徒然日記
2017年9月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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9/30(土)午前降雨 午後飯川病院ボランティア 
 1:30起床。文献チェック他。何時ものごとし。書斎の整理、衣類廃棄など。Blu-ray:「読響:ショスタコ交響曲12番レーニン」、「らららクラシック:楽器特集Vc」、「ぶらぶら美術館:地獄絵ワンダーランド」。通町から書店珈琲店経由で徒歩、15:30-19:00飯川病院ボランティア。Blu-rayながら視聴:「池上:数字で見る日本」、「そこまで言って委員会:TVの危機」。19:00帰宅、夕食、20:00就寝。歩数計Σ9805歩。

マスメディアへの信頼(2) フェイクニュースの背景にメディアの信頼失墜がある
 新聞・TVの報道は、視聴者が見たいものを報じることが業績を伸ばす近道である。これが、歴史的に見たメディアの現実であり、危うさでもある。
 NHKニュースのスポーツ、芸能界の取り上げ方は異常であ理、視聴料を返せと言いたい。

 新聞・TV離れは進んでいる。単に数値だけ見れば、いずれは新聞・TVは滅ぶのかもしれない。
 私は、今のところメディアを信頼している。私にとって重要な情報源である。

 ネットでフェイクニュースや不正確な情報が、急拡散する時代、私たちは何を信じ、どう対応すべきか。
 フェイクニュースとは、まるで本当のニュースのように装ったデマ情報である。金銭的な利益や、政治的に有利な立場を得るために、デタラメな記事を仕立てあげ、ニュースのように次々と複製して掲載する。パッと見は普通のニュースのサイトだから、信じてしまう人は驚くほど多い。

 昨年の米大統領選の終盤では、主要新聞やTVニュースよりも、フェイクニュースの方がフェイスブック上で拡散していたことが、明らかになっている。
 僅差で決まったトランプの当選、これに影響を与えた可能生も否定できない。

 日本でもマスメディアに対する信頼性は下がっている。
 ■ 新聞通信調査会が2008年から実施している「メディアに関する全国世論調査」では、NHK、新聞、民放テレビ、ラジオの信頼度が、いずれも過去最低となった。

 ■ 総務省の「平成27年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によると、全体ではTV62.7%、新聞68.6%と高い利用度を保っているが、若い世代ほどその数字は下がり、TVは30代で47.3%、新聞は20代で58.9%となる。勿論、ネットはまだ圧倒的に低いが、ネットは若い世代ほど利用率が高い。

 ■ いまの10〜20代は新聞を読まず、ネットのニュースしか読んでいない。結果的にネットを信じ、メディアの実情を知らないままメディアに不信感を持っている。ネットの発展がメディアの信頼性を奪った形である。

 メディア関係者は「ニュースに関しては、知りたくないことでも、伝えなければいけないことは伝えるという風にやってきた。そこが信用された所以である」、と語る。 何の情報を流すかをプロの目で選別する「門番」の役割をメディアが果たすべきであるが、その信頼性が、ネットの登場によって崩れている。

 ネットには新聞やTVで報じられていないことが出る。「大新聞やTV局が報じない真実」という、週刊誌紛いの見出しで目を奪っている。週刊誌の影響力はそれを読んだ人に止まるが、ネットでは記事に共感した人が、その思いをネット上に書き込みシェアされ、次々と増幅していく。


9/29(金)晴れ時々降雨 大曲中通病院外来  飯川病院ボランティア
 0:30起床、いつもの如く。5:00可燃ゴミ提出。7:30Taxi駅に。8:10こまち、iPad mini車内に忘れた。東京から返送されることに。駅病院間は徒歩、9:10-12:15大曲中通病院外来。帰路駅までTaxi。13:45飯川病院ボランティア。院長葬儀に出席。19:10帰宅、夕食。21:00就寝。歩数計Σ8826歩。

マスメディアへの信頼(1) 「終わった人」の大げさ過ぎる引退報道から
 「私の社会的使命は終わった」と勝手に決めつけ、ほぼ引きこもり状態に入った私にとっては、社会的に「終わって」からの人生の方が、「終わってない人」として自身の人生を歩めるだけに価値が大きい、と私は思う。

 現役引退を私はお祝いの気持ちで捉えている。
 最近の「終わった人」、「終わりそうな人」の引退ニュースとしては、敬称略、順不同で、浅田真央、安室奈美恵、宮里藍、伊達公子、ボルトなどがある。

 どんな職業でも仕事でも、それに携わっている限り、誰もが前に向かって歩み続けている。その姿、表情からは、創造への意欲や行動などを読み取ることができる。生活のすべてが「明日をどうするか」ということで占められているからで、それが見える。それこそが、何よりも現役である限拠といっていい。
 過ぎたことを振り返り、今の自分と比較するようになったら、それが行動や表情から見えるだけに、引退の時期であろう。  

 4月中旬に、フィギュアスケートの浅田真央氏が現役引退した。その時、19:00のNHKニュースは氏の引退について「今は、悔いはないです」と述べた記者会見の様子をはじめ、過去の栄光について何と約10分流し続けた。NHKニュースが芸能ニュース化して常に苦々しく思っているが、その日も呆れてしまった。
 私が拘束している新聞は、一面で取り上げ、数日間報道し続けた。
 
 氏については私も、日本のフィギュアスケート界の大スターに間違いないと思っている。容姿にも恵まれ、実力も抜群で、氷上で舞う姿は妖精そのもの、と感じたことがある。
 しかし、だからといって、彼女の現役引退がゴールデンアワーのNHKニュースのトップで取り上げるべきなのか、数日連続して新聞で報道し続けるほどの重大事であったのだろうか。
 氏の表情からは、創造への喜びを読み取ることができなくなっていた。成績も落ち始めていた。だから、ほとんど既成事実であった。にもかかわらず、その大げさ過ぎる報道に、私はメディアのありように危うさを感じた。

 ちょうどその頃は、トランプ大統領がシリアにミサイル攻撃した直後で、日本海に空母派遣し北朝鮮とも日々緊張が増していた時期である。そして、森友問題、共謀罪が国会で審議されようとしていた時で、私はその日1日の動きを知るために、19:00のNHKニュースは可能な限り欠かすことはないが、その日はつくづく呆れてしまった。

 メディアの信頼性が下がり続けている。インターネットで偽ニュースや不正確な情報が急拡散する時代だからこそ、正確なニュースを報じ、民主主義社会のインフラとなるべき砦としてのメディアであってほしい。メディアが信用できなくなったら!!! これは大きな問題である。

 NHKをはじめメディアは、いま何が重要な案件なのか、判断して世界的視野に立って報道してほしい。芸能やスポーツ界のニュースはそれなりのメディアに任せればいい。


9/28(木)降雨 外来 飯川病院 居間ガスストーブ初点火
 0:30起床、新聞、医学文献他読む。徒然。8:10家内の出勤に便乗、飯川病院着。8:45-13:15外来+人間ドック判定総括14名分。13:30飯川病院。Blu-ray視聴なし。18:30バスにて帰宅、新聞入力、19:00夕食、20:30就眠。歩数計Σ11093歩。

民進党事実上消滅 議員は難民化 なんたることだ 
 ここ数日は、業務中にも、就眠中に日本の政治が変わっていく。なんどもネットで政治情勢を確認する毎日である。

 新党「希望の党」小池代表は、民進党の前原代表と政権交代の実現のために連携すべきだとの認識で一致した。民進党が希望の党と合流という形になるが、民進党は分裂離散、衆議院議員の大多数は難民となって「希望の党」の救いを受けることとなりそうである。
 民進党は壊滅直前状態になった。
 蓮舫代表の辞任、続く党代表の選挙、これはなんだったのだろうか。
 代表となった前原氏の表情は終始暗く、目は虚ろであった。野党第1党であるが、代表が政権交代を訴えるたびに失笑をかった。

 民進党議員は全員が「希望の党」の公認を受けて今回の衆議院選に立候補することとなる、と思ったらしい。小池氏は民進党議員の公認に関し「政策に合致する方なのか、さまざまな観点から絞り込みたい。全員を受け入れるということはない」と記者団に述べた。同党の細野氏は28日、「三権の長を経験した方はまずご遠慮いただく」と合流を拒絶した。つい先日まで仲間だった菅、野田元首相をはじめとして、民進党の重要幹部だった議員は受け入れない、ということらしい。

 実際、これは正しい判断である。
 民進党自体が烏合の衆集団であって一枚板になりきれなかった、民進が示した集団としての欠陥が、このままそっくり「希望の党」にうつったら「希望の党」の方が大変なことになる。

 しかし、選別の姿勢を強める小池氏に対し、「合流の前提が崩れた」との反発が強まっている。総会での了承を覆して民進党公認での出馬容認を求める意見や、「分党」で民進の組織や資金の一部引き継ぎを求める声もある。

 私はそんなこと当たり前でないか。民進党が「希望の党」にそっくり移るなどというのは看板替えだけである。そんな気楽なことを当事者が考えていたとすれば陳腐でしかない。

 民進党は沈没直前の船に乗っていた集団である。議員難民になりそうにまでなったところに「希望の党」という船が近づいてきた。実際どんな方向性を持った船かもわからないまま民進党船の船長は「希望の党」船に救助を求めた。議員たちは全員海に飛び込んだが、「希望の党」船長は自分の船の安全確保のために全員は乗せない、選別するという。乗れるか乗れないかで運命が決まる。若い議員を中心に選別するらしいので「希望の党」船に近づいた。

 前原代表は当然として、菅&野田前首相、岡田元代表、枝野代表代行らは救ってもらえそうもない。当然である。この方々は無所属での衆院選出馬を検討しているというが、無所属では選挙戦を戦うのは厳しい。これらの党重鎮たちは民進党に残って党の理念を主張し続けるべきであろう。あるいはもっと時間をかけて党の行く末を考えるのもいい。
 民進党には参議院議員も残っている。全国には支持者もいる。今解党したら「民進党って一体なんだったのだろうか?」という総括で終わってしまう。


9/27 (水) 晴れ 飯川病院ボランティア 
 0:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。5:00ペットボトル廃棄。8:00家内に便乗飯川病院。院長受診のためのボランティア。プリウス12ヶ月点検、ブレーキその他問題指摘。Blu-rayながら視聴:「ヒストリア:後醍醐天皇」、「昭和偉人伝:棟方志功、浅野総一郎」、「ルパンからの予告状:フェルメール」。16:00バス帰宅、畑の仕舞作業。新聞データ化、19:30夕食。20:45就寝。歩数計Σ10666歩。

小池「希望の党」 何する党か それ以前に都民をバカにしていないか
 小池百合子東京都知事が新党「希望の党」を立ち上げた。
 綱領には「我が国を含め世界で深刻化する社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す」とある。「改革保守」、「しがらみ政治からの脱却」、「日本をリセット」、「身を切る改革」、「真の地方分権の確立」・・・。
 
 発表された政策はどれも具体性に欠け、何をどうしようかが見えてこない。言葉だけが躍っている。

 「改革の精神のベースにあるのが、伝統や文化や日本の心を守っていく、そんな保守の精神」と語るが、政治は結果が全てである。何を持って評価するのか。ますます分からなくなる。
 最大の問題は、何をめざす政党なのか、肝心のそこが見えない。

 7月の都議選で地域政党「都民ファーストの会」を圧勝に導いた小池氏が、なぜか「都民ファーストの会」代表を退いた。私は不可解な行動だと思っていたが、いまになってみれば今回の新党立ち上げに向けての布石だったのだ。

 選挙のために自身の名前を冠し、票を集めた小手先のテクニックで、有権者を欺く手法であった、としか言えない。その切っ掛けとして舛添知事の失政を上手に利用した。

 小池氏に都知事として何をやったのか?
 五輪問題、豊洲・築地問題、確かに問題提起はした。それによって新しい問題も明らかになった。でも、落とし所がなく、関係者を混乱させただけでないのか?

 それだけで国政に乗り出す??これじゃまるで東京都を利用しただけ。都民をバカにしている。

 小池氏に都知事としての実績があり、それを一層発展させるために国政に乗り出すのであれば、希望の党の方向性も見えてくるのだが、今の所何もわからない。
 
 大体、小池氏は野党としての立場は明確にできるのか?
 都知事選前後で自民党と若干の確執はあったが元々は自民党で防衛大臣、環境大臣等を歴任している。
 党の条項として以下を掲げているが、自民との違いを明快にしただけ。決定的対決路線ではない。
■消費税増税についてやや否定的。
■「原発ゼロ」の主張。
■改憲については「議論を避けてはいけない。ただし、9条の一点だけに絞った議論でいいのか?」など。

 それよりも注目すべきは民進党との連携の模索である。民進党は希望の党が何たるかも確かめないままに連携に走る姿である。
 まだ結論は出ていないようであるが、濃厚な連携なら民進党は消滅する。


9/26 (火) 曇り晴れ 外来 飯川病院
 1:00起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。5:00可燃ごみ提出、8:00家内に便乗飯川病院。8:45-13:20中通病院外来、混雑。14:00-18:30飯川病院、Blu-rayながら視聴:「サイエンスゼロ、2本:○マグネシウム新合金、○日本海からの警告」、「納豆:巨大看板」。18:45帰宅・夕食。20:45就寝。歩数計Σ9680歩。足温電気あんか使用開始。テニスウエア通勤終了。

国会解散 民意を問う以前に、主権者をバカにしている
 なんで今時解散なんだ??
 国会解散は「首相の専権事項」とされているが、なんでも首相の個人的な思惑で決められては困る。憲法には、首相はどんな解散でもできるとも、できないとも書いていない。だから違憲ではない。これをいいことに、首相の権利濫用である。
 解散権のあり方には疑問がある。

 選挙で民意を問うことの意義は大きい。消費税の使徒変更を問いたい、北朝鮮対応の信を問いたいと言っているが、消費税の使徒変更は増税を延期している間に社会情勢が変わってきているのだし、北朝鮮対応についても何か今以上のことを考えているのか?解散してしてまでやることか、疑問である。

 国会解散は国民の代表である議員の身分を一瞬にして失わせる強権である。言い換えれば主権者の政治に込めた期待をサラにしてしまうことにもなる。議員も身分不安定、公約さえも主張し続けることはできない。

 今回の解散は、内閣支持率低下の中で、今なら選挙に打って出ても政権維持できるいい機会だとの判断が大きい、と思われる。完全に打算である。しかも自分の政治生命の延長、点数稼ぎが目的に見える。
 首相の読みの背景には、第一は民進党の体たらく状態、野党連合確立困難、小池新党の動きなどなど、野党の準備不足の隙を突くような解散である。首相はよく読んでいると思うが、政治的防衛の準備ができていない野党側の責任は大きい。民進党は消滅しないか??与党受け皿としての野党の機能が残るか心配である。

 森友・加計学園問題はどうなる?北朝鮮情勢は包囲網を含め国際協調は大丈夫なのか?
 8月の内閣改造で「仕事人内閣」の看板を掲げたが、あれはなんだった? ほとんどの閣僚は一度も国会で答弁をしていない。十分な説明もない。
 「なぜ今?」と思う人は多いだろう。

 自由な解散権を認めている先進国はもはや少ない。
 なのに、説明のないまま選挙をやったら「国民をバカにしている」と思わざると得ない。
 「今なら勝てそう」という打算解散。主権者はコケにされている。
 この怒りを我々はどう表現すべきか。


9/25(月)本日より業務復帰 晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
0:30起床、今年も早朝・夜間まだ着衣なしで過ごせる。文献、新聞他。本日より業務復帰であるがまだ徒歩通勤は痛みのために辛い。8:20家内の車に便乗、飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック14名+説明1人。11:10飯川病院に、新聞入力他、微睡。14:00-18:00勤務。Blu-rayながら視聴:「サイエンスゼロ、4本:○生物と機械の融合、○学生ロボコン、○インフラのリスクをあぶり出す、○ミドリムシの未来」観る。18:30バス帰宅、19:00帰宅、21:30就寝。歩数計Σ8788歩。

日本音楽著作権協会 音楽教室などからも著作権料徴収??(2) 鼻歌にも課金されるかも
 音楽教室の練習に用いる曲に著作権法の演奏権が及ぶという法的な合理性はあるのか??
 それは音楽教室は教育の一環と捉えるの否かにかかっている。

 音楽教室側はグループレッスンでも生徒は10人程度で、しかも教室では「技術的手本」を伝え、生徒は「技芸のチェック」を受けるために演奏しており、「音楽を他人に聞かせることが目的ではない」という。当然である。

 だが、JASRAC側は「技芸の伝達や確認のみが目的ならば、著作権が切れた練習曲でもよいはず。人気の曲を使うのは生徒が曲の魅力を味わうためで、聞かせることが目的になっている・・・・」。
 なんだか理解しがたいクダラナイ理屈の応酬である。教材として、題材に使ったっていいではないか。音楽の魅力を封印する考え方である。
 
 JASRAC側が抱えている背景は、音楽市場の変化がある。
 著作権関連収入の中心だったCDの売り上げは2015年にピーク時の3割まで低下。協会は2016年に聴き攻題サービスからも徴収を始めるなど、新しい利用形態にも徴収の網をかけ、徴収額をピーク並みに維持してきた。
 2015年度の徴収額は1117億円に上る。

 音楽教室に課金するとすれば「音楽教室は全国で約9千ヵ所」、「著作権料は年間受講料収入の2.5%」としているから年間10-20億円の徴収が期待される。確かにJASRAC側にとっては美味い話となる。要するに、JASRAC側にとっては美味い話となる。
 私は音楽教室側の「教育目的である」との考え方に加担する。

 JASRAC側は、音楽教室は「営利性があり、例外規定外」と反論するが、音楽教室側は営利であることは当然だ。しかし、著作権を拡大解釈しているJASRACの方が営利的である。
 JASRACの方針は、音楽教室への課金に止まらない。演奏権の拡大解釈はさらに続くだろう。個人経営のピアノ教室、ヴァイオリン教室などからも徴収する方針で、街の教室には不安が広がる。

 「音楽の未来を、自由な楽しみを閉ざす」、「鼻歌を歌ったり口笛を吹いていても、著作権料を支払えと言われそうだ」と、過剰な権利主張への懸念の声があがった。音楽教室が集めた反対署名は57万筆、これには一般の人も含まれている。

 非営利目的で音楽を利用する側の自由も尊重して欲しい。JASRACは考え違いをしている。
 もし、私の下手なヴァイオリン、チェロにまで課金されたら・・・、まさかと思うが、考えると身が縮む。


9/24(日)快晴 家内のBD 飯川病院日直
 0;00起床。本読み、新聞など。飯川病院。9:00-17:00日直勤務、入院か隠者対応。
Blu-rayながら視聴:「100分で名著:大岡昇平野火(3)(4)」、「サイエンスゼロ、3本:○アンモニアの研究、○消防技術、○天の川」。19:00迎えあり帰宅、西武デパ地下夕食、20:30就眠。歩数計Σ9636歩。

日本音楽著作権協会 音楽教室などからも著作権料徴収??(1) そんなバカな 
 音楽教室での練習の演奏からも、著作権料を取る!!!! そんな日本音楽著作権協会(JASRAC)の方針が波紋を広げている。

 著作権法は、公衆に直接聞かせたり見せたりする目的で演奏などをする「演奏権」を、作曲家や作詞家が保有すると定めている。それを背景にJASRACはコンサートの主催者などから楽曲の著作権料を徴収し、作曲家らに分配している。
 だから、著作権法は作曲家ら創作者の権利を守りつつ、利用する側の自由も確保している。

 著作権法は芸術や文化を守るためには極めて重要である。

 著作権法には、例外規定かがあり、非営利・無料・無報酬の演奏には演奏権が及ばないとしている。学校、教育機関の授業は徴収の対象外となっている。

 JASRACは「演奏権」を根拠に法に訴えながら徴収対象を次々と広げてきた。
■1971年に社交ダンス教室、
■1987年に5坪以上のカラオケスナック、
■2011年にフィットネスクラブ、
■2015年にダンス教室を対象に加えた。
■2016年に聴き攻題サービスからも徴収
■2017年ヤマハ音楽振興会と民事訴訟中。

 演奏権が及ぶ範囲はJASRACの法廷闘争で事実上、着実に拡大してきた。
 JASRACは全国15支部と約500人の職員を擁し、最高裁調査官経験者も含む弁護士30人を顧問に抱える。まさに「著作権の王様」というべき力を持つ。

 2003年にJASRACはヤマハ音楽振興会と著作権法に基づく費用の徴収を巡って協議を始めたが強く反発されたため、楽器講座のあるカルチャーセンターなど類似の業態から徴収する実績を作った。まず、外堀を埋めてヤマハ音楽振興会を締め上げている。巧妙なやり方であるが、これがJASRACのやり方のようである。

 JASRACはヤマハ音楽振興会から2018年1月からの徴収開始を目指すが、音楽教室側は「音楽教育を守る会」を結成し、徹底抗戦の構えである。

 もちろん冗談であるが、鼻歌を歌ったり、口笛を吹いたりしているところをJASRACの職員に聞かれたら課金される事態になるかもしれない。


9/23(土)曇り時々雨 ゾンタバザー
1:00起床、新聞チェック・文献読み。画像データなど整理。いつもと同じ。ゾンタバザー準備、午前Alve会場に届ける、11:30駅ビル書店、京都ガイドブック購入、バス帰宅。
午後、微睡ごネコ室家具入れかえ。畑のマルチ剥ぎ。本年度の仕舞い準備。Blu-ray視聴:「らららクラシック:アイネクライネ」、「名曲探偵:ブルックナー交響曲7番」。新聞、単行本データ化、19:00夕食。20:10就寝。歩数計8628歩。

谷垣氏引退 同じ自転車好きの一人として心が痛む
 2016年7月、自民党重鎮の一人、谷垣元自民党総裁の谷垣氏が趣味のサイクリング中に皇居付近の路上で転倒し、生命が危ぶまれるほどの大けがをされた。上位の頚椎損傷という。

 谷垣氏は自転車マニアとしても有名で、高級ロードバイクを数台所有し、サイクリング団体の会長を勤めたこともあるなど、自転車業界に貢献している。氏が愛用している「ロードバイク」は自転車競技でも使われるタイプで「チネリのスーパーコルサ」。100万円もする高級車である。

 いかに経験豊かであっても路上での転倒時には危険がいっぱいである。路上には突起物もたくさんある。「上位の脊椎損傷」ということまでは報道されているが、どの程度の障害があるのかは政界の重鎮だけに、また、政策グループも主催されているだけに明らかにされていない。
 一時は生命予後が危ぶまれる状況で、現在集中治療を行う病院からリハビリー病院へ転院されているという。
 
 氏の手記として「退院の時期をにらみながらリハビリに専念し、一日も早い復帰に向けて準備している」、「8〜9月の退院も見えてきた」等が報道されたが、私は未だに厳しい状況下にあるのだろう。自立歩行は無理で、良くても車椅子レベルか、政界復帰はなおしばらくは困難だろう、あるいは不可能と思っていた。

 このたびの衆議院解散選挙の流れの中で限界を感じられたのであろう、政界から引退する決断をされたらしい。

 氏は1945年3月生まれだから私とは2け月違いである。
 私も自転車が好きでロードバイクとマウンテンバイクの中間に位置する「クロスバイク」を用いていたが、それでも車高、重心が高く、低速時は不安定である。停車時は爪先立ちでも足が地に届かない。不用意に停まるとこけることもあった。運転姿勢も高速を求めている時以外は不自然である。

 日常的に車道を走るには危険との戦いであったので、2012年の転倒事故を契機に「クロスバイク」としては乗るのをやめた。その後、ハンドルの高さをあげ、サドルを低くして「元クロスバイクの改造軽快車」として時折使っている。これだと足も楽に地に着くし、通常の自転車以上の危険は感じない。

 まずは、谷垣氏の今後の回復を願うだけである。
 


 9/22(金)快晴 飯川病院ボランティア
 0:30起床。新聞チェック・文献読み・徒然など。可燃ごみ廃棄遅れ8:10に廃棄。10:00畑片付け。13:15-16:45飯川病院ボランティア、散水など。途中でヤマハ弦購入。弦楽器カタログもらう。バス往復。新聞データPDF化。19:00夕食、20:00就寝。Blu-rayながら視聴:「ヒストリア:富士山大爆発」、『100分で名著:大岡昇平野火(1)(2)』。歩数計Σ8558歩。

終活あれこれ2017(8) 父母のタンス(2) 金目のものは何にもなかったが・・・

 先日、私は鼠径ヘルニアの手術した。

 経過不良のことも予想して約2週間の療養休暇を確保した。実際には手術は経過順調で術後3日目に退院し自宅で療養とした。まだ右下腹部の痛みは残っていたがこの機会を利用し、両親の遺品であるタンスを開けてみた。
 多分、衣服中心であろうが、隠し金、重要書類も入っている可能性はないわけではない。淡い期待と怖れもあった。

 鍵はドライバー一丁で難なく破壊できた。実に簡単であった。ほとんど鍵の役目を果たしていない。
 ナフタリンの匂いが鼻をついた。ほとんど蒸発して袋のみになっていたが、衣服の間のナフタリンはまだ十分働いていた。40年も、大したものである。

 大部分は衣服で、父親のモーニング、背広、袴、母親の着物、紋付などが綺麗に畳まれており、中には、一見ちょっと高価そうな帯が数本もあった。
 当時の服や着物の生地は今のものよりかなり厚く、重量があった。

 私が利用できるものは何も無し、と即断し、全てを秋田市のゴミ回収袋に詰め廃棄した。45Lの袋に3ケ分もあった。たんす一棹に随分収納されていたものである。

 隠し金??は450円見つかった。10円硬化数ケは見事な緑青で覆われていた。私の小銭入れに収容した。
 重要書類??は、南部地所KKの、父親名義の株券が200株ほどあった。子供の頃よく話題になっていた会社である。当該の住所には既に会社はなく、ネット検索では同名の会社は岐阜県内にあった。関連を確かめず、株券は全部ゴミ箱に廃棄した。

 タンスそのものであるが、外見は一見桐たんすそのものであるが、見えないところでは杉材を用いているなど、作りは全体に安作りであった。小さい頃から桐たんすとしてその存在を崇めていただけにちょっと落胆した。80年前に母が嫁に来た時の嫁入り道具だったのだろう。生家は豊かでなく、これでもかなり無理して揃えたものだったと推定できた。
 タンスは安作りでよかった。一段は食品庫に、残りの2段はネコ部屋の収納に用いることにした。これでこのタンスを毎日見続ける頃ができる。

 隠し金については後日談がある。
 1958年以降一時空き家になっていたが、食肉会社を営む盛岡在住の親戚が従業員を住まわせるということでこの地に住宅を建設することになった。その際、盛岡の解体会社から連絡があり、天井裏からカバンが見つかりその中に現金が30万円ほどあったという。ネコババできたのに、と感心し、2割ほどをお礼して有り難く引き取った。これとタンスから見つかった450円が両親が私に残してくれた現金の全てである。

 2012年12月、私が脳梗塞に罹患したのを機会に、終活の一環として両親の思い出があるこの土地を手放した。
 
 終活としてた項目予定されているが以下の□項目はほぼ終了済み。ここまでやればいつでも死ねそうである。
□住宅メインテナンス □庭木・灌木などなどの整理 □クレジットカード整理 □インターネット・メール関連プロバイダー整理  □学会認定医・専門医 □預金通帳の整理とまとめ □生命保険の整理とまとめ □レコード、ミニディスク、CDなど廃棄 □延命治療について意思表示 □死亡時の連絡先など □葬儀について □遺影 □私の実母の遺品 □電子データ等の整理、など。


9/21(木)早朝激しい豪雨・快晴夕方から降雨 外科受診 飯川病院ボランティア
1:00起床。新聞・文献・徒然など。5:00資源ごみ、蛍光管廃棄。8:50車に便乗飯川病院着、11:00中通病院、11:45外科ヘルニア外来受診、13:00-15:35ボランティア、16:30薬局、珈琲店、書店経由バス乗り継いで帰宅。Blu-ray視聴:「名曲探偵団:第九の謎」。19:00夕食、20:45就寝。歩数計Σ9889歩。

終活あれこれ2017(7) 父母のタンス(1) 40年開けれなかった
 1978年6月母死去、1983年5月父死去した。

 父死去後、お盆休暇に2日間ほどかけて盛岡郊外にあった住宅内部を整理した。捨てるのが忍びない、かつ、有用と思われる家具、電化製品などのみ秋田に持ち帰った。それらにはブラウン管29型の大型TV、VHSビデオ、電子レンジ、オイルファンヒーター数ケ・・・など、先進的かつ高価な器具も含まれていた。
 母死去後、自由を得た父が一人暮らしの中、私に内緒で購入していたものである。他に、ローヤルゼリーの錠剤が1年分ほどあった。若い女性のセールスレディが定期訪問して売ってくれたのだ、という。簡単な身の周りの世話もしてくれ、お礼の意味もあって大量に買ってあげたのだという。多分、一人暮らしの寂しさもあったのだろう。

 だから、父は私の突然の訪問を嫌がった。いろんな物品を隠したかったのだろう。
 マア、私は知っていたのだが、見ぬふりをして、気がつかないふりをして好きなことをさせた。健康管理についても、糖尿病の食事に関してもかなり好き勝手なことをやっていた様子であったが、好きなようにさせた。今となってはいい思い出である。

 長い間の両親の生活で蓄積された物品類、捨てがたかったが、軽トラ赤帽運送一台に詰め込めるまで絞り込んだ。

 あれから約40年、持って来た物品は適宜廃棄してきた。ローヤルゼリーは全部私が飲んだが、体調に全く変化がなかった。本物だったのだろうか?多少の栄養にはなったか?持参した電化製品は全て私の元で寿命を迎えた。

 最後に3段の桐たんす一棹のみ残り、私の部屋に鎮座していた。これを開けていないこと、処分していないことは私の大きなプレッシャーになっていた。鍵がかかっていて開けることができず中身を確認できなかったからである。それと、何か知ってはならないような書面でも出てくるのではないか、と開けることに多少の恐れもあった。いつかは、いつかは開けるべし、とずっと思っていたが最近まで手をつけられなかった。

 私は現在、就活として書籍やレコードその他を廃棄し続けているが、このタンスは家内や次世代には委ねられない。必ず自分で処理すると決めていた。それが、私の両親に対する最後の貢献と考えていた。

 その機会がやっと訪れた。開けてみた。


9/20(水)快晴午後こうう 飯川病院ボランティア
0:30起床。文献若干,本読み、新聞読む。6:00金属製品廃棄日で集積所に。9:00家内の車に同乗飯川病院に。終日ボランティア、文献読み、新聞チェックほか。Blu-rayながら視聴:「池上ニュースそうだったのか:アメリカについての解説」、「世界の今:北朝鮮問題vsアメリカ」、「ここまで言って委員会2回分、北朝鮮問題など」。19:00帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計Σ9114歩。

敬老の日2017(2) 高齢者には死生観の確立を望みたい
 私は医療関係者の一員である。
 高齢者の医療において生活の質を維持向上させ、健康寿命を延ばすための医療、研究等はとても良いことだと思うが、延命を目的とした医療や、慢性的な生活援助、介助を要するほどの状態にある方への濃厚な医療は一考すべきと思っている。
 
 不健康状態にもピンからキリまでのグレードがあるが、少なくとも私は「寝たきりを増やして今年も平均寿命世界一」状況へ医療が加担してはならないと思う。
 しかし、この点に関しては多様な意見があろう。私も個々の方々の状況をつぶさに検討しなければ判断できない。

 ■参考までにお一人の方。90歳の介助を要しながらなんとか自宅におられる女性。切除不能肺ガンと診断されたが、ご家族の希望で延命目的に抗がん剤オプジーボ投与を希望し、某総合病院に入院した。オプジーボは一般の方々に「ガンに効く夢の薬」として知られている。1年間使用続けるとすれば薬価だけで1700万円もかかる。自己負担はあっても月に2-5万円。この意味では「安くて効果のある夢の薬」である。私はオプジーボ療法は効果と費用の兼ね合いから適応でないと思っているが、主治医の判断がどうなるかはまだわからない。

 ■参考までにもう一人。90歳の男性、この数年間体調不良を訴え短期入院を頻回に繰り返してきた。最近は認知症状態も進行し寝たり起きたりの状態になっていた。その原因として脈拍が異常に遅くなる徐脈発作であることがわかり脈拍をコントロールするペースメーカーを装着。その結果、全身状態、認知症症状は明らかに改善、日常生活も年齢相応以上の状態に戻り、畑に出たり、元気に通院してきている。この方の健康寿命は明らかに延びた。

 いま日本の高齢者の環境、現状は、長寿を心から喜べるものとはいえない、と私は思う。
 人間関係も失った「無縁老人」、公的年金だけではとても生活が維持できない。貯蓄も尽きた「無円老人」の生活保護の申請が増えている。しかし、調査は厳しく生保認定の道は狭い。ある申請者は手記で「棄老」に等しい扱いであったと記載されていた。

 7月に105歳で死去した日野原氏は、多分日本国中の高齢者の憧れの方だったと思うが、あのような生き方をされるのは千に一人、いや、万に一人しかない。いわば現代のバケモノのお一人。目標にしてはならない。私は氏を、素晴らしい方であったと思っているが、最も感心すべきだった点は移動能力を最後まで衰えさせなかったこと、である。

 全国の100歳以上の高齢者は年々増加し、約6万8千人に上る。長寿はめでたい、と私は個人的には全然思っていない。高齢化社会ならではの難問も膨らんでいる。「寝たきりを増やして今年も平均寿命世界一」に揶揄される、不自然に生かしている状態は近代医療の怖さだ、罪だ、と思う。本来医療界もこの点を考えなければならないが、集団で考えればまとまらない。

 だから、高齢者は元気なうちに、自らの生活、いのちに対する考え方、すなわち死生観を確立しておくしかない。
 誰しも老いは避けられない。「敬老の日」に際し、自らの生き方を見つめ直す格好の機会にしたいものである。


9/19(火)快晴やや寒い 飯川病院往復、散水ほかボランティア
 1:30起床。新聞・医学論文チェック他データ整理。4:45父母遺品中心にゴミ出し大量。14:00-16:30クロスバイク飯川病院往復、散水ほかボランティア作業。夕方、自宅で音楽関係録画視聴:「名曲探偵アマデウス:チャイコフスキーなど」。19:00夕食、20:30就寝。歩数計Σ7759歩。

敬老の日2017(1) 敬老の日のニュアンスが変わってきた 
 昨日は敬老の日であった。かつては新聞では各紙が社説でお祝い記事、一部問題点提示などをこぞって掲載したものである。
 私は現在中央紙2紙、地方紙2誌を購読しているが、社説で取り上げたのは岩手日報一社だけであった。他はどうか、ネットのレベルであるが他の中央紙4誌を調べてみたが社説として取り上げた社はなかった。

 高齢者の社会的な意義はますます大きくなってきているのに、これでいいのか、と感じた。

 最近の人口統計から見ると以下である。

■65歳以上の高齢者人口
 15日現在は推計で65歳以上の高齢者人口は3514万人となり、総人口に占める割合が27.7%に。前年より57万人増え、過去最高に。
 男性は1525万人で男性人口の24.7%、女性は1988万人で女性人口の30.6%。

■75歳以上が1747万人(総人口の13.8%)、
■80歳以上は1074万人(同8.5%)
■90歳以上は初めて206万人となった。
■100歳以上は全国に6万7824人、最高齢は117歳とのこと。前年から2132人増え、47年連続の増加。大半は女性で87.9%を占めた。
 100歳以上の人数はやはり人口に比例している。東京5835人>神奈川3737人>大阪3559人。秋田県は613人。
 人口10万人当たりでは5年連続で島根(97.54人)>鳥取(92.11人)>高知(91.26人)と続き、四国が上位を占めた。
 
 100歳以上は1963年は153人であった。98年に1万人、2012年に5万人、15年に6万人。
 厚労省は「医療技術の進歩などが影響している」とみている。
 そうかな??私は違うと思う。長命化の原因は医療技術の進歩、高齢者に手厚い国民皆保険、シルバーデモクラシーなどもあるが、世の中の清潔度、栄養状態の改善が一番大きい。
 
■年齢分類は不明であるが、昨年の高齢者の就業者は過去最高の770万人にのぽった。65〜69歳の男性の53.0%、女性の33.3%が就業。
 総務省は「高齢者の勤労意欲が高いことに加べ受け入れる企葵も増えている」としている。そうかな??私は違うと思う。
 退職後の長い余命を考えれば蓄え、年金だけでは間に合わない、という不安感も背景にある。

■欧米主要6カ国と比較した高齢化率は日本>イタリア23.0%>ドイツ21.5%。
■国立社会保障・人口問題研究所の推計では、第2次ベビーブーム世代が65歳以上になる2040年には、総人口の35.3%が高齢者となる見通し。

 質的に見た高齢化は、

■内閣府の調査では高齢者の約1/6人、460万人が独居。これが10年後には630万人を超えると推定されている。
■また、単身高齢者の男性の2割、女性の1割近くが無縁者である。人間同士のつながりはここまで薄くなった。東京23区内では年間約3000人が自宅内で孤独死している。

 私自身は性格的に見て、「孤老」に陥る有力候補者の一人である。だから、その点の覚悟はできている。限界を感じたら一人静かに世を去りたい。その方法まで考えている。

■日本は世界的に見て長命国になったのはそれなりの理由があるが、長寿社会へ成熟したとはとは到底言えない。


9/18(月)敬老の日 台風18号通過で強風降雨、午後快晴  
 1:00起床。新聞他いつもの如し。父母の遺品のタンス整理残り進めた。期待した多額のへそくりなどなし、現金五百円ほど、印鑑多数、父の年金関係書類、南部土地KKの株券が出てきた。2F居室整理、廃棄物多量。午後Blu-rayながら視聴:「N響の歴史を飾ったレジェントたち:マタチッチほか」、貴重な録音楽しめた。19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ6500歩、Σ12573Km。

北朝鮮2017(12) 金氏に私の立場でできること 
 私はかつては、ミサイル、核、核弾頭も重要であるが、人道上の立場から金正恩氏の健康状態を心配していた。
 医師はどんな人であろうと、健康上で不利益となるようなことを期待したり望んではいけない。「罪を憎んで人を憎まず」、が基本である。

 しかしながら、今は、世界平和のために、日本の安全のために、金正恩氏の肥満体が自爆してくれないか??という淡い期待を抱いている。
 
 健康上の自爆から、近い将来、国を管理できなくなる可能性がある。その際、現政権の基礎が崩壊し、北朝鮮に政権交代が起きるかもしれない。

 金氏の現状は以下のごとく厳しい。
■ 自己の体重もコントロールできない精神的な弱さ。
■ ミサイル、核実験等で日米韓にプレッシャーをかけているが、一番ストレスを感じているのは金正恩氏自身??
■ 自ら作り上げた問題に自らが押しつぶされそうになっている?
■ 画像として提供される写真・映像には氏は落ち着きなさと作り笑いが目立つ。
■ 朝鮮労働党の最高会議メンバーにも心を開いていない?

 これだけ肥満すれば健康上の自爆が生じる可能性は高い。もう何かが起こっていそうだ。
 そうはいっても待つだけでは・・・何か方法はないのか?

 私は無力である。ミサイル発射、核実験のたびに国の、総理のコメントはいつも同じでイライラする。「世界の、国連の決議を無視した暴挙・・・。断じて容認することはできません・・・」・この程度のことは私でも言える。 
 日本の領土に誤ってミサイルが落下した場合、船舶・航空機に被害が出た場合には総理は何とする気なのだろうか、読めない。「世界の、国連の決議を無視した暴挙・・・」を繰り返し、「そのうちトランプがなんとかしてくれるはず。それまでは座して死を待ちましょう、耐えましょう・・・」、とでも言うのだろうか。

 私は無力である。歯がゆい思いである。
 私として北朝鮮問題に対し何か寄与することはできないのか?

 ハッと思い立った。日本古来の方法で北朝鮮に向かって呪いをかけてやることくらい私でもできるのではないか。
 わが国では「丑の刻に、白装束で、白ハチマキで、神社や寺の手頃な木に、肥満体を模写した藁人形を、五寸釘で呪文を唱えながら、一打一打打ち込む・・・」と言った手があるじゃないか。でも、藁がない!!! この場合は写真や名前を書いた半紙でもいい、とされている。釘もない!!! ならば画鋲では代用しよう。 私は昨朝からこんなことを毎日、丑の刻とされる2-3:00ころ、心の中で念じて見ている。
 私一人では無力である。
 私に倣って、神社やお寺の木々に藁人形や半紙が増えて行くことを望む。
 
 私は無力である。通常は無神だと言っているが、こと北朝鮮の暴挙に関しては問題が逼迫している。だから、ちょっとそのお力を拝借したい。ヤオロズの神々のどなたか、私にご協力いただけませんか。


9/17(日)晴れ風強し 台風18号九州に上陸 
1:00起床、電子データチェック、本読み。微睡など。午前、台風の強風想定して鉢植えを横にし、ダリアの茎枝花を支柱にくくりつけなど。午後は長く懸案だった父母の遺品のタンス整理開始、2F居室整理、廃棄物多量発生。微睡など。本読み中心。Blu-rayながら視聴:「ヴァイオリン、弦楽四重奏」、「題名のない音楽会:出光音楽賞受賞者3人」楽しむ。いい番組であった。19:00夕食、20:30就寝。歩数計Σ4259歩。

北朝鮮2017(11) 金氏の肥満に期待する日々 
 2011年12月金正恩氏が死去した。後継者の金正恩氏は能力は未知数であるが、当時は後継者として国民の支持が得られるか,と言う点で私は大いに心配した。
 もちろん、政治的な意味ではない。
 あのデブ、肥満、はち切れんばかりの脂っぽい表情に対する心配である。

 北朝鮮の民衆は食糧難のためだろう、マスコミの映像に見る限り肥満体の国民は一人も、本当に一人も、見たことがない。そんな中、この金正恩氏だけが異様に肥っている。
 相当に贅沢な環境の中にいるのではないか。腹を空かせている国民は到底口には出せないだろうが、「われわれも腹一杯食べてみたいものだ・・・」そう思ってはいないだろうか。肥満体の指導者と羸痩状態に近い国民が共感して「同志」と言い合えるのだろうか。感情的にはうまくいっていないのではないか??
 まあ、そんなことを考えて見守っていた。

 当時、私はこの政権交代を機会に北朝鮮がアジアの安全に寄与する国になって欲しいし、北朝鮮の国民が飢えや寒さから身を守れる様な生活環境の改善につながって欲しいと願っていた。そのために,まず、若い金正恩氏にはやせて欲しい,と願っていた。

 完全な見込み違いであった。彼は痩せもせず肥ったまま、アレヨアレヨと独裁者の道を駆け上っていった。映像で見るとともに写っている取り巻きの高官達は全員が過緊張状態にあるように見える。表情は硬いし、動きもぎこちない。高官は自分の命が危ない状況にある。高官であればいつ粛清の対象になるかわからない。恐怖政治そのものである。

 2011年12月、北朝鮮「ナンバー2」として権勢を振るった張・元国防副委員長が処刑されたニュースは世界を驚かせた。父の代にも仕えた叔父に対する冷酷な血の粛清で、自らの権力を誇示に利用した。
 韓国情報機関が得た情報によると、北朝鮮では2010年に17回、2012年は40回以上の公開処刑があった。とされている。

 金正恩氏はもともと肥満体であったが、この数年で著しく体重を増やしている。かなり孤独なのであろう。北朝鮮はミサイルを進化させ、核弾頭の軽量化にも成功した。その進歩には目を見張るものがある。

 しかし、金正恩氏自体は自分の軽量化には成功していない。むしろ、超デブ状態になっている。鼻がほっぺの肉で埋まりそうである。表情もよくない。
 現在33歳、痛風らしいとの見方もあるが、多分健康上の問題を抱えていると推定される。

 私はかつては人道上の立場から氏の健康状態を心配していたが、今は、世界平和のために、日本の安全のために、金正恩氏の体が自爆してくれないか??という淡い期待を抱いている。医療関係者としては不遜な考えであるけれどもここまでくればやむを得ない。


9/16(土)快晴 孫たち運動会 飯川病院ボランティア 千秋花火
0:30起床。蓄積資料整理。午前は孫運動会なるも欠。家内送りながら病院へ。新聞など。10:30-14:00飯川病院留守番ボランティア。もっぱらデータ。14:30プリウス鍵修理。Blu-rayながら視聴:「英雄たちの選択:関ヶ原、白村江の戦い、秀吉vs家康、廃藩置県、応仁の乱」。帰宅後書斎整理。19:00夕食、20:30就寝、歩数計Σ4486歩、1年前は長崎県であった、九州の海岸線は長い。

秋田の豪雨被害(4) 佐竹知事減給??(2) 金銭で解決しようとする根拠は何か
 知事は記者会見の中で、「この程度の額であれば、自分にとって大きな傷にならない・・」とも述べていたが、自らの負荷になり、心に傷を負うようなレベルでなければ処分としての意味がない。もし、本当に申し出るなら知事の立場ならもっと額が必要である。

 マザーテレサは「差し出しなさい、心に傷がつくほど・・」と述べた、という。それほどでない行為はたとえ寄付であっても偽善的、と言いたかったのでないだろうか。この言葉はの原典に接していないが、私は好きである。
 私も、岩手の復興資金として、毎月「心に傷がつくほど・・」提供している。また、寄付とか募金が回ってきた時には所持金のほんの一部を出すことはしない。

 新聞記事を見る限り知事に辞任を求める意見も少なくないように見える。実際のところはよくわからない。ただ、知事も、マスコミも、紙上で、TVなどで意見を述べている県民も感情的すぎる、と思う。マスコミは記事、映像を通じて煽りすぎているし、世論の操作をしている。記事を読めば「うんうん、私もそう思う」と考えざるを得ないような誘導の意思を感じる。

 佐竹知事の今回の行為は県政に対する県民の信頼を失わせることになったが、知事はこのような失態を繰り返して来たわけではない。
 私は今回の虚偽行為を変な意味で金銭に換算しないで、常に目の前において「恥をさらすことが償いにもなる」として、残りの期間を誠心誠意働いて欲しい、と思う。あえていうなら、「同じような失態を生じた際には進退を伺う覚悟がある」、の表明でいいと思う。

 一度の過ちが全てを否定することにつながるのだろうか?
 今回の知事の行為を処罰の対象にする根拠はどこになるのだろうか? 知事にも、これを論議する議会にも尋ねてみたい。

 政治家の場合、誤った発言答に対し安易に「撤回します」、というが私は修正ならいいが撤回させてはならない、と思う。撤回すれば問題点が、発言した責任まで消えてしまう。
 知事の場合も同様で、傷にもならない程度の金銭に換算して、それによって陳謝の意を示して禊としたいというのは極めて安易な方法である。

 私は秋田県政には問題点が山積みなのに、県にも知事にも緊張感を感じ取れないので今回の知事選には投票しなかった。ただ、今回の問題はこのこととは別問題である。

 無給3け月では不足で、1年ならいいのか?いや、そんな問題ではない、と私は言いたい。安易な解決策を提示するよりも、残りの期間を誠心誠意働いて欲しい、と思う。


9/15(金)快晴 飯川病院ボランティア 北朝鮮またミサイル
1:30起床、新聞チェック、本読みなど。5:00可燃ゴミ集積所に運搬。午前は書斎の整頓中心、レコード100枚ほど廃棄。Blu-rayながら視聴:「N響定期公演数回分、シューマンチェロ協奏曲など」、「ワルシャワの未完成交響曲」、急遽15:45飯川病院ボランティア、レガシー往復。入院外来患者手伝い。17:30帰宅、19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ7133歩。昨年はトランクス通勤止め、居間ガスストーブ初点火した日。今年はまだ。

秋田の豪雨被害(3) 佐竹知事減給??(1) 3ヶ月間無給だなんて甘い!!
 秋田県を襲った集中豪雨に露呈した佐竹知事、県の危機管理の甘さは大いに問題であるが、知事がゴルフに行ったことを含めて会議に遅れたことは決定的な問題ではない。

 知事、県庁の組織や政策に緩みが出ていると思う。こんなレベルで今まで県がよくもっていたものだ。それが今回ひょんなことから具現した。残念なことであるが、私は問題が明らかになったことは今後のためには良かったと思う。その意味では佐竹知事は立役者である。

 ただ、この件に関して知事が、それほど隠すべきと思えない軽い内容のことを虚偽の説明をしたことは、危機管理の甘さとは別次元の「重大な」問題である。
 「虚偽の説明」は、「したこと自体」が問題であって、内容問題ではない。

 知事は陳謝を繰り返しているが、知事が何を問題だと考えているのか、よくわからない。政権にとって一番大事なことは信頼であり、破廉恥な行動でそれを損なったが、知事はそのことをなんと考えているのだろう。

 知事は9月13日、自らの月給3ヵ月分と冬の期末手当を無給とする条例案を9月県議会に提出した。可決されれば507万余円の減給となる。

 佐竹知事は「被災された方々、県民に県政に対する不信感を抱かせることになり、深く反省している」と陳謝。「今後は初心に帰り、早期の災害復旧、山積する県政の課題解決に全身全霊を注いでいく」と述べた。口ではなんとでも言えるが、真意がよう伝わってこない。

 減給条例案は本人からも申し出であり、否決されることはないだろう。破廉恥なミスを金銭に置き換え、それで禊にしようとする考えはよくない。

 また県は9月13日付で、知事に同行していた2人の部長を減給2/10、2ヵ月の懲戒処分とした。理由は、県内の被害状況の把握を怠たり、県政に対する信頼を大きく失墜させたとしている。このほか、副知事2名の減給処分を決めた。

 新聞記事2紙からの情報では、知事が「虚偽の会見をした」ためというよりは、危機管理上の職務の怠慢に対する処分との印象が大きい。副知事、部長の処分はその方向でなされている。

 私は、危機管理上での問題があったが、処分に値する問題があったかは良くわからない。知事がいれば水難のいくつかは防げたのだろうか??
 もしそれがあるとすれば、知事の行動と結果の間に因果関係はあるのか??検証を要する。
 因果関係の明らかでないところに処分は成り立つのか??その処分の根拠はどういう法なのか??・・・・。

 私は疑問である。


9/14(木)晴れ 午後飯川病院
1:30起床。文献検索、新聞チェック、午前はBlu-rayながら視聴:「題名のない音楽会3回分」観る。書斎整理。微睡ごバス似て飯川、14:15-18:45ボランティア、Blu-rayながら視聴:「ぶらぶら美術館:ダヴィンチxミケランジェロ、厳島神社、アルチンボルト展」観る。19:00帰宅、夕食、20:50就寝。歩数Σ9120歩、

私の外傷歴・疾病歴(11) 疾病歴(9) 鼠径ヘルニア手術(4) 術当日-本日まで

■ 術当日 
 8:45手術室に向かった。入室とともに直ちに麻酔導入が開始された。すでに昨日点滴ルートが確保されていたから痛みは一つも感じないままに私は意識を失った。
 12:30前後だった、と思う。私は意識を取り戻した。主治医、麻酔科医、担当看護師の笑顔が見られ、大げさながら、無事この世だった、と安堵した。家内への説明では癒着とヘルニア孔のサイズが大きく予定よりも術時間は1時間ほど長くかかったという。

 そのまま病室に移動した。13:00家族の来訪あり、本日の新聞が届き、そのまま読み入った。疼痛はないといえば嘘であったが自制内、鎮痛剤の必要はなかった。時折の微睡を挟みながら、終日、新聞、文庫本など、録音データを楽しんだ。

 本日丸一日は絶食、ベット上安静である。
 手術関連疼痛は自制内であったが、同じ姿勢で寝ていると腰痛が生じてくる。こちらの方が辛かった。対位変換を頻繁に繰り返しながら夜通し何とか耐え忍んだ。
 
■ 術後1-3日 退院
 術後初日、朝5:00さわやかな夜明けである。私が入った個室は東向きの5階の個室。東の空には天高く秋雲が散在した。そのために陽が山々から顔を出す前から太陽光が秋雲に反射し地上は遥か前から明るくなる。雲ひとつない晴天の朝の夜明けの方が暗く、遅い。

 
 (高い秋雲に反射し地上を明るくする陽光)

 朝食の時間前に、ベッドが角度を変えられる電動ギャジベットであることに気づいた。昨日気付いていれば腰痛はなかっただろうに。気がつかずうっかりしていた。今後は多分腰痛からは解放されるだろう。

 朝食から普通食が出た。ダイエット中でもある。主食は多いので昼食から半量のにしてもらった。退院まで副食は完食、主食はほとんど食べなかった。
 食後に外科回診である。主治医の指示で恐る恐る立ち上がってみたが、めまいふらつき等もなく全くなんともなかった。これ以降ベット上安静の縛りは解かれ、持続点滴、尿管カテーテルも抜去され自由の身となった。創部の疼痛は自制内で鎮痛剤は必要なかった。

 私の食べ方は他の患者と比較すると異常に早いようだ。
 前の入院の時もそうであったがほとんどが下膳第一番で、一部の病室ではまだ配膳が終わっていない。側の看護師はもう終わったのか!!と信じられない表情していた。

 術後二日目から傾向抗凝固剤が再開となった。
 それ以降も特に変化なく創部周辺にはまだ熱感があり、立位や歩行時には若干の疼痛を感じたが、感染や出血の兆しはなく、主治医の許可を得て術後三日目の9月11日午前に退院した。
 退院時、いつもボランティアしている飯川病院で静脈確保と尿管カテーテル挿入の希望があったために対応し、飯川病院医局でしばらく過ごし、夕方帰宅した。

 本日は術後6日目である。創部周辺にはまだ熱感があり、立位、歩行時には若干の疼痛を感じるがまずヘルニア手術としては順調な方だと思う。
 病院には多少回り道した時のことを考えて25日から復帰の予定と申請してある。次週からでも出勤不可能ではないが、せっかく得られた療養休暇である。大事に遣いたいと思っている。

 しばらく続けたが、これで私の外傷歴・疾病歴疾病歴のまとめは終了とする。


9/13(水)午前曇り後快晴  飯川病院ボランティア 
0:20起床。文献検索、画像データ整理、本読み他。歩行時右下腹部に疼痛。8:30家内出勤に便乗、飯川病院へ。院長受診のために外出のためのボランティア。新聞チェックほか。外の花壇に散水。Blu-rayながら視聴:「ぶらぶら美術館:京都、金沢城」観る。16:00迎えあり帰宅。ネコ室ラティス修理、物品整理。新聞スクラップ、データ整理、ラジオ深夜便聴く。19:10夕食、20:30就寝。歩数計Σ9506歩。


私の外傷歴・疾病歴(9) 疾病歴(7) 鼠径ヘルニア手術(2) 術前検査 術前日
■ 術前検査 
 8月中旬から術前検査を開始した。項目は、全身麻酔を前提として、循環器科関連項目、泌尿器科項目、採血一般、尿検査、心電図、心臓エコー、胸部レ線検査、腹部CT、呼吸機能検査であった。

 採血一般、尿検査、胸部レ線検査には異常見られなかった。
 心電図は心房細動があったが、心臓エコーで心機能は正常範囲、心房内血栓等は見られなかった。
 腹部CTでは腹壁にヘルニア孔、副睾丸水腫が認められたが膵臓を含め腹部臓器に大きな異常は認められなかった。1年前からの不明の腹痛の原因は画像としては捕らえられなかった。
 呼吸機能検査は同年代平均値よりは低値であったが、全身麻酔に問題が生じるレベルではなかった。

 上記の所見を得て循環器科、泌尿器科も受診したが抗凝固療法一時中止、ヘルニア治療に問題なしとのことであった。大事をとって生殖器ガンの腫瘍マーカーも追加されたが問題は認めなかった。

 数々の既往症と合併症、抗凝固療法中の高齢者の手術の準備は結構大変なものである。しかし、幸いなことに全身麻酔、ヘルニア修復術に対し禁忌となるような所見はかった。

 経口の抗凝固剤は6日以降中止とし出血に備えた。

■ 手術前日
 9月7日の内科外来は結構混雑し、ドックの判定などできなかった。13:30とりあえず外科病棟の個室に入院した。
 昼食摂取後から看護師のオリエンテーション、経静脈抗凝固療法開始、麻酔科オリエンテーション、シャワー浴と続いた。この間にやり残した人間ドックの判定をこなした。
 18:00家内共々主治医から術前・術後の注意事項などの説明を受け、輸血を含め同意書を数種作成した。説明を聞くよりもサインをする方が大変であった。医療安全に対しての時代の流れを感じた。

 今回の手術は腹腔内臓器にまでは及ばない予定なので夕食も通常であった。

 明朝は8:45手術室入室となっている。
 もうここまでくれば患者としては「まな板の鯉」に徹するしかない。手術の経過にもよるが、明日からの療養休暇の方が楽しみである。手術自体の心配は特にしていない。
 夕食後は特に予定なく、持ち込んだ文庫本、iPad、iPodを駆使して資料をこなした。
 いつものパターンと同じ、20:30就眠した。


9/12(火)降雨  飯川病院ボランティア 
0:30起床、医学文献・新聞ほか。5:15可燃ゴミ廃棄家人に依頼し提出。5:30微睡。午前フリー、主に書斎の整理整頓、電子器具廃棄準備。Blu-rayながら視聴「らららクラッシック3回分」視聴。12:50バス飯川病院、ボランティア。まだ歩行は右下腹部に疼痛を感じる。新聞スクラップ、データ整理、ラジオ深夜便聴く。19:10タクシーにて帰宅・夕食、20:30就寝。歩数計Σ11753歩。


私の外傷歴・疾病歴(8) 疾病歴(6) 鼠径ヘルニア手術(1)ヘルニアの成長、手術判断

■ ヘルニアの出現と成長
 私の右下腹部には数年以上前から立位時に突出する小さなヘルニアが現れた。当初は小学生の時の盲腸周囲膿瘍の手術、2007年の膀胱頸部硬化症の手術のための手術痕腹壁ヘルニアと思っていた。

 2012年10月の自転車で転倒した際かなりの衝撃だったから、かなり強い腹圧が一瞬かかった、と思われる。それ以降ヘルニア部に現れる腫瘤が一段と大きさが増したような気がする。時に周辺部に疼痛を感じることもあった。
 以降、現在に至るまで徐々に増大してきた。

 特に2014年12月は急性気管支炎的状況に陥り、かなり体調不良で、約一月間ひどい咳嗽に悩んだ。咳嗽はかなり腹圧がかかる。咳のたびに出来るだけ手を添えたが、必ずしもそう上手くいかない。この時に一段とヘルニアが悪化したように思う。

 最近では、そのサイズがピンポン球程度からテニスボール程度にまでなった。腸が入り込む嵌頓は緊急手術にもなりうる重大な合併症であるが、その恐れは感じなかったが、歩行通勤時に疼痛があって右下腹部を圧迫しながら、腫瘤が大きい時には腸を押し戻した状況で歩かねばならなかった。それにしても立位時の腹圧の強さには驚いた。腸を持ち上げるのにかなりの力が必要である。

 特に私を悩ませたのは、昨年あたりから始まった腹痛である。月に数回、1-2日間続く原因不明の腹痛であった。症状から消化管自体の病変と思われず、上部消化管内視鏡検査、腹部超音波像にも異常なく、一時はすい臓ガンも疑ったが、そう考えても不自然である。おそらくはヘルニア孔に腹膜組織の一つである大網が陥入して生じているものだろう、と考えた。
 悪性の病態でないからなんとか手術は回避したいと思っていたが、ここまでくれば手術を回避出来ない。6月に決断し、準備を始めた。

■ 手術まで
 ヘルニアの手術は最近では腹腔鏡下でも可能となり術後の観察期間も短縮した、という。

 7月上旬に中通総合病院の、私の手術を担当してくれるであろう外科科長と面談し相談した。結論として、手術創ヘルニアではなく一般的な鼠径ヘルニアであろう。盲腸周囲膿瘍の手術、膀胱頸部硬化症手術の既往からみて傷周辺の癒着は強いだろうから腹腔鏡下修復術は困難で、通常の様式で間歇的にメッシュプラグ法という術式の手術になる、という。

 病態の判断と治療方針は私には異論ない。
 問題は、業務の整理である。私の担当する中通総合病院の内科外来は私が不在の際には休診扱いとなる。休めば他の医師、患者に迷惑がかかる。そのために手術予定は予約患者が少なくなり始める2け月後に、さらに主治医の都合で9月8日とした。

 順調なら10日後くらいで復帰できるだろうとのことであったが、ヘルニア自体が大きいし、心房細動があり、抗凝固剤を服用していることから何が起こるかわからない。多分術後の疼痛も遷延するだろうと考えて、もう1週療養休暇を取ることとした。


9/11(月)曇り、晴れ 入院5日目 退院 飯川病院ボランティア
 1:45起床。新聞・文献チェック、読書。7:45朝食、退院用意開始。10:00退院手続き。10:30退院。レガシーにて飯川病院へ。ボランティア、入院患者処置2名。微睡、小説読み。17:00帰宅、郵便物等整理、新聞データ入力。19:00夕食、退院祝い夕食はラーメン。プチ相手、20:30就寝。Blu-ray視聴:「昨日のNHKのど自慢:兵庫県〇〇市」観る。内容的に低調。歩数計6747歩。

私の外傷歴・疾病歴(7) 疾病歴(5) 心原性脳塞栓症体験記
 私は2012年10月15日に腹腔鏡による腸閉塞修復手術を受けた。ところが復帰5日目の11月4日(日)朝に脳梗塞を発症した。意識障害も伴い、意識が戻るに連れ右半身が完全麻痺となっており、言葉が一切出なかった。改善傾向があったためにtPA療法は行わず、ICUにてヘパリンとエダラボン療法が行われた。
 約一週間でほとんど後遺症なく改善し、翌月曜日から通常業務に復帰した。

 今回の脳脳梗塞発症は自分で心房細動を軽視したことによって発症したようなものである。
 20日ほど前の腸閉塞の入院期間には循環器科的に再評価を受ける良い機会であったのに、自覚症状もなく、ものぐさもあって貴重な機会を失した。この時の判断は大いに悔やまれるところであった。

 11月4日午前9:00ころ、前触れもなく、激しい目まい、平衡感覚の喪失、脱力感が生じた。当初は何が生じたのか分からず、地震か、とさえ思った。そのうちに、自分の変調のためと理解出来た。居間までなんとかたどり着いたようであったが、意識がもうろうとしていたのであろう、詳しいことは記憶にない。

 家内は脳卒中と判断、救急車を要請した。救急車内の様子については記憶がない。救急室到着時は疼痛に対しては若干の反応があったらしいが、右片麻痺を伴っていたと言う。

 意識状態も徐々に改善し、右片麻痺も改善が顕著であった。
 発語に関しては、簡単な会話は理解出来たが、返答は困難で、伝えたい内容はあるのだが、ことばが見つからず、何としても話すことは出来なかった。思っていることを表現出来ない感覚、もどかしさは実に不思議であった。

 午後に次男が駆けつけてくれた。しかし、この時点では殆ど会話らしい会話にならなかった。彼は家族たちには、「医師として、患者の前に出るのはもう無理だろう・・」と話したそうである。

 ICU二日目の朝はMRI検査から始まった。スタッフに対して昨日よりは少しは会話できた。自分でも驚くほどの変化であった。まだ思ったことは表現できるとはいい難かったが、この調子で改善するならば・・とかなり希望を持った。

 言語障害は3日後にはかなり改善した。
 横浜在住の長女は6日の夕方到着した。「脳梗塞の患者はどこにいるの?」と言ったが、急速な病状改善を示している。

 6日からダビガドラン開始、7日からパソコンに生活記録を入力し始めたが、キーボードのブラインドタッチが上手く出来ないことに気づいた。ミスタッチも多くなったほか、変換キーを勝手に押したり、エンターキーを不用意に押したりなどのミスが多く入力に難渋した。言語障害があって適正な言葉を選べなかったときに、関係ない言葉が浮かんできたりした感覚に近い状況であった。この現象は1-2ケ月続いた。
 9日に退院、13日の外来から復帰した。当初は医師としての復帰を危ぶんだだけに、こんな劇的な改善、日常業務への復帰は考え難いことであった。

 今回の脳梗塞は経過を見れば、可逆性虚血性神脱落症状(RIND)+αという状況に近い。遠因として慢性心房細動と腸閉塞時の強度の脱水状態が関連していた、と思われた。

 それにしても今回の脳卒中も本当に運が良かった。初発症状としては結構厳しかったと思う。
 一般的に心原性脳塞栓は半身不随や四肢麻痺とか、あるいはそれ以上の重大は合併症が生じうる可能性が大きいを言われているだけに、自身の運の良さに驚くばかりである。
 今回も多くの方々に迷惑かけた。


9/10(日)曇りのち快晴 入院4日目 
 2:00起床、新聞チェック、本読み、データ整理ほかいつもの如し。歴史本読み。創部に違和感あるも動かなければ疼痛はない。今回も鎮痛剤を用いないで過ごせそう。今朝の回診にて経過良好なので明日午前の退院決定。新聞スクラップ、小説に集中。18:00夕食、20:00就寝。歩数計552歩、入院中は大部分仰臥しているし、部屋から出ないから伸びない。

私の外傷歴・疾病歴(6) 疾病歴(4) 腸閉塞手術
 私は2012年10月12日、自転車で交差点を右折時に不注意で自転車の高校生と接触した。スピードが出ていたのですぐには転倒せず、右に大きくカーブしながら車道と歩道間のブロックに前輪を引っかけ、はずみで外側の歩道に投げ出された。左半身中心に全身を強打したが、頭部や手足は何ともなかった。その際、かなりの衝撃だったから、かなり強い腹圧が一瞬かかった、と思われる。

 10月14日、不明の腹痛が生じた。胃が全く消化排出機能を失ったような感じで過伸展している様子である。自ら嘔吐してみたがそれでも改善乏しい。
 翌日、救急外来を受診し一般検査施行した。検査結果は強度脱水、腹部レントゲン検査は私自身の予測に反して明らかな腸閉塞の像であった。
 高齢者の腸閉塞は悪性疾患に伴うのが多い。今度はついに来たか、と思ったが、CTにて閉塞付近に不明の腫瘤陰影はなさそうで若干安堵した。

 10月16日、血圧は90/50程度と低下し、データ上でも脱水はむしろ悪化し、手術と決まった。
 手術は全麻下でまず腹腔鏡的に腸閉塞の修復を試み、不可あるいは困難であれば開腹手術に移行する、とのことであった。10月17日15:20手術室に入室。18;00手術終了の声かけあり、ICU入室。翌日11:00病棟に転出した。

 主治医グループによる説明は、
■内ヘルニア、
■腹腔鏡下腸閉塞解除術、
■裂孔縫合、
■癒着剥離、であった。

 10月23日退院した。

 今回の10日間の入院生活で困惑したのは、求められるちょっと厳しい病院の規則、それに対する同意、苦しい中で読む気にもならない分厚い説明文・・、程度だろうか。

 詳細は不明であるが、先天性と思われる腹膜の欠損?による小穴に小腸の一部が嵌頓したための腸閉塞だったらしい。病変部の小腸に浮腫はあったものの血流障害等による強い障害は無かったらしく、腹腔鏡下で修復出来たと言うことで、全経過とても幸運であった。
 自転車転倒時にかかった、かなり強い腹圧が先天性の欠損孔を広げたか、小腸を押し込んだもの、と思われた。

 いい歳してちょっといい気になっていた。これが転倒の遠因である。これからも通勤時を中心に自転車には乗る積もりであるが、スピードを控え、慎重に走ることとする。 

 今回もまた命拾いした。つくづく運のいい男だ、と思った。
 治療に関係された全スタッフに、感謝、感謝である。
 <a href="http://www.mfukuda.com/essei/turezure/tyouheisoku.htm">腸閉塞体験記</a>


9/9(土)朝方曇り、のち晴天に  入院三日目
2:20 起床。いつもと同じ。微睡、新聞、小説、録音データなど繰り返しつつ1日過ごす。朝から食事開始。午前中に看護師に希望出して酸素、尿道カテ、加圧器外す。点滴も終了。朝回診時から立位歩行許可となる。めまいもなし。ほぼ順調だという。微睡、新聞、小説、録音データなど、18:00夕食、20:45就眠。歩数計11歩のみ。

私の外傷歴・疾病歴(5) 疾病歴(3) 肺ガンが疑われた
 2008年3月、肺がんを濃厚に疑われた。経過観察の結果否定的となったが、その間の日々の心境を追った。
 
 2月下旬に職員健診結果に「肺ガンを否定できない陰影あり」という項目にチェックが入っていた。再撮影した胸部レ線には、異常陰影がしっかり写っていた。1回目のCT結果は「○cm x ○cmの陰影があり、陰影の特徴から肺ガン疑い濃厚」であった。診断医と面談したが、厳しい判断であった。

 肺ガンとすれば胸膜も巻き込んでいるようだし、手術しても今年一年持つか??とガックリしたが、いつか来るであろうことがたまたま肺に、ちょっと早く来ただけ、と事実を淡々と受け入れた。悪性か否か、もう体内では決まっていることだから、どちらでも良い。悪性の場合はどうせ大差ないから無治療で行こう、と決めた。

 4月上旬の2回目のCTは要経過観察。
 5月上旬の3回目のCTも要経過観察。
 6月中旬の胸部レントゲンは異常陰影が縮小し、薄く、線状になっていた。まず肺がんは否定的となった。

 この間、私自身の日常は変わりなかったが、終活として古い物品を整理、家の外装のリフォーム契約した。家内が肺がんと早とちりして介護のためと退職してきた。

 肺ガンが否定的となった後、自分の心理状態がどうなったかというと、嬉しくてルンルンかと言うと全く逆であり、虚脱感というか、緊張感の喪失か、しばらく仕事に取りかかる気持にならなかった。この一ヶ月あまり、半信半疑ながら自分としては黒の判定が出たときのことも念頭に公私のことを考えていたから、知らず知らす緊張していたのであろう。
 確かに充実した一ヶ月半だった。それが一気に緩んだ、ということだろうが、予想外の感覚を味わった。

 3月下旬に肺の陰影が悪性の可能性大と判断されたときの心境を思い出す。
 それほど大きなショックはなかった。「えっ、もう来たの!!! ちょっと早いじゃないか・・」という感覚であった。
 私は元来、人生は無常と捉えており、運を尊重する方である。 
 60歳を迎えるまでつつがなく生きて来れたことだけでも法外の幸運であった。いつかは来るであろう自分の最後のコースを考え心の準備をしていたが、ついに真正面から向き合わねばならないその時期が来たか、という感じであった。

 陰影の推移が私に教えてくれた教訓は、「今までの価値観、こだわりを捨てて生きよ」、と言うことかな、と思う。

 あの陰影が真に肺ガンだったらその年のうちに死んでいただろう。私はつくづく運のいい人間だと思う。

 「エイプリルフールでした」、と笑いたい


9/8(金)超快晴一時降雨と雷鳴、その後晴れ 入院二日目・手術日
1:30起床、録音でラジオ深夜便数件。読書、徒然など。6:00検温等、術前のチェック始まる。8;45手術室に移動その後のことは不明。12:30麻酔より覚醒。病室に移動。酸素吸入、下肢血栓予防のエアポンプ、尿道カテーテルは装着のまま。手術部付近に違和感あるも疼痛は自制内。微睡、新聞、小説、録音データなど繰り返しつつ1日過ごす。21:00就寝。

私の外傷歴・疾病歴(4) 疾病歴(2) 50年来の苦痛からの解放 膀胱頚部硬化症手術
■3 2007年8月1日膀胱頚部硬化症(経尿道的切開)+膀胱憩室手術(腹部正中切開)    
 幼少の頃は友達と連れションしたり、飛ばし合い、オシッコのかけ合いをよくやったものである。私はその頃から、友人達より尿線が弱いことに気づいていた。以来、45年、膀胱頸部硬化症だろうと自己診断して泌尿器にも相談せずなんとか維持してきたが、年とともに頻尿となり、時に尿漏れ失禁、発熱さえもきたすようになってきた。これ以上は隠し通せない。6月に腹部超音波検査を受けたが残尿量、膀胱壁の肥大から、一見して事態の深刻さを理解した。
 2007年8月各方面の業務整理を行い2週間ほど休暇を取る手続きをした。

 手術は経腹的に憩室を摘出し、次いで内視鏡的に膀胱頚部切開術ということで全麻下に行うこととなった。手術は全く分からないうちに終了し、全く無痛。しかし、手術は結構大変だったらしい。

 ベット上では出来ることは限られている。時間つぶしに苦労する。何かに飽きるとトロトロと眠る。ふだんは味わえない贅沢な感覚だ。

 硬膜外麻酔テューブ抜去後疼痛が襲ってきた。看護師達は鎮痛剤の使用を勧めてくれるが、この疼痛は術前予想したレベルであり、暫く疼痛と対話することとした。
 5日目についに尿道カテーテル抜去した。?明らかに異なったのは私がいままでに体験したことのない、抵抗のないスムーズな排尿感である。これこそ求め続けてきた未体験ゾーンであり、最高の感覚である。45年間、私も耐えたが、膀胱もよく頑張ってくれた、と思う。
 2週間で病欠期間を終えることとした。良い体験、経験が出来たと思う。
 その後、現在まで排尿に関する苦痛は味わっていない。おそらく加齢に伴う前立腺肥大の症状も出ることもないだろうと思っている。

■4 2007年頃から発作性心房細動自覚、2012年5月頃から心房細動の慢性化
 いつぞやから時折動悸を感じていた。その時は不整脈もある、心電図チェックでは散発性の上室性不整脈であったが、そのうちに発作性心房細動に移行しやがて持続性の慢性心房細動に移行した。それとともに動悸等の症状は消失した。当時は公私共々激務と心労が重なっていた時期であり、おそらくそれが原因の一つであったのであろう。心房細動の治療は多々あるが症状は何にもないし、自転車で怪我する可能性があったために、自己判断で脳梗塞予防のための抗凝固療法を受けなかった。そのこともあって12年11月心原性脳塞栓を発症した。
 


9/7(木)晴れ 外来 入院初日
0:20起床,入院準備、医学文献、新聞他、7:30入院の道具を詰めてレガシーにて出勤。飯川病院で追加の小道具、小説など持ち中通病院へ。8:45-13:00中通病院内科外来、結構混雑。13:30外科病棟入院。昼食はそうめん、完食。受け持ち看護師から入院時オリエンテーション、シャワー浴、麻酔科部長の説明、ヘパリン点滴開始、18:00家内とともに主治医と面談、術前後の状況説明、各種同意書作成。18:45夕食、主食摂らず。副食のみ。新聞スクラップ。21;00就寝。歩数計6401歩。

私の外傷歴・疾病歴(3) 疾病歴(1) いろいろ患った 改めて感慨
 自分の疾病歴をまとめてみると以下の如くである。随分、色々あったものだ、と思う。 
――――――――――――――――――――――――――――――
■1945年 出生、幼少時は虚弱・腺病質であった 
■1953年 盲腸周囲膿瘍 小学生5年
■2007年8月1日膀胱頚部硬化症(経尿道的切開)+膀胱憩室手術(腹部正中切開) 
■2007年頃から発作性心房細動自覚、2012年5心房細動の慢性化
■2008年肺がん疑い
■2011年頃から右下腹部に鼠径ヘルニア
■2012年10月腸閉塞 内ヘルニアで腹腔鏡手術  
■2012年11月心原性脳塞栓 後遺症なく改善
■2017年右下腹部鼠径ヘルニア増大と疼痛、嵌頓なし 手術を決断。
――――――――――――――――――――――――――――――

 本日は右下腹部鼠径ヘルニアの手術のための入院初日。明日の手術のためにオリエンテーション、術前準備のための点滴等を受けている。

 これを機会に、私の疾病歴をざっと振り返ってみた。

■1 1945年 出生、幼少時は虚弱・腺病質であった。
 そんな私が現在まで生きながらえてきたのは驚きである。小中高と進むにつれ丈夫になっていった。若い女性たちを眩しく感じ始め、混雑するバスで通学するのが恥ずかしく、自転車で長距離通学したのが丈夫になったきっかけだったと思う。その時の自転車好きが未だに続いている。2012年の転倒と腸閉塞発症、脳梗塞発症、ヘルニア発症と因果関係が疑われる。
 
■2 1953年 盲腸周囲膿瘍 小学生5年  
 医者の家庭で育って、なまじっか知識があって、この時の腹痛を自己判断で虫垂炎と思ったが、手術が怖く、家族の前では平然と振舞っていた。数日後、高熱と共にテニスボール大の腫瘤が生じ、祖父についに見つかった。盲腸周囲膿瘍、腹膜炎の疑い危険な状態との判断で盛岡の外科医院で開腹手術を受け、大量の排膿があった。いずれ再手術と言われたが以後順調に経過し退院した。運が良かった。

■3 2007年8月1日膀胱頚部硬化症(経尿道的切開)+膀胱憩室手術(腹部正中切開) 
 幼少の頃は友達と連れションしたりオシッコのかけ合いをよくやったものである。私はその頃から、友人達より尿線が弱いことに気づいていた。以来、45年、膀胱頸部硬化症だろうと自己診断して泌尿器にも相談せずなんとか維持してきたが、年とともに頻尿となり、時に尿漏れ失禁、発熱さえもきたすようになってきた。
(いま8日朝、まもなく手術に呼ばれる。続きは術後に)


9/6(水)曇りのち晴れ 飯川病院ボランティア
 0:00起床。文献・新聞。医学論文など。8:15クロスバイク飯川病院へ。院長受診のために代行ボランティア。13:30帰宅、微睡、データ整理。歴史本他。入院準備。庭掃除。19:00夕食、20:30就寝。歩数7993歩。

私の外傷歴・疾病歴(2) 外傷歴(2) 自転車で転倒  川べりで滑落し腰部・頭部打撲
■3 2012年10月9日自転車で転倒、全身強打
 私は2012年10月中旬、スポーティなクロスバイクと呼ばれる自転車で通勤していたが、大きな交差点を右折する際、不注意で自転車の高校生と接触した。スピードが出ていたのですぐには転倒せず、右に大きくカーブしながら車道と歩道間のブロックに前輪を引っかけ、はずみで外側の歩道に投げ出された。左半身中心に全身を強打したが頭部や手足は何ともなかった。目立った外傷もなかった。私は、かなりの衝撃を受け、約一週間、呼吸困難感、全身痛に悩んだ。よく大怪我しなかったものと、思い出す度に冷や汗ものである。幸い高校生には怪我がなかった。ヘルメットと背中のディバッグが衝撃を和らげてくれたと思う。

 この転倒と後の腸閉塞発症、脳梗塞発症、今回のヘルニア発症・増悪との因果関係は多分あるのではないか?と今にして思う。

■4 2015年8月16日「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷
 花巻・志戸平の「薄衣の滝」を見に行き、濡れた石に足を取られ2mほど滑落、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。
 滑落した瞬間、まだ着地しないうちに着地のこと、頭部強打、体幹、四肢の強打と骨折等が予想され、一瞬死を意識した。一瞬のうちにこれらのことが浮かんできた。
 着地は予想どおり頭部からであった。その時に感じた衝撃感、異様な音、光の感覚、匂いなど今までに経験したことのない妙な感覚が一瞬経験された。疼痛はほとんど感じられなかったが、短時間気を失っていたのだろう。

 気がついた時に、「あれ、生きている!!! 」と感じたのが最初であった。恐る恐る足を動かしてみると、「動く!! 骨折はなさそうだ」,次いで両手を動かしてみると「動く!! 骨折はなさそうだ」。この感覚は大きな喜びであった。体を起こしてみると頭付近は出血のために真っ赤、かなりの出血であった。

 駐車場まで小道が300mもあるが、いつまでもここに倒れてはいられない。なんとか戻らなければならない。立ち上がった際に激しいめまいがあり、何度か転んだがそろそろと歩いて下山、なんとか車にたどり着いた。出血は徐々に減少した。

 花巻病院受診、頭部CT撮影、問題なし。皮膚の縫合は8針ほど?そのうちに腰痛臀部痛増悪、腰回りが太くなり、歩行に支障生じる状態となる。とにかく秋田に戻ろうとした。途中で限界を迎えそうなら盛岡の中央病院に、と考えたが、結果的に自宅までたどり着いた。

 右背部痛と呼吸困難感。受傷4日目から出てきた。腰臀部の疼痛、先鋭化した疼痛、帯状に触覚脱出を伴っていた。腫脹して大きく膨れた臀部、ヘソが右に2cmほどシフトするほど腰部が腫れた。思いがけないほどの出血は、脳梗塞再発のために服用している抗凝固薬のプラザキサの薬効と考えられた。

 この自傷事故を考えると「極めて危険」な状況であった。もう少し頭を強く打っていたら、四肢に骨折とかが生じていたら、内臓破裂でも生じていたら・・・と考えると恐ろしくなる。無謀な単独行動を反省するとともに、大事に至らなかったのは単に運が良かっただけ、と猛省した。


9/5(火)超快晴放射冷却 外来 飯川病院 
0:30 起床、医学文献・新聞ほか。5:15可燃ゴミ提出、7:25徒歩飯川病院着、 8:45-13:40中通病院外来、数質ともに混雑。14:00-18:20飯川病院。14:40A Bankに。18:50帰宅、19:00夕食、20:30就寝。歩数15356歩。

私の外傷歴・疾病歴(1) 外傷歴(1) アキレス腱断裂など
 私は、今週末に腹部のヘルニアの手術を受ける。いま術前の準備中である。なんとなく出張に出るような、非日常的時間が得られるだろう。読書三昧に過ごせそうでちょっと楽しみである。

 主治医に提出するために私の病歴をまとめて見た。ついでに外傷歴もまとめて見た。ほとんど後遺症は残っていないが、結構、重大な病気、外傷を重ねてきたものだ、と思う。
 全身麻酔下の手術も今回で3回目である。

 各々の病気、外傷ごとに、その時点毎にリアルタイムにまとめているが、今回現時点の感覚でこれらの一部を振り返って見ることとした。

 外傷歴
■2003年10月19日アキレス腱切断 翌日縫合手術
■2005年夏以降、腰痛 腰椎MRIでヘルニアの診断
■2011年11月19日右拇指裏に裂創9針も縫合受ける
■2012年10月9日自転車で転倒、全身強打
■2015年8月16日川縁で滑落し腰部強打・頭部打撲裂傷 腰部背部に出血


■1 2003年10月19日アキレス腱切断 翌日縫合手術
 1977年頃から家内の影響で週一回のペースでテニスを始め、大学退職後も後輩と家族テニスを楽しんできた。前方に落下したボールを打ち返すためにダッシュをかけたところブツっと音がして右足が動かなくなった。疼痛はほとんど感じなかったし、前触れも全くなかった。
 救急外来受診で完全離断とされた。治療はギプス固定と縫合手術があるとのことであったが、当時仕事が混んでいたために少しでも早く歩けるなら、と手術療法とした。
 翌日、局所麻酔下で縫合手術、手術中にぐっすり寝込んでしまい呆れられた。
 術後に地獄が襲ってきた。麻酔切れた後の激痛である。
 日常、患者たちの訴える疼痛に対して、いまならあまり言うことはないだろうが、時には我慢を強いたこともある。この歳になって反省したので、術後の痛みに対して鎮痛剤なしで耐えてみた。術当日は痛みのために一睡もできなかった。疼痛は1日ごとに軽減し一周後にはかなり楽になった。
 2ケ月ギブス固定でひと月ほどは車椅子で過ごした。通勤はタクシー。
 仕事、業務に穴は開けなかった。1日でも入院すれば生命保険から入院医療給付・手術給付をもらえたがこれもチャラになった。
 アキレス腱断裂体験記
 
■2 2011年11月19日右拇指裏に裂創9針も縫合受ける
 11月7日8:00am頃、非常階段で蹴つまずいた。右拇指裏の皮膚が横一文字に3-4cm裂けていた。かなりの出血である。救急外来受診、部長が9針も縫ってくれた。
 つま先を階段に引っかけたのだから、足の上げ方が不十分だったと言うこと。やはり年齢因子で動作が緩慢になってきているためであろう。
 もう一つの要因は素足にスリッパ履きにあったと思う。私は靴が嫌いである。スリッパ履きだと歩行時の蹴りが弱いほか、脱げないように意識しどうしてもすり足歩行になる。
 その後、スリッパ履きをやめテニスシューズを用いることにしたが、結局はスリッパに戻って今に至って要る。長年の習慣は変えられない。
 階段で蹴躓き右拇指裏に裂創(1) 実に丁寧に、9針も縫ってくれた
 階段でつまずき、右拇指裏に裂創(2) スリッパのすり足が原因


9/4(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
 0:20飯川病院医局で起床。新聞・文献チェック。データ整理、新聞チェック。9:00-11:00健康クリニックドック14人。11:30飯川病院、微睡ほか、14:00-18:50勤務、入院患者対応。16:00 A Bank来訪、振込。新聞チェック、読書他、19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計4461歩。

ネットの中傷・いじめ2017(2) LINEを介したいじめ
 インターネットのありようについて悲観的な意見も増えている。私もインターネットを利用しているが、その功罪についてはざっと見て半々かな?と思う。

 SNSやLINEによる青少年のいじめに事件も少なくない。特にLINEはトラブルを引きおこす要因が内在し、いじめのツールとして用いられている。

 青森県では、昨年LINEを介したと思われる中学生の自死問題が2件生じた。
 このうちの一人RKさんについては、ご家族が適宜報道のインタビューに応じているので死に至るまでの概要を知ることができる。彼女は昨年8月以降、LINE上で同級生らによる「死ね」などの悪口に悩み、スマートフォンのメモに「もう二度といじめたりしないでください。綺麗に死ねないけれど・・幸せになります・・」と遺書を記し、鉄道に飛び込んだ。
 自死の経過・背景と原因や問題点、再発防止への対策と課題については、「いじめ防止対策審議会」に委託され、その調査報告書が待たれたが、市教育委員会の審議会は、今年4月、明確な根拠を示さないまま、RKさんが「思春期うつ」だったと認定し、自死の一因になったと示唆する報告案を提示した。家族らの反発を受け審議会は報告書を答申しないまま解散した。新たな委員の人選は難航し、調査再開の見通しは立っていない。
 いじめ問題が発覚すると「第三者委員会」が設置されて判断が委ねられるが、私はこの「第三者委員会」のレベルが低すぎると思う。

 最近の小・中学性のスマフォ所持率、使用率は、文科省の調査では、小学校高学年で4-6割、中学7-8割、高校10割となっているが、一層低学年化の傾向があり問題視されている。ネットいじめの経験は、高校生の2割、中学生1割弱、小学生1%程度と言われている。 
    
 一般論として、教師はいじめに対する危機意識が乏しく、楽観性があるとされている。多くのいじめ事件についても、かなりのレベルの暴力沙汰、恐喝などがあっても担任の教師が全く気づかないでいることも多かった。
 私は、集団のあるところには必ずいじめが生じると考えるが、次々と明るみに出てくる事件を見ると教育界、特に教師たちの認識はかなり甘い、と思う。

 特に、LINEによるいじめは気づかれないことが多い。LINEは青少年の多くが互いの通信に使っているが、このツールにトラブルを引きおこす要因が内在している。通信のやり取りは閉鎖グループ内で行われる。当事者だけでなく傍観者が多数関わっているのが特徴で、この傍観者の姿勢が加害者的に相乗的に働く。また、LINEによる中傷は内容的に的にきついようである。 

 私はLINEを用いていない。家族間では利用されている。側から見ているだけだからよくわからないところもあるが、LINEによるいじめの特性として以下のように思う。従来のいじめとかなり異なる。

■1 仲間同士、友達同士で交わされる通信だから、いじめが発生した際には有用なツールとなる。
■2 時間的にも、地域的にも制限がない。深夜でもどこにいても通信が交わされるため解放されることがない。無視すれば次のいじめにエスカレートする。だから、逃げ場がない。家に帰っても、転校しても追ってくる。 
■3 拡散性がある。直接の関係のない人にも、ツイッターなどを介して外にまで拡散していく。
■4 匿名、なりすましが可能。 
■5 加害者に罪の意識がない。指先だけの問題で、暴力行為などを伴わず、完全に遊び感覚で執拗ないじめが行われる。
■6 ・・・・・

 今の青少年は、厳しい環境で生きているものだと改めて思う。


9/3(日)晴れ時々曇り 飯川病院当直 レセプト点検
 1:00起床、新聞チェック+歴史本、医学論文読み。9:30-12:00庭木伐採、草刈りなど。NHKのど自慢、微睡。15:00バス飯川病院、15:30レセプト点検、17:00某診療所長来訪歓談。18:00検食、19:00レセプト点検再度、終了。20:00就寝、Blu-ray視聴なし。歩数10387歩、12500Km。

ネットの中傷・いじめ2017(1) 責任追及の仕組みを
 インターネットのありようについて悲観的な意見も増えている。
 インターネットは多くの人が自由に参加し、よりよい「集合知」が生まれる場と期待されてきた。確かにその有用性も発揮されている。しかしながら、ここのところ悪口や憎悪に満ちた書き込みや、その書き込みへの非難が殺到する炎上が頻回に生じるし、フェイクニュースを広める場にもなっている。災害時に流されたフェイクニュースで更に辛酸を舐めさせられた被災者も少なくない。
 青少年の間ではSNSやLINEによるいじめも少なくない、という。
 しかも、最近は発信者の身元を隠せる特殊なソフトを使った投稿が増えている。

 私たちは憲法で「表現の自由」を得た。国家権力による市民の抑圧を防ぐための規定だが、ネット空間では本来の目的と違った形で「表現の自由」が乱用されている。

 匿名性はネットの特傲であり、その利点は否定しない。とはいえ、書き込みをした人
の法的責任が最終的に追及される余地があってこそ、ネットで真に意義ある意見が展開されるはずだ、と思う。
 匿名性の最たるものは選挙であろう。通常はないことであろうが、何らかの事情が生じた場合には名簿、筆跡などから票の特定は可能とされる。

 インターネット上で個人を標的にした誹榜中傷が氾濫している。 
 一般人も標的になる。
 法務省によると、全国の法務局が助言や要請など手続きを始めたネツト上の人権侵犯事件は年々増え、昨年は1909件。警察への相談は1万件を超える。

 それによって被害が生じた際でも、一般的に投稿者特定までの道のりは困難を極める。通信事業者の多くは契約者情報を提供する条件に司法の判断が出たばあい、を挙げる。これには書類の準備や費用もかなりかかるから泣き寝入りしている被害者は多い。

 投稿者を特定するための通信履歴を保存する形式や期問が法的に整備されていないことが問題である。法で形式や保存方法を定め、少なくとも数年間の保存は義務付けるべきだ、と思う。どんな権利侵害が生じたか、などの基準があれば事業者も判断しやすくなる。
 
 私は大した内容の記事を書いていないために深刻な状況は経験していない。時に真剣に意見の往復をすることはある。
 しかし、最近驚いたことがある。過去の記事を参照しようと検索をかけたところ、「〇〇の画像(641件)」の項目ができていて、私がブログに掲載した写真を始め、講演会等の写真が多数掲載されていた。私は自分で写真を載せるときには絶対に他所の方が写っている写真は用いない。このことは徹底してきたつもりである。悪意ではないにしろ自分の知らない画像が知らないうちにネットに出ていることに、改めて怖れを感じてしまった。


9/2(土)曇天午後から晴天  植木伐採、草刈り
0:30起床、本読み、文献チェック。新聞データ化、微睡。午前はデータ整理。10:30植木伐採、草刈り。12:30昼食のち微睡。14:00-16:30植木伐採、草刈り再度。その後、新聞電子化、19:00夕食。20:00就寝。Blu-ray Disc視聴なし。歩数計14284歩。

ヘルスチャレンジ2017(2) 私の体重コントロール第2ステージに
 私は未成年の頃は超痩せ型で太れないのが悩みであった。しかし、年齢とともに太りやすい体質に変わってきたようである。

 体重のデーターは1988年以降、職員検診時の記録を残してある。1988年は62Kgであったが、年齢とともに徐々に増え始め、現役引退の2011年には70Kgに達した。退職後はさらに増え、本年2月の検診では73.5Kgであった。

 体重コントロールは常に念頭に置いてあり、退職を機にバイクをやめ、日常の通勤と運動にスポーツサイクルを取り入れ、2013年からは徒歩通勤にしている。日常の運動量は年齢を考慮するとまずまずいいところに行っていると思っているが、体重コントロールのためには効果がなかったことになる。

 得た結論は、月並みであるが、年齢・体格・運動量から見てやはり過食、ということ。アルコールは一滴も飲まず、日常からかなり食事量は制限しているが、基本的に甘党であり、間食が多いのだろう。
 
 私は右下腹部に大きなヘルニアを抱えている。徐々に大きくなってきており、そろそろ限界を迎えていると考え、手術を受けることを考えた。6月に外科医師と相談し手術と決めたのだが、外来患者の予約が8月中はほぼ一杯で休めそうもなかった。9月上旬以降は外来患者予約を調整できたので上旬に手術日を設定した。

 次にやるべきは体重コントロールであろう。皮下脂肪は少ないほどやりやすいだろう。手術を決めた6月以降食事量を減らし始めた。一昨日まで約3Kgほど減らしたが、傾向として減少傾向は中だるみ状態にある。

 さいわい、9月から法人共済会のヘルスチャレンジ2017が始まるのでこれにエントリーして10月末日までに更に?3Kgに挑戦することとした。9月1日5:00amの時点で70.5Kgであったから67.5Kgが目標となる。
 すでに3Kgほど減らした上だから厳しいものがあるが、今年の第2ステージとしてなんとか達成したい。

 私のヘルスチャレンジ暦を見ると減量3Kgは今まで3回エントリーしている。2007年は66.6Kgから63.4Kgに減らし達成、2010年はわずかに不足で未達成。2012年はエントリーしたものの病気で入院し頓挫した。

 今年は4回目のエントリーである。成果や如何に。途中は苦しいだろうが、結果が楽しみである。


9/1(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 
1:00起床、新聞・文献他.蓄積データ整理、5:00可燃ゴミ出し。7:40Taxi駅に、8:10こまち、8:45-12:15大曲中通病院外来。往路徒歩。13:30飯川病院帰院。散水など。19:50帰宅。夕食、20:45就寝。Blu-ray Discながら視聴:「サイエンスゼロ:ロボコン」。歩数計11016歩、12855歩。

ヘルスチャレンジ2017(1) 退職後の健康管理のためにも重要な生活習慣の確立
 9月1日は法人共済会主催の「ヘルスチャレンジ2017」(以下「ヘ・チャ」)と称する2ヶ月間のキャンペーンのスタート日である。
 
 「ヘ・チャ」は共催会員の健康管理と健康増進を兼ね,一人一人が目標を立てて楽しみながらチャンレンジするもの。私は2009年から適宜参加している。項目は全部で14項目あって,「ジョギング100Km」、「完全禁煙」、「ウオーキング60万歩」・・・と身近な項目であ る。達成者には項目毎に図書券1.000円分、抽選で10名には10.000円のギフト券がつく。自己申告であるのが甘くて問題であるが、ごまかすと心に傷を負うだろう。

 職員の健康づくりを後押ししようと、健康奨励制度を設ける企業が増えている。健康は、長く元気に働き続けるための大切な基盤である。企業では有用な労働力を確保し続けるためにさまざまな工夫を凝らしている。その試みは、ローソン、サントリーHD、大和証券グループ、ワコールなどが有名である。これらの企業では健康増進への取り組み実績を給与に反映する、といった試みもあり、社員のやる気を導き出している。

 社員の健康は、企業の経営にとっての要だ。生産性が上がるし、高齢になっても働き続けることができる。

 「ヘ・チャ」などの健康増進の取り組みは国も後押しし、2016年に健康保険の保険者や企業などが取り組む際のガイドラインを作成した。国には医療費を仰えるねらいがある。
 
 職場に制度かなくても、自治体が住民向けに手掛けていることもある。

 なぜ運動やメタボ対策などの疾病予防が必要なのか。
 個々人にとっても企業で働いている時だけの問題ではない。健康で無事勤めあげることも重要であるが、退職後も20−30年生きる可能性があるから、自らしっかり健康を考えるきっかけにしたい。

 2014年における平均余命を見ると、一般的に定年退職する65歳の方々の、あと何年生きられるかという平均余命は男性で約20年、女性が24年となっている。退職後の人生は驚くほど長い。

(各年齢ごとに上記のごとくの余命が残っている)

 ただ、問題なのは自立して生きられる健康寿命は、男性は71歳、女性は74歳だから、65歳の方々の健康寿命は男性6年、女性9年と意外と短い。だから、健康寿命期間を延ばすことは高齢者の生活の第一目標に据えてもいいほどの重要事項である。

 その際のポイントは、いわゆる生活習慣病予防と自立して移動できる能力が重要である。
 だから、できるだけ若いうちから健康を守る生活習慣を身につける必要がある。企業が提供する健康増進の企画には乗ったほうがいい。
 

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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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