自伝 秋田大学時代 3(1973-1985) 

骨髄移植の準備を始める(1)学生の頃、わかい白血病患者から学ぶ

 私が学生の頃、血液内科の実習で受け持ったのは私とほぼ同年代の男女2名の急性白血病患者であった。毎日9:00頃病棟に行き耳朶に傷を付け流れる血液を採取、末梢血検査をするのであるが、学生実習にも協力的でうち解けていろいろな話をしたものである。病名は告げられていなかったが、発熱が頻回に生じ、鼻出血等も頻回であることなどから、自分が白血病であることはうすうす知っており、予後が悪いことも納得していた。一人でベットで休んでいるときの表情は何か寂しげではあったが、私ども実習生が行けば明るく対応してくれた。私は若い人がまもなく死を迎えるかもしれない状態でも比較的さわやかな表情をしているのを不思議に思ったもので、何時か患者に聴いてみたいと思っていたが遂にその機会はなかった。

 

 その内の一人は実習期間中に脳内出血で急死した。夕方から夜間にかけての急変で剖検も済んでいた。もう一人の女性患者も実習終了2週間ほど後にレポートを書くためにカルテを見に行ったら既にお亡くなりになっていて、ショックを受けた。敗血症ショックとかカルテに記載があった。

 新潟大学の他の3つの内科、当時は神経内科、腎臓内科、肝臓内科であったが、実習の間に受け持った患者の病状の推移は緩徐であり、こんなに劇的に病状が変化し、死の転帰を取る病状をみて、私は将来、出来ることであれば血液内科を専攻したいと思ったものである。

 

悲惨だった卒業当時の白血病の臨床

 

 私が医師になった昭和46年(1971)頃は一般病院では急性白血病はせいぜい1-2ヶ月程しか生存させれられなかった。卒後2年間、私は岩手県立宮古病院に勤務し、この間7-8名の白血病患者を担当したが、急性例は全員数日から1-2ヶ月で死去された、と記憶している。

 患者は全身の皮下出血、眼球結膜下出血はもとより、鼻、口腔、消化管出血、性器等出血などあらゆる箇所から出血し、脳出血が生じ死亡するか、敗血症や肺炎等の感染を生じて高熱のなかで死亡する等、悲惨であった。特に出血は患者の目に見えるだけに心的ショックは大きく、不安に苛まれ、精神的サポートと共に、効果は乏しいと分かっていても止血剤投与等の対症療法しか方法はなかった。患者、主治医共に特に鼻出血の治療には難渋した。大量の消化管出血が止まらず、輸血用血液も枯渇した状況のなか、為す術もなく患者が死に至る過程を見つめていただけのこともあった。今思い出しても心が痛む。

 

 当時、実用になりそうな抗白血病剤も2-3剤と限られており、効果と副作用発現の幅が狭く、効果も乏しかった。

 急性白血病患者のうち3人は診断後数日のうちに脳出血、大量消化管出血で死亡した。一方、経過が少しでも長引くと感染は必発で患者は敗血症状態で高熱を発した。当時の抗生剤は大部分は静菌作用の製剤で選択肢も十分ではなかった。殺菌作用のものはペニシリン系の2-3剤、セファロスポリン系は第一世代の一部だけしか実用化されていなかった。高熱の最中に急に様態が変わり亡くなられた患者も少なくない。

 

 白血病の支持療法として欠くことの出来ない輸血用血液も、成分輸血の考え方などなく、血液センターからの供給は保存血のみで、しかも、供給は十分でなく、緊急に必要な血液は親戚縁者・友人達を呼んで採血し、最小限の検査、交叉試験採血のみで輸血しているような状況であった。この頃、やっとわが国でB型肝炎ウイルス抗原のチェックが赤十字血液センターに導入された。

 従って白血病の治療においては医療関係者はもとより、患者自身、親族友人会社関係者が大勢参加して行われたが、家族や友人達は供血者を得るために随分苦労したものであった。

 こんな時代であった。今は急性白血病は治癒する可能性も出てきている。あの当時の状況を思うと隔世の感がある。

 

黎明期の白血病の臨床を学ぶ

 昭和48年(1973)以降、秋田大学で血液の臨床を学ぶ機会が得られた。ちょうどこの時期は白血病治療薬の新薬が次々と登場した。しかし、この時期はまだ単剤投与か、せいぜい2剤程度の併用でしかなかった。その後、白血病の治療は多剤併用療法に発展したが、その背景には白血病細胞の増殖過程についての知見、抗白血病剤の作用機序の解明、輸血療法の発展、強力な抗生剤、抗真菌剤等の発展があったからである。

 

 特に49年からは秋田県赤十字血液センターでも成分輸血の製造が始まったことはとても大きな出来事であった。これによって血液製剤の供給体制は大幅に改善され、輸血の臨床的効果も著しく改善した。特に血小板輸血はそれまで出血傾向との戦いであった急性白血病の治療の様相を一変させたと言っていい。要するに患者は出血の恐怖感から解放され、心理的にもより落ち着いて治療を受けることが出来るようになった。主治医も時には1日数回鼻出血の処置に病棟に呼ばれることから開放された。

 

 多剤併用療法の発展と共にそれまで急性白血棒の完全寛解到達率が20-30%程度から徐々に改善し続け、60-70%に迄なってきた。要するに10人の内6-7人は病状が改善し退院できるようになったと言うことである。私が卒業した頃には1-2ヶ月しか生存させられなかった急性白血病は、数年後には大部分の白血病の患者が外来通院できる状況にまで改善した、と言うことで大きな発展であった。私は本当に良い時期に、白血病の治療の本当の黎明期に勉強できた事、白血病の臨床を学べたことを幸せに思っている。

 

 

 しかし、まもなく次のジレンマが生じてくることになった。即ち、せっかく患者も担当医も共に苦労して血液学的に完全寛解状態に持ち込んだとしても、一部の患者は数ヶ月以内に、大部分の患者は1-2年以内に再発し、その後の治療には難渋し、早晩死の転帰を取ると言うことであった。これは治療を担当する医師団としてもとても残念なことであり、再発をを防ぐ治療法をいろいろ取り入れたが目に見える効果はなかなか得られなかった。

 

白血病化学療法の限界の打破のために

 当時の細胞学的知見は当然今ほど解明されていたわけではないが、個々の患者の体内においてすら白血病細胞は細胞の性格も、機能も、増殖過程もかなり多様性があることが解ってきた。従って抗腫瘍剤によって白血病細胞が根こそぎ消滅させることはまず不可能であることは明らかである。

 従って完全寛解に至った後に長期に寛解を維持できた患者は、化学療法への感受性は高かったとしても何か別の因子が働いて再発が抑制されているのだろうと考えられており、おそらく免疫能が働いているのだろうと予測されていた。しかし、客観的に免疫学的に再発抑制機序が証明されていたわけではない。

 

 当時米国においては既に難治性血液疾患に骨髄移植療法が発達しており、日本では金沢大学の血液内科が先鋒となって、兵庫医科大学、名古屋大学などを中心に研究を進め、骨髄移植療法の優位性が徐々に認められ、国内でも研究を開始する気運が高まって来ていた。関東以北では新潟大学で行われていただけであった。

 

 骨髄移植療法は、完全寛解に至った白血病例に更にほぼ致死量に相当するだけのレントゲンの全身照射と化学療法剤を投与して骨髄を空にした後、健常人から採取した骨髄細胞中の造血幹細胞で患者の骨髄を再構築するという激しい治療であり、危険な治療でもあった。当時は骨髄移植の治療対象は30歳代までの急性骨髄性白血病患者で、骨髄細胞供給者としては一卵性双生児または免疫学的に近似した兄弟間での移植のみであった。従って、全ての白血病患者には適応できるものではなかったが、私自身も白血病の再発頻度を低下させるためには骨髄移植の導入以外にはないと考えるに至り、教授の許可を得て検討と実用化に向けて準備を開始した。

 

 最近では骨髄移植と言うより造血幹細胞移植と名称も変わりつつあり、移植細胞も、臍帯血細胞移植、末梢血幹細胞移植、自家末梢血幹細胞移植と広くなり、骨髄移植も骨髄バンクのドナーを提供者とする非血縁者間同種骨髄移植などに発展し、造血幹細胞移植は目覚ましい成果を上げている。

 私が骨髄移植を準備し始めた当時は、一卵性双生児間骨髄移植、HLA合致兄弟間骨髄移植、それに凍結保存して置いた自分の骨髄細胞を用いる自家骨髄移植が主流であった。私もこれの実用化に取り組んだ。既に米国の先進的な研究グループからは移植の前の対策、移植の方法論、移植後の免疫反応の抑制等に関して、頻回に文献が報告されていたし、国内でも骨髄移植研究会が発足しているなど、私が行った準備は創造的というよりは先人が開発した方法を秋田大学の施設やマンパワーに即した方法に作り替えて実践するかの工夫のレベルが主であった。

 

 そうは言っても骨髄移植の準備は多岐にわたる。骨髄移植の適応に向けての対象疾患の設定と評価、骨髄提供者の有無の確認から免疫学的適合性の検査の提出先の検討、リンパ球混合培養による適合性の検討、骨髄血の大量採取方法とその後の処理方法、骨髄細胞凍結保存の検討、移植を受ける患者への各種の薬物の投与計画、全身照射療法の依頼と工夫、無菌室の準備、無菌食の準備、無菌室内の患者の生活の援助方法、移植後の免疫反応の抑制方法、移植チームの結成、無菌操作のマニュアル作り、・・・と、今思い出しても大変な準備を進めたものだと思う。この間、秋大医学部の基礎系・臨床系の多くのスタッフのお世話になった。

 

 私は、骨髄移植を始めるにあたって自分に残された期間は2年間のみ、これが大学での最後の仕事、と自分で決めていたのでこの間に何とか実用化できるように計画を練った。当初の一年半ほどの間は殆ど一人で準備を進め、ある程度目途がつき始めた2年目後半頃からは幹細胞研究グループの後輩医師を中心に6-7人で骨髄移植チームを作り、文献の読み合わせなどを通じて共通の認識を持つようにしつつ、実施の準備をこつこつと進めていった。

 

昭和58年ころ、大学での勉強に終止符を打つ決心をする(1

 私は、昭和48年に秋田大学に入局したが、当時の心境、目標は数年間程度、秋田大学血液班で血液疾患の臨床を学ぶ事であり、その後は出身地である岩手県の、出来れば郷里にそれほど遠くないどこかの医療機関にて医師として働くことであった。それが年老いた両親の望みであったし、私自身も私を育ててくれた地域の人たちと共に過ごす事にそれなりの意義を感じていたからである。

 当時の秋田大学は創生期、発展過程であった。1975 年(昭和50年)4月には医学部に内科学第三講座の開設が認可され、第一内科S助教授は教授に就任した。私ども血液班メンバー10名は第一内科を離れ、第三内科員として独立し、新しい教室の基礎作りに精を出した。

 翌1976年( 昭和51年)3月には医学科第1期生が75名卒業し、第三内科には6名が入局し、同年 8月には新病院(鉄筋コンクリート8階建,地下1)が竣工し、9月には新病院移転し、広面地区にて診療が開始された。 10月に附属病院の診療科として第三内科(16床)が認可される等徐々に第三内科教室としての陣容が整っていった。

 

 血液学の基礎や臨床を学ぶ喜びは大きかったほかに、この時期は私にとっても業務が溢れるほど多く、身辺は結構多忙であり、実に充実した良い時間を持つことが出来た。常に郷里との関係、年老いた両親のことは念頭にあったが、この様な身辺の状況の中、当初の、数年間秋田大学で学ぶ、という期間の設定は次第に薄れていった。一方で、時間の経過と共に秋田の地で徐々にいろいろなしがらみが増えていく。その中で決定的であったのは両親の死去である。これによってほぼ岩手に戻る、戻らねばならぬと言った心の隅に占拠していたある種の義務感はほぼ消失、私は自由な身となった。それと共に、秋田の地でどのようにして医師として過ごすべきか考えなければならなくなった。

 

 大学に移って5年ほど後に岩手県立宮古病院の院長、副院長が秋田に来られ、そろそろ宮古病院に赴任を、と希望された。有り難い話であった。しかし、この頃はちょうど教室にとっても、私の勉学や研究にとっても重要な時期であったために丁重にお断りせざるを得なかった。岩手に帰る漫然とした方向性は持ち続けていたが、具体的な機会はこのときが最後であった。

 その後も約5年間秋田大学第三内科で仕事をさせていただいた。この間、1-3ヶ月間と短期間であるが県内の二つの大規模病院に赴任する機会があった。

 

 大学に移って5年ほど後に岩手県立宮古病院の院長、副院長が秋田に来られ、そろそろ宮古病院に赴任を、と希望された。私自身が恩師のうちのお二人と思っている方々が私を認めて戴き、内科を託すということで誘っていただき、本当に有り難い話であった。しかし、この頃はちょうど教室にとっても、私の勉学や研究にとっても重要な時期であったために丁重にお断りせざるを得なかった。岩手に帰る漫然とした方向性はその後も持ち続けていたが、具体的な機会はこのときが一つの大きな機会であった。

 その後も約5年間秋田大学第三内科で仕事をさせていただいた。

    この間、1-3ヶ月間と短期間であるが県内の二つの大規模病院に赴任する機会があった。この赴任を通じて私の心の中には何れ大学を離れ臨床医として生きる方向が少しづつ形作られていった。

 

 初回はある病院の内科を将来的に第三内科がそっくりお手伝いする予定となりその準備役の一人として約2ヶ月間赴任した。その後、そこの病院はずっと秋大第三内科が担当して現在に至っている。その2ヶ月の間に当時の副院長が担当する患者を診療させていただくことがあったが、緻密な考察と綺麗な字で整然と書かれたカルテを見て感嘆した。また、副院長が淡々と語った臨床医としての医療観からも多くを学ばせて戴いた。この時、私自身が医師になる時に抱いていた臨床医としての姿。初心を忘れかけていたことに気付かされた時でもあった。

 

 次の赴任の機会は全く思いがけなく訪れた。

 

12月の末、年末年始休暇に入らんとする頃、ある病院に12月初旬から短期赴任していた医局員の一人が、その病院の内科の責任者である科長と意見が合わず、戻って来るという予想外の出来事が生じた。人選そのほかについてやりくりしたが、何とも解決できなかった。その過程ではその病院の内科にはこれを最後に医局員を赴任させるべきではない、関係を絶ち切るべきであるとのとの強硬な意見もあったが、当時医局長であった私は新年早々から急遽2ヶ月間、この医局員に代わってその病院に赴任することとした。医局員が途中で戻ってきたことに対する責任を負わねばならないという立場上の意識と、その病院と第三内科との関係、関連については県内の地域医療の充足のためにも決して軽視すべきでなく、将来を見据えた調整の必要性があると考えたからである。?? その年、秋田県地方は降雪量も多く、厳寒の最中の赴任は大変であった。この季節、宿舎に一人で寝泊まりするのも決して楽ではなかった。? 赴任後、数日間は診療終了後この科長といろいろの件について夜が更けるまで話し合い、時には激しく対立もした。かなり個性の強い科長であり、医局員が戻るに至った件についての説明もその論旨には必ずしも納得できなかったが、何とか今後のことも調整することが出来た。その際、その科長は内科の基礎作りがうまくいく方向性が確認された場合には、自分としては身を引く積もりである、との意向も提示した。勿論、それを私は額面通りに受け取ったわけではない。?? この科長との討論を通じて納得できなかったこともないわけではなかったが、患者を大切にする臨床医としての考え方には共感できたし、言葉の中からだけではなくその診療に関する真摯な姿勢からも学ぶことも少なくなかった。この2ヶ月の赴任の間に、私は40歳を迎える前には大学を辞め一般病院で一臨床医として診療にあたること、イヤ、そうするべきなのだと決心した。?? 骨髄移植に関する仕事を自分で2年間だけと限定して進めた理由は上記に示したとおりである。なお、私が影響を受けた、かの科長は予想通りその後も身を引くことはなく、第三内科医局出身のスタッフ共それなりに協調し、内科部門を大きく発展させたようである。彼は数年前からはその病院の院長の重責を担っている。

 

骨髄移植を実施する(1

 2年間の期間を自分に課して準備をしてきた骨髄移植は、第三内科のスタッフ、新潟大学の移植グループ等の協力を得て着実に実用化の方向に進んでいた。

 私が骨髄移植を準備し始めた切掛けは急性白血病の予後改善のためであったが、ちょうどこの時期、20代男性の重症かつ難治性再生不良性貧血の方を主治医として受け持っていた。一年以上に及ぶ内科的治療のほぼすべてを行ったが徐々に状態は悪化し、万策も尽きており、貧血の進行は早く、白血球数、血小板数もずっと危険域であり、近々感染症とか出血で厳しい事態を迎えることが危惧されていた。

 骨髄移植は重症再生不良性貧血にも適応になるが、その場合の実施時期の理想は診断直後である。この方の様に輸血を含む種々の治療を長期に行った方への骨髄移植は一般的には適応からはずれる。しかし、米国の文献にはこの様なケースでの骨髄移植成功例も何例か記載されていることから、もし、免疫学的に兄弟間で合致すれば治療の一つとしての可能性は残る、と言うことでご家族の合意の基で妹さんとの間での適合性の検討を開始した。結果的には免疫学的に型の上で適合し、リンパ球混合培養も低反応であったために治療法の一つとして可能性が急上昇した。

 この時点で、本人、ご家族と何度も面談し、第三内科では初のケースになること、再生不良性貧血への骨髄移植としては一般的適応からは外れていること、場合によっては移植された幹細胞が生着しない可能性があること、その際は現状以上に危険な状況に陥る可能性があること、移植後一ヶ月間は無菌室ないでの自活が基本であること等を説明した.

 患者本人は自分の病気の状態、おかれている状況を良く理解し、その説明に納得し。ご家族も同意された。第三内科としても種々検討を行い、最終的に教授の同意も得られ、骨髄移植の実施が決定した。

 

大変であった事前の準備

 この難治性重症再生不良性貧血患者の治療方針は骨髄移植と決まった。その後しばらくは、骨髄供給者である患者の姉に対する安全性の確保対としての自己血採取と保存、秋田赤十字血液センターとの交渉、全身麻酔下採取に伴う中央手術部との交渉、患者への全照射療法のための放射線科との交渉、無菌食提供のための給食との交渉、患者の消化管内無菌化、体表の無菌化で薬剤部との交渉、生活物資の無菌化、無菌室内での自立生活のための指導、スタッフによる無菌的治療や検査、生活援助のためのガウンの用意やガウンテクニックのシミュレーション、移植骨髄中の造血幹細胞の測定、第三内科医局員による移植前後の担当割り当てなどため院内各部署を奔走した。

 恐らく、今では骨随移植自体が簡素化しているものと考えられるが、当時の、かつ初めての例での施行に関しては治療計画上の問題からの不手際など一切許されないことから、落ちがないように経時的な行動計画を立てた。この間の準備は思い出すだけで息苦しくなるほど大変なものであった。

 

 移植当日にはアドバイザーとして新潟大学第一内科からS医師、彼は基第三内科員でその後新潟に移り骨髄移植を含む血液の臨床も担当していた、を招聘し全体的な流を監修していただき、私は統括的監督で各部門を回って歩くこととした。

 

 骨髄移植は実施日の数日前から前処置を開始し、移植当日は供血者からの骨髄血採取と患者への全身照射等の処置とが同時進行で、各々異なった部署でたが、担当部門毎に全てがほぼ順調に進行し、全体的に見ても特記すべき問題点を生じること無く終了した。

 

 採取した骨髄血の量、有核細胞数共に十分で、2週間後に判明した骨髄幹細胞の数も先ず十分であった。骨髄提供の姉も無事退院した。あとは移植された細胞が拒絶されないこと、患者の骨髄が無事再生してくること、それまでの間の約3週間、患者が大きな合併症を生じないよう最新の注意をしつつ見守るだけである。

 

移植後比較的順調であった患者

 この難治性重症再生不良性貧血患者の骨髄移植は高いリスクを伴うものであったが、移植そのものは全て予定通りに行われた。その後の基礎的検討でも十分量の幹細胞を移植できたことが確認された。

 患者に予想される当面の危機は第一は拒絶反応で、移植された幹細胞が患者の骨髄に生着できないことであり、第二は生着してから骨髄が再構築され機能してくるまでの間の低免疫状態を無事切り抜けられるか否かである。第一、第二の問題が切り抜けられたあとは更に重大な免疫学的な危機(GVHD)も待ち受けているが、先ずは当初の危機への対応である。慎重に慎重に対応したが、患者の病状や状態は予想した以上に平穏であった。

 末梢血液の白血球数、血小板数は予想の如くに減り続け貧血は進行したが、2週間過ぎ頃から期待していた通りにいずれも少しずつ始めた。後に染色体分析で患者の血液細胞の大部分は男性型から女性型、即ち、骨髄提供者である姉由来であることが分かり、生着も確認された。まだ予断は許されないがこれで当面の危機は乗り越えられる見込みがついた。

 患者は一ヶ月近く無菌室の中での生活にも耐えたが、この間ずっと無菌室を出たら、退院したら「ラーメンを思いっきり食べたい」と話されていた。移植後約一ヶ月後には無事退院できた。その後外来でGVHDの予防処置をしつつ経過を見たが、先行きは決して楽観は出来ない状況にある。「移植を受けて良かったです。ラーメン毎日の如く食べています」と言う患者の言葉、明るい表情に救われた。

 患者はその後、GVHDの徴候が現れ、当時考えられる対応は全て行ったが進行性に増悪、移植後約3ヶ月後に残念ながら死亡された。

 私どもにとっては貴重な経験であった。この患者にとっては真の意味でどうであったのか、未だに考えることもあるが、私は結論を出せないでいる。

 この方への移植の後、私はそれほどの時を置かず後輩に道を託して秋大第三内科を辞した。

 20数年前のことを思い出しつつ記載したので記述は不十分で不正確なところもあるであろう。しかし、その後、骨髄移植療法は第三内科で大きく発展している、と聞いている。この辺の詳細について私は殆ど情報を持たない。しかし、最近難治性の血液疾患の方を第三内科に紹介したが、その返事に、最終的には骨髄移植で治療するか否かの検討に入っています、とあった。

 

自伝 秋田大学時代   昭和59年初夏、教授に退職のお願いをした?

 昭和59年は骨髄移植の実施に向けて準備に没頭していたが、その一方で、その前の一年間いろいろ考え、既に決心していた大学病院での勉強に終止符を打つための自分の中ではいろいろ準備を進めていた。 

 大学を辞す理由として、当時は、以下のようなことを考えていたように記憶する。●本来自分は田舎医師の孫として生まれ、幼少の時から医師のイメージがそれなりに出来ていたが、大学病院の医師としての姿はそれからかけ離れていた●医師になる際にも、卒後も、大学にいる間もずっと税金のお世話になってきたが、そろそろ市井の一臨床医として社会にお返しすべきだろう。●もともと大学には数年間程度、血液の臨床を学ぶ目的で入局した●医学部、医局とも創設期であったこともあり、スタッフの一員として比較的長く必要とされてきたが、卒業生も多数医局に入って人的には徐々に充足されてきた。●医局の人事の動きは自分のイメージよりも遙かに停滞していると感じていた。従って、自ら動く事の意義は小さくない。●特に研究面では10数年にわたり多くの機会を与えられながら十分に成果を上げたとは言えない。これ以上続けることは自分にとっても医局にとっても、対社会的にも無駄であるばかりか、むしろマイナスの要素となる。●準備中の骨髄移植の準備はほぼ順調に進んでおり、医局でも血液疾患の治療法としてのコンセンサスが得られ、後輩達の協力も得られてきた。●骨髄移植の協力スタッフ十分に力を付けてきており、私のリードが不要になりつつあった。●その他・・・。もっとあったように思うが忘れてしまった。

 この件については一切誰にも話していなかったが、この年の初夏の早朝に教授室を訪れ、今年度をもって教室を辞したい旨をお伝えした。教授はかなり驚かれた様子で、しばらく沈黙された後、有り難いことに、強く慰留していただいた。私はその時のお話から私自身がどの様な立場に置かれているかを改めて知る事が出来た。私にとってはそれは身に余る程有り難いものであった。その時には結論までは至らなかったが、私は10年以上にもわたって御指導を受けたこと、その間いろいろご迷惑もおかけしたことを含め感謝の気持ちだけは十分にお伝えしたかった。それが出来たかは自信がない。

昭和60年春、退職予定となる

 この件については、更に2-3度、相談する機会を作ってくださり、その度に教授からは思いとどまるよう、強く慰留された。私にとっては身に余る程有り難いものであったが、教授に感謝しつつも、私が40歳を迎える5月前には道を変えたいと固辞し続けた。最終的には私の考えをご理解いただき、翌年3-5月頃に大学を退職するお許しをいただいた。

 教授は退職後の私の身の振り方についてもいろいろ考えて下さるとのことであった。私は、この時点ではまず退職の許可をいただいてから自分でゆっくり考えることとしていたので、そのご配慮についても感謝の意をお伝えしてお断りした。

 随分身勝手な、不肖な医局員と言うことになるが、私自身はインターン制度反対運動の時に大学医局制度についても問題を感じており、大学医局の人事については赴任する、あるいは赴任させられる本人にとっても、受け入れる医療機関にとってもあるべき制度ではないと考えていたからで、この点については自分の意志を通すべき、と考えていたからである。

 退職の許可はいただいたものの、その時点ではまだ先のことはそれほど深く考えていたわけではない。自分で診療所を開く道、県内の大きな機関への就職はまったく考えて居らず、自分の能力に見合ったどこかの医療機関に就職できればいいという程度で何となく考えていたにすぎない。最終的に働く場所がなければ能代で病院をやっている同級生に頼み込めば何とかなるのではないか、どこかの診療所への勤務等も悪くはない、とただ何となく考えていただけであった。

 大学を辞すことを決めた時点では、40歳の節目の前には何とかして道を変えたい、変えるべし、との考えが先行していただけでそれほど先々へのヴィジョンがあったわけではなかった。

一般臨床の再トレーニングを中通病院で、と考えた

 大学を辞すことを決めた夏の時点では、40歳の節目を迎える前には何とかして道を変えたいと思っていただけで、それほど先々への計画があったわけではなかった。

 ただ、一つだけ念頭にあったのは、先々どこの医療機関でどの様に働く事になろうと、今一度自分を鍛えなおさなければ臨床医として通用しないだろう、と考えていたことである。そのための医療機関として候補にあげ、考えていたのは市内にある中通病院である。

 秋大第3内科では第1期卒業生の入局者以降、約半年間ほど大学病院内で研修期間を過ごした後、1-2年県内の大規模病院に臨床研修をお願いしていた。以来、毎年1-3名程度、合わせて20名近くが中通病院で研修を受けたことになる。毎年、研修を終了して帰局してきた若い医師達から研修病院の状況を聞く機会もあり、中通病院はインターン時代から若手医師の育成に力を注いできた病院とのことで、研修医の育成も他の医療機関よりは体系が整っていたような印象を受けていた。

 私は秋田に移り住んでから13年ほど経過していたが、当時、私が中通病院について知っていたのは、私的医療機関であること、カリスマ的(?)院長がいるらしいこと、労働組合の活動が盛んで時折新聞紙上に名前を見ることが出来る事、民医連という組織に関連しているらしいこと、救急や時間外診療を通じて住民からの信頼はかなりあるらしいことくらいである。秋田駅近くにあるらしいが、どこにあるかもよく分からなかった。

 私にとって中通病院に対する知識は上記の程度であったが、その後もいろいろ考え、もし、中通病院で私を受け入れていただけるなら、そこで一般臨床を勉強し直そうと決め、当時第三内科から研修に行っていた医師を介して院長との面談の機会を作っていただいた。

 

中通病院院長室を訪問

 夏のある夕方、予めアポイントを得ていたので直接中通病院院長室を訪問した。瀬戸院長が私を迎えてくれた。瀬戸院長は外科医で昭和30年僅か4床の中通診療所を開設し、500床以上の大規模病院にまで発展させた、秋田の医療界にとっては立志伝中の方であるが、私にとっては全くの初対面で、お顔を拝見したこともなかった、と思う。

 瀬戸院長はやせ形でやや小柄な,50代半ばの方で外科医として毎日精力的外来、手術をこなされている臨床医、の様には見えなかった、と言うのがその日の抱いた第1印象である。しかし、ひとたび話し始めると気さくな話しぶりと共に歯切れの良い言葉で、話される論旨は実に明快であった。

 来訪の趣旨はお伝えしていなかったのでどんな目的での訪問なのか訝られていた様子が窺われたので、「来春、第三内科を退職することになりました。臨床医としての勉強のやり直しをしたいので、出来ることであれば私を大学の医局からの派遣としてでなく、医師個人として採用して戴けませんでしょうか」と切り出した。その時の表情は忘れることは出来ないが、とても驚かれた様子であった。

 その後の面談は面接的な内容で、細かいことは忘れたが、何故中通病院を選んだのか、何故医局人事の中で動かないのか、その背景、医療観等について聴取されると共に瀬戸院長自身のお考えをいろいろ話された。最後に、長期的にはどうするのか?との質問があったが「採用していただけるならば、最低3年間はお世話になりたい。その後のことは一切考えていない」とお答えし、その場で採用していただくことになった。

 その時のことを今思い出すと、結果的に20年も働かせていただくことになるなど露程も思っていなかっただけに、人生は分からないものだと思ってしまう。

秋口から春にかけて残務整理?

 中通病院瀬戸院長との面談にて来春の秋大第三内科の退職後の当面の道は決定した。その時以降、日々の診療や学生教育、若干の研究室での細胞培養などをこなしつつ、徐々に残務整理、身辺整理にかかり始めた。時間がないためにまとめることの出来なかった話題やデータについて論文を数編まとめ上げること、と大学生活の間にため置いた膨大な文献、書籍、自分の実験データなどの資料を処分することである。

 大学における13年あまりの生活は私にとってすごく恵まれたものであり、まだまだやりたいことがあった。自分の限界を見定めて終止符を打つ事にしたものの、まだまだ未練は断ち切れておらず、気持ちを整理する必要があった。そのために秋口から休日には時間を見つけては自宅で資料、書籍等を一つ一つ自分の手で再確認しながら全て焼却処分していった。

 現在ではダイオキシンの発生などのために家庭でのゴミ消却は禁じられているが、幼少の頃から私は火を燃やし、物品を焼却処分することが大好きであった。昭和27410日正午頃、このとき私は小学校に入学したばかりであったが、強風の中、我が家を含む11軒が消失した火災があり、我が家はもらい火で丸焼けとなったが、その時に経験した巨大な炎、全てのものを焼き尽くした強烈な炎と熱、煙は私に大きなインパクトを与えた。私は燃え上がる炎を見ているとすごく良い気分になる。その一方では火の後始末に関しては異常に神経質である。

 小学生の時から大学2年ほど迄、田舎の家を手放す前には家中の廃棄物を集め、裏の畑に深く掘った穴の中で燃やすのが私の仕事であった。

 秋田の自宅でも禁止になるまでは焼却炉で何でも焼いていた。毎年2-3ヶの焼却炉を高熱で駄目にしたし、ご近所にはニオイ、煙,灰などでいろいろと迷惑をかけてしまった。

 退職を決意した年、集めた資料を秋から春までかかって全て焼き尽くした。取っておこうかと逡巡したものもあったがあえて全て焼却した。この作業を数ヶ月続けたが、この作業を通じて心の迷いはほぼ消失した。


 医局人事から離れて

 中通病院へ一定期間就職することは誰にも相談せず一人で決めたことであった。別に公表するべき事でもないために自分からは話すことはなかったが、この様な話はどこからか伝わってくる。年末頃からは医局でも知られることとなった。大部分のスタッフからは医局を去るのはまだまだ時期尚早、しかも、何で中通なのか?と言うことも含め随分慰留された。特に当時の助教授からは私の将来のために中通病院より、より相応しい病院選択をすべき、と別の公的病院への赴任を強く勧められた。実に有り難い話であった。今でも感謝している。

 私が医局を辞し、いわゆる医局人事と関連から離れ、医師個人として中通病院に就職すると言う考えのルーツは、私が医師になってから直ぐに赴任した岩手県立宮古病院で働いていたときからの考えである。

 宮古病院では中堅どころの医師は東北大学の医局から派遣されてきていたが、病院の運営、特に人事面で大学が少なからぬ影響力を持っていたらしいことを体感できる事象が何度か耳にした。

 大学から数ヶ月から1-2年程度派遣されてくる医師はその病院の持つ歴史とか特殊性とかを全く理解することなく、与えられた最小限の仕事をこなすだけで、暇をもて余している状態であった。そのしわ寄せは私どもに大幅に降りかかってきた。仕事上の考え方もやり方も大学の方法を無理矢理押しつけてくるし、患者急変時も連絡がつかないなど、彼らは医師の中では完全に異分子的存在であったが、病院側はすごく気を遣い、給与は別体系で私どもより遙かに高額であった。ときに教授が訪れて来たが、病院を挙げて迎える準備するなど実に大変で、私は学生時代の医局講座制反対の立場で運動したことも含め大学医局に良い印象を一切持てなかった。また、いい年をした医師が医局人事として次々に転勤していくことも理解できなかった。

 勿論、中には大学で勉強することの意義や夢、研究中のテーマ等を歩く語ってくれた医師もいたが少数であった。

 このときの経験、印象から私は大学の医局長のときには、短期赴任する若い医局員には、赴任期間は出来るだけ大学に戻ってこないで、24時間その病院の医師になりきるよう言葉をかけた。しかし、真意は伝わらなかったようである。私が、中通病院に就職するにあたり、まず退職、次いで病院探しと順序だって事を進めた背景には上記のような事情がルーツである。

自分が、大学での勉強を終えて就職する際には医局人事から離れるべきであろう、と思い続けていたから、それを実行しただけである。

 

自伝 秋田大学時代 4(1973-1985)へつづく








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