使い続けていたが、最近ペン軸に縦に2cmほどの亀裂が入ってインクが漏れ手を汚すようになった。これではどうにもならない。キャップと軸の修理には2ヶ月ほどで3万円ほどもかかるという。ちょっと高すぎるのでビビッて机のなかにしまい込んでいる。
古いパイロット万年筆が数本あるが、これを機会にNHK放送への出演の記念品にもらったシェーファー万年筆が2本、ラミー万年筆が1本手つかずに机の中にあるので両者を出すことにした。自分にとっては今まで馴染みの無かったブランドの製品である。前者二本は自宅用と外来用にし、病棟ではラミー万年筆を用いることとした。前者は米国製品でPreludeと名の付く約1万円ほどの品、後者はドイツ製でLamy2000と言う名の1.5万円ほどの品である。
ところで、激しく安く値切って仕入れているのだろうが、NHKはちょっと無駄遣いしていないだろうか。確かに出演のストレスには値段は付けられないが、出演記念としての粗品にしてはちょっと豪華すぎる。視聴料を支払っているユーザーの立場でもNHKはもっとスリム化しなければならないと日頃から感じているが、ちょっとこの分野でも無駄遣いのような気がする。
シェーファーとラミー万年筆では造りが全く違っていて面白い。前者は細部には拘泥しないイメージの造り、後者は細部まで実に精緻に出来ており、驚く。そういえばハーレーの造りも国産に比べると明らかに大まか、大陸的イメージである。
1ヶ月ほど前に外来用のシェーファーのキャップが壊れた。
1/28(水)寒波・降雪若干緩む 県医師会理事会 県薬剤師会薬学懇話会シンポジウム打合会
2:00起床、家内一寸前に帰宅。人間ドックx1、紹介状等.5:30出勤、降雪2-3cmほど。9:00-12:30外来、患者は比較的少ない。13:30ドック診察x4。16:30-19:00県医師会理事会+委員会+会長との打合せ。19:00-20:20薬剤師会にて薬学懇話会シンポジウム「医薬分業」打合会。20:50帰宅。21:30就寝。
吉野家に行ってみたくなった
最近、通勤時に妙に吉野家の看板が目に入ってくる。吉野家が牛丼屋であることくらいは私も知っているがもともと食事回数が少なく、外食を好まないから必要性もなく、まだ一度も入ったことはない。実は、この吉野家には興味が無かったわけではない。その徹底したコスト削減の努力とその中からの利潤の確保の並々ならぬ努力について何かの本で読んでから、かなりの関心を持っていた。細やかな工夫によって、客にレベルダウンを感じさせることなく、いやそれ以上に満足感を高めながらの2円、3円のコスト削減に努力しているその経営姿勢について、すっかり感心したことがある。今回の米国のBSE騒動で吉野家は別の意味で大きく話題を集めている。2月以降には肉の備蓄が底をつき方向転換を迫られるらしい。この危機をどう乗り切っていくのか、関心と興味が尽きない。いや、それだけでは駄目だろう、私も、実際には機会は無いかも知れないが、何時かは一度入ってみようかと思い始めている。雀の涙以下であろうけれど店に協力もしてみるのも悪くない。
雀と言えば鶏のトリインフルエンザ問題、これも大変である。ヒト-ヒト間の伝染はないだろうが、排泄物、あるいは養鶏場の粉塵などの吸引でヒトも罹患しうるし、重症である。伝播経路が不明なだけに我が国でも今後問題になりうる状況にある。鶏も大変、人間のエゴで狭い空間に押し込められてひたすら産卵にいそしみ、卵を産めなくなった、病気になったとしては処分される。生命体としては気の毒でしかない。厚労省はトリインフルエンザワクチンを南米から緊急に輸入すると言うが、ワクチン接種によっても感染は防げないとされており、現状では全羽の処分が基本である。経営者に対して何らかの保証など在るのだろうか。気がかりである。
1/27(火)曇り-雪 県医師会打ち合わせ 医局カンファ Mozartの誕生日
1:30起床,人間ドックx1。その他。家内起居疼痛で不自由そう。5:20 病院着、道路は積雪ないも鏡面状。車は少しずつ脇の方に滑る。回診他、定期臨時処方箋40枚送付。午前予約外来9:00-13:00、15:15-16:20県医師会へ.17:30医局カンファ「胆道癌の治療」、難手術に向かう外科医のエネルギーやルーツは何だろうか、と感じた。20:20帰宅、21:00就寝。
Mozartの誕生日にちなんでモーツァルトの死について
ヒトは誕生すると例外なく、必ず死を迎える。Mozartの誕生日にちなんでモーツァルトの死について考えてみた。
彼の死因については未だに毒殺説と病死説が対立している。
モーツァルトの書籍を見ても作品についての記述、元気であった頃の生活については詳細に記載されているが、死去する頃の記述はあまり接することはない。聖シュテファン大聖堂の死亡台帳などに「急性粟粒疹熱」と記載されているとのことで、「国際モーツァルテウム財団モーツァルト中央研究所」は病死と発表しているが、死因は不祥としている。しかし、失神、嘔吐、身体の異常な膨張、遺体の強烈な腐臭といった不思議な現象が他の文献には記述されている。しかも、死の少し前、妻のコンスタンツェとプラーター公園を散歩していたときに、彼は「僕はもう長くはないだろう。きっと誰かが毒を盛ったのだ。」と妻に語っていたとされ、この2ヶ月ほど後に実際に彼は死去した。臨終の場に居合わせたのは医師クロセット、妻のコンスタンツェ、義妹ゾフィーの3人だけ、と言う寂しい最期であった。
後に書かれた資料等から、現在までに提唱されてきた病名は、「リューマチ熱、脳腫瘍、尿毒症、水銀中毒、発疹チフス、悪性インフルエンザ、連鎖球菌感染症、細菌性心内膜炎、毒性甲状腺腫、シェーンライン・ヘノッホ症候群、梅毒・・・・」と枚挙にいとまがない。
だが、これらは医学記録に基づく判定ではないし、医療関係者の記述は殆ど無かったので、医療関係者が一致できるような死因病名はまだ特定できていないし、今後も出来ないであろう。
モーツァルトは死の約半年前、灰色の服を着た不気味な男が注文したと言われる『レクイエム』に加え、2つのオペラの作曲に追われて健康に気を遣う余裕、暇はなく、恐らく自ら死期を早めていった様に思えてならない。
モーツァルトの葬儀と埋葬は、聖シュテファン教区死亡者名簿に12月6日をとある。「魔笛」等のオペラを通じ、当時の大スターであったモーツァルトは、何故かウイーン市民に知らされることもなくひっそりと埋葬された。亡骸が何処に葬られたのかも解っていない。彼の晩年の素晴らしい作品を聴く度に、私はいつも彼の寂しい死に想いをはせてしまう。
1/26(月)雪模様 管理会議 献血液事業推進協議会 長副会議
1:30起床、人間ドックx1、紹介状、医師会原稿と校正何とか一段落。5:30病院着.雪が更に7-8cm。回診、他。8:00管理会議。9:00-13:00外来。交通機関の問題か、患者が極めて少ない。年末年始から4週目と言う影響も。14:00-16:00県庁議員庁舎会議場で秋田県血液事業推進協議会。議長つとめる。16:00-18:00長副会議、年度末迎え懸案事項多数。入院患者も重症化している。夜の回診、20:30帰宅21:00就寝。
家内が右膝の靭帯損傷した
いつもの如く起床したところ家内が帰宅していたが、動きがぎこちない。怪我したという。昨夜21:00頃、帰宅しようとして駐車場で雪に足を取られ、転倒はしなかったらしいが身体を支え切れずに捻って右膝のを痛めたのだと言う。救急外来で整形外科医の診断をうけ、靭帯損傷とのことでサポーターのレベルで経過観察をすることになったらしい。私は熟睡中の時間帯とのことで隣に住む実姉親子に迎えを頼み、帰宅したという。
じっと座っている分にはそれほどでないらしいが、歩行時と体重を支えたときの疼痛はかなりのものらしい。運転も困難だとのことで明日からの通勤は甥に送迎を依頼したとのこと。まだ受傷直後なので今後のことは何とも言えないが、仕事は通常にこなすとのことである。
室内での歩行の様子を見ても大変そうで、車までの短距離とはいえ、雪道では危険でもある。更に業務での外来や内視鏡室、病棟数カ所と移動距離はかなり長い。通常の患者さんであれば勤務に出ることは考えがたいほどの状態であるが、家内の場合は恐らく休まないだろう。業務はこなすにしても、疼痛が緩和し若干動きが良くなるまで入院し、病室から出勤する方が良さそうな状態にみえる。
その様に勧めたが素直に了承するはずもないが・・・。
秋の私のアキレス断裂は降雪前に歩行可能になる予定であったから助かったが、この時期の受傷は厳しい。特に家内の場合には不利な条件もあるから、どういう経過になるのだろうか、心配である。
1/25(日)曇り-晴れ やや温暖 病棟拘束
中通リハビリテーション病院の当直室で1:30起床。人間ドック、紹介状、主治医意見書、訪問看護指示書など種々処理.徒然日記送付。メールへの返事数件。7:20検食、8:30病院に移動、重症、懸案患者回診処置。11:45帰宅、Vnなど。「すこやかさん in Akita」の原稿に向かう。僅か800字であるが、今回はなかなか興が乗らず、もう5日間もだらだらとかかり切っている。16:00-18:30来客、ピアノで若干合わせていただいた。満足。20:30就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(26)
当時は医局民主化の要求もあり、新潟大学でも構内のあちこちにバリケードが作られ、医局・研究室の占拠もあった。1967・68年(昭和42・43年)卒生は国家試験をボイコットしてまで闘ったような気がするが、この辺の記憶はもう定かではなく若干の間違いがあるかも知れない。
私が実行委員長を務めたのは昭和42年度の運動の時でしたが、この間に、街頭デモ行進、医学部の運営に携わっている教授室訪問(半ば押しかけ)と対話、教授会との深夜に及ぶ団交、過激なデモでクラスメートが拘束されたことを受けての新潟警察署前の長時間の座り込み、・・・などを経験した。あのころは何かにとりつかれたように次々とエネルギーが湧いてきたように記憶している。膠着状態を打破する手法などについても学ばせられた。私どものクラスも都合3回の授業ボイコットに参加した様に記憶する。
一方、政府は、我々学生や若い医師達の要求を無視し続けた。最終的には若い医師の身分や経済的な保障に関しての施策を欠いた状態で、1968年度からインタン制度を廃止した。制度廃止後は、医学部卒業生はどこかの病院や大学の医局で自主的に研修し、厚生省に2年間どこかの医療機関で研修しましたと報告するだけの「報告医制」となった。この制度には義務も罰則もなく、この後長期間にわたって、本年の初期研修必修化につながるまで卒後臨床研修は混迷した状態のままとなった。
私にはこのインターン闘争への参加はいろいろな意味で良い経験となったが、今でも心の傷になっていることも少なくない。時に悪夢としてうなされることもある。ただ、当時発言したことなどには今でも責任を感じ、自らとらわれ続けていることも少なくはない。私自身の臨床修練のために秋田大学に入局し、結果的には博士論文も提出した。このことは当時の自分は否定的な発言をしていたことでもある。しかし、自らに課した一連の目的を達するためには他の方法は考えがたい状況であったために自身に反する行動を選んでしまった。私は医局を辞してから20数年間、病院の公務で1-2回医局を訪れたほかは一度も訪れなかったし、招待を受けても医局の行事には一切参加してこなかった。私の行動は医局にとっては迷惑、不可解な行動、礼を欠いた行動とうつったであろうが、そのルーツはここにある。博士号取得前後にも周辺に多大な迷惑をかけてしまった、と、思っているが、自分の考えを通すための一方法であった。
1/24(土)晴-曇り、やや寒気ゆるむ 病棟拘束
1:30起床、ドックその他、いつもの如く、Vnも。4;30家内帰宅。疲れて若干寝てきたという。それは良いことだ。5:30Taxi出勤、回診、重症者2-3名.紹介状、総括他書類処理。10:30-13:00外来、患者家族との面会2件。病棟重症者対応他。16;45リハビリ病院に。残務処理、県医師会の原稿進まず。20:30就寝。
文部科学省の学力テストで理数系で学力低下と
高校3年生を対象とした文部科学省の学力テストが11/12全国で行われたが、本日の新聞はほぼ全紙でこの結果について報じ、特に理数系の学力低下を指摘していた。
高校生を対象とした今回の調査は国立教育政策研究所が抽出した国公私立約1400校の生徒約10万5000人が受けたと言う。国語と英語は文科省が設定した目標にほぼ達していたが、特に数学と理科は大きく想定を下回った。今回は学習意識についても調査しており、勉強嫌いが70%超、学校以外で勉強は殆どしないが44%もあったとし、勉強意欲の喪失も明らかになった。
数年前から分数を知らない大学生が居るなど学力低下が指摘されていたが、文科省は客観的データがないとこれを否定していた。今回の結果ではそれを裏付ける厳しい結果が示されている。文科省は経年的変化を見なければ何とも言えないと、慎重なんだか、無責任なんだか解らないコメントを発表しているのも面白い。確かに、無作為対象者での結果だから評価は慎重でならなければならないことは確かである。
多分、言われている様に実態は2極化しているのだろう。2000年の全日制高校への進学率は93.2%にもなるのだからこの試験で示された値は、私はほぼ納得できるものと感じている。
学校教育とは何だろうか??と疑問がわく。柔軟な感受性がある子供達への教育はとても重要。教育者に求められるべき資質は真の意味で医療人よりも遙かに大きいと私は思っていおり、教育が充実すれば社会全体が変わっていくとも思う。
教育に国や県が細やかに関わりすぎているのではないか、教師を雁字搦めにし過ぎているのではないか?? その結果、教師は人間型の教育マシーン化したのではないか??と正直なところ私は感じている。
1/23(金)風雪寒波で風冷たし 医務薬事課来訪 サービス向上委員会 法人理事会
1:30今朝も家内の帰宅で覚醒。ドック関連x1、紹介状x2他、Vn etc 。5:20Taxi病院着、積雪5cmほど除雪はやらず.回診ほか。10:30-13:50外来+ドック診察x5. 14:00県医務薬事課来訪、次週の血液事業推進委員会の打合せ。16:00-17:00サービス向上委員会。17:30-19:00法人理事会、懸案多数。20:30帰宅、21:00就寝。
世界中でイスラム教徒達は不安な日々を送っている
昨年に米国政府が発表した世界の宗教に関する年次報告によると、世界各地でイスラム教徒に対する嫌がらせや虐待が増加していると言う。
最近のニュースからみても、英国ではイスラム教徒は160万人とされるが、2001年9月の同時多発テロ事件の後の年内のイスラム教徒に対する暴力事件は344件報告されている。イタリアには100万人がいてペルルスコーニ首相が教徒に対して差別的発言をして物議をかもした。フランスの教徒は400-500万人。イスラム教徒の女性が公の場でスカーフを着用することを禁止しようとする政府の動きがあって時折大きく報じられている。ドイツにも300万人のイスラム教徒がいると言うが今のところは大きな事件はないようだ。
かつて白人系の移民しか認めない「白豪主義」を取っていたオーストラリアは1970年代に、アジア、中東地域などからの移民を受け入れ、人口約1200万人のうち23%が海外出身者となっている。宗教的に見ればキリスト教徒が70%で、イスラム教徒の1.2%、仏教徒1.1%、ユダヤ教徒0.4%などとなっている。
2002年10月バリ島で起きた爆弾テロ事件で100人近いオーストラリア人観光客が犠牲となったが、イスラム過激派による犯行との疑いが濃くなるに従い、オーストラリア国内に暮らすイスラム教徒たちへの嫌がらせや脅迫などが相次いでいて、善良なイスラム教徒も今不安な日々を送って居るらしい。多くの移民を受け入れ、多様な文化・宗教模様を織り成しているオーストラリア社会がは今、その寛容さの限界を試されていると言えよう。
日本ではこの様な問題は実感として全く感じることは出来ないが、欧州を始め諸外国では多数の人種や宗教が入り交じっていて、政治的にも社会的にも運営の難しさ、混乱の基にもなっている。やはり中でも困難なのは宗教問題。何処の国でも問題にせぬように鷹揚に構えてきたようにみえるが、最近様変わりして来ているようだ。
外国人の犯罪が目立つようになってきているとはいえ、日本の社会はその様な困難な状況には全くないといえる。これ一つをとっても日本の政治家は楽である。ならばもっと国内外の懸案の解決の為に集中して欲しいものだ。国会中継等聴いていると堂々巡り、まだるっこくて厭になる。
1/22(木)全国的に寒波・降雪と。仙台快晴 東北ブロック感染症危機管理会議(仙台)秋田今冬一番の寒波降雪
1:30家内の帰宅で目覚める。ホントにご苦労さん。ドックx1、Vnなど・・。5:20病院着.回診他。8:30-9:15外来。10:06こまちにて仙台に。13:00-17:00東北ブロック感染症危機管理会議(天然痘テロ対策関連)。17:38こまちにて帰省。途中大曲付近まで熟睡して意識なし。秋田は朝と様子一変、積雪10cmほどか。よこなぐりの雪で吹きだまりも出来ており積雪量が判断できない。20:30帰宅。幸い市の除雪が家の前まで終了しており私はやらないで済んだ。21:00就寝。
かつて、患者は「風邪のようです」と言えば怒られた。これぞ医師の高慢さのあらわれ
昨日秋田駅からの帰りタクシーは、偶然にも私が懇意にしているタクシー会社から最近何かの事情で別会社に移った中年の運転手さん。タクシー業界の中での様々な話にも花が咲いたが、後半は秋田でもインフルエンザ警報が出たとの話であった。私は警報発令が出たことは初耳であったが、自分の担当する病棟での罹患状態から見て素直に納得すべき状況にはある。
その運転手さんの言ういことには、かつては受診したときに「風邪を引きました・・」と医師の前で言うと「何で風邪だとわかる!!それは俺が判断する・・・」とたちまち怒られたものだといっていた。ところが、つい先日もある病院の中年の医師からそういわれたとのこと。確かにこの話は方々で聞くことがあるが、今でも言う医師がいるのかと呆れかえってしまった。この話にこそかつての医師の高慢さ、増長さが見て取れる、最も嫌な話の一つだと私は思っている。
医師は患者が風邪に罹患しているのかなど、本当のことは分からないものなのだ。詳しく診察しても多くは何も所見がないか、あっても発熱と咽頭の発赤程度である。大体、何か著しい所見があれば少なくとも風邪ではないのだ。何も所見が無い患者の診断のよりどころは、何と言っても患者の症状の説明である。そのなかで患者が感じている身体的違和感など、他人の医師にとって分かるはずもない。だから症状の説明が最も役立つ情報なのだ。で、患者が自分の経験に照らして「風邪の様です」と言うことは100%参考にすべき大事な情報で、医師にはそれを覆すだけの理由もあるはずもない。在るのは自分から「風邪ですナ」と一言、格好つけて言えないプライドの喪失感だけである。そういう医師ほど「治してやる」式の説明を加えて沢山の薬を出す傾向がある。風邪に直接効果を持つ薬など無いにもかかわらず、である。患者が自分の体力で時間をかけて治して、お金を戴くのは医師・医療機関、これが医療の不思議な一面でもある。
何も不快な思いして医療を受ける必要はないのだ。だからそんな医師にはかからない方がいいよ、とタクシーを降りるときに一言アドバイスしておいた。
1/21(水)曇り-時に降雪 中小企業組合来訪打合せ 長副会議
2:00起床、ドック処理X1。3:00家内帰宅。Vnなど多少。原稿2種類着手。Taxiにて5:20病院着、6:00回診、退院患者紹介状作成。9:00-13:30外来。ドック診察x2、14:00中小企業組合来訪、2月中旬のSARS講演打合せ。医療評価機構関連。16:30-18:40長副会議、懸案事項多数。20:30帰宅。21:00就眠。
日米交渉。BSE問題ではわが国は珍しく奮闘している
BSEの本家は英国。1986年に初めて見つかり、感染した牛の数はケタ違いに多く18万頭に達する。欧州では1996年に肉骨粉の使用が全面禁止された後、発生が激減した。
BSEは異常プリオンが原因で牛の脳がスポンジ状に変化する致死性の病気で、人間に感染するとクロイツフェルト・ヤコプ病となる。英国での死者はこれまで139人と言われる。2000年に28人の死者が出て以後、若干減少していたが、昨年は3年ぶりの増加となって18人が死亡したと言う。
日本でもこれまでに9頭の感染牛が確認された。アメリカでは今のところ1頭のみであるが、米国は世界最大の牛肉生産国だけに衝撃は大きい。日本は昨年、米国から24万トンの牛肉を輸入した。全国の消費量の1/4にあたる。吉野家ではほぼ全量が米国産牛肉を使用していたという。政府は同国からの牛肉輸入を一時停止したが、やはり波紋が各方面に広がっている。
欧州諸国の一部や日本では食用牛の全頭にBSE関連の検査が行われている。しかし、米国では検査頭数が0.05%程度と極端に少なく、チェック体制の強化が緊急課題になっている。米農務省は、現状程度でもチェックは十分、と主張しているが、この考えは危険だ。現に感染牛が市場に出たではないか。
米国政府は日本政府に対し、輸入停止の撤回を迫り始めた。23日の日米協議で、禁輸解除の条件をめぐる実質的な交渉が始まる。日本は、輸入再開には全頭検査と同等の対応が必要、と主張しているが、米国側は、科学的根拠のない過剰な措置だ、と消極的で、安全対策をめぐる日米の溝は大きい。米国も検査頭数を現在の2万頭から4万頭程度(それでも食肉処理頭数の0.1%)に増やすことを検討しているという。
早期輸入解禁問題は米国が新たな安全対策を示すか否かが焦点になる。外食産業などでは早期輸入再開の要望が強いが、政府は少なくとも対日輸出分は全頭検査するよう求める方針だという。
BSE問題に関してわが国の対米政策は珍しく頑張っている。国民の健康を守るために安易な妥協はすべきでない。政府は米国に対し、全頭検査の実施など国内並みのチェック強化をあくまでも要求すべきである。腰砕けにならぬようエールを送りたい。
1/20(火)晴れ曇り 県感染症評価会議 医師会打合わせ 県健康対策課と打合せ 医局新年会+歓送迎会
1:30起床。ドックx1。「すこやかさんin Akita」用原稿送付、他。5:20病院着、新雪なし。回診+定期処方箋37枚発行。9:00-13:30外来。14:00-16:25秋田県感染症評価会議+医師会打合わせ+県健康対策課との打合せ。インフルエンザ、トリインフルエンザ、SARS関連中心。18:00-21:00医局新年宴会兼歓送迎会。21:30帰宅。21:45就寝。
白磁、無常
本金西武地下で開催されている重要無形文化財(人間国宝)「井上萬二と師弟展」は本日が最終日というので夕方の移動時間を利用して出向いてみた。そう広くない会場に、井上萬二とその弟子達5人の作である白磁・青磁・青白磁が100点ほど並べられた展覧会であるが、見事な作品を前にしばし感心してたたずんだ。井上萬二氏は1929年、佐賀県有田に生まれ12代酒井田柿右衛門及び奥川忠右衛門に師事して白磁制作を始め、制作技法の基礎を幅広く習得し、磁器の成形、釉薬の研究を重ね、伝統的な白磁の制作技法を高度に体得した、として高い評価を受けている方である。
私は基本的に純白の磁器を好む。ワンポイント程度の絵とか装飾がつく程度のは厭ではないが地は白でなくてはならない。その点で展示品の一部は見事な造形、色調、手触りであった。造形美として、特に目を牽いたのは真球にあくまでも近い壺の数個で、その作りの見事さには心底から、感心した。
その道を極めた芸術家、制作者等の作品に触れるといつも心が洗われる思いがする。それが素晴らしければ素晴らしいほど、いつも例外なく感じるのはヒトとしての老いと死のことであり、世の摂理と無常さである。今は映像、音声記録もデジタル化して劣化の少ない方法が開発され、多くの芸術家の記録が残せるようになったことで一抹の安堵感はあるけれども、その芸風が次々と失われていくのは実に辛いことでもある。私の場合には音楽家の、訃報にふれた時、特に寂しい思いがしてならない。
1/19(月)終日曇-雨模様 管理会議 理髪組合講演「人生60年」
1:30起床。ドックx1他種々。5:10病院着、回診。8:00管理会議。9:00-13:30外来。病棟業務、16:00-18:00 Castles Hotelにて 秋田市理髪組合講演:「人生60年」新バージョンでやってみた。好評であった。懇親会若干出席。長副会議は延期になっていた.20:35帰宅.道路面は夕方からの雨で殆ど雪無し。長女午後離秋、21:30就寝。
驚くほどの電池寿命 MDプレーヤー
かつては出張の際の重要な道具は本とテレフォンカード、ウオークマンタイプのカセットであったが、今は本、MDプレーヤー、携帯電話、デジカメ、ボイスレコーダー・・・と電子化した。これだけ持ってもたいした重さにならない。宿泊を伴う出張時には更にパソコンが加わる。ポータブルCDプレーヤーはかさばるので私は持ち運んだことはない。
この中で重宝なのは昨夏購入したMDプレーヤーである。音が良く軽量、機能も高度、メディアも小さい。カセットとは隔世の感がある。その中で最も驚くのは電池寿命である。内蔵のニッケル水素充電池のみで用いても15時間ほど作動する。これだけでも驚いたが、これに1本の単3アルカリ電池をドッキングさせると何と60時間ほど作動する。従って充電の手間、電池を持ち運ぶ手間が大きく省ける。カセットの時代には乾電池もかなり用意しなければならず、机上ではACアダプターに繋いで使っていたが、MDの場合ACアダプターにつなぐのも面倒なほどである。
残念ながら私のパソコンは古く内蔵電池だけでは60-80分ほどしか作動しない。最近の製品は5-6時間は持つというので喉から手がでるほど欲しいが、本体が寿命を迎えるまで、とじっと絶えて使っている。
それにしても随分電池は発達したものだ。通常の一次電池ですらパワーが大きくなっておりすごいと思うが、繰り返し充電できるタイプの小形二次電池と呼ばれるニカド電池、ニッケル水素電池、リチウムイオン電池の発達はすごい。携帯電話を始めとして電池の発達は機能の充実につながっている。これからは自動車等の大型充電池も汎用されていく。
便利さは良いことだが、何でも裏がある。廃棄したときの地球環境への影響も大きく気になるところでもある。メーカー側の回収に関しての徹底が乏しいような気がしてならない。
1/18(日)晴のち曇,比較的温暖 病棟拘束
1:30起床。ドックx1。紹介状x3、総括x2、訪問看護指示書x1仕上げる。メールへの返事数編送付。家内は午前患者不調で出勤、11:40病気の猫の見舞いに長女帰秋、駅に迎える。Vn等、CD 聴きながら自室整理。14:00-19:00病院、回診、インフルエンザ新たに2名発症。医療評価等進める。19:30帰宅。22:30就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(25)
「インターン制度反対実行委員長」として当面やるべき仕事は多様な考え方を持つ級友の個々人の考え方、自主性を生かしつつ、方向性として制度反対の方向にまとめあげることであった。私が選ばれたときには医学部各学年で授業ボイコットをする方向にあり、私どももそれに歩調を合わせるか否かが大きな論点であった。委員会としては共同歩調を取るべきとの判断をしたが、クラスをその方向に持っていくためには態度を保留している、あるいは反対の意見を持っている級友達に対する対話と説得活動が必要であった。指導的立場にあった何人かの級友の意見等を取り入れて解剖実習のグループ単位に意見をまとめあげるようにした様に記憶している。私達6人のグループの中は授業ボイコットに対しても前向きに意見がまとまりつつあったが、一人秋田出身の女子だけがなかなか運動の意義を納得してくれず、私が担当して説得を続けていたが、なかなかクリアな返事が貰えず難渋した。内容とか理屈とかについては十分納得していても自分として如何に行動すべきかと言う点になるとなかなか決断しない。決して優柔不断と言うわけではないのだが・・・。何度かの対話を経て最終的には了承して貰ったがなかなか大変であった。
詳細は忘れたが、結果的にクラス内での投票が行われ、8:2ほどの比率で授業ボイコットに参加することと決定した。決定を受けて委員長としての挨拶をしたが、全級友にとって初の体験である授業ボイコットをすると言った決定が下されたという緊張感が高まった中、私語一つ無い静まりかえった中で、一つ一つの言葉が隅々まで染み渡るような異様な雰囲気を感じたものであった。
蛇足ながら、説得に難渋した女学生が今の家内である。当時は将来一緒になるなどとは露程にも考えていなかった。彼女の性格、物事を即断しない性格は今でも何一つ変わっていない。そのために夜半でなければ仕事が終わらないのであろう。彼女はどんなヒトなのか、私も未だよく理解出来ていない。
1/17(土)快晴、比較的暖かい 病棟拘束
2:30起床、こまちで眠ってきたと言えさすがに眠い。これからは医療評価機構関連に集中する。今朝も若干進める。5:30Taxi病院着、事務処理、回診。高熱を発する患者数人。A型インフルエンザが2名でた。これはまずい!!! 8:10ドック診察x5、9:00ドック説明x1,10:30-13:00外来。以降、遅れていた業務処理。紹介状、総括。18:00帰宅、20:00就寝。
阪神大震災9年目。この日の私の記憶から・・・
6433人の犠牲者を出し、国内で戦後最大の自然災害となった阪神大震災は1/17、9年目を迎えた。復興はまだ十分とは言えないらしいし、被災者達の高齢化施策など、まだ多くの課題が残っていると言う。
9年前のこの日の私の記憶。5:46amが地震の発生時間であるが、私は自宅の居間でNHKラジオを流しつつ出勤の準備をしていた。当時は今より約1時間遅く6:00頃が出勤の時間であった。地震発生後、間もなく臨時ニュースが入ったが、関西地方で比較的大きな地震が生じたと言う短い一報のみであった。月曜日であったので、回診等を急いで済ませ、9:00am港北診療所の午前外来のために公用車で向かった。その車中でもこの地震関連のニュースを聴いたが、大きな地震らしく新幹線等が不通になっている点を除けば、それほど大きな被害が報じられていないかった。通常の地震の報道よりもデータが少なく変だという印象を受けたが、以降は診療所の診療、病院に戻っての午後の業務に集中していたのでその後の動きは一切知らなかった。4:30pm港北診療所の夜間外来のために再度港北診療所に向かったが 、タクシーの車中、信じられないほどの被害を報じていた。診療所のTVには現場の修羅場と思えるような様子が映し出され、心底驚いた。
午前のラジオのニュースは何だったのか? 既に発生から3時間もたっているのに何故詳細は何ら報道されていなかったのか? その後、午前から午後にかけて次々と実態が報じられ、国内は騒然となっていたわけだが、私自身が知らなかっただけである。
要するに、被害が甚大すぎて現場の初期の被害状況を誰も発信出来なかった、と言うことで被災地は孤立状態になったためであろう。この情報社会の中で信じがたいことであるが、情報のやり取りに全て電気を用いるだけに、停電状態では機能出来なくなってしまう。
折しも、昨年5月26日6:24pm、昭和58年に発生した日本海中部地震と同じ日に、宮城県を中心に地震が発生、秋田県もかなり揺れた。この時は県医師会館にいたが、停電はしなかったが病院に連絡を取ろうとしても電話が携帯電話共に全く通じない状態になった。
大災害時に医師会役員間の連絡体制をどうすればいいのか、これを機会に検討したが、具体的な解決策はまだ見つかっていない。
1/16(金)小雪-曇り 東京は超快晴 日医第5回医療関係者対策委員会
1:30起床。家内2:00帰宅。人間ドックx1。5:20病院着、新雪3-4cm。出張準備回診。9:00-13:10こまち、横の座席空席で快適、気分良し。14:00-16:30日医会館にて第5回医療関係者対策委員会。報告書案の読み合わせチェック。全体的には大きな変更無し。これで私の日医の仕事一段落。築地の料亭「田村」にて懇親会。駅にて新書「時間病の治し方」「ヒトは環境を壊す動物」購入。20:04-23:56こまち最終.盛岡まで熟睡、大曲後再度熟睡して駅で乗務員に起こされた。秋田終着で助かった。0:30帰宅。1:00就寝.
久々の出張、東京は超快晴 樹木に雪が付着し実に美しく変容していた
10/19アキレス切断後、日医関連とと仙台でのHIV関連出張の2回は松葉杖の状態であったのでキャンセルしたので、本日は久しぶりの東京出張。飛行機だと乗り換えが頻繁で歩行距離も長いし、悪天候でどうなるか解らないのでJRとした。降雪寒波にもかかわらず往復とも時間通りに運行。往路の4時間、復路の2時間は本と音楽を十分楽しめた至福の時間となった。JRと空路では実質1時間の差であるが、JRは乗り換えもなく単純だからその差が随分長く感じてしまう。
秋田、岩手は積雪があったが一関付近からは雪は山々のみ。東京は超快晴、温暖でスーツ姿で歩いている男性が多い中、短靴、オーバー、襟巻きとアラスカにでも行けそうな格好の私が混じる。これが同じ国かと思うほどの差。やはり北国は何かとハンディだ。特にお年寄りには辛いだろうし、人間性にも影響する。とは言っても北海道はもっと大変だろう。特にここ数日、北見地方は2mもの積雪で高齢者の生活確保のために自衛隊を派遣したとかのニュースが流れていた。そう言えば今日の委員会、北海道医師会の委員は欠席であった。千歳空港も乱れているようで来れなかったのだろう。
今日は委員会の打ち上げ会があったので最終の「こまち」としたが、ダイヤ改正で20:04発、23:28着と変わっていた。より便利になったと言うことか。秋田は降雪、湿気の多い雪で無風状態、その条件下なので あろう、殆どの電線、電柱には雪が 厚く付着している。道路脇の樹木にも雪が付着、幹や枝が全て真っ白で、タクシーの光に実に綺麗に映える。半日前に、北国のハンディを感じたばかりの私が、今度は秋田の冬景色の素晴らしさに感じ入ってしまった。勝手なモンだね。
1/15(木)曇り、雪4-5cm 寒波続く 長副打ち合わせ AKT preview + 打ち上げ会
1:30家内帰宅と同時に起床。人間ドックx1、医療評価機構関連、SARS関連。新雪殆どなし。5:20病院着、重症者複数対応。9:00-14:30外来、混雑中等度。16:30-17:00打ち合わせ。18:30-19:30広報委員会作成3本シリーズの最終本、AKT preview、今までの中で最高の出来の1本になるかも知れない。19:30-21:30広報委員会+AKT制作担当者の打ち上げ会。私もこのクルーと仕事を進めるのは最後かも知れない。感謝の気持ちがうまく伝わったかな?? 21:40帰宅、22:00就寝.
車にCCDカメラとメモリーを搭載を義務づけさせよう!!
交通事故は全て悲惨なものである。車は自由なルートを自由な速度で走らせることが出来る便利な道具であるが、ある場面では走る凶器ともなりうる。否、自動車が悪いわけではない。決定的に危険な因子は多様な人間が、多様な心理的・身体的・社会的状況の中で運転していると言うこと。
更に、歩行者の安全が確保されるしっかりした歩道がない道路、「飛び出すな、車は急には止まらない」と言う標語で代表される主客転倒した人間軽視の考え方・・・これだけ揃えば交通事故は起こって当たり前。
交差点は車が交差する場所ではなく、各人の思惑が交差する場所なのだ,と私は思う。だから、単に車の交差する場所だという以上に危険な場所なのだ。交差点で事故が生じるのは当然である。
歩道のない道路には一定の凹凸をつけて高速運転が出来ないようにする、フロントにもブレーキランプをつけるべし・・・等、今まで何度か通産省に提言したが、無視された。
高越事故は生じるものだという前提で交通問題は考えるべきである。
交通事故をめぐってのトラブルは絶えることがない。その理由は多くの場合、当事者間の主張を裏付ける客観的な証拠が殆ど得られないことによる。事故の軽重以上の波紋を生じることになる。それの解決策として私は広角レンズを備えたCCDカメラと1分間程度のメモリーの搭載を義務づけることも一方法だ。運転中、車に衝撃を生じる直前の僅か1分間だけの映像記録をメモリーしておくだけのもの、これの有無によって事故の客観データを得ることが出来、多くの関係者を救うことになるだろう。運転者に自重をももたらすと言う効果もあるだろう。
今は新発売の携帯電話の中ではCCDなしの方が珍しい。そこまで光学系は普及したし、各種の記憶メディアも安価になった。この車搭載等の装置など簡単に作ることが出来るはずである。この技術を「人間を守る」ためにも使うべきである。
1/14(水)この冬一番の寒気 県医師会常任理事会+打ち合わせ
1:30起床。人間ドックx1、県医師会HPにニュース掲載再開。5:25病院着、重症者複数、対応。9:00-14:30外来、混雑。17:30-19:30県医常任理事会+医療的ケアについて若干の打ち合わせ。20:00帰宅。21:00就寝。昨年は大雪で帰宅後にも除雪機ヲ出して除雪したが、本年はまだ本格的には動かしていない。このまま行って欲しいが。
寝る時間が一層減りそう!! 県医師会ホームページにSARS情報掲載を再開した。
危惧されていたとおり、今冬、ついに中国本土で散発的ながらSARSが発症し始めた。多方面から入ってくる情報はまだ錯綜しており、厚労省、WHOとも公式集計を始めていない。
秋田県医師会の感染症等危機管理対策担当として、SARS関連情報はほぼ連日チェックしているが、その中から適宜選択して情報を「SARS2004」として県医師会ホームページに情報掲載を再開することにした。昨日から事務局の担当者にデータを送り始めた。
この欄は昨年は4/12から開始して7月下旬までほぼ連日の如く更新していたもの。連日、情報をチックして信憑性を判断、抄録化して掲載したものであるが、結構反響もあった。時間的に見てかなり大変な作業であったが、これを通じてSARSに関してカレントな情報を身につけることが出来て良かったと自己評価している。
基本的には公式的情報、データを掲載する。時にはコメント等として私見も交えるつもりであるが、また寝る時間が乏しくなりそうだ。本来ならば、何人かのグループで分担し合えばいいのだが、現実的には難しい。
1/13(火)曇り、寒波 管理会議 医師会打ち合わせ(欠)長副会議 AKT収録
1:30起床,人間ドックx1、県医報様原稿校正、日医委員会報告Ver 0116の最終コース.今日は予定びっしりで5:00出勤、回診、定期処方。8:00今春初の管理会議。検討事項多数。9:00-14:20午前外来、予想以上の混雑。予約外多数。病棟重症患者対応。16:30-18:00長副会議。重要案件多数検討、18:00AKT医師会作成番組で使用のSARS関連収録。20:30帰宅、21:10就寝.
SARS迅速診断キットの不思議 早期診断には役立たない、と思う
中国本土でSARS疑い患者が発症しているのになかなか診断が付かない。マスコミはいろいろ言っているが、本日の時点でもまだ公式認定の確定例は1例のみである。昨年秋日本のある化学薬品メーカーがSARSを20分ほどで診断出来るキットを開発し、厚労省は製造承認を出し、既に発売され、国内でも何カ所かの空港とかに配備される準備が進んでいると言う。これは従来ある手法の遺伝子診断を応用したものでLAMP法と言われる方法を用いている。昨年のSARS症例の血清とかに応用した場合に高特異性に反応が出たという。
これは世界的に見て朗報である。対SARSが一変する可能性がある・・・と大きな期待が寄せられている。なのに、何故か中国ではまだ応用されていないらしい。高価な為か??国際間でうまく実施出来ない何かがあるのか??開発した会社では臨床応用として今まさに問題となっている現場でその効果を試していないのか??不思議である。そう言えばWHOがこのキットについてコメントしたのを見たこともない。無視されているのか??
実は私は勉強不足かも知れないが、この迅速キットのSARS早期診断の有用性については疑問を持っている。恐らくSARS早期診断には役立たないだろう。検査自体は短時間で出来るから確かに「迅速」キットだろうが、インフルエンザの早期診断に役立っている迅速キットとは意味が異なるだろう。インフルエンザは受診する頃が最もウイルス排泄も多く、最も伝染力が強い状態。だから、迅速診断キットが有用である。しかし、それでも一般的に期待されているほど検出率は高くなく70-80%程度。それでもかなり有用といえる。
一方、SARSは高熱で医療機関を受診する頃はウイルス排泄は殆どなく感染力も無いか極めて弱い。病状が進展して呼吸器症状が出始める頃からウイルスが排泄されてくる。理屈の上ではSARS迅速キットはウイルスの遺伝子を検出するのだから、この時点以降でなければ陽性に出ないはずである。この時期以降からは従来のPCR法よりは確かに簡便に、かつ高特異性に結果が出るらしいので確かに有用だと言うことになるだろう。だから、空港とか検疫とかに配備しても無駄だと、私は思うし、過度の期待をし過ぎてSARSへの対策の手を緩めてはないらないだろう。
SARS診断の基本はあくまでも流行地との関連、自覚症状、他覚所見である。迅速診断が陰性であってもやはり否定は出来ない。初期診断に関しては昨年と何ら変わっていないのだ、と思うべきである。私のこの考えが間違っていることを私は望んでいる。
1/12(月)成人の日休日晴れ曇 病棟拘束
1:30起床、バッハのCD等聴きつつドック処理x1、紹介状など用意.時折Vnなど挟みつつ、終日日本医師会の委員会報告書案作成に集中。「准看護師養成の活性化」という難解で困難、かつ報告書の根幹をなす部分で進行がバッタリと停滞、呻吟する。尻に褥創が出来そうな一日であったがまだまだ不完全。病棟は重症化2-3名。頻回に電話連絡あり。我が家でもネコ二匹、感染症か不調の様子で元気なし。20:00就寝。
中国ではSARS疑い患者また発生。トリインフルエンザわが国でもついに発生、70年ぶり。
中国広東省広州市において、35歳男性がSARSの疑い3例目として入院中、との報道があった。なお、現在まで、実験室で感染し、確定した2例は別とすると、中国での第1例目の男性はSARS確定、第二例疑い例の広東省の20歳代の飲食店勤務の女性は、SARSの疑いでまだ隔離下におかれており、検査結果はまだ明らかにされていない。他に疑い例として報道されていたフィリピンの女性はSARSはWHO情報によると否定されたと言う。香港総領事館による現地報道情報によると、香港のTVクルーは3例とも解熱SARS検査陰性であった。すなわち、1/12の16:00現在、SARS確定者はまだ1例のみである。
今年の中国他、アジア地域のSARS対応は報道で知る限り迅速で確実なようである。特に調査が十分行われているらしく一人の疑い例に対して30-70人が隔離されている。この状態での散発的な疑い例の発症ならまず現地での抑制が出来るだろう。わが国に入ってきた場合の調査は難航が予想されるが、調査と隔離がSARSを伝播させない対策の基本であることを国民に周知しなければならない。
山口県の養鶏場で約半月間で約6000羽の鶏が死んだが「トリインフルエンザ」ウイルスが検出された。このウイルスは高病原性H5亜型で致死性が高く、このタイプのは日本では79年ぶり。卵や肉を食べての感染報告はないが、県は大事を取って卵の回収を始め、鶏も全羽を処分すると言う。また、半径30Km以内を鶏と卵の移動制限区域に指定。他の農場に、鶏や卵の出荷停止、飼料などの移動の禁止を求め、区域内の食鳥処理場や卵集配センターを閉鎖した。 「トリインフルエンザ」では香港では鶏や排泄物との接触で1998年に感染者18人中6人死亡、オランダでは2003年獣医師が死亡している。養鶏場の従業員の検診では今のところ異常なさそうである。本日、卵が数千個焼却処分される・・・。勿体ないがやむなし。
この農水省、県の対応は迅速で周到なものだろう。厚労省、秋田県もSARSに備えて鶏の病気からも学んで欲しいものだ。
1/11(日)寒波襲来 降雪3-4cm。曇り一時晴れ 病棟拘束
1:30リハビリ病院当直室にて起床。持参のMDミニステレオいい音で鳴る。Vn Vcの作品中心に聴ききつつドック処理x2、医報原稿校正、日医委員会関連文章検討等進める.7:15検食、8:40病院に戻る。回診、事務処理。11:30帰宅、賄いの石井さん、帰宅した長男共に風邪症状でダウン。家内は患者不調で日中病院に。Vn小品等練習。日医原稿作文等続ける.入院患者不調で病棟より連絡3-4回あり。夕食、20:00就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(24)
当時、60年安保闘争は新安保条約が自然成立後,退潮に向かっていた学生運動はベトナム戦争問題、私学の授業料値上げ、それにこのインターン闘争などで、全国各所で再び盛んになって来ていたが、私は政治や思想には疎く、いわゆるノンポリ学生であった。何でそんな私がクラスの「インターン制度反対実行委員長」などに選ばれたのか、というと、はっきり言ってダミー的委員長であったと思う。先鋒的意見の持ち主がトップに立つとそれだけ周りへ与える印象が変わってくる。その点、私あたりをトップにしておけば反対運動自体のイメージもソフトとなり、クラスが一致しての運動のようなイメージになる。その様な効果をねらって推薦を受けたのだろう。どのようにしてクラスの中で指名を受けたのかなど具体的なことはもう記憶にはない。自分がどう考えようと、指名されたからにはそれだけの働き、責任を果たす必要がある。それ以降は2-3ヶ月間はあらゆることを投げ打ってこの運動に集中した。同級生の一人が大学近くのアパートの一室を提供してくれたので、週のうちの大半をそこで過ごし、時に雑魚寝して仲間と語らいながら運動を進めていった。
この運動を通じて私は多くのことを学んだ。当時新潟大学では、各クラスが、医局への非入局、博士号ボイコットのスローガンも掲げていた。私どものクラスは約100人おり、インターン制度とかには反対の声はさすがに少なかったが、クラスとしての運動を進めることについて否定的な意見、学生はまず運動とかではなく学ぶべきが第一、と言う意見、さらに、初めてこの様な反対運動の渦中に組み込まれそうになったことへの不安感、運動自体に強い拒否的を態度を示す等、各人が様々な反応を示し、当初はうまく運動を進められるかについて私自身が自信に欠けていた。
その様な状態で委員長を引き受けたものだから大きなストレスになった。今でも、新潟大学を退学処分になって路頭に迷い、落ちこみつつも再度大学医学部受験のために机に向かう夢、を時々見ることがある。それだけ負荷を感じながらも、地道にクラスをまとめ上げるための作業を進めていった。
1/10(土)曇りー小雪 やや寒い日 リハビリ当直
1:30起床、ドック処理x1、日医原稿校正等.3;30-4;30Vn etc。家内は帰らず、患者不調か、本人不調か?? 5:30病院着。アイスバーン状態。回診。9:00ドック説明x2.10:35-12:30外来。医報用校正、患者家族との面談、回診など。17:00リハビリに移動、当直に、Vn、Vc小品聴きつつ業務、新聞チェック等。20:00就寝。長男風邪でダウン
ウシもニワトリも災難。これらは全て人災なのだ
米国のBSE騒ぎは消費用、輸出量も多いだけに世界各国に影響を与えている。吉野家は大変だ。本当は今まで米国で発症しなかったことの方が不思議であった。日本では全頭検査をしているとのことであるが、アメリカでは1%にも満たない検査頻度らしい。意外と対応がルーズだ。
一方、韓国では昨年末に入りニワトリなどが感染するトリインフルエンザ(H5N1ウイルス)が猛威を振るい約100万羽のニワトリとアヒルが死亡、または処分されている。
トリインフルエンザは、最近では1997年と2003年2月に香港で発生しており、香港では人間への感染も報告された。韓国では半径10Kmを危険地域に指定して住民の出入りも制限したが、被害は拡大し、鶏肉料理専門店などは客足が遠のき、肉の卸売価格も40%近く暴落。政府は「人への感染の可能性は薄く、加熱調理すれば全く問題ない」としている。また釜山近くでは豚コレラにかかった豚五百頭が処分された。
鳥類のインフルエンザは通常は人には感染しないが、豚が介在すると人への感染が起こる。鶏から豚へ感染すると、豚の体内では鳥類のウイルスと哺乳類のウイルスの重感染が起こり、変異したウイルスが人へ感染する様になると言われている。
香港の場合はこのような定型的な感染経路をとらず、直接鶏から人ヘの感染を起こしたため、大きな社会的な間題となった。
これら家禽類の病気は最近特に目立つ様になって来ているが、これらは全て人災と言うべきだ。渡り鳥を介して伝わる伝染病は少なくない。渡り鳥は各地に飛来し、風物詩にもなっているが、病気の伝播として考えればいろいろ問題があり、鶏や馬、豚へトリインフルエンザ等の感染を広げている。問題となるのは大量の同系統の動物の飼育場で、このような環境下で感染症が発症した場合には被害が一気に広がる事となる。特に人工飼育の場合には運動量も少なく、過密状態からのストレスも多く、免疫力もていかしている可能性があるから尚更である。
同じ事はヒトでも言える。弱った固体を過密に集める文化、即ち、病院とか高齢者の施設等は感染症の餌食になりやすい場所で、一度生じた際には大事になりうる。
人間社会の、効率性だけを考えた種々の対応は不自然さを伴うだけに、何100万年もかけて形成してきた自然界の摂理が破綻しやすい場所になっているのだ。
家禽類の感染症、病気も人間社会への警告として色々なことを教えてくれている。
1/9(金)曇りー晴れ ABS収録 県医師会打ち合わせ 法人理事会
2:00起床、ドックx2、紹介状、3:30家内帰宅。医報原稿校正等.新雪殆どないが道路ははアイスバーン.5:20病院着。事務処理。回診。9:00人間ドック説明x1その他.10:35-13:30外来。13:30-ドック診察。14:00-14;45ABS収録、本日夕方のニュース用とのこと。昨日の申し込みに急遽対応したがはっきり言って困る申し出である。16:00-17:00打ち合わせ県医師会、17:30-19:00法人理事会。20:30帰宅.21:00寝.
今年のインフルエンザ対策
今年のインフルエンザ対策はSARS対策の一環として強力に進められた。ワクチンの生産量は1400万本で、小児を含め、多くが一回のみの注射だとすれば約2500-3000万人分に相当する驚くほどの量である。一時30万人分にまで生産量を落とした国とはとても思えない。それでも今年も各所で不足が報告されている。実際には信じられない現象である。何処かにまだあるはずだが・・・。治療薬は3種類会わせて約1300万人分、検査薬は数種類で1500万人分用意されている。後二者はまだ蔓延していないので使用量が少ないのでどうなるかまだ読めないが、これも膨大な量であり本来ならば不足するはずはない。
昨年はインフルエンザはウジウジと長く流行したので、全てに不足が生じ大きなニュースになったが、それでもワクチンの生産量は1200万本、治療薬は600万人、検査薬1000万人も用意されてあったし、流行終焉時には各所から未使用のものが戻されてきて、何なんだ!!!、と呆れたものである。
ワクチンが不足することはまだ理解が可能であるが、600万人分の治療薬、1000万人分検査薬が不足したことは私から見て理解出来ない現象であった。私は流行初期には検査することもあるが、流行時にはインフルエンザを疑っても、患者の全身状態が良くてより若い場合には抗インフルエンザ薬を処方しない。そうでない場合には勿論治療も検査もするが・・。だから、私は診断のための検査もあまり出さない。インフルエンザの多くは基本的な治療のみで数日で改善するからであるし、検査薬の信憑性も70-80%と決して高くない。
大体、自然に、しかも短期間に治癒することが期待出来る疾患に対して何故多くの医師は強力に治療するのか??私には理解出来ない考え方である。ただ、周りがみんなそう言う治療をするから患者さんの方から何で処方してくれないのか、検査してくれないのかとクレームがでるようになってきているので少数派の私は主義を通せなくなりつつあるのも事実である。
日本の保険診療はすごいと思う。3割負担となって一寸影が薄らいで来つつあるがやはり世界一素晴らしいだろう。最善の治療の多くに対して給付してくれる。インフルエンザ疑いの患者の多くは検査も治療も受けているが、これは膨大な経費となっている。抗インフルエンザ薬、検査薬は決して安くない。国民皆保険は考え方を変えなければ破綻することは自明の理である。
1/8(木)降雪5-6cm 終日曇り 県教育委員会講演
2:00起床。ほぼ同時に家内帰宅。本日より再度ドック判定総括開始x1、紹介状、医報原稿校正等.5:30Taxi病院着。湿り気の多い雪。今期としては一番多い。回診.午後の講演のために外来8:35から始めて12:30終了。13:00-14:30県教育委員会+公立学校共済秋田支部主催の講演会。主題は「心の健康講座」、私の担当は「健康管理」で「人生60年論」について話した。聴衆は学校関係の方々で60-70人ほど。熱心に聴いてくれて有り難い。15:20帰院、20:00帰宅、21:00就寝.
ネコは爪を研ぐ・・はウソだろう
帰宅時、ネコと賄いの石井さんが私を迎えてくれる。就眠時、早朝起床後の業務中・・・、私の側で我が家のネコが過ごしている。時には私の膝の上で腹を出してしばらく過ごすのも彼女の日課の一つ、となった。5:00には決まって海苔をねだる。これを機会に私は家での仕事をやめて出勤の準備に入る。
もうかなりの老猫であるが、表情は若く相変わらず美猫である。15年ほど前の寒空,居間の窓下で啼いていたのを見かねて招き入れたのが縁で居着いてしまった。それほど人なつっこいとはいえないネコで、つい2-3年前までは私との間にも密着感は乏しい関係にあった。野良のうちに何らかの心的トラウマがあったのかも知れない、と思っていた。が、高齢になるにつれて徐々にヒトのぬくもりを求めてくるようになってきたのか、私の側で過ごす時間が増えてきている。
猫の行動、表情には端から見ていて心なごませるものがあるが、特に身繕いをしているとき、ガリガリと爪を研いでいるとき、もう完全に無我の境地にある。声をかけてもチラッとこっちを見るだけ、返事もせず私は完全に無視される。
ネコは爪を研ぐとされている。私の身近な本や日常品を入れているワゴンの底板はネコの格好の爪研ぎ場となっておりぼろぼろになっているがやむを得ないと提供している。たまたま長い時間かけて研いだあとの爪を調べてみたが、爪は別に何らその前と変わった状態を見ることは出来ない。実際にはネコは爪を研いでいるのではないのだ。
毛繕いも爪研ぎ様の行動は主としてストレス発散のための行動なのだと思う。本当に爪を研ぐ必要があるなら後ろ足の爪も研がなければなるまい。このネコも、前に長く一緒に暮らしたネコも、後ろ足の爪研ぎ行動なんかしたことは一度も、ない。にもかかわらず伸び過ぎたりして困った様子は見たこともない。
1/7(水)積雪2-3cm 快晴・曇り 郡市医師会長協議会・新年会
1:30起床。紹介状、日本医師会分校正等いつもと同じ.4:00頃家内帰宅、昨日も3:00過ぎだった。患者不調で大変らしいが身体も気力もよく持つね、と感心する。5:40病院着。次男今朝のフェリーで帰札。8:45-15:30外来、超混雑で予約外患者多数。16:00-17:30ViewH第4回郡市医師会長協議会+県医師会理事会+新年宴会。20:00帰宅、20:40就寝.
外来で処方日数上限の撤廃で予約患者への対応が一変した(2)
私が担当している外来は基本的には30日分の処方と1/Mの受診を基本にしている。患者さんの大部分は納得して通院してくる。ところが、5月連休とか祭日、盆正月などは予約外来のスケジュールが狂ってしまう。従来はこの処方上限30日の間でしか予約日の調整出来なかったから、二日分の予約患者が一ヶ月後のある一日に集中してしまうようなことがよく生じ、更に予約外患者も受診するものだから4:00頃までかかったことも希ではなかった。患者にとっても私にとっても地獄の様な外来であった。
それがこの処方日数上限の撤廃以降は30日、35日、42日投与することにより予約日の調整が自由にできる様になった。これは大きいメリットである。今年の正月は7日間も休診の後の外来だから予約外患者も多数訪れる可能性を予測して予約患者を12:00迄で締め切ってあるので従来の新年の外来に比較すれば余裕を持って対応することが可能であった。それでも本日の外来は予約外患者が多くて15:00までかかってしまった。
この冬期間、凍てつく寒さの中の高齢者の通院は危険でもある。交通事故、転倒による骨折、頭蓋内出血など時折耳にする。私が担当していた患者も何人かはこの為に入院した。寝たきりになった方もいる。過去にも何度か医師会等で、寒冷地では冬期間だけでも処方日の制限を緩められないか、と発言したこともあるが、その意味でもこの処方日上限撤廃は本当は有り難い措置であった。
この処方日数上限撤廃の影響は患者、医療関係者、健康保険の支払い側、厚労省と立場によっては悲喜こもごもである。あくまでも患者にとってデメリットが無いような運用でなければならない。上限撤廃したからと言って安易に長期投与をすべきでないことは治療上当然である。
1/6(火)曇り 降雪数cm 医師会打ち合わせ 医局会(含 院長新年の挨拶)
2:00起床,また、圧倒される業務量に追われる毎日が始まった。秋田医報用の原稿校正2部分、日医委員会分進める。メール返事など処理。5:20病院着、回診、定期処方箋処理。9:00-13:30午前外来、処方日数調整の効果があって例年の正月明け外来に比較すればそれほど混雑せず。16:00-17:00県医師会打ち合わせ。17:30-18:30医局会。院長の年頭の挨拶。20:00帰宅、21:10就寝。
外来で処方日数上限の撤廃で予約患者への対応が一変した(1)
従来は外来処方の日数は睡眠薬や漢方薬などが14日間、他の多くが30日に、ほんの一部が2-3ヶ月も可能と言うことであった。一昨年の診療報酬の改訂を機会に、ある限られた薬品は依然として14日あるいは30日と残ったものの、大部分の薬品は処方日数の上限が撤廃された。これの影響は実地医療の現場への影響は実に大きかった。
何故厚労省はこの様にしたのか??その目的は明らかである。患者の来院回数を減らし国の医療費を削減する為である。例えば漢方薬を服用していた方々は必ず1/2wksごとに通院してこなければならなかったが、この改訂によって病状によっては1/1-2Mの通院でも良くなったからである。
通院してくる患者さんにとってはこれは絶対的な朗報である。一方、医療機関に関しては外来患者の減少に直結し、経営上は大変な状況に陥っている。
法律的には何日分処方が可能であっても、治療上の意義から見れば全く異なっており各患者さんごとにある一定の通院頻度は必要である。例えば従来は1/Mに受診して血圧の治療を受けていた方々のうちの一部は数ヶ月に一回しか受診しなくなっている。1/数Mの血圧測定で数種類の降圧薬を服用している、コントロール困難な患者さんもかなりの数にのぼっている。恐らく、仕事上の理由などで通院困難とかの理由で、自ら長期投与を希望し、担当医も同意しての何ヶ月分もの処方であろうが、こんな状況ではいい治療にはならないので、正直困ったことだと感じている。
1/5(月)仕事始め 快晴 管理会議(なし) 感染症委員会 長副会議
1:30起床,院内委員会の準備,レセプト対応。日本医師会委員会報告書、医報掲載原稿の校正など.5:10病院着、積雪なし。回診、病棟は年末年始休暇中の入院は無く、退院2-3名。定例管理会議は年末年始休暇直後なので開催せず。9:00-13:30外来。14:00-15:00感染症委員会。16:30-18:15長副会議、懸案事項多数。19:30帰宅、21:00就眠。
雑誌「FM fan」は絶版になり、「Mac fan」は隔週刊から月刊になった(2)
上記の雑誌のうち「Mac fan」はワープロからパソコンに移行して四苦八苦していた私に程良いガイドをしてくれたパソコン関連雑誌である。最初の頃はパソコンを操作していて壁に突き当たる度に書店に立ち寄っては次々とガイドブックを購入し解決を図ったものである。勿論、聴けば親切に教えてくれるその道の達人は何人かは居たが、その方々の説明を聞いても全くチンプンカンプン、理解出来ないことの方が多かった。あんまり頻回に聴くのも悪いので、やがて独学に走る事になる。数種類の月刊やら週刊、隔週刊雑誌を購読していたこともあるが、自然に隔週刊である「Mac fan」一冊に落ち着いた。私の知りたいレベルに程良くマッチした内容だからである。それから約10年この本を介してMacと奮闘してきたし、開けた世界、視野も多い。
12月末に届いた「Mac fan」は従来は左開きであったが右開きになっている。しかも若干厚い。「??」と違和感を感じつつ読んでいて3日目くらいにやっと本号から月刊誌になったことに気づき、それに伴う編集方針の変更と納得した。
何故月刊誌に??何処にもその理由は記載無かったが、やはり発行部数の問題ではないかと思う。最近の調査によると日本のパソコンのうちでMacが占める割合は僅かに3%なのだそうだ。90%ほどがWindowsでその他も若干あるという。つい先日まで10-12%のシェアだと思っていたが、たったの3%???と驚いた。確かに、かつては医師仲間の中では半数ほどがMacであったように思っていたが最近は明らかに減少してきている。それでもMacの開発の方向性、新製品とかには溌剌としたエネルギーを感じ取れるから不思議だ。
「Mac fan」も「FM fan」と同じ道を通るのか、その一つのプロセスなのかと思った次第であるが、「Mac fan」は良い本である。可能な方法を模索しつつ何とか発行を続けて欲しいものだと思っている。
パソコン関連の助言を受ける際にはレベルが可能な限り近い方から教わるのが良い。差が大きいと指導されてもさっぱり解らない。医師患者間の病状等の説明のときもこれに近い世界なのではないか、と思う。だから、医師は可能な限り平易にな言葉で、丁寧に患者・家族に説明する必要がある・・とパソコンの世界を通じて私は実感している。
1/4(日) 降雪早朝に2-3cm その後快晴、
2:00起床、ドック処理x1、退院総括その他。昨年分のドックと総括はやっと終了させた。年賀状返礼、救急マニュアル分の原稿など作成。今日は病棟拘束もないのでVn等で比較的のんびり過ごす。除雪機給油、整備しスタンバイ状態に。車庫若干整理。以降は自室にてVn、CDなど。15:00-17:30Miss S.Seiko来訪。夕食後やや早めに20:00就眠.
今日で年末年始休暇修了.今年は7日間と最も長期間の休暇であった。この間,1/1は体の不調で半日寝込んだ。12/31と1/2が日直。それ以外にも病院で業務処理に過ごした時間も少なくなかったが懸案事項の処理は思ったほど出来ず、大きなものは医療評価機構関連と日医の委員会報告書が残った。新年早々先が思いやられる。明日から通常に戻る。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(23)
インターン制度反対運動の最中に。私がクラスの実行委員長に!! 何故だ!!!
専門課程に進んでクラスとしてのまとまりが出始める間もなく、私どももいわゆるインターン廃止運動の荒波の中に漕ぎ出していくことになる。それなりの指導者、各人が持つ背景や思想については様々であった様であるが、が数名いて強力にクラスを牽引していった。私もインターン制度を始め医局講座制度、博士号問題などについて勉強し数々の疑問や問題意識を持っていたのでこの闘争には比較的前向きに参加した方である。
このこともあって私は今回の初期臨床研修必修化問題について無関心ではいられないのだ。
ここで、医師の卒後研修を簡単に振り返ってみる。太平洋戦争終了時までは医師には卒後研修はなく、国家試験が通れば医師として仕事をすることが可能な状態であった。戦後日本を占領したGHQが、日本の医師はあまりにも医療技術が低いので何とかする必要があるとの視点で医師の卒後研修としてインターン制度を発足させた。
制度は,昭和21年(1946)「国民医療法施行令」の一部改正によって創設され,昭和23年(1948)医師法制定により規定された.インターン制度の目的として「所定の病院及び保健所において各科を巡回して行わせるものとし,病院における実地修練は,指導医の十分な監督のもと,その助手として勤務せしめ,専門に偏することなく診療全般にわたって修練を行わせ,おおむね日常遭遇する疾病について,一般医師として取り扱う場合の診療治療に必要な知識と技術とを体得させる他,保健所における実地修練は,実地修練者をして保健事業を通じて公衆衛生の実際を修得させるもの」であった.
このインターン制度では,医科大学(医学部)を卒業後に医師国家受験資格を得るため,1年以上の診療および公衆衛生に関する実地修練を受けることを義務付けたものである.
このインターン制度は,実地修練生の地位や身分の不安定,研修体制の不十分,生活の補償がない,修練病院に対する不十分な助成策などに問題があるとして,早くから問題提起はされていたが何故か大きな廃止運動には至っていない。
当事者は問題点をもろに受けていても喉もと過ぎれば何とやら、と改革運動には盛り上がらなかった様である。これが医者の社会の変なところの一つである。
ところが、1965年頃よりインターン中の医師の医療行為について無資格医問題として新聞を賑わせるようになり、制度の問題点が一気に明らかにされたこともあって、全国の医学生が立ち上がりインターン闘争が始まることになる
1/3(土)(年始休暇三日目-最終日)曇 病棟拘束
0:30起床、ドック処理x1、退院総括その他。次男の友人数人来訪、二階で酒盛り。これも恒例化してきた。4:00患者さんの死亡あり病院へ、7:00帰宅。積雪全くなく緊急呼び出しへの対応がとても楽だ。病院・医師会用の作文少々進めつつ9:00-11:00ムーティ指揮・VPO New Year Concert再放送楽しむ。Vnなど、年始の訪問何人かあり互いに無事新年を迎えたことを共に喜ぶ。15:00病院にて残務他、20:00帰宅、NHK-TV New Year Opera Con観る、21:00就寝。
雑誌「FM fan」は絶版になり、「Mac fan」は隔週刊から月刊になった(1)
上記の雑誌のうち「FM fan」は創刊号から定期購読してきた。隔週刊でありFMエアチェックのガイドとして、また私の音楽関係の情報源として貴重であった。私はスタジオ録音よりライブ録音の方が好きなので1970年代-90年にかけてはオープンリールデッキ、カセットデッキの留守録をセットして置きFMエアチェックを中心に楽しんできた。「FM fan」を見ながら2週間のエアチェックの予定表を作成するのが大きな楽しみで、夢が膨らんだし、生活にも張りが出たものである。しかし、時代と共により音質の良い衛星放送の登場、CDの多様化と廉価傾向などと共にFM愛好家が減少してきたのであろう。私自身も時の流れと共にエアチェックの機会が減ってきていた。一時はFM関連雑誌も数種類出ていたが数年間で姿を消し、共同通信社の「FM fan」のみが頑張っていたのであるが、これもついに数年前に絶版となってしまた。「FM fan」は類似雑誌の中では最も地味な編集であったが、最も地味な編集姿勢の雑誌が最もコンスタントに愛読者を獲得しており、最後まで残ったことにはそれなりの意味があったように思う。
時代は流れる。今手元にFMエアチェックに活躍したオープンリールデッキは無い。一寸したことで知り合った盛岡のある病院の事務職員に段ボール150巻ほどのテープと共にプレゼントしたからである。カセットデッキは数台あるが滅多に用いられることはなくなった。数100巻あったカセットには思い出の録音、名演奏が残されていたが、再度聴きなおすには私の人生の時間の方が足りないし、今聴くと音質も劣化している。私以外にとってはゴミ同然である。今は大部分廃棄したので最盛期の1/5も残っていない。それらも間もなく廃棄する予定である。廃棄するときは録音内容を確かめずにプラスチックのブロックとみなして数10巻ずつまとめて捨てる。録音内容を見てしまうと惜しくてとても捨てられないからである。
「FM fan」は私にとって忘れられない雑誌の一つである。
今、MDデッキを介してアルビノーにのアダージョが静かに流れている。正直言って、音質、機能性の良さには驚くばかりである。
1/2(金)(年始休暇二日目)曇 日直 ICU日直 病棟拘束
1:30一旦起床、ドック処理x1そのほか。やはり不調で全身倦怠、原因不明の左腕の神経痛様疼痛、口唇ヘルペスも出始めた。4:00-7:00再度就眠。8:00病院へ、回診、事務処理、正午頃から午前外来補助10数人診察。病棟患者も不調者何名か居て対応す。以降は室に籠もり残務処理。この間体調は徐々に改善してきた。19:00帰宅。20;00就眠。
昨年の記録を見たら、全く同じ日に同じような不調に陥って寝込んでいた。
ラグビー
ラグビーの全国高校大会は東大阪市の花園ラグビー場で行なわれ、本県代表の秋田高校は強豪の長崎北陽台と対戦、14-7で長崎北陽台を振り切った。翌30日、Bシードの国学院久我山(東京第2)と二回戦で対戦した。
年末の12/30午前、札幌から到着したばかりの次男が秋田-久我山戦の中継に齧り付いている。出身校であり、彼自身今も大学でラグビーをやっていると言うことで関心は高いのであろう。年末休暇のひととき、私もテレビ観戦も悪くない、とパソコンで退院総括を書きながら脇から時折眺めていた。試合は総合力で勝る久我山に押し切られ秋田高校は0-21で敗れた。久我山は私ですら知っているほどの名門高校で、観ていても、さすがに力の差を感じてしまった。
私が学んだ盛岡一高もラグビーは盛んな高校であった。そのために冬季、校庭に雪が積もれば体育の授業はもっぱらラグビーであった。当時、細長くて超軽量であった私がスクラムを組むと身体が持ち上がってしまってさっぱり役に立たなかったし、たまにやらされたウイングで激しくタックルを受けたり、希ではあるが快走してトライしたこともあって、どちらかというと親しみやすいスポーツの一つである。そうは言っても全く関心がないチームの試合をわざわざ観戦するほどではない。だからTV でまともに観戦したのは10数年ぶりかも知れない。
やや下火になってきたが、ここ10年ほどはサッカーブームでワールドカップなどは私には到底理解が出来ないほどのフィーバーぶりであった。私はサッカーよりはラグビーの方が遙かに好きである。
なんで楕円形のボールのなのか、何でゴールがあんなに広いのか・・と疑問に思っていたが、ハイクラスのチームの試合を見ていると納得出来るものがある。あとは身体のぶつかり合い、これもワイルドでとても良い。時には美しささえ感じ、感動してしまう。しばらく倒れたままの選手も時々いるが、普段鍛えたからだなのだろう、大ケガに至ることは少ないようである。ラグビーは地味ではあるが、強さ、単純さ、直向きさなど、真に男を感じることの出来るスボーツである。
2003/1/1(木)「謹賀新年」(年始休暇初日)曇 病棟拘束
大晦日、覚醒状態で日替わりの時間を迎える。徒然の年末の締め記述。ドック処理x1、退院総括など。3:00-4:00Vn練習。4:30就眠。6:00起床。本年懸案の医療評価機構の準備作業進める。私にとっては暮れも正月もさほど影響が無いワンパターン生活が淡々と始まる。
10:00年賀状、分類・整理、追加記述、Vnなど。おせち料理開封、いつもと変わらない正月の味。自家製の方が美味しいのも随分ある。15:00-19:00病院。帰宅後より急に体調不良、寒気、違和感。上気道炎か? こんな時は寝るに限る。20:00NHK-TV ムーティ指揮・New Year Concert聴きつつ就寝。
2004年初日 つれづれ・・
今年はどんな年になるのだろうか??
今年はイラクへの自衛隊派遣が行われる年となる。そのことを通じていろいろ感じることはある。非戦闘地域、非戦闘的範囲での援助活動に限ると、国会では随分論議されたが、そういう条件下での派遣とは言え、それは国内における対策、納得に過ぎない。勿論派遣される隊員の安全性は確保されなければならないが、他国から見れば日本は世界の一員としての道に一歩踏み出したと見るだろう。
あの湾岸戦争では日本は金しか出さなかったが、国際的にはむしろ孤立化した。その動きの中、翌年、国際平和協力法を成立させ、それ以降、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原等の国際平和維持活動、各国の難民救済活動にも自衛隊が参加している。ただ今回のイラクへの自衛隊参加はこれらとは次元が違う。ただ、ここで必要なのは、従来の日本がとって来たようなその場しのぎの外交、ひ弱な外交路線では今後の国際関係の中ではもう通用しないと言う認識であろう。一本筋の通った論理、考え方が必要。骨太の我が国の基本方針が確立され、それを貫く中でなら、また考え方、感じ方は変わってくる。ひ弱な路線上であの外交官二人が殉職したのならあまりにも悲しい。
医療面では、事故防止とか感染症対策など医療機関に求められる事項はどんどん増えてきている。これは当然の流れである。よりよい医療にマンパワー不足の解消が第一に必要であるが、その財源となるべき診療報酬の改訂は今回も見送られた。だからといって改善の方向は進めなければならず、医療機関にとっては今年もまた厳しい年になりそうである。年末に発表された100床あたりの医師のまずは僅か10人程度で,アメリカの1/5、ドイツの1/3である。看護師もアメリカの1/5、ドイツの1/2である。こんな状況の中で求められるものだけ増えていく。
明るい話題は初期臨床研修必修化が行われると言うこと。医師の研修は、戦後のインターン制度、努力目標としての研修制度と変遷はしてきたが、その流れの中では今年は大きな節目になるだろう。是非とも成功させたいものだ。
・・正月を迎えてふと思った、つれづれの感想である。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |