自伝 秋田大学時代 2(1973-1985) 

札幌での学会の帰路、機内で膀胱尿管逆流現象を体験

 毎年秋には日本臨床血液学会総会が開催される。多分、昭和53年だったと思うが、札幌で開催されいつもの如く参加した。学会そのものには一般演題を出して発表したことは覚えているがあまりはっきりした記憶ではない。その時は、何らかの所用があって3日目の最終日は学会に参加しないで午前の便で帰路についたように記憶している。

 往路は夜間飛行であったが揺れも少なく順調に飛行し快適に札幌に着いたが、帰路は天候が不良で当時のYS-11機は大揺れに揺れた。コーヒー等を飲んでから登場したことと、揺れによる過緊張もあったのだろうが、津軽海峡上で尿意が生じてきた。しかし、揺れのために終始ベルト着用で洗面所の使用は禁止されていた。時間と共に尿意はますますひどくなって来たが、この状態ではどうすることも出来ない。手の指先まで含めて全身が膀胱人間になったような気分でひたすら耐えていた。

 

 YS-11は双発のターボプロップでジェットエンジンではあるが推進力はプロペラで得るタイプ。そのために5-6mの高度で、時速470Kmほどで、最近のジェット機よりずっと低い高度で約半分の速度で飛ぶ。この高度は気流の影響を受けやすい高度だという。

 ガタガタと小刻みに、時には大きく揺れながらゆっくりと飛行を続け、弘前上空あたりから徐々に高度を下げ始めたが、機は遅々として進まない。何でこんなに鈍いのだと私はYS-11を呪ってしまった。

 ところがまもなくしてそれまで強烈であった尿意がスーッと楽になり、同時に強烈な腰痛が襲ってきた。これは膀胱尿管逆流現象の症状である。しばらくすると今度はかなりの全身倦怠感が生じてきた。

 
 この時の全身倦怠感はかつて経験したことんが無いほどであって忘れられない。座席に座っていることも辛い感じであった。両側の尿管・腎盂が尿をためる状況になったお陰で、何とか尿意が軽減したために着陸まで尿意を無事耐えることが出来た。秋田空港に着陸し、トイレに飛び込み、排尿した際の開放感、幸せな感じは何とも言えないものがあった。この際にも両側に強烈な腰痛が走ったがこれは排尿のために加圧されたため尿管・腎盂が一時的に更に拡張したためであろう。

 

 これで緊急の問題としては一段落したのであるが、その後数日間は尿意を我慢していると軽度ながら同様の状態が再現され、同様に倦怠感も生じていた。恐らく機能的に逆流しやすい状況になってしまっていたのであろう。

 泌尿器科を受診すべきか迷ったが徐々に状況は軽減しつつあったので、しばらくは膀胱を過伸展させないよう配慮し、尿意を感じる前に排尿するようにして様子を見ることにした。幸いなことに、それによって逆流を疑わせる腰痛、倦怠感は一週間後頃には軽減し、いつぞや消失し、体調は完全に回復した。

 

 何でこの様な状況になったのかを考えると、私は幼少の頃から友人達に比較すると尿線が細いようで、排尿時間が長かった様に記憶するし、何故か解らなかったが気にしてはいた。そのために排尿に関しては劣等感があり、いわゆる連れションはとても嫌であった。大学の講義の中で排尿に関する部分は関心がひときわ高かった領域であり、熱心に聴き、自分でも求めて勉強したがが、恐らく膀胱頚部硬化症とか、これに近い状況が備わっていたのではないかと自分では考え、納得していた。そのために膀胱尿管逆流現象が生じやすい状況になっていたのではないかと推定している。排尿に関する状況は基本的に現在まで改善も悪化もせずに続いているが、今後加齢と共に変化して行くことであろう。

 

膀胱尿管逆流現象体験と母の死を機会に住宅を購入する決心

 ちょうどこの頃母が死去した。母は肝・腎に嚢胞性疾患があることは諸検査にて予め知ってはいたが、病理解剖にて諸臓器に及ぶ、予想以上の激しい嚢胞性変化を見て私は衝撃を受けた。濃厚に遺伝するタイプの様に思えたからである。更にこの時期、我が身に生じた膀胱尿管逆流現象である。これも同様に自分にとって衝撃的な出来事であった。

 

 それまでは先のことなどもロクに考えず比較的自由に、気ままな考えで過ごしていたが、この先自分がどうなるか解らないから家族達のために生活の基盤を固めなければなるまいと心を変えた。その時決心したのが住宅の購入である。

 この背景には賄いの石井さん家族3人との同居で住居が手狭になっていたこと、我が家の4人にまもなく更に子供が一人増える予定にあったこと、盛岡で母の死後頑なに独り暮らししている老父を何れは私が引きとらなければならくなるだろう、と言う事情なども背景になっている。

 

 家内を始め、家族達は私の急な心変わりを何と感じたか解らないが、もともと悪くはない選択であり、賛同してくれた。いろいろ理由は説明したが、自身の体調の変化についは誰にも話さなかった。このことはこの徒然に記載する今日に至るまで誰にも話していない。

 

 何故、自宅の建設でなく、購入を考えたかのかというといろいろ理由はあるが、第一の理由は考えるのが面倒だったと言うことに尽きる。だから私は既製品、すなわちプレバブ住宅の購入の方向で検討を進めた。住宅はある程度以上の広さがあれば、あとは機能的に住めればいい、と割り切っていた。当時プレハブ住宅は大型のもないわけではなかったが概して小作りで、坪当たりの単価も注文住宅よりはずっと高額であった。その中では49坪タイプの製品が見つかり、サイズ的には過不足無いだろうと考えて購入を決めた。実際には台所の一部、居室の一部を増築する事にしたので54坪ほどになった。

 

 

 住宅の購入を真面目に検討しつつあった頃、昭和541月に次男が誕生し、我が家は5人家族となり、賄いの石井さん母娘を併せると8人家族となった。さすがに一般的サイズの組合病院の社宅はさすがに手狭になったために急ぎ決断した。

 土地は既に知人を介した紹介があって、古い住宅込みで昭和48年頃に購入してあったので住宅を撤去してそこを利用することとした。250坪程度の広さがあったが、農家の旧村落内で道路が細く長い。更に行き止まりの場所であって宅地としては必ずしも良い条件ではなかったが、私は新興住宅地の様な区画の場所は好まず、一定以上の広さは欲しいと考えていたのでそう深くは考えずに購入して置いた。

 

 昭和50年ほど前に家内の姉がその土地の一角に住宅を建てて既に住み始めていたが、そのために私どもが別の一角に住宅を建てるには問題点が多少 存在した。この土地への2軒目の新築は、改正された?消防法上の問題から認められない可能性があること、水道管が2軒の家をまかなうのには細すぎたと言うことであった。前者は担当してくれたミサワホームの営業マンが何とか解決してくれ、後者は数10mの式設工事を行うことで解決するなどで乗り切ったが、水道工事に250万円ほど余分な経費がかかった上、市の検査を通る迄は違法建築としてチェックされるのではないかと心安らかではなかった。

 法とかに疎いと言うことはいろいろ問題を抱える可能性があることを体験しただけでも無いよりは良かったと言うべきであろう。

 

初の国際学会に参加 カナダに(1

 昭和55年夏、カナダで開催される国際血液学会に約2週間の行程で参加した。詳細を記録した資料が手元に見つからず、多くは忘れてしまったために思いつくことしか記述出来ない。秋田大学第3内科からは確か教授以下5名ほどの参加で、私どもが契約した旅行社には全国から25名ほどの血液学関連の研究者が参加していた。私はそのメンバーの中では最も若輩であった様に思う。

 国際学会への参加と言えども今回は演題を提出したわけでなく、どんなものかな?一度くらいは参加して見ようか、と言う程度の気楽なものであった。当然全額自費での参加である。ツアーの宿泊はツインの部屋が基本であったが、私は四六時中誰かと一緒というのには耐えられなかったので私だけシングルの部屋を注文した。そのために約15万円ほどの追加の出費が必要であったが、それ以上に何故に?と仲間達に怪訝な顔をされた。

 

 成田空港に正午に集合と言うことで、私だけ別行動で、確か前日の寝台特急あけぼので上京、新宿エアターミナルよりバスで成田に向かった。私にとって初の海外旅行で、不安半分、興味半分と言うところであった。

 今なら直通でも行けるとは思うが、当時は米国大陸、ヨーロッパ大陸便はすべてアンカレッジで給油していた。成田-モントリオール間は全日空のジャンボ機。エコノミー席だから主翼のやや後ほどの座席が割り当てられた。

 出発の時間になってもさっぱりその気配がない。何分か経ってから操縦席の機長より「エンジントラブルのために修理に1時間ほど必要です。詳細は後ほど・・・」とのことで機内でじっと待つ。アンカレッジまでの約8時間もの間、緊急着陸出来る場所がない洋上を飛ぶのに果たして大丈夫かいな、と心配したが、飛び上がってから故障するよりは良かろう。もうここまで来るとまな板の鯉同然、任せるしかない。やがて機長から「修理が終了したので間もなく出発します」とのアナウンス。故障の詳細等の説明はなかったが、明るく確信に満ちたような声での放送であり、その雰囲気でホッと救われた気がした。

 

 滑走を始めたが、国内便のジャンボならもう飛び上がる程度の速度になってもなかなか機首が上がらない。やはり国際線の場合には燃料が満タンのために国内便よりも遙かに重く離陸速度ももっと必要なのだろう。やがて機種が上がりゆるゆると上昇していく。やはり、国内便とはちょっと雰囲気がちがっていた。

 

自伝 ANC(アンカレッジ空港)に降りてみて異境の広大さに驚く

 成田空港を発って約8時間、何時下を見ても海面ばかり。エンジン音は単調に何事もなかったが如く飛行した。陸地が見えてきたときは何となくほっとしたものである。実際には何かがあれば海上であろうと陸地であろうと大差ないのだが心理的には全く別ものである。早朝だったと思うが無事に霧濃いアンカレッジに到達した。広大な空港である。インディアンの顔が垂直尾翼に描かれたアラスカ航空の飛行機が数機、日本航空と鶴のマークの飛行機も数機見える。

 

 アメリカのアラスカ州の人口の半分の約20万人がアンカレッジに住んでいると言う。面積は日本の約4倍もあるから、想像できない低人口密度である。

 飛行機は給油と整備のために60-90分ほどかかるというので全員下ろされる。空港外に出ることは許されないからそぞろ歩いて時間をつぶす。空港はとても寒く、閑散としていた。海産物、民芸品を中心とした売店が並ぶがあまり売れているよう雰囲気はない。国際線ターミナルの客の大部分はこれからまもなくまた数時間も飛ばなければならないから買う気にもならないのだ。

 

 今はアメリカに行くのにほとんど直行便となった。それだけ飛行機の航続距離が伸びたということ。ヨーロッパには今はシベリア上空を飛んでノンストップで行くから約12時間であるが、この当時はまだ西側の飛行機はシベリア上空を飛べず、アンカレッジで給油して北極上空を飛んでいくのが普通で、約17時間もかかっていた。アンカレッジ空港には日本人専用の免税店もあった様な記憶がある。日本人観光客が殆ど立ち寄らなくなった今、あの免税店などはどうなっているのだろう。また。アンカレッジ空港の国際線はターミナルなど、まだあるのだろうか。時代の流れはそこの文化を根底から変えることにもなる。厳しいものである。

 

アンカレッジからバンクーバーへ、更にモントリオールに

 アンカレッジからは運行クルーが全員交代となった。8時間ほど閉鎖空間を共有したという仲間意識からか些か寂しさを感じたものである。アンカレッジから同じ飛行機で約5-6時間南下しバンクーバーへ。この間、窓からはずっとロッキー山脈の峰峰を見ることが出来た。何時間も全く途切れること無く山岳地帯が続き、日本上空では絶対に味わうことも予想すらも出来ない巨大なスケールで圧倒された。

 

 バンクーバーは太平洋に面した沿岸の都市である。ここの地名は当時日本人指揮者の秋山氏が常任をつとめていた交響楽団の名称を通じて知っていた程度で、全く知識はなかった。ここの空港ではどこもかしこもメープルマークで溢れ、かつエリザベス女王の肖像が至る所に掲示されていて違和感を持ったが、カナダに着いたのだと実感した。

 ここで2時間ほど過ごしたが、最初の両替の時に「to Canadian dollars,please」らしいことを言って差し出したら係員がにやっと笑って「Oh!! Two Dollars only??」と言って2ドルだけよこした。勿論、その後全額をよこしたが、実にウイットに溢れていた。概して窓口担当者はジョークが好きらしく、不慣れな私等はその度にただちには意味が分からず一瞬、一瞬フリーズしたが、笑顔を伴っているために不安な感じは全く抱かなかった。

 

 メープルマークのAir CanadaBowing727機にてモントリオールに向かった。モントリオールには北アメリカ大陸を横断することになるが、さすがにロッキー山脈を越えるときは機は大揺れに揺れた。

 

 

 メープルマークのAir CanadaBowing727機にてモントリオールに向かった。モントリオールには北アメリカ大陸を横断することになるが、さすがにロッキー山脈を越えるときは機は大揺れに揺れた。

 

バンクーバーからモントリオールへ 山岳と湖沼の広大な米国大陸

 バンク-バー国際空港を発って十分に高度を確保した機は間もなくロッキー山脈にさしかかる。ここから1500Kmほど山岳地帯の上空を飛ぶ。窓から見える山々は壮大ですごく険しそうに見える。最初は驚きもしたが、約2時間半同じような景色の上を飛んでいると感覚は麻痺してくるが、この広大さこのスケールの大きさは何なのだ!! と別の驚きが沸いてくる。

 秋田から伊丹あるいは関西空港に向かうと美しい日本アルプスの山並みが見えるがスケール感が全然違う。ロッキー山脈には美しさではなく険しさそのものを感じてしまう、これでもバンク-バーからの飛行ルートはロッキー山脈としては幅が狭く、山々も低いとのこと。サンフランシスコ、ロサンジェルスからアメリカ大陸を横断するときのスケールは更に更に大きいのだと言うから驚く。

 

 機はその日の気流が良くなかったためだろう激しく揺れた。天井の荷物収納庫の扉が今にも開き荷物が頭上に落ちてくるのではないか?と心配になるほどで小刻みにあるいはおおきな揺れに翻弄されながら飛んだ。自身の寿命も若干縮んだ様な気がしたが、本当に旅客機は丈夫に出来ているものだと感心したが、こんなところを連日飛べば機としての寿命も短縮するのではないだろうか、とも感じたほどであった。

 2時間も飛ぶとさすがに山岳地帯は徐々に平坦な地形に変わっていき、揺れもそれにつれて小さくなっていく。地形が平坦になっても一面荒野である。とても人が住めるような状況ではない。鉄道や道路などの形跡は全く見られない。恐らく人は一人も住んでいないのだろうと思う。やがて広大な平坦地になるが、今度は徐々に大小の湖沼が眼下に広がる。湖沼は海の一部かと思えるほどのスケールのものから小さなものまで様々で、場所によっては故障の面積が森の面積よりも広く占めているところさえあった。

 カナダは広大な国土を持っているが、人が住めるところと言えば、その割には広くはない。大部分が氷雪地帯、山岳、森林、湖沼によって占められ、自然豊かと言うか厳しい国土なのだと感じ入った次第である。

 

 

モントリオールへ 6日間国際血液学会に皆出席したが全く記憶に残らず

 モントリオールは高層ビルも並ぶ、近代的な巨大都市であった。しかし、東京とかから受ける印象とは全く異なって、高層ビルとかも密集はしていない。道路も十分に広いために空が広いと感じた。宿泊はRitzCarlton Hotelで、伝統的というか古式ゆかしい調度類のあるホテルであった。

 

 肝心の国際血液学会は、確か6日間の予定で開催され、一応、全日出席したが、内容的には全く記憶にない。何しろ、一般演題の口演も特別講演もスライド内容だけは何とか判読、理解出来るものの、nativeな英語での演者の場合には内容はとても理解出来なかった。従って学会内容は、その雰囲気だけは朧気ながら記憶にあるものの、具体的には記憶に残っていないのはほぼ当然である。いや、忘れてと言うより始めからインプットされなかった、と言うべきであろう。

 この時の1週間の国際学会の経験を最初に、かつ、最後にして私はそれ以降一切国際学会等に参加していない。身の程を知る良い機会であったと言いうる。

 

 私の英語なんて実際ひどいものである。この旅行の最中だけでも両替の時に「Exchang to Canadian dollars」と言って2ドル出された事を始め、レストランで「水(water)が欲しい」と言ったらbatterを持ってこられたり、一人で食事して支払いに困ったり、そんな事象を挙げるには事欠かない。

 

 早朝はよく市内を散歩した。ホテルの近くにはモントリオール大学があり、守衛にちょっと挨拶すると自由に入らせてくれた。広い構内は殆どが芝生で被われ、立木が散在してる。周辺にはリスが10数匹遊んでいて実にのどかなものであった。子連れの親子も居て子供を遊ばせていたが、子供達もリスを追いかけるわけでもなく、虐めるでなし。子育てにも良い環境のように思えた。

 

 ある夜、モントリオール◎◎合奏団なるものの演奏会が大学にあり聴きに出かけた。バッハ中心の演目であり演奏会自体はそう大きなインパクトとはなかったが開演時間も遅く終了時間は22:00を超えていた。これが夏時間というものであろうか?そんな時間でも月が出ているわけでなくとも夜の空はうっすらと明るかった。秋田より緯度で僅か5度ほどしか北でないが、さらに北方なら、白夜と言われる現象であろうが、その時はそれに近い状況だったと思われる。深夜に目覚めても空がうっすらと明るいのは実に不思議であり、遠い異境の北の地に来ているという実感があった。

  

国際血液学会終了、美しい城壁の街ケベックシティへ観光

 学会終了後モントリオールからグレイハウンドバスにて約250Km北上し、ケベックシティに小旅行した。

   グレイハウンドバスはアメリカ大陸の長距離輸送をほぼ一手に引き受けている代表的会社だとのことで、ハワイ、アラスカ以外の北米国大陸のほぼ全域に路線を持つという。長距離、時には10数時間もの距離を一気に走るので座席間隔は広く、エアコン・トイレ・リクライニングシートと、今から見てもほぼ完全装備であった。驚いたのは1980年当時、日本ではオートマチック車は一部にしか普及していなかったし、大型車、バスやトラックには全く見ることはなかったが、カナダでは乗った全ての車がオートマチック車であった。日本の大型バス、トラックなど、いつオートマチックになるのかと気を付けてみているが、最近でもまだ大部分が5-6速のマニュアル車であることからみて実に不思議な気がしている。それだけ乗務員を大事にしていると言うことなのだろうか?

 

 バスは100Km/h以上の速度でひたすら走る。道は何処までも単純に真っ直ぐでルートは単純。走れど走れど大して景色も変わらない。広大な平野である。最初こそ広大な大陸はさすがすごいと感じ入りながら見ていたがいつまでも変化のない景色も見飽きて、こんな単純な状況で運転手は眠くならんのか、と思いつつ私はひたすら居眠りしていた。そんなことだけ記憶にある。

 

 ケベック・シティはケベックの州都でもあり、セントローレンス川を見下ろすディアマン岬にある。ユネスコの世界歴史遺産都市にも選ばれた城壁都市として有名である。フランス色の濃いケベック・シティは、歴史の重さを物語る落ち着いたたたずまいで心休まるところであったが、いたるところにフランスの国旗がたなびいているのは不思議でもあった。聞くところによるとカナダからの独立運動があるのだという。

 

 広大な土地であるが、城壁の場所ではバスの往来が困難なほど道は狭い。一方、個人の住宅は決して大きくはないが、庭が広く、緑と花が豊かであった。隣とか道路との間にブロック塀などの無機的な構築物は一切無く、開放的で、庭先や窓に洗濯物や布団を干している家は一切見られなかった。個々の住宅や庭は、地域の風情に見事に調和していて、私いとっては大きな印象として残っている。

 

バンフ国立公園観光  ルイーズ湖、 ビクトリア山など

 一度モントリオールに戻ったか否かは想い出さないが、次ぎにカルガリーまで空路移動、バンフ国立公園に立ち寄った。ここはカナディアンロッキーの東側の有名な観光の拠点である。代表的名所は、湖と氷河に被われたビクトリア山との調和の取れた風景が一枚の絵画のようだ、とあまりにも有名なルイーズ湖。この湖はカナディアンロッキーの宝石と讃えられており、絵葉書に取り上げられる風景の代表、と言う。ビクトリア女王の娘、ルイーズ・キャロライン・アルバータ王女にちなんで名付けられたロッキー屈指の湖。そう言えばこの地域全体がアルバータ州でもある。

 

 カナダにいる限りどうしても解けない謎は英国との関係で、至るところにエリザベス女王の肖像が飾られ、地名にも英国王室関連の名称がふんだんに使われている。立派な独立国というのに、といちげんのヨソ者にはよく理解出来ない。英国とカナダとの長い歴史の賜物であろうと無理矢理納得するしかなかった。

 

 湖は標高 1,731mにあり、夏であるにもかかわらずかなり寒い。その日は日射しが強く助かった。氷上観光ツアーというのがあり、仲間数名と参加した。ジープタイプの4WD車で途中まで上り、雪上車に乗り換えて氷河の上を歩いて観光するコースである。雪上車の運転は乱暴で何たることかと思ったが、プロレスラーの如くの巨体の20歳代後半と思われる、金髪のドライバーは、何と酒を飲みながらの運転で驚いた。公道でないからゆる許されているのか解らないが、それでも手慣れているのだろう、運転の技能は優れており、危険な感じは受けなかった。

 氷河自体は遠くから見ているときは美しいが実際に上ってみると氷の面は薄汚く汚れ、観光客達が捨てたと思われる紙やビニール類がへばりついていた。氷上には時々注意を促す小さな看板が立っており、その傍らには氷の亀裂が見られた。氷河の割れ目で、深さは数10m、時には数100mもあり落ちたらまず助けられないのだそうだ。にもかかわらず危険防止のネットが張ってあるでもなく、訪れる各人の良識に任されている様であった。

 

 バンフでは2泊したように思うが、覚えていない。このバンフ観光を最後に私どもは帰国の途についた。

 

仙台上空で富士山が見え、狭い日本を実感

 国立公園のバンフからカルガリーに戻り、空路バンクーバーに移動、ここでJALに乗り換え、アンカレッジ経由で帰国の途についた。家内には暖かそうな革製の手袋、子供達にはエアカナダのマークの入ったボーイング727のミニテュアを購入したように記憶している。

 海上を飛行していたときは夜間で暗闇の中、かすかに海の上と認識出来るものの、殆ど何も見えない状態で約6時間ほど、カムチャツカ半島脇を通過していると思われる頃に夜が白々と明け始めた。行けども行けども海ばかり、狭い座席にじっと耐えているとさすがに地球は大きいものだと感心した。北海道東端を通過、三陸から仙台上空を通過する頃は丁度朝8時頃で快晴であったが、方向転換のためにバンクしたときに関東地方の景色も朧気に見えたが、その向こうに富士山の頂上がくっきりと見えた。まだ仙台上空である、いくら何でも富士は見えないだろう、富士山に似た山が東京以北にもあるのか?と当初は思ったが、どう考えても富士以外はあり得ない。実際には成田に近づくにつれ本物の富士と分かったがこれはショックであった。

 

 数時間飛んでも殆ど景色が変わることのなかった広大な海、北米国大陸を始め、カナダの広大雄大な自然、ゆったりとした街作り、低い人口密度など、わずか二週間であったが別世界を味わってきた状態で日本の狭さを目の当たりにし、この瞬間にもとの生活に戻る現実を自覚した。これと似たようなことは秋田-大阪便を利用したときに眼下に能登半島がそっくり見えたときにも味わったことも思いだした。

 成田に降り、昼頃のJRにて秋田に移動、特急の座席で数時間、秋田に着く頃はもうすっかりいつもの自分にもどり、翌日から多忙な通常の生活に戻った。

 

 私にとってこの時のカナダへの旅は、初めての外国旅行であった。国際血液学会のことは何にも覚えていないが、その後の自分にとって、地球とか自然環境とか、国家についてもいろいろ考えさせられた。とても有意義な体験として今でも確実に活きている。

 

 

 

「官舎を又貸ししている悪徳女医を糾弾する」との投書を貰う 

 秋田に来てしばらくは秋田組合総合病院の官舎に住まわせて頂いた。

 最初は土崎港一丁目にある官舎で、街中にあり買い物等にも便利でそれなりに良かった。私にとっては「Hレコード店」が200mほどのところにあったことが良くて時間を見つけては訪れていた。私が現在所持しているレコード、LDCD80%以上はおそらくこの時期を中心にこの店から購入したものである。一方、交差点の近くなので大型トラックの音には悩まされていた。3-4年は住んだだろうか、隣に「M電気店」が開業し、音楽やコマーシャルのテープ等の音がわが家にも飛び込んでくる状況になったのを機会に将軍野にある官舎に転居した。

 

 ここは前の官舎に比べれば自動車の通行量も少なくより静かで良い環境であったが、同居することになった賄いの石井さん家族を入れての7人家族には狭いのが悩みであった。

 住んで一年ほどした頃であったであろうか、分厚い封書がわが家に届いた。差出人の名前はない。不審に思いつつ開封してみると大きな字で便せん5-6枚にわたっていろんな事が書いてある。大部分は忘れたが、その要旨は「そこは、組合病院の官舎であるにもかかわらず、内科医の福田はこの住宅を何処かの母子家庭に又貸ししている様である。このようなことは社会的にも許されるものではない。医者ともあろうものが・・、クドクド・・」と言う内容である。

 

 内容的には、勿論100%間違いで、我ら夫婦は通常と何ら変わらずほぼ毎日帰宅して居たのであるが、早朝に出かけ、夜も遅く帰っていたし、土日も殆ど家にいる時間より病院です過ごす時間の方が多かったことは確かである。住んでから一年以上もたつし、少なくとも近所の方々、町内の方々には会えば挨拶程度は交わしていたから解っているはずであるから何処か遠方の方だったのであろう。

 内容的にはただ笑うだけのレベルでしかない投書であるが、そんな風に見ているヒトも居るんだと感心する一方、二人とも子育ての大部分を賄いの石井さんに任せきりにし、共にじっくり家庭で過ごす時間が少なかったことを反省する良い機会となった事は確かである。

 

 

 

 一本目のチェロ(Vc)購入

 私は今まで自分用に2本のチェロ(Vc)購入した。

 大学入学時にオーケストラ部に入部しヴァイオリン(Vn)をやることになり、間もなく「鈴木の特3」という量産型の、半機械半手作りとされるレベルのVnも購入したが、その当時から本心では低音のVcの方をやってみたい、という気持もあった。しかし、あの楽器のサイズは休暇等の際に列車で岩手まで帰省する際には運搬が困難であるし、楽器自体も初心者用セットであっても最低10数万円はしたから私の立場では高額過ぎた。

 次善の選択としてVnを選択した訳だが、この時のVcに対する思いは心の中ではずっと途絶えることなくくすぶり続けていた。

 

 35歳の頃にチェロをやってみたいという気持が高まっていたが、Vcを所持している知人もおらず、秋田では楽器屋に行っても実物はなく注文販売というので決めかね、東京出張等の時に神田の楽器店等を訪れては眺めて物色していた。実際には手にとってちょっとでも弾いてみたかったのであるが、友人のを若干さわった程度なのでその勇気もなくひたすら見るだけであった。

 

 この頃、パイオニアのレーザーディスクでロストロポーヴィチの演奏するドヴォルザークのVc協奏曲が発売になったが、レーザーディスクプレーヤーも持っていないのにとりあえずディスクだけ購入した。それから数ヶ月後にプレーヤーを購入し食い入るように観ながら、いつか自分もVcを手に入れ弾いてみたいとの夢を膨らませていた。

 

 ある日、雑誌「音楽の友」をつらつら眺めていたところ、読者の投稿欄に「Vc売ります。転居により住宅事情が変わり、練習不可となったため。スズキ製、5年ほど使用、購入時セット価格25万円を半額で。東京在住○○」と投稿記事があった。この時何を考えたのか忘れてしまったが、5年も練習に用いたのなら程度も悪くは無かろう、値段も悪くはないし、東京なら何とか取りに行く機会もありそうだし、とりあえず買ってみようかと、ハガキで連絡をとってみた。結果として商談は成立し、数週後に学会か何かで東京出張を控えていたのでその時に東京駅で受け取ることとした。

 このVcが今所持している2本のうちの1本目の楽器である。

 

  日本内科学会か何かで上京し、帰秋する日の19:00ころ、東京駅の構内の約束の場所で構内外を分けるフェンス越しに楽器と現金を交換した。現れたのは25歳くらいの若い女性で、簡単な挨拶と一言二言の言葉を交わしたような気がするが、今は何も覚えていない。

 このやりとりに要したのは僅か1-2分だけ。打合せのハガキ2-3枚と10万円なにがしで、いとも簡単に私の長年の夢の一部はかなえられることになる。実際担いでみると思ったよりも大きく、重い楽器であった。

 当時は東京出張の大部分は通常は寝台車で、いまは「あけぼの」しか残っていないが、1日5-6本は寝台列車があったように記憶する。通常は寝台の下段を確保するのであるが、その日は楽器の置き場に困らぬよう「あけぼの」の最上段を確保していた。当時の寝台列車は三段式で狭く、やや大きめの荷物は置き場に困る状況であった。最上段だとベットと同じ平面に枕元にひろく荷物置き場があるから取りあえず置き場に困らないからである。いつもなら東京文化会館や鈴本で落語や漫才を楽しみつつ時間を過ごしてギリギリに飛び乗るのであるが、その日は楽器の置き場を確保するためにしばらく前からホームに並んだ様に記憶する。

 

 それからの2週間ほどは長年の夢が叶ったことから、勤務の前にまず1時間、帰っては2時間ほどと毎朝毎夜、休日は更に多くの時間、楽器と格闘した。チェロは大きいだけになかなか音が出ない。

 2週間目ほどたつと左の手首の疼痛のために殆ど弾けなくなった。右手首の腱鞘炎を生じたらしく、改善するまで約2週間は楽器を手にせず湿布を巻いて過ごしたが断腸の思いであった。家族にとっては幸せな2週間であった、と言うことである。この間はレーザーディスクでロストロポーヴィチの弾く姿を見つめて過ごした。実際に私にとっては全く参考にはならなかったが、どなたにチェロを習ったのかという問いには、私は臆面もなく彼の名を挙げることにしている。

 

二本目のチェロ(Vc)購入

 一本目のチェロを購入後約2年経過した頃、この楽器は安価な工業製品なのであろう、指板は通常用いられている黒檀ではなく、何かの木に黒く塗装されているものであった。購入時には弦の走行に沿って若干のこすれた後があったが、私に来てからの3年間の間に第一、第三ポジション部分は塗装がかなり落ちて白く変色してしまっている。それだけ私が真面目に練習した事を示している。

 

 しかし、肝腎の腕の方はさっぱり上達しなかった。その理由の一つは左手にあって基本的にチェロの運指法でなく、ヴァイオリンの運指の指、腕、手首の形そのもので弾いていたから、と言うことも挙げられる。それでもゆったりした曲調の日本の歌曲、チェロの名曲を中心に楽しんでいた。更に、バッハの組曲第一番などを出来る範囲で練習していた。

 

 そんなある時、京都出張のおり、マツオ楽器店という店に立ち寄った。そこには4-5本のチェロが置いてあり、そのうちの2本ばかりを勇気をふるって試奏させてもらった。1本はイタリア製の古い楽器、もう1本は同じくイタリア製で2-3年前に作られた新しい楽器であったが、弾かせて貰った段階で音質、音量共に2本とも驚くような良い音色であった。2本とも楽器自体の重さは軽く、弓の動きに対する反応がとても軽く、いとも簡単に鋭い音が音量も豊に出る感じであった。私の弾いていた楽器は音色から言うとこれらの楽器に弱音器を複数取り付けた状態に近い音で、反応は鈍く、音量も小さかったと言うことであった。この時点で私は楽器をグレードアップする決心をした。

 この楽器は古い方が300万円ほど、新しい方が180万円とあり、どちらも私が弾くには不適なレベルの楽器であり、こんな楽器を私が弾くことは犯罪行為に近い。初老の店長は私がスズキ製のチェロで100%自己流で楽しんでいることを理解し、それを勘案して、私に相応しい値段と音色の楽器をさがしてくれるというのでお願いすることにした。

 

 すでに楽器が手元に一本ある状態だから急ぐ必要はなかったので練習を続けつつ楽器店からの連絡をじっと待っていた。半年ほどたった初秋の頃、京都の楽器店から厚手の手紙が届き、大阪でのオークションで私にふさわしいと思われるイタリア製の楽器を入手してきたので、京都に来るようであれば来店してほしいことと、来店できなければ送ります。よろしく、との手紙とともに、中にはチェロの写真、カタログ、値段表、店長が選んでくれた楽器に相応するレベルの弓についての詳細も説明してあった。手紙はきっと気に入っていただけるでしょう、と結んであった。

 

 幸い、11月には日本血液学会が京都国際会議場で開催されることになっていたのでちょっと待ち遠しかったが、楽器の購入はデリケートな問題でもあるのでそのときに伺うことにし、少しずつ練習を重ねていた。写真では楽器の色は今の楽器よりは更に赤身がかっていたが、果たしてどんな音色の楽器なのか、練習の度に期待は日増しに大きくなった。

 11月の学会の初日、二本ある寝台特急「日本海」の遅い方の列車は午前10:00前後の到着である。そのまま学会場に行き、18:30頃楽器屋にでかけた。今までのいきさつからいずれかの楽器は購入せざるを得まいと心を決め、支払額相当を用意し楽器店に出かけた。予め連絡しておいたので店は開いたまま、楽器は何時でも試奏出来るように調整された状態で店長と共に待っていてくれた。通常なら閉店時間で従業員も客もいなかった。

 

 早速手にとって楽器をじっくりと眺めたが姿良し、色調良し、でまず外観上ではほぼ気に入った。実際に構えてみると現有の楽器よりは心持ち小さい。音を出してみると音量も音の鋭さも現有の楽器とは比較にならないほどであった。高音のA線の音色が多少ザラザラした印象はあるもののまだ弾かれていない新作の楽器なので経年変化によってマイルドになっていく可能性もあり、場合によっては用いる弦で調整も出来るというのでまず納得でき、購入することとした。実際に支払った値段は手紙で知らされた額よりも10数万円ほど安かった。その当時の軽自動車一台分で、楽器としてはそれほど高額とは言えなかったが、ど素人の私にはこれでも十二分だと納得した。

 

 学会のために確保したホテルは二条城前の京都国際ホテルだったと思う。二泊したが客室で弾くわけにもいかず、ケースから出して隅に立てかけ眺めながら過ごした。寝台特急日本海で早朝帰宅、その日から新しい楽器で練習を開始した。

 楽器が変わるとこんなにも違うのかと言うほど別世界の感じで感激した。音は鋭く、大きく鳴る。低音は豊かに響く。弓の動きへの反応も繊細である。しかし、現実は厳しくド素人の私の技術の拙さもしっかりと表現される。それから数年間、時間があれば取り出して練習を重ねた、というより弾くことを楽しんだ。

 結果的に私の技術はそれほど伸びたとはいえないが、この楽器の購入によってより深くチェロの音楽を楽しめるようになったことは確かである。

 数年前から私は再びヴァイオリンの方を主に弾くようになった。この二本目の楽器は現在、我が家の長男が用いているので手元にはない。私の手元には一本目の楽器が置いてあり、私もたまに取り出して弾いてみる。出てくる音も反応も鈍くて不満であるが、今の私にはこれで十分と考えている。

 

 我が家では長男にチェロを習わせた。その過程で体の成長に合わせて1/43/4の楽器も購入した。この二本はチェロの先生に差し上げた。おそらく、お弟子さんの練習用に用いられていることだろうと思う。また長男が学生時代に部屋で弾けるようサイレントチェロも購入した。だから都合、5本購入したことになる。二本目のチェロは長男の先生からの紹介で時折、長期にあるいは短期間よその方が借りに来る。そういう面でも役に立っている

 

博士号をとることになる(1

 私は学生の時に専門課程に進んでまもなく、当時盛り上がりをみせていたインターン制度反対運動の波の中でもまれることになった。私もインターン制度を始め、医局講座制度、博士号問題などについてそれなりに勉強し、数々の疑問や問題意識を持っていたのでこの闘争には比較的前向きに参加した方である。クラスの闘争委員会の長にも選ばれたこともある。その運動を通じて医学部教授、教官ともディスカッションが出来たし、その道の指導的立場の同輩から学んだものも大きかったが、周辺にもいろいろ迷惑にもなったであろう講義室封鎖等の実力行使にも参加した。専門課程の後半にはインターン制度は廃止になり、運動は落ち着き平穏に勉強できるようになったが、その後も自分がとった行動、言動にはそれなりの責任を負うべきであるという考え方はずっと持ち続けていた。

 

 私どもには努力目標としての卒後研修をかせられた。私はどちらかというと優柔不断で長いものに巻かれてもあまり大きなストレスを感じない方だと思うが、始めから大学に残って研修することを考えず病院で実地修練を積もうと考えたのはこのときの運動に参加したことが大きい。だから、卒後直ちに勤務が命じられる条件がついている岩手県医療局の奨学金の貸与を受ける際には迷い、抵抗はなかった。

 

 岩手得県立宮古病院で2年間過ごし、より深く医療・医学を学ぶには一度は大学で勉強する機会を持つ必要があると考え、子育てとの両立が出来そうだということから新設なった秋田大学の内科に入局することとした。

 大学でまもなく10年を迎えようとしたころ、ちょうど大学院の第一期生が卒業論文を提出する準備を進めているころ、教授から医局員は博士論文を提出することを教室の方針にする旨を告げられ、私も提出をするよう命を受けた。

 

 博士号取得に関しては全く興味も必要性も感じておらず、学生の頃の言動の責任として自分としては取る気持ちは全くなく迷ったが、私は白血病の治療の限界を打破する方法として骨髄移植が必要と考えその準備をしたいと考えていた。そのために取得も必要であれば、と自分の独りよがりの方針を捨てて論文を提出することとした。

 

語学検定試験は「お情け合格」

 博士号の提出には外国語の審査に合格しなければならない。大学院に進学した博士論文を提出する際には入学試験の中に語学含まれているから不要であるが、論文博士の検定には事前に受験し、クリアしておかなければならない。

 語学音痴の私にとっては厳しい状況を迎えることになるが、避けては通れない。しぶしぶ準備に取りかかった。実際の試験は英語とドイツ語で試験場には辞書持参可能で、ドイツ語の方は予めテキストが配布され、その中の一部を和訳する、形式である。

 一般的な検定試験の概念から見れば実に甘いものであると言われよう、そんなものであった。英語の方は普段から論文を読んでいたから何とかなりそうであったが、ドイツ語の方は学術論文を23は必要に駆られてまじめに読んだことはあるが、あえてドイツ語圏の論文を読むことを避けてきた。だから、大学進学課程以来実に10数年ぶりの取っ組み合いである。

 

 予め配布されたドイツ語のテキストは15ページほどと長大なものでガックリ来た。内容は医学関係で耳鼻科的領域を中心にした一般的学術論文で広い範囲の総論的なものであった。仲間同士で何人かが受験する場合には互いに分担して能率的に準備を進める事も出来るわけであるが、私は仲間を作らない方だから、何人受験するかも誰が一緒かも知らないまま準備に取りかかった。そのころはたまたま学会準備とかで仕事が立て込んでいたこともあり実に大変な3週間を送った。大学受験以来の受験勉強であったが短期勝負と言うことで睡眠時間も削ってあらゆる時間をこの間準備に充てた。最後は体力・気力の勝負と言う状態であった。準備したこと自体が正しいかも分からないまま、和訳困難なところは飛ばしに飛ばし、ひたすら準備したがモザイク状に70%ほどしか準備が出来なかった。

 受験の日、5名ほどの受けた様に記憶する。当日配布された英語の文章も難解なもので「日本人の心における桜の意義」と言った内容であった。はっきり言って不十分な解答となった。

 一週間ほど後教授に呼ばれた。「判定会議では福田君のみがかかって随分もめましたよ。最後は合格させましたが、殆どお情け的合格でしたよ・・・」とのこと。あまりのひどさに赤面したが、内心ではこれでもう今後二度と受験なんてしないで済むであろう、イヤ機会があっても二度と受験なんかするモンか、と思った良い瞬間であった。

 翌日、合格発表があり、一人だけ不合格であった。

 

新潟シンポジウムを中心に

 博士号の提出には論文を提出しなければならない。私は197810月の第1回「新潟シンポジウム--慢性骨髄性白血病」、198110月第2回「新潟シンポジウム--造血幹細胞とその異常」でシンポジストとして発表の機会を与えられていたから、そのうちの後者の方の論文で提出することとした。既に医歯薬出版社から単行本として出版もされているからそれのコピーをつけて手続きをした。

 

 1-2ヶ月後学長から連絡があり、商業誌掲載の論文では提出は認められない、と言うことで戻されてきた。その際、秋大が出版している「秋田医学」に投稿し直すならば次号に掲載可能で、論文審査に間に合わせることが出来る、との付箋が付いていた。ありがたい配慮を戴いたが、時間的余裕は1週間ほどしかなかった。こんなことで先延ばしにしてはいられないので急ぎ「秋田医学」の投稿規定に合わせてまとめ直して投稿し、何とか間に合わせることが出来た。

 論文審査は小児科教授、第一病理教授のお二人が担当された、と聞いているが特に問題は指摘されず、公開の発表も特に困難な質疑もなく問題なく終了した。

 

 3月の大学院卒業者とともに博士号授与式が行われたが欠席した。数日後、筒に入った博士号の証書が自宅に送られてきた。医師免許のような体裁の様に記憶しているが、一瞥しそのままどこかにしまい込んだままどこかに行ってしまったようで、その後一度も見ていない。まさか捨てたはずでは無いがどこに行ったのであろう。査読を担当されたお二人の教授には、簡単に礼を述べただけとしたが、今から考えると礼を失していたのかもしれない。

 

 この間のプロセスはやはり学生の時の運動にも関連していると思う。教授から教室の方針として博士論文提出を告げられたときには二者択一の岐路を迎えたが、白血病の臨床の上で骨髄移植の実用化は必須と考えていたので、そのために必要であれば、と割り切って論文提出する選択をした。そのため何か身の入らない準備となった。結果として授与されたが多くの方々のお世話になり、かつご迷惑をかけた、と今は反省している。

 

 何時までも過去の自分の発言や行動などに縛られている自分が馬鹿に見えることもある。私の過去の言動のことなど誰も覚えているはずもなく、関心も持つはずもない。本当に自分だけの問題にすぎないが、だからこそ大事にしていきたい。

自伝 秋田大学時代 3(1973-1985)へつづく








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