2016年5月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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先月の日記 来月の日記
5/31(火)曇り・午後雷雨 外来 飯川病院
1:00起床。新聞・文献入力、データ整理etc。5:00可燃ゴミ提出。7:25徒歩飯川病院着、8:45-12:30中通外来、13:00飯川病院、微睡、14:00-18:30勤務、入院患者対応、BR
disk視聴:「ワカコ酒:海老のアヒージョ」、「そこまで行って委員会:納得できるかシリーズ」、「世界は今:オバマ広島、IS現状」、「経済フロントライン」。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。歩行計Σ8767Km。
消費税増税延期(1) 衆議院を解散すべきだ
安倍首相は消費税増税の2年半の延期を決定した。
私は、正解のない、苦渋の決断だった、と思う。正解はないから政治的決断で白黒を表明するしかなかった、と思う。しかしながら、この決断は我が国の将来にとって重大な決定になる。こんなことを現内閣の検討のみで決めていいものか、疑問である。
増税延期ならば解散総選挙すべきとの意見もあったという。私はまさしく方法論的に正論だと思う。消費税増税の2年半の延期の発案は首相だっただろうが、内閣としては衆議院を解散し総選挙すべきと考えなかったのであろうか。
今回の消費税増税に関する延期の結果、国民生活に大きなマイナスが生じる。財政健全化が一層困難になる。社会保障福祉など、今まで増税したらやるぞやるぞと言っていた政策の大部分ができなくなる。これは、国民一人一人に覆い被さってくる。本当は、国民がもっと主体的に考えなければならない重要事項なのだ。
景気の維持、国民生活の維持、国際競争力の維持のためには増税延期の決断は妥当だった、と私も思う。しかし、財政再建は明らかに遅れる。それどころか、赤字国債は今後も発行せざるを得なくなり、世界経済にとって不安要素の一つとなっていく可能性がある。
野党は内閣不信任案を提出して抵抗したが、これは拙い戦略だった、と思う。国会議員の数からして不信任案が通る可能性はゼロに近い。不信任案が否定された、ということは、実際には個々の政策が認められたことには直接つながらないが、内閣の姿勢が認められたことにはなる。野党は解散総選挙を求めてこの重大な決断を国民に直接問うべきであった。不信任案が通る確率はゼロであるが、解散総選挙では内閣の決断を否定することができる可能性が若干はある。
野党はなぜ声を大きく解散を求めなかったのか?
野党はアベノミクス失敗の結果だから内閣退陣とはいうが、アベノミクスへ対案となりうる経済政策は持っていたのか?私には見えない。だから、いま解散総選挙になったとしても、野党が声を大きく主張できる経済政策を欠くから、選挙には勝てない、と判断したのだろうか。
だから、小手先の不信任案で抵抗したかのごとくに見せるしかなかった。私はそう思っている。大体、野党は消費増税を予定どうりに実施すべきだった、と主張できる根拠はあるのか?増税を決定しても不信任案を出したのではないか?と思う。
首相がアベノミクスを提示したのは英断であった。しかし結果が思ったようには進まなかった。野党はアベノミクスが失敗したと騒ぐだけでは政治姿勢として物足りない。自分たちが当初提起した経済政策が、この社会情勢ではどうなっていたのか、シミュレーションしてアベノミクスと比較し、それ以上に勝っている政策と確信できるなら、今からでも世に問うてはどうか?
もう一つ、今後、アベノミクスをこのまま踏襲するだけでは2年半の延期の意味はない。改善案はあるのかが問われる。野党にはアベノミクス以上に価値ある代案を提起できるかが問われている。
5/30(月)快晴 健康クリニック 飯川病院
0:10 起床。新聞チェック他資料整理、ディスクバックアップetc、いつもの如し。5:00畑、庭に散水等。7:15徒歩飯川病院着。9:00-11:30健康クリニック。12:00飯川病院、14:00-18:30。BR disk視聴:「日本視察団:加工食品」、「日本人の3割しか知らないこと」、「ワカコ酒:海老のアヒージョ」。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。歩行計Σ8757Km。全行程の50%に到達。
徒歩通勤2016(3) 全行程の50%達成 いま山口県海岸線歩行中
平成13年3月から本格的に徒歩通勤を始めた。
ただ歩いているだけではつまらん、と伊能忠敬が歩いたコースをたどることとした。歩数計「新・平成の伊能忠孝」は歩行実績が積算されてデータに残る優れものである。その積算を13年4月7日から開始した。
約3年かかって本日Σ8757Kmに達し、本日の段階で山陰の山口県の海岸線を通過中である。これで日本一周目標の50%にやっと到達したことになる。
<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/6e/d2651a5298598a0cfe365ae68c9ac774.jpg"><img
src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0b/6e/d2651a5298598a0cfe365ae68c9ac774_s.jpg"
border="0"></a>
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東京出発から現在までのデータ(目標は10Km/日)。
所用日数 1152日
総歩数 1096万歩
歩行距離/日本一周距離 8760km/19044.18Km
1日平均歩数 9514歩
1日平均距離 8.0Km
(上記は歩数計「新・平成の伊能忠敬」の積算データによる)。
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「継続は力なり」は私の好きな言葉である。
約3年間、右足首に歩数計をつけ、入浴時間以外は出来るだけ外さず、1日も欠かすことなく(?)歩数を蓄積してきた。歩数計をつけてからは一歩たりとも無駄にしたくなく、ちょっとした道なら廻り道などして積極的に歩数を稼いだ。
足首につけ忘れて出勤したのもゼロではないが、気づいた瞬間からガックリきて一歩も歩きたくなくなる。連日の歩数の蓄積は私の心を賦活してくれている。
秋田市は12月から2月一杯は降雪・積雪・道路凍結期であり危なくて歩行し難い。だから2-4千歩/日止まりになる。それで、今年はスパイク状のアダプターを靴に付けて出来るだけ歩数を稼いだ。
春季から秋にかけては出勤日は13.000歩程度であるが、休日は徒歩出勤がないために歩行数がどうしても少なくなる。
マア、3年続けた結果が歩数の1日平均が9.514歩、距離が8.0Kmは計画に略近い。季節的なハンディもあるし、年齢の割にはまずまずだろう、と自己評価している。ちょっと甘いか!!
最近、ちょっと疲れやすくなった様な気がする。多少意欲の減退も感じている。だから、後半は同じようなペースで行けるかは分からない。この歩数計があと3年余故障なく動くのだろうか?無くしないだろうか?さらに、私の状態は?・・・と懸案は尽きない。だからこそ楽しみも大きい。
5/29(日)晴れ 飯川病院日直
0:20起床、データ整理。徒然、など。5:00畑、庭に散水。8:30クロスバイク飯川病院に、日直。患者は問題なし、散水他。17:30帰宅、網戸にネコが登らぬようドントキャット取り付け、19:00夕食、20:30就寝。Σ8747Km。BR disk視聴:「ナチスドイツの戦略と兵器」、「英雄選択:五代友厚」、「ガイア:大学革命」、「林:人間の絆」、「歴史:細川ガラシャ」観る。
熊本地震の住宅倒壊を見て(2) 「枠組み壁工法」はもっと注目されていい工法
あまり明快な公的な資料はないが、パネル工法と柱を用いた従来工法には耐震性に大きな差があるように思われる。前者は「軸組工法」、後者は「枠組み壁工法」とも呼ばれる。
「枠組み壁工法」は北米の木造住宅の一般的な工法で、工場で作られた規格部材を使用するため工期が短い。しかし、壁が構造材として形状を支えるために窓やドアなどの開口部の大きさに制限がある。
某社の木質パネル接着工法は強力接着剤とスクリュー釘で、6面の構造体の間で隙間のないモノコック構造にすることで、外力を分散する高剛性の家とし、高水準の耐震/制震住宅を可能にしている。
一般社団法人日本ツーバイフォー建築協会のデータによると、地震の際の被害状況の概要は以下の如くとなっている。母集団などの数は表示されていないので厳密な比較はできないが、私は工法による差は明らかだ、と思う。
@ 2011年3月東日本大震災は我が国の観測史上最大のM9.0、震度7であった。協会の調査対象住宅は2万戸で、そのうちツーバイフォー工法の住宅は絶対数はわからないが当面居住に支障ないが95%、津波による被害を除けば98%であった。
@ 2004年10月新潟県中越地方を中心に、M6.8、震度7が発生。家屋の被害は全壊・半壊が約18,800棟、一部損壊を含めると約9万棟が損壊の被害に遭った。ツーバイフォー住宅の絶対数はわからないが大きな被害は報告されていない。
@ 1995年1月阪神・淡路大震災。大都市直下で発生したM7.3、震度7で大惨事となった。家屋は全壊約10万棟、半壊を含めた一部損壊が約29万棟以上。協会によると、ツーバイフォー住宅は絶対数はわからないが96.8%が補修せずに居住可能な状態を保った。
@ 熊本地震、まだデータはない。
「軸組工法」、「枠組み壁工法」による耐震性には明らかな差があると思われるが公的はデータはない。多分、把握はしているだろうが住宅関連企業の保護のためにも公開できないのだろう。
私が「枠組み壁工法」住宅に興味を持ったのは、詳細は忘れたが豪雨のために川が溢れ、川岸の住宅が流された時の画像であった。「軸組工法」の住宅は崩れながらバラバラになって流されたのに対して「枠組み壁工法」住宅は崩れることなく形を守ったまま箱の如く流された被災画像であった。
私が約40年前に、当時まだ珍しかった「枠組み壁工法」住宅に決めた。
私は住宅の耐震化には「枠組み壁工法」住宅を選ぶのも一方法、だと思う。また、このことはもっと知られていいと思う。
5/28(土)快晴 飯川病院午前外来 畑と園芸
0:20起床、新聞入力、データ整理。徒然、など。8:00クロスバイク飯川病院出勤午前外来。14:30手形経由帰宅、畑と園芸、庭木剪定、草刈り。畑に散水、トマト、キウリ先日立てた支柱に固定。17:30居間書斎掃除整理。19:00夕食、20:30就寝。Σ8740Km。BR disk視聴:「鉄道王国2」、「100分名著:司馬(4)」、「ワカコ酒:ごぼう揚げ、広島の味」観る。
熊本地震の住宅倒壊を見て(1) わが国ではパネル工法がいいのでは
熊本地震は4月14日の前震、16日の本震と激震が2回生じ、倒壊した住宅などの下敷きなどで直接の死者は49人に上った。半壊・倒壊した建物は84.000棟を超えている。その割には犠牲者が少なかった。私は前震の存在が被害を少なくしたと推定している。
あれから1.5ヶ月経過、大きめの余震は未だに続いている。
熊本・大分地方の方々の不安は未だに癒えない状況にある。被災された方々には心からお悔やみ申し上げたい。
国は1981年に建築基準法を改正し、震度6強〜7の地震でも倒壊しないよう耐震基準を厳しくした。基準を厳しくしたと言っても対策は遅々として進んでいない。2013年の推計でその基準を満たす住宅の割合は、全国平均が82%とされている。熊本県は76%と推定されていた。
熊本地震で倒壊した住宅の多くは、耐震基準の改正前に建てられたものとみられる。築40年以上と推定される木造住宅の倒壊が多かった。1995年の阪神大震災でも倒壊建物が多く、直接の犠牲者の約8割が、倒壊した住宅や倒れた家具に圧迫されて死亡している。
阪神大震災、今回の熊本地震を見ても、住民の安全を確保するには、住宅の耐震化を一層進めなければならないことがわかる。
しかしながら、住宅の耐震化には100万円以上かかるとされる。各自治体で30万円ほどの助成金を用意しているところもあるが、なかなか手をつけられてない。地震の予知は無力である。自分が被災する可能性は全くわからない。加えて、老夫婦の住宅などでは健康問題などからいつまで住めるかわからない、などの事情で、わかっていても改修に多額の費用をかけることをためらうのは当然である。
住宅の耐震化は何より急務だ、と思う。だが、なかなか進まない現状をみると、従来とは異なる対策も必要ではないか。しかも、熊本地震を見ると、基準を満たすだけでは十分ではなかったようだ。益城町では新耐震基準を満たした120棟のうち70棟が倒壊か全壊状態になっていたとされる。耐震基準だけでなく地盤の強弱も関連しているようだ。
私は地震で倒壊した建物の写真を興味を持って見ている。
阪神大震災でも、今回の熊本地震でも無残な様相を示しているのは従来型工法と呼ばれる柱を多数用いて作られた住宅である。もともと地域によってはパネル工法の住宅は少ないからなんとも言えないが、私が見た範囲でパネル工法の住宅の倒壊例は見ていない。
私は震災の多いわが国ではもっとパネル工法が普及してしかるべしと思っている。通勤の際に工事中の、新築中の住宅を目にするが、ほとんど従来工法で建てられている。住宅はその土地の文化であるから、工務店の力にもよるだろうが一般的には従来工法の家が建つ。
簡単に言えばパネル工法はダンボール箱のようなもので、柱がなく、構造全体を壁面せ支える構造である。ひねり、引っ張り、振動、圧縮などにはとても強い。従来型の工法で作られている住宅もかつてに比べて柱の密度は高く、筋交いや柱と柱の接合部は金属で補強されている。これが新基準というものであろうが、地震の際の、ひねり、引っ張り、振動、圧縮には耐えられないのではないか??と思いながら興味深く見ている。柱は、驚くほど細い。
私がパネル工法に興味を持っているのは、建築に興味があるのではなく、築40年近くではあるが、我が家がパネル工法だからである。私は地震による倒壊は想定していない。しかし、家具などに押しつぶされる可能性は否定できない。
5/27(金)晴暑い 大曲外来 飯川病院ボランティア
0:45起床.書類、文献・新聞チェック。徒然。5:00可燃ごみ提出。7:40Taxiにて駅に。8:10こまち、駅から徒歩。9:10-12:00大曲中通病院外来。千秋美術館「画集:最後の印象派」購入。13:30飯川病院ボランティア。19:00Tax帰宅、19:10夕食、20:15就寝。歩行Σ8730Km。BR disk視聴:「NHK国会中継:予算委員会」、「昭和は輝いていた:昭和のCM」、「昭和偉人伝:古賀政男」観る。
昭和27年4月10日自宅消失(13) 我が家に及ぼした影響(4) 父母の人生は(2)
第六の転機は、兄が転職し、養子縁組して奥さんの実家に入ったことであった。母は改姓と言うことで身内から離れた長男を、死別と半ば同じ、と無理矢理自分を納得させていた。兄が事故で肝臓破裂を起こし生死をさまよっていた時にも母の対応は不思議なほどクールであった。いつもは感情的な反応を示すのだが、その時は全く予想に反した反応を示した。すでに母にとって兄は他人と等しい存在になっていたのだ。
第七の転機は、私の秋田への転居である。家内が秋田出身であることから、兄同様に息子を秋田にとられてしまう、との感覚で理解してしまった。私自身はそんな発想は全くなく、学びと育児を両立させられるという願ってもない恵まれた道とし秋田を選択したのであるが、母は説明の度に表層的には解った様な表情をしてはいたが、決してその様には理解していなかった。私はその気持ちを埋めるために、誤解を解くために頻回に盛岡に出かけたし、母を秋田に呼んで孫との時間を過ごさせるようにした。
母の最後の、私が八番目の転機としたのは、秋田組合総合病院に肝不全兆候で入院中にトイレで軽く転倒、右手首の骨折をしたことであった。それを機に母は表情も乏しくなり、殆ど発語もなく、笑顔を見せることもなくなった。また、食事摂取を全くしなくなった。生きる意欲を失ってしまった。治療も一切受け付けなかった。
私は迷いに迷ったが、母の好きなようにさせる方針をとった。長い間の葛藤からの解放の時間が迫っている。
数日後、母は静かに息を引き取った。
母の人生は昭和27年の火災に始まる変化に翻弄されながら、紆余曲折のある人生を昭和53年に閉じた。
私が大きな悲しみに襲われたのは母の死後数ヶ月も経って、身辺の整理もかなり進んだころからであった。彼女の人生は一体何だったのか?私や長男は彼女の人生にとって一体何だったのか?私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間、私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が私を癒してくれた。
亡き母は今でも私の心の中で比較的大きな存在感と共に生き続けており、母の生き様は、今ある私にも、今後の私も、私が死を迎える際にも、陰となり表となり、おそらく私に影響し続けるだろう。母を思うとき今でも自省することは少なくない。そんな私であるが、いや、そんな私だからこそ、母はいつも私にとって大きな存在であり続けるのだと思う。
5/26(木)曇り 伊勢・志摩サミット 外来 飯川病院
1:00起床.文献等資料チェック、7:25徒歩飯川病院着、8;40-13:00中通外来。13:15飯川病院。入院患者対応。BR disk視聴:「生命38億年sp:人間とは何か、何故もめるのか(一部)」観る。18:15早めに帰宅、夕食後家内は整形外科関連の講演会へ。19:30就眠。 伊能歩行計Σ8724Km。13Km歩行。BR disk視聴:「オイコノミア:ずるい事件の経済学」、「知恵泉:津田梅子」。
昭和27年4月10日自宅消失(12) 我が家に及ぼした影響(3) 父母の人生は(1)
自宅兼診療所の消失は我が家に大きな影響を及ぼした。
自宅兼診療所の消失は祖父にとってショックは大きかったと思う。しかし、私の目から見て、ほぼ同じような、いや、それ以上のショックを受けたのは母であった。
母の一生を子供の目から見れば、畑違いの家に嫁いでしまったための忍従、忍耐だった。夫との相性も良くなかった。そのはけ口として、多分、家屋敷を継いで、跡取りの長男とそれなりに暮らすことを将来の楽しみにしていたと思う。それが火事で瓦解した。
二人の子供の成長を取り所に生きてきたが、その二人にも裏切られた、という失意の中、64歳で肝不全で死去した。
母は必ずしも明るい性格ではなかった。なんでも悪く悪く考えていく。母の性格やその行動様式はしっかり私に受け継がれている。
私の知る限りにおいて、火災とそれに伴う変化は母の人生に、死の直前まで尾を引いていた。私はそれを芋づる式に連続してあげることができる。
第一のショックは火災による家屋敷の消失であった。母の落胆振りは家族の誰よりも大きく、当時小学一年であった私の目には異様なほどであった。多分、家屋敷は彼女の人生のよりどころとして大きな位置を持っていたのだろう。
第二の落胆は長兄が医学部進学をやめて工学部に進んだことであった。母にとっての夢は長兄が医師となって家業を継ぐことであったのだ。
第三の落胆は父の突然の退職だった。これ以降我が家は父の僅かばかりの恩給の他現金収入はなくなり、先代が残してくれた蓄えを切り崩す生活となった。祖父が亡くなり自分たちの代になるやいなや迎えたこの変化はやはり大きなショックだったようだ。
第四の転機、落胆は私が大学に入学してまもなくの頃、母は軽度の肺結核と診断され半年ほど盛岡市立病院に入院したことである。
第五の転機、落胆は肺結核が略治して喜びと共に退院した母を待っていた、我が家がほぼ破産状態に陥ったと言う現実を知った時であった。母の入院期間に、独りとなって自由を得た父が、先物取引に手を伸ばし、大きな欠損金を作ってしまったためである。
自分の病気で家を留守にしたことが、結果的にこの様な事態を招いたという自責の念が強かった。
5/25(水)小雨 飯川病院ボランティア
0:45起床。文献・本読み他、いつもの如し。5:00ペットボトル集積所に。雨天にて散水不要。午前は今の整頓掃除。12:00車便乗飯川病院へ,院長社員総会のためにボランティア。17:10バス帰宅、外食にて夕食、20:30就眠。 伊能歩行計Σ8711Km。BR disk視聴:「池上ニュース解説」、「久米書店:コンビニコーヒー」、「中井貴一:ダ・ヴィンチ(前)」、「外国人落語家が語る日本」、「サイエンズゼロ:ウルトラファインバブル」、「生命38億年sp:人間とは何か、何故もめるのか(一部)」観る。
昭和27年4月10日自宅消失(11) 我が家に及ぼした影響(2) 祖父母
自宅兼診療所の消失は我が家に大きな影響を及ぼした。
最もショックを受けたのは医師である祖父であった。
祖父は常日頃から、将来的に医療は国民皆保険の時代を迎え、統制された医療になる、そうなると医療環境は悪化していく、開業医の将来に夢はない、と考えていたようであった。
実際には、国民皆保険によって国民は医療を受けやすくなり、開業医も経営的に安定することになるのだが、当時、祖父は先を読み過ぎて悲観的に捉えていた。多分、祖父は外見上、謹厳実直、意思も強かったように見えたが、意外と、心うちは弱いところがあったのだろう。祖父の性格は私も受け継いでいる。
そんな背景がある中での自宅兼診療所の丸焼けで、形になっていた蓄積の大部分を失った。火災当初は特別弱気を見せていなかったが、医業を継いで欲しいとして期待し、翌年医学部進学受験を控えていた私の11歳違いの兄正明に対し、医師にならなくてもいい、自由な進路を選択していい、と許可した。
兄は嬉々として翌年電子通信工学を学ぶために東北大学工学部に進学した。
ところが祖父には第三のショックが待ち受けていた。兄の進路に自由を与えたことは必ずしも正しい判断ではなかったという反省である。多分、忸怩たる思いであったろう。その気持ちは当時小学校低学年であった私に向けられた。私は将来医師になるように仕向けられ、そのためか往診にも連れて行かれた。
祖父は私が小学5年の時に自宅でうっ血性心不全で死去した。私は将来必ず医師になる、と亡骸を前に心に誓った。
祖母は火災によってどんな影響を受けたのか、表面的には私にはわからなかった。日常的に火災にあったことを愚痴ることもなかった。ただ、祖父亡き後は口癖として「お前が医者にならないうちは死なれない・・・」と口癖のように言い続けていた。
祖母は私が新潟大学医学部に進学した年の秋、安心しきったのか、尿路感染のために岩手医大で死去した。
5/24 (火)快晴 外来 飯川病院
0:45起床、文献チェック、徒然。本読み他いつもの如く。4:00畑・庭散水、4:40可燃ゴミ提出、7:20徒歩飯川病院着。8:40-14:00外来、混雑し疲弊した。14:10-18:30飯川病院。花壇に散水。19:10帰宅。夕食、20:30就眠。BR disk視聴:「そこまで言って委員会:歴代内閣評価、橋本五郎」、「いま世界は」、「経済フロントライン」。
昭和27年4月10日自宅消失(10) 我が家に及ぼした影響(1) 経済的視点で
自宅兼診療所の消失は我が家に大きな影響を及ぼした。
私にもいろいろ影響があったと考えられるが、今となれば意外と悪くなかった変化であった、我が家の火災は古さからの浄化であり、リセットであったのだ、と考えている。
約400坪の住宅兼診療所がほとんど丸焼けとなった。おそらく大きな経済的ダメージがあったと思われるが、詳細は不明である。
我が家には祖父の発想で小規模な消火設備が備え付けられていた。結果としてそれの運転にこだわったために重要な書類や家財道具を運び出す時間を失った。あの規模の火災を目の当たりにして自宅の消火設備にこだわったのは大きな誤ちであった。多分、祖父は動転していたのであろう。
慎重な祖父母であったから、火災保険は相応の額での契約があったと考えられる。当時私は小学校に入学したばかりの子供であったために詳細は分からないが、診療所兼住宅の仮住まいは2ヶ月後に、約6ヶ月後には約半分ほどの規模ではあったが本宅は立派に再建され、医療設備もそれなりに再購入したようである。
この仮の住まい兼診療所は後に私と初代のネコの住まいとなった。
もともと謹厳実直な祖父母で贅沢は好まなかったからかなりの蓄えがあった、と考えられた。いまになって思い出すのであるが、祖父母の会話の中では、預貯金の話、株券の話、親戚縁者への貸出し金、の話などが頻回に交わされていたように思う。
私が大学に入った後、我が家はついに立ち行かなくなり家屋敷を処分することになった。この時、財産や経済状況の記録を調べる機会があったが、この火災からの立ち直りの際に金融機関等からの借り入れをした形跡はみられず、全部保険と蓄えで賄ったようで感心した。
火災後にも5年ほど診療所を運営していたこともあって、祖父母の代までは我が家の経済状況はかつてほどの余裕はなかったようであるが、両親の代になってから徐々に蓄えが乏しくなり、私が20歳を迎える頃、住み慣れた家屋敷を手放し、故郷との縁は墓だけとなった。
祖父母の贅沢をせず、堅実な家計運用の精神は私に受け継がれている。中身は違うが。
5/23(月)快晴 健康クリニック+結果説明3名 飯川病院
1:00起床、新聞チェック他。徒然。4:00畑に散水。7:30徒歩飯川病院着。新聞・画像処理。9:00健康クリニックドック。11:30飯川病院。検食後微睡。14:00-19:00勤務。花壇に散水。19:15バス帰宅。夕食、20:30就眠。BR disk視聴:「世界一受けたい授業:薬物」、「世界の衝撃的映像」、「笑点3月20日分」、「林先生初耳」、「孤独のグルメSeason5#11」。歩行Σ8694Km。
2016年の医療環境(6) 薬剤関連 また出た横文字「ポリファーマシー」
2016年度診療報酬改定の大きな特徴の1つが、「薬剤総合評価調整管理料」が新設されるなど、薬剤処方数を減らす指導の評価が導入されたことである。
私は患者への薬剤処方数を減らすこと自体を大きく評価している。
私は大学病院で学んでいるときの研究テーマの一つが「薬剤の造血器障害」であり、そのメカニズム、実際の薬害例を収集して分析した。それらから多くを学んだが、その経験を背景に薬剤に関しては目的以外の不明の作用が必ずあり、潜在的に恐怖感がある。私自身にも軽々には用いないし、患者にも慎重に使用する。ましてや多剤投与に関しては極めて慎重である。
だから、多剤投与が俎上に上がったのはとてもいいと思うが、問題点を三つ感じる。
第一は、「ポリファーマシー」という言葉についてである。多剤処方患者ということらしい。医療界は横文字またカタカナ語が随分お好きらしい。誰がどのように使い始めたか不明な方かな単語がメディアを介して次々と出てくる。
数年前から整形外科領域で盛んにが使われている。「ロコモ」、「フレイル」・・などなど。
医療とは直接関係ないが、秋田市もカタカナ語が好きらしい。「エイジフレンドリータウン」、「ワンコインバス」など。私はこの行き方に疑問を感じる。いな、私が勤務している法人も同等であり、関連施設の特別養護老人ホームは「リンデンバウム」、複合施設の名称が「ウエルビュー」である。
なぜ、「多剤処方患者」で「ポリファーマシー」なのか。
「サルコペニア」、「ロコモティブシンドローム」
もっと分かりやすい日本語に(3)「フレイル」ってなんだ?
「ローカルコミュニティーエリア」「エイジフレンドリーシティ」(2)「デスティネーションキャンペーン」
第二は、我が国の医療において薬剤が異様に多数使われる、という事実である。医師は次々と処方薬を増やしていくし、患者もそれを喜ぶ傾向がある。尤も、患者が喜ぶのは薬剤に関する悪しき指導がなされてきた結果である。それと患者の自己負担が1-3割だから、ということがある。このこと自体にこそ多剤使用の問題が潜んでいる。
多剤処方には薬物の相互作用、副作用増強が挙げられるが、意外とこれらは表面で出てこない。私はこの件について個々の薬剤が、あるいは薬物全体がロクに効いていないためだ、と考えている。
現行の診療報酬点数表では、入院外内服薬投薬数が「7種類以上の場合」、薬剤料は90%に、処方せん料も減額される。こうした点数設定に対し反対の主張も大きい。しかし、処方医の大部分はこれを知らないから効果を上げていない。
第三は、減薬を経済的な締め付けで実施していることである。処方薬剤の種類を減らせば診療報酬が算定できると単純に判断され、本当に必要か否かを吟味されないまま安易な中止や、診療報酬目的の減薬か進むのではないかということである。
多剤処方にはリスクがある一方、真に意義のある処方の場合、減薬にもリスクが伴う。
登山は登る時より降りる時の方が危険という。階段だって同じこと。例えて言えばこれに相当する。
5/22(日)快晴 主に外仕事
0:20起床、本読み、文献チェック、新聞処理、微睡など。4:00畑に豆植える。今年は発芽するか??畑・花壇に散水。午前朝顔等植え付け、庭の草刈り。午後は微睡後、散髪、畑の苗に支柱立て、散水。庭木の枝落とし、植木鉢整理、一部廃棄。夕方はPDF化したデータ再構築,新聞入力。19:00家内札幌から帰宅、空港に迎えに。空港は3年ぶりか?かつてはそうでなかった夜間の高速道路走行、漫然とした恐怖感あり。20:30夕食、21:00就眠。BR disk視聴:「題名のない音楽会:昭和・平成の合唱曲」。歩行Σ8683Km、宇部市付近。
2016年の医療環境(5) 4月から診療報酬が改定の主な項目
本年4月から診療報酬が改定になり、病院窓口を中心に患者の支払いに変化が生じている。私が診ている患者は高齢の方が多く、1-2ケ月毎に受診する。その一部の方々が窓口負担の変化に気づいて質問してくる。
私もそれに応えられるよう状況をチェックしてしておかねばならない。
2016年4月1日からの主な変更点は以下の如くである。基本的に診療費用の抑制が思考された改定である。診療現場では若干の混乱が生じているが、私は方向性としては改悪でなく改善だと評価している。
@ 過剰になりつつある重症者向けの入院病床は診療報酬が高い。これを減らすため病床要件を厳格化したリハビリテーション向けなどへ病床転換を促す。
@ 紹介状なしで大病院を受診すると、初診で5000円以上(歯科は3000円)、再診で2500円以上(歯科は1500円)の追加負担が発生する。全国に約240ヵ所ある500床以上の大規模病院が対象。これは。軽症の人はまず地域の診療所などを受診するように促すため。
@ 認知症や3歳未満の患者は継続的な診療が重要であるが、かかりつけ医を持ちやすくなるようにした。そのためかかりつけ医の診療報酬を新設した。
@ 認知症患者を継続的に診療している「かかりつけ医」に患者1人につき月10150円(患者負担は1520-4550円)の報酬が支払われる。要件として、@認知症以外にも疾患があること、A内服薬を5種類以内に管理する。今回の報酬の対象は、診療所では常勤医が複数の場合。
厚労働研究班の推計では、認知症高齢者は2012年に約462万人だったのが2025年には約700万人に膨らむ。その暮らしを支えるには、身辺なかかりつけ医が不可欠。
@ 在宅医療専門の診療所を解禁。医師は訪問診療に専念できるようになった。
@ 病院前の「門前薬局」の報酬を引き下げた。病院前に並ぶ「門前薬局」の大型チェーン薬局は経営見直しを迫られる。グループ内の受け付け処方箋が月計4万枚を超え、特定の病院からの処方箋が集中していると薬局の報酬が減額される。
@ 薬局・薬剤師は、患者の服薬管理や重複投薬の防止に努めれば報酬が多く得られるが、かかりつけにふさわしい調剤業務にタッチしないと報酬は半額カットになる。
@ 患者の服薬状況をー元的に把握して相談に乗るかかりつけ薬剤師の報酬を新設した。かかりつけ医と薬剤師を持つことで、医療の主軸を「入院から在宅へ」と移していく従来方針を推進するため。
@ 外来の湿布処方は一回あたり原則70枚までに制限する。これが患者にとって大きな変更点であるが、今まで200枚ほどの処方を受けていた患者たちも不満も言わず受け入れている。今までが異常だったのだ。
@ 新たに発売される後発薬の価格を先発薬の6割の水準から5割に引き下げた。
@ 35歳以下の若者にも禁煙治療ができるように条件を緩和した。
@ 脳脊髄液漏出症への治療法「ブラッドパッチ」を保険適用にした。
@ 高額ながん粒子線治療の一部を保険適用にした。
5/21(土)快晴 家内はZONTA活動で札幌に
1:00起床。新聞、文献PDF化他、録音データ処理、本読みなど。4:00畑に豆植える。畑に散水。9:00家内空港に。新聞処理、その他。午後草刈り。風除室ネコ用トイレ購入追加3ヶ並列に。16:30当直医犬散歩のため2時間代行冀望あり。バス飯川病院、新聞検討、画像整理、ポーチに散水ほか。19:30バス帰宅、夕食、21:00就眠。BR disk視聴なし。歩行Σ8674Km。
大森山動物園の老ライオン「ラガー」死す
4月25日の秋田魁新聞に、18日に大森山動物園のオスのライオン「ラガー」が死んだというニュースが掲載された。17歳だったということで、人間ならば70〜80歳に相当する、という。園内のライオンは、メスの「マンゴー」だけとなった。
同園によると、「ラガー」は3月まで変わった様子はなかったが、4月に入って徐々に食欲が低下し、18日は朝から伏せたまま動こうとしなかったという。
多分、老衰だったのだろう、と思う。私はこの記事に目をとめ、スクラップにしてあった。昨年「ラガー」を見たばかりでその時のインパクトが大きかったからである。何でニュースが一週後だったのか?動物園からの情報提供が遅かったためだったのか。
園長の小松氏が5月9日に同紙に「老ライオンの死に思う」という一文を載せている。それによると「ラガー」は1999年に多摩動物公園で生まれ、2009年に大森山動物園にやってきた、とのこと。サバンナ生活の経験がないことになるが、現在、猛禽類の入手が困難になっているので、動物園生まれの個体が多いのではなかろうか。
元気だった時は、毎朝「マンゴー」と共に展示場に出てほえ合い、動物園の一日の始まりを告げるのが習慣だった、という。
昨年9月21日、横浜の孫に見せようと大森山動物園を訪れた。私が動物園を訪れたのは2005年の犬山市のモンキーセンター以来であった。
孫は両親に任せ、独りで園内を闊歩した。
たまたまライオン舎の前にたたずみしばらく眺めていた。「ラガー」と「マンゴー」がだらしなく寝そべっていた。子供達も数人ほどいたが、「寝てばかりいるから面白くない」と言って離れていった。
ところが、私一人になった途端、私の近くにいた「ラガー」がやおら立ち上がり、私に向かって大きく口を開け激しく啼き始めた。しばらくして「マンゴー」も側に来て同調した。威嚇の叫びだろうか。
一啼き30秒ほど続き、時折「ガオー」と言った甲高い叫び声を交え、「ウーウー」とけたたましく吠え続ける低音域の持続がすごかった。二頭で2分ほど吠え続け、その間ずっと私を睨んでいたように思ったが、突然ピタと鳴き止み、何事もなかった如くに草むらにドタッと横になって静かになった。
さすが百獣の王と言われるだけのことはある、と実感した。特に「ラガー」は身体の割にタテガミがあって頭部が大きく見え、さらに口がでかかったからすごい迫力であった。動物園であったとはいえ、すぐ目の前でライオンの咆哮を聴くことができた。良い瞬間に居合わせたものである。
私のその日の風貌はヒゲも髪も伸び放題でボサボサ頭であったが、まさかそんな私に吠えたのではなかろう。100%偶然だったと思う。
ライオンに吠えられたのを機会に、私は翌日自宅で散髪し、ヒゲも短くした。ちょと出来映えが悪く段ができた。私はライオン爺さんからトラ爺さんに変身した。
5/20(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。新聞・文献・雑誌読みと自炊他。5:00可燃ゴミ提出、7:40Taxi駅に、8:10こまち、駅病院は徒歩。9:10-12:10大曲中通病院内科外来、13:30飯川病院ボランティア。18:45帰宅、17:00夕食、20:15就眠。BR disk視聴:BR disk視聴:「経済フロントライン 」後半観る。歩行Σ8663Km。
秋田県立近代美術館「江戸の遊び絵づくし」展(3) ついでに春画も学んだ
今回の浮世絵展示会は「江戸の遊び絵づくし」という、当時、江戸で人気を博した様々なおもしろ浮世絵を紹介する展覧会。今まで私が触れたこともなかったジャンルだったのでこれを機会に浮世絵について資料を読み概論を学ぶことができた。
その過程で、浮世絵の中で重要な位置を占める春画についても、その成り立ち、広がり、当時の人々の暮らしにどう関わったかも含めて勉強した。
春画について私はそれほど多くを見たわけではないが、ある種の先入観を持っていた。顔は浮世絵の定型的な男女の顔、一方これでもかと誇張して描かれた、ある意味グロテスクな描写で、かなりの絵がアクロバティックな様相、という印象が残っている。
一方あまりにも誇張しているために現実味も乏しく、わいせつさを感じるというよりは、あっけらかんとした表現に、これはなんなんだ??笑いあり、パロディーあり、これらは当時の漫画なのか??と思っていた。
私はつい先日まで、浮世絵の春画に滑稽さを感じていた。しかしながら、これはよりリアルな画像に触れることができる、現代の性文化で育った私が感じることで、当時の人々にとっては浮世絵の春画は楽しみの最高の手段の一つだったのだ、と思う。
今回の浮世絵について資料を読む過程で、浮世絵は江戸文化の華であり、時代とともにその在り方を変えながら人々の日常生活の細部にまで浸透していたことが分かる。その中で春画は性の営みを赤裸々に、時に滑稽に描いている。春画だけが目立つのではなく、江戸の人々が性をタブー視することなく、おおらかに付き合っていたことが春画という風俗の一つを通して理解できた。
写楽の作品等をはじめとするアートか鎖国時代の日本で花開いていたことは驚くべきであり、それが春画を含め、欧米で認められたのも驚きであった。性に関してはよりおおらかだ、ということだろうか。
2013年から翌年にかけて大英博物館で春画展は約9万人を集めた。高価な画集8千部も完売した。そのあと、日本で春画展開催に奔走したものの、20近くの施設に断られた、という。我が国における春画展示の難しさが象徴されている。
紆余曲折を経たが、昨年秋に日本初の本格的な展覧会が昨年東京で、美術館ではなく、私的な展示場で「18禁」で開催された。浮世絵の一分野として「芸術」との見方がある一方、官能表現に対する個々人の感受性は大きく異なるために開催にこぎつけることは実に困難であったという。
社会教育を担う美術館や博物館で年齢制限をしながら春画を展示することは、やはり現代の日本では問題はあるだろう。
1600年代から肉筆の性画が描かれていたとされるが、当時は印刷技術がなく富裕層のみの文化であった。江戸時代に浮世絵版画が発達し複製することが出来るようになると、庶民にも春画は広まる。
江戸幕府は1722年取締令で、春画の出版は禁じられる。肉筆画は対象外であったが、実際には春画の出版・流通は続いた。春画を見ることも「後ろめたい」ものではなかった。庶民は貸本屋を通じて春画に親しんだ。
江戸後期では、名だたる浮世絵師のほとんどが春画を手がけ、美術作品としての傑作が生まれてきた。単純な線で描かれていながら、人物の表情は実に豊かである。まとっている衣装の緻密な表現にも見るべき価値がある。
現代のポルノを見るときに、私は後ろめたい気持ちでから逃れられない。あまりにもリアルだからだ、と思う。浮世絵の春画は写実的でないところがいい。誇張され、デフォルメされているからわいせつな感じ、扇情的なところが中和されている。そこに文化として、芸術として発展したルーツがあったと思う。
5/19(木)快晴 外来 飯川病院
0:40起床。いつもの如く本読み、データ整理中心。5:00資源ごみ大量に廃棄、7:30徒歩病院着、8:45-13:30外来+ドック判定。14:00-19:50飯川病院。20:00帰宅、夕食、20:40就眠。BR disk視聴:「そこまで委員会:主観的好みで世界を見れば 」、「世界はいま 」、「経済フロントライン 」観る。歩行Σ8658Km。
秋田県立近代美術館「江戸の遊び絵づくし」展(2) 初めて接した遊び絵というジャンル
今回の浮世絵展示会は「江戸の遊び絵づくし」という今まで私が触れたこともなかったジャンル。当時、江戸で人気を博した様々なおもしろ浮世絵を紹介する展覧会。
遊び絵とはその名の通り、色々な遊び心にあふれる浮世絵のことで、歌川国芳、広重、葛飾北斎などのそうそうたるメンバーを含む多数の作者のおもしろ浮世絵が170点ほど紹介されている。歌川国芳の作品には彼の代表的な遊び絵である寄せ絵も展示された。
会場は8つのエリアに分かれていて、それぞれのテーマに沿った作品が展示されていた。
初めてこのジャンルに触れ、私の浮世絵に対するイメージが一変した。
浮世絵というと日本の代表的なアート作品として紹介されることが多いが、江戸時代は庶民文化の時代である。鎖国と封建制という圧迫された社会状況のもとで300年近く続いた平和な時代。その中で、庶民のエネルギーはさまざまな形で噴出し、浮世絵をはじめとする世界でも特異な文化が花開いた。
江戸時代には浮世絵は庶民のもっと身近な娯楽品のひとつであった。その時代の庶民の暮らし振りや世間の風俗をネタにした浮世絵は、現代で言うところのアニメや漫画のような位置づけ、あるいは軽妙な漫才に通じていて、江戸文化を理解する資料としても貴重である。
江戸の絵師たちが知恵と思考をこらして手掛けた作品が並ぶ。
その作品一枚一枚は精緻であり、遊び絵だからといって決して手抜きされてはいない。だから気楽に次々とみれるものではない。江戸の絵師たちのアイデアやデザインセンス構成力、彫師摺師たちの技術力と労力と根気に圧倒された。
多色摺りの鮮やかな画面や墨の線による美しいグラフィックの技術は素晴らしい。
特に見る者にナゾ的に問いかける隠し絵の技法は素晴らしく、タネが明かされて初めて納得できるものばかりである。面白い仕掛けが満載された作品に浮世絵作者たちは、果たしてどんなメッセージや仕掛けを絵に込めたのか。見つめていると、どんどん時間がなくなっていく。
こんな絵が会場に170点以上も展示されていて、館内で2時間過ごしたが、とても見切れない。しり切れとんぼ的な気持ちで会場を後にした。
もう一度訪れて、見直してみたいと思っている。貴重な展示会であった。
5/18(水) 快晴 飯川病院ボランティア
0:10起床。文献チェックほか。7:00資源ごみ金属類提出、ネコ網戸外して脱走。網戸にイボイボ取り付け。9:30クリーニング店、DIY店にて水道ホース、ネギ苗購入。ダリアは入手できず。12:00自転車、コーヒー店、明徳館経由飯川病院着。13:30飯川病院ボランティアに。17:15帰宅、ネギ植え付け。19:30夕食、20:15就眠。BR disk視聴:「すずらん本屋:池上彰」、「ダ・ヴィンチの素顔と真実 」観る。
秋田県立近代美術館「江戸の遊び絵づくし」展(1) 浮世絵に対するイメージが一変した
「江戸の遊び絵づくし」は秋田放送と県立近代美術館でつくる実行委員会の主催で、秋田県立近代美術館で6月26日まで開かれている。
今年のGWは勤務日がトビトビにあったために、まとまって何かすると言った計画は立てなかった。ただ、横浜の孫一家も来ていることだしと、5月6日に横手市にある秋田県立近代美術館を訪れた。
大仙・横手間は約20Km程度で大仙市からはJRでも高速でも行きやすい。しかしながら、通常は外来終了後は直ぐに新幹線で秋田市に戻り、飯川病院でボアンティアを行うために訪れる機会は少ない。優れた企画展なども多いが、この10年ほどの間で、まだ4-5回だけである。
今回、浮世絵展ということで、珍しい企画と、あまり下調べしないで観に行った。
私にとって、浮世絵といえば、歌麿の美人画や写楽の役者絵、北斎や広重の風景画など、教科書や美術書などにに載っている作者や作品を思い浮かべる程度、それと春画の知識しかなかったが、今回は館を訪れて目が覚めた。浮世絵の見方が大きく偏っていたことを自覚した。
鎖国下にあっても浮世絵師たちは海外の新しい表現を積極的に取り入れ、幕末・明治には、逆に欧米の芸術に大きな影響を及ぼしてジャポニスムが花開いた。
浮世絵は、現代では観賞中心になっているが、当時は「美術品」としてつくられたものではなく、江戸時代の住民に、あらゆるレベルの情報と、楽しみを提供する「メディア」としての側面がクローズアッブされてきた。
浮世絵は、当時の流行の情報発信源でもあった。遊郭や歌舞伎の役者についての画像などが、ブロマイド的に売れた。挿絵入りの本や絵本も、浮世絵師の腕のみせどころであり、各種の文芸書、名所・旅行案内、デザインプック、動植物の図鑑など、いろいろな本が絵草紙屋の店先を飾った。お化けの本や錦絵、絵暦と呼ばれるカレンダー、マンガ、おもちゃ絵、商店や商品の広告、疫病よけのお守りなどなど、浮世絵師の仕事は実に多様で多方面にわたった。
江戸時代において、当時の文化を画像として伝える唯一のメディアであった浮世絵の社会性が最近になって着目され、その価値がますます大きくなっていく。
今回の展示会はその多様性の中の一つ、「江戸の遊び絵づくし」という今まで私が触れたこともなかったジャンルの浮世絵展であった。浮世絵に対するイメージが一変した。
5/17(火)小雨のち晴れ 外来 飯川病院
0:00起床。文献他PDF化、徒然、3:00微睡,5:00可燃ゴミ出し。小雨あり6:47のバスにて飯川病院,8:45-12:30外来、14:00ー18:30勤務、19:15バス帰宅。夕食、20:15就眠。BR disk視聴:「林世界の名著:ふらんす物語 」、「コズミック:地球の超未来 」、「ガイア:革命児家電 」観る。Σ8632Km。
ハンセン病(8) 療養所はアウシュビッツと変わらぬ絶滅収容所であった(2)
あらゆる時代、あらゆる場所で、国、地域社会、学校、企業、病院、あるいは宗教団体も含めた組織がハンセン病患者とその家族に対して行ってきたことは、まさに重大な人権侵害であり、彼らの尊厳を傷つけた。
生涯にわたる強制隔離、ひとたぴ患者と認定されると、強制的に肉親と引き裂かれ、生まれ故郷のふるさとに戻ることはできなかった。社会サービスの制限はもとより、「らい予防法」が廃止されて以降もハンセン病患者は一般社会から差別を受け続けている。今ですら、就業はもとより、教育、結婚、住宅や居住地を見つけることにすら、まだかれらの前には壁が立ちはだかる。
施設内でも人権無視の扱いはあたりまえの事柄だった。国や県等から派遣されてきた医療従事者や管理者たちは施設内で激しい差別的行動、弾圧を続けた。患者は実名を名乗ることもできず社会との接点、アイデンティティは消滅した。施設内での自由な行動も許されなかった。施設内でしか通用しない通貨なども作られた。
病人として施設に入らされたにもかかわらず、医療レベルは劣悪で、患者たちは同じ病人の介護や厳しい肉体労働に従事させられた。結婚は許されても、男性には断種、女性は堕胎を強要された。この実態は社会に知らされていなかった。
「らい予防法」の廃止によって強制隔離は解かれた。病気が治癒した元患者が世間に出てきても、そこは施設以上の差別と偏見にが残っていた。肉親や親類にまでも迷惑を及ぼすことを恐れ、帰る故郷もなく、患者たちのかなりの部分がその後も療養所内で暮らしている。
社会に残る根強い偏見はほとんど無知から由来する。
2003年9月17日、熊本県は「ふるさと訪問事業」の催しを行うにあたり、黒川温泉ホテルにハンセン病元患者18名と付き添いの4名の宿泊を予約した。後日、同ホテルから「他の宿泊客への迷惑」などを理由に宿泊を遠慮するように申し入れがあった。県は知事名の抗議文を手渡し、宿泊拒否の撤回を求めたが同ホテルは応じなかった。県は熊本地方法務局へ報告し、同ホテルを旅館業法違反により営業停止処分とする方針が発表された。この問題をめぐってハンセン病団体のところには非難の電話や手紙が殺到した。このホテルは廃業し、現在はない。
この事件はメディアによって大きく報じられたが、ハンセン病に対する社会的差別感が根強く残っていることを提示した。
政府と国会、専門学術団体は15年前、元患者らに謝罪した。最高裁も先日、患者の裁判を隔離先の特別法廷で開いていた差別を謝罪したが、「違憲とは判断できない」としたので、今も元患者たちの失望は深い。
わが国のハンセン病に対する誤った政策は、数多くの過ちの中でも非人間的やリ方の最たるものだった、と思う。
私は、ハンセン病療養所は1996年(平成8)に「らい予防法」が廃止され、隔離政策が解かれるまでるまでは、ナチのアウシュビッツ等と変わらない絶滅収容所の立場で運営されていた、と思う。
今、療養所で暮らすハンセン病患者は1600人ほどで平均年齢が80歳を超えている。おそらく、我が国のハンセン病患者は間もなく消えていくだろう。
関係機関の謝罪は得られたが、社会の偏見は続いている。この、国家3権力、医学界も含め、誤った施策の歴史を機会あるごとにつまびらかにし、国民の中に浸透している偏見の解消に努めなければならない、と思う。
5/17(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院
0:10起床、文献、新聞他処理。7:20徒歩飯川病院着。9:00-11:10健康クリニックドック。11:50飯川病院。微睡。14:00-18:30勤務、19:00夕食、20:45就眠。BR disk視聴:「ワカコ酒:はしご酒・アジフライ 」、「整理整頓コメディ:家には何にもない 」、「バクモン:甲子園球場舞台裏 」、観る。Σ8626Km。
ハンセン病(7) 差別化の背景に日本の風土・社会が果たした役割(1)
ハンセン病は人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つである。有史以来、感染症とはわからないまま、天刑、業病、呪いなどと考えられ、忌み嫌われてきた。
日本でも8世紀に編纂された「日本書紀」にハンセン病に関する記録がある。
日本の社会には、もともと多様性を認め難い文化がある。そのためにハンセン病に限らず、精神病など、差別が生じやすい環境にある。村八分、部落問題などはその文化の表れである。また古い時代から日本の患者は、家族に迷惑がかからないように自主的に故郷を離れて放浪する「放浪らい」もあった、とされている。
ハンセン病は顔面を中心に、鼻根部が陥没したり、耳の変形を生じることもある。罹患は小児が多い。幼児期の発症患者が多いことから性的虐待や近親相姦などを連想させ、国が優生学的政策を掲げたことで、遺伝病との誤認・誤解が広まった。
1873年にノルウェーのハンセン医師が「らい菌」を発見。1943年には米国で「プロミン」がハンセン病治療に有効であることが確認され、その後も治療法が開発され今やハンセン病は完全に治る病気になった。しかしながら、日本では世界の動向と逆行するかのように、1931年に感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる強制隔離政策が開始された。しかも、医師による勧告ではなく、警察による取り締まりによって患者を強制的に療養所に収容した。
日本の強制隔離政策の背景には、医学界の古い体質、妄信的な指導者、政治的判断があったが、社会の無知、誤解、無関心、または根拠のない恐れがあり、1996年の「らい予防法」が廃止されるまで国の隔離政策、非人道的政策は続いていた。
「らい予防法」が廃止されて20年、法による強制隔離はなくなったが、この回復者や家族までもが、今なお社会に蔓延るハンセン病に対する偏見に苦しんでいる。今なお1600人が社会に出られず療養所内で生活している。
こうした状況はあまり知られておらず、ハンセン病患者の人権を回復する社会の取り組みは遅れをとっている。
要するに、ハンセン病患者の人権侵害には、日本の古くからの文化的風土、医療界、政府、司法が大きく関与してきたが、さらに、近代の日本社会が果たしている役割は小さくない。
5/15(日)快晴 飯川病院日直
0:30起床、いつもの如し。本読み、文献読みほか。ゾンタバザー提供品、食器、単行本ほか用意。8:20自転車飯川病院に。日直に就く。患者はほぼ落ち着いているようだ。BR disk視聴:「そこまで言って委員会:北朝鮮他 」、「世界はいま」、「経済フロントライン」,18:00帰宅、19:00夕食、20:00就眠。8616Km。
わが家のゴールデンウイーク2016 ネコ対策に明け暮れ
今年のゴールデンウイーク(GW)は、巷では4月29日(金)-5月8日までの10日間としているようだ。
私にとってはこのGW期間は4月29日が飯川病院日直、5月1日通常業務、5月3日当直、5月5日日直、5月6日通常業務日であった。まるまるフリーは5日間だけであった。?
内容的には、ざっと言って何にも変化のない、日常的生活の範囲であった。
@ 4/29(金)昭和の日 GW初日 降雨 飯川病院日直+レセプト処理
某クリニック院長の来訪あり歓談する。
@ 4/30(土)GW2日目 快晴・寒い
サイクルショップにクロスバイク改造を依頼、
@ 5/1(日)GW3日目 降雨、午後から晴れ
蓄積データ処理、書斎の整頓、書籍廃棄。
@ 5/2(月) GW4日目 快晴・曇り 健康クリニック 飯川病院
飯川病院玄関脇のポーチにナスタチウム植え付け
@ 5/3(火)憲法記念日 GW5日目 快晴 飯川病院当直
畑にナス・トマト・キウリの苗植える。夕方、長女一家来秋。
@ 5/4(水)みどりの日 GW6日目 降雨・昼前から快晴に
ネコ対策用のラティスを居間と廊下、玄関に装着。クロスバイク完成。
@ 5/5(木)こどもの日 GW7日目 曇りのち快晴 飯川病院日直
改造後のクロスバイクで病院に。かなり乗りやすくなった。
花祭りで孫たち土崎に。一家総勢集まり夕食会。
@ 5/6(金)晴れ GW8日目 大曲中通病院外来 秋田県立近代美術館+glass studio VETROへ
大曲中通病院外来後「秋田県立近代美術館;江戸遊び絵展」を、帰路太平のガラス工房「glass studio VETRO」訪問。食器2つほど購入。
@ 5/7(土)午前降雨・午後晴れ GW9日目
書斎の整理整頓、ボタンの移植、鉢替え。ダリア予定の畑に肥料漉き込み。
@ 5/8(日)快晴 比較的寒い GW10日目
書斎整理、廃棄物まとめ。町内会班長業務。舩杉一家離秋 歩行計8559Km。
今年のGWはとびとびに出勤日があったが、やはり開放感は大きかった。この間もコマゴマと動き結構多忙であったが、気持ちの上では休養になった。特に出かけたわけではないが、大曲の勤務後にちょっと南下し横手の県立近代美術館の浮世絵展を見ることができた。
後半には孫を含め一家勢ぞろいした。いつまでこういう機会があるのか?とも思う。
昨年のGWに事情があって野良猫の子ネコ達を6匹我が家に収容した。その後一年経って立派なネコどもに成長した。イタズラ盛りである。それらの世話と対策、これからの暑さ対策に集中したGWであった。
この10日間の歩行距離はわずかに63Kmと運動不足であった。
まあ、まあ、家族がこれだけ集まって一緒に過ごす時間を持てたので良いGWであった、と総括すべきだろう。
5/14(土)快晴 71回目の感謝の日
0:10起床。文献読みと新聞電子化、録音データ整理、徒然。4:00畑にダリアを8株植える。昨年は16日だった。午前は掃除洗濯手伝い。ネコ室清掃、レイアウト変更など。午後は微睡後今季初めての草刈り。草刈り器一部故障。15:00散水など。データ処理など。19:00夕食、20:30就眠。8610Km。71回目の感謝の日。
71回目の感謝の日 まだ運良く生き延びています
今年もなんとか5月14日を迎えられた。71歳になった。私はここまで生きられるとは思っていなかっただけに感慨深い。数人の方から祝いのメールをいただいた。感謝に堪えない。
2012年秋には自転車による転倒、腸閉塞、脳梗塞を発症した。何れも厳しい状態であったが後遺症なく速やかに回復した。千に一つ、万に一つの幸運、であった、と思っている。
にもかかわらず昨年、また危ない思いをした。つくづくバカだ、と思った。
2015年8月中旬、墓参りを兼ねた家族小旅行中、花巻温泉で一人で滝を見に行き2mほどの高さから足を滑らして背面を下にして河原に落下し頭部、腰背部を強打した。落ちる瞬間何も防備できる状態でなかったため一瞬死を覚悟した。頭部、腰背部に激痛を感じ、頭部からひどい出血があったが意識障害はなく、四肢も動いたので奇跡かと思った。自力でよろよろとフラメキながら200mほど下山し、ホテルに戻り、救急病院を受診した。
頭皮には座裂創があり出血は長く続いた。
脳梗塞再発防止のために血液凝固阻止剤を服用しているので頭蓋内出血を心配したが、一応出血は否定された。しかし、受賞後数時間後から腰部臀部が腫脹し始め、内出血と考えられたが、運を天に任せ急ぎ帰秋した。腰部の腫れ方をから見て数日間出血は続いたと思われたが、大事に至らず止血したようであった。業務はなんとか続けられた。約一月激しい腰痛、腫脹感に苛まれたがなんとか軽減した。あれから9け月経過したが、未だに右側の背部臀部の一部に20cm四方ほど知覚を感じない部分があり、腰痛も続いている。脊柱の一部の骨が欠け、神経を圧迫しているのだろう。検査は受けていない。
3度目の正直というが、無事乗り切った。これから4度目も起こりうる。毎日を律して大事にしなければならない、と思う。一日の無事を願い、意義ある一日を過ごすよう心がけている。
私はいま、自分に素直に生きる道を求めている。まだ業務が多くて外との接触が若干あるために十分とはいえないがその方向上にある。可能な範囲でさらに孤立化を求めていく。
私は幼少の時からつい数年前までの現役時代、自分と他人を欺きながら生きてきた。本音と建前を過剰に使い分けながら罪多き人生を過ごしてきた。
私が口を開くと同じ過ちを繰り返す。だから引退後は会話を伴う会合等には一切出席していない。いま、私は透明人間的存在になりたいと思っている。別に姿を隠して悪いことをしたいわけではない。過ちを重ねないため自分の存在を消したいからである。
さらに、ここまで罪を重ねてきた私の人生は浄化が必要だと思っている。その浄化は自分の死をもって購われるだろうし、火炎によって肉体が焼き尽くされ、白骨化することで完了する、と思っている。私はその日を楽しみに待っている。
その時、私は静かに一人で旅立つ。私の旅立ちは全く個人的なものだからヨソの方には関係ない。だから誰にも一切お知らせしないつもりである。
その日までの生き方は昨年と同じだが、以下の如く過ごす積りである。
(1) 私の社会的使命は終わっている。仕事は最小限の診療に限定する。
(2) 自由に、ホンネで生きる。やりたくないことは受けない。罪を重ねない。
(3) もう時間がない。だから、無為に過ごさない。
(4) 移動機能を維持する。
(5) 診療で得られた報酬の20%を岩手の復興資金に送る。
(6) 終活 ・・・、かな。
5/13(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:20起床。文献検討、徒然。新聞チェック。5:00家庭ゴミ提出。7:30Taxi秋田駅。8:10こまち大曲に。9:10-12:15大曲中通病院外来、混雑。駅迄は復路Taxi、こまち、13:30-19:00飯川病院ボランティア。19:15帰宅。夕食、20:30就眠。Σ8601Km。BR disk視聴:「ヒストリア:アバタが選ぶ偉人たち」、「100分で名著:司馬遼太郎(3)」。
日本の薬価2016(2) 日本の新薬価格はなんでこうも高いのか!!
日本の医療は世界で冠たる国民皆保険によって支えられている。近年、医療技術の発展と高齢化のために医療費が高騰し、決定的に問題になっている。
医師が使用する薬剤は特許が残っている先発品と、特許が切れ廉価な後発品がある。政府は後発品を使用を推奨することで薬剤費の軽減を図っている。後発品の普及はここ4−5年大幅に普及しているが、商品名がわからず医療の現場は混乱している。
ところが、一方では最近、高額な医薬品・医療機器が増加していることから保険適用や薬価収載に際し費用と効果の関係を検討すべきとの声が上がっている。医療費の中に効果の評価を入れることは新しい試みで、政府の「経済財政運営と改革の基本方針2015」で16年度改定における試行導入が明示されていた。
中央社会保険医療協議会総会が4月27日に了承した医薬品は以下の通り。
●ソバルディ(1錠61799円)C型肝炎
●ハーボニー(1錠80171円)C型肝炎
●ヴィキラックス(1錠26,801円)C型肝炎
●ダクルインザ(1錠 9,186円)C型肝炎
●スンベブラ100mg( 1カプセル 3,280円)C型肝炎
●オブジーボ(1回の投与で約73万円)悪性黒色腫、肺がん
●カドサイラ(1回投与160mg1瓶373,945円)乳がん
これらはいずれも優れた効果がある、と考えられており、患者にとっては朗報である。
日本では健康保険があり、さらに高額療養費制度があるので、高価格であろうと患者の負担は一定である。すなわち、費用を負担は患者というよりは医療保険、ひいては国民ということになる。
例として上記薬剤の中のC型肝炎治療薬「ソバルディ」の場合、1錠61,799円で、併用薬を含め12週間連日服用する。約546万円かかるが、健康保険と自治体の補助があるために患者負担は月額1−2万円である。「ハーボニー」の場合は約670万円かかる。1%ほどの自己負担で治療が受けられる夢のような世界、それが日本なのだ。かつて厚労大臣がこれらの治療によって肝臓ガンの発生が抑えられるから医療費抑制につながる、と述べた。私はその発言の根拠を示してほしいと思う。
はっきり言って、国民皆保険の永続的な仕組みを維持する方策を考えなくてはならないのに高額療養費制度として一人当たりに500万円以上公費が支出される仕組みは問題である。2016年度のソバルディ投与患者は約2万人との推計もある。
同日の中医協は、高脂血症の注射薬「レパーサ」を保険適用した。注射剤で月1回投与するが、1回分の薬価は22,048円である。
肺がんへの治療が認められた「オブジーボ」は肺がん患者約5万人に1年間使うと、医療費が最大1兆7500億円増えるとの試算が公表された。
こんなことを積み重ねていくと健康保険制度は破綻するのは目に見えている。日本が将来的に右肩上がりの景気が維持されるならなんとかなるだろうが、それは夢物語である。
たとえ、後発品に切り替えて医療費を削減してもほとんど間に合わない。
このような一部の患者に対する高額の治療を次々と認めていく方向も健康保険制度の理念とするならば、それもよかろう。しかし、その場合は、対極にある、誰でもかかるような当たり前の疾患、例えば急性上気道炎などを保険診療から外すとかなどのドラスティックな改定をしなければ成り立たない。
年齢制限も一方法であろう。私の周辺でも80-90歳の高齢者が何人か別の医療機関で「ハーボニー」によるC型肝炎の治療を受けている。これらの方々は肝がんになる可能性は高くない。
公費が無理なら高額医療を対象とした民間の保険でまかなうのも一方法であろうが、それとて難しいと思う。
5/11(水)降雨 フリー
0:50起床。随想読み、新聞処理。徒然。本日は終日降雨予定、家の中の対ネコ懸案事項を処理することにした。飯川病院ボランティア無しに。網戸のロック、居間と玄関にラティス装着し、風通しの確保とネコの行動範囲の制限を画した。午後微睡。データ整理など。BR disk視聴:「ラフマニノフP協No2」。19:10夕食、20:40就寝。 歩行計8586Km。
ハンセン病(6) 差別化の背景に司法が果たした役割(2) 違法であったが違憲ではない??
最高裁が内部に調査委を設置し、「特別法廷」に関する検証を始めたのは2014年5月。菊池事件の再審を求める弁護団らが2013年に検証を求めたのがきっかけだった。
最高裁は、検証に当たっては個々の判決には踏み込まず、「特別法廷」を開いたことが手続き上で違法ではなかったかに限って調査することにした。だが、元患者らから内部調査のみでは不十分、と異議が出され、有識者による外部委員会が昨年7月に立ち上げられた。
有識者委員会は「裁判がどの程度公開されていたか」に関心を寄せて調査した。最高裁は、「特別法廷」が聞かれた当時、開廷を知らせる「告示」が療養所の正門に張り出され、それが「裁判の公開」を示す、とし憲法違反はないと結論づけている。だが、行動制限されていた患者は正門の張り紙などを見ることなど不可能で、告示の有無を知るよしもなかった、という現実があった。
有識者委員会は、ハンセン病患者というだけで「社会から隔絶された療養所で法廷を開くこと自体が違憲」と「特別法廷」を開くことを許可した手続きについて、「法の下の平等を定めた憲法に違反する」とした。
その実態を示す資料がある。1948-90年までの間に地裁などから最高裁に「特別法廷」設置を求める上申が180件あり、そのうち96件がハンセン病を理由にしたものだった。
他の病気などを理由にした上申61件のうち、最高裁が「特別法廷」を許可したのはわずか9件で認可率は15%なのに対し、ハンセン病の場合は96件中95件が許可された。明らかに不合理な差別的な扱いだった。
最高裁は、4月25日報告書を公表し、患者の人格と尊厳を傷つけ、 一般社会での偏見・差別を助長した、と認め謝罪した。
最高裁は、記者会見ではハンセン病患者の「特別法廷」について「憲法違反が強く疑われる」とで述べたが、報告書の文面では違憲判断を明記しなかった。しかし、「特別法廷」そのものは「差別的で、裁判所法違反」と認めた。
だが、その結論は「法的違反はあったが違憲ではない」と、元患者らの期待に背き、「違憲性を認めない姿勢は到底受け入れられない」と批判している。
有識者委員会は、誤った法の運用が二度とされないよう、裁判官などへの人権研修の実施などを提言した、と言うがこの点は朗報であった。
患者の隔離政策をめぐっては、2001年に熊本地裁が違憲判決を出し、判決が確定した際に「政府」と「国会」は速やかに謝罪した。三権のうち「司法」が謝罪するまでに、らい予防法の廃止から20年かかったことになる。
ハンセン病関連の人権回復闘争は今回の最高裁の謝罪によっても解決にならなかった。
5/10(火) 曇り午後降雨 外来 飯川病院
1:00起床,文献チェック、随想読みほか。5:00可燃ごみ提出、7;30徒歩飯川病院着。 8:45-13:30外来、連休明けで混雑、疲弊。14:00飯川病院、19:10帰宅夕食、20;00就眠。BR disk視聴:「知恵泉:五代友厚」、「昭和偉人伝:山下清」、「そこまで言って委員会」一部。歩行計8580Km。
ハンセン病(5) 差別化の背景に司法が果たした役割(1) 菊池事件の死刑判決と執行
ハンセン病の差別化の背景には医療界、行政が果たした役割は大きい。ともに反省する必要がある。さらに司法が果たした役割もある。それが今やっと見直されつつある。
ハンセン病の患者は裁判を受ける場合、療養所などに設けた「特別法廷」で裁かれた。
何らかの理由で裁判所が使えない場合、最高裁が必要と認めれば別の場所に法廷を設けることができる。法の規定に基づき裁判所外で開かれる法廷が「特別法廷」である。1977年までに113件の「特別法廷」開かれた。国の隔離政策のなかでハンセン病患者は裁判所に出廷させられないことを理由に、隔離したまま、療養所で法廷を開いたのはこのうちの95件。
憲法は「裁判の公開」定めているが、審理は事奥上非公開だったなどの問題が最近になって明らかになってきた。「特別法廷」は違法でなかったか?
最高裁がやっと「特別法廷」について内部調査に乗りだした。この件に関する有識者委員会も検討に入り今年度中に意見をまとめることになっている。
熊本には、熊本城を築城した加藤清正を祀っている本妙寺がある。清正公をハンセン病の神様と崇め、全国から本妙寺にこの病気の患者が集まった。明治42年全国5カ所に公立療養所が開設されたが、そのうちの一つが熊本の菊池恵楓園である。
この恵楓園と同刑務支所で聞かれた特別法廷は35件と、全国の施設で突出して多い。重大事件があったからである。
ハンセン病愚者とされた男性が殺人罪に問われ、無実を訴えた場が菊池恵楓園がである。それで「菊池事件」と呼ばれている。
菊池事件とは、熊本県の強い要請を受け、ハンセン病患者の現況調査を行なったが、これを通報した役場の元職員が1951年に殺害された。通報を逆恨みして起こした事件だと疑われ、容疑者が逮捕・起訴されたが、拘置所から逃走、その間に第2の殺人事件が生じた。
容疑者に対する取り調べも、それに引き続く裁判も、予断と偏見に満ち、本来被告人が持つ裁判上の権利も認められなかった。
その当時はハンセン病の伝染力は極めて弱くほとんど感染しないとされていたが、非公開で開かれた特別法廷は、資料によると、「消毒液のにおいがたちこめ、被告人以外は白い予防着を着用し、ゴム長靴を履き、裁判官や検察官は、手にゴム手袋をはめて証拠物を扱い、調書をめくるのに火箸を用いた・・・」と言われている。
全国ハンセン氏病患者協議会は、被告を「死刑から救う会」とともに支援していた。支持者は政党人、作家、文化人、宗教家ら1000名に達し、公正裁判を求める署名は50,000筆を超えた。
決定的物証もないまま、ずさんな裁判で死刑判決がくだされ、上告も棄却され、1962年9月14日、被告の死刑が執行された。
5/9(月)晴れ 健康クリニック 飯川病院
0:30起床,文献チェック、随想読みほか。7:30徒歩飯川病院着、9;0011:00健康クリニック。11:15以降は 飯川病院に、14:00-18:45飯川病院、19:00帰宅、夕食、20;15就眠。BR disk視聴:「サイエンスゼロ:113番目の元素」、「知恵泉:負けて生き残った武将」、「オイコノミア:人脈」、「シネマ:ペコロス」観る。歩行計8571Km。
米国大統領選(2) トランプ氏がどう変身するかが見もの
米大統領選は、民主党のクリントン氏と共和党のトランプ氏の対決になりそうだ。
トランプ氏の勝利は熱烈な支持者にとっても、想定外だった!!と思われる。
今までの予備選挙・党員集会は政党内での選挙運動だったが、今後は両氏とも本選挙を見すえて本格的な政策づくりに入る。米国が担う重責をわきまえた政策の提示と論戦を望みたい。
大統領は米軍の最高司令官で核兵器使用の鍵を持つ。ただ、トランプ氏は議員や市長の経験もない。言わば、素人。政界でどういう判断をするのかは誰も読めない。
金持ちすぎるトランプ氏は格差の標的になるべき方の人物であるが、結果は逆なのかもしれない。アメリカの国民は共助によって格差を解消などを望んでいない。この選挙を見ていれば、むしろアメリカンドリーム的な発想が根底にあって、いずれ機会があれば自分も・・という夢が活力になっているのではないか?アメリカにとっては格差の破壊はその活力を壊すことにつなる。
格差を告発することは、日本では庶民が溜飲を下げる意味にも働く。鳩山由紀夫元首相が生まれながらの持っていた経済力は、政治家としての彼のイメージのマイナス要因であった。
トランプ氏の躍進は「転落への予感と恐怖惑」が背景にある。
社会の主流だと思っていた層が経済低迷とグローバル化の中で展望を失っている。その人たちにとって、移民排斥などを訴えるトランプ氏の言葉は爽快だと思う。ほかの政治家なら政治生命を絶たれるような問題発言も、逆にイメージアップに結びついてしまうのは、そういう背景があるからと思われる。実績がないから好きなことを言えるのだ。
国の閉塞感や没落の恐怖感を募らせているのは日本も同じ。その空気を背景に、元小泉首相が「自民党をぶっ壊す」、「構造改革」、「民営化」、「郵政民営化」、等に対し短いキャッチフレーズを引っさげ、小泉劇場の主役として民衆の心をつかんだ。私は今回の大統領選は日本のかつての状況とよく似ている、と思う。「トランプ劇場」と言っていい。一人舞台である。
米国では民主党と共和党の力が極めて均衡している。
共和党は議会の上下院を支配しているが、民主党のオバマには拒否権があるので、大きな法案は成立させられない。逆に、大統領が望んでも、議会を支配していないから思い通りにならない。日本のかつての衆参のねじれ現象が政策決定を阻んでいた。当時のことを思い出す。こんなところも日米に共通した現象である。
何も前向きの政策が実現していない。そんな政治へのへの不満がたまっている。
これに対しトランプ氏の言葉は明快である。「俺がやる」という強さ、実行してくれるだろうという感覚が支持に結びついている。「私は変える、必ず実行する・・」というメッセージが彼の手段。ここでも小泉首相と重なっていく。
トランプ氏は、そうした人々の不満に訴える言動で人気を集めたが、実際に効果のありそうな政策はほとんど何も語っていない。
共和党は正念場にある。今の状態なら共和党のイメージは地に落ちる。こんな政党だったのか?党はトランプ氏を現実的な政策へ誘導する義務がある。
大統領の資質は、国民に耳当たりのいい言葉を語ることではなく、賢明な政策を説くことだ。トランプ氏はどう変身していくのか、目が離せない。どう変身しても大統領にふさわしいと人物と思えないが。
5/8(日)快晴 比較的寒い GW8日目 書斎整理
1:00起床、画像・文献新聞チェック。録音データ整理。9:00書斎整理、廃棄物まとめ。町内会班長として集金終了。11:00F杉一家離秋駅に送る。飯川病院散水、自転車にて帰宅。午後次男と孫来る。BR disk視聴なし。洗濯、 GW用にセットした居間、書斎の片付け掃除他。クリーニング店に。19:00夕食。20:30就眠。歩行計8559Km。
米国大統領選(1) トランプ氏が指名を確実に 国を挙げてのジョーク?と思っていた
8年ぶりの政権奪還を目指す米共和党の大統領候補指名争いは、トランプ氏が指名を確実にし、11月の本戦で民主党のクリントン前国務長官と対決する。
私は、この大統領選をアメリカの偉大なジョーク?と捉え、いずれはトランプ氏は落ちていくと思っておりあまり注目していなかった。しかし、あれよあれよといううちに指名獲得一歩手前まで支持者が肥大した。
アメリカは狂っているとしか思えない。
不思議なことがたくさんある
@ トランプ氏の破天荒な行動はかねてからよく知られているが、なんで政治的経験もない実業家が共和党の大統領候補の指名を受けたのか??党への経済的寄与度??
@ 共和党の主流派は今まで何していたのか?トランプ氏に嫌悪感を抱く支持和員は少なくない。呆れて見てたのか? この間、生じた党内の亀裂は、容易に修復できそうにない。非難を浴ぴるのは共和党主流派だ。
@ 1%の富裕層が国全体の収入の25%をしめ、企業のCEO上位100人の平均報酬は一般労働者の千倍近くに達している。残り99%の国民はとり残され、中下層の生活は10年前取り悪化している。米国の格差社会に米社会が嫌気をさしていたのではなかったのか?遊説に自社機757-200で移動するトランプ氏に、支持者は搾取されていることを忘れ、アメリカンドリームの再来の姿を見ているのだろうか。
@ トランプ氏の主張は、正式に候補に認定された以降もこのままの発言が続けば世界の笑い者になる。さりとて、修正したら支持者を騙すことになる。彼は四面楚歌状態にある。
@ トランプ氏は今後、本選に向けて過激な主張を封印し、党内の融和を図るとみられるが、今更、道は険しい。この予測できる変身を支持者はなんと考えているのだろうか?
@ 良識ある共和党員はクリントン氏が利するのを覚悟の上で、本選の投票を棄権するなどと表明している。共和党は暗闇への長い旅の一歩を踏み出した。
@ ・・・
政治の世界ではこのような事態が起こる可能性は否定できない。大衆の熱狂が怖い。
オバマが大統領に選出された時も異様なフィーバーが生じた。
日本の民主党の政権交代劇も類似していた。マニフェストも読んだことのない大衆が政権交代という言葉に夢を託した結果だった。
アラブの春の政変、熱狂的であったが結局は成果を上げていない。
・・・などなど。
本選では、トランプ氏は人気を集めてきた今までの発言が足かせになるはずである。選挙は人気投票であってはならないが、現実は人気投票である。
5/7(土)午前降雨・午後晴れ GW7日目
0:20起床。読書、文献処理一部廃棄、録音データ整理。午前は書斎の整理整頓、午後は晴れ間が出たので、ボタンの移植、鉢替え。ダリア予定の畑に肥料漉き込み。BR disk視聴:「NHKso定期公演:ルスラン・ラフマP協・白鳥の湖」再視聴、「ベルリンフィル:指揮者選び」、「ベルリンフィル:指揮者選び」、「カラヤン生誕100年:カラヤンと日本人」、「家庭菜園」。歩行計Σ8551Km。
日本の報道自由度72位 なぜメディアは反応しないのか??(2)
「国境なき記者団」(RSF)は報道自由度ランキングで日本は72位に順位を下げた。
これほど大きな問題なのに、当該のメディアはこの事実を伝えるニュースを小さく掲載したのみである。不思議である。
日本のメディアはRSFの評価を軽視しているのだろうか??あるいは日本のメディア自体が変質しているのだろうか??
もし、放送局で働く人々の多くが、報道への圧力の高まりを自覚していないのは深刻な問題で、報道の内部崩壊が始まっている、と言えよう。
1967年、TBS報道番組のキャスターであった田英夫氏が北ベトナムの現状を伝えたが、当時の総務相がクレームをつけ、田氏は解任され、社を去った。その時社内では相当の議論が高まったという。
TBS-TVに対し報道が放送法に反し偏向していると昨年11月読売と産経紙に「放送法遵守を求める視聴者の会」が意見広告を出して批判したが、その批判を名指しで受けた「NEWS23」の番組アンカーの岸井氏が番組から降板することになった。
最近、有名ニュースキャスターの交代が相次いだが、政府あるいはから何らかの圧力を受けたのかは明らかになっていないが、偶然の一致だろうか。この件についてもメディア側からの反応は鈍いと思う。NHKの看板番組「クローズアップ現代」キャスターを23年間務めた国谷氏は、「時代が大きく変化し続ける中で、物事を伝えることか次第に難しくなってきた」、と歯切れの悪いコメントを出した。
最近、骨のあるジャーナリストが減少しているらしい。また報道各社も世代交代のためか、事なかれ的姿勢があるようだ。
高市氏の停波の可能性を示唆している発言はもっと問題にされていいと思う。番組の評価をするのは国民であるはずなのに政府がそれを判断するというのは放送法の理念を取り違えているのではないか。メディア側の反応は鈍い。これは安倍首相の意見でもあるようだ。首相の考えに真っ向から切り込んで行っても良いのではないか、とさえ思える。
高市総務相は2月の衆院予算委員会で、「政治的に公平であること」を定めた放送法への違反を繰り返す放送局に対し電波停止を命じる可能性に言及した。「全く改善しない放送局に、何の対応もしないとは約束できない」と述べた。
私は、側から見ていて歯がゆい感じを持つ。メディア側は国に対してもっと論争をしかけて欲しいと思う。
5/6(金)晴れ 大曲中通病院外来 秋田県立近代美術館 glass studio VETROへ
0:30起床、文献読み。データ整理。5:00可燃ごみ提出。7:40Taxi。8:10こまち、徒歩病院、9:00-12:15大曲中通病院外来。市内のレストランで長女一家と合流、昼食後プリウスで横手に。「秋田県立近代美術館;江戸遊び絵展」を、帰路ガラス工房「glass studio VETRO」訪問、デブの秋田犬ムーコがいた。食器2つほど購入。18:10飯川病院着。19:30Taxi帰宅、外食にて夕食、21:30就寝。Σ8546Km、3日間で20Km歩行。
日本の報道自由度72位 なぜメディアは反応しないのか??(1)
国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF)は4月20日、2016年の世界各国の報道自由度ランキングを発表、日本は前年の61位から72位に順位を下げた。
RSFは安倍首相に対する批判などで、メディアの独立性を失っている、と指摘した。
RSFは2002年から180ケ国・地域を対象にランキングを作成している。日本は2010年の11位から22位、59位、61位と順位を下げた。
日本が順位を下げた背景として、2011年の東日本大震災時、外国メディアに対する情報開示が不十分だったこと、秘密保護法の施行に踏み切ったことも影響を与えたとい
う。
1-3位はフィンランド、オランダ、ノルウェー。英国が38位、米国41位、仏45位、ロ147位、台湾が51位、韓国が70位、中国が176位、北朝鮮が179位だった。
私は、日本のメディアは内容的に程度はそれほど高くはないが、報道の自由度・独立性は比較的いい方だと感じていたが、年々下がってくるランキングに驚いている。
それ以上に不思議なのはこの問題に対してメディア側の反応が乏しいことである。日本のメディアはRSFはの評価を軽視しているのだろうか。
確かに、報道に対する圧力が強まっていることを示唆する発言や意見が目立つようになってきている。
@TBS-TVが先日、「スポンサーへの圧力を公言した団体の声明について」と題するコメントを発表した。ここで問題となっている団体は、「放送法遵守を求める視聴者の会」である。団体はTBSの報道が放送法に反し偏向しているとし、スポンサーへの締め付け運動で広告料減させる、などと脅しをかけているように見える。
TBSはコメントの中で「多様な意見を紹介し、報道機関の使命を認識し、自律的に公平・公正な番組作りをしている」、「スポンサーに圧力をかけるなどは、表現の自由、民主主義に対する重大な挑戦である」、と述べている。
放送法の目的は、表現の自由を確保し、健全な民主主義の発達に役立てることにある。TBSのコメントは妥当な見解である。
@2015年6月、自民党議員勉強会で「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」などとの発言があった。
@同勉強会で講師の百田氏が沖縄の2紙は潰さなければ、と発言した。
@2014年、総選挙前に自民党が選挙報道の「公平中立」を求める文書をTV各局に送った。
@高市総務相の停波問題。内容的には放送の内容が過度に偏向している場合は、政府が判断してその電波の使用を停止する場合もあるーーという強権的発言である。
この問題は、放送の歴史から見ても無視できないとても大きな問題だと思う。
にもかかわらず、メディア側の対応は鈍い。信じ難いほどである。
5/5(木)こどもの日 曇りのち快晴 GW5日目 飯川病院日直
0:00起床。文献等若干処理。画像収集処理。5:30資源ごみ提出。秋田市職員連休中なのにご苦労様。8:30改装なったクロスバイクで病院着。日直業務に就く。院内は平穏の様子。新聞ほか文献検討電子化準備。19:00車帰宅.夕食。20:00就寝。
BR disk視聴:「チョイス2:血液の病気」、「林修:今でしょ講座」、「日本の底力:航空機物語」、「久米書店:ニュースのなぜは歴史に学べ」、「NHKsp:メルトダウン」。
クロスバイク2016(1) スポーツ仕様のクロスバイクを軽快車に改造した
2011年9月にスポーツ自転車の一種であるクロスバイクを購入した。
あのドロップハンドルで、サドル位置が高く、体をエビの様に曲げて走るあのタイプである。構造的に競技用のロードバイクとは一線を画すが、それでも自分の踏み込む力が有効に推進力に反映し、面白いようにスビードが出た。ただ、停止時には足が地面につかず特別な降り方が必要であり、重心が高いために低速時は不安定である。
ママチャリやマウンテンバイクではせいぜい20Km/h程度であるが、条件のいい道路では40Km/hほどのスピードが出た。
自転車用ヘルメットを被り、通勤を含め、連日走りを楽しみ、平均20Km/day前後、時には30Km/day以上走っていた。
1年余楽しんでいたが、2012年10月私の不注意で高校生の自転車と接触し転倒したことを機会に,また、続けて腸閉塞、脳梗塞に罹患したことから、自身の体力と判断力に限界を感じ乗るのをやめ、通勤等は原則歩行としてきた。それまでのクロスバイク走行距離の積算は6000Kmほどだったと思う。
あれから3年半たった。通勤時の歩行距離も間もなく9000Kmに達しそうである。今年から水曜日がフリーとなったこともあり、多少行動範囲を広げたい。秋田にもまだ訪れていない名所、施設も少なくない。徒歩とバスだけではちょっと苦しい。
それで、ガレージの2Fに鎮座しているクロスバイクの再利用を考えた。さりとてこのままでは身体的に無理である。改造し軽快車的に用いることを考えた。主たる変更点はサドルを下げ、ハンドル位置を上げることであるが、ハンドルの改造にはハンドルステーの交換が必要であった。それに伴って4本のブレーキワイヤ、2本の変速機用のワイヤの交換が必要で、自分ではできないこともないが微調整も含めるとやや困難である。そのためにサイクルショップに持ち込んだ。体格に合わせた再調整を含め数日を要したが昨夜完成した。
クロスバイクとしてみれば雰囲気が一変した。停車時に足がつくなどぐっと乗りやすくなった。一方、スピードは出し難くなった。
今度はゆっくりと、より安全に用いたい。
5/4(水)降雨・昼前から快晴に みどりの日 GW4日目
0:30起床、文献チェック他。7:00検食、9:00当直業務開け、レガシーにて帰宅。客人を迎えてネコ共落ち着きなし。午前は居間と玄関にネコ対策用のラティスを装着。換気もよくなった。午後は微睡取りつつ文献、録音、画像処理。町内会費の領収書作成、会費収集など。19:00夕食、19:30クロスバイク完成したのでショップに取りに。20:30就寝。BR disk視聴:「チェルノブイリ30年」、「らららクラッシック:冬の旅」、「N響定期公演:亡き子を偲ぶ歌、ブルックナーNo5」。
昭和27年4月10日自宅消失(9) 火炎と浄化(2) 自身の白骨化を夢見る(1)
火炎の魅力は、何でも焼きつくすパワーである。強烈な熱と焼却力は私にとっては浄化力でもある。火は実に美しく、潔い。
火葬によって白骨化した姿に感慨を抱く。
私にとって、私自身も含め肉体を持つ生身の人間は決して美しくない。私との関係も美しくない。亡骸も美しくはないが、生きていた時よりはずっといい。死をもって浄化される部分があるから。一方、白骨は最高に美しい。人間が到達できる究極の美の姿、完全な浄化、私はそう思う。
容姿その他、素晴らしい老弱男女はたくさんおられる。しかし、仮の姿でしかない。
この生と死、白骨の魅力が私の対人観に与えた影響は大きく、かつ驚きであった。
親族の死、愛憎の感覚を含め、私との間で蓄積された、あらゆる感情が死の瞬間をもって浄化される。そこには、喜びの感覚さえ伴っている。
ましてや、他人であれば、死の報告だけで十分である。もう白骨化しているかもしれない。私との関係はここまで、という区切りを私は感じてしまう。死者は一人で静かに旅立っていけばいいのだ。だからセレモニーには出たくないし、親戚以外なら出ない。
他の方がこんなことにどう感じるのかは、私には知る由もない。話題にして確かめたこともない。
私は、私以外の死に間してだけこんなことを思っているわけではない。
自分自身の白骨化も夢想する。私はその時、長い間蓄積してきた罪深い人生が浄化されるのだ、と心待ちにさえしている。
太宰治は「人間失格」の中で「恥の多い人生を送ってきました・・」と吐露した。私の好きな言葉である。私はこの言葉を借用し「罪深い人生を送ってきました・・」と自分の人生を総括している。
私の「罪深い人生」とは、社会的に糾弾されるようなことを示しているのではない。他人が眉をひそめるようなことは無かったわけではなかろうが、明らかに「罪」として問われるべき罪はない・・と思っている。
私の言う「罪深い人生」とは、「本音と建前」を過剰に使い分けてきたことである。誰だって同じだろうと思う。しかし、私自身は自分で許しがたいほど著しかった、ということである。
5/3(火)憲法記念日 快晴 GW5日目 飯川病院当直
0:00起床、文献検討他。新聞チェックなど。午前は客迎える準備で掃除洗濯など手伝う。居間・書斎片付け。SUNDAYにて畑用に30本ばかし苗購入。ネコ対策用ラティス2枚購入。16:00畑に植苗。18:00院長と交代、当直に就く。18:30検食、19:15F杉氏一家来秋。20:20就眠。歩行計8526Km。BR disk視聴:「世界一受けたい授業:魚料理」。
昭和27年4月10日自宅消失(8) 火炎と浄化(1) 白骨化で私との間柄が浄化される
火炎の魅力は、何でも焼きつくすパワーである。強烈な熱と焼却力は私にとっては浄化力でもある。火は実に美しく、潔い。
住宅全焼によってわが家は過去の蓄積の喪失と再出発を経験した。私はこの喪失を浄化なのでは?と捉えられるようになった。
火災の数年後、小学校5年の時に祖父が死去した。その時、火葬による屍の処理によって白骨化した著しい変化に異様?な興味と感慨を抱いた。
私にとって、生身の人間は決して美しくない。亡骸も美しくはないが、死によって人間であることを喪失しているから、より美しくなっている、と言いたい。浄化である。さらに火葬によって得られた白骨は最高に美しい。人間が到達できる究極の姿である。完全な浄化、私はそう思う。
私から見て、人は死を迎えただけで浄化される。人は死によってそれまでとは別人になる。しかし、亡骸を残していては、浄化は不完全である。白骨化は究極の浄化であり、見た目にも最高に美しい。
祖父、祖母、両親と実兄、義理の関係者たち、死亡したとの知らせを受けて、その度ごとに私は心から安堵した。家族として、人間としての善悪の評価、愛憎の感覚を含め、私との間で蓄積された、あらゆる感情が全て死の報告を受けた瞬間をもって別物に変わる。喜びの感覚さえ・・・、実は伴っている。
親族の場合は葬送のセレモニーが続くが、私の考え方から言えば、もう自分との間での別れは完全に住んでいるから、本当は参列したくない。死者は一人で静かに旅立っていけばいいのだ。残念だが、恩もある方々だから、社会的通念に従う。
この生と死の変化が私の対人観に与えた影響は驚きであった。
他人であれば、死の報告だけで十分である。あとは白骨化するであろう状況を予想して私との関係はそこで全て消滅し、浄化される。故人に抱いていたあらゆる感情が白一色の実体のない感情に変化する。私との関係はここまで、という区切りの喜びを私は感じてしまう。
それ以外の感慨は抱かない。死には悲しみの感覚がともなう? 他の方がどう感じるのかは、私には知る由もないが、私には悲しみの感情が湧くことはない。
私は知人の死の報告に接するのが好きである。どのようなお付き合いがあったとしても死別はいい。故人と私は、感情を共有しない潔い関係となる。
私は自分以外の方々の白骨化を思うだけではない。自身のも白骨化も夢想する。私はその時、罪深い人生が浄化されるのだ、と心待ちにさえしている。
5/2(月)快晴・曇り GW4日目 健康クリニック 飯川病院
0:20起床。徒然、録音データ整理など。7:30徒歩飯川病院へ、9:00-10:30健康クリニック。11:00飯川病院、微睡。15:00玄関脇のポーチにナスタチウム植え付け、散水。18:00サイクルショップに体型との調整に。書店、肉店経由徒歩にて桜町まで、迎えの車にて帰宅、19:00夕食、20:00就寝。BR disk視聴:「コズミックフロント:月のミステリー」2回目、「林修:名著・小僧の神様」、「日本視察団:コンビニ」。
秋田市千秋美術館 企画展「最後の印象派」 これを機会に年間パスポート会員になった
秋田市立千秋美術館で4月21日から「最後の印象派展」開催されている。
1月から水曜日が原則フリーとなったので、私は、いろいろな催しものに出席できる時間と余裕ができた。コレが楽しみである。この時間を美術館、映画鑑賞などに有効に利用している。
4月27日に久々秋田市立美術館を訪れた。
秋田市立千秋美術館は秋田市のアトリオン内に1989年(平成元年)に開館された市立美術館である。岡田謙三記念館を併設する。収蔵作品は岡田謙三の作品や秋田蘭画、郷土ゆかりの画家・写真家の作品を中心で、企画展も多い。
今回鑑賞した「もうひとつの輝き 最後の印象派 1900−20’s Paris」と名をうった展覧会が4月21日から5月29日まで開催されている。
パンフや新聞の紹介記事によると、20世紀初頭のパリで活躍した画家彫刻家新協会の芸術家たち、アマン=ジャン、シダネル、ロダンらの作品約80点が展示されている。
<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/73/efbd3c031d275a08f38bb2bfd64677b4.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/00/73/efbd3c031d275a08f38bb2bfd64677b4_s.jpg" border="0"></a>
(秋田魁新聞の同展の紹介記事。引用させていただいた モノクロ化した)
私は今回の展示されている画家や彫刻家のうち、何名かの名前は聞いたことがあるが、どんな代表的作品を挙げることもできない。そんなレベルである。
代表的作者は、エドモン・アマン=ジャン アンリ・シダネル エルネスト・ローラン ルネ・グザヴィエ・ブリネ エミール・クラウス オーギュスト・ロダン アンリ・マルタンなどである。
彼らの作品は今日でこそ近代絵画の古典として世界中で親しまれているが、当時は閉鎖的なサロンや大衆からの痛烈な批判にさらされた。しかし、彼らが打ち立てた新たな視点による作品は、印象派のスタイルを受け継ぎながら、詩的情緒あふれる、一層甘美な作品が特徴的とされる。今日的評価では、彼らの作品は後世の絵画の展開を促し、20世紀の絵画のあり方を決定づけた、と高く評価されている。
私の印象を一言で言えば、大型の作品は総じて霧がかかったような、輪郭の薄い作品群からなっている。小型のそれは比較的輪郭が強調されている。この特徴に私は興味を持った。
しかしながら、作品は80作品ととても一機会に鑑賞するのは無理な量であった。私は後日もう一度この展覧会を訪れることとした。
そのために、今回、来年3月末日まで使える年間パスポートを購入した。これで、入場料を気にせず何度でも当美術館を利用できることとなった。
今回の企画展のほか今年中には6回ほどの企画展が計画されている。それらも楽しみである。
5/1(日) 降雨、午後から晴れ GW3日目
1:00起床。文献チェック、本読みなどいつもと同じ。4月分の録音データパソコン上で整理。データ整理。BR disk視聴:ひと月前の「のど自慢」、「らららクラッシック・冬の旅」。昼「のど自慢」見る。午睡若干、14:30飯川病院へ、散水のため。17:00ナスタチウム11本購入、18;30次男一家来襲、19:30夕食、20:30就寝。歩行Σ8509Km。BR disk視聴:ガイア「明日につなぐ人材」、コズミック「月のミステリー」。
四季2016(6)桜散る 私にとって夏が訪れた
4月10日に通勤路の若い桜に最初の開花を確認してから2週間余、通勤路の桜並木は早々に散ってしまい、遅い千秋公園の御隅櫓付近の桜も28日にはほとんど散って、緑の若葉に取って代わられつつある。
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(千秋公園御隅櫓付近の桜 4月26日撮影)
桜っていうのは注目度は高いがちょっと可哀想。咲き始めるまでは、満開の時期までは、注目され、私どもの心まで高揚させてくれるが、散り始め葉桜になると一気に関心が薄れるようである。桜で刺激を受けた心は園芸や菜園などに移っていく。美人への関心とその移ろいに似ているようだ。
私にとっての四季は暦上のそれとは異なる。私は勝手に夏を桜が散った時期から墓参りの8月13日まで(約3か月)と分類している。
かんかん照りの夏が大好きで、降雪期には除雪のストレスに苛まれる私にとってこれが合理的な分類である。
こんなことを話すとあまりにも身勝手な分類、こんなに寒いのにもう夏??と言われるが、気温には直接関係していない。そんなことは私も重々承知している。
しかし、桜の季節には気温的には不安定で、暖かい日もあるが、肌寒い日もある。「花冷え」という言葉がある。桜が咲いたのになんでこんなに冷えるのだろう、こう感じられるのが桜の季節である。
桜の散り方は開花ほど一斉でない。だらだら散る。今年の夏到来は本日5月1日からとしよう。
ついに、私の好きな夏が訪れた。良い季節である。明日から通勤はトレパン上下からテニスウエアに替えよう。
夏は忙しい時期でもある。野菜作り、園芸も始まる。そろそろ電動草刈機も出さねばならない。今年はちょっと発想を変えてクロスバイクを普通の自転車様に改良してまた乗ろうと思う。
今年は何を栽培しようか、参考書片手に模索している。バラやダリヤも植えよう。家内は飯川病院の花壇に大幅に手を入れることを考えているようだし、自宅近所の畑を借用して、いろいろ計画を練っているようだ。彼女は口は出すが手は出さないので、私は今年も多忙になりそうである。
徒歩通勤は平成の伊能忠敬という積算計で日本橋を出発して海岸線を北上、稚内で折り返して南下、現在山口県下関付近にあるが、夏の間に頑張って距離を伸ばし九州に渡りたい。
私の夏、今年も太陽を十分に浴びて過ごしたいものである。条件は整いつつある。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |