日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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8/31(日)雨のち晴 テニス部合宿二日目 FF tennis(中止) 来客
2:30起床、ドック判定総括x1. 4:00Vn若干.この頃から比較的激しく降雨。テニス部合宿二日目、岩城町のテニスコートは水はけは良いと言うが大丈夫か、と心配する。梅林園に出発予定時間にも若干雨、中止としたので若干時間に余裕。懸案だったふかし鍋,ゆきひらの取っ手の修理、熱帯魚水交換用のポンプ、懐中電灯等の修理に没頭できた。
Vn練習も何度か楽しめた。16:15-19:30病院で業務、19:45-21:30来客あり、22:00就眠。
自伝 大学時代(1965〜71)(7)
オケ、授業、寮生活、読書、
寮生活にも慣れ、オケに入部し楽器も購入、授業の年間計画もたって私の生活は次第に落ち着きを取り戻し,極めて単調に経過し始めた。当初は自分にとって超高額な楽器を購入したこともあって、最初の数ヶ月は授業のない時間帯は殆ど池原記念館の中にあるオケの部室にこもり楽器の練習に没頭した。あまり真面目に練習に行くので変人扱いされたこともある。そのために2-3数ヶ月後には簡単な曲を弾けるようになり、指導してくれたコンマスも次の演奏会のでベートーヴェンのVn協奏曲を独奏するための準備で多忙になったこともあり、私への指導は終り、その後は全て独習となった。
今しばらくは楽器中心の生活は続けていたが、学生の本分は疎かにすることはなく,講義には殆ど皆勤に近い状態で出席した。要するに真面目と言うこと以外に合理性からの出席である。講義にでている方が試験とか,レポートとか,何をするにも最短時間で準備出来,能率的だからである。そのため私の講義ノートは寮生の中では人気が高く,常に引っ張りだこであった。当時はコピー機はあったが開発途上であり,学生には高嶺の花で,友人達が写しやすいように配慮しつつノートをとっていた。
コピーと言えば,上記の状態で湿式コピーで一枚コピーすると陰陽の紙が2枚出てくる
仕組みで,乾燥させる必要もあり,色もセピア調でコントラストも悪く,今のような簡便なものではなかったし,第一学生の手には負えないほど値段も高かった。こんな時代である,オケの新入生の大事な仕事として楽譜の写譜作業があった。ミニスコアや他の大学のオケから借用したパート譜をこつこつと写譜をしていくのだが,実際にあわせる段になると各人が別々の楽譜を用いることになるから音符が抜けていたり,重複していたり,綺麗にハモるはずの当たり前の和音が激しい不協和音になっているなどで,これの修正作業もまた大変であった。
ノートにしろ,楽譜にしろ,今のコピー全盛時代にはとても考えることも出来ない様な,大変な手作業の時代であったと思う。大学一年の夏頃から今度は古本屋アサリを始め,本の世界にものめり込んでいく。
8/30(土)曇のち快晴 テニス部合宿
1:30起床、ドック判定総括x1. 3:00Vn若干、医報校正他.5:20病院着、回診他。8:10ドック診察x5、10:30-13:00外来。14:00-16:30 テニス部合宿岩城町のテニスコート。最近はテニス部は安比高原等を合宿会場にしていたために参加は不可能であった。3-4年振りに今日は初日練習のみ参加した。部員はかなり顔ぶれも変わっていた。基礎練習の後のダブルス2試合、上手なペアのお陰で6-2、6-5と勝たせて貰いいい気分を味わった。FF tennisとは遙かに異なるレベルを久々に楽しめた。17:15病院へ戻り業務、19:00帰宅、21:30就眠。
院内テニス部合宿 久し振りにハーレーの走りを楽しむ
本日午後、岩城町で行われているテニス合宿に参加するためにバイクで出かけた。
車検を2年間切らしていて今年6月にとったが、昨日までは通勤時に市内を片道15分間ほど最短距離で乗るだけ。市内は道路も広くはないし信号も多いから40km/hほどでゆっくり走る。使用するギアは3速が主で、たまに4速に入れることがある程度。今日は約3年ぶりで郊外を走った。実にいい気分であった。と言っても片道20Kmほどだけ。ハーレーは715ccx2の2気筒、典型的な長ストロークの低回転エンジンだからトップギアの5速は60Km/h以上で入り、80-100Km程度が適当な振動とサウンド共に、最も快適に走るレンジである。それ以上でも能力的には十分余裕はあるが、エンジン音は連続音に変わっていくし、風圧も不快、ヘルメットから出る耳元の騒音も不快となる。
バイクは1992年製だからもう10年以上になる。それでも積算計は21000Kmを示しているに過ぎない。晩秋から初秋の季節には乗れないし、通勤中心で、走ることを楽しむ目的のドライブは私は一切しないから、まあこんなものだと思う。車検に出すのも面倒で小屋の中に放置していたこの2年間の間にクロームメッキ部分には錆が浮いてかつての光沢はすっかり失われてしまった。でも、見るからに新しいと見える品を用いるのを好まない私にとっては、今の状態の方がずっと好い。
米国製の製品を手にしたことはハーレー以外には万年筆ぐらいだが、これらからだけでも十分にお国柄を知ることが出来るような気がする。日本製のバイクに比較して造りが単純、実に大ざっぱである。プラスチックの部品等は殆ど使用されて居らず隅々まで無骨な鉄板で出来ている。だから無用に重くとり回しも楽ではない。購入当初はガソリンタンクの通気口のつまりとかの思いがけない、かつ単純な初期不良に悩まされたが、全て製造工程、最終チェックのミスと思われた。全体的に大陸的おおらかさを感じてしまう。
バイクを買う機会がこれからもあるとしても、おそらくハーレーはもう購入しないと思う。
今のは10年以上の古い製品だが、まだまだ乗れそうだから大事に使って行きたい。
8/29(金)秋田快晴、残暑,夜雨 職員健康診断 県医師会打ち合わせ
2:00起床、ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.4:00-4:30Vn,5:20病院着。回診、院内紹介状、その他。10:30-12:50新患補助外来、14:00健康クリにて職員検診。16:00県医師会に。17:00に外出「たかはた」川口店に.事務処理ほか,臨床栄養学に取り組む。20:00帰宅.Vnほか、21:00就眠。
アベベの国の悲惨な現状。飢餓,貧困,エイズ
私の講演の対象は高齢者が多い。平均寿命の話をするときには東京オリンピックのヒーロー,マラソンのアベベ選手の出たエチオピアの話を例に出す。高齢者は最近のことは覚えていなくとも若かりし頃のアベベを知らないヒトは居ないから話がスムーズに繋がっていく。我が国では85歳にも達しているが,この国の平均寿命は未だに40歳前後で,我が国の明治から大正時代に近い値である。
東京オリンピックの頃のエチオピアの経済状態はそれほどまでに良いとは言えないまでも発展途上国の中では平均的レベルという印象があり,相対的には今よりは遙かに良かったと思われる。1984,85年に襲った飢餓は約100万人の死者を出した。そして現在,飢餓のため死に瀕している人の数は1200人を越えると言われ、その半数が15歳以下の子供。特に離乳期の子供が危ない。母乳も十分でないだろうがそれでもまだましである。乳児に相応しい離乳食がないから離乳の時期になると子供達は深刻な栄養障害に陥ることになり,育っても虚弱児となる。
海外から小麦や大豆などの食糧,そしてオイルもかなりの量が支援されている。しかしそれが十分に行きわたらないまま飢餓が毎年のようにこの国を襲っている。干魃が元凶で,ヒトだけでなく,牧草が育たないから家畜も死ぬ。しかし,それだけが原因ではない。主要輸出品である綿花は競合国の米国が自国の生産農家を補助金によって手厚く保護しているから,エチオピアには輸出競争力がない。富める国と貧しい国の差が歴然としており,悪循環が生じているのだ。
エイズ患者の数は200万人を越えていると見られる。エチオピアの人口は約6400万人で面積は日本の約3倍。これに対して国が国民1人当りに対して支出する医療費は年間わずか1.5ドルでしかない。患者はエイズとわかった場合,治療も受けられずただひたすら死を待つしかない。増えることはあってもまず減らない。エイズ患者の大部分は15-30歳の若者達である。エチオピアの不幸の根は深過ぎる。
いま,秋田栄養士会の講演に向けて準備中であるが,私には栄養過剰の文化・社会の中の臨床栄養学にはあまり興味がわかない。食料をめぐる国際問題,飢餓問題の方にどうしても目がいってしまう。国際食料問題を考えた場合,我が国は犯罪者に近い,と私は思っている。
8/28(木)秋田やや曇り、雨 総合内科病棟診療部会 初期研修マッチング
2:00起床,ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.4:00-4:40Vn,5:20病院着。回診、院内紹介状、その他。9:00-13:30外来、13:40-14:30総合内科病棟診療部会,各種の歪みが表出し始めている。15:30-16:00初期研修マッチング。全員来て欲しいと思うような若者達が続く。 20:10帰宅。21:30就眠。
本日から日本人間ドック学会出張予定であったが,時間的余裕無く間際まで迷い結局急遽取りやめ,外来等を通常にこなした.残念だがやむなし。
イギリスの医療事情---歯医者不足 3時間待ちの3分診療の幸せ
外国では旅行者は法外な医療費を請求されることがあるので気をつけた方が良いという人がいるが、それは必ずしも外国人だからというのではなく,本国人も大変なのだ。その実態を知れば日本の国民はいかに恵まれているかわかるもの。
英国もイングランドとウェールズ地方の10人に4人の歯科医は実は保険医ではない。保険医でない歯科医師は自由診療なので治療費は非常に高額である。だから保険医の前には長蛇の列が出来るし、前日からテントを張って泊まり込みして予約を取るという,日本では信じられない光景も見られるがこれは決して歯科だけの問題ではない。
米国の平均歯科医師の診察患者数が一日12人に対して,英国の保倹医は30-40人も診なければならない。非保険の歯科医だと仕事も楽で,収入も良いとなれば結果は言わずとも知れている。ウエールズ地方は人口290万人に対して歯科医の数はわずか1000人。しかもその3分の1が2008年までにリタイアする高年令だそうだ。歯に自信のない人,健康に自信のないヒトは将来英国に住もう、なんて考えない方がいい。
・・と書いていたら朝のニュースでロンドンの停電の話を報じていた。交通機関その他パニック状態なのだそうだ。停電は突然やってくる。先のNY市だけでも停電の被害は1億ドルをはるかに越えそうだと言う。今度はイギリスである。石油などの供給がストップするのも恐いが、停電は突然やって来るからもっと恐い。我が国に目を転じれば,猛暑なら電力不足が心配された関東地方、冷夏もあって何とか大丈夫なようである。
我が国は,何かと恵まれているが,不満だらけの人が多い。外を知らないで,自分の価値判断だけで判断するから,でもある。
8/27(水)快晴 残暑 県医師会郡市医師会長協議会+懇談会
2:00起床,ドック判定総括x1、紹介状・返事x1、5:30病院着、回診、院内紹介状、その他。9:00-13:30外来、病棟関連業務,各種書類処理。次回栄養士会講演準備着手。17:00-19:50県医師会郡市医師会長協議会+懇談会(View Hotel)、懸案事項多数で予定より時間がかかった。20:10帰宅。21:30就眠。
上には上が・・・県医師会禁煙ポスターと白鳥
県医師会では健康秋田21計画に対して協力・助言を行っており,特に禁煙問題に関して担当常任理事の提起と裁断,実行力で次々と施策が実行されている。県医師会館は禁煙になったし,入居している総合保険センターもまもなく全館禁煙になる。
本日の郡市医師会長協議会の席上で県医師会の禁煙ポスターが担当から提起された。白と赤を基調とした変哲のない,禁煙マークを中心にしたデザインで,下1/4ほどが黄土色に塗られ県医師会とかの字句が入る。これは,たばこのフィルターをイメージして創ったという・・・マアマアだね,と思いつつ見ていたら,白い背景にうっすらと大型の鳥のシルエットが描いている。白鳥らしいが,白鳥が何で禁煙ポスターに登場してきたのか? 白い爽やかなイメージだからか?と思っていたら,担当常任理事の説明があって「白鳥 = Swan = 吸わん!」と言うことだそうだ。言われてみれば納得。十二分に感心した。禁煙マークと白鳥,予想外の組み合わせが,何とも言えず素晴らしい。
私は常日頃から禁煙のキャンペーンにはヴァイオリニストの諏訪内晶子さんを用いてはどうかと考えていたが,語呂合わせにはちょうど良いが余りにも直接的で面白くもなんともない,本人も多分喜ばないだろうな・・と思っていた。今回の白鳥は意外性を含め100点満点をあげたいものだ。担当常任理事は広報を担当していたときも時折発想の冴え,豊かさを示していたが,今回のが一番である。ただ,説明無しのポスターのようだから,見た方の何人が「白鳥 = Swan = 吸わん!」を意識できるだろうか。隅の方にでも小さく説明書きを入れてはどうか,と思った次第である。私はくだらん駄洒落を連発する傾向があるが,正直彼の足下にも及ばない。
8/26(火)雨→曇 総回診(欠) 県要介護者障害者歯科保険医療体制準備委員会(最終回) 医師会打ち合わせ(欠) 医局カンファ
2:00起床,ドック判定総括x1、紹介状2部、5:25病院着。回診、定期処方・臨時処方30数枚発行、9:00-14:30午前外来.14:30-15:30病棟。16:00-17:10みずほ苑にて秋田県要介護者障害者歯科保険医療体制準備委員会(最終回)、なじみあると言えない分野ながら副委員長だったので多少は緊張、一段落安堵す。今後は医師会-歯科医師会間のパイプを太くする必要がある。17:30医局カンファ担当小児外科で臍疾患.20:20帰宅21:00就眠。
医局の昼時、弁当は良く洗うが・・・
私は昼食を食べないので医局には珈琲を入れに行くだけだが、その時間帯、医局談話室では多くの医師が昼食をとっている。夜と異なり出前は少ない。一部は売店からの購入品であるが大部分の医師は弁当持ち。食べ終わると大抵の方はざっと弁当箱を水洗いしてから持ち帰る。はっきりはしないが、弁当箱を洗って帰るのはかつてはあまり見ることはなかったような気がするが、これも時代がらなのだろう。とても良いことだが、これは奥様方の厳しい躾の現れだと思う。もし本当に自分からの発想なら、もう少し視野の広い対応になるのではなかろうか。
ほんの一例だが、使った湯飲み茶碗を洗って食器棚に戻している医師を見たことはない。一部の医師は流しの洗い桶までは運ぶが、一部はテーブルに置きっぱなしである。弁当を洗う医師も夜の出前をとた際に食器を所定の位置に置くのがせいぜいで、水洗いしてから置いたのを見ることはほとんどない。また、最後に医局をでる場合消灯したりTVを消してでる医師はもいない。読んだ新聞・雑誌は乱雑に机上に放置される・・・。なんかアンバランスだし何処か抜けている。これが人間的でいいのかもしれないが。
私は小学生の時に伝書鳩とネコを飼っていた。鳩を飼うにあたって、ネコに対しては徹底的に体罰を与えることで教育や訓練し、鳩が側に来ても決して襲わないように躾した。10数年の間、この飼い猫には一羽の鳩もとられたことはないし襲われたこともない。 ある時、私が飼うものなら同じだろうとすっかり安心しきって新しく購入した十姉妹を気楽にネコの手の届く棚に置いていたら、何とその日のうちに4羽ばかり居なくなり、彼女は満足しきった表情で側で毛繕いをしていた。要するにネコは鳩に対してだけのワンポイントの躾であったということ。しかし、考えてみれば相手はネコであり、当然の話でもある。拡大解釈した私が悪かったよ。
医局の昼の情景から、ワンポイント躾など、またくだらんことを考えてしまった。
一言追記、私は医局でも外来でも湯飲みは自分専用のを用い、自分で洗っている。
8/25(月)雨 管理会議 初期研修マッチング 長副会議 他
2:00起床,ドック判定総括x1。紹介状、総括、秋田医報校正。日本医師会委員会の書類(素案)送付、一段落。5:20病院着。8:00管理会議.9:00-13:30外来。ドック結果説明x2。15:00ARC院長訪問、16:00-17:10初期研修マッチングx3、17:15-19:30長副会議、懸案多数。20:30帰宅。21:30就眠。時間に余裕のない一日。
エンジンは良く回り、良く走る代車の軽自動車。
私が主に使用している車は1992初登録のスバルレガシーワゴン、走行は丁度10万Kmだが私はせいぜい2万Kmほど。中古で7-8年前に購入した。随分と金食い虫で、ドアロック関係、車高調節装置、ショックアブソーバー、エンジン制御のコンピューター、エアコンと枚挙にいとまがない。これだけ修理するともう規格品とは言えない状態で、愛想が尽きるどころか愛着がとても深まる。完全にマイカーと言うべきで、運転するのにコツがいる。今回はマフラーが途中で破れたらしい。車体の真下で激しい音がし、エンジンの回転は私の心臓を真似したか不整脈の如くでおかしい。しばらく停車していると排ガスのにおいが満ちてくる。マフラーの先をスリッパで蓋をしてみても何ら状態が変わらない。
修理に出すたびに代車が来る。これがいろいろな車種を楽しめて面白い。今までスカイラインGTS、スプリンターアペックスの改造車、日産フィガロ・・。各々味があって面白かった。今回はスズキの軽自動車660cc、背が高いワゴン系。軽自動車に乗るのは久しぶり。これがまた良く走り、良く止まり、雨風をしのぎ、足下もよく冷える。カーオーディオもいい音だ。私の車よりずっと良く出来ている。
エンジンは典型的高回転型で良く回る。恐らく短ストロークの3気筒だろう。不思議なことに7000-10000回転までがレッドゾーン、何でレッドゾーンが3000回転分幅があるのか理解に苦しむ。「補聴器をお忘れになった方・・・・」と院内放送しているようなものだ。聞こえるはずないじゃないか。
マニュアル変速車の場合、空いた道路では私は1→3→5または2→4→5と用いるので発進時しばらくは高回転になるが、確かに今回の軽はすぐに7000-8000回転に達する。それでも平然と走る。普通車ではレッドゾーンまで引っ張った経験はないが、たいしたものだと感心した。多分、私が理解していたレッドゾーンの意味とは少し違うのかもしれない。
それにしても、この世の中でもっとも発達し,規格化した道具は何かと考えたときに私の答えは車になるだろう。大型トラックから軽まで全く同じ操作で走行可能でいちいち説明書なんて不要。パソコン、携帯などのエレクトロニクスの世界もこうあって欲しいものだ。マニュアルよ さようなら、が理想だ。
8/25(日)雨→曇→雨 FF tennis(中止) 来客
2:00起床、家内も仙台に別口で講演会を聴きに行って来たという。ドック判定総括x1、日本医師会委員会文書作成など.朝方、若干微睡む。FF tennisは霧雨状態で地面の乾きも悪く中年には危険なため中止。文書、Vn、文書・・・と交互に。准看護師問題、何とか素案として明日送れそう。16:00-18:20来客あり。病院行かず自宅で事務処理継続。21:00夕食、21:30就眠。
自伝 大学時代(1965〜71)(7)
本命はチェロだったが、ヴァイオリンを選択
次はパートの選択である。管や打楽器には興味がわかず,弦楽器を希望した。そのうちでも本心は低音のチェロをやりたかったが、あのサイズは列車での帰省の際には運搬が困難であるし、楽器自体も私の立場では高額である。次善の選択としてヴァイオリンを選択した。この時のチェロに対する思いは心の中ではずっと途絶えることなくくすぶり続けていたが、35歳の時にチェロを購入し,その夢の一部はかなえられることになる。
私にヴァイオリンの指導をしてくれることになったのは当時医学部2年生でコンサートマスターをしていた方である。この方はオケの中でも抜群の技術性と音楽性を兼ね備えた方で、古い鈴木ヴァイオリンを弾いていた。この楽器はとてもいい音で鳴っていたが、表番の1/4ほどは無惨に焼き焦げていた。この焼き焦げはタバコを吸いながら練習していて,気がついたら楽器のニスに火が着いていたと言う。顔の前で火が着いたのだからすぐに気がついたが相手が木製のデリケートな楽器だけに水をかけるわけに行かないし,と迷っているうちにかなり広くニスが燃えてしまったという。
入部を決めて数日後に管弦楽部と提携している楽器屋でVnを注文した。展示品に気に入ったのがないために注文することにしたが、値段のこともあって鈴木特3号に決めた。量産型の楽器で、半分機械半分手作りと言われるもので、このシリーズの中では5段階のうちの中間に属するもので弓、ケース、肩当て等セットで4万円ほどの楽器であった。2週間ほどで楽器が届いたが、保証・証明書を見ると一週間ほど前に出来上がったばかりのホヤホヤの新品であった。
この楽器の購入は当時の私にとっては清水の舞台から飛び降りるに相当するほどの大冒険であったし、この件に関して当時から今に至るまで私は嫂から責められ続けている。が、見方を変えると、だからこそ途中で何度も挫折しかかっても放棄せずに今まで継続出来てきたのかもしれない。
今はただただ嫂に頭を下げて感謝するのみ、である。
8/23(土)秋田は曇のち雨 仙台快晴 大曲花火大会 東北医連会議(仙台)
2:00起床、ドック判定総括x1他、5:20病院着.回診その他、8:10HDD診察x4、9:00ドック説明x2。10:30-12:00外来。12:57こまちで仙台に。15:30-16:40東北医連理事代表者会議で定例の決算等の承認、懇親会の後17:37こまちにて帰秋。途中大曲では雨で濡れた車窓から花火が見えた。今年は1万5千発があげられる予定というが昨年に続き雨に。20:10病院着、業務他21:00帰宅。21:50就寝。
初めてMDを持ち出した。機能に感嘆しカセットと決別する
約2ヶ月前にポータブル録再MDレコーダー(Panasonic-MR230)シルバーを購入した。目的は楽器の練習用である。MDディスクとほぼ同じサイズで、小型セパレートスピーカー、室内で使用する際には充電や10キーでタイトル入力、編集などが簡単におこなえる操作ベース(マルチクレードル)も付属している。また、録音は連続約62時間(LP4モード)が可能で会議などの長時間録音にも利用出来そうだ。付属の小型セパレートスピーカーは4x7x7cmほどで50g程度、これが思いの外音質が良く、室内楽などでは十分、机上などに置いて楽しめる仕様になっている。単3アルカリ電池1本との併用で117時間も持つらしい。
最近の電子機器は機能が多くて閉口する。使用説明書も50ページもある。スイッチ等も極小でたくさんついており解りがたい。機能の多くは私には無関係でもある。購入してから今まで再生に若干使ってみたものの習熟するために説明書を読む時間も無く放って置いた。本日は仙台出張なのでJRの往復の時間に使ってみた。説明書もじっくり読み、機能も大体理解出来た。使ってみて第一の驚きはメカの安定性、音質、操作性。カセット時代とは比較にならないほど素晴らしい。第二の驚きは電池の持ちである。こまち往復の5時間流し続けていたが充電池のみでインジケーターの目盛が減ってさえ来ない。帰宅してから小型スピーカーにもつないで鳴らしてみたが、これがなかなかいい。こんなサイズから何でこんなにいい音がするのかと感心した。
子供達は発売から間もなくMDを使用し始めていたが、保守的な私は興味もなく、録再は今までカセットを使用していた。MD購入もそう積極的であったわけではない。私がカセットデッキを初めて購入したのは1971年であり、以来30年使い続けていた。この間、驚くほど改良され私はそれほど不満を持っていたわけではないが、やはり基本的性能から見てMDには敵わない。本日をもって私もMD派になりそうである。カセットどうしようか。音質は劣化しているが貴重な録音もあるのでそう無碍にも処分出来ない。廃棄するにしても環境上でも良くないだろうし・・・。今日を境にまた悩みが一つ増えた。
http://prodb.matsushita.co.jp/products/panasonic/SJ/SJ-MR230.html
8/22(金)晴 医師連盟執行委員会 医師会打ち合わせ、法人理事会
1:00起床、ドック判定総括x1他、日委員会作文。5:20病院着、回診、事務処理他。9:00ドック説明x2,10:30-12:30新患補助外来。15:30医師連盟執行委員会+医師会打ち合わせ.17:30-18:15法人理事会.医療要意見書x4など.20:00帰宅、レガシーワゴン修理に。Vn,21:30就眠.
盛岡市「先人記念館」を訪れた
8/14墓参り後、家族6名にて繋温泉、三陸旅行した。三陸に向かう途上、子供達の発案と案内で盛岡市「先人記念館」に立ち寄った。
盛岡市郊外の本宮地域は私が子供の頃は、豊かな稲作とか果物の産地であったが、今はここにアイスアリーナ、盛岡市立病院とかの市の公的施設が次々と造られている。そうは言ってもまだ稲作は残り,住宅も少なく空がとても広く感じられ,岩手山の眺望も素晴らしい。
この一角に,世界平和をライフワークとした「新渡戸稲造」,良識を貫いた海軍大将「米内光政」,アイヌに限りない愛を向けた「金田一京助」をはじめ,政治,経済,文化など各分野で活躍した、盛岡市に深いゆかりを持つ125人の先人たちの遺品や資料が展示されている記念館があり,それぞれの先人達の業績を知ることができる。
岩手は歴史に残るような業績を上げた先人が多いところである。そうは言っても全国的視点で見れば多くは埋没してしまっている。そういう方々を一堂に集めたこの記念館が郷土に造られたことは意義があると思う。今回,ここを初めて訪れ、先人の努力や業績,大きな視野に改めて感動すると共に、身近にこの様な先人達がいたことを断片的にしか知らなかった自分を恥じた。
今,彼らの伝記を読みつつあるが,いずれの先人からも学ぶところが大きく,私なんぞ到底足下にも及ばない大きさを感じてしまった。
偉大な業績を上げるには一定の期間生きていることが必要だし,いろいろな因子が揃わなければならない。しかし,万人がそう恵まれたものではあり得ない。中には途中まで良い線を行きながら方向転換し,数奇な人生をたどった先人もいるであろう。目立たないようにひっそりと生きながらヒトの為になっている方もいる。そのような変わった道をたどった方々,あえて地道な生き方を選んだ方々等を集めた「変人記念館」も面白いのではなかろうか。私も盛岡市ゆかりの1人である。「先人記念館」の砂とは到底言えないが盛岡市立「変人記念館」なら,その庭に敷かれる砂の一粒くらいにはなれないだろうか? やはりダメか?
http://www2.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/senjin/senjin/index.htm
8/21(木)晴れ 初期研修マッチング 医療評価機構受審準備委員会 7A診療部会議 県健康対策課来訪
1:30起床、ドック判定・総括x1、紹介状等.5:20病院着。東ロータリー講演内容印刷会社に送付。一件落着。6:30入院患者家族と面会病状説明。8:00ドック診察x4。9:00-14:00午前外来+ドック説明x2.午後は委員会の下準備,初期研修マッチング、医療評価機構受審準備委員会、7A診療部会議、県健康対策課来訪打ち合わせと続いた。入院・外来患者各種書類その他処理。20:00帰宅21:00就眠.
観光地のホテル。風呂場には手すりが必要だよ
8/14墓参り後、家族6名にて繋温泉、三陸海岸旅行した。宿泊は繋温泉がホテル「紫苑」、宮古が「浄土ヶ浜パークホテル」、共にその地域では名の通った立派な方に属するところだろう。結構利用客が多く両者とも賑わっていた。盆と言う特別な時期だからかもしれない。これほどの規模でそう安くもない施設がこの時勢に通年的に賑わっているとは考えがたいが、実際の処どうなのだろうか。今後も維持出来るのだろうか?と心配してしまった。
夕食は見事な造りの料理が各種、とても食べきれないほどであるが、楽しめた。
私はこの様な施設に宿泊した際には大浴場につかるのが好きで、早朝から出発までの間に5-6回は楽しむ。特に深夜から早朝、大浴場は殆ど1人、至福の時でもある。寝静まった客室の廊下は静かで、時折酔客のいびきが聞こえる。誰もいないロビーの散歩も良い。身体が少し冷えたらそのまままた入りに行く・・・。今回も十分に楽しめた。そういえば10数年前には一晩11回入浴し、心いくまで堪能し,寝不足になったこともあった。
双方の宿泊客のうちかなりの方々が両親への親孝行のためと思われる家族であり、高齢の方もかなりいた。ホテル「紫苑」の大浴場は中央付近にはステンレス製の立派な手すりがついており結構利用されていたが、宮古が「浄土ヶ浜パークホテル」にはそれがなかった。後者で朝5:30ころ、両手に杖を持ちやっと歩行出来る程度の,脳卒中後遺症による障害を持つ肥った中年の男性が朝方6:00ころ友人と思われる方を伴って入浴に来た。両手に杖を持っており,空いている時間を選んできたのであろう。風呂の縁までは何とかたどり着いたものの,どうしてもうまく入れそうもない。介助も1人では無理なようである。前に倒れれば溺れるだろうし,後ろに倒れれば硬い石造りの床でただではすまない。側でしばらく観察していたが,だまっておれず抱きかかえて援助し、何とか湯船に入れる事が出来た。この方の場合でもてすりがあれば一人でも安全に入浴が可能と思われた。いろいろな人が利用する施設として配慮が足らない。この点は帰りしなにフロントに提言しておいた。客が怪我してからでは遅いよ。
タオルを持つ余裕もない状態で全裸の中年男性3人が早朝からみあっている像はあまり良いものでもないし,事実,足下も不安定,その上濡れた身体は滑るしグニャグニャしておさえどころもなく抱きかかえるのに大変であった。あがるときにはバスタオルを巻き付けてから抱きかかえたので滑らず良かった。二人にはとても感謝された。
リゾートホテル,8/16早朝の大浴場の一風景である。
8/20(水)曇り 県医師会理事会+納涼会
1:40起床。ドック判定・総括x1、特定疾患経過報告書等処理.5:20病院着、回診、入院患者の総括予稿、紹介状作成。9:00-14:00外来+ドック判定・総括x1。東ロータリー講演内容記述。日医分は数日延期。16:30-17:00医師会理事会、話題豊富。17:00-19:30納涼懇親会。19:45タクシー帰宅 Vn、21:00就眠。
苦情処理のシステム化は信頼維持に極めて重要
昨日、「秋田中央交通」に携帯電話使用の運転手についての情報を入れたが、目撃は18:10頃、電話は18:30頃であった。電話で応対してくれた方はそれなりの丁寧な対応であったが、時間外でもあるし、口調からこれらの話題や苦情を処理する担当者でないことは明らかであった。
多分、昨夜の進言はその場限りになっているであろう、と考えて本日午後、社に再度電話して昨夜の電話内容が車内で苦情相談窓口担当に伝わっていたか否かを確認した。私もしつこい人間だね。結果は,予想通り何も伝わっていなかった。本日の担当者の対応も口調は極めて丁寧であったが、「電話のレベルでうまくことをおさめようとする雰囲気」が伝わってきた。更に疑問に思ったのは「車のナンバーか何かがなければ運転者を特定出来ない・・」と、当方に下駄をあずける様な言い方である。そんなことは運行スケジュールをチェックすれば解ることである。従って,対応の熱意がもう始めから欠如している。もう一つ、当方がきちんと名乗っているのに「担当者が自分の名を名乗らない」と言うこと。これもその場限りに繋がるであろう。恐らく,運転中に携帯電話をかけていたと言う事実は正当な処理をされないでもみ消されるような気がしてならない。
各種の苦情や進言はとるに足らない内容から厳しい内容まで,暖かい気持ちのもあれば義憤のはけ口までいろいろであるが,これらを一絡げにしてはならない,と思う。また自ら名乗った進言者には担当者が名を名乗るのは勿論のこと,処理の経過や結末をも報告すべきである。また,貴重な情報源として大小,軽重を問わず担当部署に集中して一元化すべきである。「秋田中央交通」の対応に私は及第点を出せない。
振り返って私の勤務する病院の場合,苦情処理のシステム化はやはりまだ十分でない。苦情処理は企業体として信頼維持に極めて重要であり,患者からの投書の処理方法などについてもまだまだ改善の余地がある。今回の「秋田中央交通」の対応を通じて改善の必要性を再確認した次第である。
8/19(火)晴れ 総回診(欠)、医師会打ち合わせ 県医師会広報委員会
1:30起床,家内はICU当直で不在。ドック判定・総括x1、紹介状、病院評価機構受審準備関連検討。5:30病院着、6:30病棟へ。定期処方30枚、新方式後ストレスゼロ。回診等。紹介状。9:00-13:30午前外来、途中数分微睡む。後半予約外患者続き混雑.総回診(欠)、18:00県医師会書類チェック、18:35-19:30広報委員会。医局で残務.20:30帰宅、Vnなど。21:00就眠.
バスの運転手が運転中に携帯電話
18:05医師会にタクシーで向かう.秋田駅から西に向かう道路と病院から医師会に向かう道路は千秋公園の脇で直角に交差する。信号待ちの関係で直進の路線の最前列で停止していたが、駅方向から大型の乗り合いバスがカーブを膨らみ下限に左折してきた。タクシーにぶつかる程度ではなく距離的には余裕はあったものの、通常の曲がり方でない。なんか変だ、と運転席を見たら何と運転手が右手に携帯電話を持ち笑顔で話している。すぐに通り過ぎたので詳細は不明ではあるが、緑色だから「秋田中央交通KK」のバス、回送であったようだ。当然、乗客がいる場合には携帯などで話しながら運転することなど考えられないので、駅で乗客を降ろしたあとであったと思われ、運転手も開放され、つい油断があったのかもしれない。それでも許せない行為である。
医師会館に着いた後、中央交通に電話し注意したが、携帯を使いながらの運転の事例は今まで全く無かった、社で調査の上で善処する・・との返事であった。
運転中の携帯は道路交通法で禁止されているが罰則はないようである一般的に運転がおろそかになる様な状況は道路交通法で禁止されている。例えば運転中の喫煙すら厳密に言えば禁止項目の中にあるし、走行中のナビゲーター、オーディオ操作なども同様である。現実にこれらに関連した事故も増えている。運転中の携帯電話使用には罰則は必要と思うが、実際には証明が困難であろう。携帯はもっていただけだと言われればどうしようもない。通話記録は携帯の時間設定を狂わせて置けば何とかなる。厳密には更に調べれば解ることだが、それは犯罪捜査のレベルになってしまう。通話していようといまいと電話機を耳にあてた状態で見つかったら減点・・かな、と思う。
高校生の歩きながらの携帯電話使用、自転車での使用も実際には危険である。
私はどうなのか?と問われれば運転中の携帯の使用はゼロではないが極めて低頻度である。何ぜなら、携帯はディバック内に所持しているがスイッチは常に切っている。通常は運転の機会自体が少ない上に短距離、短時間で通勤は15分もかからないから、自分からかけることもまず無い。ポケットベルが鳴ったときは緊急事態もあり得るので自分からかけるが、引っ張り出して起動し、暗証番号入れて・・・と面倒で走行中には出来ない.
私は早朝には信号無視は結構しているが、携帯に関しては優良運転者である。
夕方にでももう一度中央交通に電話してみようと思う。
8/18(月)小雨→晴れ 管理会議 東ロータリークラブ講演 初期研修マッチング 長副会議+委員会など
2:00起床。本日昼の講演準備。紹介状、書類2,3処理他。5:20病院着.最近レガシーワゴン(走行10万Km)が不調。エンジン回転が不規則で出力低下。改造車以上の不快な排気音が車体下から聞こえる。修理要すが、遂に寿命かな?6:30回診など。講演内容最終チェック。8:00管理会議、9:00-11:45午前外来、盆明けで混雑。12:30-13:30東ロータリークラブ会合で昼食と講演「感染症の逆襲/SARS」(於アキタニューグランドホテル9F)、15:00-16:00初期研修マッチング3名、いずれも個性豊かな、有能そうな若者。16:20-19:00長副会議その他。更に若干歓談。20:30帰宅。21:30就眠。
アトリオン室内オケ17回定期
アトリオン室内オケ(ACO )No19定演が昨日あった。プログラムはベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番皇帝」「交響曲第2番」。ソリストは東京芸大2年の秋田市出身佐藤卓史(19歳)で昨年のシューマンの協奏曲に続いての出演。彼は将来国際的にも活躍出来る逸材の一人とされているそうだ。チケット購入後しばらく紛失、諦めていたが自宅のマックの下から無事でてきて予定通り3人で聴きに行った。
聞くところによればチケットは完売したという。実際にほぼ満席であった。
彼の演奏を私は初めて聴いた。彼にとっても初めての皇帝のソロと言うも不安定さは微塵もなし、十分な余裕さえ感じられ、ひたすら感心しながら聴き入り、ひたすら楽しんだ。言うことなし。
指揮は大友直人。いつもの如く各パートトップには東京よりエキストラが大勢、今回は名簿によると18人。チェロセクションのトップにN響の主席の藤森亮一氏も参加し、特に弦・管共に安定していてとても良い演奏であった.曲が曲だけ仕方がないのかもしれないがこれほどの数のエキストラには若干疑問も。結果から見れば痛し痒しか。
ただ、両方の曲とも強奏部分では特に弦楽器の音が汚なかった。これはACOの技術的な部分と室内楽団としての規模、演奏曲目、ソリストの演奏スケールへの対応・・・から見て一部はやむを得ないことなのかもしれないが、私はずっと気になっていた。だから、アンコールの「フィガロの結婚序曲」の方が若干ながら好い音質のアンサンブルが聴けたような気がする。
ACOは経済的に維持が困難というので私も協賛会員になっている.地元のオケのチケットが完売になったことは良いことだ、と思ったが、2曲目は聴衆が若干減っていた。本日のソリストの同級生などの賛助聴衆も大勢だったのであろう
8/17(日)曇のち快晴 FF tennis アトリオン室内オケ第19回定期
3:00起床、日本医師会委員会関連文書、紹介状 等.10:00-13:00 FF tennis.6-2、4-6,5-4時間切れ、初の連敗。14:00アトリオン室内オケ第19回定期(皇帝、交響曲第2番)を堪能する。16:30-20:00病院にてドック、患者家族と面会、回診、紹介状など種々処理19:40帰宅、21:00就眠。今朝からいつもの生活パターンに戻った。休暇は僅か2.5日であったが,長く感じた良い休日であった。
自伝 大学時代(1965〜71)(6)
新潟大学医学部管弦楽団(新潟大学管弦楽団の前身)に入部する
大学で是非やってみたかったことの一つにオーケストラがあった。楽器など全く弾けないのに身の程知らずの大望である。
仙台での浪人期間中に従兄弟と仙台川内の東北大学管弦楽団の練習場に何度か訪れ、練習を何度か聴いていた。この時の練習曲はシベリウス交響曲第2番、ブラームスの第一番でその練習過程を通じて曲の構成も解り、私の好きな曲の筆頭になっている。この練習場を訪れるたび毎に,無事進学した際には自分も是非ともやってみたいと夢を膨らませた。
入学式で貰ったパンフレットを片手にある晩,早速練習場所の講堂にでかけてみた。まだ練習開始前で30人ほど、各々適宜場所を陣取って練習している。出来上がったアンサンブルとは別に,私は合奏前のテューニングの時の音と,各自バラバラに練習している時の音がとても好きだ。
新潟大学医学部管弦楽団は東北大学のオケに比較すると規模もかなり小さく、レベルも高くないように思えた。名称が医学部管弦楽団とはなっているが実際には農学部や教育学部などからも参加していた。パンフには初心者歓迎で指導もしてくれるという。20名ほどが入部希望で集まっている。半分以上が初心者またはそれに近い状況らしい。これなら私も何とかなるかもしれない、と考え入部を決めた。
8/16(土) 雨のち晴れ 週休日 宮古→龍泉洞→早坂高原→盛岡→秋田
3:00「浄土ヶ浜パークホテル」で起床。入浴、外は真っ暗。ロビー等で借りられる机も無し。部屋の洗面台は明るく高さも良く電源もあるのでここで仕事。新聞処理、日本医師会関連の業務等、残務多数処理。7:00朝食。9:30-10;30県立水産科学博物館に入館。市内に戻り土産、防寒具他購入,岩泉「龍泉洞」に。ここも20年ぶり。昼食後早坂高原経由で盛岡に。17:30娘夫婦は横浜に、次男は札幌に向けて帰っていった。19:00兄宅、20:00矢巾町の叔父宅短時間訪問、帰秋の途に。途中で夕食、23:00帰宅、23:30就眠。
喫茶店の珈琲 私は珈琲好きの味音痴なのか
昨日夕方、娘夫婦を送り出した後、美味しいコーヒー店として名高いとされる盛岡市の北のはずれにある珈琲店に足をのばしてみた。我が家では私を筆頭に家族全員が珈琲党である。とは言っても入れるのは殆ど家内で、家族は家内の実験的試みに一喜一憂し、時に楽しみ時に苦しむ。
はっきり言って、美味しくなかった。・・とはいうものの、店の雰囲気は良く、器は美しく、いれる手際もなかなかで珈琲を楽しむ雰囲気を楽しむ事は出来た。 私はブルーマウンテン何とかと言うのを注文したが、珈琲が薄い!! のだ、私にとっては好みの1/2-1/3倍程度しかない。これなら、宿泊したホテルの朝のバイキングの当たり前の珈琲、ここでは3-4杯飲んだが、の方に軍配をあげざるを得ない。駅に向かう車の中でも、美味しいと評したのは誰もいなかった。
ただこういう体験は私にとって希ではなく、美味しいと言われている店には機会があれば入ってみるが、実は満足した試しはほとんどなく、レストランの食後の珈琲の方が、あるいは私が医局でいれる珈琲の方がずっと濃くて美味しい。だから、私には本当に美味しい珈琲ってどんなものなのか未だによく解らない、と言うのが正直なところである。
我が家の珈琲、家内が入れる珈琲は私にとっては総じて美味い。しかし、朝の3時頃に突然ガリガリと側で豆をひかれて閉口することもある。本人の弁ではこの音が好いんだそうだ。
8/15(金)終日雨、夏期有給休暇二日目 繋→盛岡→区界峠経由宮古へ
2:00ホテル「紫苑」にて目覚めた。室内灯は暗く外も真っ暗、仕事にならんともう一度微睡む。4:00起床、窓際にて日本医師会関連の作文、新聞チェック等。8:00朝食、10:00盛岡市立「先人記念館」に入館。この資料館では岩手が生んだ偉人のうちで、盛岡にゆかりの深い「原敬」「新渡戸稲造」「米内光政」「金田一京助」等、総勢128名ほどの業績に触れる事が出来る。種々の資料を見ながら郷土の先人達にたいする自分の勉強不足、無知に恥じ入った。11:30三陸の宮古に、14:00到着、家族念願の「蛇の目寿司」にて昼食。宿泊の「浄土ヶ浜パークホテル」にチェックイン。宮古は私が卒業後直ぐに赴任し2年間、家内は1年間過ごし、長女が生まれたところで懐かしい。雨の中短時間の景勝めぐりなどの後、ゆっくり過ごす。19:30夕食、20:30就寝。
約20年振り、宮古を訪れる
今回の墓参り前後の計画はすべて子供達の発案で私はOKを出しただけ。繋ぎ温泉宿泊と三陸への旅がセットされた。2年間県立宮古病院で勤務した後秋田に移り最早30年近い。その間、20年ほど前になろうか、子供達がまだ小さい時に一度だけ家族で訪れたことがある。宮古勤務中の2年間、数10回は往復した宮古街道は、もうすっかり様変わりしている。
かつては車であっても起伏が激しく難所であった区界峠は道路整備も進み、特別意識することもなく通過してしまったし、途中で新しいトンネルが10箇所ほど増えている。このトンネルがなかった時には国道でありながら車が交差できない難所が何カ所かあり大変な思いをしたものだ。200-300bおきに車の交差用に道路幅を広げた場所があるが、互いに気づかずに途中で出会った場合、常用者同士なら何とかなったが、相手がトラック等の場合には交差は不可能なので乗用車の方が後戻りしなければならない。一方は切り立った崖であり、一方は川で、ガードレールはあるものの地盤も緩く大変な思いをしたものであった。今回はそのようなストレスは全く感じることはなかった。トンネルのために全体で何キロ分か、距離も短縮した様に見える。
全く変わりなく見入ったのは山の緑である。この路線を走るたびに緑の美しさ豊かさに驚いたのものだが、この点は全く変わりなかった。盛岡-秋田間の山の緑とは趣が全く異なり、あくまでも密で豊かで深緑である。
気になったのは稲穂である。いつもなら首部を下げ始めるこの時期、道路脇の稲穂は緑としては豊かだが、まだ直立している。ただですら気象条件が激しく昔から冷害を被りやすかったこの地方、今年の作柄が大いに気になる所である。
県立宮古病院は10年ほど前に海岸沿いの高台に移転した。私どもが勤務していた頃の旧病院跡地は市内では一等地であるはずだが、敷地は更地のままで何にも使われていない。最大の産業は漁業で相変わらず隆盛と聞くが、他の産業は衰退しているようである。かつて最大の企業であったラサ工業は業務を停止したと聞くし、ショッピングセンターのサティはもう一年前から営業していない。地域の経済の様相が旧宮古病院の跡地に現れているように思えてならない。
8/14(木)曇り 夏期有給休暇初日「墓参り」 秋田→盛岡→江岸寺・本家→彦部→繋
2:00起床、ドック判定総括x1、退院総括、自己免疫性疾患経過報告書x3処理。5:20病院着、自己免疫性疾患経過報告書更に5人分で机上の分だけは終了。7:00病棟回診、休暇中の申し送り他記載。8:30帰宅、10:10二台に5人車分乗盛岡に。13:30寺で兄と札幌から直行の次男と合流、寺内と墓前の読経いただく。本家に挨拶、花月堂で軽食、盛岡名物「じゃじゃ麺」なるもの初体験。南下して「野村胡堂記念館」に。郷土の生んだ偉人、が、記念館は立地条件、地域の過疎性を考えると規模が大きすぎるような気がしてならない。ホールのタンノイ「ウエストミンスター」から発するバッロク、堪能した。18:30繋ぎ温泉ホテル「紫苑」にチェックイン、19:00入浴、夕食、21:00就寝。
墓前で家族が揃う。年に一回だけ、この時期
今日から二日間は墓参り等のために秋田を留守にする。年に一回、この時期に墓参することは私にとっては幼少期からの重要な行事であり、わが家の家族にとっても同様に根付いている。墓前には、今は総勢10数人に膨れあがった兄の家族と私の家族が、それぞれ都合があるので全員が揃うことはないが、いつも7-8人は集まる。今年は兄の方は兄だけ、私の方は娘夫婦含めて6人全員。兄とも年一回、この時期しか会うことはない。今年は僅か1時間ほどだけであったが、まず体調も悪くなさそうで安心した。
私は既に両親共に亡くした。葬儀は通常のしきたりに沿って行ったものの、その後の何日目、何周忌目とかの法要、行事は一切行っていない。年に一回の墓参だけにしている。このお盆の時期にご先祖の誰かの何回忌かにあたっている場合に、それなりの読経をお願いするだけ。常識的に考えれば実に親不孝な、ご先祖軽視・・とも思う。だから、親戚から親の何回忌かの法要のお知らせ・招待が来るたびに私の心は深く痛む。それでも、私はこれで貫くし、子供達にもそれ以上の、それ以下の期待もしていない。お盆に、墓前にみんなが揃い、集う。このことこそ最高の供養だと私は信じているからである。私にはこれ以上の供養は考えられない。
私の田舎では8/14早朝に墓参りしたものだ。朝6:00前にお墓に行ったが、脇の雑草を踏む毎に足が朝露にビッショリと濡れ、秋の訪れを意識した。そのような体験は社会に出て以来もうない。どんなに急いでも秋田から到着して墓参するのは昼前後になるからである。
それでも私の大好きな夏は、お盆の墓参りを最後に気持ちの上では終わってしまう。今年の夏は特に短かった。
8/13(水)曇-晴れ
2:00起床。ドック判定総括x1. 総括・紹介状・委員会書類処理、5:20病院着.6:30回診その他、重篤者1名。9:00-13:00外来.前半は予約患者中心に混雑、後半はチリポリ.大きな予定無く日本医師会委員会作文に着手、資料集め他に書類処理多数処理.20:00帰宅.21:00就眠。
夏が来ないうちにすでに空には秋の雲
最近は雨さえふらなければバイク通勤である。疲れた心身を風が、空が、雲が、月がリフレッシュしてくれる。しかし、今年の天候は変だ。梅雨明け宣言直後からもう秋の息吹が感じ取れていた。
余りにも早すぎる四季の移りだが、国内外とも異常気象の話題に事欠かない。国内では関東地方の梅雨明けは今年8月にずれ込み、低温で異常な7月だったようで、北日本全体の平均気温は平年比-2.9度で1954年以来の寒さ。仙台は平年比-3.7度の18.4度で、1993年の過去最低記録を更新している。93年と言えば冷夏で米が不作となって高騰し、海外から緊急輸入して急場をしのいだ年だ。あの時のことも忘れられないが、気になる作柄だが今年は92%と発表された。やはり厳しい状況であるが、秋田はそれでも良い方らしい。
国内の異常気象はまだ軽いとの評価らしいが海外では実害が続発している。
ヨー□ツバでは6月が異常高温で、フランス南西部ではこの月平均気温は平年より+5乃至+7度。スイスでは平均気温が過去50年間で最高。凍土が解けたことによる落石、氷河が川に崩落して水位が異常に高くなる現象も見られた。スリランカでは7月に多雨による洪水や地滑りが多発、300人以上の死者が出ている。逆にトルコでは降水量が平年の1/10以下の地域も出るほどの大干ばつだとのこと。
最も被害が大きいのはイタリアらしい。水不足で電力供給がピンチ。1987年に原発による電力供給を止めることを国民投票で決めた同国は、隣のフランスから不足分の電力供給を受けていたが、フランスが自国の供給を優先させ供給を一方的にストップする事態が発生している。連日30度を越す暑さが続いた6月には停電騒ぎが起こって、エネルギー源見直し論争に発展するかもしれない。
そういえば東京電力の不祥事で原発が停止し、電力不足が心配されている東京地方で電力最大消費時期を迎えているが停電や出力低下で新幹線が止まったり、空港のコンピューターが不調になったりしたというニュースを聴くことはないが、どうやってしのいでいるのだろうか。東北や関西電力からの供給を受けていると思われるが、今年は電力関係者も毎日空を眺めて一喜一憂しているのかもしれない。
8/12(火)曇り→夜雨 総回診(欠)秋田県感染症サーベイランス評価委員会 医師会打ち合わせ 県健康対策課来訪
1:30起床,ドック判定総括x1. 書類処理、5:15病院着.6:30回診、8:10ドック診察x5.9:00-13:30外来.予約外患者7-8名で時間が取られた。明日から2日間は予約少ない。外来連日担当の私にとって嬉しい時期.14:00秋田県感染症サーベイランス評価委員会 15:00県健康対策課来訪、医師会打ち合わせ。県医師会のSARS要望書県に提出。医局カンファ休み。事務処理多数処理.20:00バイク帰宅。途中雨に降られ濡れた。自宅庭でバーベキュ-。21;00就眠.
水出しダッチ珈琲
今朝起きてきたら食卓の上に妙な道具がある。遂に地震・停電・災害用に灯油ランプでも買い込んだのかと思ってみたら油でなく黒い液体が入っている。水出し珈琲用のドリッパーだ。遂に家内の珈琲熱もここまで来たか、とあきれるが、飲んでみると、確かに美味い。
水出し珈琲はお湯を使わず「水」を使用して長時間かけて抽出した珈琲である。熱による化学変化を起こさないため珈琲本来の味を上手に引き出す事が出来ることから、珈琲の楽しみ方の一つの地位を確立、多くの好事家には親しまれていると言う。水で抽出した珈琲は芳醇なコクがあるのに雑味を出さない後味の良さ、透明感ある透きとおった珈琲が出来ることが特徴の一つらしい。水で抽出するため4-8時間と時間がかかるのが難点、で何でもスピードが問われ簡略化がもてはやされるわが国ではあまり普及はしていない。
水出しコーヒーのいれ方には2種類あって、水出し専用の珈琲メーカーを使った方法、すなわちウォータードリップ(オランダ式)で、このタイプの機器を本日購入した。もう一つの方法は容器に水と珈琲粉を入れ、そのまま上澄みを飲む方法(トルコ式)。どちらの方法も、急に飲みたくなっても無理で、例えば、寝る前にセットしておいて朝に楽しむなど、時間感覚がゆっくりしていなければならない。我が家の珈琲のレパートリーも増えてきたが、そろそろ次の珈琲パーティの予定でも立てることにするか。
8/11(月)晴れのち雨 管理会議 秋田県老人クラブ連合会講演 長副会議
2:00起床、ドック判定総括x1.講演準備若干、退院患者総括他,15:40バイクにて病院着.昨夜患者不調で呼ばれた家内ついに帰らず。6:30回診他、8:00管理会議.9:00-11;00外来。13:10-14:30県社会福祉会館にて秋田県老人クラブ連合会講演。誰一人寝る方もなく熱心に聴いてくれ感謝。16:30-17:10長副会議。担当患者不調にて回診中に傍らの患者の付き添いの高齢男性の方が突然ショック状態となり対応。19:50帰宅、Vnなど、21:00就眠。
チェロを弾く少女アニタ----アウシュヴィッツを生き抜いた女性の手記
アニタ・ラスカー=ウオルフィッシュ箸 藤島淳一訳 原書房 2003
著者のアニタはイギリス室内合奏団の設立者の一人。1925年生まれ,幼いことからチェロの才能を発揮していたとのことであるが,ユダヤ人弾圧でアウシュヴィッツに送られた。しかし,チェロを弾けたことで収容所内のオーケストラに入れられ,結果的にガス室行きを免れたとされ,餓死直前の状態でイギリス軍によって救出されたと言う。今も現役のチェリストである。
この本の大部分は書簡の往復という形になっている為になかなか理解し難い。読み続けるのが苦痛のこともあったが,実際にアウシュヴィッツを訪れた一人として読み切らねばならぬ,と頑張ったというのが本音である。しかし随所に知るべき内容が記載され収容所の悲惨さが語られる。それとは別に,例えば,収容所オーケストラの指揮者はウイーンフィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターで歴史に残る「ロゼー弦楽四重奏団」の主催者でもあったアーノルト・ロゼーの娘のアルマ・ロゼーで,その母はマーラーの妹であった事などは,音楽を好きな立場で,私は驚きをもって読んだ。
歴史上例を見ない、残虐を極めた、ナチスによる「アウシュヴィッツ強制収容所」と,米国による「原爆による広島・長崎の大量殺戮」は人類が二度と繰り返してはならない歴史上の汚点である。「日独伊」三国同盟を結んで戦争に参加した日本の国民は両者を永遠に語り継いで行く責務がある。しかし,終戦から半世紀以上を経て、戦後の世代が過半数を占める今日、人類に耐え難い大きな災害をもたらした大戦の悲惨さが風化し、忘れ去られようとしている。「戦争と抑圧の歴史」、「犠牲者の苦痛」、「平和の価値と生命の尊さ」などを後世に伝えることは、算数などの学課以上に重要なはずであるが日本の教育の中で完全に軽視されている。このことがもたらす弊害が今社会に現れつつある。
ナチスドイツはポーランド全土に500を超える強制収容所を設置し、600万人以上のポーランド人を抹毅し、アウシュヴィッツでの虐殺は200万人以上に上ったとされる。囚われた各国のユダヤ人、各地占領地域の捕虜、抵抗者、ドイツの政治犯およぴポーランドの老若男女がここに連行された。
強制収容所でナチス親衛隊は子供、老人、妊婦、病弱・障害者をシャワー室へと誘い、ガス集団毒殺を行い、その他の人は強制労働に回し、衰弱死、さまざまな生体実験死、大量虐殺など悲惨な行為を続けた。終戦時に生き残っていたものはそのうちの僅かに9200人であったと言う。
私は3年前にこの地を訪れ,遺品、写真、記録集、囚人服、日中は食器に夜は便器にもなったとされる鉄製のボール、女挫の毛髪で織った毛布、人間の脂肪で作った石鹸、等を見て慄然とした。ヒトは何処まで残虐になれる存在なのか?? ある意味で広島・長崎以上のショックを受けた。
日常の多忙さから私自身の心の中の「アウシュヴィッツ強制収容所」も記憶から薄れつつあるが,時には関連した著作に触れつつ温存していきたいし,語りたいものだ。価値ある一冊である。
8/10(日)曇のち晴れ。FF Tennis 家内夏期休暇に
2:30リハビリ当直室にて起床、ドック判定総括x1,新聞一週間分整理など種々.リハ自体は平穏。対応2件のみ。8:30中通病院へ,9:30帰宅.10:00-13:00 FF Tennis,3-6,3-6,4-2時間切れ終了、不調で残念。帰宅。講演準備.16:00-17:00午睡。Vn etcの他、若干。午後からは久々ゆったりと過ごし得た。家内は本日から夏期休暇とのこと、が、相変わらず受け持ち患者の対応におわれている。21:00S。
自伝 大学時代(1965〜71)(5)
入学式、オリエンテーション、医学部進学課程
入学式は4月上旬に新潟市の体育館で行われた様な気がするが、殆ど記憶に残っていない。翌日のオリエンテーションは教育学部の教室で行われ、この時初めて同級生100名が集合したことになるが、私の知人は一人もいなかった。名簿を見ると盛岡一高から3名入学しているが、名前も聞いたこともなかった。現役で入学したのであろう。
一通りの説明の後、進学課程2年間のカリキュラムの概要が渡された。2年間でとるべき単位は最小限72単位で他に時間の許す限り追加しても良いという。私は医学部進学課程の2年間では種々の分野の本を読みたかったし、出来れば医学部管弦楽団に入ってヴァイオリンとかチェロを弾きたいと思っていたので修得単位数は最小限にし、しかも最初の1年間で56単位収得出来るように計画を立てた。これによって、もし初年度で一部の学科の単位を取れなくとも2年目でとることも可能という、進学上の打算、安全弁的配慮でもあった。
実際の授業はその為に月曜から土曜まで、8:30-17:00迄の時間帯の内80%ほどとなり、かなり多忙な学生生活となった。授業の中では理系の授業は難解で実につまらなかったが、人文系の「政治学」「経済学」「社会学」の3分野、とりわけ「社会学」には大きな興味を抱き、受講するたびに新たな視野が開け、2年目は既に単位をとっていたが、他の教授の講義にも時折出席して聴かせていただいたほどである。一方理系の授業、とりわけ「数学」はもともと私は不得意な分野であったが、歯が立たないと言うべき状態であった。何んで合格点を取れたのか解らないが、今でも「数学」のために医学部に進学出来ないで一人だけ留年している夢を見るほどである。
8/9(土)台風10号の影響か雨 リハビリ当直 ICU当直(家内)
2:00起床。ドック判定総括x1他。5:30病院着、6:30病棟回診、8:10ドック診察x5、9:00説明x1。10:30-14:00外来。間に13:00入院2患者の家族と面会、病状説明と今後の予定設定.14:00家族で秋田ニューグランドホテル閉業を惜しんでの食事会。16:00病院.17:00リハビリ病院に当直へ。21;00データ、資料取りに病院に往復。22:00就眠.
アキタニューグランドホテル廃業 実に寂しい
8/7ある医師との会食で「アキタニューグランドホテル」を利用したが、その際、ホテルが今月一杯で廃業となることを知り驚いた。経営不振で民事再生法手続き中だった事は聞いていたが、経営再建をついに断念したとのこと。
当ホテルは1961年秋田国体の開催時に県内の経済人が出資してオープン、高級ホテルとしての地位を確立していたが、80年代から県外資本のホテル進出が相次ぎ、過当競争で客足は減少し、再建計画を描ける状況ではなかったと言う。地元のなじみ客に安くサービスし過ぎていた、と経営の拙さを指摘するホテル関係者の声もあるようだ。跡には、高齢者福祉施設、マンションの建設計画などが持ち上がっている、とのことである。
「アキタニューグランドホテル」は私が第一に好んでいたホテルである。秋田在住なので宿泊に利用したことはなかったが、病院から近いこともあってレストランを中心によく利用した。個人的な客人との会食のほぼすべては当ホテルのレストラン「パレノール」であったし、大晦日の夕食は20年来の家族での慣習であった。他にも、機会ある毎に家族で利用していた。
何故好んでいたのか、と改めて考えてみた。立地条件も良く、比較的敷地に余裕がある静かなたたずまい、庭園も良かったし、駐車スペースは玄関前にあるのも良かった。中央資本の数カ所の、より大きなホテルには見られない、余裕のあるつくり、優雅な雰囲気があった。レストランも一階にあり、エレベーター等を利用する必要がない事も、いい感じであった。
最も良かったのは、とにかく静かだった、と言うこと。私にとって他のホテルのロビーやレストランにはどうしても喧騒感のイメージが伴って嫌な感じをいだいているが、当ホテルにはそれがなかった。しかし、何で喧騒でなかったのか、と言えば、その理由は簡単である。客が少なかったからであろう。詳細は解らないが、とにかく、残念であり寂しい。
本日昼、レストラン「パレノール」では最後の機会になる食事を家族4人で摂った。感慨深い、食事であった。この味とも、庭園の緑とも今日でお別れである。私は今月18日には当ホテルの11階の会場でロータリークラブへの講演が予定されている。私にとってその時がこのホテルを利用する最後の機会になるだろう。
8/8(金)晴れ 法人理事会
1:20起床、ドック判定総括x1.退院時総括中心に紹介状.5:20タクシーにて病院着、事務処理、6:30回診他。講演の配付資料作成。10:30-12:外来。13:30ドック説明x1、退院総括,特定疾患経過報告書,退院患者紹介状など多数処理。県医師会打ち合わせはキャンセル。17:30法人理事会,20;30帰宅。函館から賄いの石井さんの長女一家4人来秋。長男・長女帰省にて大賑わい。21:30就眠.
「先生」という呼称
一般的に医師同士で名前を呼び合うのに例外なく「・・先生」という。実際には、いろいろな社会集団で「先生」という言葉がポピュラーに使われている。ある政治家が初当選した頃、議員同士が「先生」と呼び合っているのは、学校の職員室にいるみたいで、尻の穴がむずむずするような感じがして恥ずかしかったもんだ,と言っていた。また、若い医師も「「先生」と呼ばれて恥ずかしい・・・,などと院内誌等に時々書いている。この様に,自分がそう呼ばれる状態になったときに最初は違和感や気恥ずかしさを覚える様である。本当は,その初心が,気恥ずかしさが,謙虚さ,が重要なんだろうが,そんな感覚はすぐに鈍感になっていく。私の場合どうであったか,もう忘れてしまった。
この「先生」、文字通りの意味は、「先に生まれた人に対する尊敬語」から発しているとされ,辞書には「学問・芸術を教える人、またその人に対する尊敬語」「医師・作家・弁護士・代議士などに対する尊敬語」「からかいの気持で人を指す言葉」と記載されている。
言葉上の定義からすると、仲間同士における「先生」という言葉の使われ方は珍奇だ。後輩に対してでも,卒直後の医師に対してでも使う。この場合の「先生」は日本語の定義にない「君」「さん」の代わりでしかない。でも,実際には「・・先生」と呼ばずに「・・君」「・・さん」と呼ぶとすると,なんか呼びがたく躊躇してしまう。だから,医師同士の「・・先生」は,「・・君」「・・さん」以下の意味しかない事になる。少なくとも尊敬語の面影は何処にもない。その面からは,個人的なつき合いの中などでは、例え仲間内であっても「・・先生」と言わずに,時と場合により使い分ける方が本当は良いのだろう。そう言えば,家内に対しては一度もそう呼んだことがないなあ。
確かに,患者さんからは職業上の関係においては「先生」と呼ばれるのには違和感はないが,全く関係のない所で,例えば町内会等の会合で,そう呼ばれると,言う方では何とも思わないで使うのであろうが,その違和感に耐え難く,呼び方を変えてもらったこともある。あと,飲み屋など,ここ10数年は入ったこともないが,そんなところで「先生」と呼ばれるのは実に辛い。飲めない酒が一層拙くなる。
「からかいの気持で人を指す言葉」として「・・先生」と呼ばれている患者さんが2名ほど病棟にいる。長く教職にあった彼,と彼女は現在80歳ほどであるが,本人は未だに現役の教師そのもので,「・・先生」と呼ばないと返事もしない。
結論。仲間を「・・先生」と呼ぶのは理屈抜きに便利だ。ただそれだけ。
8/7(木)快晴
2:00起床。ドック判定総括x1。入院患者退院総括ほか。5:10病院着、事務処理6:00受け持ち患者家族と面会。どうしても時間の調整出来ずこの時間に。回診他。8:10ドック診察x1。9:00-14:30外来+ドック説明x1。入院1名、次の8/11の講演準備に入る。18:00-20:00M医師と会食。秋田ニューグランドホテルは私が好んで時折利用していたが、今月いっぱいで閉鎖になるらしい。グラスワインのサービスがあった。20:30帰宅.21:00就眠.
ベンジャミン・フランクリン 多才人の典型
凧の実験から稲妻と電気が同じであることを証明し、避雷針を発明したベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は科学者であるが、実に多才な人で、米国独立宣言の起草人でもあった。
彼は医学・医療の分野にも多くの業績を残した。彼は人生半ばの1755年に親友の医師と共に、後にペンシルバニア大学医学校の病院となるアメリカ最古の病院を設立し、病院長に就任している。この病院を運営管理する中で病院薬剤師の業務を重視し、医薬分業を図り、さらに医学教育の充実を目的として多くのアメリカ人医師を欧州に派遣したと伝えられている。
彼は避雷針の発明のように、自然科学の知見さえも単に学問としてみるだけでなく、実用学に発展させた学者といえる。その身近な発明品として、高齢者のQOLの維持に大いに役だっている二重焦点眼鏡も1784年の彼の発明によるものである。異なる屈折度の二つのレンズを上下に組合せ、遠近両方に使用出来るようにしたもので、近年このタイプの眼鏡は境目のない遠近両用型に代わられたが、つい先頃まで愛用されていた。
岩波文庫に「100冊の本」というシリーズがあった。今もあるのかな? 医学部進学課程の時に、自分の常識のなさに気づき突然本の世界に入っていったが、まず当面の挑戦として「100冊の本」に挑戦した。大部分を読み切ったが、その中でもっとも私が共感を得たのが福沢諭吉の「福翁自伝」とフランクリンの「フランクリン自伝」であった。二人に共通しているのはバランスのとれた多才さである。特に後者の自伝は私の生活信条の形成にも大きな影響を与えてくれた。この2冊は何時しか時間がとれたときにもう一度読んでみたい本である。
8/6(水)快晴 県医師会常任理事会 竿灯祭り最終目
2:00起床。ドック判定総括x1、 紹介状返事x1.他。5:30病院着.回診。9:00-13:30外来。各種書類他処理。長副打ち合わせ。常任理事会議案予習. 17:30-20:00常任理事会,20:30重症患者回診21:30帰宅。22:00就眠。
大学教授が老健施設の施設長,病院長に
医学部教授が定年退官されると,半ば当然のように何処かの病院長として赴任される。秋田県ではそのような人事は比較的少なく、退官された教授は老健施設等の管理者や施設長としての赴任が多い様に思える。老健施設では従来までと全く異なった環境での,全く異なった分野の仕事となるだろうが,私は、良く務まるものだと感心するし、元教授の方々の労働意欲にも脱帽する。この元教授の赴任よって派生する歪みは恐らく誰かが吸収しているらしく,外にはあまり漏れてこないのも不思議である。
大病院の院長としての赴任の場合,もっと大変だと思うのだが,実はそうではないらしい。中小の官公立病院や私的病院では院長の能力は絶対的に必要であり、院長の発想が病院運営や改革に直接的に反映するために人選は慎重を要する。しかし,大規模の官公病院,特に官主導型の病院では、院長としての権限らしいものは殆ど無いらしい。医師の人事の殆どは関係大学によって決められ,事務官や看護師幹部などの人事は官庁によって決められる。院長が何か新しい発想で事をやろうと思っても、すでに前年度に予算が決まっているからどうにもならない。赤字改善のためにアイデアを出しても赤字が解消が先ですと言われる。長期的計画を立てて何かをやろうとしても,来年度も院長職にいるというあてはないから誰もまじめに取り合ってくれない。
権限はほとんど何もないのに、一方では「管理責任」なるものは問われる。職員の不祥事は勿論のこと、病院の赤字も院長の責任になる。要するに,官公立病院院長はまったくシンボルでしかないのだ。そもそも「天下り」には、病院に限らず問題があり,そこの労働意欲にすら影響するが,公的大病院の職員には公僕としての自覚は乏しく,経営上も親方日の丸,そこそこの仕事で満足する様な人たちが少なくないから,ばりばりのやり手が赴任されるとかえって困るのである。
だから,官公立病院の院長は、元大学教授だから勤まるのだ,と言う逆説的な結論になってしまう。
本来ならば,公立の医療機関の院長には、長年そこの病院で苦労してきて、官庁の機構や風習にも明るい方の中から適任者が選ばれるべきである。それが地域の医療に最も良いのだ。 一方,私的医療機関がむかえている厳しい現実は元大学教授が院長として赴任してきて務まるような生やさしいところではなくなっている
8/5(火)晴れ 総回診(欠)医局会 県医師会委員会 竿灯祭り三日目
2:00起床,昨日の不快感はかなり改善。ドック判定総括x1、レセプトチェック終了。夜半過ぎに帰宅の自由人家内もほぼ徹夜状態で何かやっている、大丈夫かね。5:20病院着、回診、定期処方他。9:00-14:00外来、病棟で検査処置等、県医師会の「SARS要望書」にやっと着手。17:30-18:10医局会、中座し医師会に18:30-19:10委員会、病院事務処理他20:30帰宅。21:00就眠.
竿灯祭り。三日目でやっと晴れて良かった
今日は竿灯祭り三日目。午前頃から晴れだし終日快晴。夕方県医師会に向かうが、全国各地のナンバーの大型バスが道をふさぎ、車が混雑してなかなか進まず、定刻ちょっと過ぎについたが予定の委員はまだ半数ほどしか着いていない。みんな交通渋滞のあおりを受けているのだろう。
私は秋田に昭和48年に来たので間もなく30年になるが、竿灯祭りを見たのは一回だけ。来て最初の年であったかもしれない。秋大第一内科の秘書さん達に連れられて見たような気がする。すごい人だかりであった。当時の高田市長を先頭にパレードがあり、笛や太鼓の音の高揚と共に一斉に竿灯が立ち上げられたときの見事さ、美しさは忘れることは出来ない。・・・が、それだけであった。50Kgほどもある竿灯を肩にのせ頭にのせ腰にのせる、それらの演技にも価値はあるとのことで演技者は汗まみれで大変そうに見えたが、私には殆どその意味、価値は分からなかった。
今まで見た祭りは小学生時に「仙台の七夕」を一回、ただそれだけ。「土崎の港祭り」、これは家の前が祭りの場所になっていたので昭和48年に一回、その後は祭りの時間帯はうるさく耐え難いので職場で過ごしてから夜中に帰宅して避けていた。合わせて三日間だけしか見ていない。見るだけの祭りは人が多いばかりで面白くも何でもない。
秋田市にとって観光竿灯は経済効果も決して小さくないと思うが、あれだけいた観光バスの多くが夜半には姿を消すところを見ると実際に宿泊する人数はそれほど多くはないらしい。何処に行ったのか?次の観光地に向かって車中泊なのか?
8/4(月)雨 管理会議 友の会関連2講演 長副会議 竿灯祭り二日目
2:00起床,熱っぽく体調不良。HDD判定総括x1。2回分の講演準備。5:20病院着。事務処理,回診.8:00管理会議.外来無し。10:07こまち。指定購入時間なく特別立ち席特急券購入。11:00-12:20大曲四ッ谷地区「やっかいな頭痛と医療の受け方」,昼食後,14:00-15:15西仙北刈和野地区で講演「高齢者は人生の達人」。15:45鈍行列車にて秋田に。16:45-18:00長副会議遅れて参加。事務処理20:00帰宅、21:00就眠。終日体熱感と不整脈で体調不良であった。
竿灯祭り。JR車中で浴衣の娘さん達が目を楽しませてくれた
本日講演の後、刈和野駅から鈍行列車で秋田に戻った。座席は6割程度で立つ人はおらず、私も、高校生、若い女性達もみんな微睡み、静かな雰囲気で、トロトロと走る。私はこんな雰囲気のローカル列車は好きである。
秋田の一つ手前の和田駅から色とりどりの浴衣を着た7-8人の20歳前後?もしかしたら高校生?の娘さん達が乗車し,座席に座らず入り口付近で立ち話している。一瞬で車内が華やいだ雰囲気になった。彼女らも十分に周囲からの目を意識し楽しんでいる様子もうかがえた。きちんと塗りの下駄まで履いている。浴衣姿の若い女性は美しいものだ,と改めて実感した。考えてみたら今日は竿灯祭りの二日目である。あいにく外は小雨模様だが,多分竿灯に行くのだろう。おのおのが傘を持参しているが,さすがに全員が洋傘であった。これで和傘なら満点なんだけど・・と思いながら十分に目を楽しませていただいた。
「音楽の友」という雑誌の随想欄に93歳で現役のすし職人の話が出ていた。どんなお客さんが好みなんですか・との問いに「そりゃー,何と言っても二十歳前後の女性だね・・・」と応えていたのを思い出した。ヒトとしての興味とは全く別でその格差は大きいが,やはり若い女性,特に数人そろえば,の持っている雰囲気はとても良い,周囲の雰囲気すら一変させる・・と私も思う。
19:30体調優れずやや早めに帰宅したが,途中土砂降り。通り道の所々に観光客と思える方々,浴衣を着た市民の方々が雨を避ける為に足早に道路を横断していった。夕方,車中で私の目を楽しませてくれた娘さん達,この雨の中でどうしているんだろうか
8/3(日)曇のち雨 病棟拘束 FF tennis
2:00リハビリ当直室で起床、ドック判定総括x1.退院総括等など。明日の講演準備若干。8:30病院に、回診・拘束業務など12:00帰宅。13: 30-16:50 FF tennis。6-2,7-5,6-4。講演準備、19:00-21:00来客。明日の講演準備に時間が足りない!! 何とかなるさ。21:30就寝。
自伝 大学時代(1965〜71)(4)
六華寮の生活。人付き合いは辛かったが,コツを学ぶ。
寮での生活の中で食事の次に私に大きな影響を持ったのは人間関係の難しさであった。片田舎の出で,家族内に同年代はおらず,終始ネコと一緒に暮らしていたし,高校の頃一時的に下宿生活し,浪人時代には従兄弟と下宿生活を経験しているが,それらはせいぜい3-4人の中での生活であった。今回の寮は約200名の共同生活である。私自身が一番心配していたのは人とのつき合いに関して上手くやっていけるか否かが懸念,と言うよりそれ以上に恐怖でもあった。割り当てられた部屋は4人部屋で新入生は私一人,3年,4年生の3人暮らしとなった。幸いこの二人比較的円満な方々で,先輩風をひけらかすこともない方々で,その点では良い寮生活のスタートが出来たと思う。6年間の生活の中で具体的に何があったわけでもないがこのお二人には感謝している。しかし,半年後の部屋替えのあとの消息は全く知らない。名前すら忘れてしまった。
寮には週間の行事予定があり,各棟毎の会合,更にいろいろ割り当てられた係り毎の集会とがあって,結構多忙であった。会合の度にいつも新しい同期生や先輩方と知り合いになる事は喜びの一つではあったが,一方では煩わしさを感じないわけではなかった。また寮内では飲酒してきた先輩諸氏による小さな暴力沙汰も見聞きする事もあり,どのような折り合いを付けて周囲の人たちとつきあっていくかがやはり自分にとって当初の命題であった。
で,体得したのは節度ある距離を保ちつつ,特に先輩諸氏とは分け隔てのないつき合いをしていくことしかないと言う,当たり前の結論に落ち着いた。もともと高齢の家族の中で育ってきたこともあり,なかなかノーと言えない,長い物には巻かれてしまう方の性格になってが,寮生活を通じて更にその傾向が強くなっていった。
今も対人関係には基本てきには恐怖を感じること,ノーと言えない優柔不断の性格は全然直っておらず,自分にとっても好まざる性格と思っているが,今更何ともしようがない。
8/2(土)晴れ・曇り・一時雨 リハビリ当直
2:00起床、寝不足感あり体調若干不良、風邪かな?ドック判定総括x1、再検査結果返し。3;30過ぎ自由人家内帰宅。紹介患者返事等.5:40病院着。回診他。8:10ドック診察x5。事務処理種々。10:30-13:00外来。13:30-14:00入院患者家族と面会。院内理髪店で散髪。明後日の講演準備に着手、準備時間が足りない、どうなるか?17:00リハビリに当直へ、夕食。新聞一週間分チェック、20:00就眠。
長生きするのも芸の内。時間との闘いの中で生まれる緊張感、力強さ
早朝、寝不足感あり何となく体調不良、仕事処理も何となく乗らない。家内も帰っていないのでブルックナーの第8交響曲を、夜中としては比較的大きな音で聴きながらマックに向かう。
選んだCDは2001/12/29に93歳で老衰で死去した朝比奈隆指揮大坂フィルの最晩年の版である。ブルックナーはベートーヴェンに次いで私の好きな作曲家の一人。彼の音楽には、まだ何故なのかは解らないが、私は壮大な精神力を感じる事が出来る。だから、私が何かで萎えた時、精神的活力を与えてくれるから好きなのだろう。中でも交響曲なら8>9>7の順で作曲者の晩年の作ばかりを好む。最も高頻度に聴いたのはカラヤン版であるが、最近は時に朝比奈版も取り出す。彼の演奏は一般の演奏よりも一層テンポが遅い。このゆっくりした曲の流れ、フレーズの大きさが何とも言えない。深夜や早朝一人で聴くには実に良い版だと思う。高齢に達した彼の枯れた姿を想い出しながら聴く。
私が好む第8交響曲のCD、レコードの演奏者はカラヤン、チェリビダッケ、ヴァント、朝比奈・・・と続くが、既にみんな死去してしまった。私の所有するのはすべて彼らの晩年に録音されたものばかりである。高齢に達し、身体的には既に厳しい状態にあり、「死」が迫りつつあることが日常的に意識せざるを得なかったであろう、そんな年代に達した彼らの演奏に、何故か、決して諦めや弱さを感じ取ることが出来ない。とても活き活きしている。何でこんなに素晴らしい音楽を創造でき、聴くものを引き込むことが出来るのだろうか。
彼らは、恐らく闘っているのだと思う。それも、激しく。多分、彼らは最初は楽譜と闘い、音楽そのものと闘い、演奏家との闘いであったであろう。曲の熟知、円熟と共に、闘う相手は自然と自己に向かい、究極の演奏を追求するのであろう。そして晩年には、彼らは「時間」との闘いの中に燃えているのだと思う。一期一会の心境で自分の最も得意としたレパートリーの最後の演奏を行う。この時の演奏を聴くものは神であろうし彼ら自身であろう。その緊張感が音楽にこの上ない滋味を与えてくれているのだろう。まだそんな年代の方々、芸術家としても頂点に達した方々の心境はよくわからないが、勝手な推測が許されるとすれば、私にはそう思えてならない。
「長生きするのも芸の内」と言われる所以を改めて感じた次第である。
明後日は大曲中通病院友の会関連行事で健康に関する講演を午前午後と2つの地区で行う予定である。今朝の枯淡の演奏から受けた感慨をどう表現してみようか、と考えながら準備を進めている。
8/1(金)快晴 夏らしい日和 県教育委員会関連講演 県健康対策課来訪 医師会打ち合わせ
2:00起床、寝不足感.ドック判定総括x1、本日の講演準備等.5:10病院着。資料作成、事務処理、回診他。ドック説明なし。10:30-12:00新患補助+再来。入院一名.14:00-15:30県教育委員会関連講演「定年退職後の健康管理」で定年退職間近の教員他90名ほど、千秋会館.熱心に聴いていただけた。16:00-17:30医師会に。県健康対策課来訪「本年度のインフルエンザ対策」「秋田市内のSARS疑い症例検証の件」。20:50帰宅21:30就眠.
気候、自然とヒトとの関わり
日本は緯約25-45度にある。東京は北緯35度付近で、真夏の太陽の高さは78度前後、これが冬至には31度と大きく変化する。 太陽が低くなればその光はそれだけ大気の中を長い距離を通過するので減衰し、照射角が小さくなると単位面積あたりの照射エネルギーも減少する。しかも、日照時間も夏至が一番長く、冬至は一番短い。結果的に、夏至では暑熱に、冬至では寒冷に向かう。平均気温が10度以下になると、草は枯れ、木の葉は落ち、昆虫の姿も消え、蛙や蛇は土に潜み、熊は穴にもぐって冬眠に入る。いずれも冬を越して生きるための自然の摂理である。気温だけの問題でなく、食料との関連もあって、熊園の熊、動物園の熊は冬眠しない。餌さえ十分あれば活動的に過ごせということは、自然の中では何でも周囲との関連、連鎖の中で生きている証でもある。
気温が1度下がると、人間では一般的に67Cal 消費が増えるとう説もある。ざっと考えてみると日本の平均気温は14度なので2400Cal、印度は25度なので1660Cal、ロシアは1度なので3270Calが必要である。確かに裸ではそうであろうが、防寒用の服装もあり冷暖房もあるからヒトにはそのまま当てはまらないのではないか、。 面白いことを考える方もいるものだ。自然界ではこの傾向はやはり顕著にあるのだろう。
天候や日照はヒトの気分に大きく影響する。北極圏の住民には、冬季に不眠症と欝病に悩むヒトがかなり多いといわれ、明るく暖かい地方への転地や高照度の人工照射は睡眠薬や抗欝剤を服用したのと同様の効果があるのだそうだ。 確かにわが国でも雪国の人たちとそうでないところの人たちでは気性が異なると私も実感している。 独逸の文豪ゲーテも大きく影響を受けた人らしく冬至が過ぎて一日ごとに日が延びて行くのを異常なほど喜んだと言われている。
兼好法師の徒然草には「花の盛は冬至より150日とも、立春より75日、おほやうたがわず」とある。家と言っても隙間だらけで冷暖房もろくにない当時、天候、季節の移ろいの影響をもろに受けて暮らしたであろう。味わい深かったのかもしれないが、冬至が近くなると人間の体力や気力が衰え、高齢者には危険な日々であった。日本では古代より体力と精神力の増進のために神々に祈りを捧げ、謙虚に生きて来たのである。現代人は自然への関心、感謝、畏怖の念を失ってきてるようだ。自然災害の時だけ、突然大騒ぎする。人間なんて勝手だね。自然からこんなに大きな恵みもいただいているのに、恵みの方が話題になることはとても少ない
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |