自伝 秋田大学時代(1973-1985) 


秋田大学第一内科教室に入局
 1973年6月私は秋田大学第一内科に入局、家内は秋田組合総合病院に再就職で外科に属することになった。第一内科の主たる研究・診療領域は消化器病領域であり、東北大学を中心とした20数名のスタッフからなっていた。当時血液領域部門は第一内科Bグループと呼ばれ、数名のスタッフ多分血液のドイツ語Blutから由来していると思われるが、由来の詳細は不明である。やはり東北大学から赴任した4名のスタッフを中心に組織され、私は9番目の着任であった。

 私が入局した秋田大学医学部は、戦後に国立大学に医学部が新設されて誕生したことから最も新しい、歴史もない、若い医学部であった。まだ卒業生もおらず、附属病院は秋田県立中央病院をそのまま用いているなど、体勢も十分に固まっていない状況であった。
 だから、私の如くの医師ですら必要とされていたという事情もあった様に思う。多分、医師免許さえあれば誰でも迎え入れる状況にあったから、私も運良く入局できた、と、今から見れば思える状況である。医師免許さえあれば「トンボも飛行機とみなす」と言うことかな??結果的に、私は歴史の長い医学部の医局にあるが如くの、古い慣習等にもそれほどとらわれることなく、のびのびと、驚くことに13年間も学ぶことが出来たという幸運に恵まれた。
 その様な、運のよかった状況、環境を理解するためには秋田県の医療事情を若干紐解いてみる必要があった。

 昭和12年以降の支那事変以降、将来の軍備に備えて大量の軍医が必要になり、医師の急造が国策の一つとなった。昭和14年には各地の医学部に医学専門学校が併設され、東北地方では、昭和19年に青森(国立)、福島(県立)医学専門学校が誕生した。当時無医地区とかを多くかかえ、厳しい医療事情下にあった秋田県でも時流に遅れるまいと設立を急ぎ、昭和20年4月に「秋田県立女子医学専門学校」を開設し、一期生を募集した。昭和21年5月には「秋田医学専門学校」と改称、男子も受け入れる予定であったという。しかし、戦後、GHQから、十分な準備が整った専門学校のみを大学に昇格する、との方針が出され、県でも種々準備を始めたが、当時秋田県の財政は困窮しており、充分運動を盛り上がらなかったらし。結局、マッカーサーの裁断で昭和22年3月に廃校になった。それに伴い、付属医院が秋田県立病院となった。
 この廃校は関係者にとって耐え難いショックであり、それ以降、県の関係者、医療関係者の中には秋田大学に医学部を設置したいという意欲が途切れることなく、脈々と引き継がれていったらしい。

 結果として、私はその歴史の積み重ねの恩恵を享受できた、と言うことになる。有り難いことである。

 国立大学に戦後に初めて医学部が新設されたのは秋田大学が初めてである。昭和45年1月に医学部新設が閣議決定され、この年から学生募集をすることになった。それに伴い、当時全国的にも有数の規模を有していた秋田県立中央病院(803床)は昭和46年4月に秋田大学医学部附属病院として接収され、病床規模は大学規格の600床規模に縮小された。県の施設を国立の施設として移管することは行政上でも異例のことであったらしいが、背景には秋田市周辺地区の病床過剰問題があり、新たに600床規模の大学附属病院が秋田市に新設されることは医療供給体制の面から医師会他のコンセンサスが得られなかったという事情もあったらしい。当時の医療供給に関する審議会は将来的にも県立の総合病院は作らないと言う答申を出している(上記の歴史は一部秋田県医師会誌を参照した)。

 私が赴任した当時の病院は千秋公園の東側、道路を隔てた場所にあり、病院は大規模であったが老朽化し、敷地は狭く、連日駐車には苦労したものだ。早めに出勤して駐車スペースの奥に入れると途中では出られず、遅めに出勤すると駐車も出来ない状況であった。当時の第一内科の医局は正面玄関の2階にあり、教授を中心とした消化器グループと助教授を中心とした血液グループの助手以下のメンバーが10数名、一つの部屋にひしめいていた。
 私は正式な職種名は忘れたが非常勤のスタッフであった。当時でも既に無給と言うことではなく、月額4万円ほどの給与を戴いた。初回の給与を戴いたときに、先月までの給与に比較して、何と約1/10程度。予想はしていたがあまりの額の少なさにガックリ来て机の上に放り出し、そのまま2-3日放置したままにして周囲の顰蹙を買ったものである。このために週一回当時の秋田鉄道病院の外来を手伝い、月に一回は近郊の病院の日直や当直をして収入の補助とした。


薬剤因性再生不良性貧血についての研究を命じられた
 赴任2-3週間後、助教授から
厚生省特定疾患特発性造血障害調査研究班の「再生不良性貧」の仕事を命じられた。当時助教授はこの研究班の委員の一人であったからである。その中で、特に当時再生不良性貧血の起因薬剤の代表的なものの一つとされてきた抗生物質の「クロラムフェニコールの造血臓器に対する影響」について検討を始めるようにとの指示であった。

 再生不良性貧血は赤血球のみでなく白血球および血小板も減少する治療困難な疾患である。原因不明の病型と,医薬品や化学物質,放射線,肝炎ウイルス等による続発性の病型がある.医薬品の中には投与量の多寡にかかわらず特定の個体に再生不良性貧血の発症を来すさまざまな製品があるが、中でもクロラムフェニコールはこの研究班の疫学調査では、昭和40年代には薬剤起因性再生不良性貧血の半数近くを占めていたことが明らかにされる。昭和50年代にはクロラムフェニコールと再生不良性貧血発症の因果関係、疾患発生のメカニズムが必ずしも明らかではなかったが、欧米での疫学的研究による因果関係が証明され、適応が厳しく規制された。以後は,急速に報告症例が減少し,昭和60年代に入ると副作用モニター報告には全く現われなくなり現在に至っている。
 
 ちょうど、その重要な時期に私もこの研究の一翼を担ったことになる。私がやった研究など今から見てもそれほど価値ある科学的知見をもたらしたというわけではなかろう。雄物川にスポイトで数的水を足したようなものであろうが、この重要な時期にクロラムフェニコールと再生不良性貧血発症の因果関係についての研究を通じて関わることが出来たことには今でも些かの喜びを感じている。

 それは、私自身が幼少の時にクロラムフェニコールの恩恵を多いに受けて育った、と言う特別な感慨、背景もあったからである。


クロラムフェニコールは幼少時から私にとって特別の存在
 超虚弱児として育ち、小学校入学後も相変わらずやせ形で、虚弱であった。特に気道系が弱く、小児喘息でいつも咳をしていたし加えて胃腸系も弱かった。正月は子供にとっては楽しい時期であるが、殆ど健常な状態で迎えたという記憶はない。

 当時、抗生物質などは数種しかなかった時代で、使用も慎重であったが、私は大抵の場合、最終的にはクロラムフェニコール(クロロマイセチン・三共、通称クロマイ)のお世話になった。何故かいつもこれを服用すると不思議なほど病気が軽快した.私にとっては貴重な、貴重な薬品であった。祖父は対症療法的処方はしてくれたが、クロマイはなかなか処方してくれなかった。最終的には真っ白な懸濁液であるクロロマイセチン注射液のお世話になったことは度々であった。クロマイの筋注は実に痛かったね。忘れられない。

 この様なことを繰り返す毎に、私のにとっては茶色の扁平なクロマイ錠剤は魔法の如くのクスリと言うことになるのは当然である。症状がなかなかとれず長引いたとき時には、夜中に診療所に忍び込んで薬棚からくすねてこっそり服用したこともある。虫垂炎をこじらせて盲腸周囲膿瘍を起こした際にもくすねて服用しようと試みたが、どこかに隠されたらしく果たせなかった。今から見ればクロマイを服用して改善する様なレベルではなかったと思うが、祖父にも言えず、ずっとクロマイ、クロマイと唱えつつ右下腹部の激痛に耐えていた。
 中学、高校の頃は徐々に体が丈夫になったので、さすがにクロマイのお世話になる事は少なくなっていたが、新潟大学医学部の薬理学、臨床系の授業でクロラムフェニコールの薬理、臨床的価値、副作用等を学ぶことになる。この薬品に対して恩人にも匹敵する様な、尊敬の念に近い気持ちを抱いていた私にとって、学問的アプローチからみたクロラムフェニコールの世界は新鮮であり、大きなインパクトがあった。その頃はペニシリンなどの他の抗生剤が次々と生み出されていたが、クロラムフェニコールの価値は些かも減じてはいなかった。



クロラムフェニコールの造血障害の研究

 クロラムフェニコールの造血器障害については、主に実験的に検討した。主な実験系は以下の如くとした。
(1)感染症のクロラムフェニコール治療時の薬物消失曲線の検討による排泄能個人差の検出、
(2)健常マウス及び四塩化炭素で人工的に作った肝障害マウスへクロラムフェニコール投与した際のクロラムフェニコールの消失曲線の変化
(3)末梢血の白血球数、貧血、血小板の数値の変化、
(4)同処理マウスの脾臓コロニー形成能の変化、
(5)同処理マウスの顆粒系コロニー形成能の変化を検討した。

 (4)(5)の脾臓コロニー形成能、顆粒系コロニー形成能に関しては既にこの技術を確立していた医師お二人との共同研究で、実験系構築に関しても指導・助言を受けた。

 他施設の研究グループのデータでは臨床的に考えられないほどのクロラムフェニコールを投与しており、ある程度の有意差が出ていたが、その様な状態下ではマウス自体が元気がなくなることから薬物としてではなく毒物としての作用をみているのであって、薬理学的な影響は得られるはずがないと考え、私の実験系では基本的に治療域内のクロラムフェニコール投与量で行った。そのためか、結果的に有意差のあるデータは得られなかった。今考えても、実験系に問題があるのではなく、クロラムフェニコールの薬理作用の範囲では異常が出ないのが当然なのだ、と思う。

 この辺の経過、結果については厚生省難病対策研究班業績集「再生不良性貧血」に数回にわたって報告書として記載されている。また、医学のあゆみ100:493-500,1977にも掲載された。ただし、当然の事ながら何れも論文の筆頭者は教授である。



厳しかった当初の研究環境 冬場には遭難しかかったことも
 秋田大学医学部は
1970年( 昭和45年)4月 に設置 され、県立中央病院は代用附属病院となり第一期生80名 が入学した。代用附属病院とされた県立中央病院は翌年国に移管され正式に医学部附属病院として発足 した。
 一方、中央病院から約3Kmほど北東側の広面地区には、医学部、附属病院として広大な敷地が用意され、学生の3年次からの基礎医学授業、実習に間に合わせるために基礎医学研究棟,実習棟,講義棟,附属図書館医学部分館などが1972年( 昭和47年)に完成している。

 県立中央病院から移管した附属病院は病院機能だけでも手狭な状況になっており、血液班用の基礎研究用のスペースは地下室の一室に確保されていたが、無菌操作が中心となる私どもの研究はここでは無理であった。
 早朝出勤し、当日に午後に必要な機器を取りそろえて滅菌しておき、午前の診療が終わればそれらの機器を汚染しないように配慮しながら広面の基礎研究棟に運び、与えられた器機センターの一室で細胞培養を中心に研究を進めた。当時は器機センターを利用する研究者は少なく、広い研究室をほぼ自由に使うことが出来た。

 雑然とした病棟や病院医局から離れ、連日基礎医学棟に出かけ、誰も居ない実験室で時間を過ごすのは実に快適であったが、今から考えると実に不便な環境であった。病棟に受け持ち患者がいて重症な場合には何度も基礎棟から病院に戻る事も希ではなかったし、第一、無菌操作の最中に電話が来ればその度に無菌操作を中断して無菌室から出なければならなかったために、呼ぶ方も呼ばれる方も実に大変であった。

 夏場はそれでもどちらかと言えば快適であったが、降雪期には事情が一変した。広面地区はもともと広大な水田があった地区でそこに医学部が設置されたために、当初は道路事情も良いと言えず、道路の指標さえなく、住宅は殆どなかったから当然除雪は不十分であった。ひどい吹雪の時には自分がはたして道路上を走っているのかさえよく解らない状況に陥り、吹きだまりに突っ込んだり、脱輪したりで、時には車を放棄して途中から荷物を両脇にかかえ徒歩で実験室に向かったこともあった。強烈な吹雪の際には呼吸することも困難であることも経験出来た。



秋田大学医学部は 次々と講座、診療科が充実 第三内科学講座新設し、晴れて移籍
 私が赴任した前後の数年間は第一期生の卒業に向けて秋田大学医学部、附属病院は次々と新築が進み内容的にも拡充されていた時期である。1974年( 昭和49年)には皮膚科学及び泌尿器科学講座が開設され、秋田大学医学部は予定されていた全講座の開設が終了し、基礎医学が13講座,臨床医学が14講座 となった。
 翌1975 年(昭和50年)4月には医学部に内科学第三講座の増設が認可された。 まず確実と言われていたが実際に認可されるまでは第一内科血液班のメンバー達は一抹の不安をかかえながら待ち望んでいた決定であった。これで私どもは第一内科を離れ、晴れて第三内科員として独立し、私は医院から助手に採用された。

 1976年( 昭和51年)3月には医学科第1期生が75名卒業し、第三内科には6名が入局し、若い医師を迎えて一気に活気を帯びた。同年 8月には新病院(鉄筋コンクリート8階建,地下1階)が竣工し、9月には新病院移転し、広面地区にて診療が開始された。 この移転の日は自衛隊の援助も得て早朝から夕方までの一日で、極めて能率的に整然と行われた。重症者は救急車で、軽症患者はバスでピストン搬送したが、移転に伴う事故などは皆無だったように思う。私は患者搬送係を担当し、旧附属病院の玄関先で病棟から次々と降りてくる患者を振り分けてバスに乗せる役目であったと思う。当日は快晴、無風状態と天候に恵まれた他、当時は広面地区は田園地帯で交通量も少なかったためにこの様な大がかりな移転が丸一日で可能であった、と言いうる。勿論、診療にすぐに必要でない機器の移転は後回しにされ、一週間ほどかかって到着したモノもあった。回想すれば、古き良き時代であった、の一言になってしまう。
 10月に附属病院の診療科として第三内科(16床)が認可され、病床数の少ないことは不満ではあったが、これでひとまず予定の陣容が整ったことになる。



秋田での生活 いわゆるアルバイトでの生活費稼ぎ
 秋田大学入職時から第三内科発足時迄の2年間は私の身分は「医員」ということで日雇いの身。月額4-5万円ほどの給与であった。血液班はスタッフは10数名にまで増えたが助手以上の公務員扱いは5名のみ、その他は身分不安定な日雇いの「医員」である。
 国は人件費をさほどかけずに大学病院の労働力を得ていたことになる。助手と医員の間には給与で3倍ほどの差があり、医員には当然賞与などは一切無い。給与日や賞与日には実に不快な思い、悲哀を味わったものである。つい先日までは慶応大学とかの私立大学の医員は矢張り給与5万円ほどでこき使われていた、とのことである。こんな現状は何とかしなければならない、と何時も言われてきたが私が大学で学んでいた期間には全く改善は見られなかった。ただし、私は大学を去ってから既に20年にもなるので秋田の最近のことはわからない。

 いずれにせよ、医員だけでなく助手もこの程度の収入では生活出来ないためにウイークデイに終日または半日許可を得てアルバイトに行き、土曜午後から日曜夜にかけては県内の各病院の時間外外来を手伝うことで副収入を得ていた。強者の何人かは土曜午後から月曜朝まで県南の公的病院に寝泊まりし手伝いをしたものである。

 私はウイークデイは秋田市の鉄道病院の午前外来を鉄道病院が廃止になるまで担当し、その後は市立秋田総合病院の午前外来を中心に担当していた。私は共稼ぎの身であったために最も安いところしか割り当てられなかったが、納得済みで引き受けていたから止む得ない。
 
 その他、一部は定期的であったが大部分はエキストラとして、週末は昭和町の精神病院、大曲市の整形外科病院、大館市の労災病院、県南の公立病院等の当直を担っていた。その他、秋田市内の大規模病院のいくつか、鳥海村や刈和野の診療所、酒田市、能代市、横手市、本荘市の病院の外来、男鹿市の休日診療所など等、今思いだしてみると実に懐かしいし、県内外のいろんな病院、診療所の医療の現状を見ることが出来たことは今の自分にも有形無形に役に立っている。また、これだけ地域の病院のマンパワーが不足していたことの現れでもある。
 


夕食求めて市内を転々
 秋田大学入職後、家内は秋田組合総合病院外科に勤務した。
 その頃の日常は、朝7:30頃に長女を2Kmほど離れた家内の叔母宅にあずけ、家内の病院に送り、私は大学病院に出勤した。当初の1年ほどは私も19:00-20:00頃には何とか仕事を終える事が出来たので、長女と家内を迎えに行った。

 たまたま早く帰れたときには自宅で夕食を摂ることもあったが、通常は夕食を自宅で用意するのは時間的にも困難であったために、土崎港町内の食堂やレストランを転々し、夕食を摂っていた。時間が遅くなると自宅近辺には開いているところもなく、秋田の中心街まで出かけていたものである。
 こういう状態を見かねて家内の実家で私どもの夕食を用意してくれた。とても助かったが、やはり家内の実家とはいえ、夜遅くに世話になることは私にとって精神的プレッシャーは多大であった。自分達6人家族の夕食とは別に、時間をずらして私どもの食事の支度をしてくれた、今は亡き義父母達にいかに感謝してもしきれない。

 この様な夕食の形態は、後日、思いがけないことから解消することになる。
 長女の世話をしてくれていた家内の叔母さんが娘二人を連れて我が家で同居生活をすることになったからである。この時から約20年、我が家は6-9人の家族で暮らすこととなった。私にとって他人である叔母さん方との同居である。それによって失ったものもないわけではないだろうが、本来、子供は大勢の家族の中で育てるべきだと思っていた私はこれも幸運の一つと受け入れた。これによって私ども夫婦はあまり時間にとらわれないですむ自由な時間を得たことは大きい。


秋田組合総合病院の医師住宅で道路の騒音に悩む
 秋田大学入職後、家内は秋田組合総合病院外科に勤務した。秋田での住居は秋田組合総合病院の医師住宅に入居させて戴いた。秋田市土崎港の街のど真ん中で大学病院には若干の距離はあったが組合総合病院にも、家内の実家にも、長女を見てくれる方の家にも近いという便利なところであった。二階建てでわれわれの生活の範囲では狭からず広からずで手頃であった。
 しかし、街のメインストリートの道路脇であることで隣家とも近く、常に自動車の騒音に悩むこととなる。通常は早朝出勤し、夜も必ずしも早い帰宅でなかったからそれほどの実害はなかったが、些かオーディオにも凝っていたから、週末、特に窓を開放する夏場には終日の辛いものがあった。

 その騒音の圧巻は私にとっては土崎港曳山祭りであった。この祭りは秋田市土崎地区に伝わる300年以上の歴史を持つ由緒ある祭りとされている。国指定重要無形民俗文化財の指定を受け、 毎年7月20日から21日の両日に行われる。メインストリートには出店が並び、台車の上にいろいろな人形を形作った大型の曳き山が10数ヶ、お囃子と共に大勢の引き手に引かれて街を練り歩く。土崎地区の住民にとっては一年の生活の大きな節目となる最大の行事と言っていいだろう。街全体が熱気溢れる状態となる。若者達は血湧き肉躍ると言った感じかな?組合総合病院ですら半日休診になるほどである。
 こんな重要な行事ではあったが、余所者の私にとっては大した意味も感じず、曳山も最初の年に見たが、殆ど興味の対象にはならなかった。

 この道路の騒音のために入居早々、私は機会があれば閑静なところに移りたいと思ったが実際には3年ほど住むことになる。祭りに関してはこの間大学病院の当直することで難を逃れていた。



ある夜半に娘が行方不明に
 今は家内も私も車を持ってそれぞれ別時間帯に通勤しているが、秋田に来て数年間は1台のみで、電話連絡し合いつつ基本的には私が時間を工面して家内を病院に、長女をあずかって戴いているお宅に送迎し、不可能なときにはタクシーを利用していた。

 ある夜半、3時頃だっただろうか、家内は組合病院から、私は大学病院から患者の具合が悪いとのことでほぼ同時に呼び出しがかかった。別々の時間帯に呼ばれることは度々であったが、二人同時というのはそれほど多いことではないし、この時間帯では希である。
 通常、家内を病院に送るだけなら10分もあれば戻れるから、娘が起きているときは連れて行き、寝ているときにはそのまま寝かせたまま施錠して出かけ、私が早く戻っていた。何回となくこの様な状況があったが、この間、娘が起き出して泣いていたことなどは一度もなかった。

 この時間帯、ぐっすり眠っている娘をどうしようか、家内の方は比較的早く戻れそうだし、この時間帯にあずけに行くのも迷惑だろうし、寝付きが悪いが一旦寝込むと滅多に起きないし今までも大丈夫だったから・・と、そのまま寝かしたまま家内を送って私は大学病院に向かった。1時間ほど後、大学病棟に家内から電話があり戻ってみたら玄関の戸が開いていて、娘が居ないと言う。家中と周りを探したが何処にも居ないし、声も聞こえないとのこと。通りに面しているからいろいろ不安はあったが近所は静かで何かがあった状況では無いという。
 夏場であったから夜明けは早い。薄明かりのなか私も家の周りを探し始めたところ、お隣の2階の窓から「パパ・・」と呼びかける声がした。お隣に保護されていたのだ。目を覚まし、泣きながら家中を親を探し廻ったのだろう。さらに玄関から外に出てきたところを、いつもと違う鳴き声で不審に思っていたお隣の老夫婦が自宅に連れて寝かせつけてくれていたのだとのこと。

 娘の無事を喜び、お隣には丁重にお礼を申して一件落着となったが、私どものような育児環境では安心して育児も仕事も出来ないことをこの機に悟った。この日の、「小さくて大きな事件」は、親の立場として大きなショックであり、心に傷を負った。その傷はしばらく後に家内の叔母と娘達との同居を私が決断する時の大きなよりどころとなった。

 最近、若い親が、車の中に子供を置いたままパチンコに興じ、死亡事故につながった事件、類似の事件が頻回に報じられるが、それに接するたびに、私にとってはあの日のことが思いだされて背筋が凍る思いがして、とても辛い。



男鹿沖でのキス釣り、鯛釣り(1)
 秋田大学での仕事も軌道に乗ってきた頃、中央検査科のスタッフから勧められ、誘われて男鹿沖でのキス釣り、鯛釣りを始めた。
 もとより釣りは好きな性分、幼少の頃は郷里の沼や小川、北上川に釣り糸を垂れた。この頃の釣果は1-2度だけ35cmほどの鯉を釣り上げたことはあるが、概して5-20cmほどのフナ、鯉、ハヤ、ヤマメ等の小魚であったが、娯楽が少なかった当時のこと、友人を誘ってはよく行ったものである。時には飼い猫のためにカジカ釣り等もして、炭火で焼いて食べさせ、喜ばれた。

 三陸での2年間は時間を見ては海釣りに興じたが、殆どが磯釣りで、船は沖の小島に移動するときの手段で船から釣ることは殆どなかった。三陸海岸の地形は厳しく、車から釣りのポイントまで降りていくのに、時には30分ほども歩いたり、厳しい崖を昇ったり降りたりで、氷を詰めたクーラーを背負っての移動は実に大変であった。釣りとは別に山歩きなどで自然と親しむと言う意味も大きく実に楽しいものであった。この時の想い出の一つは宮古病院の釣り大会での優勝である。

 秋田では一転して船釣りになった。磯釣りはホンの1-2回程度で、三陸とは異なり大したものは釣れなかった。秋田から男鹿半島の釣り宿には20-30Kmあり、車で移動。釣りは早朝と午後のコースがあり、前者の場合は3:00am頃起きだして移動、4:30am頃乗船、後者の場合には14:00頃乗船のコース。明るいうちは主にキス釣りに挑戦、薄暗い時間帯には鯛釣りを楽しんだ。キス釣は日によって差はあるものの全く釣れないと言うことはなく20-30匹程度は何とか釣ることが出来た。一方、鯛釣り方は多くて10数枚、時には全くゼロの日もあった。私の最大の釣果は39cmの黒鯛で、同僚が釣り上げた真鯛と共に、釣りの帰路、第三内科の教授宅に就任のお祝いとしてお届けした。

 キス釣りはどちらかというと作業に近くせわしないが、鯛釣りは気持ちまでゆったりしてとても楽しいものである。数10m先、時には100mもの先の海底の鯛・・・ばかりではなく岩のこともあるだろうが・・との対話を釣り糸、釣り竿を介して楽しむ。チョンチョン,プルプルとエサをもて遊んでいる様子が伝わってくる。機を見て竿に煽りをかける。多くは空振りである。空しく餌を採られた針だけが上がってくる。何で口先だけでこんなに上手にエサを外す事が出来るのか??今もって疑問である。




男鹿沖でのキス釣り、鯛釣り(2) 鯛との駆け引きが実に楽しかった
 三陸の磯釣りは足場の必ずしも良くない磯で自然と一体となって海を眺めながらの釣り、一方、男鹿の船釣りは釣り船から秋田の海岸や丘陵、山々の地形を眺めながらの釣り、どちらも捨てがたい魅力がある。船の揺れに身を任せながらの数時間、開放感は何とも言えないものがあった。

 鯛釣りの魅力は磯釣りにない魚たちとの駆け引き。エサを啄んでいるときの他、針にかかってから船際に引き寄せてくるまでの間の駆け引きは何とも言えない。特に掌サイズの鯛は合わせが難しい。釣り上げの成功率は半分以下か。20cmほどからの中型クラスになると合わせはそれほど困難ではなく、向こう合わせの頻度が多くなる。チョンチョンとエサを弄んだ後ガクンと強烈な引きが来る。
 これからが真の駆け引き。大きく横に走る場合、更に遠方に向かって走る場合などいろいろで実にダイナミック。相手の動きに合わせて時には一気に釣り糸をリールに巻き上げ、時にはむしろ糸を解いて流してやる、横に走っているときはじっと方向転換するまで待つ。この間の駆け引きの味は決して忘れられない。やがて海面近くに魚体が姿を現す、真鯛か黒鯛か??最高の一瞬である。手元に引き寄せ、網ですくい取る。海底から挙げられた鯛は暖かい。かじかんだ手に暖かみが伝わってくる。時に暴れる鯛のヒレで手を切ることがあるのでタオルなどにくるみ慎重に針を外す。良い瞬間である。

 釣り上げた獲物は一匹も無駄にしないよう食卓に供した。これは釣りを楽しむものの責任である。コスト的に見れば全然見合わない。1回毎に船とえさ代で8000-10000円かかったから、鯛は一枚1000-10000円ほどと超高価。料亭で食べる尾頭つきの鯛よりは遥かに贅沢品であった。このコストに見合わない釣果に満足するのも釣り好きの贅沢というものだろう。

 大学では受け持ち患者数は数人程度で、それほど具合が悪くない場合には後輩医師に留守中の対応を頼み、1/月ほど、年に数回程度、数年間は何とか船釣りを楽しめた。大学での後半の時期は何かと忙しく、年に1-2回程度しか出来なくなった。
 大学を辞し今の病院に勤務してからは、医局に釣り同好会もあるようであるが、一度も釣りには行っていない。年々業務量が増えて時間の確保も困難になってきたことも一因であるが、同僚医師に代理をお願いすることも憚られたからである。

 もう2度と男鹿沖に出ることはないだろう。鯛釣りは良い想い出になっている。



家族が増えた 家内の叔母さん方3人と同居 
 秋田市内在住の家内のおばさんには長女を世話していただいていただけでなく、我が家の掃除や洗濯、夕食の用意までしてもらっていた。おばさんは自分の子供達を学校に出したあと長女を連れて一日に2度、3度と自宅と我が家とを往復していたが、何かと不便なこともあったし、いろいろなことを切っ掛けにおばさんが娘二人と共に我が家に同居する話が生じて来た。

 家内は自分の身内でもあることだし、私の性格や人間関係に対しての考え方なども解っていたからか、遠慮があったのだろう、同居に関して自分からは決断しなかった。
 私は本来子育ては大勢の人間の中ですべきだとの考えを持っていたし、他人にみてもらうよりは家内の生まれ育った秋田の人脈のなかで子育てするのがベターと考えて、そのために秋田に来たことでもあるし、いつぞやの長女の行方不明の件もあったし、・・といろいろ考えて決断した。秋大内科血液班に所属することが出来、好きな血液学を学ぶことが出来たのは偶然的な所産である。

 私にとって、他人との同居はいろいろと困難なことも予想されたが、家内には私の世話や家事などをそれほど気にしないで、医師になろうと決意した頃の初心をまとうして欲しいとも思ったし、まもなく次の子も誕生する予定にもなっていた事も大きな理由の一つであった。と言うことで、我が家は一気に我ら夫婦、長女、叔母さん、小学生の子供二人の6人家族となった。確かに気遣いも必要であったし、それなりのストレスもないわけでは無かったがこれらは当然に付随することであり、耐えるしかなかった。
 しかし、この同居を機会に生活上では随分便利で、安心出来る状況になったことは確かで、家内も私も時間的にはマイペース過ごすことが可能になり、互いに早朝出勤や深夜帰宅など自由な生活するようになった。



家族が増えた 長男誕生 
 家内のおばさん方が引っ越してきて毎日がにぎやかになった。
 昭和51年は田中元首相の逮捕等あり、日本の社会情勢は何かと慌ただしく動きが激しかった時でもあるが、この年の4月には長男が誕生し、我が家が7人家族となった。
 長男出産の時は、家内は大きなお腹を抱えながらも規程の産休期間も休まずに連日出勤し、周囲をハラハラさせていた。この頃からマイペース人間であったが、さすがに臨月近くでは動くのが辛くなってきたのであろう、産休に入ったが、まもなく、一週間ほども休まないうちに、出産日を迎えた。二人目だし、長女の時よりは楽だろうと予想していたが実際にはそうでもなかったらしい。夕方無事誕生したことを大学で聞き安堵し、夜に見舞いに言ったが母子共に元気で何よりであった。どちらにせよ、出産は女性にとっては一大事業であり、このことを思うと私は家内に到底頭が上がらない。
 長女の誕生前後のことは比較的細かいことまで記憶しているが、長男、更に3年後の次男出産前後のことは詳細には覚えていない。これは秋田という、家内のふるさとの中での生活で数多くの方々に支えられていたからあり、さらに石井さん一家との同居によって私の日常生活への参与度が相対的に減ったからであろう。秋田の義父母を中心とした、豊かで暖かい人間関係にはいかに感謝してもし切れないものを感じてならない。
 孫の誕生をことのほか喜んでくれたのは盛岡の祖母であったが、この頃から彼女自身の体力が徐々に落ち始めて来る。



不思議な貧血の患者 先天的酵素異常でWHOに「G6PD-Akita」として登録
 医局員は週に1回、半日または一日、秋田県内各地の病院に出張し、地域医療の維持に寄与しつつ、生活費の一部を得ていた。秋田鉄道病院からもその要請があったが、その報酬は当時の平均の半額以下と随分安かった。ある日、教授に呼ばれ共稼ぎだからお前で良いだろう、と言う変な理由をつけて前任者を他の病院に回し、私が割り当てられた。

そんな事情で週に一回月曜午前に秋田鉄道病院の外来を手伝っていたが、最初の頃は古く汚いビルであり、午前中に数人の外来患者しか来院しなかった。 報酬こそ低かったが、病院から近かった上に公用車で迎えに来てくれるし、外来の合間には勉強も出来たし、と言うことで、それなりに納得していたが、2年ほど後に秋田駅の近くに新装され、規模も療養環境も一気に改善した。これを機会に外来患者が30名ほどに一気に増えた。中にいるスタッフはそのままにも拘わらず、である。
 医療機関は新しいこと、規模がある程度大きいことが患者の受診行動に大きく関連することを体験した。
 秋田鉄道病院は国鉄がJR東日本に移行後、病院としては廃止され、今は「健康管理センター」とかの名称で残っているようだ。側を通ると懐かしい思いがする。

 ある日、鉄道病院の院長より電話があって、胆石症で入院中の中年の患者が下血とか無いのに急速に貧血が進んでいるし、ひどい黄疸もあるから診て欲しい、と依頼あり午後に往診に行った。中年の男性患者で、幼少時に熱性疾患に罹患、その後に知的機能の障害が生じたという。やせこけて黄疸がひどく、見るからに重症感をただよわせていた。入院時には貧血がなかったが、数日でひどい貧血になっており、黄疸が急速に発現したという。しかし、尿は殆ど正常色である。これらは一見して溶血性貧血の特徴である。 詳細は抜きにするが、種々の検討で先天性の酵素異常、その中でも薬物とか投与した際に赤血球の中で代謝異常が進行し一気に溶血するタイプと見込みをつけ、以降の詳細な検討は東京大学医科学研究所に依頼し分析した。結果として世界でまだ登録されていないタイプの酵素異常と判明し、一定の手続きでWHOに「G6PD-Akita」として登録された。
 この患者は数年後に死去されたが、既に両親は死去しており兄弟に異常がなかったので偶発的遺伝子異常の例と考えられ、子孫を残さなかったために真の孤立例としてこの世から消滅した。まだその後、「G6PD-Akita」例に一致する患者は見つかっていないようである。

 たまたま、いろいろの事情や偶然が重なって秋田鉄道病院に手伝いに行っていたことが縁で、私が貴重な経験が出来たと言うこと。更に、約10数年後、世界的に未発見の膜たんぱくの欠損を伴った溶血性貧血例に巡り会うことになるが、偶然とか縁とかは、何だかわかりませんが、本当に有り難いことです。



貧血の患者(2)クロラムフェニコール服用後、急性肝炎、次いで再生不良性貧血に罹患した患者
 クロラムフェニコールと再生不良性貧血との関連について研究・検討していたが、実験的には有意な結果は出るものの、疫学的に見てクロラムフェニコール服用者のうち2万人に1例ほどしか発症しない再生不良性貧血の病態に直接結びつくような結果は基礎研究から得られるものではない。
 この様なときは一人一人の症例の病状をつぶさに検討することに限る。そのために文献的に症例を収集していたが、中に一例「クロラムフェニコール服用後、急性肝炎、次いで再生不良性貧血に罹患した患者例」が見つかった。急性肝炎も再生不良性貧血の重要な原因疾患の一つであるが、更にその前にクロラムフェニコールを服用していた例が居たことは何かの意味があるのかも知れない。

 この点に注目して更に症例を収集したところ国内に更に一例、外国文献に30例ほど見つかった。こうなるとクロラムフェニコール・急性肝炎・再生不良性貧血間に何らかの濃厚な関連が示唆される。それらをまとめて「内科」という雑誌に投稿したが、これが私の最初の論文となった。この時は教授に原稿用紙が真っ赤になるほど、何度も何度も直され、戻ってくる度にガックリ来たものであるが、その度に確実に文章が洗練されてくるのに驚いたもので、文章力が如何に大切かを含めていろいろ教えられた。この徒然日記のミニ随想は連日、僅か30分ほどで書き上げ、推敲する余裕などまったく無いが、この時の教えが大きく役立っていると自認している。

 以後、四塩化炭素を投与し、人工的に作った肝障害マウスにクロラムフェニコールを負荷し、薬剤のクリアランスの遅延や造血幹細胞の変化を観察していたが、昭和50年頃神戸市で行われた「臨床血液学会総会」にてシンポジウム「薬剤性再生不良性貧血の病態」のシンポジストとなる機会を与えられた。この時の学会長は私どもと同様クロラムフェニコール・急性肝炎・再生不良性貧血間の関連を研究していた事も縁となっている。私は当時研究を初めてから僅か2年目ほどの若輩であることから教授と共にエントリーする形を取り、発表と壇上で約40分間の討論に参加した。
 今はおぼろげにしか覚えていないが、良い経験させていただいたものである。その準備の段階は約半年にわたって極めてハードであり、学会数日前からは緊張で食事も喉に通らず、シンポジウムの2時間は生きた心地がしなかった。

 内容的に私共の研究はそれほど大きな評価を受けたとは思っていないが、この経験を機会に私に度胸だけは随分備わった、と思う。


クロラムフェニコールに大幅な使用制限→研究の主眼を慢性骨髄増殖性疾患に移す(1) 
 私が医師になってから昭和55年頃まではクロラムフェニコールは最もポピュラーな抗生物質の一つとして汎用されていた。勿論、肺炎や尿路感染症、胆道感染症においても薬効は素晴らしいものがあったが、救急室等では解熱剤のメチロン(スルピリン剤)と併用され「メチ・クロ療法」と称されるほど、発熱があって来院した患者のうち感染症が疑われた場合の当面の治療薬としても用いられていた。抗生物質の正しい使用法という意味では決して正しかったとは言えないが、現実には随分使われていた。

 他の抗生物質、抗菌薬の登場もあった事も重要な背景であるが、クロラムフェニコールは再生不良性貧血という、ほぼ致死的な重大な副作用があることから、適応症としてチフス性疾患を中心とした疾患に限定され、経口剤、注射剤は通常の細菌感染症の治療薬としての立場を他の抗生物質に譲ることになる。今はクロラムフェニコールは点眼薬、婦人科領域の坐剤として用いられているに過ぎない。

 この厚生省による使用制限の決断にどれだけ私どもの研究が役に立ったか不明であるが、研究成果の全てが厚生省の特定疾患の研究班の業績集にまとめられているから間接的には前向きに役だったのかもしれない。この使用制限は、私どもクロラムフェニコールの血液障害を研究していた研究者の念願でもあったのでとても良かったと思う。確かに、その後、クロラムフェニコール因性再生不良性貧血の報告は当然のこと皆無になったし、再生不良性貧血自体の頻度も減少したように思う。

 この使用制限の発表を機会に私はクロラムフェニコールの造血器障害に関する研究を終わらせた。この研究では投与量に相関した血液障害の発生についての根拠は明らかに出来たが、再生不良性貧血発症の機序についての治験は一切明らかに出来なかった。再生不良性貧血の発生頻度がクロラムフェニコールの投与例の1/2万例と言われる頻度なので、これを実験的に証明出来なかったことはほぼ当然のことと総括した。
 
 これ以降は、今までの研究で培った細胞培養の手技を生かしつつ、研究の中心を造血器疾患、とりわけ慢性骨髄性白血病に代表される慢性骨髄増殖性疾患の病態解明の研究に移行させた。



慢性骨髄増殖症候群の臨床的、造血幹細胞学的研究に移行(2)
 第3内科の初代の教授は若いときに骨髄線維症の臨床病態をまとめた方である。
そのために血液学の分野の中でも慢性骨髄増殖症候群と言われる慢性骨髄性白血病、骨髄線維症、真性多血症、原発性血小板血症の病態の解明に意欲をお持ちであった。
 クロラムフェニコールの造血器障害に関する研究を終わらせた時点で教授からこの分野について研究を進めるよう指示があり、私自身も関心があった分野なので先の研究の過程で身に付いた造血幹細胞の手技を応用して検討を開始した。

 慢性骨髄増殖症候群は疾患によって病態は大きく異なるが、総じて白血球、赤血球、血小板数共に著増する疾患群で造血幹細胞の動態から見ても解明すべき分野でもあった。
 それにしても、その前までは白血球、赤血球、血小板数共に著減する疾患の一つである再生不良性貧血の病態解明をしていた自分から見れば180度の方向転換である。しかし、これらの研究を通じて臨床的に広い分野により深く知識を得ることが出来たし、治療法についてもいろいろ考えることが出来るようになったので自分にとっては良い環境、条件であった。

 当時、慢性骨髄増殖症候群の中で発症頻度が多いことから代表的疾患であると見なされている慢性骨髄性白血病は長い歴史を持ちながら決定的治療法がなく、抗腫瘍剤を経口的に用いて単に白血球数をコントロールしていただけであった。しかし、結果的にこれらの治療法がこの疾患の患者さんの生活レベルの不便さは、不快さは改善できていたが生存期間は一切改善していなかったし、この疾患の患者さんの多くは末期には大きく肥大した脾臓由来の苦痛に苛まれ、この時点での治療には難渋していた。
 当時、教授はこの疾患の生命予後、臨床症状の軽減について何らかの新しい治療法を考慮されていた。その様な中で、病初期の脾臓摘出が臨床像を大幅に改善し、ひいては生命予後の改善も期待できると言う欧文の文献が登場し、私どももそれについて検討を開始した。


慢性骨髄性白血病摘脾療法の全国集計を担当(1)
 慢性骨髄性白血病の患者さん方は他の原因で亡くならない限り1-10年、多くは3-4年で突然悪化し、臨床的には急性白血病に近似した状態となる。この際、脾臓が腹腔内を占拠してしまうほど増大する。白血病自体の悪化による発熱や、出血傾向、貧血に加え、脾臓腫大に伴う激痛、腹部苦痛等は大変なものであり、多くは治療抵抗性で患者。医師団双方を悩ませたものである。
 この疾患において急性の悪化の場が脾臓であると言う染色体分析を中心とした基礎的研究結果と、その理論を背景にした初期の脾臓摘出は、恐らくこの疾患の急性増悪を予防し、生命予後の改善も期待できるであろう、更なる臨床的検討が必要である、とした文献は、私どもにとっても朗報であ?。

 当時、この疾患で悩んでいた患者さん10名ほどにこの新しい治療法を意義を説明、同意を得て脾臓を摘出した。血液疾患、特に白血病における手術は外科医師にとっても大変なストレス下の手術であったと予想されるが、大きな合併症もなく脾臓摘出が出来た。
 当時の血液関連学会にはこの治療法の演題が各地の大学病院から発表されていた。如何にこの治療法が注目されたかを示している。

 問題はこの治療法の臨床的評価である。各施設何れも数例程度でしかなく、これではこの治療法の臨床的意義など明らかに出来ない。当時のわが国に於ける治療デザインの設定はこんなものであった。基本的に新しい治療法の導入の際には学会レベルでプロジェクトチームを立ち上げ、一定の治療方針のもとで検討しなければ評価できる結果など得られない。当時から私はそう感じていた。
 秋大第三内科の教授が音頭をとって協力が得られた各施設の症例を集計し、数年間に渡って調査することになり、実務は私が担当した。集計対象となった症例は100数例ほどである。これほどの例であれば脾臓摘出の臨床的意義を明らかに出来るはずである。



慢性骨髄性白血病摘脾療法の全国集計を担当(2) 激暑の名古屋に驚く
 10例ほどの摘脾症例のある数カ所の医療機関には教授の命のもと数人の医局員が実際に病院を訪問して病歴を見せていただき、かつ担当者からも治療についての意見を直接聞くなど、情報収集に中った。

 私は名古屋市内の某病院に調査しに行った。病院には近郊の別の医療機関で手術を受けた患者の病歴も用意されているなど、とても協力的で情報収集作業は二日間で順調に進んだ。この二日間は雲一つない快晴で、真夏の炎天下での名古屋地方の猛暑に心底驚いたものである。初日の午後は歩いてホテルに向かったが、強烈な日射しと道路からの照り返しで全身汗びっしょり、動悸はするわ、目眩はするはで、実に大変であった。北国の岩手育ち、秋田住まいの身には適応は困難である。早々にタクシーにて宿泊の都ホテルに向かった。タクシーは強烈な冷房がかかっており、汗がスーッと退き、生き返った気持であった。当時の私の車にはエアコンはなく、車のエアコンなんて贅沢品・・・と思っていたが、この日の経験で発想をすっかり変えた。

 更にもう一つ。いつもの気楽さでポロシャツにスリッパ姿で出かけたのであるが、フロントでやんわりと宿泊を断られた。予約し前金で宿泊代金を支払ってていたので何とか宿泊はさせていただけたが、このお姿でホテル内のレストランとかはご遠慮下さい、と宣告された。そのために夕食、朝食はルームサービスで済ますなど贅沢を味わった。軽装のために利用を断られた経験は他にも帝国ホテル、銀座マキシム、秋田ビューホテルのレストランでもあるが、当時はそんな時代でもあった。価値観が多様化した現在でも同様なのだろうか?
 
 肝心の慢性骨髄性白血病摘脾療法の臨床効果の集計は年に一回づつ数年間に渡って継続した。結果的にはこの疾患では診断早期であろうとなかろうと、脾臓の摘出は生命予後には全く影響を与えなかった。集計結果は臨床血液学会で逐次報告し、生命予後へのメリットは得られないだろうとの予測は早めに出していたので、この治療法は全国的に一気に終焉を迎えた。
また、この治療法のもう一つの目的である疾患進行期に於ける患者のQOLの改善、疾患末期に於ける臨床像の改善については、それなりのメリットは見られるとの評価が多かったが、その目的だけのための摘脾療法は意義が乏しいとの結論を出し、この研究は終了した。
集計結果はCancer誌に投稿したが私の英文の拙さもあってか受け入れられず、英文は日本血液学会誌に、和文の改訂版は日本医事新報に掲載されている。


慢性骨髄増殖症候群の造血幹細胞の検討(3)  教授が新潟大学教授として転任

 慢性骨髄性白血病摘脾療法の臨床効果の集計はと並行して慢性骨髄増殖症候群の病態を造血幹細胞の視点から検討を加えた。この症候群には「慢性骨髄性白血病」「真性多血症」「原発性血小板血症」「原発性骨髄線維症」の4疾患が含まれるがその他分類不能の類似疾患も若干認められる。
 健常者の場合、通常の状態では末梢血、骨髄血中には造血幹細胞は認められはするが決して多くはないが、この症候群の場合には末梢血、骨髄中に造血幹細胞が著増しており、細胞培養にて検出でき易いという特徴がある。私は主に赤血球系の造血幹細胞を中心に検討を加え、この症候群の病態の検討を行った。

 慢性骨髄性白血病摘脾療法の臨床効果の集計および慢性骨髄増殖症候群を造血幹細胞の視点から検討を加えていたこの頃、1977年10月に秋大第三内科の初代のS教授が新潟大学の第一内科学の教授として転任した。S教授は1970年4月に秋田大学第一内科に助教授として就任、第三内科教授として教室を主宰されたのは1975年10月であったから、秋大教授としてはちょうど2年間であるが、私は1973年6月以来いろいろ御指導を戴いた。
 第三内科は1978年3月に当時助教授であったM先生が教授に昇格した。
 慢性骨髄性白血病摘脾療法の臨床効果の集計はS教授と共同研究という形で従来と何ら変わりなく進めることになった。



新潟シンポジウムに2回、発表の機会が与えられた
 秋田大学の第三内科初代のS教授は新潟大学に移られてからも精力的に研究活動を行い、日本内科学会や血液関連学会等数多くの学会を主催され、著書も多数発行された。

 血液学の分野で一回ごとにテーマを絞った「新潟シンポジウム」も何度か主催されたが私は1978年10月の第1回「新潟シンポジウム--慢性骨髄性白血病」、1981年10月第2回「新潟シンポジウム--造血幹細胞とその異常」でシンポジストとして発表の機会を与えられた。
 前者においては慢性骨髄性白血病の摘脾療法について、後者においては慢性骨髄増殖症候群に於ける造血幹細胞の動態について報告した。
 
 血液学の分野で、必ずしも先端的研究や治療を行っていた訳ではないし、業績を上げていたわけではない私が2回もシンポジストに選ばれた理由は、どの方向けら考えても同門のよしみ以外の何物でもない。大事なこの様な会で二度にも渡って機会を与えられたことについては、今考えれば冷や汗ものであったと思うし、だからこそ感謝以外の何物でもない。

 私の発表部分の評価は別として、この2回のシンポジウムはその時期のわが国の慢性骨髄性白血病や造血幹細胞の研究の状況が一堂に集められたものであった。このシンポジウムの記録集は医歯薬出版KKより単行本として発行されている。

自伝 秋田大学時代 2(1973-1985)






ご意見・ご感想をお待ちしています

これからの医療のあり方Send Mail


戻る