徒然日記
2019年3月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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 3/31(日)曇り小雨 飯川病院日直(前日から連続31時間) 
 2:00飯川病院で起床。新聞チェック、本読み、他。7:00検食。午前はデータ整理、入れ替え。微睡、読書。院長室のスタンドほか照明の改良、若干明るく書類、本など読みやすくなった。11:55検食。午後は読書、データ整理など。19:30書店経由で帰宅。なぜかなかなか入眠できず22:30就寝。Σ15428歩。

本:富島健夫著「女人追憶」第1-7部 1991年(小学館)(2)
 この小説は官能小説なのだが、現代の男女関係を描いているのではない。昭和18年から物語は始まり、昭和20-30年代、ラーメンが30円だったころの話である。
 私の中学のときの修学旅行は米持参であった。引越し自体もリヤカーや荷車で運ぶ時代。作者は性愛の描写のみならず、この動乱の時代についても描きたいのではないかと思わせられた、物語の前半は、戦後の話として面白い箇所が多かった。
 官能小説としてはもとより、私の幼少時の時代背景、国民の生活を知る…といった部分でも興味深かった。

 主人公である真吾が小学5年生の時から、大学終了時までの間の話をして物語が構成される。主人公の真吾が一人っ子であったり、母が戦争やもめで年若かったりと、慎吾が初めて女を意識したのは一緒に入浴した母の裸体だった。慎吾は極めて早熟であるだけでなく、生まれながらに女性が寄ってくるような気質を備えていたとしか思えない。登場する女性達は総じて貞操観念うが低いような印象をうける。それは終戦前後の若い男性不足も関連していたのかも知れない。

 やはり、官能系の作品というのはセックスに関する描写が中心になる。だから、読みつづけているとと目新しいところはどんどん減ってマンネリ化していく。何しろ50人もの女性が登場し、各人が5回も10回も行為を繰り返えす。毎回新しい事を書く方が困難である。

 この小説は500ページx14冊にも及ぶ字数から見て大作である。ちなみに、日本一長い小説は山岡荘八の『徳川家康』らしく、文庫本で26巻。
 これを読むにあたって主人公の慎吾を巡ってあまりにも登場女性が多く、互いに複雑に関連しているために、人物マップを作りながら読み進んだ。こんな作業をしながら読み続けたのは20歳頃に読んだトルストイの「戦争と平和」以来である。

 少なくとも50人以上登場する。中には50歳近い女性、10歳に満たない幼女との関連もつづられる。

 読みつづけているとと目新しいところはどんどん減ってマンネリ化して興ざめして、3巻目くらいから「いいかげんにしろ!」と思った部分もある。ここまでくれば途中放棄は悲しい。意地でも最終巻まで読むことにした。最終巻になると書いている本人も混乱しているのではないか、と思えた。

 下巻にあとがきがあって、やった〜やった〜と充実感だけはあった。
こういう時代はやはり、自分の親、や祖父母が生きた時代なのでその日常的な描写にひかれている面も大きかったからかもしれません。

 勿体無いが本は間も無く廃棄する。私が時間を費やした、という事実だけは記憶・記録にとどめておきたい。


3/30(土)晴れのち曇り 飯川病院日曜直 レセプトチェック
 1:00起床。新聞、文献関連整理他。午前ボタン鉢を囲いの場所から所定の場所に戻す。園芸用全鉢を庭先に並べる。裁断下腹の枝を切断、ふくろ詰。12:03バス飯川病院。12;30から明日19:00まで連続で日当直。 13:30検食、読書、eデータ整理、16:00外来レセプトチェック。18:00検食、20:00就寝。徒歩Σ9599歩。

本:富島健夫著「女人追憶」第1-7部 1991年(小学館)(1)
 私が担当する外来に2016年まで月一回通院して来ていた、当時94歳の男性患者は、その度ごとに2冊ほど書籍を置いていった。この方はかなりの読書家であったらしく大量の蔵書を持っておられるとのこと。

 その際、の患者の弁、「先生は本が好きだというので蔵書の一部を差し上げます・・・」とのこと。さらに「先生はあっちの方面も好きそうに見えます・・・」、と官能小説を中心に持ってきてくれた。勿論、私もそっちの方も嫌いではない。戴いた本は渡辺淳一氏の作品が中心であったが、その中に富島健夫著「女人追憶」第5巻目が混じっていた。

 私は、頂くのも供養のうち、診療のうち、と割り切って頂いている。書籍はいただきやすい。
 患者はその後体力の低下があって独居生活ができなくなったので老人保健施設に入所し、主治医が施設長に変わった。その後音沙汰ない。生きておられるのかも不明である。

 私はそれまで富島健夫氏なる作家のことを全く知らなかった。

 富島氏は1998年66歳で死去されている。氏は「性の問題を回避して青春の文学は成立しない」と主張し、それまでタブー視されていた10代の性の問題を正面から扱い、1969年ジュニア文芸誌に連載された「おさな妻」はTVや雑誌等で賛否両論を呼んだ。1980年代には川上宗薫、宇能鴻一郎とともに「官能小説御三家」とも称せられた。

 エッセイ集も多数あり、刊行された著書は700冊に及ぶ。随分多作である。
 自伝的長編に「青春の野望」(全5巻)、大河長編に「女人追憶」(全7巻)がある。

 「女人追憶」(全7巻)は大作である。各巻には以下のごとくのサブタイトルがつけられている。文庫本は小学館から発行され、今でも入手可能であるが、各巻上下二冊に分冊されている。各巻、500pほどの分量である。各巻ごとにサブタイトルがつけられている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
第1巻「小さな光」 
第2巻「地球の友」 
第3巻「青い乳房」 
第4巻「深夜の花びら」 
第5巻「自然の流れ」 
第6巻「午後の海」 
第7巻「赤い園」
――――――――――――――――――――――――――――――――――

 第5巻「自然の流れ」下巻のみ一冊戴いたのであるが、読み出すと興味を感じ、結局は1年半かかって全巻読みきってしまった。

 実際には、3巻目くらいまでは新鮮味もあって面白かったが、似たような話の連続、分量を増やそうとする目的なのか、話の主役を一時的に主人公のみならずその友人とか、知人にも振るものだから、話がなかなか進展しない。

 各巻ごとに見るべき話題、表現はあったが、マンネリの中で話が進行したが、私の習癖で途中で投げ出さず、私は全巻読みきった。思い出しても大変な作業であった。


3/29(金)曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床。新聞、文献関連整理他、5:30可燃ゴミ提出。7:30Taxiで駅。 日本内科学会帰路のJR確保。8;11こまち、徒歩病院、大曲中通病院外来。帰路はtaxi、こまち、ルミエール落語会のチケット入手出来ず。Taxi、13:30飯川病院ボランティア。19:00帰宅。夕食、21:00就寝。徒歩Σ11138歩。

映画2019(1)「カメラを止めるな」
 映画「カメラを止めるな」は、2018年作、当初はたった二つの映画館で公開された映画で、制作費はわずか300万円。しかしながら、ネットとかで評判となり興行収入は2018年の邦画興行収入ランキング7位(31.2億円)となった大ヒット作である。
 新聞の映画評を読んでみると、一度ならず二度、三度と見た人がいると聞いて、300万円で何が作れるのか、一体どんな映画かと興味をそそられていた。

 それが、3月8日にオンエアされ、我が家のハードディスクの中に録画されていた。随分早いTV化で驚いた。早速Blu-ley diskに落とし3日間に分け、いつもなら、何かデスクワークをこなしながら、ながら鑑賞するのであるが、敬意を評して照明を落とし、集中して真面目に観た。
 名のある俳優から一般映画ファンにいたるまで絶賛を得ているこの映画.はたしてどんな内容なのか?期待して観た。

 結論は、場面場面には感心すべきところも多々あったが、この作品の意図がわからない、あらすじが解らない。全体を通じてドタバタ騒ぎ、血痕の色が終始まとわりつき、全体的にきたなく、内容は一切理解できなかった。
 登場人物は各人とも味はあったが、私にとっては一人として見知った俳優は出ていなかった。

 これではいかん、こんな筈ではなかろう、たった一回で結論を出してはいかん、と奮起して本日午後2度目にトライした。ところが、どうも内容についていけない。設定は私にとって想定外の展開であったが、その発想はユニークだとしてもストーリーが読めない。繋がらない。
 妙に難解かつ不可解だった。私には単んなるドタバタ劇にしか見えず共感できない。

 この映画が映画ファン、特に若い世代のファンに受け入れられているなど、そのことも理解できない。これは世代間のギャップなのだろうか。

 昨年観たアニメ映画「君の名は。」は背景を含めて美しい映像だった。この作品も理解できなかったが、映像の美しさだけは長く記憶に残っている。

 この作品を理解できなかった原因は私の理解力の方の問題であろう。私は基本的に文字で作品を読むのが好きで、それが映画化された場合はほとんど乗り切れない。だから、日常でもTVドラマは一切見ない。
 NHKの大型看板番組「大河ドラマ」は60作目にあたるらしいが、私は一作も見ていない。朝連ドラマは100作を越したとされるが、「おはなはん」、「梅ちゃん先生」、「あまちゃん」の一部しか見ていない。

 文字で読んでいる間は自分独自の世界があり、場面場面が自分の心の中にあり読むたびごとに楽しめる。それが、監督とか私以外のどなたかのイメージで映像化されると、ほとんど一つに固定化され、ほとんどの場合入り込めない。

 映画「カメラを止めるな」 は残念ながら私には辛い作品であった。


3/28(木)曇り晴などと一定せず 中通外来 飯川病院 
 1:00起床。新聞、文献関連整理他。6:47バス飯川病院、8:45-13:15中通病院外来。13:30飯川病院。14:00-19:10勤務、入院患者対応。19:00帰宅/夕食。21:00就寝。徒歩Σ9439歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(6) 尊厳死とは何か
 私は1980年代から講演や健康講話を頻回に行ってきた。山口百恵の歌を引用して「いい日、いい旅立ちを」などと、その中で尊厳死・尊厳死についても言及してきたが、いまひとつ受けが悪かった。時代を先取りしていたのだろう。
 時代も変わって、病院でも延命治療に対する意思を患者に聞くようになった。隔世の感がある。

 現在では安楽死を希望する患者はほとんどいなくなった。安楽死が消えてしまえ尊厳死という言葉も意味を失ってくるが、最近尊厳死がやたらに強調されてきている。ネコも杓子も尊厳死である。

 人間の尊厳は生涯において重要である。普段は尊厳を感じるような人は居ないのになんで死に際にだけ尊厳が強調されなければならないのか?私は疑問に思う。

 安楽死とは以下のものが含まれる。
――――――――――――――――――――――――――
■ 侠義の安楽死:医師か患者に致死薬を注射して患者の生命を終結させる行為など。 
■ 広義の安楽死:患者が医師から処方された薬品を、自ら服用して生命を終結させることなどをさす
■ 消極的安楽死:生命維持のさまざまな治療を中止または開始しないことをさす。 

――――――――――――――――――――――――――

 欧米では安楽死と尊厳死は明快な区別がないようであるが、日本では両者は明快に分けられている。
 かつて日本安楽死協会との名称であった日本尊厳死協会が、安楽死は求めず尊厳死の法制化を求めている。
 現状では法制化はされていないが、「不治かつ末期になった場合延命措置を拒否する。苦痛を和らげる措置は最大限実施してほしい。回復不可能な意識障害になった場合は生命維持措置をしないでほしい」と明記した意思表示の登録を管理している。

 法制化されていないので、文章により同意書を取っても事実と異なると家族等が主張する可能性があるため医師・医療機関は訴追されるリスクが存在する。尊厳死宣言を提示しても、延命治療を止めない医療機関もある。

 人の死に関わる問題なので簡単に結論は出ないと思う。死生観が変わりつつある日本でも、尊厳死を法的に認めるという国民的な合意は得られにくいと思うが、日本尊厳死協会の活動が一層普及して欲しいと思っている。

 私は尊厳死協会に登録する気持ちはないが、各自が自身で死に方を検討しておくべきであって、そのことが、自分自身を、家族を、医療を、国を救う唯一の方法と思っている。

 そもそも尊厳とは何か??これの定義は難しい。尊厳とは何と立派な言葉であろうか。自分に尊厳があるのか??甚だしく疑問である。
 尊厳については明快な定義はないようであるが、日本国憲法において「個人の尊厳」がうたわれている。また国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも記載されている。

 しかしながら、私は尊厳死の裏には重大な人権問題が隠れていると思っている。安楽死復活を望む立場をとる。


3/27(水)曇り小雨 飯川病院ボランティア 
 1:10起床。新聞、文献チェック、本読み中心に過ごす。読書、データ整理、9:50バス。みどり窓口内科学会自分用のチケット購入。30人ほど並んでいた。大型連休の関連か。10:30飯川病院ボランティア、入院患者対応。19:00帰宅、夕食。20:30就寝。徒歩8919歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(5) 残された手段、飲食拒否死
 「先生が死なせてくれないなら自分の判断で飲み食いをやめる。痛みだけは取ってほしい。苦しくなったら、薬で眠らせてほしい」。そう言う患者は少なからず居る。一方、親身に看護してきた家族は、患者の意向に沿いたいが、何とか点滴だけが続けて欲しいと望む。

 このような患者に対して我々は無力である。対症療法以外は無く、医療というより看護や介護の意義が増している状況なら、家族の意向は無視できない。
 私も患者となんども話し合い、最小限の水分だけはOKにした患者は複数いるが、家族の意向は無視出来ず、最小限の点滴は行わざるを得なかった。家族は何もしないで看取る事は心情的に耐えられないのは理解出来る。

 医療を受けている段階では安楽死の要件を満たす事は少なく、その希望は受け入れられない。自死する手段も乏しい。そうなると患者ができる事は自ら飲食を拒否するVSED(voluntary Stopping Eating and Drinking)しかない。

 実際に試みようと考える患者は少数いるが、実際にやりきった患者は私の母以外は皆無である。
 摂食飲水が出来る状態で死に至るまで耐える事は一般人には出来ない。

 安楽死の条件を満たしていない場合でもVSEDであれぱ死明を早めることかできる。
 米国では2017年、看護師協会がVSEDを患者の権利として尊重すべきと言う声明を出した。オランダでは患者の看護についてガイドラインが存在する。 

 実際に飲食をやめるのは強い身体的苦痛を伴う。
 私の母はほぼやりきったが、一般的には極めて苦しい選択となる。

 私が知っている限りVSEDで最後を迎えたいと考える人は3人いる。

 宗教学者山折哲雄氏、僧侶で文筆家の瀬戸内寂聴氏、と私である。前二者は新聞紙上で述べている。寂聴氏は若い時に20日断食したことがある、と言う。絶食は予想ほど苦痛ではなかつたが、元の食事に戻す過程で自分より早く普通食を食べている人問を見ると 殺意を覚えた、と述べている。私より先に逝かれるのかな?ならば、実行できたか確認したいものである。

 私は、母のVSED的方法を認めて看取った以上、母の気持ちに沿うべきだろう、と考えている。母もそうだっただろうが、終末期の患者は生死に関し相反する感情を同時に持ち合わせている。私もそうなるだろう、VSEDを成し遂げられるかわからないが、私はその時迎えるのを楽しみにしている。<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/e/6300808aaadb3e63f315ce68b65d74d4">死生観2015(1):私はどんな状態で死にたいか</a>


3/26(火)くもり時折小雨 外来 飯川病院 
2:55起床。文献チェックなど。5:30可燃ごみ提出。6:47バス病院へ。8:40-13:45外来、健康クリニックにてレ線の判定。超疲弊。人事から次年度の就労計画案提示サレサインす。14:30健クリから飯川病院に移動、勤務。15:00入院患者処置、その後微酔。19:00プリ帰宅+夕食。20:45就寝。徒歩Σ7261歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(4) 安楽死は罪に問われない事もあるが・・
 現代の医療ではいわゆる安楽死は認められない。
 安楽死とは助かる見込みの無い病人を、本人の希望に沿って苦痛の少ない方法で死に至らせることを意味する。

 安楽死させた場合、殺人罪に問われる。二つの事件の裁判で実行者が免責される基準が示された。安楽死は罪に問われない場合もあることが示された。

――――――――――――――――――――――――――――――――-
 1962年12月名古屋高裁「違法性阻却事由としての安楽死の要件」(山内事件:息子による嘱託殺人)

 ■ 不治の病に冒され死期か目前に迫つていること
 ■ 苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと
 ■ もつぱら死苦の緩和の目的でなされたこと
 ■ 病者の意識がなお明瞭であつて意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託または承諾のあること
 ■ 原則として医師の手によるべきだか、医師の手により得ないと首肯するに足る特別の事情が認められること
 ■ 方法が論理的にも妥当なものであること
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 1995年3月 横浜地裁「医師による積極的安楽死として許容される4要件」 (東海大学病院安楽死事件:医師による嘱託殺人)

 ■ 患者か耐えがたい激しい肉体的苫痛に苦しんでいること
 ■ 患者は死が避けられず、その死期が迫つていること
 ■ 患者の肉体的苦痛を除去し緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと
 ■ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示かあること

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 山内事件で安楽死の要件が示されたのは世界初であり国際的にも注目された。判決は懲役1年、執行猶予3年であった。
 東海大学の例は初の医師による事件で、山内事件の要件に継ぐものとして注目された。判決は懲役2年、執行猶予2年であった。

 以降も家族、医師による安楽死事件が複数生じている。家族によるケースで無罪判決は私が知る範囲ではない。

 医師による場合は以下の判決がある。
 ■「川崎協同病院事件(有罪)」−脳死状態の患者に薬剤投与
 ■「北海道立羽幌病院事件(不起訴)」−高齢患者から人工呼吸器を外す
 ■「富山射水市民病院事件(不起訴)」
 ■「和歌山県立医科大学附属病院事件(不起訴)」

 医師による場合はマスコミで炎上する。不起訴になるケースが増えているが、関係者は社会的に断罪される。判決は重要であるが時間がかかり過ぎる。判決が出るころには社会は事件を忘れており、マスコミ報道も小さな扱いしかしない。

 だから、医師は患者のためを考えて安楽死させること逡巡するのは当然である。患者も死ぬが、医師も死ぬ。


3/25(月)曇り・降雨・寒波 健康クリニック休診 飯川病院 歓迎会
 2:40起床、いつもより寝坊した。新聞・文献・徒然ほか何時もの如く。健康クリニック休診、10:30次男の犬が受診ということで孫を預けに嫁さんが来たので市内まで同乗した。新国道からバス、秋田駅に。本日発売の名古屋の学会用の指定券入手。12:00飯川病院。微睡本読みなど。14:00勤務。入院患者対応。18:00ー21:30婦長歓迎会、Taxi帰宅、22:30就眠。徒歩Σ8545歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(3) 近代医療がもたらす地獄絵
 私の祖父は田舎の開業医であった。私が小学生の頃、昭和30年前半頃、学校のない午後とか夜間、休日の往診に祖父は私を連れて行ってくれた。兄が医師になるのを嫌い工学系に進んだことで幼少の頃から私に目をつけていたらしい。当時、医療保険などは無く、医師の往診を求めるときは死ぬときだけであった。
 そんなに多くの現場に立ち会ったわけでないが、臨死状態の患者は座敷に寝せられ、家族・親戚らが周りを取り囲み、しんみりと死を受け入れていた。苦しんだ患者を見たことは一度もなかった。
 患者は、飲食とかできなくなってしばらく経過し、一層衰弱し低ナトリウム血症などのために意識が乏しい状態に至っていたのだろう。

 当時の患家の様子や亡くなる方の様子は、深く私の脳裏に染みついた。

 後日学んだことだが、
 ■ 慢性的な死の場合、自然は死の直前には麻酔をかけ、安息を与えてくれる。
■ 急な死亡の場合には、死の直前、短時間ながら苦しみが消失する安息の時間が訪れる。
 ■ 死の瞬間には医療は要らない。医療行為はむしろ患者の苦痛を増す。

 これらの学びは、私の医療観のルーツになっている。
 
 実際に医師として働き始めた時は夢中であった。周りの医師の姿から、患者の姿から学びながら、その時代にあった医療を学んだ。
 大学病院は先進的医療の場である。そこでは過去の医療から学びながら、数値化した、より科学的な医療の発展蓄積の場であった。
 大学の権威が尊重され、各診療科の都合が優先され、患者の主体性の尊重の姿勢は乏しく、私の持つ医療観から大きくかけ離れていた。

 その後私は道を変えた。

 医療の発展とともに、本来なら助からなかった患者の救命が可能になってきた。救命が可能にはなったことと元気な姿に戻すことは同義ではない。しかしながら、医師も患者も患者の家族たちも、生命の延長の成果などに酔った時代となった。少しでも長く生かすことが医療の目的であるが如くで、どんな患者でも病院に搬送した。

 近代医療は光と陰をもたらした。陰の部分は死に切れない患者の増加である。私の感覚ではこの世における地獄絵である。あの世に地獄・極楽などあるわけはないが、近代医療の現場ではこの世に居ながら地獄の責め苦を味あわせることが可能である。

 こんな時に一番被害を被ったのは患者自身である。

 少子高齢化を迎え、多死社会を迎え、医療者側には高齢者の医療について考え方の反省が見られるようになった。患者も延命処置や治療を望むものが少なくなったが、患者家族たちの発想はそう簡単には変わらない。特に、介護保険が施行され虚弱高齢者がの介護を他職種員が担うようになってからは、その傾向が強い。98歳の誤嚥性肺炎の患者に付き添ってきた娘の弁が参考になる。「母にはまだまだ生きてて欲しいです。10年も、20年も・・・。ただ、自分では世話できませんので病院にずっと入院させてください・・・・」。この背景には異様に自己負担が少ない高齢者医療の問題、年金問題もからむから事は複雑で深刻である。


3/24(日)早朝に降雪2cm 曇り寒い   
1:00起床。文献・録音データその他の整理で過ごす。天候不良で外仕事無理、座学、本読みなど。NHKのど自慢視聴、14:00飯川病院から連絡あり、診断書の為に出勤。20:00こまち1時間弱遅れて到着、家内帰秋。20:30夕食、21:30就眠。Σ10255歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(2) 両親の看取り
 「自分の命は自分のものである」と私は思っている。しかし、社会通念上これは認められていない。堪え難い苦痛を伴う患者が死ぬ自由をも求めることが出来ないために、患者が自らの意思で飲食を拒み死を早めようとすることがある。

 末期医療に閲わっていた頃、何人かの患者からこういう希望を聞いた。
 私は生きるものの当然の希望だと思う。苦痛などから逃れたいという切実な思いが原因とみられる。このような場合、欧米では「患者の権利」として医療者同けのガイドラインもある。我が国ではこの面での社会的合意は乏しく、特に患者家族が容認せず医療現場は苦悩している。

 私は昭和53年、当時秋田大学病院で勉強中であったが、64歳の母を看取った。
 母は性格的にうつ的素因を持っていて、かつ慢性の肝臓病を患っていた。入院中に転倒し、手首の骨折を機会に生きる気力をなくし、一切の摂食を拒否した。その背景には肝不全による精神症状も関連していたと思われる。私は最小限の栄養水分だけは投与しようと考えてその投与ルートを確保していたが母はそれも自己抜去した。また尿管も抜去した。私は医療を拒否する固い決意を聞き取り、本人が飲みたいという時には水分のみ与えた。その後約10日間ほどの経過の中で、私が口元に持っていった寿司を一口だけ食べたが、それ以降は一切受け付けなかった。母は徐々に意識が朦朧となり、数日後に眠るように静かに死亡した。

 当時、私は大学では白血病等の血液疾患の治療を行なっていたが、当時は最後まで延命を図る治療がなされた時代であった。その過程で私は「いのちは誰のものか、なぜ本人の意志は無視されなければならないのか??・・・」と疑問を持ちつつ治療にあたっていた。

 父は昭和59年、79歳の時に、早朝に急性心筋梗塞を発症した。救急病院に搬送されたがかなりの疼痛が続いていたいたようである。私は大学病院当直で、当直を代わる医師もおらず駆けつけることはできなかった。専門医によって治療が行われたが、十分な治療効果が得られず心機能が低下しつつあるとの報告を得た。その段階で私は担当医に治療中止と強力な鎮静治療に切り替えるようお願いした。それによって父は激しい疼痛から解放され、数時間後に眠るように死亡した。当直が開けて10:00頃駆けつけたが死に顔に苦悶の影は見られなかった。

 私は両親をこのような形で看取れたことに満足している。

 その後、私は患者に寄り添う医療を求め、大学を辞し現在嘱託として働いている病院に勤務した。勤務当初の看護師たちの私の評価は「手抜き医師」であった。当時は臨死状態の患者に気管内挿管や心臓マッサージ、心臓への電気ショックなどをかけていた。勿論、効果はなかった。患者家族の強い希望を断れないこともあり例外はあったが、私は臨死状態に至った患者には延命治療は原則的に行わなかったからである。

 あれから約40年、終末期医療のあり方は大きく変わった。しかし、私は自然死、尊厳死、安楽死、自殺、死刑など論じられている現代の「命の扱い」は、尊重したいが、内容的には不満である。
 極言を言えば「安楽死」を含めてもっと自由にして良い、と思っている。


3/23(土)小雨曇り寒波 
 1:30起床、新聞・文献・徒然ほか。録音データ整理。天候不良と飯川病院緊急呼び出しに備え、本読み等座学中心に自宅で過ごす。午後は自室にてN響定期公演のインデックス作りに集中、内容を演奏で確認しながらの作業で大変であったが、2018年分終了。19:00夕食、20:30就眠。徒歩Σ7383歩。

人は死ぬ権利があることを私は強く主張したい(1) 透析療法中止死について
 東京にある公立福生病院で昨年8月、腎臓病患者の40代女性が人工透析治療をやめた1週間後に死亡していたことが分かり、この3月からメディアで盛んに取り上げられている。
 この患者は、すでに別な医療機関で透析を受けていたが、上記病院を受診し今後の治療について相談した。医師が夫同伴で透析継続と中止の選択肢もあることを示したところ女性は中止を選んだという。女性が死亡直前、透析中止を撒回する趣旨の発言をしたとの証言もある、と報道されている。
 都は病院への立ち入り検査を実施、日本透析医学会は調査委員会を立ち上げた、と言う。
 権力側の横暴でないか??

――――――――――――――――――――――――――――――――――-       
 日本透析医学会の提言では、透析を中止もしくは始めないことを検討できるのは以下の場合に限られる、としている。決定には患者本人や家族の意思が適切に反映されていることが前提で、医師単独ではなく医療チームが患者や家族と話し合うよう求めている。いつたん透析を見合わせた後も患者や家族が自らの決定を変更した場合は透析を始めるとしている。 
 
●患者ががんなどを合併していて全身状態が極めて悪い。
●透析によつてかえつて患者の生命を損う危険性がある場合。 
――――――――――――――――――――――――――――――――――-        国内の透析患者は2017年末時点で33万4500人に上っている。

 私なら患者の希望を生かした最良の医療判断だと思うが、報道を見る限りにおいて患者の医師や専門家、患者の立場からのいろいろな意見、批判論が飛び交っているようである。

 私は、生まれて来たからといっていつまでも生き続けなければならないと言う、一般的な社会通念こそ問題であって、自ら十分納得した上であれば、自らの判断で死を選ぶ判断は正当な権利だと思っている。自分の命は自分のものである。


3/ 22(金)曇り 終日飯川病院 大曲は休診に
1:00起床。文献・新聞読み、データ整理などいつもの如く。6:00ゴミ出し2袋。7:45上京する家人送って駅経由で飯川病院に、8:45-19:00飯川病院勤務、大曲中通病院外来は休診に。外来入院患者対応、19:30帰宅。21:00就寝。院内うろうろ、徒歩Σ14327歩。文庫本2冊読む。

人工知能(AI)について考える2019 (3) 曖昧さの代行は不得意分野 
 世界で人工知能(AI)が注目されている。
■ 2045年に人間の能力を超える? 
■ 経済を急成長させる救世主になる? 
■ 人間の多くの仕事を代行し雇用の大半を専うのか?
■ ・・・・・

 上記のような議論は続くが、しかし、そう簡単に人間社会の変革は起きないのではないか、と思われる。
 現在の人工知能(AI)の開発は限定された分野での特化型がせいぜいであり、汎用型に至ってはほとんどまだ目処が立っていない。

 人間の脳はいつも活動しているか?
 実際には90%ほどは無活動領域といわれる。脳は活性部位と無無活性部分から構成されているが、最近の研究では臨機応変に脳は活性部位と無無活性の部分を切り替えてている。だからまだまだ脳には発展性がある、と考えられている。人工知能(AI)よりも発展性がまだあると言えよう。

 さらに 人間の脳の特徴は「あいまいいさ」にあると言っていい。これこそが人間らしい特徴を醸し出している、といえるだろう。

 烏が小枝に刺した獲物の生贄を忘れるのは、鳥は景色を画像として認識するからだ、と言われている。だから、葉が落ち周辺の状況が少し変わると獲物の隠し場所か分からなくなる。 
 人工知能(AI)の認識方法はそれに近く、一つの物を認識させるのに膨大な写真を覚えさせないといけない。
 これに対して、人間の脳は大雑把に事物を認識するので、数枚の写真を見れぱ物の違いを見分けられるし、多少の状況の変化はそれまでの経験を生かして予想できる。すなわち応用力があるから発展性もある。

 人工知能(AI)は瞬時に多くの微小な差異を捉え未経験の事態に臨機に対応するのは苦手とされる。すなわち、人間の生活は「あいまいいさ」の積み重ねであり、これに対応するのは不得意な分野である。 

 人工知能(AI)は自動運転への応用など機能特化型の世界では可能性は大きいが、少子高齢化で大幅な人口減に直面する日本の労働力不足を解消する切り札には当面なりそうもない。
 今後人間から人工知能(AI)に置き乖りる仕事があるかもしれないが、人間の持つ複雑さは簡単に人工知能(AI)に置き換わるほど単純ではなく、それほど甘くは無い。

 構造的な人手不足は長引くとみられ 人工知能(AI)の発展によって雇用が一気に失われる心配は少ないと考えられる。

 だから、人工知能(AI)はともに付き合うべき友人であり、人間の生活にとって決して脅威となるものではない。これが現状の私の理解の到達点である。


3/21(木)春分の日 寒い小雨 家内横浜   
1:00起床、新聞文献、雑誌チェックとPDF化、読書。6:45横浜の孫に会いに行く家内を駅に送り飯川病院。11:00帰宅。外仕事に向かない天気、以降は蓄積データの整理、N響定期公演のインデックス作り再開、関心がある演奏会は一部視聴、だから効率は良くない。19:00夕食、20:30就眠。徒歩Σ7842歩。

人工知能(AI)について考える2019 (2) 脅威論より活用を考えるべき 
 かつて、コンピューターが実用化し始めた1990年代、「コンピューター占い」とか「人生相談」などが台頭してきた事がある。当時の人たちは何か新しい、より科学的な、正しい判断がなされると誤解して「コンピューターが占ったのだから」、「判断したのだから」と珍重し容認したこともあった。実際には神社でおみくじを引くのと大差ないことだったのだが、当時はそれなりに新しい時代が来たのだ、と誤解されたことがあった。

 コンピューターは、人間の能力を上回る機能を持つ便利な道具であったが、何も新しいことを生み出さなかった。
 新しい知見を生んだのはコンピューターの機能を有効に活用できた人間の方であった。

 しかしながら、今度こそはそんなレベルではない時代に到達した。自己学習をする人工知能(AI)の時代を迎えた。
 その人工知能(AI)の具体的な、身近な例は自動運転車への応用であろう。自動運転車は多くの路面の情報をセンサーを介して集め、自分で最も安全な、効率の良い運転法を判断し、危険も回避してくれる。

 人工知能(AI)やロボットの導人、自動化の進展で「2030年までに世界中で最大8億人分の仕事が奪われる可能性がある・・・」、と米国のマッキンゼー&カンパニーが2017年に発表した。8億人は世界の労働力人口の20%ほど。単純計算で1/5人が失職する恐れかあることになるからこのリポート衝撃的に受け止められた。

 とはいえ、人工知能(AI)が単純に人問の脅威になるのか??といえば事情は異なる。長期的な人手不足に直面する日本ではむしろ人工知能(AI)やロボットの活用が成長維時には欠かせない面がありそうだ。

 人間の得意分野に「共感」、「信頼」がある。人工知能(AI)の演算や分析の手法が精緻になればなるほど「人間としての感情」が存在感を増していく、はずである。
 無機質な印象がまだまだ強い人工知能(AI)の進化を受けいれた上で、人は人間らしさを取り戻すようになるのか??
 問われているのは、人工知能(AI)の驚異ではなく、「人間自身のあり方」である。

 芸術の分野では人工知能(AI)の介入は困難だと思う。

 人工知能(AI)は製造業やサービス業、金融業など広く活用か進んでいる。
 活用か進む現場では人手が足りなくて現状の機能や品質を保てないという課題かはっきりしている。そんな日本では活用の機会は多い。

 仕事が奪われるといつた議論もあるが、現状では人手不足の解決于段になりうると認識に大きく変わって来た。 

 これまでのコンピューターの進化、デジタル化で変わつてきたのはむしろ人間自身であった。
 是非は別にして、人間の脳の感じ方、心の感じ方が変わつてきている。人工知能(AI)の介入でどんな変化が生じてくるのであろうか??
 私はまだ理解が及ばない分野である。


3/20(水)快晴 院長受診・飯川病院終日ボランティア 
1:00起床、文献整理関連ほか。7:45家内に同乗飯川病院、終日ボランティア、外来入院患者対応。微睡、データ整理、文献読み、読書など。19:30帰宅、夕食、21:00就眠。Σ11831Km。

人工知能(AI)について考える2019 (1) 人工知能(AI)とコンピューターの違い
 最近のメディアには頻繁に人工知能(AI)の話題が登場する。それを読んでいてもなかなか理解出来ないし、脅迫的な内容が目立つ。それには人工知能(AI)の発展のコンセプト等どこにあるのか知らなければ怖い。
 私は人間の能力や地道な働きを凌駕し取って代わることはないと思うが、野放図な利用は危険だと思う。制限は必要となろう。

 人工知能(AI)が成長すれば
■ 将来は人間を支配する??
■ 人間の働き口がなくなる??
■ 勝手に敵を倒す強力な武器になる??
■ 新しい社会保障などが必要となる??
■ 人工知能(AI)には限界はあるのか??
■ 反人間的は動きはしないのだろうか??
■ などなど

 まず、コンピューターとの違いを理解しなければ人工知能(AI)を知ることができない。
 
 コンピュータは近年随分発達した。電卓は簡単な計算ができるミニコンピューターで乾電池や太陽光で十分動く。パソコンはより能力を高めて複雑な計算をすることができるが消費電力は200W 程度である。

 コンピューターの能力を格段に高めたのがスーパーコンピューターと呼ばれるが、日本の最大のスーパーコンピューターの「京」は毎秒1京回の計算ができる。1京回というのは1億回の1億倍の単位で、予想もできない能力である。
 処理能力のすごさを実感することは困難であるが、「京」の消費電力は平均的な一般家庭の消費電力の約30,000世帯分に相当し、支払うべき使用量は1時間120万円、1日で2800万円なのだそうだ。

 コンピューターはどんなに発展しても人間が指示したとおりにしか仕事が出来ない。

 これも分かり難いが、私は線路上を走る列車に例えて考えている。線路上を走る乗り物には人力のトロッコのようなものから時速350Kmで走行する新幹線まであるが、どんなに新幹線が速くなっても線路から外れては運行できない。リニアだって同様である。
 これに対して人工頭脳(AI)を備えた乗り物に例えると、自分の能力を最大限に生かして最も都合がいい走り方、ルートなどを自分で探して走ることができる。しかも、人工頭脳(AI)は一つ一つの経験から学び取り、自己発展できる学習能力がある。

 今まではコンピュータでネコを識別する場合、サイズ、形から毛並みから行動までを細々とコンピュータに教え込まなければ他の動物から識別できなかった。その入力項目は多ければ多いほど精度が上がっていく。
 これに対して人工頭脳(AI)はネコの写真をできるだけ多く見せると人工頭脳(AI)が独自に学習し、ネコを識別できるようになる。制度は徐々に上がっていく。

 私は先を読めないが、そう簡単にすべての分野で人間を超えるとは思わない。今の所はそう思う。


3/19(火)曇り寒波 外来 飯川病院
1:00起床、いつもの如し。5:50可燃ゴミ提出、6:47バス飯川病院に、まだ寒い。8:45-12:30中通総合病院外来。13:00飯川病院、微睡など。14:00-18:30勤務。入院患者対応。19:10帰宅。夕食、20:30就眠。9727歩。47回結婚記念日:二人揃って生きていることの喜びをしんみり味わっただけ。

私はまだ医師として通用するのか?(5) 最近の自身の状況(4)
 現在、私は74歳を目前にしている。私は予てから急性期・高機能病院には高齢医師は不要と述べてきた。65歳で現役を引退したが、そのまま医療法人の外来を中心に嘱託医として、午後は近隣の小さな病院のボランティア医として働いている。
 自分が医師としてふさわしいのか、自問自答しながらの日々である。

 現状の自分を自己分析してみている。

 確かに医術力の低下を白覚、そして医師としての知識、フットワーク、患者の急変に対するねばり強さの低下と判断力が遅くなったことなどは認めざるをえない。

 ■ 高齢医師の定義は辞書などには載っていない。
 ■ 医師法にも記載がない。
 ■ 自ら限界と感じた時か?
 ■ 高齢者としての社会的通念で決まる??
 ■ 患者諸氏が判定してくれるものか??

 65歳で年寄り扱いはまだ早い。これが表向きの本音だが、医師としての働きを考えた場合にはどうだろうか。
 外来をやっていると往々にして年齢の話になる。
 近年の年寄りは元気である。医師ならずとも大多数の人は多少ともこの65歳という数字に違和感を持つている。いまは会社も65歳まで仕事をくれる。国にいたっては健康であれば75歳位まで働いて欲しいと尻を押している。
 75歳定年時代がすぐそこに来ているようだ。

 私は患者には「お大事に!!」と言わないが、逆に「先生、お大事に!!」と患者から力づけられる。面と向かって「先生も年だから心配です。別な先生に回してください」などと言われたことは一度もないが、本心ではなんと思っているのだろう。

 自己評価を続ける。

■億劫・物ぐさ
 何もしたくない、考えたくもない、口もききたくない、電話にも出たくない・・・などと感じる事は、いまの所ない。むしろ逆で、どう一日の業務をコンパクトにまとめて処理し、この短い1日をどう有意義に用いるかを考えアクティブに行動している。
 カルテなどはマメに記載している方であろう。ただ、電子カルテへの入力は便利だが、好みではない。紙カルテに万年筆で記載していく方が個性が出て楽しいが、その機会はめっきり減ってきた。

 ただ、体を動かすことに関しては億劫・物ぐさを感じるようになって来た。

■頭機能弛緩症??
 外来とか、机上仕事、個人的なデータ整理なども3時間を越すとドット集中力が減弱してくる。一事に精神を集申出来なくなるのも、老人特有の現象である。私もここ数年ほどで明らかに悪化している。恐らくは1:00am頃の起床の生活に無理はあるのかもしれない。午前の業務時間はもう相当に時間が経っているから、心身ともに疲れやすくなっていることと関連している、と思われる。
 こんな時には10分ほど微睡を取るのがいい。私は外来でも自室でも椅子に座ったまま簡単に眠ることができる。また、読みかけの文庫本を開くのもいい。

 この範囲では医師免許の自主変換などはまだ考えなくても良さそうである。


3/18(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院
 1:00起床、いつもと同じパターン。データ整理6:47バス、待っている間に凍えた。飯川病院に。9:00-11:30健康クリニックドック+レ線チェック。飯川病院へ、微睡、14:00-18:30勤務、入院患者対応。19:00帰宅、夕食、 21:00就眠。Σ6394歩。

私はまだ医師として通用するのか?(4) 最近の自身の状況(3)
 私はすっかり老医となった。私はまだ医師として通用するのだろうか?自問自答する日々である。
 私の心身の状態は以下の如く老化が激しい。

■決断力欠如症
 私は決断力が弱まっているわけではない・・と思う。ただ、最終結論をなかなか出そうとしないだけ。いや、病名をつけるということは無理やり既存の分類に当てはめてしまうことになる。患者の病態は複雑である。大まかに決めておくと再検討もしやすい。
 しかし、患者の思考は単純である。すぐに病名を聞いてくる。その場合、「恐らく〇〇でしょう」と答える。断定をするような言い方はしない。無論即時に分かりにくい疾患もある。
 多分私はスタッフ達から決断力が乏しいと思われているかもしれない。

■体力・運動
 ゴルフ、山登り、などはしない。最近はひたすら歩くだけ。過去にはテニス、自転車などもやったが、慢性心房細動があり、心原性脳梗塞を患い、右下腹部に大きなヘルニアを抱え体動時に痛みを感じていたので歩くだけにした。もう、若いときほどは頑張らない。2;00am締めで一日10.000歩となれば満足する。
 齢なのだろう、疲労感は感じるが、朝家を出て夕方帰路につくまで、医師として業務をなんとか続ける体力は残っている。

■気力・体力・即戦力
 医師は何時でもスタンバイ状態でなければ診療はうまく行かない。だから私はアルコールを飲まない。夜間に問題が起きそうな患者がいる場合はいつもより早く寝て備える。対応すべき状態の患者の場合は、いろんな手段で快方に向けなければならない。それが医師の務めである。
 年齢だからといってはいられない。今の所はなんとか対応できていそうだ。

■精神力・粘り・執念
 とにかく、高齢になるに従つて粘りが乏しくなる。すぐに諦めたり屈伏したりする傾向が出てくる。かつては、困難にぷつかればぷつかる程この粘りが生まれて来たものだが、最近はそうは行かない。
 さいわい、後期高齢者のお世話が中心の診療環境では粘りを求められるような事は少なくなった。

■代名詞症候群
 人は年とるに従つて物忘れが激しくなってその人の名前やものの名前を直接言わなくなる傾向になる。代わりに代名詞を使うようになる。その傾向は私にもある。人物を直接呼べないのは相手にとっても失礼だし、私自身も恥ずかしい。だから、身近なスタッフの名前はいつでも確認出来るようにメモしてある。主語・述語を常に明確にするよう心掛けている。
 
 上記項目の範囲では略合格かな??


3/17(日)快晴気温は低い 飯川病院日直
0:40起床、蓄積データの整理と確認、本読み、文献読み。8:38バス飯川病院に。9:00~17:00日直。蓄積データの整理とバックアップ。12:00検食。本読み。17:30帰宅、雪が消え、院長から種々支持あり外仕事が忙しくなる。19:00夕食。21:00就寝、Σ7103歩。

本 外山滋比古著「新聞力」扶桑社新書 2016年11月(2)
 これは若い人向けではなく、老人向けの本である。著者は前書きの中で「中高年になって知的荒廃が起こると健康を害する・・・」と言う。そうならないためには自己学習が必要。そのテキストとして新聞がもっとも簡便であり、その得られる内容から新聞を読むことは「新聞大学」と呼んでもいいほどの効果がある、と言う。

 確かに、現役で働いている青壮年の方々は気が緩む間も無く切磋琢磨している日々であり、新聞の位置ずけは相対的に低い。そんな人向けの本ではない。
 「功も為さず、名も残さずに、一線を退いた」方々、さりとて学ぶ姿勢は持っている方々にふさわしい本である。

 日本の新聞は新聞協会経営業務部調べで95%が戸別配達で毎日手許に届く。通信教育の教材が届く。尤も、戸別配達はわが国だけでなく諸外国でもあるようだが、多くは敷地内に投げ入れる方法で、新聞受けや玄関先に丁寧において行くような国はなさそうである。

 この本は新聞を活用して日々勉強しよう、という趣旨の本。内容は、得られるところも多いが、やや冗長、必ずしも深くはない。外山氏の新聞に対するエッセイ、との印象である。 

 本書の【目次】は以下の如く。個々の項目について私見をいろいろ述べている。
――――――――――――――――――――――――――

1 見出し読み       2 標準語
3 カタカナ語       4 疑問
5 立つことば・寝ることば 6 社説
7 コラム         8 文芸
9 読書・書評       10 経済知識
11 予報         12 投書欄
13 切り抜き       14 模擬投資
15 個人消息       16 保健衛生
17 広告         18 休み
19 ノロノロ       20 ウサギとカメ
21 ひとつでは多すぎる  22 新聞大学
23 生涯学習       24 生活習慣
25 社会の木鐸      26 知能を磨く
27 朝学         28 読み方
―――――――――――――――――――――――――――――

 この本のなかでも私が、最も関心を持って読んだのは「13 切り抜き」の項である。氏は紙ベースのスクラップを続けておられるようであるが、電子化すれば何倍にも有用になる・・、と私の方でアドバイスしたくなる。

 日々仕事に追われている人は、毎日、新聞を読むのは時間的に厳しいものがあるだろう。それでも私は今も続けている。2010年頃の切り抜きデータを今見直しても、充分有用なデータとなっている。あの多忙な中でよくやり切ったものだ、と今更ながら思う。

 若い時に学校で、あるいは社会に出てから学んだ知識には賞味期限があり、短期間で通用しなくなる。だから、知識の更新が必要だ。私は医師としてまだ働いているから医学知識も常にアップデートしていかねばならない。でも、年をとった今になって言えることであるが、最も大事なのは医学よりは一般的知識の方である。そのテキストとして世の中の知識と情報を満遍なく記している教材として新聞が一番ふさわしい。

 個人的には興味が薄い分野であっても、新聞に取り上げられ方を見ているだけでその重要度も教えてくれる。
 新聞は専門主義を取らない。広く、知の世界を新しい知識に入れ替えることを目的としている。百科的である。
 氏は新聞は活用するに足る情報媒体であると説く。自分の知りたい世界だけでなく,多様な世界を体験できるのは確か。
 判っている人は本書を読まなくとも新聞を活用しているだろうし,判っていない人は新聞は勿論、本書も手に取らないだろう。

 204万部突破!『思考の整理学』著者が伝授する新聞の<最大活用術>の本であるが、総じて在り来たりなことが書いてある。更に言うと、老いた知識人が、暇つぶしの為にまとめたエッセイの範囲。
 それでも充分に有用である。
 私の「新聞大学の学資」は3紙で月12.000円、得られる情報を考えれば決して高価過ぎる訳ではない、と思っている。


3/16(土)曇り
 1:10起床、文献検討、徒然など、石田衣良「美しい子ども」午前までで一気に読破。午前は風除室の電気系統の整理、単純化、壁掛け用扇風機新規に装着など。午後微睡後藤島農園樹木伐採打ち合わせ。録画視聴:「題名のない音楽会・リコーダー」視聴、蝶番購入し家内の椅子修理。Σ7955歩。19:00夕食。20:30就寝。

本 外山滋比古著「新聞力」扶桑社新書 2016年11月(1)
 私は毎朝の習慣として新聞を数紙読む。いや習慣というよりも貴重な情報源として資料集めが主たる目的である。

 まずは見出しを見て記事を選び、重要とわかれぱ切り抜く。切り取った記事は電子化してデータとして残し活用する。コンピューター上で検索をかけて抽出し、まとまつた記事をまとめてもう一度精読する。

 新聞は日本と世界の現況を要約している。
 ネットにはツイッターなど個人発信の情報と意見かあふれている。こちらは明確な背景、基盤を持たないから、即ち骨格がないから信頼度が低い。ちょっとした切っ掛けで細部から発生し、ひたすら増殖して条件次第でいくらでも変形するし、時にはすつと消滅する。生物でいえぱ粘菌に似ている。
 
 新聞は粘菌と異なる。
 近代国家は立法・司法・行政の三権から成る。それに対して報道機関が第四の権力と呼ぱれることがある。国の運営に及ぽす影響力が大きく、三権を批判するのは機能があるからだ。
 今の日本は行政府の力が異常に強く、立法府と司法府はその前にひれ伏している。そういう時こそ第四権力である報道機関の真価が問われるのだろう。

 日本の新聞発行部数は、2000年の5370万部をピークに減少が続いており、2015年には4424万部にまで落ち込んでいる。そして、新聞は世帯普及率も右肩下がりが続いている。単身世帯では、もはや新聞を取っている人の方が少数派である。
 新聞離れの最大の理由が、インターネットの普及。ネットのニュースサイトは、世界中の情報がリアルタイムで知れるうえ、料金も無料という強烈なメリットがある。新聞は有料で速報性にも乏しく、速報性という意味ではインターネットに勝ち目がない。
 新聞が生き残って行くには批判に耐えうる立派な企画、記事を掲載するしかない。

 こんな中、著名な思索家である外山滋比古氏が2016年に新書「新聞力」を上梓した。
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 氏は1923年生まれの91歳。お茶の水女子大学名誉教授、文学博士。英文学のみならず、思考、日本語論などさまざまな分野で創造的な仕事を続け、その存在は、「知の巨人」とも称される。

 私は読書が好きで、中でも新聞の比重が極めて大きい。だから新聞に関する評論等が出版されると読んでみる。本書もそのうちの一冊である。

 外山氏は新聞について、【毎日届く】、【脳力が上がる】、【学費ゼロ】、【自宅でできる】、【最新の情報満載】を新聞の特徴に上げ、年齢にかかわらず、誰でも何処でも学べる最良のテキストという。この特徴を生かして学べば大学の教育に匹敵する、と氏は言う。

 新聞大学は、毎日、標準的日本語の散文を提供してくれる。それに親しんでいれば散文に対する目が自然と養われる。それだけでなく、理知的なものの見方、考え方を身につけるようになる可能性は大きい。
 ボケ防止にもなる。


3/15(金)くもり、寒い 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア プリウス点検
 1:00起床、文献・新聞読み、データ整理など。6:00可燃ゴミ提出。7:35Taxi駅に、8:11こまち、9:10-12:15大曲中通病院外来、往復徒歩。業務用スーパー経由、14:00 -18:40飯川病院ボランティア。18:45Taxi、書店経由帰宅、夕食、20:30就寝。Σ14929歩。歩行には寒かった。

日本の食文化の崩壊2019(7) 称賛!!! 飲むおにぎり
 つい先日、日曜大工品購入のついでに家人と一緒に秋田市北部にある大型のスーパーに行った。食品を扱う店舗を訪れるのは数ケ月ぶりだろうか。

 「食べたい食品、惣菜、お菓子などあれば何でも買って・・」と言われ、30分ほど別行動でウロウロしていたのであるが、食べたいと思う食品を一つも選べなかった。むしろ、大量の食品・食材に圧倒されて、此処は自分の来る所ではない、との感を新たにした。
 いつか環境が変わって自分が主体的に食事を考え用意したりする様になれば状況が別だと思うが、そのような環境が来るとは今の所考えていない。

 私は食事に対してほとんど興味は無い。もちろん、生きるためには食事摂取は欠かせない。当然腹も減る。菓子も時にはつまむ。

 今のところ、私は食事に関しては何ら考えることもない。特に希望も出さずに、当たり前と思われる食事を不自由無く食べることができる。

 自宅で摂る食事は、朝食はサラダのみ、昼食は飯川病院の検食で副食のみ、夕食は家族が用意してくれるものを100%そのまま感謝を持って受け入れる。3食通して主食は、特に米飯は滅多に摂らない。日本の食文化を米食と考えれば、私の食生活は崩壊している。
 外食は嫌いでめったにしない。

 TV、新聞雑誌その他で、食品、美食、グルメに関する情報が凄い。ちょっとうがって言えば、「日本人は食べることにしか興味がないのか??」、「世界中の食品を食い尽くすのでは??」とまで思っている日本人の食を考える(1) 日本人は食べることにしか興味がないのか?。

 先日訪れた大型のスーパーで食べたい食品を一つも選べなかったが、一つだけ興味ある製品を見つけた。

 ラミネートテューブ入りの「飲むおにぎり」である。
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 (飲むおにぎり梅こんぶ 比較として飲むアイスも並べて見た)

 手軽に栄養補給ができ、簡単に食べられる。カロリーは200kcal摂取できる。
 面倒くさがり、料理には出来る事であれば手を染めたくない私にとっては候補になるべき食品の一つになりそうで試しに一つ購入してみた。

 群馬県にあるヨコオデイリーフーズが3月1日から一般発売した2種のうちの一つ。1年程度の常温保存が可能。保存食、非常食としても良さそうである。
 海苔風味、磯の香り、梅干しの酸味、十分美味しい。五分ほどに砕いた感じの米の固形感があり、噛んでも噛まなくてもいけるが、消化のことを考えれば噛むのがいい。
 あえて中身を出さないほうがいい。

 通常、おにぎりは「食べる」のであるが、モノグサの私にとっては結構面倒である。ボロボロこぼれるし、時には手を汚す。

 ともあれ、「飲むおにぎり」を企画した企業の発想力、製品化した熱意には脱帽である。
 家族が留守とかの時には有用とおもう。我が家でも購入しておきたい。


3/14(木) 小雨寒い 外来 飯川病院 
1:30起床,文献多数検討など。本読み、録音データ整理など。6:30レガシー飯川病院着。8:45-13:00中通外来。13:15-18:30飯川病院、外来入院患者対応。19:00帰宅、夕食、20;30就寝。Σ9182歩。昨年ピロティの雪囲徹去。

徒歩通勤(3) つい先日、和歌山を通過して三重に入った

 平成13年3月から徒歩通勤を始めた。間も無く6年になる。
 歩数計「新・平成の忠孝」で歩行実績を積算している。
 伊能忠敬が歩いた海岸線をたどり、東京を基点に、東北、北海道、日本海側の海岸線を経て、九州、次いで四国一周、9月22日再度本州に戻り岡山県、兵庫県日本海側を経て12月13日大阪に、1月7日和歌山県に到達、つい先日三重に入った。

 この時点で歩数計「新・平成の忠孝」が故障したが、新品の代替品にデータを移すことが出来たので計測を再開した。

 平成13年3月から本日平成31年3月15日時点までの積算データ
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■歩行開始後 2.171日目、5.95年。
■総歩数 Σ2.059万歩 (平均9.484歩/日)。
■歩行距離 Σ16.479Km(平均7.59Km/日)。
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 大阪・和歌山通過のデータ、今回は2県をあわせて集計。
 大阪に入ったのが12月13日、和歌山から三重に入ったのが3月15日。
■大阪の海岸線は160.26Km、和歌山県は506Km。あわせて666.26Km
■大阪・和歌山通過の通過所要日数 92日。
■一日平均歩行距離 7.24Km。
■現在の位置 日本一周目標の90%終了。
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 最低1日10.000歩を目標にしていたが、兵庫県通過中は9.000歩と、大阪・和歌山通過中は9400歩と目標に大きく不足した。

 今年は寒さは厳しかったが降雪量はとても少なかった。大阪・和歌山を通過している間は我が家の除雪機の稼働は3回のみであった。だから、降雪期で歩行出来る機会は少な目だったが、徒歩通勤は不可能ではなかった。
 しかし、体調不良のために自信なく、中心をバス通勤にした。さらに、天候や業務の都合で自分でボロ・レガシーを運転して出かける頻度も増えた。年末になってからは凍結した道路が転びやすい私にとって危険なことも預保通勤を躊躇した間接的理由である。
 
 通過した和歌山県は訪れた記憶はない。地名の多くはNHKのど自慢開催地として、高校野球甲子園大会の代表校を通じてである。
 串本町は本州最南端に位置し、1890年(明治23年)9月16日夜半 - 旧 大島村樫野埼沖でオスマン帝国の軍艦エルトゥール号が座礁し沈没した遭難事件が発生し、住民が必死で救助に当たった史実についてはかつて調べたことがある。


(大阪、和歌山付近。引用フリーの地図から引用した)

 いま歩き始めた三重県の海岸線は948Kmと長い。
 天候はまだ不順で寒い日が続く。積雪は完全に消失した。しかしながら、私の体調は今一つである。1日8Kmの低ペースにして、6月中に通過出来れば良いと考えている。


3/13(水) 小雨のち曇 飯川病院ボランティア 
 1:30起床,文献多数検討など。持ち手が壊れたハサミ修理。録画にてウイーンフィル宮殿野外コンサート視聴。ゲルギエフ、A・ネトレプト登場。後者はでぶった。12:00レガシー飯川病院ボランティア。16:30バス帰宅、。19:00夕食、Σ7152歩。

徒歩通勤2019(2) 歩数計新・平成の伊能忠敬故障したが、蓄積データ復活
 私は2013年4月7日に伊能忠敬に5000円で弟子入りし、師が歩いたルートを私も歩き始めた。弟子入りの費用は商品名「新・平成の伊能忠敬」という歩数計の購入費用である。
 この歩数計は伊能忠敬の弟子になって日本地図の完成を目指すというゲーム器で、30gと軽く、本体は一見ちゃちであるが、3D加速度センサーを採用しているなど精度は高い。だからちょっと高い。
 伊能忠敬が歩いた海岸線にそって日本一周するゲーム機で、日本の海岸線の総距離は19044.18Kmとセットされている。1日1万歩では日本一周するのに7-8年かかる。歩数計機能としては一日ごとの距離・歩数等の表示と、累計表示および現在歩行中の都道府県の簡易地図が表示される。

 (伊能忠敬の徐行コースと各県ごとの距離 東京を出発し和歌山県中部に達した時点で故障した)

 この「新・平成の伊能忠敬」は私がこまめにデータを確認しなくても自動的に蓄積してくれる。私は毎日のチェックを楽しみにしている。

 私は「継続は力なり」という言葉が好きである。自分で評価しても目標を掲げた計画を中断したり頓挫したりすることは比較的少ない方だと思う。紛失もせず、ほとんど欠かすことなく足首用のフットバンドの中に入れてつけていた。

 これで歩数を計測し始めてから約6年、2140日目、2059万歩、16475Kmの段階で、和歌山県を中ほどまで過ぎた時点でついにこの「新・平成の伊能忠敬」が故障した。内部のコンピューターが狂ったらしく、データの蓄積がダメになった。電池を交換したり、いろいろ刺激を与えたり、分解して埃を取ったりしてみても改善しなかった。

 購入してから約6年も使用しているし、当然保証外である。品物を諦めるのは簡単であるが何としても蓄積したデータを生かすことはできないか?? 
 ダメ元でも、と製造元に問い合わせたところ、「チェックしないことにはなんとも言えません・・」と実にそっけない対応で、不快な感じも抱いたが、背に腹は変えられない。検討を申し出た。
 約1週後にメールにて返事が来た。「雨かアセの影響で基盤に腐食あり、修理は不能であるが残っているデータを新品に読み込むことは可能、費用は送料込みで4700円」とのこと。
 私に取って理想的な返事であった。蓄積データが生かせるなら言うことはない、直ぐに修理を申し出た。

 それで、3月10日からデータ蓄積を再開した。

 この間、約1月は同社の他の歩数計で歩行距離を蓄積していたが、Σ95.324Kmであった。これは別扱いとして最後に加算しようと思う。


3/12(火)晴れ  外来 飯川病院
1:40起床、新聞・文献チェック。6:00可燃ゴミまとめのみ、スキーウエアやめて作業衣に。6:40バス飯川病院、8:40-13:20中通病院外来。飯川病院、微睡、14:00-18:40勤務、入院患者対応、外来など。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。Σ12104歩。

原発事故からまる8年
 ■東電福島第一原発の現場
 東電福島第一原発は、数年前は全身防護服を着用して、かつ、車中からしか取材できなかったが、今は普通の作業服で立ち入りできるグリーンゾーンが敷地の96%になった、と言う。がれきの撤去や樹木の伐採、地表をモルタルなどで覆うことで放射線量が低くなった。
 2,3号機の間も普段着と使い捨てマスクで取材できるとのこと。

 といっても、1-3号機の原子炉には、溶け落ちた燃料デブリが残る。先日、遠隔操作の装置で2号機のデブリに少し触ることができたとはいえ、全部を取り出せるのかどうか、わからない。廃炉への道のりは険しい。
 炉心を冷やす注水や地下水の流入で、放射能で汚染された水が増え続けている。浄化装置で処理しても放射性物質トリチウムが残っており、貯蔵タンクの数は増え1千基に迫る。
 貯蔵タンクは一部は錆が出て内容が漏れて居るのもあると言う。こんな状況の中再び地震が起こったらどうなるのか??
 政府・東電は21年にデブリの取り出しを始める計画だが、夢ばかり語っていてもしょうがない。チェリノブイリに準じた方策は考えないのだろうか??

 ■再稼働を進める日本
 原発事故の甚大な被害、後始末の困難さを知ったいま、日本は原発に頼らない社会をめざすべきである。
 福島の事故後、古い原発を中心に21基の廃炉やその方針が決まった。だが、日本が脱原発に向かっているわけではない。

 安倍政権はいまでも原発を重要な基幹電源と位置づけ2030年に総発電量の20-22%をめざす。「原発ゼロは責任あるエネルギー政策ではない」と述べた。
 破綻した核燃料サイクル政策も捨てていない。経済性のなさから欧米の多くの国々は撤退したが、安倍政権は青森県六ケ所村に2.9兆円かけて建設中の再処理工場を動かし、使用済み燃料からプルトニウムを取り出す方針を変えていない。

 一方、日本はプルトニウムの蓄積量が多すぎて世界の顰蹙を買っている。プルトニウムを使用するプルサーマル原子炉で消費するしかないが今その方法は壁に当たっている。処理する方法がないのにプルトニウムが溜まっていく。
 さらに使用済み核燃料の処理方法も決まっていない。にも関わらず使用済み核燃料も溜まっていく。

 福島の事故で原発の安全対策費が増えてコストが上がった。一方で太陽光や風力などの再生可能エネルギーは技術革新でコストが下がっている。世界の総発電量のうち原子力発電はかつて17%、現在10%ほど。対照的に再エネは25%近くになった。原子力から再エネへ、時代は大きく転換しつつある。その舵取りに貢献したのが皮肉にも福島の事故であった。

 ■日本のエネルギー政策
 ドイツや韓国のように原発からの段階的な撤退を決めた国もあれば、米英のように再生可能エネルギーの台頭で原発の比重が下がった国もある。原発大国フランスも原発依存度を大きく下げる方針だ。国が後押ししてきた中国やインドでも、再エネの伸びが原発をしのぐ。
 日本のエネルギー政策は見直す必要があろう。衰退していく原子力の延命に大きな資源を割き、次代を担う再エネを二の次にする。そんな姿勢では、時代の大転換に取り残されてしまう。
 原発を減らす一方で化石燃料に頼るとするなら、環境問題、温暖化、電気の高コスト化は避けられない。


3/11(月)雨曇り 東日本大震災+原発事故8年 健康クリニックドック 飯川病院 
1:15起床、新聞・文献チェック。その他蓄積データ整理。7:00レガシー飯川病院へ。9:00-11:30健康クリニックドック12名+写真判定+医療相談。11:45飯川病院、微睡、14:00-19:15勤務。入院患者対応。読書など。19:30帰宅・夕食、21:00就寝。Σ7366歩。普段東日本大震災・原発事故をろくに取り上げないメディアはこの日ばかりは取り上げる。

東日本大震災からまる8年 復興計画はこれでいいのか??疑問
 東日本大震災からまる8年、各地で鎮魂・追悼他の関連行事が行われている。平成としてこの日を迎えるのは最後となる。

 人的被害の最近の統計は以下の如く。

(朝日新聞の記事から一部引用。災害関連死以外はここ数年数値はほぼ横ばい状態)

―――――――――――――――――――――――――――――――-
 岩手、宮城県などの被災地も再建に時間がかかつている。生活基盤の再建は一段落したが、多くの地域でコミュニティや産業の再生に問題を残している。
 岩手県大槌町などのように、区画整理で新たな居住地を造成したものの、戻る被災者が少なく、空き地か目立つ。
 日本全体が少子高齢化する中、地域の事情はもっと厳しい。将来的に街が成り立つか住民のコミュニティが形成されるか、私は先行きは厳しいと思う。

 新聞社の社説等は復興のペースを緩めず、生活や産業の確かな再建につなげなければならない、などど前向きな意見がつづく。
 復興については現場の住民の希望が第一であることは論を待たないが、秋田の地から見ていると、これ以上の成果が期待できるのか・・??私には疑問に思える。

―――――――――――――――――――――――――――――――-
 福島の復興はなお不十分である。東電の原発事故が重なつた福島県ではなお4万人以上が避難を続けている。

 原発事故に伴う避難対象地域は事故直後に比べ、面積では1/3に減つた。だが、立ち入りが禁止されている帰還困難区域が双葉町、大熊町など7市町村に残つている。政府はその一部を22年度までに除染を終えるとしているが、住民がどの程度戻れるかの実効性は不透明。多分期待出来ないだろう。

 すでに建難指示が解除された地域ですらも明暗が分かれている。
 15年秋に解除された楢葉町では商店や金融機関、小中学校などが再開し、これまでに住民の5割が戻つた。しかし、今後のことを考えれば街としての機能、住民間のコミュニティの構築は困難でないだろうか。

 原発に近い富岡町、浪江町では住民の帰還率は1割に届かない。帰還希望者が戻れるように、行政や商店街などをコンパクトに集約しながら生活基盤の再建を急ぐべき、との意見もあるが、私の目で見た感想を無責任に言えば、再建は無理だと思う。

 避難生活が長期化し、元住民で帰還を諦める人も年々増えている。避難者は高齢化して行く。こうした人には、帰還に夢を持たせるよりも、避難先での生活再建が軌道に乗るよう支援を進める方が理にかなって居ると思う。

 産業の再生はムリだろう。

 私は被災者、避難者に夢を持たせ、問題を先送りするよりも発想の転換が必要な時期に至ったと考える。


3/10(日)晴れ・温暖 除雪機整備収納 ボタン冬囲い外しほか
 1:30飯川病院起床、新聞チェック。関連文献検討、本読みなどほかいつもの如く。データ整理。9:40バスに遅れ、途中まで徒歩、家人の迎えて帰宅。午前はデータ整理関連。NHKのど自慢、微睡。陽気につられて外仕事。Fitタイヤ交換、ボタン冬囲い防雪カバー撤去、雪かき小道具整理など。データ整理。19:00夕食、21:00就眠。Σ8501歩。防寒靴からウオーキングシューズに。

本:長野丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの戦い 福田ますみ著 新潮文庫 2019年(2)

本書はノンフィクション作家福田ますみ氏の事件に関する膨大な資料、裁判傍聴を丹念にひもとき、当事者への取材を重ねる中で、「教育現場で生じたの現実」を明らかにした。
 ただ、やはりこの様な事件の調査を読むにあたり、読者が注意すべきは、著者の視点はどこにあるのか、どこまでが真実で、どこに著者の推論があるのかなどを含めて、あえて「本当なのか?」「事実なのか?」と、若干距離を置いて読む事は必要であろう。
 事件に関連した関係者ならまだしも、一般の読者は批判すべき資料もない。それでも100%内容が真実なわけではないだろう、という視点は失うことのないよう一定の距離は置くべきだろう。

 モンスターペアレントという言葉はずいぶん広く使われるようになったが、その実態はどのくらい知られているのだろうか。

 その様な人に触れたのは私は3回ほどある。
 一度は私が大学生の時、東京昭島市のスーパーの店内で、昨日購入した食肉にクレームをつけてきた20代後半の主婦、5歳ほどの子連れであった。最初は担当の販売員が丁寧に対応していたが次第に激昂、店長を呼べ、土下座して謝れ・・・とエスカレートした。どの様に収まったか忘れたが、岩手の片田舎からでききた私は、「東京という所は恐ろしい所・・」との印象を持った。

 病院の管理を担当する様になってからは直接対面したクレーマーだけでも数件、文書とかでやり取りしたのを含めると数10件以上におよぶ。対面の場合には、何を言っても無駄、ひたすら罵詈雑言を聴きながら興奮が収まるのを待つしかなかった。程度の差こそあれ、本事件の母親のような、常識が一切通じないタイプの、攻撃性をあらわにする人間は思う以上に多く実在する、というが私の実感でもある。不思議な組み合わせであるが子連れでクレームをつけてくる両親、母親が多かった。子供は共通して無表情、無言であった。普段からこのような親の反応に慣れ、自己防御しているのかもしれないと思った。

 長野丸子実業「いじめ自殺事件」を巡る全ての訴訟は終了し、母と弁護士の主張は完璧なまでに退けられた。
 しかし、学校関係者は自分たちの主張は通っても、むなしさや割り切れなさが残った、と言う。その理由はひとえに時の経過である。事件に対し一致団結して長い時間を費やし勝訴し、やっと汚名が注がれたと思つた時、世間はすでに事件を忘れており、裁判結果に注目されることはなかった。
 マスコミも初期にこそセンセーショナルに報じるが、判決にはたいして紙面を割かない。母親側に立つて一方的な報道を展開した新聞などはなおさらで、あえて避けている様にも見える。その結果、この事件は、第一報の通りの「学校側に問題があるいじめ自殺事件」として人々の記憶に漠然と刻まれたまま風化した。
 結局、メディアの報道によってもたらされた「社会的制裁」は晴れることはなかった。

 注意しなければならないのは、「モンスター母の虐待行為や狂気じみた言動」だけではない。もっと恐ろしいのは「マスコミが弁護士や母親の話を鵜呑みにしたこと」、「著名なノンフィクション作家が雑誌などに事実誤認の評論したこと」も上げなければなるまい。
 終章 「加害者は誰だったのか」は参考になった。


3/9(土)曇天 急遽飯川病院日当直に 
 1:00起床、新聞・文献・資料検討。日当直担当医感染性腸炎とのことで急遽代行。家内に同乗12:00飯川病院へ、日当直へ就く。検食、本読み「モンスターマザー」一気に終了、微酔など。18:00検食、20:30就寝。Σ10132歩。家内分申告作業終了。ラジオ深夜便かけっぱなしで聞く。

本:長野丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの戦い 福田ますみ著 新潮文庫 2019年(1)

 学校におけるいじめ事件は後をたたない。未だに多数の事例が報道されている。
 私は、いじめ事件、虐待事件等に関心を持っており、事件の新聞記事や雑誌等の記事を収集してきた。しかし、一般的に手に入る情報は充分でない。しかも、報道は最初から「学校側に問題」、「隠ぺい体質」などの前提のもとで報道されている様に思われることから、その解釈は慎重を要すると思われる。

 最近は、優れたドキュメンタリー作家達が埋もれた事件、奇異であった事件、冤罪事件等を追いかけて著作として発表している。私はこれらをできるだけ読んで各々の事件を考えなおしている。読む前と後ではかなり印象が異なってくる。 

 丸子実業高校バレーボール部員自殺事件は、部員間のいじめ行動、というのもおこがましいような冗談とも取れる程度の軽微な行動から端を発しているが、性格異常の母親、マスコミ報道、弁護士、評論家、県会議員、ネット上の書き込みとかによって異常なほど増幅され、母親vs 学校で互いに訴訟し合う特異な経過をたどったケースである。

 丸子実業高校バレーボール部員自殺事件は、当時1年生の男子部員が2005年に自宅で自殺した事件。
 生徒の母親は自殺の原因がバレーボール部でのいじめにあったとして校長ほかバレーボール部員等を長期にわたって責め続けたのち告訴、バレーボール部員等もこの母親の異常行動によって精神的苦痛を受けたとして逆提訴した。2009年長野地裁判決では、母親の主張は退けられ、逆に母親がバレーボール部員等に損害賠償を支払うように命じた判決が確定した。

 生徒は2005年に丸子実業高校に入学し、バレーボール部に入部。上級生が生徒の声真似をしたり、クリーニング店からついてくるビニール製ハンガーで頭を叩いたりした、と言う。生徒と母親との関係の方が問題で、それが主たる原因と思われる原因でその後不登校気味になり、またクリニックでうつ病と診断された。診断書は学校を責める有用な手段となった。
 生徒の出席日数不足を理由に出席を勧める文書が届いた直後、生徒は自殺した。この事から母親は好調を殺人事件として提訴した。それを支えたのは人権派と言われる弁護士であった。

 一方、家庭内の問題として、母親の生徒に対する虐待、ネグレクトが疑われ、生徒を幼少期より半ば育児放棄し「死ね」と罵倒し続けていた。自動相談所も母子分離を考えていた矢先であった。

 この事件は全国ネットのTVニュースやワイドショーでも報じられた。
作家の福田ますみ氏は詳細な聞き取り、資料の分析、裁判傍聴の結果から、本事件をまとめ、これらは「異常な母親」、「配慮欠くマスメディア」、「弁護士」、「県会議員や評論家・・・など」によるミスリードで事実がねじ曲げられた
とし、この経過を書籍として上梓した。


3/8(金)曇り寒い 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 昨年ハードディスク紛失
1:00起床。文献・本読み、徒然他、データ処理。5:00可燃ゴミまとめ提出。7:35Taxi駅、8:11こまち、9:00-12:00大曲中通病院外来。大曲・秋田駅徒歩。13:45飯川病院ボランティア。15:00秋銀スタッフ来訪。19:10書店経由で帰宅、夕食、20:30就寝。ラジオ深夜便数回分。歩数10773歩。昨年ハードディスク不明となる。セキュリティもかけてあってこの一年間で実害無し。

医師の定年(3) 最近の自身の状況(2)

■手先の動き、上肢の動き
 手先、上肢は自由になめらかに動かないといけない。診察時にギクシャクしているようでは患者は心配になる。

 私は2003年秋アキレス腱断裂でひと月ほど車椅子で診療したが、スタッフの協力もあり入院外来などなんとか遂行できた。問題はなかった。
 2012年の脳梗塞では意識回復したら言語障害、右半身麻痺状態となっており、私も医師として復帰できないと覚悟したが自然と回復した。1週後には復帰した。
 下肢と違い上肢の障害は診察時に何かと支障をきたすだろう。

 近年、私の後輩が脳出血、脳梗塞を発症して休業を余儀なくされている。同じマヒの経験者として無事の復帰を願っている。

 医師は記録作成が重要である。パソコンであろうと自筆であろうとカルテ、不自由になると紹介状の作成時を書くことができない。
 今のところ、私は不自由を感じていない。脳梗塞の再発防止には気を使っている。

■腰痛 ネコ背
 医師は、一般的に検査、手術、血管確保、超音波検査など、すぺて腰を曲げてする仕事が多い。内科医でも大なり小なり違いはない。これを何十年と続けていると、やがて腰痛持ちとなり、腰を守るためにネコ背となる。ネコ背は高齢医師を一層老人臭くさせる。
 私も例に漏れない。日常の診療には支障がないが、ベットサイドで患者に静脈確保、気管カニューレ交換、胃ろうチューブ交換等の処置をする際の中腰は辛い。

 私もネコ背になりつつあるが座学中心の生活が拍車をかけたと思っている。椅子の肘掛によって右肘には褥瘡ができかかるほどである。
 今のところ、決定的不自由さは感じていない。

■歩行 
 とにかく年とともに、歩幅が狭く、前かがみとなり、歩く速さも遅くなる。私は今の所10Kmほどの距離なら歩くのは苦にならないが、若い方が階段を登ってきたこときは傍に寄って道を譲る。とても同じ速さでは登れない。歩行時の姿勢は高齢医師のイメージ維持のためにも大事だと思う。

■服装・外観 
 一般的に高齢になるにつけて服装がだらしなくなる。私は若い時から服装には無頓着、興味がなく、自分でもだらし無い人生だった、と思っている。軽装、スリッパ中心に通してきた。学会発表でスリッパで壇上に上がったこともある。
 かつて医師会長を務めた後輩から「場に見合った服装することは相手に対しての最低限の礼儀である・・」とのお説教を受けてから若干は意識するようになった。全くその様に思う。
 引退後には若作り、服装に注意するつもりでいたが、私には無理ですぐに昔に戻った。今は日常は作業着を着ている。とても気に入っているが、外来に出るときは患者に対して失礼にならぬよう着替えしてから出る。

 散髪はきらい。白髪が伸びてイメージが悪くなるから隔月ほどには散髪する。ひげは伸ばしっぱなし、カミソリを当てた事はない。マスクで隠している。私が担当する患者には、こんな私に見切りをつけて他院に行って欲しいがその効果はない様だ。


3/7(木)小雨・曇り 寒い 外来 飯川病院 
 0:30起床。文献新聞など。寒波。6:47バス飯川病院。8:45-13:00外来+人間ドック結果判定。飯川病院に移動、微睡、14:00-18:50勤務。19:15帰宅、夕食、21:00就寝。ラジオ深夜便数回ぶん聴。歩数計8131歩。歩数計「新平成の」が修理終了で返ってきた。再度集計開始。

医師の定年(2) 最近の自身の状況(1)
 最近の自身の状況をまとめてみる。この作業を通じて私が医師としてまだ通用するのかを考えてみる。

■年齢では決められないが・・・
 私の知り合いの内科医(87歳)は十分な蓄財があり、息子も孫も既に医師として名を成している。そんなことを聞いた後で私は「そろそろにしては??」と言ったが、それでも彼は今なお県の山奥の小さい診療所で診察及び住診を続けている。
 年齢と体力年齢は必ずしも一致しないし、蓄財の有無は関係無い。生きがいなのだろうか?村や患者のことを考えれば止められない、という。

 私ならどうする??仕事に生きがいなど感じない。答えは簡単、その歳まで生きているはずがない。
 私は外から見た様子に比し自身で感じる体調は良くない。脳梗塞がきいている。ふらつくし、記憶がダメになった。
 私の信条は「朝の笑顔、夕べの尸」。生きているという偶然がそんなに長く続く筈がない。

■視力
 私の視力は危機的状況にある。私んカルテは緑だ、白だとカラーがいっぱい。緑内障、白内障、眼底出血などなど。加えて近視乱視老眼。視力も悪くピンぼけの中で暮らしている。メガネでかなり矯正できるが、あえてその世界を楽しんでいる。最近ほとんど運転もしないがメガネは運転の時だけ。診察時も用いない。
 ピンぼけの世界は、すれ違っても誰だかわからずストレスが無い。

 読書を好み、新聞、文庫本、医学書・・、パソコン画面など、ほとんどの時間何かは見ている。時間があれば1日に文庫本一冊程度は可能である。目から12cmの距離で焦点が鮮明に合う。だから読むのに不便はしない。拡大鏡も不要。新聞や文犀本の文字、医学書の文字をほぼ自由に読める。日進月歩の医学と共に歩むには、毎日の読害は必要不可欠だ。
 パソコンはなるだけ大画面にし、滑車をつけて目のそばまで動かせるようにしている。
 
■聴力
 手を耳のうしろにあてがい、患者の訴えを聞くようでは、患老の方から逃げ出す。すべて診察は対話から始まる。聞き間違いは困る。だからと言って同じ質問をするのも考えものだ。ボケ老医師と言われかねない。
 診療上では私は今のところ不便していない。音楽も十分楽しむことが出来る。
 それどころか世の中の喧騒に悩んでいて、ノイズキャンセリングヘッドフォンを手放せない。
    
■言語能力
 人間、年とると、とかく言葉がはっきりしなくなる。患者は間きとりにくくなる。年寄りの場合はどっちに問題があるのかわからないが、若い患者から「ハア??」と聞き直されるようでは要注意である。説明内容がどんなによくても、患者は離れて行く。
 私は4年前に脳梗塞発症、意識喪失した。意識回復後二日間ほど言語障害、右半身麻痺となったが自然に回復した。見舞いに来た次男は「親父は医者としても、人としてももうダメだね・・」と宣った。ヤブ医者め!! 人間にはウンと言う理屈以上のものがあるのだ。非科学的世界に真実はあった。謙虚になってほしい。
 自分の言葉で意思を伝えられないということの恐ろしさをじっくり味わった。ちょっと言葉に詰まることもあるが、これは病気というより加齢だろう。


3/6(水)晴れ 飯川病院ボランティア、冬囲い外し ゴーン氏保釈 
0:30起床。文献など処理。午前中までは座学中心、データ整理、N響1903回定期公演視聴:サン・サーンスVc協奏曲No1、そのほか。12:10バス飯川病院、ボランティア、外来患者対応。玄関先のサツキなどの冬囲い外し。19:00夕食、20:10就眠。Σ8495歩。

医師の定年(1) 「外来に出ると患者が減る、病棟に上がれば患者が重症化する・・」
 定年退職とは一定の年齢に達した人を強制的にクビにすることである。業績だとか、まだまだ頑健である、とかは関係ない。判断の材料は年齢だけである。欧米には年齢のみで機械的に働く権利を召上げる考え方は無い、と言う。日本では近年労働力不足から定年に対する考え方が変わりつつあり、定年後の再雇用の制度が広がりつつある。

 法人化して状況は変わったが、国立病院機構や公立病院は定年制が敷かれている。私は私的病院の勤務医だったから多少事情は異なるが、65歳で退職し、嘱託医として繋がっているが、やがて完全退職の日が来る。それも間もなくの様である。先日打診があった。
 私は急性期の患者を扱う高機能の病院には高齢の医師は不要と思ってきたし、そう発言してきたので淡々と受けよう、と思っている。

 勤務医を首斬るのは定年制であるが、クリニックの医師には定年はない。然し、だからと言って「永久」ということはない。「生涯現役」というのは言葉としてはいいが、死ぬまでということで無く、「その時期は、自ら判断する・・」と責任と覚悟を伴わなければ虚しい言葉であり、医師としては危険であり、周りも迷惑する。

 いつ退くかは厚労省でも保健所でもない。自分自身の状況を自分で判断して限界を感じたときである。それは認知症を含めた健康状態の場合もあり、もう一つは自分ではまだまだと思っていても、高齢医師の所には自然に患者がよりつかなくなり、経営が成り立たなくなる。「従業員の生活を守るために続けている」とこぼす医師も何人か知っている。
 ただ、最近は診療所を早めに閉めて高齢者施設に勤務するクリニックの医師も増えたように思う。

 では、どんな時に患者が来なくなるのだろうか。

 私を例にして考える。
 私は午前は総合病院の嘱託医をして週4日勤務し、午後は家内の補助としてある病院で3日間勤務、3日間ボランティアとして、週末は日当直医の一人として手伝っているが、彼女は、私が「外来に出ると患者が減る、病棟に上がれば患者が重症化する・・」などと辛辣なことを言う。半分冗談、と受けとめている。


3/5(火)快晴温暖 外来 飯川病院 
0:40起床、文献・新聞関連など。6:00可燃ゴミ出し。6:20レガシー飯川病院、8:45-13:30中通病院外来。13:45飯川病院、微睡。14:00-18:45勤務、入院患者対応。19:00帰宅、20:20就寝。Σ9911歩。年金分再発行書類届く。

私の収集癖(3) 新聞スクラップ vs 新聞休刊日が楽しみ
 日々、私が情報を仕入れるのは第一に新聞である。

 最新の情報満載、こんな貴重な資料が自宅まで毎日届くと考えると勿体ないほど貴重な存在である。
 私が新聞に親しんだのは「毎日小学生新聞」だったと思う。だから新聞には親しみとこだわりがある。親が私にくれた最大のプレゼントの一つだったと言って良い。
 その後も、今日まで新聞購読をほとんど欠かしたことはない。

 後々まで参考になる記事はスクラップ帳などに貼って保存していたが、本格的に始めたのは1985年である。スクラップブックは書架を二つも占拠した。また、目的の記事を探すのが困難で、切り抜きそのものを保存する方法では限界であった。

 1997年頃にヒュレット・パッカード社のペーパーポートというスキャナーを購入し、約8年近く用いた。2005年富士通からScanSnapのMac対応機が発売された。こちらの方が将来性がありそうなので早速乗り換えた。
 記事の電子化作業は簡単であるが、読み取ったドキュメントは日付と時間だけの名称になるために、適宜内容に応じた名称をつける作業が必要である。これが大変であるが、検索をかけると15年分の読みたい記事が一瞬にして目の前に並ぶ。これは壮観である。

 東日本大震災後は、福島・宮城・岩手の地方紙も取って6紙購読といたが、2013年からは4紙に、2017年には3紙とした。現在購読しているのは「朝日」、「秋田さきがけ」、「日経」である。

 連日新聞からだけでも40-50枚の記事が出る。そのほかにも医学論文、雑誌などの記事も保存の対象にしているから一日100枚になることもある。多分ハードディスクには1997年以降の20万枚ほどのPDFデータが保存されていると思う。私にとっては時間をかけて作り上げた宝物であり、三重にバックアップを取り、自宅、病院に保存している。
 電子データはスクラップ帳とは異なり、その気になれば一瞬に処分できるから気が楽である。が、逆に一瞬に消してしまう危険もある。

 新聞記事は近年大きく様変わりした。おそらくインターネットの普及で速報性から、じっくり読ませる資料的記事に主眼を写しているからであろう。この傾向は私にとっても大歓迎である。

 連日、名称付けと分類の作業に追われる日々で手を抜けない。
 仕事が混んできたりすると未処理のドキュメントが数日分貯まることがあり、追いかけられる。

 そんな時の救いがたまに来る「新聞休刊日」である。新聞好きが新聞休刊日を楽しみにするなど矛盾しているが、年に10日間ある「新聞休刊日」のスケジュールを眺めながら名称化と闘っている。

 私の人生のかなりの時間を紙媒体の電子化とその名称つけに費やしている。されど今までの蓄積を考えるともう止められない。


3/4(月)晴れ温暖  健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30起床。新聞・文献チェック。6:47バス飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック12名分+画像判定。11:00南税務署訪問、書類再発行の助言。北税務署に自分の分送付。飯川病院。微睡、14:00-18:20勤務、日本年金機構秋田年金事務所に再発行依頼。思いがけずスムーズに対応された。入院患者対応。18:32バス帰宅、夕食、20:00就寝。Σ8568歩。

NHK「のど自慢」2019(2) 高度の歌唱力が聞けたチャンピオン大会
 「のど自慢」は日本全国をめぐって歩くが、放送スタッフは各地に3日前から集合して準備を重ねるという。だから、司会者などのレギュラーメンバーは年間半分ほど地方出張していることになる。スタッフ達にとっては私生活を含めて大変な負担だと思うが、考えようによっては魅力的とも思える。
 でも、働き方改革の視点から見て問題ではないだろうか。放送スタッフを2チームに増やして交互に担当させてはどうかと思う。

 番組の始めに数分間開催地の紹介がある。この番組ならではの企画で、地域の特徴や産業、特産品など手身近に紹介される。地域の紹介もあることから開催地の自治体も積極的に協力しているようだ。
 私は旅行など大嫌いだから日本の各地方のことは殆ど知らない。この番組を通じて日本各地の名称、所在地などを知る。時々地図を開いて本格的に確認しながら見る。

 一方、私は伊能忠敬の業績を追いつつ日本の海岸線を歩行する歩数計を使い、バーチャルで旅行している。日本橋をスタートして本日まで約6年、2162日、総歩行距離16413Kmに達し、数日前に三重県の海岸線に到達した。各県境を超えるたびごと各県の地図を広げてその県について勉強するが、その大部分の地名はこののど自慢の開催地で知った、と言っていい。だから、私にとっては単に歌番組というわけではない。地域の勉強を兼ねている。

 一応、誰でも出られる視聴者参加番組ということになっているが、本選出場は狭き門で、選ばれた250組ほどが前日の予選に臨み夕方までかかって20組が選ばれる。歌がうまければ出られる、というわけではなく、出場者は性別、年齢、グループ出場なのかなども考慮されてバランスよく配分されるから、結構狭き門である。

 本選で歌う時間は約1分で、この短さがいい。素人の歌は上手くても下手でも、またパフォーマンスもじっくり見せられるのは辛い。
 玄人はだしの歌も良いが、親子、ジジババ孫のデュエット、お年寄りのナツメロ、職場の仲間達のコーラスなどなど、さらに出場者のエピソードなどの話題をも楽しめる。老いてなお、声に張りのあるお年寄り、観客を巻き込んでのパフォーマンス、どれを取っても魅力がある。週一回のミニお祭りと考えれば楽しめる。出演する中高校生の力量は総じて素晴らしい。

 年に一度行われるグランドチャンピオン大会、今年は3月2日夜に生放送で放映された。
 毎回ののど自慢から生まれる40数人の中から、歌唱力を中心に厳正な審査(VTR審査)の上12〜15組程度が、「NHKのど自慢チャンピオン大会」に進出し、その年の日本一のチャンピオンと優秀賞2組が決定する。

 これがのど自慢に出場した素人なのか?と思わせる様な、玄人はだしの歌唱が展開された。


3/3(日)ひな祭り くもり寒波緩む 申告開始
 3:00起床、新聞・文献チェック、本読み。データ整理。9:41バス帰宅、データ整理、確定申告作業開始。夕方一段落、夕方一人分終了。データの整理など。録画で「のど自慢チャンピオン大会」みる。甲乙つけられず。見事な歌唱力。ほとんど室内で、Σ6199歩。19:00夕食、20:30就眠。今年もネコの餌食になるので雛は飾らなかった。ネコの笑顔で代用した。

NHK「のど自慢」2019(1) 毎週の「のど自慢」は楽しい番組
 昨日夜、年に一回の「のど自慢チャンピオン大会」が放送された。その時間帯は飯川病院の当直だったので観れず、翌日夕方、各種のデータ整理を進めながら録画で観た。

 私は「NHKのど自慢」が大好きである。この番組は1946年開始から70年以上続いてきた超長寿番組である。
 「NHKのど自慢」の放送がある日曜の昼、自宅で過ごせる日は多くはないが、家にいる時は正午の12:00時になると自然に茶の間のTVの前に陣取る。休日の定番となっている。日直とかで家にいない日は録画し、夜に、あるいは後日みる。

 心地よい鐘が鳴り響き、20組の素人の個性ある歌声が聞こえてくる。この番組は、司会者の「明るく楽しく元気よく・・」の言葉で始まる。私はTVは殆ど見ないがこの「NHKのど自慢」と19:00からの「NHKニュース」だけは可能な限りリアルタイムで観る。

 私は3-6歳の頃から、鉱石ラジオで、のちには5球スーパー真空管ラジオでほぼ毎回聞いていた。当時は「しろうと演芸会」とかと呼ばれていたように思う。歌謡曲、民謡、歌曲と部門が分かれていた時代もあったように記憶している。

 なんで私がこんなにこの番組が好きなのか?? 
 私は小学校3年の頃に、村に巡回してきた子供バージョン「NHKこども音楽会」なる番組に出場した。自ら出たのではなく学校からの推薦であった。何を歌ったかも忘れたが、私は11番目に登場し、最初の合格の鐘を鳴らしヤンやの喝采を受けた。賞品はお菓子の詰め合わせであった。2週ほど後にラジオで放送された。

 当時、私はちょっぴり歌が上手で、小学校の校庭で遊んでいると校長から声がかかり、職員室で歌を披露していた。私の十八番は「長崎のザボン売り」であった。
 更に、盛岡の私立の中高一貫校に進学したが、ある日、音楽の授業で突然指名され、教師のピアノ伴奏で「追憶」を歌わせられた。教師はいたく感心し「お前、うまいじゃないか・・」と評価してくれた。これ以降、恥ずかしがり屋の私は人前で歌を披露することはなくなった。このふたつのエピソードは心の中に生きている。
 そんなこともあって、私は「NHKのど自慢」に親しみを感じているのだろう。

 この番組はずっと大きな変化がないような気がする。このマンネリ感がいい。通常はマンネリは嫌われるが、この変わらない安心感がいい。
 昨年から出場枠を中学生に広げたが、250組ほどから選ばれた20組の出場者が自慢ののどとパフォーマンスを披露する。中には驚くほどの歌唱力を示す出場者もいる。それ以上に、出場者の屈託のない笑顔がいい。合格の鐘が鳴った瞬間、出場者が司会者と抱き合う場面もある。司会者は体力がいる。
 グループ出場者で合格した場合、放送後に人数分のトロフィーが渡される、という。

 45分の生放送であるが、本放送終了後ではアトラクションとして、チャンピオンが再度歌うことが恒例となっており、ゲストも2曲ほど歌うという。

 合格の鐘を鳴らす鐘奏者はいま4人目の秋山氏。氏は、東京芸大出身で、帝国劇場オーケストラや東京交響楽団、藝大フィルハーモニーなどに所属した打楽器のプロ奏者だという。

 毎年12月の最終日曜日の午後には「NHKのど自慢 熱唱熱演名場面」と題して1年間に放送された熱唱の名場面を総集編として放送している。これもなかなか良いが、これほどしっかり観ているのに各場面の記憶がほとんどないのが私にとっては不思議である。


3/2(土)曇り晴れ寒波緩む 飯川病院日当直 レセプト処理
1:00起床、本読みなど。おもに音楽関係データ整理。12:00家人に送られ飯川病院日当直、微睡、本読み、18:00検食、19:00レセプト処理。入院患者対応、本読み、徒然、22:00就寝Σ8384歩。

私の収集癖(2) 電子データは検索のために名称化、分類が必須
 私の収集癖は、好きな木工細工の材料として、材木、木片、木箱など集めている。ガレージの2Fの物置にかなり溜まっている。これらは必要に応じて探しに行くとすぐに見つけることが出来る。

 以下は、古くは2008年以降、徐々に電子して収集している。
――――――――――――――――――――――――――――――――-
■蔵書・書籍、医学論文や文献のうちの大部分。
■新聞スクラップのすべて。 
■CDの音楽データは昨年一年近くかけてMP3化した。
■ラジオ深夜便、毎晩3時間分録音。
■N響定期公演を中心とした音楽関連、文化歴史関連の映像データは2015年以降録画。
■一日の歩数、歩行距離の蓄積を含む自身のHPのデータ蓄積。
■備忘録、日常生活のメモ、など。
■・・・・・。
――――――――――――――――――――――――――――――――-

 これらのデータを書籍のまま、あるいは録音テープやMD、CDとして所持するとすれば私の居住空間の大部分を占めてしまう。
 上記の電子データは弁当箱程度のサイズのハードディスクに余裕を持って収めることが出来ている。

 電子化は紙媒体のものを変換するのはちょっと手間がかかるが、映像データ、音声データは今の電子機器を駆使すればそう困難では無い。
 
 収集品の電子化の目的は、物理的空間占拠の縮小にもあるが、主たる目的はパソコンの検索機能を利用して、瞬時に目的のデータを探し、データを有効に活用する事にある。

 電子化しなければ、CDにしろ書籍にしろ、録音録画データにしろ、自分の手で探し出すことはまず無理である。

 形あるものなら場所をとるが、収納するときに若干配慮してあれば、探し出すのは比較的簡単で、その気で見れば一発で分かる。
 電子化したデータは場所は取らないが、電子化データは「2019年03月07日01時19分22秒」と電子化した時間が残るだけ。これが日々、大体50項目ほど蓄積されるから油断していると全く元の内容が分からなくなる。こうなると地獄である。だからできるだけ早く適宜名前をつけ、分類する作業が必要である。

 これが実に大変な作業で、連日私の貴重な時間のかなりを占拠している。しかし、今更やめられない。やめたら電子データの利用はできなくなる。


3/1(金)晴れ午後一時降雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア
1:00 起床、新聞、徒然。5:00可燃ゴミ提出。7:30Taxi駅東口、スターバックスで時間調整8:11こまち、9:10?12:00大曲中通病院、往徒歩、秋田駅からも雨でTaxi。13:30飯川病院ボランティア。19:30書店経由で帰宅夕食、21:00就寝。Σ10875歩。ラジオ深夜便聴数篇聞く。

私の収集癖(1) かたちあるものから電子データに
 人には大なり小なり蒐集癖があるらしい。私にもある。
 動物にもエサを集め保存しておこうとする本能がある。精神病学では身近な物を捨てられず溜め込んでしまう症状を「蒐集症」と言い、強迫神経症的背景を持つ患者、統合失調症の患者に見られる他に、認知症でも見られるとされている。

 中には芸術品などの高価なものを蒐集している方もおられるようであるが、多くの場合は、本人以外は見向きもしないようなガラクタが収集対象となっている。
 切手、玩具、ミニチュアカー、洋酒のミニテュアボトルなどなど人それぞれで、ときに雑誌等で紹介され話題になるが、紹介する本人は実に楽しげである。しかも、あえてその価値を封印して集めているのが面白い。切手は使うことはないだろうし、ミニテュア・ボトルの酒は開封されることは無かろう。ミニテュアカーも遊ばないだろう。
 この辺のところは私には理解出来ないところである。私なら切手は使うだろうし、ミニボトルなら飲んでしまう。

 個人の蒐集趣味として以下が共通点でないかと思う。

■往々にして家族とか、身近な人のひんしゅくを買っている。
■本人にとっては宝物、他人にとってはゴミ同然でしかない。
■有形のものに限らず、知識や言い伝え、なども対象となる。


 私は物品を集め、眺めて愉しむ趣味は無い。だから、コレクションと言えるものはない。
 私が集めているものは全て実用的レベルにある。

 私のコレクションをあえて挙げれば以下の如くである。
 以下のうち、前二者以外は全て電子データであり、大容量のハードディスクに蓄積。二重、三重にバックアップを取り大事に扱っている。

■レコード、レーザーディスク、CDなど。後二者は廃棄済み。
■材木、木片、木箱など。木工細工の材料として。適宜廃棄中。

■CDからMP3化した音楽データ。
■蔵書・書籍の自炊データ、
■文献、新聞スクラップのPDF化データ。
■ラジオ深夜便のMP3データ。
■N響定期公演を中心とした音楽関連、文化歴史関連の映像データ。
■一日の歩数、歩行距離の蓄積。
■自分のHPの蓄積。


 かたちあるものなら場所をとるが、見れば一発で分かる。電子データは場所は取らないが無味乾燥な、ほとんど差のないデータなので、適宜名前をつけ分類する作業が必要である。これが実に大変、私の起きている貴重な時間のかなりを占拠している。しかし、今更やめられない。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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