徒然日記
2005年12月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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12/31(土)(年始休暇三日目)曇・降雪5-6cm  病棟拘束 
 1:00起床、体調回復しつつある。ドック処理x1、そのほか淡々と処理。7:15検食、8:30病院へ、回診、事務処理、降雪あり10:30帰宅、10:40-11:20除雪。15:00-18:00病院、回診他。18:30帰宅、19:30夕食。TV若干、20:30就眠。
 
私の一年 9-12月
 9月1日付で院長に就任したが、どの様に考えてもどの方向から考えても青天の霹靂、私にとっては大事件である。私は病院にとっても法人にとっても、どちらかというとアウトサイダー的であったし、第一、組織の先頭に立つのは好まないし、その資質もない、と思っている。世のリーダーを創造型と調整型に二大別するとすれば私は後者の方だと認じている。この厳しい医療情勢を乗り切って行くのに果たして十分な働きが出来るのか、不安と共にスタートとなったが、引き受けた以上一つ一つにベストを尽くすしかないのだ、と覚悟はしている。

 中旬、東北医連総会では県医師会会長直接選挙に関して意見を述べ、日本医師会雑誌の依頼もあり記述した。また、全国放送であるラジオ日経を通じて日本医師会の在り方等について30分間持論を交えて考えていることを述べた。秋田でのラジオ放送は10数回も出演しているがせいぜい6-7分間であり、言いたいことも十分に言えないで終わるのが常であったが、充分論旨を展開出来た。

 10月初め、家内の身体に異変が生じ、手術を受けることになる。ほぼ同じ頃私の腰痛も増悪してきておりMRIにて腰椎ヘルニアと判明した。折しも新潟大学の同級会が予定されていたので二日間家族旅行をかねて旅行した。家内は帰秋翌日に入院、諸事情で数日遅れたが19日に手術を受けた。術後経過は順調である。

 秋田市医師会報に「市医師会も私的医療機関を差別していないか?」を投稿したがいろいろ問題をかもし出したようである。市医師会の役員の何人からは厳しい指摘を受けたが、会員の10数人からは好意的な意見が聞かれた。私は何時かは書かれるべき内容なのだ、と今でも思っている。

 11月上旬には出身医局である秋大第三内科の現教授及び有志が私のために祝賀会を開いて下さり恐縮した。私は約20年間医局の行事に一切出席しなかったなど、非常識な医局員であったが出席者全員から暖かいコメントを戴いた。

 下旬には病院の創立50周年記念の行事、「健康フェスティバル」、パネルディスカッション「私たちの課題と今後」、「記念祝賀会とパーティ」が盛大に行われ、名誉院長他の来賓の方々を迎えて盛大に行われた。私も祝賀パーティの中の挨拶で充分「思い」を伝えられたと思っている。

 その翌日、私は激しい腰痛を経験した。腕の動き、会話、呼吸を含むあらゆる身体の動きによって左下肢の激しい疼痛が誘発され、このままいつ手術に回されても構わない、その際いろいろなスケジュールをどの用に処理しようか、とまで覚悟したが、鎮痛消炎剤の助けを借りて翌日には何とか歩行出来るまでになり、公務に穴を開けずに済んだ。今は疼痛は殆ど無いまでに回復している。人の身体は不思議なほどの回復力を備えているものだと改めて感心した。

 12月は講演3回、「新型インフルエンザ」関連の県の委員会、大熊由紀子氏を迎えての「第2回21世紀の医療を考える県民の集い」それに何回かの「忘年会」等行事が目白押しで実に多忙であった。その中では2日、17日の2回秋大循環器系の医局の忘年会でアトラクションとして「The Yamamoto Band」の一員として愉しい時間を持てたことは良い想い出になるだろう。

追記
 本日12月31日、長男・長女はニューヨークに発った。次男は仕事か?所在不明である。今年の大晦日の夕食は夫婦二人だけとなったが、我が家としては初めてのこと。一時は9人も同じ屋根の下で暮らしたものだが、と今年もまた感慨にふける。おせちの一部を利用しての簡単な夕食。TVで何年かぶりで紅白歌合戦見始めるも、演出が耳にも目にもとても煩くて付いて行けず、30分も耐えられず。N響の第九、アシュケナージ指揮を、聴く、これが年末情緒を醸し出してくれた。アルコールの影響も若干、明日のために、来年のために早めに就眠することとした。

 今年は我が家では夫婦揃って故障・病気がちでしたが良い経験、勉強が出来た年でもありました。
 来年はいい年であることを祈念して、感謝を込めて、一年間の締めくくりとします。


12/30(金)(年末休暇二日日) 曇。時々晴れ   病棟拘束 
 3:50起床。寝不足で体調は不良、ラジオ深夜便聴きつつ、何とかドック処理x1、退院総括など進める。風邪気味でもある。5:00-6:00坐位にて微睡む。徒然、年賀状若干記載。家内も出勤なので8:30病院へ。回診、患者対応、総括・紹介状など処理。午後もほぼ同様に過ごすも能率は低め。16:45リハビリ病院に移動、当直。18:30検食。夕食用に出前も依頼したがついに届かず。中通総合病院医局の方に届いた?と思ったが、睡魔に負けて電話もかけず、20:00就眠。

私の一年 5-8月
 5月に私は「還暦」を迎えた。本当に、予想外に、良くまあここまで生きられた、と思う.一人でじっくりと感慨に浸っていたが、秋田の親戚の方々、友人がそれぞれ還暦を祝う会を催してくれた。有り難いことである。この頃私は真面目に一端退職し、嘱託医として働き自分の時間を確保したいと贅沢なことを考えていたが、諸般の事情で実行出来なかった。こんな事を考えていた時期が今となれば懐かしい。

 6月には県医師会委員会で進めてきた「会長直接選挙制度」の実施が代議員会で承認された。私は主担当ではなかったが、秋に対外的に方々で関連の講演とかラジオ放送を担当することとなる。中旬には「友の会の40周年記念」とかの行事、「日医病院委員会」とかが連なり多忙であったが、一抹のオアシスとして横浜で長女によって拾われた「黒猫」がわが家に引き取られた。当時、手の平大で黒チビなんて言っていたが、半年たった今では巨大化し、先輩の老描に煩がられている。

 7月は大きなイベントこそ無かったが多忙であった月。テニスの「山田カップ」、「市救急隊とのカンファレンス」、「急性脳症検討委員会」、「各種の県関連委員会」、「秋大と医師会の懇談会」、「日医男女共同参画フォーラム」、「講演3件」などなど。

 8月も前半は7月同様各種の行事の処理が中心。中旬には私の出身医局である「秋田大学第三内科の行事」に院長代理として20年振りに出席し、仲間達に驚かれた。この頃、次期院長へ就任の打診があった。原因不明の腰痛、今年果たせなかった夢もある、年齢因子、優柔不断の性格等を挙げ私はその器ではない、無理です、としばらく固辞したが最終的には同意した。辞退しきれなかったところが優柔不断の極めであった。考えてみれば私の人生はこれの繰り返しだったな、と今は思っている。


12/29(木)(年末休暇一日日)曇時々晴れ 病棟拘束  患者死去
 2:00起床、風邪気味で体調やや不良。ドック処理x1、総括、その他原稿など淡々と。5:20病院へ。重症患者一部回診、病棟業務若干。午前-午後にかけて机上の残務、総括、夕方一時部屋のテーブル上で仮眠。19:00患者更に重症化。20:20帰宅、夕食。21:00就眠する。22:30病棟より電話、再出勤、患者死亡確認。他の重症患者回診、処置等、2:00帰宅、入浴、2:30就眠。


私の一年 1-4月

 過ぎ去った時間、出来事を記録して置くことの意義は徐々に大きくなっている様な気がする。この2005年の一年は自分にとっては一体どんな年だったのか。ざっと振り返ってみた。

 1月は病院内では年末から発生した「ノロウイルス感染対策」に奔走した。ノロウイルスは今ではどんな季節でも発症するが、基本的には冬期間に多い感染症で主たる症状は嘔吐、下痢である。小児科ではどうしても急性胃腸炎の症状が強い場合や、脱水症を伴っていれば入院が避けられないが、吐瀉物、便にはウイルスが含まれ、強力な感染力があるから、介護者や医療従事者も高頻度に感染する。医療従事者を介しての院内感染は大きな問題になるが、当院の感染対策委員会は特記すべき活動成果を上げ、結果的に県内のノロウイルス対策のリーダーとなった。ノロウイルス関連の講演会等では当院のスタッフは引っ張りだこである。
 中旬には李 啓充先生を迎えて第一回の「21世紀の医療を考える会」が行われ,講演会、対話集会を行った。講師の招聘に関し私が担当した。李先生は高名な方で、アメリカ在住、超多忙の方、駄目で元もととメールで連絡を取ったところ、一月の帰国の際に何とか時間が取れそうと言う連絡をいただいた時は俄には信じられなかった。会は予想外の盛況であった。

 2月中旬は中学の同級会が開催され、44年振りに知己を暖めた。この間全く音信の交流が無かった同級生との話が盛り上がるのは不思議であり、とても良いことだ。数時間40数年タイムスリップした如くの錯覚を覚えた。
 「個人情報保護関連の法律施行」を4月に迎えることから、日医関連の連絡協議会関連の出張、県医師会主催の講演会の準備等にも時間をとられた。
 この時期、秋田県を中心に日本海側で発症した「スギヒラタケ関連?急性脳症プロジェクト委員会」も集中的にもたれた。医師会代表として委員会には出席したが、不思議な病態で私は殆ど理解出来なかった。

 3月は何と言っても中旬の医療評価機構受審である。私が受審委員会の委員長であったためにこの約一年間のプレッシャー、個人的に準備に費やした時間も大変なものであったが、最終的には各部門の職員が一体になって準備に奮闘し、予想以上の自信を持って受審出来た。受審によって医療機関としての機能はより適正化したであろうが、結果的に職員の業務量が増加し、新たな問題が生じてしまった。
 他には日本医師会代議員会、民医連病院長会議等で多忙であった。

 4月は上旬に職員の入社式が行われて出席したが、寝不足で終始居眠りし、内容は殆ど記憶にない。真ん前、最前列に座して居眠りしている私に気付いた新入職員はさぞや驚いたことだろう。
 医療情勢は厳しい局面を迎えつつあることから、7日に霞ヶ関にて県選出の国会議員と懇談し、医療現場の窮状を訴えた。何れの議員とも医療問題には関心が薄いようで、こんな方々が国会で医療・福祉環境を論じているとすれば、先が思いやられる、と言うのが実感であった。また、それがつい先日現実のものになってしまった。


12/28(水)曇・比較的穏やか 一応御用納め 市立秋田総合病院訪問 地域医療連携部ご苦労様会 
 1:30やや寝不足感あるも起床、ドック処理x1、紹介状、総括、年賀状など。5:00-5:40除雪。5:55病院着。6:10回診。不調患者数名。この後、若干体調不良、カゼ?、全身違和、微熱。9:00-14:30外来、沙─・・欝紺悪欝些・ぢ市立秋田総合病院訪問、懸案2.3について院長と面談。本年最後の医師会打合せは行けず。16:10病棟患者対応、熟練医師の不調を見舞う。急遽設定された朝日新聞の取材はキャンセルとなる。19:30-20:40地域医療連携部ご苦労様会にたまたま参加、歓談す。22:00帰宅、夕食、22:45就寝。

御用納めの開放感に便乗  地域医療連携部ご苦労様会  
 本日は当院も御用納め、新年の3日まで年末年始休暇。殆どの職員は出番が複数日あるからまとまった休みにはならないが、職員達の表情には開放感が感じられる。この開放感の背景には一年間頑張ったという充実感が背景にあるからなのだろう。ゆっくり自分の時間を過ごして欲しいものである。
 私にとってのこの数日は残務山積みの上、いろいろ考えなければならない事、準備しなければならないことが待ち受けている。例年ならこの間2〜3回は日直があたるのだが今年は12/30のリハビリ当直一回のみ。しかし、受け持ち患者30数人、全員外泊せずに残っている。だから、病棟業務は軽減はするだろうが高齢者の体調は曜日なんて選ばないからそれほど変わらないだろう。ただ、この間、外来業務から開放されるので私にとっても年に一度のゴールデンタイムである。

 夜、たまたま廊下で会った婦長から地域医療連携部に来ませんかと誘われた。ミカン1-2ヶくらいくれるのかな?と気楽に入っていったら、いつもの部屋とは別世界。スタッフ中心のご苦労さん会で、ビールあり寿司ありつまみあり、驚いたが、私自身も開放感が欲しかったのだろう、やりかけの仕事ほったらかして居座って、歓談した。こんな会が予定されているのなら、ちょっと声をかけてくれれば夕食を断って、ご祝儀を持って参加したのに残念。ウーロン茶すすりながら、50周年記念での話し等で盛り上がった。特に創立50周年記念「健康フェスティバル」はこの部門の努力、発想の成果である。だから、みんなの表情には大仕事をやりきったあとの充足感、それを背景に開放感が満ちあふれていた。女性職員はそれだけではなく、まん丸と満ち溢れていた。次々と別部門のスタッフが顔を出すのもとても良い。これぞ、この雰囲気こそ当院の宝なのだ、と実感。

 服装に関しては「着たきり雀」調の私にとって唯一のおしゃれの部分は小さな布きれ一枚なのだが、数年前に繋温泉である職員に見られてしまったが、そんな話も含めていろいろ話が弾んだ。普段とは違うスタッフの自由な様子がとても良い。つい私もついつられてある事無い事話して呆れられた。
 
 こんな会が各部署で開かれているのだろうか?知らなかったね。私は勤務して20年だが、昨年療養病棟でご苦労さん会なるものに出てケーキと紅茶をいただいたのに続きこれで二回目ポッキリ。今日だって、夕方たまたま婦長に会わなければ私の夜は淡々と、淡々と、書類処理だけで、いつもの如くであっただろう。

 まずはこの一年、みなさん方、大変ご苦労さんでした。


12/27(火)晴・曇・降雪  AB来訪 法人常務会本部5F 健康対策課来訪
2:00起床、ドック処理x1、総括x2、紹介状他、徒然。5:00-5:30新雪分だけ除雪、5:45病院着。6:15回診、 9:00外来、A bank来訪、処理依頼、14:30-15:45法人常務会本部5F    、16:00健康対策課来訪、県インフルエンザ対策Ver1完成。明日記者会見という。外来忘年会は声かからず。20:45帰宅、夕食、21:30就眠。

秋田市では「48年豪雪」以上の積雪(4)まだ降雪期の始まりだというのに!!
 秋田市の積雪は12月としては記録的な大雪となっている。よくマア降るね、と呆れるしかない。
 これが雪のシーズン途中などであれば、あと一ヶ月の我慢だ、数週間の我慢だね、と言っていれるが、まだ雪のシーズンが到来したばかりである。ホントに初冠雪がこのザマである。まだまだ道のりは長い。一昨年の日記には、今頃に初めて除雪機を持ち出した、とあるが、今年はもう除雪機での積み上げは数回に及び、雪を飛ばす場所の確保に事欠いている状況である。

 日常生活にはいろいろ影響が出始めている。県内のJRは27日も在来線20本が運休したと言うし、特急列車8本と普通列車38本に最大2時間ほどの分の遅れが出た。秋田新幹線も遅れて秋田駅に到着している。だから、9:00-10:00頃予約の患者さんも正午頃に到着するなど大変である。待合室から聞こえてくるのは「私は2時間もかかって来ましたよ」「イヤ私は4時間ですよ」「普段750円のタクシーが渋滞で3200円も・・」であり、待合室横綱を競い合っている。それでも患者さん方は1-2分の診察でいつものように帰っていく。私は患者さんに敢闘賞でもあげたいよ。

 秋田市は27日、除排雪経費として5億円を追加したから今年は10億円以上計上したことになる。しかし、市道路維持課の談話によると当初予算の殆どをこの3週間で使い果たした、と言っている。だから、今年度の除排雪経費は、もしかして20億円ほどにも達するかもしれない。これは市政には大打撃である。

 秋田市内には雪の堆積場は3ヶ所あるがもう飽和状態になりつつあるのだそうだ。

 除雪が間に合わない道路はさながらスキー場のギャップのような状態になっている。自動車同士の接触事故も後を絶たない。身近でもいろんな事が生じている。最近、医師の一人が診療の移動中に転倒して骨折した。これは労災である。

 私の家は「へその緒つき胎盤」に例えたくなる様な作りである。わが家の敷地に入ってしまうと比較的広くて良いのだけれど、そこに至るまでは細い路地が100mほど続く。除雪が不完全なものだから凹凸が激しい。FFのプリウスでの通勤を諦め家族間で車を融通して使っている。


12/26(月)曇り・降雪・寒波襲来   管理会議  療養入棟判定会議  院内感染症対策打合せ 長副会議
 1:30起床、ドック処理x1、退院時総括、持参の業務を淡々と。外は暴風雪。風に飛ばされて積雪は殆ど無し。吹きだまり除雪は風で困難。5:30病院着、6:15病棟回診+定期処方、机上業務。9:00-14:00外来、道路事情劣悪なのに患者さん方多い。15:00日本ユニコム来訪。16:00-16:20療養入棟判定会議、16:30-17:00院内感染対策打合せ、17:00-20:20長副会議、懸案事項多数。21:30帰宅。夕食、22:10就寝。

サルたちの入浴、上がった後に寒くて凍えないか??心配だ
 連日連夜裏日本は寒波、降雪で厳しい状況にある。
 こんな季節、新聞には必ずと言っていいほど、ニホンザルが温泉でに浸かり、「上気した顔でいい気分、良い湯だね、ハ・ハン」、と言うような状況がカラー写真入りで報道される。今年は別種類の小動物が何処かの温泉に浸かっていた写真も載っていた。連日の寒さの中、ホットな話題の積もりで掲載しているのであろうが、私はそれを見る度に、ホットどころかいつも心から冷え切ってしまう。入浴しているときは暖かくて良いだろうが、ひとたび湯から上がったら彼らは一体どうなるのだろうか?と言う疑問が湧いてくる。

 動物園の、あるいは猿山のサルたちは厳寒期には集団で抱き合って、互いの体温で暖をとって耐えている。一番外側のサル達は相当寒かろうに気の毒なことだ。強い風雪の時にはサルたちもヒューヒューと声を出し、互いに励まし合って耐えているように聞こえる。
 名曲「神田川」でも、風呂から先に上がった女性が男性を外で待っている間に洗い髪や身体が冷え切って震えのために石鹸がカタカタ鳴った、と言う状況が歌われている。厳しく冷えた環境の中では、湯上がりはむしろ耐え難いものだと思う。

 あのいい気分で移されているサルたち、ビッショリと濡れ、水分をたっぷり含んだ状況で冷え切った状況の中、どうやって寒さを凌ぐのか??そこら辺の説明も記事の中に欲しいものだ。入浴したサルがその晩に凍えて死んだという報道に触れたことはないから多分大丈夫なのだろうが、気になってしょうがない。

 私は早朝、仕事をしながら身体が冷えると2-3回も入浴し体を温める。私のちょっとした楽しみの一つ。要するに、サルと私は全く同じ事をしているのだが、その後の環境があまりにも違いすぎる。あの「サルが温泉に浸かる」報道によっていつも私の気持ちの中にはわだかまりの気持が残るし、彼らの厳しい状況に思いを馳せて、私はむしろ傷ついてしまう。


12/25(日)降雪・寒波 病棟拘束  道路除雪
2:00起床、ドック処理x1、総括、主治医意見書、徒然などいつもと同じ。10:20-11:30町内路地の除雪。ツルハシにて固まった雪を砕く。かなり状況は改善。疲れたのと腰を守るためにその後午睡、15:00軽く昼食、15:30-19:30病院机上業務処理。20:00次男のレガしーワゴンとプリウスをしばらく交換することとして帰宅。対向車と交差するとき互いに道路の中央によって来るから気を遣う。軽食、20:30就寝。
   
自伝(秋田大学時代) 
バンクーバーからモントリオールへ 山岳と湖沼の広大な米国大陸
 バンク-バー国際空港を発って十分に高度を確保した機は間もなくロッキー山脈にさしかかる。ここから1500Kmほど山岳地帯の上空を飛ぶ。窓から見える山々は壮大ですごく険しそうに見える。最初は驚きもしたが、約2時間半同じような景色の上を飛んでいると感覚は麻痺してくるが、この広大さこのスケールの大きさは何なのだ!!  と別の驚きが沸いてくる。
 秋田から伊丹あるいは関西空港に向かうと美しい日本アルプスの山並みが見えるがスケール感が全然違う。ロッキー山脈には美しさではなく険しさそのものを感じてしまう、これでもバンク-バーからの飛行ルートはロッキー山脈としては幅が狭く、山々も低いとのこと。サンフランシスコ、ロサンジェルスからアメリカ大陸を横断するときのスケールは更に更に大きいのだと言うから驚く。

 機はその日の気流が良くなかったためだろう激しく揺れた。天井の荷物収納庫の扉が今にも開き荷物が頭上に落ちてくるのではないか?と心配になるほどで小刻みにあるいはおおきな揺れに翻弄されながら飛んだ。自身の寿命も若干縮んだ様な気がしたが、本当に旅客機は丈夫に出来ているものだと感心したが、こんなところを連日飛べば機としての寿命も短縮するのではないだろうか、とも感じたほどであった。
 2時間も飛ぶとさすがに山岳地帯は徐々に平坦な地形に変わっていき、揺れもそれにつれて小さくなっていく。地形が平坦になっても一面荒野である。とても人が住めるような状況ではない。鉄道や道路などの形跡は全く見られない。恐らく人は一人も住んでいないのだろうと思う。やがて広大な平坦地になるが、今度は徐々に大小の湖沼が眼下に広がる。湖沼は海の一部かと思えるほどのスケールのものから召気覆發里泙罵諭垢如⊂貊蠅砲茲辰討聾両磴量明僂・垢量明僂茲蠅盥C・蠅瓩討い襪箸海蹐気┐△辰拭・・実匸w) カナダは広大な国土を持っているが、人が住めるところと言えば、その割には広くはない。大部分が氷雪地帯、山岳、森林、湖沼によって占められ、自然豊かと言うか厳しい国土なのだと感じ入った次第である。


12/24(土)曇り・降雪15cm  除雪  医師面談  散髪
1:30起床、ドック処理x1、総括、紹介状など、いつもの如く。5:00-6:00除雪。屋根からの落雪で車通行困難。Taxiにて病院6:20着、7:00回診、患者は比較的安定。9:00ドック結果説明者交通事情悪く来院出来ずキャンセル。9:00研修医と面談。以後は机上のカルテ総括、紹介状とかに集中。13:30外科系医師面談。13:45散髪。
15:00-16:00入院患者家族と面談。以降再度カルテ処理等淡々とこなす。20:00迎えの車で帰宅、21:00就寝。

秋田市では「48年豪雪」以上の積雪(3)道路はパニック状態 市には苦情が殺到
秋田市の積雪はついに60cm近くにまで達し、12月としては記録的な大雪となっている。昨日あたりから若干小降りになったとはいえよくマア降るね、と呆れるしかない。しかし、日常生活にはいろいろ影響が出始めていて笑ってばかりはいられない。
 昨日は秋田空港発着便の殆どが欠航し、新幹線も間引き運転したらしい。

 身近でもいろいろである。まず、看護師が時間通りに出勤してこない。勿論、各々1-2時間も早めに家は出ているのだが、いや、出ようとしているのだが、「車が埋まって脱出するのに1時間もかかった。遅刻します!!!」とか、「市の中央部に近づくにつれて渋滞で何ともならない!!! 遅刻します!!! 」とか、私が回診しているうちにそんな電話が病棟に4件かかってきた。「ごくろうさん、気を付けて」と笑って言うしかない。自室で仕事していると隣の秘書室に出勤した医師達が「駐車場で埋まった。何とかして欲しい。除雪も・・」と詰めかけている。

 私は除雪後、FFのプリウスでの往復はしばらく困難と諦めタクシーを呼んだ。タクシーも路地には入れないから近くのコンビニで待って貰った。そこまで歩くのも大変であった。
帰路は、今日は土曜日で夕方には業務が一段落し、帰れないこともなかったが道路は渋滞の様子なので、タクシーも走れない、渋滞が改善するまで待つか、と20:00頃まで自室で業務をこなしていた。結果的に買い物帰りの家内と長女が病院に寄って拾ってくれた。家内の車はレガシーセダンで4WDなので何とか家までたどり着いたが、FF、FR車ではまずダメだろうと言うほど路地の状態はひどい。市道でも幹線道路以外はひどい状態である。
 家内達は15:00過ぎから市の中央に向かって買い物に出たとのことであるがデパートでは実質1時間ほど過ごしただけで、あとの4時間ほどは渋滞の中での移動だったという。何で女はこんな時にも買い物に奮い立つのか、私には不思議である。

 秋田市の除排雪対策本部には連日300件以上の苦情電話が寄せられているという。当の本部は「除雪車はフル稼働中。大雪で除雪が追いつかず何ともならない、待って欲しい」と繰り返すだけ。ついに除排雪対策本部は電話にも出なくなったらしい。これは後になってまた問題化するだろう。

 私は腰のヘルニアのために今年は除雪は控えよう、と隣の若者に託したが、予想外の大雪ではそんなことは言って居れない。兎に角、踏み固められる前の除雪が肝要だから、と昨日から早朝の除雪を始めた。腰をいたわりながらなので何か歯がゆいが、とても黙っていられる状況ではない。


12/23(木)天皇誕生日 降雪15-6cm寒波若干緩む  病棟拘束  除雪日 
2:30起床。ドック処理x1、総括。紹介状関連書類等。徒然。7:00-9:00除雪。既に数日間自動車によって固められており更に氷ついて除雪機が上手く機能しない。2時間ばかり奮闘、それでもなかなか綺麗に仕上げられない。この間、満タンにしたガソリンがほぼ空になった。こんな事は初めてである。それだけ雪が多いと言うこと。その後は、総括、文章書き数編着手、残務処理など、16:00-18:00就眠。タクシーが路地でスタック、脱出を手伝う。18:30夕食、21:00就寝。

大学医局の忘年会(3) 余韻・雑感 忘年会→望年会
 今年は秋大医学部の二つの医局の忘年会に楽器持参で出席した。ひょんな事を切っ掛けに心臓血管外科と第二内科の教授も入って結成された総勢11人のバンドの一員としてである。曲目は4曲で、何れもいい曲であったが、特にヴァイオリンの独奏部分がある「神田川」では思いっきり謡わせてもらって、私はとてもいい気分に浸った。全体として80点以上の出来でまず満足した。この時の余波はまだ続いている。県医師会の会合、県の委員会では忘年会に出席していた医師もおられて、数名の方からそれなりの評価の声をかけていただき、その時の余韻をその後も何度か味わっている。私の演奏の腕なんか当然のことたいしたわけではないが、私が楽器持参でバンドに参加していること自体が思いがけなかった、奇異に感じられた、と言うことであろう。

 ある医局の忘年会では教授及び幹部の方々から今年の漢字である「愛」について語られた。ある医師が病気になり苦境に陥ったときに同門会のメンバーがいろいろカバー仕合ってそれを助けたとのことである。確かにその医局の会には県内、市内の各年代の同門医師が数10名集まっており、結束の強さを窺わせるものがあった。同門の医師同士のこの様な助け合いは聞いていてとても暖かいものを感じた。
 一方、別の医局の会は現在のメンバーが中心で外部からは僅か二名のみの参加という全く内輪だけの対照的な会であった。こういうやり方もあるのだと感心したが、一方では医局を中心とした人的ネットワークは現実的にどうなっているのだろうか?と感じたのも正直なところである。

 三つの会でビンゴゲームが行われた。昨年は比較的恵まれていて良い景品をいただいたが、今年は例年のレベルに戻った。ハンドソープ、稲庭うどん、もう一つはちょっとした日用品で、もう何であったか思い出せない。

 以上が今年の大学医局の忘年会の雑感であるが、県医師会の役員・従業員による忘年会で会長が「忘年会」と言わず「望年会」と言おうと挨拶したが、これもなかなか良かった。私も何度かあった挨拶の中で引用させていただいた。


12/22(木)曇・雪・寒波 早朝雪かき 内科病棟診療部会(欠) 来客数件    診療部会 小児科病棟忘年会         
2:10起床、ドック処理x1、今朝転院の患者の退院総括、紹介状など急ぐ。4:50-5:20あまりの雪の多さに驚き道路だけを今期初除雪。そのため徒然更新諦めた。5:40病院。6:30回診その他入院業務。9:00-13:50外来。14:30  内科病棟診療部会は欠。来客3件ほど、歓談。 17:00 -17:50療養病棟診療部会。18:30小児科病棟忘年会・千秋会館、20:00病棟よりコール、病院に戻り対応。22:00帰宅。タクシー路地入れず途中から歩く。22:30就眠.

大学医局の忘年会(2)  いわゆる後期研修
  教授のお話からは、各医局とも来春の入局者をそれぞれ何人かは確保しているようである。が、まだ、確約は1-2名程度と僅かなようである。それでも各教授の表情には安堵の雰囲気が感じられた。

 実際に来春に初期研修を終了した研修医がその後どの様に行動するのかは全く読めていない、と言うのが実情のようである。
 私が把握している範囲では、2年間の研修カリキュラムの終了を待ちかねて大学医局に属するという専攻領域を決めている研修医も少数ながらいるようであるが、この2年間の初期研修カリキュラムが各診療科1-3ヶ月と細切れ過ぎて、慌ただしく、十分な研修が出来なかったと自認し、取りあえずそのままそこの研修病院に留まって更に研修するという医師が最も多いようである。
 また、義務化終了後に各地の第一線の医療機関が公募している後期研修の機会を求めて移っていくパターンも少なくないようである。ただ、その際、今いる研修病院よりも更に大規模でかつ先進的な医療を展開している、いわゆる良く知れた医療機関、大都市の医療機関、特徴ある医療内容を持つ機関への志向が認められるようである。
 従って、秋田大学にとっては来年も厳しい状況が続くかも知れない。
 
 何はともあれ、秋田大学がいわゆる後期臨床研修に魅力ある大学になる必要がある。更に、それに関する広報も重要である。研修医が関心を持って集める情報の代表は各医療機関のホームページであるという結果が出ている。広報が拙いとどんな機関でも人材は集まってこない。

 秋田県の医療の今後は秋田大学が如何に若い医師を集める事が出来るか、そのことにかかっていると言って過言ではない。だから、秋田大学の発展を秋田県の医療関係者の誰しもが期待し、関心を寄せている。


12/21(水)曇・雪・寒波 被爆者検診  県社会福祉審議会障害者福祉専門部会  県医理事会  医事紛争委員会 
2:10起床、ドック処理x1、退院総括、紹介状など。5:15病院。6:30回診その他入院業務。8:45被爆者検診。9:00-14:00外来+ドック結果説明。15:00県社会福祉審議会障害者福祉専門部会で秋田県庁に。16:30-18:30県医理事会。18:30-20:00県医師会医事紛争委員会。病院に戻り業務若干、21:30帰宅。22:00就眠.


大学医局の忘年会(1)  話題は法人化→初期研修必修化→いわゆる後期研修に
 例年、院長代理として秋大医学部医局の忘年会に出席してきたが、今年は、第一、第二、第三内科、心臓血管外科の4医局の会に出席した。泌尿器科は例年出席していたが他の会と重なり出席出来なかった。
 これは私は個人の立場での出席ではない。各医局とも年に一度関連病院の関係者を交えた交流の場として開催する会で、私も病院代表としてご招待いただく。秋田大学の各医局との交流は病院にとっても、患者さんの治療の面でも重要であるだけでなく、医師の人的交流の面で、現状でも、また将来的にもとても重要な意義があるので時間の許す限り出席するようにしている。
 秋田大学学長は私の恩師でもある。今はもう遙か遠い存在の方になっておられ通常は滅多にお会い出来ないが、歓談出来る機会にもなった。また、県内各地から各医局に関連の深い医師の方々が集まってくるので地域医療に関する情報交換の場としても位置づけることが出来る。

 教授挨拶の中でほぼ共通に語られたキーワードは、一昨年は「大学法人化」、昨年は「初期研修必修化問題」で、共に大学が迎える新しい時代に踏み出す危機感と緊張感が感じられたが、今年は法人化問題は語られず、初期研修2年の終了者の獲得、入局に関する話題であった。

 初期研修必修化制度は現在2年目であるが、大学の各医局にとって初めて迎える危機的大問題点であった。毎年卒業の時期には秋田大学に何人の卒業生が残るのか、各医局に何人入局するかは医局にとってとても重要な問題であるが、地域医療を担う第一線の病院にとっても、県医師会の立場でも、あるいは秋田県の立場でも共通して重要な問題である。

 それがここ2年間、新卒医師が各医局に全く入らない状況で、各医局にとっても相当の痛手であったことは理解できる。一方、その穴埋めのために各地の病院への診療応援の派遣を取りやめたり、地方に派遣していた医師を医局に呼び戻したことにより県内の医療機関も相当な深刻なダメージを受けた。だから、来春初期研修終了者がどの様な動きをするのかは単に大学だけでなく県内の医療関係者の共通の関心事である。


12/20(火)寒波、降雪  健康対策課員来訪打ち合わせ 法人常務会 感染症対策分科会新興感染症部会   
2:30起床、ドック処理x1。いつもの如し。病院5:15着、除雪若干して何とか駐車。6:15回診+定期処方箋発行、その他。 8:00健康対策課員来訪「新型インフルエンザ」関連打ち合わせ。9:00-14:00外来、14:30法人常務会、中座して県庁に。16:00-18:00第2回感染症対策分科会新興感染症部会。司会を務めるが大儀。病院業務、20:50帰宅、21:30就寝。

秋田市では「48年豪雪」以上の積雪(2)積雪は私を奮い立たせるが・・
 本日は若干寒波がゆるんだ。雪は少しずつ溶け始めている。実際、雪はこの溶け始め状態状態が一番厳しく、歩くにも一苦労、車も大変である。
 車の場合、路地など除雪不十分なところは凹凸が生じ深い轍が出来て車が真っ直ぐ走らない。狭い道路ほど状態が悪い。駐車場などは雪がゆるくなっているから車輪がめり込んで発進出来ないこともある。
 こんな状態では除雪は困難。だから雪の対策は積雪後可及的早くに対策することが肝要である。

 私は岩手の片田舎で育ったが、その地域の降雪はそうは多くはなかった。しかし、時には一晩に10-20cm降ることもあった。開業医であった祖父は患者が来始める7:00amまでには、門から医院までの間は勿論、生活に必要なトイレとか小屋とか薪置き場等の間は綺麗に除雪して置くべきとの信条を持っていた。だから幼少の頃から私も5:00頃からお手伝いさん、母と共に除雪にあたった。母達は朝食の用意もしなければならないので4:00am頃からもやり始めていて、その音で目覚めて慌てて飛び出したものである。

 岩手の中央部は寒い。厳寒期には-4度から-10度程度が続くのはざらであったが、それだけ新雪は水分が少なく軽い。数cm程度であれば大きな竹箒で掃くだけで楽であったがやはり積もればかなりの作業になった。特に、患者さんの一部はリヤカーに載せられて来院することもあるので除雪の幅も広くする必要があり、大変であった。それだけ除雪の意義は大きかったし、小学生の頃は除雪に関しては一端の責任感すら感じていた。

 この頃の影響か、私は積雪があると直ぐに外に飛び出したい衝動を感じる。秋田の現地に居を構えてからは道路が狭いこともあって除雪は必須だから尚更である。転居後には能率良く除雪するために除雪機を購入した。この10数年は6:00amになるのを待ちかねて除雪を開始したが、ここ2-3年は出勤時間の関係から待ちきれず5:00amから除雪していた。

 今年は、この豪雪であるが私はまだ一度も除雪していない。腰痛のためである。替わりに隣の若者がやってくれているので助かっているが、私にとっては残念なことでもある。綺麗に除雪仕上がった、作業の足跡を振り返って見て良い気分に浸るあの楽しみを、今年はまだ味わっていない。


12/19(月)曇・降雪若干 寒波  管理会議  療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、淡々と業務。ドック総括他処理.5:20病院着。6:30回診他、8:00管理会議。9:00-14:00外来+ドック説明x1。気象、道路事情からさすがに患者は少なめ。16:00-16:40療養病棟判定会議。17:00-19:40長副会議、懸案事項多数。21:10帰宅。21:45就寝。

秋田市では「48年豪雪」以上の積雪(1)「平成17年豪雪」と呼ばれるかも
 今年は暖冬の予想であった。マア、迎えてみなければワカランとは思ったが、何となくうれしい感じがしていた。しかし、蓋を開けてみれば予想に反して強い寒気団の影響で12月10日以降、秋田市では雪が降り続いている。これは全国的現象で、南国の高知等でもまとまった積雪が見られていると言う。一方、娘からの電話では横浜などは降雪はないとのこと。

 秋田市の最深積雪量は12月としては32年ぶりに30cmを超え、12月の平均気温も平年を3度前後下回っている。今月中は寒さが続くらしいので交通事情など、大変なことになりそう。
 12月16日現在の県内各地の最深積雪量は、秋田魁新報によると湯沢51cm、横手46cm、秋田37cmなど。また、1-15日間の総降雪量は、昨年が全地区で0cmであったが、湯沢145cm、鷹巣58cm、秋田66mなどで、各地で平年値の2-3倍となっている。

 秋田市で30cmを超えたのは昭和48年以来と言う。昭和48年は私が秋田に転居してきた年で初めて迎えた冬、雪の多さに驚いたもので、その時は通勤など大きな影響を受けた。
 当時の車は溝の深いスノータイヤであったが、実用性は低くよく滑ったもので、ちょっとした坂道すら登れなかった。車も後輪駆動が大部分で、しょっちゅう雪に嵌り、掘り出すのが大変であった。タイヤチェーン、脱出用プレート、スコップ、ジャッキ、牽引用ロープなどは必需品であった。

 この時にたまたま4WD車に乗ってその威力を知り、以降車を購入する際、選択出来るものであれば迷わず必ず4WDにして重宝してきたが、この11月にFFのプリウスに替えたばかり。昨夜は駐車場から脱出するのに一苦労した。今朝はもう駐車場には入れないかも知れないし、入れたら出られないかも知れない。自分の車で行こうかタクシーにしようか今のところ迷ったが、私は積雪を見ると無性にかき立てられるような気持ちになる方である。スコップ、脱出プレートを車に積み込み雪に挑戦してみる事にした。


12/19(日)風雪・寒波 病棟拘束  
 2:30起床、ドック総括x1。新聞整理。寝不足感あり、6:00-8:00再度睡眠。軽く朝食後業務若干。降雪続くが今年は隣の若者が除雪を担当してくれ助かっている。11:00-12:00来客歓談。レガシー冬タイヤ提供。次男の手伝いで自転車3台小屋の二階に上げ、ハーレーを奥に収納。既に積雪30-40cmと今年は異常に多い。昨年は12月は暖かく今頃はまだ積雪なく除雪機等冬支度をした時期。病棟落ち着いており、本日は病院には行かず終日家で賀状の準備、紹介状、資料整理等。19:30夕食、文献チェック等、21:00就寝。

アンカレッジからバンクーバーへ、更にモントリオールに
 アンカレッジからは運行クルーが全員交代となった。8時間ほど閉鎖空間を共有したという仲間意識からか些か寂しさを感じたものである。アンカレッジから同じ飛行機で約5-6時間南下しバンクーバーへ。この間、窓からはずっとロッキー山脈の峰峰を見ることが出来た。何時間も全く途切れること無く山岳地帯が続き、日本上空では絶対に味わうことも予想すらも出来ない巨大なスケールで圧倒された。

 バンクーバーは太平洋に面した沿岸の都市である。ここの地名は当時日本人指揮者の秋山氏が常任をつとめていた交響楽団の名称を通じて知っていた程度で、全く知識はなかった。ここの空港ではどこもかしこもメープルマークで溢れ、かつエリザベス女王の肖像が至る所に掲示されていて違和感を持ったが、カナダに着いたのだと実感した。
 ここで2時間ほど過ごしたが、最初の両替の時に「to Canadian dollars,please」らしいことを言って差し出したら係員がにやっと笑って「Oh!!  Two Dollars only??」と言って2ドルだけよこした。勿論、その後全額をよこしたが、実にウイットに溢れていた。概して窓口担当者はジョークが好きらしく、不慣れな私等はその度にただちには意味が分からず一瞬、一瞬フリーズしたが、笑顔を伴っているために不安な感じは全く抱かなかった。

 メープルマークのAir Canada のBowing727機にてモントリオールに向かった。モントリオールには北アメリカ大陸を横断することになるが、さすがにロッキー山脈を越えるときは機は大揺れに揺れた。


12/18(土)寒波・降雪 病棟拘束    患者相談者来訪説明 リハーサル+秋大第二内科忘年会 秋大泌尿器科忘年会(欠)    
2:00起床、ドック総括x1、紹介状他、徒然。5:15病院着。6:15回診他,8:10ドック診察x5,9:00-19:50ドック結果説明。10:00-11:30 Y病院患者家族来訪、病状経過説明、納得いただく。14:30-16:15Castlesで音だしリハーサル。病院に戻り業務。18:30-20:40秋大第二内科忘年会, The Yamamoto Band演奏。21:20帰宅。21:50就寝。

大学医局の忘年会  The Yamamoto Bandはまず成功
 今年は秋大医学部の二つの医局の忘年会に楽器持参で出席した。
 昨年の心臓血管外科医局の忘年会でひょんな事から結成が決まったThe Yamamoto Bandは、実は他の正式な名称があるらしい。「若くない集団」という意味の英語らしいが難しくて覚えられない。楽器構成はギター、キーボード、サックス、フルート、三味線、それにヴァイオリン。メンバーは私を含む医師6人に、補足パートとして学生バンドからベースとパーカッションの2名、ボーカルとして某病院の若い看護師3名の参加を得て総勢11名。
 医師は私を除くと何れも循環器系の専門医で心臓血管外科と第二内科の教授もメンバーである。だから両教授の医局での忘年会がその実演の場となった。前者は12月2日、後者は本日夜で、本日の私は余興要員として初参加であった。

 曲目は「夢のカリフォルニア」、「悲しい色やね」、「津軽海峡冬景色」、「神田川」の4曲。各楽器の前にはマイクロフォンが置かれ、壮大な音を立てる。だから、あまりデリカシーは要求されない。私は私的なアンサンブルの際にも自己主張が強すぎていつもフォルテでうるさいと言われているが、このバンドの中では思いっきり弾ける。良い憂さ晴らしにもなる。それでも心臓血管外科では私のヴァイオリンはあまり目立たなかったそうだ。
 今日はマイクを楽器に思いっきり近づけて演奏し、「神田川」のソロパートでは思いっきり謡わせてもらって、私はとてもいい気分で終了した。マア、全体として80点以上の出来ばえでまず満足出来た。聴かされた方々もそれなりに心配し、驚き、最終的には私どもと一体になって楽しめたのではなかろうか。

 何れ、打ち上げ会兼反省会が催されるという。その場で今後のことが話題になるだろうが、その際、余興としては何か目新しさがなければならない。来年はダンスでも取り入れてリニューアルしなければ不十分なのかも知れない。

 それにしても、自己流の私のヴァイオリン、レベルは低いが、こんな歳になって、こんなバンドの一員として人前で弾く機会が得られるなんて、気恥ずかしいが、実にハッピーなことである。満足、満足。


12/16(金)曇 寒波 友の会関連講話 法人理事会    秋大第三内科忘年会 療養病棟忘年会(欠)        
1:30起床、ドック総括x1、退院総括準備。主治医意見書、徒然などの後、5:20病院着、6:20回診他,9:00以降は外来・入院患者関連事務的処理に集中。12:00入院患者処置、14:00友の会「不健康講話」、17:30法人理事会、18:45中座し秋大第三内科忘年会へ。22:30帰宅、22:50就寝。

新語が社会を変える?(2) 「酒酔い運転、酔っぱらい運転」と呼ぶのを止め「酒酔い人殺し運転」に
 新語・造語は、ホンの一部ではあるが、社会に浸透し人々の意識を大きく変えて行くほどの力がある。だから、良い新語が求められる。

 例えば、「消費者」というのは無駄遣いするヒトという、どちらかというと悪しきイメージだ。これを「景気賦活人」と呼べばイメージが変わるし、買い物も愉しくなるハズだ。同じようなことは「公的資金」を「経営失策穴埋め金」に、「国会議員」を「国民奉仕員」に、「地方交付金」を「地方自治体自立阻害交付金」に変えるのはどうだろうか。より本質をついていて話題にし易いし、議論が沸き上がりやすくなるのは必定である。そうそう、死んだときにのための保険を何で「死亡保険;」と言わずに「生命保険」と言うのだろうか。

 折しも忘年会シーズンである。徐々に変わってきたが、「酒酔い運転、酔っぱらい運転」による事故も後を絶たない。一向にこの手の事故が減らないのは、ドライバーも社会もまだまだ酒酔い運転、酒酔い無謀運転が人殺しに等しい重罪であるという認識が乏しいからである。「酒酔い運転、酔っぱらい運転」は長い間社会的に許容されてきた「酒酔い天国、酔っぱらい天国」と共通する雰囲気があり軽々しくて良くない。「酒酔い人殺し運転」と名前を変えよう。そう呼ぶようになると一人一人の意識が変わる。社会の意識も変わる。飲み屋でもレストランでも、「当店では酒酔い人殺し運転をする人にはアルコールを一切提供しません」と断固たる意思表示をし易くなるハズだ。

 良い新語・造語は社会を変える。標語もそうだろう。「飛び出すな、車は急には止まらない」は「飛び出すぞ、子供・お年寄りは急には止まらない」に変えよう。車に比べれば純然たる弱者であるヒトを、子供・お年寄りを大事にするために。


12/15(木)降雪小康 寒波  医局会(欠) 県健康対策課+市保健所員来院 (新型インフルエンザ関連)
2:00起床、ドック総括x1、再検査結果報告他,5:15i病院着。6:15i病院着。9:00-13:30外来混雑。13:30医局会は欠。14:00新型インフルエンザ診療指定病院依頼で県健康対策課+市保健所員来院。退院総括x3処理。20:45帰宅、夕食、21:30就眠。

新語が社会を変える?(1)  社会の変化が新語を生むのかも知れないが
 新語・造語はの多くは、広告でいえば「キャッチコピー」のような底の浅い気楽なもので一過性に流行っては消えていく。しかし、一部の単語は社会に浸透し、人々の意識を大きく変えて行く。

 人間社会には定義し難いドロドロした、おぞましい行為があることは否定し出来ないが、これらは問題意識があっても定義も困難で、なかなか社会の表面に現れてこない。それらを端的に表現する新語が浸透することにより、問題点を端的に表現出来たり、イメージ出来るようになり、結果的に社会を変えて行く。

 例えば「ストーカー(stalker)」と言う言葉。本来は忍び寄る者の意味で、自分が一方的に関心を抱いた相手にしつこくつきまとう人物、待ち伏せ、尾行、手紙や、ファクス・メール・電話などの行為を執拗に繰り返す陰湿・卑劣な行為を示す。この行為自体は文学作品など見ても昔から存在する事が解るが、「ストーカー」という言葉が世間に流布するようになってきてから、通常は表に出難い陰湿な行為の存在が明るみに出て、対策のための法も整備された。ちなみに、英語の辞書を引く時に間違いやすい単語stokerはボイラーへ石炭を自動的に送る給炭機と言う装置を指し、戸惑う。なかなか最初からstalkerと言うスペルは思いつかない。

 「セクハラ」も同じで、性的ないやがらせに対して女性が一方的に泣き寝入りしてきたことは太古からあるが、この言葉の登場で行為の異常性、人権侵害の意義が社会的地位を確立、確実に減少しているはずである。

 家庭内暴力を示す「DV」も同様。妻や子供が家庭内で夫や父からの暴力に耐えていたのは昔からのこと。世間が口を出すことではないと思われていたが、実情はあまりにも悲惨である。これもDVという言葉が登場したことにより、社会問題化し、救われることになった女性や子供は少なくない。ただし、この問題はまだ歴史も浅く、まだ実態がつかめる状況にまでは至っていない。

 新語が社会を変えると単純には言うべきでないだろう。社会の成熟、人権意識などの高揚が背景にある事と一体である。でも、鶏が先か卵が先か?、学問的結論はが無くても両者とも立派に存在し、われわれの社会を豊かにしているのと同じ、これらの新語は確実にヒトの意識を変えていくし、社会を変えていくのに役立つ。でも、殆どが英語をもじったカタカナ語であるのが悲しい。美しい日本語による新語も創りたいものである。


12/14(水)降雪 院内感染対策委員会 
2:00起床、ドック総括x1他いつもと同じく淡々と業務、徒然。5:20Taxi病院着。6:20回診他,9:00-14:00外来。入院患者不調で対応。16:00-17:00院内感染対策委員会、定例。入院患者不調で中座。20:50帰宅。夕食.21:20就眠。

今期初積雪、列車・道路とも混乱  なのに予約患者さん方全員受診(2)
 今期初の積雪がいきなり20cmほどにもなり、その後も降雪が続いている。交通事情がかなり悪化している。昨日、本日は予約外来日であるが、こんな事もあろうと患者さん方には処方は若干余裕を持たせている。だから、予約検査もない大部分の方々は無理してこんな日に受診するまでもない。
今日の外来はマア、半分程度かな?と予想していたのだが、驚いたことに昨日、本日と予約患者さんが全員受診した。私の両側の診察室の患者さんはやはり少なくて正午過ぎには寂しくなるというのに、この分だと明日も混雑するだろう。

 私の外来に通院される方々はいわゆる生活習慣病の方々。だから、殆ど無症状、基本的にはとてもお元気な方々である。診療内容は、主として具合を尋ね、必要に応じた生活指導を行い、血圧を測り、処方をだし、次回受診日を予約するだけ。一部の患者さんは受診前至急検査を受けているのでそのデータを説明する。最後に若干の世間話を交わす。この間、大部分の方々は45秒から2分程度。ほぼ流れ作業。診察時間が3分を越える方なんてむしろ少ない。待ち時間は予約制だから進行が調子が良いときには10-30分程度の範囲。ところが、昨日、一昨日は途中に何人かの不調の患者さんが入ったために60分以上に延びた方も少なくなかった。待合室からブーイングが時折聞こえてくる。これは予約制をとっている立場からはかなりのプレッシャーである。

 私の側から見れば、お元気だし、この程度の診療だし、お薬さえあれば別に無理してまでもこんな日に受診するまでもない、と思うのだが、渋滞で2時間かかりました、更に病院で1時間も待ちました、等と言いつつ、診察後は結構満足そうな表情で帰っていく。診察後の事務処理、薬局での待ち時間もあり、更に帰路の渋滞、いろいろな闘いが待っているのに、本当にご苦労様な事である。

 大部分の患者さんは薬に余裕があるはずである。電話で予約変更も受け付けている。なのに何でこんなにきちんと律儀に通院されるのか?秋田人の律儀さか?何でこんなに満足げに戻っていくのか??
 何はさておき、患者さんにとっても私にとっても初積雪のここ数日、大変な日々が続く。


12/13(火)曇・降雪・寒波    法人常務会     県個人情報保護関連会議    秋大第一内科忘年会 医局カンファ(欠)
2:00起床。ドック総括x1,退院総括、他いつもの如く、徒然。昨夜からの積雪15cm、5:20病院着。6:20回診、定期処方箋発行他.9:00-13:30外来混雑。14:00患者家族面談,
14:30法人常務会本部5F、中座し    16:00-17:10県個人情報保護審査会、病院、18:30秋大第一内科忘年会Castles、21:20帰宅.21:40就寝。

今期初積雪、列車・道路とも混乱  なのに予約患者さん方全員受診(1)
 先週末から全国的にも寒波が居座っており先週末は暴風雪であった。12月10日の秋大名誉教授の葬儀にも暴風雪の中を移動した。

 折しも翌12月11日午後は「21世紀の医療医療を守るの県民の集い」と参加団体の総会が予定されており、集いには東京から元朝日新聞論説委員で現在は国際医療福祉大学大学院教授の大熊由紀子氏を迎えて基調講演を拝聴する予定になっている。このままの状況では空の便が欠航する可能性もあり得る。その場合にはどう開会し、基調講演の替わりに何を入れてどう会を維持しようか、そんなことを午後からずっと考えていた。

 この会の主担当は私ではなかったが、ある事情で私が運営の責任者となったもので、責任上時折外を眺めては思案し、ラジヲの天気予報にて情報を集めては心配していた。結果的に当日4:00amに山形県が暴風雪警報解除になり、5:00amには秋田県も解除になった。その時間帯は外はまだ強風状態にあったが、これから天候は回復してくるのだろうと安堵した。

 実際、8:00am頃にはすっかり風がやんで時折青空も覗かれる。秋田空港に行ってみると千歳・秋田便、秋田・大阪便は1.5-2時間の遅れとなっている。千歳の除雪が間に合わないからなのだそうだ。幸いに10:35am着の羽田・秋田便は定刻通りに運行され、会は滞りなく無く進行した。

 それまで積雪量は2-3cm程度であったが昨日午後から積もり始め、帰宅時に10数cmほどに、今朝出がけには17-8cmにも達していた。それほど通行量のない早朝の時間に新雪の道路を走るのは実に気分が良いものである。
 同時に今日は交通事情がかなり悪化するだろうから外来は多分楽だろう、時間に余裕が出来たら何を処理しようか・・と想いを馳せるのも楽しいものである。今日は予約外来日であるが、患者さん方には天変地異もあるのだからと、日常から処方は若干余裕を持たせるようにしている。だから、大部分の方々は無理してくるまでもない。
    マア、今日の外来は半分程度かな??と予想していた。


12/12(月)終日降雪 祖父命日   管理会議  療養病棟判定会議  長副会議 
1:30起床、ドック判定総括x1他,いつもの如く、徒然。出勤時降雪5-6cm。5:20病院着。6:20回診.8:00-8:30管理会議.9:00-13:30混雑。16:00-16:40療養病棟判定会議。17:00-19:30長副会議。20:50帰宅.夕食、21:30就寝。

また、ものを捨て始めた(4)バイク・ミニスクーター処分顛末--何とタダだった!!
 11月17日に二台のバイク類を処分した。一台は中年ライダーとして再出発した私にとっての最初のバイク250ccのヤマハビラーゴXV-250。もう一台は街のり用として同僚から譲り受けた古いホンダタクト、これは50ccのミニスクーターで病院の駐輪場に置いて医師会等の往復に用いていたもの。双方とも17-8年近い車癧で故障続きで、ついに今シーズンは一度も用いていなかった。
 故障で動かないと250cc、50ccの小型バイク、スクーターは完全に粗大ゴミならぬ巨大ゴミである。修理しても乗る機会は殆ど得られないだろう、種々想い出はあるが思い切って処分した。

 トラックに積み込まれて我が家から消えるとき、回収に来たバイク専門店の担当者は、先ず商品価値の有無を検討して、あれば当店で買い取ります。ダメな場合なら処分と言うことになります、と若干夢を遺して去っていった。一週間ほどで、処分することになりました、と連絡だけきた。20年近く使用してきたものだからその判定は当然であるが、巨大ゴミとしての処分は回収も自宅と病院との二箇所からだったし、全部で2-3万円くらいで済めばいい方かな??と予想して連絡を待っていた。

 一昨日、販売店から封書が届いていた。内容は秋田運輸支局と秋田市からの廃車手続き完了証明書と販売店からの買い取り経費として双方共「0円」であったことの通報である。結果として私個人には諸経費の請求は無いとのことであった!!
 商品価値があって買い取りと言う事であれば私に請求がないのは納得出来るが、双方共に回収運搬費、廃車の法的手続き費用、更に物品としての処分費用、これに関連する人件費等、いろいろ請求出来る項目があるはずなのに、と驚いた。特に関東以北の二輪専門店はシーズンが短いから経営も大変だろうといつも思っているから、ホント、予想外であった。
 何れは、ハーレーを出すことになろうが、その時は多分商品価値はあると判断されるだろう。その時に今回の感謝の気持ちを形に表す事を考えようと思う。


12/11(日)曇・時々晴れ 病棟拘束 大熊氏秋田空港迎え+21世紀の医療医療を守るの県民の集い総会+県民の集い  医事紛争関連会議
 1:30起床.外は暴風雪、本日の講師来秋出来るか?ドック判定総括x1他、その他紹介状、徒然等多数処理。4:00山形暴風雪警報解除、5:00秋田はまだ強風なるも解除、これで空路は大丈夫、本日の会もOKだろう。7:15病院。回診他病院業務。10:00秋田空港迎え、10:35定刻到着。11:30-12:30昼食会、12:30 -13:15「 21世紀の医療医療を守るの県民集い」総会、13:30-16:00「県民集い」。17:00-18:00医事紛争関連会議。20:00帰宅、夕食、20:45就寝。

自伝 ANC(アンカレッジ空港)に降りてみて異境の広大さに驚く
 成田空港を発って約8時間、何時下を見ても海面ばかり。エンジン音は単調に何事もなかったが如く飛行した。陸地が見えてきたときは何となくほっとしたものである。実際には何かがあれば海上であろうと陸地であろうと大差ないのだが心理的には全く別ものである。早朝だったと思うが無事に霧濃いアンカレッジに到達した。広大な空港である。インディアンの顔が垂直尾翼に描かれたアラスカ航空の飛行機が数機、日本航空と鶴のマークの飛行機も数機見える。

 アメリカのアラスカ州の人口の半分の約20万人がアンカレッジに住んでいると言う。面積は日本の約4倍もあるから、想像できない低人口密度である。
 飛行機は給油と整備のために60-90分ほどかかるというので全員下ろされる。空港外に出ることは許されないからそぞろ歩いて時間をつぶす。空港はとても寒く、閑散としていた。海産物、民芸品を中心とした売店が並ぶがあまり売れているよう雰囲気はない。国際線ターミナルの客の大部分はこれからまもなくまた数時間も飛ばなければならないから買う気にもならないのだ。

 今はアメリカに行くのにほとんど直行便となった。それだけ飛行機の航続距離が伸びたということ。ヨーロッパには今はシベリア上空を飛んでノンストップで行くから約12時間であるが、この当時はまだ西側の飛行機はシベリア上空を飛べず、アンカレッジで給油して北極上空を飛んでいくのが普通で、約17時間もかかっていた。アンカレッジ空港には日本人専用の免税店もあった様な記憶がある。日本人観光客が殆ど立ち寄らなくなった今、あの免税店などはどうなっているのだろう。また。アンカレッジ空港の国際線はターミナルなど、まだあるのだろうか。時代の流れはそこの文化を根底から変えることにもなる。厳しいものである。


12/10(土)曇・強風・降雪 寒波   秋大名誉教授葬儀 
1:30起床、ドック判定x1他、いつもの如く。3:10病棟より電話、患者急変、出勤。死亡確認。6:30お見送り。回診他.11:00-12:45秋大名誉教授葬儀コスモスロイヤルホール。病棟患者対応、患者家族と面談。18:30帰宅、夕食、19:30早めに就寝。

秋大名誉教授葬儀 中通総合病院名誉院長の矍鑠とした弔辞に感じ入る
 本日はある秋大名誉教授(77)の葬儀であった。当院でもいろいろお世話になった縁で、私も参列させていただいた。秋大で勉強していた際に私も何度か直接お話を伺う機会があったが、私から見て遙かに遠く、大きな存在であった。約10年前に退官され名誉教授となられ、県北の病院の院長としてしばらくご活躍されていたことは聞いていたが数日前にお亡くなりになったのだという。

 葬儀は曹洞宗のしきたりに沿ってしめやかに、荘厳に行われ、式の後半に5人の方々から弔辞があった。学長、学部長、当院診療部長、信州大学教授、それに当院名誉院長であった。2名の弔辞が当院の関連の方からであることは、その場で初めて知り驚いた。これらの弔辞で紹介された故名誉教授の人となり、業績とかは殆ど初めて接したが、拝聴しながら在りし日のお姿を懐かしく思いだした。本日の弔辞は何れも型にはまらず、個人的なお気持ちを中心に述べたものであり、食あり、飲ありと広い話題が盛り込まれ、とても良い内容であった。

 最後に弔辞を読まれた当院名誉院長は大学の同期で、古くからの親友として家族ぐるみのお付き合いがあり、共に秋田県の医療に貢献したという強い絆の仲だとのこと、年齢もほぼ同じと言うことになる。「○○君!!、と呼んでももう返事はありませんね!!」と言う、親しみを込めた呼びかけの言葉で始めた弔辞は、「私たち遺された仲間は、もっと長生きをします。どうぞ見守ってください」と力強く結んだ、約10分にも及ぶ長いものであったが、声は高く力強く、言葉も明晰であり、論旨も明確、公私に渡る50年以上にも渡るお付き合いの内容をまとめた見事なもので、その中で語られた当院と故名誉教授との関わりの一部は私にとって初めて聴く話題であり、私は心から感じ入った。

 式終了後、私は名誉院長にご挨拶し若干の言葉を交わして式場を辞した。向かうときのやや沈んだ気持であったが、今日は故名誉教授、お元気な名誉院長、お二人から暖かい気持とか生きる力を授かったような、何かいい気分で帰院した。


12/9(金)快晴、若干寒   三菱ウエルファーマ来訪歓談     回生会病院医師来訪面談     南中コーラス部クリスマスコンサート                 
2:30起床、ドック総括x1他、紹介状返事、徒然途中で全身違和感、発熱のためにダウン。4:20-6:10再度就眠、6:50病院着。不調で回診はざっと済ます。退院患者関連書類作成、病棟患者処置など。全身違和感ピークで悪寒戦慄あり、発熱38.8度。11:30-13:15仮眠室で休む。これでかなり改善、解熱。13:40-14:10三菱ウエルファーマ来訪歓談す。14:00病棟患者対処、15:00回生会病院佐藤医師来訪面談、16:30-17:30市立南中合唱部クリスマスコンサート。20:40帰宅、夕食、21:20就寝。

腰痛体験記(4) 日常動作が痛み無しに出来る事は何と素晴らしい事なのか  
 腰椎ヘルニアとそれに由来する坐骨神経痛は急性の増悪の時の症状、特に疼痛は実に辛いものである。
 今期の私の最大の疼痛は11月26日の病院の創立50周年記念式典・祝賀パーティの終了直前から生じてきた。何とか終了時まで耐え、Taxiにて痛みをこらえながら何とか帰宅したが、一歩歩く毎に左の坐骨神経部分に小刀でも差し込まれた如くの激痛で、立位坐位とも保持が困難。就寝すれど痛み軽減無くどんな位置でも軽減しない。座薬にても今回は改善なく殆ど睡眠出来ず。

 翌日は幸い日曜で病棟に確認したところ患者はまず落ち着いているとのことなので、入浴・トイレ以外は終日安静と決め、大部分ベットで動かずに過ごした。実際には動けなかったというのが正しい。寝返りも困難、深呼吸するだけでも痛い。ましてや咳、クシャミは耐え難いほどの痛みの原因となる。ベットから起き出して歩き始めるときには身の毛もよだつほどの疼痛である。これほど痛いと食欲も全くなくなる。
 これでは出勤はもとより不可能、明日からの業務は何一つ出来ないだろう。外来、病棟患者、ドックはどうするか、院長業務はどうしようか、どう分配しようか、当面月曜朝の管理会議はどうしようか、そんなことを終日考えながら過ごしていた。責任上こんな状態ではいられないから明日整形外科医にコンサルトし最も最短で復帰出来る治療法を求めてみよう、手術というならそれもやむを得ない、と覚悟を決めた。ただ、その際は対外的な講演とかはどうすればいいのだろうか?どなたか代理は見つかるのだろうか?・・・

 月曜、いつもの如く2:00覚醒した。ベット上でおそるおそる足を動かしてみると何となく坐骨神経痛軽減の様子。ソロソロと起き出したら何となくいい調子である。坐位では仕事が出来たのでドック判定総括、主治医意見書、徒然他をこなし、Taxiにて病院へ出勤した。あまり痛みを感じないで歩ける状態である。管理会議、外来も何とか済ませた。県の会議一つはキャンセルしたが、幸いなことに疼痛はその後も次第に改善し、病棟回診、療養病棟判定会議、長副会議等すべてほぼ通常にこなすことが出来た。

 以来、今日まで座薬の世話になりつつ何とか業務をすべてこなすことが出来ている。時々針を刺す程度の疼痛はあるが、咳もクシャミも深呼吸も出来るし歯も磨ける。こんな日常動作が普通に出来る状態は如何に幸せなことなのか、そんな感激を毎日味わっている
。 悪化する誘因が解らないだけにまた同じようなことはあるだろうが、その時はその時考えよう、一度は覚悟も決めたじゃないか、と今は居直っている状況でもある。


12/8(木)晴  感染症評価会議  No4DV防止基本計画策定委員会
2:00起床、ドック総括x1他、紹介状返事、入院総括、徒然など。5:20病院着、6:20回診他。9:00-13:40外来。14:00-14:45感染症評価会議、15:00-17:00No4DV防止基本計画策定委員会、20:30帰宅、夕食、21:00就寝。夕方から体調に違和感あり。

腰痛体験記(3) 医師が患者となる事の意義は小さくない  
 消炎鎮痛剤は患者さん方の病状、症状の必要度に応じて日常的に処方はしている。しかし、私自身は消炎鎮痛剤にはあまり良い印象が無く、2003年10月のアキレス腱縫合手術日に経口剤を初日だけ渋々用いたのが初めてである。その時は効果も殆どなく、鎮痛剤とは所詮そんなものと考え創部痛に一晩身を任せたが、その日は疼痛のために殆ど眠れなかった。
 今回が消炎鎮痛剤座薬使用の初体験日となった。くすねて用いた坐剤の効果は30分ほどで現れ、2ヶ月間悩んできた疼痛から約半日間程度ではあるが完全に解放され、正直言って心から驚いた。
 患者さん方はこんなに効果のある薬品を処方してもらっていたのか、肩や膝等の疼痛のある患者さんが処方を希望する気持ちがこれでよく理解出来た。30数年も医師をやっていて消炎鎮痛剤の効果を今回初めて目の当たりにしたなど、医師として実に恥ずかしい話であるが、これで一層患者さん方の気持ちに近付く事が出来た。
  遠藤周作は著作の中でペーパー試験による医師免許交付だけでは不十分で、医師は体験入院、各種の内視鏡などを患者の立場で実際に体験してみるべきだと論じていたが、まさに正論である。

 子ども時代はとても虚弱であったが、成人する頃から急に丈夫になり最近までたいした病気もしていない。アキレス腱切断も良い経験したし、その前後から大腸内視鏡、上部消化管内視鏡も受ける機会があったが、それらを一つ一つ経験する度に患者さんの心、気持ちにに近付く事が出来ている。
 それに加えての今回の腰椎ヘルニアとそれに由来する左下肢の坐骨神経痛である。これは日によって症状に揺らぎがあるが、ひどいときは実に辛いものである。


12/7(水)晴れ若干寒い 講演ウエルサンピア 県医常任理事会+忘年会 
 2:00起床、ドック判定総括x1、紹介状、返事x1。徒然、5:30病院着.6:15回診他病棟業務。8:40-12:30外来、13:30講演ウエルサンピア、厚生年金保険健康福祉講座、170名、16:30県医常任理事会+17:30忘年会(三四郎)。20:00左下肢こむら返りあり中座し帰宅。20:30就寝。

腰痛体験記(2) 初めて消炎鎮痛剤の世話に 効果に驚く  
 10月9-10日は犬山地方への旅行、モンキーパーク、如庵、を見学後に夜は同級会に出席。日中は歩きづくめであり、左下肢痛はまだ当時はそれほどひどくはなかったが、モンキーパークは広大で丘陵を利用しているために起伏もあって、歩きづくめ,立ちづくめは正直言ってやや辛いという感じのレベルで、同行の家族達もあまり気にも留めていなかったようである。
 その後も日によって疼痛・しびれには随分差があり一進一退。11月初旬日本医師会関連で東京出張があったが、機内や協議会場で変な格好で居眠りしたためか、協議会終了後からいつもより厳しい状況となり、歩行時に左足を前に出す度に左の尻に針を刺される如くとなり、びっこ引きつつ空路何とか帰宅、すぐに横になった。

 いつもの如く、早朝起床したがそれでも症状は殆ど軽減しておらず、室内移動、トイレや入浴時にも困難を感じた。この状態では外来などは大変と思われた。何か対策せねば、と考え賄いの石井さんも腰痛で治療中だから何かあるはずと彼女の薬箱を探したら75mgの消炎鎮痛剤の座薬があった。一ヶくすねてカッターで半分にして使用してみた。
 消炎鎮痛剤の使用は3年前の10月にアキレス腱手術日に経口剤を初日だけ用いたのが私の初体験であったが、その時は一切効果はなく二日目からは服用しなかった。今回が座薬使用の初体験日となった。薬嫌いの私がついに手をつけなければならないほど痛かったと言うことであるが、 その効果は30分ほどで現れ、約半日別世界に行ったが如く、2ヶ月間悩んできた疼痛から完全に解放され、正直言って心から驚いた。


12/6(火)晴れ 1法人常務会   医局会    秋田県新興感染症検討委員会      
   
2:30起床、ドック判定総括x1他、紹介状返事x2、入院総括x1。5:30病院着、6:30回診、定期処方発行他。9:00-13:50外来、混雑。14:30法人常務会本部5F。17:30医局MC、中座し県庁へ。18:00-20:00新興感染症検討委員会(新型インフルエンザ関係)。病院へ。21:30帰宅、22:00就寝。

腰痛体験記(1) 咳、クシャミが出来ることは何と幸せな事なのか  
 8月下旬頃から軽い腰痛を感じていたが、いつもなら数日で自然に改善していくが今回のは様相がちょっと違う。なかなか改善しないばかりか、徐々に左尻から下肢にかけてと足の甲の範囲に及ぶしびれ感と、時折であるが体位変換時などに比較的鋭い痛みが走る様になった。自己判断では腰椎ヘルニアとその合併症としての坐骨神経痛のようである。
 9月一杯は何とかごまかしごまかし過ごしていたが、全然良くなる気配がないどころか、日によっては、特に坐位から立ち上がる瞬間にかなり疼痛を感じることもあった。歩行し始めるとそれほどでもなかったので移動は自由で助かった。

 健康管理も業務のうちと考え、10月上旬に腰椎MRIを初めて経験した。モニター上での画像を一見する範囲では加齢による変化はそれなりにあったが、ヘルニアの所見などの著しい変化はなかったように感じられたが、読影医の判断は第4第5腰椎間のヘルニアとの指摘であった。
 MRI施行直後、一回だけ放射線科医の一人から針治療をも受けたが、正直言って効果は認めなかったが良い経験した。
 10月中旬には岐阜・犬山地方に急ぎの旅をしたが、往復空路にすることを家内が同意してくれたことで大いに助かった。左下肢に疼痛・しびれはある状況下での新幹線での長時間の移動は考えただけでも痛みが増す気分であっただけに本当に良かった。咳、クシャミが出来ることは何と幸せな事なのか、と感じることもあったほど時々疼痛・しびれは増悪したが、この頃まではまだ鎮痛剤の使用などは一切考えていなかった。


12/5(月)管理会議 療養病棟判定会議 長副会議 
1:30やや早めに起床.ドック判定総括x1.紹介状、主治医意見書。文献チェック。5:10病院着。6:30回診。8:00管理会議。9:00-13:30外来。16:00-16:30療養病棟判定会議。17:00-19:30長副会議。20:45帰宅、夕食、21:30就寝。

秋田魁新報の本日の夕刊 めずらしく医師会論が掲載された
 秋田県の地方紙としては代表的立場の秋田魁新報2005/12/5(本日)の夕刊、コラム「杉」欄に「衰退の理由」という題で日本医師会についての記述が掲載された。珍しいことである。署名無しで、話題の内容から秋田の記者の記述ではなく共同通信とかからの配信記事と思われる。
 医師会役員の立場からは必ずしも正しい視点とは思えないが、外部から見た医師会像についての感想であろうから一つの視点として素直に受け取りたい。
 以下が全文そのまま。許可を戴いたわけではないのでひっそりと掲載させていただく。
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 『今回の医療制度改革は完全に小泉純一郎首相のぺ-ス。その半面、日本医師会(日医)の影響力の低下が際立っている。政府、与党がまとめた医療制度改革大綱に、日医の主張が盛り込まれたのは、75歳以上が加入する「後期高齢者保険(仮称)」くらいだ。それでも執行部内には「経済財政諮問会議などがもくろんだ総額管理制(医療給付費の伸びを経済成長率などで抑える仕組み)や保険免責(外来医療費の一定額を保険から除外する仕組み)の導入を阻止できた」と自賛する声があるが、外部の見方はまったく逆だ。
 両制度とも先送りされただけで近い将来、再提案される公算が大きい。政府の狙いは医療費の抑制にあり、今後の焦点は医師や医療機関の収入に直結する診療報酬の引き下げに移る。日医は「3%以上の引き上げ(薬価含む)」とぶち上げるが、政府内では3%以上の引き下げ案が有力であり、自民党内でも「引き下げやむなし」の声が大勢を占める。会員の間では悲観論が漂い始めている。
 日医の影響力が落ちた原因は何か。一つは小泉首相から抵抗勢力扱いされた族議員の動きの鈍化。二つ目は組織力の衰退。かつて100万票といわれた組織票も最近は30万票に達しない。
 組織力低下を決定的にしている原因が患者との連携不定だ。診療録(カルテ)や診療報酬明細書(レセプト)など医療情報の開示の遅れ、族議員頼りの政府折衝の手法が、患者との距離をさらに広げる結果になった。政治的な言動ばかり注目される日医だが、地域医療を下支えしている医師に会員が多い。患者の最も近くにいながら、患者の声に応えられないのはなぜ?』
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     これとほぼ同じ視点で記述された単行本もある。いつか書評でも書こうかと取っていた本で、この機会に紹介しておく。
 水巻中正著 ドキュメント「日本医師会--崩落する聖域」中央公論新社 2003年6月発行 2000円。


12/4(日)晴れ、初冠雪数cm  病棟拘束 NPO秋田パートナーシップ話題提供
1:30起床。ドック総括x1他、紹介状。レセプト関連作文に難渋、呻吟。本日午後の話題提供用の資料作成など。10:00病院へ、机上に溜まった業務処理、回診ほか、13:30-16:00NPO秋田パートナーシップ患者塾「自分らしい死に方」の話題提供。病院に戻り入院患者関連業務。19:30帰宅、夕食。20:50就寝。

自伝 初の国際学会に参加 カナダに(1)
 昭和55年夏、カナダで開催される国際血液学会に約2週間の行程で参加した。詳細を記録した資料が手元に見つからず、多くは忘れてしまったために思いつくことしか記述出来ない。秋田大学第3内科からは確か教授以下5名ほどの参加で、私どもが契約した旅行社には全国から25名ほどの血液学関連の研究者が参加していた。私はそのメンバーの中では最も若輩であった様に思う。
 国際学会への参加と言えども今回は演題を提出したわけでなく、どんなものかな?一度くらいは参加して見ようか、と言う程度の気楽なものであった。当然全額自費での参加である。ツアーの宿泊はツインの部屋が基本であったが、私は四六時中誰かと一緒というのには耐えられなかったので私だけシングルの部屋を注文した。そのために約15万円ほどの追加の出費が必要であったが、それ以上に何故に?と仲間達に怪訝な顔をされた。

 成田空港に正午に集合と言うことで、私だけ別行動で、前日の寝台特急あけぼので上京、新宿エアターミナルよりバスで成田に向かった。私にとって初の海外旅行で、不安半分、興味半分と言うところであった。
 今なら直通でも行けるとは思うが、当時は米国大陸、ヨーロッパ大陸便はすべてアンカレッジで給油していた。成田-モントリオール間は全日空のジャンボ機。エコノミー席だから主翼のやや後ほどの座席が割り当てられた。
 出発の時間になってもさっぱりその気配がない。何分か経ってから操縦席の機長より「エンジントラブルのために修理に1時間ほど必要です。詳細は後ほど・・・」とのことで機内でじっと待つ。アンカレッジまでの約8時間もの間、緊急着陸出来る場所がない洋上を飛ぶのに果たして大丈夫かいな、と心配したが、飛び上がってから故障するよりは良かろう。もうここまで来るとまな板の鯉同然、任せるしかない。やがて機長から「修理が終了したので間もなく出発します」とのアナウンス。故障の詳細等の説明はなかったが、明るく確信に満ちたような声での放送であり、その雰囲気でホッと救われた気がした。

 滑走を始めたが、国内便のジャンボならもう飛び上がる程度の速度になってもなかなか機首が上がらない。やはり国際線の場合には燃料が満タンのために国内便よりも遙かに重く離陸速度ももっと必要なのだろう。やがて機種が上がりゆるゆると上昇していく。やはり、国内便とはちょっと雰囲気がちがっていた。


12/3(土)曇り、みぞれ、雪   
 2:30起床.ドック総括x1、その他徒然など。5:30Taxi病院着。6:30病棟回診、書類書き、9:00入院患者家族と面談、総括、紹介状など.15:00別の入院患者家族と面談。以後もずっと机上書類の処理、明日の「患者塾」の話題提供の準備。18:20帰宅.夕食、20:00就寝。

TOYOTA Prius(3) 極めて中途半端な存在
でしかないのでは??
 プリウスの特徴は、動力システムが、ハイブリッドでガソリンエンジンと電気モーターという組み合わせであること、このことに尽きる。車の走行状況、運転操作に応じて最もバランスの良い状況で双方の動力出力を調整しているのだ、という。

 充電量が十分なときは電池だけでも僅か1Km程度であるがモーターだけで動くが、スピードが上がった場合や充電量が減少した場合には自動的にエンジンが動き出す。その結果、従来にないほどの低燃費性能を獲得し、そのことで排ガスを減少させ環境保全に寄与するという、と言う論旨で注目されている。確かに、ガソリン消費はカタログ上では30Km/Lとも言うし、実際の使用状況では20Km/Lは走るだろうと言われている。
 しかし、私は購入後まだ200Kmほどしか走っていないが、車のパネル上で自動的に計算される燃料消費量は14Km/Lと極めて低レベルである。決して無駄に燃料を消費するような走りはしていないのに、この差は一体何なのだ?と言うのが実感である。尤も、レガシーワゴンの倍は走るようだ。

 しかし、考えてみると、発電は大部分がエンジンの出力を利用しての発電で、補助的に従来の車なら摩擦熱として空中に放出している慣性力を電気エネルギーに変換する回生ブレーキから充電しているだけだから、当然でもである。
 要するにエンジンは発電のために通常走行以上の燃料を消費しているはずである。バッテリーを積んでいるメリットは加速時とかに蓄電エネルギーがアシストするために多少燃料消費が減少する事でろうが、何せ積んでいる電池は単独では車を1Km転がす能力しかないから、始めから機能はたかが知れている。

 慶応大学では電気自動車の実用化に向けて研究しているが、現状のガソリン車と同等の能力を得るには高機能のリチウムイオン電池が必須で、車一台あたり電池だけで2000万円経費が必要となる。この電池は現在携帯電話に使用されている小型のものしかなく、大型のは人工衛星などに特別に作成されているが、その際の経費は一つ数億円だという。慶応大学では家庭用の夜間電力蓄電用に量産されれば充分ペイすると計算している。
 プリウスは量産車であり、安価のNi-H電池を積んでいるのだからこの程度の機能でしかないのはやむを得ないだろう。現状でのコンセプトは納得するし、いろいろ新しい機能が付いているから面白い車だと思う。今後数ヶ月使ってみてから再評価してみたい。

 ただ、本当に地球環境を考えるなら車を小型軽量化し、燃焼効率の良い小型エンジンを積む方向に持っていくのが基本である。最近、わが国の車は3-4Lの排気量の新型車がどんどん発売されており、二極化の方向にあるように思える。


12/2(金)曇 秋田県身体拘束廃止協議会 法人理事会 秋大心臓血管外科忘年会    2:00起床.ドック総括x1他、紹介状など。5:10Taxi病院着、6:10回診他。病棟関連書類他。9:10ドック結果説明x1他、QP社員来訪面談。病棟ワクチン接種他、15:00-16:30秋田県身体拘束廃止協議会、司会担当。17:00リハーサル、法人理事会は欠。19:00-21:30秋大心臓血管外科忘年会。The Yamamoto Bandは私としては80%?。22:00帰宅、22:30就寝。

TOYOTA Prius(2) 納車後数日は動かすのに一苦労
 プリウスの特徴は、動力システムが、ハイブリッドで、1500ccのガソリンエンジンと、電気モーターという組み合わせ。全体にコンパクトで全長4.3m、全幅1.7m、高さ1.5m。車幅が規定より2cm広いので3ナンバー、わが家で初の3ナンバー車となった。私はかねてから贅沢な3ナンバー車なんて自分には不要と思っていたが、これは1500ccで無駄に大きいわけではないし、設計のコンセプトに納得して決めたが、3ナンバーでちょっとガッカリした。

 椅子の位置が高めで座りやすく、天井も高い。静粛性は十分、約1年半レガしーワゴン運転時に手放せなかったBOSEのヘッドフォンからついに解放された。運転するのにキーは身につけているだけで良いのは便利。私の場合バッグに入れいるが、クルマに近づくだけで室内灯が点灯する等、便利な機能が付いているが、一方、仕組みを知らないと全く動かせなくも成りうる。 モーターは電源が電池なのに駆動は何故か交流式で、発電機もかねている。直・交インバーターで変換しているのだろう。電池はNi-H電池38個直列280ボルトとのことであるがその意味はまだよく分からない。

 納車日、前に試乗してあるから大丈夫と一切説明を受けなかったが、帰宅時に走行システムを起動するのに四苦八苦した。何とか動かす事が出来て家に向かったが、今度は交差点で停車した時にギヤをパーキングに入れたら外せなくて後続車に迷惑をかけた。両者とも機械式でなく電気的に作動させるタイプで、ブレーキペダルを踏まなければ次の行程に移れなくなっている仕組みになっていることにまもなく気づいた。それ以外はまず通常の操作の範囲、通常の感覚で走らせることは出来る構造であるが、概要を理解するのに実際には数日を要したが、その間は正直何時動かせなくなるか解らないとハラハラしながら運転していた。


12/1(木)曇・寒  県健康対策課来訪  県医療の安全講習会 健康フェス打ち上げ会             
1:30起床.ドック総括x1、退院時総括。徒然他。5:15i病院着、9:00-14:40外来、超混雑し疲弊した。医師面談、14:30県健康対策課来訪、新型インフ+HIV関連。県医療の安全講習会は出席取りやめ。18:00健康フェス打ち上げ会(会場:日本一)。20:00-21:30病院で業務.22:00帰宅、22:15就寝。

TOYOTA Prius(1)購入 
 私の愛車スバルレガシーワゴンは14年ほどでそろそろ限界を迎えつつある。まだ走るが、外観は凹凸、錆びありで、エンジン音もまともではない。音ノイローゼの私にとって静かであることは何よりも優先すべき因子の一つで、BOSEのヘッドフォンが無ければもっと早く決断していただろうが、最近まで何とか乗っていたし、まだ乗る気で居た。一方、車外で聞くエンジン音はやはり凄い。バタバタ・・・のイメージである。早朝、5:00am、住宅街を走るのに気が引けるほどで、何とかしなければ、とも思い始めていた。9月に院長となり立場が変わったことで、若干持ち物に対する考えを変え、ちょっと主義を変え、リニューアルすることと決めた。

 基本的に車は静かで、車の基本性能さえしっかりしていれば贅沢な装備などは殆どらない。オーディオなんて不要、AMラジオ+α程度でも良い。エアコンはある方が良いが必須条件ではない。従って、車種は何でも良いのだが、通勤用で殆ど一人で用いるのだからサイズも大き過ぎない方が良い。エンジンも1500cc程度で充分。

 いろいろ検討した、と言うほどではないが、何を購入しても大同小異である。だから、今度は静粛性と低燃費・低公害を両立させているとされている新発想のハイブリッド車を検討することとした。9月24日午後、2-3時間ほど試乗車を借用し、基本性能は十分であり、先ず気に入ったのでその時点で購入を決めた。

 11月上旬、納車された。運転マニュアルも電気系統の説明書もパソコンレベルのが付いてきたが読む暇もない。ここ3週間ほど通常の車と同じ感覚で乗ってきたが、静粛性も乗り心地も前のに比較すると勿論格段の違いがある。この変化は勿論前のが酷かっただけに大きい。BOSEのヘッドフォン無しでもストレスでないほど静かなのがもっとも良い点である。
 しかし、本日までの印象では、ハイブリッド車といえどもエンジンでの発電が主である以上そんなに低燃費であるはずはないし、そんなに騒がれるほどメリットはあるのか?と疑問を感じ始めたところである。

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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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