徒然日記
2022年11月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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11/30(水)曇り寒い 午後飯川病院 COVID-19ワクチン担当
1:00起床、新聞・文献読み他諸々。ネコの世話、給餌。8:30柿の枝処理、かなり進んだが途中で転倒、農具で危なかったが危機一髪無事、左臀部痛発生。里芋収穫終了。11:50バス飯川病院。14:00勤務、明和会より4月以降の就業についての打診あり。私にとっては好条件提示される。COVID-19ワクチン担当。以降座学。19:15帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計11345歩。 昨年Fit冬タイヤ購入。

裁判記録廃棄(3) 記録廃棄、隠蔽工作は日本的土壌??現在にも通じている
 記録廃棄、隠蔽工作は日本的土壌ではないかと私は思っている。

 私は歴史に疎いが昭和以降の歴史は力を入れて勉強している。その中で一貫して感じるのは記録を残すという土壌の欠如である。

 その際たるものが第二次世界大戦関連の重要記録、機密資料の廃棄である。開戦に至る理由を示す公的な記録は少ない。大本営発の国民向けのニュースやプロパガンダ文書、陸海軍の重要な戦略、海戦等の記録も少ない。

 終戦間際には巨大潜水空母「イ401」、人間魚雷「桜花」他の各種の特攻兵器、原爆研究、関東軍731部隊による細菌兵器なども研究されていたが、敗戦が濃厚になった時点から軍中枢部の指示で資料が悉く焼却されてしまった。
 終戦工作の記録も少ない。

 そのルーツは自分らの保身のためと思われるが、このことによって我が国の軍部の思考過程が不明になってしまった。

 この記録廃棄過程は国の歴史に関与していた重鎮たちの、国に対する、国民に対する責任感の欠如であり、歴史を有耶無耶にした重大な背任行為である。

 このルーツは政治、経済社会、日本の重大事件の際の議事録の不備、廃棄、隠蔽工作等に繋がっていく。

 国力としての歴史を残す記録力は重要である。
 地震、津波、原発事故の「トリプル事件」とも表現される東日本大震災と東京電力福島第一原発事故は、世界史的に見ても未曽有の出来事なのに、事故対応の中枢である政府の原子力災害対策本部会合の議事録が残されていなかった。

 片や、発生当初から多くの専門家を送り込み、日本を支援した米国。
 米原子力規制委員会は事故発生から10日間の部内議論を記録した約3千ページの記録を開示した。その中には炉心溶融が早くから予見され、事態封じ込めのための即時注水確保をめぐる「水、水、水」と、議論が生々しく再現されているという。

 日本は建国2000年余を誇っている。一方、たかだか200年余りの歴史しかない米国だが、世界有数の「歴史大国」と呼んでいい。 それは国の歩みの記録の厚さに示される。
 
 沖縄返還が決まった1998年の日米首脳会談にる外交交渉、1974年にニクソン大統領が辞任に追い込まれたウォーターゲート事件の際にはホワイトハウスでは録音テープが淡々と回り続げ、次代の財産となる史料が残され続けた。

 公文書管理をめぐっても、秘密交渉に関する外交文書を平気で廃棄してしまう日本とは大違いである。
 米国務省には歴史家のオフィスがあり、記録の専門家が一つでも多くの資料を記録し、時期が来たら開示しようと、関係省庁と交渉まで行う。

 歴史を残す作業は政策検証の重要な機会であり、民主主義の根幹をなす。そし
て、その国に対する内外の信頼を高め、「ソフトパワー」としての国力に結び付く。

 日本の政権中枢の議論が満足に記録化されていないため、米国の解禁文書によって自国の史実を初めて目にするという悲哀は耐え難いものがある。

 歴史に敏感とは思えない日本の政治家・官僚たちには、歴史の私物化、すなわち盗人と言いたい。森友事件に関する資料の廃棄、隠蔽工作についも反省してもらいたい。

 同時に、今回の裁判資料の廃棄の意味を肝に銘じてもらいたい。

 11/29(火)曇り午後から降雨 中通病院外来 飯川病院ボランティア 
1:30起床、文献・新聞など。録音データ整理。5:20可燃ごみ、資源ごみ一袋集積所に。6:40バス飯川病院。新聞スクラップ。8:45-13:00中通病院外来。微睡、14:00飯川病院ボランティアに。新聞そのほか文献入力。家内弥高にて講演受講。20:45帰宅、夕食、21:50就寝。歩数計Σ7455歩。

裁判記録廃棄(2) 記録廃棄は歴史に逆らう重大背任行為 司法関係者の良識を疑う(2) 
 裁判記録の特別保存の対象例として「全国的に社会の耳目を集めた」、「少年事件に関する調査研究の参考資料になる」などが挙げられる。最高裁が1992年の通達で示した。最終判断は各家裁の所長に委ねられている。
 この通達自体が具体性を欠いていることが問題の一つである。事件ごとに対応がまちまちである。

 ?2000年に17歳少年が起こした西鉄高速バス乗っ取り事件(佐賀家裁)などは残されていた。

 ?少年が小学生5人を襲い、うち2人を殺害した神戸の事件は、刑罰の対象年齢を「16歳以上」から「14歳以上」に引き下げた少年法改正のきっかけになった事件の一つだった。歴史的資料であり、当然特別保存されるべきだった。

 神戸家裁、最高裁が廃棄の経緯の調査に否定的なのは疑問。
 誰がどんな理由で廃棄の判断をしたのか、どのような手続きを取ったのかなどを検証する必要がある。一部でも写しを保管している可能性がある警察や検察、弁護士の協力を得て、復元に努めることは当然である。

 特別保存の運用が適切だったかどうか、最高裁は有識者委員会で検証する方針、という。裁判所にある全ての記録の保存の在り方についても意見を聞き、今後の方針を決めるという。こんなことも自分たちでは決められないのか??
 こんなレベルで最高裁は判決の最終裁断を下していたのか??ならば、最高裁が判決を出す前に事前に有識者の意見を聞いてはどうか。

 私は国内の重大事件の資料を収集している。少年事件も然りである。
 少年事件は少年の社会復帰を重視する立場で非公開で、原則として事件記録の閲覧はできない。だから少年事件の情報は限られる。
 犯人が少年であった場合には遺族にはほとんど情報が届かない。ツンボ桟敷に置かれる。したがって、少年による事件の被害者及びその家族は二重、三重に苦しみを味わうことになる。加害者の人権はかなり守られているが被害者、被害者家族の人権はほとんど無視されている。

 確かに、復帰後に加害者の個人情報が暴かれることはあってはならない。それは理解できるが、犯人の更生は一生かかっておこなわれなければならない。適切な経過を辿っているかは裁判所の責任でフォローすべきである。

 事件は判決が出た時点で終了してはいない。裁判所は最終判決が出ると「一件落着」扱いするのであろうが、「事件は生きている」し、「関係者も生きている」、「事件の原因、要因になった社会も生きている」のだ。

 学術的な研究などを通じ将来の社会に資する可能性は守るべきだ。

 私は司法関係者の歴史観、良識、責任感を疑いたい。


11/28(月)曇り 健康クリニック 飯川病院
 1:15起床。文献、蓄積データ処理。徒然。6:40バス飯川病院、新聞チェック、9:00-11:30健康クリニックドック13名+結果判定14名。11:45飯川病院。微睡ほか。14:00-19:30勤務。入院患者対応。リハビリ外出、バス長崎や、古書店17冊購入、Web勉強会:帯状疱疹。患者不調、20:30帰宅、夕食、21:40就寝。歩数計9382歩。

裁判記録廃棄(1) 記録廃棄は歴史に逆らう重大背任行為 司法関係者の良識を疑う 
 10月下旬、私にとってもショックな記事が新聞紙上に掲載された。

 1997年に発生した神戸市の連続児童殺傷事件で、逮捕された当時14歳の酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年に関する事件記録を神戸家裁が廃棄していた、という記事である。

 各地の家裁で保存されている複数の少年事件の、少年審判の処分決定書や捜査書類などの事件記録を廃棄していたことが10月2日各家裁への取材で分かった。各家裁は廃棄の理由を「不明」や「調査中」などと説明。
 最高裁は調査をしない方針。

 廃棄が判明した事件は、
?1997年神戸市の連続児童殺傷事件、
?2000年愛知豊川夫婦殺傷事件、
?2003年長崎市で4歳男児がビルから突き落とされた誘拐殺人事件、
?2004年長崎県佐世保市で2004年小学6年の女児が同級生の女児に殺害された事件。

 少年事件の記録は少年が26歳になるまでの保存を規定している。だが、史料的価値の高い記録は期間満了後も保存しなければならず、25歳以降も事実上永久保の殺人存する「特別保存」を定めている。

 廃棄は2008年から19年の間だったと考えられる。
 最高裁は廃棄事件の調査には否定的な姿勢を示した。

 最高裁の内規の運用を定めた1999年の通達は、特別保存の対象例として以下を挙げている。
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@世相を反映した事件で史料的価値が高いもの
A全国的に社会の耳目を集めた事件
B 少年事件に関する調査研究の重要な参考資料になる事件など
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 各地の家裁が重大な少年事件記録を廃棄していた問題は、事件の歴史的な重要性や記録の史料的価値の著しい軽視である。本来、廃棄の経緯を検証して復元の可能性を探るべき家裁や最高裁が調査に消極的なのは、なぜなのだろうか??

 特に神戸の連続児童殺傷事件は子ども2人が殺害された結果の重大性にとどまらず、事件の残虐さや加害少年が14歳だった点が社会に与えた衝撃も大きく、現在につながる少年への厳罰化の転換点と位置付けられる。

 記録には、加害少年が当時の捜査で語った供述調書や、心理的な状態を記録した精神鑑定書が含まれていた可能性が高い。廃棄されたのは少年審判の処分決定書や捜査機関が作成した供述調書、実況見分調書などとされる。大学教授らの精神鑑定書も含まれるという。
 今後同様の事件が起きないようにしていくためには、当時の記録は出発点となるべき一次的資料だった。

 この事件の遺族が憤りのコメントを出した。当然である。
 少年事件の記録は通常閲覧できない。記録さえ存在すれば被害者の権利拡大などに伴って将来的に接することができた可能性は残されていた。その機会を事実上完全に失わせた点で、誤った判断である。

 犯罪の記録は同様の重大事案の防止を考える上でも参考となる資料で、公共の財産とも言える。廃棄はその価値を著しく軽視する行為であり、責任は極めて重い。歴史は生きているのだ。


11/27(日)曇りのち快晴 
1:30起床、文献画像データ処理。画像整理多数。8:30-11:50主として柿の木の枝処理。袋詰め。12:00ニュース、のど自慢、新聞チェック、微睡、読書、15:27バス、通町。徒歩千秋公園コイに餌。16:30飯川病院、新聞、文献入力、読書。19:00帰宅、夕食。20:30就寝。歩数計Σ11311。タートルネックセーター購入、一昨年スキーウエア準備。

音楽談議2022(12) 童謡の魅力(4) 幼児教育、人間形成にも深い影響
 童謡の「ゾウさん」の簡素な言葉でつづられた詩は実に深い。
 作者のまどみちお氏はかつてインタビューで「子ゾウは「おはながながいのね」と言われて、ほめられたかのように喜んで歌っている、「みんな違っていることは素晴らしいことだ」と言っている。金子みすずの「みんな違って、それでいい」という詩も同様である。
 違った生き物に人と同じ命の重さを意識したまど氏の人間性が染みこんでいる。違っているものも慈しむ心、共生の心は人間教育の基礎である。

 童謡には、何度も何度も歌うことで詩の意味を体に染み込ませていく力がある。加えて、家族とか保育園の友達とで一緒に歌うことで感動と共感の場面をつくり、人と人との関係性を育む。子供の能力は童謡を聞き、歌うことで、普段の遊びとは違った独特の時問経験を通し、豊かで柔らかな感情、すなわち人間性の基礎を身に付ける。

 いじめ、不登校、 引きこもり、コミュニケーション下手などさまざまな問題の一部は、人間の土台づくりが不十分なために発せられるサインのように思える。豊かな感性と情緒を磨き上げる人間形成に不可欠な家庭教育や幼児教育について、あらためて議論する必要があるように思う。

 人間教育の基礎となる親と子の関係や児童と教師との関係に、精神的な、あるいは物理的なゆとりがどの程度まであるのだろう。

 昔の家庭環境は教育には良かった・・・、もう歴史が戻ることがないから賛美してもしょうがないが、TVが普及しなかった時代、夕食は一家団欒の場であった。上座には父親または家長が座り話題の中心を担って家庭内の調整をしていた。
 TVの普及によって父親の座は失われた。話題は各家庭の諸問題から、より普遍的な話題になっていった。娯楽番組を見ながら夕食を摂る家庭も少なくないようである。

 TVの普及が家庭教育の有り様に一石を投じたのは確かであろう。やがて家族の時代から、家庭の中でも個室化、個人の時代に推移した。

 時代の移り変わりとともに時間の推移はスピード感を高めていった。
 親も教育者も慌ただしく駆けずり回り、子どもと向き合う時間さえ失いかけている今、大人や社会の鏡ともいわれる子どもたちの心もセカセカ、ギスギスしているに違いない。

 この近年の文明・文化の変遷はあまりにも早い。古い概念で育った大正・昭和時代の人間にとって個の時代はなかなか理解できない。時代に取り残された世代である。同じことは子どもの世代にも言いうる。

 童謡を歌い感動を味わう、あのゆったりとした独特な時間が失われてしまった。
 子どもには、童謡を歌うという独特の時間の中で心を震わせ、感動をじっくりと身体に染みこませる時間が必要である。童謡にはそんな力がある。

 子どもには子どもの時間が必要なのだ。
(本稿の論旨の一部は秋田魁新聞月曜論壇、秋田市大森山動物園園長小松氏の記事を参考にさせていただいた)

11/26(土) 曇り午後降雨雷鳴不安定 
 1:00起床、新聞文献チェックなどいつものごとく。8:30柿の枝は処理。正午過ぎ激しい嵐降雨雷鳴。午後飯川病院ハイビスカス対応延期に。読書中心、16:00新聞チェック。読書。19:00夕食、20:30就眠。Σ8979歩。

音楽談議2022(11) 童歌、唱歌、ラジオ歌謡の魅力(3)
次に挙げなければならないのは戦後の「ラジオ歌謡」である。
 唱歌や童謡は戦時下世相を反映してしまった。
 ラジオ歌謡は荒廃した日本人の心に夢と希望を与えようと1946-62年に放送された歌番組の名称であるが、今はこの番組で取り上げられた800曲近い歌曲を指す。
 ラジオ歌謡には私も好きな良い曲が多い。ラジオ歌謡は日本歌謡史に燦然と輝く作品群である。

 第1作は1946年の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、「夏の思い出」、「白い花の咲く頃」、「山の煙」、「森の水車」、「チャペルの鐘」「雪の降る街を」などなど、現在も親しまれている多数の作品が発表された。

 ラジオ歌謡は必ずしも児童に歌ってもらうために作曲されたのではない。しっとりとした情感を大切にした曲が多く、より年長の人々に愛された。

 最近特に感心するのは童謡や唱歌を創る方々、童話を書く方々の感受性についてである。じっくりと聴き、読むと、本当に真から驚いてしまう。世の中がこんなに変わってしまったのに、それらの方々はずいぶんと感性が豊かなままである。

 童歌、童謡や唱歌、童話がどれだけ子供達に受け入れられているのだろうか。
 これらの作品を子供達に提供できるのは身近にいる大人であるが、その大人が興味や感受性を失ってしまっているように思えてならない。

 今はむしろ、これらの童謡や唱歌、童話等は年寄りのために、私のためにあるのだ、とも思っている。

 私は最近幼児返りしているのかもしれない。童謡・唱歌、民話などにいたく興味を感じてきている。

 童歌、童謡・唱歌、民話などには、社会人としての基本的な教訓が沢山含まれているのもいい。
 私の郷里の岩手県には、特に遠野地区には多くの童歌、「むかし、あったずもな」で語り出し、「どんとはれ」で終わる多くの民話が伝えられている。
 私もかつて遠野で語部から直接聞いたが、不思議な雰囲気であった。話の内容が本当か?と思われるものであっても、心の中にスーッと入ってくる。

 家庭内で親とか祖父母達が、幼児期に毎日のように歌って聞かせている童謡、童話は親や祖父母の目を見ながら歌う、語る。そのことが血が通った教育になる。その際、民話や昔話というのは、物事の善悪を直接教えるものではなく、子供達が自分で感じ取れる様な表現になっている事に大きな意味がある。このことで想像力を養い、次いで創造力が養われる。

 安心して眠りにつけることは家族間の信頼感の表れであり、各地の子守歌は眠りへの誘いである。やさしく唄われる子守歌は心の育成に大いに役立ったはず。

 童歌等は日常生活から姿を消して久しい。
 最近の電子的な音や映像の氾濫が、人の成長に最も大事な感性の涵養にどうなのかな?と思ってしまう。

11/25(金)曇り 大曲中通病院外来休診 飯川病院ボランティア  歯の治療
0:30起床、家内のゾンタ業務手伝い。本読み、医学文献チェック。5:30家庭ゴミ集積所に。資源ごみだけ2袋。大曲中通病院外来はCOVID-19関連で閉鎖中。8:30-10:00柿の小枝処理。11:00-11:45佐々木歯科。ついに抜歯逃れられないことに。古書土崎店、長崎屋店訪問。14:00飯川病院ボランティア。19:10帰宅、夕食、20:20就眠。Σ5852歩、風呂場に忘れて半日分だけ積算。

音楽談議2022(10) 童歌、唱歌、童謡、ラジオ歌謡、新民謡の魅力(2)
西洋文化導入後の日本の音楽
 我が国の近代の音楽は明治政府の政策的教育として作られていった。1872年(明治5年)に学制が発布され、小学校の教科書に「唱歌」が記載されたが、この頃日本人による曲は殆どなく、大部分は西洋の曲に日本の詩を、半ば無理矢理当てはめた曲であった。「蛍の光」、「あおげば尊し」、「庭のちぐさ」などである。
 私はこのような日本的叙情を見事に表している曲が、原曲が外国の民謡などであったのか、その所以を長い間知らなかったが、唱歌の歴史を見ると納得できたがそれ以上に見事な「和流化」に驚かされる。

(1)唱歌
 唱歌の定義は「主として明治初期から第2次大戦終了時まで学校教育用作られた歌で、童謡等も含む」とするのが一般的である。その後、作曲された唱歌として「故郷」、「春の小川」、「おぼろ月夜」などがあり、今も広く愛唱され続けている曲も多い。
 私は唱歌は子供のための官製の歌と思っている。

(2)「童謡」
 童謡は子供向けの歌を指すが、一般的には大正後期以降、子供に歌われることを目的に作られた歌曲をのことである。
 明治以降西洋から近代音楽が紹介され、学校教育用に文部省唱歌が多数作られた。これらは情操教育を目的に日本の風景訓話などを歌ったものである。

 童謡の普及に尽力した鈴木三重吉(1882-1936)は、童謡の定義として「子供に向けて創作された芸術的香気の高い歌謡で、芸術味の豊かな、子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけない、これを優しく育む様な歌と曲」とした。
 私は「童謡」は民製の曲と言っていいと思う。

 「童謡」の誕生は大正19年の『カナリヤ」が最初だと言われている。西条八十の詩に秋田出身の成田為三が作曲した曲である。成田為三は「浜辺の歌」や 「赤い鳥小鳥」などが有名であるが、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。秋田県から偉大な作曲家が輩出した事はもっと知られて良い。

 1940年頃を境に唱歌も童謡も戦意高揚、思想統制の道具とされ、「隣組」や「戦争ごっこ」のような戦時童謡と呼ばれる歌が作られた。
 終戦後は、ベビーブームもあって童謡への関心が高まった。「ぞうさん」や「犬のおまわりさん」など、現在でも歌われる多くの歌が作られた。

 童謡は時代とともに考え方が変化したが、現在では「童謡」=「子供の歌」として広くとらえ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など、ジャンルを問わず子供の歌を全て「童謡」と括ってしまう傾向があるようだ。テレビ・アニメの主題歌を童謡に含めることに私は抵抗がある。

 最近は若いお母さん方の関心がうすく、古くからの童謡が家庭で歌われることは少なくなっている、とされる。

 童謡・唱歌を積極的に取り上げている由紀・安田姉妹の活動は意味がある。私も好きでコンサート会場で数回聴いている。懐かしい、ほっと和むような時間が味わえるが、会場には爺婆世代が多く、子連れのお母さん方の姿はとても少ない。

11/24(木)早朝降雨のち晴れ 飯川病院  
2:00起床、本読み、8:00-11:00柿の枝処理。11:50バスで駅、駅から長崎屋。古書店で注文していた書籍7冊受け取り。12:50バス飯川病院病院着,検食。14:00-15;15インフルエンザワクチン対応。ビス以後新聞チェック、入力、読書。家内のゾンタ関連業務手伝う。読書その他、19:15帰宅、夕食、20:30就寝、歩行計10720歩。大曲明日も休診。

音楽談議2022(9) 私は幼児がえり??童歌、唱歌、童謡、ラジオ歌謡、新民謡の魅力

 還暦とは人生の折り返し点と考えられている。
 もうあれから17年も生きた。年を重ねていることの実感もいろいろ感じ取れるが、一方では自分の内的一面は確かに加齢とは逆な方向にターンしたような気がしてならない。

 ここ数年、私は自分の興味の範囲がむしろ広がってきているような妙な充実感と、幼児返りなのか、民話や童話、昔話、童謡や唱歌に対する興味、歴史、人間に対する興味などが明らかに深まってきたと言う実感がある。
 自分自身にある面で幼児性が残っていて、いろんな面でその感覚を楽しんでいたが、何か最近それも高じて来ている様な、なかなか良い感じである。

 最近、童歌、子供の歌などを懐かしく聴いている。
 今はむしろ、これらの童謡や唱歌、童話等は年寄りのために、私のためにあるのだ、とも思っている。
 私は最近幼児返りしているのかもしれない。童謡・唱歌、民話などにいたく興味を感じてきている。

 これを機会に、ちょっと考察してみる。

 世界中で人のいるところに歌のないところはない。
 舌の機能の多彩さは人間の特徴の一つで、咀嚼、嚥下、感覚器、発声にも重要である。

 人間は比較的自由に声をコントロール出来る。さらに感情がある。だから、いろいろな声を出せる。
 人類の発達とともに何時しか声に感情がこもり、一定の気持ちをあらわすための抑揚とかが共通の表現法が決まっていったのだろう。

 さらに、言葉を獲得すると言葉で感情を表現するために一層ふさわしい表現が確立していった。これに原始的な打楽器が併用されたことは容易に想像され、音楽が形成されていった。

 単純な打楽器は8000年ほど前のものが出土しているから、歌の歴史はもっと長い。だから、初期の音楽は声が楽器であり必ず歌が伴っていた。楽器が発達してから声を伴わない音楽も発達した。

 我が国に特有な歌や音楽もそれなりの歴史を踏んで発展したと思われる。
 長く鎖国をしていたために西洋音楽に触れる機会はペリー来日までなかった。

西洋文化以前の日本の音楽
 (1)民謡
 民謡は古代から存在していたと考えられている。民謡の始まりは歓喜を表す叫び声や、仕事の際に節をつけたものと思われる。また、自然崇拝において、神に祈る際に言葉に抑揚つけた。そのようなものが民謡の始まりであると考えられ、これらが歌として今日まで伝わってきた。
 さらに明治時代後期から大正時代にかけてそれぞれの地域の文化の確立のために新しく民謡風の歌が作られた。それらは従来の伝統的な民謡とは区別して「新民謡」と呼ばれている。

 (2)童歌(わらべうた)
 童歌とは、子供が遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌である。伝承童謡、自然童謡ともいう。童歌は、絵描き歌、数え歌、遊びの歌などに分けられる。
 「ちゃつぼ」「かごめかごめ」「はないちもんめ」「とうりゃんせ」「ずいずいずっころばし」「あんたがたどこさ」などは私も歌ったことがあり、聞くごとに懐かしい
思いがする。
11/23(水)勤労感謝の日 曇り  
 1:55起床、本読み、徒然他。文庫本、医学文献、整理。8:50-12:00柿の枝葉の裁断、袋詰め。昼食後微睡、新聞スクラップ、15:00-16:00柿の枝葉の裁断、袋詰め再度。読書。書斎でN響定期公演の録画視聴。グリーグP協奏曲、ニールセン交響曲他。19:00夕食、20:30就寝、歩数計10720歩。

こころと体2022(92) 睡眠(6) 謙虚な日々を送りたい
 私は最近まで睡眠に関する悩みは一切なく睡眠を軽視し、専ぱら覚醒している時の生活にだけ関心があり、いかに時間を有効に使うかについて考えていた。

 最近、この睡眠項目を考察するにあたっていろいろ文献を当たって勉強してみた。結果はとても良かった。多くのことを知り得た。

 毎月23日は語呂合わせで不眠の日なのだそうだ。

 私はいつも睡眠不足状態にあり、どこでも熟睡できた。
 電車やバスに乗るや否や深い眠りに入り、乗り過ごしたことも数多くある。最近もあった。こころと身体2022(26) 私は何者か?(4) 列車を乗り越したが、最高に運がよかった
 大学時代は講義中コックリコックリ大揺れし、顰蹙を買ったことも少なくない。

 早寝早起き、熟睡が私の取り柄の一つで、その結果と思っていた。

 しかし、年を重ねるにつれ、時に体調がすぐれないこともあり、睡眠に関して無関心ではいられないと思い始めた。睡眠障害の人の生活習慣病発病リスクは、ガン、心疾患、脳血管障害、糖尿病、肥満、鬱、認知症などでより高率との結果が出ている。

 総務省統計局の社会生活基本調査では「睡眠時間都道府県ランキング」で秋田県は常に上位。平成23年の調査結果で8時間2分で1位に輝いた。(注)1日当たりの睡眠時間(10歳以上,土日を含む週全体の平均)。調査方法、母集団などは明らかになっていない。

 こんな統計、結果だけ示してなんになる??
 最下位の神奈川県は7時間31分で、この30分間に全都道府県がひしめいている。こんなランキングってどんな意味があるのか私にはわからない。総務省統計局は暇なのだろうが、それ以前に統計の意味を理解しているのか疑問である。現に昨年は国の基幹統計の改ざんがあったではないか。

 秋田県民はなぜ睡眠時間が長いのか?
 ?日照時間が短いから??夜遊びする人が少ないから??美と健康を重視する人が多い?等々と考察している方もいるがあてになりそうもない。

 睡眠時間のランキング上位なのに、健康面でワースト1の項目も多い。この乖離が面白い。健康統計はこんなものである。

 秋田県の平均寿命 男が77.4 歳で46番目、女が85.19歳で45番目となっている。がん罹患率2019は10万人あたり413.8でワーストワン。脳梗塞死亡10万人あたり72.3人でワーストワン。

 最近は子どもの生活が夜型化し、睡眠時間が短くなっているという。 大人の生活リズムと家庭環境の影響が大きい。

 老いて健やかなるこそ「愉快なるかな人生」 である。私は結果的に「愉快な人生」を味わっているが、睡眠という意味では自身を苛んできた。それでも今があることの幸運を嬉しく思う。
 今後は、身体が求める声を聞きながら、余生を大事にしていきたいと思う。

11/22(火)夜半から降雨 中通内科外来 飯川病院ボランティア
 1:30起床、文献整理など。幸い雨が上がった。5:20可燃ゴミと資源ごみ提出、6:40バス飯川病院、新聞チェック、8:45-12:00中通病院内科外来、スムーズ。12:15飯川病院。午睡、15:00寝たきり防止歩行、ミルハス、コイに給餌。バス長崎や古書店訪問、12冊ほど。19:00帰宅、夕食、21:30就寝。歩行計Σ11376歩。

こころと体2022(91) 睡眠(5) 早寝早起きの歪みが睡眠不足として現れた
 早寝すれば、早起きしても寝不足にはならないはずである。
 しかし、私は後期高齢者になった。私のようにam1:00ないし2:00に起床するといった生活が、徐々に新たな歪みをもたらし始めている様だ。おそらく加齢による身体的変化が背景になってストレスに対応でき難くなっているのだろう。

 「睡眠不足症候群」というわかりやすい状態がある。
 私の外来にも、昼間の過剰な眠気を訴える患者さんが少なからずいる。しかし、それらの患者さんは必ずしも、睡眠時無呼吸症候群などの異常状態とは限らない。 単純な「睡眠不足」の場合もある。

 私もこのような状況に陥り始めた。要するに、日中の眠気が徐々に強くなってきている、ということ。昼間に微睡をとる必要が出てきた。

 私は睡眠に関する悩みはない。入眠は実にスムーズ、途中覚醒もない。ただ習慣的に夜間の睡眠時間が6時間前後になっているだけ。

 自身の睡眠不足の状態をESS (エップワース眠気尺度)に当てはめてみる。
 ESSは、1991年にJohn MWによって作成された8項目からなる尺度で、主観的な日中の過度の眠気を判断できる。英国胸部疾患学会のガイドラインで眠気の評価に使用することが推奨されており、世界各国で使われている。

 以下の項目について「うとうとする可能性」の強さを0-3点で評価するもの。私の状態を当てはめてみた。11-15点は予備軍、16点以上は重症、との判定になる。

1. すわって何かを読んでいるとき(新聞、雑誌、本、書類など) 2点
2. すわってテレビを見ているとき             1点
3. 会議、 映画館、劇場などで静かにすわっているとき 2点
4. 乗客として1時間続けて自動車に乗っているとき 3点
5. 午後に横になって、休息をとっているとき 3点
6. すわって人と話しているとき 0点
7. 昼食をとった後 ( 飲酒なし)、 3点
8. すわって手紙や書類などを書いているとき 0点
                          合計14点

 要するに、私は重症により近い「睡眠不足症候群」に相当していた。

 日常的に読書や思考の後で一区切りつくと、急に眠くなる。身体活動の後も同様ですぐに眠くなる。
 それが最も顕著なのは嘱託医として働く中通総合病院の外来担当日である。外来時間は4-6時間と不定であるが外来を終了した途端に強烈な睡魔が襲ってくる。もう何もしたくないない。飯川病院にて1.5時間ほど午睡をとる。

 何10年も続けてきた外来でどうしてこんなに疲弊するのか??
 患者の対話とカルテの電子化の影響であろう。
 私の外来に通院している患者は高齢者が多いがそれなりに不安が強く救いを求めてくる。その診療内容は「常に慰め、時に治療する・・」であるが、これが疲れる。
 この疲弊はカルテの完全電子化以降のような気がする。高齢の医師にとってはカルテの電子化は辛い。ちょっとした入力の誤りでも容赦なく拒絶される。

 私は電子カルテの奴隷となっている。だから疲れるのだ。


11/21(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30起床。文献、蓄積データ処理。徒然。6:40バス飯川病院、新聞、医学論文チェック、9:00-11:30健康クリニックドック14名+結果判定14名分。11:45飯川病院。読書微睡。14:00新聞入力、15:00入院患者対応、文化創造館徒歩。コイに餌、16:30帰院。19:00帰宅、夕食、20:30就寝、歩数計9768歩。

こころと体2022(90) 睡眠(4) 早寝早起きに先人たちは何と言っているか
 早起きについてのことわざ、先人の言葉を集めた。私が知っているのは意外と少ない。早起きの意義を強調しているエッセイなどは数多いのだが。
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?「早起きは三文の徳」(ことわざ)
?「早寝早起き病知らず」(ことわざ)
?「早起きは勤勉ということで人から信頼が得られる」(松下幸之助)
?「早寝早起きは、人を健康、富裕、賢明にする」(ベンジャミン・フランクリン)
?「朝の1時間は、昼の3時間に匹敵するというのは真実です。たとえ労働時間が同じでも、夜遅くまで残業したときと比べて、生産性は格段に向上します」(直江文忠)
?「朝寝は時間の出費である。しかも、これほど高価な出費は他にない」(カーネギー)。
?「早朝一時間を損すれば、終日これを追わねばならぬ」(西洋のことわざ)
?・・・・・・・・・
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 早起きのメリットはいろいろ挙げられるが、
?毎日が充実感であふれる
?自分に自信がつく
?やりたいことに時間が使える、・・・に尽きるだろう。

 早起きのコツもいろいろあるが、結論から言うと「早起きしてまでやりたいことがある」ということ。「やりたいことがある、見つける、作る・・・」のが先である。

 早起きは一定の習慣化するまでは強い克己心を要する。誰でも暖かい布団の中で眠りを貪っていたい、と考える。私もかつてはそうであった。特に、寒い時期には初代のネコといつも同衾していたが、今思っても極楽であった。

 私は受験の頃は典型的な夜型生活であったが、大学入学後は信条として「惰眠は人生の浪費」、と考えて早起きをしていた。そうはいってもせいぜいam5:00頃の起床であった。なにしろ大学の寮は400人も寮生がいて常に喧騒であったが、寮の夜明けは遅い。早起きでできた時間は主として読書に充てた。寮の煩い環境と本を読みたいという目的があったから習慣化できた。

 40歳代後半から病院業務が多忙になってきた。通常の時間設定では処理できなくなったことで次第に起床時間を前倒しにした。結果としてam1:00前後の起床となった。流石にこれが限界であった。この頃は目覚ましタイマーを複数ケ必要であった。約20年はこのパターンで生活を維持した。通常の生活パターンでは業務を消化できない等いう環境があったから習慣化できた。

 ところが、現役を引退して時間の大部分を自分自身のために用いることができるようになって、この早寝早起き習慣こそが自分に最も相応しい生活パターンであり、時間を最も有効に用いる方法であるということに気がついた。

 そもそも、私は常に「より安易な方向に流したい」、「ズルして楽したい」という気持ちがある。そういう私が現役引退後も早起きが継続できているのは、「早起きしてでもやりたいことがある」から継続出来ていると思う。

 「早起きしたいと思うほど、やりたいことが見つけらない」なら早起き生活は維持困難である。早起きが維持できないのは決して意志が弱いのではなく当たり前のことなのだ。
 早起きを継続して、人生を充実させたいと思うのであれば、やりたいことを見つける必要がある。

 私の生活は読書、音楽など充実している。余裕のある時間配分でやりたいことの大部分を味わうことが出来ている。現役引退後は目覚ましなど一切不要で、自発的に起き出すことができる。


11/20(日)晴れ ハイビスカス剪定室内に プリウスシフトレバー点検
 2:00飯川病院で起床、医学論文読み、読書、データ整理など。7:00検食、家内回診に来院、プリウスシフトレバーが自然にニュートラルに戻る不具合あり点検、原因は一本の輪ゴムであった。10:00からハイビスカス剪定し室内に移動。12:00帰宅、NHKのど自慢楽しみ微睡、15:00里芋収穫、柿の木枝処理若干、16:30新聞スクラップ作成、録音整理、読書他。書斎にて音楽関連録画チェック。19:00夕食、20:30就寝、歩数計6130歩。

こころと体2022(89) 睡眠(3) 早寝早起きは本当に健康にいいか??疑問
 早寝早起き、規則正しい生活は健康を保つ大原則なのだ、と誰しもがいう。
 古い諺も多数見られる。

 新人類の歴史は20万年ほどあるのだが、人間の生活は日の出に始まり日没と共に休息するという自然のリズムに合わせていた。自然と共にあることが人間本来の生活パターンであり、健康的な生活なのであろう。もう人間の遺伝子に組み込まれているはずである。

 だが、たかだかこの100年余人工光を手に入れてから、人の生活は次第に夜型に移行し、今日の生活は一部ながら24時間型に移行し、不規則になった。

 多くの人は夜型生活は不健康な生活である、という。本当だろうか。

 朝起床後に太陽の光を浴び、25時間周期と言われる人間の体内時計を太陽の周期と同じ24時間型にリセットすることでより自然に沿った生活を送れるようになるそうだ。だから健康にもいいはずだ、と言われているが、私は疑問に思っている。

 それを端的に、1発で説明するには人間の平均寿命の伸びを見てみればいい。

 人類は非常に短命だった。1900年くらい、いまから120年くらい前、我が国の平均寿命は40歳前後で、戦後になって一気に80歳まで延びた。
 不規則な生活がもたらす個人的なマイナスの影響はあるだろうが、平均寿命の伸びからみて夜型生活に移行しつつある現代人に対して、早寝早起き、規則正しい生活は健康を保つ大原則なのだ、ということはできない。もちろん健康教育的な意味づけはあるだろう。

 私の場合、生活信条から早寝早起きの生活になったわけでなく、多忙な業務をこなすためにやむをえず早寝早起きの生活をせざるを得なかった。私は当時は「こんな異常な生活をしてまで仕事をしなければならないのか??」というジレンマに悩まされ、てストレスと闘っていた。確かに早寝早起きの生活に移行した当初は身体的不快感、めまい不整脈などの不定愁訴に悩んでいた時期でもあった。50代後半には真剣に道を変えることも考えていた。

 しかし、就業環境を変えることができず、私のこの生活パターンに私はいつぞやすっかり適応していった。

 一般的に早寝早起きとはどの程度のことを言うのだろうか。
 早寝早起きを人生訓として薦めている著名人は多いが、その多くはam5:00頃、人によってはam4:00頃の起床を指すことが多いようである。私のようにam1:00ないし2:00に起床して業務処理をするといった方法を薦めている書籍、格言に遭遇したことがない。

 私の生活は一般的な意味での早寝早起きには合致しないようである。
 しかし、現役を退いてから10年以上になるが、現在もこのパターンで生活している。すっかり板に着いてしまった。今はこのパターンを楽しんでいる。

 私は後期高齢者になった。このような。一般の高齢者からずれた生活が、新たな歪みをもたらし始めている。


11/19(土)快晴 飯川病院日当直 
1:20起床。いつもの如く資料整理中心。読書。8:00柿の枝処理、8:45回診にいく家内に同乗飯川病院に。9:00日当直に就く。新聞チェック、入力その他。昼検食後微睡、読書。18:00夕の検食、20:30就寝。歩数計4059歩。

こころと体2022(88) 睡眠(2) 30年ほど前から早寝早起き習慣
 現役の真っ只中は可能な限り21;00時までに帰宅し、21時のNHKニュースを見ながら夕食を摂り、すぐに就眠した。疲れ果ててすぐに入眠でき、am2:00前に起床するのが常であった。

 起床後は入浴などでリラックスし、病院の残業、人間ドックの総合判定、各種の書類など処理し、医師会関連の残務をこなした。am5:00-6:00頃に出勤し、am6:30から病棟回診した。こんな生活が日々のルーティンであった。
 この頃の生活の時間配分は徒然日記の記述で確認できるが、よくもまあこんな生活が出来ていたものだ、と今更ながら驚いている。家族の理解があったから、と若かったから、に尽きる。

 私の早起きの習慣はもともとで従来からam5:00頃には起床していたが、業務が増えるに従って起床時間を徐々に前倒ししていった結果である。

 早起きのメリットは誰にも邪魔されず時間を有効に使えるということ。患者不調の際の電話連絡は避けられないが、それ以外は静寂のなかで過ごすことができた。出勤がこの時間帯だと渋滞など関係なく10数分で病院に到着、am6:30頃からの病棟回診は医師はほとんどおらず、看護師たちは患者の朝の処置で多忙、ほとんどナースセンターにいなかった。当時、入院患者を30−40名ほど担当していたが、パソコンを複数台独り占めし能率的に業務を進めることができた。

 外来はほぼ連日、13:00過ぎ頃まで。これ以降は比較的余裕を持って残務や医師会業務を含め懸案をこなすことがでた。寝不足を補うために時には座位のまま微睡をとることもできた。

 この早寝早起きの習慣は現役を退いた今も続けている。もう30余年になるだろう。今は業務のためでなく100%自分自身のために時間を使っている。早朝の時間は主として読書に当てている。この貴重な時間にはネットやTVは一切見ない。リアルタイムの情報はラジオで得る。ネコたちも遊びに来るのが嬉しい。

 早起き生活の良い点は、誰にも邪魔されず一人で好きなことができること、だから一日が長く感じられ、1日の仕事の効率が良くなること。毎日異なった夜明けの朝の様子を味わえること。デメリットは家族との生活サイクルが少しずれること、 光熱費が増えることなどだろう。

 私の早寝早起きが健康的??これには自信がない。


11/18(金)快晴 大曲中通病院休診 午前か木の枝裁断
1:35起床、徒然他。6:00可燃ゴミ+資源ごみ1袋提出。大曲中通病院COVID-19休診、8:30柿枝処理、自宅で昼食後12:50バス飯川病院着、ボランティア、微睡。家内丁酉会総会、19:00バス帰宅、夕食。20:30就寝。 歩数計Σ12200歩。

こころと体2022(87) 睡眠(1) 若い時は睡眠を軽視してきた
 私の生活の中で時間的に見て1/2-1/4にも相当する大事な睡眠時間について、私は入眠障害がなく、いつでもぐっすり眠られることから、深く考えることなく完全にその意義を無視してきた。

 生活の主眼は眠っていない覚醒時間の使い方のみに関心があり、睡眠の必要性を軽視し、出来るだけ睡眠時間を短くすることに集中してきた。実に多忙であった現役勤務の末期のころは、井の中の蛙的であるが、日本で最も睡眠時間を削って生きている人間の一人と自負してきた。
 そんな時でさえも「何で人間は、私は、眠らなければならないのか??」と考えていた。「睡眠は必要、しかし、だから時間がないのだ・・・」と考えていた。「人生の1/3ほどを眠って過ごすなど、人生の、時間の浪費であり勿体無い・・」と考えていた。

 私がこのような考えになったのは、
―――――――――――――――――――――――――――――――――-
 ?第一は、それほど能力に恵まれていない田舎者の自分が国立大学を目指し、医師になるには並大抵の生活ではだめだ、と自覚していおり「四当五落」という言葉、「4時間しか寝ない人は合格できて、5時間以上寝ている人は不合格に」という言い伝えに沿った準備をしてきたからである。だから、常に寝不足であった。

 ?第二は、幸い医学部に合格した後、比較的時間に余裕ができたので集中的に読書に勤しんだ。その時読んだ岩波100冊の本の中の「フランクリン自伝」の影響で「惰眠は人生の浪費・・・」の記述に心酔したからである。時間に縛られない日もam6:30起床し時間を有効に用いた。だから、常に寝不足であった。

 ?第三は、社会に出た後も睡眠を削る習慣を続けていた。だから、常に寝不足であった。

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 睡眠時間を短くしていたことで身体的異常は特に生じていないが、周辺の人たちからは「どこでもすぐに居眠りする・・・」と言われていたようである。これは自認していた。自分が受身的に、例えば人の話を長々聞かなければならない状況では睡魔によく負けていた。自分が積極的に関わるようは状況では睡魔が襲ってくることもなく何ら問題はなかった。
 
  ところが、最近、特にここ数年くらいであるが、加齢よる各種の不快な症状、視力障害、目眩感や易疲労感、動悸・呼吸困難感や疾患が出るようになったが、身体が私に求めてくる睡眠の様相も大きく変化しつつある。

 短い睡眠時間では意欲の維持が困難になってきた。

11/17(木)曇り時折小雨のち快晴 古書店訪問 飯川病院
 2:00飯川病院で起床、歩数計電池交換、文献処理、徒然などいつものごとし。新聞処理後9:30当直明けなので許可を得て外出、12:30帰院、午睡。新聞入力ほか読書。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計4525歩。明日の大曲COVID-19にて外来休診らしい。

季節の話題2022(29) 我が家の柿の木 渋抜き 干し柿作り
 秋である。味覚の秋。
 今年は嬉しいことに、リンゴ、モモが多数の実をつけた。リンゴは毎週何ケかもぎ取って食べているがそろそろ終了の時期である。農薬散布とか袋掛けとかしないから半数ほどは虫にやられている。それほど美味しいということ。もぎたてのリンゴは市販品では得られない新鮮な硬さと渋さ、甘さが魅力である。

 この時期、熟しはじめたのは柿である。
 リンゴ、モモと同様無農薬無肥料で、陽の光を十分に浴びていい色調になっている。

 柿は渋による自己防衛がしっかりしているからモモやリンゴと異なり何もせずとも虫にやられることはない。ほとんど手がかからない。これも魅力の一つ。

 ただ枝が上方に伸びるため摘果は困難。受け用の網袋をつけた高枝切り鋏で切り取るのであるが、結構袋に受けるのが難しい。また届かない実もあり、一割程度は小鳥たちのために残す。カラスが来れば多少がっかりするが、彼らも必死で生きている。食べてくれればそれなりに嬉しい。

 今年は木そのものを伐採したので全ての実を採った。これで最後になるのでご近所にも差し上げた。

 渋柿なので、焼酎で渋抜き、干し柿を半々ほど作った。前者は1週間ほどで食べられる。楽しみである。後者は3-4週ほどかかる予定。シワシワになっていくのを眺めるのも楽しい。
 柿の皮むきも大変であるが賄いの石井さんにお願いしている。

 我が家では焼酎を用いて渋抜きをする。

(各サイズのジップロック袋が渋抜きに便利である このままそっくり他所に差し上げることもできる)

(勝手口の軒下で風を受けて毎日変化する干し柿 結構重くて吊るすのが大変)

 長く親しんだ樹木も大きくなりすぎると隣家への影響も生じ維持するのが困難になる。次世代に残すことができず終活の対象になる。寂しいが、長い間共に生き、楽しませてくれたことを感謝しつつ、初夏にはけやきの大木に、先日は柿の木に別れを告げた。感謝感謝である。

11/16(水)曇り晴れ温暖 午後飯川病院+当直
1:00起床、新聞・文献読み他諸々。ネコの世話、給餌。9:30柿の枝処理、12:12バスを狙うも遅れて12:50に乗車、13:30飯川病院。14:00勤務、本日はワクチン接種なし。16:00許可を得て外出、千秋公園コイに給餌。長崎や古書店に。数冊購入、17:40病院に戻る。そのまま当直業務に。本日当直予定の医師COVID-19感染で来院できず。18:00検食、20:45就寝。歩数計12848歩。

季節の話題2022(28) 我が家の柿の木 私の終活のために泣く泣く伐採す(2)
 多分、柿に関する記述は今年が最後になると思われるのでやや詳しく記録する。
 11月9日伐採を始めたが柿の木は結構枝葉が多い。枝の処理を進めながらでなければ次の幹を切るわけにはいかない。かつ、柿の木は細かい枝が多くて処理は困難である。田舎にいた頃は簡単に焼却処分ができたのに、今は100倍は困難になった、と悔しい思いである。

(10月20日伐採前の柿の様子 葉が豊かで実はまだ青白い)

(10月27日伐採前の柿の様子 実が色づき始めた)

(11月3日伐採前の柿の様子 実がさらに成熟)

(11月9日伐採前の柿の様子 葉のほとんどが落ち、摘果の時期を迎えた)

(11月9日幹の一部の切断を始めた 今年は切断した枝から摘果したので楽であった)

(11月14日主要な三本の枝が落とされ主幹のみ残った状態 この主幹をどうしようかまだ考慮中)

(裁断処理中の積み上げられた細めの枝 手前は私が考案した枝葉収拾用の道具 これを介して資源ごみ用ビニール袋に詰め、市の資源ゴミとして廃棄するが、細かい枝があるため一層細く裁断しなければうまく詰められない)

11/15(火)曇り降雨 中通病院内科外来 飯川病院ボランティア 
 1:15起床。新聞・文献読みと本読み。6:00可燃ゴミ+庭のゴミ出し。6:40バス飯川病院。8:45ー13:45中通病院外来。書類の処理数件。14:00-18:50飯川病院ボランティア。疲れ果てて微睡。19:15帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計8629歩。

季節の話題2022(27) 我が家の柿の木 私の終活のために泣く泣く伐採す(1)
 私が育った盛岡郊外の自宅には大きな柿の木があり、落葉樹が葉を落としつつある晩秋の青空に、数百個の赤い柿の実が見事な美しさを醸し出した。
 ちょっとした小山に登り、集落を眺めると、稲刈りの終わった田圃に囲まれ散在する住宅の脇には見事な実をたわわにつけた柿の木が必ずあった。
 その晩秋の景色を私は好んでいた。もし私に絵心があれば必ず描いていた、と思う。

 そんなこともあって40年ほど前、現地に小屋(しょうおく)を構えた際に柿の木と栗の木の苗を、そのほかケヤキなどの苗を植えた。以来30数年間、栗と柿は共に秋の味覚を提供してくれた。

 柿は我が家にとっても、貴重な果物でもあった。私は大好きである。落葉し実が顕になって来ると摘果の時期を迎える。
 子供の頃から大人たちに混じり摘み取り作業を手伝った。柿の木は脆い。枝に直接体重をかけることは絶対にしてはならない、ときつく教えられた。

 なぜ柿の樹は枝が脆く実は渋いのか??
 10Kgほどの実をつけた柿の枝が突然ドサッと落ちてくることもある。柿の木には木材特有のしなりで耐える力は乏しい。驚くほど素直に折れる。成熟した実の重さに耐えきれなくなった時に、自身の枝を折って自らを守るのだろう。

 実の渋味は種が成熟する迄の自己防衛である。十分成熟すれば実は甘くなり鳥たちが喜んで啄む。それで種が各所にばら撒かれることになる。

 そんな、私にとって重要な柿の木に今年はアメリカシロヒトリが寄生した。この虫はつぎつぎと樹木に伝播する。だから、我が家だけの問題ではない。さっそく造園業者に依頼して薬剤散布で駆除してことなきを得た。

 そんなこともあって、今年は我が家の庭の一角に柿の木を維持していくことに限界を感じとった。隣家の畑にも葉っぱが落ちるなど迷惑をかけて来たし、いろいろ手がかかる樹木でもあり、次世代には残しておけない・・・。

 終活の一環として柿の木との付き合いを今年で終了する決心をした。

 私は自分で気に入ったものは自分自身で処分したいと考えている。今までは大抵のものはそうしてきた。6月にはケヤキを伐採したがこれは巨木になって私の手に負えないから造園業者に伐採をお願いした。
季節の話題2022(16) 家庭菜園・園芸(9) 終活の一環として樹齢40年のケヤキを伐採

 柿の木は、おそらくは自分で処理できると思われる太さの幹である。
 今回、柿の木の伐採の目的で電動式のチェーンソーを購入した。
 
 (高枝伐採もできる小型軽量のもの。米国YARD社のV-max)
 電動の製品は時代柄充電式が多いがあえて100V仕様のものにした。最大経25cmの伐採ができるという。


11/14(月) 早朝降雨のち快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30起床。文献処理、蓄積データ処理。徒然。雨が若干昇降状態に、隣の畑に落ちた枝の処理。8:15出勤の家内に同乗、飯川病院に。保戸野新橋のコイに給餌。食いつき良好。9:00-11:30健康クリニックドック13名+結果判定14名分。説明一名。12:00飯川病院。新聞、医学論文チェック。微睡。14:00-19:00勤務。入院患者対応若干。15:30-14:45千秋公園堀のコイに給餌するも1匹も現ず。データ整理、19:15帰宅、夕食。 20:45就寝。歩数計8645歩。

季節の話題2022(26) 我が家の紅葉、栗と柿
 この季節は紅葉と実りの時期でもある。我が家の庭の木々も紅葉している。

 紅葉もいい。しかし、栗と柿は秋の身近な食材である。

 (1)栗
 昨年と今年は庭の栗の木にほとんど栗の実がつかなかった。一昨年、ダリアの日照を確保するため春に庭師に依頼し、大幅に枝を切り落としたことが仇になったのだろうと考えた。
 ところが、今年も実が少ない。栗の結実の少なさは我が家だけの現象ではないようだ。近隣の畑にある栗の木も数本観察してみたが同様にほとんど結実していない。
 今年の一定しない天候の推移、寒かったり超暑かったりが、影響したのかもしれない。
 毎年は4-5回は栗ご飯を炊くのであるが、今年は一度も楽しめなかった。

 (2)柿
 秋の果物は数々あり、とても上げきれない。されど、柿は秋を代表する身近な果物の一つと思う。私が柿を代表的として挙げるのは単に果物として存在するだけでなく、私どもの生活の中にとても有用だったからである。
 
 柿は奈良時代に中国から渡来したという。柿は日本人の日常生活と深い関わりを持ってきた。かつては家の周りには柿の木が必ず植えられていた。それだけ食料としても重要な樹木であった。
 柿は他の木の実と比べてはサイズ的にも遜色なく、しかも大量に実った。
 柿は食料として、樹木は家具材として、実、ヘタ、葉は薬として用いられてきた。今でも頑固なしゃっくりを止めるのに柿のヘタを煎じて飲ませる方法は民間療法の中で生きている。

 柿の渋は防水剤、防腐剤になる。和紙に柿渋を塗って防水紙を作った。水回りに用いられる木製品には柿渋を塗りつけることで寿命が延びた、という。
 正月の鏡餅に添えられるのは、今はみかんが主であるが、従来は串柿であった。

 渋柿の渋味は果肉細胞に含まれる可溶性タンニンのためである。渋抜きは、可溶性タンニンを不溶性タンニンにすれば良い。その際、柿には気の毒であるが柿の実の呼吸を止め窒息させればいい。実の中でアセトアルデヒドが発生しタンニンを不溶性に変える。それで渋みがなくなる。

 渋抜きにもさまざまな方法が見られる。ドライアイスで二酸化炭素責めにする方法もある。我が家では焼酎を用い、ビニール袋に密閉して1週間待てば甘くなる。

 干し柿は我が国の代表的ドライフルーツであるが、柿を剥いて干すと外側が乾燥して硬くなるために呼吸が妨げられタンニンが不溶性に変わる。美味しく食べられるし保存が効く。昔は何処の農家も干し柿を作っていた。だから、柿の大木が農村の何処にでもあったのだ。
 柿の木は明らかに減っている。しかも、残っている柿の木もあまり真剣に摘果されていない。色々手がかかるからだろう、市販の菓子を楽しむのもいいが、もっと自然の恵みを味わって見てはいかがか、と思う。 

 柿は日本の文化では甘みの素として重要であった。砂糖がなかった時代の甘味は柿でつけられた。今でも秋野菜を漬ける際に柿の実を入れる地方がある。

 柿の木を見る度に、私は岩手の田舎の秋の様子を思いだす。


11/13(日) 午前曇り正午から降雨 柿の木伐採
1:30起床.読書。微睡など思うがまま。8:00柿の木の最後の枝落とし。チェーンソーの歯が外れ何度か挑戦、隣の畑に落下。昼食、NHKのど自慢後半楽しむ。雨の中枝回収、全部は不可。新聞チェック、読書ほか、書斎のストーブ初点火。音楽関連録画楽しむ。19:00夕食、家内煮魚うまく料理。20:30就寝。歩数計Σ12393歩。

葉梨法相更迭(2) 発言撤回は意味なし 修正ならいいが撤回させてはならない
 葉梨氏は当初、「発言を撤回しない」との考えを示していた。これは正しい。自分の発言に責任を持つ、素晴らしいことだ。政治家なら重要な姿勢である。
 しかしながら、結局は11月10日の参院法務委員会で陳謝し撤回。11日には、過去の会合でも複数回同様の発言をしたことを明らかにして「全て撤回する」とした。

 なかなか非を認めなかった葉梨氏の姿勢は評価したいが、その舌の根も乾かぬうちにケロッと撤回した。説明責任を果たす姿勢からは遠かった。「陳謝、撤回」を安易に認めるから説明責任を果たさなくても済むのだ。発言を修正する機会を与えるべきだ。

 「足で躓く方が舌で躓くよりいい」、哲学者ゼノンの言葉である。
 また「覆水盆に返らず」という言葉もある。
 「綸言(りんげん)汗の如し」というのもある。君主は一度命令として禁止令を出した以上は「撒回することは出来ぬ」ということで、なかったことにするのは不可能である。中国のゼロコロナ政策はこれに近い。

 「撤回」とは一般には、発言・提案など一度公示、提出したものを取りやめること、引っ込めることをいう。法律上は「意思表示を行った者が、ある発言や行為を将来に向かって無効とさせること」を意味するそうだ。

 法律上は撤回すれば本当に無になるのか??元に戻るのか??これは少々難解な問題でよく分からない。本当だろうか??撤回しても無にならないし、元にも戻せない、と私は思う。

 いずれにせよ、発言をしたという事実とその内容自体は消えるわけではない。 
 尤も、情報過多のこの時代、撤回しなくても大衆から忘れられるのは時間の問題だろう。しかし、失言などは多方面で記録され、ほぼ永久に残ることになる。私のファイルには「失言と撤回例」は50件は記録されている。

 麻生副総理兼財務相は失言、撤回の名手である。
 かつて、少子高齢化について「・・・子どもを産まなかった方が悪いんだから」と地元・福岡県内での国政報告会で述べ、野党の批判を受け、麻生氏は「誤解を与えたとすれば、撤回する」といつもと同じように発言を撤回し、一応頭を下げ陳謝した。
 発言も軽いが陳謝の言葉も軽い。発言を非難して陳謝させ、頭を下げさるのはもっとも安易な解決法である。麻生氏の政治理念を機会を与えて十分語らせたらいい。

 普段の生活で何げなく人と交わす言葉も重要。
 話した本人は忘れてもその言葉はどこかで消えずに残っている。特に女性の記憶力には舌を巻くこともある。私自身は歩行中つまずいて転ばないように用心しているが、過去に舌でつまずいた例、躓きそうになった例には事欠かない。だから、それを恥じて准引きこもり状態にある。


11/12(土)快晴 飯川病院午前日直 家内はゾンタに
1:45起床。読書、画像データ整理。いつもと同じ。8:30会心に行く家内に同乗、飯川病院に、午前日直。新聞チェック。14:20バスにて帰宅、次男一家タイヤ交換のついでに庭掃除。読書、微睡。19:00夕食、20:30就寝。歩数計Σ6609歩。

葉梨法相更迭(1) こんな議員たちが!!!、と呆れるばかり
 岸田首相は、死刑を巡る軽率な発言などで批判を浴びた葉梨法相を更迭した。直前まで更迭を否定していたが、結局葉梨氏から辞表を受け取った。

 葉梨氏を巡る対応で、国会の審議日程や首相自らの外交日程の変更を余儀なくされた。首相の決断は遅過ぎた。自分以外の発言まで責任を負わされる岸田首相も気の毒であるが職務上やむを得まい。

 葉梨氏は自民党岸田派に所属し、当選6回。8月の内閣改造で初入閣。
 私にとってはよくわからない人物であるが、入閣待機組とされる70余名の議員の一人??。今回やっと持ち回りで大臣を経験させてもらった一人と思っていた。
 衆院当選5回以上、参院当選3回以上の実績がありながら入閣待機組とされる議員の中には最初から大臣としての資質を疑わせるような人物も残っていると考えられる。派閥の長はそのことは分かっているだろうが推薦せざるを得ないのだろう。
 首相も一人一人の資質まではご存知ないと思われる。首相は比較的影響の少ない部署の大臣に任命するが、閣僚の不適切発言を聞く度に身が切られるような思いが募るだろう。

 葉梨氏は同じ岸田派の国会議員主催の会合で今月9日夜、「だいたい法相は朝、死刑執行のはんこを押す。昼のニュースのトップになるのはそういうときだけという地味な役職」、「法相になってもお金は集まらない。なかなか票も入らない」などとも語った。

 多分、気を利かせたリップサービスのつもりだったとも思われるが、「壁に多数の耳あり、障子に多数の目あり」のこの時代、法相の地位を「お金」や「票」と結び付けて揶揄したことは不謹慎極まりなく、特に、問題のある死刑制度に関する発言は「死刑囚のいのちの軽視」とも取られかねない。

 一連の発言に野党が更迭を求め、与党からも苦言が相次いだ。首相は直ちに反応すべきだった。だが、対応は鈍かった。10日の衆院本会議の民法改正案の採決は先送りされ、岸田首相は辞表を受け取ったが、東南アジア歴訪への出発を1日延期した。

 今回の更迭問題の余波として、今後しばらくの間「死刑執行」はできなくなるのでないかと思う。
 私を含め、多くの方々は、歴代の法務大臣は塾考を重ねて死刑執行の最終判断していると思っていただろう。それが最後の拠り所であった。しかし、今回の発言でイメージが変わってしまった。

 この影響は小さくない。

11/ 11(金)超快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床、読書。5:30可燃ゴミ、7:35Taxi、チケット忘れ飯川経由駅西に、8:11こまち、大曲中通病院外来。大曲往徒歩、復と秋田市内Taxi。15:30-19:00飯川病院ボランティア。新聞入力、19:00帰宅、夕食。21:00就寝。歩数計Σ8998歩。

ウクライナ情勢(13) プーチンは核を用いるか 多分不可だろう
 ウクライナvsロシアの戦局に関して細かい報道があるが、よくわからない。一進一退、最近はウクライナ側が優勢にあるようだ。ただ遠い国のことであり、私には細かなことはわからない。

 初期の頃、ロシア軍がプーチン大統領の指示を受け、戦略核の運用部隊が「特別態勢」に入ったと発表した。核による威嚇である。
 なんで「核」を強調したのだろう。短距離ミサイルによる「核」だけではなく、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などの「核」能力をも強調しているのも奇妙だ。実際の使用は想定しにくいが、プーチン氏の意図は何か??ウクライナ側に沿って軍事援助をし続ける欧米への威嚇だろうが。

 米露とも実戦で使用できるよう核の小型化を進めていると言われるが、まだ実践配備されたとのニュースはない。話題になっている核は、より小規模なものだろうが、破壊力は広島に投下された原爆をはるかに上回る。ということは、現実には巨大すぎて現実には使えない、ということではないか??

 米国はプーチン氏にどう対応するのか。バイデン氏は核戦争への懸念は「ない」と語った。フランスのマクロン大統領は核による応報はないと述べたが、両氏の発言は評価したい。が、想定外のことが起きるリスクはあり得る。

 核戦略をちらつかせたロシアの行動は、世界が堅持すべき核不拡散体制への重大な挑戦である。核による脅し、他国の主権侵害も、絶対に容認されないことを国際社会は結束した行動で示す必要がある。プーチン氏は、国連安保理常任理事国と核保有国としての責務を果たす考えはないことがはっきりした。

 国際社会の対応次第では、深刻な連鎖を広げる恐れがある。
 北朝鮮の如く「核があれば優位に立てる」、「国を守るには核武装しかない」といった単純な考え方を誘発しかねない。
 日本の政府にいま求められるのは、プーチン氏の暴挙にはっきりと異を唱えて国際的な圧力を強めるとともに、核軍縮や不拡散の取り組みが減速しないよう世界に働きかけることだ。

 核はいかに小型化しても放射性物質による広範囲かつ長期間にわたる環境汚染の問題があり、北大西洋条約機構(NATO)の反応も読めない。ロシアにとってNATOは脅威であり、デメリットが非常に大きい。あるとすれば、ロシアが劣勢に陥った時に可能性が残るということだろうが、国際的反応を思えば同様にデメリットとなる。

 米国政府はロシアが核を用いた場合には何らかの具体的な対応をする、と考えられるが核の応酬はないだろう。米国には十分な通常戦力がある。

 ロシアにとって核の使用はメリットが乏しく、当面使用はないだろう、と思う。

11/10(木) 終日雨 居間ストーブ今季初点火 午後飯川病院 
 1:00起床、新聞、文献PDF化など。午前居間ストーブ今季初点火、そのほかの作業。11:50バス飯川病院着、途中降雨で濡れる。14:00勤務。14:00-15:30インフワクチン担当、微睡。19:20帰宅、夕食、20:10就寝。歩数計Σ7229歩。

ウクライナ情勢(12) プーチンの核威嚇 核兵器には日本にも責任の一端がある 
 プーチン大統領はウクライナ侵攻の初期から核による威嚇を言い始めた。欧米の動きを牽制するのが狙いだとしても、核を脅しに使うなど越えてはならない一線を越えた。

 彼はウクライナに関して始めからかなり強気であったが、今回初めて核を持ち出すあたり自ら劣勢を予言したようなもの。通常兵器をウクライナvsロシアで比較すると両国間には大差がある。そんな中、核を持っていないウクライナに対して核の使用を始めからちらつかせること自体が異常である。

 核の脅しはウクライナ領土での使用を前提とした警告だったはず。

 核兵器の使用は73年前の広島長崎の各一回だけ。
 その後にもキューバ危機に代表されるような事態はあったが、ケネディ・フルシチョフはこれをうまく回避した。当時は冷戦の最中であり米・ソ連共に巨大な核保有国であり実際に核戦争が生じる危険が逼迫していた。一度使用されれば次々とエスカレートして核の応酬となり、直接的、間接的に全世界に影響が及んだであろう。

 私は核の使用に関しては、第二次世界大戦終了時にこのような非人道的、大量殺戮につながる兵器の使用に関して被爆国の我が国が連合国側、とりわけ米国に対してその責任を不問にしてきたことがその後の核兵器問題を複雑にしてきた、と思う。
 極東裁判では米国側の非人道的、大量殺戮は全て不問にされた。

 当時はGHQに歯向かうことが出来る状況になくやむを得なかったのかもしれないが、サンフランシスコ条約発効で主権を回復した以降は核被曝国として継続的に声を大にして国際的に訴えるべきだったのだ。

 核だけではない。米国は第二次世界大戦終了時には国際法で禁じられている非人道的な非戦闘員への無差別大量殺戮行為を繰り返してきた。

 ?東京大空襲、 ?艦砲射撃、 ?秋田県土崎空襲を含むポツダム宣言受諾直前の各地の空襲、 ?沖縄上陸時の民間人の殺戮・・・など、まだまだまだ挙げることができる。

 加えて、?広島・長崎への原爆投下であるが、核使用は戦況上では不要な行為であった。これらの戦争犯罪を全て不問にしてきたことが戦後の冷戦時代に核兵器の時代に走らせた一因になっていると思われる。

 現在、我が国は日米同盟を通じて核の抑止力の傘下にあると思われ、そのために日本は核兵器禁止条約関連国際会議に不参加である。
 核廃絶の動きに参加しないのは問題である。核に対するうやむやな姿勢を続ける必要はない。
 

11/9 (水)曇り快晴 午後飯川病院 COVID-19ワク担当 インフワク接種受けた
1:30起床、文献チェック。徒然他。データ整理など。隣が外に出る前に8:00柿の木の枝落とし、柿収穫。10:30病院に迎えの家人に同乗、通り町書店、会計後徒歩長崎や古書店17冊購入。11:15バス飯川病院。新聞チェック、14:00から勤務、14:30-15:30COVID-19フワクチン担当、微睡。19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計10356歩。

全国瞬時警報システム(Jアラート) (3) 敵基地攻撃
 我が国に向かってくるミサイル迎撃が不可能あるいは不確実であるならば、次の対策が必要となる。
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 ■敵基地攻撃能力の保有
 専守防衛の範囲で、ミサイル発射前に敵地を攻撃する方法が取り沙汰されているが、私はこの方法も効果をあげられない、と思う。どこの基地から発射されるのかを事前に把握し、確実な情報で先制攻撃をかける??こんなことは不可能だろう。

 もし、不確実な情報のもとで先制攻撃を仕掛ければ、その後の相手国の対応は追って知るべしである。即、開戦、ミサイル撃ち合い、ということになる。真珠湾攻撃は手違いなどで宣戦布告が後手になったが、これを再現させることになる。
 さらに最近は潜水艦発射型SLBMの実験も行われている。潜水艦によるミサイル発射は事前に特定は不可能である。

 ■敵国攻撃能力の保有
 これは相手国の先制攻撃に対する報復にあたる戦略になる。先制攻撃を受けた場合には相手国のいずれか場所に報復攻撃するという攻撃能力の保有である。私は最小限これか??と思う。

 ■情報戦、サイバー攻撃による抑止力
 近代は戦争の形態が大きく変わろうとしている。
 軍備による抑止力は軍事力の均衡という視点にとらわれがちだが、「平時」から情報操作やサイバー攻撃などの様々な分野で、相手が侵略しようとする意図をくじく準備をしておかなければならない。情報を総動員して、「これでは勝算はない」と相手国に思わせなければいけない。
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 日本には飛来するミサイルを迎撃する弾道ミサイル防衛システムがあるが、ミサイル発射の兆候の早期把握や迎撃はより困難になっている。

 さらに深刻なのは中国と米国のミサイル保持保持量の差である。「米国ゼロ」vs「中国約2200発(推計)」とされている。米中の地上発射型中距離ミサイル(射程500~5500Km) は歴然とした差があるらしい。米国は新型中距離ミサイルの開発を急ぐが、まだ不十分という。これに対し、INF条約に縛られずにきた中国は、米軍の接近を阻止するため、着々とミサイル能力を強化した。

 こんな世界情勢の中、岸田首相は歴代首相で初めて、国会で「敵基地攻撃能力」保有を検討する必要性に踏み込んだ。
 敵基地攻撃能力を保有すると政治宣言すれば、防衛政策の大きな転換になる。
 ただ、防衛省はこうした政治宣言に先行し、敵基地攻撃能力の保有に向けた準備を着々と進めてきた。

 ?2017年にノルウェー製「JSM」(射程約500Km)と米国製「JASSMIER」など戦闘(同約900Km)機搭載用の長射程巡航ミサイルの導入を決定した。防衛省は敵基地攻撃に転用可能との指摘にも専守防衛の範囲で用いる、としてきた。

 ?20年12月には長射程ミサイルの国産化も決定。陸上自衛隊の地対艦ミサイルの射程も約1千Km超に大幅に伸ばす計画で、現在の形状にはない大型の主翼を取り付けるなど「実態は新型の長射程ミサイル」の開発を進める方針、という。

 ?今では防衛省幹部も「こうしたミサイルは離島防衛用に限定していない」と敵
基地攻撃への転用も視野に入ると、説明ぶりを変化させている。

 実にバカらしい計画であるが、人間の歴史は戦争・闘争の歴史でもある。くだらない、残念なことだ、と思うが、その事実には抗しきれない。
 地球環境の悪化、温暖化、未知の疾患の発生、食糧不足など、国際的に対応しなければならない懸案事項はもう待ったなしである。戦争などしている暇などないのだ。


11/08(火)午前曇り降雨晴れ 中通病院外来 飯川病院ボランティア 皆既月食
1:05起床。文献等データ処理、徒然。映像データ整理、自炊本読み。6:40バス飯川病院、8:45-13:30中通外来。患者予約数多く疲弊。14:00ボランティア、微睡やや長め。新聞処理入力、自炊数冊準備。19:10帰宅、夕食、 20:45就寝。歩数計8643歩。皆既月食は雲のためによく見えず。

全国瞬時警報システム(Jアラート) (3) 日本の迎撃システムは機能する??
 敵基地攻?能力の保持等「反撃能力」を含め、国民を守るために何が必要か、「あらゆる選択肢を排除せず、現実的な検討を加速する」、と岸田首相は10月3日臨時国会の所信表明演説でこう訴えた。

 我が国が防衛力を高めなければならないのは、実に無駄なことだが、近隣に対話が通用しない国々がある以上、やむを得まい。
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 ■外交による戦争回避の努力は最良の防衛力になろう。
 しかしながら、相手の考え方は往々にして変わってしまう。ウクライナ問題でも事前の交渉はなされたが、その最中にロシアは侵攻に及んだ。そんな相手に「侵攻は止めてください」というだけ??。もしそんな方針の政治家がいるとすれば、支持できない。

 ■戦力的には一国の防衛力では太刀打ちできない。
 米国との連携、国際的連携が重要になる。ただ、大事なのは、日本が主体的に取り組む心構えと具体的な準備が必要である。
 
 ■ミサイルを迎撃して無力化できるのか?? 私は不可能だろう、と思う。
 秋田と山口がイージスアショアの設置候補地でであったが計画が中止になった。船に搭載する方法が考えられたが今のところ具体的進展はないようである。
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 ところで、ミサイル迎撃って本当に可能なのか?
 私は疑問に思っている。

 ?数発が同時に発射されたら迎撃できるのだろうか。
 ?超音速弾道ミサイルは?
 ?高軌道から高速落下で迫ってくるミサイルは?
 ?不規則軌道で迫ってくるミサイルは迎撃が困難だ、という。
 ?車両や鉄道、水中からの場合は事前に発射の兆候がつかみにくい。

 北朝鮮がミサイルを頻回に日本海に向けて発射している。
 その発射情報が「発射された模様・・・」という初期の情報は15分ほどで報じられるが、さらに我々に具体的な情報が届くには30分も1時間もかかっている。落下地点の特定もできていない。また、どんな種類のミサイルであったのかもわからない。
 こんな情報収集のもとで本当に迎撃などできるのだろうか。実際には北朝鮮からのミサイルは10数分で日本に到着する。

 少なくとも今の対応ではミサイル迎撃は困難であろう。
 迎撃ミサイルは常に発射準備状態にしておく??それでも、さらに多彩になっていくミサイルを瞬時に判断して迎撃目標を決めたり、着弾予想の場所を瞬時にどう判断するのか??

 先日の「Jアラート」がその実態を示している。

 ならば、次の手を考えなければなるまい。


11/7(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:00起床。文献・新聞等処理。蓄積データ処理。徒然記載。6:40バス飯川病院、先週から長袖厚手の作業服に。9:00-11:30健康クリニックドック14名+結果判定14名。11:45飯川病院。新聞、医学論文チェック。微酔など。14:00-18:45勤務。15:00入院患者処置、15:00外出、千秋公園のコイに給餌、喰いつきよし。バスにて長崎屋、古書7冊購入、バス帰院、19:00帰宅、夕食。 22:00就寝。歩数計9135歩。

全国瞬時警報システム(Jアラート) (2) 日本に着弾したらどう対応する??
 北朝鮮によるミサイル発射は今年30回目。11月2日にも短距離弾道ミサイルなど23発以上が発射され、異例ともいえる高頻度となっている。

 北朝鮮によるミサイル発射は米国を意識していると思われるが、同盟関係にある日本や韓国などの安全保障にとっても脅威である。
 岸田首相がその度に「国連決議に反する暴挙であり、決して許されない」と感情をあらわにしないクールな表情で、ワンパターンの非難表明したのは当然だが、このワンパターンはなんとかならないか??こんなことを何度述べていてもなんら影響がないのに。

 同様に、国連安全保障理事会などでの厳しい対応が早急に求められる。効果はないが、国際的対応として国連活動実績として記録はしておく価値はあろう。

 11月2日に発射したミサイルは23発以上と1日の発射数として過去最多だった。うち1発は韓国が海上の軍事境界線(NLL)と位置付ける韓国領海に近い日本海に落下。韓国で空襲警報が発令された。
 NLL南側の公海へのミサイル着弾に対して、韓国は北側の公海へ空対地ミサイルを発射して対抗した。これに対し北朝鮮は3日朝と夜、ミサイル計6発を発射。米韓は同日、合同訓練の期間延長を決定した。

 互いに強硬姿勢がエスカレートする懸念がある。偶発的衝突を招かぬよう双方に自制が求められる。

 「Jアラート」は「日本を通過する」可能性を述べたがそれが誤情報であることを発表した。結果的に、時間的に遅れをとった上に正確さを欠いた情報を伝えたことになる。10月4日に北朝鮮のICBMが青森上空を通過して太平洋に落下した際の「Jアラート」では、東京都に誤った発信があった。「Jアラート」は改善しなければならない。

 今回の「Jアラート」では当該地区では新幹線を停めるなどの対応をした。遅きに失したがこれはおそらく正しい判断なのだろう。

 一つ調査してほしいのは「Jアラート」を受けて住民はどんな動きをしたのか??ということである。

 北朝鮮のミサイルが我が国を標的にすることは可能性としてはゼロではないが、今のところは考え難い。むしろ、着弾域入力の人為的設定ミス、飛行中の機器の故障などで進路や距離が狙いからずれ我が国領内に着弾する事故が危惧される。

 航空機船舶への被害もありうる。日本国土への着弾の場合、人的被害の発生も皆無ではないだろう。そのような時に政府はなんと行動するのか??

 まさかそんな事態でも、岸田総理は「これは攻撃ではなく事故である・・・」というコメントを出すのだろうか??

 具体的被害が及んだ際の対応は当然出来上がっているのだろうと思う。多分機密事項として公開されることはないだろうが。
 しかし、一方では本当にその準備はあるのだろうか??私は疑問に思っている。まさか具体的被害が出てから対応を考えるのではないだろうね。
 そんな事態への対応は日本が考えるべき問題であるが、米中韓とのすり合わせはしていることがのだろうか??

 心配である。



11/6(日)快晴  飯川病院日直
1:30飯川病院起床、新聞、文献チェック。8:30家内と共に旭川のコイ、千秋公園コイに給餌。飯川病院、日直に着く。新聞チェック微睡。12:15ラジオでNHKのど自慢。見ながら新聞切り抜き作成、電子化。文献、録音データ整理など。自炊ほか新聞入力。19:30帰宅夕食、21:00就寝。歩数計4335歩。

全国瞬時警報システム(Jアラート) (1) 発令があったらどうすればいい??
 弾道ミサイルの発射など有事の際に住民が適切に避難するため、総務省消防庁は、国からの情報を瞬時に伝達する「全国瞬時警報システム(Jアラート)」という仕組みを運用している。
 「Jアラート」を通じて北朝鮮のミサイル発射情報が流れたのは、10月にも流れたから2017年9月以来5年ぶり。07年の運用開始から6度目となった。
 「全国瞬時警報システム(Jアラート)」の瞬時というのはどういう意味か??ニュース性はあるが命を守るという意味では実態が伴っていないのでは??と、思う。
 北朝鮮のミサイル発射情報は遅い。ほとんど日本海に着弾してからラジオで流される。しかも米韓からの情報の伝達である。こんなことで迎撃ができるのか??疑問である。
 11月3日朝、大陸間弾道ミサイル(ICBM)とみられるミサイル発射直後、「Jアラート」が発令された。私は飯川病院の医局でラジヲを通じて知った。対象地域は宮城、山形、新潟の3県。秋田県は含まれていなかったので一応は安心した。ところが「日本上空を通過したとみられる」との速報は程なく取り消された。ミサイルが日本海上空で「消失」したという。原因は明らかになっていないが、韓国では失敗説も報じられている。

 「Jアラート」による情報は、ミサイルが日本の領土や領海に落下する可能性がある場合や、通過する場合などに発令される。

 住民への伝達方法は主に二つ。
―――――――――――――――――――――――――
?携帯電話会社が対象地域にエリアメールや緊急速報メールで情報を伝える。
?消防庁から対象地域の市町村役場に、人工衛星や地上回線を通じて情報が送られ、防災行政無線などが自動的に起動。サイレンが鳴ってスピーカーから「避難してください」などと放送が流れる。
――――――――――――――
 「Jアラート」は「すぐに避難できるところに、より頑丈な建物や地下(地下街、地下駅舎などの地下施設)があれば直ちにそちらに避難してください。それができない場合は、自宅で、できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動してください。」等々と繰り返し呼びかけていた。こんなグズグズしているともう間に合わないのでは??
 我々の地域の場合、具体的にどうすればいいのか??。今までにそのような訓練とかがあったのだろうか??そのような対策を提示されることなく、その地域の住民は「Jアラート」が出たらどうしたらいいのか??
 わからん!! 空をじっとみていればいいのか??

11/5(土)終日降雨 飯川病院午前日直 レセプトチェック
1:00起床、新聞チェック電子化、徒然他いつもの如し。PDFデータ整理。8:30家内に送られ飯川病院、午前日直。患者は落ち着いている。新聞チェック、入力。15:30帰宅途中まで、都合で戻る。12:00検食、16:00外来レセプトチェック。17:30検食、20:30就寝。歩数計Σ6022歩。微睡を交え読書三昧で過ごす。

文房具2022(8) 趣味の製本に大活躍したステープラ 
 「ステープラ」はコの字形の針で紙を綴じる文房具の総称で日本では「ホッチキス」と呼ばれる。

 私は本の修理、紙の書類が飛び交っていた頃は書類の製本が趣味であった。その時に活躍したのが「ステープラ」であった。サイズは3種あるとされるが私は小型・中型の2種用いて来た。製本が1cmを超えるような場合にはステープラーでは無理で電動グラインダーで穴を開け針金で綴じた。

ステープラの種類
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 ?小型ステープラ:針は6mmと10mmの2種類。一般に「ホッチキス」と言えば、小型ステープラーのことを指す。

 ?中型ステープラ:は3号針を使用するもの。針の長さが6mm、10mm針のがある。前者はコピー用紙を30枚程度まで、後者は75枚ほど閉じられる。私は6mmを用いている。

 ?大型ステープラ:高機能だが手動では無理で電動式が一般的らしい。私は使ったことがない。

 ?針なしステープラ:比較的最近普及してきたが最大12枚、小型のものでは5-10枚を綴じられる。

 ?スキンステープラ:医療において人体の傷口の縫合に使用するもの

 ?そのほか:各種業界、段ボール箱形成などで活躍。
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 手動で力を軽減するために梃子の原理を利用したものもある。一時、ソフトな動作のステープラを「ホッペキス」と称した会社もあったようだ。とてもいい名前だと思うが残念ながら普及はしなかったらしい。私は単純な構造のステープラを好む。

 私が製本化した書類は300冊ほどに及んだが、現役をリタイヤした時点から終活の一環として時間をかけて全部処分した。その際、紙をリサイクルするのに、あらかじめ針を除去すべきと思われているが、実際は再生紙を製造する過程で金属は比重で分けられ除去されるため大きな問題にならない。最大手の製造元のMax社はこのことを広告で明らかにしていて廃棄作業がすごく楽であった。


(手持ちのステープラの一部)

 今も紙の書類等は随分多いが私はスキャナーで電子化しているから製本の機会は無くなった。それでも中、小のステープラは工作等に手放せない。
 特に中サイズのステープラは皮革を用いた工作の際にとても重宝している。

11/4(金)降雨 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:10起床、データ整理。新聞処理。5:45可燃ゴミ提出。作業に暗くてヘッドランプが必須となりつつある。7:35Taxi駅東口、こまち。徒歩病院へ。9:10大曲中通病院外来。復路Taxi。15:30古書店経由飯川病院着、ボランティア。19:15帰宅、夕食。20:30就寝。 歩数計Σ8335歩。

文房具2022(7) 手放せないカッターナイフ
 かつては鉛筆削り等に用いる身近な刃物はカミソリ刃を仕込んだナイフであった。
 明快には覚えていないが新潟大学に進学した頃、刃の先端を折れば切れ味が復活する不思議なナイフ、オルファカッターを入手してからもう手放せなくなっている。

 製造元のオルファは、創業以来、半世紀にわたってカッターナイフ作りのパイオニアとして刃物造りひとすじに歩んでいる。どれだけの規模のメーカーかわからないが、オルファ社の規格は、驚いたことに、世界基準となっている、という。

 私は幼い頃から紙細工、木工工作が好きで、ナイフ・ハサミ等の刃物は常に身近にあった。ちょっと大型の道具としてはノコギリ、ノミ、千枚通し、カンナなど自分専用のものを確保して来た。材料としての木材、板などは私の宝である。

 最近、というか10年以上前から、終活の一環として書籍の電子化をおこなっている。今でも本を20冊/月ほど購入するが書棚には2−3日しか並ばない。全部バラしてスキャナーで取り込み電子化してパソコンやiPadで読む。書籍をバラして電子化することを何故か自炊と称されている。

 我が家では書籍の裁断機もあるが、私は適宜手動で自炊をしている。その時にカッターナイフが必須である。
 必然的にカッターナイフの本数も増えてしまった。


(愛用の大小のカッターナイフ 替え刃も何セットかある)

 ほぼ毎日自炊作業している。文庫本2−3冊、時には500ページもある単行本をカットしてバラす。この時、カッターナイフは途中で切れ味が悪くなる。切り口が荒いとスキャナー取り込みがうまくいかない。そのためにその間に何度か刃を折って切れ味を戻さねばならない。

 ここでケチな私のアイデアの登場である。
 オルファKKはそれほど年商が大きくないと思われるが、さらに私のようなケチなユーザーに使われると刃の消費量が減って一層困るだろう。本当にすみません!!!

 製造元が刃を折る際に折れやすくするためにつけた溝はとても便利であるが、私にとっては勿体無いほど幅が広い。だから私はその溝の間で2−3回細かく折って使う。
 その際、細かい刃先が反動で飛んで見えなくなると危険で、折る前にセロファンテープを刃に貼り付けてそれから折る。これで破片を飛ばしたことはない。

 6年ほど前に一度刃先を紛失してそれが私の食品に紛れ込んで舌を切ったことがあるが、それが教訓になってセロファンテープを応用して刃先を折るようにしている
舌にカッターの刃が刺さる 朝食に異物混入していたが自分の不注意だった。

(右側は通常の折り方のものでほとんど刃の交換時の刃先。左側がセロファンテープを応用して折った刃先)

 細かな工作、家財の修理、園芸の場でもカッターナイフはとても便利である。素晴らしい発明品だ、と思う。


11/3(木) 文化の日 終日降雨   
1:30飯川病院起床。新聞・文献、録音データ編集他。徒然など。9:30回診に来た家内に同乗帰宅。雨で外仕事少々のみ、新聞チェックほかは読書三昧。突然「のだめカンタービレ」に集中。16:00録画でN響定期公演他視聴、ベートーヴェンVn協。静かな演奏だった。19:00夕食、21:00就寝。歩数計Σ5299歩。

文房具2022(6) インクを買いすぎた
 パソコン中心の今でも私は万年筆を手放せない。インクが盛り上がるほど豊に出る太字のペン先を好む。

 家と病院の机の中には新旧の製品であるが、10数本の万年筆があった。
 国産ではパイロット、セーラー、プラチナ、丸善。
 輸入品ではモンブラン、ラミー、パーカー、クロス、シェーファー、ウオーターマンで、このうち自分で購入したのは30年程前の国産の2本だけで、あとは全て個人や企業からの頂き物である。
 うち、モンブラン以外の5種類の輸入品は全てNHK秋田放送の番組出演の記念品である。

 カルテが紙だった時代、週3-4回担当している外来ではインクの消費量も多かった。スペアは週に1-2本消費したが、今から見れば当時は随分字を書いたものである。

 輸入品の万年筆には数本のスペアカートリッジがついてきたが再購入はしたことはない。スペアインクが切れた時がその万年筆を仕舞い込む時であった。スペアインクの入手が面倒だった他に、万年筆自体が私の手には馴染まなかったからである。

 最近まで用いてきた万年筆用のインクの一部は2006年10月に購入した古いものである。札幌の学会に出席した家内が何を考えたのか土産にパイロット万年筆用のスペアインク7箱(84本)と30ml入りの赤とブルーブラックのボトル2瓶を購入してきて仰天した。家内は時々理解し難い行動に出る。

 それ以降は万年筆は必然的にパイロット中心になってしまった。机の隅で眠っていた4本のパイロット万年筆を復活させた。84本のスペアインクは7-8年ほどで使い切った。スペアインクは未使用であっても5年以上も経つと自然蒸発のせいか容量が減り、変質する。ペン先で固まる傾向があり頻回に洗浄する必要があった。

 スペアインクを全部使い切った後がケチな私の登場である。パイロット万年筆KKはそれほど年商が大きくないと思われるが、ケチなユーザーで本当にすみません!!!

 空のカートリッジは捨てずにとっておき、ボトルからインクを詰めて使用した。ボトルのインクを全部使い切ったのは昨年である。赤のボトルインクはいまだに残っている。

(やっと少なくなった2016年購入のインク。赤はいまだに残っている。ブルーブラックは先に細いノズルがついた容器に移し、空になったカートリッジに注入して用いた。この容器はキャノンのプリンターの詰め替えインクが入っていたのを流用)

 いま、万年筆を用いるのはちょっとしたメモ、ハガキが中心である。ハガキは必ず万年筆を用いて、心を込めて書く。

 先日、3本のパイロット万年筆を残し他は全て焼却した。それらの万年筆は私の手に馴染まなかったが一本一本には思い出が詰まっている。

 私が万年筆に親しんでから間も無く70年にもなる。万年筆と共に歩んできた人生でもある、と言えよう。


11/2(水)夜間早朝降雨のち晴れ 柿伐採開始 午後飯川病院+当直 
1:30起床。新聞・文献、録音データ編集他。徒然など。微睡も。午前自宅の西側の樹木伐採、視野が開けた。次いで新規に購入した電動式チェーンソー初使用、終活として柿の木枝伐採開始。ずいぶん切れ味がいい。満足。柿は3ケ、12:12バス飯川病院、新聞チェックほか。COVID-19ワクチン接種担当。16:00歩行、千秋公園コイに給餌、バス長崎屋古書店にて注文した本の受け取り13冊。バス飯川病院に戻り当直業務に。18:00検食、微睡、ハードディスクバックアップ。21:00就寝。歩数計Σ11936歩。

当HP「これからの医療の在り方 徒然日記」22年目の雑感(2) 
 昨年の雑感とほぼ同じ。毎年大きく生き方が変わるはずもない。
 雑感(1)とも重複するが・・・。

 なぜロクに読まれもしない駄文を綴り続けている?
 それにはなかなか止められない私だけの事情がある。

 それを中心に考察する

 ■継続は力なり
 私はこの言葉が好きで、継続している第一の理由がこれなのだが、気が小さく、いじけた自分が拠り所とする砦での一つでもある。自分への評価と満足感の充足が目的。自分だけ納得できればいつでも止められるが、自分に恥ずかしくて止められない。これをやめる時が私の人生が次に移る時であろう。

 ■記録に頼らねば記憶が保持できない
 私の記憶装置、すなわち脳みそが劣化して記憶の蓄積や保持が困難になった。記録がないと全て忘れる。忘れてしまえば、自分は無為に生きたことに等しい。このHPは、徒然日記は、私が生きて来た証しになっている。

 ■忘却防止のため
 思うだけ、考えるだけではすぐ霧散する。だから気になったことはメモを作り、その中の一部を文章化しておく。文章化することで考えが固定される。点を線に変え、さらに面に変える行為である。それらはハードディスクにデータとして蓄積する。そのための作業を連日続けている。その代わり頭は空っぽ。

 ■生活記録、小文は自史資料としても貴重
 私は日々の記録を蓄積するのが好き。文章、画像、音楽など、読後の感想など。覚えきれないからほぼ全てを電子的に蓄積している。これがとても有用。
 新聞スクラップに関しては2008年から1日もかかさず作業しているから30万枚ほどある。紙ベースでは到底不可能な量。しかも、検索ですぐ出てくるのがいい。
 何か調べたいことがあると、まず自分のデータに検索をかける。

 ■自分だけの、毎日の小さな積み重ねを楽しむ
 今は嘱託医として細々と外来診療を続けている。読書などに使える時間が増えた。読書量も増えた。それによって芋蔓式に読みたい書籍が増えていく。読後感想文の蓄積も増えた。購入した図書はすぐに自炊するから書棚には並ばない。パソコン、iPadの電子書棚に並ぶ。

 ■孫を含む家族達の動向、飼いネコたちとの日々を楽しみ、畑作や園芸を通じて自然現象の移ろいを味わう。

 ■興味の対象は歴史、文化、政治・経済、国際問題、自然・・、と今でもまだ広がっていく。先人達の足跡は偉大である。それらに少しでも多く触れてみたい。新聞、文献、書籍を通じて味わう日々は最高。

 ■自分の弱気、意欲低下、体力低下に抗する毎日
 私は人と競争・抗争は好まない。対話も好まない。だから、引きこもり状態である。最近は意欲の低下からなんでも安易な方向に流れる傾向がある。それに抗するのが大変になってきた。もちろん、背景には老化による身体上の問題点、例えば下肢の衰え、バランス感覚の減弱も意識する。気力を維持できる時間も短くなった。
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 自分に残された時間はそう長くはないのではないか、と思う。幼少・少年時代にも、そんな考えがあった。だからこそ残された時間、それがどれだけかわからないが、愛しく思う。大事にしたいものである。
 このHPの更新はいつまで出来るか分からないが、私の気力、体力の総合的バロメーターである。

11/1(火)夜半降雨快晴 中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床。文献、新聞・徒然など。6:00家庭ゴミ提出。6:40バス病院。8:45-13:00飯川病院外来。神経内科受診、クレアチニンクリア良好のためプラザキサ元の量に。検食、微睡、以降はいつもと同じ。。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計7560歩。チェーンソー届く、3日目に、驚く。昨年iMac突然起動しない事態に。サポートとチャットで相談、修理に。カメラのキタムラに持ち込んだ。

当HP「これからの医療の在り方 徒然日記」22年目の雑感(1)

 当ホームページ「これからの医療の在り方――徒然日記」は、2001年11月1日に開設したので本日満21年を迎えた。
 本日は21年目のスタート日となる。ちょっとした記念日に当たる。
 抜粋版「雑記帳Blog」は満18年目、「インスタグラム」は5.5年程である。

 22年目の雑感。
 変化に乏しい日々の積み重ねであったが、10日ほど前に大腸憩室から出血し入院治療を受けた。一時、死を覚悟したが大事に至らなかった。治療を担当したスタッフたちには感謝である。また、出血は私の最後の講演会の前日のことで中止せざるを得なかった。出席予定だった方々、関係者の方々には多大な迷惑をかけた。
 後遺症なく回復できた喜びを味わっている。

 全体としては毎年似たような感想になるのはやむを得ない。

(1)なぜ駄文を綴り続けているか? 何のため??
 「継続は力」、この言葉が好きだから。この1年も何とか連日更新できた。その達成を自己満足している。駄文は自分のために続けている。記憶力が乏しくなったから備忘録を兼ねる。

(2)私は意を決して始めた事はなかな止めない。習慣的に続けている項目は以下の如く。
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 ■ 生活記録は50年以上、うち19年間分徒然として記述。
 ■ 1:00amに起き出す。早寝早起きと言っていいか分からないが約30年超。
 ■ 新聞・文献スクラップ蓄積は20年超。
 ■ ラジオ深夜便連日3時間録音蓄積は13年超。そのうち6割方聴いている。
 ■ 岩手へ復興資金寄付は11年。金額は収入減とともに少額になりつつあるが・・・。
 ■ 終活、特に書籍の電子化と廃棄は10年以上。今年から家財道具、樹木の整理を開始した。今回入院に当たり不都合な電子データを削除した。
 ■ 自身の過去を反省し、準引きこもり状態10年以上。
 ■ 徒歩通勤は健康上の問題で中止し通勤にした。日常的に歩行を意識し、伊能忠敬の足跡を追ったゲーム上で日本一周は2周目で現在新潟途上。
 本日で、集計開始後3497日、9.5年。歩数Σ3.166万歩、距離Σ25.323Km。一日平均8912歩、歩行距離7.24Km/日。
 ■引きこもり状態で、自分一人だけの世界を楽しみ、自己満足感にどっぷり。
 ■・・・などなど。
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 最近、加齢による意欲減退、何をするにも時間がかかる。歩行速度も遅くなった。園芸・畑作業は億劫になりつつある。ちょっと何かに集中していると直ぐに時間がなくなる。

 終活を兼ねた書籍や文献の廃棄が読書欲に火をつけた。フリーの時間は自炊した書籍の読書に充てている。

 自分に負荷している習慣、やるべき仕事をこなすのに1日24時間では足りない。
 でも、そんな考えはやめた。全体をミニ化し、簡素化し、休息を大事にしていく。   


10/31(月)   曇り  健康クリニックドック  飯川病院 

1:30起床。いつもと同じ、6:40バス飯川病院、9:00-12:00健康クリニックドック12名。宮形所長に休診お詫び挨拶。12:15飯川病院、微睡、14:00-19:00勤務。文献検討など。途中許可得て歩行訓練、千秋公園コイ戻ってきた元気。文化創造館周辺。19:30帰宅・夕食、20:30就寝。 歩数計Σ11077歩。

文房具2022(5) 万年筆(3) シェーファー代理店の対応

 モンブランが不調続きであったこともあり、一時シェーファー万年筆、ラミー万年筆に乗り換えてみた。自分にとって今まで馴染みの無かったブランドの製品である。 

 NHK秋田への出演の記念品に頂いたもの。前者二本は自宅用と外来用にし、病棟ではラミー万年筆を用いることとした。


 シェーファーとラミー万年筆では造りが全く違っていて面白い。前者は細部には拘泥しないイメージの造り、後者は細部まで実に精緻に出来ており、驚く。


 2008年頃であるが、外来用のシェーファーのキャップが壊れた。


 何とキャップが3層構造になっている。これは思いもよらない構造であった。層間の接着が不足だったのであろう。

 モンブラン日本代理店の対応に呆れたので躊躇したが、一応、日本の総合代理店をしている日本シーベルヘグナーKKに連絡を取ってみたところ、修理可能とのこと。担当の女性の対応は実に爽やかであった。

 早速送ったところ翌日には完了との電話連絡あり、更に翌日には宅急便で戻ってきた。実に早い対応で4-5日で解決した。修繕費、送料は無料でモンブランの時とは大違いで驚いた。


 返送時、同社が扱っているラミー(独)、シェーファー(米)、オーマス(伊)、ファーバーカステル(独)等の筆記用具カタログが送られてきた。

 その時に同封されてきたカタログでシェーファー、ラミーの値段を知って意外と高価な品であったので驚いた。前者は米国製でPreludeと名の付く約1万円ほどの品、後者はドイツ製でLamy2000と言う名の1.5万円ほどの品。NHKの記念品なのでせいぜい2-3千円の廉価品かと思っていたので意外であった。


 カタログは見事な装丁の小冊子となっておりこれ事態美術品の如くであった。そこには私の知らなかった超高級、精緻な万年筆から実用品に至るまでの製品の世界が展開していた。一部の品は100万円ほどの値段が付いている。最初は贅沢で華美の世界・・との印象をもったが、微細な部分まで詳細に紹介されている写真、説明文を見ている内に見事な芸術品としての価値として容認したくなった。


 このカタログを私みたいな実用品一辺倒のユーザーに送っても会社で利するところはないはずである。ただ、この会社は秋田の一人の万年筆愛好者に新たな感動を与えてくれた。


 シェーファーとラミー万年筆は、結局私の指には馴染まなかった。

 その後、私の好みは「パイロット」に集約していく。


 今、就活中である。現存の万年筆を並べてみた。いずれも思い出深い品である。この記念写真を最後に愛用の三本を残し先日私の手で焼却され、この世から姿を消した。


(モンブラン他、かつての愛用品 右下の三本が残されたパイロット製)



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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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