日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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12/31(水)(年末休暇三日日)曇 日直・ICU日直 病棟拘束
1:00起床、ドック処理x1、総括、その他原稿など。0:00頃帰宅の家内はそのまま居間の絨毯で朝まで爆睡。8:20病院へ。回診、拘束医業務若干。午前外来10人ほど補助。午後は淡々と残務処理。夕方病棟の看護師のためにTVをセット、感謝された。18:00帰宅、夕食。若干のビールで一時微睡む。22:00来客数人。0:00年越しソバを楽しみつつ静かに新年を迎えた。
2003年大晦日を迎えて
今年の大晦日、我が家で迎えた大きな変化の一つは20年近く恒例になっていたアキタニューグランドホテルでの家族全員での大晦日の会食が今年頓挫したことである。秋に営業停止したからで、代わりの場所も思いつかなかったからである。そんな意味もあってこのホテルの消滅は寂しい。ささやかながら私にとって恒例であった紅白歌合戦を今年も観なかった。実際の所、ここ数年、急速に興味が萎えてしまっていたのも事実である。理解出来る世代の出演者、曲が少なくなってきたのも理由の一つだろう。子供達が家に居た頃は知らず知らずの間に耳に入っていたからまだ付いて行けた気がするが、最近は全く駄目になった。何処か別の世界の雑音にきこえてしまう。先ほどはまくら元のラジオをたまたま入れたら石川さゆりの唄う「能登半島」がきこえて来たが、この世代の曲はやはり良い。曙対サップの試合を甥っ子と倅が見ていたようだが、散々引っ張った割にはあっさりと決着がついてしまったようだ。
2003年も最期の日を迎えた。今年の徒然日記をずっと見なおしてみて良くもまあ忙しく過ごしたものだと感心してしまった。
大きく変化したのは10月以降であった。
10月12日、JR長岡駅で階段を踏み外して激しく転倒、結果的にはメガネ、パソコンに若干の障害が出たものの、額から軽く出血しただけで済んだ。10月19日アキレス腱切断、10月19日手術・・・・・と続く。10月22日、8月に受けた職員検診の結果が届き、上部消化管透視の結果で胃ガンの疑い??、まさかと思いつつもガックリ来た。
上部消化管内視鏡検査の結果は異常なく安心したが、アキレスの方は原因不明の浮腫が続き心配の種はまだ解消はしていない。まあ、今年はこんな年だったが、動くのに不便した付録として少しはVnの腕が上がったような気がする。
この一年間、国内外いろいろなことがあった。それでも、我が家を中心にすえてこの一年を概観すれば、今年もまた、略安泰であったとまとめたい。自分も含め、家内も子供達もおのおのの立場で精一杯,懸命に過ごした一年だったと評価できること、これは何にも代え難い。
最期にこの一年間、私どもを支えてくださった皆様方に心から感謝いたします。本当に有り難うございました。
12/30(火)(年末休暇二日日)曇
1:00起床、ドック処理x1、紹介状、総括、臨床内科医会原稿など。2:00帰宅の家内は一睡もしないうちに4:00患者急変で病院に。8:50次男札幌から帰省。11:00病院に。回診、拘束医業務若干。臨床内科医会脱稿、送付。その他残務処理。18:00帰宅し、そのまま就寝。
この一年、興味がひかれた事項(一部だけ)
●新型肺炎---------私もこれに随分時間を費やしたなァ
●医療費自己負担引き上げ--------回避する方法も有り得たのに
●イラク攻撃、3週間で終決--------終結後の方がずっと困難なのだ
●イラクに自衛隊-------日本もついに軍隊を派遣。さて、どうする?
●シャトル「コロンビア」分解-------救出の可能性は無かったのか
●パチンコ問題で秋田県副知事が辞職-----呆れた暇人、節操のなさ、税金泥棒
●秋田県市町村合併論議--------まだ先が見えないが、・・・
●秋田県で作況指数が「92」 --------これでも良いらしい。食糧問題を再検討しよう
●アキタニューグランドホテルの破たん------私が最も好んだホテルだったのに
●阪神18年ぶりリーグ優勝--------このフィーバーは何なのだ??
●衆院選で2大政党化進む--------小さな政党はどう生き延びる
●少年関連事件続発---------家庭、教育、大人・・・の有り様が問われている
●松井選手活躍-------予想以上でした
●10年ぶり冷夏-------寒かったです
●天皇陛下、がん摘出手術-------お陰で患者さんに説明しやすくなった
●万景峰号入港---------国交がないのに何でこんなにしょっちゅう来るんだ??
●イラクで2外交官殺害--------誰かが犠牲にならねば、事態は進展しないのか
●有事関連3法が成立-------日本の危機管理は後進国並みだが
●十勝沖で震度6弱-------イランの地震もすごいが
●りそな銀行に公的資金注入--------いつまでこんなこと続けるんだか
12/29(月)(年末休暇初日)終日曇天
2:00起床、ドック処理x1、3:00-4:00Vn練習。総括などこなす。8:30家内を病院に送って病院に。回診、救急マニュアル作文。その後は夕方まで自室で淡々と、音楽を聴きながら業務処理、オートチェンジャー内のCD、No1-12迄進んでいた。AMラジオも鳴らしていたが、時折の音楽が干渉しあって邪魔。総括、主治医意見書、など蓄積していた未処理分やや減じた。19:30帰宅、Vnなど、20:30就眠。昨年は初めて除雪機を使用した日だが、今年はまだその機会はないようだ。右足がまだ不自由なのでホントに助かっている。
この一年も腕ずく解決策の横行、テロの報復
一昨年9/11の忌まわしい同時多発テロ事件に続き、昨年は国際的テロが続いた。「仏タンカー爆破」、「モスクワの劇場占拠事件」、「バリ島」の爆破など、まだ記憶に新しい。
今年最大のテロ行為は3/20の米英によるイラク攻撃。力関係は明らかでフセイン政権は短時間で崩壊し、潜伏していた元大統領も収監された。フセイン収監時、これで恐怖政治の再来はなくなり、従って治安は良くなるだろうとの予想があったが結果は逆であった。
米英中心に、イラクの復興に向けてイラクに居座って種々の努力しているが、親フセインのイラク人にとっては、その目的が早期のイラク人の政権への移譲までの過渡的措置と言えども結局は、イラクにいる外国人は異邦人であり侵略者であることに変わりはない。
日本には戦後処理としてGHQが駐留して統治したが、国民のとった行動は今のイラクとは雲泥の差であった。この違いは何なのだろうか。原爆2発で非戦闘員中心に理不尽な殺戮を行ったアメリカさえもすんなり受け入れてしまった日本人の心理はどうなっているのだろうか。イラクよりもずっと異常に思えることすらある。
力と力の対決ではその力に格差があればあるだけ弱者はテロに走ることになる。ラジオのニュースをかける度に連日のテロ活動のニュースが飛び込んでくる。従来はゲリラ戦様の状態になるのだが、イラクでは自爆テロを始め自動小銃、ロケット弾まで用いられており、米英を中心に既に戦闘で失った以上の尊い命を失っている。イラクでは大量破壊兵器は無かったかも知れないが、身近な銃器はかなりの量が親フセイン体制側には普及しているようだ。
イラクの問題で最大の問題点は国連の姿が見えないこと、ブッシュが独走している。間もなく自衛隊も派遣される。これで国際的協調という面では若干の貢献は出来るだろうが、日本が何と説明しようとその立場の人々から見れば軍隊の派遣と見られ、完全な敵国扱いされることになる。東京等を中心としたテロ活動の可能性が一気に高まったことになる。ところが、その危機管理活動の動きも政府の方針もさっぱり見えないのも気がかりの一つではある。米英では武装した私服の保安要員を航空便に搭乗させるなどの対応も始めている。
12/28(日)曇り 病棟拘束
2:00起床、ドック処理x1、救急マニュアル用原稿、退院時総括、臨床内科医会のSARSなど淡々とこなす。Vnなど。13:00病院着、降雪なし。回診、机上業務。ミニ随想に書いたこともあり、故障したリムーバブルメディアのJaz、10数枚を良い機会とゴミ箱に廃棄したが、2時間ばかりたってから考え直してあわてて回収し、ハードもいろいろいじくって四苦八苦しながら何とか再生出来た。2年ほど使えず困っていただけに、また貴重なデータも入っているだけに、実にいい気分である。18:30知人と会食のためにサンビームへ。途中から家内も同席、仏料理を楽しむ。21:30帰宅。22:00就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(22)
ところでベートーヴェン交響曲第7番は大曲であるが当時のオケの弦楽器はVlaが少なくアンバランスで調整する必要があった。ならば、と自ら申し出てこの会からVlaを担当することとなった。VlaはVnより一回り大きく体格によっては演奏は困難であるが、もともとVnもまだそんなに巧くなかった私にとっては大差がなかった。それ以上に良かったことは楽譜がVnパートほどは密度が濃くないと言うこと。要するに細かい動きが少なく、若干余裕が生まれたと言うこと、であった。そのために各パートの音をじっくり聞くことが出来、曲の理解にも大きく役だった。
で、この演奏会から第2Vnの末席からVlaの最前列で弾くことになった。牛尾から鶏頭になったようなモンである。驚くような変化であるが、これで当時の管弦楽団が如何に人材が乏しかったか分かると言うものでもある。下手とはいえ指揮者の真ん前で弾くので緊張度も高いし、1st VnやVcとの掛け合わせもあるし、希に短い独奏部分もあるし、責任は重くなっていく。それが私にとっては一番良かったことなのかもしれない。Vnの時よりじっくりと個人的練習に励んでから練習に出かけることになった。尤も、一人で練習するときにはVlaの音は地味であまり楽しくないために自分のVnをVlaに見立てて練習し、合奏の時だけVlaに持ち替えてやっていた。
その後、部活から離れるまでの3年間ほどVlaを受け持ったが、お陰で良い経験が出来た。
12/27(土)降雪・寒波 一応御用納め
2:00起床、ほぼ同時に家内帰宅。本日10:00に病院を発つ韓国人患者の紹介状を英文の書くということでまた徹夜で頑張っている。ドック処理x1、総括しながら適宜手伝う。病院5:30着、降雪2-3cm。道路は久々アイスバーン状態。回診、患者は比較的安定。机上業務に集中、一段落。9:00ドック結果説明x3、10:30-13:00外来、土曜にしてはかなり混雑。14:30入院患者家族と面談。19:00帰宅。帰路もアイスバーン状態で危険。Vnなど、20:30就寝。.
IT時代、 記憶メディア(2)一つに過剰にこだわると結局無駄になる
その数年後、次世代外部記憶メディアは一気に発展した。ハードディスクも大容量となりより高速になった。私は自宅や仕事場の各所にマックを置いているのでリムーバブルメディァでなくてはならない。わが国では主にMOが発展し、米国ではZip、JAZなどが開発発展してきた。私はその中では特にZipに注目した。記録メディアは100MBで1500円ほどと多少高価ではあったが、装置が2万円ほどと安価であったし、記録も高速、電気的にロックをかけることが出来るなどの利点があったからである。そのうちマックの一部機器には最初から内蔵される様にもなった。
まず一台購入したが、私にとっては手軽で丁度良かった。当時連日新聞のスクラップをスキャナーを通じて作っていたからデータの蓄積にも便利であったし、大量のファイルを簡便に持ち運べる。結局、パソコン通信を通じて安価で手に入れて全マックに装着したから全部で7-8台、ディスクも7-80枚近くになっただろうか。
連日の使用なので徐々に機器が不調なり始めてきている。ところがもう古すぎて修理が利かないし、SCSIタイプのものは販売されていないから代替器がない。ごまかし、ごまかし、なだめて使っているが時に認識されなくなりデータが失われるなど、回転系を中心にトラブルも生じるようになってきた。Zip自体はまだ発展しているようであり装置もより安価になってきている。しかし、接続はUSBまたはFirewireのみであり、これを用いることの出来るMacは2台しかないから私にとってはやっぱり八方塞がりである。
しかも、溜まってきたデータは最近簡単にCD-Rに蓄積出来るからZipメディア自体も余ってきた。まあ意地でもZipを使い続けようとは思っているが、先日メモリースティックを購入して時代の流れを感じてしまった。回転系をメカを用いていないだけ安心感もある。勝負は明らかですナ。
結論として、この時代、一つの方式にこだわって集中すると何れは新しい方式に取って代わられる。音楽面で体験したレコードとCD、カセットとMDの関係にも似ている。しかも、その移り変わりはとても早いと言うこと。ハードだけでなくソフト面でも同じで、もう旧マックでなければ開けないソフトやデータも少なくない。
だから、この時代、特にIT関連ではあまり一つのことにこだわらずに、時代の流れをキャッチしつつ自分も変容していかなければならない、と言うことだね。
Zipを通じてまた学んでしまった。
12/26(金)曇り 感染委員会 県医師会打ち合わせ(欠) 法人理事会
2:00起床、ドック処理x1、総括など。今年は除雪機準備まだしていないが降雪は殆どなく助かっている。病院5:20着、回診、患者は比較的安定。机上業務に集中、締め切り原稿完成し送付、一段落。10:30-13:40外来、ドック診察x5混雑。15:00-16:30感染症委員会。17:30-19:00法人理事会。20:30帰宅、21:30就寝。
IT時代、 記憶メディア(1)一つに過剰にこだわると結局無駄に
医局のメインのマックG3のOSを先日9.1にアップしたので家のG4と互換性が増した。最大のメリットはメモリースティックが共通に使用出来るようになったことで、早速先日から使い始めた。チュウインガム数枚程度のサイズに256MBも入るのだからすごい。書き込み速度もまず満足出来る早さである。
私が音楽用のYAMAHAのミュージックコンピューターを購入した1991年頃は記憶メディアとしては主にカセットテープであった。当時やっと発売になったフロッピーディスクは装置が5-6万円もしたから手を出せなかった。コンピューターは本体の電源を切るとデータが全て失われる構造だったからカセットテープでも重宝したが、データを入れてある場所を何らかの方法で詳しく記録していないと探し出すだけでも大変、しかも、10回のうち一回ほどはデータが壊れて二度と読み込めず、時間をかけて入力した伴奏譜など失って呆然とするなどの悲劇を何度も味わった。そのうちにこの煩雑さと不安定さのために用なくなったがそのために15分用のカセットテープが20本ほど残ってしまった。
最初のパソコンであるマックColour Classicは160MBのハードディスクとフロッピーディスクがついていたから驚いたものである。フロッピーは確実に記憶出来るし、データが確実に戻ってくる。記憶データも1.4MBと当時としては十分であったからデータの持ち運びにはすこぶる重宝した。今でも外来の患者予約用のパソコンPB180Cとのデータのやり取りにだけ用いている。フロッピーディスクは購入したという記憶はないが、今も手元に100枚ほど残っているがそのうちで利用されているのはわずかに3-4枚に過ぎない。
その数年後、次世代外部記憶メディアは一気に発展したが、私はその中では特にZipに注目した。今はZip機器の不調に悩み、余りつつあるZip-diskの処分をどうしようか悩んでいる。
12/25(木)曇 総合内科診療部会(欠) 秋田県難病対策連絡協議会 療養病棟診療部会
2:00起床、家内帰宅。ドック処理x1、総括。紹介状関連書類を急ぐ。病院5:30着、回診.9:00-14:30外来、超混雑。13:30からの総合内科診療部会は時間とれず欠、15:00-16:45秋田県難病対策連絡協議会、みずほ苑。17:00-18:20療養病棟診療部会.20:00帰宅、21:00就寝。
初期研修、その後の研修、人材育成を秋田県全体で支える構想を作る(2)
ともかく、初年度の研修医の数はまずこれで決定した。あとは、国家試験で全員が合格することを願うだけである。各研修病院共に初期研修義務化は初めての体験であり、その成功の有無は次年度の研修生のマッチングに直接的に影響するであろうから、その成功に向けて準備を進めることは重要である、各病院とも従来から研修医は受け入れているのでそれなりのノウハウはあるだろうが、これからは恐らく研修医の評価がインターネットを通じて縦横に飛び交うことになろうから、今までとは全く異なる、堅固な研修システム化が必要になってくる。昨日の協議会では出席者の年代もあってあまり理解されていないような印象を受けたが、今の学生たちの情報収集ツールは主としてインターネットであることは明らかである。マッチングの面接時に殆どの学生が病院のホームページを見て志願を決めました・・と言っていた。
無事初期研修がスタートしたら次は初期研修終了後の医師に対する対策である。各病院でも継続的研修のプログラムを用意するであろうからそれを利用するのも良い。秋田大学に属してその後の研修や研究をするのも良し、県内の各地域の医療機関に属しながら地域の主幹病院で研修を続けるコースもあって良い。それぞれの門戸は若い医師の立場から拡げられなければならない。
初期研修はスタートしたら早急にこれらの受け入れ体制を体系化し、定期的に初期研修医を向けに説明会を開催するなどして情報を発信し、一人でも多くの医師が秋田県内で医療を展開できる受け入れ態勢を構築すべきである。これには秋田県・県医師会・秋田大学、県病院協会等が知恵を出し合う必要がある。それのコ・オーディネーターとして県医師会も十分に役立てることだろうと思う。
県医師会長の、初期研修を秋田県として受け止め、体系化するという構想は、秋田県の地域医療にとって重要であり、大きな発展性と夢を感じるアイデアである、と評価したい。
12/24(水)曇 感染委員会(欠) 県医師会理事会 初期研修関連協議会(仮)
2:00リハビリ当直室で起床、ドック処理x2、総括など。4:00am入院患者不調とTEL、呼吸不全状態で対応す。本日の理事会内容検討そのほか.7:15検食、8:20病院に移動。9:00-14:30外来、連休前で混雑するもかつてのほどではない。薬剤の長期投与が可能になって通院の便宜が図れるようになったことはとても良いことだが・・・。14:00の感染委員会は時間とれず欠席、16:30-18:00県医師会理事会。18:30-20:10秋田大学・秋田県・医師会の関連者が集まっての初期研修関連の協議。20:40帰宅。21:30就眠.
初期研修、その後の研修、人材育成を秋田県全体で支える構想を作る
本日、県医師会理事会のあと県医師会長の提起で秋田大学から3教授、県から健康福祉部次長と担当者、県医師会から5名が集まり初期研修関連の初会合がもたれた。医師会長がかねてから提唱している初期研修を個々の医療機関ではなく秋田県全体として引き受けようと言う構想の具現のための初めての会である。
秋田県の初期研修のマッチングは68名で、うち大学が23名、一般病院が45名となっている。全体の数から言えば、昨年秋田県内に残って研修した卒業者数は61名であることから7名増加した、だからそれなりの成果があった、と一応考えられている。しかし、近隣地域を見れば、東北・北海道では山形県を除き総じて前年よりは増えている。中でも北海道・宮城・岩手は20名以上の増加で注目される。特に岩手県では昨年度よりも32名も多かった、これは、県の医療局がかなりの活動を展開した成果と評価されている。
地域の医療の展開発展のためには、まず医師が充足しなければならない。そのために県が一定の役割を果たす必要があるが、秋田県では県の担当部署の働きは殆ど見えず、秋大が中心になって進められた。その影響を受けながら県内の研修病院がそれぞれ頑張って来たという状況で進められた。
県内の68名のマッチングの結果は、秋田県や秋大を含む県内の医療機関の魅力で初期研修医を集めた、と言う評価は出来ない。それだけの求心力は無かったと言うべきであろう。秋大のマッチングがやや予想より少なかったことは言えると思うが、これは秋大と県内の一般病院が研修医を分け合ったに過ぎない、と私は思っている。私どもの病院でマッチングを受けた学生の多くが秋大、または当院のどちらかを第一、第二希望していたことから推定できる。
理想は、秋田県での初期臨床研修が魅力があり、県外から多数の研修医が集まってくることであるが・・・。
12/23(火)天皇誕生日 超快晴 病棟拘束、 大阪府医師会長他来秋 リハビリ当直
2:00起床、人間ドック処理x3。院内文書そのほかでほぼ昼まで集中.患者不調で急遽出勤する家内、昨夕忘年会でTaxi帰宅、を病院に送ってから病院に13:30着、回診。定期処方箋薬局に送付、その他。16:00-17:45View Hに植松大阪府医師会長一行8名迎え歓談。来期の日本医師会会長選挙がらみの来秋。文章とかではよく知っている方だが実際会ってみることは良いことだ。在秋田2.5時間ほどで大坂に帰っていった。大変なものだね。ご苦労様。18:00リハビリ当直に。新聞処理若干20:10就寝。
歴代天皇は短命だったのか??
本日は天皇誕生日。70歳の古希を迎えたと言う。宮内庁によると文献上、在位や年齢が確認できる歴代の天皇は第42代目の文武天皇以降だと言うが、その内で在位中に70歳の古希を迎えたのは第49代奈良時代の光仁天皇と先に亡くなった第124代の昭和天皇のみであり3人目だという(産経新聞)。約80人の天皇は若くして死去されたと言うことになるが、それが時代に関連した通常のことなのか否かは何とも言えないが、あまりの少なさに驚いた。もう数人程度は居ても良いような気がした。
時代柄、つい先頃までは一般庶民は厳しい生活で食べるにも事欠いていただろうし、厳しい労働条件、生活環境で次々と若くして死んでいったであろう事は容易に推定できるが、それでも頻度は少ないが長命者はおり、長老として敬われていた事はいろいろの記録などから知ることが出来る。その意味では、特別な環境にあったであろう天皇達に長命者がでていないのは何か異様でもある。贅沢すぎて生活習慣病であったのか??閉鎖社会の中で繰り返された血族結婚のために生まれつき備わった脆弱さのためであるのかは私には解らないが・・・。
昭和天皇、現天皇が揃って長命であると言うことは、日本の高齢化社会と関連していると思われて興味深い。
そう言えば数日前にWHOから発表になった疫学調査集計によると日本は今年も平均寿命、健康寿命ともまた世界一を確保したという。更に進む少子化と合わせ厚労省、財務省の方々は今後の医療費、年金等の社会保障がどうなることか、とさぞや気をもんでいることであろう。
12/22(月)晴れ 管理会議 皮膚科再診 感染症対策会議(欠) 長副会議
2:00起床、淡々と業務。ドック総括x2他、報告書そのほか処理.病院5:30。回診他、8:00管理会議。9:00-14:20外来。途中で皮膚科受診、細菌性の蜂窩織炎ではなさそうとの判断。感染症対策会議(欠)。16:30-18:20長副会議。懸案事項多数。20:30帰宅。21:30就寝。
大学医局の忘年会(2) 余興は絶対的に男性の方が面白い
この12月、秋大医学部のうち3つの医局の忘年会に多忙な院長の代理として出席した。各医局の忘年会とも宴がたけなわになってくると余興が繰り出す。医局の忘年会と言ってもその部門の附属病院の看護師さん方も一緒である。余興はその年入局した若手医師、看護師さん方に半ば義務的に割り当てるのが伝統になっているようで、何れも医局のもそれなりに準備されたと思われる中身の濃い内容であった。
看護師さん方の余興は、決まって若干趣向を凝らした衣服をまとって数人が壇上で歌って、若干の振り付けで踊るというもので内容的には大同小異である。それに対して若手医師の出し物は、本当に出し物を出すのではないかと心配させるような際どい裸系のものや、数人の裸のパフォーマンスは一部に白鳥の湖の4羽の白鳥の踊りもとり入れていたし、プロ顔負けの本格的歌唱まで飛び出すなど様々であった。来賓という立場なので引っ張り出される心配もなく楽しめた。なかなか芸達者な医師もいるモンだと思うし、男の裸体も若ければなかなか良いモンだ。
一般病院のこの様な会は看護師さん方が中心でそれに医師が若干混じるだけで、女性の趣向で進められることが多いし、いつ指名されて壇上に引っ張り出されるのか解らないからおちおち楽しんでもいられない。大学医局の男性優位の余興、やはりパワーもひと味趣向も違うものだといたく感心した次第。
最近この様な会ではその結びの頃、ビンゴゲームが必ずと言っていいほど行われる。私はこのビンゴなるゲームでは何故かいつも不十分な結果で不満、と言うより運が悪いと言うべきであろう。今年の医師会の事務局との合同忘年会ではついに最後の一人にまで残ってしまった。ある内科医局のビンゴの一位は50万円ほどのDVDビジュアル・オーディオセットと司会者が何度もしつこく触れ回っていたが、あたって嬉しげな若い看護師さんの表情がとても良かった。中身は一桁違いのセットであろうが、あの司会者が言うと本当かなと思わせるから、夢があってなかなか面白い。私はちょっとした日用品であったがもう何であったか思い出せない。
12/21(日)曇天 病棟拘束
2:00起床、寝不足感あり。ドック判定総括x1。院内救急マニュアル用原稿を進める。このほか、秋田医報原稿、日医委員会報告書、臨床内科医会原稿も早急に手をつける必要がある。更に校正原稿も2編ほど届き圧倒されている。医療評価機構もあるし、年末に向けますます多忙になりそう。11:00朝昼兼用食、Vn練習、14:30-19:50病院。回診、ドック判定x1、紹介状他、20:30帰宅、Vn、22:00就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(21)
新潟大学管弦楽団第一回定期演奏会
19967年(昭和42年)7月2日は医学部オーケストラから全学規模の新潟大学管弦楽団として再スタートを切ったオケの記念すべき第一回の定期演奏会が新潟市公会堂で行われた。これは同時に医学部オケとしての創立40周年記念演奏会でもあった。
演奏曲目は(1)ベートーヴェン「エグモント序曲」(2)組曲「ロザムンデ」(3)「歩み」(4)ベートーヴェン交響曲第7番、でアンコールとしては「運命」の第一楽章を演奏した。他の曲は名曲で説明も要しないが、(3)の「歩み」はオケの大先輩で、東京で開業されていた小林勝郎氏の作曲となる曲である。氏は熱烈な音楽の愛好者でありわれわれのオケにも援助を欠かさぬ方で、実に有り難かったように記憶している。その後も永く新潟学士会報に音楽関係の小文を投稿されていたがいつしか途絶えてしまっている。多分、死去されたのであろう。彼の熱烈さとは裏腹に彼の作品8にあたるというこの曲は何だかようワカラン迷曲で今となってみればそのことだけが懐かしく思い出される。
12/20(土)寒波襲来・降雪初冠雪 国療道川病院新棟落成記念式典+祝賀会 秋大泌尿器科教室忘年会 西島参議候補来秋懇談会(欠)
2:30起床、ドック判定総括x1、病院救急マニュアル関連作文x2、5:15Taxi病院着。回診他,担当の患者急性胃腸炎発症、対応。9:10-10:00ドック結果説明x3。10:30-13:00外来.入院患者不調で13:30からの国療道川病院の祝典には間に合わず、祝賀会に参加。17:00中座し病院に戻り、回診。18:30Castlesに秋大泌尿器科教室忘年会。ホテル側の事情で会場の用意出来ず20分ほど遅れて開始。21:10中座帰宅。21:50就寝。
大学医局の忘年会(1) 初期研修必修化、法人化の影響は深刻
この12月、秋大医学部のうち3つの医局の忘年会に多忙な院長の代理として出席した。教授による挨拶の中で必ず語られたキーワードは何れも「大学法人化」と「初期研修必修化問題」であった。後者についてはマッチングの結果も出て一定の方向性が確定したので、落ち着いた雰囲気が感じられたが、前者については来期から大学がかつて経験したことのない未知の世界に踏み出すことになるだけに大きな危機感が感じられた。秋田大学医学部でも20%ほどの診療材料費の節減、手術件数の削減が求められている、と言う。
従来から国立大学独立法人化は「効率化につながるのか」「国立大学の存在価値とは何なのか」「大学が崩壊してしまう?」とか「いや、開かれた新生国立大学が誕生する」と言うような議論が聞こえてきてはいたが、大きな論議はわき上がらず、文科省と国立大学の上層部だけのやり取りで奨められたという印象がぬぐえない。それがもう実施直前に来ているといった危機感であるが、具体的なものと言うよりもまだ漫然とした危機感の印象の範囲である。各教授が言うとおりに推移するなら、国立大学付属病院が私的医療機関であるわれわれの病院と発想を近くしないとやって行けそうない内容になろうとしているだけに大変なことである。しかし、今更感じることであるが、なぜ広範な反対運動が巻き起こらなかったのだろう。インターネットにはいくつも反対意見が掲載されているが、一般マスコミへの提起や街頭行動、大衆運動としての動きはほとんど見られない。学生の反対運動があったという話も聞かない。同じ医療職として同じ地にいる私にもその運動の動きは一切聞こえてこなかった。
当事者である大学でも反対運動がそれほど盛り上がらず、国民的な関心も持たれていないというところに今の国立大学の危機があるのだろう。前者の原因は大学人にほぼ共通の「在日日本人的」発想だろうし、後者は国立とか公立とかの組織特有と思うのだが、一般大衆の感覚からかけ離れている「閉鎖的組織」「親方日の丸」的な溝、しかも結構広い溝ではないかと思う。渦中にいる自分たちが積極的に社会に向かって発言し、問題提起しなければ誰も注目しない。ただ、共感を得るにはその前に溝を埋めるために自らが変容しなければならないことも少なくない。
忘年会の帰路、タクシーの中で徒然と感じたことである。
12/19(金)曇 対策委員会 県医師会打ち合わせ(欠) 南中合唱部ミニコンサート 秋大心臓血管外科忘年会
2:00起床、ドック判定総括x1、Vn他,5:20病院着。回診他,10:30-14:10外来+人間ドック診察x5。14:15-15:30感染対策委員会、県医師会打ち合わせは時間取れず欠。16:30-17:50南中合唱部、昨年に引き続き病院外来ロビーでミニコンサート。合唱を途中まで堪能。18:30-21:30秋大心臓血管外科忘年会、実際は交通事情で19:00頃から。21:30帰宅、22:00就寝。
学位に関して(3) 反省すべきこと
私自身は実は学位取得をする積もりは全く無かった。と言うよりは意識的に避けていた。私が新潟大学生の頃は丁度インターン制度が否定され、廃止運動が盛り上がっていた時期で、卒後研修制度等を巡って学内闘争が起こっていた。われわれの学年もその流れにの中で授業ボイコットやストライキ、街頭デモ等も行ったが、その際の討論会等で医局制度や学位制度の利点や問題点について学生の立場ではあったが、いろいろ調べて発言したが、その際、学位制度に対してネガティブの発言をしたこと、がそのルーツである。
秋田大学第三内科で思いがけず10年ほど学ばさせていただく機会を得た。大きな成果は出せなかったがそれなりの研究もしていた。一定の条件が整った際には学位論文を提出するというのが教授の方針と言うことで、その頃私自身は白血病の治療の限界を打破するために骨髄移植の実施を準備中で、なおその研究を続けたいと考えていたので、その目的のために在籍8年目頃であったか、それまでの仕事の一部を論文にまとめて学位を修得した。
そういう背景があったために学位の授与式には出席しなかったし、学位証もどこかに紛失したようだ。審査していただいたお二人の教授にも礼を欠いてしまった。この点では指導していただいた教授には多大な迷惑をかけてしまった、と今では反省している。この礼を失したことを除けば、私が学位を取ったか否かなど、対外的には何ら問題ではない、価値のないことであるが、自分自身では過去の自らの発言に反して学位を取得したことに対して、今でも一抹の自己嫌悪の気持ちを感じている。しかしながら、自分の置かれている状況ではやむを得なかった、と言うのも私の偽らざる本音である。
今回たまたま学位のことについてふれる機会があり、当時のことを思い出してしまった。
12/18(木)曇・晴れ 医局会 市保健所監査
2:00起床、ドック総括x1、再検査結果報告他,インフルエンザワクチン在庫状態関連通達文章他、5:30Taxi病院着。回診他,9:00-13:30外来混雑。13:30-14:20医局会。SRSVなど。病棟対応,患者家族と面談他。20:30帰宅。21:00就寝。
学位について調べてみた(2)
学位とは何か??「専門的な学術に対する深い学識とすぐれた研究能力と指導力をもつものに与えられる称号」というのが常識的な答えになる。西洋では、中世末期にヨーロッパの大学成立期に、教師の資格としてドクトルの学位を与えたのが始まりで、上下の二つがあり、下級がマスター(修士)で、上級をドクター(博士)とし、大学の正教授となれる資格であったとされる。大学が充実し発展して行くと共に、学位は教授資格ではなく優れた研究業績に対する称号に性格が変わり、学位が社会的に高い評価を得るようになった。
日本の学位制は、明治20年欧米の文化を吸収することに汲々としていた頃に生まれた。その頃の言葉なのだろう、「末は博士か、大臣か」と言う言葉がある。当時の学位の称号は後光が射す如く有難いものであったらしい。信じ難いことだが大臣よりも博士が上位にランクされていた。実際に、学位のある人は少なかったわけであるが、実力もあり、偉い人が多かった・・らしい。学位の名称として博士の名称を用いたのは、我が国の律令制以来、知識のある人の代名詞として古くから用いられていたこの言葉を学位として宛てたとのことである。今でも「ものしり」の意味では文章博士、暦博士、お天気博士、鉄道博士とか、学問的な分野とは異なるが、その道の卓越した知識人への称号として一般的にもよく使われている。
しかし、医療界・医学界では、長い間、教職にあるものの学位熱はあったが、学位取得を目指す臨床医はまだ少なかった。学位取得数が爆発的に増加したのは昭和25年以降で、特に基礎医学教室に所属して、論文を提出し、学位を獲得するようになった。開業医が夜間に基礎医学教室で勉強し学位を取ったとか、実際には若手医師が研究を代行した、多額の現金が動いた・・・などの話などが飛び交うことになる。
その後も医師の学位の取得数は増加し続けており、他の農学、文学、工学などの分野に比較して学位の発行数はきわめて多い。結果として学位の地位も下落して「足の裏の飯粒に等しい」とまで言われるようになった。
巷での評価とは言え、「大臣に匹敵するほどの価値」から「足底の飯粒」迄、評価が急落した資格を私は他に思い当たらない。
12/17(水)曇時々晴れ 皮膚科受診 院内感染関連委員会 県身体障害福祉協議会(欠) 療養病棟忘年会
2:00起床、家内帰宅と同時。ドック判定総括x1他、5:20病院着。回診他,回診途中で自分の右鼠径部リンパ腺腫脹に気づく。やはり右下腿の腫れは蜂窩織炎??面倒なことになりそうだ。まず皮膚科に受診とした。14:00-15:20対策委員会。県身体障害福祉協議会(欠)は担当領域の症例もなく欠席とさせていただいた。18:30-21:20療養病棟忘年会、Hotel Metro.21:50帰宅。22:15就眠。
コンコルドの終焉。
2003年10月に怪鳥「コンコルド」の飛行が中止になった。直接の切っ掛けは2年前の墜落事故ではあったが、その前から機体の老朽化、採算割れとかで運行続行は取りざたされてきていたからやむを得ない処置と思われる。
2年前の墜落事故は、直接原因は最終事故原因調査団の結論では、先に離陸したコンチネンタル航空??から滑走路上に落下した金属片によってタイヤがバーストし、燃料タンクを破損、出火したこととされている。コンチネンタル航空側でも非を認め賠償金を支払っている。
実際には事故原因として別の見方があるのを知った。あるジャーナリストが執拗に原因究明を進めたものであるが、判明したことは事故機は整備の不備で本来であれば脚に装着すべき部品をつけないままで、車輪の回転の安定さが欠けていたこと、通常よりも約600Kgほどの積載重量過剰でタイヤへストレスがかかっていたこと、航空機関士が機長に無断で出火したエンジンを止めたことなどが明らかにされているという。部品が欠如していたことは事故機の残骸の検査でも判明しており、実際に整備場の棚の上に残っていたと言う。
回収されたフライトレコーダーによると、機長は通常の離陸速度に達する前に離陸操作を開始していることが判明している。重量過剰状態では考えがたいことであるが、その理由は、事故機は金属片を踏む前から滑走路上で左側に寄り始め、滑走路から逸脱する危険が迫っていたためにやむを得ず操縦桿を引いたのではないかと推論されている。機が左側によった原因が左車輪の回転の安定性を維持する部品が欠けていたこととが第一の原因とされし、それによるタイヤのバーストがあったとしている。事故原因とされる滑走路上の金属片を踏む前にこれらの過程が進んでいたと推定しており、滑走路上に落ちていた金属片を踏む遙か手前から燃料タンクから煙が出ていたとその見方を裏付ける目撃者も3人いるというし、この説を支持する元パイロットや専門家も少なくない、と紹介している。
しかしながら、この事故の原因の説は事故原因調査団には完全に無視された。客観的な証拠がないから・・と言うのが理由と言うが、国営エールフランスの権威を保つためのこじつけで結論がねじ曲げられた、とそのジャーナリストは結んでいる。
私など最終報告の抄録を見てフムフムと納得していた。他の見方をする資料、情報がないからやむを得ないが、何事につけても一つのものの見方にとらわれない発想と、それを解明していく熱意が重要だと感じ入った次第である。
12/15(火)院内感染関連委員会 医師会打ち合わせ 医局カンファ「院内感染」
2:00起床。家内はICU当直。ドック判定総括x1他,3:30-4:30Vn,他いつもの如く、5:20Taxi病院着。回診他.9:00-13:30外来超混雑。ドック結果説明x1他。14:00-15:00院内感染関連委員会。病棟患者家族と面談2件。16:00-17:00医師会打ち合わせ、17:30-19:00医局カンファレンス「院内感染対策」。20:20帰宅.21:30就寝。
新制学位令・・・・学位について調べてみた
私も大学で勉強していたときに成り行き上、一応学位は戴いたが、研究結果をまとめたり論文にするプロセスには一定の意義は感じていたが、博士号そのものに意義を感じるどころかむしろ逆の価値観を有していたので授与式等には出席せず、かつ証書も取りに行っていない。後に大学から送られてきたように記憶しているが何処にいったか所在不明である。この博士号取得に関連して取った私の行為は、今となって思えば、指導して下さった教授、審査して下さった教授の方々に対し甚だしく礼を欠いていた、と反省すべきものであった。その自省も込めて私は履歴その他に博士号の取得に関して記載したことは殆どない。この点については別の機会に記述したい。
先般、業務上で若干検討を要することがあって学位制度について若干調べてみた。初めてその規定にお目にかかったのであるが、きちんと決まっていたんですね・・・と言うのが実感であった。
12/15(月)曇・雨 管理会議 感染症打合会 秋大第二内科訪問 長副会議 初期研修マッチング関連懇談会
2:30起床、今日は細切れ睡眠であった。ドック判定総括x1他,医師会倫理委員会講演録校正講,他いつもの如く、総合保健センター守衛さん起きており原稿預け5:20病院着。回診.8:00-8:40管理会議.9:00-13:30外来超混雑。下痢症患者関連打合会。院内業務処理。15:30院長と共に秋大第二内科伊藤教授訪問。16:50-18:40長副会議。19:00-21:10初期研修マッチング関連懇談会に遅れて参加。初期研修予定の6/8名と実習生、研修中の若手医師等出席あり懇談する。21:25帰宅.21:50就寝。
初期研修マッチング関連懇談会 初期研修のキーワードは患者・教科書・指導医の助言
当院では10名の受け入れ体制に対して10数名がマッチングに参加し、内8名が合致した。本日はその方々を中心にした懇談会である。マッチングに参加した学生のうち一人を除いて私も面接に同席したが、何れも好青年で15-20分の面接では私の目では甲乙付け難かった、と言うのが実感である。人を見る目に問題があるのかなァ、といつも思っていることでもある。
本日集まった6人と会うのは2回目になるが、各人の面接時に交わされた会話を思い出す。その日は当然のことであるが各人緊張でコチコチであった。その中からの6人、病院側の評価と学生諸君の評価が互いにマッチしたと言うこと。本日はアルコールの影響もあろうが素直な表情、笑顔が見られてとても良い印象をうけた。実際に研修が始まると個々の個性が発揮されてくるだろう。どんなヒトなのか、それが楽しみでもある。
彼らは既に卒業試験は終了しており、次の目標は国試のことで一杯なのだろうと思うし、その先には初期研修初年度生としての不安があるように思える。その意味では、研修を受け入れるわれわれとしても同じ思いである。少しでも良い研修が受けられるよう担当者を中心に誠意準備中である。
院長は院内業務の関連で出席出来なかったことから、私が一言求められたが、その中では自分の経験から、初期研修のキーワードは「患者」・「教科書」・「指導医の助言」、であると述べた。患者が全ての情報源であり、教科書がその道標であり、指導者の助言は得られた情報に立体感、命を吹き込む価値があるのだ・・と言う意味である。
「百聞は一見にしかず」という諺は往々にして誤って用いられている。一見に価値があるのではなく、百聞を元に十分に思考を重ねたときにはじめて一見の価値が発揮されるのである。指導者の助言が先行するように作られた研修システムは意味が乏しい・・と思うからである。
今私も30数年前の学生生活を回想してみているが、今日の懇談会では自分の学生生活当時のことが思い出され、すっかりタイムスリップしてしまった。
12/14(日)曇・時々晴れ 病棟拘束
2:30リハビリ当直室で起床.ドック判定総括x1他、紹介状、新聞チェック数日分。その他。手のひら大のMDステレオ、なかなかいい音で十分楽しめる。7:15検食、8:30病院に移動、回診他。11:30帰宅。Vn、机上仕事進める。夕食は事情があって17:00と早め。Vn、20:00-22:00本格的に就寝。その後医師会倫理委員会の校正、他。1:00再度就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(20)
解剖実習など
授業は解剖学、生理学、生化学 ・・・・と基礎科目から始まる。専門課程の授業は一定の講義のあと実習が行われる。何事も新しい未経験の世界であったが、一年目に迎える大きなエベントは何と言っても解剖実習であった。正確には何月から始まったのか覚えていないが、多分夏期休暇後からだったと思う。医学生6人ずつが一つの小グループになって2ヶ月ほどかけて3人の遺体で実習させていただくものである。
午前は各科の授業があり、午後は連日解剖実習に取り組むことになる。この間はバランスよく実習作業を進めなければならないから、グループ内のメンバーは互いの時間を調整しながら行動することになる。6人のグループの中に秋田出身の女子学生がいた。テニス部での練習のためか、地グロかわからなかったが、色の黒いやせ形で、性格はユニーク、なかなか面白そうなヒトだとの印象を持っていた。卒業間際の臨床実習まで基本的にはこのグループ単位で行動することになるが、この女性と卒業翌年に家庭を持つことになるなど、その間は全く予想だにしていなかった。人生、先のことなど全くわからないものである。
12/13(土)晴れ・寒波やや緩む 医療相談患者対応 リハビリ当直
昨日同様、家内帰宅したのを機に1:30起床、ドック判定x1他,3;00Vn練習若干。他いつもの如く、5:20病院着.雪はない.回診他.9:00人間ドック説明x1、その他.10:30-12:15 外来。13:00-14:00湯沢の患者夫婦、膠原病関連でセカンドオピニオン的に医療相談に来院、対応。医師会文章校正、医療評価機構関連.16:45リハビリ病院にパソコン+周辺機器+ポータブルステレオなどトランクに満載して引っ越し.新聞数日分処理、他。19:00夕食、22:30就寝。.
イラクでの外交官殺害に関して
イラクは現在全土が危険地帯だと言って良い状況にある。自衛隊派遣は結局は内閣の決断と言うことで決まったようであるが、いつ何処にどの程度の規模で送り出すかと言う事はまだ流動的である.ただ、疑問なく明らかなのは、外交官達は危険地帯に無防備状態で派遣されていると言うこと。こんな危険なことはない。外交官たちの身の安全をどのようにして守るのか。これは国として重大な問題だと思う。
自衛隊は軍隊なのだろうか??これも決着していない.軍隊を送り出すのか、いやいや、人道支援的に自衛隊という非軍隊の自衛のための組織を送り出すのだ、といろいろな思惑があるようだが、国内で何といおうと諸外国から見れば日本も軍隊を派遣すると遂に決断したと判断される事は明らか。
日本のこの決断によって日本人は、特に外交官達は新たなテロの標的になることは明らかであろう。だから、イラクには相対的な安全地帯という面の区域は想定できるかも知れないが、テロと言う点の危険性に関しては安全地帯は無きに等しい。今後、どうやって今後外交官達を守るのか。これは本来は外交官を受け入れる国の問題であろうが、それで安全が確保できないならまず自衛隊を外交官の護衛に付けるべきなのではなかろうか。
外交官二人がまさか私用であの区域に出かけるはずはないだろう。私は十分理解していないが、恐らく公務として出かけたのであろうが、あの領域をあの状態で出かけたことは果たして良かったのだろうか??しかし、現状では何とも出来なかったと言うのが現状であろう。イラク本土に自衛官を派遣する事とは切り離して外交官に護衛を付けると言うことを論じて良いのではないかと思う。最前線にいるヒト達を大事にべきである。これは我が国に欠けた考え方であるような気がする。第二次大戦での前線の様子など当にそうであったと思う。
殉職されたお二人の葬儀の様子は新聞とかを通じて若干ではあるが見ることが出来たし、読むこともできた。国としての対応はそれなりであったと思うが、マスコミの報道には何かが大きく欠けているように思えてならない。10年ほど前のTVの人気アナウンサーが進行胃がんとの壮絶な闘病の後に死亡した時の報道、葬儀の中継などと大差のないイメージしか受けなかった。
何であっても表現される事象の陰には膨大な問題点が存在する。私はいつも氷山に例えるのだが、その深い問題点を論じた報道にはついぞ遭遇しなかった。
12/12(金)快晴、寒波4日目 県医打ち合わせ(欠) 法人理事会
1:30家内の帰宅の音で目覚めてそのまま起床、ドック判定総括x1他、紹介状返事、主治医意見書、Vnなど。5:40Taxiに病院着。医局は寒い。回診他。患者関連書類作成、10:30-12:00外来。13:30-14:15ドック説明x1+診察x5。本日は嘔吐下痢患者が多いというので対応。17:30-18:50法人理事会。20:00帰宅、昨年は30cmの積雪だったが今年は0cmで助かる。Vnなど21:00就寝。
「SRSV(小型球形ウイルス)」→「ノーウォーク様(よう)ウイルス」→「ノロウイルス」へ
本日夕方の県からのファックス情報では県北の大館地区の保育所でノロウイルスの集団感染があった、とのこと。ノロウイルスはなじみのないウイルスでまた新興感染症かと心配する方もおられると思われるので簡単に紹介します。
従来から、冬期間を中心に胃腸炎を起こすウイルスとして「SRSV(小型球形ウイルス)」があります。新聞にも時々取りあげられるために一般の方々にも結構知られて来ていたのですが、本年8月29日施行の食品衛生法の改正に伴い、ノロウイルスと名称が変わりました。ここまではまあ良くある話の一つですが、本年春の秋田市行われた剣道大会で生じた多数のSRSVによる感染事件の場合には新聞等では「ノーウォークウイルス感染症」という名称が用いられていましたので、県民にとっては些か複雑です。
ノーウォークウイルスは、1972年のアメリカ合衆国のノーウォークでの胃腸炎の流行をきっかけに発見された一つのウイルスで急性の胃腸炎の原因になります。しかし、このノーウォークウイルスと遺伝子的に近くて、かつ胃腸炎を起こす似たようなウイルスも多数知られていて、細かい区別せずにまとめて「ノーウォーク様(よう)ウイルス」呼ばれていたのですが実際にはいろいろと混乱も生じていたようです。そこで、最近、「ノーウォーク様ウイルス」を「ノロウイルス( Norovirus )」と呼ぶことになったのだそうです。
ノロウイルス(SRSV(小型球形ウイルス))は、冬季を中心に、今では冷暖房が発達しているためにほぼ年間を通して胃腸炎の原因となっています。60℃10分程度の熱でも病原性を失わず、かつ、塩素系殺菌剤や消毒用アルコールに対しても抵抗性があります。
感染経路は生カキの関与が指摘されていますが、学校や保育園などで、生カキを食べていないのに集団発生をする事例があり、原因として人から人への二次感染が疑われています。今回の発生もこの春の秋田市の剣道大会の集団発生はこれにあたります。
潜伏時間は24-48時間で、下痢、吐き気、腹痛、発熱(38℃以下)が主な症状で、多くは3日以内で回復します。感染しても風邪のような症状で済む人もいます。抵抗力が落ちている人、乳幼児では数百個程度のウイルスでも発症するとされています。
家庭、保育園、学校、病院、施設などでの二次感染を予防法を記しておきます。
●感染者の便、吐瀉物に触れない。接触した場合は十分な洗浄と消毒を行う。
●吐瀉物や、便で汚れた衣類等を処理するときは、ビニール手袋、マスクを用いる。
●吐瀉物や、便で汚れた衣類等は他と別に洗う。
●吐瀉物や、便で汚れた衣類等の処理に用いた用具、雑巾類は塩素系漂白剤でつけ置き洗いをする。
●吐瀉物や、便でなどで汚れた床は塩素系漂白剤を含ませた布で被い、しばらくそのまま放置し消毒する。
12/11(木)曇り-快晴 明和会本部業務課、魁新聞記者、薬剤師会、県健康対策課来訪
1:30起床、ドック判定総括x1他、紹介状返事、入院総括など。3:00家内帰宅。Vn練習。5:40Taxi病院着、回診他。9:00-14:00外来、混雑.久しぶりに対外的予定のない一日であったが、明和会本部業務課、魁新聞記者、薬剤師会理事、県健康対策課来訪、と訪問客が多く時間的には細切れ状態であった.20:00帰宅、21:00就寝。
不注意で新しいYシャツをインクまみれにした
昨日の午後、秋田県医療的ケア連絡協議会の最中に病院からの呼び出しのポケットベルが鳴った。机上に乱雑に出していた万年筆、ボールペンを胸のポケットに差し込み、資料を閉じるなど、軽く整理して、携帯電話を持って会議場を出た。病棟の患者がまた急変したか?と緊張したが交換手の話しでは東京からの電話だとのことで安堵した。心当たりのない方からの電話らしいので、もし急用でなければ明日かけ直ししていただくよう伝えて会議場に戻った。
その後はしばらく会議に集中していたが左の胸のあたりが何となく冷たい感じがしてきた。何だろうか??と思いつつもしばらくそのままにしていたが何となく左胸のあたりベトベトした感じになってきた。ソッと上着の襟ををめくってみたら何とYシャツの胸ポケットから腋にかけて真っ青に染まっている。ワッ、また万円筆が壊れたか??かつてモンブラン万年筆のボディに亀裂が入り、書類と机上をインクまみれにしたことを思い出した。ソッと胸ポケットから万年筆を取り出して驚いたのは、万年筆を使用状態のまま、Yシャツのポケットに差し込んでいた!!。午前の外来でインクを満タンにしてきたばかりであったがもう万年筆には一滴たりともインクは残っていなかった。
これは単なる不注意か、ボケか??と思った次第。男はトイレのあとズボンのジッパーを上げ忘れることは時にあるが、これは不注意の段階。それを超えていくと今度はジッパーを下げるのを忘れると言うし、もっとひどくなるとズボンを下げるのを忘れるのだという。まだそんな経験はないが、だんだん近づいてきたのではないかとも一瞬思ってしまった。
さて、汚したYシャツ、これは最近仕立てたばかりでとても気に入っていたが・・、をどうしようかと考えている。インクは当たり前のパイロットインクだし、クリーニングでほぼ完全に漂白出来るだろうと期待しているが、もし出来なかったらどうしようか。その場合にはよそ行き用にすれば無駄にしないで済む、と思っている。フォーマルなところでは上着を脱ぐことはないだろうから、インクまみれでも問題なく、十分役に立つだろう。
12/10(水)寒波持続降雪若干 県医療的ケア連絡協議会 県医師会常任理事会+忘年会 中通総合病院年末大交流会(欠)
1:30起床、昨日から寒波、しかし積雪2-3cmほど。ドック判定総括x1、紹介状、返事x1。5:30Taxi病院着.回診他。9:00-13:30外来+ドック診察、15:00-16:30県医療的ケア連絡協議会で第二庁舎に。盛り上がりのない会。後での連絡によると県の方でこの会を今回で終了にしたいとの意向だったらしい。中座して山蕗に。16:45県医師会常任理事会。17:45-20:00県医常任と事務局の忘年会。中座して20:00帰宅、20:30就寝。
胃潰瘍で出血死 12/9は夏目漱石の命日 胃の検査にちなんで一考
胃の検査を受けたのを機に、胃疾患で死去した作家、夏目漱石を思い出した。
ネコを取りあげたり、ど素人の弾くヴァイオリンについての記述もあるし、それだけでは勿論無いが、漱石は私が好む作家の一人である。彼はもともと性格的にも陰鬱、かつ胃弱であった。その辺のことは自ら随想とかに書かれているし、作品の登場人物の中にも表現されている。彼の弟子を始めとする周囲の人達もたびたび語っている。
1916年、漱石は、従来からの胃疾患に加えて糖尿病を併発した。その治療のかたわら5月から朝日新聞に「明暗」の連載を始めた。体の不調とは逆に創作はきわめてスムーズであったとされる。この点でも芸術家はすごいものだと感心する。
8月24日大量吐血を来たし、30分ほども脈も呼吸も途絶えたかに見えたほどというが奇跡的に回復。この時、妻から状況を聞いた漱石は生死二面が如何に身近にあり、その間を急激に移りゆくも、日常は全く没交渉の世界であり、今回は深く感じ入ったよ・・としみじみと語ったと言う。
11月22日、再び胃具合が悪くなり、そのまま病床に就く。すぐに治療、看護態勢が整えられたが、病状は予想以上で11月28日、12月2日に大量の出血、一時小康状態となるも12月9日、18:45永眠した。享年49歳。漱石の死によって「明暗」は連載188回で中断、未完に終わった。
明治末から大正初め、漱石が胃潰瘍で苦悩していた頃、胃腸病の専門病院と称する医療機関はあったが、胃潰瘍の診断はどのようにして行われたのか、治療として入院安静、食事療養の外に何があったのか?? 特に吐血・下血に対して、輸液や輸血がなかった時代どのような処置治療方法があったか、ただ見守っていたのだろうか、興味深い点である。
私が医師になった頃、胃潰瘍で吐下血を来した多くの患者の診断・治療にあたった。当時、内視鏡ではなく胃カメラであった。超小型のカメラが先端についた、今から見れば棒の様なものなのだが、これを胃まで入れて、カメラから発する光を腹壁から見て多分これでうまく写るだろうと予想してシャッターを押したものであった。胃のファイバースコープはまだ一般化していなかった。最も効果的な治療は食事や薬物ではなく、入院させて一時社会的なストレスから解くことであった。それでも出血が止まらない場合には輸血・輸液で全身状態を保ちながら外科医師に手術を頼み込み、時にはそのまま拘引きに入ったこともある。革命的であったのはH2ブロッカーと言われる薬剤の登場と、内視鏡的止血法の開発で、胃潰瘍の自然歴は一変したように思う・・・。
12/9(火)寒波・降雪 県感染症評価会議 医師会打ち合わせ 秋大第一内科忘年会
2:00起床、ドック判定総括x1他、紹介状返事x2、入院総括x1。5:30病院着、6:30回診他。9:00-14:10外来+ドック説明他、10:00入院患者呼吸停止、対応。14:10県感染症評価会議で衛生検査研究所に。15:30県医師会打ち合わせ。病棟、患者ICUへ移動など。14:15県医師会打ち合わせ。18:30-21:00秋大第一内科忘年会Castlesに院長代理として出席。若手医師の余興がとてもよかった。21:30帰宅、22:00就寝。患者急変含め終日種々対応に追われた、余裕のない一日.
胃ガン疑で上部消化管内視鏡初体験した話(2)家内にひたすら感謝
今まで上部消化管を受けたことがなかったのは、特別な考えがあったわけではなく、その必要性を感じるような消化器系の症状を持ったことが殆ど無かったためである。これは最高に恵まれた状況と言いうる。ただ、40歳以降は常識的判断で職場の透視による検診はほぼ定期的に受けていた。それが今回初めて要精査に回された。
前処置は前夜の夕食後の絶飲食から始まる。私にとっては1:30amの起床時から正午頃までの約半日の長丁場であり、通常ならコーヒーとかがぶ飲みしながら仕事をするのだが、それも出来ず結構きつかった。
グルカゴンを筋注し、100mlほどの粘膜溶解剤を服用、麻酔用ゼリーを口に含み口腔内など麻酔後、ゼリーを飲み込み内視鏡開始。喉を通過するときにホンの少しの圧迫感・違和感を感じたがその後は全く何ら苦痛なし。胃内に空気を入れたのか否かも、カメラを反転させたのかも、十二指腸まで入れられたのも全く感じないまま5分ほどで終了。嘔吐反射も一度も無く、涎も全然流れなかった。へー、こんなに楽だったのか、と改めて感心した次第。終了後に画像を見せてもらったが小さな発赤が2-3あるだけでガンの所見はないだろう。ホッとした。
ただ、その後に口腔内、後鼻腔、咽後頭部の麻酔のために風邪気味の時に味わう症状に似た様な感じが約一時間も残ったのが予想外のことであった。
家内の技術が良かったのか、被験者としての私の感覚が徹底的に鈍かったのかわからないが、きわめて楽にすんだ内視鏡検査。今回も家内にひたすら感謝である。子供たちが独立した今、私どもの日常の会話、夜通し仕事をしながら交わす会話の大部分は、その日の診療した患者のことを始めとして、多かれ少なかれ仕事、医療、医学、病院に関連したことが中心であり、まあこれも医者同士が一緒になったのだし、二人併せて一人前だと思えば、これらの会話も勉強になるし、これも運命だね、仕方がないね・・・と諦めてお相手するのだが、正直言って時には苦痛と思うこともないわけでない。今回はそんなことを一気に忘れさせてくれる様な、とてもいい気分を検査で味わった一日であった。ひたすら医師である家内に感謝、感謝である。
12/8(月)管理会議 長副会議 AKT preview
0:30早めに起床.ドック判定総括x1.紹介状、主治医意見書。秋田医報の最終校正完成。5:10県医師会館に寄るも守衛起きておらず届けられず。6:30から回診。8:00管理会議。9:00-13:30外来、いつもより患者数やや少なめ。コツを聞き自室マックをOS9.1にアップ。これでメモリースティックが使用できるはずだ。16:30-18:00長副会議、自由討論中心。むしろ型の決まった会議と言うよりこういう時間のほうが必要なのだ。18:30-20:00AKT放送局で医師会制作番組のpreview。つつがなく終了。20:20帰宅、21:00就寝。
松葉杖と別れるに当たっての感慨。胃ガン疑で上部消化管内視鏡初体験(1).
アキレス腱を切って手術を受け、移動に不便していた数日後に、10月に受けた職員検診の結果が届いた。一般項目は良い結果で特に記するような問題はなかったが、オプションで受けた上部消化管の透視の結果、小彎の一部に壁の硬化を疑わせる像が複数の写真に写っていると言うことで要精査となっていた。この所見はガンを疑わせるものである。ほぼ毎年受けているが初めての指摘である。ついに私にも来たか、今年はいろんなことが起こる年だな・・・と思いつつも、一方では恐らく何ともなかろうと考え、当面はアキレス腱切断関連の治療と車椅子や松葉杖に慣れることを優先し、精査は後回しとした。
12/4に整形外科受診で装具を外して良いこと、その数日後から松葉杖なして歩行して良いと言うことになった。12/7土曜の帰宅時から廊下をソロリソロリと歩くことから始め、徐々に慣らしていった。さぞや開放感があるだろうと期待していたが、外来や病棟への移動は不自由な足では結構遠く、現実には右足首の状態だけを言えば松葉杖を使用して歩く方が負荷が少なく、断然楽である。松葉杖に別れを告げるのは些か寂しい思いもあるが、しかし、これで一段落した。外は寒波襲来で荒れてはいたものの、私は晴れて自分の足で歩くことが出来るようになったし、運転も可能となった。実際に下肢の機能が元に戻るまでに地道な努力と時間が必要であろう。ちょっと気がかりなのは腱切断の日以来の患側の浮腫である。
松葉杖を使いながら感じたことは、人は二本の足で立ち、二本足で歩行することが何ら疑問も唱えられず当たり前のこととして受け入れられているのが、本来これだけの体重を支えるのに二本足しか使わないと言うことは、動物として実に不自然なことではないかという思いである。エレベーターやタクシーを待つ時間、松葉杖と患側下肢をも含む4本足で立っている方が腰や膝に対して遙かに楽だということをこの6週間実体験した。
だから、成長期や壮年期までならまだしも、高齢に達して筋力が衰え始めてくると腰と膝等にとってかなりの負担になっているはずである。それに加えて、みんな太ってくるし、人は自然が設定してくれた自然寿命??よりも30年も長生きをする状態になったのだから、足腰がだめになるのは当然なのだ。
やはり人は人生50年!!!、みんな長生きし過ぎるのだ、人は必ずしも健康で長生きする必要はないのだ、それは本来無理な望みなのだ・・・、という私の主張が裏付けられるような気がしてならない。
次は延ばしていた胃の精密検査である。いつ受けようと考えたが連日の外来も予約が溢れているなど時間が取れないために家内に頼みこんで昨日受けた。
下部消化管内視鏡検査は昨年受けたが、上部は実は幸せなことに今回が初体験である。
12/7(日)小雪 寒波、強風 病棟拘束 上部消化管内視鏡初体験
1:30起床.寝不足感あり。ドック判定総括x1他、再検査結果報告作成、紹介状。秋田医報校正2部、長編で大変。Vnなど。11:40秋田組合病院へ、上部消化管内視鏡を受ける。重大な異常なし。午後来客あり、Vn、レコード等でゆっくり過ごした。病院から電話対応数件。20:00就寝。
自伝 大学時代 医学部3年(1965〜71)(19)
医学部に通学
昭和42年4月から全ての授業が医学部の講義室にて行われるようになった。入学時にオリエンテーションを一度だけ受けたが、それ以来二年ぶりで級友が一堂に会した。これから4年間、殆ど同じ教室で全員が、あるいは小グループで行動を共にし学ぶ仲間達である。
当時は附属病院のみは新しかったが、学舎や各教室の研究室は古い歴史のある建物にあり、たこ足の如くの構造で、各講座・研究室毎に講義用の階段教室を持っていた。そのために学生は解剖学、生理学・・・と講義の内容によって基礎医学校舎を移動する必要があった。各々の階段教室は、教壇の机上に並べられる臓器等の資料などを後ろの席でも十分見れるようにする配慮なのか、狭い空間を利用するためなのか、傾斜はかなりきつい構造になっていた。また、何年の歴史があったのか解らないが床や木の机は角が丸くなり、黒光りしていたものである。
丁度、基礎医学を学んでいた時期は大学の改修増築工事たけなわの時期で、臨床医学を学ぶ頃には講義室は各教室付属ではなく共用の講義室となり、広く傾斜の緩い、机も椅子も合板で出来た近代的な講義室になった。10年ほど前にあるセミナーに出席するために新潟大学を訪れたが、もう昔の面影は皆無であった。毎年届く新潟大学医学部学士会雑誌によれば、今も改築増築が次々に行われていると言うから今訪れてもオリエンテーションすらつかないかも知れない。
12/6(土)曇り、寒波来襲
2:00起床.ドック判定総括x2他.4:00家内帰宅。土崎医団会・忘年会のあと病院に戻り仕事をしてきたという。ご苦労様.5:40病院着、回診他。病院のマック G3、これは戴いた物だが、不調でOS入れ替え。OS9.0は受け付けられず諦め、再度8.6に。10:30-13:20外来、土曜にしては混雑。OS入れ替え後の復帰させつつ別の機種で総括、紹介状、意見書等.本日の午後から松葉杖を使用せずに歩行し始めた。若干右下腿に負荷を感じる。18:00帰宅.20:00就寝。
故竹本吉男先生追悼遺稿集「オリオンの彼方に」 遺稿集出版発起人会編 2003年11月 非売品
約一週間ほど前、立派な装丁の厚手の本が送られてきた.表記の本である。
故竹本吉男先生は秋田赤十字病院の第8代院長であり昭和43年から平成8年まで28年半の長きにわたって院長職にあり、退職後は名誉院長として、また、日本赤十字秋田短期大学長としてご活躍になったが、平成14年11月2日78歳で逝去された。
竹本先生は秋田日赤病院と言う一病院のからにとどまらず、秋田県の医療、日本の医療の発展に尽力された方で、彼の名を知らぬ県内の中堅以上の医師は恐らくいないと考えられる。県医師会副会長としても二期4年間にわたってご活躍された。
私にとっての竹本先生は、新潟大学の先輩と言う縁で、時には言葉を交わすことはあったものの日赤の名院長として、遙かに遠い存在であった。平成7年9月に日本診療録管理学会が竹本先生を会頭に秋田で開催され、求められて些かのお手伝いをしたが、その時やそれ以来、何度か親しく言葉を交わす機会があり、時に医師会業務についてのコメントを戴いたこともある。
先生のお別れ会等には出席出来なかったが遺稿集が計画されていると聞き、一口ながら応援させていただいたが、それでこの遺稿集に触れる機会が得られたものである。
内容は「弔辞」「追悼の言葉」「遺稿の中から」「病院と短大と」「セミナーと講演から」・・・と続く。数多くの方々の寄稿があり生前の先生のご活躍が語られ、先生の一部しか知らない私にとってはひたすら驚く内容ですっかり引きつけられてしまった。「決断力」「包容力」「柔軟性」を兼ね備えた人物との評価で共通している様に思える。私もその様に感じていた。
先生の残された言葉は至る所に記述されているが、とても引用しきれない。
2001年3月に看護学科卒業生に贈ったとされる「良い看護師の3箇条」のみとしておく。看護職を医師に置き換えれば私への言葉にもなると思って読ませていただいた。
(1)看護師たるものは、常に患者から学びながら、看護の腕を磨き、知を深めていかなければならない。それによって初めて専門職たりうる。
(2)看護の対象は、病気や障害ではない。苦痛に喘ぎながら、かつまた現代医療の限界に失望しながらも、決して絶望しない尊厳ある人間である。
(3)医療に関わるものは、凡て良き人間でなければならない。良き人間たりうるには、人間を知り、人間を愛し、そして自ら苦しむことによって得られる。
遺稿集の題名は夫人の「オリオンの 光り未来に 映りけり」から取ったものだとのことである。
12/5(金)曇 医師会打ち合わせ(欠)
2:00起床.ドック判定総括x1他、紹介状など。家内3:00過ぎ帰宅。珈琲、Vnなども。5:40病院着、回診他。総括、紹介状他10:30-13:30再来やや混雑。ドック診察5名14:10まで.医師会は時間とれず打ち合わせキャンセル.医療評価関連中心に。20:30帰宅、21:00就寝。一昨年は帰宅時フロントガラス雪固着して難渋、とあるも今年は概して温暖。
デジタルの時代
私自身はどっちかというと白黒をはっきり出来ない、しない、決断力の乏しい,アナログ的性格の人間だと思う。その性格をカバーするのにマッチしたのかも知れない、90年代初頭にたまたま音楽の関連のことでパソコン(マック)を購入してから、その便利さに押しきられて,もう手放せないものになってしまった。すると、至る所で使いたくなるし,あたらしい機能はそれほど求めないから型遅れ品や中古品を買い集め,不調や故障で四苦八苦しながら利用して来た。結果的に多少の故障、ソフトの不具合は自分で何とか出来るようになった。起動せずあわや廃棄されるところであった医局のマックも私の所で今も現役で働いている。逆に,分解したまま戻せないでいるマックも二つばかりある。古いのを活かして使おうと奮闘している姿を見て、病院を去るときに「東京では置くスペースがないので、古いのですが使ってください」と私にパソコンその他一式をプレゼントしてくれた医師もいる。実際に戴いたのは古いマックどころか、私にとってはいまでも最新の機種の一つである。
私の回りのパソコンは家内や子供達のを除くと発売後2-3年以内のものは一台もなくみんな4-5年から10年程度のものであるが、医局の自室に5台、自宅の居間は家内や賄いの石井さんの分を含めて3-4台鎮座し,それぞれが得意分野を受け持ち適宜使われている。
パソコンだけではない,私のオーディオ関係でも,身の回り品でも次々とデジタル化が進んでいる。カセットデッキは市販され始めた1970年からつい先日まで使用してきた。デッキはこの間随分発達した。今のは何代目になるのだろうか。しかし,今夏ついにMDに席を譲ってデッキの電源も抜かれてしまった・・・。LDはもうDVDに移行し,器機もソフトも手に入らない。今度故障したら終わりかもしれない。こんなにサイクルが早く交代していくとは思ってもいなかった。
先日のリハビリ病院当直の時にはMDミニステレオ一式、パソコンPB2400一式、携帯電話、デジカメ、I Cボイスレコーダー,ポケットベル、FMラジオをバッグに詰めて出かけ,それぞれが活躍した。実に便利な時代になったものである。大学で勉強中の頃,当直のバイトに行くときにレコード,レコードプレーヤー,アンプ,スピーカー一式を車に積めて行ったものが,今はキャスター付きの中型のバッグに入ってしまう。隔世の感がある。
でも,まだ完全に移行し切れないのがレコードである。SPの頃から親しんできただけに,また,相当数の枚数があるだけに,そう簡単にはDVDやCDには移行出来ない。まだまだ愛着が強く残っている。
12/4(木)曇 やや寒い 整形受診 患者家族と面会3件 院内SARS委員会(欠) 健康対策課来訪
2:00起床.ドック判定総括x2他、3:00Vn 30分ほど。5:40Taxi病院着、回診他。9:00-14:10外来.整形受診で装具から解放された。明日から両足にスリッパで通勤が可能となる。松葉杖はあと2-3日と。患者家族と面会3件1時間ほど。Dr A.K来訪、CD他戴く。16:00-16:30県健康対策課来訪、インフルエンザワクチン不足問題関連。院内SARS委員会は急遽決まったもので時間調整不可で欠。机上の懸案事項多数処理し周辺が若干すっきり.20:30帰宅、21:00就寝。
医師は患者に触れなくなった(3)
私は人間ドック受診者の診察が週2回8-10名ほど、外来は月から土曜日まで連日、週200+α名ほど、病棟は療養型病棟患者30-35名程度を担当している。外来の3日間は予約制の高血圧外来で、疾患のジャンルとしては血液疾患などもいて結構広いが,大部は自覚症状も少なく病態の変化も少ない慢性疾患患者である。
外来では患者の大部分は定期的に通院してくる。最近の体調を聞き、全員に血圧測定をし、時に検脈する。このときだけは患者の身体に触れるから,一応は来院した全患者に触れることにはなる。しかし,特別の愁訴のない患者には聴診や腹部の触診は滅多にしない。人間ドック受審者の診察時も同様である。
それでも特にクレームはないし,特段困ってもいない。何らかの愁訴があって来院したとき、他の医師に通院している患者が不調で来院したとき、新患患者等の場合にはじっくり診察する。何故、定期的に通院してくる患者が無症状の場合に聴診や触診をしないかというと、身体から得られる情報がほとんど無いからである。患者もその辺はよくわきまえて私の外来に来院してくる。通院し始めの頃には血圧測定のあと胸を開く患者、診察台に横になる患者がいるが、その様な患者には慣れるまでは一応、聴診や触診はする。
慢性疾患の場合には,患者の表情の観察は最大限重視しているが、何ら不調のイメージが感じられないときには生活指導と、一言二言の世間話を交わす。その中から患者の置かれている状況を把握する。それを通して患者と医師の距離を縮めていく。
中には患者サービスなのであろう,毎回聴診器を胸にあてる医師もいる。しかも一カ所1秒ほどで数カ所のみ。実際には聴診なんかしていないのだろうに,実にご苦労なことだと思う。そこまで医師はサービス精神を持たなくとも良いのにと思う。
苦痛に悩む患者は身体だけでなく気持も弱っているから、やさしい言葉が慰めになるのは当然だが、特に強調したいのは、患部に「手当てする」こと。それと共にベットサイドに腰を下ろし、しばらく語り合うと言うこと。そこには医師対患者ではなく、ヒトとヒトとの「触れ合い」が生まれる場となる。これも患者に触れる事と同一の意味があるのだ。私は患者に触れることは少なくなったが,それでも十分に触れているのだ。
12/3(水)曇 さきがけ新聞記者来訪
1:30起床、ドック判定総括x1他、4:00家内帰宅、重症膵炎入院のためと。更に寝ないで5:25Taxi病院着、回診、他。9:00-14:00外来+ドック診察x1他。15:00-16:00さきがけ新聞記者来訪。今連載中の医療事故関連の取材という。回診、机上仕事、書類に追われる.20:10契約車にて帰宅、21:00就寝。
医師は患者に触れなくなった(2)自身の反省もこめて
検査も随分普及した。今は驚くほど多数の検査項目があり、医師はその中から必要最小限の項目を選んで検査する・・・はずであるが,よくマアこんなに詳しい検査をするモンだと日頃から感心することの方が多い。検査結果は数値で示される。このことは科学的な計量化を物語っている。科学主義を信奉する医師や患者たちは、機械が出してくる結果や数値には信頼を置き、医師の診察やコメントに信頼を置かなくなった。なぜなら、それらは計量化されないし,大略しか解らないものと評価しているからである。医師も患者も数値に過敏であり,正常か異常かだけに集中する。一種の数値ノイローゼ?ではないかと思ってしまう。
医師も患者に対してろくに説明しないままで次々と検査を進める。コスト意識が欠けている。外来ならまだ患者と対面する機会はあるが,入院の場合には全く医師の裁量に任されている。ある病院の医師向けのマニュアルには一日一回は回診すること,と書かれているが,回診しない医師が居るからであろう。それでも検査のスケジュールだけは出来ている。医師も何でも任されていると思っていることが背景にあり,ろくに説明もしないで次々と検査を出す。患者は黙って従うしかない。頻回に検査はされるが、肝心の医師と十分に話す機会は乏しい。医師はどこかで,ナースセンターの奥などで検査結果を見ながら指示簿を通じて患者をリモートコントロールしている。
診療は患者と医師の人間関係の上に成り立つものであるが、器械、検査がその間に介在し,患者の病むものとしての気持ちは疎外されてしまった。中にはそのことに不満を述べる患者が居るが,そのような患者は所謂,うるさい,問題のある患者としてマークされる。クリニカルパス導入は意義あることだが,この面でのネガティブの要素もあるのだ。
医療行為の中で患者の患部に"触れる"ということが、どのような意味をもつのかを考えるとき、医師の指先がかすかに触れるだけであっても、病床に臥し,心まで病み,孤独な患者にとっては生命のふれあい、生きている証として強く心に刻まれるのではないだろうか,そのような心境をつづった文を残して去って行った患者は数多い。日常臨床において,患部にそっと触れる行為こそ、病人を孤独と絶望から救う手段として,まさに医療の原点といえる。患者の気持ち,神経の全ては痛む患部に集中し,不安の元になっているのである。過去の医療行為は、病人の身体に,患部に直接触れるということが基本にあつた。それは,「手当てする」という言葉として残っている。
私自身も患者の身体に触れなくなってきた,と反省すべき状態にある。その一方で,患者の身体から発する情報を重視し過ぎて検査成績を軽視していると,後に後輩の医師から責められる事も少なくない。双方について反省すべき状態にあることを吐露しなければならない。
12/2 (火)快晴 医師会打ち合わせ 医局会
1:30、ドック判定総括x1他、紹介状、入院総括。5:40Taxi病院着、回診、定期処方箋発行34枚他。9:00-13:50外来、混雑.16:00-17:00県医打ち合わせ。17:30-19:00医局会議。真空採血管に関して意見交換。20:30契約車帰宅、21:00就寝。
医師は患者に触らなくなった(1)
医師は診察の際に五感を用いて患者の身体が発している情報を得る。患者の身体に触れることはもっとも基本的で重要な診断技法の一つで、これを欠いては良い判断は出来ない。
患者にしてみれば、日頃他人から身体を触れられる機会はそうは多くないだろうから、医師に触れられる時どう感じるのであろうか。私は他人にさわられるのを極端に嫌う。とは言っても実際に触れられる機会は2ヶ月毎の散髪の時ぐらい、のものだが、これすら実は嫌であるが、これはやむを得ない。むしろ納得できる範囲だから容認できる。その点では例えば上京したときの混雑したJR、希にタクシーとかの移動の際によその方と3人がけで密着することもあるが、これのほうが嫌だといえる。
医師として患者に触るのも私は実は好きでないが、これは止むなしと割り切る。
医師が患者の表情から得られる情報、触れて、叩いてみて得られる情報は検査の数値以上の価値があることは明らかである。どのような異常値を持っている患者であっても、患者自身の身体が発する情報がより安心出来る範囲ものであれば、大概はじっくり考え、分析する余裕を与えてくれるからである。これほど重要な診察法であるが、実際には医師によって技量に差があり検出力そのものも必ずしも高くないし、ましてやその情報を正確に他の医師に伝達することも困難である。だからこそ、患者の相談があったときなど、話を聞くよりも自ら出かけていって目で、耳で、指先で情報を得ることにしている。特に、急に具合が悪くなった患者の場合などでは往々にして何者にも勝る情報源になりうることがある。しかし、今は慢性疾患中心の時代である医師の診察法も大きく変わってきた。
医学の進歩にともない、臨床の分野で画像診断などの発展がめざましく、現在では心臓の大きさを診断するに当っては、打診よりもレ線写真のほうが遥かに確実であり、肝臓の場合も、触診より超音波のほうが、より豊富な情報を提供してくれる。その結果、医療の現場では、患者に直接触れて診察する代りもっぱら診断機器を活用するようになり、それが示す情報により信頼を置くようになった。かくして医師と患者との間に機器が介在するに至った。これが今の臨床現場の姿である。(つづく)
12/1(月)快晴-曇 管理会議 長副会議+委員会 県医師会倫理委員会
2:00起床、ドック判定総括x1、主治医意見書、原稿他。5:20Taxi病院着、回診他。8:00管理会議。9:00-13:30外来、混雑.16:30-18:20長副会議+委員会、18:30-20:30県医師会倫理委員会に30分遅れて参加。テーマは「医師会の自浄作用」、「セカンドオピニオン」で司会進行が困難であった。20:50Taxi帰宅。21:30就寝。
ロンドン、渋滞税を設定
イギリスは私にとって不思議な国の一つである。文化的にはとても保守的と思えるが、一方ではビートルズを生んだ土壌もある。政治的には新しい施策が次々となされるのも不思議である。私から見て突飛と思えるアイデアが実行に移される。日本なら政治家は選挙の票を考えて提起すら出来ないだろうと思う。日本とは政治の土壌が違うのではないかと感心させられる。
先に人頭税なる税の徴収が話題になったが、ロンドン市街では今年2月17日から平日(月〜金)の7:00〜18:30PMに車で入ると1日1台につき5ポンド、日本円にして900円を支払わなくてはならない渋滞税が施行された。ロンドン中心部の混雑を軽減し、より快適にこのエリアの道路を利用出来るように、加えてその他の交通機関をより有効に利用してもらう為に制定された法律。
結果的にスクーターやオートバイの数が急増したと言う。二輪車にはこの税が課せられないからであるが、慣れない運転での事故も多く二輪車の比率はおよそ車の10%だが、事故に占める比率は全体の30%だとか。因みに英国も日本と同じで50CCの二輪車なら自動車免許を持っていれば乗ることができる。
肝心の渋滞の解消に対する効果だが、当初10-15%の交通量が減ると思われていたが、現在17-20%減っている模様。税金は基本的には前払い。必ずしも前払いである必要は無いが、その日の支払いが22:00以降になると倍額に値上がりし、当日を過ぎても支払いを済ませていないか支払いを怠るとその期間に応じて40〜120ポンドの罰金が課されるという。実に厳しいものである。
この渋滞税は、ロンドン市長ケン・リヴィングストン氏が提唱したもの。しかし、この案はロンドン中心部のビジネスなどに大きな損失をもたらし、空気汚染緩和には役立たず、市長の意図するところとはまったく正反対の効果をもたらすものとし、該当地区から激しい反対の声があがり、ある団体からは裁判にまで提訴されたが、裁判所の合法認定を経て施行が決定した。
私も車は安く運行出来ればいいとは思っておらず、利用者にはもっと道路環境の整備や、大気汚染の解消のための社会的費用を課しても良いのではと思っているが、その面でもロンドンのの英断を興味深く見ているところである。そう言えば、わが国でも都知事がディーゼル車規制に乗り出していたが、これも十分にインパクトがある政策だと思う。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |