徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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6/30(木)秋田快晴  医療評価機構「認定保留」 秋田市医師会臨時総会  
2:00起床,単純ヘルペスのために微熱感で体調若干不調。ドック判定総括x1、6:02こまち2号で日本緩和医療学会参加の家内を駅に送り6:10病院着、直ぐに回診他。9:00-14:00外来。予約診療が遅れ気味で予約枠を13:30迄と広げた。外来途中で医療評価機構の検討結果が届いた。予想に反して、と言うか予想通りというか「認定保留」。入院患者処置など。19:30-20:00秋田市医師会総会にわざと大幅に遅れて参加。20:30帰宅、夕食、21;10就寝。

医療評価機構「認定保留」(1)   夢を見せていただいた3ヶ月
 本日外来中に3月中旬に受診した医療評価機構の認定結果が届いた。結果は予想に反して、と言うか予想通りというか「認定保留」。
 書類には、あの元日本医師会長で現医療評価機構理事長「坪井栄孝」氏の名前で簡単な判定結果とその理由に関する記載があった。「改善指摘事項」として麻酔記録記載への麻酔医の関与に関する1件、「留意事項」として看護師業務の改善があげられていた。

 本音で言って、私は医療評価受審そのものは講評で上記2点は挙げられたものの、十分に「認定レベル」に到達していたと思っている。一方、最近は初回受審での認定は20%程度ととても低くなってきていたこと、特に500床以上の大規模病院での判定が厳しくなって良いたことが気がかりであった。恐らく、「保留のための保留」と言う意味で保留になる可能性は否定できない、と思っていたことも正直な気持ち。 だから、判定結果も上記2点の指摘も、淡々と受け入れられた。

 指摘事項は評価機構のためにと言うわけではなく、病院業務として問題を感じていた点である。改めて指摘されたことを機会に、早速改善すべく検討を開始することにする。その面ではこの判定は私どもにとっては決して悪いことではない。良い切っ掛けを与えてくれたととらえよう。

 結果は別にしても、個人的には「坪井栄孝」氏の署名入り結果報告ははっきり言って不快である。医療評価機構自身、第三者的評価の立場をクリーンに保持していくには自らの在り方を自己評価すべきである。少なくとも厚労省、日本医師会、病院協会等の関係者が責任者になるようなことはしてはならない。私は坪井氏が理事長に就任するというニュースを聴いたときには耳を疑ったことを想い出す。私が判定員として医療評価機構を第三者的に審査させて貰えるなら、理事長人選の件で認定保留どころか直ちに認定却下にするであろう。

 私は受審後今日まで初回認定の夢の中にいたし、十分に夢を楽しんだ。だから、この3ヶ月はとてもハッピーであった。今、保留の判定を受けたが、改善点が明確になった点、指摘点の改善は病院を更にいいものにしていくこと必定だけに、結果を前向きにとらえれば、矢張りハッピーなことである。
 今、改めて、一丸となって頑張った全職員に対し、受審委員会の長として心から感謝したい、と思っている。


6/29(水)曇-晴れ  倫理委員会  読売日本so演奏会(欠)
1:30起床,ドック判定総括x1、病院関連作文、4:30家内帰宅。重症患者対応後、病院で仮眠し
てきたと。5:15バイクにて病院着。回診他、9:00-14:00午前外来.ドック説明x1。病棟患者対応、18:00-19:30中通病院倫理委員会、検討案件4件。20:50帰宅、21;15就眠。

僅か5分くらい歩いただけだが、車運転中の携帯電話5人も
 かねてから自動車やバイクの走行中の携帯電話の使用は禁止されていたが、罰則の対象は、道路における交通の危険を生じさせた場合だけであった。昨年11月から道路交通法が改正され自動車や原動機付自転車の運転者が走行中に携帯電話等を手に持って通話したり、メール授受のために画面を注視した場合でも罰則の対象となった。これはまず必要な措置だと思う。
 ただ、違反車両の種類として自動二輪車、原付も含んでいる。確かに、スクーターであれば携帯使用も不可能ではないだろうが、ヘルメットも邪魔になるし、私はこの様な例を見たことはない。バイク乗りとしてつまらない、必要のない設定だと思っているが、法が作られた以上やはり二輪車運転中に携帯を使用するヒトもいるのだろう。あるいはバイク乗りに対する一般的な敵視感覚の具現化であろうか。

 本日、
夕方から倫理委員会が開催された。18:00ころ病院を出て100mほど離れた法人の会議場に急ぐ。その間赤信号で一回待った。ちょうどラッシュの時間帯で切れ目なく車が続く。この間通過する車を何となく眺めていたら、運転中の携帯電話使用者が5人いた。
 普段、交差点で停車中の車窓から見る範囲では法施行後かなり減ったと感じていたが、街を歩いているとかなりの頻度である。僅か数分で歩道にいただけであるから、実際にはかなりの頻度なのだろう。

 近くの高校からも高校生が次々と帰路についているが、半数近くが携帯の画面を見ながら、あるいは通話しながら歩いている。私は携帯はポケットベルが鳴った時のために所持はしているが普段スイッチは切っている。日常生活の中で通話なんてそんなに必要だと思っていない私から見て、夕方の光景は異様である。
 実際に交通警察はどうやって運転中の携帯電話使用者を取り締まっているのだろうか。
 ただ、最近、携帯を使用中の交通事故の記事はあまり見ることはない様に感じている。本当のところはどうなっているのだろうか。


6/28(火)曇り-晴れ  医師会打ち合わせ 医局カンファ(眼科救急)
3:00病棟からの電話で起床。患者不調で再度病院に。90歳女性、重症肺炎・呼吸不全で死亡された。6:00見送り。そのまま回診、定期処方発行など業務。6:30患者・家族面談医師面談。9:00-14:00午前外来.15:00医師会打ち合わせ。17:30-18:30医局カンファ「救急で遭遇する眼科疾患」。久々20:45ハーレー帰宅、若干不調、21:15就眠。
 細切れでの睡眠3時間未満では終日眠く、歩いていても浮球感が付きまとう。

達筆すぎる手紙には困るが、
手書きの文字に「人」を感じ取れるうれしさ
 超達筆な方の字は、美しい。が、とても読めない。折角立派な手紙を頂いたが読めない。だから、返事も書けない。この方面での無学を自覚する瞬間で、実に悔しい限り。
 一昨日、札幌在住の患者さんから7月上旬の外来の予約を取りたいとの書簡が届いた。いつもなら秋田在住の息子さんが受診の打ち合わせに来るのだが、今回は何故か直接の問い合わせである。その用件の部分は内容が予想出来るから何とか読めたが、他はとびとびにしか解らない。ウーン悔しい。絵葉書にて予約承諾の返事を書いた・・・が、住所が読めない、書けない。郵便番号をから逆引きして調べ何とか返事を出した。

 字は上手なほうが好ましいが「律儀な字」も良い。お世辞にも上手ではないが、一字一字きちんとして分かり易い字である。字と字をつなげたりなどせず、一文字一文字確かめるように書いた字である。外来中に目の前のファックスに方々の病棟から検査結果や患者に関するメッセージが届く。美しい字もいいが「律儀な字」が出てくると内容とは別にとても嬉しくなる。あの看護師は本当に真面目で正直な性格なんだよね、と字を書いている姿だけでなく業務の時の真面目な姿も浮かんでくる。

 自分の字は、汚くて判読できないと言うほどではないが、悪筆は自覚している。書くのはメモ程度が多いが、書き出しは気を入れて丁寧に書き始めるが、途中で面倒になり、どうせこのまま使うわけでないし、等と考えてしまう。そうなると突然汚い字に変身する。太字の万年筆で字も大きい。殆ど一筆書きみたいに字と字がくっついてしまう。自分でも読み返して意味がわからないことも少なくない。毛筆のあのタッチも好きだ。
 小学校卒業式の席で私は総代として卒業証書を受け取ったが、校長から「・・・、字が汚いので今後はもっと勉強し、綺麗な字を書くよう心がけるよう・・」と訓辞??があって、壇上で赤面した記憶は今でも鮮明である。それでも悪筆は直らない。

 字の陰には「人」がいて、その人を感じ取ることが出来る、それが良い。インクの色、線の太さ、文字の大きさや癖もそのままだと、ああ元気なんだな、読まなくとも内容の大筋が解る。ちょっと乱れていると読まないうちに用件の予想つく。
 自筆による字、手書きの文字にはパソコン活字にはない味がある。人がいる。


6/27(月)雨  管理会議  療養病棟判定会議  長副会議
1:40起床,ドック判定総括x1。退院患者総括など。5:20病院に。回診,書類処理。8:00-8:50管理会議,9:00-14:00外来。病棟患者対応。16:00-16:30療養病棟判定会議2名検討。16:30-18:50長副会議。入院患者不調にて回診。20:50帰宅,夕食、21:30就眠。22:15病棟より重症患者についての電話あり、22:30-0:00再出勤、重症患者対応、さすがフラフラ感あり。0:30帰宅、1:00再度就寝。3:00過ぎにまた起こされ病院に。

今度はANAの話 着陸時の様子を機内の画面で見るのは楽しい
 あの懐かしいYS-11を中心にかつての秋田-羽田間は殆どANAであった。雄和に秋田空港が開港してジェット化し、ボーイング727、737、747ジャンボ、777、ロッキードトライスター等となった。更にJASが参入し、ANAが夜間駐機するようになってからの10年近くは、10:00頃の往路、18:00頃の復路は何れもJASとなり、今はJALとなった。JAS/JALの機種は往路が大抵AirBusA300-600R、時に1011型機、復路はMD-81またはMD-90型機である。この復路はいつも満席で苦しい。

 利用することは少なくなったが、ANAの秋田便の現行機種の多くは767-300型。ANAは機首に備え付けられたカメラで離陸時、着陸時の様子を機内の画面で見せてくれる。これがなかなか楽しい。特に夜間の秋田への着陸は近隣にビルなどがないために空港への誘導灯の光のみしか写らない。遥か遠方に赤い点が写ると私は、今、操縦室は緊張の最中なんだな、と思いつつ後輪が接地するまでじっと見詰めている。かつてマック上で楽しんだフライトシミュレーターの画像と共通点があり迫力があってなかなか面白い。

 最近まで不思議だと思っていたのは、滑走路がスクリーンに真正面視されることは希だと言うこと。殆ど無いと言っていいことである。必ず左右どちらかに微妙にずれている。それが接地の2-3秒前にきちんと滑走路の中央線が画面の真ん中に来る。
 羽田とは異なり、秋田では機が滑走路に大して斜めのルートからアプローチしている事は考えがたいことから何故なのかといつも考えていたが、甥をパイロットに持つ友人の手紙で一気に解決した。「甥の話によると秋田空港は横風で難しい空港の一つなのだそうだ」と書いてある。この文面を読んで何故画面上の滑走路が正面視でないのか、私の中で一気に疑問が解けた。

 要するに、横風・斜め風を受けながらの着陸の場合、機体を滑走路に対して左右どちらかに向けて斜め前に飛行しており、着地の直前に真っ直ぐに立て直ししているからなのだ。その時の機体の動きがあの画像の意味するところなのだ、と。
 パイロットは着地直前に機首を若干上げると共に、斜めに進行する機体を真っ直ぐに向け、なおかつ接地点を大きく越えないように注意しつつ、更に乗客のためにソフトランディングに気配りするなど、大変な作業をこなしているものだと改めて感心した。
 横風モードを設定してフライトシミュレーターをまたやってみたくなった。私が操縦する機は海に落ちたり、滑走路を逸脱したり、オーバーランすること必定である。


6/26(日)曇→晴 FF-tennis
 1:30起床.ドック判定・総括x1、ほか.退院患者総括。Vnなど、6:20Taxi病院に。重症患者回診、8:45救急カンファレンス、書類処理。11:00帰宅。13:00-16:30 FF tennis。6-4、7-9,4-6と本日も劣勢。17:00-20:00患者死去にて病院業務,20:30帰宅。夕食、21:15就眠。

秋田県医師会会長直接選挙等、医師会の在り方についての提言
 秋田県医師会の現執行部は発足以来、現在まで一貫して「医師会は変わらねばならない、変えなければならない」と言う視点で会を運営してきた。
 執行部の構成も重要である。まずメンバーが若いことが特徴の一つであり、発足当時は会長を始めとし全国一若い執行部であった。この動きは郡市医師会にも影響し、各地で世代交代が進んでいる。更に役員に女性も登用し、かつ勤務医比率が多いのも特徴である。

 日医代議員にも女性と勤務医を選出している。日医の代議員の構成は342名中、女性は1-2名、病院勤務医は30名に満たず、著しく不均衡であるが、秋田県選出の代議員は4名中、女性1名、病院医師3名である。日医代議員会、日医の各委員会において女性医師、病院医師の立場で積極的に発言している。
 東北医連においても医連の在り方等について種々提言してきた。

 秋田県医師会では本年6月の臨時代議員会で会員の直接選挙によって会長を選出することを決定した。現在、会長直接選挙を施行しているのは京都府医師会(昭和28年以降)、鹿児島県医師会(平成12年以降)の二県のみであり、決定まで約8年の長い年月を要した。
 秋田県医師会が会長直接選挙に踏み切ったのは、従来の出席代議員による間接選挙
に大きな問題があったからではない。むしろ、何ら問題無く順調に運用されて来た、と言い得る。にもかかわらず県医師会が会長直接選挙に踏み切ったのは、会員が医師会の意思決定に直接参加することは基本的な権利であると言う根本的な視点を重視した結果である。会務全体に会員が直接参加することはもとより不可能であるが、最も重要な「会長選出」は方法論的に可能である。

 いま、医師会活動は大きな岐路を迎えており内憂外患山積みである。内憂を解決する一つの方法として会長直接選挙の意義は大きい。
秋田県医師会の各種の試みは今後必ず各地に波及していくものと確信している。

(自伝は今週お休みします)


6/25(土)曇り 第128回県医師会臨時代議員会+第74回臨時総会+懇親会
2:30起床,ドック判定・総括x1、院内業務等。5:20Taxi病院着、回診他。8:45救急カンファレンス、9:00ドック説明x1、患者家族と面談。10:30-13:00外来。書類処理。14:00ハーレー車検終え引き取り。何かエンジン不調。14:30入院患者不調対応。15:30-19:30第128回県医師会臨時代議員会+第74回臨時総会+懇親会。会長公選決定。20:00帰宅、20:30就眠.

「クール・ビズ」何を今更だが、大事なこと 今夏はノーネクタイでやってみっか
 環境省の地球環境局は「クール・ビズ」という「軽装」の実行の呼びかけをしている。ノーネクタイ、開襟シャツで仕事をすることを推奨し、軽装で業務しても非礼でないと言う考え方を浸透させようと言うもの。そのルーツは地球環境の保持。京都議定書の発効を契機にわが国が率先して実行しなければならない。この分野は私も無関心ではない。しかし、贅沢に慣れた国民の自覚に負っていては実効は上がらない。国が音頭を取って実行すべきものなのだ。その意味では良い動きである。

 温暖化防止行動として6つの具体的な実践を促している。●冷房は28度●蛇口はまめに閉める●エコ製品を選ぶ●アイドリングをしない●過剰包装を断る●コンセントをこまめに抜く。
 何を今更、と思う。私はこの面では極めて厳格であった母親の影響がバッチリ身に染みついており、とうの昔から全部やっている。エネルギー、資源は感謝の念で有り難く利用するものであって、微微たりとも浪費するものではないのだ。私の周辺の医師の方々の多くは、私の眼から見て失格である。電気やTV、エアコンのつけっぱなしは当たり前で、積極的に消して歩いている方を私は知らない。私だけであるが、あまり良い印象を持たれてはいない、と感じる。

 冷房、これに関しては夏に寒い思いすることには納得いかない、と言う立場である。だから、家では冷房を使わないし、自室のエアコン、独りとなったこの3シーズンは一度もスイッチを入れていない。汗だくで業務をしている。夏季には自室内ではTシャツ+短パンで過ごす。外来、病棟に出る場合、来客がある場合には着替えて待つか、戸口で待っていただく。
 部屋へ訪問してきた方は戸口で一瞬たじろぐ。それが結構面白い。「暑くはないですか?」と言って早々に退散する。はたまた、「冷房は壊れているんですか?」と心配してくれる。こんな状態で暑くないとすれば病気だよ、夏だから暑いのは当たり前。この秋田程度の暑さならまだまだ大丈夫と耐えているだけ。
 一昨日の東京も暑かった。何年か前の名古屋、大阪で過ごした数日は耐え難かった。歩くのを止めてタクシーにし、早めにホテルに戻ったりした。だから、私の冷房に関する話は秋田限定版。
 
 医師になって以来、診療時にネクタイを欠かしたことはない。それが一つの礼儀と思ってきたが、時代も変わってきた。来週からはノーネクタイ、開襟シャツで仕事をしてみようと考えている。
   環境省地球環境局御中:冬季には「ホット・ビズ」はやらないの?


6/24(金)曇→快晴 東京快晴猛暑  法人理事会(欠)  日医病院問題検討会 
2:00起床,ドック判定・総括x1、徒然日記など.5:00病院着、6:00回診他、書類と格闘。9:00医師会公用車にて空港。10:05JAL AirBusA300-600R、50%ほどか。殆ど揺れず、書類に集中してたら着陸していた、と言う感じ。浜松町書店で新書5冊購入。13:00日医着、13:30-16:10日本医師会病院問題検討委員会。16:55-21:00こまち。読睡読睡の良い時間。21:20帰宅、夕食、221:00就眠.

就任挨拶 「微力ながら・・」等の「一見謙虚そうな言葉の羅列」は不快(2)
 「重責を担っていくには、力量不足」「大変不安で」「困惑している」・・、本当にそう思っているなら就任を拒否すればいい。本当にそう思っているような人達を上司に迎えなければならない職場は不幸極まりない。特に法人、病院等の運営の重責を担うような重要なポストの方々は、突如の抜擢は希で、経験を買われての横滑りまたは斜め上昇である。それまでも似たような業務をこなしてきているわけだし、新しいポストの内容は知り尽くしているはずだから、そんな立場の方々の言葉としては、情けない。実際には責を引き受けることに同意した以上、そう思っていないだろう。

 同じ美辞麗句を並べるなら「なんとしてでもこの大任を務め上げる決意」「職務をまとうすべく奮闘努力したい」「任務に邁進してゆく覚悟」「何としてでも大任を務め上げる決意」「精進しようと大いに奮起」「大いに勉強させていただきたい。張り切っています」・・・・と書いて欲しい。
 謙虚に書いても、前向きに書いてもその人の実力なんてそう変わるわけではない。周りの人達もみんな解っている。だけど、自らが変わっていくための一歩になるのだ。

 謙虚に書いたヒトが結果的に書いたとおりのレベルであったら、就任したことも含めて厳しく責任を問おう。前向きに発言した方に結果として、良い結果が出なかったら、心から労ってあげよう。 私はそう思って就任挨拶を見ている。


6/23(木)晴れ 総合内科病棟診療部会(欠) 療養病棟診療部会 
1:30起床,ドック判定・総括x1、退院総括・紹介状途中まで作成.5:20病院。6:15回診他。9:00-15:00外来、混雑.待ち時間が長くて患者不満気。13:45-14:30開催の総合内科病棟診療部会出席は物理的に無理。17:00-18:00療養病棟診療部会、20:45帰宅、夕食、21:30就寝。

就任挨拶 「微力ながら・・」等の「一見謙虚そうな言葉の羅列」は不快だ(1)
4-6月は職場の異動が行われる季節で各所で新旧交代等が行われている。私はこの季節が本当は大好きだ。
 定年まで勤め上げて職場を去る方、別な部署に抜擢されて異動される方、定期的な異動対象の方々もいる。人事が長く停滞していることは人的財産の大きな損失になっていることは少なくない。地位はヒトを作る、異動になった方々は新しい部署で自分を存分に発揮して欲しいものである。今回の異動で療養病棟の運営をゼロから作り上げ、機能評価では最高の指導力を発揮してきた療養病棟師長を惜しみつつ手放したが、送り出す側の私の真の気持ちは祝福の方が遥かに大かった。一層大きくなって戻ってくるだろう。何処が大きくなるかは本人次第だ。

 若い方々の退職者も随分多い。理由は何か、私には全く聞こえてこないから解らない。理由は何であれ、共に働いてきたことへのねぎらいと、祝福の気持でその名簿を見ている。昨日よりは明日はもっと良いはずだ、良くなるはずだ、そう考えての退職であって欲しい。
 ホントは、この名簿の中に還暦を迎え道を変える私の名前も掲載されるハズであった。今夏はザルツブルグで過ごそうと考え、それを楽しみに働いてきたのだが、果たせないでいる。

 法人内の日報には就任挨拶が連日の如くに掲載されているが、実は私はそこに掲載されている挨拶文を読む度に不快な気分になっている。われわれの法人の方々はあまりにも謙虚なのだ。否、用心深い、と言うべきか、ズルイ。始めから自己をガードをしている、保身の挨拶と言うべきか・・・ちょっと情けない。

 日報から語句を拾ってみると、「重責を担っていくには、力量不足」「大変不安で」「困惑している」「その責任の重大さを痛感」「責任の重さに身の引き締まる思い」・・と続く。折角与えられた字数の1/2-1/3もこんな言葉で占拠されている。ヒトの上に立つ者はこんなことをグダグダ述べるべきでない。


6/22(水)快晴 暑い 東北地区AIDS関連協議会 県医師会常任理事会
1:30起床,ドック判定・総括x1等、退院患者総括・紹介状、他いつもの如く.5:10病院着、回診他、9:00-13:20外来、13:30-16:30東北地区AIDS関連協議会、総合保健センターにて。17:30-19:20県医師会常任理事会。回診他、20:50帰宅、21:30就寝。

JALは夜間の離着陸時になぜ室内灯を暗くするか
 夜間飛行中の旅客機の操縦室内は直接見たことはないが、写真や映画のシーンで見る限り常に照明を落とし暗くしている。これは、夜間飛行中、何十ものバックライト付きの計器を見易くするためと、飛行場の誘導灯とかのイルミネーション、近くにいる飛行機の安全灯等を視認し易くするためと考えていた。これは夜間の車の運転の時にも大体同じで、多分そうだろうとほぼ理解、納得していた。

 しかし、夜間の離着陸時に、JALでは10分間ほど機内の照明が落とされて暗くなる。この場合、読書灯を利用することになる。ANAは、最近夜間便はあまり利用する機会がないので正確に覚えていないが、照明を落とさないように思う。JALでは何のために室内を暗くするのか、と長く疑問であった。脚を出したりフラップを操作したりと、離着陸時には多くの電気も使うからそのセーブのため??まさか、そんなちゃちな電力供給能力では無かろう。

 ある日、上京時にたまたまガラガラだったので、側の乗務員座席に座っていた乗務員にこの点を聞いてみた。

 それによると、もし、夜間の離着陸時に何らかのトラブルが生じた時のことを想定して居るためとのこと。要するに、乗客の目を暗さに順応させておけば、何かのトラブルで機内灯が全部消えて足元灯だけになった時とか、それすらも点かずに真っ暗になった場合でも、あるいは緊急脱出で外に出た際にも、明るい状態から突然暗くなった時に比べれば、それなりに足もとや周りの物がよく見えるから、直ぐにより安全な行動をとることが出来るだろうから、と言う。
 操縦室を暗くしているのもその意味もあるのだそうだ。

 全く予想に反した答えを貰って、納得出来た。随分細かく配慮しているものだ、と改めて感心してしまった。
 最近、JAL、ANAのトラブルが頻回に新聞に登場している。重大事故につながらないうちに、ミスの段階で、いろいろなことがあからさまになることは私は悪いことだとは思っていない。そのような目で私は記事を追っている。


6/21(火)曇ー晴れ  医師会打ち合わせ  医局カンファ(妊娠とクスリ) 中央診療部拡大診療部会議
 1:30起床,ドック判定・総括x1、秋田医報用原稿用意等いつもの如く.5:15病院着、回診他。定期処方40枚発行。9:00-13:20外来。15:30-16:30県医師会打ち合わせ,17:30医局カンファ「妊娠とクスリ」。18:30-20:20中央診療部拡大診療部会。21:00帰宅、21:30就寝。

MD-90、秋田空港で再急上昇 かなりの衝撃が来るモンだ
 本年2月、3月は予想に反した悪天候が続いた。通常雪の季節は東京、大阪の出張等はこまち、東海道新幹線を利用するのだが、今年は医療評価機構受審とかで時間的に苦しかったこともあり、やむなく空路を利用した。羽田、伊丹での搭乗時には何れも「秋田空港着陸不能の際には花巻空港あるいは羽田に繰り返す」との条件付の搭乗であった。そんな条件付の場合、時に自宅に電話して秋田の状況を確認するが、それほど荒れていないことが多いし、実際にそんな条件下で10数回の経験があるが、私はまだ一度も出発地に戻ったり他の空港への着陸等を経験していない。

 3月27日(日)、日本医師会定例代議員会の帰路、18:05発JAL、機種はMD-90で満席、東京は晴天であったが秋田は雨模様で濃霧が発生する可能性があるとのことで、同様の条件付での出発であった。
 羽田は快晴であったが出発ラッシュで20分ほど滑走路脇で待機してから離陸、秋田までは特に問題なく徐々に高度を下げ、脚も出してフラップもほぼ全開、客室灯も減光され、あと数分で着陸かと思っていたが、絞り込まれていた後席のエンジンが突然急回転し、2-3秒後機体にガクンと衝撃が走り、急上昇した。まもなく脚もフラップも収納され、速度も高度も殆ど離陸時と同じである。
 羽田に戻ることになるのか?ホテルを探すのも大変、明日の始発便は確保出来ないだろうし新幹線か??外来は・・??とかいろいろ考えたが、まもなく機長のアナウンスがあり「霧のために空港が視認出来ない。しばらく上空で待機し着陸の機会をうかがうが、ダメなら羽田に引き返す」という。外を見ると秋田市内のイルミネーションが鮮やかに見える。霧など全くない。空港周辺のみが霧なのだそうで、これは山岳地にある空港には時に見られる現象とのこと。約30分ほど上空を旋回、随分長く感じられたが、結果的に着陸出来、ほっと肩の荷が下りた。

 着陸直前の再上昇は初めての経験であったが、こんなに激しく機体に衝撃を来すほど急上昇するとは思っていなかった。考えてみれば着陸時には下向きの加速度もかなりあるために緩徐な上昇では時間がかかりすぎて危険、と言うことになる。それだけ高度も低くなっていたのであろう。フムフム・・と納得、良い経験した。
 結果的に予定より1時間ほど遅れて自宅に着いた。空路はより高速で利便性も高い。にもかかわらずJRより遅れを平静な気持ちで受け入れられる。これも何か不思議である。


6/20(月)晴れ 管理会議 秋大包括医療実習開始 療養病棟判定会議 長副会議 
2:00起床。ドック総括x1,退院総括x2.5:10病院着。6:10回診他。8:00-8:30管理会議。9:00-14;00午前外来。総括・紹介状・訪問看護指示書など。16:00-16:30療養病棟判定会議、16:30-18:30長副会議、懸案多数。スタッフの訪室あり歓談、20:30帰宅。夕食、21:00就眠。

国民の1/6が糖尿病とその予備軍  年齢と日々の行動にあった食事を摂ろう
 
飽食が出来る様になった期間なんて300万年の人間の歴史の中でせいぜい50-100年程度しかない。しかも食事が満ち足りている人口は地球上の一握り、僅か15%ほどで80%ほどは今でも生きるのに十分な栄養を摂っているとは言えない。
 生きるのに必要な食餌が足りていると言うことは如何に幸せなことなのか、足りている環境にある人にとってこの自覚、畏怖の念がまず必要。次にはノリを超えない抑制力である。食品が廃棄される事なんて本来はあってはならないのだ。ヨーロッパの観光地などでは食い散らかす、残す日本人がとても嫌がられている、と言う記事も時に読むことがあるが、当然と思ってしまう。

 一歩譲って、食品を大事に扱うなら、飽食できる環境にある人が飽食するのは容認しよう。無駄に廃棄しないで自分で利用尽くしているならば、自分の口の中に廃棄しているなら、一応は評価しよう。ただ、飽食の先にはいわゆる生活習慣病が待っている。これで悩むのは自ら選択した人生行路のゴールなのだ。このことも自覚して、自分の行く末を思い描きながら口に入れよう。
 私の外来で患者指導の時に用いる標語の一つ「ちょっと待て!! その一口でブタになる!!!」というのがあるが、これは本当である。ブタさんには変な例えに使って申し訳ないと謝り、かつ感謝しつつご登場願っている。食べ過ぎない、廃棄しないのコツは食品を必要以上に購入しないこと、身近に置かないことだ。それに尽きる。

 私はここ数年は一日一食、その前の約20年は一日2食、その前はしっかり3食摂っていた。3食摂っていた頃、同じ程度の量を食べていても徐々に肥りやすくなってきた事を自覚し、ならば減食、その方が楽だし、と試みたことから始まる。これで10数年間。それでも同じように肥満傾向になる。ならば更に減食、その方が楽だし、と一日一食法を試みた。今は試みのレベルでなくしっかり身に付いている。

 体調も良い。自分の体を使っての試みを通じ、本来生物は飢餓に近い状態こそが定常状態なのだ、と私は確信して止まない。


6/19(日)晴天  病棟拘束   FF tennis 父の日 
1:00リハビリにて起床。人間ドック総括x1、新聞チェックの続き。退院する患者の紹介状等.7:10検食。8:30病院に移動。8:45救急カンファ。院内業務、11:00帰宅、Vn若干。子供達から父の日として花束が届く。13:00-16:00梅林園FF tenns。2-6、5-7,3-6と敗退、最近不調。18:00長女離秋.午睡若干。19:30夕食、総括x1。21:30就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (19)
クロラムフェニコールに大幅な使用制限→研究の主眼を慢性骨髄増殖性疾患に移す 
 私が医師になってから昭和55年頃まではクロラムフェニコールは最もポピュラーな抗生物質の一つとして汎用されていた。勿論、肺炎や尿路感染症、胆道感染症においても薬効は素晴らしいものがあったが、救急室等では解熱剤のメチロン(スルピリン剤)と併用され「メチ・クロ療法」と称されるほど、発熱があって来院した患者のうち感染症が疑われた場合の当面の治療薬としても用いられていた。抗生物質の正しい使用法という意味では決して正しかったとは言えないが、現実には随分使われていた。

 他の抗生物質、抗菌薬の登場もあった事も重要な背景であるが、クロラムフェニコールは再生不良性貧血という、ほぼ致死的な重大な副作用があることから、適応症としてチフス性疾患を中心とした疾患に限定され、経口剤、注射剤は通常の細菌感染症の治療薬としての立場を他の抗生物質に譲ることになる。今はクロラムフェニコールは点眼薬、婦人科領域の坐剤として用いられているに過ぎない。

 この厚生省による使用制限の決断にどれだけ私どもの研究が役に立ったか不明であるが、研究成果の全てが厚生省の特定疾患の研究班の業績集にまとめられているから間接的には前向きに役だったのかもしれない。この使用制限は、私どもクロラムフェニコールの血液障害を研究していた研究者の念願でもあったのでとても良かったと思う。確かに、その後、クロラムフェニコール因性再生不良性貧血の報告は当然のこと皆無になったし、再生不良性貧血自体の頻度も減少したように思う。

 この使用制限の発表を機会に私はクロラムフェニコールの造血器障害に関する研究を終わらせた。この研究では投与量に相関した血液障害の発生についての根拠は明らかに出来たが、再生不良性貧血発症の機序についての治験は一切明らかに出来なかった。再生不良性貧血の発生頻度がクロラムフェニコールの投与例の1/2万例と言われる頻度なので、これを実験的に証明出来なかったことはほぼ当然のことと総括した。
 
 これ以降は、今までの研究で培った細胞培養の手技を生かしつつ、研究の中心を造血器疾患、とりわけ慢性骨髄性白血病に代表される慢性骨髄増殖性疾患の病態解明の研究に移行させた。


6/18(土)小雨  中通総合病院友の会総会+設立40周年記念式典+祝賀会 病棟拘束 リハビリ病院当直 家内当直 
1:30起床、長女黒チビのケアに帰省していた。ドック総括x1.5;20病院着.回診その他、8:45救急カンファ。10:30弥高会館中通総合病院友の会総会+設立40周年記念式典+祝賀会に。13:20病棟より呼び出しあったのを機に中座、患者対応など。15:00帰宅、先週に続き家族全員揃う。獣医は黒チビは生後二ヶ月前後のメスで健康状態は良好と。16:00病院、当直準備、17:00リハビリ当直へ。家内も当直。18:00検食。2週間分新聞チェック、資料作成。20:30就眠.

国民の1/6が糖尿病とその予備軍  我が国の食文化そのものが病的状態
 
飽食の先進国米国や我が国でこれだけの食品が廃棄されている事は、すでに食品が生きるためのものから趣味的性格を帯びてきていることを示す。その余裕が出てきたこと自体は悪いことではないが、過食と食品を粗末にすることは別問題で、
双方ともやってはならないこと。

 私は超保守的母親、祖母から食事の重要性、食品を大切に扱うことについて厳しいしつけを受けた。飯粒一つですら残すことは徹底的に戒められた。だから、私は一度箸を付けたものはまず残さずに食べる。例え、好み以外のものであっても、味が少々悪くとも、変質さえしていなければ何とか食べ切る。無理だと思えば始めから手をつけない。

 私にとっては食事はほぼ生きるためのものであり、基本的に選択はするがえり好みはしない。何を食べたいのかと予め聞かれることすら嫌だ。出されたものを感謝しながら食べる。食事に「味が濃過ぎる」ということ以外の文句を言うことは殆どない。素材の味が生きた淡泊なのを好む。私がこの言葉以外で評価を述べたとすれば、かなりひどかった時なんだ。昨夜の検食の副食の評価欄には「塩辛すぎる。耐え難いほど」と記した。

 TVで食品を題材にした娯楽番組を垣間見ることもあるが、多くは私には耐え難い。若い出演者が試食して感想を述べる場面、よくあるが、箸をの運びから口に入れて噛む表情、映像はない方が良い。見てても不快になる。さらに、乏しい語彙での決まり切った「・・おいしい!!!・・」の表現は演技が下手。どうせ何度もリハーサルをやってるのだからもっと上手にやれ、と言いたい。さらに、食材を無駄にしているような場面、おもちゃ扱いしている場面には嫌悪を感じるし、耐え難い。
 
 食事は自分にとって必要な量を過不足無く摂ることだ。その範囲でしたいなら出来る贅沢はすればいい。寿命がやや早めに何時尽きるか解らないし、寝たきりになって鼻から管で胃に入れるようになるか解らない。その前に、食材が手に入らなくなる可能性もある。やるなら今のうちだ。

 ただ、贅沢を上乗せして過剰に摂るから問題なのだ。ヒトの身体は栄養を過剰に摂ることは想定されていないからこの面では脆い。だから、国民の1/6が糖尿病とその予備軍なんて異常な状況が生じることになる。これは国際的に見たら罪深いことなんだ。


6/17(金)終日小雨、県医師会打ち合わせ 院内対策会議
2:30いつもよりちょっとだけ寝坊し起床。ドック総括x1、etc。本日退院患者総括追記。家内不在だし入院患者不調なので早めに出勤、4:20病院着、回診など。6:05高齢の患者が静かに旅立って行った。見送り。総括,紹介状などに集中。室内の書類・文献整理。10:30-14:00外来+ドック説明+ドック診察x5,15:00-16:00県医師会うち合わせ。16:30病棟患者処置数件、病態検討。20:30帰宅、夕食、21:20就眠。

私は賞味期限なんて気にしない  廃棄される食品に心傷める 
 最近、夕食にサラダがよく出てくる。しかも、中央にホタテ、サケ、カニなどの私からみて比較的高級な珍味が姿良く盛りつけられており、緑、黄色、赤などの野菜類と共に爽やかな雰囲気を見事に醸し出している。実に美味しそうである。実際美味しい。
 しかし、日替わりの如くに盛りつけられるホタテ、サケ、カニなどの珍味の缶詰等は通常私の好みとするものでなく、こんなのが続くのは何か変だ。賄いの石井さんに尋ねたところ、横浜の長女の所から賞味期限切れの保存食がまとまって送られてきたとのこと。

 自分で食べるならベストだが、普段から食品を廃棄することを極端に嫌う父親に食べさせようと送ってきたことはベターな判断だ。私の教育もうまく生きているな、と感心した。
 聞いてみたら賞味期限後平均数年で、6年ほどのもあるらしい。そう言われてみると、サラダに盛りつけられた珍味類は少し形が崩れ、味もよく練れているかな、と思うが、それほど大きな変化はない。しかし、オレンジマーマレードは経年変化を色と形と味に如実に表している。チョコレート色と言うか泥土色と表現すべき様に見事に変色し、半分固形化してボロボロ、舌触りはザラザラ。味は苦みが強調されオレンジマーマレードとしては不味いが、珍味として口にするとなかなかいけるいい味である。廃棄されそうな雰囲気なのでこれを禁じて時々出しては少しずつ食べている。こんな食品ははそうしょっちゅう経験出来るものではない。

 私は賞味期限切れ等殆ど気にしない。圧巻は数年前の経験。「賞味期限後24年」ほど前のソース。全部私が利用した。体調に影響なし。昨年は「賞味期限後半年」ほどのペットボトルの茶10数本ほど集中的に飲んだが体調に異変なし。むしろ食品をムダにしなかった、と言う満足感を大きな味わった。

 飽食の先進国、米国では
食料のうち、収穫から流通、食卓迄の間に40-50%がゴミとして廃棄され、その経済損失は約1000億ドル(日本円にして10兆7,O00億円)に達した。このレポートは、出典は忘れたがアリゾナ大学の研究者の報告である。4人家族の平均的な家庭では一日約580gの食料が捨てられ、ゴミになる食料は年間212Kg、約600ドルだと言うから簡単に見過ごすことは出来ない。
 我が国では、農水省が1月に発表した2002年の食品ロス統計調査によると、レストランで食事のうちの3.3%が食べ残しになると言う。結婚式とか各種のパーティ、懇親会とかでは35%の食品が残飯として捨てられ、家庭で廃棄される食品を含めると年間約11兆円もの食べ残しがあるとの試算もある。こんなデータがでてくると食糧自給率40%の国の一国民として何か情けなくなる。

 ポーランドのレストランでの食事では大きな満足感も食べた事を思い出す。リンゴも果物も野菜も日本の市場には規格外としてまず出ないような不揃いのが並ぶ。自然の恵みそのもの、という感じ。新鮮でとても良かった。


6/16(木)快晴 家内当直  医局会
2:00起床。ドック総括x1、etcいつもの如し。5:20病院、6:00入院患者家族と面談。回診など。9:00-13:30外来,13:30-14:30医局会,患者相談窓口への相談苦情の内容について報告。以降は紹介状や総括、訪問者対応、その他書類数件と格闘。古い文献選択し廃棄。20:20帰宅、外食、21:30就眠.

横浜で拾われた子猫黒チビ関連(3)「ナンナン」とうまく共存させられるか 
 黒チビの受け入れに難癖を付けている二代目の「ナンナン」とはまだケージを介してしか遇わせていない。一匹しか飼っていない時には、そのネコは縄張り内では女王の如くに君臨している。だから、新しいメンバーを加える時は先輩ネコと、上手に共存させるのは難しい。
 私はこの件に関してにがく苦しい経験がある。だから今回は慎重に慎重に事を進めるつもりである。

 私は小学5-6年頃から食事や団欒の時間は両親や祖父母の住む母家で過ごしたが、勉強の時間、遊びの時間等には祖父が一時診療所として用いていた離れで過ごしていた。その内にいつぞや
そこににそのまま寝泊まりもするようになった。側にはいつも飼いネコの「**」が寄り添ってくれていた。だから、そんな生活に耐えられていたとも言えるだろう。

 私が高校2年の頃のこと。我が家の隣は小学校であったが、校舎の脇には岩手県立農業高校乙部分校が併設されていた。4月に赴任してくる教師一家が住む適当な家が見つからないとのことで、急遽私とネコの離れを提供することになった。これを機会に私共は母屋に引っ越した。新に入居した教師一家は夫婦と娘、それにネコが一匹であった。このネコは3歳ほどの若者で力強い体格、精悍な表情をしていた。

 入居数日後、教師一家より苦情というか状況報告というか、があった。戸を少しでも開けていると連日我が家のネコが飛び込んでいき、連れてきたネコを追いかけ回して困惑しているという。我が家のネコは当時11歳ほどの老猫で足腰も弱り始め、私の勉強机に飛び上がるのすら困難になり始め、私がネコ用の梯子を作ってやったような状況であり、その話をにわかに信じられなかった。立場が逆で我が家のネコが虐められているのではないのかと思ったほどである。
 ある日、そのバトルを直接見た。そこでは信じられない光景があった。我が家のネコは私の前では見せたことのない険しい表情で若いネコを追いかけ回す。先方のネコは恐怖の表情で、おののき、叫び、ひたすら逃げ回るだけ。家具に飛び乗るのは勿論、カーテンや障子を駆け上がり、時には襖を駆け上る。持久戦になると、体力勝負では我が家のネコの負けであり、10分後くらいには諦めて老猫は去るのだという。その日もその状態で戦いは終わった。我が家のネコはおとなしい性格だから何れは静まるだろうと思っていたが、この考えは甘かった。

 そんな闘いの日々の中でも、我が家のネコはいつもと変わらない静かで優しい表情であった。数日後、先方からまた報告があった。我が家のネコが先方のネコが右目をくり抜いた、と言うもの。信じられない!!   直ぐに駆けつけたが、畳の上にネコの目が一つ落ちており、抱かれてぐったりしていた先方のネコの顔面は血だらけであり右眼窩部分には血液が厚くこびり付いていた。その時の光景、それまでのバトルの光景は思い出すのも辛い。

 先方のネコの傷は無事癒えた。2匹のネコはその後は一切抗うことなく、一定の距離を保って同じ敷地内で2年ほど共存した。我が家のネコはもはや相手に2度と興味を示すこともなかった。2匹間で決着が付いたためだろう。我が家のネコにしてみれば長く住み慣れた自分の家が奪われたとの感覚で耐え難かったのであろう。もしかすれば初対面の時にネコ同志の挨拶がうまく出来なかったからかもしれない。

 黒チビをめぐって、私の脳裏にはこの時の様子がリアルに思い出されてならない。心配の種はこの一点だけ、である。


6/15(水)晴  患者サービス委員会 
2:00起床。人間ドック総括x1、二代目老猫「ナンナン」が黒チビを時折威嚇している。院内業務など処理。関節リューマチ関連の勉強若干。5:20病院、回診など。9:00-13:30外来、血液標本等検討。16:00-17:00患者サービス委員会。回診他再度、その他。20:40帰宅.夕食、21:20就眠。

横浜で拾われた黒チビ 
 秋田で(2) 
 私ども家族は黒チビを抵抗無く、暖かく迎えた。
 私が幼少の頃は、岩手の片田舎での話だが、我が家では乗馬用のウマも飼っていたし、牛やブタ、ニワトリ、鯉など、日常的にいろいろな動物と接して来た。だから私は基本的には動物が大好きである。
 秋田では仕事柄なかなか飼えなかったが、子供達と共にウサギやカメ、コオロギなども飼育したし、イヌ、ネコ、熱帯魚と共に過ごしてきた。我が家ではいつも動物の話題が豊かであった。
 その中では、ネコの「ナンナン」、16-7歳にもなるのだろうか、今でも現役、矍鑠として家族の暖かい視線を一気に集め、時に女王の如く振る舞っている。そうそう、賄いの石井さんの飼いネコ「ミーシャ」もいる。「ミーシャ」は厳密には我が家には籍が無く、たまには泊まっていくが、日中を中心とした「通いのネコ」の立場である。


石井ミーシャちゃん

黒チビをめぐってまた話題が増えた。家族が集まる機会も増えそうである。次男はウイークデイに家に戻ってくることは希であるが、昨晩私が帰宅したらネコじゃらしで黒チビと無心に戯れていた。週末には長女がまた帰省し、黒チビの健康診断とか予防注射とかいろいろやってくれるそうだ。週末には黒チビの縁で一家がまた揃いそうである。


 黒チビの受け入れに唯一難癖を付けているのが二代目ネコの「ナンナン」。これは「ミーシャ」が来た時も同じで、「ナンナン」は今でも受け入れているとは言い難い。しかし、両者の関係は実に微妙にバランスがとられている。権力で「ナンナン」、体力で「ミーシャ」が勝り、時折対決しているが大事にならないような力関係が働くらしく、私から見て何とか上手く行っている様に見える。
 黒チビは今日で3日目であるが、チビのゲージの前で「ナンナン」が時折威嚇のうなり声をあげている。だんだん頻度も少なく短くなってきているようであるが、普段よりはずっと格好つけて、より低域の声で、より長くうなり声を引っ張るものだから、時折うなり声を喉に引っかけて咳をしたり、かすれ声になったりしてわれわれの笑いを誘っている。イヤ、ここで笑っては「ナンナン」の心に傷を付ける、とわれわれ人間共は密やかに笑っている。


他の猫を睥睨するナンナン様

 だから、黒チビを室内で遊ばせるときは「ナンナン」が外にパトロールに行ったときとか、二階に居るときだけで、まだ直接には遇わせていない。そのうちにに受け入れてくれるだろうと思っている。二匹のネコを上手に共存させるのは結構難しい。今回は慎重に慎重に進めるつもりである。
 
私はこの件に関してにがく苦しい経験があるからである。



6/14(火)快晴 県感染症評価会議 県医師会打ち合わせ 医局カンファ(心臓手術)
2:00起床。人間ドック総括x1、病院業務他etc。5:20病院着、回診など。定期処方日。紹介状他、9:00-13:15外来、14:00-15:00県衛生研究所にて感染症評価会議。15:00-16:00県医師会打合せ、17:30-18:30医局カンファ、心臓血管外科担当。入院対応など。20:50帰宅.21:10就眠。

横浜で拾われた子猫 一昨日秋田に到着(1) 
 先週、横浜在住の長女が野良猫を保護した。駐車場で子猫が車にひかれて死んだが、その側をたまたま通りかかった長女が、側の車の下で、か細い声で鳴いていた、恐らく同胞と思われる黒猫を見つけ思わず抱き上げたとのこと。放置しておくとその車が動いた際に同じ運命をたどりかねないと、瞬時に、自然に手が出てしまったという。

 不用意な行動?、と多少の迷いがあったと言うが、一つの命である、もう元には戻せない。自宅に連れて帰りその晩は応急的に寝床を用意し傍らで過ごしたが、現実問題として自分で飼える状況にない。翌日は会社の同僚に一晩あずけ週末に秋田に運ぶ決心をしたとのこと。 
 娘からの電話で事情を聞いたが、拒否できる状況でない、我が家で受け入れることにした。メールで写真も送られてきたが真っ黒な物体が写っているだけ。ネズミか黒い布きれか区別も付かない。要するに小さな黒猫らしいことだけ解った。

 土曜は夕方まで勤務日であったとのことで、夜に近県在住の長男の運転で横浜を出発、14時間ほどかかって日曜早朝秋田に到着した。
 キャリアバックから出されたネコは、生後一ヶ月くらいだろうか、やや茶色が混じった黒一色で毛は若干長め、やせこけ、足腰もまだ定かでない。ざっと見ただけでは黒い毛糸の束なのか、大型のネズミなのか、子猫なのかの区別も付きがたい。子ネコと解って、その目で見ても、丸まった状態では前後左右の識別は困難、目を開ければやっと顔面、頭、胴体、しっぽの位置関係がどうなっているか
やっと解るような、黒猫である。

 また、ひょんなことからネコを飼うことになりそうである。私は一代目のネコ「**」に育てて貰ったようなものだし、今は二代目の「ナンナン」の世話になっている。この仔は無事育って私にとっての三代目になるのかな?これも何かの縁かも知れない、と思う。白を基調とした三毛ネコの、目を細めて私を見る優しい表情に助けられ続けて来た私にとっては、黒ネコは先日までは全く眼中になかった。そんなネコに対する私のイメージを変えなければならない大事件でもある。

 娘は会社とかで、自然に反する軽率な行いだ・・とかいろいろ批判もされたらしいし涙も流したと言うが、私は前後のことを何も考えることなく、「自然と手が出てしまったのよ」という行いを高く評価したいと思う。優しい心を持った娘に育ってよかった、と満足した。これは二代目の「ナンナン」のお陰でもある。と、評価すれば自ずから責任も生じる。もう後には退くことは出来ない。そのネコの命を引き受けるのは、私どもの役目である。


6/13(月)曇のち快晴 管理会議  療養病棟判定会議(-) 長副会議 
2:00起床。ドック総括x1、友の会関連業務、総括、etcいつもの如し。5:20病院へ、6:30回診など。当直師長より食中毒患者が夕方か夜半にかけて大勢受診したという。8:00管理会議、9:00-13:30外来、入院患者対応、療養病棟判定会議は対象患者無く開催なし。16:30-19:00長副会議。途中17:30患者死亡。見送り他、20:50帰宅.夕食、21:30就眠。

中国の人民元切り上げ 中国と日本の関係が変わっていく(2)
 中国は現在の世界経済を大きく左右するほどまで成長したし、今後も成長し続けていく。人民元の趨勢次第で世界の為替相場は大波乱が来そうだし、商品市況も中国のまとめ買いで波乱を続けている。今や中国が世界経済を牽引していると言っても良いほどであるが、私は中国の発展のニュースに触れるたびに、余りにも巨大な国だけに、地球規模の経済の倒産、資源不足、地球環境の汚染を越えた破壊など、一体どうなることかと心配しつつ見ている。日本から見て近い国だけに利害関係も少なくないし、未解決な過去の問題も存在している。

 地球環境に負荷をかけない視点からの統制の取れた経済活動こそが、人類の未来を明るくする、と主張し続けているアースポリシー研究所所長のレスター・ブラウン氏の「エコ・エコノミー」の概念は、持続可能な社会を実現するための具体的な方策提言として各方面から注目されている。
 私もこの方面、深くは知っているとはいえないが、各国が力を最大限に発揮し、急速に成長していくと世界経済や環境は取り返しのつかない厳しい状況に陥ると思っているので氏の主張には共感できる。しかし、深く接する時間がないのが残念である。

 氏は最近の小論文の中で、中国の経済成長率を最近の到達値である年率8%と仮定すると?年で倍増し、2031年には個人所得は38000ドルに達するとしている。  その頃の中国の人口は14億5000万人に達すると推定し、仮に、中国人が今の米国人並の生活をすると、2031年には穀物消費量が世界生産量の3分の2を消費し、石油は1日9900万バレルも必要になると言っている。ちなみに、現在の世界の石油産出量は日量7900万バレルだから、世界の資源を一国で使うことになる。  品不足になれば新たな分配の方法がでてくるだろうが、地球環境はどうなる??風下の日本はどうなる?
 それ以上に、中国の政治体制はどうなるのだろうか?少なくとも、今のままで存続するとは思えない。当然、我が国との在り方も変わっていく。小泉さん、今何考えているの?

 石炭、鉄鋼なども、世界生産が中国の消費を賄いきれなくなる。ところが、この構図は中国だけではなく、世界2位の人口のインド近い動きを見せているから大変である。巨大な人口と経済成長で、食料を含む資源を買い占めれが、世界的に資源が品薄になる。
 我が国は、この様な世界情勢の中どの様に経済を維持していけるのか、食料がどうなるのか、その道の方々のヴィジョンを聞いてみたいものである。
 レスター・ブラウン氏の著作には「エコ・エコノミー」(2002.4)「エコ・エコノミー時代の地球を語る」(2003.4)「プランB」(2003.12)「フード・セキュリティ」(2005.3)などが日本語版としてあるらしい。是非読んでみたいものである。


6/12(日)曇り時々雨 病棟拘束  家族が増えた FF tennis(中止) 
 2:30起床.ドック判定・総括x1、病院関連業務,退院患者総括。9:00横浜から長女・長男が子猫を連れて徹夜運転で到着。部屋の隅に急遽ケージなど作成、トイレなど準備。家族の一員として受け入れる。Vnなど挟み業務続行。梅林園FF tennisは時折降る雨のため中止、14:00-15:30午睡。16:00-17:30次男交え一家5人揃って外食、長女は18:00こまちで横浜に戻った。17:40-20:30病院、回診他。21:00帰宅、22:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (18)  
 貧血の患者(2)クロラムフェニコール服用後、急性肝炎、次いで再生不良性貧血に罹患した患者
 クロラムフェニコールと再生不良性貧血との関連について研究・検討していたが、実験的には有意な結果は出るものの、疫学的に見てクロラムフェニコール服用者のうち2万人に1例ほどしか発症しない再生不良性貧血の病態に直接結びつくような結果は基礎研究から得られるものではない。
 この様なときは一人一人の症例の病状をつぶさに検討することに限る。そのために文献的に症例を収集していたが、中に一例「クロラムフェニコール服用後、急性肝炎、次いで再生不良性貧血に罹患した患者例」が見つかった。急性肝炎も再生不良性貧血の重要な原因疾患の一つであるが、更にその前にクロラムフェニコールを服用していた例が居たことは何かの意味があるのかも知れない。

 この点に注目して更に症例を収集したところ国内に更に一例、外国文献に30例ほど見つかった。こうなるとクロラムフェニコール・急性肝炎・再生不良性貧血間に何らかの濃厚な関連が示唆される。それらをまとめて「内科」という雑誌に投稿したが、これが私の最初の論文となった。この時は教授に原稿用紙が真っ赤になるほど、何度も何度も直され、戻ってくる度にガックリ来たものであるが、その度に確実に文章が洗練されてくるのに驚いたもので、文章力が如何に大切かを含めていろいろ教えられた。この徒然日記のミニ随想は連日、僅か30分ほどで書き上げ、推敲する余裕などまったく無いが、この時の教えが大きく役立っていると自認している。

 以後、四塩化炭素を投与し、人工的に作った肝障害マウスにクロラムフェニコールを負荷し、薬剤のクリアランスの遅延や造血幹細胞の変化を観察していたが、昭和50年頃神戸市で行われた「臨床血液学会総会」にてシンポジウム「薬剤性再生不良性貧血の病態」のシンポジストとなる機会を与えられた。この時の学会長は私どもと同様クロラムフェニコール・急性肝炎・再生不良性貧血間の関連を研究していた事も縁となっている。私は当時研究を初めてから僅か2年目ほどの若輩であることから教授と共にエントリーする形を取り、発表と壇上で約40分間の討論に参加した。
 今はおぼろげにしか覚えていないが、良い経験させていただいたものである。その準備の段階は約半年にわたって極めてハードであり、学会数日前からは緊張で食事も喉に通らず、シンポジウムの2時間は生きた心地がしなかった。

 内容的に私共の研究はそれほど大きな評価を受けたとは思っていないが、この経験を機会に私に度胸だけは随分備わった、と思う。


6/11(土)朝小雨 午後晴れ 病棟拘束  
 2:00起床.ドック判定・総括x1、主治医意見書ほか.5:20病院着.6:10回診、入院患者書類処理。10:30-12:30 外来。入院患者家族と面会。総括x2、他。19:00、夕食、20:30就眠。終日眠かった。

米国は中国の人民元切り上げ要求 中国と日本の関係が変わっていく(1)
 7月のサミットの準備会合である財務相会合は昨日閉幕した。
 焦点だったアフリカを中心とする18ヶ国の債務を全額削減することで合意した。 また、11日の朝食会には中国、印度、ブラジル、南アフリカの4カ国の財務相を招待したと言う。新興国の経済の急成長が、石油などの商品市場や世界貿易に大きな影響を及ぼしているからとのこと。米国からは、中国に対して人民元の早期改革を促す注文が出されたもようだ。 人民元の固定制度が米国の経済を低迷させ、世界の経済にも悪影響を及ぼしている、と言う立場からである。

 中国の人民元切り上げ問題は、今の中国の経済力から見れば国際経済の面からも急がれる問題であると考えられているとのこと。中国でも国際的立場からは解っているはずであるが、中国には国内に大きな問題を抱えているために解っていても踏み切れないのだと思う。中国は体制の維持のためにも、国内の所得格差の面からも、HIV感染者の著増の面からも困難な問題を抱えている。

 中国政府が人民元切り上げを渋り続ける理由の一つは、人口13億人のうち8億人を数える農民への影響があるからだ。中国の2003年の都市部住民の年間平均収入が8500元、農村部は2500元と収入格差は大きい。この状況で人民元切り上げが断行されたら農村は更に困窮する。その理由は切り上げで人民元の為替レトが上昇すれば、ドルが下落して、中国の輸入農産物価格が下落して米国などからの農作物輸入量が増えて中国国内の農産物の価格は下がっていく。
 そうなると農業の生産性が低下し、都市部との所得格差がさらに広がるため、貧しい8億人を数える農民は農業を放棄するようになろう。政府の保護と農民の努力で年間約4億5000万トンまで積み上げてきた現在の食糧生産を維持することは困難になる。

 人民元切り上げは、中国の農業生産を大きく落ち込ませる原因となろうが、一方、離農者を別の製造業とかの産業にシフトさせ、国内生産を更に高めるキッカケにもなる。中国にとってはメリットデメリット双方あるが、人民元切り上げは「世界の穀倉」と呼ばれる米国産穀物の中国向け大量輸出を招くと見るのが自然で、結果的に世界の穀物市況の品不足と価格の高騰をもたらす大きな要因になりうる。
 食料の大量輸入国である日本にとっても大問題となる難問である。

 この中国が今迎えている諸問題を振り返ってみると農業国であった日本が戦後の経済の復興と共にたどった道に類似しているように思う。そうなると食糧問題に留まらず、エネルギー問題、地球環境問題などに及ぼす影響が顕著になってくる。何しろ、人口はわが国の10倍もいるのだからその影響は国際的に見ても計り知れないものになるだろう。その前に国の政治体制問題が生じて混乱を極めるかも知れない。


6/10(金)晴れ  医師会打ち合わせ 法人理事会   
 1:30起床.ドック判定・総括x1、ほか書類処理、退院患者総括。5;10病院着。6:10病棟回診、机上の書類の山を一部処理。10:30-14:30外来+ドック説明x1+ドック診察x5、再度回診他で時間なく医師会打ち合わせは電話で済ます。17:30-18:30法人理事会。車検切れのハーレーをディーラーに持ち込む。再度病院へ。21:00帰宅,21:30就寝。

一日一食の福田式減量法を阻むもの
 私の隠れた特技(?)の一つに体重コントロールがある。今まで4 回ほど減量を試みた。20代後半に74Kg→59 Kg、40代には68 Kg→62 Kg、50代後半には68 Kg→59 Kgと何れも予定通りになった。が、やはり運動不足なので減量状態の維持は困難で徐々に増えてくる。しかし、私は嫌わず自然に任せている。何故なら、必要ならまた減量すればいいから。嫌っているのは下腹部の出っ張りだけである。本年2月の定期健康診断でまた69Kgと出たのでちょっと減らし、ここ数週間は66Kgを維持している。

 私は身長175cmなので、標準は69Kg。だから最大体重の74Kgの時ですら比体重(Kg/mxm)は24.16で僅かに超過している程度。今は比体重は21.79、標準。実はそれでも、私は超肥満体である。何故か。私は幼少時から超やせ形で成長し,身長の伸びが停止した高校生の頃は50-51Kg程度、大学卒業時に55Kg程度で、この頃は何とかして太りたいと考えていた。要するに私の身体はやせ形の状態で出来上がったのであり,増える部分は脂肪だけ。だから,恐らく55-60Kg程度が自分の標準状態なのかなと思っている。
 私の減量法は減食のみ、一日一食、夕食のみで済ます。そんな不健康な、三食は食べるべきですよと多くは言う。それが健康的だと誰が決めたんでしょうか。私は全くそうは思っていない。そう言う常識に反して過ごしてみるのも楽しいことである。数年来私は一日一食で過ごしている。

 ところが一日一食減量法に思わぬ伏兵がいる。それは家内。私に朝食を食べさせようとあの手この手の工夫している。彼女も多忙だから週に何度もあるわけではないが、寝不足状態であるにもかかわらず、夜半に、時には朝の4時頃に脈絡無く突然起きだしてサラダを作り、食べていくように迫る。それもただごとでない量を作る。私の健康を心配しているのか、立場上捨て置けないのか、あるいは
私を肥らせて自分に少しでも近づけようと言う魂胆なのか解らないが、そこまでされると断って出勤するわけにいかない。
 ほぼ葉っぱからなる朝食を、味も付けず、20年ほど前に飼っていたウサギの食事の様子を思い出しながら、淡々とパリパリ、ソリソリと摂る。側ではネコが焼き海苔をパリパリと食べている。更に玄関先にはサラダが詰められたタッパーが置いてあることもある。今日一日、どうやってこれを食べようかと悩む。

    と、言うわけで私は一日一食とは言っているものの、週に一二度は朝にあるいは昼にも葉っぱは食べている。


6/9(木)晴れ 暑い 療養病棟師長壮行・送別会  
1:30起床.ドック判定・総括x1、書類処理、5:10病院着、6:10回診、紹介状x2など、関連書類処理。9;00-14;00外来。15;00-16:00病棟患者対応。退院時総括x1など処理.18;00-21;00療養病棟師長壮行・送別会、千秋会館、小規模で良い会であった。21;30Taxi帰宅、21:50就寝.

「恥ずかしがり屋で挨拶も出来ないんです」余談→地球、身体、子供達の悲鳴が聞こえる 
 昨日の
日記で後段に「最近の子供は大変な環境にある」と記載したが、早速メールにてご意見が寄せられた。 
 「最近の子供は大変な環境にある、というけど、私見ですが現代の子供は恵まれていると思うのです。あまやかしてはいけません。ただ、彼らが働き盛りになったときに高齢化の波で苦労するでしょうけど・・・」と言う内容でした。

 私の記載が言葉足らずであったかも知れない。
 私が言いたかったことは、現代の「能率・経済第一」、「個の重視社会」の在り方などの社会、環境の変化が、あまりにも急速過ぎ、子供達の成長過程に大きな影響を与えてきている、と言うこと。ヒトはホモサピエンスの一員として、起立し、手を使い、高度の知能を備えている。特に先進国では素晴らしい文明を確立し享受している。しかし、まずわれわれは生物の、動物の一員であることを忘れてはいないのだろうか。

 文明・文化の変化は理解力・対応力があれば何とかついていける。
 しかし、子供の成長過程には一定の時間と環境が必要であり、これを短縮することは出来ない。ヒトは「赤ちゃん」ではなく「しろちゃん」と言うべきほど、何も出来ない、何にも染まっていない「白無垢」状況でこの世に生まれ、触れるもの、嗅ぐもの、見るもの、聴くものなど、五感の全てをアンテナとして周囲の環境・社会を体感し、吸収し、30年にもわたる長い時間をかけて成長し、ヒトから人間になり、かつ社会人の一員となっていく。それでもまだ不十分なほど時間がかかるのだ。

 今の子育ての環境は、あまりにも促成栽培的、人工的に操作され過ぎていると思う。子供達の育成に極めて不自然な状態にある事を、大人達は薄々感じていながらも、どうしたらいいのか解らずにいる。否、それ以上に自らが現状の快適さに浸りきり、社会の宝である子供達のことを十分に考えようともしていない。「孤立」している事を気づかずに「自立」していると誤解している問題点に気づいていない。少子化を社会保障の立場から捨てておけないと嘆く。

 子の育成に必要なことは生活の実体験であり、五感による体感である。これが前頭葉を発達させる。今、殆どの環境がTVとかの映像から得られてヴァーチャル体験である。
 私は、途上国の、家族の絆の中に安心しきっている子供達に見られる素直な笑顔、母親、父親にぴったりくっついているあの姿。これが自然で大切だと思う。例え、物質的には恵まれなくとも、彼らは恵まれている。この辺のことは何れ詳述したい。

 結論。地球は自己浄化能力を越えた人間の営みで、ヒトの身体は運動不足と飽食で、子供達は劣悪な生育環境の中で、それぞれ悲鳴を上げている。私は、昨日この様なことを考えながらあの部分を記載した。
 これが、ご返事です。ご意見、本当に有り難うございました。


6/8(水)快晴 県障害福祉関連委員会 県医師会理事会+α 
 
1:30起床。ドック判定総括x1ほか。各種作文等いつもの如し。5:20病院着。6:20回診。9:00-14:00外来+ドック結果説明x1。15:00-16:50県庁第二庁舎にて障害福祉関連委員会、中座。16:30-19:30県医師会理事会。代議員会前で長時間にわたる。19:40-21:00病院に。回診その他。21:20帰宅、夕食、21:50就眠。

「恥ずかしがり屋で挨拶も出来ないんです」
 まもなくアメリカに1年ほど留学する予定のある女子高校生が予防接種に訪れてきた。予防接種とか留学用の健康診断書とかは何故か知らないが、英語がからきしダメな私に回ってくる。この高校生、診断書発行時から数えてもう7-8回目ほどの受診である。いつも母親が付いてくる。

 この子は語学体験目的の留学だという。アメリカでは自分を積極的に表現出来なければ相手にもされない。第一、無口だと語学体験にもならないし、大体危険じゃないか。だから私はいつも「おはよう。体調はどう?」などと声をかけ、返答させようとするが彼女は何か言いたげだが、もじもじとし、その後は平然と座っている。これじゃまるで「扁桃腺」の病気だよ。
 一瞬の間をおいて付き添ってきた母が「すみません。恥ずかしがり屋で挨拶も出来ないんです」と側ですまなそうに言い訳する。何度も同じ様な事が繰り返されるので、私はある日「恥ずかしがり屋で挨拶も出来ないんです、と側であなたが私に言わなくていいですが、挨拶が出来ないことは恥ずかしいことだ、と何故この子に言わないんです?」と言ってしまった。今度は母がもじもじ「扁桃腺」。

 何かおかしくはないか?この母子例はちょっとした一例で、これに類似した例は日常数多く挙げられる。社会生活の中で最も大事な人間教育が出来ていない。
 子供が主役で母親は完全に子供におもねている。機会教育のために付き添ってくるなら大いに付き添ってくればいい。甘やかし言い訳する為になら付き添って来ない方が教育的にもずっと良い。来れば問題解決の機会を先送りにするだけ。
 今の子供達に必要なのは社会生活の実体験なのだ。その機会を親が奪っている。受診とかはTVとかのメディアを通じたヴァーチャル体験を少しでも具現化する大事な機会なのだ。

 子供達は今気の毒なほど大変な環境に置かれている。時代柄もあろう。しかし、その大きな原因は親にもあるのだ。


6/7(火)曇り 患者家族面談 医師会打ち合わせ 県健康対策課来訪  医局カンファ
2:00起床,ドック判定総括x1、ほかいつもの如く淡々と.5:10病院着。6:00入院患者家族と面談。6:30回診+定期処方箋40数枚送付、紹介状作成他。9:00-14:00外来。16:00医師会打ち合わせ+県健康対策課来訪、日本脳炎予防接種その他について。17:30ー18:50医局会。残務消化、21:00帰宅。21;20就眠.

今に私の時代が来る(G・マーラー)  ついに来てしまった!!と、
レッサーパンダ(2)
 マーラーの作品は最近こそ高い評価を得ているが、彼が存命中には決して評価は高くはなかった。
 当時のヨーロッパは、国家が威信をかけて文化レベルを向上させようとしていた時期で、各地に次々と歌劇場が建てられ、演奏家の需要が高まった時期であるという時代背景とも関係しているが、マーラーは条件の良いところを求めて、指揮者として各地を転々とし、ついに37歳の若さで今のウィーン国立歌劇場の音楽監督になった。今日、この地位は小沢征爾がつとめている。

 マーラーが卓越した技能・才能を兼ね備えた「指揮者」であったことは、録音は当然無いが、当時の文献が証明している。しかし、彼はひどくエキセントリックな性格であり、ユダヤ人であったことも災いして、歌劇場と様々な悶着を起こし、やがてはウィーンを追われ、失意のうちに米国に渡る事になった。
 私は、並の人間、バランス感覚に優れた人間は歴史の中に残るような何物もなし得ない存在で、せいぜい1票を投じる程度まで、多くはそれすらもしないのだ、と考えているが、指揮者マーラーの足跡に触れる毎にその想いを一層確認する。彼は、どの面から見てもまともでは無いようで並みのレベルの私は彼のそんな面にとても興味を感じてしまう。

 当時、マーラーの作品は今日のような高い評価はされていなかった。少なくとも当時の大衆が聴く音楽と彼の作品とは大きくかけ離れていた。古典的な交響曲、協奏曲、歌劇に耳慣らされていた大衆にとって、マーラー音楽の斬新さ、先を読めない奇抜さ、脈絡のないメロデイの出現、突然の大音響、等々はおそらく耐え難い音楽だったのだろう。
 ただ、音楽の世界では、今日最も重要な作品と思われている多くの名曲のうち、発表当初熱狂的に迎えられた曲はオペラの一節などを除けばホンの一部であって、特に交響曲の世界では少ない。
 それは、当たり前である。彼は一世紀先を行っていたのだ。そして、「今に私の時代が来る」と言い残し世を去った。彼の予言通り「彼の時代」が来たが、死ねば全て「無」の人生、彼は何も知ることは出来ない。しかし、「今に私の時代が来る」と夢を見続けながら生きていた彼は決して不幸ではなかっただろう。並の人間より遙かに幸せだったのだ。
 
レッサーパンダから、つい、マーラーを連想してしまったここ数日。今朝は第8交響曲を低く流しつつ業務を進めた。私にとってはマーラーを回顧出来た良き数日であった。


6/6(月)晴れ 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議 某芸術関連打合会
2:00起床、やや眠い。ドック判定・総括x1,紹介状送付ほか。5:10病院着。6:15回診、他。8:00管理会議.9:00-14:30外来。16:00-16:30療養病棟判定会議。16:30-18:45長副会議。某芸術関連打合会19:00-21:15。21:30帰宅。22:00就眠。昨年は梅雨入り宣言。 

今に私の時代が来る(G・マーラー)  ついに来てしまった!!と、レッサーパンダ(1)
 千葉市動物公園の直立するレッサーパンダが嚆矢となっての全国各地のレッサーパンダの人気が高まり、動物園の入場者が増えているという。秋田でも例外でないらしく、日曜日にテニスコートに向かう際、大森山動物園に向かう車が増えたようにさえ感じる。

 簡単な動物図鑑によるとレッサーパンダは哺乳類食肉目裂脚亜目パンダ科に分類され、身長は50〜60cmで3〜5kg、尾の長さは30〜50cmの中動物。中国南部、インド、ミャンマー北部の森林や竹林に住む。主食はタケの葉や、タケノコとのことで、1日の半分以上は樹上で休んでいるようなどちらかというと活動性の乏しい目立たない動物。
 パンダと言えば通常はジャイアントパンダを指すほどでこのレッサーパンダが注目されることは今までそれほど無かったと思う。だいたい、レッサーというのは差別的な命名でなかろうか。しかし、パンダという名が付いていなければ、またまた扱いが変わったであろうから、やむを得ないか。

 最近の起立するレッサーパンダブームについて、背の高い笹を食べるときにも立つらしく、解剖学的に立つことは当たり前の構造という意見もある。それが、外を覗きたい、餌を貰えるか、と期待して立ち上がっているだけらしい。だから、そう珍しいものではないが、その時の仕草がとても可愛いのだ、と言うことらしい。

 どこかのコマーシャルに登場させようと商業主義的発想丸出しで利用が取りざたされているらしいが、動物は作為のない状況でより自然の形で、ちょっと距離を置いて観ていくのが一番だよ。動物に関して、時に爆発的ブームが来るが、多くは短期間で終焉する。子供達にはいろいろな動物を見て欲しいし、知って欲しい。しかしながら、作為的な映像とかを駆使して作られた映像では動物の表層的なことしかわからない。自分から図鑑とかを開いていろいろ調べてみたくなる、そんな資料が提供される事こそが望ましいのだが。

 「ついに来てしまった、私の時代!!」と、レッサーパンダは喜んでいるのだろうか?まさかと思うが、私は今朝、「今に私の時代が来る」と言って失意の中に没した作曲家G・マーラーを想い、交響曲第二番「復活」を低いボリュームで流しつつ業務を進めた。レッサーパンダのお陰で1年振りに。 


6/5(日)曇ー快晴  病棟拘束 FF tennis  
2:30起床、ドック判定・総括x2,新聞処理。7:30-8:30坐位のまま若干微睡む。8:45からの救急カンファに出席できず。院内業務・作文進める。11:30中断、Vnなど。13:00-16:00梅林園FF tennis、4-6、6-4、6-4で何とか良い感じで終了。16:30-19:30病院で残務、22:00帰宅、夕食、22:30就眠.

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (17)  
不思議な貧血の患者 先天的酵素異常でWHOに「G6PD-Akita」として登録
 医局員は週に1回、半日または一日、秋田県内各地の病院に出張し、地域医療の維持に寄与しつつ、生活費の一部を得ていた。秋田鉄道病院からもその要請があったが、その報酬は当時の平均の半額以下と随分安かった。ある日、教授に呼ばれ共稼ぎだからお前で良いだろう、と言う変な理由をつけて前任者を他の病院に回し、私が割り当てられた。

   そんな事情で週に一回月曜午前に秋田鉄道病院の外来を手伝っていたが、最初の頃は古く汚いビルであり、午前中に数人の外来患者しか来院しなかった。 報酬こそ低かったが、病院から近かった上に公用車で迎えに来てくれるし、外来の合間には勉強も出来たし、と言うことで、それなりに納得していたが、2年ほど後に秋田駅の近くに新装され、規模も療養環境も一気に改善した。これを機会に外来患者が30名ほどに一気に増えた。中にいるスタッフはそのままにも拘わらず、である。
 医療機関は新しいこと、規模がある程度大きいことが患者の受診行動に大きく関連することを体験した。
 秋田鉄道病院は国鉄がJR東日本に移行後、病院としては廃止され、今は「健康管理センター」とかの名称で残っているようだ。側を通ると懐かしい思いがする。

 ある日、鉄道病院の院長より電話があって、胆石症で入院中の中年の患者が下血とか無いのに急速に貧血が進んでいるし、ひどい黄疸もあるから診て欲しい、と依頼あり午後に往診に行った。中年の男性患者で、幼少時に熱性疾患に罹患、その後に知的機能の障害が生じたという。やせこけて黄疸がひどく、見るからに重症感をただよわせていた。入院時には貧血がなかったが、数日でひどい貧血になっており、黄疸が急速に発現したという。しかし、尿は殆ど正常色である。これらは一見して溶血性貧血の特徴である。 詳細は抜きにするが、種々の検討で先天性の酵素異常、その中でも薬物とか投与した際に赤血球の中で代謝異常が進行し一気に溶血するタイプと見込みをつけ、以降の詳細な検討は東京大学医科学研究所に依頼し分析した。結果として世界でまだ登録されていないタイプの酵素異常と判明し、一定の手続きでWHOに「G6PD-Akita」として登録された。
 この患者は数年後に死去されたが、既に両親は死去しており兄弟に異常がなかったので偶発的遺伝子異常の例と考えられ、子孫を残さなかったために真の孤立例としてこの世から消滅した。まだその後、「G6PD-Akita」例に一致する患者は見つかっていないようである。

 たまたま、いろいろの事情や偶然が重なって秋田鉄道病院に手伝いに行っていたことが縁で、私が貴重な経験が出来たと言うこと。更に、約10数年後、世界的に未発見の膜たんぱくの欠損を伴った溶血性貧血例に巡り会うことになるが、偶然とか縁とかは、何だかわかりませんが、本当に有り難いことです。。


6/4(土)晴-曇  病棟拘束  法人管理職会議
2:00起床。ドック総括x1。紹介状ほか。5:00家内帰宅、重症患者に対応とのこと。5:20病院着、6;30回診他。8;45救急カンファ。10:30-12:30外来。14:00-18:00法人管理職会議+情報交換会。残務処理他、21;00Taxi帰宅、新聞数日分チェック。22:30就眠.

司会者の指示なんかを守っていては何も伝えられないのよ・・
  本日の管理職会議
 本日、午後の法人の会議は実に面白く、かつ、有意義な会であった。横長で広くない会場を横に用い、理事者は壁際に横に一列に配列となった。比較的中央であった私の目の前にはそれほどの距離を置かずに出席者が大勢座った。相手側にとっては何と言うこともなかろうが、私は大勢と向き合うこんな配列は嫌いだ。気が小さい私にはこれだけでも大きなプレッシャーであるし、長時間顔を付き合わせているのは例え相手がだれであっても苦痛以外の何物でもない。だから、会議中は終始目を閉じ一度も開眼せずに聴いていた。いつも長時間の会議等では目を閉じて過ごすが、ここまで徹底したのは初めて。途中、若干は微睡んだようだが自分でもよう区別が付かない。発言内容は全部聴いていた、と思う。

 協議事項は質問もなく簡単にクリア。
 それに続いて各職場を中心に現状報告がなされた。これはこの会の恒例である。司会者は3分ほどで、と釘を差して始めたが、だれ一人として時間の指示を守らない。殆どが10分以上、しかも、述べた全員がとうとうと、よどみ無く、見事な弁舌を展開した。私は一度も発言者を見なかったので原稿やメモを用意しての発言か否かは解らなかったが、各人の能力は大したものであると、心の中で脱帽した。
 恐らく、司会者はこの間、発言が何時終わるか、いつ発言を止めるべきか、終始ハラハラし続けていたであろう。かなりのストレスであっただろうと推察する。司会と言えども相手の気持ちを考えればなかなか発言の途中で声は出せるものではない。だから、途中で時間経過を警告する鈴やゴングでも用意すれば良い。ずっと気が楽になるハズだ。今日は機会を与えられなかった予定発言者はかなり居たんでなかろうか?
 次回は試しに法人内の歯科診療所の医師に司会をさせてみてはどうだろうか。彼らは有能な歯科医師とのことであるからもしかすれば有能な「司会者」でもあるのかも知れない。

 発言した各人が述べた内容は、切実・深刻な内容で、大事な提言もあった。マンパワー、職員教育、物理的改善等の広い分野にわたっており、多いに参考にしなければならないし、出来るものから早急に手を着け一歩一歩改善していかなければならない。しかし、同時に全てに対応することは困難であり、時間も必要である。今後も現場の切実な問題をすこしでも改善出来るよう、管理職の立場で発信し続けて欲しいものである。

 一方、切実な諸問題の報告、良い提言を聴けば聴くほど、病院の管理の一翼を担っている立場の私の気持はズシーンと重くなっていく。これは正直な気持ちだが、私は目を閉じることはあっても耳に蓋をするつもりは一切無い。


6/3(金)晴れ 医師会打ち合わせ  
2:30起床。さすがに眠い。ドック総括x1他。5:20病院着、院内業務。6:30回診他。7:00患者家族と面談。回診他、身体障害診断書他、10:30-14:20新患補助外来+ドック診察5名。16:00-17:00医師会打ち合わせ。最近退院患者が多く総括に負われる毎日。20:20帰宅、夕食、21:00就眠.

食糧自給率の話し(2)米の消費低下に私も関与
 ちなみに、国内でも各地方毎に食糧自給率に著しく差が大きい。最も低い都道府県は東京都で予想の如くであるが、これが何と1%未満だと言う。東京などの大都市は流通機構にちょっと破綻を来した場合、数日で干上がってしまう様な、恐ろしい環境の中でバランスが保たれていることになる。私の郷里の岩手県は120%だとの集計結果を何処かで見たことがあるが多分それは本当だろう。秋田はどうなんだろうか?
 農水省の調査によると、2004年度の1人当たりのコメの消費量が前年度比-1.0%の59Kgで、2年連続で60Kgを割り込んだ、と言う。国民1人当たりの年間コメ消費量は、調査を始めた1965年度が112Kgだから、約半分にまで減少した。食の多様化と言うことでパンやパスタなどに食嗜好が替わったと言う、誰でも解る理由の外に、1人の一食あたりのご飯の量が減った事も一因だと言われている。これは人口の高齢世化に伴う摂取カロリーの減少のため。秋田県庁には「健康食、米をもっと食べましょう」との大きな看板と垂れ幕が見られるが、この様な現状を見ると、コメの消費量減少に歯止めはかかりそうにない。
 私は今の病院に勤務したときから三食摂取を止め、朝夕の一日二食とした。50歳代になってからは夕食のみしか摂らない。別にこれで困った事態にはならない。自宅で食べる夕食は週の半分程度であるが、一食だからこそ好みのもの中心になる。私の主食の殆どは蕎麦等の麺類である。

 世界の人口を持つ第1位、2位の中国、インドは最近経済成長が著しく、特に中国は食料を含む資源の消費が増大し、輸入量が増大しつつある。更に経済が成長し、国民の食生活が徐々に贅沢になっていくと世界的に食糧が不足する。その抑制のためには価格の操作による消費の調整と言うことになる。そうなれば、慢性的に食糧不足の途上国の人達は更に厳しい状況に陥るし、大部分を輸入食品に頼り、経済力が相対的にも乏しくなりつつあるわが国も徐々に干上がっていくことになろう。
 農業政策は大事だ。しかし、その前に食品を粗末に扱い大量の残飯を出しているわが国の食文化を何とかしなければ、と思う。


6/2(木)快晴 早朝秋田県県南で震度3 来訪者数件
2:00起床。ドック総括x1。レセプト数枚チェック。ほか淡々と.5:20病院着、徒然送付。6:30回診、他。9:00-14:00外来、15:00来訪者数件あり対応。入院患者不調数人、19:10お一人死去、天寿。見送り、レセプトチェック他で22:30帰宅。夕食。23:00就眠。

おどろくほど低い和食における食糧自給率(1)
 日本のカロリーべ一スによる食料自給率は40%以下と先進国では最も低い。このことは食文化に若干でも興味を持っている人であれば誰でも知っている?事柄である。それでも洋食ならまだしも、和食ならば国産食料品の割合は比較的高いだろうと誰しも考えるようであるが、調べてみると逆である。

 日本人が好む食事に輸入食品依存度を当てはめてみると、驚くことにラーメン97%、納豆84%、天ぷら77%、肉豆腐77%、すき焼き74%、焼き烏73%、冷奴68%、肉じゃが64%、かけそば63%、サバの味噌煮50%、うな丼38%となるという(日本ロビーインダストリアル社マーケットリポート1475号より引用)。
 この数字は、世界の食料品を買い漁っていなければ出てこない数字であって、その方向からデータを収集してみれば、トウモロコシの21%、大豆の10%、肉類の25.4%、水産物の33%を日本が買い占めていることになる(上記より引用)。

 この数字を見ると空恐ろしくなる。

 庭料理のうち、国産100%といえるのはご飯と大根おろしと漬物くらい。と言うことは、食料輸入が止まれば日本国民はご飯と大根おろしと漬物で耐えなければならなくなるということ。これでも北朝鮮の現状よりは良いのかも知れないが、わが国も北朝鮮の食糧事情と根本は似たようなものである。食料流通は供給側にとっても大きな経済的意義があるのだからそう簡単には縮小できないが、干ばつでもあれば自国優先になるし、現在の農業国がいつまでも現状と同じという保証はない。


6/1(水)快晴  新副院長二名発令
1:30家起床,丁度家内帰宅、重症患者のためと。ドック総括x1、ほか淡々.5:20病院着、6:00-8:00回診他、入院患者関連書類処理、新副院長二名発令
9:00-14:10外来+ドック診察x4。15:00病棟処置等、本日午後は特に対外予定無し。主治医意見書作成他書類処理に集中多数処理、されどまだ机上に山積み。20:40帰宅。21:30就眠。小学6年女児殺害事件から1年。

ヒンズー教の人生4区分  学生期 家住期 林住期 遊行期
 上記項目はインドのヒンズー教の教義の中に見られる人生の4区分。かつて聴いた京都大学名誉教授で兵庫県立「人と自然の博物館」館長河合雅雄氏がラジオ放送の中で自分の人生を語るときに引用していた。ちょっと気を引かれたのでメモして置いたものを今日急に思い出した。

 彼の弁によると、学生(がくしょう)期は字の如く、学びを通じての次ぎに備える時期を指す。
 家住期(かじゅう)は家に住み家庭を営み、子育てし、働き社会参加する時期。
 林住(りんじゅう)期とは、言葉だけからでは区別出来なかったが、臨終でなく林住で、家とか社会的立場を後生に譲り、林に住みつつ余生を送りつつ人生を振り返る時期で、日本的分化の中では還暦の時期、丁度私が迎えている時期に相当するのだろうと思う。
 遊行(ゆうぎょう)期というのは人生最後の修行をし、旅立ちへの準備をする時期という。遊行とは初めて聞いた言葉であるが、関連法人の施設である「遊心苑」の命名につながるものがあるかもしれない。施設のガイドによると「遊心」は2つの意味があるとのことで、乗物以遊心「心をほしいままにして楽しむ」(荘子)遊心帝王之術「常にその事物の上に心をおく」(漢書)から引用したが、「遊」という意味は「心の働き?示すようだ。入所者には ゆったりとした気持で 伸びのびと生活してほしいと言う願いをこめて命名したとあり、改めて感心したが、ここはまだ私の境地ではない。

 河合雅雄氏は現在81歳、46年研究生活を続けた犬山市から2年半前に生まれ故郷の兵庫県篠山市に戻り、そこで「県立人と自然の博物館」名誉館長、「丹波の森公園」施設長とかを務めている方である。何故、この歳で突然郷里に戻ったかと言うことの説明に先のヒンズー教の教義を引用していた。自分はいま「遊行期」として小さいときに親しんだ自然の中で最後の時期を過ごし、やがて静かに土に帰りたい・・・とのこと。淡々と語っていた。これも人間の持つ強い望郷の念の現れなのだろう。

 何故、私がこんな言葉を急に思い出したのかというと、本日、新に二人の副院長が発令され副院長が5名体制となった事と関連があるだろう。体制もメンバーもこれは私の前からの望みであり、それがやっと実現した、と言う事。病院にとっても私にとってもとても喜ばしい事である。私が3年ほど前に、思いがけずに副院長を拝命したとき、私は「有能な後輩が育つまでの橋渡しの役として・・」と考え、そのつもりで引き受けた。その気持ちは今でも変わっていない。だから、望んだような状態に少しづつ近づいてきている。
 私は今日、林住期が一層身近になってきたような、自由になれる時期が近くなってきている何か嬉しい、フワッとした柔らかな感触に浸っている。
 林住期、良い言葉だ。臨終期にはまだちょっと早いけど(笑)・・・。

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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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