初出勤日の印象はあまり良いとは言えなかった
新しく勤務先の病院が変わるときには期待と不安とが入り交じるものである。多少緊張しつつ、遅れてはなるまいと、摂るものもとらず始業の1時間ほど早めに病院に行った。車の置き場は病院の周りを回って見たが置くに相応しいところは無く、とりあえず地下の有料駐車場に入れた。係員は随分ぶっきらぼうな応対であった。暗く、一台あたりのスペースは随分狭いとの印象を受けた。
医局に行ってみたが医局の秘書らしい人もおらず、当然であるが当面の居場所も全く分からない。紹介もされていないのに医局談話室でポツンと待つのも違和感がある。誰かが入ってきたらどう対応すればいいのだろうか、などと考えつつ5分ほど座っていたが、なんかしっくり来ない。結局、内科の待合室の後ろの席で時間を潰した。
始業の10分ほど前に医局に行ったところ医局秘書と思われる事務員が出勤しており、ロッカーと医局の机が与えられた。9時過ぎに事務長に紹介しますのでお待ち下さいという。この病院では医局は基本的に大部屋に多人数が机を並べる様になっているらしく私の机は中堅医師10人用の部屋であった。
医師が次々と出勤してきたが、内科で私の上司となるお一人を除くと面識は全くない方々である。一人ずつ初対面の挨拶をしたが、殆どの方々は対応、返事が駐車場の係員の印象と同様、実にぶっきらぼうである。通り一遍の挨拶の他は何ら言葉を交わすこともなく、それぞれそそくさと白衣に着替えて業務に散っていった。何かしら妙な、あたかも私は歓迎されざる医師なのか?との印象を受けた。何事も先入観は持つと誤解の元になりやすいが、後になって分かったことはそれほど意味があるわけではなく、愛想に欠けるのはこの病院の中堅どころの医師の一般的な姿なのだ、と理解できた。そそくさと出ていったのはぎりぎりの出勤で、時間的な余裕がなかったためだったのだろう。
事務長は実ににこやかに迎えてくれた。何を話したかは忘れたが、「兎に角、みんなと仲良くやって下さい・・」と二度ばかり繰り返されたが「どういう事?何か変な情報が先行しているのでは?」と訝ったことのみ記憶に残っている。
医師用駐車場も指定していただいたが、車をそこに移すのを忘れていた。帰宅時に駐車場料金を1550円支払った。
私にとって息苦しかった医局
私の机は中堅医師10人用の部屋で、かつ机の場所は真ん中であった。徐々に馴れたとは言っても、物理的に狭いこと、かつ同室の医師達の間に殆ど会話らしきものがない、異様な雰囲気があって、私は息苦しさを感じた。好きなようにレイアウトし、ストレス解消のオアシスとして時間があれば自分の机に向かっているのを好む私にとって正直言って大変な環境であった。新人でもあり、朝には私の方から殆どの医師に対して挨拶をしたが、はっきりとした反応さえ示さない医師が10名近くはいた。これは何なんだ、何という雰囲気か、と言うのが赴任直後の私の偽らざる印象であった。
診療科としては内科で赴任時は私を入れて4名のスタッフで、先輩内科科長、呼吸器科科長、卒後3年目の研修医であったと思う。研修医は6月に大学病院に戻る予定となっていた。私は肩書き不要、内科医で良いと申し出ていたが辞令は内科科長であった。
着任翌日から診療としては、午前外来は週に3回と診療所への出張診療が1回、入院患者としては7階の内科病棟の患者数人の担当が決まっていた。
実際に診療内容そのものにそう大きな差があるものではないが、高齢者が多いこと、いわゆる社会的弱者と言われる、いろいろな問題を抱えた患者が多いことは驚きであった。既に十分に人生のターミナルに達っしている、と思われる入院患者に果たしてどんな治療、対応すればいいのか、迷った事も少なくなかった。ここでは疾病の治療だけでは不十分であった。このことなどから今まで殆ど関心のなかった医療・福祉制度への関心が徐々に高まっていった。
一方、着任当初から、如何にして医局でのストレスを減らすべきかを考え始めたが、当たり前の時間帯とずらして仕事を進めるのが一番と、回診時間その他を調整し、出勤時間、帰宅時間も調整した。仕事が混んでくるようになってからは一旦早めに帰宅し、再出勤することも希でなかった。
とにかく赴任直後は、得も言われぬ違和感の中で過ごした事のみが思い出されてならない。
外来での印象(1)
赴任直後から週3回ほど内科の午前外来と検診、院外の診療所への出張診療がそれぞれ一回ずつ割り当てられていた。
外来は待合室を含め全体に狭く、診察室はいろいろな小物によって雑然としていた。診察室の作りは所々にパーテーションはあるものの基本的にはカーテンで仕切られており、時代柄もあったとはいえ、プライバシーへの配慮は殆ど無きに等しかった。しかし、隣の医師の診療が全部聞こえるたから、私にとってはすごく勉強になった。
医師の診察机は古い木製の事務机で大小様々、その上にレントゲン読影用のシャーカステンが置かれ、汚くなった菓子箱に筆記用具、印鑑、舌圧し、懐中電灯等が雑然とおかれ、B5版の外来カルテを開くと机上には全く余裕がなかった。私は机が狭いと思考まで停止するのでこの点は辛いものがあった。診察用ベットも木製で、ビニールのカバーには亀裂が入り、薄汚く汚れ、歴史を感じさせるものであった。
患者層としては高齢者が多いこと、社会的に種々の困難を抱えている患者が多いこと、自分の病気のためだけではなく、中通病院への期待、結びつきがとても根強いものを感じた。これが、この病院の歴史の積み重ねの結果なのだと言うことを実感し驚きもした。
内科外来を担当しているスタッフ達、医師も看護師も患者に対してあたかも知人に接する如くとても親切に接していた。ここでは医療従事者と患者との間の溝、差は無い、とまでいうと嘘になるが他の医療機関でのイメージとは大きく異なるものがあった。医師達は患者に対しよく話しをし、病状をよく説明をすることには感心した。特に生活上のアドバイスをきちんと行うことは私にとっては驚きでもあった。看護師達も患者に対してのとても優しく対応するのには感心した。
システム上でまず驚いたのは県内ではまだ殆ど普及していなかったが、既に院外処方箋を発行していたこと、医事課の処理が分割方式をとっていたことで、診療終了後近くのカウンターで検査伝票、処方箋、会計伝票を発行し、最終的にはメインホールの会計カウンターで支払いを済ませるもので、事務処理を能率的に行い、患者の待ち時間を減らす仕組みだと言うことであった。また、外来マネージャーと称する外来の庶務担当と言うべき事務職員が配置されていることで、その業務内容は重要ではあるが当時からつい最近までマネージャーと呼ぶことについて私はずっと違和感を感じてきた。最近やっと慣れた。
耐え難い「◎◎先生の患者」と言う表現
外来を担当して感じた違和感にはいろいろあったが、その中で私にとって最も耐え難かったのは外来診察時の患者の呼び方であった。各診察室前で看護師達は「◎◎先生の患者さんをお呼びします。○○さーん」と各診察室で患者を呼び込んでいた。まるで患者を各医師が私物化している、と思える雰囲気を呈していた。まさにそのような考えを持っている医師も少なくなかったようである。
私はそれまで医療機関の中での一人の医師として働いてきた。
常に患者は大事な病院の利用者であり、全てのスタッフにとっての共通の財産であり、各患者に対してその医療機関として英知を集めて診断・治療に当たるもの、その中で主治医が責任者として担当しているもの、と思ってきたし、それは今でも全く変わりない。
だから、私には「◎◎先生の患者」という考え方は一切無いし、「私の患者」と言う考え方も一切無い。「中通病院を利用している患者で、私が主治医として担当している方」と言うことである。 私は直ちに外来マネージャーに、外来診察時の呼び方を「一診の患者さん」.「二診の患者さん」・・を変えてもうよう申し出た。私の前の呼び方はその日から変わったが、外来に浸透していくのに数ヶ月を要した。外来診療部会で検討されたと言うが、実際にはかなりの抵抗があったと関係者が後日話していた。その理由の一つが考え方の正否でなく「新参者からの提起であったこと」だったという。充分有り得ることであった。
病院を選ぶのも、外来で診察医を選ぶのも本来患者の自由である。だから、「◎◎先生の患者」等あり得ないし、逆に患者間で「私は◎◎先生の患者」と言う妙なブランド意識も生じてくる。
「◎◎先生の患者」と言う考え方に関連して私には過去に苦い思い出がある。かつて上司であったある
医師が他の病院に赴任する際、自分の外来に通院していた患者を赴任先の病院に通院するよう紹介状を書いていたのに気付き、それが教授の許可の上であったので医局会の席で教授に異議を申し出た。その際、医局会の場は一時厳しい雰囲気になったが、私には上司に楯突いたと言う気持ちは一切無く、正しいと思ったことを述べただけであったが、結果的にはその様に見なされてしまったようである。
今でも病棟では「◎◎先生の患者」である。私は拘束の時などに「◎◎先生の患者が具合悪いので・・」、「◎◎先生の患者の処方が切れます・・」と言われた場合「◎◎先生の患者なら◎◎先生に連絡しなさい」と今でも言い続けている。「◎◎先生が担当している患者が・・」と言い直させてからは拘束医として必要な対応している。しかし、看護師達には私の真意は殆ど伝わらないようである。当初は「うるさいことを言うイヤな医者が来た」という扱いであった。言葉上はちょっとした差であるが総合病院の医療の原点に関わる重要な問題だと思っているから、私も譲らない。
病棟(1)患者層の違いで視野が開けた
着任当日から病棟業務としては、7階の内科病棟の患者数人の担当が決まっていた。何れも高齢の患者であった。病棟のスタッフは基本的に私を含め
4人で、これに卒後1-2年の研修医が1-2名、数ヶ月間ローテートして来るという体制であった。4人のスタッフのうちの一人は6月に大学医局に戻る予定となっていた。内科病棟、担当医師達の主たる守備範囲は血液、免疫疾患、呼吸器疾患、及び、領域不明の内科的疾患であった。
内科分野の、疾患を抱えた患者への診療内容そのものは何処の医療機関であってもそう大差があるものではない。その面ではあまり困惑することはなかった。赴任直後から、私が従来あまり受け持ってこなかった呼吸器疾患領域の患者も受け持つ事になった。この分野は私自身の経験不足、力不足もあったが、新しい分野への興味も沸き、それなりに意欲も持って勉強出来たし、私の手に負えなくなりそうなときは呼吸器内科科長にコンサルトし助けてもらった。
中通病院内科病棟には高齢者が多いこと、疾患に対する治療が終了しても帰る場所が無い患者、ベット上で寝たきりの患者、コミュニケーションがとれない患者、重度の痴呆患者、食事も全くとれず鼻から胃に流動食を流して生命を維持している患者、大きな褥瘡を形成している患者、その他、いわゆる社会的弱者と言われる、いろいろな問題を抱えた患者が多いことは驚きであった。この点ではホントにカルチャーショックを受けた。
この様な患者の多くは、抱えている原疾患に対する治療は既に終了していたり、あるいは治療することがそれほど意味を持たない状況であり、医師として何をしてあげればいいのか、ただ生命を維持してあげることなのか、毎朝回診しながら困惑させられたものである。
実際、このような患者に対しても看護師達の看護介護は直向きであり、医師達も積極的であって、この点でも驚かされた。また、当院のケースワーカーの働き、役割についても初めて知り、感心させられた。
このような人生のターミナル期にあるような患者を多数見て、診て、担当したことは、結果的に医療と社会、経済との関係、人権との関係など、私が従来全く考えてこなかった分野への興味を沸き立たせられることとなり、後の医師会活動への参加にも繋がっていった。良い機会が与えられたものである。
病棟(2)手抜き医療!!、と主任より抗議
患者層の違いと、私から見て既に人生のターミナル期にある患者達に対して、何故看護師達の看護介護はこれほど直向き、積極的なのか関心もしたし、驚かされた。医師の治療も同様に最後まで積極的であった。
私はそれまでの約15年の医師としての経験から、疾患の治療、患者の治療において手を尽くすべき時は患者が治療に反応して改善する余力があるとき、と思ってきたし、この時期に十二分の診断と治療を行っても改善させられず、進行性に状況が悪化して行くときは次第に治療方針を対症的治療に移して行くべしと考えていた。
特に、13年間学んだ秋田大学での医療はその前2年経験した一般病院の医療からみればより先進的であり高度であり、当然のことながらそれで救命できた患者、延命できた患者も少なくない。死を迎える事になる患者、救命できない疾患をも持った患者に対しても、考えられる最善と思われる治療方針をとっていたし、自分もそのような医療を行ってきた。しかし、次第にこれらの最善の治療、それが先進的で高度であるほど、一体誰のために行われているのかを考える様にもなってきた。家族の満足は得られたが、自分たちの自己満足のためではなかったのか、一番辛い思いをし苦しんだのは誰なのか、患者自身なのだ、と考えるようになり、次第に私自身を迷わせた。
中通病院赴任の頃にはほぼその考えに固まっており、急性疾患の患者は当然別であるが、長い経過の慢性疾患を持つ、特に高齢の患者については、ある時期から治療方針を治癒または寛解を目的とした治療から患者の苦痛をとる対症療法中心に切り替えた。最終的に死を迎える場面でも昇圧剤の使用とか蘇生は原則として行わなかった。点滴、注射、投薬を一切行わずに看取った患者もいた。死の場面、死に方をアレンジしてあげるのも医師の重要なつとめなのだ、と思っていたからである。勿論、この治療方針は家族の了解の基に行ったが、当時はなかなか了解を得ることは出来ず、やむなく気管内挿管、人工呼吸器装着も行った事も少なくはない。
両極端な例を挙げたが、私のこの様な治療方針は病棟の看護師たちには異様だったらしい。ある時、カンファレンスの際に一人の主任から「先生の医療は手抜きで納得できません!!」と厳しい抗議を受けた。 今、私は療養病棟を担当している。ここには人生のターミナルを迎えた患者も少なくない。その方々が生を終わるときに私は静かに送ってあげている。逝く患者にとってもこれで良いのだと思っているし、その様に送ってあげられるから、私にとって療養病棟は満足できる場となっている。
院外診療・業務に活路を見いだす
外来、入院と業務を通じて徐々に職員の方々とは親しくなってきたが、特に医局の中の立場は私の感覚では何となく入りこめないような違和感がずっと続いていた。これは確認したこともなかったから、私自身のみが勝手に感じてきたことなのかもしれないが、要するに外から迷入してきた異分子的な感覚である。この感覚は徐々に薄れてきてはいたし、今でも完全に払拭されたわけではないが、3-4年前まではかなり意識していた。
院長に働かせて欲しいとお願いした以上、最小限3年は頑張らねばなるまいと自分で決めていたから、数ヶ月後にはもう居直るしか方法はないのだ、と納得した。
中通病院では院外の業務として、検診、出張診療、港北診療所、不定期なものとしては農村調査、看護学校の講義、友の会の行事などがあったが、当時の記録を見れば、私は外来がないときにはこれらの業務にも頻回に割り当てられ、帰院後は更に午後外来などが割り当てられていた。かなり便利な駒的な存在だったのだ、と今は懐かしむ。業務配分は私から見てかなり不公平であり、疑問・不満がなかったわけではないが新人でもあるし、と割り切って従事した。弘前での野球大会があったある土曜日のこと、医局の若手が多数参加したために人手が足りないと言うことで、午前外来、午後外来、夜間外来と
9:00-22:00迄外来を担当したこともあったが、これは忘れられないサンプルの一つである。
院外の業務は医師の多くからはどちらかとして忌避される業務であったためか、私は担当の職員からは比較的大切に迎えられて、私にとっても院内とは別な気分の良い環境であった。最初は不定期であったが診療所の業務にも定期的に就くことになった。何でも続ければそれなりの成果は出てくるもので、地域の住民や患者、友の会のメンバーの方々から重宝されるようになってきた。
職員からは病院について情報収集に努め、徐々に病院や法人についての概要が理解出来るようになってきた。今から見れば、何も知らない状態で飛び込んだものだ。
民医連って何だ?
中通病院を選んだのは卒後研修から戻ってきた第3内科の若手医師の話などから,自分の医療観に近い医療もやっている活動性の高い病院、との感触を得たからで、自分の臨床医としての感覚、技術の再構築のためにも良いと考えたからである。全く個人の立場と判断で院長室を直接訪れ、雇って欲しい,とお願いした。今から思えば、何も知らずに飛び込んでしまったものである。いや、何も知らなかったから選べたし、結果的に自分にとってはすごく良かったのかも知れない。
当院が民医連に加盟している病院であることなどは全く知らなかった。
病院医療は持っている技量を集約して行う医療である。病院や医局にはどんな人がいるのか、それを知らずに病院医療は出来ない。だから、医局会などの集会には可能な限り出席し、話を聞き、理解しようと努めた。一般的な病院や医療に関する話に関しては理解できたが、理解できない話題も少なくなかった.
特に、民医連関連の話題になると、「全国民医連」、「北海道東北ブロック」「地協」、「秋田民医連」、「県連」、「共同組織」、「患者会」、「友の会」・・・・何のことを言っているのか赴任当初は全く解らなかった。
内科外来の戸棚、図書室の一角には民医連に関する書籍や資料が何冊かあったのでそれを借りだし、診療の合間に読み漁り、徐々に理解することが出来,いろいろな刺激を受けた。
特に、診察室の医療の展開は医療の基本ではあるが、それだけでは不足であって、社会的視野に立って、医療、健康、疾病を考え、更に、労働環境や住民生活、社会保障などを考えた予防から治療、社会復帰までを考えた医療を展開しなければならないという考え方と実践は、私にとって目から鱗が落ちるほどの強烈なインパクトがあった。勿論、全てが是というわけではなく、これ以上深くは入りこめないイデオロギー的な分野もあったが、自分にとっては学ぶべきところは随分多かったと思う。この辺のところは機会があれば記述しておきたいと考えている。
更に、赴任した年の秋、秋田県民医連学術集談会は私にとって更に大きなインパクトがあった。
私はそのしばらく後、院長から秋田市医師会の役員になることを命じられたが、医師会の仕事に意義を感じとることが出来たのは、この時に学んだ民医連的医療の視点がルーツとなっていたと思う。
民医連秋田県連学術集談会、その1
中通病院赴任して10月初旬の土曜日は二つの行事が重なった。一つは秋大第三内科の同窓会であり、もう一つは民医連秋田県連の学術集談会であった。第三内科の諸先生方、スタッフ達には随分長い間お世話になったから、散々迷ったが、今後の自分のためにはまず今の環境を知り、理解することの意義はより重要だろうと考え、後者の方を選択した。
この判断の背景には与えられた新しい環境に同化するためには古い環境に決別する線引きが必要だ、というのは私の考え方の基本の一つでもあったから、と言うことも関連している。その考えのもとに、小中学、高校、大学の仲間達、郷里の親戚との付き合い等、可能な範囲で距離を置いてきたし、その後も環境が変わる度に勝手に線引きしてきた。だから、私が持っている人脈は極めて狭い。しかしながら、最近徐々に考えが変わってきている。やはり歳と共に考えは変わっていくものだと自覚し、過ぎ去った自分の行動を反省することもある。
最初の同窓会を欠席したことで、私の第三内科との関係の持ち方は決まったようなものでその後それほど迷うことはなかった。結果的に、それ以来約
21年間、昨年の夏に催された講師の教授就任祝賀会に院長代理として出席するまで第三内科のあらゆる会合に一度も出席しなかった。よくまあここまで徹底したものだ、と自分でも呆れているし、今は謙虚に反省している。
その土曜の午後、法人の看護学院の体育館で行われた学術集談会のパネルディスカッションの題名は忘れたが、「秋田県の医療の今後にどう関わっていくか」のような壮大な題名であった様な気がする。何でこのような大げさな題名の会を一法人が催すのか理解できなかったが、その前数年間の集談会の記録を見ても類似の演題であった様に記憶している。
当時、徐々に分かりつつあったが、法人や民医連の県連との関係、更に病院との関係などまだまだ理解できていないこともあったから興味半分で、まずは出席してみようと気楽に出かけ、フロアの最後列に陣取り聴講することとした。
民医連秋田県連学術集談会、その2
学術集談会は、「今なぜ民医連か--秋田県の医療の今後にどう関わっていくか」のような題名であった
様な気がする。私は保存していた当時の資料を2年ほど前に廃棄したが、後に図書室とか県連で資料を見直して再確認したい。
私はこのパネルディスカッションではどんな内容が語られるのか、半ば興味を、半ば疑心暗鬼の気持ちもって聴いていた。
特別講演,パネラー4人ほどの講演、発言は民医連の理念に基づいた患者中心の医療と民主的な組織運営を熱意をもって展開し発展させていかねばならぬ、各人がこれに誇りと希望を託し、困難に耐えて進めていこう、と言う趣旨であった様に記憶している。その論旨には自分たちはあたかも秋田県の医療のリーダー的存在なのだ、という自負心も読み取れた。
討論に移ってからはフロアからシンポジスト以上に熱意のある発言が次々と続き,私はただただ唖然として聴いていた。何がこの集団のエネルギーのルーツになっているのか??これではまるで医療関係者の団体の場と言うよりは、ある種の宗教団体なのではないか?とさえ思うような強烈な印象を得た。これが当日の正直な感想で今でも鮮明である。
確かに当時、中通病院は患者の立場に立つ医療を展開していたと思うし、秋田市民からも救急医療などを通じて大きな信頼を得ていた。ちょっと大げさに言えば「中通病院に行けば何とかなる」という評価であった。しかし、それについては中に入ってやっと分かったことであった。大学にいたとき、後半は学内の委員会とか医局の役職の点から県内や市内の病院の状況や情報に接することはあったが、その範囲での印象では中通病院はどちらかというと影の薄い私的医療機関の一つであった。私が秋田に来た当初の数年間で持っていたのはいつも労組がストライキをする病院だと言うことぐらいであった。第三内科から多数の若手医師が中通病院で研修をさせていただいたが、研修を終えて戻ってきた彼らを通して少しずつ医療活動の概要を知ることが出来た。正直、その程度の認識しかなかった。
そんな状態の中で私は学術集談会に出席してみて心底驚いた事は確かである。会の終わりに司会者から「一心に聴いておられた先生から、何か一言コメントをお願いします」と発言を求められた。壇上からみても呆然として聴いていた私の姿が目についていたのだろう。私は「ただひたすら驚きを持って聴いていました。内容についてはこの場ではとてもコメントできません・・・」と答えた様に記憶している。突然の指名でもあり、外部から入ったばかりの私は、どうでも良いような場当たり的な感想しか述べられなかった。
赴任時にオリエンテーションを受けなかった
85年春に、縁あって明和会に就職した。途中採用だったためか法人や病院、医局の内規などに対するオリエンテーションは一切なかった。赴任当日、当時の医局秘書にその日の予定2、3について話があっただけでしばらくの間暗中模索の状態にあった。
後に東葛病院に2週間診療応援に行ったが、到着した朝から午後3時過ぎまで私一人を対象に入念にオリエンテーションがあった。内容は系統的で、薬局長、事務系職員、医局係、外来病棟部長、院長と次々と入れ代わり立ち代わり説明してくれたが、その時に著しい差を感じたものである。
私がオリエンテーションを受けなかったことで、後にガックリ来た気楽な話題を四つ挙げておく。今となれば笑い話である。私自身の性格もあって院内でやや孤立し、同僚医師や職員達との対話不足、それに起因する情報不足も原因だった。だから、事はズルズルと長引いた。自業自得の面もある。
●赴任当時、月に3-4回夜勤をやっていた。夜勤時に夜勤食が支給されることを約2年間知らず、知らされず、気づかず、ずっと自分で注文していた。医局内に何か小汚いノートがあり、出前の方が来る度に何やら記入していることは分かっていたが、夜勤食支給に関連した記入簿とは全く思っていなかった。自分の腹に入ったのだからやむを得ないだろう、と過ぎ去った分については納得した。
● 初回の大曲中通病院赴任後定期的に大曲中通病院の外来を手伝うことになったのだが、JRの交通費と共に支給される「おやしきタクシー」と書いてあるタクシーチケットが大曲市内の各社共通チケットであることを知ったのも2年ほどたってからである。他社の車に乗った際には自腹で乗車していた。机の中には未使用のチケットが多数残っていた。
● 大曲中通病院の医師体制は研修医、内科系科長の一部、一般外科科長の一部による短期ローテートで何とか維持されており、私も近々赴任せざるを得ない状況にあることは次第に理解出来た。この様な重要なことは事前に知らされてしかるべきと思った。私の後に赴任したある医師は、予め知らされていなかったとして赴任を拒否した。情報を与えられなかったのは私だけではなかったようだ。
●大曲への通勤手当を不当に受け取ったとして返還を求められた。赴任するまでの手続きは担当が代行してくれたが、中通病院帰院後の手続きは本人に任されているのだという。私はてっきり事後の手続きも担当者によってなされていると思っていたが、約一年後に約一ヶ月分の給与に相当する額の返還請求を受けた。明細書に見方も知らなかった私にも落ち度はあったが、支給し続けた側に責任は無かったのだろうか。
初回の大曲赴任
特にオリエンテーションを受けたわけではないが、大曲中通病院の医師体制は、研修医、一部の内科系科長、外科長による短期ローテートで診療体制が何とか維持されている厳しい状況のもとでは、私も近々赴任せざるを得ないことは理解した。過去の赴任医師の名簿を見ると実に不公平な配分で俄に納得しがたいこともあったが、自ら望んで就職したこともあり、院内ではそれほど重要な仕事を与えられているわけでもなく、居なくてもそれほど影響もなさそうな立場であろうから、赴任はまず絶対的に回避出来そうもなかった。
どうせ赴任するなら早い方が良かろうと、初年度は自分から申し出てローテートに組んでもらい85年12月から3ヶ月間単身赴任した。しかし、心中は決して穏やかではなかった。当時子育ての最中であり、子供達と接する時間も必要であったし、第一単身赴任なんて実に不自然である。それにわが家の道路事情に関連して除雪の問題もあった、からである。
赴任が本決まりになった頃、まず除雪対策にホンダの除雪機を購入した。大曲秋田間の往復は基本的にJRを用いる積もりであったが不測の往復が必要になった際に備えて四駆のスバル・レオーネも購入した。当時用いていたロータリーのマツダ・ルーチェは
FR駆動で雪道には弱く危険だったからである。
結果的に、その後3年間は3ヶ月ほど単身赴任をせざるを得ない立場となった。赴任医師・科長の割り当ては実に不公平であり、結局はごね得が通用しているように見えた。私は納得出来ないようなときにはかなり異議を唱える方であるが、だからといって何時までもそれに拘らず、今自分は何をすべきか、何が求められているかを考えて最終的に判断する。これは私の押しの弱さであり、弱点の一つでもあるが、性格の一部であり何ともしようがない。ただし、その中にいても問題提起はし続ける。黙って他の価値判断に添って流され続けることはしない。
私にとって大曲は仙北組合総合病院の外来、某整形外科病院の当直、大森町立病院の外来や当直を通じて数10回は訪れていたが、街を歩いたこともなく、単なる通過点でしかなかった。花火は有名らしいが興味も感じたことはなかった。
中通病院の研修から戻ってきた医局の若手医師から大曲にも中通病院があり、研修には結構役だったことを聞いていたし、彼らの一部は医局に戻ってきた後も一時大曲中通病院の外来を手伝っていたこともあったようであるが、私は具体的には何もしらなかった、と言っていい状態であった。
数回の大曲赴任の感想のまとめ
大曲中通病院への赴任は毎年の如く冬場に回ってきた。医師体制が不十分であったため止むを得なかったし、消化器系の科長を常勤スタッフとして赴任する際、私も積極的に動いたと言うこともあって、その彼が窮地に陥るような状況は責任上作れなかったと言う事情もあった。しかし、そうは言っても大曲への赴任は私的にも辛いものがあって、不公平感はどうしてもぬぐいきれなかった。大曲の5回の赴任を通じて考え、蓄積したことは「大曲中通病院雑感 その壱 仕事編」「大曲中通病院雑感 その弐 生活編」として、当時発行されていた大曲中通病院医報に書かせてもらった。
かなり辛らつな言葉を並べているが、実際にはそう言う言葉を書きたくなる心境であった。一方では、そうは言っても今自分が何をなさなければならないのかと考えた場合、ジレンマがあっても断ることは出来なかったという事情もある。
私が一番重視したのは子育てのことであった。当時、私は3人の子育ての最中であり、日常から多忙であることをでほぼ100%人頼みの子育てをしていたから、父親として普段から可能な限り一緒にいる時間を意識的に作り、ふれ合い、対話していた。それが物理的に出来なくなると言うことは、子育てに負い目のあった私にとって小さくない問題であった。恐らく子ども達も同じ気持ちでいたハズである、だから、単身赴任というのは実に不自然な勤務形態なのだ、すべきでないし、させるべきでない、とつい先日まで思っていた。
ところが、これには後日談がある。
成人した子ども達が集まってきたときに、多分、一昨年の秋頃だったと思うが、私の大曲の赴任とかが話題になった。この時とばかり、父親としての義務を果たせないことが悩みの一つだった、とその時の心境をしみじみと語ったところ、子ども達は白々とした表情で、実は父親の大曲の単身赴任は自分たちにとっては最高にリラックスできる期間でとても良かったし、次はいつ出張するのか家族一同心待ちにしていた、と、全く予期していない事を言われ、私は些かショックを受けた。
私は自分ではそれほど思っていなかったのだが、厳格で、小うるさい、うっとうしい父親として忌避されていたのだ・・・と、初めて知った。当時からそれが分かっていればあれほど迄書かずに済んだものを。しかし、子供達も今だからこそ笑い話として話せた事なのだろう。子育てに関しては反省すべきことはいくらでも挙げられるが、そのうちの一つである。
初回大曲赴任後に個人的に外来応援を開始
大曲中通病院の内科診療は広範な領域に一定以上の水準にあると考えられたが、画像診断や臨床検査成績に特徴が表われ難い疾患群に関しては若干ながら弱さを感じることもあった。その分野では私の経験がいささか役に立つ様であった。
当時の大曲中通病院の内科科長の勧めもあって初回の大曲赴任終了後に、週1回外来の診療応援をすることになった。ところが、この診療応援の扱いは何故か病院としてとか、内科としてではなく、全く個人的な希望による診療応援としての妙な扱いとなった。本来であれば、診療応援は公的な立場でなされるはずで、不在時の診療のカバーとか、行けない様な事態には病院とか診療科で対応すべきであるが、基本的にそのようなバックアップは出来ないとの事であった。別に、私にとってはそう大きな問題でない。どうしても都合が付かない場合には代理はないこと旨の了解を得て開始した。
病棟の10数人の患者を診ないまま大曲に出かけることは出来ない。毎週金曜日は
5:00am頃に出勤して必要な対応をし、その後の対応は電話連絡を受けて行っていた。通常はこの対応で問題なく出かけられたが、時には重症患者の対応のために行くことが出来なくなることもあり、そのようなときには大曲中通病院の内科医には迷惑をかけることとなった。
この様な対応の中、細かいことは分からなかったが、赴任後約一年を経ても院内の自分の立場に何となく居心地の悪さを感じていたことは確かである。
この頃だったと思うが、私の赴任は必ずしも中通病院に歓迎されていたわけではない、いろいろなディスカッションがあったらしい、と言うことを同僚医師の一人から聞く機会があり、何となく私の置かれている立場が理解できた。
私は歓迎されていなかったらしい
私が中通病院に就職するにあたり病院長と一度だけの面談で決められた。具体的には就職の日時が決められただけである。私はその日時に併せて大学の立場を整理するなど準備を進めていたが、私には履歴書を送るよう連絡が一度あったきりであった。
実際に病院に来てみる迄果たして手続きは進んでいたのか、と若干心配していたが、ロッカーとか机とかが決まっていて安心したが、就職にあたって手続きなどこんなものなのか??と直前まで疑問を抱いていたことは確かである。大学在職中に2ヶ月間ほど由利組合病院に赴任したことがあったが、この際には病院の人事課とかと何度かのやり取りがあったが、これとは対称的であった。
就職した年の冬に大曲に赴任したが、ここでは職員数は少なく、殆ど顔の見える距離にいるから、比較的早くうち解けることも出来た。中通病院で同じ部屋でありながら、それまで殆ど言葉を交わしたことのなかった中堅医師とも短期間大曲中通病院で一緒に仕事したが、そこで初めて会話らしい会話をすることも出来た。この間、多くのスタッフから病院や法人の歴史、職場内の人脈や人間関係などに関するいろいろな情報を知ることが出来た。必ずしも興味を惹くものではなかったが、自分の位置づけをさぐるためにはいろいろ参考になった。
その中で知ったことは、私の赴任は院長が一人で勝手に決めたことになっていて、医局や病院の一部から中通病院で採用するよりは、中通リハビリテーション病院とか大曲の病院の内科医として採用してはどうかという意見が出たらしい。どの程度の話題になったのか今となっては知るよしもないし、興味もないが私の赴任は中通病院ではあまり歓迎されていなかったらしい事が分かった。そう考えれば何となく赴任後しばらく感じた違和感は理解できるような気がした。この話を聞いた時はさすがにちょっとガックリ来たが、自分の立場がより明らかになったようで、それ以降、私はむしろ居心地は良くなった。
私が歓迎されなかったらしいことの理由は、一つは私の赴任が大学第三内科の関連病院の拡張方針に添ったものであるかのごとくの誤解があったこと、もう一つは私自身の性格的問題点が理由としてあげられたらしい。前者に関しては、大学の教授、医局自体にそんな考えや方針がなかったこと、私は正真正銘個人的な赴任であること、私を雇っていただいても大学からの人事的応援は全く期待できないこと、を院長にはハッキリと申し上げていた。もとより私は前から、一定の経験を重ねた医師は大学の医局の人事からは離れて行動すべきと考えており、それを実践したに過ぎなかった。しかし、院内ではそのようにはとらえられなかったらしい。
私が歓迎されなかったらしいことの理由は、一つは私の赴任が大学第三内科の関連病院の拡張方針に添ったものであるかのごとくの誤解があったこと、もう一つは私自身の性格的問題点が理由としてあげられたらしい。前者に関しては院長に「私の赴任は個人的なもので医局は無関係で、第三内科から人的援助は全くありません」とはっきり伝えて了承を得ていたが、うまく伝わっていなかったらしい。
第二の私自身の問題点について言えば、私はいろいろ、例えば気が小さく言いたいことも上手く表現できないとか、一見当たりが良いように見えるが真から協調性があるとは言えず孤立を求める性格だとか、若干主張はするが論争を嫌って本心を隠して直ぐ相手に同調するとか、問題は無いわけではないが、集団の中で責任を果たすという意味では常識的な範囲に何とか収まると思っている。しかし、同僚達には必ずしもそう見えていなかったかもしれない。大学の医局会である同僚が「福田先生の意見も聞きたい・・・」と発言したのに対して別の同僚から「福田先生の意見なんて常識的でないから聞くだけ無駄・・・」と発言を遮られたことがある。このとき私は一種の評価をもらった、と嬉しくなったものである。
マア、いろいろ凸凹のある個性の頂点だけを並べてつなげれば変な人間像が出来上がるが、そんなことで大きく(?)誤解されて伝わっていたのかな、と思っている。
赴任後しばらく経ってからの病院の医局会では、私を民医連的でない、と批判めいた評価を受けたこともあった。その時は、全員が民医連的であったらこの病院はダメになるんじゃないですか、と居直った返答をした事を覚えている。
そんなこともあって、私は仕事を進める上で気に入って長く居着いてしまったが、つい最近まで外様的感覚でしっくりしないものを感じていた事は確かである。
昭和61年外来診療部長になる
赴任して約1年半後の昭和61年11月、外来診療部長を拝命した。この後、毎週月曜日朝の病院管理会議に出席し、毎週外来診療部会議を主催し、隔月ほどに医局で拡大外来診療部会議を開催した。
これまでの一年半ほどはいろいろ見聞きしたことから病院の状況を見てきたが、実際には公式の書類等は殆ど見ることはなかったし、どのような機構になっていたかもよく分からなかった。これ以降は病院の運営に関する資料の一部に目を通すことも出来るようになり、病院の運営の一角を知ることが出来る様になった。また各医師の職務上での立場、病院運営上での位置づけを知ることが出来、新しい視点で周囲を見ることが出来るようになった。
その頃に抱いた印象は、院長の権限を実行力はダントツであり、管理会議は討論の場でなく、既にどこかで決定された事項の伝達が中心の場であったこと、居並ぶ副院長の職務とか立場が全く見えなかったと言うこと、各部門の責任を負っている出席者の発言は少なく、管理会議の中で院長の方針に異議を唱えるメンバーは少数に限られていた。一方、各診療科、各医師のわがままが結構まかり通っていて、病院としての統制がとれていないのではないか、と言う感想と疑問であった。
自分にとって外来診療部長のポストが与えられたことで病院の機構の中に居場所が与えられ、職務を続けていく上で気分的に随分安定した。それまでは病院の決定、医局会議の決定をただ受け入れるだけであったが、若干は意見を言う機会と場所が与えられたことになったからである。そうはいっても最初の頃は雰囲気に飲まれてじっと聞いていることの方が多かった。
ポストを戴いた事は責任も負うことになり、日常の外来診療が滞りなく行われることは勿論のこと、病院にとっての外来の在り方の検討、外来診療における保険制度に関する勉強も必要であり、この面でも新しい刺戟があった。
病院機構の中で外来診療はほぼ全ての医師が関与している部門であり、各医師との個別の折衝も必要であったが、この面は私の最も苦手とする分野であり、結果的に随分挫折を味わう事になったが、これは職務上やむを得ないことでもあったし、私自身の、個人交渉が苦手で、かつ、押しが弱いという性格にも由来しているので、やむを得ないことでもあった。
病院の方針にも従わない医師も少なくない
外来診療部長を拝命してから外来診療で気になっていたことをいろいろ改善したが、全病院的に最初に手を付けたのは、慢性疾患指導料の算定の徹底であった。
この指導料は医師の外来診療における技術料の一環として認められたもので治療、通院、検査等に関して医療上のみならず生活指導をした場合に月に一回に限り算定が認められた。しかし、当院ではその算定は医師によって全くバラバラで、日常の外来診療でとても気になっていた。ザッと言って算定率は
60%程度と考えられた。この低い算定率は病院の運営そのものにも少なからず影響を与えているはずである。
管理会議でこの慢性疾患指導料の算定の徹底を提起したときに出席した部長クラスの医師の反応は様々であった。算定を徹底すべしとの意見は無いのは当たり前であるが、最初に飛び出したのは「算定率が低い、低いと言うが、算定率をきちんと調査してから提案すべし」、「私はこのような指導料は一切算定しないことにしている」、「算定は面倒」と言うもので私はガックリ来た。 算定されていないカルテが散見される事は算定率が低いことを示しており、算定の徹底を提起するのに正確な調査など始めから不要なレベルである。また、個人的な好みや手間の煩雑さを理由として算定できる診察料を請求しないなどと言う、医師として勝手な行動が許されていること自体不可解なことであった。
最終的には院長のまとめで慣性疾患指導料の徹底は管理会議の決定事項として認められ、外来カルテに算定可能な疾患で通院している事をカラーの説明書を付けて分かるようにすることとなった。これを機会に算定率は大幅に改善されたが、数人の医師はその後も算定していなかった。個人的にも説得したが効果は殆どなかった。そのうちにこの慢性疾患指導料自体、200床以上の大規模病院では算定できなくなった。
当院は種々の発言や提案が比較的自由で、職員にとって自由度の高い病院としての評価があったが、本来の自由度というのは個人的な我が儘を許すことではない。この点を取り違えているスタッフ、とりわけ医師は少なくないと思う。
ピンクのカーテンで激しく叱責受ける
外来診療部長になってから数ヶ月目の頃のある週の朝、外来業務が始まる30分ほど前、ポケットベルがなり、呼び出し主は当時の整形外科科長であった。事後上のプロ意識は大変なもので、それだけなかなか対応が困難な人物で、電話先で激しく興奮している様子が瞬時に伝わってきた。私も一瞬でフリーズした。いつにも増して早口で、何を言われているか即座には理解できなかったが、耐えてずっと聴いていると、外来のピンクのカーテンがどうのこうのと言っている。外来にピンクのカーテン??どんな意味なのか、何で私が関係しているのか?私は理解できなかった。
要するに、外来診療前の整形外科の朝カンファレンスのために外来に来てみたところ外来の間仕切り用のカーテンがベージュ色から一斉にピンクに変わっていたと言う事らしい。そこまで電話の要件をやっとの事で理解した。全く一言も相談もせずに勝手にカーテンのカラーを変更したこととピンクという異様な色調にした事の2点を怒っていることが分かった。それでも何故私が怒りの電話を受けているのか俄には分からなかったが、第3点として、外来診療部長が現場に一言も相談せずに勝手に実施した事が許せん、と言うことらしい。
そこ迄電話の内容を理解しても実際何のことか分からなかった。私が言葉を差し挟む余裕など与えてくれない。何とか電話での話をおさめ、実際見に行ったところ整形外科だけでなく、外科も内科外来もカーテンが一斉にピンクになっていた。やはり整形外科科長が言うように異様であった。 私自身が驚くような変化であった。真相は当時の総師長を中心とした検討チームが古くなったカーテンを交換する際にそのように決定し、院長の許可を得て注文、実施したものと分かったが、私はそのような動きがあったことすら一切知らされていなかったのにあの叱責である。「それでも外来診療部長が悪いのだ、責任があるの」と最後まで引かない相手も相手であったが、組織の中の責任部署の役職に就くことの厳しさを味わった日であった。
外来のカーテンは翌日にはすっかり元に戻っていた。整形外科長が総師長にも激しく迫ったらしい。そのカーテンはその後産婦人科、小児科の病棟用として用いられていたとのことである。
時間の作用は大きい。今は笑える思い出話の一つである。私は一つ一つの事象をその時点時点で、心がさざ波立っている時点で最終評価せず、時間の浄化作用に一定程度任せてから再評価するようにしているが、私に合ったとても良い方法だと思っている。
昭和63年7月副医局長になる
昭和63年7月、院内の規定による選挙で信任されて副医局長となった。長く副医局長を務め、今回、医局長に立候補したK医師から協力要請があり、揃って立候補したものである。選ばれれば苦痛・苦悩が増すポストだから対立候補が出るはずもなく、この時は反対者はあまり居なかったようで信任された。
7月8日の法人内広報紙「日報めいわ」に以下の一文が掲載されている。編集部の求めに応じて記載したものだったと思う。
この度、推薦されて副医局長になりましたが大変なことと緊張しています。まずはあまり構えずに、医局長を補佐するという役割から果たしていきたいと思います。私自身、まだ民医連についてよく分からないこともあり、勉強していかなければなりません。しかし、医局運営委員会がしっかりしているので何かと安心です。最近、民医連医療や民医連資料を引っ張り出して目を通すことも多くなりました。
大規模病院医局がかかえる問題点の一つとして、多様な価値観を持つ人間が増え、そのままではまとまりに欠けるという事が挙げられます。例えば、今回私が副医局長に選ばれたこともその一つだと思います。価値観が多様だと言うこと自体は素晴らしいことで、大切にしたいものです。 明和会の医師団としては、少なくとも医療観については一定の方向性が得られるものと思うし、その点でまとまった集合体として病院におけるリーダーシップを発揮できるはずです。
具体的には今年度の医局の活動方針を形あるものにすることにつきますが、難問も抱えているので1年では出来ないかもしれません。医局会議はいろいろな意見をぶつけ合い、論じ合える雰囲気を大事にしたい。
また研修医の中からより多くがスタッフとして戻ってきて欲しいと思います。そのためにも医局が医療展望を持ち、各々が責任と義務を負いつつ十分に力を発揮できる様な環境を皆で作らなければならないでしょう。
もうこれを記載してから20数年にもなる。いま読み返してみると何と抽象的な、何を言いたいのか分からない様な文章である。
この20年の間病院の機構も変わり、医局のメンバーも随分入れ替わっている。それでも、中段のあたりは当時も今も殆ど変わらない共通の問題点であり、悩みでもある
o16県連学術集談会で「医療現場と喫煙」を取り上げた
昭和64年に開催されるとなった県連学術集談会の実行委員長に任命された。丁度カモが居た、と単純に割り振られただけであったであろう。当時、資料を集めて勉強中であったとはいえ、未だ民医連の集会を主催するほどの自信はなかった。
ちょうどこの年、全日本民医連学術集談会が「働く人々の健康被害と第一線医療の役割?地域で共に闘う医療を--」をテーマに秋田市で開催され、主たるメンバーはそちらの方に集中していたので替わりは見つからないだろうと考え引き受けた。全日本の会を開催した年は県連の会は省略しても良かったと思うが、当時はそのような考えは一切聞かれなかった。
私が勤務する病院でも紆余曲折を経ながらも2004/4から全館禁煙に、2007/1から敷地内禁煙となった。私は地道な、目立たないレベルの禁煙論者である。やっとここまで来たか、と言う感慨も持つ。敷地内禁煙となってからも時には朝5時頃に玄関先で喫煙している患者を見ることもあり、その度毎に注意してきた。ここ一月ほどは一人もいない。私の通勤時間はほぼ一定しているので時間をずらしたのかもしれない。
私は常日頃から医療関係者としてこれほど健康に悪影響ある生活習慣を放置しておくべきでない、と考えていたので、良い機会とこのときの県連学術集談会のパネルディスカッションで「医療機関内における禁煙」を計画した。
実行委員会の中でもこの話題でパネルディスカッションを催すことには否定的意見の方が多かったが、実行委員長の権限で押し切った。それを伝え聞いた民医連秋田県連のある理事は私に対して強行に内容変更を求めてきた。「民医連学術集談会ではこんな小さな話題を取り上げるべきではなく、国や県の医療、民医連医療のあるべき姿を論じるべきだ」との趣旨であった。
パネルディスカッションの前に全職員に対してアンケート調査を行い、一医療法人の職員の意識調査行い貴重な結果が得られた。その結果は中通病院医報
30(1):10-27,1989に掲載されているが、後に「労働の科学」という雑誌から依頼され、再編して投稿した。
パネルディスカッション自体は盛り上がって良い討論が出来たとは思うが、この試みが当法人内の喫煙にいかなる影響を及ぼしたのかについては、私の感覚では恐らく全くゼロに近かったと思う。フロアから心循環器系に及ぼす悪影響を具体的に説明した循環器科長は「・・・、私は明日から禁煙します」と結んだが、そのまま吸い続けていた。その頃はまだ喫煙に関して社会全体が甘すぎた。私どもの試みは、時代を10数年早取りしていたのだ。患者の立場、喫煙者の立場から発言していただいた60歳代のパネリストのお一人は数年後に肺ガンでお亡くなりになった。
過去に秋田民医連学術集談会で喫煙問題を大々的に取り上げた事などもう覚えている職員も居ないだろうが、当法人はこの分野でも先進的一歩は踏み出していたのだ。
大曲中通病院へ長期赴任の打診があった
1989年夏、院長室に呼ばれた。
内容は大曲中通病院への長期赴任の打診であった。まもなく大曲の内科科長が郷里に帰ることになるらしいので、来年あたりからその代わりとして大曲に赴任して欲しい、期限は無期限で、今は明言できないが、いずれ、身分的保障は考えたい、とのことであった。
本来この様な話は業務命令でおりてきて不思議でないが、当法人では医師に関しては打診の上で同意を得てから決める様である。
毎年の如く冬期間に回ってくる大曲の短期の単身赴任ですら、私にとってはとても大変な状況であることは医局運営委員会等に意見を上申していたし、赴任時の経済的バックアップも少なく改善すべきという提言を頻回にしていたが、院長はそれをご存じの上で、あえて私への打診しているのだ、とのことであった。
私は、光栄な話でありますが、プライベートな事情もいろいろありますので数日考えさせて欲しい、と時間を戴いた。
結果としてお断りした。
院長に提出したお断りの文章はコピーが手元にあるが、以下の如く記載していた。
「先日お話がありました大曲中通病院への長期赴任について、誠に申し訳ありませんが辞退させていただきます。その理由として、先生が赴任の一形態として挙げられました秋田からの通勤による赴任は、患者にとっても、職員にとっても、私自身にとっても問題と考えます。
長期赴任の際には、医師は現地に居住する必要があると考えます。現状の私の環境では単身赴任にならざるを得ず、私自身にとっても家族にとっても本来あるべきでない不自然な生活になります。長期間の単身赴任は何としてでも回避したい、と考えます。
上記の理由で、今回は受諾できませんが、将来的に子供達が成長し、単身赴任を回避できる環境が整った際に、もし必要とされれば応じることもあり得ると考えてます。」
返事を読まれた院長はいとも簡単に、私の申し出を了承された。更に強く勧められたらどうしようかと迷いつつ院長の前に座ったが、実にあっけない幕切れであった。
この一連の経過を見ると、院長ははじめからそれほど深刻な意味で私に打診したのではなく、単に人事的対応を進めるにあたって通すべき一つのプロセスとして、断わってくると言う結果も予測した上での、形式的打診だったのではないかと考えられた。そう考えればお断りしたことにそれほど責任を感じることはないだろう。ガックリ来た一方でドッと肩の荷が下りた。
法人の看護活動委員会委員となる
時期は前後するが、就職して翌年頃からだったと思うが法人の看護活動委員を命じられた。会の目的は看護師の労働環境の改善、資質向上などの他、年一回の秋田民医連看護活動交流集会の計画を作成する、と言うことであった。
詳細は忘れたが、かなり前から活動していた委員会でいつも医局からも委員が選ばれていたと言う。しかし、医師にとっては関心の薄い委員会で、選出された委員は殆ど出席していなかったようである。そんなところに鴨ネギ的存在として私が回された、と言うことである。
確かに、辛い委員会であった。ガチガチ頭であんまり話が通じない熟年の看護師の間に男がただ一人、医師の立場で参加していたが、殆ど共通の話題はなく、発言も控えてひたすら会が終了するのを待っていた。特にこの法人、病院のお偉い看護師さん方は頭が硬いのではないか、との印象を抱いた。これが正直な印象である。その後この委員会は自然消滅したのか、私に委員の継続の話もなく、話題になることもなくなった。
この委員会に私が属していた事が結果的にどの様な意味があったのか、自分自身ではまったく分からない。敢えて自己評価すれば、看護活動交流集会の企画においてはより形式、発表をよりアカデミックな方向に変えたこと、実行委員長の檄文に近い挨拶文をよりマイルドな表現に変えたことくらいかなと思う。
この委員会で私は看護師の業務の機能性を高めるためにナースキャップの廃止を提案したが、並み居る古い時代感覚の看護師、看護師長から猛烈な反発を食らって簡単に却下された。全く通用しなかった、と言っていい。時代は変わった。数年前にナースキャップの着用は個人に委されたが、それ以降ナースキャップを着けている看護師は居ない。現場では昔から角張ったタイプのナースキャップは邪魔だったはずだ。
この委員会以来、看護婦問題について私は些か勉強した。その後しばらくして、日本医師会の医療関係者等対策委員会で委員の一人として看護問題、特に准看問題を6年扱った。その間にまとめられた3回の報告書の草案は各委員の意見を私が集約したものがベースになっている。
学会活動(1)
中通病院赴任後は学会活動に関しては一気に消極的になった。一つは内科の診療自体が診療科としてまとまって何かを追求すると言う姿勢でなく、医師個人単位であったからである。個人単位となると自然と対象症例が限られてくるから、外の学会に提出するほどの機会にはそう多く恵まれるものではない。また、日常の診療が多忙で個人単位ではプロスペクティヴな検討も事実上不可能であり、学会に演題を提出することは基本的に諦めた。
代わりとして以下の3項目を自分に負荷し、中通病院医報には積極的に投稿した。その目的は私自身が独りよがりの診療をしたり、漫然と多数の患者を診てしまいそうになる可能性があったからである。
1) 積極的に学会、研究会に出席し、自分の医療の軌道修正を行う.
2) 自験例を文章化し、他の医師の批判を受ける。
3) 自分の医療限界を知り、より良質の医療を提供するために多くの医師と連携する。
1)に関しては日本内科学会総会、日本血液学会総会、日本臨床血液学会総会への出席を柱とした。
2)の表現の場としては中通病院医報、秋田県医師会雑誌を有効に用いることとし、結果的に中通病院医報には毎号何かを投稿した。記述したいと考えていた項目はリストアップして残してあるが、1990年後半から市医師会、県医師会の業務が増え、医報に投稿する機会が減ってしまったのが残念である。さらに、中通病院医報自体の発行がとぎれがちになってしまった。
日常診療の中で書き残しておくべき事象は事欠かないはずである。医師は感じたことを積極的に文章として記録に残しておくべき、と私は考えていたし、今でもそう思っている。最近の医師はその意欲が乏しくなっているのではないかと危惧している。
学会活動(2)
中通病院赴任後、私は学会活動に関しては一気に消極的になった。当初は殆ど機会がなく学会は聴講のみであった。
平成元年秋、川崎市立病院原田医師から「全国一般病院血液懇話会」に是非入会して欲しいとの誘いの書簡があった。
「全国一般病院血液懇話会」はその5年ほど前から大学以外の一般病院の血液の臨床医により結成され運営されている血液学や血液疾患についてより気軽に語り合う懇談会で、いつも日本臨床血液学会総会の日程に合わせて学会の地で学会日程終了後に懇談会を開催し、それなりの成果を挙げてきた会である。
重箱の隅のゴミを電子顕微鏡で見るが如くの詳細な研究成果が中心となっている血液関連の総会とは別に、血液の臨床に則した演題を出し合って勉強し合うという趣旨の会で、私も非会員として何度か出席し、講演とか演題とかを聴講する機会は持って来たが、敢えて入会する気には至っていなかった。何でも会に属すとしがらみが発生し面倒だから、私の生には会わないからである。
原田医師の書簡では東北地方の担当者が欲しいとのことで、会員にいろいろ尋ねたところ、岩手県立中央病院や千葉県がんセンターの血液疾患担当スタッフ達が私を強く推薦したとのことである。これらの医師は私の先輩にあたり、いろいろ教わったし、よく存じているだけに、推薦があったと言うことではやむなしと考え、それほど活動は出来ませんが、それでも良ければ、と前置きをした上で引き受けた。
原田医師の最初の頃の書簡はここまでであったが、実はこれには伏線があったの事が後に判明した。
学会活動(3)第32回臨床血液学会総会
平成2年5月、「全国一般病院血液懇話会」の東北地区の代表を消極的姿勢で余り深刻にも考えずに引き受けてしまった。
5月末に懇話会会長より書簡があり、秋に札幌で開催される第32回臨床血液学会総会でパネルディスカッションとして「薬剤による血液障害の実態」を取り上げ、その企画運営は「全国一般病院血液懇話会」に委されたので、各地区の代表者にその地区の実態調査と報告をお願いしたい、と言う内容であった。そのタイムスケジュールは6月末日が抄録の締め切りだという。内容も時間的にも全く暴力的であった。パネルディスカッションの準備を一ヶ月で行い、抄録を書くなど信じ難いことである。
何か変だ、話が違う、裏があるのでは?と思った。要するに、学会の企画等は昨年早々に決まっていたのであろうが、恐らく東北地区から参加していた会員は誰一人としてパネラーを引き受けるものが無く、最後まで決まらずに紆余曲折の上、最終的に私に白羽の矢が向けられ、何も事情を知らない私が引き受けてしまったと理解した。
大体、私の人生はこんなものである。前世での問題なのか、何の因果か分からないが、どちらかというと損な役目を背負うような運命と共にこの世に生を受けたらしい。人を簡単に信じること、騙されやすいことも私の問題点の一つと認じていたが、人を騙して生きるよりは良い、と割り切っていた。また、である。
ほぼ実行不可能に近いタイムスケジュールであったが、引き受けた以上今更断るにわけには行かない、学会の場に穴を空けるわけにはいかないと、急遽調査とまとめを行うこととした。具体的には調査票を作り、6月5日発送、14日返送締め切り日とし、戻ってきた調査票と格闘、月末には学会宛に抄録を送付した。
この約一ヶ月間の生活記録を見ると、診療関連の時間と3-4時間ほどの睡眠時間以外の殆どをこの仕事に費やした状況が分かる。今顧みると感無量であるが、考えてみると、ここ10年以上、ほぼ似たような生活を慢性的に、非主体的に、受動的に送っている事になる。
学会活動(4)
1990年9月第32回臨床血液学会総会においてパネルディスカッション「薬剤性血液障害」が取り上げられ、新潟県を含む東北7県の調査を私が担当して140例ほどの症例を集め分析して報告した。
調査期間が短かったが結果的には多数の症例を集めることが出来た。各地域からの報告例はせいぜい40-60例程度で、総数で400例であった。私の報告は最も母集団大きく全症例の35%を占めたが、人口、医療機関数、医師数からみて東北7県からの報告が多数占めたと言うことは、他地区の担当者がそれほど精力的に症例を集めなかったためと考えられた。
私はこの企画の全体像も知らされず、準備期間も乏しい状況の中で東北地方の責任者に指名され、この限られた期間の間で最大限の効果を上げようと集中的に必死に頑張った事が結果的に良かったのだが、蓋を開けてみてガックリ来たことも確かであった。
パネルディスカッションは臨床血液学会総会の3日目の午後に行われたために会場は150-200人程度と出
席者も少なかったが、討論自体は活発に展開された。その中では最も多い母集団で状況を分析して報告した私は、司会者から発言の機会を多く与えられ、フロアからの質問も数件あるなど有意義な会であった。その時の内容は総会の記録誌に掲載されている。
全国血液疾患懇談会はその後どうなったのだろうか?このパネルディスカッションのあとも何度か連絡はあったようだが、私はその後一度も会に出席しなかった。そのうち連絡もなくなった。恐らく自然消滅したのではないだろうか、と思っている。
このパネルディスカッションも貧乏くじを引かされたようなものだが、考えようによっては良い機会が与えられたとも言いうる。また、その責は十分に果たしたと自己評価している。 私はこれ以降、学会関連のシンポジウム、パネルシスカッションの機会は一度もない。それに相応しい仕事は一切していないから当然である。私は新潟シンポジウム2回、臨床血液学会総会のシンポジウム、パネルシスカッション各1回の機会を与えられたことになるが、自身の仕事が評価されて指名されたとは思っていない。人脈、偶然がもたらしてくれた機会であった。
血液疾患の臨床に些かでも寄与できたのか?と問われれば言葉に詰まる。「とても良い経験をさせていただきました」それが私の総括である。
学会活動(5)赤血球膜蛋白分画欠損による楕円赤血球症の世界第一例に遭遇
1985年8月下旬、強度の貧血を伴った中年女性が私が担当する外来を受診した。貧血の原因は体内で赤血球が崩壊することによって生じる溶血性貧血であった。糖尿病、肺炎、うっ血性心不全も合併していたために入院精査した。この患者は入院直前に急速に貧血が進行したものと推定され、その原因として数日前にある医院より投与された感冒薬の関与が濃厚であった。
薬物が原因になって生じる溶血性貧血には赤血球内の酵素異常が推定されるが、この患者の場合は検査上否定的であった。患者の血液像をつぶさに観察すると赤血球が軽度にいびつであることに気付き、楕円赤血球症、即ち、赤血球膜の異常が推定された。われわれの病院ではここまで見込みは付けられても検索は何も出来ない。
早速、この分野で最も進んでいる川崎医科大学の血液内科教授に電話し、赤血球膜の機能を調べていただくこととした。何度か採血し医大に血液を送付したが、結論は赤血球膜蛋白の分画4.2が全く検出されず、先天的欠損症であることが判明した。この分画4.2欠損による楕円赤血球症、溶血性貧血例はまだ世界で報告されたことがなく、世界で第一例となった。この例に関する詳細は1987年の日本血液学会の総会で報告し、臨床血液29(4):559-564.1988に掲載されている。
私は大学で勉強している最中にも溶血性貧血例で赤血球酵素G6PD異常症と考えられる患者に遭遇した。
東京大学医科学研究所内科で検討していただいた結果、G6PD異常症の未報告タイプであることが判明し、G6PD
Akitaと命名されてWHOに登録されている。
2例の極めて希な新タイプの赤血球膜蛋白異常症、酵素異常症に遭遇できたことは実に幸運であった。2例とも孤立例であり、共にお子さんが居ないために遺伝的に子孫に伝播していくことはない。私の論文に残るだけの貴重な例となる。
中通病院に赴任後の学会活動はこの例の報告と先に記載した第32回臨床血液学会総会でのパネルディスカッション「薬剤性血液障害」の二つだけで、その後は全くご無沙汰している。学会に報告するに足るような仕事をしていないからで、今後もその機会は訪れる事は二度とないだろう。
(未完)
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