日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
徒然日記バックナンバーへ戻る 徒然日記へ戻る トップページへ戻る
先月の日記 来月の日記
2/28(月)曇り 管理会議 県医師会電話相談者面談 療養病棟入棟判定会議 長副会議
2:00起床。ドックx1、医療評価関連。5:10病院着。6:10回診他、8:00管理会議、9:00-13:00外来。15:00-16:00県医師会電話相談者面談。16:00-16:30療養病棟入棟判定会議。16:30-20:10長副会議、懸案多数で長丁場。入院患者不調にて対応。21:30帰宅、夕食、22:00就眠。多忙だったね。
私的病院は理念をはっきりし、機能を特化しなければやっていけない
第6回地域医療連携を考える会(2)での教訓
パネルディスカッション演者の講演内容は以下の如くに要約される。
●近森正幸氏は高知市の医療法人、急性期病院に特化した合理的医療経営策を示し、338床の地域医療支援病院の立場からその運営について述べたが、医療資源は有限であるから有効に用いるために、慢性期のものは徹底して捨てる、だからこそ地域医療連携が重要であると主張した。
「徹底した急性期特化」で在院日数は15.6日、病床利用率93-94%。入院一人あたりの日当点は、何と!!! 6000点とのこと。運営のキーワードとして「選択と集中」と述べたが、その前に「排除」が必要で、感心と反発とを感じつつ聴いていた。
●室原良治氏は熊本市の医療法人、慢性期の178床の内科系病院の立場から医療連携について述べた。私的病院としての限界と、慢性期医療機関の立場から連携のキーワードは「長期入院可能病床、医療におけるハブ機能、地域・長期・長寿」と述べた。確かに急性期病院が林立し、基盤の弱い私的医療機関の立場では到底競合出来ない環境下に即した在りようと言いうる。しかし、今後の病院の運営に関しては不安要素がとても大きい、と結んだ。私の立場から見ても、果たして今後経済的に成り立っていけるのか否か、疑問であり、共感するものがあった。
●片山 壽氏は診療所医師、市医師会長の立場から尾道方式と言われる「要介護高齢者ケースにたいしてケアカンファレンスを開催する」という共通認識のもとで多職種間の連携が良好に運営されている内容を中心に述べた。ケアカンファレンス実施率は90%超であるとのことでその効果は住民のためになっていることは明らかな様である。医療と福祉の連携の一つの姿を確立している。しかし、この方式を広く普及させるには大きな困難がありそうである。
二つの病院の院長の話は一方は超急性期追求医療機関、一方は慢性期特化病院。ただただ驚嘆するのみ。どちらの立場でも医療連携が最も重要なキーワードであることは一致していた。
今回の研究会も私にとってインパクトの大きな会であった。寝不足状態での参加であったので意識が遠のいた部分もあるが、録音を聴きつつ更に深めていきたい。
この様な会をシリーズとして継続的に催す事は企業にとっても経済的にも大変なことと思うが、社会的にはとてつもなく大きな価値があると思う。良い意味で企業のシンボル・ステータスとも成りうると思う。是非続けて欲しいものである。
2/27(日)大阪晴れ曇り 秋田曇天 病棟拘束
2:00大阪リーガロイヤルホテルで起床。ドック処理x1、紹介状x1、決議文など。6:30サラダにて軽朝食。8:00Taxi 伊丹空港。悪天候で秋田空港への着陸不可時は花巻または伊丹に戻る条件で付き、9:10離陸。搭乗前に秋田の自宅に電話して確認したらそれほどの悪天候ではないとの事。これは大事を取っての事前確認の意味しかない通告と思う。機種はMD-81、搭乗率90%。後席とれず12A席。隣座席空席で助かった。それほど揺れず、地上が見えたのは離着陸の時だけ、10:35秋田着。Taxiにて病院へ。机上はカルテ他山に。12:00回診他。比較的患者は落ち着いていた。残務、16:00帰宅、そのまま残務処理継続。17:30仮眠60分、20:30夕食、21:30就寝。
自伝 秋田大学時代(1973-1985) (6)クロラムフェニコールの造血障害の研究
クロラムフェニコールの造血器障害については、主に実験的に検討した。主な実験系は以下の如くとした。
(1)感染症のクロラムフェニコール治療時の薬物消失曲線の検討による排泄能個人差の検出、
(2)健常マウス及び四塩化炭素で人工的に作った肝障害マウスへクロラムフェニコール投与した際のクロラムフェニコールの消失曲線の変化
(3)末梢血の白血球数、貧血、血小板の数値の変化、
(4)同処理マウスの脾臓コロニー形成能の変化、
(5)同処理マウスの顆粒系コロニー形成能の変化を検討した。
(4)(5)の脾臓コロニー形成能、顆粒系コロニー形成能に関しては既にこの技術を確立していた医師お二人との共同研究で、実験系構築に関しても指導・助言を受けた。
他施設の研究グループのデータでは臨床的に考えられないほどのクロラムフェニコールを投与しており、ある程度の有意差が出ていたが、その様な状態下ではマウス自体が元気がなくなることから薬物としてではなく毒物としての作用をみているのであって、薬理学的な影響は得られるはずがないと考え、私の実験系では基本的に治療域内のクロラムフェニコール投与量で行った。そのためか、結果的に有意差のあるデータは得られなかった。今考えても、実験系に問題があるのではなく、クロラムフェニコールの薬理作用の範囲では異常が出ないのが当然なのだ、と思う。
この辺の経過、結果については厚生省難病対策研究班業績集「再生不良性貧血」に数回にわたって報告書として記載されている。また、医学のあゆみ100:493-500,1977にも掲載された。ただし、当然の事ながら何れも論文の筆頭者は教授である。
2/26(土)秋田降雪、大阪曇点 第6回地域医療ネットワークを考える会
2:00起床。ドックx1、紹介状他。外に出てみたら思いがけず積雪10数cmで5:00-5:30除雪、一度の降雪量としては今期最高か? 5:45病院着。6:10回診その他書類処理。8:55病院発Taxi空港。10:25離陸、JAL MD87、搭乗率90%ほどか、指定座席を搭乗直前に後席に変更。隣席空いており比較的快適、12:15関空着、JRにて大阪に。リーガロイヤルホテルにて14:00ー18:40「第6回 地域医療連携を考える会」。時にMDに録音任せてうたた寝も。実に良い勉強になった。終了後情報交換会。20:00同ホテルにて医師会決議文等若干業務処理、21:00就寝.
第6回地域医療連携を考える会(1)
本日の大阪は私用で上記セミナー聴講の為。これは武田薬品主催の会で、今回で第6回目と言う。私は昨年初参加で今回2回目。
会は武田薬品の糖尿病治療薬の紹介の後、
1)基調講演:医療計画の見直しと地域医療連携について(厚労省 原勝則氏)
2)医療法人近森会における地域医療連携の取り組み(近森病院院長近森正幸氏)
3)慢性期病院から見た医療連携ーー利用者中心の連携ーー(菊南病院院長室原良治氏)
4)包括的地域ケアシステムにおける地域医療連携の在り方(尾道市医師会長片山 壽氏)
5)パネルディスカッション 新たな地域医療連携ーー医療・介護・福祉の連携ーー
司会はいつもの如く笹川記念保健協力財団理事長紀伊國献三氏。かなりのご高齢であるが、今回も的確な進行、まとめ役を果たした。各演者の講演内容も演題に即した内容で聞き応え充分。以下が印象。
●基調講演の厚労省医政局 総務課長の原勝則氏は理路整然と日本の今後の医療の方向性について述べた。が、まずスタート時点から日本では諸外国に比較して病床数が多すぎる、だから医師・看護師等のスタッフも少ないのだと述べ、国の低医療費政策の煽りをまともに喰らっているからと思っているわれわれの見解とは認識がかなり異なると感じた。医療環境が諸外国に比較して劣悪である点には一切触れなかった。平成18年に予定されている医療制度改革には部署も異なることから具体的には触れなかったが、厚労省の望む地域医療供給策は基本的には地域の医療関係者の問題として、距離を置いていた。要するに厚労省ではアウトラインは提起するが、現場で構築していく問題との立場であった。我が国の医療環境は更に厳しくなりそうである。
2/25(金)秋田降雪、東京曇 日本医師会「個人情報保護担当理事連絡協議会」 法人理事会
1:30起床。紹介状他。退院総括、徒然、5:15病院着。6:15回診その他。出張時申し送りなど。9:00病院発秋田道経由空港へ、10:05JAL AirBus A300-600、最後部中央席に一人、前の数列には誰もおらず快適。浜松町駅書店にて数冊購入、駒込に。13:30-15:30日本医師会「個人情報保護担当理事連絡協議会」。若干残して中座、羽田に急ぐ。16:30ANA767-300型、南外村中学校修学旅行生で満席。12Gと前方の席で我慢。雪で道路渋滞、18:30-20:00法人理事会へ1時間遅れて出席。回診。21:00帰宅、21:50就寝.
またまた ライブドア
昨年はプロ野球で騒がせ、野球界に新風を吹き込んだライブドア、今年はニッポン放送の株を大量に取得し、堀江社長がニュースに頻回に登板している。こんなに社長自身が前面にたって説明するのはゴーン社長を始め、外資系の会社では当たり前のことだが、日本ではそう例がない、と思う。
堀江社長はノーネクタイの軽装、対応は実に堂々、冷静、理路整然とビジネスを語る。感心するのは、どんな質問にも担当者を呼ぶことなく自分で答えられるという点。事前にしっかりブリーフィングを受けてきているのだろうが、それでも通常はボロを出すのに、出さないからすごい。明らかにビジネス感覚が違う。隅々まで管理出来、理解出来ているようだ。これぞ時代が求める新ビジネス感覚なのだという認識を持つ。
日本の企業は、概してガッチリとした官僚的構築の上になりたっている様に見える。医療界もそう見える。とくに大病院はそうだ。右肩上がりの好調時にはそれでも通用したのだろうが、もうからは駄目だろう。医療・福祉の世界は他のビジネスとは違うのだ、と言う甘い感覚のままではこれからは駄目だろう。常に代表者自ら内外に情報を発信していないと通用しなくなる。私も管理者の一員ではあるが、もう自分の、守り中心の古い感覚では通用しない、と感じる。もちろん企画を作り、ひたむきな努力をする事の価値に変わりはない。ここまでなら私も何とか出来そうだが、これからはそれだけでは足リないと言うこと。企業体として経営のスキームを構築し、戦略を持つ積極性が必要だ。
ライブドアは日本のビジネス社会の常識を変革してくれるのではないという期待がある。ライブドアの真の目的は何だろうか。メディアとインターネットの融合を目指しているとは言うが、私にはその目的はよく解らない。
堀江社長も政界からさえもバッシングを受け、それでもひるむことがない。最近はややいじけている雰囲気を感じないわけではないがようやるもんだなと思う。
2/24(木)降雪→曇 寒波 療養病棟診療部会議
2:00起床。ドックx1。紹介状、返事等書類書き中心。5:10病院着。回診その他、8:10救急カンファ。9:00-13:30外来+ドック説明。14:00入院患者家族と面談、重症患者処置その他、書類処理。評価機構関連は若干だけしか時間が取れない。これが今の最大の苦痛。17:00-18:00療養病棟診療部会議。20:50帰宅、夕食。21:00就寝。今宵は冷える。外気-5度。ついに右の尻に褥創が出来た。
44年振り 旧交を温める(了)会話の中心は?
全員ほぼ60歳で還暦を迎える齢、何れも中学校時代の面影を顔面に残しているが、年齢より老けて見える人、若く見える人など様々であった。中学時代はみんな大同小異だったのに、この44年間、各人いろいろの人生をたどった事の証が顔や頭の表情に出ている。味わい深い変化である。乾杯の音頭の時、自身を含めて今宵無事集まれたことに対しする感謝の祝辞(縮辞)として、各人の表情に刻まれた、一筋の皺の中に各々がたどった、知られざる個人史が刻まれている、旨を述べたが、実感である。
この様な変化を一気に一同に概観できるのも同級会ならではの味、価値の一つであろうと感じ入った。
飲めない酒やビールを片手に、最期の方はオレンジジュースを片手に6時間余、よう語り合った。友人達の何れも開放感のある、満面の笑みはとても良かった。しかし、その中にも決して順風満帆ではなかったであろう影の部分、実際には日常的には決してこんな良い表情ではないだろうと思わせる、厳しい表情が一瞬一瞬現れる。大病を患った方も数人いた。しかし、いずれも今はその雰囲気を残していない、見事な回復振りで、この年代人が持つ精神力の強さに驚嘆させられた。この生きる姿勢、私も学ばなければなるまい。
語られた話題は、病気あり、失意あり、と実に様々であったが、言う方も聞く方もサラリと流し深く突っ込まないところで適当にセーブが利いているのがまた良かった。何しろ、一夜明ければまた各人バラバラ、現実の世界に戻っていくのだから。今宵の集合は夢の中の一シーンに過ぎないのだ。
その中で語られたことを集約すると以下の如く。()は私のコメント。
●腰が痛い、膝が痛い。目が、耳が・・・(長生きするからだよ。仕方がないね。せめて痩せれば・・・)
●こんな手術を受けましたよ。医療ってすごい世界ですね(無事生還できて良かった、良かった・・・)
●孫がとても可愛い、最高!!(へー、孫のことはわかったけど、何で夫や妻のこと、子供のことは語らないの??---無言)
●今は嘱託の身分で、若い後輩連中に頭を下げながら気を遣いながら働いているよ(ウーン、厳しいね。私はむしろ積極的に嘱託になりたい、と思っているよ。)
●医師は定年ってないでしょう、良いですね(イヤイヤ、そりゃ誤解だよ。定年はもう少し先だけど、私は60歳が定年実質的だと思っているよ)
●生きていたらまた会いましょう(アハハ、もし生きていたらね・・・)
6時間、とても時間が短かった。生きるという事についてはみんなすごく淡々としている印象で感心した。これも同級会ならではの味。
3年後、生きていたらまた集まろうという事になったらしい。その時、もし会えたらまた・・・と、私は数人と言葉を交わして早朝、東京に発った。
大型バスの中、乗客は私一人だけ。そのなかで、夢の様なひとときから、徐々に現実の自分の世界にひき戻された。良いひとときであった。関係者の方々に深謝。
2/23(水)曇 県医師会理事会+県医師会財務委員会
2:20起床。寝不足感状態。ドックx1、退院総括、紹介状返事等処理など.5:20病院着、ICU、病棟回診他、8:10救急カンファ、9:00-14:00外来+ドック説明。16:30-19:30県医師会理事会+県医師会財務委員会。重症患者数名回診対処。20:55帰宅、21:30就寝。最近会議でかなり時間が取られている。
ミカンの美味しい季節になった しわくちゃ蜜柑礼賛
2月3月は私にとってミカンが美味しい時期である。今は柑橘類はデコポンを始め、種類も産地も豊富で年中何時でも食べられる。しかし、最近の果物は概して甘過ぎる。
岩手の片田舎で育ったから、子供の頃から地元産の果物、例えばマルメロ、アンズ等いろいろあった。冬場の果物の代表はやはり柿とリンゴであった。「紅玉」「国光」「ゴールデンデリシャス」等などのリンゴ、もうこれらは殆ど手に入らない品種になったが、リンゴは北国の冷たい雰囲気を身辺に漂わせている果物だと思う。これに秋口からは南の方から運ばれてくるミカンが加わった。
裸電球の灯る、暗く、寒い室内にチョロチョロと赤い炎を見せながら燃える薪ストーヴとコタツ、その側には南の国の暖かい雰囲気を漂わせた静岡産などのミカンが籠に無造作に入れられて置かれている。そう言う環境で育ったが、どちらかと言えば、私はリンゴ派であった。当時は季節感がはっきりしていて11月末頃からミカンが果物屋とかに並べられると、間もなく正月が来ると楽しみに思ったものだ。
秋に手に入るミカンは、青いものもあって新鮮そのもの、実がしっかり詰まっていて実と皮の間に隙間がない、はち切れんばかりである。味は、新鮮な甘酸っぱさ、独特でこれも捨てがたい味ではあるが、私はこの時期は眺めるだけで殆ど手に取るらない。秋口からはずっと途切れることなく食卓の脇の棚に並べられているが、食べることはまずない。
ところが2月頃になると突然蜜柑を食べ始める。この頃の蜜柑は実が水分を失って萎縮し、皮との間に広く隙間が出てくる。だから外見も変形してくるが、何か熟成したものだけが持つ余裕の雰囲気、個性すら感じてしまう。皮を剥きやすいし、このバラエティに富む形も良い。こうなると家族達はあまり食べなくなるから私の独壇場となる。味も酸っぱさや強烈な甘みは消え、マイルドな甘さが残っているだけ。実に良い味である。
数個食べたいと思うとき、一日一回の食事の主食の座をミカンが占拠する。時々だが、こういう事もある。
このしわくちゃミカンを楽しむ頃になると、どんよりとしていた秋田の空が日に日に春の息吹を帯びてくる。私にとっても春の訪れが近いと意識するときでもある。今年はどんな年になるのだろうか、バイクはどれだけ乗れるんだろうか?、テニスは?、少しは時間的余裕が生じないかな?、等と思いを馳せる。
しわくちゃミカン礼賛者の独り言。
2/22(火)曇り 寒波 県医師会打合せ 第11回中通病院倫理委員会
2:00起床。眠い。紹介状x1、退院時総括、決議文検討他。5:20病院着、6:20回診そのほか、入院患者2-3名重症。定期処方箋48枚発行、送付。8:10救急カンファは対象者無し。9:00-13:00外来.13:30ドック説明x2、87歳重症患者救急車搬送、ICU入院、主治医に。A-Bank来訪、15:30県医師会打合せ、16:30仙台より客人来訪、17:30医局カンファ(欠)、18:00-19:50中通病院倫理委員会、6件処理,予定時間ないに無事終了。21:00 ICU 回診後帰宅、21;30就眠。座る間もなかった一日。
たらちね(垂乳根) オッパイはお風呂では浮くか?(2)
このお婆さんは初老の、定年を迎えた長男が月に一回車で病院に送ってくる。一見すると親孝行息子である。待合室のソファでぼそぼそと時々声を交わしながら並んでじっと順番を待っている。はたから見ても良い親子同志である。同胞7人は、みんな仲良く、若くして他界した亡父の節目の法要の時になどには集まって、87歳の母を真ん中に、話題に花が咲くとのこと。「みんな親孝行で良いですね」と言えば、このお婆さん、「そんなこと当たり前だよ、先生。みんなこのオッパイを吸って育ったんだからね」と自信満々、胸を張る。これはすごいことだと思う。私は脱帽するだけ。ただ、どんなに胸を張っても、この婆さん、今は目立つのは肋骨ばかり。
我が家でも盆・正月を中心に子供たち、と言ってもわずか3人だが、集まってくる。各人使える部屋が2階にあるのだが、みんな母親の側で雑魚寝をして1-2泊夜過ごすのが常である。私はいつもの如く脇の食卓テーブルで仕事しながらみんなの寝姿を見る。この3人は、同じ胎内で育ち、同じ家に生まれ、同じ乳を吸い、手で乳房をまさぐった共通の絆なんだな、と思う。 血縁そのものは重要だが、知識であり納得である。だからこそ血縁関係からの離脱はむしろ可能だと言いうる。しかし、離れようと思っても、離れられない絆は、血の濃さではなく、むしろ、乳の濃さ、母の乳、そのものといえる様な気がしてならない。
デンと座している家内の表情は「お前達は、私から離れられますか」といわんばかり自信満々である。それは乳を口にふくませた母親だけの誇りであり、母親だけが味わえる幸福なのだともいえる。そんな家内でも、「今までのなかで最も心残りなのは何か?」と問えば「十分に子供達をかまってやれなかったこと・・」、と答える。子育てなんて、子供の個性を考えれば常に初体験であり、試行錯誤の連続、失敗の連続で、ほとんど満足することのない、深い世界でもあるのだ。
今、親子関係の絆が、揺れ動いている。多くは親の方に問題がありそうだ。おっぱいが取り持つ母子の絆が乏しくなって、子どもと共に育つはずの親自身の成長が乏しくなっているのではないのかな?と思う。今日の明日の食事も満足に手に入らない様な貧しいフィリッピン、モンゴルの子ども達の状況を語った文章を読んだことがある。どんなに貧しくともしっかりしている母親が側にいる限り、子ども達の表情は豊かで明るい、と結ばれていた。
オッパイはお風呂では浮くか?お風呂では垂乳根は実際どうなるのか?この疑問への考察は後に残しておくことにした。
2/21(月)曇り 寒波 管理会議 長副会議
2:00起床、人間ドック、総括、紹介状など各種書類記入処理。5:10病院。回診他、8:00管理会議.9:00-13:30外来+ドック説明X1。15:30職員検診、体重増加ありマズイ!!!そろそろまた減量し始めるか。16:30-21:30 長副会議、中期計画検討のために超長丁場。疲れ果てたね。22:00帰宅。夕食、22:30就寝。
たらちね(垂乳根) オッパイはお風呂では浮くのか?(1)
童謡にオッパイを歌った良い歌がある。あの「まあるい あれよ かあさんの オッパイ ほらね 二つでしょ」というあの歌である。私はとても好きだ。幼子を育てている若い母親の、豊かなお乳のイメージが温かく湧いてくるし、何よりも母を思う幼児の気持の一端がうかがえてとても良い。
やっと目が見え始めてきた乳児が乳を吸い、不器用な手で乳をまさぐりながら母の顔をじっと見詰めて、時にほおえむような表情をする。母も子をじっと見詰める。このシーンは子育ての過程での最も美しい瞬間だ。私は3人の子を育てながらこのシーンを何度も何度も味わったが、子育ての喜びの一瞬でもあった。今は3人とも成人しその頃の面影は全くないが、3人の子達の一人一人のあの瞬間の表情、家内の母としての喜びに表情は今でも時々想い出している。
70年代後半のやせ形の女性。痩せているが、二つのと言うか今は2本の長い、元乳房の肉柱が両胸から垂れ下がる。昔は二つのすごい巨乳だったと思うが、今はもう秋田名物のいぶりガッコの如くシワシワになって動くたびにゆさゆさと揺れ動く。
胸を聴診する際には通常は元乳房の上から聴診器を当てるが、詳細に聴診する際には元乳房を私が左手で片方ずつグッと持ち上げてから聴診器を当てる。業務上だから出来るだけ無機的に、ぞんざいに扱うが、何か申し訳ないような気がする瞬間である。ただごとでないほど申し訳なく思いながら持ち上げるのは私だけなのだろうか?
腹部触診のために患者さんを診察台に横にすると、身体の両側に、元乳房がだらっと垂れ下がる。胸に戻してやってもまた流れるが如くにダラッと垂れ下がる。診察台に乳首が着きそうである。
彼女はこの乳房で7人の子を育てたという。この話になると急に表情が豊かになる。「7人、それぞれ吸い方も違ってね、今も想い出すよ・・」「盛んに育てたときには重くて重くて肩が凝りましたよ・・」。この辺の話になると診察室の中での立場は逆転する。主役は完全に「母の自信、人生の自信」で、私は医師の立場を捨てて黙って母親の喜びを傾聴するだけ。男親なんて「乳を出せない名ばかりのチチ」に過ぎない。その点では悲しいモンだね。
側で聞いている中年の看護師さん達、主任達も何か寂しそうな表情をする。「この忙しいのに、そんなくだらん世間話などして・・」というわけではなさそうなのが救いである。
2/21(日)曇 病棟拘束
2:00リハビリ病院で起床、ドック総括x1、紹介状、など種々。メール対応多数。7:15検食。8:30病院へ、8:45救急カンファ、病棟懸案処理、総括書、紹介状など処理。13:30帰宅、家内は夕べは帰宅しなかったらしい、14:30やっと帰宅。自由人だね。以降も自宅にて人間ドック 、県医師会代議員会決議文、etc の残務消化処理。夕方、若干微睡む。19:30夕食。21:00就寝。終日机上処理に費やす。尻に褥創出来そう。それでもたいしたことは出来ないものだ。とにかく時間不足。
自伝 秋田大学時代(1973-1985) (5) クロラムフェニコールは幼少時から私にとって特別の存在
超虚弱児として育ち、小学校入学後も相変わらずやせ形で、虚弱であった。特に気道系が弱く、小児喘息でいつも咳をしていたし加えて胃腸系も弱かった。正月は子供にとっては楽しい時期であるが、殆ど健常な状態で迎えたという記憶はない。
当時、抗生物質などは数種しかなかった時代で、使用も慎重であったが、私は大抵の場合、最終的にはクロラムフェニコール(クロロマイセチン・三共、通称クロマイ)のお世話になった。何故かいつもこれを服用すると不思議なほど病気が軽快した.私にとっては貴重な、貴重な薬品であった。祖父は対症療法的処方はしてくれたが、クロマイはなかなか処方してくれなかった。最終的には真っ白な懸濁液であるクロロマイセチン注射液のお世話になったことは度々であった。クロマイの筋注は実に痛かったね。忘れられない。
この様なことを繰り返す毎に、私のにとっては茶色の扁平なクロマイ錠剤は魔法の如くのクスリと言うことになるのは当然である。症状がなかなかとれず長引いたとき時には、夜中に診療所に忍び込んで薬棚からくすねてこっそり服用したこともある。虫垂炎をこじらせて盲腸周囲膿瘍を起こした際にもくすねて服用しようと試みたが、どこかに隠されたらしく果たせなかった。今から見ればクロマイを服用して改善する様なレベルではなかったと思うが、祖父にも言えず、ずっとクロマイ、クロマイと唱えつつ右下腹部の激痛に耐えていた。
中学、高校の頃は徐々に体が丈夫になったので、さすがにクロマイのお世話になる事は少なくなっていたが、新潟大学医学部の薬理学、臨床系の授業でクロラムフェニコールの薬理、臨床的価値、副作用等を学ぶことになる。この薬品に対して恩人にも匹敵する様な、尊敬の念に近い気持ちを抱いていた私にとって、学問的アプローチからみたクロラムフェニコールの世界は新鮮であり、大きなインパクトがあった。その頃はペニシリンなどの他の抗生剤が次々と生み出されていたが、クロラムフェニコールの価値は些かも減じてはいなかった。
2/21(土)曇天 病棟拘束 秋田TQM研究会「医療機関の危機管理」 リハビリ当直
2:00起床.ドック他、公的書類処理種々、3:00家内帰宅.徒然、紹介状。5:30病院着、6:30回診・紹介状・総括予稿作成。8;50救急カンファ,9;00-9:30ドック説明x2。10:30-12:00外来。13:00-14:00散髪、ぐっすり寝込んで迷惑かけた。15:30-17:10秋田TQM研究会「医療機関の危機管理」、なかなか良い内容であった。17:30リハビリ当直に。18:05夕食.読書、本日入手の「ドキュメント 日本医師会」若干。20;00就寝。
BOSE QC2修理を機にソニーの「MDR-NC50」購入
BOSEのQuiet Comfort 2は生活空間の騒音を軽減するノイズキャンセルヘッドフォンで昨年連休頃購入した。とても気に入っていて四六時中用いてきたが、ついに故障した。購入直後にヘッドバンドのプラスチック部品の一部が左右とも折れたが機能に変わりはなく自分で修理・補強していた。しかし秋頃からスイッチ部分が不調で、最近異音を発する状況にまでなった。明日BOSE日本本社に送る。
修理は2-3週間かかるというが、この間騒音の中で暮らすのは嫌と代替品を探した。本当はQuietComfort2は何個か購入して、いろんな所に置いても良いほどなのだが、安くないし、同じものにこだわるのはバカだし、発展性もない、もしかしたら安くてもっと良いものがあるかも、と、今回ソニーのノイズキャンセルヘッドフォン「MDR-NC50」を購入した。広告によると密閉型、40mm口径ドライバユニット採用で40〜1,500Hzの低周波帯域の騒音に対してノイズキャンセリング効果をより高めたという。約2万円でBOSEの丁度半額。
デザインは若干は異なるもののコンセプト、キャリングケースなどあまりにもQC2に似ており、「ソニーよこんな事で大丈夫か?ソニーらしいオリジナリティは何処にあるのだ??」と思ったほどである。機能上の大きな違いは、使用中の機能をオフにしてマイクで拾った音を聞くことができるスイッチが付いている事くらいか??
若者向きのデザインがやや不満である。これがソニーらしさか??重さは270gとQC2の1.5倍以上で側圧がやや強めで、最初は少し違和感があったが、私はヘッドフォン自体嫌いでないので慣れればほとんど気にならない。
QC2では電源OFFでは音楽を聴けないが、MDR-NC50はオフでも普通のヘッドフォンとして利用できる。QC2はヘッドフォンとしてのレベルも高く満足しているが、MDR-NC50の基本的な音質はやや期待はずれ。しかし、スイッチオンでは低域がグッと持ち上がるので、MDに4倍速で録ったFM放送の歌謡曲等を聴くには QC2よりはむしろ良い。またオフでは音質がクリアになるのでラジオ深夜便「心の時代」の講演・講話、会議や講演会場で録った記録を聴きなおすにはむしろ良い。
ノイズキャンセル機能の効果はまずOK、QC2とほぼ同じ程度か。病棟とかの空調のファンノイズはまるで聞こえず、低音量で音楽をかけていれば医局の廊下などの話し声さえ、ほとんど気にならない。
飛行機や新幹線などの長距離移動用にはどうだろう。ただ、中年男が室外で使うにはこのデザインがチョット不満。しかし、私にとってはノイズキャンセル効果は何物にも代え難いからこの際我慢するか。丁度この週末、二日続けて東京と大阪出張がある。楽しみである。
製品としてはQC2の方が総合的に優れていると思う。私の影響か否かは不明だが、私の周辺でも5-6人ほどが QC2を購入した。QC2の機能に興味を示す人は多いが 、値段に驚く。今後はソニーの製品も条件付きで勧められる。ソニーの製品ならば1万円以下で買えるのもあるし・・・。
http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20041217/dev097.htm
2/19(金)快晴 医師会打ち合わせ 県健康対策課来訪
2:10起床、人間ドック他、寝不足感。医報校正、紹介状、徒然。5:20病院着、6:15回診、重症患者対応。8:10救急カンファ、9:10整形病棟入院患者家族と面談。書類、10:30-13:00外来。13:30ドック診察x5。15:20医師会打ち合わせ、16:00県健康対策課来訪「県の結核対応方針について」。20:30帰宅、夕食、21:00就寝。
コーヒーカップの取っ手の向き
懇意にしているあるホテルマンの話し。
コーヒーを客に出すときにはカップの取っ手を飲む人の左側に来るようにする、そう言うマナーなのだそうだ。更に、スプーンは手前に、使ったスプーンは奥の方に置くものらしい。私はそれまではそんなマナーや取り決めごとがあることなど全く知らず、初めて聞いたが、これは日本独自のものなのだそうだ。
コーヒーが日本で定着する途中で生まれた作法で、茶道から生まれたものとの説明であった。茶道では、客に茶を出す時、茶碗の正面がお客の方を向くように置き、飲む時に茶碗をぐるりと半回転させる。茶碗を半回転する作法を、そのままコーヒーにも当てはめたらしい。ルーツは帝国ホテルだと言われ、戦後に新設したホテルが次々と右習えして出来た奇習らしい。
最初から取っ手が右にあった方が右利きの人には便利と思うが、考えてみれば飲む前に多くのヒトはミルクとか砂糖を入れ、スプーンで攪拌してから飲むだろうから、左側の方が合理的なのかも知れない。
要するにどうでも良いのだよ、そんなことは。だから、日本で生まれたこんな作法は合理性のない習慣だ。こんなどうでも良いことを今朝30分考えてしまった私も暇だね。
だた一つだけ言いたいことがある。コースでのコーヒーはデミタスで出される。少量のコーヒーは消化を助ける働きがあるといわれているかららしいが、飲む量など私に任せて欲しい。デミなんてケチなこと言わずドンとポットサービスして欲しいよ。
2/17(木)曇ー晴、医局会 入院患者家族面談x2
2:00起床、ドックx1、紹介状、徒然.5:30病院着、6:30回診、不調患者への対応、8:10救急カンファ。9:00-13:30外来、13:30-14:20医局会。入院患者家族面談、不調になった数名の患者対応。久々外での行事なく、書類処理数件、評価機構関連業務進め、机上若干片づく。20:30帰宅、21:00就眠.
44年振り 旧交を温める(3)級友との会話を通じ、懐かしくいろいろ思い出す
中学卒業以来、44年振り。この間会ったことのあるのは数人だけで本当に44年、全く音信もなく、面影も一切見ることはなかった級友達であるが、すぐに全員、迷うことなく中学の時の顔を想い出した。みんな良い表情していた。それぞれの生活の場では、必ずしも今日の日のような円満そうにみえる表情だけではないだろう。が、この場ではみんな同じ気持ちで集まり、考えていること、感じていることもほぼ同じだろうから、みんな良い表情であった。だからこそ、今日、来なかった、来れなかった級友達、それぞれ、今どうしているのだろうか、と、渡された中学時代の記念写真のコピーを眺めながら一瞬思いをはせた。二人の担任の面影、その後はどんな風に過ごされていたのか?等など・・・。
乙部中学校は乙部、大ヶ生、手代森の3つの小学校から集まって、それでもたったの70数名。私は乙部小学校から盛岡の岩手中学校に進学、3年目に一年間だけ戻っただけなので、大ヶ生、手代森小学校出身者とは僅か1年一緒に勉強しただけでしかない。それでも殆ど全員記憶に残っている。2年間学んだ岩手中学の100名ほどの級友、3年間学んだ盛岡一高では400名の同級生ほどの級友がいるはずであるが、その中で想い出せるのは数人でしかない。この違いは何だろうか。時間もゆっり流れていたし、生まれ育った地域そのもの、住民、友人達の豊かな包容力だったのではなかろうか。そのなかで私自身にも心の余裕が随分あった様に思う。
当日、私は初参加であったこともあって、記念写真、宴席でも中央に席が用意され、乾杯の挨拶迄させていただくなど、思いがけない歓待を受けてしまった。有り難く受けさせていただいた。約6時間、大広間、カラオケ会場で、翌朝は朝風呂の中でも語り合った。目に映るのは会場の様子でしかないが、語りながら心はすっかり古い校舎の教室、廊下、グランドにワープしていた。そう言う時間を持てたことがとても懐かしく嬉しい時間であった。年に一回、墓参りのために郷里を訪れるが、そんなときとは全然違う。この6時間でいろいろ想い出した。
私の生い立ちを綴った中で乙部中学時代のことはさらっとしか表現していないが、みんなとの会話を通じて何れ後ほどいろいろと追記せねばなるまい、と思った次第である。
2/16(水)曇 第25回秋田県個人情報保護審査会
2:00起床、ドック総括x1、紹介状、医療評価機構関連、徒然。5:10出勤.積雪2-3cm。6:20回診他、8:10救急カンファ。9:00-13:50外来+ドック診察x2、病棟患者処置数名、患者家族と面談。17:00-19:15県個人情報保護審査会。この会は門外漢だけに私にとって勉強になるが、話題の中心は法的な問題で、主役は弁護士であるからずっと辛い思い。特に今日は県庁の暖房がない部屋での2時間長、厳しかった。病院に戻り残務、21:00帰宅、夕食 21:15就寝。多忙な一日で整形外科からの紹介患者、ついに診れなかった。
天気予報のもう一つの注目点 首都圏の著しい乾燥傾向の持続
天気予報では降雪・降雨情報、気温が主に報じられる。
あまり注目されていないが、湿度情報も結構重要であり無視できない。首都圏では連日、乾燥注意報が発令されている。乾燥注意報は都会の毎冬、頻回に発せられるが、今年の低湿度状態はかなり異常な数値を示し、かつ持続している。
すなわち、都心の最低湿度が1月30日から2月4日までの6日間、連続で10%台を記録しただけでなく、2月1日には12%と一桁台寸前まで下がっている。10%台の低湿度が6日間も連続しのは過去にはなかったと言うことであるから、明らかに異常事態である。
この冬の乾燥は、中国大陸からの水分を含んだ空気が、冬に特徴的な西高東低の気圧配置と偏西風の影響で西から東に流れる際に、日本列島の山岳地帯、裏日本に降雪をもたらして水分を失い、乾燥した状態の空気が東日本に流れることが主たる原因ではあるが、都会の地面がアスファルトに覆われて、乾燥状態でも土の水分が蒸発出来ず、乾燥に輪をかけるためと考えられている。今年の新記録達成の背景には、裏日本の降雪量が異常に多い事も関連しているのだろう。
異常乾燥時に注意したいのは、勿論火災であるが、医師の私の立場からの興味と心配は低湿度化による皮膚や粘膜の乾燥により惹起される健康被害である。皮膚の水分を失いつつある中高年には特に問題であろう。特に気道系の粘膜の乾燥はインフルエンザの罹患率を高める。従って人口の過密化もあって大流行する可能性がある。東京でのインフルエンザの流行はすぐに新幹線、航空網によって地方に運ばれる。
東京の低湿度化、人工的砂漠化(?)は日本全体の健康状態にも影響を与えるのだ。
2/15(火)晴れ 医師会打ち合わせ(欠) 秋田県難病医療連絡協議会 医局カンファ(欠)
2:00起床、ドック他、決議文、講演準備、徒然、5:00-5:30除雪。だんだん積み上げる場所がなくなってきた。今日もドリフト走行楽しみ、5:45病院着.6:20から回診、定期処方箋発行他、QQカンファは書類に追われて欠、9:00-14:00外来。15:00-17:15秋田県難病医療連絡協議会。県医師会打合せと医局カンファは時間的に無理。20:40帰宅、21:20就寝。
44年振り 旧交を温める(2)年と共につのる里心
中学卒業以来、同級会は今まで何度か開催されたようであるが、私にとっては今回は実質的に初参加。40歳代までは人の集うところへの参加は好まず大部分を断ってきた。結婚式の招待など、50回以上はご招待を受けたと思うが、実際に出席したのは数回のみ。大部分はこの5年間の中に集中している。私自身の人の集う事の意味が変わってきている、意味が解ってきたからなのだと思う。心狭い、若気の至りとは言え、大変迷惑をかけ、礼を欠いてきた、と今更ながら思う。
その頃にも同級会の招待、多分あったと思うが、あまり考えることもなく欠席にしてきたと思う。ところが、矢張り年齢と共に考え、人に対して、級友に対して、故郷に対しても感じ方がかわってきた。
実質的には高校卒業した年から、乙部を去ったわけだが、大学の時に住宅を処分し、盛岡の外れに転居した。以降も年に1度は墓参りを欠かしたことはない。最近、故郷に対する親しみの心が徐々に大きくなっていくのを自覚していたが、それでも実際には懐かしい乙部の町並みを、同級生の家の前を車でサッと通過するだけ。バイパスも出来ているが、私はそちらは通らない。40数回は訪れているわけだが、その間、乙部では一度も同級生に会ったこともないし、姿も見たことはなかった。車って言うのは多くのことを捨て去る道具であることがよく解る。
昨年秋、還暦祝いを兼ねての同級会が開催されるとのハガキが届いた。翌日は東京出張が予定されていたので駄目かと思ったが、場所も行き慣れた繋温泉、何度か宿泊したことのある「愛真館」、開催時間も問題もない。しかも、幸運にも30分ほど前に雫石に停車する「こまち」もある。障害になるものは何にもない、迷うことは全くなかった。即座に出席を決め返信のハガキを投函した。結果的に、私のハガキが幹事のもとに第一番に届いた事になる。
級友73人中、33人集まった。会場には私は33番目の到着であった。最高に効率的移動で満足していたのは私だけだったらしい。還暦まで生きられず死去したのは3名、消息不明が7名だとのことであった。
2/14(月)曇り・晴れ 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議
2:15起床、ドック処理x1、各種書類処理.徒然。除雪不要、5:10Taxiにて出勤.6:10回診他、8:00管理会議、各種需要案件処理。9:00-14:00新装なった外来で再来。診察机周辺は狭くなって大型のパソコンは置けなくなったが、なかなか良い雰囲気。月曜にしては超混雑。外来病棟間パソコン交換など。16:30-19:20長副会議、3時間と長丁場。予算他懸案事項など多数。21:00帰宅、夕食、21:30就寝。
44年振り 旧交を温める(1)
2月12日夕方から繋温泉にて、昭和36年乙部中学校卒業生同級会(還暦祝い)なるものが開催され出席した。今まで何度か開催されたようであるが、私にとっては初参加。そうそう、一度数年前に関東地方で開催されたが、この時は仙台での医師会会合の翌日と言うことで仙台のホテルに宿泊、翌朝出発の予定であったが、どんな伝を辿ったか不明だが幹事から連絡があり、その日が同級会の当日であったとの事。平謝りに謝り、物理的にどうしようもないからキャンセルした。原因はどちらにあったか、その時も多忙で特に詮索はしなかったが、今考えると多分私の方だろう。
今回も予定のこまち、10分前まで机に向かって業務に没頭していた。パソコンをシャットダウンする暇などなくスリープ状態のままにして駅に急ぐ。発車1分ほど前に無事すべり込む。
田沢湖を過ぎ、岩手に入ったら突然雪の量が少ない。17:30頃雫石にて下車。途端に頬を刺すような寒気。黒く澄み切った夕刻の空、これだこれだ、これこそ郷里の冬なのだ。タクシーいるか??いなきゃ遅刻だね。居た居た、たった一台。私のためによう居てくれた、と何でも善意に解釈する。定刻5分前に会場に到着。ちょっと後悔するほどタクシーの運転手さんにチップをはずむ。
間髪入れず記念写真、同級会が始まる。私の立場だけを考えると実に効率的時間配分。
聞くところによると、出席のハガキで第一番目に着いたのは私のだったという。にもかかわらず最も遅く会場に着いたのも私だとのこと。その間、幹事達は私の性格を知ってか、自宅に電話を入れて出かけたか否か確認して、それでも前歴があるから無事着くかヤキモキしていたらしい。受付では幹事の女性達が、満面の笑みを浮かべて迎えてくれたが、さぞやホッとしたことだろう、心配をおかけして申し訳なかった、と反省。
2/13(日)盛岡・東京快晴、秋田寒波降雪多少、日本医師会医療政策セミナー
5:00繋温泉ホテル愛真館にて起床、級友3名は熟睡中、朝風呂楽しみ、ロビーにて新聞などでのんびり過ごし、冷えたら風呂と何度か繰り返す。7:00コーヒーとレタスの葉っぱだけの朝食を摂る。広い会場には数人だけで快適、再度風呂。8:15級友の何人かと挨拶を交わし、シャトルバスにて盛岡駅に。大型バスに私一人だけ、これまた快適。9:38新幹線「はやて」にて東京、混雑。13:00-16:10駒込日本医師会館にて医療政策セミナー「国民皆保険下における医療供給体制のあり方」に出席、進行が遅れ、中座して帰路に。東京駅で家内と合流、長女が見送ってくれた。16:56こまち、混雑。21:00秋田着、21:30自宅で夕食、22:00就寝。
自伝 秋田大学時代(1973-1985) (4)
薬剤因性再生不良性貧血についての研究を命じられた
赴任2-3週間後、助教授から厚生省特定疾患特発性造血障害調査研究班の「再生不良性貧」の仕事を命じられた。当時助教授はこの研究班の委員の一人であったからである。その中で、特に当時再生不良性貧血の起因薬剤の代表的なものの一つとされてきた抗生物質の「クロラムフェニコールの造血臓器に対する影響」について検討を始めるようにとの指示であった。
再生不良性貧血は赤血球のみでなく白血球および血小板も減少する治療困難な疾患である。原因不明の病型と,医薬品や化学物質,放射線,肝炎ウイルス等による続発性の病型がある.医薬品の中には投与量の多寡にかかわらず特定の個体に再生不良性貧血の発症を来すさまざまな製品があるが、中でもクロラムフェニコールはこの研究班の疫学調査では、昭和40年代には薬剤起因性再生不良性貧血の半数近くを占めていたことが明らかにされる。昭和50年代にはクロラムフェニコールと再生不良性貧血発症の因果関係、疾患発生のメカニズムが必ずしも明らかではなかったが、欧米での疫学的研究による因果関係が証明され、適応が厳しく規制された。以後は,急速に報告症例が減少し,昭和60年代に入ると副作用モニター報告には全く現われなくなり現在に至っている。
ちょうど、その重要な時期に私もこの研究の一翼を担ったことになる。私がやった研究など今から見てもそれほど価値ある科学的知見をもたらしたというわけではなかろう。雄物川にスポイトで数的水を足したようなものであろうが、この重要な時期にクロラムフェニコールと再生不良性貧血発症の因果関係についての研究を通じて関わることが出来たことには今でも些かの喜びを感じている。
それは、私自身が幼少の時にクロラムフェニコールの恩恵を多いに受けて育った、と言う特別な感慨、背景もあったからである。
2/12(土)曇降雪 繋晴れ 医師面談 乙部中学同級会(繋温泉)
2:00起床。ドック処理x1、医療評価機構入力作業、徒然。5:20病院着、6:20回診、出張時申し送り他の手続き。10:30-12:20外来。12:30眼科入局予定医師と面談。残務。15:40病院発、15:55こまちギリギリ乗車、雫石下車。17:40繋温泉同級会会場「愛真館」着、17:50記念写真、18:00-21:00同級会、21:00-23:30同ホテルカラオケ会場にて二次会。その後も部屋で懇親続くも中座、0:30就眠。
今年は雪が多いぞ 早朝、除雪とドリフト走行を楽しむ
12月下旬迄は暖冬で殆ど雪がなかった。もしかして今期は除雪に関しては楽できるかな?と淡い期待を持っていたが現実的には裏をかかれた感じ。1月に入ってから降ること降ること、それに寒波もじっくりと一週間単位で居座っている。今年は例年に比べて集中的に雪が多い。
私の出勤時間は概して早く、大学では6:30ころ。現在の病院に勤務して最初は6:30-7:00頃、それが時間と共に早くなり、ここ10年ほどは6:00前であった。同じ専門分野であった後輩医師が退職してから、一時4:00代に出勤しなければ一日の業務が終わらない時期を経て、現在は5:00頃に落ち着いている。
問題は降雪期である。従来は朝6:00になるのを待ってから除雪機のエンジンをまわし、約30分かけてザッと除雪していたが、ここ数年は隣近所の迷惑をそっちのけに5:00から除雪している。この季節殆どまだ床の中にいる時間帯、さぞや煩かろうと思い、心では「済みませんね」と思いつつ結局やってしまう。除雪機は車が通ったアトは雪が固められて駄目だからこの時間が一番。30分も駆けると実にきれいに仕上がる。一人悦に入って、さあ出勤。自分がきれいに積み上げた路地を最初に通過するのは何とも言えない良い気分である。ただし出勤時間が遅れることはイヤだ。さりとて、まさか4:30頃からは出来ないよね。
早朝の出勤時、未だ道路に車は少ない。この状態で新雪が積もると実に気分が良い。路地は駄目だが、竿灯通りを中心に、周囲に車の光が見えないときには複数の車線をつかってドリフトさせて走ってみる。なかなか楽しい走りである。カーブなど典型的なアウト・イン・アウト走行。私の年代物のレガシー、ポンコツでボディの凹みも多数あるが、流石にバランスの良い四駆、この季節は良く走る。夏などには経験できないスリリングな走り。ここ何週間か、実に楽しい。
何でこんなに気分良く滑るんだ?? そう言えば、一昨年の秋以来タイヤ交換するの忘れていた。通年使い古しのスタッドレスだもの、滑るはずだよね。
2/11(金)建国記念日 寒波・降雪 病棟拘束、療養病棟医療評価機構最終チェック
2:30起床、ドックx1。医療評価機構関連、医師会決議文検討開始。徒然など、比較的ゆっくり対応。積雪7-8cmで8:10-9:00除雪。10:00病院に.11:00-15:00師長・主任と共に評価機構事務局にて第4、第8領域のQAと資料の最終チェック。主任からの東京土産「さくらのロールケーキ」、春の息吹が舌の上に広がって上手かったね。桜の花の塩漬けは激烈に塩辛かった。入院患者若干名不調、インフルエンザ本日だけで病棟で3人診断、対応す。20:00帰宅、夕食、21:00頃就寝。
インフルエンザ、遅ればせながら、急速に蔓延しつつある
今年は例年になくインフルエンザが発生していなかった。ここ10年間の流行の推移を再検討してみると実に特異な年であり、似たような経過を辿ったのは平成12年のみである。その年は今年よりも未だ遅れていた。それが、ここ数日私の身辺でもインフルエンザが発症し始めてきた。
私は県医師会感染症担当なので、いつもであれば求められて年末までに新聞、TVに数回登場し「インフルエンザ流行への対策」「罹ったらしいときの受診や治療の受け方」「予防策をどうすればいいのか」「流行はいつまで続きそうなのか?」「治療薬タミフルは間に合うのか?」などついて解説してきた。
今期は1月末から3度ほどインタビューを受けたが、求められた解説の話題は「何故流行してこないのか」「今後の見込みはどうなるのか・・」の2点であった。私はその理由として、「12月末までに異常なほどの暖冬であった」「寒気が来ると共に学校が冬休みに入った」「ワクチンの接種率が上がってきた」「寒くなり学校も始まったのでこれから流行するだろうが小流行で済むだろう」・・・とあげているが、今までとは内容が全く異なっている。
今年の流行株はいつもと異なりA香港型>B型>Aソ連型であるが、その間の差は少なく殆ど3っつの型が同時蔓延という、これも特異な様相を示している。ここまで見た限りでは今年の流行が実際どうなるかわからないが、間もなく3月であると言うことが救いである。しかし、通常でもB型はA型が消退し始めた頃にもじわっと残る傾向を持っているために今年のようにB型が最初から優位だとどうなることになるか、実際の所不明である。更に、A型には比較的効果の強いタミフルはB型にはやや効果が弱いとされるだけに、特に高齢者が罹患した場合に若干心配である。
2/10(木)再び寒波、降雪
2:30起床、ドックx1.医療評価関連、徒然など、5:25Taxi病院着。6:30回診他。8:10救急カンファ、9:00-14:10外来ほか。途中、正午過ぎ97歳女性患者死去、天寿の様相で家族の受け入れも含め、良い最期であった。病棟入院患者家族と面談、関連書類、医療評価関連書類処理。20:50帰宅、夕食。21:30就眠.外部の委員会等はなかったが、時間に追われた一日。
許せない私的医療機関軽視政策(2) 秋田県の医学生奨学金制度新設は朗報だが
秋田県の医療は公私の医療機関が渾然一体となって、互いに協力しあって地域医療を担ってきていると思う。通常は公私の別など意識することはそれほど無いが、国や県の政策が発表される毎に私的医療機関の立場からはカチンと頭に来るのは私だけでは無かろう、多分。今回の奨学生の問題でも同様である。
この際、公的医療機関とは何ぞや??と、その使命をまとめてみる。
公的医療機関は医療法第31条で定義されている。「公的医療機関とは、都道府県、市町村その他厚生大臣の定める者の開設する病院又は診療所をいう。」と定められている。更に「厚生大臣の定める・・」については省告示で、日赤、済生会、厚生連、などを示す、とされている。従って公的医療機関とは、国(国立、国立大学、労災、逓信、自衛隊等)・自治体立病院・日赤・済生会・厚生連・社会保険・厚生年金・共済組合の病院等が該当する。要するに秋田県では一部の例外を除き大中規模の病院の殆どが公的医療機関と言うこと。
公的医療機関の使命について、厚生省医務局は
(1)医療、保健、予防、医療関係者の養成、へき地医療等、一般の医療機関に期待することのできない業務を積極的に行い、これらを一体的に運営することが期待できる
(2)適正な医療の実行が期待され得るとともに医療費負担の軽減を期待し得る
(3)その経営が経済的変動によって直接に左右されないような財政的基盤を有すること
(4)医療保障制度と緊密に連携協力し得ること、としている。
さらに、公的な医療機関に対しては「国庫は医療の普及をはかるため必要があると認めるときは、開設する公的医療機関についてその設置に要する費用の一部を補助することができる(中略)」と、国庫の補助についても定めている。
要するに、民間の医療機関が行なうことが困難で、かつ不採算部門などの医療を公的医療機関が担うために国庫補助の他、地方自治体や保険財政などから公的資金が投入されている、と言うこと。
(1)〜(4)にについて県内の医療事情を見たとき、その果たしている使命は各医療機関毎に異なっていて当然であるが、充分に使命を果たしている医療機関は少なく、言い過ぎを許していただければ、共通に見られるのは(3)だけである。一方、私的医療機関は(3)以外の部分で大奮闘して地域の医療を支えているのだ。このことの認識を県ではどう考えているのだろうか?疑問である。
2/9(水)晴れ 温暖後降雪 県医師会常任理事会+秋田大学医学部との話し合い
2:00起床。ドックx1、徒然、医療評価関連など.5:15病院着、6:20回診、救急カンファ欠、9:00-14:10外来+検査。病棟処置。16:30-18:00県医師会常任理事会。決議決定、県の医学生奨学金について話題提起。18:00-19:30秋田大学医学部との話し合い、9:30-21:00情報交換懇親会、21:15帰宅、某病院医師から電話による私へのクレーム約1時間。22:20就寝。
許せない私的医療機関軽視政策(1) 秋田県の医学生奨学金制度新設は朗報だが・・
昨日の秋田魁新聞に秋田県予算案関連の記事が掲載されていた。
秋田県の医師充足、定着率向上のために平成18年度から10名の学生に月額15万円の奨学金貸与を開始するという。6年間で一人約1000万円の貸与額である。これは医師の偏在のために県北・県南地方の医師が大幅に不足している秋田県にとって県が行う施策として決して悪いことではない。自治体の奨学金を利用して医師になった私の立場から言えば、やっと秋田でも・・・と言う感じである。とても良いことだ。
しかし、卒後9年間「県内の公的医療機関(自治体病院、JA秋田厚生連病院、秋田赤十字病院など)に勤務すれば返還を免除」する、とある点は最大の問題点であり、私は私的医療機関の医師、管理者の一人としての立場から絶対に容認・看過できない。
9年間勤務すれば返還を免除、これもそう問題でない。この約束に反した場合には10%の利息を含めてそっくり返還という、些かペナルティ部分が目立つちゃちな条件も問題はそう大きくはないだろう。ただ、これだけの高額の奨学金になると奨学金を得た医師の収入はそうでない医師の給与より実質的に多いという不公平が生じるが、9年間も秋田県に拘束されるのだからやむを得ない、とマイルドに考えよう。
問題は、県内の上記の公的医療機関に勤務した場合に返還を免除する、というくだりである。この際、「など」の部分が重要であり、具体的に何を示しているのか知りたいものであるが、常識的に見て私的医療機関のことを指してないことはほぼ明らかである。
何で、私的病院勤務の場合はその対象にならないのか!!! 多いに疑問である。奨学金の目的が医師の秋田県への定着率を上げる事にあるのなら、私的医療機関に勤務するか、診療所に勤務するか、等は問題でなかろう。
尤も、私どもが入手できた情報は新聞記事だけであり、深く論じるのには情報不足である。近々私は県の医務薬事課に問い合わせ、必要ならば抗議したいと考えている。
2/8(火)晴・温暖 感染症評価委員会、県医師会打合せ、MC 来客数名
2:00起床、ドックx1名分。総括2名分、徒然他. 5:30病院着。 6:30回診他、定期処方箋50数枚発行。救急カンファは欠。9:00-13:30外来、混雑せず。13:30来客、打合せ、14:00県衛研にて感染症評価委員会。話題の中心はノロとインフルエンザ。県医師会打合せ。16:30来客。17:30医局カンファは欠。20:30帰宅、21:00就寝。
無知で自ら放棄した権利ある 自分のバカさ加減に呆れる(2)
不注意で失効させ、自分のバカさ加減を再確認したチケットの他、手続きをせかされるあまり、面倒くさくなって折角の権利を放棄したのも少なくはない。これも私のバカさ加減の為せる業。
最近の出来事では、一昨年のアキレス腱切断・手術に関する保険金の放棄がある。県医師会事務局からアキレス腱切断・手術に関して団体で加入している保険から傷病時の特約でお金が下りるとのこと。知識もなく期待もしていなかったから思いがけない朗報と喜んだが、調べてみると基本的には「一泊以上の入院」が必要だとのことがわかった。この場合にはある程度の額が下りるらしいが。小手術に於いては入院なしの外来手術が普及してきている現在、何と旧態依然な保険だこと、と驚いた。
ならば、入院もせず、業務にも穴を開けなかった私に全く支給がないかというとそうではなく、「ギプスを巻いていた期間」に対して少額ながら支給があるとのこと。医師会事務局で途中まで手続きを勧めてくれ、保険会社から私が記載すべき簡単な書類が送られてきた。この書類に診断書を添えて出すだけであった。診断書は取り寄せたが、多忙で記載すべき書類を見る暇もなく、机上に放置しておいた。保険会社でも手続きがスムーズに進まないので困ったらしく、何度も早めに手続きするよう電話も来たし、医師会の担当者からもせかされた。それでも自分のことなどを考える余裕がなく、親身に(?)なって考えてくれる担当者にこれ以上迷惑をかけては申し訳ないと、請求を放棄する連絡をした。
昨年暮れ、書類を整理していたらこの書類が出てきたが、じっくり見ると名前を書いて印鑑を押すだけの、いつでも返送できるような簡単なものであった。それに,手続き期間はまだまだ残っていた。支給は約20万円だったとのこと。年末には家族一同に責められてしまった。
簡単に権利を放棄した自分のバカさ加減、無知さ加減にもほとほと呆れるが、今は失効したチケットと同様「アハハ・・・」と空しく笑うしか解決法はない。ホントは忙し過ぎ、心にも、時間的にも余裕がないがその本当の理由なのだ!!!!、と空に向かって愚痴りたい。
聞いてみると、医療費も法人の共済に手続きすると返還支給されるらしいが、そんなことも知らず、20数年間一度も請求したこともない。
2/7(月)曇り-寒波緩む 管理会議 療養病棟入棟判定会議 長副会議
1:30起床、ドック総括x1。紹介状返事、総括、徒然。5:30病院着。回診他、8:00管理会議、9:00-14:00外来+ドック説明、混雑。14:00入院患者骨髄検査など。家族と面会指導。16:00-16:30療養病棟入棟判定会議、16:30-18:30長副会議。20:30帰宅、夕食、21:00就寝。
失効のチケット続出 自分のバカさ加減に呆れる
昨年10月、台風のために名古屋行きが中止になり、こまち秋田東京間の往復チケット二人分、は払い戻しでなく、使用時に座席指定を受ければ利用できるような状態にして置いた。その様な方法があるのは初めて知ったが、降雪期の東京出張は大抵JRにしているので十分利用できるとの目算で現金化するより便利だろうと考え、その様にした。先週までの数回の東京往復は通常に乗車券を購入した。今週土日の出張時にはこのチケットを利用しよう、と昨日と机から出してみて仰天、有効期限2005/1/15迄、とのこと。またやってしまった!!! とガックリ来た。矢張り、52000円分パーは痛い。バカだね。
昨年4月、ANAのマイレージバンクなるもの、これを失効させた。2月頃そろそろ有効期限が来ますと連絡を受けたが、ちょうど多忙な時期であったのでその内に手続きしようと机の引き出しに入れといたが、何かの機会に再度気付いたときにはもう締め切りを一月ほど過ぎていた。今は出張の時間帯からJALへの搭乗の方が圧倒的に多いが、前は殆どがANAであったし、ヨーロッパ往復もANAだったからかなりのポイントであった。約40000円分の恩典をパーにした。バカだね。
昨年8月にはN響秋田公演をパーにした。ホンの1時間ほど前まで行く予定だったのに業務処理に集中、失念した。数年前にはオペラ「椿姫」、チケット出してみたら一月以上も前に終わっていた・・・。等など、実はまだまだある。気恥ずかしくて書く気にならないものもある。
自分のバカさ加減、無知さ加減にもほとほと呆れる。最終的には「アハハ・・・」と空しく笑うしか解決法はない。スケジュール表への入力を忘れたのが第二の原因。ホントは忙し過ぎ、心にも、時間的にも余裕がないが第一の理由なのだ!!!!、と空に向かって愚痴りたい。
2/6(日)曇、降雪若干 寒波ややゆるむ 病棟拘束
2:00起床、やや眠い。ドックx1、退院総括・紹介状、医報校正、徒然など。久々家内と朝食軽く摂り、カゼで不調の家内病院に送り10:30病院に。総括他の病棟関連他の残務処理。回診、評価機構関連業務等淡々と進める。20:00帰宅。20:30就寝。
自伝 秋田大学時代(1973-1985) (3)
秋田大学第一内科教室に入局3
国立大学に戦後に初めて医学部が新設されたのは秋田大学が初めてである。昭和45年1月に医学部新設が閣議決定され、この年から学生募集をすることになった。それに伴い、当時全国的にも有数の規模を有していた秋田県立中央病院(803床)は昭和46年4月に秋田大学医学部附属病院として接収され、病床規模は大学規格の600床規模に縮小された。県の施設を国立の施設として移管することは行政上でも異例のことであったらしいが、背景には秋田市周辺地区の病床過剰問題があり、新たに600床規模の大学附属病院が秋田市に新設されることは医療供給体制の面から医師会他のコンセンサスが得られなかったという事情もあったらしい。当時の医療供給に関する審議会は将来的にも県立の総合病院は作らないと言う答申を出している(上記の歴史は一部秋田県医師会誌を参照した)。
私が赴任した当時の病院は千秋公園の東側、道路を隔てた場所にあり、病院は大規模であったが老朽化し、敷地は狭く、連日駐車には苦労したものだ。早めに出勤して駐車スペースの奥に入れると途中では出られず、遅めに出勤すると駐車も出来ない状況であった。当時の第一内科の医局は正面玄関の2階にあり、教授を中心とした消化器グループと助教授を中心とした血液グループの助手以下のメンバーが10数名、一つの部屋にひしめいていた。
私は正式な職種名は忘れたが非常勤のスタッフであった。当時でも既に無給と言うことではなく、月額4万円ほどの給与を戴いた。初回の給与を戴いたときに、先月までの給与に比較して、何と約1/10程度。予想はしていたがあまりの額の少なさにガックリ来て机の上に放り出し、そのまま2-3日放置したままにして周囲の顰蹙を買ったものである。このために週一回当時の秋田鉄道病院の外来を手伝い、月に一回は近郊の病院の日直や当直をして収入の補助とした。
2/5(土)曇、降雪 比較的温暖? 病棟拘束 県医師会勤務医委員会研修会
2:00起床、家内ICU当直で不在。発熱していたが大丈夫か。ドック処理x1、退院総括、紹介状返事など。5:15Taxi病院着.6:15回診など。8:15ドック診察x5。9:00ドック説明2名。10:30-13:00外来。回診、病院機能評価関連等院内業務、一部医師会業務進める。15:30-17:50県医師会勤務医委員会研修会「医療機関にとっての危機管理--医療トラブルの予防策と発生時の対応-」、講師は田中正博氏で、私はこれで3回目の聴講。聴く度に目から鱗である。19:50帰宅、夕食、21:00就寝。
還暦とは何ぞや?? 社会人としての引退の年だ、とのこと
今日の午後、ちょっとボヤッと気が抜けた時に、今年私は還暦だが、還暦とは一体何ぞや?、実際には何も知らないな、と思い、医局にある簡単な国語辞典を引いてみた。「60年で再び生まれた年の干支にかえるところから、数え年61歳のこと。また、その祝い。」とのこと。これだけではよく解らん。
帰宅してからブリタニカ百科辞典を引く。「年祝いの一つ。本卦がえりとも言う。満60歳の誕生日を祝う長寿の賀。十干十二支による、生まれの干支に戻ることが由来。(一部略)古くから60歳を社会人としての生活からの引退を意味した。お祝いに赤い袖無しの羽織、赤い頭巾などが贈られるが、本卦がえりの意から、生まれ変わりを意味するもの」とある。
昔からの言い伝えなのだろう、当時は高齢者は随分少なくてそれなりに価値があったのであろうが、それでも還暦に達した人達を引退の年ととらえていたと言うことになる。
若い人に道を譲る、たいした視点と思うが、ちょっと待てよ、昔の60歳はどういう状態だったのか?と考えると、昔の60歳はほぼ今の80歳程度に相当する、かなりの老人だったと推定される。だから、今と同じ感覚でとらえてはならないのだ。私が観察できた身近な老人というと自分の祖父母のことであるが、思い起こしてみると、一代毎に身体の状況は随分異なっていると思う。父の頃は公務員の定年は55歳だったが、体力的に、精神的にもそこまで耐えられなかったと言って定年3年ほど前に退職した。私の今の状況からは到底考えられないほどの老齢状況であった。
ついでに還暦以降のことも調べてみた。下寿(60)古稀(70)喜寿(77)中寿(80)半寿(81)米寿(88)卒寿(90)白寿(99)上寿(100)茶寿(108)完寿(162)とある。このうち喜寿・半寿・米寿・卒寿・白寿・茶寿は何れも漢字の旁から由来しているのが面白い。
日曜朝の雑学のひととき。
2/4(金)秋田寒波降雪 東京快晴 日医感染症危機管理担当理事連絡協議会
2:00起床、ドック判定総括x1、退院総括、紹介状返事。5:20病院.回診、出張準備など。9:00こまちにて東京へ、14:00日医「感染症等危機管理担当理事連絡協議会」、16:00終了予定も進行が遅れたため中座、16:56こまちにて帰秋に。20:56秋田、21:20帰宅、夕食、22:00就寝。家内はICU当直。
輸血をする側が感謝の気持をもつことが基本 秋田県献血事業推進委員会にて(2)
秋田県献血事業推進委員会で私は何期目かの委員長に選ばれた。委員長としての就任の挨拶が求められる。以下はその概略。
秋田県の献血は危機的状況にあるが、その事情は県民等に十分浸透しているとは言えない。それ以上に、輸血をする立場にある医療関係者にさえその状況は十分知られていない。あまりにも必要な血液の供給がスムーズになされる今日、血液製剤が入手できなくて困惑することは殆ど無い、その結果、通常の医薬品とほぼ同じような感覚にさえ陥っているように思えてならない。このことは、医療倫理においても、輸血療法においても、献血の立場から見ても重大が欠陥となって行くだろう。
私が医師になった頃、あるいは大学で血液疾患の勉強していた頃の血液供給事情は大変なものであって、患者の家族、友人達を中心に主治医自らが供血者集めをしなければならなかったし、時には、枕元輸血と称して検査、採血、採決後処理、交叉試験まで自分たちでやっていたこともある。患者家族にとっての経済的、心理的負担は大変であったし、医療者側の負担も大変であった。
最近の供給事情はとても素晴らしいと思う。しかし、その影には県を超えたセンター間の血液製剤の融通や、特殊な型の場合などには県外のドナーにさえお願いして供給していると言う、血液センターの努力の結果である。このことは医療者側にも、もっと知って欲しい事情である。
私はこの秋から最近にかけて一日に100単位以上治療に用いなければならない患者を担当した、その後も約一週間にわたって数100単位に及ぶ血液製剤を用いて治療をした。私の治療計画は、これでも出来るだけ輸血量を少なくする配慮をしながら立てたもので、患者の病状が安定するまでの数日間は供給が途絶える危惧、不安を感じながら治療していた。結果的には、一度も入手で困ったことはなく、血液供給がままならなかった時代を知っているだけに驚異でもあった。県民の善意やセンターの方々の努力には頭が下がるし、医療者側の一人として感謝、感謝である。
私は、病状が落ち着いた時点で輸血を受けた患者、家族に対して私の考えを淡々と語りかけるのを常としている。この際、県民の善意に対して感謝しなさい、とかは決して言わない。語る私が十二分に感謝している、そのことを伝える、それだけで十分と思っている。
2/3(木)曇り、寒波ややゆるむ 秋田朝日放送来訪収録
2:10起床。ドックx1、5:30病院.6:10回診ほか。9:00-13:30外来、14:00入院患者家族と面談。朝日放送のインフルエンザに関連した収録。書類と格闘。医療評価機構関連では最重要課題であった医師の治療指示簿問題が進展しそうであるが、ハード面で2.3の新しい問題点が発生した。20:30帰宅、夕食21:00就寝。
献血関連委員会の縮小を憂える 秋田県献血事業推進委員会にて(1)
秋田県献血事業推進委員会が一昨日午後開催された。私は4期ほどこの会の委員で委員長も務めてきた。県の関連部署の大幅な改組があるとのことで、今期のこの委員会の委員は18名から12名と縮小されていた。献血をしてくださる側、例えば商工会議所などの代表のポストが5-6名分無くなっている。
県の改組の方針とかの説明を聞く限り、それなりの論理性はある様である。しかし、表向きには出てこないが、背景には県の財政の縮小に伴う改組である事はどうしても否定できない。
私はその説明を聞いた後、以下の如くの趣旨で意見を述べた。
秋田県の献血の状況は危機的とも言えるほどの状況である。夏期冬季には他県よりその供給を受けて何とか凌いでいる。その原因として、人口減少、高齢化、景気低迷による企業の姿勢の変化・・等、枚挙に暇がない。だからこそ、献血事業の推進のためには一層の努力が求められる重要な時期である。
献血事業そのものの推進は国の事業を受けての県の責務であり、適正に使用するのは医師の責務である。しかしながら、献血そのものは県民のボランティア精神で成り立っている以上、献血事業を如何に推進するかを検討するこの会に、県の関連者や医師会関連者だけが集まって如何に事業内容を検討し、方針を立ててもそれは片手落ちである。献血をしてくださる方方の代表がこの委員会に参加していたことはそれなりの意義はあったと思うので大変遺憾に思う。
県の方でも血液事業推進の重大性は認識した上での改組・縮小の方向を採った以上、事業計画の立案、実行の面では従来以上の熱意、計画性、実行性をもっているものと考えられるで、今日の委員会ではその内容をじっくりお聞きしたい。
その後、今期も互選により私が委員長に選出された。任期は通常は2年であるが、今期は改組があるので議会で改組が決まるまで、と考えられる。
2/2(水)寒波 降雪 曇り 入院患者家族面談
2:00起床。人間ドックx1、退院患者総括、徒然。5:00除雪.5:40病院着、6:10回診他。8:10救急カンファ、検討課題無し。9:00-13:00外来。14:10回診+患者処置数件、入院重症患者家族と面談。20:20帰宅、21:30就寝。
ヒトは自ら作り出した便利な道具の奴隷になり、想像力・創造力・自分自身を失いつつある(2)
私なんかも文明・文化の中にずっぽりと浸かっているわけだが、やっぱり主役の位置は下りていないと思っているし、機械や道具の召使いにはなりたくない。パソコンは鉛筆や定規の代わりとして使っているだけで、それ以下でも以上でもない。
文房具だっていろいろのがあると便利だし、長年使って手に馴染んでいるのが最高だ、と言うのと同じ発想で、パソコンは全部旧式ながら今8台が現役で私の筆記用具、文房具として働いてくれている。何で新式のパソコンを使わないのか??と時に聞かれるが、別にパソコンが独りでに仕事をしてくれる訳ではない。通信まで出来るのだから鉛筆のレベルは超えているのだが、所詮道具だよ、常に主役は自分との立場は崩したことはない。自分のレベルにあっているからこれで良いのだ。
私がパソコンの奴隷となる時、それはマックがフリーズした時。医局のメインの機種は時々フリーズするが、この時だけは「コンピューター様・・」と祈る気持で立ち上げる。システムクラッシュ、最近は少なくなったがかつてはしょっちゅうで、ハードディスクのクリーニングから始まり、もとの状態に戻すまで数日間は奴隷に化さざるを得なかった。
想像力・創造力・自分自身を養ってくれるのは人工的産物ではなく、自然そのものだと思う。コンピューターやTVなどの情報機器は目的を持って求めて使う分には素晴らしいが、そうでなければ何も教えてくれない。一方、月や、空や、雲や、花や、鳥が・・・飼い猫までも、多くのことを教えてくれる。
今、子育ての世代の方々には是非、子供達を外に連れ出して欲しいと言うこと、多くの人達、広い世代の人達に接する機会を作って欲しいと言うこと。そのための手段としてヒトが作り出した便利な道具を使って欲しい。
2/1(火)曇り-降雪若干 寒波 秋田県血液事業推進委員会 県医師会打合せ 医局会
2:00起床、人間ドック1名分、複雑で手間どる。入院時資料用意+退院総括若干、徒然日記記載送付。5:30病院着,まだ寒波厳しい。6:10回診、重症3名ほど、カルテ記載、紹介状。8:10救急カンファは欠。9:00-13:00外来。病棟対応、14:00-16:00秋田県血液事業推進委員会。組織改編のために今回が最後らしい。16:30県医師会へ打合せに。17:30-19:45医局会。懸案事項多数。評価機構関連も。20:50帰宅。21:30就眠。
ヒトは自ら作り出した便利な道具の奴隷になり、想像力・創造力・自分自身を失いつつある(1)
年末の忘年会のビンゴゲーム、最近はコンピューター仕掛けの派手なディスプレイが提示する番号でゲームが進められる機会が増えてきたが、私は全然面白くもない。バカにされている気がしてならない。手動のカラカラと回すのが人間味があって良い。
最近あまり見かけないが、「コンピューター診断」とか「コンピューター星占い」等も盛んに新聞や雑誌の広告塔の見出しを飾ったことがある。現状のコンピューターはヒトのやることを単に能率良く、かつ、単純に代行しているに過ぎず、ヒトを超えることを何もやっていない。
滑稽だったのは、書店で会計間違いを指摘したときのこと「ウチではコンピューターで計算しています、判断しています・・」と言うバカな言い訳。入力時点で間違っている、と指摘したつもりが、全然通じていない。
先進的コンピューターはある程度自己判断するレベルのものが出てきているらしい。本当かな??と私はにわかには信じがたい。インプットした以上のことを自己判断して創造するとしたら、大変である。
子供達は、いや30-40歳代の若者達もコンピューターゲームに興じているが、ハタから見ていると思考・判断は多少働かせているようだが、創造力・自分自身は殆ど失っている。これじゃまるで奴隷じゃないか?奴隷と言ってもコンピューターの奴隷でなく、ディスプレイと開発者の奴隷と言うべき状態で、今のところは滑稽と言うしかないレベル、の範囲である。当の本人達にその自覚がないのが悲しい。これが本当に自己判断する様なコンピューターが出て来るとすれば、更に更に大変なことになるだろう。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |