2022年12月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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12/31(土)大晦日 年末休暇三日目 飯川病院年末休暇+日当直
2:00起床、読書中心。いつものごとく、7:00コンポスト処理。回診に行く家内に同乗、飯川病院に。9:00日当直に就く。読書、微睡で過ごす。12:00昼検食、新聞チェック+入力、読書など三昧。ラジオの録音数件。データ整理、読書、微睡、また読書・・・・18:00検食、大晦日の年越し料理。20:00就寝。歩数計Σ3256歩。
2022年大晦日 飯川病院日当直
時間の経過は実に早い。本年もついに大晦日を迎えた。
最近やたらに睡魔が生じてくる。身体が求めているのだから・・と、業務の隙間があればできるだけ応じている。変則的な生活の歪みが関係しているのかもしれない。
私の好きな言葉は「継続は力なり」であったが、ここ数年来、「もっと無計画に、適当に生きてみたい・・・」と思い、今年あたりから「できるだけズルしたい」に進化した。
手を抜けるところは抜きたいものだ、とウジウジ考える。今年は除雪を要するほどの積雪はなかった。これだけでも嬉しい。
あらゆることに感謝の気持ちを抱きながら新年を迎えよう・・・などなど、思いながら今年も無事終わりそう。
いま時計は23:30を示している。本年分の記述はここまでとし、ズルさせていただく。
(超豪華な本日の夜の検食 メニューは一口蕎麦、海老フライ、三色きんぴら、付け合わせ、フルーツ 他)
この一年、ありがとうございました。
12/15(木)終日曇り小雪寒波 終日飯川病院+当直
2:30起床、積雪3-4cm,。文献読み。徒然ほか。可燃ごみまとめ済み、8:30院長大学受診のために同乗、飯川病院へ。9:00勤務、外来患者対応。入院患者対応なし。新聞チェック、PDF化。12:00検食読書微睡三昧。17:00当直業務に就く。18:00夕検食、20:30就寝。歩数計Σ3490歩。部屋に籠りきり。
季節の話題2022(33) 気象改変の理論、技術の歴史
最近、私は気象について遅まきながら勉強を始めた。気象学、これもまた楽しい世界である。
JRフレミング著「気象を操作したいと願った人間の歴史」を読んだ。10年ほど前の出版であるが文献として貴重である。著者は気象改変の歴史研究を専門にする科学史家。
まず、歴史的な努力を紹介している。天候改変の試みの歴史として興味深い。
?先住民の雨乞い、?18世紀の大砲を使った降雨技術、?各種化学物質を蒸散させる方法、?更には20世紀、飛行機で粒子を播く人工降雨、?大気圏遥か上空で水爆を爆発させる理論まで紹介されている。
次に、現在地球工学と呼ばれる地球規模の気象改変構想に切り込む。
例えば「温暖化」に対抗するため、?宇宙に鏡を打ち上げ「日傘」にする。?硫酸塩を高層大気に散布し太陽光を反射させる。?海で藻を大発生させ二酸化炭素を取り込む。
結果的に、空に影ができ、空が白くなり、海がどろっとして緑になるかもしれない。
これらの構想には、ある種現実離れした滑稽さを感じる。気象改変の試みは、想定通り目標が達成されるのは稀だし、思わぬ副作用を伴う可能性を示す。
ノーベル賞学者ラングミュアはハリケーンの進路を変えられると信じ、種々の理論を作り上げた。彼の理論はおそらく間違っていたであろうが、もし正しかったら人工的にねじ曲げたハリケーンの行き先の都市や国への賠償はどうなるのであろうか。そこまでは言及していない。
大きすぎる工学技術は思わぬ所で破綻する可能性がある。原発事故を経験した私どもは理解し易い。気候を変えることなど困難と思われるが、十分な謙虚さと畏怖を持ちつつ効果的で公正な解決を実現できるかが問われる。
局所的機構改変として第2次世界大戦中に英国空軍が開発した、基地の滑走路の霧や雲を消散させる装置「ファイドー」は有名である。
爆撃機が英空軍基地への着陸時に消費する燃料は10~20ガロン。「ファイドー」はガソリンの燃焼熱により滑走路周辺の霧を消散させるものであったが、1機の着陸を支援するのに6千ガロンのガソリンを消費したという。全く割に合わない技術であった。
(一月ほど前の秋田駅の霧の様子 この程度でも着陸は困難だった、と思われる)
北京五輪に際し、開催期間中を晴天にしようと、事前の降雨を促すためにヨウ化銀を小型ロケットで雲中に打ち込んだとされるが、効果はどうだったのだろうか。
局地的な人工降雨は、渇水対策や砂漠化防止のためにも必要な技術であることは確かだろう。
雲中に液体炭酸を散布する日本の実験はまだ続いているのだろうか??。
12/14(水)寒波強風小雪 午後飯川病院 COVID&インフワクチン担当
1:30起床、文献読み。読書。徒然ほか。午前は座学。11:50バス飯川病院、積雪3-4cm,待っている間寒し。14:00COVID-19&インフワクチン担当20名、家内ネット勉強会、夕食はTake out品。21:00帰宅、夕食、21:30就寝。歩数計Σ5268歩。
季節の話題2022(32) 降雪期は私には厳しい季節 気象予報士の元気さが辛い
この冬は例年よりもやや気温が低く、降雪も多いとの予報が出ている。
昨シーズンは雪が非常に多かった。あまりの雪の量で多数の農業用ビニールハウスが壊れ、農家は大変な苦労をしたというニュースが記憶にまだ新しい。
この冬はどうだろうか。
秋田では12月1-2日にかけて初雪が降った。ここ数日はまた寒波が来ている。朝の道路はガチガチである。
秋田の冬は厳しい。だが、高校まで過ごした岩手内陸は雪こそ少なかったが気温は秋田より2-4度C低くもっと辛かった。その点は良いのだが、降雪量が多く加齢と共に除雪作業が辛くなってきている。
私は盆を過ぎると秋の訪れを意識し、約4ケ月かけて雪を迎える心の準備を整える。道具の準備としては、12月11日に除雪機の準備を終了したばかりである。
秋田市は最近マンションの新築が数カ所で見られる。少子高齢化で高齢者単独世帯が増え、除雪が困難になった比較的富裕な方々が入居するのだそうだ。私にはその考えは無いが、その気持ちは理解できる。
その雪のつらさを何倍も上回る良いことは、秋田では季節を強く感じられることである。
春になり気温が上がると、天気が良くなり周辺が緑に包まれる。私は秋田のベストシーズンは6-7月と思っている。
COVID-19がまん延しようとも、世界で紛争が起きようとも、春になれば必ず桜が咲き、季節は確実に前進していく。これから約2.5ヶ月の辛抱である。
ところで、私はNHK amラジヲをかすかな音でかけっぱなしである。
最近はアナウンサーの活躍が目覚ましい。かつてはアナウンサーは原稿を正確に読み上げる技術が重視されていたであろうが、現在はキャスターとしても番組をうまく盛り上げてくれる。その際、若い女性の気象予報士もチームの一人として入っていて適宜新しい気象情報のニュースを提供してくれる。
それは意義あることであるが、この季節になると気象予報士の元気さがストレスである。
猛暑の夏も、厳冬でも、台風の襲来の時なども、NHKの気象予報士は常に元気溌剌、特に厳しい気象情報の説明の際には一層元気、歯切れ良く嬉々として話す傾向がある。
各地方の現場では、その厳しい気象条件のもとでいろいろ準備し、悪天候と戦っているのだ。気象予報士はNHK放送センターでさわやかな環境のもとで解説しているから、悪天候の説明に全然実感が伴わない。時々、お見舞いの言葉も発せられるが、同じである。
気象予報士はその研修過程で酷暑、厳寒の実体験などする機会があるのだろうか。
秋田でも、強風の際には雪は横から降ってくる。バス待ちの間に衣服に着雪し、みるみる樹氷の如くになることなど体験したことがあるのだろうか。
気象予報士の元気な声を聞くたびにちょっと落ち込むリスナーもいることを思い浮かべてほしいものだ。
最近、私は気象について遅まきながら勉強を始めた。気象学、これもまた楽しい世界である。
12/13(火)曇り午後降雨 中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:430起床、文献チェックなど。5:30可燃ごみ処理、落ち葉などの二袋提出。6:40バス飯川病院。8:45-13:00中通病院外来。疲弊した。14:10飯川病院ボランティア、微睡読書、19:30帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計Σ10253歩。
マイナンバーカード2022(3) 有効活用の道 面倒臭い
マイナンバーカードが誕生して6年。 人口の約4割にあたる約5000万枚が交付され、カードで出来ることは増えつつある。政府は2023年3月までに8000万枚の発行を目ざす。私もカードをやっと取得して内容を勉強中だが、はっきり言って有効活用するには私など高齢者にはハードルが高い。
意外と用いる機会は無いかもしれない。
カード周辺の用語だけ見てもなかなか分かり難い。
?|「マイナンバー」とは、行政の効率化や国民の利便性を高めるため、住民票を有するすべての人に付与される12桁の番号。
?|「マイナンバー通知カード」はすべての該当者に交付された紙の書類。カード申請時には返却する。
?|「マイナンバーカード」の取得は任意。その割には取得の勧誘がうるさい。希望者の申請によって交付されるカードで顔写真付きの本人確認書類として使える。そのほか、下記の(1)(2)の如く住民票の写しなどが最寄りのコンビニエンスストアで入手できる。 具体的にはコンビニのマルチコピー機を自分で操作して入手する。私はやったことはないが簡単にできるだろうか。自信がない。
?|「マイナポータル」とは、政府の情報サイトのこと。ここへのアクセスで医療機関を受診した際の医療費や処方の内容、医療費控除の情報など確認できる。確定申告に便利らしいが、詳細の理解困難。私には無理、放棄する。
?|「マイナポイント事業」 申請者一人あたり最大2万円のポイントを受け取れるキャンペーンであるが申請はネットでもできるが、私には困難に見える。私には無理、放棄する。
?|「マイナ保険証」 健康保険証とマイナンバーカードを一体化させた「保険証」。患者の窓口負担が増えることなど見直しを迫られていてまだ流動中。
?|「公的個人認証サービス」とは?
インターネットを通じて申請や届出といった行政手続などやインターネットサイトにログインを行う際に用いられる本人確認の手段です。 外部から読み取られるおそれのないマイナンバーカード等のICカードに記録することで利用が可能となる。電子証明書には、署名用電子証明書と利用者証明用電子証明書の2種類がある。私には無理、放棄する。
?|署名用電子証明書・・・インターネット等で電子文書を作成・送信する際に利用(例 e-Tax等の電子申請)。「作成・送信した電子文書が、利用者が作成した真正なものであり、利用者が送信したものであること」を証明する。
?|利用者証明用電子証明書・・・インターネットサイトやコンビニ等のキオスク端末等にログインする際に利用(例 マイナポータルへのログイン、コンビニでの公的な証明書の交付)。「ログインした者が、利用者本人であること」を証明することができる。
などなど用語はカタカナ語が多く、それらの意味の区別だけでも難しい。
(1)マイナンバーカードで便利になる主なサービス。これは便利そう。
――――――――――――――――――――――――――――
●顔写真付きの本人確認書類として
●住民票の写しなどをコンビニで取得
●確定申告がオンライン作成から送信まで控除証明書などの自動入力
●児童手当の申請などの行政手続きがオンライン
●マイナンバーカードの健康保険証利用
●マイナポータルの利用
(2)マイナポータルでできること ちょっと面倒そう。
―――――――――――――――――――――――――――――-
●行政手続きの検索と電子申請
●所得や年金などマイナンバーにひも付いた自分の情報閲覧
●e-Tax などの外部サイトとの連携
●行政機関などからの自分へのお知らせの確認
●行政機関間でされた自分の情報連携の確認
マイナンバーカードは取得にも苦労したが、実際にの利用にはもっと高いハードルがあるようだ。無くても構わないカードである。もっと利便性を高めなければ特に高齢者の利用は広まらないだろう。
12/12(月) 祖父耕陽命日 晴れ 健康クリニック 飯川病院
1:20起床、降雪0cm。文献読み。PDF化書類。6:40バス飯川病院。新聞休刊日。9:00-11:30健康クリニックドック業務、14名+レ線判定15名。11:40飯川病院、本読み、微睡、14:00-18:30飯川病院勤務、入院患者対応。リハビリ歩行、千秋公園、バス長崎や古書店、帰路は歩行。19:30帰宅、夕食、20:30就眠。Σ歩数計Σ11219歩。
マイナンバーカード2022(2) やっと交付受けた 「顔が悪かったのか?」
本年3月30日私、家内、賄いの石井さんに対して「マイナンバーカード交付申請のご案内」という封書が届いた。あまり必要性を感じていなかったが政府も普及を図っているようだし、健康保険証、確定申告時、ほかの手続きに使用できるということであった。
言われてみれば3人ともいつ人生の終焉を迎えるかもしれず、火葬などの際、除籍にも求められる可能性があるので今回申請しようと考えた。
私が3人分の手続を進めたが、最初の2回は3人分とも受理不可で返送されてきた。いずれも顔写真に問題が指摘されてきた。
7月下旬に3回目に挑戦し、家内と石井さんの分はクリアし8月中に交付を受けた。
私の分は3回目も写真が良くないとの判断であった。ちょっとすました表情で撮り直し9月に再再挑戦、9月下旬に交付可との連絡を受けた。この間私は4回申請し、6ヶ月要した。あとは急ぐことなし、と先日12月8日に交付を受けてきた。
今回は、令和3年10月31日時点でマイナンバーカードを持っていない75歳以上の高齢者に、QRコード付き交付申請書がお送られたものである。
申請方法として以下の二方法が提示された。
――――――――――――――――――――――――――――――
(1)マイナンバーカードの申請には、スマートフォンやタブレットによるオンライン申請が便利です。 顔写真データをご準備のうえ、同封の交付申請書にあるオンライン申請用QRコードを読み取ってください。あとは画面の指示に沿って進めてください。
(2)郵便によりマイナンバーカードを申請する場合には、交付申請書に必要事項をご記入のうえ、同封の返信用封筒で送ってください。
――――――――――――――――――――――――――――――
まず(1)を試みたがうまくアクセスできず、数日間何度か試みて諦めた。私は概してオンラインの手続に難渋する方で、どちらかといえば嫌。早々に諦めた。
次いで(2)の方法を試みた。
記載すべき内容は簡単であったが、私の3枚の顔写真に関して、?正面を向いていない、?背景が真っ白でない、?顔以外のスペースが狭すぎる、?やや暗すぎる・・・・などとのクレームがつけられた。
私の目では写真はそれほど悪くはないと思われたが、「ホントは顔が悪いのか?」とまで思った。顔は今更なんともならないからちょっと澄まし顔、笑顔を交えて撮影し直し、4回目でなんとかクリアできた。
感想として、取得のキャンペーンの割には交付の判定が厳しすぎるのではないだろうか、と思った。
受け取った後の感想として、有効利用するための手続きの壁が厚くかつ高過ぎる、と思った。これでは高齢者は活用が難しい、と感じた。
12/11(日)曇り時に晴れ 外仕事中心に 除雪機整備など
1:00起床、文献読み等淡々と処理。PDF化書類、ラジオ深夜便のMP3データを整理。2F曄ステッパー改良。9:00外仕事、ガレージ掃除、園芸用支柱整理、除雪機整備、農具、電動農具等整理、車の雪対策、散水用ホース仕舞い。これで外仕事の大部分終了。後は資源ごみ廃棄のみ。12:00NHKニュース、のど自慢。新聞チェック、微睡。15:00書斎にて音楽関連の録画確認。N響定期公演、読売響など。19:00夕食、20:30就眠。歩数計Σ8403歩。
日米開戦81年(4) 「ポツダム宣言を受諾」前日8月14日夜間、 秋田が無差別爆撃の標的に
土崎空襲が「ポツダム宣言受諾」前日の8月14日夜間に行われたが、調べてみると以下の地域で空襲がなされていた。
<<昭和20年8月14日から15日にかけての空襲>>
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?大阪府大阪市………8月14日12:30頃〜午後
?山口県岩国市………8月14日午前中〜午後
?山口県光市…………8月14日13:20頃〜14:20頃
?秋田県秋田市土崎…8月14日22:30頃〜翌15日3:30頃
?埼玉県熊谷市………8月14日23:30頃〜翌15日1:30頃
?群馬県伊勢崎市……8月14日深夜〜翌15日未明
?神奈川県小田原市…8月15日未明〜明け方
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土崎空襲では250人以上が死亡,200人以上が負傷した。
この頃、戦争終結について内外で対策が進められていた。
8月9日ソビエトの満州侵攻を受けて、当時の鈴木貫太郎首相は最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、「国体の護持」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に宣言の受諾の方針を示した。
議論は天皇臨席の最高戦争指導会議で8月10日午前2時、いわゆる「聖断」が下され、3時からの閣議で正式に承認され、直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。また受諾方針については15日の勅語の発表まで公表を行わないことにした。この間の時間の浪費が惜しまれる。
米国はこの「ポツダム宣言受諾」の電文を傍受した。日本がつけた受諾への条件にたいし米国国内でも意見が別れ,連合国側諸国間の調整も必要であった。連合国として日本への回答は8月11日正午にスイスに向けて打電され、8月12日午後0時45分に日本の外務省が傍受し「ポツダム宣言受諾」が受け入れられた事を知った。
だから、米軍は8月11日正午の時点で爆撃中止命令を出せたはずであるがぎりぎりの時点まで攻撃し続けている。
これは何故だろうか。
トルーマンは「2発の原爆が戦争終結をもたらし、日米の多くの命を救った」,と自負しているが、その後も無差別攻撃をくり返したことは矛盾に満ちている。
私は終戦直前の米国側の攻撃は、米国内の政治的事情によっていると思う。
米国は莫大な予算を使って原爆を作った。これが日本に投下されなかったとすれば多大な無駄遣いとして大統領は大きな非難を受けたであろう。だから、もう反撃能力ををなくした日本にあえて原爆を投下した。もちろん対ソ、対スターリンの対策の意義もあったであろう。
しかし、原爆が終戦をもたらしたという論旨は間違いであり、トルーマンは保身のために必死に原爆の意義の世論を作り上げたのだ。
同じことは2900機とも言われるB29爆撃機の作成、大量の爆弾の製造にも言えた。だから米軍は出来るだけこれらの使用の実績を作らなければなかった。そのために8月11日から15日早朝にかけて行われた各都市の空襲は戦略的目的のない、余剰兵器の廃棄行為であった。
ここでも米軍の非人道的、国際法的違反が繰り返され、貴重な人命が失われたが、東京裁判では取り上げられることはなかった。
私は日本の貴重な人命は、原爆を含め兵器の廃棄過程で失われた、と思っている。
12/10(土)曇り時々晴れ 飯川病院日直
1:00起床、本読み、医学文献読みなど。8:30回診に行く家内に同乗飯川病院、9:00日直業務に就く。患者は落ち着いており、新聞チェック、座学、本読み、微睡など。12:00検食、午後もほぼ同様。読書三昧の午後。19:30帰宅夕食、20:45就寝。ほとんど歩行せず。歩数計Σ3310歩。
日米開戦81年(3) 秋田が無差別爆撃の標的になっていたかもしれない!!!!!!
太平洋戦争末期、米軍が秋田市の中心市街地への爆撃を計画していたことが、日本の都市空襲を研究している山口県周南市の工藤洋三氏(77)の調査で分かった。
氏は日本の都市空襲研究家。「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の事務局長、一次資料のリアルさを追求、これまで30回渡米して調査、以下の如くの本を20冊以上出版している。
工藤氏の書籍の一例
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?米軍の写真偵察と日本空襲 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害 2011/01/01
?写真が語る原爆投下―ヒロシマ・ナガサキをもたらした側の全記録 2007/09/01
?大分空襲の記録―米軍資料 1999/07/01
?Okayama6.29ー米軍資料の中の岡山空襲 (手帖舎ブックレット) 1996/10/01
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氏は「終戦があと1、2週間遅ければ、秋田市街地空襲計画が実行されていた可能性がある」と指摘する。
氏は1998年、米国アラバマ州の空軍基地資料室で、1945年8月10日に立てられた戦闘計画書を入手。そこには爆撃の目標として 「AKITA/TSUCHIZAKI」の文字が記されていた。
また10年ほど前には米国立公文書館で、45年7月24日に米軍が撮影したとする秋田、土崎駅周辺の航空写真を入手した。写真には、爆撃中心点として2ヶ所の記入があった。一つは秋田駅から西へ約900mの地点で、 現在北都銀行本店がある付近。二つ目は、土崎駅から南へ約600mの土崎港中央付近を示していた。
氏は「それぞれの地点を30から40機ほどの爆撃機で、 同日に攻撃する計画だった」と見ている。
氏は今年8月、事務局長を務める調査研究団体の会報で、米軍撮影の秋田市の航空写真を公開し、「終戦によって空襲を免れた都市」として、秋田市中心市街地への爆撃計画を紹介した。
市の資料に沿った計画か否かはわからないが、秋田市土崎港は8月14日22:30頃〜翌15日3:30頃までに渡って米軍の空襲を受けた。
米軍は1945年6月から、攻撃の目標を大都市から地方の中小都市へと移した。人口の多い都市から順に無差別攻撃し、日本全体を一層疲弊させる目的だったとみられる。
12/9(金)曇り晴れ 大曲中通外来 飯川病院ボランティア
1:50起床、本読み他いつもの如く、6:00家庭ゴミ処理、資源と2袋提出。7:35Taxi駅に、8:11こまち。8:50大曲中通病院外来。大曲秋田もTaxi。長崎屋古書購入。15:30飯川病院へ、ボランティア。微睡、新聞チェック、19:15帰宅、20:30就寝。歩数計Σ8401歩。11月下旬からカルテ電子化、3週間休みだったから私にとっては本日初日。かなり勝手が違うもなんとか対応できた。
日米開戦81年(2) 太平洋戦争は経済防衛戦争だった
太平洋戦争を語る多くの文献はほとんど例外なく「侵略」の歴史として語られている。 そして 戦後の「反戦」「平和」「自由」「民主主義」といった美辞麗句を並べ、史実の理解も乏しいまま、一元的に語られてきた。
それで、敗戦後は近代国家に生まれ変わり見事に復興を遂げたのだから、後は臭いものには蓋と、一切の歴史をそうした枠内に追い込んできた。
多分心ある歴史家達は忸怩たるものがあったであろうが、GHQの指導下に日本国民は洗脳され、そういう論調を取らざるを得なかったのだろう。その結果、日本人全体が、「太平洋戦争」に対してある種の加害者意識に囚われていった。これでいいんだろうか。知的退廃が取り返しのつかないほど進んでしまった、と私には思われる。
当時、我が国は「ABCD包囲網」と言われる状況で軍備、貿易、特にエネルギー分野で八方塞がり状況にあった。これを打ち破るための外交は、アメリカ側から妨害され、悉くうまくいかなかった。だから、開戦は局面を変える切掛になる、と多くの人が思ったのは当然である。私は太平洋戦争は日本人が生き残るためにやむなく決断した「経済的防衛戦」だ、と思っている。少なくとも私が収集し、読んだ文献からそのように読み取った。
これは一つに、いわゆる戦後の平和教育という歴史観が長らく支配し、戦争そのものを本来の歴史として捉えてこなかったからだと思う。
先の戦争は4つの戦争、日中戦争(1937年)、日米戦争と日英戦争(1941年)、日ソ戦争(1945年)からなる。開戦直後閣議では日中、日米と日英戦争を併せて「大東亜戦争」と呼ぶことが決定したが、GHQ占領下では「大東亜戦争」との呼称は禁止され「太平洋戦争」と呼ばれることになった。
4つの戦争ごとに性格は異なる。だから別々に論じられていい。日中戦争は侵略戦争の様相をもち、日ソ戦争は我が国から見て不当な侵略戦争である。したがって一つの名称で括ることは実態をぼかしてしまう。
アジアの国々から「日本は侵略した。だから謝罪しろ」と政治的プロパガンダを伴って強く言われれば、現状では相手の言うなりに謝罪するしかない。相手の言うことを理解した上で、日本の行動の背景と成果をきちんと評価し反論する、あるいは賠償交渉を含め共通の基盤をつくる、そうした対応ができなくなっている。
日本は過ぎ去ったことを水に流す傾向がある。背景には歴史の記録の軽視がある
12/8(木)曇り 太平洋戦争開戦日 ダリア球根処理終了 飯川病院 インフワクチン担当
1:00起床、徒然、文献・画像・録音データの整理・処理など。8:30庭畑作業、寒い。ダリア球根採取11:00終了、入浴。これで残るはネギだけ。11:50バス飯川病院、微睡、14:00外来インフワクチン担当、入院処置。微睡、新聞、文献読みなど多数。18:00軽夕食、家内ネットで学習会、21:00帰宅、夕食、21:30就寝。歩数計Σ9968歩。
日米開戦81年(1) 太平洋戦争とは一体なんだったのか??私にはまだ分からない
今からちょうど81年前の1941年12月8日ラジオから開戦の第一報が流れた。真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まったことを報じた。実際には、真珠湾の2時間前に南方で侵攻が始まっていた。
奇襲攻撃の成功は国民を高揚させた。識者の回顧録などを見ると、当時我が国は「ABCD包囲網」と言われる状況で軍備、貿易など八方塞がり状況にあったが、これを打ち破り、局面を変える切掛になる、と多くの人が思ったのは事実のように見える。ただ、当時新聞をはじめとするメディアが国民に適正な情報を提示されていたのかは疑問である。
私は終戦の年に生を受けた。昭和の歴史は我が国にとって動乱の時期であった。私は昭和の歴史を第二次世界大戦を中央に置いて、今更ながら、遅まきながら、非力ながら勉強中であるが、開戦決定に実質的役割を果たしたキーパーソンの存在が見えない。
「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、戦後81年の月日が流れたわけだが、未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
8月15日の終戦記念日の式典。8:00の時報と共に合わせ一斉に黙祷を捧げる。それは「美しい光景」である。私も心の中で大戦中に日本を支えた当時の方々、犠牲になられた300万人超の御霊に哀悼の意と感謝の意を捧げている。
しかし、私にはどうにも大戦を考えるに違和感を覚えてならない。
広島平和記念公園にあ原爆死没者慰霊碑に記されている「安らかに眠って下さい。 過ちは繰り返しませぬから」、という碑文は 何を訴えたいのか、よくわからない。 この文に主語はない。 原爆を落としたのはアメリカなのに、原爆投下の他にも無差別殺戮なども人道に対する罪を繰り返してきたが、まるで日本が過ちを犯したかのようである。 どうして誰も変に思わないのだろうか。
戦後81年、太平洋戦争は様々に語られてきた。
私もずいぶん文献を読んだ。しかし、私の目から見て、太平洋戦争を本質的に総体として深く捉えた文献に巡り合っていない。
「あの戦争とは何であったのか、どうして始まって、どうして負けたのか??」、私はいまだに納得できる結論を持っていない。
12/07(水)曇り降雨 散髪 マイナンバー交付 午後飯川病院
1:15起床、文献読み。なぜかファイト湧かずグダグダと過ごす。5:00頃からいつものペースに戻った。座学中心。8:00ダリア球根対応、とりあえず白い株から開始。9:30散髪、キタスカにてマイナンバー交付を受け、古書土崎店へ。7冊購入、11:17バスにて飯川病院、微睡若干、14:00勤務。COVID-19ワクチン接種担当19名。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ8100歩。
こころと体2022(97) 怒りについて(5) 瞬発的怒り感情の抑制
喜怒哀楽の感情のなかで、 「怒り」は最もやっかいなものの一つかもしれない。
過去に受けた、自分にとって理不尽な言動への怒りが、今でもときどきよみがえる。思い出すとイライラ、ピリピリする。その当時、相手に伝えるべき抗議の気持ちも、怒りのあまり理路整然と伝えられないこともしばしばあったなあ・・と。
怒りの感情、古い記憶でも発散した方がいいのだろうか? 私は必ずしもそうとはいえない、と思う。
怒りがなくなると生きていても面白くない。怒りは制御すべき「悪感情」とはいえない。 怒りの感情と上手に付き合うことである。私にとっては、怒りを抱いた相手だからこそ記憶に残っている、と言う人物、人間関係が多い。いい思い出なんて影が薄い、ほとんど忘れている。長い時間が経った今なら「当時はかなり頭に来たが、まあいっか・・」と思えるようになったのだが。
確かに、怒りを制御する訓練が必要かもしれない。
私の場合、瞬発的に生じた怒りに対処するには、
――――――――――――――――――――――――――――――-
?呼吸を整える。 怒りのピークは6秒間とされるが、意識的にゆっくりと深く呼吸するだけでいきり立ちそうになる交感神経の働きが静まる。
?怒りが連鎖しないよう、可能であれば話を整えて早めにその場を離れる。
?さらに気を鎮めるために歩くのがいい。
?早めに不貞寝をする。しかも十分に寝る。目覚めると状況はかなり改善していることが多い。
?惨めになるしだけだし、家庭や場の雰囲気を暗くするからこの間の過程については誰にも話さない。
?落ち着いたら文章化する。感情を論理に置き換える。反省すべきは反省する。
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これで大抵は落ち着く。
上記の方法もネコから学んだ。ネコがどの程度の怒りを感じたか知る由もない
が、喧嘩で不利になった時、高いところに登ろうとして失敗した時などに、突然脈絡もなく毛繕いを始める。これでかなり気持ちが収まるようだ。その後はケロッとしている。
羨ましい限りである。私もこれで行こう(アハハ笑)。
12/6(火)曇り 比較的寒 中通病院外来 飯川病院ボタンティア
1:00起床、データ処理中心。可燃ごみ+資源ごみ枝葉一袋。6:40バス飯川病院。8:45-12:30外来、混雑ないが疲弊。入院費用の証明書発行。12:45飯川病院、疲れ果て微睡1時間余、14:00-19:00ボランティア。入院患者対応なし、19:20通町書店経由帰宅夕食。20:30就寝。歩数計Σ8188歩。
こころと体2022(96) 怒りについて(4) 慢性的怒り感情の抑制
怒りの感情はネガティブなものでなく、自身を守るためのポジティブな、重要な感情の原点の一つである。しかしながら、怒りの感情は自分にとっても、人間関係にとっても決して気分のいいものではない。何とかコントロールしたいものである。
怒り、短気のコントロールのし方とは? 直し方は以下の如くだろうか。私が念頭に置いているのは以下である。
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1視野を広くし、寛容性を養う
視野が狭い事は、生きている世界が狭くなる最大の原因。その為、寛容な心を養い、柔軟な考え方を身につけるには視野を広げる努力、すなわちいろいろな体験をすることが望まれる。しかし、実行は一般に困難。ならば、勉強で間接的視野を広げることも短気を直す方法の一つ。
特に、先人達が残した言葉から学ぶのは近道になる。その際にはきちんとメモを取り、何度も何度も繰り返して読み心に刻み込む必要がある。
小説などを読む、TV、ラジオも新聞もいいだろうがその際もメモを取り繰り返し学ぶことが必要である。
2悪影響を及ぼす人と距離を置いてみる。
人間関係に由来するストレスは、社会的繋がり、家庭での繋がりを含め一般的には回避が困難である。その人の存在だけでも許し難い。それほどのレベルならば嫌な人間関係を少し整理してみるしかないが、友人関係と異なり決してうまくいくとは限らないところが辛い。
3他のこと、例えば趣味の世界に没頭する、スポーツなどで汗を流すのもいい。
職場と家だけという狭い世界で生きていればストレス発散は一般的に困難でイライラを溜めてしまう。その為、そのイライラを発散する自分だけの方法を持つことが短気な性格の直し方の一つ。
4睡眠をたっぷりとる
睡眠不足をはじめ、不規則な生活を送っていれば自然とイライラが募ってしまうもの。その為、ただ睡眠をとるのではなく良質な睡眠をとるように工夫が必要。浅い眠りはむしろはイライラを助長する。
良い睡眠はただベットに入ればいいと言うものではない。睡眠についても学習、工夫が必要である。不可ならカウンセリングなどの医療に頼るのも方法である。
5孤独にならないよう気のおける相手と対話する
怒りと孤独は最悪の危険な組み合わせである。
世の重大犯罪、特に少年事件、若年者の事件は些細な怒りがスタートになっているが、それだけでは犯罪までは至らない。孤独は怒りを恨みにまで成長させる。
ネットを通じた友人関係は、一般的に助けにならない。
6ネコと話す、スキンシップする
私の場合の怒り感情の最大の癒しはネコとの対話、スキンシップである。小学校から高校まで13年間一緒に過ごした初代のネコには本当に助けられた。ここ30年は再びネコ達と同居しているが、大いに助けられている。
話しかけても返事がないのが癒しになる。熟睡しているネコの手を握っているだけでも救われる。
(今いるネコたち このほかにさらに2匹)
12/5(月)曇り時々晴れ 健康クリニックドック 午後飯川病院
2:10起床、歩行はできるが左膝がかなり痛い。文献・新聞チェック、読書。7:30昨日の転倒で歩くのは困難、家内に頼ん同乗し飯川まで。9:00-11:20健康クリニックドック、クリニックまでは歩けた。ドック15名、結果判断15名分。11:20飯川病院、11:30明和会本部スタッフ来訪飯川病院の今後について打ち合わせ。午後微睡など。14:00-18:45勤務、15:00入院患者対応。19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ4492歩。
こころと体2022(95) 怒りについて(3) 怒りの要因
私は人の感情や心の動きに関して興味を深く感じている。
その際、万人に共通な一般論もいいが他人の心はわかるわけもないから、自分の感情や心の動き素材として考察する。
人間には感情がある。もちろん動物にも一部共通する感情はある。その最たるものは怒りであろう。怒りの感情はネガティブなものでなく、自身を守るためのポジティブな、重要な原点に位置する。
今まで「いじめ」「差別」「ひきこもり」などについて考察してきたが、「差別」「怒りと恨み」の感情は人間にとって誰にでもある当たり前の感情である。精神的発達の段階で「自己のアイデンティティが確立した結果」であり、生きていくのに必須な感情である。怒りは他者の排除につながる一方で、生きるためのエネルギーの源にもなる。従って、差別感やいじめなどは人がいる限り決してなくならない。その視点に立って対策をしなければ解決しない。
人とは比較できないが、私は「怒りと恨みの感情を抱きやすい方だ」と思う。しかもしつこい。
私が幼少のころ、父が「自分は執念深い男だ・・」と言っていたし、父の実印の外枠には蛇がデザインされていた。その影響なのか性格の遺伝なのか、私はしつこく、恨みの記憶はいつまでも忘れない。私は小学生の時に味わった屈辱を始めとして、最近まで忘れられない事象が数多く積み重なっている。
それと共に、いや、それ以上に不快、かつ、自分を許し難いのは、そんな気持ちを隠して相手の人と一見何事もなかったように付き合ってきたことである。
私は現役引退後はひきこもり状態にある、と言い、他人との付き合いは絶っている。深刻な悩みを抱えてひきこもっている方々とは比較できないほど甘い状態であるが、その背景の一つに怒り、恨みの記憶を眼前で再現したくないからである。
この「怒り」の感情はいろいろなレベルの仕返し、報復、復讐に結びつきやすい。私は怒りの感情、記憶を自分の心の中にうまく押し留めてきたが、心理的に変な歪みの元になっている。
怒りを感じやすい状態、短気になる原因とは? 簡単に考察する。
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1遺伝
子どもの性格の約50%が遺伝子によっているとされる。しかし、性格の半分以上はほかの要素によって形成されるということ。父は「自分は執念深い男だ・・」と言っていたのを覚えているが、私もその素因を受け継いでいると思う。
2環境因子
人格の土台はだいたい3歳くらいに形成され、10歳くらいまでに確定するといわれている。その頃の環境因子といえば家庭内の状況、特に両親との関係である。
親の養育態度は子供の人格形成に深く影響する。例えば、父親や母親が短気なら子供も似たような性格になる。 虐待を受けた子供は成人になってDV事件を起こしたり、自分の子供を虐待する素因になる。
3身体心理的状況
身体に不調があり心に余裕がなければ反応はより敏感、短気になる。睡眠不足も重要な因子となる。
4社会的、経済的要因
社会的、経済的要因、差別感などを抱いている場合。
5強すぎる道徳心
常に正論を吐く。寛容な心に乏しい。マナーを守れない人を絶対に許せない、など。道徳心に関しては少し柔軟な考えを持つ事も必要。
6などなど
12/4(日)寒波、降雨 飯川病院日直 外来レセプトチェック
1:15起床、読書など。8:30回診出勤する家内に同乗飯川病院、9:00日直業務、新聞チェック+入力、微睡、12:00検食、14:00外来レセプトチェック、電子化。微睡。湯沸かし持ったまま足元狂い布団汚す。助手さんに交換依頼。19:15帰宅、夕食。21:00就寝。 歩数計Σ4203歩。昨年転倒第1回目。
こころと体2022(94) 怒りについて(2) 怒りとは何か
怒りは、人間の基本的な感情の一つで、様々な要因・理由で起きる。
怒りは「危険にさらされている」という意識・認識に起因している。その場合の「危険」というのは、身体的なこと、有形なことがらに限らず、自尊心や名誉などの無形のことがらまで含まれる。
怒りの原因は、年齢層ごとに異なる。幼少期は身体的なものが中心であるが、青年期や大人になると、怒りの要因は社会的なもの、人間関係に由来するようになってくる。大人では例えば、権利の剥奪、他人からの不承認、いつわり・欺瞞などといったものが怒りの要因となる。
怒りは期待した反応が得られないとき、理不尽な対応を受けたとき、そして気持ちに余裕がないときに喚起されやすい。
怒りの感情は、原因が意味を持つのではなく、本人の受け止め方やその時の心理状況によって決まる。同じような出来事に遭遇しても、それに対する反応の仕方は人それぞれ異なる。怒りという感情を生成しているのは、怒りを感じる本人自身の心の準備状態である。
私は決して短気ではない、と思う。
むしろ怒りの立ち上がりは鈍い方だ、と思う。自分の自己判断ではそうであるが、より客観的にはどう考えるべきなのか。
某心理学者は短気な人の特徴として以下のような項目を挙げている。
それを指標にして自己評価をしてみる。
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1:プライドが高く、切れやすい (プライドは中等度か。むしろ落ち込みやすい)
2:少しでも不快感を感じると即座に反応する (私は鈍いのか、即座の反応は皆無に近い)
3:細かく、理屈っぽい (自身はそうだが、他人の前では発揮することはない)
4:自分を大きく見せたがる (若干その傾向があるが、有りのままでいい)
5:不平不満が多い (無い訳ではないが、それほどない)
6:熱しやすく冷めやすい (熱し難く、冷め難い、しつこい)
7:自分が一番かわいいと思っている (いいえ)
8:自分の考えが常に正しいと思っている (いいえ いまだに修行中と謙虚)
9:自分抜きで話が進む事を嫌う (別に構わん)
10:周囲の自分の評価が気になる (比較的気になる方だ、と思う)
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上記から見て私は短気な方ではない、と今回再確認できた。
12/3(土)終日小雪混じりの雨 飯川病院日直
1:45起床。文献検索、徒然他何時もと同じ。データ整理中心。8:30回診出勤する家内に同乗飯川病院、日直業務、新聞チェック+入力、微睡、12:00検食、13:30降雨の合間を縫ってダリアの球根を掘り出そうと長崎屋古書店経由帰宅10冊ほど購入、されどダリア処理は降雨で不可であった。プリウスシフトレバーが走行中にニュートラルに戻る現象に対し異物排除、これで解決か??読書、微睡。19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ4899歩。
こころと体2022(93) 怒りについて(1) 私は短気ではない
最近、心理学関連、哲学、宗教の書籍文献を読む機会が増えてきた。
私は自己肯定感が乏しく、ウソを重ねて他人に迎合してきた。この弱さは私の生きてきた過程で大きなコンプレックスの一つになっている。自分の「ネガティブ」な感情について改めてじっくり考えることの意義は小さくない。
この年になってから、今更そんなことを考えて何になる??と言う考えもあるのだが、自分の人生を振り返ってみるのにとても面白いのだ。私は、他人の気持ちなど始めからわかるわけがない、と言う前提に立つ。検討の対象が自分であることだからこそいろいろなことが分かってくる。
人間、年をとると怒りっぽくなるといわれている。確かにそのとおりだろう。年々、腹立たしいことが増えていく。見るもの聞くもの、腹の立つことばかり、と言うよりは「納得できないこと」ばかりなのだ。
ただし、私の怒りの対象は自分よりより強く、より特権階級にある人間に限られる。弱い立場の人間にはほとんど怒りを感じない。弱い立場の人の怒りについては理解しようと努める。
要するに、年をとると怒りっぽくなるのは自分の立場が徐々に小さくなってきたことの表れ、とも言い得る。
すぐに怒る短気な人の心理状態はどうなっているのだろうか?
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?短気な人は実力がないのに、軽くあしらわれ、馬鹿にされることに潜在的恐怖感がある。だから、得られた特権を用いて人を威圧する事で自己防衛している。
?何でも人のせいにする。何か不都合な事があるとすべては自分以外に原因があるという考えを持っている人が多い。
?短気な人というのは、怒るのが癖になっていて怒るきっかけが自分でもわからなくなっていることが多い。
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上記の3項目を自分に当てはめみていずれも当てはまらない、と自己評価している。だから、私は短気な人間とは思わない。
私は何かに直面した時も、激しく、感情的に怒ることは少なく、理性的に捉え直して怒る傾向がある。
私の怒りの気持ちはブログの中で表現することでより論理的になり、その過程で自分が癒されていく。怒りは一般的に時間と共に収まっていく。ただそれを待つよりも積極的に表現するのが望ましいと思う。ただ表現する方はいいのであるが表現された方は新たな悩みを抱えるかもしれない。
ただ、私のブログは自分のために記述しているのであって他人には迷惑になることなどあり得ないと思っている
12/2(金)曇り小雨など 大曲外来休診 飯川病院ボランティア
1:45起床。積雪数cm、初雪にしては積雪多し。文献検索、読書、医学文献読み。靴はウオーキングから防寒靴に。6:00家庭ゴミ+柿の木の枝の袋収集所に。一輪車は難しかった。家人に送られ10;30歯科、バス待ちは30分ほど、寒かった。秋田駅でアキカにチャージ。13:00飯川病院ボランティア。患者対応なし、微睡、読書。19:30帰宅。21:00就寝。歩数計Σ8262歩。昨年はまだ積雪なかった。
師走2022(2)師走雑感 心身が求めるままに、ズルして過ごしたい
「出来るだけズルしたい」と気持ちを綴ったが、終活のために切断した柿の木の幹や枝葉の細断、廃棄作業に昨日までかかった。雪が降るまでに何とか済ませたかったからで多少焦って作業した。2週間かかった。「出来るだけズルしたい」と言いう気持ちに早速反してしまった。
もう一つ残っているのはダリアの球根堀である。雪が降るまでに何とか済ませたかったが果たせなかった。雪の状況を見ながら出来るだけ早くやらねばならない。この作業までは「出来るだけズルしたい」と言う気持ちは諦めなくてはならない。
その後は読書に集中したい。私は「出来るだけズルする」ことが多分最高の贅沢になるだろう、と楽しみにしている。
ただ、読書は運動不足になる。高齢者の運動不足は重大な結果を生みうる。内臓疾患でコケるのはやむを得ないが、四肢機能低下で自活できなくなれば人様に迷惑をかける。「出来るだけズル」しないで運動機能を維持したい。
最近、心理学関連、哲学、宗教の書籍文献を読む機会が増えてきた。自分の「ネガティブ」な感情について考えるためである。私は自己肯定感が乏しく、ウソを重ねて他人に迎合してきた。厳しい弱肉強食の世界に投げ込まれたら生きてはいれなかった。たまたま恵まれた世界で生きれたからなんとかしがみつけた。この弱さもコンプレックスの一つになっている。
私も大なり小なり五欲に追い立てられてきた。チャチなレベルであるが人間の五欲から逃れられずミニ悪行??を重ねてきた。
私の行為を具体的に明かすことはないだろうが、自らの過去を反省し、現役引退を機会に「終わった人」と、小さくなって生きている。
家内には一生かけて付き合ってもらった。感謝である。信頼している。「なんで、50年も同じ屋根の下で、暮らせたのだろう?」そんな小文がどっかにあった。
私と一緒になって失ったものは小さくなかろうが、もう今更どうしてあげることもできない。良き人生を纏うしてもらいたい、と思っている。
そのために、私は「寛容」・「忍耐」・「奉仕」に徹して今後も支えていく。ボランティアとして彼女の仕事を手伝っているが、私への評価は低い。「外来には出したくない、患者が減るから」、「病棟は任せられない、患者が死ぬから・・・」と手厳しい。
私は彼女が言うほどひどい、役立たずの人間ではない。私にもプライドが残っている。それが私を支えているが、口に出すことは怖い。
長年連れ添った同志であるが、まだ駆け引きは続く。
年の暮れになると、人生の晩年を迎えると、いつも同じ思いをくり返している。私は進歩が乏しい。
12/1(木)秋田市に初雪 終日小雪 午後飯川病院勤務 インフワクチン接種担当
1:20起床、新聞電子化。医学文献読み。午前は防寒対策。最近は寒い、バス待ち時の寒さに備え、衣服関連の冬支度。上は作業服からスキーウエアに。薄手のサマーセーターから毛糸のトックリセーターに、ズボンは薄手の作業服のまま。柿の木枝葉処理終了。右大腿屈筋に突然疼痛発生、いわゆる肉離れ?? 11;50バス、飯川病院。読書、文献読み、微睡。14:00勤務、インフワクチン接種。新聞チェック、入力。文献読書。積雪数cm滑る。19:30帰宅。夕食、20:20就眠。歩数計Σ9475歩。
師走2022 (1)師走雑感 出来るだけズルしたい 心身共にゆったりと過ごしたい
ついに師走となった。早いものだ。2022年を迎えてから早くも11ケ月経過した。
「法師が忙しく、東西に走り回る」からこの月を師走と言った。年の暮れの慌ただしさを絡めて、12月の異称として親しまれている。ただ、街中で僧侶を見かけることはない。
歳とともに時間が過ぎるのが早くなった。自身の体内時計が遅くなって物理的時間に追いつかなくなったため時間が過ぎるのが早く感じるのだ。例えて言えば新幹線から鈍行に乗り換えた様なもの。時間だけかかって時間的余力を失うから、焦るのだ。
すべての動作が遅くなっている。とりわけ歩く速度が遅くなっている。
そのため一層忙しく感じるのだが「忙」は「心を亡くすこと」。昔の人はよくぞ相応しい文字を創ったものだ。それから見たら現代人などなんでも横文字化である。
最近、視力障害を「アイフレール」と呼ぶそうだが、視力障害ならわかるが、これではなんだかわからない。日本語の真の価値に気づかず、なんでも横文字化する安易な医師達もバカだが、すぐ擦り寄ってくる無批判なメディアもバカである。
ここ数年、業務から大幅に解放され、かなり自分を取り戻している。そうなると新しく見えてくる分野が広くなる。意外と自分は「実は勤勉でなかったのだ」と思い直している。私は忙しさに振り回されて「自分を見失っていた」、と思う。
私は師走の慌ただしさが好きでない。私自身は淡々としているのだが、師走になると世の中が喧騒になってくる。
通勤路のイルミネーション、商店街のクリスマスセール、お歳暮セール、新聞とじ込み広告も目や耳にウルサい。半ば親切、半ば脅迫である。
私は歳暮など、意味の無い物品のやり取りは嫌いである。嬉しさよりも負担感で傷つく。私は頂き物があれば必ずハガキで礼状を出すがそれも面倒である。ただ、経済的活力の維持は社会にとって生物の「いのち」に劣らず重要であることがこのCOVID-19禍で示された。だから、私は御託を言わずに静かに見守っている。
私も後期高齢者に入った。体調はそう悪くはないが加齢に由来する小さな不具合はある。だから、今年はできるだけ心身に相談し、無理せずに、休息をとりながら生活するよう心がけている。
今後は「心身」の求めに沿って「出来るだけズルする、ゆったりと過ごす」と思っている。本来ズルというのは「より少ない努力で大きな利益を得ること」なので「ズルい」のであるが、私のいうズルはなんら人に迷惑かけないチャチなものだ。「自分の気持ちを緩めるだけで、人に迷惑をかけない。」このチャチさがいい。
本日、秋田市に初雪が降った。
初雪の割には結構な量が降った。一気に除雪の季節がきた。気持ちが焦る。
子規の歌に「いくたびも雪の深さを尋ねけり」、と言うのがある。私も何度も外を見て積雪の状態を確かめた。
過去には「除雪するぞ、やるぞ」の気持ちで何度も確かめたのであるが、近年は「どこまで除雪しないで済ませられるのか」である。「ズルしたい」、「ズル出来ないか」の気持ち優先。
私はより素直になった。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |