2021年3月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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先月の日記 来月の日記
3/31(水)曇り晴れ 飯川病院
0:30起床。文献検索、徒然ほか。11:07バス、珈琲店経由で徒歩で飯川病院に。ボランティア。新聞チェック、音楽データiPodに入力。データ整理、本読みほか。散水、17:20iPad mini5落札。19:30帰宅。夕食、21:00就眠。歩数計7506歩。
秋田県の話題;人口減(2) 文明と人口
国は少子化対策として出生率向上を問題にしてきた。
若い女性の数が少なくなった現在、出生率の目標値をあげるならば2.0以上に設定しなければならないが、事実上不可能な数値である。
出生率でなく出生数を目標に掲げた秋田県の少子化対策の方が理にかなっているが、ここに至ってはやはり実現不可能である。
何で人は子供を産むのか?何で産まなくなったのか?人口問題はそこから考えなければならない。
わが国の人口問題の推移を思いつくまま挙げてみる。
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??人類は生物としての繁殖能・種の保存能のもと、新生児多死の時代を多産で乗り越えてきた。
??社会化と共に、種族・部族の維持繁栄のため多産傾向が一層強まる。農耕文化の発展とともにマンパワーが必要になった。
??蓄財が始まり、貧富差が生じた。血筋を重視した家族、家の概念が生じた。上層階級は血筋維持重視となり、下層階級は労働力としてマンパワーが必要となった。
??明治以降は富国強兵策を掲げ、国家による意図的な出産・育児・教育政策が画策され、人口が急激に増加した。農業生産力の増大、工業化による経済発展と国民の所得水準の向上と生活の安定、公衆衛生水準の向上等で、人口は増加の一途となった。
??国は、人口問題を抱え、将来は経済的に窮乏していくと考え、外に食料、エネルギーを求める大東亜共栄圏構想を打ち立てた。しかし、実現はできなかった。
??戦後、従来の価値観の否定と民主化があった。第一次ベビーブームが起こり、朝鮮特需で落ち込んでいた経済は急速に復興を遂げた。
??ベビーブームによって生まれた子どもは10歳程度でも労働力となり家庭を支えた。中学卒業後は田舎から都会の工業地帯に大量就職した。日本経済を支え、仕送り等で田舎を潤した。この頃は子供が多い家庭ほど親にとって見返りがあった。
子供一人あたりの養育期間は15年間程度と短かった。
??日本は高度成長期を迎え、国民全体が経済的に余裕が生じた。家庭内の人間関係は変化し、より孤立性となる。子供は高校進学が当たり前となり、家庭内での労働力として当てにならなくなった。子供達は家の手伝いもしなくなった。
子供の養育期間は18-19年程度。
??子育ては夫婦単独で、主に母親が担う。社会資源が乏しい中、妊娠・出産・子育、教育を含め、女性・母親の負担が増大。成長とともに教育費の負担が増大した。大学進学率は高まり、塾や予備校も含め教育費は子育て費用の中心となる。子供は1-2人程度。教育費の一部にするために母親がパート勤務などに出るようになった。出生率は1.3程度で改善なし。
子供一人あたりの養育期間は22−24年程度と延びた。
??子供は結婚を機に親と別居。家庭が持っていた養育・介護、世代間の生活協力等の機能が崩壊。子供から親に対する経済的援助は期待できず。親にとって子育ては無償の労となった。
??日本経済は低迷。今後も、長期的には低成長時代を迎える。低成長時代の背景には少子・高齢化の果たした役割は小さくなかった。
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この少子・高齢化の現実は文明がもたらす自然の摂理である。時代が悪い、世の中がおかしい、と言っても仕方がない。まず。現実を認め対策を考える必要がある。
日本の将来に向けての国力を維持するには人口減問題にどう対処するかにかかっていた。人口問題に詳しい有識者達は半世紀も前から将来の日本の姿を予想し、主張していた。
しかし、その声は小さく時の政治家達には伝わらなかった。
日本は右肩上がりの成長をなしとげ、経済的・物質的豊かさを享受して来た。
日本の将来に少子・高齢化がからんでいたのに、為政者たちはその自覚は乏しく、不可逆的事態を迎えてしまった。
子育て世代に対する社会保障の重要性が認識されて、慌てて視点を移し始めたのはここ1-2年であるがそんなことでは出世率は改善しない。
日本人の日本人による人口維持能力は、出産可能女性の絶対数が減少してしまった今となっては、すでにその機会は失なわれてしまった。
改善策は、国内にはない。移民に対する捉え方にかかわっている。
移民政策は、島国日本の文化にとって文化の崩壊につながりかねずなかなか踏み切れない問題であるが、人口問題に関しては忌避してはいられない重要課題である。
3/30(火)曇り 中通病院内科外来 飯川病院
2:00起床。新聞チェック、本読み、他。5:00可燃ゴミ提出。6-47バス飯川病院。8:40-13:00中通病院内科外来、比較的余裕。13:30飯川病院勤務、入院患者対応。19:15帰宅、夕食。21:00就寝。Σ7939歩。
秋田県の話題;人口減 (1)
県人口は今年1月に95万人を割った。2017年に100万人を割ってから3.9年で約5万人減ったことになる。近年は年間約1万4千人のペースで減少が続いている。
2019年の出生数は4.696人、5.000人を割ったのは明治以降の統計開始以来初。1969年には18.056人も生まれていた。
県の政策として、出生数対策をやってきた。
■ 2009-13年元気創造プラン第1期 出生数目標8.000人 実績は6.177人
■ 2014−17年元気創造プラン第2期 出生数目標6,100人 実績は未達成
■ 2018−21年元気創造プラン第3期 出生数目標6.000人 実績は未達成
2010年少子化対策局設置、秋田結婚支援センター設置、全国有数の子育て世帯への経済支援で全国有数の支援内容になった。しかし効果を上げていない。
結婚支援の強化、保育料や医療費の助成の拡充などに積極的に取り組んできた。
急速に進む本県の人口減少、少子高齢化にいかに歯止めをかけ、地域での県民の暮らしをどう持続していくのか。
その戦略や政策を示すことが何より求められているが、県の施策では効果を上げるのは困難だと思う。補助金によって出生率をあげることは困難である。
出生率は文明の成熟とともに低下するのは歴史的に認められる現象である。だから、出生率を上げることではなく、子供を産める若い生産人口を増やすしかない。さらに直截的に言えば、機能する子宮を増やす以外に道はない。これは極めて困難な道である。
人口減少に特効薬はないと諦めてしまえばこの傾向はさらに加速する。
最善の方法は、若い人たちが秋田で生活できる様、生活環境、秋田の経済力を高めることしかない。
産業振興策の役割は大きい。自動車や航空機産業の集積が進んでいる。とはいえ現状では若者にとって十分とはいえないし産業振興策はどこの県でも力を入れている。秋田は決して条件に恵まれているとは言えない。
私は、農業の振興策が秋田の地にあったベストな方法と思う。
離農を防ぎ、県内外から農業希望者を呼び込む。東日本大震災と原発事故の避難者はまだ数万人いるが、その中から農業就農者を募集する、などなど。
さらには外国人にも就農の機会を与える、のもよかろう。
人口密集地で拡大するコロナ禍を機に東京一極集中を見直す動きもある。
リモートワークの普及により都会の企業で働きながら地方移住が可能な時代。県がこの新しい移住スタイルを積極的に支援するのも良い。
3/29(月)晴れ 健康クリニック休診 飯川病院 電話再診研修
1:30飯川病院起床。本読み、徒然他。健康クリニック年度末で休診、午前は電話再診研修に充てる。9:45-13:30電話再診試みるも不全。14:00-19:00飯川病院勤務。入院患者対応。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。Σ6364歩。
季節の話題2021(10) サクラ(2) 盛岡の「石割桜」は私の気力のルーツの一つ
JR東日本の月一回リニューアルされる車内紙「トランヴェール」に浅田次郎氏が巻頭随想を書いていたことがある。?
古い、ある号に南部盛岡について小文を書いていた。
「盛岡の町、それは岩手山、南には早池峰。北には姫神山。北上川と中津川の合流する先に不来方のお城、ああ、なんと美しい町なのか・・」、「盛岡の桜は、石ば割って咲く」と石割桜を表現し、「盛岡の町並み、自然、風景は日本一である・・」、などと記載していた。
また、ある号には北国の大学に進学するために、上野駅で夜行列車に乗り込む娘を、悲しい思いで見送る父親の心象を描いた小文もあった。名文として記憶に残っている。娘さんの進学地は多分盛岡であった、と思われる。
彼に南部盛岡を舞台にした作品があることをその小文から知った。随想を読みつつ浅田氏がどの様に南部盛岡を表現しているのかいたく興味を感じ購入した。文庫本「壬生義士伝(上下巻)」である。?? その作品には、盛岡訛りの言葉がふんだんに盛り込まれている。江戸幕末のころの一人の脱藩武士を中心とした人間模様が語られる。しかもその当時のことを回想する語る場面がでてくるから新しい時代、と言っても明治だろうが、そのころの南部盛岡についても自然、風物が豊かに表現されている。語りの部分が典型的な盛岡弁で語られているところにある。私自身が子供の頃つかってきた言葉が次々と出てくる。半ば忘れかけていた懐かしい言葉が、言い回しが、語尾が、・・・次々と。?? 私がもし盛岡近郊出身でなければ読まなかったと思う。方言を豊かに盛り込んだ小説は少なくないが基本的には読むのは嫌。方言を書き込んだ作家の中では三浦哲郎氏の作品はいい。「忍ぶ川」、「白夜を旅する人々」等々だけは集中的に読んだ。彼の場合は津軽弁だからまだ読めた。最近の作品は若竹氏の「オラオラで一人で・・・」は読めた。
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盛岡市の官庁街のど真ん中、盛岡地方裁判所の庭先に「石割桜」と呼ばれる江戸彼岸がある。周囲21mの花崗岩の割れ目に落ちた桜の種から発芽したのか?その割れ目を広げながら成長した。1922年に天然記念物に指定された。推定樹齢は300−400年。幹周は4.6mの巨木。
私の子供の頃は、樹勢が弱っていつ枯れるかの話題が新聞紙上を賑わしたが、有能な樹木医たちの関与で樹勢を取り戻した。
開花は4月中旬から。
(盛岡市HPより借用)
毎年12月には「石割桜」の防寒対策が行われる。100本以上の吊り縄で枝が雪の重さから守られ、幹には厚くコモが撒かれる。開花シーズンと同様、盛岡市民は暖かい眼を向ける。「石割桜」は市民の温かい目で生かされている感じがする。
私が中学高校の頃、冬場を除き、樹勢が衰えた「石割桜」の脇を通って自転車通学していた。片道16Kmとハードであったが、「石割桜」の生きる姿を心配し、私は力を得た様な気がする。
「石割桜」は私の気力の拠り所の中の一つである。尊敬している、といっていいかも知れない。
3/28(日)晴れ、昼から小雨 飯川病院当直
1:00起床。新聞チェック、本読み、他。午前はデータ整理、入れ替え。12;00ニュース、のど自慢楽しむ、新聞チェック、微睡、読書。15:00家内に同乗、飯川病院へ。17:00当直業務。18:00検食、20:30就寝。Σ5528歩。
季節の話題2021(9) サクラ(1) 日本特有の文化?? 「願はくは 花の下にて春死なん その如月の 望月のころ」 西行
これは私の最も好きな歌のうちの一つである。ここに出てくる花はサクラのことである。
なんとしっとりとした寂寥感を伴ううたであろうか。
サクラといっても今盛んに咲き始めたソメイヨシノではない。ヤマザクラの一種を歌ったのであろう。
最近、森山直太朗の歌「さくら」は、春の別れと出合いの風景に、舞い散る桜のイメージを重ねた曲で、若者を中心に支持され大ヒットした。
西行から800余年、サクラは日本人の心の琴線に触れ続けている。いや、むしろ近年の方が強いインパクトを与えている。
わが国ではサクラの開花は真の春の到来を告げ、日本全体明るくする。日本全体が活気づく。
秋田でも間も無く開花が始まる。今年はとりわけ早く咲くらしいが、市内の名所の一つ千秋公園のサクラ祭りはCOVID-19にて昨年に続き今年もお預けである。
私は自他共に認める人混み嫌悪者。だから、サクラは一人で徒歩や自転車で近隣のサクラを楽しむ。
サクラはその特徴から簡単に擬人化される花である。こんな花は他にはない。
咲きかた、散りかたを含め、人生のあり様に容易に重ね合わせる話題に事欠かない。
クローン化したソメイヨシノが咲き始めた江戸末期から観桜の文化が一層発達した。ソメイヨシノが日本国中に広く植えられたのは1960年代からであるが、地域の花が一気に開花し一気に散る様は擬人化を推し進めた。
日本人はどうしても人と同じ、という画一性を好む民族でがある。その画一性が好まれる要因の大きなファクターであろう。この民族性が種々の問題を醸し出している。
私が嫌なのは軍国主義下の時代、国民のナショナリズムの高揚に、兵士の戦意の高揚に用いられた歴史である。サクラが歌われた軍歌、とても嫌だ。もちろん、サクラには罪はない。
桜は代表的なものだけでも300種類はある。山桜も珍重したい。それによって多様なサクラ文化が楽しめることになる。
ソメイヨシノの普及で画一化していったサクラのイメージ、もっと多様なサクラも楽しめばいいように思うが、生活圏の中で知れらを味わう機会は得られない。
「満開のサクラと群木下で」、「飲酒など」、「大勢が群れる」と言う楽しみ方は世界のどこにもない文化とされる。私は真の春を迎える喜びの現れ、と捉えている。
サクラについて蓄積した情報を検索して勉強したいと思っても、「桜」と入力すると安倍首相の「桜の会」の話題が多数ヒットする。不快である。
3/27(土)午前快晴午後曇り、やや寒い
1:00起床。新聞、文献関連整理他。座学。10:00-11:00コンポスト4ヶのうち最も小さいのを勝手口の傍に移動した。石井さんの体力を考慮して。午後は微睡の後新聞チェック、書斎にて録音データ確認と整理。ベートーヴェン「ミサソレムニス」視聴、ドレスデンフィル、Pルイージ指揮、ほか。以後読書など 19:00夕食。ネコたちと交流、20:30就寝。徒歩Σ5703歩。
季節の話題2021(8) 秋田の雪(7) 過疎の雪国の避難施設の一つが閉所? 今年は県内は記録的な大雪が続いた。
雪との闘いに悲鳴を上げている市民が大勢いた。ましてや過疎の田舎は高齢化と高齢者単独世帯で住めなくなっている。
寒冷で、豪雪の地域ではもはや高齢者が自力で冬を越せるレベルの環境ではない。
県内の高齢化率は現在の高齢化率は約38%、1人暮らしの高齢者世帯は約32%を占める。
本来、田舎は農業を中心に、多世代が同居する大家族制の生活様式でなければ成り立たないものである。家族が一団となって農作業を手伝い、冬には雪と対峙し、生活の仕事を分担し乗り切ったものだ。
人口が減少した今は、まばらにある高齢者の住宅を維持するための道路の雪よせも大変、在宅介護も大変、とても非効率的。地域ごとの共助組織があるが、そのメンバーすら高齢者である。
住民は日用品の買い物もできない日が何日も続く。高齢者の生活はいずれ立ち行かなくなる。
この厳しい状況に対しては、豪雪期だけでも高齢者を収容する施設を作り、集中的にお世話してはどうだろうか?
多分高齢者は自宅の生活にこだわり、是としないだろうが、徐々に発想を転換していかねばならない。
この様な施設が県内にあった。
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秋田県北部の大館市にある「こぶしの家」が今月末に閉所することになった。
老朽化のため維持費の高騰が主たる理由である。1998年設置以降、これまでの利用者は述べ130人。最後の入居者は4人で平均年齢83歳。
「こぶしの家」は旧営林局の保養施設であった。和室6部屋があり共同の食堂や浴室もある。
入居期間は11−3月、経費は3食食事付きで7.5万。管理員や調理員の世話で生活してきた。入居者は決して不自由だから入居するのではない。
春になり雪が消えると自宅や田畑などが心配となり、家に戻って作業を始めるという。
築37年の建物は雨漏りなどで、修理費がかかり閉所を決めた。
今後は市の補助を受け大館市内の養護老人ホームが同様の業務を提供するというので機能的に消滅するわけではない。よかった、と思う。
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私は県内にこの様な施設が何カ所あるか、不勉強にして知らない。ただ。今後はさらに必要な時代を迎える、と思う。
また、私が子供の頃は岩手県の過疎の田舎では冬季間だけ開校し、生徒が教師他と集団生活する冬季分校があったが、今はどうなっているのだろうか。
3/26(金)曇り快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。起床前右下腿に激しいキン痙攣あり、芍薬甘草湯2包服用改善す。新聞、文献関連整理他、5:30可燃ゴミ提出。7:35Taxi駅。8;11こまち。帰りも同様。8:50-12:00大曲中通病院外来。13:30飯川病院着、ボランティア。19:30帰宅。夕食、21:00就寝。徒歩Σ7311歩。
政治家不祥事2021 「政治家として責任を取る」河合元法相翻意
2019年7月の参院選をめぐって公職選挙法違反の罪に問われ、参院議員を辞職した河井案里被告(47)に懲役1年4カ月執行猶予5年の東京地裁判決が確定した。案里氏側、検察側ともに控訴しなかった。証人として出廷した受領者側が次々と、買収の意図を感じたと証言をしている。もはや言い逃れはできぬと観念したということか。
私思うに、選挙に関して票集め以外の目的で金をばらまくことなどあるのだろうか??
案里氏への1月の地裁判決は、広島県議4人への160万円の現金提供を有罪とした。買収の全体計画を指揮したのは、夫で元法相の河合克行被告(57)だったと認めた。
有罪確定により、過去に遡って案里氏の当選は無効になるが、選挙後の議員活動や給与は「有効」として扱われるという。
案里氏には歳費や期末手当、毎月100万円の文書通信、交通滞在費などとして計4942万円が支払われた。これらの返還を求める法律や制度はなくそのままになるらしい。
本人に返納する意思があっても、自主返納が「国への寄付」と見なされて規定に抵触する可能性がある、と言う。返納くらい認めてもいいと思うが。
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一方、河合元法相は妻の案里氏を当選させようと100人に計約2900万円を配ったとする罪で公判中である。
河合氏は現金を渡したことは認めながらも、統一地方選の当選祝いや陣中見舞いなどだったとして、買収の意図を一貫して否定してきた。こんなの通用するか??
しかし、妻の案里氏は一審の有罪判決を受け入れ、参院議員を辞職した。
河合氏は公判の中で、これまでの無罪主張から一転、起訴内容の大半を認め、責任をとって衆院議員を辞職する意向を表明した。
「民主主義の根幹である選挙の信頼を損なった」、「政治家としての責任を取る」と述べた。遅ればせながらも説明責任を果たし、この、法相による前代未聞の大規模買収事件の真相を明らかにしなければならない。
具体的な買収の実態と、その原資を明らかにして欲しい。
案里氏には、自民党本部から、同じ選挙区で落選した現職の10倍にあたる1.5億円の活動資金が提供された。うち1.2億円は税金による政党交付金である。買収とは無関係だというなら、具体的な使途をすべて明らかにすべきである。自民党の責任は??
「政治家として責任を取る」、河合元法相の言葉であるが議員資格以前の問題である。私は「人間として責任をとる」と言って欲しかった。
3/25(木)快晴、夕方小雨 健康クリニック結果判定 飯川病院
0:40飯川病院起床。文献関連整理他。午前はフリーであるがそのまま飯川病院で座学。外来患者対応。13:00-13:45健康クリニックで月曜日分の結果判定。14:00-19:00勤務、入院患者対応。19:30帰宅、21:00就寝。徒歩Σ7224歩。
終活2021(3) デジタル写真(1) カシオの「QV-10」から始まった
私は写真が好きでない。しかしながら、デジカメには早くから興味を持った。銀塩カメラは金銭的負荷が大きかったからである。デジカメの良さは何枚でも気楽に撮影できることであった。
1990年代、カシオが「QV-10」が発売した。液晶パネルで撮影画像を直ちに確認できた。メモリーも備わっており、96枚撮影可能でパソコンに画像を取り込むことができた。この製品は25万素子程度、電池寿命も短かった。価格6万余円で高価であったが私は飛びついた。購入価格4万円ほどであった。
その後、デジカメは高画素数化や小型化が図られ現在に至っている。私は名刺サイズの200万素子のカシオ製品にグレードアップしたが、その後はiPhone5のカメラを利用している。現在iPhone8であるが、私のレベルではカメラ機能に不満はない。
我が家の子供達は携帯、スマフォのカメラには不満らしく、3人とも高機能の一眼レフで撮影を楽しんでいる。
デジカメデータはいかに大量であっても場所を取らない。しかし、データ保存のための費用はかかる。私のデジカメデータは家内と共通の場所に保存されるから容量を食う。それらはパソコンとハードディスク、iPhone、iCloudに保存されている。正確なことはわからないが1万枚程度になっているようだ。私のiCloudは安価な200GBプランでは不足になって2TBに更新した。またバックアップ用のハードディスクは3TBのを2ケ用いている。
終活をしてデジカメデータの整理と廃棄をしなければならない時期に達した。
デジカメ写真は蓄積と消去だけは簡単であるが、撮影日付、被写体ごとに分類してインデックスをつけなければ二度と見ることはできない。
で、一大決起して先月からデータの分類と廃棄を開始した。
多くの画像を見直しているが、流石に「QV-10」での撮影は拡大すると辛い。だが、拡大せずにそのまま見れば記録としては十分通用するので嬉しい。
(当時飼っていたシベリアンハスキーの雌ルーチェ 自宅にて)
(秋田市郊外の梅林園脇のテニス場にて。同じ頃のフィルムカメラの像 スキャナーでの取り込み画像)
必要な画像データを選択し、そのほかは消去するのであるが、誤って全部消去しないかハラハラしながらの作業である。
3/24(水)快晴 午後飯川病院勤務+当直
1:00起床。新聞、文献チェック、本読み中心に過ごす。読書、データ整理、11:50バス途中まで、ひらのや書店経由で徒歩飯川病院、14:00勤務、入院患者対応。読書、17:00当直に就く。18;00検食。20:30就寝。徒歩7124歩。
終活2021(2) スナップ写真とVサイン(2) 異文化圏では要注意
我が国で写真を撮る時のポーズとして用いられるVサインには何ら深い意味は無いだろう。楽しさ、喜びを表す意味でしかない。また、日常的にも物事がうまく行った時などにも喜びを表すポーズとして用いられる。
平和を願うサインとしての意味は、皆無だろう。
日本のVサインはいつ頃からあるのか分からないが、私が秋田大学で勉強し始めた1970年中頃のスナップ写真にも見られているから結構古い習慣である。欧米ではVサインは1960年代以降ピースサインとしても用いられるようになった。
私はVサインをして写真に収まっている方々にいい印象は持たない。
Vサインは単に数字の「2」を意味もある。
手の向け方、手のひらの向け方、上向きなのか下向きなのかなどによって、様々な意味をもっている。
一部の途上国などでは卑猥な意味の場合もあるらしい。旅行時などには要注意である。手のひらを自分に向け、中指だけを立てるのは「H」のサインと見なされるそうである。
音声によらず、身振りや手まね、顔の表情などで相手に意思を伝えることをボディ・ランゲージという。UCLAの研究では人はコミュニケーションをする際、人のことを7%を言葉から、38%を声のトーンから、残りの55%をボディ・ランゲージから理解するという。
ちょっとした仕草ですら異文化の中では全く別の意味を持つなども、これからのグローバルな時代には知っておく必要がある。
3/23(火)快晴 外来 飯川病院 COVID-19ワクチン接種
0:30起床。文献チェックなど。5:30可燃ごみ提出。6:47バス病院へ。8:40-13:10外来、超疲弊。飯川病院に移動、ボランティア。微睡、15:30COVID-19ワクチン接種。19:00プリ帰宅+夕食。20:45就寝。徒歩Σ12301歩、注射部位筋痛あり。
終活2021(1) スナップ写真とVサイン(1) 受け入れがたい習慣 嫌悪感さえ持つ
現役を離れたのを機会に自分が関与していた社会的な部分はほぼすべてリセットしサラにした。過ぎし日との決別である。
残っているのは家族間の付き合い、細々と続けている外来診療だけ。あとは引きこもっている。
よその方と対話しないで済む環境が自分にとっていかに素晴らしいことか、現役の頃のはしゃべり続けていた。今、こんな状態を楽しんでいる。
終活の一環として、プリントされた古い写真の処分を始めたがなかなか進まない。
さすがに岩手で撮った写真等は古いアルバムにあるだけで未分類の写真はない。
秋田に来てからの40年間のスナップ写真、記念写真は未整理のまま大きめの段ボールに乱雑にため込まれている。
私は基本的に写真は記録の目的で撮る。人物には興味はない。だから、自分で撮ったスナップ写真は一枚もない。殆ど頂いたものである。
子供達からも、我が家ではなんで写真が少ないのだ?といわれた。その反動か、3人とも高機能の一眼レフで撮影を楽しんでいる。
写真を捨てるにあたってこれらを見直していると、特に若い女性たちはいわゆるVサインのポーズをとっているのが多い。
私はあんまり良い慣習と思っていないし、今も嫌である。私はVサインをした経験も殆ど無い。
Vサインは、人差し指と中指でV字にする手のジェスチャー。
Vサインは提示の仕方などによって、様々な意味をもっている。
第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利」を意味する仕草として広く用いられた。だから、選挙等でもスポーツでも年齢問わずVサインを出している著名人も多い。
1960年代以降、通常は手のひらを相手側に向ける形で、ピースサインとしても用いられるようになった。
この若い世代の特にスナップ写真を撮る時の Vサインは何なんだろうか。何を考えているのか?
日本の政治家は当選した時に万歳三唱する。Vサインを出したのを見たことは無いが、政治家で公的な場でも頻繁に出したとされるのはイギリスのチャーチル首相と言われる。彼はカメラを向けられるとヒョイと気軽にVサインしたという。
そのチャーチルが広島、長崎に原爆投下の報告を受けた際にも記者団に向かってVサインを出し、「これは勝利ではなくピースサインだ。広島・長崎に落とされた原爆によってもたらされる平和の意味だ・・・」と答えたらしい。真偽は定かではないが結構有名な話である。連合国側の戦争遂行の首謀者の一人が広島・長崎を名指しして平和を語った・・・・???。そんな資格はない。
これも含め、だから私は Vサインが嫌である。
3/22(月)小雨のち晴れ 健康クリニック 飯川病院
1:10起床、新聞・文献・徒然ほか何時もの如く。6:47バス飯川病院、9:00-12:30健康クリニック。ドック13名+結果説明3名+先週分結果判定、で負荷が大きく時間がかかった。12:40飯川病院。微睡本読みなど。14:00-19:00勤務。入院患者対応。19:30帰宅、夕食、21:00就眠。徒歩Σ7217歩。
公務員の人事異動の季節(2021) 秋田県・秋田市の人事異動はなぜ新聞に掲載??
また公務員の人事異動の時期がやってきた。
毎年年度末になると秋田県の県警、教職員、県庁の各部署の他、秋田市の職員の人事移動、加えて県内市町村の人事移動が、地方新聞の1-3面ほど、多い日は5面も、数日間にわたって続く。
毎年似た文章を書いているが、私の文章は外への影響はないから、私の愚痴のはけ口でしかない。分かっているのだが、黙って見過ごしているとストレスがたまる。今年もあえて取り上げた。
私はこの様な人事異動の新聞掲載の歴史と背景を知らない。だが、新聞購読者として不快に感じている。私は今は3紙購読しているが地方紙に掲載される人数と字数に圧倒される。
行政機関の人事異動は、定年退職者、人員補充、新採用者の配属、人員整理、機構改革、降格・昇進などを含む適材の配置など多数の因子が絡んでいる様だ。
私は人事異動の名簿など見たくもないが、公務員は許認可の決定権を持っていることが多く、長期間同じポストを同じ職員が占めることは、時に不祥事の温床にもなる。だから新聞発表なのか??
大変な人数の異動が行われると感心する。これらを過不足無く、間違いもなく配属を決める部署の能力と業務の煩雑さは大変だろうと思う。ほぼ出来上がった状態で急に誰かに不都合が生じれば、芋蔓式に変更を余儀なくされることもあるだろう。上級役職であれば人事部だけでは決められず細かな再調整が必要で、大変な労力を要するだろう。この点に関しては人事関係の職員の能力に頭が下がる。
人事を新聞報道する理由は何だろう??毎年感じる疑問だ。
部長クラスの移動は県民・市民への影響もあるだろうから報道する価値はあろうが、非役職者はその必要はない。
私の疑問と感想を並べてみた。
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■ 税で賄われている公務員の人事は行政が納税者に報告するのは当然。その有用性は論を待たない。しかし、本来は県とか市が責任もって納税者に広報すべきである。商業誌になんで??
■ 新聞社にとって報道すべき価値があると判断しているのなら掲載するのは自由だが、購読者の意向調査などやっているのだろうか??購読者はなんと思っている?
■ 県や市が独自の方法で正式に発表すべき。新聞社と県や市との間で何らかの合意とか費用分担などの契約があるのだろうか。
■ 税を納め、かつ新聞購読料を払っている納税者。読者の立場から見れば無駄払いになる。
■ 新聞は地方紙といえども県民が全て購読しているわけではない。だから、新聞に掲載したからといって県民に広報したことにならない。片手落ちだ。
■ 県や市には全戸配布の広報誌がある。これを使って広報すべき。
■ 年に一回の移動の名簿より、いつでもスタッフ名を確認できるように県や市はホームページに人事を公開しておくべきであろう。私は公務員は個人名を公開されてしかるべきだと思う。
■ 一般人にとってこれらの名簿は本当に必要なのか??講読者に直接関係の無いであろう自治体の異動まで読ませる必要性はどこにある?記録として残すため?もし、そうだとしてもそれは県とか市の仕事である。
■ 部課長以上の移動はニュース性がある。しかし、末端までの人事異動が新聞報道されるべきか疑問?
3/21(日) 小雨
0:00起床。文献・録音データその他の整理で過ごす。午前はデータ中心座学、NHKのど自慢久々あり楽しむ。昨年水洗トイレのルートの詰まり部位発見、除去。新聞チェック、本読みなど。書斎にて音楽関連録画視聴、N響定期井上道義指揮チャイコNo4ほか。「らららクラシック」3月で終了するという。19:00夕食、記念日関連第2夜牛玄亭弁当シリーズ。20:30就眠。Σ3743歩、ガレージまでの往復だけ。
ストラップ スマフォになぜストラップ穴が無いのか
ストラップ は、一般的には「何かをつり下げる紐」を指し、私の知っている範囲では「ファゴット、サキソフォーンとかの大きな管楽器などの重さを支えるために首からかける紐」などで、決してメジャーな単語ではなかった。例外的にストップウォッチにはよく付いていたっけ。
一躍有名になったのは携帯電話の普及によってである。
ストラップはその落下・破損防止を目的に実理性の面から使われ始め、ガラケーの爆発的な普及に伴い、そのファッション性もあって瞬く間に広まった。手頃な価格であることから、お土産グッズとしての人気も高かった。若い女性はガラケーに数本のストラップをぶら下げていたものだ。
私はチーム医療を好まず単独行動が多かったから、可能な限り自分で対応するために早くからポケベルを用いていた。1980年代後半に携帯に乗り換えた。当時はかなり贅沢な持ち物で、機器は重く、電池の持ちは悪く、かつ秋田市外に出ると通話困難になったから費用の割にはメリットは小さかった。
2010年からは各社からスマートフォンの発売が相次ぐと、関心を集め爆発的な普及が始まり現在に至る。
私も2012年iPhone5にし、現在はPhone8を用いている。
嘱託医となって入院患者を担当しなくなって以降病院との業務上の連絡は激減し、かつ隠遁生活に入ったから電話通話はほとんどなく、家族間の連絡にラインを用いている程度。Phone8は電話機ではなく音楽プレーヤーとしてとても有用、身から離すことはない。
それにしても月額9000円は高すぎる。
近年、スマートフォンがモバイルフォンを席巻しガラケーが少なくなった、なぜかストラップもその運命を共にして急速に市場がしぼんでいるようだ。「スマホ用ストラップ」もあるようだが、スマートフォンユーザーには殆ど支持されていない。
このカラケーにはストラップを用い、スマートフォンにはつけない、と言う現象は面白い変化だ、と思う。電話機とコンピューター端末の機能の違いか??
私はスマートフォンを落とすのが怖くて必ずストラップを用いている。
私と家内はiPhoneをグレードアップしつつ使っているのだが、なぜかiPhoneにはストラップをつける穴がない。これはとても不便なことである。外国人の発想にはストラップをつける、と言う発想はないのだろうか?疑問である。
私はやむなくiPhoneに透明なケースを被せ、そのケースに細工してストラップをつけている。私のはまさに実用性を重視したタイプで見てくれは悪いが、落下防止のために指を通すリングも全てにつけてあり便利で手放せない。家内のは置き忘れを防ぐために首下げタイプにしている。
iPadにも穴がない。より大きく重いからストラップは必需である。私は5台全てにつけている。
(iPad mini、iPhone7+、iPhone8のストラップ。iPad miniのケースは古いハンドバッグの皮を用いて自作、iPhone7+もストラップで皮に開けた穴が拡大していかないよう金属輪をはめている。iPhone8は伸縮性のあるプラスティックのストラップでポケットの縁にとめられるよう書類用クリップを付けている)
3/20(土)春分の日 超快晴 宮城県で震度5強、M=7.2の地震 津波警報発令。
11:30起床、新聞・文献・徒然ほか。録音データ整理。自炊4冊。10:00除雪機2台収納前整備、クロスバイクほか整備。泉外旭川駅発見学、爽やかな駅舎。午後は微睡のち椅子の修理に集中す、略満足の出来。16:00新聞チェック。18:06M=7.2の地震が発生。宮城県で最大震度5強を観測、津波警報発令。19:00夕食、記念日関連の寿司、20:30就眠。徒歩Σ8301歩。
災害2021(8) 宮城県沖地震 宮城で震度5強の地震
3月20日(土)18:10ころ、私は机に向かって座学中であったが、震度3-4程度と思われる地震があった。いつもの如く、すぐにラジオのスイッチを入れたが、以下の内容であった。
3月20日18時09分頃の宮城県沖の地震について
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■M=6.9(速報値7.2から更新)
■宮城県沖 深さ59km(速報値約60kmから更新)
■最大震度は5強 宮城県の合計10の市町村で最大震度5強を観測した他、北海道から近畿地方にかけて震度5弱〜1を観測
■2011年東北地方太平洋沖地震の余震と考えられる。
■8時11分に津波注意報を発表、19時30分に解除。
■地震発生から1週間程度、最大震度5強程度の地震に注意。
■東北地方太平洋沖地震の余震域内の地震は、全体として地震前の状態に近づきつつあるが、1年あたりの地震の発生数は、地震の発生前より多い状態が続いている。
――――――――――――――――――――――――――――――――-
宮城で震度5強!!!!で、津波注意報が出たが発生せず、19時30分に解除。
(今回も意外と広範囲であった地震域 秋田魁より借用)
2011年3月11日の東日本大震災から10年を過ぎたばかりのM=6.9の強い地震だった。直前の2月13日の地震はM=7.2であった。
今回の場合も東北新幹線は緊急停止し、夜半まで運転を見合わせた。
電力各社にる緊急情報によると、宮城県、福島県、茨城県にある各原子力発電所やその周辺では、放射線量を測定するモニタリングポストの値に変化は見られていない。
女川原発3号機のプールには1386体の核燃料が入っている。周辺に小さな落下物があったが、東北電力は、落下物が小さいことから核燃料への影響はないとしている。
東京電力によると、福島第一原発の1号機から3号機では、溶け落ちた核燃料がある原子炉や原子炉をおさめる格納容器への注水を継続していて、格納容器内部の温度や水位、それに圧力に大きな変化はないという。
私は、地震といえばとにかく福島、第一原発が心配である。
私は自宅や病院の医局などではラジオを微弱な音で流しているが、最近は全国的にも地震発生が多くなっているような印象である。
今回の地震も東日本大震災の一連の余震と考えられる。全体的に減少傾向にあるが、最近の1年間は増加傾向にあると言う。
ちょっと気にしている。
3/19(金)49年周年 曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・新聞読み、データ整理などいつもの如く。6:00ゴミ出し。7:35Taxi。8:12こまち、8:50-11:45外来、来週から新幹線津城ダイヤ、今週まで時間短縮で。13:00-19:00飯川病院ボランティア、19:30通町書店経由帰宅、夕食。21:00就寝。徒歩Σ7590歩。文庫本2冊読む。21:00就寝、徒歩Σ7590歩。
映画:「フラガール」(2) 制作:2006年 監督 : 李相日
映画「フラガール」の紹介記事を新聞で見た30分後には、残務をかたずけAmazon Prime videoでiPadで観始めていた。部屋に寝転んだまま映画を観れるなど実に便利な世になったものである。
監督を始め、出演者たちは私にとって初めて見る方々。
???1965年(昭和40)、福島県いわき市は炭鉱の町として栄えていたが、石炭から石油へエネルギー源が変わり、閉山が続いていた。その危機を乗り越えるために炭鉱会社が変身を図ったのが観光業で、いわき市にレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」を計画した。閉鎖の迫る炭鉱のまちを救うため、北国をハワイに変えるという、起死回生のプロジェクトであった。
目玉はフラダンスのステージだったが、一流のダンサーを集める経済力はなかった。地元で養成することになったが、募集に集まったのは素人の娘4人だけ。ダンス教師として東京からプロのダンサーを呼んだが、教師は田舎をバカにし、素人を前に教える気がない。しかし、生きるためにひたむきに練習を積む少女たちの姿に、いつしか忘れかけていた情熱を思い出す。
しかし炭鉱のまちは男世界である。世間の風当たりはつめたく、教える相手はドシロウト。炭鉱の町の危機をフラダンスで救おうとするけなげな女性たちを受け入れることができなかった炭鉱の男たちから次々と迫害を受け続ける。
地元の娘たちの熱心さに心を開いていくダンス教師、厳しい生活環境に陥ったダンサー志望者の家庭のエピソードなどにも、胸が打たれた。
内容はど素人が努力を重ね 実力をつけていくと言う普遍的なサクセスストーリーだが、現在にも繋がる社会不安を背景にしているからこそ、時代を超えて愛される作品へと昇華していったといえる。
昭和40年に、衰退する常磐炭鉱で街の再生を賭けて取り組まれた「常夏のハワイを丸ごと持ってくる」と言う壮大な常磐ハワイアンセンター計画が凄い。温水プールドームやリゾートホテルを建設し、ヤシの木を植え、そして日本人のフラガール、その全てを外国資本に頼らずにゼロから地元で創った。その圧倒的なエネルギーこそ、当時の日本人が持っていたエネルギーの根幹なんだ、と感じさせる作品となっている。
日本経済が農林水産業や製造業等からサービス業等の第三次産業化が急速に進む過程で女性の活躍の場が広がって行った。いつの時代も未来を信じて飛び込む人々が歴史を造ってきた。多くの地方テーマパークが行き詰まる中、3.11震災後の今も、コロナ蔓延後の今も「スパリゾート」として元気に営業を続けている。
映画「フラガール」のラストシーンはフラガールたちのデビューステージでその映像は一回だけの撮り直しなしの真剣勝負の撮影だったと言われている。高い完成度でここだけでも視聴の価値は十分価値ある。私はフラダンスを堪能した。
ダンス終了後の俳優陣の頬を伝うえ涙と笑顔が、この作品にかけた彼女らの意気込みと達成感が感じられる。
いい作品であった。
3/18(木)曇りのち快晴 午後飯川病院 映画「フラガール」観る
1:00起床、新聞文献、雑誌チェックとPDF化、読書。11:50バス飯川病院、
14:00-19:00勤務、入院患者対応。15:30新聞整理中に映画「フラガール」の記事発見、iPad、アマゾンにて視聴。炭鉱の歴史等懐かしい。19:15帰宅夕食、20:30就眠。徒歩Σ5780歩。
映画:「フラガール」(1) 制作:2006年 監督 : 李相日
映画「フラガール」を観た。
???現在「スパ・リゾート・ハワイアンズ」に改名した元「常磐ハワイアンセンター」誕生実話を映画化した2006年の古い作品。出演 : 松雪泰子, 豊川悦司, 蒼井優, 山崎静代, 池津祥子ほか。
新聞文献、雑誌記事をチェックしている最中に、地方紙である秋田魁新聞に映画「フラガール」の紹介記事があった。
私は福島の地に全く異質の常磐ハワイアンセンターが建立され、存在も存在し続けていること、フラダンス、フラガールの踊りそのものにも興味があり、機会があれば現地を訪れたいとも思っていたが実現は無理と諦めている。
映画「フラガール」に興味を持ったもう一つの理由は、日本のエネルギー革命の世相であった。その地の一つが福島県常磐炭鉱であり、その地が迎えた厳しい現実の上に作品が作られた、と言うこと。
??1965年(昭和40)、福島県いわき市は日本有数の炭鉱の町だったが、石炭から石油へエネルギー革命があって常磐炭鉱は続々と廃坑に晒された。さらに、石炭から石油へエネルギー革命は時を同じくして原発が導入され、福島県が原発の地になった。
さらに2011年3月11日に東日本大震災で原発事故が生じ、世界的に有名な地になったことである。
日本の原発の歴史は石炭から石油へ変わっていく中で、その時期にほぼ近く、同時に原発が導入されていた。炭鉱の廃坑が一気に進んだのは国策であった。石炭産業はその影響をもろに受け、住民の生活は一気に厳しくなった。
日本のエネルギー産業の変遷
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■1965年(昭和40)、常磐炭鉱は続々と廃坑に晒された。
■1966年7月 英国から導入した東海発電所が営業運転を開始。
■1970年11月 福井県に関西電力美浜発電所1号機。
■1971年3月 福島県大熊町に東京電力福島第一原発1号機が営業運転開始。
■2011年3月11日 東日本大震災、原発事故の地になった
――――――――――――――――――――――――――――――――――-
石炭産業の衰退とともに原子力発電が本格化した。
この映画は原発については触れてはいないが、石油、原発へのシフトも始まり、石炭産業が一気に斜陽化したものと思われる。世相に翻弄され地域の生活は一気に厳しくなっていった。そんなこともあってこの映画に興味を持っていた。
3/17(水)曇り 午後飯川病院勤務
1:00起床、文献整理関連ほか。午前は座学。11:50バス飯川病院。午後飯川病院勤務、入院患者対応はなかった。微睡、データ整理、文献読み、読書など。19:30帰宅、夕食、21:00就眠。Σ5650歩。
東日本大震災・原発事故10年(7) 無責任な意見をあえて申し上げる(2)
避難生活が長期化し、元住民で帰還を諦める人も年々増えている。避難者は高齢化して行く。
原発問題には終わりがない。
福島第一原発の廃炉作業は今の技術だけではできない。新しい設備や道具も開発しなければならない。COVID-19の世界蔓延で英国等に依頼しているロボットアームの開発が大幅に遅れている。こんな状態だから、いつ終わるか全く見えない。廃炉のゴミの収容先も決まっていない。
私は、帰還に夢を持たせるよりも、この10年間の生活を支えた避難先での生活再建が早く軌道に乗るよう住民に支援を進める方が理にかなっていると思う。
原発近辺では人口は大幅に減少し、コミュニティは戻らず、社会福祉などのインフラ再構築はできないだろう。
原発被災地域に関しては10年も経ってこんな状態だから、従来の「待ちの方針」でなく、発想の転換が必要な時期に至ったと考える。
通用しない意見だろうと思うが、私は以下のように考える。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
■ 現在帰還困難区域と言われる原発被災地域を全て国が買い上げ国有地化する。
■ 未帰還者には現在の避難地区あるいは新たな場所で生活できるよう一層援助する。
■ 国有地化した地域に原発汚染物質、放射線廃棄物、廃炉で生じた核のゴミなどを集約し処理する。
■ 日本全体が少子高齢化する中、地域の事情はもっと厳しい。将来的に街が成り立つか、コミュニティが形成されるか、私は先行きは厳しいと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
福島県の集計では3万6千人が避難を続ける。戻りたいと願う人。帰還をあきらめ、新たな地で暮らす人。共通するのは故郷への思いだ。
私も故郷に対する思い入れは強い方だと思う。そんな私がこんな意見を出すことは辛い。
長く続く廃炉、大震災の余震とされる地震への備えなど課題は多い。
政府の避難指示が出された福島県内11市町村の北西端にある飯舘村。4年前に大部分で指示は解除されたが、いま村で暮らすのは、事故前の6500人の4分の1に満たない。しかも、多くは長く村に住んできたお年寄りだ。若い方々はとっくに故郷を見限って他の地区で生計を営む。
計画された除染は3年前に完了し、生活の場の放射線量は落ち着いている。しかし手つかずの場所もある。
福島県の産業は県全体では、電子部品や医療機器に牽引されて製造業の出荷額が原発事故前を上回った。対照的に農林漁業は苦境が続く。
3/16(火)小雨 飯川病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、いつもの如し。5:50可燃ゴミ提出、6:47バス飯川病院に、まだ寒い。8:45-13:00中通総合病院外来。13:30飯川病院ボランティア。19:00帰宅、夕食、21:00就眠。8773歩。外来患者他から礼状他届く。歩数8772歩。
東日本大震災・原発事故10年(6) 無責任な意見をあえて申し上げる(1)
東日本大震災・原発事故から10年が経った。
福島の復興はなお不十分である。福島県は約4万人がふるさとを離れたままである。
政府も東日本大震災の地震や津波の被災地は復興の総仕上げ段階だとしている。地元の住民も、なお十分ではない、としながらも復興の進展は認めている。
しかしながら、国も原発事故災害による福島は別な対応が必要だ、と認めている。
全くその通りだと思う。
原発事故に伴う避難対象地域は事故直後に比べ、面積では1/3に減つた。
放射線量が高く、人が住めない帰還困難区域、立ち入りが禁止区域が双葉町、大熊町など7市町村に残つている。これらの地域では早期の帰還を目指して除染が進められているが、野山や湿地帯などの除染は極めて困難で、費用も莫大にかかる。除染を進めたとしても汚染された里山が残る地域に住民がどの程度戻るかは不透明。
多分期待出来ないだろう。
帰還希望者が戻れるように、行政や商店街などをコンパクトに集約しながら生活基盤の再建を急ぐべき、との意見もある。
私の感想を無責任に言えば、こんなアイデアでは再建しても生活基盤の再建、産業の再建は無理だと思う。
住民の帰還希望者は年々減少している。
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■ 福島第一原発がある双葉町は今も全町避難が続く。調査に対して6割超の世帯が「戻らない」と答えた。
■ 2年前の春から住民の帰還が始まった大熊町。1万人以上が住民登録をしているが、実際の居住者は約730人で、東電関係者以外は100人ほどだと町はみる。大熊でも「戻らない」と考える世帯が6割にのぼる。
■ 原発に近い富岡町、浪江町では住民の帰還率は1割に届かない。
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双葉町、他の町や村に汚染土などを詰め込んだ保管袋が積み上がる。
双葉町には政府が管理して汚染土を保管する中間貯蔵施設が広がる。双葉・大熊両町の林や田畑、家屋が汚染土の受け入れをしてきた。昨年の台風19号の時は汚染土の中身の一部が流出したりした。
これらの汚染度は法律で、30年後に県外へ運び出すことなっている。
私はそんな約束が果たされることはあり得ない、と思う。受け入れのことを何ら調査や議論することなく取りめた国の方針は超無責任である。かつて「原子力船むつ」の母港を巡ってトラブルが生じたことをもう誰もわかっていないのではないか。
原発の廃炉は遅々ではあるが進んでいる。その際、出てくる放射性廃棄物や溶け落ちた核燃料の処分方法の検討も、保管場所もの検討も進んでいない。
原発の汚染水を浄化処理したトリチウム水については、政府の有識者会議が、薄めて海に流す処分を最有力視する報告書を3年がかりでまとめた。しかし、住民の納得をうるのは困難であろう。国は決めかねている。福島はずっと風評被害と闘ってきた。海洋処分したらさらに再燃する。ならばどうする??
こんな問題を抱えたまま、国は原発の再稼働を進めようとしている。
原発事故の復興への道のりは長い。
3/15(月)曇り 健康クリニックドック 飯川病院
1:00起床、いつもと同じパターン。寒い、データ整理、6:47バス、飯川病院に。9:00-12:00健康クリニックドック14名+レ線チェック結果判定14名。飯川病院へ、微睡、14:00-19:00勤務、入院外来患者対応。19:30帰宅、夕食、 21:00就眠。Σ6423歩。
東日本大震災・原発事故10年(5) 故郷を離れての避難生活(3) 故郷とは
私が故郷を思う時に心から離れないのは石川啄木のうたである。
啄木は1886年(明治19年)現在の盛岡市に生まれた。現在の岩手第一高校で学んだ。私も同校で学んだのでちょっぴりと親しみを感じる。
啄木のうたは全体的に好きだが、故郷を歌った作品がとりわけ良い。
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■ ふるさとの なまりなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きに行く
■ ふるさとの 山にむかいて言うことなしふるさとの山はありがたきかな
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私はこれに第1歌集『一握の砂』にある以下の「初恋」も加えたい。
直接には故郷を歌ってはいないが、ほろ苦い初恋の思い出はこころの故郷そのものである。越谷達之助がつけた曲がとりわけ胸を打つ。ソプラノ歌手鈴木慶江(すずきのりえ)氏が情感豊かに歌っている。私は数100回も再生してこころの中の故郷を味わっている。
■ 初恋
砂山の砂に 砂にはらばい 初恋のいたみを 遠くおもい出ずる日
初恋のいたみを 遠く遠く ああ おもい出ずる日
砂山の砂に 砂にはらばい 初恋のいたみを 遠くおもい出ずる日
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啄木の作品は悲しい。この悲しみも私のこころの故郷に共鳴する。
■ 非凡なる 人のごとくにふるまへる後のさびしさは 何にかたぐへむ
■ 友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て 妻としたしむ
■ たわむれに 母を背負いてそのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
■ はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
■ 砂山の 裾によこたはる流木にあたり見まはし 物言ひてみる
■ 路傍に 犬ながながと呻しぬわれも真似しぬ うらやましさにる
■ 東海の 小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて 蟹とたわむる
■ かめにさす 藤の花ぶさ みじかければたたみの上に とどかざりけり
■ 頬につたふ なみだのごはず一握の砂を示しし 人を忘れず
■ 馬鈴薯の うす紫の花に降る雨を思えリ 都の雨に
■ さりげなく 言ひし言葉はさりげなく君も聴きつらむ それだけのこと
3/14(日)寒いが快晴 飯川病院日直・当直医補助
0:40起床、蓄積データの整理と確認、本読み、文献読み。8:42バス飯川病院に。9:00~19:00日直+当直医師補助。微睡、読書、蓄積データの整理とバックアップ。12:00検食。本読み。19:30帰宅、夕食。21:00就寝、Σ6870歩。
東日本大震災・原発事故10年(4) 故郷を離れての避難生活(2) 私なら耐え難し
私どもは、普段は「故郷」が自分にとってどんな意味があるのかをあまり深く考えることはない。しかし、今回のような「故郷の喪失」の危機に直面するとその重みが重ひしひしと感じられるようになるだろう。これは老若男女の別なく共通の感覚らしい。
一体、人間にとって「故郷」とはなんなのか???
生きるために辛酸を舐めながら生活し、残り時間が少なくなった高齢者の集会や高齢者施設で歌を歌う機会があれば、一番所望されるのは小学唱歌「故郷」だ、という。
「故郷」は単に生まれ育った懐かしい街、あるいは村を示すだけでない。
「故郷」は心にきざまれた自分の人間形成の過程で原点となった、幼少期から青脊時代にかけての親兄弟をはじめとする人間関係、四季折々の生活、忘れ難い出来事のイメージが包括的に記憶に刻まれているはずである。
楽しいことだけではない、苦悩もあったろう、ほろ苦い初恋の思い出もあっただろう。苦い思い出は、年齢を重ねるごとに浄化されていっただろう。
「故郷」には小中学校の校歌には必ず読み込まれている山河も懐かしい。同級生の顔も浮かぶ。
現実に実行できるか否かは別として、「故郷」がいつでも帰れる場として個々人のこころに存在するならば、その人は人生で挫折しても心を破綻させる事なく乗り越える強さを備えているはずだ、とまで思う。
私にとって「故郷」イメージは上記の全てが当てはまる。
私は18歳で勉学のために故郷を離れた。22歳の頃、住み慣れた家屋敷を手放した。
私の「故郷」には、3年ほど前の実兄の死をもって血縁者は一切残っていない。今は「故郷」に具体的に残っているのは代々受け継いできた墓のみである。
にもかかわらず私のこころの中の「故郷」はいまだに大きい存在である。
青春時代まで過ごした家族たち、一匹のネコとの濃厚な思い出、それに友人たちもいた。
岩手片富士と言われる雄峰岩手山、水流豊かな北上川、その間に広がる田んぼや畑などなど、思い出し始めたら尽きることはない。
私にとっての故郷は私を育ててくれた。しかし、今は秋田の生活の方が何につけても濃厚である。
私が息をしなくなったら、一人寂しく「故郷」に帰り、土に戻っていく。それを考えるだけで私のこころの中に安堵の気持ちが広がっていく。
「故郷」とはかけがえのないものである。その「故郷」を離れざるを得ない、あるいは戻れない環境は、私にとっては想像するだけでも耐えがたい。
3/13(土)終日小雨 泉外旭川駅開業 居間の椅子修理
1:10起床、文献検討、徒然など、8:00泉外旭川駅開業の狼煙上がる午前は座学、午後は居間の椅子修理。データ整理。17;30泉外旭川駅開業の祝いの花火が上がる。Σ4428歩、敷地から一歩も出ず。19:00夕食。20:30就寝。
東日本大震災・原発事故10年(4) 故郷を離れての避難生活(1) 苦痛はいかばかりか
2011年3月11日14:46のM=9.0の地震発生、それから約50分後沿岸部は巨大津波に飲み込まれた。
東京電力福島第一原子力発電所は全電源を焼失し原子炉の冷却が困難となり、メルトダウン、引き続く水素爆発で1-3号機では建屋が大きく破壊された。
東日本大震災は戦後最大の災害と言われた。
この災害が1995年の阪神淡路大震災と大きく異なるのは、2011年12月の時点で33万人という多数の被災者たちが、いつ帰れるか目処のないまま長期に避難を余儀なくされた事である。
東日本大震災関連では避難者が多数出た。津波被災区域では復興のために建築制限が引かれた。福島県では放射線被曝のために避難者が多数出た。
10年経過してその数は1/10程度にはなったものの、いまだに4万人の方々が避難生活を送っている。
原発周辺町内には、原発に何か事故があっても東電がなんとかしてくれるだろうと楽観論すらあったが、11日夜から避難区域の指定が始まった。
住民は何が何だかわからないまま、原発から半径3Km、10Km、20Kmと同心円状に避難区域はどんどん広げられた。それだけ自治体、住民には事故時の対応など説明されていなかった。
東日本大震災被災地から秋田県内への避難者は、今月1日現在で190所帯、484人となっている。このうち70所帯が秋田県への定住を視野に避難生活を送っていると言う。福島からは383人、宮城96人、岩手5人となっている。最も避難者が多かったのは被災直後の2011年で、1571人、福島県人が最も多かった。避難して10年も経つのにまだ定住先を決められないでいる方がいる事自体が驚きであるが、日本一人口減少県である秋田県にとっては移住していただく機会なのではないか?ぜひ早く県内定住の方向を決めてほしい。秋田県は今年「被災者受入支援室」を縮小して「班」にするという。これでいいのだろうか。
津波被災、放射線被災の両者に共通するのは生活や人生を支える基板となる「故郷の喪失」という事態である。今までの歴史の中でこれほどの方が移住を強いられた事はないのではないだろうか。為政者たちにとっても初めての体験であろう。
「故郷の喪失」は人間にとって家屋の喪失、財産の喪失とは比肩できない、親族を失うに等しい重大事である。しかしながら、「故郷の喪失」は損害賠償、保証などの対象になりがたいところに問題がある。
原発事故関連の賠償額は10兆円にまで膨らんだ、という。果たして東京電力の経営陣、復興庁などの関連者の方々は「故郷の喪失」に関して何と考え、評価しようとしているのだろうか。同様のことは原発訴訟の裁判官にも問うてみたい。
3/12(金)曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00飯川行院で起床、文献・新聞読み、データ整理など。7:00検食、7:45徒歩駅に、8:11こまち、9:10-11:45大曲中通病院外来、勤務時間少しでも確保するためにTaxi。秋田市内は徒歩。秋田新幹線は26日まで間引き運転と。13:00 -18:40飯川病院ボランティア。新聞点検など、18:15書店経由Taxi帰宅、夕食、20:30就寝。Σ8387歩。
東日本大震災・原発事故10年(3)
2011年3月11日、14:46の地震発生から50分後、第一原発は津波によって全電源を喪失した。
周辺町内には、それでも東電がなんとかしてくれるだろうと、まだ楽観論すらあったが11日夜から避難区域の指定が始まった。
12日の15:36、1号機で水素爆発が生じ、それまでの我が国の「原発の安全神話」が完全に崩れた瞬間であった。
原子炉の冷却ができなくなると何が起こるのかすら知らされていない自治体、住民は何が何だかわからないまま半径3Km、10Km、20Kmと避難区域はどんどん広がった。
放射性物質の拡散方向を決める『SUPEEDI』は入力べき原発のデータが役立たず、結果的に放射性物質が多く流れる方向に向けて多くの住民が避難した。
国は事故後の放射線予測には『SUPEEDI』は不正確だからこれに頼らず、モニタリングポストなどの実測値による方法に変更した。
言えることは、原発事故が生じた際に部内、部外者に「一体何が生じたのか」、住民や自治体が何も示されていないことが問題であった。だから、だとすれば住民や自治体は国の方針に従うしかない。だが、肝心の国は知識不足からその情報を発信できなかったことにある。
日本の原発政策は「原発の安全神話」のもとに作られてきたから事故の際の対応など司令塔うになるべき部署も専門家もいなかった。
逆に、最近「福島原発10年検証委員会」は、「日本は福島の原発事故のあと世界一厳しい規制を行う」との方針を示した結果、「日本では二度と原発事故は起こらない」との「新たな安全神話」形成されることになった。
原発事故直後、脱原発の機運、節電の機運が一気に高まったが、10年経過した今、ともにその機運はしぼんでいる。東京電力の関連ニュースを集めていると今でも綱渡り状態であることがわかる。
人は物事を都合よく考える傾向がある。
原発事故はどんなに安全を求めても事故を防ぐことができない。
例えば、考えたくないことであるが、某国の通常ミサイルが日本の原発を数箇所攻撃すれば、我が国は放射能汚染のためにほとんど居住できなくなりうる。原発のエネルギーはそれほど大きいものである。いかに安全を高めても人間の英知を超えている予想外の事象が生じうる。
3/11(木) 東日本大震災10年目 快晴 午後飯川病院+当直
1:00起床,新聞入力。文献多数検討など。本読み、など。快晴なるも寒い。ガレージの鉢植え全部庭に。 11:50バスにて飯川病院、ボランティア、14:00-17:00飯川病院勤務、入院患者対応。東日本大震災政府主催慰霊祭の様子を聞く。今年が最後だと言う。菅首相の言葉が虚しく響く。言葉にすることで失われるものがある。17:00当直業務に。18:00検食、20;30就寝。Σ5877歩。
東日本大震災・原発事故10年(2) またこの日がやってきた 一気に増えたメディアの特集記事
東日本大震災・原発事故から10年が経った。
「カレンダージャーナリズム」という言葉がある。過去に大きな出来事が起きた日の前後に、関連するニュースが増加することを指す。
「被爆○年」、「終戦○年」などがそれである。この話題の場合は「8月ジャーナリズム」とも呼ばれる。同様に、東日本大震災についても「3月ジャーナリズム」と呼べる現象がある。
今年は東日本大震災が生じてから10年目の節目にあたる。報道記者たちはその日に向けて関連特集を含め、報道の準備に忙しかったであろう。
「カレンダージャーナリズム」はあまり良い意味では使われない。「毎年その時期だけは熱心に報道するが、後は忘れてしまう」という皮肉の意味がある。
しかし、私は必ずしもこの種の報道を否定しない。
■ 毎年節目の時期には思い出すべきものがある、ということ。この動きが記憶の喪失、風化を防いでいく。自分が成長、あるいは老化して行く毎に捉え方も異なるから大きな意味がある。
■ 他の理由は、同じテーマの記述が集中するから、その折々の評価、経時的変化などがまとめられるから資料として活用できる。新聞が毎日発行され、その誌面が広いといえども限界があるし、読者が興味を向けてくれるかわからないから、関連のない時期に取り上げることは困難である。
■ メディアの役割は速報だけではない。次世代に知恵と経験を伝え得ていくことも重要だ。被災者が置かれている状況を個人個人のドラマに終わらせず、大きな目で評価し問題提起していく機能ももとめられる。
今年、3月11日は東日本大震災の10年の節目にあたる。一月ほど前から東日本大震災、原発事故関連の報道が目に見えて増えてきた。
カレンダージャーナリズムにも十分な意味がある。
3/10(水) 快晴 午後飯川病院勤務
2:00起床,新聞入力、文献多数、データ検討など。11:50バス飯川病院往、ボランティア。14:00-19:00勤務。13:30検食、微睡。入院患者対応、19:20帰宅,、夕食、Σ5869歩。
東日本大震災10年(1) その二日前の地震が被害を大きくした
2011年3月11日は東日本大震災が生じた日であるが、あれから明日で10年を迎える。
その2日前の3月9日午前11時45分頃、秋田で深度4ほどの地震があった。三陸沖を震源とし、宮城県北部では震度5弱だった。
3月11日の地震はあまりにも大規模で、来襲した津波は歴史上みられないほどの規模で、多数の人命が奪われ、岩手県・宮城県の沿岸部の街、福島も含め壊滅状態となった。
そのために2日前に生じたゆっくりした揺れの地震が話題に上ることは少ない。
私自身はこの地震について今でもはっきりと覚えている。
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3月9日午前11時45分、震源地は牡鹿半島東沖約160Kmで、深さは8Km、M=7.3と推定された。その後も震度3程度の余震とみられる揺れが相次いだ。秋田市では震度4を記録した。
気象庁は青森県、岩手県、宮城県、福島県に津波注意報を発令、岩手県大船渡港で60cm、石巻市で50cm、釜石市で40cmの津波を観測した。津波注意報は14時50分に解除された。大船渡市は1996世帯5555人に避難勧告を出した。
この津波による人的被害はなかった。
東北・東京電力によると、女川原発や福島第1・第2原発に異常はなく、通常運転を続けた。
気象庁は、今回の地震は震源の位置などから近い将来想定される宮城県沖地震との直接の関係はないだろう、との見解を示した。
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私自身が経験した大きな地震は、1965年仙台で経験したM=7.5の新潟地震、秋田で1983年に経験したM=7.7の日本海中部地震があるが、この時は小刻みな揺れから始まり、間も無く揺れがひどくなり、次第に振幅の大きな横揺れとなった。
3月9日の地震は小刻みな揺れを殆ど伴っていなかった。いつもなら直ぐに何としようかと慌てるのであるが、この程度の長周期的地震なら被害は出ないだろうと思いつつそのまま身を任せていた。一方、それだけ揺れをじっくり体感できた。
この日の地震で、二日後にあの歴史的災害が生じるなど、誰が想定できただろうか。
被災地の行動から見れば、3月9日の地震の津波が小さかったこと、また約1年前の2010年3月のチリ地震でも津波警報が出て多くが避難したが津波はこなかった。この経験と記憶が3月11日の津波来襲の判断と避難行動を鈍らせたと指摘されている。
本年、2021年2月13日に福島県で震度6強、M=7.1の地震が発生した。震源が55kmと深く津波の発生はなかった。
震源の深さと津波発生に大きな関連がある。3月11日は深さ24kmと最近の地震の中では浅かった。それが巨大津波に結びついている。
3/9(火)超快晴終日 中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:40起床、新聞・文献チェック。5:30可燃ゴミ提出、作業衣に1週前から、まだ若干寒い。6:40バス飯川病院、8:40-13:20中通病院外来。若干難渋。14:00飯川病院、本日から火曜日はボランティアに変更、勤務は水曜日に。検食、微睡。19:30帰宅、夕食。21:30就眠。Σ8787歩。
ラジオ2021 As a theater of the mind(2) ラジオ深夜便のMP3録音1.9000時間分
私にとってラジオは重要な情報源になっている。興味ある話題があればICレコーダーに残したり、メモし、のちに新聞で確かめる。
早朝1:00-5:00am間は私が起きている時間で、ラジオ深夜便を聞きながら過ごす。
この時間帯は一定の基準で放送内容が決まっている。
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■ 1:00-2:00amはNHKニュースの後、文学作品の朗読、上方落語など。
■ 2:00-3:00amは洋楽を中心にしたロマンチックコンサート。
■ 3:00-4:00amは日本の歌、心の歌。
■ 4:00-5:00amは明日への言葉。哲学あり、宗教あり、各界で活躍している著名な方々の人生観など。
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かつてはカセット、コンパクトディスクに録音していたが、カセットなら60分テープで毎日2本づつたまるからスペースもバカにならない。
それで購入したのが2007年に発売になったばかりのオリンパス社のラジオサーバーVJ-10。37GBの、当時としては大容量ハードディスク搭載で最大約2500時間のFM/AMラジオ番組をMP3でデジタル録音することができる。USB接続によりパソコンにデータ転送が可能。とっくに発売終了した。回転部分のハードディスクの寿命が心配であるが、いまだに現役でしっかり働いてくれている。
2008年から毎日4時間のラジオ深夜便がデータとして蓄積されている。約19.000時間分にもなった。これらを有効に活用するには目録がなければなんの役にも立たない。私は全録音分の目録を欠かさずに作っている。出演者、演題名で検索をかければ録音データを簡単に呼び出し聞くことができる。
蓄積した録音データはパソコンでも聞けるが、私はiPhoneにデータを移しブルートゥースを介してノイズキャンセリングヘッドフォンで、主に移動時間に聴いている。
意外と面白いのが、 1:00amのNHKニュース。日本で、世界で生じた大事件、大災害などのニュースを当時の雰囲気そのままで聞きなおすことができるのは貴重である。
ラジオは映像がないが、私にとっては不要である。自分の中で状況が目に浮かぶ。昔聞いたある音楽グループの名で「Theater of the mind」と言うのがあったが、私にとってはラジオ放送はそう言ってもいいような世界が眼前に展開してくる。
だから、ラジオは面白いし、有意義なのだ。
最近、ラジオも聞ける多機能スピーカーを購入し、私のラジオ生活は一層充実してきた。
音声でコントロールできる多機能スピーカー「Amazon Echo Show5」を購入
3/8(月)午前雲ひとつない快晴気温は低い 健康クリニックドック 飯川病院
1:15起床、新聞・文献チェック。その他蓄積データ整理。6:47バス飯川病院へ。9:00-11:45健康クリニックドック14名+結果判定14名、12:00飯川病院、微睡、14:00-19:15勤務。入院患者対応。読書など。19:30帰宅・夕食、21:00就寝。Σ9326歩。
ラジオ2021 As a theater of the mind(2) 私のラジオ歴の変遷 貴重な情報源
私のラジオとの付き合いは小学校入学時頃から始まる。鉱石ラジオとイヤフォンでもっぱらNHK第一放送を聞いた。また、ラジオ=NHK第一放送と言う図式、イヤフォンからヘッドフォンに進化したが、一人で耳元でラジオを聞きながら、という図式が確立した。
約70年間、常にながら勉強、ながら仕事をしていた。ヘッドフォンをかけていると人から声がかからないというメリットもあった。
ながら状態といえども、集中すると耳からはほとんど何も聞こえなくなるから問題はないのであるが、集中できずだらだらとながらをやっているときは頭は適宜切り替えているとされるから勉強も仕事も半分しかやっていないことになる。
勿体ないことをしたものである。私は勉強には随分時間を費やした、と思っているが、ながら勉強していなければ、私の人生は別はコースをたどっていた可能性があった。
1953年TVの本放送を開始が始まり、1958年頃、我が家にもTVを購入した。一時的にTV放送に興味を持ったが、私には一過性の興味しか湧かな買った。今でもそれは変わらず、日常的にTV視聴は19:00のNHKニュース中心に一日15分程度である。居間にはTVがあるが、映っている時間はうるさい音声を含め私には不快な時間である。
高校まではもっぱらラジオ第1放送であったが、1965年(昭和40)頃からはNHK-FM放送を併用した。音楽番組を聞くのに段違いの音質の良さがあったからである。
この後しばらくは音楽中心の聴取になり、オーディオの世界にのめり混んだが、2000年頃に音質追求の道から決別し、徐々にラジオ第1放送に戻った。やはり無機的な名曲群よりは、人間が登場し、会話中心の、より人間的な第一放送の方がいい。
私にとってラジオは単に楽しむのではなく重要な情報源になっている。日中の放送は聞きっぱなしであるが、興味ある話題がある場合にはICレコーダーに残したり、メモして置き、のちに新聞で確かめる。早朝1:00-5:00am間は録音をとりながら聞いている。
3/7(日)雲ひとつない快晴・やや温暖
1:30飯川病院起床、データチェック。関連文献検討、本読みなどほかいつもの如く。9:30バス帰宅。昨日からお泊まりの孫が二人パン作りしながらまだ自宅にいた。11:00陽気につられて外仕事。庭仕事、つるバラの剪定など。自転車降ろし整備。14:00時間一家も加わり今年小学校に上がる孫の一人にランドセル贈呈式。微睡。久々書斎にこもり新聞チェック、データ整理。音楽関連録画確認。19:00夕食、21:00就眠。Σ10595歩。
ラジオ2021 As a theater of the mind(1) 私のラジオ歴
私はメディアとしては第一に新聞、第二にラジオ、第三に・・・の順である。
私のラジオとの付き合いは小学校入学時頃から始まる。当時、東北大学の通信工学部で学んでいた兄の影響だった。兄は私に鉱石ラジオを作ってくれた。電波のエネだけで動く簡素で不思議なこのラジオ、NHK第一放送しか入らなかったし、イヤフォンだけで、音量は微々たるものであった。この鉱石ラジオは私を虜にした。また、ラジオ=NHK第一放送と言う図式が私に出来上がった。なんだか内容が理解できない放送だけであったが、落語、歌謡などの娯楽番組が救いであった。
ラジオは船舶用無線から発展した。長距離通信では19世紀に既に海底ケーブルがあつたが海上を動く船舶は無線通信が求められた。
第1次世界大戦後には軍用だった無線器が放出されアマテュア無線が生まれる。
1920年には米国で放送局も生まれた。この時代は鉱石式ラジオで真空管式は出始めたはかりだつた、と言う。
日本でも新聞社を中心にデモ放送を始めたこともあってラジオは急速に知られていく。
1923年の関東大震災で有線網か壊滅、無線放送の重要性が認識され、1925年のラジオ放送開始の遠因となった。
日本で放送か始まった頃に米国製の真空管ラジオが輸入されたが、家1軒に相当する値段だった、と言う。その後数年で全国に放送局か設立されラジオが普及した。
第2次大戦が近づくとラジオは政策の一部になる。
真空管式が増えお茶の問にラジオは当たり前となりつつあった。ドイツでは海外放送を聴けないように性能の低いラジオをあえて普及させ、日本も海外放送の聴取は禁止され、規賂叱された製品が量産された。多くの国民が聞いた玉音放送がこれである。
私にとってのラジオは鉱石ラジオから始まり、1950年ころから居間には5球スーパーのラジオが備えられ、私の机上のラジオは1960年代に入るとトランジスタ式に変わる。いつも放送を聞きながら勉強し、寝る時は鉱石ラジオを聴きながら眠った。
1953年TVの本放送を開始が始まり、以後、徐々にメディアの主役がTVどになりラジオは衰退する。しかし、私は常にラジオを好んできた。
現在、ラジオはスマフォで聴くようになった。そのためか若者の中でラジオが復活し始めているらしい。(歴史部分は日本ラジオ博物館長 岡部氏の文献を参考にした)
3/6(土)快晴 飯川病院日当直 レセプトチェック
1:00起床、新聞・文献・資料検討。朝までは座学中心。微酔など。ダリアの球根のチェック、ややウエット。芽が出始めている。死んではいなかったが今の隅っこは暑すぎたか。11:30家内に同乗、飯川病院に。12:00から明日朝まで日当直。微睡、新聞チェック、外来レセプト点検。18:00夕食、20:30就寝。Σ4290歩。微睡の時間が長かった。
季節の話題2021(5) 秋田の雪(5) 過疎の雪国の田舎は高齢化で住めなくなっている
今年は県南部を中心に記録的な大雪が続いた。横手市、湯沢市では積雪が平年の5倍ほどに達し、屋根の雪下ろしや除排雪中の事故が相次いでいる。
県の災害派遣要請を受けた陸上自衛隊が横手市で活動を始めた。
雪との闘いに悲鳴を上げている市民がいる。市街地でも大変な状況である。
ましてや、過疎の田舎は高齢化と高齢者単独世帯で住めなくなっている。
まだ新しい統計を得ていないが、1月中旬の統計で全国で雪下ろしなどで全国で249人が重軽傷を負い、死者は65人であった。
秋田県南では1月4日夜から5日にかけて屋根の雪下ろし、除雪作業中の事故で3人が亡くなった。1月中旬の時点で秋田では18人が死亡している。多くが高齢のジジババである。屋根からの落雪に巻き込まれた1人暮らしの高齢者の犠牲もあった。豪雪地帯ではもはや高齢者が自力で冬を越せるレベルではない。
過去に1973年の「四八豪雪」や2005年の「平成18年豪雪」といった記録的豪雪があった。
(2013年もやや降雪量が多かった。庭に停めてあったHONDAオープンカー CR-Xデルソルの上にも何層にも雪が積み重なった。やっと掘り出した。この車は鹿児島の愛好者にに貰われていった)
(本年1月の降雪。たった一晩でこれだけ降った。75歳の私でも除排雪に難渋したが、その後の数日寒気が緩みとても助かった)
県内の高齢化率は過去の豪雪当時それぞれ約8%、約27%であったが、現在の高齢化率は約38%、1人暮らしの高齢者世帯は約32%を占める。高齢者の命と生活を守る支援や対策が急務である。
県の調査によると、秋田県内には地域の高齢者宅などの除排雪を行う共助組織が50団体ある、と言う。
しかし、地域そのものが高齢化している。支える側も決して若くはない上、大雪で自宅の雪下ろしや除雪に追われる毎日。記録的大雪を前にしては、共助組織の奮闘にも限界がある。
陸上自衛隊秋田駐屯地による除雪支援、高校生や市役所職員による除雪ボランティアが始まった地域がある。地域を挙げて支援の手を差し伸べることは大切だ。しかし、継続的に支援するにはこれらにも限界がある。
本来、田舎は農業を中心に、多世代が同居する大家族制の生活様式でなければ成り立たないものである。家族が一団となって雪と対峙し乗り切ったものだ。そのような現実を捨てて、日本は高度成長時代を突っ走った。その結果迎えたのは現状である。秋田の高齢化率は日本一である。
人口が減少し、まばらにある高齢者の住宅を維持するための道路の雪よせも大変、在宅介護も大変、とても非効率的。いずれ立ち行かなくなる。住民は日用品の買い物もできない日が何日も続く。
この厳しい状況に対しては、豪雪期だけでも高齢者を収容する施設を作り、集中的にお世話してはどうだろうか? 多分高齢者は自宅の生活にこだわり、是としないだろうが、徐々に発想を転換していかねばならないだろう。
3/5(金)曇りやや温暖 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・本読み、徒然他、データ処理。5:20可燃ゴミ提出。7:30Taxi駅、8:11こまち。診療時間の関係で往復タクシー、8:50-11:35大曲中通病院外来。11:50新幹線。秋田駅から徒歩。途中で自分分の申告書提出、一段落。13:45飯川病院ボランティア。微睡、読書中心。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。ラジオ深夜便数回分。歩数7729歩。ヘッドフォン忘れる。
季節の話題2021(5) 秋田の雪(5) 廃車予定の22年目のボロレガシー大活躍
ついに、待ちに待った春が訪れた。今年は寒い冬であった。実際まだ寒い。
今季は秋田市も降雪量が多かった。しかも、積雪と融雪が短期間に繰り返され、交通はかなり渋滞した。
私は昨年8月いっぱいで運転免許を返上した。
私が日常使っていた車は初登録後22年目のスバルレガシー4WD車である。さすがに小さな故障は数多いが、私は基本的に車は可能な限り4WD車にすべしと考えていて,1980年頃からスバル4WDの乗用車を利用している。
私が秋田に移り住んだ1971年(昭和48)は冬季間を通じて、日本海沿岸東北地方を豪雪が襲った。 横手観測所では2月に最大積雪深259pを記録、交通機関がマヒし、2月26日から奥羽本線が5日間ストップするなど、深刻な影響が出た。この年の豪雪は「昭和48豪雪」として秋田の歴史に刻まれている。
私は当時FRのマツダグランドファミリアを用いていたので通勤や駐車場にて頻回にスタックし、大きな不便を味わったので4WD車に興味を持った。
スバルは長い年月をかけて4WD車を開発していたが、初代4WD車1972年「ジープタイプではない量産4WD」が世界で初めて世に送り出された。それまで四輪駆動といえば、ジープタイプの車を意味し、乗用車タイプの四輪駆動車は存在しなかった。
実際に発売当初は高価であり手が出なかったが、1980年頃スバルレオーネ4WDを購入できた。雪道の機動性はFR車、FF車とは段違いの走行機能が得られた。
以降私は現在に至るまで40年間ほど所有する車の一台は必ず4WD車にしてきた。
4WD車にこだわったのは、走る・止まるが車の基本だし、当時勤務していた秋田大学病院に通勤するには丘越えが出来て4WDであれば近道ができたこと、私の自宅のアクセス道路が狭くスタックすると抜け出るのにかなりの苦労したからである。
私の最後の愛車はスバルレガシー4WDで、初登録から22年用いたボロレガシーである。私は自分が長い間用いてきた道具などに大きな愛着を持つ。このレガシーも傷は多いし、エアコンも不調であるが全部自分で対策してきた。修理すればするほど愛着が強まっていく。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/f3/6db805f4e652c02787ea2361757f1703.jpg" border="0">
(今冬大活躍したスバルレガシーワゴン4WD。22歳と思えないほど力強い。役目を終えて庭先で静かに次の出番の機会を待っている)
運転免許返納した後、維持費軽減のためにスバルレガシーを廃車にしようと考えたが、車検が1.5年も残っているから焦ることはないと手続きを後回しにしていた。12月に入って意外に降雪量が多く、FFのプリウスでは心配なので降雪期は家内が用いることとなった。外見も悪く、当初は使用をビビっていたが降雪量が増えるにあたって彼女も4WDの機動性を認め12月中旬から2月中旬までプリウスに代えて使用した。
春を迎えて家内はプリウスに戻った。
私は自分では乗ることはないが、スバルレガシーワゴン4WDは最小限いつでも動かせるようメインテナンスだけはしっかり続けている。
3/4(木)超快晴 寒い 今季初の園芸関連作業開始 飯川病院
1:00起床。文献新聞など。放射冷却による寒波。午前座学、9:30園芸関連社業今季初。ボタンの鉢を外に出す。レガシー充電。ガレージ整頓、散水用ホース準備。ボタンに給水、11:50バス飯川病院。ボランティア、14:00勤務。入院患者対応、次年度の飯川病院診療契約締結。19:15帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計7979歩。スキーウエアなしで出勤。
季節の話題2021(5) ついに私に春が訪れた 秋田の雪(4) 今年は降り方が変だった
ついに、待ちに待った春が訪れた。今年は寒い冬であった。実際まだ寒い。
私の定義による冬は2月10日に終わって、私は春を迎えた。
秋田の手付かずの田んぼはまだ一面雪に覆われている。徐々に強くなりつつある日差しを受け、とても美しい。やっと春の訪れである。
(庭先のボタンは昨秋から小さな花芽をつけていたが、ここ数日目に見る見る膨らみ始めている。今後が楽しみである)
私の四季の定義は以下の如くに決めている。
■冬 除雪を要した期間。ゆえに、今季は12月19日-2月10日間。今季はこの間に11回回除雪機を出した。久々頻回であった。
■春 除雪が不要になった日から桜が散るまで。
私は四季を上記のように勝手に分類している。
カンカン照りの夏、日差しを浴びながら外仕事をするのが大好きな一方で、降雪期には除雪のストレスに苛まれる私にとって、冬季間を短く算定するために一番合理的な分類である。
今季は全国的には雪が多かったと思う。
1-2月上旬には北陸を中心に大雪の被害が続いた。新潟も多かった。豪雪に見舞われた福井では、交通網が寸断され、鉄道の運休が相次いだ。
積雪が140cmを超えた福井市内、学校の休校が続き、車の立ち往生が起きた。
秋田県内も全体に多かったが、内陸県南の豪雪地帯と言われている湯沢、横手、大曲地方は特に多かった。雪に関する死亡事故も頻回であった。
秋田市内も雪が多かったが量的には例年並み+アルファといったところだろうか。昨年は異常に少なかった。
秋田市の今年の降り方を見ると、1月中から2月上旬まではよく降ったが、週間を通して連続的に降ったのではなく、数日単位で集中的に降った。
しかも、数日降雪を伴う寒波が続いた後は数日間は寒波は緩み、路上はすぐに解け始めた。例年除雪が数日続くと雪を寄せるスペースが少なくなるのであるが、今年はそう言うことはなかった。
降雪と融雪の繰り返しでむしろ交通は障害を受け、予測がつかなくなった。道路は圧雪状態にある方が融雪でベトベトな状態よりは通行はスムーズである。
秋田市内の除雪は我々の目から見て中途半端だ、と思うが、早々に除雪完了の宣告が除雪対策本部から発せられた。私は??であった。私はそれほど路上に出ることはないが、作業中の除雪車に一度も遭遇していない。
私は毎週金曜日、大曲中通病院に診療応援に行く。
8:11分発のこまちに乗る。自宅から駅までの6kmをタクシーで行くのであるが、自宅へのタクシーの予約は道路状態を推定しながら日によって7:05-7:40の間になった。こんな田舎で交通量ももそれほどあるわけではないが、わずかの距離を1時間もかかる日があるなど、異常な状態が発生した。
3/3(水)晴れ時々曇り 飯川病院ボランティア
桃の節句。1:30起床。文献など処理。午前中は座学中心、手元の LEDライトの改造。一層明るくなった。データ整理。12:12バスにて飯川病院、12:10ボランティア。19:30帰宅j、夕食、20:50就眠。Σ5870歩。
?災害2021(5) 福島県沖地震(7) 福島第一原発は(3) 2月22日時点の報告
以下は2月22日時点の報告。
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■福島第一原発の地震計関連:福島第一原発の3号機の地震計2台が故障し、13日の地震のデータを取れていないことを22日になって正式に認めた。
強度の地震を契機に壊滅的メルトダウンに至ったが、地震計の故障を知ってながら交換も修理もおこなわなかったという杜撰さには驚く。さらに問題なのは、この事実を東電が地震発生後から1週間以上も“隠蔽”していたこと。
■地震によって福島第一原発の処理水や浄化途中の汚染水が入ったタンクの位置が10数個でずれが生じた。漏水はなかったらしい。14日に把握、18日になって公表した。
■1号機と3号機の格納容器で水位が低下した。
1号機で15日から、3号機で17日以降に、それぞれの格納容器内の水温が低下、原因は水位低下と結論付けた。
1号機で1.9mの水位が40〜70cm低下、3号機も6.3mあった水位が約30cm下がった。
メルトダウンによって生じた格納容器の損傷が、13日の地震によってその破損が拡大したと見られている。22日以降も格納容器の水位は低下傾向にある。水はどこに漏れているのか??冷却機能に問題はないのだろうか。
■水素爆発を防ぐために格納容器には窒素が注入され、圧力を高めているが、1号機では機密性が失われ、ほぼ大気圧に等しくなっているという。格納容器に新たに損傷が生じた可能性がある。
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東電は周辺の放射線量などに異常はないと説明しているが、水位の低下による核燃料の冷却への影響はないのか?? 漏れた水はどこに流れているのか?? 水素爆発の危険はないのか??
とくに、原発事故は巨大地震とその後の地震で壊滅的状況を迎えているのに、地震計の修理をしていなかったのは見逃せないと思う。
事故後10年を迎えてたるみが出ているのではないかと危惧する。
不都合な事実がこれだけありながら「すべて正常」、「外部への放射線漏れはなかった」とくくっている。これは事実を隠蔽する為ではないのか??
福島沖地震で東電と菅首相が福島原発の異変を隠蔽している。
地震計故障の放置、汚染水タンクのずれ、格納容器が水位低下は特に重要と思われるが「すべて正常」との評価には納得できない。それぞれについて詳細を提示すべきである。
3/2(火)曇り 中通り病院内科外来 飯川病院
1:00起床、文献・新聞関連など。6:00可燃ゴミ2袋出し。6:47バス飯川病院、8:45-13:30中通病院外来。混雑と複雑で疲弊。昨年病院内理髪で髭よさらば4年間分、バッサリ。13:45-18:45勤務、飯川病院、入院患者対応なし、微睡はやや長めになった。19:00通町書店経由Taxi帰宅、夕食、20:20就寝。Σ8260歩。
災害2021(4) 福島県沖地震(6) 福島第一原発は(2) 2月19日時点の報告
2021年2月13日午後11時8分頃、福島県沖を震源とする地震最大震度6強、マグニチュード7.3が発生した。
私は、地震といえばとにかく廃炉過程で不安定な状態にある福島、第一原発が心配である。特に今回の地震は東日本大震災後2番目の規模であったから何かあるだろうと思っていた。
当然、いつ生じるかもわからない巨大余震に対して盤石の体制を敷いているものと思っていたが、地震計の故障の放置、水の漏洩などが認められている。たまたま今回はこの程度の地震で済んだもののさらに大きい地震の発生はないとは言えない。
原子力規制委員会は、今月14日時点での地震による福島第一原発への影響や対応について東京電力から説明を受けた。
以下は2月14日時点の評価で既掲の前回と重複するが、2月22日と比較するために再掲した。
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■福島第一原発の地震計:去年7月に故障するも修理せず、今回の地震データが記録できていなかった。地震計は3号機の原子炉建屋に去年3月、地震計2つを設置した。7月の大雨などで故障を把握していたが修理していなかったもの。今回の福島県沖地震のデータは取れていなかった。
■福島第一および第二原発において、以下の所見が得られた。
排水路モニタの指示値が低下。環境への影響はなし。
大型休憩所で火災警報発生。誤作動と判断。
5号機および6号機の使用済燃料プール付近において、プール水が溢水(約1,600ml)。
施設内の使用済燃料プール付近において、水溜りを確認(約600ml)。
■福島第二原子力発電所
1号機使用済燃料プールからの溢水(約160ml)
2号機原子炉建屋5階ダクトチェンバーから水の漏えい(約90ml)
サイトバンカ建屋プールからの水の漏えいを確認(約1.4L)
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東京電力は外部への放射線漏出はなく問題ないと報告し、菅首相は、原発でも異常報告はない。すべて正常、と述べた。
上記の評価でいいのだろうか??
3/1(月)曇り 健康クリニックドック 飯川病院
1:00飯川病院起床。新聞・文献チェック。徒然など。6:47バス飯川病院、9:00-11:50健康クリニックドック14名、結果判定13名、意外と時間がかかった。12:00飯川病院。微睡、14:00-19:00勤務。入院患者対応。19:10帰宅、夕食、20:30就寝。Σ7933歩。
災害2021(3) 福島・宮城で震度6強の地震(3) 私が受けた影響
JR東日本の報告によると、2月13日福島・宮城両県で生じた震度6強、M7.3の地震で被った東北新幹線の被害状況は以下のごとくであった(再掲)。
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■ 電柱の折損20本 ひび割れ40本。
■ 架線は6本断線、架線関連の金具が550箇所で破損。
■ 高架線の柱は損傷10本、梁に60ヶ所の損傷。
■ レールのズレは220ヶ所。
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JR東日本は被害状況をまとめた時点で、乗客の安全に関わるものはなかった、と評価しているようであるが、それは違う。たまたまその区域を通過している列車がなく、運が良かっただけ。密に、高速で走っている時間帯ならばこうはいかなかっただろう。
今回、巨大地震時の新幹線関連事故について学んだ。地震時の事故防止の歩みも学んだ。大変な研究や対策がなされていることを知った。
しかし、その割には今回の震度6強、M7.3の地震は地上設備の被害が意外と大きかったような気がする。
私は気が小さい、度胸もない。新幹線を含め、航空機などの高速システム、巨大な建造物などに恐れを抱いている。だからと言って利用しないわけではないが、その時の心は安らかではない。都庁も怖かった。原発も然り。自分の理解力を超えた存在だからである。
東北新幹線の設備が上記のごとく大きく被災し、一部で運休した。13日の地震後、秋田新幹線は一時運転を見合わせていたが、15日に盛岡―秋田間で大幅に減便した臨時ダイヤで運行を再開、全線で運転再開は24日からとなった。
私が受けた影響は微々たるものであるが、皆無ではなかった。
地震が生じたあと、2月19日(金)は大曲中通病院の診療応援があったが、秋田・盛岡間だけの臨時ダイヤのために勤務に都合が良い時間帯の移動は出来ず、止むを得ず休診とした。
2月24日からは東北新幹線は全線開通したが、応急修理区間もあるために減速しての運行となった。そのために帰路の便が不便となり、ちょっと早めに診療を終えている。
こんな場合、通常であれば自家用車で行くのであるが、昨年夏に運転免許を返上したのでそれも出来ず残念な結果となった。
免許返上後もこの時まで特に不便を感じていなかったが、この地震に関してはやや早めの返上をちょっと反省した。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |