自伝 秋田大学時代 4(1973-1985) 

退職前、年休を利用してヨーロッパのオペラの旅に
 大学の退職は昭和6055日付、中通病院赴任は56日からと決定した。大学の医局の人事面での都合で若干時期がずれたものの、40歳を迎える前には何としてでもケジメを付けたいと思っていた私の願いは何とか叶うこととなり、ホッとした。
 誰に言われたわけではなく、自分で決めた方向転換であり、秋から春にかけて大学で用いた関連書類、文献、物品のほぼ全てを焼き尽くし、かなり気持ちに整理は出来たが、さらに気持ちの切り替えのために退職前に残っていた年休を利用して日本郵船の企画によるドイツ、オーストリアの2週間のオペラツアーに参加することとした。
 ヨーロッパの歌劇場巡りを思い立ったもう一つの理由は、世界的なオーケストラや有名歌劇場の引っ越し公演を東京で何度も聴いたが、今ひとつ満足しきれないものが残っていた。カラヤン、バーンスタイン、アバド、カルロス・クライバー、マゼール・・と一世代前の巨匠の演奏も聴いた。ここで止まっているのは、次の世代のアーチストの東京公演には病院の都合でそう出かけられず、あまり積極的には足を運んでいないためである。また、東京出張が便利になりすぎて空路帰秋出来るようになったために、演奏会に出かける機会が激減したこともあげられる。

 各々の演奏会、オペラの公演はそれなりに満足すべきものであったが、数100年も歴史を重ねながら続いてきたオペラなど、本当にこの程度のレベルなのだろうか、と言う疑問、わだかまりが聴くたびに心の隅に引っかかったからである。その答えは本場で聴いたときにしかでない。この機会の逃しては二度と得られないかもしれない、と思い立ったからである。

 4月下旬に医局で開いていただいた送別会では身に余る激励の言葉も多くの方々から戴き、本当にありがたかった。

 翌朝、秋田空港をたち、午後成田空港から全日空機で一路ハンブルグに向かった。

 

 ヨーロッパオペラツアー(1) ハンブルグ国立歌劇場「ドン・カルロス」

 北極・ロシア上空経由の約8時間のフライトで午前にハンブルグ国際空港に到着。直ぐにバスで市内に移動、昼前に宿泊ホテルの近くの繁華街に到着した。ガイドの話では本日は土曜日なのであと1時間ほどで全ての商店が店仕舞いするので両替とか必要な買い物を済ましておくように、と言う事であった。さすがにドイツである。この様な規律とか取り組みは整然となされるらしい。実際には商店街からは不満もで始めているとのことではあるが、国民の自由時間を確保し家庭を大事にすると言うことが主たる目的だとのことである。

 両替とか済ませ宿泊ホテルに向かう。ホテルは当市でも有数の歴史のある「Vier Yahleszeiten」で日本語訳なら「四季」と言うところで湖畔にあった。1700年代の作りで、城の一部であったとかの説明があった。内部は古式豊かな作りで昔の宮廷はこんな作りなのかと中世にでもタイムスリップでもしたかの如くの印象であった。

 ハンブルグはブラームスの生まれた街としても知られているが、エルベ河畔にあるヨーロッパでも最大級の港湾都市で貿易が盛んであったという。かつてはヨーロッパに輸入されるコーヒーの大部分ハンブルグ港に水揚げされていたとのことで、コーヒー関連の産業は未だに多いとのことであった。一方、貿易に関連した感染症の上陸場所でもあった、と言う。

 市街地の中心にはエルベ川をせき止めて作ったとされる大小二つのアルスター湖がある。広場も多く、旧市街には高層ビルも殆どなく、歴史を感じさせる美術館などが並び、空がとても広い街との印象であった。

 ハンブルグでのコンサートは国立歌劇場でヴェルディ「ドン・カルロス」であった。ほぼ満席で老若男女とも正装して次々と入ってくるのは東京での引っ越し公演では味わえない独特の雰囲気であった。

ヨーロッパオペラツアー(2) ハンブルグ国立歌劇場「ドン・ジョバンニ」

 ハンブルグでの二日目、日中は特に予定はなく自由行動である。アルスター湖周辺には歴史的な建造物が並んでいる。午前中は湖の周辺を散策したが、新しい高層の建造物は殆ど無く、歴史の重みを感じる事が出来るたたずまいであった。途中で大小の美術館にて絵画その他を鑑賞しながら数時間過ごしたのも心洗われるいい時間であった。美術館等はがらんとし、客と思われる人はパラパラといるだけ。外装・内装共に細やかに装飾が施され、館そのものが芸術品と思えるものであった。

 夜は再び国立歌劇場で、演奏曲はモーツアルト「ドン・ジョバンニ」であった。昨夜と異なり80%ほどの入場者であった。シーズン期には週1回の休演日除きほぼ連日演奏会が行われるが大部分は70-100%の入りなのだそうだ。見渡しても観光客と思われるアジア系の客は少なく、多くが地元あるいは近隣の住民かと思われた。それだけオペラが地域で支えられている状況が窺われた。

 劇場自体の造作などを楽しむために少し早めに入場し座席に座っていたが、客室係員と思われす初老の男性が2度ほど座席のチケットを確認しに来た。ガイドの説明によると、空席のある場合、安いチケットで入館し、良い席に陣取る客がいるためにそれをチェックし、本来の席に戻すか差額を徴収するのだそうだ。この辺がドイツ的なところか?と感じられた。

 昨夜の「ドン・カルロス」は素晴らしい作品の一つで私の好みの一つであるがだ、時差ぼけのためか集中して聴けなかったのが実に惜しかった。二日目の「ドン・ジョバンニ」は詳細は忘れたが楽しめる演奏であった。ハンブルグ歌劇場ではあまり著明な歌手とかを招聘せず、歌劇場直属のメンバーが中心となって演奏されるのだという。地方の歌劇場の在り方なのだそうだ。

ヨーロッパオペラツアー(3) ハンブルグからフランクフルト乗り換えミュンヘンに

 詳細は忘れてしまったが、ハンブルグ国立歌劇場での二晩のオペラを通じてオペラは地元に根ざした文化であることが十分に感じ取れた。歌劇場自体は市街の中心部に近いところにあり、広場の中に独立していると言うよりは街路の並びにあって、正面玄関などあるか否か分からない様な地味な作りであった。  入り口は目立たず、ちょっとした古いビルに入っていく、と言う雰囲気で、歌劇場の全貌は見ることが出来なかった。一度中に入れば、ヨーロッパの歴史を感じさせる作りであった。メインホールは舞台に向かって半円形に並ぶ。横一列の椅子の並びに適宜縦の通路があるのだがこれがとても少ない。私は前列から10列目ほどのやや左よりの中央だから座席にたどり着くまで、あるいは観客が入ってからの移動は大変であったが、不快な顔もせずサッと立ち上がって通してくれたのが印象に残っている。

 歌劇場は残響もやや長めなのかとても良い響きがした。歌劇場付きのオーケストラとこの響きが一体となっての安定した雰囲気が醸し出されているのだろうと思われた。少なくとも東京で聴いた歌劇場引っ越し公演との違いを感じ取った。

 ドイツ人は酒場等で結構はしゃぐのが好きと言われている。そのことはミュンヘンで雰囲気を十分味わったが、歌劇場はこれとは異なる、静かな雰囲気の社交場でもあるようだ。何処の歌劇場もメインホールの脇には相当広い空間が取ってある。オペラの幕間は30分も時間がある。その間、座席は殆どが空になる。多くの観客はメインロビーとかこの広場で、各々軽いアルコール飲料を楽しみながら歓談している。この時間を楽しみに来ているのではないかと思うほどの賑わいであった。広場の壁には絵画と共に歴代音楽監督、著明な客演識者達の写真がならぶ。今から一世代ほど前の、本でしか知ることの出来ない様な著明な指揮者の写真、記念すべき演奏会の舞台情景の写真もならぶ。これを見て歩くだけでも十分の値があったと思った。

 翌朝、フランクフルト空港乗り換えのルフトハンザ航空のエアバス機でミュンヘンに向かった。

歴史と音楽、ビールの街 ミュンヘン ミュンヘン国立歌劇場(1

 ミュンヘンはドナウ川の支流イザール川沿いに開けたドイツ第3の都市である。町の建設が始まったのは12世紀だというから、歴史の街である。その当時、この地に修道院があったため,「修道僧」を意味するミュンヘンという町の名が生まれた。

 1506年にバイエルン公国の首都となり、基本的には商業都市であったが30年戦争で疲弊し、1634年のペストの流行で人口が2/3に減少した。1806年バイエルン王国の首都となり、その後、19世紀前半のルートヴィッヒ1世の時代に黄金時代を迎えた。この国王の芸術に対する病的ともとれる愛情と情熱が、ミュンヘンを偉大な文化と芸術の都へと成長させたとされる。

 

 ミュンヘンは19世紀中等頃から教育都市、博覧会、国際会議、観光都市となった。市街は時代の流れを反映して18世紀までに作られた旧市街地、ルートヴィッヒ1世の時代に拡大した地域、それ以降に拡大した地域、大戦後に作られた市街地という風に円形に外側に向かって拡大している。また、世界的に名だたるビールの生産地でもあり、政治的には1920年代にヒトラーの政治的加圧道の舞台になった。また、1970年代初頭のオリンピックではテロ事件が生じたことも知られている。

 

 到着翌日、観光バスで一日かけて市街を見て回った。街の中央部にいると中世にタイムスリップしたかの如くの印象であるが、外側に広がった近代的市街地はオリンピックスタジアムを始めをする超近代的な都市となっている。

 

  ミュンヘン国立歌劇場は19世紀に国王によって造られ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の初演が行われたところである。

 ミュンヘンは音楽好きにとって、ワーグナーを好むものにとって特別の街である。万策尽きたワーグナーは奇跡的に即位直後の18歳のルートイッヒ2世によって救われ、手厚い庇護のもとに「トリスタン」「マイスタージンガー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」などの次々と作品を世に出したことで知られている。王は政治的な行き詰まりから次第に精神に異常を来し、芸術と宮殿建設に逃避し、一層ワーグナーに心酔していった。結局、ワーグナーは王からの援助を受けていたが王の希望を裏切り、バイロイトに劇場を建設し「指輪」の初演を行った。世界で最も美しい城と言われるネオロマネスク様式のノイシュバンシュタイン城は王の幻想趣味を形に表したものという。王は最終的にはシュタルンベルク湖に身を投げた。

 ミュンヘン国立歌劇場では2晩オペラを聴くことが出来た。

 

 歴史と音楽、ビールの街 ミュンヘン (2) 歌劇「カルメン」
 ミュンヘン国立歌劇場での初日はビゼー「カルメン」であった。座席はホールの壁面の2階席で右側。舞台全景の他にオーケストラピットの演奏も見ることが出来る比較的良い席であった。第一ヴァイオリン勝者の中に3人ほどの東洋人と思われる演奏家がいた。

 「カルメン」の指揮者は私にとっては聞いたこともない中年の方であったが、入ってきたときの拍手や歓声、観客の様子から地元ではかなり評価の高い方のように思えた。これが本場の味の一つなのだろう。

 私はこの作品はレコードやCDで聴く限りにおいては、勿論、楽しめる部分も少なくないが、全曲を集中的に聴き通すほどまでの魅力を感じていなかった。オペラのストーリーは情熱の女「カルメン」、優柔不断な兵士「ホセ」、清楚な娘「ミカエラ」を中心に繰り広げられる、喧嘩あり、牢獄あり、殺人事件あり、とどちらかと言えば男女のドタバタ劇であるが、実際に歌劇場で実演を見つつ聴くとやはり違うものがある。十分に芸術性豊かだと思った。目は舞台の登場人物に、耳はホール一日に心地よく響くオーケストラの音に釘付けになり、約2時間半、集中して聴くことが出来た。この演奏を聴いた後、家でCDでこの曲を聴く機会はこの20年間の間に僅か2-3回しかないが、記憶に残っている舞台の模様が思い出される。演奏そのもの、聴きながら抱いた演奏の細かい印象等の殆どはもう失われてしまったが、視覚から入った記憶は随分長く残るものである。

 この演奏の後、ガイドは短時間であったが一行を、繁華街のビアホールに連れて行ってくれた。ここは別世界であった。夜も更けたというのに中年の労働者風の方々が大勢、大声で語りながら大きなジョッキでビールを、ソーセージ等を楽しんでいる。良く雑誌等でみるあの光景である。中肉中背で痩せたヒトは殆ど居ない。実に陽気である。日本と違うのはジョッキであり、透明なガラス製のものはなく白を基調とした陶器製で、色とりどりのプリントが施され、金属の蓋が付いているものであった。小さなジョッキを取って呑んでみたが、味は濃厚で、日本の淡泊なビールしか知らない私の口には合わなかった。

 歴史と音楽、ビールの街 ミュンヘン (3) 歌劇「魔弾の射手」

 ミュンヘン国立歌劇場、二日目のオペラ観劇はウエーバー「魔弾の射手」であった。座席は一階の中央にまえから5列目ほどの、ほぼ特等席に近いところであった。舞台全景を正面に見ることが出来たが、演奏者は指揮者の頭だけであった。

 魔弾の射手は、ドイツロマン派オペラの確立に決定的な役割を果たした不朽の名作で、私はこの作品がとても好きである。人の不安、喜び、猜疑心などの心理描写が見事なオーケストレーションで音として表現されている上に、舞台があってそれに相応しい演出、演技があれば最高となる。物語自体は単純明快、御前射撃大会で若い狩人マックスは優勝すれば恋仲のアガーテと結婚できることになっているが、自信がないために、悪魔に魂を売って魔弾を手に入れようとする・・というもの。

 

 特に、森の深い谷間のシーンでは妖しげな死霊、妖怪が飛び交い、不気味な叫び声をあげ、馬の嘶きが不気味に響く中を、マックスが魔弾を1つずつ鋳造する声が谷間にこだまする。嵐が次第に強くなっていくところなど、オペラでなければ到底味わえない情景である。聴いていて観ていてどんどんと引き込まれていった。見事な演奏で、登場する大勢の合唱団も一人一人が演技をしている。終わった後もしばし呆然とし、はるばる本場の味を味わうためにヨーロッパまで出かけてきた価値は十二分にあった、感じ入った。

 

 ここでの指揮者や舞台上の出演者達については私が知っている名前は一人もいなかった。しかし、これこそ本場の層の厚さであり、演出者、演奏家、ホール、観客一体となっての総合芸術だと感じ取れた。有名歌劇場の東京公演とは全然異なる印象を受けた。

 翌日、早朝にバスでリンツ、ザルツブルグを経由してウイーンに向かった。次は、いよいよお目当てのウイーン国立歌劇場である。

 モーツアルト生誕の街「ザルツブルグ」 残念、昼食だけ

 ミュンヘンを早朝に発ったように記憶する。バスはまだ雪を残す高地をひたすら走り、午後にザルツブルグに立ち寄った。

 ザルツブルグオーストリア中北部,ドイツとの国境近くにある都市で、昔から塩(ザルツ)の産地として栄えた。モーツァルト生誕の地で、毎年催されるザルツブルク音楽祭は、この町の観光面ではクライマックスとなる。また、バロック様式やルネサンス様式の華麗な建築物が多く保存され、"北のローマ"とも呼ばれる美しい町である。現在も主要産業の一つが楽器製作とのことで、いかにも音楽と密接な街らしい。

 

 音楽祭の期間は、7月下旬から8月下旬で私どもはオフシーズンであったために名所を若干めぐったあと昼食を摂っただけであった。

 

 殆ど滞在時間がとれず、外観を見る程度だったので殆ど忘れてしまったが、大司教の住まいであった宮殿「レジデンツ」、街のシンボル的存在でガイドブックには必ず写真入りで紹介されている「ホーエンザルツブルグ城」,「モーツアルトの生家」ぐらいである。

 

 この街を通過しながら、別な機会を得てゆっくり訪れようと決心した。次の機会と言えばこれから雇っていただくことになった中通病院を退職するとき、3-4年先か、と思っていた。その時は是非ともザルツブルク音楽祭の時期にしようと決心した。実際の所、中通病院でそのまま働き続けることになったために機会を失したが、その思いはずっと持ち続けていて、還暦を迎えんとした2年前には真剣に退職とザルツブルク再訪問を考えた時期もある。この思いも実現できないまま現在に至っている。まだ希望は失っていない。

 

リンツを通過 ブルックナーに想いを馳せる

 バスはザルツブルグから高地をしばらく走った。緩やかな丘陵地帯が延々と続く。牧草なのだろうか、緑一面、絨毯の如くでとても美しかった。やがてバスはリンツを通過した。

 リンツはウイーンの西方約160Kmに位置する州都で、中世には商業都市、河港として発達し、18世紀後半からは美術、音楽、絵画の諸学校や劇場、図書館等を有する文化の中心地になった、とのことである。

 リンツと言えばモーツアルトの交響曲No36の名称にもなっていて親しみやすいが、私にとってはブルックナーとの関係で親しみを覚えている街である。 

 

 私はブルックナーの音楽がとても好きだ。ブルックナーがオルガン奏者として生涯奉職し、没後はその床下に埋葬されたとされる、何とかという協会も遠景ながら見ることが出来、感無量であった。

 

 アントン・ブルックナー1824年生れ。教師であったらしいが、30歳を過ぎてから音楽家として立つ決心を固めた。たゆまぬ努力によって不器用さと鈍さを克服しながら勉強を続け、リンツの大聖堂オルガン奏者に任ぜられた、と言う。

 1868年にはウィーンの音楽院で教授となったがウイーンでは彼は風変わりな田舎者、音楽の面では外様扱いであったという。既に三つのミサ曲、交響曲第一番も完成していたが、ほとんど認められることもないばかりか、新聞では酷評され物笑いの種にまでなったともされ、精神的にも大きな打撃を受けたらしい。その様な逆境の中、失意の中でもめげずに次々と交響曲を作曲していったところがスゴイ。

 

 ブルックナーが9曲にもわたって巨大な交響曲を執拗に追い求めた気迫、精神力には彼に関する文献や伝記を読めば読むほど驚かされる。「ブルックナーは9回も改訂版を作曲し続けた」等という冗談も聞かれるほど9曲は共通の響きを伴って壮大に奏でられる。ベートーヴェンの9曲の交響曲とは在りようがぜんぜん異なっている。彼の曲には音楽的には数々の欠点が挙げられると言うが、彼のまじめさ、敬虐なカトリックの世界観に根ざす深い精神性、それにオーストリアの自然が、音楽を崇高で独創的なものとしている。彼は恐らく、生涯を通じて「彼の、何か」を表現したかったのであろう、と思う。果たして表現できたのであろうか。

 

 一方では、彼は対社会的にはとても小心で目立つことは好まず、自己主張も殆どしなかった、とのことである。自作の曲を演奏するために懇願されて指揮台に立たせられた彼が、何時までも開始の棒を振り下ろさないのでコンサートマスターがどうしたのかと問うたら、「どうぞ、どうぞ、みなさんで勝手に始めて下さい。私は何とか合わせますから・・」といったエピソードは数々あるが、私は共感を覚える。

 

 私はブルックナーの人となりがとても好きだし、彼に自分を重ね合わせて見ることもある。特に気の小ささ、世渡りの不器用さ、ヒトの意見に惑わされて悩む彼の苦悩、逡巡し続ける彼の性格、姿には、一部ながら共通点を感じるし、とても親しみを覚えてしまう。

 しかし、このことを誰に話してもぜんぜん信じてくれないどころか呆れられる。

 

ウイーン国立歌劇場第一夜、シノポリ指揮 ヴェルディ「マクベス」

ウイーン国立歌劇場での観劇は私にとって夢にまで見た機会である。高校生の頃から興味を抱いてきたが、ついにその時が来た。当日は早く夜になるのを心待ちにしつつ、歌劇場を外から眺め、午前、午後とリンクやその周辺にある庭園、美術館で時間をゆっくり過ごし、夕方に大きな期待で歌劇場に出かけた。

 今回のオペラツアーのウイーン国立歌劇場での初日はジュゼッペ・シノポリ指揮のヴェルディの名作「マクベス」であった。

 シノポリは精神科医で、作曲家、指揮者でもある。彼は何度も来日しており、「音楽の友」誌の対談の中で「私は精神分析学を学んでいた。だから作曲家の複雑な心理をも表現したいのだ」と述べていた。その面では私にとっても興味深い指揮者であった。マーラーの交響曲第2番「復活」は私の大好きな曲の一つで数種類の録音を所持しているが、最も取り出す機会が高いのは彼のCDである。ただし、彼の言う、作曲家の複雑な心理がそのように表現されているのかは、仕事をしながら聴く範囲では見つけられなかった。

 それだけオペラなら何かがあるハズだとの期待感も大きかった。特にこの作品は登場人物の疑惑、探り合い、憎しみ合いなどの心情の変化などが豊に表現されるはずの作品である。その意味で待ちに待った開始である。

 シノポリの振ったマクベス、私には最高の出来のような気がした。そんな気分で約2時間半集中した。音楽の構成は堅固で迫力十分、オケの質感等々、感じた印象はいろいろあるが、細かいことは別にしても、オペラは作品、会場、聴衆、演奏家、演出家、衣装、舞台だけでなく、その国、地方の歴史、文化が織りなしている総合芸術なのだ、ということを実際に実感として味わうことができた。東京で聴いた引っ越し公演に満足しつつも、何かが足りない、こんなハズはないと感じていた疑問はハンブルグ、ミュンヘン、ウイーンのオペラハウスで消失した。

 私は通常はレコード、CD、LD等でしかオペラを楽しむことは出来ない。それでも随分恵まれている、と自覚できたことも、ホンの一部ではあるが本場の歌劇場をを訪れたことの収穫の一つである。

 後日、シノポリ指揮「マクベス」のCDを購入した。オケはベルリン・ドイツ歌劇場管弦楽団であるが、聴く度毎にあの夜の情景が浮かんでくる。また、シノポリは数年前にドレスデン国立歌劇場で練習中に心臓発作で急逝した。健康管理までは心が及ばなかったのであろうか。

ウイーン国立歌劇場(2)プライ主演のニュルンベルクのマイスタージンガー

 ドイツのバリトン歌手であるヘルマン・プライはちょうど私がオーディオやレコードにかなりエネルギーとお金を費やしていた頃、F・ディースカウと並ぶ代表的リート歌手であった。常にライバルとしてF・ディースカウと比べられる不運はあったが、細めの美声で歌われる温かな歌曲などは、あまりにも完成度が高かったF=ディースカウとはまた別の魅力があり、世界中に多くのファンを持っていた。

 私自身はF・ディースカウの録音よりもプライの録音の方を多く買い求めて聴いていた。

 レコードジャケットによると、プライは1929年ベルリンに生まれ、52年ニュルンベルクでのマイスター声楽コンクール第1位となり、この年にはオペラ・デビュー、57年ウィーン国立歌劇場に「セビリアの理髪師」でデビューし、名声を確立、その後、世界中の歌劇場で歌った。81年にはバイロイト音楽祭で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のベックメッサー役で絶賛されたとのことである。親日家として知られ数多く来日した。2年ほど前に他界した。

 ウイーン国立歌劇場のオペラ第2夜はプライの主演による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」であった。世界でも有数の歌手の声を直接聴けると言うことでこれも楽しみの一夜であった。オペラ自体はヴァルターと言う地方の貴族が恋人エヴァと結婚するために、歌合戦に勝つべく靴屋で歌名人のハンス・ザックスの提言を受け見事優勝する、という他愛のない筋書きである。指揮者とか他の歌手達の名前はすっかり失念した。ワーグナーの舞台はヴェルディのそれと比較すれば動きが少ない。音楽としてのスケールは大きいが、視覚的にそれほど目を惹くものではない。

 この曲は途中の2回の休憩を挟むと優に5時間を要した。長丁場となるので開始は16:30頃であった。舞台を観ていても大部分が靴屋の店先の場面でさっぱり楽しくないから、プライ他の歌手の美声とウイーン国立歌劇場管弦楽団の奏でる音に身を任せて、1/3程はウトウトして過ごした。もう少し集中して聴いておけば良かった、と今思っている。

 

ウイーン国立歌劇場(3)バレー「エフゲニー・オネーギン」

 ウイーン国立歌劇場第三夜はチャイコフスキー作曲のバレー「エフゲニオネーギン」であった。チケットを予約する際に他の、例えばフォルクスオーパー劇場等のオペラを聴くコースもあったが、それまで国際的なバレー団の公演を直接見たことがなかったためにあえてバレーを観ることとした。

 内容的にはチャイコフスキー作曲の歌劇「エフゲニオネーギン」は曲としてはレコード等で親しんでいたから、国立歌劇場管弦楽団の音色を十分に味わうことが出来た。バレーそのものは私にとっては目的ではなかったが、オペラの内容にぼぼそった演出であることはまず当然としても、声や言葉を一切用いずに踊りとボディアクションだけで物語りそのものや登場人物の心理描写を表現するあたり大変な技術だ、と感心した。

 私はオペラの鑑賞はレコード中心であって。その際もあらすじとか台詞などを追いつつ聴いたことは殆どない。殆ど音だけの世界であった。だから、あらすじもろくに知らない私にとってはバレーであっても、オペラであってもハッキリ言って大差ない。曲として知っているだけで、曲として楽しむだけである。当夜もウイーン国立歌劇場管弦楽団のホームグラウンドでの演奏を十二分に堪能できた。バレー団の名称、指揮者名などは全く失念した。コンサートマスターはR・キュッヒル氏であったことは覚えている。

 ウイーン国立歌劇場の舞台は奥行きが約50mもあるのだそうだ。だから、演出や団員の配置等には余裕があって持てる力が十分に発揮できている印象であった。バレー団や歌劇場の来日公演の際には舞台が狭いせいか、何か舞台のセッティングが不十分ではないか?と感じたほかに、出演者の動きも狭められてぎこちないような場面もあるとの印象を持っていた。さすが専用のオペラハウスの規模は大きく違うものだと認識した。

 

ウイーン国立歌劇場(4)最終夜 R.シュトラウス「エレクトラ」

 ウイーン国立歌劇場第4夜はわれわれの観劇ツアーにとって最終日。演目はR.シュトラウスが作曲した「エレクトラ」であった。R.シュトラウスは、1864年ミュンヘン生の作曲家で生前は指揮者としても活躍した。

 歌劇「エレクトラ」は劇作家で詩人のホフマンスタールの戯曲「エレクトラ」によっているが、この「エレクトラ」をきっかけに、両人の交友関係が親密となり、ホフマンスタールは、後に「ばらの騎士」、「ナクソス島のアリアドネ」、「影なき女」、「エジプトのヘレナ」、それに「アラベラ」などの台本を、シュトラウスに提供している。これらはすべて近年の名作として各地の歌劇場において上演され続けている。

 1980年のウイーン国立歌劇場の日本公演はK.ベーム、H.シュタイン、T.グシュルバウアーの指揮の下に「フィガロ」「ナクソス島のアリアドネ」等が上演され、私はこの時にはB.クロブチャールの指揮の下に「サロメ」を聴き、えらく感心したが、この時も「エレクトラ」も上演曲目の一つであった。

 R.シュトラウスは私の好きな作曲家の一人で、本場で聴けるだけで十分なので「エレクトラ」については殆ど準備もしていなかった。歌劇場管弦楽団の絢爛たる音色と豪華な舞台を十分堪能でき、十分満足した。今ならまた別な楽しみ方が出来るだろう。

 ウイーンには5夜滞在しそのうち4夜を国立歌劇場でオペラとバレエを楽しめたのであるが、このようにウイーンに短期間の滞在ならば毎晩国立歌劇場に出かけても全く別の作品を楽しむことができるような仕組みになっている、が実に驚きである。一講演の舞台の装置・演出は大変なものだと思うが、次の夜には100%新しい舞台に置き換わっている。これはウイーンが観光に力を入れているからだという。確かに、1980年の引っ越し公演の場合にはNHKホール、東京文化会館、神奈川県民ホールの3ヶ所を用い、同じ演目が複数日連続していた。舞台の模様替えが効率的に出来なかったための策だったのであろう。 

 翌日の午前、ウイーン→ロンドン→アンカレッジ→成田のコースで帰国した。夕方上野に着いたが、22:00発の寝台特急「あけぼの」迄の時間待ちを東京文化会館の小ホールで若手のヴァイオリンリサイタルを聴いて過ごしたが、時差ボケのために殆ど寝て過ごした。お名前すら記憶に残っていないが、演奏家には申し訳ないことをした。

 

子供が出来るくらいだから、まだまだ大丈夫だよ・・とS教授

 秋田大学第三内科の初代教授は物静かな方であったが、仕事の面ではかなり精力的に進める方であった。そのため私も厚生省難病対策研究班の仕事や学会のシンポジストなどの機会をいろいろ与えていただき良い経験が出来た。

 昭和53年頃、第三内科は発足後やっと軌道に乗り始めたばかりで新卒の医局員も迎え充実しつつある大事な時期でもあり、診療や研究、学生指導やスタッフの指導など多忙で医局員はほぼ常に全開状態で仕事をしなければならなかった。私は、朝は大体7:00頃出勤、19:00頃に家内を病院に迎えに行き、家内の叔母宅に子供を迎えに行き、叔母が用意しておいた夕食を摂り、入浴させ、寝かせつけてから21:00頃に再度医局に戻り、1:00頃まで業務をこなしていた状態で、常に寝不足状態で、殆ど時間的に余裕はなかった。

 この頃、教授は臨床血液学会のシンポジウムのシンポジストを引き受けてこられ、私が担当することになったために更に更に大変になった。時間的に一層窮屈になったことと学会のシンポジストとしてのプレッシャーで心身共に疲弊し、時には体調も崩れることもあった。

 家内と教授が何かの会で同席する事があり、家内が教授に挨拶をした際に私の健康のことを心配している、と述べたらしい。その時、教授は家内のふくれた腹部をちらっと見てニコッと笑い、「大学で彼は元気にしてます。3人目も出来るようならまだまだ大丈夫ですよ。心配要りません、もっと仕事をして貰います・・・」と言われたとのことで、妙に力づけられてしまった、とガックリ来ていた。なかなか旨いことを言われたものだと感心したが、仕事上のストレスとそちらは別物である。

 その後、私も若干時間のやりくりをして早めに帰るようには心がけたが、ホントに当時から現在に至るまで結構時間的にはきつい生活をし続けてきたものだと思う。? その時に家内の腹にいたのが次男で、いま私と同じ病院で外科医として働いている。光陰矢のごとし、である。

8人の子供達にパパと呼ばれた  充実していた子育ての時期 

 大学で勉強していた期間はちょうど子育ての時期でもあった。私どもは3人の子供に恵まれ5人家族となった。

 やがて、賄い・子育ての大部分担ってくれていた家内の叔母が通いでは何ともならない、と二人の娘と共に同居した。組合病院の官舎では手狭になったことなどがあって、昭和54年夏、54坪ほどのプレハブを建てて現在地に転居した。ここには既に数年前から家内の姉が3人の子供と共に家を建てて住んでいたから、同じ敷地内に大人4人、子供が8人住むことになった。

 私は幼少の頃は医院の従業員、お手伝いさんも含む大勢の中で育ったこともあって大所帯は嫌と言うわけではない。特に子育てには出来るだけ大勢が関わるべきだ、と思っており、いろいろな経緯はあったが、結果的に希望が実現できたことになる。男の大人は私一人であり、小中学生、から乳飲み子まで年齢は様々であったが、やがて子供達全員からパパと呼ばれる事となった。私も出来る限り自分の子ども達と分け隔てがないように接する様に努めた。だから、何処かに出かけるときなどは大勢の子どもを引き連れて出かけたものである。

 

 引っ越しして何年間かは近くにスーパーもなかったために、日曜毎に賄いの叔母さんと5-6人の子どもを引き連れて土崎のジャスコを中心に方々の店に買い出しに出かけたものである。私は今でもそうであるが、風采の上がらぬラフな姿をしているのが好きだったこともあって、「はるか年上の女房と子沢山の、生活苦にあえぐ哀れな男」と誤解されたらしく、店員や客達から時々憐憫の眼差しが私に向けられたような気がしてならない。

 ある時、医局の後輩と子ども7人を連れて2台の車に分乗して田沢湖スキー場に出かけた。子ども達を飽きないように代わるがわる交代させて分乗させたが、彼は全員にパパと呼ばれる私の立場、わが家の家族関係を最期まで理解できなかったようである。

 その頃からもう20数年経つ。懐かしい日々であった。今は若者達は各々独立し、叔母さんも別棟に移ったからわが家は夫婦二人になった。わが家の子ども達3人は機会があれば戻ってくるし、一緒に育った子ども達も私から見て義理の孫にあたると言うわけではないが、時折2世を連れて一家揃って顔を出す。

 これまたちょっとした至福の時間でもある。

 

家族が増え、マツダルーチェセダンを購入 
 賄いの叔母さんが娘二人を連れて同居した頃、使っていたマツダグランドファミリア1300が不調となった。元もとマイナーなトラブルは繰り返していたが、ディーラーの修理工場の一人の技師が主治医の如くに担当してくれ、何とか使い続けていた。秋大病院に通勤するルートとして近道を選べば秋田高校脇を通り、手形山の坂道を上る必要があったが、ある日、エンジンの出力低下があり、あえぎあえぎ、やっと登ったが、この調子では困るので再度修理工場に持ち込んだ。今度は大がかりなエンジントラブルで解体修理が必要とのことであった。折しも、同居家族も増えて移動のためにやや大きめの車が必要、と考えていたので今回は諦めることとした。

 技師に事情を説明したところ、数日前に青森から入庫したルーチェセダンの新古車を勧めてくれた。陸送時に230Km走っただけの新車であるが、事情で中古車扱いなのだそうだ。

 東洋工業にはロータリーエンジンを搭載したルーチェと言う名の上級車はあったものの高級車のイメージを持つ車はなかった。成長期にあった東洋工業はこのルーチェに、当時のクラウンに匹敵するサイズと装備を盛り込み1977年にルーチェレガートとして発売した。この車は、縦型四灯と大きな長方形グリルを持ち、フォーマルな設計指向で作られ、優美な姿を持っていた。実力的には13B型のロータリーエンジンの効果でクラウンをしのぐ動力性能と静粛性を備えていたとの評価もあった。メーカーとしては官公庁、大型企業の公用車としての採用も視野に入れていたというが、東洋工業の車がその方面に採用されていた実績が皆無だったために、クラウン、セドリックに代わるまでには至らず、タクシーに採用されるにとどまった、とされている。

 どちらにせよ、私にとってはサイズ的にも値段の面でも願ったりの車であったので、迷わずその場で購入を決めた。良い車ではあったが、実際には雪国にはあまり相応しくない車であった。

 

トランクにも子供を乗せた  

 車のディーラーは一定数販売するとメーカーから報奨金を貰えるとのことで、あと1-2台程度でその定数に達しそうな場合にはディーラーまたは職員が購入したことにして販売手続きし、車はそのまま中古車市場に卸すといった方法もとったのだと言う。その際には目立たぬように他県のディーラーの中古車販売網に乗せたらしい。私の購入したルーチェはその扱いの車らしく、2週間ほど前の初登録、青森からの移動の僅か250Km程度の走行距離で新車そのものであった。これで、80万円ほどの値引きで購入できたから、マア、掘り出し物と言える車であった。

 当時のレシプロエンジン車に比較して13B型のロータリーエンジンを積んだ このモデルの静粛性は驚くほどであり、エンジンがかかっていることを忘れてスターターを回したことも何度もあった。更に、5段のマニュアル変速であったが、クラッチはオートマチックと同じ原理とのことで、ニュートラル以外のギア位置でもクラッチペダルを踏まずに停止することが出来た。このメカはスムーズな発進と振動の抑制、静粛性のためとのことであるが、燃料消費には確実に悪影響があっただろう。日常の使用では4-5Km/L程度で、70L満タンにしても盛岡往復でほぼ空になるほどであった。

 この車を所持していた時の心の傷は昨年のPrius購入の遠因になっている。

 殆どの装備は電動アシスト付きで種々のセンサーも搭載された先進的なものであったが、後にはこれ他の故障に悩まされることになった。

 5人乗りであったが、我が家では8人家族であったから、私と子供達だけの場合には何とかなったが、隣の子どもも乗るときとか、大人が複数の時には子供を二人トランクに入れて移動した。トランクは広く、ここに幼児用の布団を敷き、換気のために蓋を若干開けて内側から紐で固定して走った。子ども達も結構喜んでトランクに乗ったものであるが、今から見れば危険なことであったと自省している。当時からワンボックスカーと言われるものはあったから、それを選べば良かったわけだが、その頃のは商用車の乗用車バージョンで魅力が無く、日常の通勤には不適だったので選択肢外であった。

 

 

第二次オイルショックの影響いろいろ

 わが家の子ども達にとっても成長期にはこの車で過ごしたからそれなりの思い出はみんな持っていると思う。私自身も同様でいろいろ悩み、かつ楽しんだ。

 その中で第二次オイルショック時にどう乗り切るかをいろいろ考えた事が今となれば懐かしい。

 第一次オイルショックは宮古時代に迎えた。1973年に第四次中東戦争が勃発。翌年の国内の消費者物価指数は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれ、トイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動が生じた。当時ガソリンは40-50/L、灯油は18L250円ほどであったが、その後、各々100円前後、700円前後と高騰しこれが通常価格として固定した。当然、日本の経済は大打撃を受け、夜間のネオンなど自粛されたが、当時日本は力強い成長期にあり、この難関を見事に乗り切った。

 第二次オイルショックは1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は影響をもろに受けた。ガソリンは一時168/L程になったが、間もなくイランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。日本の経済は第一次オイルショックの経験もあってかそれほど打撃を受けることなく乗り切った。その頃のわが国の活力は今思い出してもすごかったと思う。

 この間、私は友人からマツダのシャンテという軽自動車を譲ってもらい、一人で移動するときはもっぱらこれを用いてしのいでいた。360ccでも結構良く走るし、小さい車は小回りも利いて運転も楽しいものであった。

 車が二台あると言うことは実に便利であり、それまで免許取得などに興味を持たなかった家内が免許を取得し、私は家内の送迎という時間的にも物理的にも不便であった生活から7年目にして解放されることになる。

 しばらくシャンテで路上運転を練習させ、家内用に降雪時の便宜を優先してスバルの4WDレオーネ1300の中古を購入した。当時は4WDはジープくらいしかなく、乗用車版は極めて少数で、今から見ると黎明期のメカで問題も多かったが、冬場の車としての機能はFRのルーチェとは比較にならないほど優れていた。

 マツダシャンテはその後ディーラーの若いエンジニアに貰われていった。? 各々車を持ち、送迎や待ち合わせ等の時間調整が不要になった意義はとてつもなく大きいが、これを機会に家内は「家内」から「自由人」に変身した。

マツダ・シャンテ(gazoo.com名車列伝より)

ルーチェ・レガート

 

198556日朝、ヨーロッパオペラツアーから帰宅、荷物置きそのまま中通病院に初出勤

 大学を辞すにあたり貯まっていた年休を利用して移動日を入れて2週間の行程のヨーロッパオペラツアーに参加した。医師としての方向転換のための気持ちの切り替えのためにも有意義だったし、連日連夜ドイツ・オーストリア圏の文化、歴史、音楽に触れることが出来てほぼ満足した。最大の収穫はヨーロッパ自体に関心が深まったことで、その効果は今に至るまで十二分に生きている。その意味ではかけた時間以上の、持続的な大きな収穫となった。

 55日午後に成田に到着、東京文化会館で時間を費やし、寝台特急あけぼので帰秋した。次の勤務である中通病院には6日朝からの出勤することになっていたから結構タイトな時間配分の旅程であった。

 6:30秋田駅に到着、家に戻り一風呂浴びて病院に向かった。そういえば車を何処に止めればいいのか、何時何処に行けばいいのか、一切連絡を受けていない事に気づいた。ホントに出勤して良かったのかな?と疑問もよぎったがこれは杞憂であった。

 生活環境や就業環境が変わるときには期待と不安とが入り交じるものであるが、初出勤時に受けた印象はどちらでもなく、今までに味わったことのない、得体の知れない居心地の悪さ、とでも表現すべき異様な印象、感覚であった。一時的な、個人的な感覚かなと思ったが、結果的に数年間も抱き続けたし、当時とは比較にならぬほど薄れてきているが、一部は現在に至るまで持ち続けている。一体何なんだろうかと今でも思う。


自伝 中通病院時代(1985〜)へつづく








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