2016年6月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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6/30(木)曇りのち快晴. 外来 飯川病院
1:00起床、文献チェックほか、資料整理。本読み。5:00資源ゴミ用意、収集所に大量に提出、畠収穫。7:25徒歩飯川病院。8:45-13:00中通病院外来+ドック判定総括15名分。14:00-18:50飯川病院。BR disk視聴:「林:初耳学」、「世界で一番受けたい授業」、「英雄選択:大谷吉継」、「コズミックフロント:球状星団」、「映画:マイガレットサッチャー」、視聴。18:30帰宅、夕食、20:30就寝。
英国のEU離脱(3) 英国国民の生活感 福祉問題
EUからの離脱を決めた国民投票は英国の調査機関の発表では、65歳以上の61%が離脱に投票した。18〜24歳は残留が75%であったという。これで離脱派が多くなったのは高齢化の結果なのだろう。
世代間の違いが現れた形になった。若者は自分たちの将来への夢が高齢者によって阻まれた、との怒りの声が上がっているようだ。若者たちによる抗議行動やデモなども行われているという。世代間の対立が露わになる可能性も否定できない。
簡単に言えば、若者らの目はEUや他の諸国を向いている。一方、高齢者は古き良き時代の英国に郷愁を抱いているのだろう、という見方である。
一般的には若者たちの方がナショナリズムに目覚めているとされるが、英国の国民投票の結果は一見逆のように思える。
若者たちは、英国は他のEU諸国と密接につながっていると前向きに考えているようだ。高齢者たちは「揺り籠から墓場まで」とされた世界一の福祉国だった古き良き時代過去にとらわれる。
もう一つの要因は、私は知らなかったのであるが、1週間あたり日本円にして約480億円も支払っているEU予算の分担金も関連しているようだ。高齢者はこの費用を年々悪くなっていく自分たちの福祉、医療のために費やすべきだ、と考えたらしい。
実際、英国は財政難で、大学の授業料は引き上げられ、公務員は削減され、自治体のサービスは削られ、無料の国営医療制度は機能しなくなり、地下鉄料金はうなぎ上り、地域によっては粗大ごみの回収も廃止されているという。
アメリカの大統領選挙はトランプ氏のナショナリズム高揚で揺れている。今までにない内向きの考えであるが、若者が多く参集している。一方、英国のEU離脱の選択には高齢者が結集した。
私はトランプ現象はアメリカの冗談・・と初期には思っていたが実際は冗談ではなくなっている。英国の国民投票の結果がトランプ氏にとって追い風になる可能性もあり、目が離せない。世界は揺れている。
日本のメディアは英国のEU離脱に伴って生じる経済的な影響を大きく報じている。その渦中にある方々にとっては大変な状況と思われるが、私はこれを機会に英国事情についてより深く知りたいと思う。
6/29(水)快晴 午前フリー 飯川病院ボランティア 県展鑑賞
0:00起床、家内の講演準備。文献チェック,本読みほか、5:00、8:00畑草むしり。10:00院長外出にてクロスバイク飯川病院。10:30-15:30ボランティア。刃物専門店枝切り鋏購入、1万円した。私には手に余るような高級品。アトリオン開催中の県展に。BR disk視聴:「いま世界は、経済フロントライン:英国EU離脱関連 」、「英雄の選択:条約改正に挑んだ女」、「ドキュメント:昭和の天才マンガ家たち」視聴。19:00帰宅.19:15夕食、20:20就寝。
英国のEU離脱(2) 英国国民の実感 移民問題
先の第二次世界大戦で、ヨーロッパの国々は敵味方に分かれて戦い、多くの犠牲を出した。国境が陸続きで接していることは意味あることと思われる。
戦後その反省から、ヨーロッパで二度と戦争を起こさない仕組みを作ろうという動きが起き、徐々に発展させて、1967年に「ヨーロッパ共同体」(EC)が誕生した。更に経済、通貨を統合して「ヨーロッパ連合」(EU)を設立するに至った。
ナショナリズムを排し、各国の事情も考慮しながら壮大な構想のもとに進められてきた歴史上でも初めての試行であった。
その第一の目的は平和維持であった。ヨーロッパの戦争の歴史を振り返ってみても、私はEUが果たしている役割を信じられない程である。
発足当初からひずみは指摘されていたが、話し合いで乗り切ってきたようにも見えたが、発足半世紀にして初めから問題のあった英国の振る舞いによって大きな危機を迎えてしまった。
英国は第2次世界大戦後も旧植民地諸国とのつながりを重視し、ヨーロッパ大陸との関係は疎遠であった。やはりここで島国である事も関連していると思われる。
英国は当初はEU加盟に距離を置いていた。1973年にEUに参加したが、政権によってにEUに対して敵対的な政策をとった。EUにとって英国は異分子的で、ユーロには参加せずそのままポンドを用いている。様々な外交的決定の場においてヨーロッパ大陸よりもアメリカとの協調を優先するという姿勢をとっている。
英国は決して一枚板ではない。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成される立憲君主制国家で分裂の危機を抱えている。これも離脱派が優位になった一因かもしれない。今回の国民投票の結果からその動きが活性化しないだろうか。
離脱が優位であったが、当然の結果だった、との見方がある。
移民問題が大きいようだ。移民と言ってもいま問題になっている中近東などからのボートピープルではなく、ポーランド、ブルガリア、ルーマニアといった東欧諸国からの移民で、より良い生活を求めて移動してくる。
英国にはEU域内からだけでも毎年約25万人が流入している。これほどの数の移民があるということは生活や文化に大きな影響を与える。英国人はなかなか職に就けない状況にあるらしい。仕事のレベルを下げて職を求めても移民たちが占拠してなかなか職に就けない、という。
英国には手厚い社会保障制度があるが、これにかかる費用の捻出にもこと欠き始め、補償の給付にも影響を与えつつある。これも大きな問題として英国民の生活を圧迫している。
6/28(火) 午後一時雨なるも快晴 外来 飯川病院
0:30 起床。新聞、音声データ整理.書類処理、7:30徒歩飯川病院着、ハトへの餌やり禁止の看板あった。止めざるをえまい。 8:45-13:20中通病院外来。微睡、14:00-19:00飯川病院。BR disk視聴:「そこまで言って委員会:クマ出没、裁判員制度など」、視聴。新聞PDF化、19:00帰宅、夕食、20;15就眠。歩数計9004Km。
英国のEU離脱(1) 国民投票の結果に驚いた 英国国民が抱いている実感の表れ
英国のEU離脱の国民投票の結果、離脱支持が51.9%と若干上回った。EU残留を訴えてきたキャメロン首相は辞意を表明した。
この国民投票は「法的拘束力」はない。英国国会はこの投票結果に従う必要はなく、まだまだ流動的な状況が続く。だから、最終的にはまだよくわからない。現に、英国では投票やり直しを求める意見も運動も生じてきている、という。
2年の猶予期間内に英国はEUと必要な合意を目指すが、実際の離脱はおそらく困難を極めるだろう。離脱は早くても数年先になりそうだとのこと。
私は、いくらなんでも離脱にはならないだろうと思っていたが、結果には驚いた。いろんな資料を読んでいるとはいえ、英国民の気持ちにはなりえなかった、ということ。基本的には英国民が決める問題であるが、あまりにも大きな問題であって、賛否が拮抗ししており、果たしてこれで良かったのだろうか、とも感じる。
ペルーの大統領選挙も僅かに0.24%(4万2000票)と僅差であった。新大統領は国を運営するのにかなり苦労することになろう。
我が国の憲法の改正の場合、各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案して特別の国民投票でその過半数の賛成を必要とする、と定めている。
国を左右する重大な事項が国民の投票の過半数で決まるというのは民主主義の基本的原則ではあろうが、結果が拮抗して決まった後の事を考えると、2/3の賛成での決定の方がいいように思う。ただし、イメージであって根拠はない。
英国の離脱はEUの弱体化につながり、他の加盟国にも影響を与えると考えられる。さらに、経済的な影響は大きいと考えられる。今更ながらメディアは離脱に伴う影響についていろいろ報じているが、当の英国民はそのような影響についての情報は十分に与えられ、論じられているはずである。それでも離脱の道を選んだということである。
ただ、最終的にはそんな理屈による判断ではなく、国民の一人一人が感じ取っている実感によって判断されたのであろう。我が国でも、アベノミクスが成果を上げているという意見はある一方、一般庶民には実感が乏しく評価も芳しくないのに似ている。
私は、理屈から見て、どう考えてもEUから離れない方がいいと思っていたからその結果に驚いたが、英国民は感覚的な現状の評価を選んだ。
実感として最も大きなのは何と言っても移民問題と、それによってもたらされた自分たちの生活への影響と考えられる。
6/27(月)曇り午後快晴 健康クリニック 飯川病院
1:00起床、新聞・文献チェック。読書中心。7:25徒歩病院着。9:00-11;00健康クリニックドック。11:30飯川病院へ。微睡、13:00-14;00院内点検のため停電。BR disk視聴:「アナザーストーリー:エマニュエル夫人」、「昭和偉人伝:佐治敬三」、「あらすじ名作:イワンの馬鹿」視聴。19:30夕食、20:30就眠。歩数計8995Km。
2016年の医療環境(7) 参院選で社会保障のビジョン語られず
今回の消費税増税延期は、国民からは歓迎されている。現実的に生活に困っている方々が多い。低所得者の負担が重い消費税頬みには異論が根強い。感覚的に増税は嫌だ、たとえ日本が借金財政にあるのは十分理解していても、である。これが世論の実態である。
私は、消費税増税延期は国際的経済情勢から見ていい判断だったと思うが、なおも従来通りの拡張路線が敷かれようとしている。
消費税増税は旧民主の野田政権の時に、自民、公明の3党が党派を超えて合意した2012年の「税と社会保障の一体改革」に枠組みがあった。あれから4年、この枠組みは事実上、崩れた。しかも、法を作った公明党や現民進発も延期賛成の立場だ。
消費増税再延期の方針には、かつて増税延期を決め、かつ消費増税再延期と判断した政党は、危機を迎えつつある社会保障財源の確保と経済の活性化をどう誘導するか、日本の将来を考えた高次の判断を国民に説明する義務がある。
消費税増税が延期になって喜ぶ一方、社会保障を必要とする高齢者が急激に増える局面で、不安がこの国を覆っている。その不安は現役世代にものしかかる。
今参院選の真っ只中にある。参院選は消費税増税延期になった今、社会保障について語らなければならない責があるが、そちらをそっちのけに与党は2/3の議席確保を、野党はそれを阻止するために多党連合を行って議席を争っている。
確かに、重要な課題であるが、社会保障に対する説明を忘れていませんか?それが私の実感である。
社会保障はどうなるのか、消費税増税が中止になった以上、選挙の論戦の中で語られるべきであるが、将来ビジョンはほとんど示されていない。増税を先送りした安倍首相が「新しい判断」と言うなら、その選択肢も提出し論じるべきだ、と思う。
安倍政権はこれからは負担増と向き合う時代にならざるをえないから、負担に納得できる説明が求められる。
生活保護などの安全網の強化で最低限度の暮らしを守る必要がある。さらに、「希望出生率1.8」、「介護離職ゼロ」といった目標を褐げる。若者や子育て世代には生活の負担を軽減し、貧困や格差の広がりを防がなければならない。
与野党の論戦では、消費増税延期に伴って生じる社会保障の将来像に焦点が集まっているように見える。しかしながら、未来図は見えないままだ。
私どもは財源の裏づけがない議論に意味はないことを知っている。政権交代を果たした時の民主党のマニフェストはまさしくそうであった。今の社会保障の議論は財源の裏づけがないから、議論は空虚である。
6/26(日)曇り小雨 日直明けフリー
1:00起床、新聞、文献など。蓄積データ大幅に整理。入院患者は平穏。BR disk視聴:「久米書店:岩合光昭」、「食料廃棄問題」、「サイエンスゼロ:ハイスピードカメラ」、「歎異抄(3)」、「知恵泉:杉原千畝」。9:00帰宅、風強し。畑の支柱さらに強化。2F和室窓にすだれ装着など。BR disk視聴:クラッシク音楽インデックス作成。19:30夕食、20:30就眠。歩数計8985Km。
2016年の医療環境(7) 消費税増税延期で新局面
安倍首相は5月30日、「新興国経済の落ち込みなど、世界経済の不透明感が増す中、日本を再びデフレのトレンドにもどすわけにはいかない」と述べ、消費税増税の2年半の延期を決定した。
10%への引き上げは当初、2015年10月の予定だったが、景気腰折れの懸念を理由に1年半先送りした。だから2回目の延期である。
今回の増税延期は、国民からは歓迎されている。しかし、国民の方向だけを向いていては政治は成り立たない。当面の経済効果だけでなく、日本の将来を考えた高次の判断でなければならない。
私は、正解のない決断だった、と思う。どちらでもよかった。増税しても、延期しても大義名分は成り立つ。
ただ、首相は「新興国経済の落ち込み」・・を理由に挙げたが、実は「英国がEU離脱になった際の、より一層の経済への影響」のことが頭にあった、と考えられる。しかし、英国の国民投票が23日に迫り離脱派、残留派の意見が均衡している中で一国の首相が国民投票について予想やその後の結果について言及するわけにはいかなかった、と思う。
増税するか否かの選択は、どちらを選んでも日本の将来に大きなな影響を持つ。経済理論でなく政治的判断で表明するしかなかった、と思う。
増税延期と判断した以上、増税延期に見合った政策も同時に考えなければならない。
増税分は全て、医療や介護などの社会保障に充てることになっていた。増税を延期したのだから、経済の活性化をどう誘導するかが大きく問われるし、危機を迎えつつある社会保障財源をどう確保するかという二大問題が生じることとなった。
6月2日に経済財政運営指針「骨太の方針」と人口減少社会の克服に向けた「1億総活躍プラン」を作成した。子育て支援や介護などの社会保障政策を充実、給付型奨学金の創設なども盛り込んだ。
しかしながら財源確保は消費税増税の延期で一層厳しさを増している。だから、重要課題と並べてみたもののどこまで実施できるかは不透明である。迫り来る参議院選を意識しての建前上の製作となりうる。
消費税増税延期はいい判断だったと思うが、税収が落ち込む中、なおも従来通りの拡張路線を行くならば財政再建は一層おぼつかなくなる。抑制するところは抑制し、伸ばすべきところは伸ばすなどのメリハリの効いた政策の提示でなければ、私はなかなか納得し得ない。
6/25(土)終日降雨、時に激しく 雨読 飯川病院午後日直+当直
0:00起床、新聞、文献など。蓄積データ大幅に整理。早朝激しい雨、風強し。8:00-10:00畑にで風対策で棚強化、トマト、キウリ枝を固定。本読み、文献検索、12:00クロスバイク飯川病院へ、12:30日当直勤務に。新聞処理、本文読み三昧、18:00夕食、20:30就眠。入院患者は平穏。BR disk視聴:「人間にとって神とは??」、「池上:マルクス資本論」、「睡眠の科学」、「若冲(3)」観視聴。
謝罪とは何か(6) 政治家の謝罪(3) 舛添氏(2) 報道過熱問題 都議会も同じ穴の狢
舛添氏の公私混同は批判されて当然である。
一方、報道は過熱気味で不快であった。私の情報は新聞から得ているが、連日連日紙面を嫌になる程取り上げられた。メディアは正義漢ぶって叩きまくる。下手な言い訳をする舛添氏、偉そうにしてきた舛添氏を引きずり下ろす快感もあったのだろう。
初期こそは報道的であったが、時間とともにいつ辞任するかだけが興味の目的になって、舛添都政が果たした業績を冷静に点検し、辞職のメリット、デメリットを解説するような論評はほとんど見られなかった。
確かに舛添氏は全国に知れた著名人だから全国に報道する意義は少なくはないが、問題は東京の局所的な問題でもある。
新聞は週刊誌が伝える前に何で報道できなかったのか??最近、新聞のスクープ記事が少なくなっている。メディアの役割は権力監視と自らいうなら、今回も週刊誌に抜かれてしまった。その反動なのだろうか。新聞は連日発行だから報道手段としては強みを持っている。落ち目になった人をたたくのが権力監視なのか?
甘利氏の問題は辞任後どう報道したのだろうか?辞任したら報道しなくなった。もっと落ち着いた分析記事を載せるべきである。
メディアの関心はもう次の都知事は誰か、に移っている。
こんな報道姿勢なら人々のマスメディアヘの信顛がどんどん後退し、新聞発行部数は減少していくだろう。
もう一つ、都議会のチェック機能どうなっていたのか。
都議会が実施したロンドンラグビーWカップ視察は都議11人と随行者3名で2.000万円だったという。宿泊は都議の上限一泊29.000円を上回る82.000円。参加会派は自民7名ほか旧民主党、公明、旧維新だったという。これでは知事の旅行費用が高額とは追求できない。
もう一つ、リオの視察は予算6.200万円を計上していたが、宿泊費が高騰し1億円にも達しそうで中止になったという。
東京五輪の運営に具体的に当たるわけでない議員がこれほどの費用をかけて視察する意義はどこにあるのか?疑問である。
舛添都知事問題は氏だけの問題ではない。任期2半、都議会は知事の行動をチェックできなかったのか??
都議会の視察計画、視察がもたらした効果についてもメディアは分析し、記事にしてはどうだろうか。
それと、都民が、メディアが舛添氏のせこい金銭感覚を追求している間にも、当初3.000億円だった大会運営費が6倍の一兆8.000億円にまでなっていることは問題視しないのだろうか。
東日本大震災の復興、福島の原発事故、熊本の被災を国、都民はどう考えているのだろうか。
特に、福島の電力は東北電力から供給され消費量はとても少ない。地元のためには原発なんていらなかった。一方、福島で発電した巨大な電力はすべて東京に送られていた。東京は福島の苦悩をもう忘れてしまったのだろうか?
6/24(金)曇り晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、文献・新聞チェック。何時ものごとく、可燃ゴミ出さず、持ち越し。7:40Taxi駅に、8:10こまち。9:15-12:30大曲外来,飯川病院ボランティア。損保会社スタッフ来訪、自動車保険更新。散水ほか。18:45放置していたプリウスにて帰宅、夕食、 20:30就眠。BR disk視聴:「林修:今でしょ講座」、「ワカコ酒:ツナ缶マヨ焼き、もつ煮込み」、「団塊スタイル:足を鍛えて」。歩数計8974Km。
謝罪とは何か(5) 政治家の謝罪(2) 舛添氏 公私混同に見る「せこさ」
舛添都知事が辞任した。
4月末に政治資金の私的流用疑惑が報じられて以降、都議会、メディアの連日の追及に追い詰められた形となった。最後は退け際の悪さが目立った。
最近、週刊誌は清原、タレントや国会議員の不祥事などの暴露記事で、存在感を示しているが、舛添氏の場合も週刊誌の記事から始まったが、東京都の、都議会のチェック機構はどうなっていたのだろうか??
私は問題が都知事本人にあるにせよ、週刊誌から発覚したことが不思議でしょうがない。東京都のチェック機構の機能障害に最大の問題があると思う。尤も、都議たちも贅沢な旅行をしていたというから同じ穴のムジナで気がつかなかったのか?
氏は都議会の追及に対して、詳細を語らず、「自戒」、「猛省」、「誠心誠意」・・等の言葉を並べて謝罪した。謝罪の体をなしていない。こんな言葉が通用するには一定の信頼感があった上でであって、信頼が乏しくなった状態では言えば言うほど墓穴を広げていく。
政治資金を自分の財布代わりにし、私用で公用車を用いたなどの公私混同へのモラルのなさが指摘されているのに、反省が感じられない説明を繰り返し、せこさと情けなさの感情が入り混じり、バッシングは全国区になった。有権者のいかりは氏を選んだことに対する自省の念の反映でもある。舛添氏は有権者の気持ちを完全に見誤った。
氏が「第三者」と称した弁護士による調査は身内による調査で第三者機関と言えない。その判断は予想のごとく知事への配慮が濃厚であったが、それでも家族同伴のホテル代や飲食費の一部などに政治資金を使ったのは、違法ではないが不適切とした。
給与減額の意向を議会に伝えたことも、嵐が通り過ぎるのをじっと待っているようにさえ見えた。
甘利氏と異なり、問われているのは、知事としての資質や品格であった。これが問われた時点で身を引くべきであった。法に抵触している疑いがあるならその点を論じればいいのだが、資質への疑いは氏が説明すればするほど広がっていく。
都議会で出処進退を問われても辞任を固辞し、結局は不信任案まで提出された。四面楚歌であったが、それでもリオまで猶予を、と懇願した。
最後はさすがに事の重大さを自覚したらしい。何も発言することなく都庁を去った。
舛添氏は厚労大臣まで務めた有能な政治家だと思う。自らに対する危機管理に問題があり、謝罪も下手であった。残念な経過をたどった。
6/23(木)快晴雨曇りと一定せず 外来 飯川病院 九州大雨
1:00起床。録音他各種データ整理。7:20コイ・ハト給餌、徒歩飯川病院着。8:40-13:00外来。午睡。14:00-18:45飯川病院。BR disk視聴:「アナザーヒスト:皇太子ご成婚」、「ワカコ酒:屋台他2本」、「孤独のグルメ:トンカツ他2本」、「探検バクモン:奇跡のシネマパラダイス」、19:30帰宅。夕食、20:30就寝。歩数計8968Km。
謝罪とは何か(4) 政治家の謝罪(1) 甘利氏の場合潔かったのか?
謝罪は、被害者や関係者に誠心誠意謝罪するのが正しいやり方である。なのに、謝罪はメディアの時代、特にTV時代を迎えて大きく様変わりした。謝罪そのものが形骸化してしまった。
一体、謝られるべき方々は誰なのか?これも分からなくなっている。
タレントの場合は「みせしめ・晒し者」としての通過儀礼的側面もあると考えられ、謝る方も謝られる方も「何でか?」という疑問の中で納得できる軽いものである。もともと謝罪の意味はない、マアマア・・の世界である。
社会的な責任が大きい政治家の場合の謝罪は全然異なる。政治家の謝罪というと、思い出されるのは最近の例では甘利氏、舛添氏、兵庫県議会の野々村議員などである。いずれも謝罪と言えない会見であった。
先日、退任した甘利大臣の謝罪と退任あいさつは全く謝罪会見の体をなしていなかった。
甘利氏は、「この度の不祥事によって、大変なご迷惑をおかけし申し訳なく思う。自分なりの美学で大臣を辞すことで責任を果たしたい」、という趣旨のことを述べた。意味不明の、自分の美学を述べて大臣の座を辞した。
私は、大臣の座はこんなレベルの説明で辞するものができるのか、呆れてしまった。これを機会に「責任追及」、「説明責任」はまとうされないだろうと思った。
甘利氏は自分の立場が分かっていないらしい。彼は芸能タレントではない。国会議員、かつ現職の大臣である。
甘利氏が責任が問われているのは国政選挙で選ばれた国会議員として、「政治資金規正法」や「あっせん利得処罰法」という法律に抵触している否かの疑惑である。しかも、現職の大臣という国政を担う立場にある方で、その職務に対して大きな責任があった。
謝罪の相手は、彼を支持し、当選させた有権者、ついで、彼に国政を託した主権者である国民に対してである。謝罪の体をなしていないのに、なぜ会見の場で、法に抵触したかもしれない根本問題の説明がほとんどなかったにもかかわらず、メディア側から鋭い追及がなかったのか、実に不思議である。
我が国では、謝罪会見はその表情や態度に注目が集まる。真摯な内容でなく感情的判断が優先し、そして、きっぱりと閣僚を辞任した甘利氏は「潔い」と評価された。我が国では資格や立場の返上をすれば一件落着とする風土がある。
甘利氏の謝罪も娯楽として消費され、忘れ去られた。著名なタレントの不祥事の会見と同じレベルであった。
6/22(水)午前曇り、午後快晴 午後飯川病院ボランティア
1:00起床。データ整理、本読み。6:00軽朝食、舌にカッターの刃。大事至らず。7:00畑草むしり、ダリアが6番目の芽を出した。10:00園芸用品購入、胡瓜、トマト追加苗を植える。時間差収穫のため。12:30クロスバイク飯川病院へ。ピロティ散水ほか。19:00帰宅、夕食、20:00就眠。BR disk視聴:「幻の潜水艦イ400:戦争終結のために」、「BSドキュ:チャーチル」、「サイエンスゼロ:ミドリムシ」、「100分名著:歎異抄」、「久米書店:丹羽宇一郎 人類と地球の大問題」。
舌にカッターの刃が刺さる 朝食に異物混入していたが自分の不注意であった
今朝、6:00にいつものように軽く朝食を摂った。朝食はいつも孤食である。
私は脳梗塞再発予防のために血液凝固阻止剤を服用しているが、空腹時に服薬すると腹部不快が生じる。そのために栄養摂取というよりはそれを予防するのが主たる目的で、少量食べる。
いつも50g程度の冷凍ご飯をチンして、がっこや納豆、お茶漬け等でさらっと済ます。
今朝は市販のワサビ味のふりかけを茶漬けにした。熱かったのであまり咀嚼していなかった。半分ほど食べた時に歯に金属片と思われる異物が触れ、同時に左側の舌に痛みが走った。瞬間、歯の詰め物でも外れたのかと考えた。飲み込む直前であったが、なんとか飲み込まないで済んだ。幸運であった。
なんと、錆びたカッターの刃が2ヶ出てきた。舌に刺さった刃はそれほど深くなく簡単に抜けた。舌を傷つけると結構出血が多い。口の中に出血したが大量のティシュペーパーを噛んで圧迫し止血しえた。
食品に異物混入か??
市販のワサビ味のふりかけに混入していた??
瞬間そう考えた。しかし、カッターの刃になんとなく見覚えがあった。確かに数日前に鉛筆削りに用いていたカッターの切れ味が悪くなったために先端を折ったばかりであった。まさか、と思いつつカッターに刃片を合わせてみたところ折口の形状が一致した。
折った刃は、いつもは廃棄用の小瓶に入れて安全に処理している。なぜ朝食に混入したのか?
思い出してみると、3日ほど前に、今朝のふりかけを不注意でテーブルにこぼし、集めて袋に戻した。気がつかなかったが、その時に混じったものと判断した。
もし、飲み込んでいたら、鋭いエッジであり、消化管のどこかに突き刺さり大事になる可能性がある。咽頭や食道に刺さても大変、無事胃に入った場合は内視鏡で取り出さなければ一層大変なことになった可能性がある。場合によっては開腹も??などなど、考えてぞっとした。
幸運にも舌に刺さり、痛みで飲み込まないで済んだことは幸運であった。また、運の良さに助けられた。
多分、折った刃を後に廃棄用の小瓶に入れようと考えテーブル上に置いたまま別の作業を続けたために廃棄するのを忘れた、と考えられた。
最近こんなポカが多くなった。そのことを自覚して、日常的に懸案を後回しにしないよう注意しているのだが、今回、またやってしまった、ということ。
反省!!反省!! 大事にならずに済んだ幸運に感謝である。
6/21(火)快晴 外来 飯川病院
0:30起床,いつもと同じ、4:30可燃ゴミ出し、ネコ対応、7:30ハト餌撒き、徒歩飯川病院着。8:45-13:00外来。微睡、14:00-18:45飯川病院勤務。17:00ピロティの花壇に水撒き。19:00帰宅、夕食、20:15就寝。BR disk視聴:「そこまで言って委員会:巨大な詐欺事件をめぐって」、「経済フロントライン、世界は今:英国のEU離脱問題」、「日曜美術館:伊藤若冲」。歩数計8948Km。
日本海中部地震33年(5) 家具転倒防止器具を自作した・・
我が国は災害大国である。2011年の東日本大震災は1000年に一度の・・と言われるが根拠はない。現に、この20年間に震度7の巨大地震に4回発生した。いずれも予測できなかった。だから専門家の言うことは無視して、明日はわが身という前提で準備を進めるべきである。
我が家はたまたまパネル工法の住宅である。
パネル工法の会社の集計によると、従来の地震の中でも全壊がほとんどなかったなどの実績が積まれている。ウソか否かわからないが、構造力学のデータを見ても、・・詳細は本当は理解できないのだが、強いようだし、実績もあるから私は信じている。現に、日本海中部地震では屋外の灯油タンクのコンクリートの床面に亀裂が入ったが、家屋内に被害は生じなかった。
そうなれば、次の準備は家具固定ということになる。
私は積極的に対策したいのであるが、実は壁に突き当たっている。従来の工法と違って、家具の固定を託すほどの丈夫な柱がどこにもないからである。パネル工法住宅の地震の揺れは在来工法に比較してねじれなどが少ないために、家具との間の動きのズレは少ない。だから、若干は簡易式でもいいと思う。
パネル工法の場合でも、天井や床面には、重量を支えるために太い柱を配している。
壁面は細めの木材を縦横に組み合わせ、それを両面から板で挟んだパネルを互いに接合または接着して作る。壁面は一般的に木材は細い。
パネル内の木材の位置や走行は叩いてみればわかる。濁音部分に骨組みの木材がある。これに向かって太めのネジを打ち込み、家具との間は使い古しの皮革製品を切って作った帯をもちい、ゆるく固定する。使い古しの皮革製品としては紳士用ベルト、革カバンやランドセル、ハーレーに乗っていた時に着用していたレザースーツなどを充てている。ベルト式やチェーン式の市販品では一つ3000円程度であるが、その1/10以下でできる。
まだ何個かしか作っていないが、効果はほぼ十分なように思える。これが機能を失うような地震は、起きて欲しくはないが、その時はその時である。
日本海中部地震からもう33年経った。これを機会に個人的にできる地震対策について改めて考え、家具転倒防止装置を自作してみた。
6/20(月)午前降雨午後快晴夜間降雨 健康クリック 飯川病院
0:00起床、いつもの如し。降雨にてバス、7:10飯川病院着。9:00-11:20、健康クリニックドック15名。12:00飯川病院へ、微睡、14:00から業務、BR disk視聴:「日曜美術館:若沖」、「ありえへん世界:一般常識」、「SWITCH インタビュー:渡辺謙・山中伸弥」。19:00帰宅、夕食。20:30就寝。8937Km。
日本海中部地震33年(4) 家具固定の疑問
我が国は災害大国である。中でも地震は世界で有数の多発国である。
この20年間の間に阪神大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震の震度7の巨大地震に4回見舞われた。だから明日は我が周辺で地震は起こりうるという前提で準備を怠ってはならない。
その中で住宅の耐震化は重要である。しかし、これはおいそれとは出来るものではない。ちょっとハードルが高い。
次に重要なのは、地震時には家財が凶器となるからそれに対する対策である。
その対策は以下が基本となる。
@1 生活空間になるべく家具をおかない。@2 家具は背の低い家具にし、配置をよく考える。@3 重量物は低い位置に収納する。
その上で家具の転倒防止対策が必要である。
私が経験した地震はせいぜい震度5。33年前の日本海中部地震の場合の医局内の惨状を思い出す。震度5までの経験であるが家具や本棚の固定がいかに大事であるかを身を以て体験した。同時に売れ筋の家具固定の方法に疑問を持った。
家具店やホームセンターでは様々なタイプの家具の転倒防止器具が売られている。
@ 壁に固定する金具やベルト式、
@ 天井との間に設置するポール式、
@ 下に敷き家具を壁側に傾けるマット、家具の移動を防ぐストッパー式など
壁を傷つけることに抵抗のある人、賃貸住宅で壁固定式が取り付けられない場合、ポ‐ル式やマット式、ストッパー式を使うことになる。
壁に金具をねじ止めして固定する方法は効果が最も高い、とされているが、私はそれにも疑問に思っている。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/47/ea15aed934433641115dc8e9364e8bbe.jpg" border="0">
(壁にねじ止めして固定する器具の一例 購入したが用いていない)
東京都生活文化局のテストでは、家具転倒防止器具として家具の底と床を接曹させる粘着マット式、ストッパー式、ポール式の3種類の計7商品についてテストを実施。
その結果、震度6強相当の揺れの場合、全ての器具で転倒した。
一方、三者を、食器棚の上下に組み合わせて固定した場合、震度6強相当の揺れでも家具が転倒しなかった。器具を組み合わせて使えば有効であることが分かった。これは重要である。
このデータには残念ながら壁に固定する金具やベルト式が含まれていない。
私が経験した地震はせいぜい震度5。このレベルの揺れでわかったことは、家屋と家具が別な動きを得るということであった。かつ、家具は置かれている場所、サイズや重量に応じて個別の動きを示した。しかも、住宅と家具は左右、前後に10cmほどもずれて動いた。
要するに、住宅と家具はずれて動くから、金属を介して直接壁にねじ止めしても多くは一瞬にして金属が壊れるか、ネジ釘が抜け落ちるだろうということである。この場合、ベルトとかチェーンを介し固定に遊びがあれば家具の自由な運動を許容し、固定具の破壊を防止でき、倒れかかった家具転倒は防げるはずである。
ところが意外とベルト、チェーン式の固定具は売っていない。あっても3000円超と高価である。
私も徐々に揃えて行こうと思っているが、パネル工法の我が家では設置が難しいのであまり進んでいない。
6/19(日)快晴
1:10起床、随想読み、徒然など。微睡。日差しが強くなる前に畑の草取り、10:30は無理。読書、データ整理、など十分できた。BR disk視聴は主としてNHK so定期演奏会の一部を聴きながら曲目インデックス作り。15:00再度草取り、インデックス作り。19:00夕食。20:30就寝、歩数計8931Km。
謝罪とは何か(3) タレントはなぜ謝罪するのか
わが国では、謝罪は一般的には口頭で謝罪の意を伝え、頭を下げる。文書で示すこともある。頭を丸めたり、謹慎したり、甚だしくは辞職することもある。著名人であれば謝罪を新聞等で公表する、会見を開きテレビで謝罪するなどの方法もある。
しかし、謝罪内容にもよるが、多くの場合、これらの謝罪行為は相手の悪感情を軽減するが、根本的な解決までには至らず、逆効果の場合さえもある。内容によっては償いとして金銭によって贖われることもある。
社会的に責任のある企業人や政治家の謝罪会見にはそれなりの意味があるだろう。
公の場での謝罪会見や釈明会見が開かれ、カメラの前で芸能人が頭を下げる姿は、もはや珍しくもない光景だ。
タレントの不祥事が発覚すると、その多くは男女関係であるが、生活上の私的な行動の一つであるのに、それがなんで不祥事なのか。私には理解できない世界である。
何でタレントは謝罪をするのか?
一つの理由は発覚してしまった以上、沈黙を続けたら、いつまでもメディアに追い回され、興味本位であることないこと語られる。それよりは会見を開いて、とにかく世間様に謝ることが必要なようである。わが国ではこのようなパフォーマンスをやり、公衆の面前で頭を下げないと先に進めない社会になってしまったようである。
第2には、公衆の面前にさらされ、記者の厳しい質問に耐え、苦渋の表情をする、涙を流す姿が、見るものの一部に溜飲を下げさせる効果があるからだろう。メディア側の発想もこういうことか。
第3には、この会見の姿自体がタレントにとって商売になるからである。大衆にとってタレントの地位は決して高くない。見下されている場合の方が多いだろう。タレントの謝罪は一種の娯楽として消費される商品でもある。だから、謝罪会見は娯楽的見世物でしかない。
タレントは人気商売だからか、大衆の要求に応えることが求められるらしい。謝罪会見を開いたからってすぐ許されるわけではない。むしろ、会見の様子が気にくわないとツイッターなどで袋叩きにあう。謝罪会見の効果は、その誠意が見るものに伝われば、誤解が解けるだろうし、不祥事に関する興味のエネルギーを減じる効果がある。場合によっては見直されることもあろう。
しかし、こんなことを報じる側も問題である。売らんがためであろうが、メディアは大衆が求めるから・・と逃げるのが常であるが、本当にそうだろうか。
言い換えてみれば、特別の感情を持つ熱狂的なファン以外の人々にとっては、タレントの不祥事などは、私にとっては怒りなども、興味もない。
私にとって興味があるのは最近の謝罪行動そのものに対してである。謝罪とは一体なんだろうか。まだ疑問が解けない。
6/18(土)降雨・雲・快晴 飯川病院午前外来 歯の治療
0:30起床、文献・新聞チェック。データ、本読み。8:40クロスバイク飯川病院、午前外来。BR disk視聴:「モーガンフリーマン:不老不死」、「池上:日本人の知らない聖書」。13:30帰宅、15:30歯科医院。畑仕事、きうりナスなど枝が繁茂し添え木強化、など。
19:00夕食、20:30就寝。歩数計8925Km。
謝罪とは何か(2) 形骸化した謝罪
謝罪は、直接被害を受けた当事者や関係者がいるならば、直に面会して誠心誠意謝罪するのが正しいやり方であるはずだ。なのに、謝罪はメディアの時代、特にTV時代を迎えて大きく様変わりした。謝罪そのものが形骸化してしまった。
謝罪の意義がよく分からなくなっている。一体、謝られるべき方々は誰なのか?
TVによる謝罪劇はニュースで頻回に流されるが、単なる視聴者である私にとって謝罪される理由は、ほとんど見当らない。単なる謝罪風景とみなしていればいいが、この謝罪風景を見ているとなんとも居心地の悪さを感じてしまう。
特に、当事者の説明が一旦終わると、関係者が一斉に立ち上がって出席者に向かって頭をさげるが、その瞬間にプレス関係者は一斉にシャッターを切る。まるでメディアはこの瞬間のために謝罪会見に集まって来ているようだ。翌日の新聞、その他のプレスは例外なく頭をさげる一瞬がでかでかと掲載される。これは、晒し首以外の何物でもない。
当事者が誠心誠意説明をしても、そのことが誌面に反映されていることは少ない。
謝罪会見などの場合、報道番組の構成や、誌面のデザインはメディア側の思うように作られる。私はその構成にメディアの悪意、増長を感じ取り、「みせしめ・晒し者」としての側面をその姿勢の中に感じてしまう。公開処刑といいかえてもいい。
本当の意味での公開処刑は近代以降は人権尊重の観点からどこの国でも禁止されているが、現代社会では形を変えて、メディアを介して行われ続けているのだ。謝罪会見などの場合はメディアは一般大衆の嗜虐嗜好を味方につけて巨大な権力者と変容する。そのことをメディア側は気づいているのだろうか。とてもそうは思えない。まるで扱いがワンパターンである。
また、私たち視聴者の心の中に唯かを罰したい、唯かが罰せられているところを見たいという暗い欲求がドロドロと渦を巻いている。それは大人社会のいじめの心理とも共通している。
謝罪会見の場には謝罪されるべき立場の方は一切同席していない。なのに頭をさげる。一体誰に向かって謝罪しているのか?メディアに対して謝罪?メディアの後ろに控えているだろう大衆に対してか??
多分後者であろうが、こうした謝罪の形態は謝罪そのものを形骸化させてしまった。
謝罪する側にはそれ用のマニュアルが用意されている。だから、本心とは思えない共通したスタイルで、謝罪会見が進められる。
見る側はどうか?もともと謝罪を受けるべき立場にはない。だから、会見の様子は一種の娯楽として消費される。溜飲を下げる人もいるのかもしれない。
謝罪会見における謝罪は完全に形骸化している。
6/17(金)降雨のち晴れ 大曲外来 飯川病院ボランティア
1:00起床,新聞文献、徒然など。可燃ごみ提出準備。7:30Taxi駅に、8:10こまち。8:55大曲中通病院外来。駅病院間はTaxi往復。13:30-18:45飯川病院ボランティア、19:00Taxi帰宅、夕食、20:00就寝。BR disk視聴:「団塊スタイル:若々しい血管」。Σ8916Km。
謝罪とは何か(1) 子供の喧嘩に見る、純粋な原点
現在は何か事件、不祥事があると何でも謝罪、謝罪、である。その謝罪の状況の多くはTV中継される。まるである種の晒し者ショウを見る如くである。
最近の謝罪劇をざっと挙げてみると、重いものではで最高裁がハンセン病患者、元患者、家族等に対して謝罪した。対社会に対しての謝罪は甘利氏、舛添氏、三菱自動車など。何だかわからない謝罪に、SMAP、ベッキー、円楽・・・と枚挙にいとまがない。軽重様々であるが、謝罪とはこんなに軽いものだったのか?と、こんな謝罪なら意味がない、と思うことがしばしばである。
謝罪とは何か。
謝罪とは自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。
本来、謝罪とははらわたが煮えくりかえるほど悔しい行為であるはずだ。
その原点は子供同士の喧嘩の際に見られる。子供同士では互いに非を認めず謝罪しあうことは稀である。これは、子供が未熟だからでない。謝罪する自分を純粋に許せないのだ。それほど自我との戦い、せめぎ合いの葛藤がある。私はここに謝罪の原点を見る。謝罪しない、ということはとても貴重な感情だと思う。
私は子供の頃の自分を思い出すと、心から謝ったことは一度もなかった。強情な子だね、と何度か指摘され非難もされた。そのことが今でも精神的は糧の一つになっている。その時の個々の状況は十指に余るが、それらを決して忘れてはいない。今でも何かにつけて思い出す。
子供の喧嘩は時間が解決してうやむやになることが多いが、時におせっかいな大人、教師、親バカが介入して一方の側に、あるいは双方に謝罪を求める。子供の喧嘩に大人の価値判断を持ち込まれる。この過程の中で子供は打算的謝罪方法を学んで行く。
謝罪は本心からのものと、世渡りのための戦略的・打算的なものに分けられる。
前者の場合には、緊張した声で短かく謝罪の言葉を述べ、緊張しきった表情で頭を下げて謝罪の意思を表す。時には悔し涙を伴う。それが、徐々に緊張感を欠く謝罪になっていき、謝罪の頻度も増えていく。そのうち、にやけた顔で謝罪を交わすようになる。いや、にやけているのは顔でなく、心である。
謝罪は、謝罪をする人とそれを受ける側の社会的地位や影響力などで、様々な様相を持ってくる。
謝罪はTV時代を迎えて大きく様変わりした。
6/16(木)降雨 外来 飯川病院
1:00起床,文献整理。7:00飯川病院着、雨にて久々プリウス出勤。8:45-13:00中通病院外来+ドック判定総括14人分。13:15飯川病院、微睡。14;00-18:30勤務。BR disk視聴:「プレミアムカフェ:若冲」、「世界で最も貧しい大統領:ウルグアイ ムヒカ」。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Σ8909Km。
家庭菜園・園芸2016(1) バラ ボタン ダリア
鉢植えのボタン、地植えのバラは今年も見事な花をつけた。
(バラ ヨハネパウロ二世)
ダリアは昨年初挑戦した。雄和にある国際ダリア園に予約して入手した10株ほどである。昨年はこのうち8株が成長して開花した。
霜が降りる前に球根を掘り出した。球根は植えた時の何倍にも増えているだろうと期待したが、予想に反して小さく弱々しく分割できるほどのものは一つもなかった。水は十分にやったものの肥料が足りなかったためであろう。反省した。
これも自己流であったが数日乾燥させ、新聞紙で包み、凍結させない様に書斎の隅で越冬させた。5月初旬に取り出したが、乾燥しきった球根は掘り起こした時の半分ほど、大部分は鉛筆のごとくになっており、果たしてこんなので芽が出るか危惧された。
しかし、自然の力は大きい。本日は植えてから約一月、これらのうち5株が成長した。まだ芽を出していない3株は諦めたわけでなく散水しながら祈るような気持ちで成長を待っている。
6/15(水)快晴 キウリ初収穫 飯川病院ボランティア
1:00起床,文献読み、整理中心、いつもの如く。7:30畑に出る。杭の強化、剪定、キウリ初収穫 10:00クロスバイク飯川病院着、院長上部消化管検査、往診などで不在でボランティア。花壇に撒水。BR disk視聴:「アナザーストーリー:大韓航空爆破事件の新視点」、「歴史列伝:戊辰戦争、和宮と篤姫」。17:20帰宅、19:30夕食、20:30就寝。Σ8901Km。
家庭菜園・園芸2016(1) 初収穫した
2011年から小規模ながら家庭菜園・園芸をやっている。勤務時間が若干減ったと言え、まだ、ほぼ終日勤務、週末土日が日直に当たることが多いからちょっと時間が足りない。だから週末と早朝に世話している。それで草ぼうぼうである。週末には草刈りと草むしりに追われる。
今年は5月3日に私の定番になっているトマト、キウリ、ナス、枝豆、さらにネギを植えた。
前三者の苗は1本も枯れることなく順調に生育した。5月22日には風にあおられて折れないように、キウリのツルが上に伸びるように支柱を立てた。先年に習い、剪定なるものを行い枝ぶりをすっきりさせた。最初は各株ごとに一本の支柱としたが、成長に合わせて支柱間に横棒を渡して強化した。6週間目の今日初めてキウリを収穫した。
<a href=""><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/30/38/fcd888fc76bfe33510bf55c08887c64a_s.jpg"
border="0"></a>
(繁茂したキウリ、トマト、ナス)
枝豆は一回目の種まきでは発芽が2/3程度で、2週間後に二回目の種まきをした。時間差の収穫も意図した。過去2-3年は発芽がゼロだったことを考えると今年は調子はいいようだ。新しく南隣の農家の方から4ムネ分の畑を借用したのが良かったのであろう。
ネギは元蔵葱で耐寒性強く、収量が良いとされている。スーパーの外で束になって売っていたが、根は綺麗に洗われており、私は食べるための商品かと思ったが、これが苗だという。これで根が着くものか心配したが8割方生着した。収穫が楽しみである。
私のやり方は自己流である。私の住処の四方の方々は昔は広く農業で生計を立てた方達だと思う。だからその方々が畑に出ている時には自己流が恥ずかしく、さりとて助言もされたくないから一緒の時間に作業しないよう工夫している。だから時間配分も大変である。
肥料を混ぜて適当な土つくりができて、太陽と水があって、大きな間違いさえなければ育つはず、自然の力は大きいのだと思ってきたが、なかなかそうは甘くなかった。これからは追肥、虫の駆除にも工夫してみる。
本日はキウリの初収穫であった。豊かに茂った葉の陰にひっそりと大きくなっていた。
(ネコはプチ 昨年から同居した、元ノラの2歳)
これから、キウリ、ナス、トマトに追いかけられる嬉しい日々が続く。
畑作りは楽しい。
6/14(火)快晴 外来 飯川病院 アトリオン「医家美術展」 梅雨入り
0:30起床,新聞・文献チェック、他。5:00可燃ゴミ集積所に。7:20徒歩飯川病院、8:45-12:45中通外来。書類作成ほか。13:00アトリオン2F「医家美術展」見る。
13:45飯川病院、14:00-18:40勤務。入院患者対応、爪切りなど。データ整理・新聞チェック。BR disk視聴:「ショパン:ナビ、松下奈緒」、「そこまで言って委員会:信じられるか否か」、「世界は今」観る。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。Σ8895Km。
日本海中部地震33年(2) 地震時に家具に押しつぶされないために
1983年(昭和58年)5月の日本海中部地震はM7.7、秋田市で震度5であった。
この時は秋田大学で勉強中であったが医局、研究室の机上に設置してあった書庫や本立てはほとんど倒れた。壁際の本立て書庫は転倒を免れた。ちょうど昼休みで医局研究室には私しかおらず、けが人はいなかった。次々と書棚が倒れる様は壮観であったが、固定していない家具のもろさと危険性を体験した。自宅の被害はなかった。
1964年6月の新潟地震はM7.5で仙台市は震度5であった。
当時仙台で下宿生活を送っていたが、木造の古い住宅の2階で、壁際の本立てが二つとも倒れた。
2011年3月の東日本大震災はM9.0で秋田市は震度5弱。中通総合病院院長室で迎えたが、家具、書棚等に転倒や移動はなかった。自宅の被害もなかった。
このような体験があって耐地震対策として家具の固定には関心がある。
家の中は、地震が起きると「凶器」になりうる書棚や箪笥、食器棚に冷蔵庫などであふれている。
東京消防庁が、新潟県中越地震や岩手・宮城内陸地震などの被害状態を調べたところ、けがの3-5割は家具類の転倒・落下・移動が原因だった。
また、東日本大震災で、東京都内は最大震度5強の揺れであった。東京消防庁が都内の約1200世帯に行ったアンケート調査によると、22%が「家具類の転倒・落下・移動があった」と答えた。
さらに、平成24年の調査では、地震に際し危ない思いをした人が多かったにもかかわらず、また、南海トラフ地震の発生が予測されていながら、耐地震対策をしている都民は6割弱にとどまっていた。
家具等の転倒防止対策は地震の際に命を守るために、怪我をしないためにも重要であることは論を待たない。
その対策は以下が基本となる。
@ 生活空間になるべく家具をおかない。できるだけ作り付け家具などに収納する
@ 家具を置くときは地震時の転倒を意識し、背の低い家具にし、配置をよく考える
@ 重量物はなるべく低い位置に収納する
その上で転倒防止対策が必要である。
家具店やホームセンターでは様々なタイプの家具の転倒防止器具が売られている。
6/13(月)終日小雨・曇り 健康クリニック 飯川病院
0:20起床,いつものごとし。データ整理ほか。14:00殻月かき10ケを剥く。一時間もかかった。小雨にてバス、7:10飯川病院着。9:00-11:00健康クリニック、ドック13名+結果説明2名。11:30飯川病院、微睡。14:00-19:00勤務。入院患者対応、爪切りなど。帰宅。19:10夕食、20:15就眠。BR disk視聴:「世界がびっくり日本の警察」、「受けたい授業:独裁政治」、「知恵泉:水戸光圀」観る。
日本海中部地震33年(2)冬場の被災も考えた備えを
専門家の言うことを信じるか否かは別にして、専門家はどんどんと発言している。専門家は一般的に危機意識を高める発言をして自らの身を守っている。これだけ表明していればどこで地震が起きても後指を指されることはない。専門家の安全対策は万全である。
警告がたくさん出ている状況にありながら、さらに、日本海中部地震・東日本大震災の揺れを経験していながら、秋田県民の備えは十分とは言えないようである。秋田県民は専門家の提言に惑わされずマイペースで行くほど先進的なのだろうか?と思ってしまう。
14年度末の集計では住宅の耐震化率は71%と全国平均の82%を下回っている。15年度の県民意識調査では災害時の食料などの備蓄について「何もしていない」が53%に上っている。改正災害対策基本法に基づく避難場所の指定なども進んでいない(上記数値は魁新聞記事から引用)。
行政が対策を一層強化すべきなのは当然であるが、肝心なのは「自分と家族の命は自分達で守る」という具体的な行動だろう。私共はどうしても平穏な毎日が続くと其れに慣れきってしまう。そのためにコストがかかるような対策はしない。
その対策の基本は、住宅の耐震化と備蓄である。耐震化が無理ならせめて家具の配置の検討と固定化である。家財を上に上に積み上げるのは危険である。凶器になる。
大地震直後は、行政の手が十分回らない。だからアテにはできない。最低限5日間ほどは自活できる備えをする必要がある。水と食料備蓄についてはなんとかなるだろうが、秋田の場合は防寒対策が重要となる。
東日本大震災は3月、熊本地震は4月と寒い時期に発生したが、秋田で降雪・積雪期に大地震が発生したら、と考えるとぞっとする。寒さ対策は時間に余裕はない。凍死者が続出するのではないだろうか。電気に頼らない熱源の確保は重要である。冬を迎える前には準備しておきたい。隣近所の方々との連携も重要となる。
「県民防災の日」の意味をみんなで考え、個人、地域、社会として危機管理を怠らないようにして行かねばならないが、地方紙の社説やコラムだけの行事になりつつあるのではないだろうか、と心配になった。
東日本大震災後の大規模地震は以下の如くである。個人的な関心による収集だから重大な地震が落ちている可能性もある。
@ 2011年3月東日本大震災M9.0
@ 2012年12月宮城県沖M7.3
@ 2013年4月淡路島 震度6弱
@ 2014年4月チリ地震 M8.2
@ 2014年11月長野 震度6弱M6.7
@ 2015年5月小笠原沖 M8.1
@ 2015年2月岩手県沖 M6.9
@ 2016年4月熊本県 M7.3
6/12(日)快晴 飯川病院日直
1:00起床、通常の作業、読書ほか。5:30朝の軽食、読書等読書等。8:30クロスバイク飯川病院着、日直業務に。患者は平穏。新聞記事処理、蓄積データバックアップ作成。花壇に散水。17:30迎えあり、自転車を乗せてDIY店に立ち寄り、畑、花壇用の追肥剤、殺虫剤など購入し帰宅、19:00夕食。20:30就眠。BR disk視聴:「林:巨匠とマルガリータ」、「団塊スタイル:聴力低下」、「池上:ニュースそうだったのか」、「サイエンスゼロ:核DNA解析」観る。歩数計Σ8878Km。
日本海中部地震33年(1)専門家の予想はあてにせず身を守る
1983(昭和58)年5月26日M7.7の日本海中部地震で、港湾や道路などが無残に破壊され、全国で104人、本県で83人が亡くなった。本県の犠牲者の内79人が津波によっている。男鹿半島の加茂青砂海岸に遠足に来ていた合川南小の児童13人も命を落とした。秋田市の震度は5であった。
県は地震が起きた翌年、「5月26日」を県民防災の日と定め、毎年大規模な防災訓練を行っている。近年、全国で大災害が頻発している状況を見れば、そうした日頃の備えは重要性を増す。
大規模な地震はその後も、国内外で頻繁に起きている。
私のファイルにある地震をザッと挙げると、東日本大震災までは以下の如くである。個人的な関心による収集だから重大な地震が落ちている可能性もある。
@ 1983年5月日本海中部地震M7.7
@ 1995年阪神淡路大震災
@ 2003年十勝沖地震
@ 2004年中越地震
@ 2007年中越沖地震
@ 2007年能登半島沖地震
@ 2008年6月の岩手・宮城内陸地震
@ 2008年10月中国四川地震
@ 2009年8月静岡M6.5
@ 2010年2月チリ大地震M8.8
@ 2010年3月福島地震M6.7
@ 2010年4月中国青海省地震M7.1
@ 2011年2月ニュージーランド地震M6.3
@ 2011年3月東日本大震災M9.0
1995年の阪神大震災や2011年の東日本大震災、そして今年4月の熊本地震などと、大地震は何度も日本列島を襲い、各地に甚大な被害をもたらしている。
専門家は「国内には2000もの活断層があり、いつ、どこで大地震が起きても不思議ではない」と指摘している。その通りであろうが、これは何ら提言にならない無責任な感想である。地震の専門家が予測できた地震ははっきり言って一つもない。専門家は保身のために常識的なことを言っているに過ぎない。当然ながら、地震が起きない、と明快に予想した専門家もいない。
専門家は熊本地方は最も安全な地域と言っていた。
熊本地震を、東日本大震災を、上記のリストにある地震を予測した専門家はいない。だから専門家が何と言おうと、そんなことと関係なく、わが国に住む限り、自分の身の回りにいつかは、明日か? 地震が生じると思わなければならない。だから、警戒は怠れない。
秋田では、東日本大震災の影響で、岩手県境付近の活断層では地震発生確率が高まっているらしい。さらに青森県沖から新潟県沖までの海域で連動地震が発生した場合のM8.7が想定されている。しかし、これも専門家が言うあてにならない予想である。私は逆に、ジョーク的に言えば専門家が危ないと言っている地域は安全なのではないだろうかとさえ思う。
日本海中部地震33年を迎え、地震関連文献を読んでみた。
6/11(土)快晴 フリー
0:30起床。文献新聞チェック、蓄積データ整理、その他。午前草刈り、畑メインテナンス、草取り。直射日光が辛い。微睡、ネコ室網戸の強化、他。19:30夕食、20:30就寝。BR disk視聴:「BS世界のドキュ:ルーブル美術館を救った男」、「英雄の選択:高田屋嘉兵衛」。8870Km。
町内会(4) 町内会の存在意義は? 町内会入会とゴミ問題(1)
私は町内会組織は必要だとの立場をとる。町内会の維持に最小限の労力や金銭の提供、配慮は必要だと考えている。
同じ地域に住む限り必ず何らかの利害関係が生じる。その利害関係の解決には人間関係の維持が必要だし、一歩進めてみれば、地域の安全確保や清潔の維持、高齢者単独世帯の増加、孤独死、空家など、犯罪防止や地域の安全確保の面から町内会の存在意義が強まっている。
しかし、時代の変遷とともにご近所同士でも挨拶一つしないような関係になりつつあり、町内会や自治会の考え方は大きく変わってきている。その問題は都市部で特に目立っている。
町内会に関するアンケート調査を見ると、地域の神社の維持、寄付行為、選挙の利用などあるが、中でもゴミ問題が大きい、と思われる。多分、私の町内でもごく少数の方がゴミ集積所を利用できていないのではないか、と思う。
住民の生活で出るゴミは「ゴミの処理及び清掃に関する法律(昭和45年法律第137号第6条の2第1項)」の規定により自治体が収集し、運搬し、および処分することとされている。
秋田市の「ごみ集積所の設置および維持管理に関する要綱(平成26年3月市長決裁)」では、第8条に(1)として、町内会長等はごみ集積所の適正な維持管理を行い、当該ごみ集積所の清潔を保持しなければならない。(2)として、ごみ集積所を利用する住民は、ごみの分別を徹底するとともに、ごみの散乱防止等の必要な措置を講ずることにより、当該ごみ集積所の清潔の保持に協力するものとする・・・・とある。
秋田市民は市の運営のために納税義務が課せられ納付しているから、市の提供するサービスはあまねく受けられる事になる。ゴミ処理に関しても市民なら平等であるはず。ところが、市は収集、運搬、処分はするが、ゴミ集積所の管理を任意組織である町内会に委託し、町内会長等はゴミ集積所の維持管理を行わなければならない、と義務化していて、町内会には補助金を出しているところに歪みが始まる。
住民はゴミを処理してもらう権利がある。さりとて市は個別には対応できないし、しない。
したがって、秋田市の住民の場合はゴミ処理のためには、町内会の集積所を用いるか、個人的に御所野にある市の処理センターに持ち込み有料で処理するか、となる。私は終活のために時々大量のゴミを廃棄をしに行くがこれは大変な作業となる。許可を得て会社等のゴミに出す場合もあろうが、通常は拒否される。
大曲駅では家庭ゴミを持ち込まれているようで禁止の張り紙が貼られている。コンビニなども同様である。これは不法投棄に当たる。事業所では有料でゴミ処理しているから、営業妨害にあたり、場合によっては訴えられ、損害賠償を求められる可能性がある。
住民が個人的にゴミ処理をしようとすれば大変な状況に陥る。町内会は煩わしい、会費を払うのは嫌、と考えるより加入する方がはるかに楽で便利である。
6/10(金)晴れ夕方降雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア
0:30起床,文献本読み、新聞チェックほか。5:15可燃ゴミ提出、7:40Taxi駅に。8:10こまち、往路病院・駅間は歩く。9:10-12:10大曲中通病院外来、14:45-16:00飯川病院ボランティア。生保関係スタッフ来訪。19:00Taxi夕食、20:00就寝。BR disk視聴:「林:初耳学」観る。
町内会(3) 町内会の存在意義は? 某アンケート調査から
本年4月に町内会の班長が回ってきて引き受けた。町内会の班長の実質的仕事を担うのは初めてで、いろいろ考えるこの頃である。本来、町内会は任意団体である。しかし、私は町内会組織は必要だと考えている。
町内会や自治会については、私どもの町内では過去の総会記録を読む限り決定的な問題はなかったようである。私の居住区は米どころの集落として長い歴史があり、近所に新しく居住したのは私ともう一軒だけで、町内の住民は古くからの結束があり、問題がないのだ、と考えられる。私が転居してからは40年近くで、ほぼ代替わりしている。また、この地区は急速に住宅地として発展し、今はほとんどのの家は農業を廃業し、アパート経営などが仕事となっている。やはり、昔に比べれば住民間の結束は緩くなっていると考えられる。班内にも特に問題は生じていない。
しかし、時代の変遷とともに町内会や自治会の考え方は大きく変わってきている。その問題は都市部で特に目立っている。
私のファイリングにも町内会・自治体に関する内容は少なくない。
町内会の要・不要論は代表的な議論の一つとなっている。
町内会不要論も一つの選択肢である。しかし、高齢者単独世帯の増加、孤独死、空家などが増えていて、犯罪防止や地域の安全確保の面から町内会の存在意義が強まっている。
某新聞社が2015年に行った自治会・町内会に関するアンケート調査によると、回答者は8割が男性。6割が60台以上。自治会・町内会に入っているが87%、入っていない、あるいはやめたが12%であったという。
その中で記載された意見は以下の如く
@ 住民が主体的に関わるはずなのに話し合いがなされていない
@ 運営や会計のあり方に歪み
@ 活動不参加時に不足金が取られることも
@ 賃貸マンション住民は参加しない
@ 多くに退会の自由がない
@ 退会するとゴミを出せなくなる
@ 向こう三軒両隣は日本の優れた文化
@ 最小の住民自治組織で、人間関係が基礎になる
@ リアルな人間関係は、面倒も多いがメリットの方が大きい
@ 子供達の安全、防犯灯の設置など助かっている
@ 災害時の対応に行政に頼りすぎ
@ 会費と市町村からの依託金、補助金で成り立ってい役所の出先機関か?行政との関係がわからない
@ 神社の支援金に充てられる
@ 各種募金への一律関与はおかしい
@ 地域の絆強調しすぎ
@ 選挙で利用されている
@ 自治体と町内会のパイプはぜったいに必要
@ ・・・・・・・
このアンケートの意見は、自治会・町内会は問題はあるが、必要である。しかし運用とかには改善の余地がある・・・と読めると思う。
この中ではゴミ問題は住民と自治会・町内会を結ぶ深刻な因子となっているが、市町村と住民との関係から見ると、町内会のゴミ集積所の利用は町内会の入会・脱退とは関係ない、市民・住民の権利なのだ、と思う。
6/9(木)曇りのち降雨 外来 ドック総括 飯川病院
0:00起床,新聞チェックほかデータ整理。いつものごとく。7:30徒歩飯川病院着。8:45-13:45中通病院外来、健康クリニックドックデータ判定。混雑し疲弊した。14:00- 19:15飯川病院、19:30帰宅、夕食、20:30就寝。 歩数計8853Km。BR disk視聴:「喬太郎迎賓館・最終回」、「孤独のグルメ:ブータン料理」、「世界一受けたい授業:男女差」観る。
映画:ベトナムの風に吹かれて 原作:小松みゆき 監督:大森一樹 2015年製作
日本ベトナム友好協会秋田支部の、同映画上映実行委員会主催の映写会。今月6日、秋田市文化会館小ホール、新聞の折り込み広告で見て参加した。
アジアの歴史についても興味があるが、各国の歴史・文化についてはあまり情報に触れる機会がないので映画から何か得られるか、良い機会と考えた。
あらすじは、ベトナムで日本語教師として働く主人公の日本人女性が、認知症の母を施設に入れようとする兄夫婦の姿勢を見かねて、新潟からベトナムに引き取って共に暮らした生活をつづった小松みゆき氏の原作「越後のBaちゃんベトナムへ行く」を映画化した作品。
認知症で自身ががおかれている状況をきちんと理解できないからこそ、母はハノイでの生活に馴染み、徐々に笑顔を取り戻していく。言葉は通じなくてもご近所の方々に見守られ、日本にいたころよりも却って生き生きしている様子が描かれる。日本人にも分け隔てなく接してくれる隣人の姿が魅力的。ベトナムの人々は二人をおおらかに受け入れ心を通わせていく。
しかしながら、母が交通事故で負傷し手術を受けたのをきっかけに、認知症が再悪化し主人公は介護の厳しい現実に直面、主人公はすっかり疲弊してしまう。それでも徐々に快方に向かう。最終的にはハッピーエンド的に笑顔で映画は終了する。
私はこのようなハッピーエンド的に終わる手法には、妙な、中途半端な不満を感じ、必ずしも賛成できない。ハッピーエンドには必ず後日談があるはず。その後、母は、主人公は異国の地でどう生きていくのだろうか。
50年ほど前は、日本も、私の田舎にもこのような認知症的高齢者がいたが、当時は家族も多く、家庭機能も保たれており、大騒ぎされず、周りの人がも協力して対応していた。日本の少子高齢化のコミュニティの問題点を考えさせる。
主演は松坂慶子。母役を草村礼子、主人公の旧友役を奥田瑛二が演じた。初の日本・ベトナム合作映画だとのこと。奥田瑛二氏については実績を知らなかったが、NHK「らららクラシック」のゲストとして招かれ、その存在感に圧倒され、興味を持っていた。本作でも十分存在感が発揮された。
第二次世界大戦時にはベトナムも戦争の場となった。フランスの植民地から解放され、戦後も多数の日本兵が残留して復興にも参加したが、再度フランスの侵攻を受け日本兵の多くは強制的に帰還の途についた。その際、現地にはベトナム人妻や子供達も残された。その様子は年老いた元日本軍兵士のエピソードを通じて表現されており、その面でも若干ながら勉強になった。
6/8(水)曇り時々降雨 飯川病院ボランティア
1:00起床,新聞チェックほかデータ整理。午前フリーで晴れ間を見て畑仕事。枝豆種まき、ダリアのケア、除草。11:30プリにて薬局、明徳館立ち寄り飯川病院着、12:45-15:45のランティア。ネコ室の網戸強化アクリル版にて強化。19:10夕食、20:30就寝。歩数Σ8843Km。BR disk視聴:「ワンニャンクラブ:25/3月分」観る。明徳館では、フラットスキャナー、NECパソコン一台、MACパソコン一台廃棄した。
昭和27年4月10日自宅消失(16) 我が家に及ぼした影響(6) 父の人生(3)
私にとって父は良き親であった。
勿論、いろいろ問題はあった。
私への家庭内の教育は祖父母が厳しく担ってくれたので、自分の息子でありながら父は出る幕がなかった。そのために父から厳しい教育的なしつけは受けたことはなかった。しかし、祖父母の手前直接的表現が出来なかったのであろう、言葉の端はしに嫌味っぽい表現があり私を落ち込ませた。これは嫌な一面であったが、我が家の中で中年に達するまで祖父母に押さえつけられ、自分を発揮できなかったことを考えると理解できた姿であった。
私も嫌味っぽいとよく言われる。気が小さくストレートに自分を表現できないこともあるが、父の影響も大きい、と思う。
また、父には山師っけがあるらしいことは幼少の頃から会話を通じて感じていたし、余所の方から指摘されたこともある。祖父母間では株式の話、株券の話、証券の話などが日常的に交わされていた。幼少であった私には全く意味がわからなかったが、なんだか労力を使わないうまい話のように思えた。かなりの額を有していて、家の再建に大いに役だったらしい。これらの会話に父が関与することはなかった。なにしろ父にとって自由になる資金などなかったからである。
祖父母死去、母の入院、私の進学と揃って一人になったところで、父はついにチャンスが訪れたと喜んだのであろう。我が家の蓄えをほぼすべてつぎ込んで利殖を図ったが、そう上手くいくはずもなく、すべて失った。
早めに私どもが気づき止めさせたが、他に借金を作っていなかったことが最大の救いで、家屋敷の売却で一息つけた。広すぎる家屋敷から小屋に移ったことで老父母はメインテナンスの労から解放された。これは大きい、とてもいい意味での破産がもたらした副作用であった。
私は、コツコツと働くことと浪費しないことは利殖と同じ、という考えに立つ。これは堅実な母の教えでもある。だから、私はこの筋の話には一切乗らない。嫌悪をも覚える。これは父が残してくれた教訓である。
老父母の元には私は十分?な送金した。母が死去した後も希望で同額送り続けた。独居が困難になり秋田へ転居したが、引っ越し荷物の中に当時贅沢品とみなされていた30インチ超の大型TV、ヴィデオデッキ、電子レンジ・・・、2年間分ほどのロイヤルゼリーなどなど含まれていて驚いた。
独居中に父は私どもの訪問を好まなかったが、その理由をその時点で理解した。
楽しく一人暮らしを楽しんだのだろう。何も遠慮がちにコセコセすることはなかったのに。これも性格だね、と思う。私も受け継いでいる。
中年期以降は糖尿病を患ったが、病識はほぼなかった。しかし、外面のいい父である、主治医に自慢したくて受診日の数日前から節制に努め血糖値を下げる努力した。尿糖に関しては検査時の尿に水を加えたこともあったらしい。受診後は川徳デパートで食品を買い込み、毎日たらふく食っていた。
そんな父の様子を私は知っていたが、生涯を通じて我慢を続けてきた父である。私は見て見ぬふりをしていた。父は昭和58年秋田に引き取って2ヶ月で心筋梗塞を発症し厳しい状態に陥ったが、私は治療の中止を申し出、そのまま死去した。享年80歳であった。
尊敬という言葉は似合わないが、人間味に溢れた大好きだった父への最後の親孝行であった。十分、生きた。後半はいい人生だったと思う。
その他にもいろいろエピソードを残した父である。もう私以外には知る者はいない。
昭和27年4月の自宅消失は、父の人生にもいろいろ影響を与えた。しみじみと思うが、自身が負うべき責任も大きかった。
6/7(火)晴れ 外来 飯川病院
0:30起床,いつもの如く。徒然など。5:00可燃ゴミ4袋提出。7:25徒歩病院着。8:40-12:30外来、13:00飯川病院、14:00-18:00勤務。19:00夕食。新聞、文献読み、20:30就寝。歩数計8831Km。BR disk視聴:「そこまで言って委員会」、「今世界は」観る。
昭和27年4月10日自宅消失(15) 我が家に及ぼした影響(5) 父の人生(2)
父は火災当時、40代後半であった。
火災の時にほとんど役立たなかったこと、家の再建とかに寄与度が少なかったことなどは、恐らくは自身の大きな心の傷になっていた、と思われる。自身だけでなく周辺もそのような目で見ていた。このような環境は外面のいい父にとってはかなり苦痛であったはずで、「いつかは自分の時代がくる。その時は一攫千金を得る夢がある・・・」といったことを私に話したことがある。そんなうまい話はないだろう、と聞き流していた。
消失した家・診療所は再建された。
昭和34年、祖父は死去、廃業した。父は一家の代表としての働きと責任感が出てきた。給与も家に入れ始めたが、我が家の経済は徐々に傾きかけていた。にもかかわらず、私が中学生の時に村長と大げんかし、定年を迎えず勝手に退職してきた。これから高校、大学に進む息子がいるというのにである。私は驚いたが、プライドだけは高かった父らしい行動であった。その後、父は働きに出るわけでなく庭木の世話しながら淡々と日々を過ごしていた。
私は盛岡の私立の中高一貫校に進んでいたが、家の経済状況を理由に退学、郷里の中学に転校した。小学の頃は岩手医大に進学するよう仕向けられていたが、それは夢物語になった。いろいろあったが、幸い新潟大学に入学できた。学費がつづくか不安であったので、6年間の生活費・学費として50万円を貰い、以降一切援助を求めることはなかった。求めても対応できる状況ではなかった。6年間の学生寮生活は、特に食生活において苦しかった。このことが、後の私の人生を変えてた要因の一つとなる。
昭和40年祖母は、私が医学部に進学できたことを喜ぶ一方、我が家の行く末を心配しながら死去した。
次いで母が結核で数ヶ月間盛岡の病院に入院した。
父にとっては私を含めて目の上のたんこぶが3つなくなった。この時期を狙って先物取引に手を出し、結果的に大きな痛手を負った。
父はまだ未練があったようであるが、兄と私とで説得、先物取引をやめさせ、家屋敷を売却し、盛岡の郊外に小屋を購入、転居した。これで両親の数年分の生活維持の目処が立った。昭和46年私が卒業、県立病院に勤務したことで両親の生活は一応安定した。
昭和53年、母は失意のうちに私の元で死去した。
父はその後数年、盛岡の自宅で悠々自適の独居生活を送り、昭和58年秋田に引き取って2ヶ月で急死した。
6/6(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院 映画
1:00起床。蓄積データの整理。本読み。7:20徒歩、千秋公園ハトに餌やり飯川病院着。9:00-11:00 健康クリニックドック。書類処理等。12:00飯川病院、微睡、 14:00-18:20勤務。病院花壇に散水他。BR disk視聴:「マイセン」、「知恵泉:二宮尊徳」、「昭和は輝いていた:大相撲名勝負」、「100分名著:この国の形(4)」観る。18:30市文化会館小ホール、映画「ベトナムの風に吹かれて」観る。20:45外食、21:45帰宅、22:30就眠。Σ8820Km。
昭和27年4月10日自宅消失(14) 我が家に及ぼした影響(5) 父の人生(1)
昭和27年4月10日、貰い火で自宅・診療所が丸焼けとなった。
この火災によって家族たちは以後の人生にそれぞれいろんな影響を受けた。とは言っても、私自身はこの火災を全て消失とか喪失という意味でマイナスに捉えているわけではない。ある意味では我が家の浄化、再起動だったと思う。
再起動になったとは思うが、それは兄と私にとって、であって、祖父母、両親にとってはネガティブな要素がより大きかった。特に祖父、母の落胆は大きかった。
父は火災当時、40代後半であった。
正午頃の火災で当日は乙部村役場に勤務していた。祖父や従業員が躍起になって消火装置を動かそうとしていた時にフラフラと戻ってきた。実際には体調が悪かったらしくほとんど役に立たなかった、という。私はその後、麻薬が入った金庫を背負って裏のりんご畑に避難していたから父が火災に対してどう行動したのかはわからない。後日談では宿酔の影響で不調だったらしい。
父は私にとってはとてもいい親であった。
我が家ではどちらかというと厳格な祖父の元で影がうすい存在だった。全てにおいて祖父から抑制されていた様に思われ、私はずっと気の毒に思っていた。性格的にもややひ弱、世間に対しても斜に構えているようなところがあった一方、外面はよくそれなりに人望もあったらしい。役場の職員として働いていたが、後日母に聞いた話によると経済的にも我が家への寄与度は少なく、給与の大部分は自分で使っていた??と思われる。
父は男3人女3人の同胞の長兄であった。東京に出て医学部に進んだとされるが遊びふけて卒業できなかったらしい。この周辺のこと、その後どんなコースを経たのかは私も詳細は知らない。郷里に帰り、広かった敷地を利用して養鶏業に手を染めたこともあるようだ。孵卵器が何台かあったことからブリーダーだったかもしれない。確かにヒヨコの雌雄鑑別師なる免許は持っていた。事業としてうまくいったか否か分からないが、その後、乙部村役場に勤務し、一時収入役にも就いたことがあるとされる。
父は同胞たちからはずっと慕われていたが、二番目の弟が優秀で京都府立医科大学を卒業して医師になるなどもあって、ちょっと父にとって分が悪かった。祖父から見て情けない長男であったようだ。
普段、家では酒を飲まななかったが、仕事を通じては頻回に飲んで帰宅した。近所の方々の話では、父は泥酔していても自宅の門から入る際は襟を正してシャキッとして入ったという。時には馬小屋の前で馬に向かって演説をたれ、そのまま寝込んだこともあったらしい。家のなかの立場を象徴するエピソードだったと思う。
父は火災をどう捉えたのか?直接話を聞く機会は私にはなかったが、特別大きなショックを受けたようには見えなかった。
6/5(日)快晴 フリー
0:30起床。本読み、文献チェック。5:00畠に、枝豆今年は発芽あり。9:30ガレージ掃除、整理。粗大ゴミ明日御所野に廃棄予定。13:30-14:30知人宅バラ園見学、圧倒される。畠と庭に散水後、庭掃除など。19:00夕食、20:00就寝。Σ8810Km。BR disk視聴:「NHKのど自慢」、「題名のない音楽会」観る。
町内会(2) 町内会の存在意義は? 実は大きい
本年4月に町内会の班長が回ってきて引き受けた。
本来、町内会は任意団体である。そのために住民の往来が頻繁な都会の方では、町内会の要・不要論が議論の一つとなっている。幸い秋田ではそのような問題は生じていない。近隣のアパートの住人から入会を遠慮したいとの申し出がある程度である。
公式の制度としての町内会は、戦時体制下の1940(昭和15)年に制度化された。いわゆる隣組制度で、住民同士が互いに助け合う目的がうたわれたが、むしろ生活を監視し合う、ちくりなどが行われた。戦後GHQの主導により、任意団体となった。当時を知る熟年世代にとっては町内組織の意義を認めながらも印象が悪い組織であった。より若年世代は人間関係が希薄になっていく中で、地縁が取り持つ人間関係の維持に意義を感じていないようである。
私は幼少の時に、貰い火から自宅が消失したという経験がある。この時は発生した諸問題を解決するのに隣近所の人間関係がとても重要であった。だから、周辺の住民の様子がわからない環境では生活していくのに不安がある。私の今の居住環境はほどほどの人間関係が維持されており、今のところ大きなトラブルはない。
今の町内に転居した頃は、地域の神を祀る「お堂っこまつり」、盆近くには「焼肉ビール大会」などが開かれ、新参者であった私は地域に溶け込むために積極的に参加した。また、当時は町内に子供も多く、我が家の子供達を介した町内の子供会の行事にも参加した。最近は町内も少子化なのだろう「お堂っこまつり」を除き行われなくなった。寂しい限りであるが、かつて町内に溶け込もうとした経験は今は小さな財産となっている。
しかし、近年の少子高齢化社会の中では、協働の街づくりのために町内会は見直さなければならない重要な組織となっている。
一つは自治体の地域サービスのモニターや受け皿としての期待である。行政と持ちつ持たれつの関係を持たなければならない町内会であるが、より豊かな可能性を持つ組織としてその意義が浮上している。行政はマンパワーを減らしている。一方、地域住民は権利意識から行政に対してきめ細やかなサービスを期待するが、その全てを行政が担うのは無理がある。だから、町内会と行政の関係をパートナーシップ時代にふさわしく見直すことが必要である。
町内会不要論も一つの週択肢である。しかし、近年は、地域の人間関係が一段と希薄になり、高齢者単独世帯の増加、孤独死、空家などが増えていて、犯罪防止や地域の安全確保の面から町内会の存在意義が強まっている。
だから、自らの地域を協働して良い方向へ変えていくために、既存の枠組みを脱して、町内会の特徴をどう生かすか、そのためにはどんな課題を解決していくかを多面的に議論する必要かある。
町内会の班長が回ってきていろいろ考えるこの頃である。
6/4(土)曇りのち快晴 フリー ネコ対策、畑
1:00起床、文献検索整理など何時ものごとし。夜間に網戸破られた。午前はネコ対策で網戸強化、ネコ室掃除。家内らは三楽園バラ園見学に。微睡後13:00畠に出る。キウリ他の添え木強化、ダリア発芽した。腰痛。BR disk視聴:「らららクラシック3回分」他、観る。19:00夕食、20:00就寝。Σ8798Km。
町内会(1) 班長が回ってきた
私は現住所に小屋を建て居住してから約38年になろうとしている。
私は地縁という関係で生活上の一部を共有せざるをえないことから、町内会組織については消極的ながら欠くべきではないと考えている。
本年4月に班長が回ってきて、家族構成上、私が引き受けた。私の属する班は9軒だから、今までも7-8年毎に持ち回り班長が回ってきていたと考えられるが、数年前までは土日を含めて日中自宅にいることはなく、少なくとも一昨年前までは私が実務を引き受ける時間的余裕が全くなかった。
それでも班長は回って来た。実際には、同居している賄いの石井さんに代理をお願いしてきた。何かの行事等で私が参加しなければならない時には適宜出席していたが、年に1-2度程度と、出番はほとんどなかった。
本来、町内会は民法上は、任意団体である。
近年では地域コミュニティの重要性が認識されてきたこともあり、地方自治法第260条の2で「地縁による団体」と規定された。強制加入団体ではなく、退会は自由である。もっとも加入はしているが行事には参加せず、町内会費を納入するだけの関係になっているケースもある。
ゴミ収集は秋田市から町内会に扱いを委託されているから、町内会に参加していないと不便であるが、これを逆利用して入会を強要するケースもある。入会意思のない住民は、きちんと自身の考えを表明し、拒否することが可能である。参考までに、町内会に参加しておらず町内のゴミ収集所を利用できない住民は市役所の収集所を利用できる。
町内会は、基本的に参加条件の無い各世帯代表者による組織である。会は、「会長」、「副会長」、「会計」、「総務」、「監査」等の役職がおかれる。構成員が多い場合、居住地をさらに区分した「班」を設置し、「班長」等の役職を置く。これらの人選はなかなかなり手がないために持ち回りが慣例化しているケースが多い。
積極的活動をしている町内会では住民同士の交流を促進するため、花火大会、神社の祭り、盆踊り、運動会など企画しているところもある。
世帯の名簿帳が発行されている町内会もある。個人情報の保護法には抵触しないが、拡大解釈して帳簿に記載を拒否する世帯も増加している。
私も4月以降何度か会員宅を訪問し、会費の集金などをやったほか、回覧板の管理を担当している。
個人的には初体験で、何とかこなしているが町内会の全体像、班長としての責務などがまだ見えていない。これからである。
6/3(金)曇り後晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献、新聞など読む。5:00ゴミ出し、7:40Taxi、8:10こまち。往徒歩。9:10-12:15大曲外来。14:00-18:30飯川病院ボランティア。生命保険スタッフ来訪。大曲外来の Mac不調でOS入れ替え作業、19:30Taxi帰宅、夕食、21:00就眠、Σ8792Km。BR disk視聴:「BSドキュ:ミセスバッハ」、「オイコノミア:又吉の経済学」、「プレミアムカフェ:柿右衛門」。
消費税増税延期(3) 国の財政改善より首相の延命願望優先?
安倍首相は消費税増税の2年半の延期を決定した。
約束破りであるが、政治家はいろいろな次元で評価されるので、必ずしも約束を破ることが激しい糾弾の種にはならない。だから、産業界・経済界は、「今の景気なら増税すべきでない」と、国民は「生活が苦しいから増税はやって欲しくない・・」と歓迎ムードである。某メディアのアンケートでも増税延期支持が6割を超えている。
首相が約束を破った、とメディアや野党が非難しても、共感する有権者はあまりいない。
消費税の増税は、財政や社会保障制度を安定させるために必要である。
しかし、過去の実績から、自民党は、有権者が他の増税に関してはそれほど敏感でないのに、消費税増税を嫌がることを熟知している。消費税増税を試みた内閣の支持率は低下し、選挙では惨敗しているからである。
一方、「財政再建に取り組む」という看板も絶対に降ろせない。そこで、いつかは増税を行わねばならないが、いまは時期ではない、という主張を繰り返す。
有権者も日本が経済的に問題があることを重々知っていながら、生活の維持が何よりも何よりも大切、として増税反対を歓迎する。自民党は有権者が聞きたくないことは極力言わないが、こんな姿勢では必要な政策は実現しない。
民意が正しいわけではない。長期的視点に立って国民を説得し、合意を得る努力を、放棄すれば、将来的にもっと厳しい事態を迎えうる。すなわち、増税の是非を論じる余裕などなくなる。そんな時期が必ず来るだろう。
参議院選は近い。
今回の増税回避は増税は嫌という民意を利用して選挙を勝利するために、理由を後付にした観が否めない。+2%の増税、しかも多岐にわたって税を軽減する対策までやってきたのに、である。
私は増税の判断でも悪くなかったと思っているが、首相は国民に耳当たりの良い言葉を使いながら参議院選挙を乗り切り長期政権の礎を固めようとしているように思える。なぜ延期期間が2年半なのか?この期限の設定にもその意向が伺われる。
2年半の間、よほどドラスティックな政策を敷かない限りおそらく国の借金は一層かさむだろう。そうなれば、次は「増税延期」の選択肢はありえなくなる。その時まではアベノミクスの効果を一層高めたい・・と首相は考えているのだろう。国の将来より首相の延命願望優先だったのか?と勘ぐってしまう。
6/2(木)早朝降雨午後快晴 外来 人間ドック判定総括 飯川病院
0:40起床。いつもの如く文献、新聞など。6:45小雨歩行、雨が激しくなりキャスルからタクシー飯川病院着。8:45-13:10外来、人間ドック判定総括、4名分持ち越し。14:00-18:30飯川病院、17:00-18:00レセプト50%点検。19:00バス帰宅、19:10夕食、20:30就眠、8785Km。BR disk視聴なし。朝夕とも寒くて半袖短パン姿には辛かった。
消費税増税延期(2) 経済政策に正解はない
安倍首相は消費税増税の2年半の延期を決定した。
10%への引き上げは当初、2015年10月の予定だったが、首相は2014年11月、景気腰折れの懸念を理由に1年半先送りした。増税延期の是非を問うとの大義で総選挙に踏み切った。今回も衆院を解散し、国民の判断を仰ぐのが筋だろう。
今回の再増税延期も、国民からは歓迎されることだろう。しかし、国民の方向だけを向いていては政治は成り立たない。当面の経済効果だけでなく、日本の将来を考えた高次の判断でなければならない。
私は、正解のない、苦渋の決断だった、と思う。しかし、首相にとっては増税延期は政策としては楽な決断だったと思う。増税決断しても、延期しても経済政策としては大義名分は成り立つ。問題は増税を言い続けてきた政策方針を変更したことに対する責任の問題だろう。
首相はかつて以下のようなことを述べていた。
@ 2014年11月、10%への引き上げを1年半延期し衆議院を解散した。その時「再び延期することはないと断言する」と述べた。
@ 2015年9月、1億総活躍社会の方針表明、その時「リーマンショックのようなことが起こらない限り増税は実施していく」と述べた。
@ 2016年4月、引き上げ方針は変わらないが、「経済が失速しては元も子もなくなる」。増税延期に含みを持たせた。
2016年5月30日、「増税を2年半延期したい。新興国経済の落ち込みなど、世界経済の不透明感が増す中、日本を再びデフレのトレンドにもどすわけにはいかない」と述べ、ほぼ独断で押し切った。
はっきり言って私は経済政策に正解はない、と思う。考えられるベストな選択をし、それがうまくいったか否か、という事実が残るから節目節目で次の手を打つだけである。
増税するか否かの選択は、どちらを選んでも日本の将来に大きなな影響を持つ。経済理論でなく政治的決断で白黒を表明するしかなかった、と思う。
増税分は全て、医療や介護などの社会保障に充てることになっていた。増税延期で社会保障財源をどう確保するかという問題が生じる。基礎的財政収支を20年度までに黒字化するとした財政健全化目標の達成も難しくなる。
6/1(水)曇り・午後より降雨 午後飯川病院ボランティア
0:40起床。新聞・文献読みとデータ化etc。ショップにて20W15W蛍光管、ドントキャット他購入。12:30バス飯川病院着、ボランティア。BR disk視聴:「演芸図鑑:漫才・宮田、落語・立川生志」、「久米書店:ローカル缶詰」、「サイエンスゼロ:超仮想現実」、「BS世界ドキュ:ミセスバッハ」。19:00帰宅、夕食、20:30就眠、Σ8775Km。
退職6年目初日:「とらわれず、自由に」生きる ボランティアも続けている
本日は退職6年目初日となる。
今も社会医療法人中通総合病院で嘱託医として働いている。
本年度は外来は火、木曜の午前のみとなり、入院は担当しない。月曜午前は法人の健康クリニックで外来ドック、金曜日は午前午後とも大曲中通病院内科外来を担当している。
午後は近隣の飯川病院で月-金の午後18:00まで過ごす。このうち勤務は月、火、木。実際には院長の補助の為に水、金曜の午後もボランティアで診療や花壇の維持などの雑務を手伝っている。帰宅は当直医の来院を待って19:00前後になる。朝は7:30前後から飯川病院の医局で過ごしてから中通総合病院、健康クリニックに出勤している。
法人・病院、スタッフ達とも徐々に疎遠になっている。
「組織に年寄りは不要」は私の持論でもあり、「私の社会的使命は終わっている」と自認しているからこれで良い。
昨年4月から私の外来の代わりを担う医師が赴任した。患者を減らし、徐々に患者を新しい担当医に移し、本年1月から水曜の外来から抜けた。
午後、飯川病院の勤務とボランティアはあるが、業務は院長と分担しているのできつくはない。この時間帯、週末の休日は素晴らしい時間である。やりたい事がいっぱいあって,学びたい事もあって、無為には過ごせない。
兄が死去し、岩手の郷里とのつながりはほぼ切れた。私の祖父母、父母の墓が残っているだけである。
私は宮古に2年間暮らした。だから、東日本大震災には今でも心を痛めている。その年に退職したが、これ以降毎月の報酬の20%を岩手県の復興資金に送り続けている。それも6年目を迎えた。私の中では東日本大震災は少しも風化していない。
診療以外で誰かと会話を交わすようなことはほとんどない。引きこもり状態であるが、とても楽しい日々を過ごしている。診療担当日も少なくなった分、適宜、図書館、美術館、博物館などを訪れて視野を広げている。
まあ、この調子で本年度を無事過ごせれば最高、である。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |