徒然日記
 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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6/30(月)秋田曇り→仙台小雨→秋田曇り  管理会議 仙台「東北ブロック臨床研修説明会」 長副会議(欠)
2:30起床,寝不足感。人間ドック判定総括x1。SARSデータ収集、送付,退院患者総括。5:20病院に。回診,書類処理。8:00管理会議,10:53こまちで今日も仙台に。昨日は病院の出張,本日は医師会として。13:30-17:00「東北ブロック臨床研修説明会」。16:30質疑応答の途上で中座。書籍数冊買い込む。仙台ホテルで知人と面会,旧交を温める。18:38こまちで帰秋.21:00病院着。22:30帰宅,石井さん謹製のちまき他軽食,23:00就眠。

賄いの石井さんは「ちまき」作りに大わらわ
 賄いの石井さんは家内の叔母さんに当たる方だが,もう30年近くも我が家で子育てから賄い,犬・ネコの世話までほぼ全部を担ってくれている,いわば家事のプロである。彼女が作る料理は私だけが楽しむのは余りにも惜しく,時々看護師さんとかを招待しては夕食を一緒にしたりしている。しかし,彼女にも大きな欠点がある。大量に作りすぎると言うこと。これは注意してもなおらない。大陸的性格なんだろう。

 この季節,家内はサクランボにくるうが,石井さんは「ちまき」作りにくるう。
 とても全貌は把握できないが,毎年3000ヶ程度は作るらしい。隣近所,娘夫婦や孫達,我が家の子供達,全国の知人に送るから私も相伴できるのはそのうちのホンの1-2%であるがこれがまた美味い。秋田版の「ちまき」を作るにはまず山に入って笹の葉をとってくる事から始めるが,今年は蛇が多いのだそうだ。これを一枚一枚丁寧に洗い,水気をふき取り乾燥しないようにしておき,2枚の笹の葉90度に組み合わせてくぼみを作り,とぎたての餅米をスプーンで入れてきれいに三角錐形に仕上げ,ひもでくくる。このときのさじ加減はあとの出来に大きく影響する。一昼夜水に浸けておくのだが,米は水を吸って膨らむし,更に茹でると膨らむが,このとき作りが駄目なのは紐がほどけたり,米が外に漏れ出たりする。こうなると漏れた米がお粥になるから一鍋分出来が悪くなるのだそうだ。駄目になる確率は1000ヶに1ヶ程度らしい。たいしたもんだと思う。
 餅米にうっすらと笹の香りがうつり,実に微妙なおいしさである。全国的にはいろいろな「ちまき」があるというが,秋田版の,我が家の「ちまき」も一級品である。

 ただ,この季節,「ちまき」に石井さんの心と時間が奪われるせいか,私の夕食とかへの対応が若干手抜きになるのがちょっと寂しい。

6/29(日)秋田雨→仙台超快晴→秋田雨 No11東北大学艮陵協議会総会+初期研修に対するオリエンテーション
 2:30起床.眠い。人間ドック判定・総括x1、ほか.SARSデータ収集、送付,退院患者総括。7:20病院に。書類処理。12:02こまち仙台に。15:00-17:15 第11回東北大学艮陵協議会総会+初期研修に対するオリエンテーション。17:38こまち秋田に.20:00病院着。軽食後業務,22:30帰宅23:30就眠。

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(19)

浪人中,東京オリンピックは無視、後に記録映画でじっくり味わう
 浪人時代の二つ目の大きな事件は何と言っても東京オリンピックである。何年も前からキャンペーンが行われ,「東京オリンピックまであと○○日」とマスコミは連日こぞって掲示した。遠くギリシャの一地方で太陽光を集めて着火した聖火は国産旅客機YS-11「オリンピア号」でアジア諸国で給油を受けながら運ばれ,国内では分火された聖火リレーが全国的に行われるなど,大会前の演出も素晴らしかったように思う。1964年10月10日,これ以上はないと思われる超快晴の天候のもと,急造された東京オリンピックスタジアムで華々しく開催され、その模様は連日テレビ、新聞等で報道された。勿論当時は白黒テレビであったが、大会は国民全体の異様な心理的高揚の中で運営され、その運営の見事さも評価され、戦後史の中での最大の国民的大フィーバーの2週間を迎えた。
 
 オリンピックは戦前一度我が国での開催が決定していたが,戦争で辞退した。また,不参加を強要された屈辱的な歴史をも持つ。わが国が、その雪辱と、戦後の復興・繁栄の誇り、高速道と、新幹線の建設までし遂げた経済成長と治安国家を世界に問う意義を兼ね合わせていた大事業で,当然アジアでは初の開催であった。これを契機に日本は、特にその経済成長の面で国際的に一目を置かれるようになる。

 私は受験勉強中でもっとも大事なこの時期、あえて完全に無視しせざるを得ず、自分の弱点の克服のために勉強に集中していた。しかし、異様な国民的高まりに驚きながら、この一大エベントに関し日毎に興味が高まっていった。傍らのラジオで実況中継を聴きながら,実物はどんなものだろうかと思いをはせた。それでも,東京オリンピック映画協会が設立され,記録映画を作成中であると知ったので、公開された際の楽しみと割り切った。この映画は翌年全国的に公開されたが、これも記録的大ヒットとなり連日超満員となる。当時、新潟大学一年であった私はフィーバーがおさまりつつあった秋口まで待ち、ある日やっと観る機会をえたが,この映画は記録か,芸術性かをめぐって政府まで巻き込んだ論争のもとになったが,私にとってはそんなことはどうでも良かった。この映画を通じて改めて人類の祭典に感動した。開会式の空に見事に描かれた5色の五輪,深夜まで勝負が決まらなかった棒高跳び,東洋の魔女,42.195Kmを淡々と走りきったアベベなど,今でもその画面が浮かんでくる。

 当時は映画は最大の娯楽であり,国民はこぞって映画館に足を運んだものであるが,私にとって劇場で映画を鑑賞するのは小学校5-6年ころの音楽映画「ファンタジア」以来10年振りであった。この映画は後にレーザーディスク版で発売となった。私は1985年頃購入,時折懐かしんだ。今でもオペラなどのディスクライブラリーの中で異質で重要な位置を占めている。

6/28(土)快晴   第124回県医師会臨時代議員会+第70回臨時総会+懇親会
2:00起床,人間ドック判定・総括x1、SARSデータ収集、送付,退院総括・紹介状等.5:20病院着、回診他、代議員会答弁用原稿着手。8:10人間ドック診察x5、9:00人間ドック説明x2、10:00-12:30早めに外来に。結構混雑。14:30入院患者不調に、対応。15:30-17:30第124回県医師会代議員+臨時総会+懇親会.SARSで討論。懇親会は館内禁煙の影響か出席者が減少。料理がかなり無駄に。今後テーブルを減らす要在りそうだ。19:00病院に戻り回診等。20:33急変した患者死去。書類処理等.見送り後23:00帰宅、23:30就眠.

封書を開ける
午後、外来が終わって自室の机の上に戻ると机の上に郵便物が届けられる。夜、帰宅すると食卓の上に郵便物が乗っている。最近メールとかの為か、若干私信は少なくなったが、それでも5-10通ほど、大型の封書が届く。ダイレクトメールで、封筒を見ただで開封する必要のなさそうなのは開封することなくゴミ箱行きとなるが、そうでないものは一応、開封する。

 開封は、手でちぎって開ける、カッターやはさみで切る、ペーパーナイフで開ける、電動レターオープナーを用いる、ペーパーカッターで切る、が私の主な開封方法である。この中で病院では1-2通ならカッターやはさみで開封するが、多い場合には、大型の紙カッターを用いるが、これが結構いい。この紙カッターは病院の図書室の備品が新型に更新されたときに医局秘書が「捨てるにはちょっと惜しい、先生なら・・・」と私に声をかけてくれたので床の上に鎮座している。むかし学校の職員室などで見かけていた、長い包丁のような刃がついた、下手すると指を切りそうになる、あれである。大型の封筒が一気に切れるので実に気分がいい。ついでにカラーのきれいな封筒はA4番の用紙大に切りとり、カラー紙として一部を再利用する。一石二鳥である。

 手元には記念品や土産としていただいたペーパーナイフが数本ある。当初は開封するために便利な道具で最初は感心したが、最近は開封にペーパーナイフが出る幕が少なくなった。殆どの封書はナイフの先を入れる余地を残さず糊付けされている。洋封筒はかつては、隅が糊付けされていなあった。しかし、近頃は完全に封がなされている。時代は変わったのであろう。

 自宅では食卓のわきに小さな電動のレターオープナーがあり、もう10数年も用いているが壊れもせず切れ味も悪くならず現役である。チュルチュルという音も心地よく、封筒の中がどんな内容なのか夢を持たせてくれる。

 最近、封書は随分丈夫になって、手でちぎって開けることが到底不可能なものまで様々となった。紙質の改良もかなり進んでいるようである。

6/27(金)曇→晴 医師会打ち合わせ(欠)、院内SARS対策チーム会議 法人理事会 
1:30起床,人間ドック判定・総括x1、S
ARSデータ収集、送付,退院総括・紹介状等.5:20病院着、回診他、書類と格闘。10:30-14:30チリポリと外来に呼ばれた。書類の山崩しに集中、主治医意見書2-3件。15:00医師会打ち合わせ予定するも不可.16:00-17:15院内SARS対策チーム会議。17:30-19:00法人理事会.会が禁煙となる。20:50帰宅、21:30就眠.

理事会が禁煙に。「20歳になったらタバコを止めよう」運動を
 日本一の長寿者といわれた泉重千代さんは長い間キセルで煙草を吸うのを常としていた。その理由は医者の「煙草をなるべく遠ざけるように」とのアドバイスを忠実に守ったからだという。ホントかね? 禁煙論が当たり前になった今、殆どの人々が煙草の害、副流煙の害について一家言をもっている。にもかかわらずなかなか禁煙が進まない。特に青少年の喫煙が一向に減少しない。本日、法人理事会の席で急遽会議中の禁煙が提起され承認された。法人の禁煙化のプロセスで本日の決定は大きな意義がある。

 最も熱心に禁煙運動に取り組んで実をあげているのが米国であり、これを推進しているのが米国公衆衛生局で、ターゲットを子どもにまで広げ、学校の保険教育の中にもプログラムを導入し禁煙化は子ども教育からと運動を展開している。しかし、民間レベルでは全く矛盾した流れがあるようだ。共和党大会ですら1990年には「米国人はたばこを吸わなくなったので、積極的に輸出していかねばない」と語られたという。こうした方針によって「アメリカたばこ」の広告は世界中に盈れる様になった。

 果たして,理念とか身体への害をその年代でいくら強調しても青少年には殆ど効果がない。彼らには健康維持に関する関心などはなく,ましてや大人の感覚での理念の強調など効果があるわけはない。青少年への禁煙は小学生の時からの教育と,社会からたばこを 撲滅するしかない。ところが,我が国の社会自体がこの両者になかなか理解を示さない。未成年の喫煙を容認するわけではないが,喫煙者の大部分は中高校生の時からである。だから,発想を変えて「20歳の禁煙運動」も必要であろう。

 今から15-6年前秋田県民医連学術集談会の会長としてこの会を運営したとき,そのメインテーマを私のごり押しで「禁煙問題」とし,パネルディスクッションでも取り上げ,医療従事者として健康に害のある喫煙問題を放任していてはならないと言うことを強調した。この試み自体に真っ向から反対する意見も多く,協力者もさほど得られず苦労したことを思い出す。隔世の感を禁じ得ない。目立たない存在であるが私も禁煙論者の一人なんですよ。

6/26(木)雨  ICU当直  療養病床診療部会議 
1:30起床,人間ドック判定・総括x1、S
ARSデータ収集、送付,退院総括・紹介状等.5:40往診。6:15病院着、回診他。9:00-13:30外来、混雑.対外的予定無かったので書類の山崩しに集中、されどそれほど処理できるものではない退院総括・紹介状2-3件のみ。17:00-18:15療養病棟診療部会議,書類各種処理。20:30帰宅。石井さんまだ不調、高熱+咳嗽。21:00就寝。

待つことは好きではないが・・・
 私は病院では荷物を運ぶとき以外にエレベータ−を利用しないが、他の施設では利用する。今の建物はエレベーター利用を前提に作られているから階段を探すこと自体不自然である。エレベーターは密室でありすることもないから同乗した方を何気なく観察することとなる。この時いろいろな方がいる。先に「閉」のボタンを押し、それから行き先のボタンを押す人もいる。見ているとほぼ全員が「閉」のボタンを押す。自動的に閉まるまでの、数秒間が待てないのだろう。私は行き先のボタンは押すが「閉」のボタンを押すことは滅多にない。欧米のエレベーターには「閉」ボタンがない、と聞いていたがそれは嘘であった。

 イザヤペンダサン氏は著書「日本人とユダヤ人」の中で、聖書には待つという言葉があるが、日本人にとって待つということは、「まだか、まだか、まだか、・・・」といらいらしながら、期待の確実な成就を,絶えず意識しながら過ごすことである。この点、同じ人間でも遊牧民にとっては待つと言うことは時の流れに沿って身を任していることだ、と述ぺている。これは面白い観察だと思う。新潟で学生の頃,バスが渋滞しオーケストラの練習時間に遅れたとき,横に座っていた友人はいらいらして大量の鼻出血を出し私は驚いた。物理的には同じだが,彼にとっては私が感じた時間の何10倍もの長さに相当していたに違いない。

 撫蛛は巣をはって、来るか来ないか分からない獲物をじっと待つ。気の遠くなる忍耐だが、彼らは忍耐と思っていないのだろう。だから蜘蛛は滅びることなく生存できて来たのだと思う。蜘蛛が別の方法で餌を探していては自分が餌になる可能性が高くなり、じっと空腹に耐えているよりも遙かに危険になるからである。

 私は気が短い方である。待つことは大嫌いである。しかし,実生活の中で待たねばならぬ事は多々ある。その際終始待ち続けるのは無駄であるので時間を区切って待つこととする。「15分間は待つ」と自分で決め他のことを考えるとか,集中する。それを何度か繰り返していると結構待てるし,それほどストレスにならない。むしろ上手に待ちすぎて自分が遅れそうになることもあるくらいである。

 10数年前の話だが,デパートに買い物に行った家内を近所の駐車場で待ったが2時間たってもこない。家に電話したら待たせたことを忘れ,タクシーで帰宅して食事していた。さすがこのときは身体から一気に力が抜けてしまった。

6/25(水)雨   臨時長副会議  家内ICU当直
1:30起床,人間ドック判定・総括x1、S
ARSデータ収集、送付,NHK出演原稿着手等.5:40病院着、回診他。9:00-13:30外来、混雑.NHK原稿完成送付等.16:30-18:00臨時長副会議,病院書類各種処理。たまる一方の書類処理で多忙、閑無し。この書類何とかならないものか!!20:30帰宅。賄いの石井さん,高熱・咳嗽でダウン。21:20就寝。

アポロ11号 月面からの地球の写真をみて感じること
1969年にアポロ11号が月に着陸した時、私は大学生であったがTV中継の画像を食い入るように見つめていた。あのときの感激は到底忘れることは出来ない。その後、各種の印刷物で月面から地球を写した写真を見ることが出来る。それは下半分が凹凸のある茶褐色の月面であり、上半分は暗い宇宙で、その中に太陽に照られた部分のみが白く光った半球形の地球が浮かんだ写真である。私はブリタニカ百科大事典の掲載写真を所持しているが印象は未だに鮮烈である。

 時の大統領ケネディが1961年に、米国は1960年代中に月に人類を送り、帰還させる、と宣言し、ソ連に遅れた宇宙開発に対抗して一大プロジェクトを立ち上げ,成功させた。

 地球は太陽系の惑星の一つで、月は地球の衛星、宇宙には無数の恒星が存在する・・・といった事柄は知識として私も持っている。でもそれは単なる空想の世界であり,イメージでしかなかった。それまでも人工衛星から撮影された地球を見ることは出来たが、たかだか200-400Kmの高度でしかないために宇宙に浮かんだ地球全体を到底見ることは出来なかった。 それが実際に写真として見ることが出来たのであるから、全身を何かが走り抜けるようなはげしい感動と驚きを感じたものであった。

 月から写した地球の全体像をはっきりと眼で見たことで、はじめて真実性、確実性をもった真理としての私の知識となった。

 この地球全体の遠景像を見ているととても心が安まるのを感じる。地球上で営まれる人聞どもの全ての営みが,枝葉末節の如くに、また阿呆らしく見え、人の喜びも、悲しみも所詮大したことではないように思えてくる。私は難問にぶつかると、この宇宙にポッカリ浮かんだ、地球の写真を思い出すことにしている。


6/24(火)晴れ 総回診(欠)、県健康対策課来訪、医師会打ち合わせ 県医師会広報委員会
1:30W,人間ドック判定・総括x1、S
ARSデータ収集、送付,秋田医報用原稿校正等.5:40在宅ケア中の患者宅に往診。6:15病院着、鼻出血患者に対応,回診他。8:00人間ドックの一人がホテルで心肺停止状態で発見,蘇生に反応せず亡くなられた。9:00-13:00警察他種々対応あり中断代診にて午前外来、幸い混雑せず. 15:30-16:00県医師会打ち合わせ,16:00県健康対策課来訪、SARS他種々懸案あり。病院残務処理.18:30-19:45県医師会広報委員会。20:30帰宅21:00就寝。早朝から多忙,座閑無し。

その立場でなければ理解できない論理もある。(2)健康人に病人の気持ちがわかるのか
 その場でなければ理解できない問題のうちでもっとも身近で,深刻なものの一つに,病める方々の真の気持ちへの対応である。解らない,と言うのが私の結論であるが,病める方への対応がたいてい健康人の発想によって決められ,なされている。それが病む方々にとって良かれと言う発想でなされるだけに,誹ることはとても出来ないが,私は極めて怖いことと思っている。

 私は幼少の頃極めて病弱で年間のうちかなりの時間を臥床して過ごした時期があるが,すごく具合の悪いときの周囲のものに対する感覚は健康なときのそれとは全く異なるものであった。たとえば,日常であれば何ともない布団一枚,タオルケット一枚すらとても重く感じ,この重さが今の具合悪さの原因の一つだと感じ,何とかはね除けようとしたくなる。着ている寝間着,下着すらも脱ぎ捨ててしまいたくなるものであった。例えはね除けても何ら改善しないが,今度は布団をかけてもらえば,寝間着を着れば何とかなりそうと言う感覚に襲われ,この様なことの繰り返しであった。水や食事などの強要は半ば拷問に等しいものであった。こんな異常な感覚は健康なときには一切感じることのないものである。私が体験した感覚は自分の医療観の根底をなしている。

 その意味では,元気なときに自分の医療内容を提示しておくリビング・ウイルなどは問題があるといえよう。私が担当している外来患者さんのかなりの方が表明しており,外来カルテには明記しているが,人生の方向性の考え方のみであり,その場その場の対応には役に立たない,と考えて対応していかなければならない。

 「健康人に健康な医療人に,健康な家族に,果たして本当に病人の気持ちがわかるのか??」は医療人の一人としていつも私の中にある命題の一つである。果たして医療の名の下に病める方々にこの世の地獄を強要してはいないだろうか?? 私が医師として今患者さん方にやっていることは患者さんの人生のサポートである,と言う考えの実践である。

 
5月から療養病床の責任者として,および疾病や障害を持つ高齢者の主治医としての仕事もしているが,この病棟にいる時私の心は安らぐ。ここでは生かされている方はいない。みんな自分の生命維持力だけで生きているからである。

6/23(月)晴れ 管理会議  
2:00起床。人間ドック総括x1、SARSデータ収集、送付,秋田医報用原稿作成送付等.5:30病院へ。入院患者不調との電話あり回診、その他。8:00管理会議、院長出張で不在。9:00-14;30午前外来+人間ドック説明x1。午後は残務処理に追われる.総括・紹介状・訪問看護指示書など。療養病床担当してから書類が大幅に増えかなりの時間が費やされる。定例の長副会議なし。20:30帰宅。21:30就眠。

その立場でなければ理解できない論理もある
 松井が私の予想に反して結構活躍している。平成4年の甲子園、彼に対して5連続四球攻めにして一度も打たせなかったことがちょっとした論争を巻き起こした。「もっとフェアに戦え」とか「高校生らしく正々堂々と」との意見に対して高野連の関係者も極端なのは困る・・・と渋い顔であった様に記憶する。一方、「敬遠はルールで定められている正当な手法である」「勝つためにはあらゆる戦術を使って当然」「高校生らしくってなんだ??」との意見も出た。この論争は明快な結果は出なかったようであるが、松井はこの事件で5連続本塁打を打った以上の実質的名声を得たことになる。それなりの人材であったことがその後の実績から明らかである。

 この「敬遠賛否論争」は両方とも正論であるが、この論争の中に私は嫌な思いを持った。同じような嫌な感覚は、江川が巨人入団を果たした時にも感じたものである。彼は「汚い手」を使って思いを遂げたとして今でもどちらかというと悪人扱いされ、一方、あおりで阪神にトレードされた投手は社会の同情を一気に集め時代のヒーローでもあった。これら野球界という極めて限定された世界の出来事であるが、その後,「ルール違反がななければ、勝つためには何をやってもかまわない」とか「法律に触れなけれ何をやっても良いのか」という論旨にそっくり拡大解釈され、一般社会で都合よく置き換えられ一人歩きしていった。

 私は,松井に敬遠を命じた対戦相手の監督,江川にしても凡人がなし得ないレベルに到達した数少ないヒトだけに許される判断基準に沿った,正当な行動と評価している。野球選手にとって,入れる立場にあるのであれば巨人軍に入りたいというのは当然の心理でないかと類推している。だからプロ野球というのは巨人軍選手と非巨人選手の二大別され,後者が11球団に分かれているに過ぎないのではないかと私は思っているほどである。非巨人軍選手は非巨人軍であると言うことをエネルギーにしているはずであり,結果的に巨人軍に入るレベルに到達した選手は,巨人軍に移っていく。そこからあえて飛び出た松井はとても偉い男なのだと思う。

 江川の場合,巨人も入団を熱望し,本人も熱望している。こんな条件下に誰が到達できるのか,江川しかいないのだと思う。彼の行動を非難できる資格のあるヒトは江川自身以外誰もいないのだ。いるとすれば最終的には倫理観のレベルからではないのか?
 一般大衆の,一億総評論家というのはこんなレベルなのだ,すべてげすの勘ぐりさ,と思う。私の意見も含めて・・・。

6/22(日)快晴 FF tennis 病棟拘束
2:30リハビリ当直室にて起床。19:00、21:00、23:00、4:00と4回病棟より電話あり。中の2回は熟睡中。一人は主治医の判断で中通総合病院に搬送されたとのこと。人間ドック総括x1、新聞チェック。S
ARSデータ収集、送付,紹介状 等.8:30中通総合病院に戻る。回診他種々処理11:00帰宅、13;00-17:0梅林園FF tennis、7-5、6-4、8-6。下手な中にもやや濃厚な勝負となった。家内は病院に。人間ドック判定・総括x1新聞処理 等.21:00就眠。

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(18)
新潟市内の様相一変。新潟地震の痕跡痛々しく
 受験の時新潟には2回目となったが,駅をおりて驚いた。駅舎も近隣のビルもそれぞれ傾き,中には1階部分が地面にめり込んで2階から出入りしているビルなど様々の様相を示していた。 
 1964年6月16日13時02分,当時、関東大震災以来の規模といわれ、新潟の人々と街に鮮明な記憶を焼き付け、深い爪痕を残した新潟地震が起きた。当時、仙台で浪人中の私は何故か下宿の部屋に一人でいた
 受験の時、新潟を訪れるのは2回目であったが,新潟駅に準急列車が近付くに連れ,立ち並ぶビルが傾いている。駅をおりて更に驚いた。昨年の様相と全く異なっている。駅舎も近隣のビルもそれぞれ傾き,中には1階部分が地面にめり込んで2階から出入りしているビルなど様々の様相を示していた。 

 1964年6月16日13時02分,当時、関東大震災以来の最大規模といわれ、新潟の人々と街に鮮明な記憶を焼き付け、深い爪痕を残した新潟地震が起きた。今から約40年も前のことである。

 当時、仙台で浪人中の私は何故かその日は予備校をさぼって下宿の部屋に一人でいた。私の部屋は二階であったが,突然ゴーという大音響と共に古い作りの下宿屋は,大きくゆれて,大きくきしんだ。階下では「ギャー」と叫ぶ下宿屋の高齢の姉妹の声に続きガラスや瀬戸物の割れる音が続いた。また,仙台一高生の甲高い驚愕の声をいまだにはっきりと憶えている。
 
 私はしばし机の脇の本棚を倒れないように押さえていたが,結局は支えきれず倒れ,室内に無惨に本が散乱した。もう押さえるものなど無い,こんな時はとにかく戸や窓を全開にして逃げ道を確保すべきと常々教わっていたので窓際に移動,窓を全開にした。外を見ると道路脇の電柱も大きく揺れている。隣の邸宅の池の水は大きく波打ち水が池の外に大量にあふれ出ている。こんな時の水の動きは壮観でさえあった。日頃から飛び降りるならここと目星を付けていたところには1階のガラス戸が倒れて飛び降りるはむり無理であった。そのうちに揺れが徐々に治まって来たので,階段をそろりそろりと1階に降りた。下宿屋の茶の間は家財道具が一部倒れ,食器類の一部が粉々になっていた。高齢の姉妹はいち早く避難したのであろう,家具の下敷きなどにはなっていなかったので私も急いで外にでて事なきを得た。
 最初は頻回であった余震も徐々に小さくなっていったが,停電した夜間にも頻回の揺れを感じながらとろとろと眠ったように記憶している。

 翌日からの新聞では新潟ではビルが倒壊し,所々隆起や陥没し、昭和石油のタンクから黒煙は立ち上あがっており,信濃川に架かる橋の一つは橋桁が落ちた写真等が連日掲載されていたが、仙台の生活も次第に通常に戻り,いつしか新潟の様子への関心も薄れていった。

 新潟の街に降りたって、仙台のあの日の様子が改めて鮮明に思い出されたが、新潟の方々の驚きはいかばかりかと思った。

6/21(土)小雨→曇り  中通総合病院友の会総会講演 リハビリ病院当直
2:30W、人間ドック総括x1、etc。S
ARSデータ収集、送付,本日の講演準備.5;30病院着.回診その他、8:10人間ドック診察x5、9:00説明x1。10:30-12;00午前外来。主治医意見書等残務処理,13;00中通総合病院友の会総会、14;00から出席し30分ほど「医療福祉宣言」講演.懇親会に短時間出席、16;00帰院。17:00リハビリ病院に当直へ。20:30就眠.

リハビリ病院当直 いつも守衛さんが明るく迎えてくれる 
 17;00少し前に中通リハビリ病院に当直へ。守衛さんに来院を告げ部屋に入る。本日は医事課職員は窓口には不在。

 約一年前までリハビリ病院当直勤務は21;00から8;30迄で、それまでの時間はリハビリの医師が担当していた。ある病院の当直者不在中の患者対応が問題になったことを機会に、当直時間帯の改訂が行われ17;00-8;30となった。それまでは私は隔週で日曜当直を担当していたが、月曜8;00の管理会議に間に合わないためにその後は土曜日隔週で当直している。土曜日は業務規定上は12;15で終了であるが、外来終了後も15-16;00ころまで業務
あるので当直の土曜日は結局帰宅出来ない。

 土曜の当直にシフトして気づいた事がある。
 17;00前に病院に入るが受付では医事課職員と守衛さんがいる事が多い。当直業務につく旨告げるのだが、ご苦労様と明るく対応してくれるのはまず決まって守衛さんのみ。奥の医事課職員は1-2名の例外の方以外、無言、表情も変えない。何かおかしい嫌な雰囲気を感じる。翌朝も同じ。守衛さんと挨拶を交わして病院に戻る。日直?の職員はやはり無言無表情。
 同法人内の病院とはいえ他の病院からの応援業務である。職員の対応はこんなもので良いのかな? 患者さんへの応対は大丈夫だろうかな?、と心配になる。勿論、全員がそうだと言うつもりはない。

 私だけの全く個人的な印象なら良いのだが、中通総合病院でも受付、窓口の事務職員の対応のまずさが外来患者との間で診察中に話題になることがある。その度に十分話を聞き、頭を下げ担当部署に連絡はするのだが、正直なところまたか・・と思い嫌になる。多くの場合、患者の方にも問題点を感じるだけに職員だけを責めるわけにはいかない、と解っているつもりである。それでも、もう少し何とか上手に振る舞えないものかと思うし、事務職員の患者対応は今ひとつで聞いていて紋切り型すぎる、というのが私の印象である。これは当直時の印象も加わっての感覚である。

6/20(金)雨、県医師会打ち合わせ 院内SARS対策会議
1:30起床。人間ドック総括x1、etc。S
ARSデータ収集、送付,退院患者総括。5:30病院、回診など。総括,主治医意見書などに集中。10:30-11:30外来、数名のみ。13:30人間ドック説明,15:00県医師会にうち合わせ。16:00-17:10院内SARS対策委員会。明日の友の会の講演準備に,画像取り込みなど。20:30帰宅21:00就眠したが,今日は机上にたまった書類の処理に集中できた日であった。

映画「ジョンQ 最後の決断」を観た   梶野医師に感謝
 久々に,何年かぶりにビデオでドラマを見た。DVD版「アマデウス」以来半年ぶり,この様な劇画は恐らく数年ぶり,いや10年ぶりかもしれない。

 この映画の内容と主題は,公的医療保険の無いアメリカで心臓移植が必要な息子をめぐって苦悩する家族のドラマである。八方ふさがりの中で息子を救うためについに立ち上がった父親。彼の最後の決断とは何か・・・。アカデミー主演男優賞を取った、デンゼル・ワシントンが主演し,ロバート・デュバァルが助演している。・・・この辺のことは私には全く不案内の世界であるが,画面は美しく,登場人物の表情もリアルである。苦悩するのは家族だけでない。医療関係者の苦悩も描かれている。
ほんのワン・カット、「日本の様な公的医療保険」の必要性を説く、前大統領夫人、ヒラリー・クリントンも出演している。エンデングの場面に右上に小さく「for Sasha」と言う字がでるが,これは心臓の手術を何回も受けている監督の娘の名前で,娘の病気がこの映画を作る原動力になったとのこと。

 このビデオは秋田市内で眼科を開業されている梶野先生から提供いただいた。県医師会の広報担当理事としての役得で良い映画を見させていただいた。梶野先生は日本の医療行政の後退,アメリカナイズを嘆いておられ,この問題を一人でも多くの市民に知っていただきたいと,自ら映写会を催されるとのこと。以下がそのスケジュールである。
 
日時:6月25日(水)26日(木)。 午後6時開場。午後6時半上映。
 場所:TOHOシネタウン(イオンSC敷地内)。 入場料無料(但し応募要)。
 折角,ビデオを届けていただいたが,時間がとれず3回に分けてみ終わった。もう,すでに応募期間は過ぎてしまったので今から申し込みは出来ないと思うが,梶野先生のホームページに先生の意見が多数掲載されているのでこちらの方を紹介し,感謝の気持ちを表したい。一人でも多くの方々に梶野先生のご意見を読んでいただきたいと思う。
関連リンク
http://www.john-q.jp/
http://theater.nifty.com/db/0000050004/main.jsp


6/19(木)曇り、小雨No1病院評価機構受審検討委員会 秋田市医師会臨時総会
1:30起床。人間ドック総括x1、etc。5:30病院、回診など。8:30-13:30外来、委員会準備。16:00-17:00No1病院評価機構受審委員会,19:20-20:00秋田市医師会総会に出席。SARS対応姿勢について発言。会員からの追加発言もなく討論は低調に終了。22:15帰宅21:00就眠.

人生は何があるかわからん。ハイドンの下痢は音楽界を救ったね。
 私はハイドンの音楽も好きだ。今朝は早朝から弦楽四重奏曲集をかけつつ業務をしている。さっぱりして歯切れが良すぎて若干時間的にそぐわないが,やむを得ない。ハイドンの作品は午前10時頃聴くのが良い様な気がする。

 彼の音楽のルーツは少年聖歌隊での経験を背景にしているが,彼は余りにも美しい声であったために去勢候補の一人としてリストアップされていた、とされる。カストラートとは元来は去勢羊を意味するが、何時しか男性の去勢歌手を指すようになった。ローマカトリック教会の唱歌隊には女性は入れなかったのでソプラノやアルトのパートは美声を持つ少年達を使っていた。美声をもつ少年たちの一部は美声を維持するため、変声期を迎える前に睾丸を取ってカストラートとされた。去勢は教会の唱歌隊員のみならず、オペラ歌手にも行ったとされる。去勢された彼らの生活は保障されていたらしい。
 変声は思春期にみられる第二次性徴の一つで、性腺ホルモンによって喉頭軟骨の急激な成長、声帯の伸展と厚みの増加という器質的変化によって生ずる。男女双方に起こるが男子により著明で、話し声レベルで約1オクターブ音域が下る。女子では約二音分下るとされている。

 ヨーゼフ・ハイドンはウィーンのシュテファン大聖堂の合唱児童でボーイ・ソプラノのパートで歌っていた。女帝マリアテレジアは彼の美声に眼をかけ彼の歌う音楽をこよなく愛したとされる。しかし,如何に美声といえどもボーイ・ソプラノの声はいつまでも続くわけがない。間もなく変声期を迎えようとする彼に対し、楽長や関係者は彼の美声を惜しんで父親に手術を熱心に勧めたという。父親にはその気はなかったとされるし,幸いにもその頃、ハイドンは長期に下痢をし体力が低下して寝込んでいたために助かった,と言う説もある。

 もし,その時に下痢していなかったら、私達は94番以降の名交響曲集や「天地創造」「四季」などの名作オラトリオを聴くことが出来なかっただろうし、音楽界の流れも変わり,モーツアルトもべートーヴェンもこれほどの大家になれなかったのかもしれない。

 人生はホントに偶然の積み重ねだと思う。つい何年か前には人間ドックで全く異常ありませんと太鼓判を押された方が翌日急死した。先日はドックを受けに病院に着いた途端に心臓発作を起こして緊急処置を受け一命を取り留めたり・・・。
 だからあんまり深刻に考えないで暮らせばいいものだが,そうも出来ないのが人生だし・・難しいものだ。

6/18(水)晴-曇 患者家族と早朝面会 SARS中央地区研修会  医師会常任理事会+委員会 
1:30起床。人間ドック総括x1、etc。4:50病院、5:30外来患者家族と面会、今後の治療方針など提示。回診など。8:10人間ドック診察x4、etc。9:00-14:30外来、14:00からのSARS中央地区研修会View Hoteに遅れて出席17:10まで。18:30-20:00県医師会常任理事会,20:00-21:00同委員会。病院に戻り入院対応など。21:50帰宅.22:10就眠。忙中座閑無し。
見てくればかりのバカ娘---ヒトは何故年齢を隠したがるのか
ある方からのメールの一節。「・・・5月14日は先生の○才のお誕生日だったとのこと、おめでとうございます。私が大学病院に初めて伺った時、先生は30才位だったのですよね。ずいぶん年月が経ってしまったのに、先生の口調はあの頃とおんなじで、なんだかホッとします。・・・」
 返信の一節「・・私はいま58歳です。○才なんて隠すものではありませんよ。58年の積み重ねが今日の私です。歳を隠すのは、「見てくれだけのバカ娘(Mozartのオペラの一節)」のすることです。貴方も堂々と歳を言って下さい。それだけの積み重ねがお顔の表情に表れていますよ。私はあのころから変わっていない,とよく言われますが、要するに当時から老けていたと言うことでしょう・・・」

 毎日高齢の患者さん方に接していると、自分の祖父母,両親の時代と比較して随分身体的に若いと感じる。文明の爛熟のせいであろう。役場の55歳の定年退職がまもなくだった父は今の私よりはるかに老けていたし,64歳で死亡した母は老婆の様相すらそなえていた。当時は今の方々より20歳ほども老けて見えていた様に思う。

 私は外来で時々患者さん方に年齢を尋ねてみるのだが、なかなかスッと年齢を答える方は居ない。しぶしぶ、気恥ずかしそうに答える。男女ともそうである。別に答えていただかなくとも手元の処方箋には満年齢が記載されているので私には分かっているのだが、答えるまでの反応、表情が楽しみである。

 今日ほど、自分が高齢になることに不安や恐怖を日本人が抱いている時代は、かってなかったたように思う。幼少の時のイメージでは身近の大人達や高齢者は、もっと自信をもって、威厳すらももって年齢を垂ねていた様に思えてならない。家庭や地域社会の長老として、専門の分野では経験豊かな大先輩として、それなりの評価があり、少なくとも自覚的には責任を感じつつ、弱みを見せず、適度な緊張感の中で加齢を自然のものと受け入れていたように思う。

 いつ頃から、誰が、高齢者を社会の弱者と決めつけ、押しつけたのであろうか? 行政か、マスコミか? どちらでも良いのだが、少なくとも最近の高齢者自身の依存的態度や消極的姿勢に、責任の一端があるように思う。私は中高年が齢を重ねていくことを人生の黄昏に向かっている過程だなどとは思っていない。誰にとっても,今が、今日が一番良い日であるはずだ。その年にならなければ絶対に味わうことの出来なかった日々がこれから先も待っているのだ。

 大切なことは、齢に応じた範囲でもっと積極的に生きていることを楽しむことだ。今日はどんな一日になるのだろうか、私には楽しみである。

6/17(火)曇り・小雨 院内SARS対策拡大会議 県医師会医療廃棄物検討委員会 
1:30起床。人間ドック総括x1、etc。5:30病院、回診など。8:10人間ドック総括x1、etc。9:00-14:15外来+人間ドック説明、17:00-18:20院内SARS対策拡大会議。18:30-19:50県医師会医療廃棄物検討委員会,病院に戻り入院対応など。20:50帰宅.21:10就眠。

久々に大型バイクの感触を楽しむ
 私は平成2年から突然バイクに乗り始めた。
 第一のルーツは幼少の頃に米国製大型バイク「インディアン」に跨って遊んでいたこと,小学4年から高校卒業まで自宅の本田「ドリーム」,「スーパーカブ」の無免許運転常習者として十分に技術を磨いていたこと,第二には中学・高校生の時には村の修理小屋に通っては時に「陸王」「メグロ」などにも親しんでいたこと。第三には子供たちも大きくなり一人での移動が増えたこと。第四に自動二輪の取得していたから限定解除を受けずに大型バイクも運転可能であった事かな。

  とは言っても,バイクは危険でもあるからとりあえず250ccのバイクを購入,十分練習し感覚が戻ったところで大型車を考えた。いつかはハーレーかなと思っていたがその年,ハーレー・ダビッドソン社はグレイのモノトーンのみの仕様でファットボーイを発売,日本には150台輸入されていた。買うならこれしかないと一大決心し,バイク屋のネットワークで探したところ大宮と郡山に各一台残っており郡山から譲り受けたものである。ちなみに,翌年からのファットボーイはツートンカラー化して初代で発揮された魅力は一気に失せている。

 ここ3年,多忙もあり車検も切れたので車庫の隅に眠らせていたが,先日良い陽気なので出してみたところ見るも無惨,見事なクロームメッキにも錆が浮き出しており大変な状態。もう素人では修理改修不能と判断,デーラーで修繕を依頼し,車検も通した。先週土曜に出来上がってきたので今週からバイク通勤を始めた。錆は落とさないことにした。もう12年ものだから当然の姿と諦めよう。
 
 1400ccもあって,音は刺激的でないが決して小さくはない。朝5時頃にエンジンをかけるのはやや気が引ける。なるべく回転数を上げずそっと家を出る。でも,早朝のバイクはいい気分だ。病院までの距離がたった6Kmしかないのが残念だ。一方,帰宅時,疲れた身体で車を運転して帰るのは距離が6Kmもあって嫌なものであるが,バイクの場合,ひんやりした風が実に心地よく,次第に活力が沸いてくるのが感じられる。一日2回,ほんのちょっとの時間だけれど,私にとっては貴重なオアシスタイムってところかな。

6/16(月)快晴 管理会議  県感染症サーベイランス評価会議 県医師会打ち合わせ 長副会議 
1:00起床、最近ますます起床時間が早めになっている。外来中に睡魔が来て若干辛い。人間ドック総括x1、etc。5:30ハーレーにて病院へ、回診など。8:00管理会議、9:00-13:00外来、14:00県感染症サーベイランス評価会議で秋田衛生検査研究所に。15:00県医師会打ち合わせ、16:30-18:00長副会議。19:00-20:00新入院対応、療養病床種々処理。20:20帰宅.21:00就眠。忙中座閑無し。

最近のバック・ミュージック バルトークの弦楽四重奏曲全6曲
 バルトークは第2次世界大戦の影響をもろに受けた作曲家の一人。没年が1945年と私の生まれた年と同じで、彼の生きた時代を象徴している。
 シェーンベルクは1936年頃にはアメリカに亡命し、最後の弦楽四重奏曲などを書いていたが、この時期、バルトークは自国で代表作の一つ「弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽」を作曲した。しかし、シェーンベルクの勧めなどもあったのであろう、この頃からアメリカの財団から彼への作曲委嘱も行われる事が多くなり,1940年10月末、10日間の船旅でバルトーク夫妻はニューヨーク埠頭に着いた。彼にとってアメリカは永住の地としてではなく、一時の亡命のつもりだったらしいが、5年後にこの地で白血病で客死した。1942年頃から白血病としての自覚症状があったらしい。私はかつて血液病を学んでいたのでこの面でもバルトークには親しみを感じている。

 バルトークになじみの少ない方は現代音楽家としての印象を抱いているかもしれない。が、私にとってバルトークはベートーヴェンの延長線上で聴ける、やはり古典的作曲家の一人である。
 彼の作品は、同郷の作曲家コダーイとともに民俗音楽から転用された素材、あるいは20世紀前半に使われはじめた微分音などの音素材を駆使しているので、同時代の他の作曲家と比較しても、先進的な作曲家である。しかし、彼の作品は、弦楽四重奏曲、合奏協奏曲・・有名な「管弦楽のための協奏曲」、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、未完のヴィオラ協奏曲など、「古典的」といえる形式を守っている曲が大部分を占めており,この点から見てもやはり「古典的」作曲家であると感る。

 バルトークの弦楽四重奏曲全6曲は彼の作曲家としての最高傑作であると同時に、第6番は戦乱を避けて亡命する前年の1939年に作曲され、彼の「祖国別離の唄」となった記念すべき曲でもある。

 最近、業務量が更に増えて、医局の自室で書類に追いかけられながらやや苛ついた気持で処理していることが多い。一ヶ月ほど前に突然バルトークの弦楽四重奏曲が聴きたくなり,東京カルテットの3枚組のCDを持ち込みオートチェンジャーでほぼ終日エンドレスにかけている。彼の曲を聴きながら業務を処理すると意外と能率も上がるしストレスも格段に少なくなるのが感じ取れるから不思議なものだ。恐らく,ヨーロッパの政治的混迷に対しての苛つき,近づく大戦の危機感,などが彼のこの作品に濃厚に影を落としているからであろう。

6/16(日)曇→晴れ  FF tennis 来客
 1:00ちょっと早めだが起床.人間ドック判定・総括x1、ほか.S
ARSデータ収集、送付,退院患者総括。6:20血液病にて入院の患者深夜帯から痔からの出血あり病院に、対応。業務処理もあり10:30帰宅。13:00-17:00梅林園、7-5、2-6、6-2,6-2、6-4.19:00-21:00来客。21:30就眠。

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(17)
比較的たのしく過ごした仙台での浪人生活1年
 兄の結婚式の後の仙台の7ヶ月は、いとことの共同生活の中で若干の諍いはあったもののまず平穏に、楽しく過ごし得た。仙台-盛岡間はそう遠くもなかったので週末には自宅に戻り適宜家の手伝いをしながらまず十分勉強に集中できた。そのため、秋口には複数の国立大学の医学部の合格圏内に到達し、若干余裕を持って過ごすことが出来た。10月頃の指導の教官との対話であるが,高校担任に言われたことを話しながら進路を相談したのであるが,彼は「半分冗談で言えば・・・」,と前置きしてではあるが「東大以外は何処でも可能性はあります」と言ってくれたが,その言葉は夢と希望を与えるものであり,担任のイヤミの言葉と共に追い込みの頃の励みになった。しかし,自分自身では別の大学も考えないわけではなかったが,背水の陣と思っていたし,前年度の失敗もあるので再度新潟大学を第一志望に,福島県立医大をを第二に,札幌医科大学を第三志望にした。

 先の見通しも着いたので仙台は12月初旬で引き払い,残りの期間は自宅で過ごし,受験の時期を待った。
 結果として,新潟大学,福島県立医科大学の双方から合格通知を受ける事が出来た。一緒にくらした従兄弟は東北大学医学部に合格した。 
  身分的に不安定,先のことがはっきりしないと言う点はあったが,だからこそ,浪人生活の一年は視野を広げるのにとても良かったように思う。
 
 新潟大学の合格の知らせは札幌で自宅に電話して確認した。そのために札幌医科大学は受験することなく帰路についたが,帰路途上少しでも急いで歩くと右の胸痛と呼吸困難が生じた。徐々に軽減していったためにそのまま列車で盛岡に向かったが,症状は数日間持続し,そろりそろりと行動して過ごした。今から見れば確証は無いが自然気胸だったのかもしれない。

6/14(土)晴れ  ハーレー修理終了引き取り
 2:00起床.人間ドック判定・総括x1、ほか.SARSデータ収集、送付,書類処理、退院患者総括。5:20病院着.8:10人間ドック診察x5、9:00人間ドック説明x2。10:30-12:30 外来。13:00入院患者家族と面会14:30散髪。総括、他。17:00帰宅。ハーレー修理終了引き取り、なかなかいい調子。来週から通勤に使用予定20:00就眠.

機能はアメニティの大要因 ホテルユニバース青森に電話回線LANがあった
 青森への出張は業務の関係で出席を決めかねていたが、入院患者の状態が落ち着きそうだったので一週間ほど前に申し込んだ。この研究会は何でもセットで宿泊まで世話してくれる。青森市のホテル事情は分からないが、締め切りを1ヶ月以上も過ぎたこの時期の申し込みならどうせたいしたホテルは割り振られるわけはない、と予想して出かけた。確かにその通りで、実に小規模なホテルであった。
 
 部屋は予想通り,最小規格と思われる狭さでシングルベットと小さな机、ユニットバスだけ。自由になる床面積は1畳半程度かな??せめて最小限,電話回線からメールだけでも出来ないか,と思って回線を調べていたらアダプターをフロントから借用すれば持参のPB2400でLANによるインターネットが無制限に可能である事が解った。これは最大の有り難さであった。

 従来から宿泊を伴う出張時には必ずPB2400を持参で通常の仕事の延長をこなすが,最大の悩みはインターネットやメールが十分に利用できないこと。電話回線を通じて繋げるが遅い上に秋田のプロバイダーを介してのやり取りだから通話距離が長く,料金もバカにならない。それが,無料で繋ぎっぱなしで利用出来たのだから最高であった。ほぼ自宅にいるときと同じ環境で業務が出来た。

 最近はこんな小さなホテルに宿泊したことはないが,青森の一晩は何ら不自由のない,快適な夜になった。物理的アメニティは最悪に近いのに・・である。私にとって機能的な面でのアメニティ?が満たされたからである。
 それにしても電話回線をそのまま利用してのLANを初めて見たが,電話も同時に利用できるし,10baseで通信できるので機能的にも遜色ない。われわれの病院でも利用できないか??と思う。このシステムなら工事無しで全電話口でLANが可能である。
 また,私どもの病院の医療や看護レベルは決して遜色ないと思っているが,居住空間としてのアメニティはいつも問題になる。物理的に大幅な改善は無理でもこのような機能的付加価値を付けることで一ランク上に改善することは十分可能だと思う。その一つとして携帯電話の利用区域の設定して解放することやインターネットやメールを可能にすることも一方だと思う。

 青森での次の宿泊も同ホテルにしたいし,他の地でも提携ホテルから探してみようと思う。

6/13(金)小雨  No11介護療養型医療施設全国研究会二日目 法人理事会(欠)   
 1:00ホテルユニバース青森にて起床.人間ドック判定・総括x1、ほか.LANによるインターネットが自由に出来たので通常のS
ARSデータ収集、改変、送付,メール交換ほかも通常に出来た。「中通総合病院のSARS対策」について加筆、送付。途中何度か微睡みつつ、書類処理、退院患者総括。医局7月分個人予定表作成.
 9;50青森文化会館着。No11介護療養型医療施設全国研究会二日目。午前は「高齢者のターミナルケア」分科会。午後はシンポジウム「介護療養型医療施設の目指すもの」.JRの都合上中座,15;45特急「しらかみ」にて帰秋。座席間隔の随分狭い車両だ。18:30病院着。机上は書類の山,一部処理。回診他,21:00帰宅,22:00就寝。

「ホームヘルパーの医療行為
どこまで許される?」
篠崎良勝著 一橋出版・本体1800円
 青森出張の寝台特急「あけぼの」の中で集中的に読んだ.自分で購入したのではなく数ヶ月前に日医の委員会のおり、委員長である千野慶応大学医学部教授からいただいた本である。機会を見て読まねばならぬと思いつつ今日まで開けなかった。

 実は私は
限定された分野の医療行為をホームヘルパーに許すべきという考え方であり、日医の委員会の中でもそう主張している。つい2ヶ月ほど前に坂口厚労大臣がALS患者の在宅ケアの場面においてのみヘルパーに喀痰の吸引を認めたばかりである。日医,日本看護協会は強硬に反対しているが,押し切られた感じである。

 ホームヘルパーの医療行為が在宅や一部の福祉施設で公然と行われているがこれには現状認知せざるを得ないと思う一方,法的には言い逃れできない問題である。この本の編者は厚労省がしっかりとした対策を打ち出さないことに憤りを感じている方で,その方面での著書もおおい。実は私も同じ意見であるし,日医の頑なな方針堅持にも疑問を感じている。

 この本は,弁護士,ヘルパー他多くの立場の人の論文からなっている。従って意見も賛否両論である。しかし,現状では良いとは誰も思っていない。その意味ではこの分野に対する幅広い意見を見ることが出来る点ではいい本だと思う。

 私は1-2ヶ月後の秋田医報の巻頭言にこの問題を書きたいと思って充電中であるが,この本のいろいろな意見に接してから,事の難しさに頭を抱えることになった。日医の医療関係者対策委員会医院である立場でも,無責任な論旨は展開できないだけに,今はどうしようか,SARS問題の方にしようか・・・と迷ってしまっている。お薦めの本である。

6/12(木)青森うす曇→夕方から小雨  No11介護療養型医療施設全国研究会
2:00起床.人間ドック判定・総括x1、S
ARSデータ収集ほか。出張前処理のため4:30病院着、書類処理、回診・・と言っても患者は殆ど睡眠中。申し送りなど記載。6:30秋田駅に.特急あけぼの、4人分一人で占拠し快適、車内で一週間分の新聞処理他。9;50青森文化会館着。10;00開会式。特別講演2題聴講.午後の一般演題は一部のみとし16;00ホテルユニバース青森へチェックイン。人間ドック処理x1。医局7月分個人予定表.紹介状x2、退院時総括x1処理.19;30夕食、20:30就寝.

No11介護療養型医療施設全国研究会 血液関係の学会とは更に縁遠く
 本日と明日の二日間青森市で開催されているNo11介護療養型医療施設全国研究会に来ている。昨年まではこの研究会への出席など考えもしなかったが、当院で本年5月から療養病床を導入し私が責任者になり、入院患者の約半数を受け持っているので無関心ではいられない・・と来てみた。

 この会は全国規模で出席者は1400-1500名らしい。研究会レベルとすればかなり大きな会である。まず会場について驚いたのは殆どが、70-80%ほどが、20-30歳代と実に若い方々であると言うこと。しかし、考えてみれば介護療養型医療施設の主役は医師ではなく、看護師、PT・OTとかのリハビリテーション関連職種、栄養士、介護福祉士達である。だから言ってみれば当然でもある。これらの職種は比較的新しい職種であり、最近養成所が増えて急速に充足してきている分野である。この様子を見れば老人介護、老人医療の分野は若い労働力を吸収する一大産業なのだと思う。
 今、日本は経済的に低迷しているが、介護サービスの利用患者だけを見ても2000/4月で150万人、2002/11月で264万人である。実に2.5年の間に利用者が2倍近く延びている。こんなに大きく成長している分野をさがすのは他では困難である。

 通常の学会は開会式等殆どないが、人間ドック学会ほどではなかったが30分もかけた馬鹿らしいものだ。壇上には間もなく介護療養型医療施設に入る方が良いような高齢者達が来賓として10数名ほど並んでいた。坪井日本医師会会長の名代として西島常任理事も壇上にいたが、ただ壇上に登るために青森に来たのか??実に無駄なことだ。午前の講演二題「介護保険の現状と課題」「介護療養型医療施設の使命」は高齢者医療・福祉を理解するのに役だった。

 私はかつて日本内科学会、移植学会、血液学会、臨床血液学会等に出席していたが、最近は医療を総論的に感じ取れる内科学会、人間ドック学会に興味を感じているが、この研究会も候補の一つになりそうである。ただ、懇親会がセットになっての参加費23000円は実に高いし無駄。私は懇親会など興味もない。セットだと運営上は楽であろうが、参加費を通常の学会並みにして欲しいと思う。

6/11(水)晴れ 秋田県障害福祉専門部会 医師会理事会    
2:00起床。人間ドック判定総括x1、ほか.S
ARSデータ収集、改変、送付ほか。5:20病院着。ドック結果印刷、回診、他。9:00-13:10外来.回診、15:00-16:30秋田県障害福祉専門部会、16:30-19:00県医師会理事会。病院に病棟で懸案事項多数。20:30帰宅21:10就眠。忙中座閑無し。

秋田県医師会SARS対策で抜本的方向転換を提起
 秋田県ではSARSへ13医療機関の協力の下で対応策を構築しましたが、県医師会では疾患の性質上,根本的に再検討を要すると判断しました。その骨子を一言で言えば,「外来診療については病院外に対応できる施設を開設し、一般患者とは別に診療すべき」,「入院医療についても基本的には同様の考えで進めるべき」、と言うことです。今後はこの方針で秋田県や秋田市の担当部署と検討を続ける予定です。

6/10(火)晴れ 総回診(欠) 医師会打ち合わせ 薬事日報記者来訪
2:30起床,人間ドック判定総括x1、ほか.S
ARSデータ収集、改変、送付ほか。5:20病院着。ドック結果印刷、回診、他。9:00-14:10午前外来+ドック説明3名.回診、経鼻胃管交換に難儀。15:30医師会打ち合わせ、16:30ー18:00薬事日報記者来訪、「医薬分業」。SARS関連文書作成、20:30帰宅21;00就眠.

www.mfukuda.comになって一年。
 前略
 この一年間、当ホームページ「これからの医療の在り方」に、予想を遙かに越えて、多数の方々のご来訪いただきました。大変有り難う御座います。
 大上段に構えた表題を掲げながら,内容的には不十分で、せっかくアクセスしてこられた方々を落胆させているのではないかと、常々恐縮いたしております。

 ここ数ヶ月、SARS問題で連日更新のニュースを作成したりして、一層多忙になっています。別に私がやらなくても良いことなのですが、医師会や病院の危機管理の責任者の一人として、自分の為に情報を集めて整理していると、自然と出来てしまうので,些かでも役に立てばと掲載し続けています。三重県医師会を始め,各地の方々に利用されているらしく,結果的にはうれしく感じています。と,言うような事情でこのホームページの更新も時間が無くて大変なのですが、「継続は力なり・・・」と、毎朝4:30頃から更新作業を続けています。

 また、最近、ご覧いただいた方々からあたたかい励ましのお言葉が贈られてくることも多くなってきました。有り難いことだと思っております。感想、異議、その他、何でも結構ですのでご意見をいただければ、と思っております。

 こんなことで外来、病棟業務の時間を含め,一日の殆どパソコンに向かい,情報集め,メール連絡,作文などで毎日を送っています。とても便利で良い時代だと,現在ある環境を,自分自身を十分に堪能しています。

 だからこそ,一方で,「空に聴く,星に聴く,木に聴く、花に聴く、鳥に聴く、・・・そして、人に聴く。心すませば見えてくる,この人生 」 、この言葉は何かの本にあったものを私が適宜項目を加えてもじったものですが,私自身に備わっている自然観を,決して失わない様,大事にしていきたいと考えております。     
  今後とも「これからの医療の在り方」をよろしくお願いします。
                              2003年6月10日 敬具

6/9(月)晴れ 管理会議 魁新聞来訪 長副会議とミーティング
2:30起床、やや眠い。人間ドック判定・総括x1,新聞処理。SARSデータ収集、改変、送付ほか。5:20病院着。HDD結果印刷、回診、他。8:00管理会議.9:00-13:00外来。15:00-16:00秋田魁新聞記者2名来訪、SARS関連。院内打ち合わせ。16:30-18:00長副会議とミーティング。20:30帰宅。21:00県健康対策課より電話連絡、21:30就眠。

ネコと一緒に海苔を味わう毎朝。食品との組み合わせの新発見が楽しい
 我が家の飼い猫、本名「マルスランナ・ランドスト・フクダ」、源氏名「綾小路小百合」通称「ナンナン」は現在大体13-14歳ほどであるが、朝5:00になると決まって食卓の下で私を待つ。どうやってその時間を知るのか、体内時計か??かなり正確であり、完全に習慣になっている。目的は私から焼き海苔、または味付け海苔をもらうためである。そのために10cm角ほどの海苔が数枚パックになった製品を準備している。それを全部やるとさすがに多いから私と分け合って食べることになる。このパックの海苔にもいろいろグレードがあって味も違う。我が家では真ん中ほどのグレードのを購入している。その判断はネコがそっぽを向くか否かである。私自身は味音痴に近いからもっとグレードを下げても良いのだが、ネコは明確に区別するからたいしたものだと思う。

 私は基本的には夕食しか食べないが、朝はその辺にある適当なもの、前日の夕食の残り、ケーキ、パン、果物等を少量摂って出かける。その際にネコとの関係で必ず海苔との組み合わせで食べるので思いがけない組み合わせが生じる。海苔は味は一見単純であるが,奥が深く,なかなか優れた食品であり他の食品との組み合わせにもかなりの柔軟性がある。
 意外と良いのがバナナでこれは思いがけない組み合わせの新発見であった。メロンも意外といい結果。パン,ヨーグルト,ショートケーキ,プリン等の乳製品はまず総じて美味しい,楽しい組み合わせである。駄目なのが酸っぱいくだもの類,特に柑橘類やキーウイフルーツなど。 そのほかいろいろ味わっている。
 この話題は昨日のCaf
ee Partyで披露したのだが,総じて理解されなかったようだ。まあ,当然だね。私もネコがいなければこんな経験することはないだろうと,側でパリパリと海苔を食べているネコを見ながら考えている。前のネコは13歳で死んだが,ナンナンとはいつまで一緒に生活できるのかな??そう言えば最近変な咳しているな,海苔と他の食材の組み合わせの新発見はあるかな??などなど。

 今朝はアップルパイと海苔,昨朝は酢豚と海苔との組合わせであった。評価は前者が60点,後者が40点かな。

6/8(日)快晴  FF tennis  Caffee & Cake party
2:30リハ当直室にて起床、人間ドック判定・総括x2,新聞処理。S
ARSデータ収集、改変、送付ほか。8:30病院に移動、11:00帰宅.13:30-17:00梅林園FF tennis。6-3、6-3,6-4、2-6。帰宅後残務処理。19:00-20:10病院Nrsさん6名来訪、Caffee & Cake party +αにて歓談。みんなネコ好きらしく、ナンナンも楽器たちも、立派にホステス役をこなした。22:30就眠.

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(16)
兄、正明の結婚
 このネコとの本当の、最後の、かつ劇的な別れは、私にとって喜びと悲しみとが一緒に来たようなものだが、丁度翌日が兄正明の結婚式であり、家中ドタバタと大変な状況であり、この別れに気づいた家人はいない。ネコと私だけの間で演じられたドラマである。私もネコが何処に消えたのか、気にしながらも、いつしか慌ただしさの中に組み込まれていった。

 翌日、盛岡市の古い料亭を借り切っての結婚式、家督を私に譲ったからと言っても我が家にとっては祖父・耕陽の葬儀以来の一大エベントである。親戚縁者入り乱れて盛会に執り行われた。兄正明は当時、東北大学工学部大学院を終了後、昭島市にある日立製作所の子会社(?)である昭和電子KKで働いており、将来的にも郷里に戻る予定などなかった状態であったが、その結婚式の内容は完全に跡取り息子、長男のそれであり、事実上の跡取りとしての立場を自覚していた私なんぞ、実に影の薄い存在であった。
 しかし、考えてみれば当然であろう。当時私は高校卒業したばかりでその上浪人中の身でもあったし、参列してくださった方々にとっては殆ど知られていない事でもあったからだ。言ってみれば、兄は実質的に長男という立場を次男に譲ったと言っても、実質的にはそのメリットを享受していたことになろう。この結婚式を機会に対外的には兄の立場はより堅固になったことは確かであり、私は次男坊の悲哀を更に長く味わうことになる。

 まあ、こんな事はどうでも良いことではあるが、この兄の結婚式がネコとの別れの翌日であったと言うことは私にとっては悲しみを癒すのにとても都合が良かったことは確かである。


6/7(土)晴-曇り リハビリ当直
2:00起床。人間ドック総括x1。秋田医報用文章校正。
SARSデータ収集、改変、送付ほか.5:20病院着、人間ドック資料作成ほか。8;10人間ドック診察x5。9:00人間ドック結果説明x3。10:30-12:30外来新患補助。机上に横になり若干微睡む。回診等.残務処理、17;00リハビリ病院当直に移動、残務処理、新聞3週間分チェック21:00就眠.

毎日新聞社の報道姿勢には疑問、注意が必要、購読一年間止めることにした。
 前日に約束していたとおり、6月5日早朝、毎日新聞記者のSARSについての取材に応じた。SARS担当になったと言うその記者は若く、それほどの十分な知識を有しているとは思われなかったのでSARSについて基礎的な問題からアウトブレークを来す可能性と、その際の秋田県が取るべき体制に至るまで広範に話題を提供した。

 その際、実際にあった一例として一人の北欧人が秋田市内の某病院で短期間入院した話についても述べたが、病院や個人のプライバシー保護のために「患者の詳細は正確ではない」と前置して、患者の年齢、中国の訪問地・通過地、来日・来秋時期、病状などについては、正確ではないが嘘ではない範囲で適当に述べた。この例については従来もマスコミ各社には情報として同じように提供していたが、どこからも報道されていない。報道するメリットは何もない事も伝えていたからである。

 翌朝、魁新聞社から電話があり「今朝の毎日新聞に掲載された例について」取材したいとの申し出であったが、その時点では新聞を見ていない。何か新聞報道された場合に翌朝に何かクレームが来ることが多いので嫌な予感がした。早速医局の新聞を見たところ「秋田で疑い例第一例」と大きな見出しで掲載されている。これには実際驚いた。患者のアウトラインは私が適当に述べたとおりのまま掲載されている。

 それからが大変であった新聞社、県の関連部門・・・次々と電話がかかってくる。私だけでなく県医師会や会長宅にも電話があったらしい。秋田県の担当部署はこの事実関係のために半日以上も費やしたとのことであった。問題の責任は毎日新聞秋田支社にあるが、私がその一因を担ったことは確かであり、すっかり迷惑をかけてしまった。

 マスコミの姿勢として許されない無責任な報道であり、あきれてしまう。取材記者、秋田支社の関係者がSARSについてもっと知識をもっていればこういう報道にはならないはずである。もう2ヶ月近くも前の例の話であり取材翌日にスクープとして掲載するべきものではない。時間は十分にある。「他人から貰った情報は事実の半分も物語っていない。自分で調べることが肝要」は、新聞記者、新聞社の基本姿勢であるべきはずだ。取材時に私が適当に述べた各項目に再確認すら取られなかった。そのレベルでの情報のママの掲載はあるべきものではない。医師や関係者がそう判断していないにマスコミが診断する事もおかしい。マスコミのもつ底の浅い思い上がりの姿勢だ。

 私は毎日新聞を30年ほど購読してきた。ハッキリ言って3大紙の中では私にとっては最も見劣りがするために何度か止めようと思ったことがあるが、身障者を他社よりは雇っている・・と、聞いていたので思いとどまっていた。今月以降、一年間は休みたいと思う。

6/6(金)晴れ 患者家族とのミーティング2件 医師会打ち合わせ 秋田市救急隊と病院の懇談会 
2:00起床。人間ドック総括x1。医師会感染症等危機管理対策委員会報告文章作成。
SARSデータ収集、改変、送付。ほか.5:20病院着、人間ドック資料印刷ほか。毎日新聞秋田版に某病院の例が「SARS可能性例」として掲載された。診療スタッフも行政の関連部署も全くそのように認識していないが、社が勝手に診断して掲載したもの。スクープのつもりだろうがバカな話だ。みんなが迷惑する。10:30-12:30新患補助外来。15:00患者家族とのミーティング2件。16:00医師会に打ち合わせ。18:00秋田市救急隊と病院の懇談会が千秋会館で開催。出席者多数で活発な意見が交換された。私は19:00から参加。懇親会は5分間だけで早々に失礼し、病院に。20:30帰宅21:00就眠.

秋田市救急隊と中通総合病院の懇談会。私の30年前の経験。
 本日は秋田市救急隊と中通総合病院の懇談会が千秋会館で開催された。100数十名の出席だろうか。私は秋田医報用の原稿の処理、SARS誤報の対応などあり遅れて参加、最後列で聞いていた。生々しい救急現場の状況、その場での医師の対応、医師の出動要請の可否などについて討論された。工場災害、交通事故現場での被害者の激しい苦痛、錯乱状態で救出がままならない場面も少なくなく、救急隊にとっては医師の要請を求める場面も年に数回はあるとのこと。しかし、要請を受けても医療機関としてはおいそれとは対応できないのが通常である。また、よしんば現場に行っても不十分な状態の中で激しい苦痛、錯乱状態を取ってあげられるか、これも困難なである。時には予後を悪くするのではないかとも懸念される。どちらにせよ個々の医療機関の問題ではない。行政が深く関わらなければ解決しない。例えば、秋田市は市立秋田総合病院を改組して真に市民が求める救急とかの特別の医療を提供してはどうだろうか。納税者である市民は十分納得するはずである。

 会が終了して出席者が立ち上がった時に今一度驚いたのは若い救急隊員が大勢出席していたことである。時に救急室で患者を搬送してきた時に受けていたイメージよりもずっと若く20代の方々が大多数のように思えた。

 あれは今から30年ほど前のことだろうか、岩手県立宮古病院勤務中に2-3回救急隊に要請されて事故現場に行ったことがある。その中の一つは駅からある工場への引き込み線での人身事故であった。貨物列車の下に一部車輪に挟まれた中年男性が虫の息の状態でいた。四肢の一部は轢断され、挫滅もしていると思われるが暗く、狭い空間の中では詳細は知ることは困難であった。とても助かるような状況ではなかったが衆目の中、私も列車の下に潜り込んで懐中電灯の元で頸の表在静脈に点滴のルートを確保、細胞外液を大量に注入しバイタルを維持したことがある。クレーンにて貨車を持ち上げ救出したが、間もなく病院で死亡された。たまたま処置が旨くいったが、ベットの上の患者への処置とは全く異なる状況の中で医療行為を行うと言うことは極めて困難であることを身にしみていたので、本日の話し合いの内容は実に良く理解できた。もう30年もたっているがあのときの経験は脳裡から些かも消えていない。


6/5(木)快晴  中通総合病院倫理委員会 
2:00起床。人間ドック総括x1。レセプト数枚チェックと高額の症状経過報告文章作成。
SARSデータ収集、改変、送付。ほか.5:20病院着、人間ドック資料印刷x2ほか。5:30毎日新聞記者来訪、SARS問題、特に初期診療体制について。新聞記者もこんな時間に大変ですナ。6:30回診、他。9:00-14:00外来+HDD説明、入院患者家族とミーティング2件。18:00-19:10中通病院倫理委員会、委員長として進行役。20:30帰宅21:00就眠。

「Proceed at your own risk」は,私の好きな言葉
 私はこの言葉も好きだ。何かで読んだことがあるがハワイのワイキキ海岸にある看板に書いてあるのだそうだ。気に入っていて頭の隅から離れない言葉である。要するに有名なリゾート地であるワイキキ海岸にも水泳に必ずしも適していない場所もあるらしく,そこに立っている看板の文章とのこと。日本であれば当然「遊泳禁止」の立て看板になるはず。日本語訳は「危険を承知の上でなら,進みなさい」ということ。これは良い言葉である。

 我が国では自己責任の上で,という言葉は一見大きな意味を持っていない。日本人は画一性を求めるし,求められる。そのような場所で誰かが事故に遭うとそこの管理者が責任を問われる。だから,「・・・禁止」の看板を乱立させて画一的に禁止とする。この画一さからはみ出すのは犯罪行為に近いと解釈される。この「・・禁止」の看板の先には夢も希望も全くないのだ。何しろ画一的禁止だから。
 さすがに欧米では違う。むやみやたらに禁止するのではなく危険だから,と注意を与えて後は個人の判断に任せる。この先に何があるのか?夢が?希望が?あるのかもしれない,と言う可能性が潜んでいる。結果的に地獄かもしれない。私の好みの考え方である。

 健康管理だってそうだ。健康雑誌に掲載されているように,一部の医師もやっているように,健康維持にはたばこ止めよう,過食は危険,運動しよう・・・実にうるさい。厚労省など一日30品目食べよう・・・・と食卓の皿の上の品数まで干渉してくる。うるさいね。生物の一員として子孫を残し,人間社会の一員として社会にある程度の貢献した後は,反社会的行為になるようでは駄目だが100%自由で良いじゃないか。何しようと自分の責任のもとでなら・・これは私の人生観,医療観でもある。

 一方,実におかしなことに我が国では事件や事故の最終的責任は個人に求められ,その背景をもたらした社会や機構の責任は問われない。「誰が,何をやったのか」だけの追求ですまされる。先の管制官の指示ミスと航空機の衝突防止装置の指示に反した操縦をしたことによって2機の大型機が数100mのニアミスを生じ数10人の乗客に重軽傷者が出た事故も,結局は管制官とパイロットが送検された。何が彼女,彼をそうさせたのか問われなかった。だから類似の事故はまた起こる。医療事故もまた同じである」。(また主題からそれてしまった。)

6/4(水)快晴  県医師会常任理事会
2:20起床,人間ドック総括x1、
SARSデータ収集、改変、送付。ほか.5:30病院着、回診他、8:00HDD診察5名、9:00-14:00外来+HDD結果説明x1。主治医意見書作成他書類に追われる。再度回診、17:30-19:30県医師会常任理事会.代議員会を控え話題多数。20:00帰宅21:00就眠。

郷愁さそわれる桃の缶詰
 午前3時半頃、超自由人の家内が帰宅した。重症患者がいるとのこと。それにしても毎日毎日よく続くね。
 で,小腹が空いていたのであろう、冷蔵庫とかをしばし探していたが気に入るのがない様子。納戸に行ってゴソゴソしていたが古い錆び付いた缶詰を2個持って戻ってきた。一つは輸入品のブルーベリー、一つは国産の桃の缶詰である。共に賞味期限2年ほど過ぎているが,われわれは共にそんなことは気にしない。私も少しだけおこぼれに授かった。
 ブルーベリーは期限切れのためか個々の実がよくわからないほど,溶けてしまっていて,ちょうど小豆を煮たような雰囲気にぐちゃぐちゃとなっているが味はなかなか良い。ヨーグルトに混ぜて美味しくいただいた。なんかアメリカ産って色がすべてについてどぎつい感じがして何となく気持ちが良くない。一方の国産の桃の缶詰は色といい形といい,何ら問題がない。実にさわやか,美味であった。

 桃の缶詰と言えば,病弱だった小学生の頃を思い出す。病気になれば食べられたのがバナナや缶詰めの果物であった。バナナと言えば私が小学生の頃一本20円もしていた。最近でもほぼ同じ程度の値段で売っている。物価の差は数10倍もあると考えられるが,随分安く流通しているものだと感心する。それはさておき,それを食べるのが楽しみで病気に耐えていたようなもので,少しでも体調が良くなると「缶詰を食べたい・・・」と要求したものであった。それでも実際に目の前にするまでが夢であり,口に入れた途端に現実に引き戻され,桃の缶詰といえども嘔気がして食べられないことも多々あったものである。どれだけ回復したのかのバロメーターでもあったような気がする。

 最近では果物の缶詰も品数が沢山増えている。しかし,それらを単体で口にすることはほとんど無く,ケーキのトッピングや,フルーツポンチなどの形で口に入るだけである。私が如何に甘党なのかわかる。
 
 今朝は何10年ぶりかで桃の缶詰を単体で味わって,つい病弱な頃の思い出にひたってしまった。そういえば,今日のニュースで山形でサクランボの収穫が始まったと言っていた。また来た,この季節。我が家の錯乱母は今年や如何に。

6/3(火)快晴 総回診(欠) 医師会打ち合わせ、医局会 
1:30起床。人間ドック判定1名分.入院患者のレセプトチェック数人分、書類2,3処理.
SARSデータ収集、改変、送付。5:20病院着。ドック配付資料作成印刷.突然Office2001不調になりメールその他不調に。初期設定が壊れたためと判明、復旧。8:00人間ドック診察x4.9:00-13:00 外来。13:30ドック説明x1.定期処方27人分、これは大変な作業。医師会広報関連と病院関連の作文、紹介状関連処理など.17:30医局会、回診他、20:30帰宅21:00就眠。

古いものを大事に使うのが好き。されどかさむ修理費、維持費・・・
 私は古い手のアカにまみれたような古い品物を大事に使うのが好きである。それが必ずしも自分が使ってきたものでなくとも良い。だから自宅の物品の大部分はかなり年季が入っている。私の持ち物の中に中古品も少なくない。

 もっとも古いのはヴァイオリンで、多分1700年代の代物でそろそろ老衰状態。一般的に新しさが求められるパソコン等でさえ1990年代後半の製品が大部分、メモリー,電池,周辺機器すら入手不能状態である。オーディオ製品は1960年-80年代の製造あるいは購入が大部分でツイーターが機能障害しているスピーカー,片チャンネルからしか音が出ないアンプ,ぶつぶつと文句ばかり言う音で音声がでないLDプレーヤー,カセットデッキ,DAT・・・・もあって修理を待っている。バイク、車も10年以上だから次々と故障が出る。

 本日帰宅したらあるオーディオ店からの立派な封書が届いていた。内容は英国製CDプレーヤーの補修部分入手不可能で修理不能として送り返されてきた,と言うもので,その間の技術料,送料○万円振り込み願いたし,と書かれてあった。これまで随分多くの品々を修理に出したが,修理不能製品にバッチリ費用を請求されたのは実は初めてである。日本も徐々に新しい時代を迎えつつあるな,と言うのが実感だがやむを得ない。納得出来るプロセスを経て再生不能と判断されたのであれば諦めもつくし,その判断にはそれなりの技術が必要である。そういえば,医師に診てもらったからと言っても亡くなる場合もあるし,亡くなってもその医療費は無料にはならんからね。
 しかし,返送料金だけは無駄だ。筐体だけでも欲しがるユーザーもいるだろうから返すのも良いだろうが,修理不能なら廃棄するか否か聞いてくれれば無駄な送料もかからないものを・・と思う。だけど,この立派な封書に圧倒されたね。明日銀行から振り込むことにしよう。

 この一年の間に,メインアンプ,CDプレーヤー2機種,パソコン3機種がメーカーの判断で再起不能とされた。そのうち手元に戻ってきた製品は私の手で100%再起不能状態にバラされ,部品の一部が倉庫で次の出番を待っている。次は,私か??

6/2(月)快晴 管理会議 長副会議 
2:00起床、人間ドックx2他。SARSデータ収集、昨日同様週末で更新それほどなし。SARSに関して加筆。昨夜21:00頃重症患者で出勤した家内は3:30頃いったん帰ってきたが5:00にまた呼ばれた。ついでに私も出勤した。回診、紹介状、資料作成。8:00管理会議、9:00-13:00外来。13:30人間ドック結果説明。SARSに関して秋田市と医師会の話し合いがあるというので担当理事に意見を送付した。16:30-18:00長副会議。回診、紹介状作成。20:30帰宅。21:00就眠。

 朝2時起きで、なんでもできる!
枝廣 淳子 (著)サンマーク出版 2001
価格:¥1,300
昨年出張時,秋田空港の売店でたまたま手に取り私の生活パターンに似ているので何か面白いことでも書いてあるのか?と思い購入した。駒込の日本医師会に着くまでの約1時間半の間に一気に読めた。内容的には軽い本である。

 内容は29歳の主婦が夫の赴任について2年間ほど米国に居住したことを機会に英語に目覚め,同時通訳者になろうと発憤、子育て,主婦業をこなしながら毎朝2時起きで頑張って何とか目的に到達したという話・・・だけである。
 早朝起床のノウハウから種々のことを書いているのかと期待したが,朝の2時起き・・は題名だけであった。2時起きのメリットも若干は書いているがその生活パターンの優位性を強調し読者に強く勧めているわけでもない,焦点のぼけた内容である。

 ただこの著者の見るべき点は,何か常に目標を目前に掲げて生きている積極的なヒトだと言うことはよくわかる。これは感心するし共感した。たとえば,思いがけず生じた米国居住の機会を,良いチャンスだからこの間徹底して英語の学習に充てるぞ・・と目標を持って渡米,第2子妊娠中の身体にもかかわらず,その目的のために家に閉じこもることなく地域にとけ込むなど,・・・根っからの努力家のようであり,そう簡単にはめげない明るい性格だ。

 結局,著者は2時起きで頑張った結果,独立した時間が確保出来,有効に生かすことで大きな事業を成し遂げたわけであるが,こんなことは誰にでも出来ることではない。自分のやりたいような生活が出来ると言うことはそれなりの環境が備わっていることが大前提。一見まともでないパターンの生活を送っているヒトは実際には周囲に多大な影響を与えている,と言うこと。著者の家庭ではご亭主,二人の娘たち,実母までが著者中心の生活に翻弄されながら,それなりに耐えてけなげに生きているということで,その様子も明るく述べられる。その辺が若干面白かったかな。

 一人の女の生き方が述べられているだけで,あまり役にも立たない。到底お薦めの本とは言えないが,私と若干の共通点があるから読めたようなもの。表紙の絵はなんだか意味深である。何なんだこの図柄は??

6/1(日)終日降雨  FF tennis(中止)
2:00起床、人間ドックx2他。SARSデータ収集、週末で更新それほどなし。SARSに関して昨日の発言要旨に加筆、掲載した。7:10-8:00微睡む。台風4号熱帯低気圧化して北上して雨。12:00-17:00病院へ。回診、紹介状・総括、資料作成など。17:30帰宅。Vn練習多少、etc 21:00就眠.

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(15)
猫は家につき、犬は人につく・・とされるが。
 昔から猫は家につき、犬は人につく・・とされるが、私は子供の頃ずっと疑問に思っておりこのネコに限ってそんなはずはないと、いろいろ試したことがある。しかし、得られた結論は、やはりそうとしか思えない事ばかりで、結局は猫は家につき、犬は人につくものだと長い間納得していた。
 例えばネコは適宜パトロールと称した行動に出る。結構これが広範囲で家から数100mも離れたところで姿を見ることもあった。だっこでもしてあげようかと、家でやるように声をかけて側に寄って行っても一目散に逃げるのが常であった。友人達に頼んで同じように声をかけてもらっても全く同じで、私が呼びかけたのと全く差がなかった。自分の生活の範囲では私をちゃんと認識するのに、と、私にとってはとても不思議でかつ悲しいことであった。
 また、自転車の蓋つきかごに乗せて家の周りを廻る事は良くやったが、ひとたび敷地から外に出るとそれまで大人しかったネコが突然かごの中で暴れ回り、もうどんなになだめても駄目で、家に戻るしかなかった。この様なことをいろいろやりつつ、最終的に先の結論に到達していた。

 それが、私の声を聞きつけて、死の床から、なけなしの体力を振り絞って私に会うために出てきて私を呼んでくれたこと・・・は驚異であり、私にとっては最高の喜びであった。と同時に、私が側を離れた時に再び静かに戻っていった潔さは、私を深く感動させた。この間彼女は何を感じ、何を考えていたのか。恐らく彼女は満足してこの世を去っていったのだろうと考えている。このことがあって以後の約30年、私は他の猫に全く関心を寄せることはなかった。
   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。

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