徒然日記
2015年9月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


9/30 (水) 快晴 外来+健康クリニックドック判定 飯川病院ボランティア
 0:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。講演準備遅々。7:10バス飯川病院。8:45-13:30外来。14:00-18:30飯川病院、Blu-ray視聴せず。講演準備。入院患者家族対応。19:10バス帰宅・夕食。20:45就寝。7302Km。

自然の脅威、自然災害(1) 人間が刻む時間感覚観と自然の時間は全然異なる
 人間は科学、文化、文明を発達させた。しかし、自然との共存共栄の謙虚さが乏しくなってかつての危険区域に居住している民衆も完全にその危険を忘れている感がある。大自然の営みは決して人間が積み上げてきた安心の歴史に都合良く合わせてくれない。

 2011年の東日本大震災は常識的には確かに未曾有のレベルだったのだろう。しかし、古い記録には類似の津波もあった。にも拘らず、福島第一原発は50mほどの高台をわざわざ削って低くし海抜20mほどに設置した。主に、経済的な理由だったと言う。それなりに事情はあっただろう。しかし、長い間災害が無かったという人間が刻んだ歴史は関係無かった。しかも、地震・津波が殆ど無い外国の設計による原発を、地震国・津波国の日本にそのまま建設し、最後の砦である非常電源の確保も自然の足跡を無視した場所に設置したことに問題があった。

 2014年8月20日広島市を住宅地を襲った豪雨は大規模な土砂災害をもたらし、死者74名にのぼった。この件は被災者の方々には申し訳ないが、完全に人災であったと思う。豪雨が予想外であったが、地勢学的には前から危険地域とわかっていた。それでも広島市は強い警告を出せず、それを良いことに企業は宅地造成を続けてきた結果である。

 今月、2015年9月11日に関東・東北地方を襲った豪雨は、鬼怒川や渋井川の堤防を決壊させ、茨城・栃木・宮城の3県で8人の命が奪われ、5千人以上が避難するに至った。被災地では月末に至ってもまだ水が引かず、流れてきた土砂や岩石の除去にも難渋しているという。これはもともと小水害を何度も繰り返してきた河川と周辺の低い土地の間に堤防を築くことで安全を確保し、住宅が造成された。ひとたび堤防が決壊すると水が溜まるばかりかその水の排除も困難になる、ということは結果から見ると当然至極である。果たして堤防決壊の可能性は論じられ、対策されてきたのだろうか。

 2011年の東日本大震災はともかく、福島第一原発、広島の土砂災害、今回の鬼怒川の堤防決壊とその後の被害は自然を甘く見てきたというツケがモロに出たものと思う。

 ここで重要なことは、人間が感じる歴史観と自然の歴史のスケールの違いである。人間の場合2-3代前のことは過去のことと捉えてしまうが、大自然にとってはくしゃみ一発レベルの短時間である。宇宙を論じる際には光年という大きなスケールの単位が用いられているが実感がないために受け入れられやすい。地球上の災害を論じる際にも我々の感覚とは異なるスケールを用いなければならないだろう。


9/29 (火) 曇り 外来 飯川病院
 1:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。7:10バス飯川病院。8:45-13:00外来。14:00-18:00飯川病院、Blu-ray視聴:「そこまで委員会;対中国歴史認識」、「世界の今:日本外交、日本の防衛体制、日中首脳会談」。19:10帰宅・夕食。20:45就寝。7295Km。

高齢者の事故(3) キノコ採り遭難 私も先月危なかった
 さきがけ新聞によると、県内で8月以降キノコ採り遭難が相次いで発生している。遭難者9人(今月24日現在)、うち高齢者が8人、60代、70代の男性2人が亡くなった。80代の男性1人が行方不明のままだ。多分、この不明の方は私が見ている患者の親族と思われる。

 県警によると、北秋田市の60代男性は8月中旬、2日後に同市の山中で遺体で見つかった。横手市の70代男性は今月、東成瀬村椿川の国有林内の沢で亡くなっていた。行方不明になっている北秋田市の80代男性はキノコ採りに行き遭難した可能性が高いという。
 
 県警は、?単独では入山せず、?自身の体力に合った行動を取り、?明るいうちに下山、?家族や知人らに行き先を告げる、?携帯電話を持つ、と呼び掛けている。

 私は先月16日花巻温泉郷で滝を見に行き滑落して受傷をした。上記の記事に照らしてみて、私は運よく大事に至らなかったが極めて危険な状況を自分で作っていたことを自認し、反省した。

 ?単独では入山せずーー朝9時、散歩がてら軽い気持ちで一人で出かけた。
 家族旅行の最中で息子たちもいたが、甲子園で秋田商業がいい試合をしていたので遠慮し誘わなかった。反省。

 ?自身の体力に合った行動ーーではなかった。
 降りる必然性がない程度の崖を降りようとして途中で滑った。それほど高い所からでなかったが、石の河原に背面から落ち、頭部と背部を打った。自分のバランス感覚を過信していた。

 ?明るいうちに下山ーー前日夕方に散歩途中で滝の見学コースを発見し直前の駐車場までたどり着いた。
 暗闇が迫ってきたのでその時は諦め、翌朝に再チャレンジした。この判断は良かったと思う。 

 ?家族らに行き先を告げるーー家人には滝を見に行く、とだけと告げ具体的な話はしないまま出かけた。
 プリウスで途中の駐車場まで行き、200mほど歩いて滝に行きそこで滑落した。こんなことになるとは予想もしていなかったために具体的な場所は告げなかった。

 ?携帯電話を持つーー持っていたが、受傷直後は家族に連絡を取らなかった。
 動けない状況であれば別であるが、さいわい四肢は骨折もなく問題なく動いたために、まずホテルに戻るべしと考え、頭部の傷を圧迫しながらフラフラと車に戻り、ホテルの玄関から家人に電話した。携帯ですぐに連絡を取らなかった判断は必ずしも正しいとは言えないが、自力で最短時間でもどることができ、さいわい悪しき結果にはつながらなかった。

 ?後日談ーー受傷後腫れ上がった腰部臀部は筋肉の炎症と出血だったと思われるが、検査を受けなかった。
 約1ヶ月かかって腫れは収まり、血液も吸収された。しかし、今でも腰部から臀部にかけて帯状に広く知覚鈍麻が残り、腰痛も残っている。
 数日前に整形外科の医師に状況を話したところ、脊椎骨の横突起が何本か折れているのでは?との判断であった。その際、動脈が切れて出血死する場合もある。運が良かったのでしょう、とのこと。頭部のCTは受けたが、腹部の検査等を断ったことの重大さを改めて反省した。

 私も打ち所が悪かったら滝の側で死んでいた可能性があり、高齢者の不用意な事故による死亡例として、まとめて扱われただろう。反省反省。


9/28(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
0:30起床、疼痛あれど軽減。一昨年は足温電気あんか使用開始。昨年はまだOK。今年は夜間着衣なし。文献、新聞他。7:10バス飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック。12:00飯川病院に、14:00−19:00勤務。Blu-ray視聴:「池上:中東の現状」、「未来世紀ジパング」、「久米書店:羽田圭介」、「サイエンスゼロ:スパースモデリング」、、観る。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ7289Km。

高齢者の事故(2) 交通事故より多い入浴時事故
 これからの寒い季節に多発するのが高齢者による入浴中の事故である。全国では年間1万7,000人ほどが入浴中に急死している。交通事故による死亡者数4500人を大きく上回る。

 秋田大学が県内で行った調査では、2102-12年までの10年間で年平均174人が入浴中に死亡している。県内の最近の交通事故死者数は年間40人なので、実に5倍近い。交通事故者との比較で全国のデータよりも秋田県のデータの比率が大きいのは寒冷地であることと高齢化が関係していると考えられる。

 入浴事故の実態を調査・分析した吉岡秋田大名誉教授によると、死者は70代以上が圧倒的に多く、特に寒さが厳しくなる12‐2月に多発している。死因の多くが溺死で、入浴中に一過性の脳虚血や不整脈などによって意識障害を引き起こした可能性があるが、法医解剖しても他の原因疾患が否定できるものの、はっきりとした死亡原因は分らない、という。

 また、秋田市消防本部に設置されている救急救命士による「入浴事故調査研究ワーキンググループ」によると、秋田市では2009〜13年の5年間に入浴事故に伴う出動は789件で、このうち231人が亡くなり、高齢者が約88%を占めた。

 同本部は事故を防ぐポイントとして以下をあげている。
?浴室や脱衣所を暖める、?家族による頻繁な声掛け、?入浴時間はぬるめ温度で10分以内、?入浴前後の十分な水分補給を挙げる。

 事故は冬場に多いことを考えると、居室から脱衣所、湯船の急激な温度変化が血圧の変動や循環動態の変化を生み、意識障害や不整脈、脳出血、心筋梗塞などを引き起こすと考えられる。危険性が高い人として、高齢者、高血圧、糖尿病をもっている人が挙げられる。

 私は短時間ながら頻回に入浴するのが好きである。休日等は日中から、ウイークデイは午前1時頃から出勤前の6時頃までの間に、体が冷え始めた時、仕事や作業が一段落した時などに、43度以上の温度で短時間、3-4回入浴を楽しんでいる。上記の事故の分析結果からみてあまり推奨される入浴法ではない様である。それで、2シーズン前から脱衣所に速熱性のセラミックヒーターを設置している。かなり快適になっているが、厳寒期にはやや非力である。小型のオイルヒーターの設置も考えているところである。


9/27(日)快晴 飯川病院日直     
 0;00起床。腰痛かなり軽減、本読み、新聞など。8:45バス飯川病院、9:00-17:00日直勤務。午前はデータ整理中心、午後は講演準備他。Blu-ray視聴:「池上 世界を変えた本:プロテスタンティズム」、「釜石艦砲射撃体験者の遺言」、18:30迎えあり帰宅。19:00夕食、20:00就眠。歩数計Σ7285Km。

高齢者の事故(1) 秋の全国交通安全週間2015
 本年も9月21日(月)-30日(水)は秋の交通安全週間である。秋田市内の交差点にも先週から警察官や交通指導員の姿が増えた。

 今年の運動の基本は「子供と高齢者の交通事故防止」で、最終日の9月30日(水)は「交通事故死ゼロを目指す日」とのことである。

 全国共通の重点項目として挙げているのは
# 夕暮れ時と夜間の歩行中・自転車乗用中の交通事故防止(特に,反射材用品等の着用の推進及び自転車前照灯の点灯の徹底)
?# 後部座席を含めた全ての座席のシートベルトとチャイルドシートの正しい着用の徹底
?# 飲酒運転の根絶

 至極まっとうな項目である。文言のほとんど毎年変わらないが、それだけ運動の効果も乏しいということでもある。

 県内で高齢者の交通事故死が後を絶たない。社会全体で高齢者を守る意識を高めることは勿論であるが、子供たちと同様、高齢者にも積極的に注意を呼び掛け、事故防止を図らなければならない。高齢者に対してはなかなか声をかけ難い。素直に聞いてくれず、理屈をつけて反論してくる。高齢者を甘やかしていては決して事故は減らない。

 県内の交通事故死者数は減少傾向で、死亡数も減っている。ところが、死者に占める65歳以上の高齢者の割合は12年連続で5割超である。死亡事故のほとんどは夕方から夜間に起きている。

 歩行時の事故を防ぐには、運転者の自覚は勿論のこと、高齢者自身が自ら事故の被害者になる原因を作っていることを自覚させる必要がある。

 私は自転車にも乗る。朝も歩くが夜間から夕方にかけて職場から帰る際に結構長い距離を歩くこともある。私は運転もする。その立場で歩いている高齢者を見るとやはり問題がある、と思う。
 第一は高齢者の服装が黒っぽい。これは我が国の文化なのだろう。でも発想を変えるべきある。
 第二は歩行が不安定の方がいる。自転車は多くはフラフラ運転で突然進路を変えたり、横断してくる。退職の衰え、バランス感覚が衰え、注意散漫になるからであろう。

 高齢者は明るい色調の服装をしてほしい。歩行時も自転車の場合も同様で、かつ自身の能力を自覚してほしい。

 私自身は秋から冬にかけて日照時間が短くなって暗い時には手にライトを持ち、背負うディバッグには点滅する赤い警告灯をつけている。この小道具はともに前に使っていたクロスバイク用の安全部品で便利である。さらに、服装は白いTシャツを、冷えてくれば白のウインドブレーカーを着用する。

 高齢者の交通事故は夕方から夜間にかけて多発している。その予防策については県警なども繰り返し発信してきているが、反射板をつけている歩行者はほとんど見ることはないように思える。

 高齢者は自分の身体的衰えをなかなか認めたがらないし、卑屈であり、子供以上に自覚が足りない。交通事故防止という面では高齢者を甘やかさず厳しい指導をすべきである。


9/26(土)降雨  
100起床、腰痛は結構辛いが耐えるのみ。新聞チェック・文献読み。次週の講演準備に集中。その他の仕事は腰痛で一切できず。Blu-ray視聴:「N響定期公演:ドヴォルザークSyn No8他」。19:00夕食。20:10就寝。歩数Σ7281Km。

iPhone5 iOS9.0へのアップデートに失敗(2) わずか10日でiOS9.01がリリース 運も悪かった
 購入したアプリケーション、iPhone5へ溜め込んだデータ類は全部失ったのは残念であったが、電話機能、メール、ショートメールが使えるようになった。先進的なスマートフォンを長く使い続けて来たとはいえ、今の私にとっては基本的にはこれでいい。

 一般的に、アップデート中にフリーズするバグは、iOSのアップデートにつきもので、必ず、アップデート前にはバックアップを取るように・・・、と何処でも強調されている。そのことを軽視して事前にバックアップをとっていなかった点を含め、大きな非は私にある。これから少しずつ時間をかけながら必要な機能を再入力して前の状況に近くの機能を戻していきたいと思っている。
 この間に、今まで私が忌避していたiCloudを利用できることになった。これで自宅のパソコンとの連携が取りやすくなった。

 iOS9がリリースされたのは今月16日であったが、本日26日には早くもiOS9.01がリリースれた。これは異様な経過である。
 日本単独での出荷台数は公開されていないが、2007年の初期型からから昨年末までの世界での出荷台数は6億6千万台とされている。私から見れば想像もつかない値であるが、ここ2-3年間に購入したユーザーのかなりはiOS9にアップデートを試みたと思われる。しかしながら、私が経験した様なバグは世界中で生じてたらしい。そのためにダウンロードの反応は遅かった。

 Appleではこの状態を重視してわずか10日でiOS9.01がリリースされた。これでアップグレード中のバグは解消されスムーズに移行できる様になったという。要するに私もあと数日待て行えば問題は生じなかったと考えられるから、運が悪かったといえよう。

 Appleはアップグレード時に頻回にバグが生じることが分かった時点でアップグレードの一時中断、あるいは警告を出すべきだったと思われた。尤も、iOS9の発表はAppleの技術の進展を世にというものであり、企業イメージを落とさないためにも対外的にその様な処置は出来なかったのだと思われる。


9/25(金)曇り雨模様 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 0:30起床、腰痛結構ひどい。新聞チェック・文献読み・徒然など。7:30Taxi。8:10こまち、9:00大曲中通病院外来、往復Taxi 。13:30飯川病院ボランティア、19:00Taxi帰宅、夕食、20:00就寝。Blu-ray視聴:「池上:日本を変えたあの事件」、「血液の不思議」 歩数計Σ7278Km。

iPhone5 iOS9.0へのアップデートに失敗(1) 復旧したが全データ消失
 私は2008年12月にiPhone3Gを購入、12年11月にiPhone5にした。それを用いて現在に至るが、2013年11月にガラスを割ってしまいAppleのサービスセンターを介して同等品と機種交換となった。その時Apple careに入っていたのでわずか4400円で完動品にリニューアルした。だからPhone5は2台目ということになる。その後、新型が2機種ほど発売になったが、Phone5で十分、新製品には関心もない。
 
 私の現有器はのOSはiOS7であり古い。iPhone5の設定画面には1年も前からiOS8へのアップグレードが可能の表示が出ていた。それが今月16日にiOS9が使用できるようになったというニュースがAppleのHPに広告された。

 私は普段ならOSのアップグレードに手をつけないかったと思うが、たまたまシルバーウイークで時間に余裕があったので9月21につい手を出してしまった。その際、途中で失敗することなどあり得ないだろうと考え、iPhoneのバックアップを取ることをスキップした。それが元凶の始まりであった。

 iOS9に無事アップグレードされたとの画面表示が出たので間もなく終了である。やっぱりバックアップなんて要らなかったではないか、と思い次のプロセスに進んだ際にがっちりとフリーズした。iPhoneを何度か再起動したりして考えられる対策を行ったが、全然解決の糸口は見つからなかった。

 何か対策はないかとAppleのHPにアクセスしたところiOS9にアップグレード中にフリーズする現象が多発している、その解決方法として「iOS9にアップデートする前にバックアップしていなかった場合は、いったんコンピュータの iTunes に接続した上で、Phoneのスリープボタンとホームボタンを10秒以上長押してDFUモードへ移行させ、クリーンな状態に戻してからもう一度アップデートし、そのバックアップから復元しすればいい。」と、ある。

 これで助かると考え、バックアップしてみたが、約12時間かけてもバックアップは取れず、私の場合は修復不能であった。

 それで、型のごとく正規のサポートセンターに電話し対応援助を依頼した。
 スタッフの判断はフリーズのためにバックアップが取れないのだろうとの判断で、工場出荷時のiOS9の状況には戻せるというものであった。

 やむを得ない。私は電話機能、メール、ショートメールさえ使えれば当面はいい。
 その状態での復元で承諾し、指導を受けて機能が戻った。電話サポートは1時間以上も要した。通常は電話サポートは有料であるが、今回はApple側のソフトのバグの問題であることが明らかだから無料でよいとのことあった。それは助かったが、難があるソフトをそのままにしてアップグレードを推奨していたことは問題である。


9/24(木)家内の誕生日 快晴 外来 飯川病院
1:00起床、家内の不調、軽くなったがなお続く。私の腰痛若干良好か。新聞・文献・徒然など。7:50飯川病院着、8:45-13:30中通病院外来、混雑。14:00-18:00飯川病院勤務、車帰宅、 19:00夕食、20:00就眠。 Blu-ray視聴:「林修名著:雨月物語」、「世界の今、今世界は:北朝鮮、宇宙ビジネスなど」,「経済フロントライン」、「林世界の名著:雨月物語」、「団塊狙われるシニア:インターネットの罠」,「アメトーク:プロの裏技」。 歩数計Σ7273Km。

医療の時代と死生観(18) 臨床宗教師が欲しい 
 人間は知能が高い。知能が高いから生老病死に関して悩みが尽きることはない。なんら具体的理由がないのに先々のことを不安に思う人、過ぎ去ったことをウジウジと思い返して先に考えが及ばない人など、実に様々である。
 医療の現場においてこれらの悩みを受け止めるには困難であるが、他に代わるものがないために私も含めて一部の臨床家が止むを得ず対応しているケースが多い。
 
 「こんなことは病院より、寺に行って坊さんに相談すべき・・」は、私の外来の常套句の一つであるが、今までにそう実行した方は一人もいない。なぜなのだろうか。

 おそらく既存の宗教は現代人のこの様な悩みに対峙する力を欠いてしまい、仏教に例えて言うと葬式と過去の仏の供養の行事をこなすことに甘んじてしまい、一般人に対して教義の力をもって生きる力を、問題解決能力を喚起することを放棄しているからだ、と私は思う。
 私から見ても、仏教の場合、唱えられる経には生きるものに対して人生の指針を含む。僅か300字の般若心経をとってみても生きる指針が込められている。お経など坊さんだけが学び修行するためではないのだ。説法集などもすごい内容を持っている。

 仏教が門戸を閉じていたから新興宗教が台頭し、教養高い若き信者たちが集まり、方向を見誤ったのがオウム真理教だとも言えよう。

 ここで言いたいのは、信ずるとか入信するとかの問題ではない。
 宗派も問わず宗教者が寺を出て、例えば秋田市ならばアトリオンの研修室などに週1-2回程度、定期的に説法と対話できる様な環境を整えてみてはどうだろう。まず環境整備して宗教家が出かけてくること、それが大事である。
 多分この様な試みはすでに行われていて臨床宗教師なども養成されている様であるが、終末期医療に限定して活動するのはもったいないと思う。悩める対象者はガンとかの患者だけではない。一般の方を対象にして生老病死を語ることこそ意味があるだろう。

 この様な活動が当たり前になって医療と宗教者がコラボすれば、こころの安息を得て素晴らしい高齢化社会が到来する様に思う。
 高齢者は常に死を意識しなければならない状況にある。高齢者の医療は身体的悩みのみを対象にしては解決しない。


9/23(水)秋分の日 快晴
1:00起床。家内の不調、軽くなったがなお続く。文献若干,本読み、新聞読む。9:00-10:00自転車修理、その姿勢が悪かったためかその後腰痛再発。安静を保つことにした。12:30長女・孫横浜に。息子U一家来訪。15:00庭で散髪。文献読み、新聞チェックほか。19:00家族全員疲弊状態にて出前夕食、20:45就寝。歩数計Σ7171Km。

医療の時代と死生観(17) 死への不安への対応は医療者では困難 
 人間は唯一死への不安を抱く生物だ、と言われている。不安があるから精神文化が発達したとも言えるだろう。

 医療が未成熟だった頃は高貴な身分の方々は医療を受けられたであろうが、民衆は死を迎えるような厳しい状況でも祈祷しかなかった。不安はさぞや大きかっただろうと推定される。家族も一族も、生きていて欲しいとの願いは強く大きかったと思われる。当時の方が不安を介してより濃厚な人間関係があったのではないだろうか。

 医療が民衆に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。それまでは農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前だけであった。

 皆保険施行は丁度日本の経済成長期にあたる。社会が徐々に豊かになり始めた時期である。
 医学医療も進歩し人間の身体状況を科学的に分析し生命現象を科学的に説明できる様になってきた。
 現代人はもう科学の信者である。自ら理解ができないにもかかわらず科学の奴隷でもある。

 この様な状況は、しかしながら人類の歴史の中では極めて特殊である。
 不安という人間にとって最も基本的な精神的活動を取り扱う場所が、近年そっくり欠如してしまった。こんな時代はなかった。医学・医療は完全に身体医療になってしまった。かつ、科学的思考は宗教的安寧から安息を得るというプロセスを患者を遠ざけた。この場合の宗教的ということは具体的に特定の宗教の信者である、ということではない。日本人に特有の自然観、自然に対する恐れ、などを示す。

 勿論、現代医療の一分野として精神科学が存在する。しかし、精神科学は宗教的安寧を求める姿には対応できない。質的に異なるのである。患者がその周辺の不安を訴えても精神科の診療の範囲でない、と言われるだろう。

 人間は生老病死に関して悩みが尽きることはないが、現代医療においてこれらの不安感を受け止めるには技能的に困難である。
 
 私の外来は今も細々と続けているが、私がそこでやっているのはほとんど医療とは言えない。お年寄りの悩みよろず相談所である。身体的苦痛、家庭内の問題、死への不安、人間関係の悩み等が話題になる。私の外来は血圧だけは自分で測るが、身体的苦痛や違和感等の訴えがない場合には殆どしない。形だけの超打診は意味がない。そんな重症者はまずいない。
 面談を介して「常になぐさめ、時に治療する・・」レベルの診察である。本来、私がやるべき仕事ではないのに時間だけは長い。基本的に傾聴の姿勢である。患者は話すことで自分で解決の糸口を見つける。
 「外来に来るより、寺に行って坊さんに相談すべき・・」は、私の外来の常套句の一つである。


9/22(火)国民の祝日 快晴 飯川病院日直 
 0:30起床。家内の不調、軽くなった様だがなお続く。新聞・医学論文チェック他。6:45ゴミ出し他、朝からデータ整理に。8:27バス、8:50-17:00飯川病院日直、患者死亡あり、確認とみおくり。9:00-16:00アップルサービスセンターにiPhoneについて相談。間欠的に6時間余かかってなんとか工場集荷状態にまで修復できた。帰路自転車パンク修理キット購入。19:00夕食、20:00就寝。 歩数計Σ7266Km。Blu-ray視聴:「そこまで行って委員会NP:東京五輪」、「世界の今、今世界は:北朝鮮、宇宙ビジネスなど」,「経済フロントライン」。

医療の時代と死生観(16) 医療と医学の発達 死を語らず遠ざけた時代に
 医療が国民に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。それまでは農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前だけであった。
 皆保険以降は日本の経済成長期にあたる。盛岡郊外の農村地帯の祖父の診療所にも患者が増えた様に思ったが、それでも医療費を払えない貧しい患者が多数いた。

 日本の敗戦までは国民は天皇の臣民であり自分の身体、いのちは自分のものではなかった。国民のいのちは実に軽々しく扱われた。戦後は身体も心も個人のもになったと同時に、いのち=死に関して時代に対する反動なのか、何者にも代えがたい貴重なものとみなされたと同時にいのちそのものを話題にすることもなくなってきた。

 医学医療の進歩は人間の身体状況を科学的に分析し生命現象を科学的に説明できる様になりつつある。現代人はもう完全に科学の信者である、というか科学の奴隷でもある。
 この様な状況は、しかしながら人類の長い歴史の中では極めて特殊である。
 日本人はつい先日まではなんらかの宗教を信じていた。そして、死後人間の魂はあの世に行くと信じられていた。最近は仏教の世界ですらあの世を語ることはない様だ。今はあの世に関する説法などは恥ずかしくでできない、という。

 あの世についての信仰を失い、あの世について語らなくなった現代人は、死についても語らなくなった。現代人は死について深く考えることをやめ、努めて死について語ることを忌避する様になった。
 医学医療は完全に身体医療になってしまった。

 私はこの時代を見ながら育ち、医師となった。幼少のことから寺の行事に親しみ、あの世の存在を信じていた。その頃、私が垣間見た人の死は今でいう自然死に近いものであった。私にとって臨死状態は決して地獄の苦しみを伴いようなイメージはなかった。考えてみれば、医療が一般人のものにならない時代、つい先日前までであるが、いろんな死に方があっただろうが、医師に管理された人工的な死ではなかったはずである。

 しかし、私が学んだ医学教育は完全に科学的論理的な内容であった。患者は身体的な存在であり、不安・悩みを抱える弱い存在である全体の人間像はそこにはいなかった。
 私も若い時の10数年にはかつての印象を離れ、出来るだけ長く生かすことを金科玉条に医療をやってきた。


9/21(月)敬老の日 快晴 飯川病院日直 
 1:00起床。医学論文・新聞他いつもの如し。8:30バスにて出勤、9:00-17:00飯川病院日直。この時間利用してiPone iOS9.0に試みるも途中でフリーズし失敗。データのバックアップも不可。17:10外出中の家内胸痛で不調、中通病院救急外来受診、息子Uも男鹿から駆けつけたが、症状以外他覚的所見なく経過観察で帰宅可能に。何だっただろうか。19:30帰宅。夕食、20:00就寝。歩数計7260Km。Blu-ray視聴:「ガイア:新たな水族館」、「認知症:予防sp」、「アメトーク:ネコ芸人」。

シルバーウイーク2015(2)  百獣の王ライオンの咆哮に度肝抜かれた
 私が動物園を訪れたのは2005年の犬山市のモンキーセンター以来である。
 私が秋田市に転居してくる1年前までは、ミニ動物園が千秋公園内にあった。1972年に大森山公園に開園した。大森山動物園は一度来たことがあるが、多分30年振りかもしれない。結構広いと思ったが、動物園としては小規模らしい。

 大人の入園料は720円でちょっと高いかとも思ったが、1年間有効の、何度でも入れるパスポートが1230円で逆に安すぎるのではないかと思った。エントランス等は若干記憶があるような気もしたが大きく改築され、土産売り場、レストラン等が併設されている。他はざっと記憶にあるだけ。なぜか、フラミンゴ舎だけははっきり記憶にあった。

 孫は両親に任せ、独りで園内を闊歩した。他の施設を知らないので何とも言えないが、一つ一つの畜舎があまり清潔でないような気がした。

 オオカミが精悍な表情で畜舎内を闊歩していたのは印象深かった。思ったより頭部が大きい。
 サル山には100頭ほどのニホンザルが自由に行動しているが、よく秩序が保たれていると感心した。やっと一人で遊べる様になったばかりのチビ猿たちは表情が可愛い。ときに子供同士の喧嘩やいたずらがすぎる様なときは側の猿がたしなめる。
 私など孫の親に、要するに、長女や息子U夫婦に遠慮してしつけなどに関して口を出すことは一切ないが、猿山の集団を見ていると本来のしつけなどはこうあるべきなのだ、と思ってしまう。そんな様子は見ていて楽しい。この猿山を見ながら、2005年の犬山市のモンキーセンターを訪れたきっかけは京都大学霊長類研究所所長の、「猿の世界からは人間を学ぶことができる」、という講演であった。確かに学ぶことは多かった。

 たまたまライオンの檻の前にたたずみしばらく眺めていた。雌雄各一頭だらしない格好で草むらに寝そべっていた。子供達も数人ほどいたが、「寝てばかりいるから面白くない」と言って離れていった。確かに、ライオンは夜行性であり、昼の姿は怠惰である。
 ところが、私一人になった途端、そばにいた雌ライオンが何を思ったか、やおら立ち上がり、私に向かって大きく口を開け激しく啼き始めた。しばらくして傍の雄ライオンも同調した。威嚇の叫びだろうか。
 私はTV番組とかで獣の鳴き声は結構聴いているが、そんなレベルの声ではない。一啼き30秒ほど続き、時折「ガオー」と言った甲高い叫び声を交え、「ウーウー」とけたたましく吠え続ける低音域の持続がすごい。二頭で2分ほど吠え続け、突然ピタと鳴き止み、何事もなかった如くに草むらにドタッと横になって静かになった。
 さすが百獣の王と言われるだけのことはある、と実感した。良いところに居合わせたものである。
 私のその日の風貌はヒゲも髪も伸び放題であったが、まさかそんな私に吠えたのではなく、100%偶然だろう。

 ライオンの生態は良くわからないが、ライオンに吠えられたのを良い機会に、私は明日散髪しヒゲも短くしよう、と決心して帰途に着いた。


9/20(日)快晴 大森山動物園 
1:00起床、電子データチェック、本読み。午前午後とも電動自転車、カート類のパンク修理。畠の最終コースとして草刈り、マルチ剥がしなど。庭の笹だけ切除抜去など。16:00-17:30孫一家連れて大森山動物園に。当初は運転だけと思ったが30年ぶり??久々なので入園し楽しんだ。百獣の王ライオンの勇壮な鳴き声に度肝を抜かれた。本読み、微睡など。19:00夕食、20:00就寝。歩数計7254Km。

シルバーウイーク2015(1)  30年ぶり??大森山動物園訪問
 秋の大型連休が19日に始まった。5月の連休はゴールデンウイークと称されるが、この連休を何時からかシルバーウイークと称しているようだ。この間に「敬老の日」、「秋分の日」が含まれるから、いい呼び名なのかもしてないが、新聞の記載にはレジャー関連記事は多いが、敬老関連の記事、彼岸の墓参り関連の記事は少ない。年寄りが溢れているからなのだろうか。

 私の場合、23日まで5連休となる。しかしながら、19日、21日、22日の3日間は飯川病院の日直が当たっている。それでも開放感は大きい。私は10月3日に講演が予定されているのでその準備のために時間を充てたいと思っている。

 19日に横浜の長女一家が来秋した。
 3歳の孫は一層成長し、言葉もしっかり意味のある日本語になってる。これは私にとっては辛い。今まではなんとか相槌をうっていればよかったのであるが、しっかりとした返事を返さなければ怪訝な顔をする。これでは孫教育に悪影響である。だから、一緒にいると緊張してしまう。成長は嬉しいが、私にはちょっと辛くもある。

 本日、20日午後に秋田市郊外にある大森山動物園に孫を連れて行きたいので運転を、と頼まれた。家族たちは数年前から私の運転は危険・・とあてにしなくなっている。年に一度の盛岡への墓参りを兼ねたミニ家族旅行ではここ3-4年は運転をさせてもらっていない。事故歴はないが、高齢者の運転適性検査で低レベルと判定されたこともあって、私自身も自信喪失気味である。今回は私でもいいというので奮い立った。こんな心理は特殊詐欺の被害者のそれに似ているような気がした。

 私は混雑するところは近づくのも嫌である。
 駐車場で待つつもりであったが、遅れに遅れ15:00過ぎに家を出た。入園時間が気になるほど遅れてしまったが、これが正解であった。動物園は丘陵の上にあるが、坂の途中から、数100mにわたって路肩に駐車している車が見えた。一方戻ってくる車も多かった。結果的に、私どもは最も条件のいい第一駐車場に駐車できた。もし、予定通りに午後早々に家を出ていたら駐車も困難、動物園も混雑で大変なことになっていたと予想される。

 それにしても大変な人出ですごい状況であっただろうと予想された。私はレジャー感覚が100%欠如しているから通常こんなところは忌避し、近ずくことはない。本日はせっかく横浜から来た孫のためと方針変換、大サービスすることになったもの。夕方になって混雑も緩和されたと思われたためににわかに興味が湧き、私も入園してみることにした。入園は多分、30年振りかもしれない。


9/19(土)終日降雨 飯川病院日直 
1:30起床、風邪か?倦怠感まだあり。蓄積資料整理。文献読みなど出来て満足。午前は主に読売日本交響楽団、ハンブルグ北ドイツ放送交響楽団演奏会の録画を視聴、前者はシェーラザード、後者はメンコンなど視聴しながらデータ分類。12:00-18:00飯川病院日直、夕方来客あり歓談。19:00帰宅、夕食、 20:30就寝。長女一家来秋。歩数計7247Km。Blu-ray視聴:「昭和は輝いていた:服部良一後編」、「ガイア:水族館」、「落語:含蛇草」、「昭和偉人伝:藤子F藤子」、『100分で名著:種の起源(3)」。

「鼓童」演奏会2015(2)舞踏団の要素が強くなった和太鼓集団
 今年の開始曲は、歌舞伎や能の雰囲気を濃厚に取り入れた、人物の動きを中心とした中型、小型の太鼓のアンサンブルで始まった。

 パンフレットにあるように、近年、坂東玉三郎氏の演出によって「鼓童」は能や歌舞伎等の要素を濃厚に取り入れたものにシフトしつつある、と思われた。それは「鼓童」の芸術として、一層の発展のために重要な要素なのだろう。
 しかし、「鼓童」は本来舞踏集団ではない。その人物の動きなどそれがややぎこちなかったり不揃いだったりして、私にはちょっと苦しい感じがした。私は太鼓演奏の詳細な動きも見たいと思い双眼鏡を持参したが、出演メンバーの表情にもいささかの迷いがあるように思った。前回は演奏者たちの溢れる様な笑顔があリ、そこにも集団のエネルギーを感じ取れたのに・・。

 荒々しい打楽器と乱舞の組み合わせ、といえば、私はストラビンスキーの「春の祭典」のバレー公演をイメージする。「男の肉体美」の表現、持久力、筋力、飛散する汗などの表現ではラベルの「ボレロ」がイメージされた。しかし、何かが違う。バレー団には太鼓の技術はない。「鼓童」は舞踏集団ではないから、この面に関しては高度の技術は期待できない。そんなことは分かっていながら、「何かが違う・・」と感じてしまった。

 勿論、「鼓童」らしい荒々しさ、高度な技術に裏付けされた、いろいろなサイズ、音質・音量の組み合わせの太鼓を駆使する軍団としての精緻なアンサンブルも味わうことができた。
 特筆すべきは、10分以上にわたって妙技を披露したソリストの信じがたい技術、3人の奏者による絶妙なアンサンブルなどが続いた。私はこの間、固唾をのんで聴いていた。この時、イメージ通りの「鼓童」を感じ取った。

 最近、私は自然宗教の世界に興味を抱いている。太鼓のルーツが人の喜びや営みを背景にした祭り、神への感謝に由来していることを示しており、「鼓童」によって見事な芸術の域にまで高められたものであった。 太鼓の魅力は太古からの人間の喜びを表す表現法の一つであったろう。だから、太鼓には心を高揚させる効果があり、誰しもが心惹かれるものを持っているだろう。

 「鼓童」の演奏は諸外国でも共感を持って歓迎されている。海外での演奏会は1万回にも達するらしい。諸外国では自然宗教という考えは乏しいらしいが、地域、人種を超えて「人類に共通の、何か」の琴線に触れるものがあるからだろう。

 「鼓童」は進化している、と思う。それに私が乗り切れなかっただけかもしれない。

 パンフレットによれば今日の出演者は15名だという。とてもこの少人数で演奏されたものとは思いがたい。ある曲では数10名の楽団に匹敵する交響的な演奏もあった。
 次はいつ機会があるだろうか、 と考えながら、いつもの如く中座し、帰路についた。

 本日、夕方は若干冷えた。会場の県民会館苗には入場者が溢れ、長い列を作っていた。見渡しても私のテニスウエア調のトランクス姿の軽装の方は皆無であった。明日からは長いトレーナーに替えて出勤することとした。


9/18(金)午前降雨午後快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、新聞チェック、本読みなど。風邪か?倦怠感強度。5:00可燃ゴミ集積所に運搬。7:40Taxi。8:10こまち、渋滞のためギリギリ。9:00-13:15大曲中通病院外来、病院駅間Taxi。14:45飯川病院ボランティア。Blu-ray視聴:「サイエンスゼロ:太陽の未来」、「オイコノミア:おばさんの経済学」、「知恵泉:吉田松陰」、「昭和は輝いていた:服部良一」。 新聞読み他、19:00帰宅・夕食、20:00就寝。Σ7242Km。

「鼓童」演奏会2015(1)和太鼓集団による交響楽団的だが・・
 去る9月13日(日)秋田県民会館にて和太鼓集団「鼓童」の演奏会が開催され聴きに行った。私にとっては2011年6月「鼓童結成30周年スペシャル・ワンアースツアー2011」以来である。

 この集団は佐渡で1971年頃結成された。ちょうど私が医学部を卒業して新潟を去る頃に「佐渡の國鬼太鼓座(おんでこざ)」として活動を始めたことを知った。ずっと興味を感じていたが一度も公演に接することなく、そのうちその存在も忘れていた。

 2011年に「鼓童」なる太鼓集団の秋田公演があると知ったときに調べてみたら、何と、「鬼太鼓座」が1981年に「鼓童」として再デビューしていた。「鼓童」のメンバー達は今でも佐渡に本拠地を構え、太鼓の奥義を究めながら共同生活しているという。

 「鼓童」は創生期には作曲家石井真木氏が指導、2000年ころからは坂東玉三郎氏と共演を重ねながら深遠な表現を学んだとのこと。更に「鼓童」の燃えたぎるようなデザインの揮毫は岡本太郎氏の作である。最近では国内外の交響楽団、ジャズバンドとも共演している。

 2011年の太鼓集団の秋田公演は大小様々な和太鼓が10数ヶ人物と共に登場、ゆっくりとしたリズム、ピアニッシモで始まる序奏から始まり、全員の満身の力で打ち鳴らして始まった。10数名一糸乱れぬ見事なアンサンブルと言うべきで、打ち鳴らされた低域豊かな和太鼓の音がホールに反響し、私の腹に響いた。 しかしながら、「鼓童」の演奏はただ勇壮に太鼓をたたくのではなく、信仰に裏付けされたというべき、素朴な芸術性も高かった。 
 さらに、「男の肉体美」の表現、持久力、筋力、軽快な身のこなし、一つのことに打ち込む美、飛散する汗など、彼らの勇壮な演奏を通じて、私はエロス的な陶酔感すら感じられた。

 今回の公演も楽しみに待った。通常は買い求めることのない前売り券を早々に購入して待ちに待った。
 しかし、今回の「鼓童」の演奏会は私にとっては抱いていたイメージとは違和があった。前回に比較して勇壮さ、素朴さが影を潜めた、中途半端な(?)太鼓集団、舞踏集団の感じであった。


9/17(木)快晴 外来 飯川病院
0:30起床。文献検索、新聞チェック、7:40徒歩飯川病院、8:45-13:30中通外来、混雑。14:00-18:45飯川病院、19:00帰宅、夕食、20:50就寝。Blu-ray視聴:「子供達に語る土崎空襲」、「久米書店:さおだけ屋はなぜ潰れないか」。歩数計7237Km。

マックミニが故障した 修理価格は新品とほぼ同額であった
 私は1993年のColour Classic以降パソコンは全てアップル社のマックを用いてきた。今まで何台使用したか覚えていない。最近のOSが動く比較的新しい機種は現在6台で、自宅で3台、飯川病院に2台、大曲中通病院外来に1台セットしてある。自宅の1台、飯川病院の1台は家内が用いている。
 私がパソコンのために費やした費用はかなりに登るが、すべて使い切っているから満足している。

 2013初頭、マックミニを購入した。
 新品にはこだわらないから未使用の型遅れ品を4.4万円で購入した。2011年秋に中国で製造でされたのもので、1.5万円ほど安く入手できた。これは自宅の書斎で用いて来た。
 約2.5年快調に機能していたが一ヶ月前突然機動しなくなった。途中まで機動するのであるが機動インジケーターが半分ほどに至ったところで止まってしまう。何度繰り返しても同様の状態から進まなかった。
 マックのコンピューターをずっと使い続けていて、何度もトラブルがあった。そのためにトラブル解消に関して私の知識もかなり備わっていると思っている。代表的対処法の、(1) 自己診断修復ソフトのディスクユーティリティ、(2) PRAMリセット、(3) SMCリセット、(4) セーフモード起動、(5) シングルユーザーモードで起動 + fsck で修復などを試みたが全てうまくいかずハードディスクの損傷と判断した。

 自分でも交換は不可能ではないが小さな筐体は分解するのに特殊な工具が必要で、適正なハードディスクの入手も困難と考えられたので正規のサポートセンターに修理を依頼した。
 電話サービスでの判断は私の判断とほぼ同様でハードディスクの損傷らしいとのことであった。修理依頼するにあたって修理費用を確認したところ、集配料、消費税込で5.1万円だという。新品も買えるほどの高額の提示に驚いた。修理に出すか否かの判断を一日待ってもらい考えることにした。

 購入価格が4.4万円、修理費用が5.1万円、現在マックミニの新品は5.8万円から手に入る。要するに修理費用に0.7万円上乗せするだけで、大幅にパワーアップした新品が手に入る。私にとっては必需品なので修理か購入かの二者択一しかない。
 迷ったが、得た結論は現有品を修理することであった。勿論、新品の魅力も捨て難いが、今まで使ってきたという愛着の方が勝った、ということ。

 修理の過程はすべてサポートセンターが手配した。手間としては翌日回収に来た宅配便業者に預けただけで、5日後には戻ってきた。実にスムーズで、伝票などへの記載など一切不要で、良くできているシステムである。センターの電話対応も極めて親切であった。

 その後、マックミニは全く問題なく作動している。
 修理費用だけはもっと安くならないものだろうか、とケチな私は思ってしまった。


9/16(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
0:00起床。文献検索、新聞チェック、本読み他。7:40徒歩病院着。 8:45-12:30外来。水曜外来は12月までとした。13:00飯川病院ボランティア。新聞、医学文献チェック、歴史本など。Blu-ray視聴:「受けたい授業:トットちゃん」、「林先生初耳学」、「歴史列伝:戦艦大和」。17:45バス帰宅、19:00夕食、19:50就寝。Σ7226Km。

古いものを使うのが好き されどかさむ修理費、維持費・・・
 私は手アカにまみれた古い品物を大事に使うのが好きである。それが必ずしも自分が使ってきたものでなくとも良い。消耗品なら別であるが、耐久品なら中古品でも構わない。中古品の気楽さから適宜改造したり、自分なりの付加価値をつけて用いている。だから、私用の趣味のもの、生活用品などは改造を繰り返しながら年季が入った品が多い。

 最も古いのはヴァイオリンで、多分1700年代の代物と思われるが、そろそろ老衰状態。2度修理した。
 オーディオ製品は1960年-80年代の製造あるいは購入が大部分でまともに音が出ないのを騙し騙し使っている。こういう使い方が好きだ。車も10年以上用いているから次々と故障が出る。

 往々にして修理を繰り返していると修理費の方が購入価格を越してしまう。
 私が30年ほど愛用してきたモンブラン万年筆のマイスターシュティックはボディが割れてインク漏れを起こし何度か故障した。結局今までボディ交換2回、キャップ交換3回で、残っているのはペン先部分だけ。修理費用がΣ6万円超となり、購入価格を超えた。されど満足感がある。最近は字を書く機会が少なくなって出番が少なくなったのが残念である。

 これが愛着というものなのだ、としみじみ思う。何でもそうだが、変な愛着を持つとコストパフォーマンスは確実に悪くなる。保証期間などはるか前に終わっているから修理費もバカにならない。そんなこと分かっていながら修理にコストをかけてしまう。それで更に愛着が深まっていく。変なものである。

 自分のバカさ加減にもほとほと呆れるが、こんな自分にも愛着をもっている。だから、私の愛用品についてはこの古いものを何度も修理して用いると言う悪循環を絶つことはなかなか困難である。
 
 家電製品も頻繁に不調になるが、そのスイッチ部分、コントロール部分にほとんどに電子部品が用いられているために私の能力ではなんともしようがない。これらの修理や更新に関してはほとんど関心がない。それを見越して家族達は不調になると嬉々として相談をかけてくる。数日後、新製品に取り替えられていることが多い。その請求書だけが私に回ってくる。洗濯機、掃除機などなんでこんなに高いのだ!!! と思う。 今年私が修理できたのは扇風機程度である。

 次の候補は1998年製の風呂用石油ボイラー、2001年製のレガシーワゴンで、これらはもう寿命なのだろう。修理に出すたびに新品への交換を勧められる。しかし、修理を続けながら今のところなんとか機能を維持している。私は、決定的故障が生じたら迷わず交換するつもりで心の準備はしているが、現状での交換にはまだ納得できていない。


9/15(火)快晴 外来 飯川病院  
0:30 起床、医学文献・新聞ほか。5:15可燃ゴミ提出、7:30徒歩飯川病院着、8:45-12:50中通病院外来、数・質ともに混雑。14:00-18:10飯川病院。18:30帰宅、19:00夕食、20:30就寝。歩数計7217Km。Blu-ray視聴:「そこまで言って委員会:アメリカの戦争責任・辺野古」、「世界の今:シリア難民」、「いま世界は:北朝鮮」観る。

医療の時代と死生観(15) 医療の時代はいつからか? やはり国民健康保険以降だろう
 人間及び他の生物体は外傷の他、ウイルス、細菌、寄生虫他の多くの感染症に苛まれてきた。しかし、具体的に記述されるようになったのは日本書紀、古事記などの記述によってである。

 以下に、縄文時代以降に日本人を苛んだ疾病の代表をあげた。

 # 縄文時代(骨や異物から推定);慢性関節炎、ポリオ、結核、回虫、横川吸虫など。
 # 古代人の病気(日本書紀);疫病と飢饉の悪循環、痘瘡(器量定め)、麻疹(命定め)、結核、マラリア、住血吸虫、ツツガムシ、らい病、糖尿病
 # 源氏物語以降;物の怪、赤痢
 # 江戸時代前後:梅毒(1512年以降)、乳ガン、インフルエンザ、脚気、コレラ(1822年以降)、白内障
 # 明治時代:ガン、ペスト(1896年以降)
 # 現代社会:生活習慣病、公害病、医原病、新興感染症、高齢者に特有の疾患(要介護状態、寝たきり、認知症、孤独死・・など。

 医療はいつ頃から行われていたのか?
 さすがに縄文時代のことはわからない。しかし、墓から下半身の発達障害のある成人の骨が発見されている。幼少時にポリオに罹患し歩行も出来ないような状況の中、成人まで生きながらえた、と推定される。おそらく、家族や一族によって手厚く介護されていたのであろう。この時、超原始的な医療行為もなされていたと思われる。
 
 施療は仏教の中でも取り分け重要な行事であった。日本に仏教が伝来してきたのは6世紀と考えられているが、このころの医療は仏師によって行われたが、同時に読経も行われた。例えば鑑真和尚は有能な医術師でもあった。
 聖徳太子は難波に施薬院、療病院ほか施療をする4院を建立したとされる。光明皇后の時代には医・針の師が患家を巡っていたと言うし、聖武天皇の死去(755年)に伴い光明皇后から東大寺に薬品が奉納され、それが正倉院に納められている。薬品として60種含まれ、「大黄」、「人参」、「甘草」などが含まれる。これらは今でも使われている薬物である。
 感染症の蔓延は感染によるものと分かったのは近代になってからであるが、長い間、天皇を中心に祈祷が中心であった。その天皇の多くも次々と罹患し死去している。

 明治維新後、ドイツから科学的な西洋医療が輸入された。その理由は富国強兵策であるが、感染症の制御の分野で一長があったからである。その後の我が国の発展は目覚しい。これ以降の足跡は医学文献としてみることができる。

 歴史的に見て、一般大衆がどれだけの施術、医療を受けられていたのか??施術や原始的な医療、専門家による治療は高貴な方々しか受けられず、一般大衆は恐らくは神仏に願うしかなかった、と思われる。
 
 医療が国民に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。私の子供の頃、貧しい農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前であった。
 私の講演の演題の「医療の時代と死生観」の「医療の時代」とはこれ以降を指す。


9/14(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
 2:00起床。新聞・文献チェック。気温が低下し朝霧に覆われる。7:30徒歩飯川病院着。ハトに餌。新聞チェック、データ整理。読書他、9:00-11:00健康クリニックドック14人+結果説明1名。11:30飯川病院、14:00-18:50勤務。19:15夕食、20:30就寝。Blu-ray視聴:「久米書店:下重・家族という名の病気」、「サイエンス:洞窟に眠る謎の物質」、「戦後70年:広島原爆と土崎空襲」、「池上:教科書に載っていない20世紀」、「目玉焼き、トンカツとキャベツ」観る。歩行距離Σ7207Km。今朝からトランクス通勤止め。昨年居間にガスストーブ初点火。

医療の時代と死生観(14) 自然宗教感の衰退で「いのち」が語られなくなった
 古代人にとって人間より強く、人を殺すことができる強いもの、あるいは人間よりも長く安定しているものは全て神であって、神にも魂が宿っている、と考えた。

 私は日本人の宗教観を理解する時にこの自然宗教がベースになっていると考える。しかも、その恐れとその救済の対象は『いのち』である。自然宗教とは文字どおり自然発生的であって、いつ誰によって始められたのかもわからない。特定の教祖などいない。教義もない。あくまでも自然的に発生し、無意識に今に至るまで続いている宗教観のことである。

 自然宗教的な考え方は現代まで日本人の心の中に連綿として続いている。

 自然宗教は、しかしながら、儒教、仏教等の創唱宗教が我が国に伝わってきたことで神道として分類されてしまった。その時点で自然宗教的面影を失ってしまった。以来、神道・仏教・儒教は互いに影響を与えあい、為政者、宗教学者によって互いに主導権争いも繰り広げられた。
 
 神道と仏教はミックスされた状態で1000年以上も続いていたが、江戸時代、徳川幕府は仏教を保護して民衆教化の手段として利用し、一方、為政者たちは教養を重視する儒教を尊重していた。神道は神仏習合によって仏教の陰に隠れ影が薄くなった。

 一方、江戸末期には神道の復権を学問的に集大成しようとする動きも生じた。この面で秋田出身の平田篤胤の功績は大きい。平田の考え方は「日本が万国の本源であり、あらゆる面で優れており、天皇が最高の存在である」、と主張し「廃仏思想」と「尊皇」をもとに民族としてのアイデンティティーを高揚させる思想につながった。

 結果として徳川幕府は崩壊して明治維新を迎えた。明治維新のスローガンは「尊皇攘夷・王政復古・敬神・祭政一致」であり、神社行政が整えられていく。明治政府は日本を近代国家にするために神道を利用した。
 平田の考え方はオーバーにいうとナチのヒトラーの考え方にも通じ、明治以降経験した日清戦争、日露戦争の勝利もあってナショナリズムの高揚に結びついた。

 しかし、日本人が持っている自然宗教感は「いのち」に対する原始的な畏怖に対するものであり、人為が複雑に介入した神道という名でまとめられるものではないように思われるが、江戸から明治にかけてすっかり様変わりした。


9/13(日)曇り時々降雨 鼓動演奏会 
 1:00起床、新聞チェック、本読み、データ整理ほかいつもの如し。歴史本読み。畠整理、杭抜き草刈り。ナスだけ残す。ダリアに杭打ちし茎固定。書斎整理、小物廃棄。11:00息子U一家来訪。午睡とる。Blu-ray視聴:「NHKのど自慢数編」、「題名のない音楽会」ほか観る。17:30-20:20県民会館「鼓動演奏会」、堪能した。トランクス姿私だけ。外食、22:00帰宅、就寝。歩数計7201Km。

医療の時代と死生観(13) 不安・恐怖の解消のために
 人間は発達を遂げ、知能を有し、経験は記憶され口述によって次世代に伝達され、遅々としながらも文明を形成する。また、情動・不安などの幅広い精神活動も身に付いた。
 子育ての困難さから、人は家族を作り、一族で共同生活してきたが、その頃の最も大きな関心事は「家族の死」であったことは容易に類推できる。

 縄紋人の平均寿命は20歳前後か、と推定される。多くが生後間もなく消化器疾患や感染症で死亡したであろう。あるいは無事に育ったとしても若くして病気や事故で次々に死亡した、と考えられる。
 この時代の死は魂が肉体から離れることであった。古代人にとって人間より強く、人を殺すことができる強いもの、あるいは人間よりも長く安定しているものは全て神であって、神にも魂が宿っている、と考えた。太陽、雷、山々、巨石、巨木をはじめとして狼、マムシなどの毒蛇も神であり、畏怖の念を抱き、それら神々の怒りを常に恐れていた。そしてなんらかの不幸が訪れた時、神々の怒りをかったためと考え、自ら反省し、許しの祈りを捧げた。カミナリは「神なり」、狼は「大神」と記載されることもあるが、神に由来した呼び名とされる。祈りを捧げるにあたって超能力を有している、と思われる人間はいわゆる祈祷師となり、祈りを捧げる行為は神事となり、のちには社を作り、神への感謝の行為は祭りとして現代まで伝わってきている。

 ここでも強調しなければならないのは、人間に不幸をもたらす病気などに際して救いを求める対象は身体的健康でなく、魂・いのちの救済であった。
 私は、近代医療は科学的知見を背景に進歩して来たが、一方で、魂・いのちへの対応をお座なりにしてきた、と思っている。

 知能の発達が情動活動の元となり、抱える不安はより大きくなり、悠久のものに神の姿を見て、神事に発展、社を建立、地域の祭りのもとになった。このプロセスを考えながら祭りの意義を考えると味わい深い。古代人と現代人は精神活動において共通なものは多いと思う。伊勢神宮も、出雲大社も人々の不安の蓄積の賜物である。

 このような営みを単に観光名所として捉えるならば日本人のこころは救われない。古代人の方が精神活動が豊かで、それなりに恵まれていたのではないか、と思うこともしばしばである。

 加えて言うならば、いわゆる生活習慣病の大部分はやはり生活習慣の乱れ、安易な習慣に由来する。だから、何らかの異常が見つかった時、ついに神々の怒りをかってしまったと考え、許しの祈りを捧げるとともに、自ら神に誓って反省し生活習慣の是正を計ることが肝要である。安易に医者にかかるのは間違いであり、愚の骨頂と言っていい。これで国民医療費は半減する。この時、特別の宗教なんて意識する必要がない。「お天道様」に謝り、祈りを捧げればいいのである。


9/12(土)晴天  飯川病院日直
1:20 起床。いつもと同じ。9:10-10:45畠の草刈。子供のすねほどのキウリ数本、巨大ナス収穫。11:00半分徒歩飯川病院に、千秋公園の堀のコイに餌撒く。12:30-17:00飯川病院日直、花壇に散水。18:30通町まで徒歩、バスにて帰宅。19:00夕食、20:45就眠。歩数計7196Km。Blu-ray視聴:「NHKsp:特攻」、「防空壕初公開映像」、「あり得ん世界:プロの裏技・代行業車」、「BS1sp:戦火のマエストロ近衛秀麿」ほか観る。

医療の時代と死生観(12) 人間の特性 知能が高いゆえの不安
 最近の遺伝子学の発達はすごい。最近分かってきたことは、人間は時間をかけて少しずつ進化してきたのではなく、ある発達過程でウイルス感染によってDNAが修飾され、一気に進化してしまった様である。
 かつて、私は小さくて未分化であったわれわれの先祖が悪性腫瘍に罹患して個体の巨大化、次いで知能の発達が生じ、そのガン遺伝子の活動がブロックされて生じたのではないか、そのために人は多数のガン遺伝子を持っているのだなどと空想していたが、ちょっとそれに近い現象が生じていたらしい。興味深いが、この辺の詳細の勉強は今後の課題にとっておく。

 人として発達を遂げ、知能を有し、経験は記憶され口述によって次世代に伝達されるようになった。また、情感、感情、愛や憎しみ、不安などの幅広い精神活動も身につけた。
 進化の結果、二本足で立位で行動できる様になり手を自由に使える様になったことも大きい。そのために下半身の筋肉は大きく発達し、骨格、内臓も含めて立位の生活に順応した。筋肉の60%以上下半身に集中している。

 立位での生活は、特に女性の骨格、内臓機能に大きな影響を持った。安定して胎児を維持するために骨盤底の構造がより堅固になったが、それによって出産が困難になった。結果として胎児はより未成熟な状態で娩出される様になり、母親一人では出産・育児が困難で人手が必要になった。ここで家族が形成された。

 人は有史前から家族を作り、共同で生活してきたが、その時期の人間にとって最も大きな関心事は「飢え」と身近な「家族の死」であったことは容易に類推できる。
 古代の日本人にとって、死という現象は魂が肉体から離れることを意味していた。当時生命現象など何だかわからなかったであろうが、魂が肉体を支配していたと考えていた。

 縄紋人の平均寿命を推測すると、20歳前後と考えられている。多くの縄紋人が生後間もなく死亡したであろう。あるいは無事に育ったとしても若くして病気や事故で死亡していたと考えられる。当然、悲しみに悲嘆する家族たちは長老や霊能者に依頼して魂を呼び返そうとしたであろうが、死者の魂がかの国から帰らないと分かると諦めて死を認識し、魂の抜けた亡骸を葬ったのだろう。その背景には一見死者と見まがう様な仮死状態の人が祈祷の最中に息を吹き返す様な事例が少なくなかったと推定している。

 この時代の生命現象は魂が中心であって、魂の抜けた亡骸はいずれ腐敗して消え去る不要なものであり、したがって埋葬はそれほど丁寧ではなかった。鎌倉時代まで屍体は路傍に捨てられていたとされる。

 古い記述を文献でたどりながら振り返ってみると、医療が未発達の頃は身体より魂の方が重要視されていたことが分かってくる。実際、魂、こころの存在は身体以上に大きい、と思う。これに対して近代医療は魂、こころをそっちのけにして身体の方を重要視して発展してきた。そのために現代人は高度の医療を受けながら、こころは決して満足していない。それよりも不安はますます高じている。
 近代医療を通じては魂、こころはほとんど救済されない。


9/11(金)曇り・小雨・時に晴れ 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:30起床、文献新聞徒然他、5:00可燃ゴミ、7:40Taxi駅。8:10こまち。9:10-12:10大曲中通病院外来。駅病院間往路徒歩、約一月振り。新幹線雨のために数分遅れ。19:00帰宅、夕食。20:00就眠。歩数計7190Km、京都まで140Km。Blu-ray視聴:「NHKsp:憎しみの増幅、映画」、「歴史列伝:家康の計略」ほか観る。

医療の時代と死生観(11) 健康寿命 平均寿命 平均余命
 今は人生80年時代。過去400年間人生50年以下だった。
 人生50年時代は死生観などなかった。勿論、宗教家とかは考えていたと思われるが、一般の人たちは常に常に必死に生きて働いて、ただ死ぬだけであった。 
 現在はのびた寿命に身を任せ、死を待つ日々が長い。死生観の大切さが浮かび上がってくる。

 有史前から疫病が流行っていたと思われるが、人口も増え、集団生活を営むようになってからは飢餓と疫病に散々苦しめられてきた。その古い記録は「古事記」「日本書紀」に記録されている。
 当時疫病は神仏の祟りと信じられていた。とりわけ大流行する疫病は失政によって天地に怒りが生じて発生すると信じられ、疫病が発生すると天の支配者、すなわち神に対して大々的に祈祷を行ってきた。これが自然宗教である。

 古代日本人にとって、死とは魂が肉体から離れることを意味していた。当時生命の代わりに魂が体を支配していたと考えていた。
 古代日本人を悩ませたのは飢饉と疫病。日本書紀の疫病の最初の記述は崇神天皇のこととして記載がある。「国内に疫病多く、民の死するところ半ば以上に及ぶ・・・」などとある。
 当時の疫病としては、結核、マラリア、ツツガムシ病、住血吸虫、天然痘などが蔓延していたと考えられる。

 当時の医療はどうだったのか??
 決して手をこまねいて座して死を待っているだけではなかった。実際には医師も居て、治療薬もあった。しかし、神の怒りを鎮める祈祷はそれらを凌駕していた。
 聖武天皇の死去(755年)に伴い光明皇后から東大寺に薬品が奉納され、それが正倉院に納められている。「大黄」、「人参」、「甘草」などが含まれる。これらは今でも使われている薬物である。

 寿命の表現には幾つかの種類がある。
 
 (1)平均寿命:縄紋人の平均寿命を推測すると、20歳に達するかどうかという状況。多くの縄紋人が若くして、病気や事故で死亡していたと考えられる。江戸時代にもせいぜい30歳程度と推論されている。

 現在の平均寿命は女性86.83歳で世界一 、男性80.50歳で世界三位となっている。この値は誤解されている。個々人の方には毎年発表される平均寿命は関係ない。平均寿命はその年に生まれた新生児が生きられる可能性を示す値である。

 平均寿命の延長は、(a)平和、(b)社会格差の縮小、(c)医衣食住・生活環境改善、(e)食生活、(f)国民皆保険、(g)医療技術、・・であり、寿命延長がもたらした問題点は医療費増大、介護、寝たきり、認知症、孤独死・・など問題点は多い。どう人生を終えるか、自らが考えなければならない。

 (2)平均余命:各人にとって関係のあるのは平均余命である。各年代の方々があとどれだけ生きられるかは余命として推定される。例えば現在70歳の方は男性で15.5年、女性が19.9年で、一般的に平均寿命より数年長い。若死せずに70歳まで生きたという実績があるからである。ちなみに現在90歳の方は4.5年ないし5.5年余命がある。

 (3)健康寿命:人生はただ単に生きているだけでいいわけではない。健康上の問題がなく自立して日常生活を送れる期間の平均を健康寿命という。日本の場合、男性が約71.19歳、女性が約74.21歳でともに世界一であるが、男性が約9年、女性が約13年要介護状態で生きることになる。

 この健康寿命こそが人生であり、どう生きるか、どう死を迎えるか、人生観が問われることになる。認知症、寝たきり状態になって判断力、自由を失えば人生観なんてそれほど価値を持たなくなる。


9/10(木)台風18号関連降雨 外来 飯川病院
1:00起床,医学文献、新聞他、8:10家内の車に同乗飯川病院着。8:45-13:00外来。14:00-18:30飯川病院、バスにて19:10帰宅、夕食、20;00就寝。歩数計7183Km。Blu-ray視聴:「そこまで言って委員会:安倍首相出演」、「これでわかった世界の今:中国軍事パレード」ほか観る。

安倍総理無投票で自民党総裁再選
 自民党総裁選は、安倍総裁が無投票で再選された。出馬を模索した野田前総務会長は推薦人20人を集められず出馬を断念した。形の上では挙党一致と言うことになった。
 しかし、この無投票当選に自民党の問題点が垣間見えて来る。

 一つは、「挙党体制」の危うさである。
 今国会の最大の懸案事項は安全保障法案であるが、国民の間に、憲法学車にも根強い反対論がある。新聞やTVの世論調査ではどれも反対が半数またはそれ以上である。しかし、党内からの反対意見はほとんど聞こえてこない。総裁選挙は党員・党友90万票余に国会議員票と同じ比重を与えるというからそちらの評価は大きく割れる可能性がある。これは政府側にとって決して望ましいことでは無い。首相の再選は動かないとしても、批判票が予想外に出る事態になれば法案審議に大きな影響が出る。だから、無投票にこだわったのだろう。

 法案は来週に参院審議のヤマ場を迎えるが、総裁選を行えば党は一枚板でなくなる。そのために8日告示という余裕のない日程を設定したのだろう。

 野田氏の推薦人集めはギリギリの19人まで達したということであるが、立候補を防ぐために、なりふりかまわない強め付けがあったと新聞紙上で報じられている。
 多様な意見を包含しながらも一見一枚板のように結論のみを調整することは極めて危険である。民主主義とは程遠い。第二次世界大戦末期の上層部の会議がそうであった。結果として国民の命が多数奪われた。なんかそんな時代のやり方に似ていないだろうか。

 自民党は最大多数党であるということに甘んじて、内部の活力が乏しくなったのではないだろうか。総理の任期は連続2期までだから黙っていても次のチャンスは来る。党内の「ポスト安倍」とされる有力候補者は数人挙げられているが、今回の選挙を見ているとロクな方はいない、と思わざるを得ない。

 今回、野田氏が果たした役割はとても大きかったと私は思う。彼女自身が総裁に値するとは思ってはいないだろうが、自民党のあり方に一石を投じた役割はとてつもなく大きい。
 過去に総裁選挙に出た、小池、石原、河野、林、西村氏らに関して、私は今後の自民党を率いていく若い人材として一時注目していたが最近はさっぱり見えない。あの時の熱意はどこに行ったのか?? と思う。

 選挙一般のことであるが、最近の選挙は、無投票当選があまりにも多い。有権者は意思を表明する機会を政治家によって奪っている。政治家の考え方、資質を問いたい。
 統一地方選しかり、秋田・岩手県知事選しかりである。秋田・岩手の政治は是と言っていられないように思う。なのに、「知事なんて大したことはできない。これからもなあなあまあまあで行くか、それも良し・・・」と思っているように見える。佐竹、達増知事も粛々と役目を果たしている、と思う。私が言いたいのは取り巻きの方々、知事の施政を是としない方々に対しての意見である。


9/9(水)降雨小雨、曇り 外来 飯川病院ボランティア
 0:00起床。文献・新聞。医学論文など。8:10家内に同乗飯川病院着。8:45-13:00中通外来+健康クリニックドック。14:00-19:00飯川病院ボランティア。Blu-ray視聴:「BS世界のドキュ:チャーチル、戦争に勝ち平和に負けた」、「団塊スタイル:年老いた親との付き合い方」観る。歴史本他。17:30バスにて帰宅、修理なったMacMini環境設定に苦労、19:00夕食、20:30就寝。歩数計7178Km。

プリウス2015(3) トヨタ社の長期連休が羨ましい
 プリウスを購入して10年経った。確かに、優れた面白い車である。
 
 電気系統の故障以外では以下を経験した。

 (1)リヤドアが歪んだ。
 2014年9月、資源ごみ満載の状態で無理にバックドアを閉めた時に歪んだらしく、ドアのロックができ難くなった。半ドア警告灯を見逃したことが2回目の補助バッテリー交換のきっかけとなった。ディーラーにバックドアの修理を依頼したところドアの交換が必要との判断で、見積もりは23万円であった。無理に閉めたためのドアの歪みなら自分で何とか出来るはずと考え修理をお断りした。確かに若干ボディとの隙間に左右差があったので、ドアにロープをかけて別の車で少し引っ張ったらかなり改善、最後は懇意の修理工場でロック部分を微調整してもらって問題は解消した。費用は発生しなかった。
 それにしても私の感覚では高額な見積もりであった。
 
 (2)エンジンルーム底のカバーが剥げた。
 2015年7月、比較的高速で走ると車の底部からひどい異音を発した。道路の凹凸によって車が揺れた際と、ブレーキをかけると音がひどくなった。この異音は相当なレベルで歩行者が驚いて振り向いた。停止した状態で底部に異常はなかった。この状況をディーラーに説明し修理を依頼、マフラーの固定に難あったとして修理され戻ってきた。マフラーが外れているならいざ知らず私としては疑問のある修理であったが、その後異音は発しなくなった。しかし、今回はエンジンルーム底のカバーが垂れ下がっているのが見えた。高速時に風を受けて端が地面に擦れたと考えられ、マフラー固定後に一見改善したように見えたのは、市内をゆっくり走行していたためであった。ディーラーが休みであったためにJAFにて応急修理し、下旬にディーラーで固定した。新たな修理費用は発生しなかった。

 これらの故障を通じてトヨタ社の長期連休が羨ましい、さすが世界に名だたる会社だ、と感心した。そのことについての感想。
 故障のうち、メインバッテリーは本年4年27日、エンジンルーム底のカバーによる異音の再発は8月12日であった。この日に故障が判明したのは私にとって運が悪かった。前者はGW前日、後者はお盆前日で、プリウスによる移動を予定していた。プリウスにこだわったのは後席に幼児用シートを装着しているからである。

 4年27日、プリウスが起動しない点について早速ディーラーに連絡を取ったが、留守電で「4月27日から5月7日までお休みをいただいております。ご用の方は????番にご連絡ください」と虚しい返事が繰り返されるだけ。指定の????番はJAFであった。この時のJAFの返事は「お気の毒ですがハイブリッド車の根幹に関わる部分の重大な故障のようです。JAFではお受けできかねます。車の移動などはできます・・・」というものであった。遠出の予定はなかったがGW期間中の移動はタクシーを利用した。

 8月12日、底部からの激しい異音の再発について早速ディーラーに連絡を取ったが、留守電で「8月12日から8月18日までお休みをいただいております・・以下同文・・」と虚しい留守電の声であった。JAFはすぐ来てくれて応急処置をしてくれた。お盆中の墓参り、恒例の家族ミニ旅行はJAFの修理でこと無きを得た。

 トヨタ社はさすが世界に名だたる会社だと感心した。従業員をゆっくりと休ませている。国内の車のシェアは最も多いからGW間、盆にもそれなりの頻度で故障が出ると思われるが、その問題はJAFとの契約で解決を図っている。見事、と言わざるを得ない。
 医療機関は総じて人手不足で、このような労務条件は聞いたことはない。世の中がGWだなどと休んでいても、救急業務ほかで24時間休むことはない。スタッフはやりくりして業務をに就ている。さらに、私の場合は年休は墓参りの時の一日だけ。これは現役の時も嘱託になった今も変わらない。

 最後に、プリウスの利点を挙げると、塗装の丈夫さは特筆ものである。半分は青空駐車で、かつ私は洗車したことがなくワックスがけもしていないが、サビは石にこすった傷の付近だけ。すごいと思う。ほかは、4輪駆動車が無いこと、私のだけかもしれないが寒冷地仕様ながら暖房能力が弱いことが挙げられる。

 私にとってプリウスを購入した意義は何だったろうか。
 エコカーを買って、かつ出来るだけ乗らないことで環境に対して微々たる寄与した点かな?? しかし、電池関係で10年間で30数万円の出費したことを考慮すると低燃費の利点は相殺され、維持費用はトントン以下と言うことになるだろう。プリウスなどの低燃費車は長距離走行する方にとってはメリットが大きい。
 いろいろあったが、それでもプリウスユーザーとしては車のコンセプトを含め、ほぼ満足している。


9/8(火)快晴・夕方から雨 外来 飯川病院 安部無投票で自民党総裁選再選
0:30 起床、医学文献・新聞ほか。5:15可燃ゴミ提出、7:15バス+菊谷小路徒歩飯川病院着、 8:45-13:50中通病院外来、数質ともに超混雑。14:00-18:10飯川病院。18:30帰宅、19:00夕食、20:30就寝。歩数計7172Km。Blu-ray視聴:「BS1sp:ヒロシマ 世界を変えたあの日」、「ダーウイン種の起源1」、「NHKsp;きのこ雲の下で何か起こっていたのか」、「ガイアの夜明け:逆況の技術者」、「コズミックフロント:コズミックコスモス2」観る。

プリウス2015(2) いい車だがやはりバッテリーに問題が発生
 プリウスを購入して10年経った。確かに、優れた面白い車である。
 私の場合、故障または不調箇所の大部分は電気系統、電池に関したものであり、100%予想不可能な状態で生じ、交換費用は高額であった。

 今までの車だと不調になった場合、多くは自分でも状態の一部は判断ができるし、時には自分で対処できる。しかし、プリウスの電気系統のメカに関して自分の判断が全く及ばない。だから、車検は勿論、年2回の定期点検は全てディーラーに任せてきた。

 それでも故障は生じた。それも予兆がなく、であった。
 一般的に電気系統の故障は突然前触れもなく生じる事は承知していたが、前の日何事もなく駐車したのに翌朝は全く反応しないのは大いに不便であり、ショックであった。

 大きな電気系統の故障は以下の3回である。
 (1)補助バッテリーの劣化。
 プリウスには駆動系を補佐するメインバッテリーの他に、他車とほぼ同様の働きを持つ補助バッテリーが装着されている。補助バッテリーは通常は視認できないところにあるようだ。
 2012年9月、数日駐車後に突然電源が入らなくなった。全く予兆はなかった。多分バッテリー上がりになったのだろう。なんとか充電試みて2日ほど乗ったが、その後も安定せず駄目であった。ディーラーはバッテリー劣化のため交換が必要との判断であった。7年働いたバッテリーだから劣化もやむなし、と交換した。専用品ということで45000円であった。
 通常はバッテリーの劣化はユーザーが判断できるが、今回は予想も出来なかった。また、今までは全て安い市販品で代替してきて問題はなかったが、今回は手も足も出なかった。

 (2)補助バッテリーの過放電による劣化?
 2014年9月、資源ごみ満載の状態で無理にリヤドアを閉めた時に歪んだらしい。半ドア警告灯を見逃したらしい、約一週間後に全く起動しなくなった。私の不注意による過放電が原因だし、バッテリーも交換後2年しか経っていないから安易に考えたが、充電を試みたがうまくいかず。ディーラーは過放電バッテリーは劣化するため交換が必要との判断であった。バッテリーの過放電などは車でもバイクでも除雪機でも、コンピューターでもしょっちゅう経験しているが、大事になったことはない。納得できない点もあったがやむを得ない。今回の交換費用はリヤドアの応急処置を含めて57000円であった。この間値上がったらしい。

 (3)メインバッテリ~とコントロール用コンピューターの故障
 本年4月末、前日夕になんら問題なく駐車したのに、翌朝突然システムエラーが出て動かなくなった。GWのために修理できず、5月中旬に原因がわかり、メインバッテリ~劣化とそれに伴う電圧コントロール用コンピューターの故障と判明した。購入当初の心配が現実になったが、10年も問題なく働いてくれたから文句はない。今更新品のメインバッテリーは無駄だろうと考えて再生品と交換することとした。その入手に20日ほどかかった。メインバッテリーとコンピューター交換の費用は236000円であった。

 その後は快調に走っている。


9/7(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
 1:20起床。新聞・文献チェック。データ整理、歴史本読み等。7:10バス+通町二区徒歩病院着。新聞チェック、データ整理。読書他、9:00-11:00健康クリニックドック14人+結果説明1名。11:30飯川病院、14:00-18:50勤務、新聞チェック、新ハードディスクデータ整理、コピー。読書他、19:15夕食、20:30就寝。Blu-ray視聴:「戦後70年特別番組:池上・教科書で学べない戦争」、「NHKsp:日本人捕虜の肉声」、「日本を動かした5人のキーパーソン:ひばり、裕次郎、田中角栄ほか:」、「アナザーストーリーズ:宿命のトリプルアクセル」観る。歩行距離Σ7166Km。

プリウス2015(1) 古くなって問題が出てきた 
 私は2005年12月に、当時はまだ普及途上であったプリウスを購入した。それまでは15年前のレガシーワゴンを用いており、メカの音もうるさくなり、外観にも小さな傷や錆が浮いてひどい状態にあった。私自身はまだ乗り続けるつもりでいたが、数人の方からあまりにもボロイ、安全のためにも買い換えては?と助言された。危ないと言われればやむを得ない。車種は何でも良かったが、音が静かだという事もあり、当時エコを売り物に普及し始めたプリウスを購入した。

 あれから10年経った。確かに、面白い車である。
 購入当初、最も関心があったのは主電池がいつまで持つのか、その時はどうなるのか・・・、が最大の関心ごとであったが明快な答えは得られなかった。主電池の問題は10年間生じなかった。ただ、古くなっていろんな問題点が出てきて購入当初と印象は変わって来た。

 プリウスといえばガソリン消費量が最も注目される。
 しかしながら、私が用いているタイプはカタログ値は32Km/Lと記憶しているが、実走では最高で22Km/L、通常は18~8Km/Lであった。私は主に雨の日、降雪期、極寒期の通勤にしか利用しないから年間3000Kmほどの利用である。エンジン始動後時間とともにガソリン消費量は大幅に減っていくが、メカの熱効率と、電池の温度上昇による効率化による改善と考えられる。私の場合、エンジンも電池も暖まりきれないうちに職場や家についてしまう。こんな使い方ではエコカーらしい特徴は発揮できない。

 季節にもよるが、満タンで700Kほど走る。年間の給油がわずか3回で済んだ時もあった。ほぼ同じ条件で使ってきたレガシーワゴンは10~8Km/L程度、満タンで350Kmほどだったから、かなりエコであった。

 購入時は先進性のあるコンセプトとエコの2面を重視して車種を選択し有用であったが、結論的に言って私がハイブリッドカーを購入する意義はほとんどなかったと思う。その理由は年間走行距離が少ないからである。今後は当たり前の車でいい。ハイブリッド、電気自動車などは購入の対象外となるだろう。

 そろそろプリウスの故障も増えてきているし、その故障は一般車ではあり得ない電気系統の故障がメインであり、しかも私の目から見てその修理費は高額である。
 いま、18年用いている家内のレガシーワゴンを買い換える話題が出ているが、私がプリウスをやめ、私が古いレガシーを用いる、と言うのも選択肢の一つである。


9/6(日)晴れ 草刈りなど 
 0:00飯川病院にて起床、新聞チェック+歴史本、医学論文読み。Blu-ray Disc視聴:「久米書店:一流の人は本気で怒る」、「サイエンスゼロ:DNAの大事件」、「オイコノミア:人とペットの経済学」。10:00バスの行き先表示読めず乗り損ねた。菊谷小路まで徒歩、迎えあり11:00帰宅。午後は庭の草刈りに集中、一月ぶり。腰痛あれど何とか出来た。文献整理、新聞チェック、入力、など進める。Blu-ray視聴:「題名のない音楽会」、「モーツアルト:魔笛」観る。19:00夕食。20:30就寝。歩数計7161Km。

財政再建2015(7)  2014年度「国民医療費」は初めて40兆円超に
 厚労省は9月3日、2014年度の医療費が概算で39兆9556偉円となり、12年連続で過去最高を更新したと発表した。労災分などは含まれておらず、「国民医療費」は初めて40兆円を超えることが確実となった。

 14年度の概算医療費は前年より約7千億円増えた。それでも伸ぴ率は1.8%とやや鈍化した。厚労省は「人口減や価格の安い後発薬の使用促進で伸ぴが抑えられた」と分析している。

 14年度の1人当たりの概算医療費は31万4千円で前年に比して6千億円増えた。75歳未満が21万円だったのに対し、75歳以上は93万円になった。

 診療別では外来と調剤が合わせて21兆円で、全体の52.5%,入院が16兆円で40.2%、歯科は2兆8千億円で7.0%だった。調剤は13年度より2.3%も伸びており、診療報酬改定で抑制を図る。

 医療費は高齢化や医療技術の進歩で年々増え続け、国の財政を圧迫している。16年度の診療報酬改定で医療費の効率化に向けて論議する。政府は健康づくりや病気の予防への取り組みを強化する。後発薬の使用割合は現在50%程度であるが、20年度末までに80%まで引き上げる方針。
 
 財源不足と言いながら医療保険制度の考え方は右肩上がりの傾向にある。これだと細かな修正を繰り返しながら傷口を広げていく。私もどうすればいいのか分からないが、最近発売されたC型肝炎の治療薬2種は共に1錠6万円超、8万円超で一人の治療に500万円かかる。これを医療助成して患者負担を月2万円に抑える、という。それでも肝がん発症抑制効果で将来の医療費を1000億円は減らせると試算があるという。朗報と疑問とが交錯する仕組みである。

 政府は「骨太の方針」で社会保障費を「歳出改革の重点分野」と位置付け、今後3年間、毎年3-5000億円を削減するとして、以下の改革を2015年度から順次着手する。

(1)国保の財政運営を市町村から都道府県に移管。
(2)都道府県が作る医療費適正化計画に医療給付の目標総額を明記し、病床削減とリンクさせる。
(3)入院給食費の自己負担が1食当たり260円から460円にする。
(4)大病院を紹介状なしで受診した場合、5千円から1万円の定額負担も導入。
(5)混合診療の亜型である「患者申し出療養」の創設。

 今回の医療費削減計画は医療崩壊の因となった小泉内閣の削減の倍ほどに相当する。当時経験以上の「医療崩壊」を生み出すことになりかねない。現在の社会保障の費用は当時よりもさらに高額になっている。費用削減計画は国民に相当な痛みを求めなければ実行が困難である。

 それでも経済再建にはそれほど大きくは寄与しない。


9/5(土)快晴 孫の運動会 飯川病院日当直
0:30起床、本読み、文献チェック。午前は孫の運動会。12:30飯川病院日当直に就く。マックmini修理に出す。18:00検食、19:00就寝。Blu-ray Disc視聴:「林先生初耳学」、「歴史列伝:下田歌子」、「ありえへん世界:秘境30ケ国」、「池上:戦争」、「池上、世界を変えた本:資本論」、「日本人は何を目指してきたのか:生活困窮者対策」。歩数計7157Km。

医療の時代と死生観(10) 自分の場合 私の医療観は奇異に映った?
 昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。

 新しい病院に移ったからといって実際に診療内容にそう差があるものではないが、患者層は高齢者が多いこと、いわゆる社会的弱者と言われる問題を抱えた患者が多いことは驚きであった。ここでは疾病の治療だけでは不十分であった。治療が終了しても帰る場所が無い患者、ベット上寝たきりの患者、コミュニケーションがとれない患者、重度の痴呆患者、食事も全くとれず鼻から胃に流動食を流して生命を維持している患者、大きな褥瘡を形成している患者などであった。この様な患者への治療は、ただ生命を維持してあげることなのか、毎朝回診しながら困惑させられたものである。

 私から見て既に人生のターミナル期にある患者達に対して、何故看護師達はこれほど直向き、積極的なのか関心もしたし、驚かされた。医師の治療も同様に最後まで積極的であった。

 私は幼少期に抱いた高齢者の自然死に抱いた憧れ、約15年の医師としての経験から、疾患の治療、患者の治療において手を尽くすべき時は患者が治療に反応して改善する余力がある間、と思ってきたし、この時期に十二分の診断と治療を行っても進行性に状況が悪化して行くときは次第に治療方針を対症的治療に移して行くべしと考えていた。医療が先進的で高度であるほど、当時の医療は一体誰のために行われているのか。家族の満足は得られたが、それ以上に自分たちの自己満足のためではなかったのか、一番辛い思いをしたのは誰なのか、患者自身なのだ、と考えた。

 中通病院赴任以降は、長い経過の慢性疾患を持つ、特に高齢の患者については、ある時期から治療方針を患者の苦痛をとる対症療法中心に切り替えた。最終的に死を迎える場面でも昇圧剤の使用とか蘇生治療は原則として行わなかった。死の場面には医療は不要である。患者の死に方をアレンジしてあげるのも医師の重要なつとめなのだ、と思っていた。勿論、この治療方針は家族の了解を得て行ったが、当時はなかなか納得得られず、やむなく気管内挿管、人工呼吸器装着も行ったケースは少なくはない。

 私のこの様な治療方針は病棟の看護師たちには異様だったらしい。ある時、カンファレンスの際に主任から「先生の医療は手抜きで納得できません!!」と厳しい抗議を受けた。当時は尤もな意見であった。しかし、医療の方針を変えることはなかった。
 その後、私は療養病棟を担当した。ここには人生のターミナルを迎えた患者も少なくない。その方々が生を終わり旅たつときに私は静かに送ってあげた。

 幼少時から抱いていた、私の医療観に沿った医療を実践できた時期であるが、現役引退を機に原則的に入院医療から退いた。
 
 最近、高齢社会を迎え、高齢者の死生観は変わりつつある様に思われるが、家族の視点はそれほど変わっていない様に見える。


9/4(金)降雨/曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 
1:00起床、腰臀部痛軽度。新聞・文献他.蓄積データ整理、5:00ゴミ出し。7:40Taxi駅に、8:10こまち、8:45-13:15大曲中通病院外来。徒歩出来ず。14:00飯川帰院、駅からは徒歩。19:00帰宅。夕食、新聞・文献他電子化、20:45就寝。Blu-ray Disc視聴:「林修名著:太宰治」、「世界一受けたい授業:東大京大」、「柳亭一馬園芸図鑑:ケーシー高峰、三遊亭鳳楽」、歩数計7150Km。

医療の時代と死生観(9) 幼少時から死が身近にあった(4) 祖父母、両親の死

 祖父は昭和31年家族に見守られて在宅で死去した。今の私から見てうっ血性心不全で、盛岡から連日往診を受けた。73歳であった。小学校5年、私は何もできなかったが、時折傍で寝るなどそれなりに介護できた。私のひ弱であった命を維持してくれた祖父である。感謝を込めてできるだけ側にいた。祖父も喜んでくれたと思う。

 祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。80歳、急性腎盂腎炎と引き続き敗血症だったと思う。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け新潟から急遽見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。翌朝、医療スタッフに囲まれ、延命処置を受けつつ死去した。側についていたのは母のみであった。濃厚な治療を受けていたらしかったが、詳細は不明である。祖母は死ぬ直前に地獄を味わったのではないか、と思う。気の毒に思っている。当時は私は何もできなかった。

 この祖父と祖母の死の10年間の間で医療環境は大きく変わっていた。

 私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、大きな矛盾を感じつつも、チーム医療の一員として患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療で治療した。それが当時の医師の務めであり、患者のため家族のためと考えざるを得なかった。

 私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
 具体的には死に向かう患者もいわゆるスパゲッティ症候群とされるような状態、呼吸器装着、心マッサージなどが行われる時代であった。すでに心停止し死亡したと思われる体にさえ電気ショックを与えた。振り返ってみて無駄な医療であったし、あるものは形式的な、儀式的な臨死期の治療であった。このような姿勢は医師の自己擁護のためでもあった。

 昭和53年母が64歳で肝不全で、昭和58年父が79歳で急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、そのまま治療せずに看取ってくれるよう指示した。どちらも私はいわゆる死に目には会えなかったがそんなことは問題でない。
 私は二人の性格を考え、病状を考えて判断したが、今から考えてもいい選択をした、いい最期を迎えさせることができた、と思っている。

 昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。


9/3(木)曇り時々雨・晴 外来 飯川病院
1:10起床。腰臀部痛まだ残る。自宅のパソコン調整、録音データ整理。5:00資源ゴミ出し。745プリウス飯川着、8:45-13:20外来。14:00-18:20飯川病院。Blu-ray Disc視聴:「リアルまれ:女性パテシエ」、「バクモン:スカイツリー頂上」、「英国一家:ラーメンキング」、「ニュース英会話:イラン核協議」観る。19:00プリ帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計7145Km。

医療の時代と死生観(8) 幼少時から死が身近にあった(3) 祈祷の手にゆだねられたことも
 私が経験した臨死体験は、実際何なのか解らない。臨死体験されたと言う方々の体験記などを見と、不思議なことにみんな似通っている。私は、死に向かうストレスの過程で一定の条件下で見る夢のようなものでないかと考えている。
 
 臨死体験は医学的には殆ど解っていないなかったが、脳の一定の個所を刺激すると患者が臨死体験に類似する現象感じることがわかった、と言う。
 ジュネーブ大学病院神経科のO・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」部を電極で刺激したところ、その度に患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したと言う。
 角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する部分で、ここに異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはいたり、手や足が体とつながっていないと感じたりする、という。

 私は臨死体験は脳の機能障害の過程で見る夢のような現象と考えていたが、それにしては、その体験談が年齢、性、地域や文化を問わずほぼ共通していることを不思議に思っていた。もしこの発見が本当なら長い間抱いていた疑問の一つが解けることになる。

 その時は祖父は本当に駄目か、と思ったらしい。その時、祖父は使用人の一人を遣わして恐山のイタコに願をかけさせたという。イタコは「約10日で回復し床離れが出来る。その後は徐々に丈夫になるだろう。それ迄の毎日、祈祷した紙切れを切って湯のみに浮かべて飲ませる様に」、と告げた。私はその予言通りのコースで回復した。 
 
 「臨死体験」も「イタコ」も余りにも出来すぎた話であるが、祖父は自分の経験から医療の限界を悟り、「自然の摂理に任せよう」と選択したのだろうと思う。当時はそれほど治療学があったわけではない。苦渋の判断だったと思う。私はそう思ってきた。

 私は医師になってからも回復が困難と思われた状況の患者には治療行為を行わず「みまもりの医療」の視点を大事にしてきた。その背景は子供の頃の経験におっている。


9/2(水)曇天降雨 外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、文献検討、新聞チェック。8:15家内の車飯川病院着。8:45-12:40外来+人間ドックデータ判定。14:00-18:45飯川病院ボランティア、レセプト点検終了。Blu-ray Disc視聴:「100分で名著:小泉八雲4」、「ヒストリア:恐竜発見」、「ガイアの夜明け:若年性アルツハイマー 働き続けたい」観る。歩数計7141Km。

医療の時代と死生観(7) 幼少時から死が身近にあった(2) 臨死体験
 私は昭和20年、盛岡市の郊外の医師の家に生まれた。
 病弱であった私にとっては死の意味などわからなかった時から、死は身近な、親しみのある言葉であった。

 一つは祖父の往診時に垣間見た高齢者の最期を迎える時の姿である。静かな死で「自然死」とうべきものであった。この時の印象は、今でも理想的な死の姿として私の脳裏から離れていない。

 二つ目は小学3年頃にいわゆる臨死体験と思われる経験である。小学3年の頃のことだったと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態まで行った。大量皮下輸液もやっていたから恐らく強度の脱水などもあったと思う。祖父も今度こそダメかもしれないと思ったらしい。この時、いわゆる臨死体験と言われる現象を経験した。

 この時は意識も朦朧とし、うわごとを言っていたらしい。この時、自分が身体から抜け出した不思議な体験は、単なる夢だったのであろうか?

 フット気がついたら、自分自身が高いところから自分を見つめていた。ぐったりと無表情な自分が布団をかぶって寝ている。周囲には家族達が数人居たが、具体的に誰が居たのか、その人達の表情とかは全く覚えていない。ただ、静かな、凍り付いたような動きのない、灰色の情景であった。
 次の場面は、突然、小学校の校門の前にいた自分である。歩いて行ったようだが、動きは軽く、すごく楽に動き回ることが出来た。自分が通学している小学校に行ったのであるが、いつもと様相は異なり校庭は一面黄色のお花畑になっていた。全く隙間無く、びっしりと生えている不思議な光景であった。花は菊のように見えたが、コスモスのようにも思えた。鮮やかな、明るくい黄色で景色全体がまばゆいほど明るかった。一体どうしたのだろうか?と思い、しばらく中を覗いていたが、門から校庭に入ろうとした。しかし、どうしても足が重くて前に進まない。何度も何度も試みてもどうしても進まない。そうこうしているうちに遠くからかすかに母親が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返っても母の姿はなくどこから呼ばれているのか解らない。随分遠いところからの声のように聞こえた。「まずい所を見つかってしまった?見つからないうちに帰らねば・・・」と、来た方向に向かって歩き始めたら全く問題なく歩けた。数歩歩いただけで突然場面は自分が寝ていた部屋にワープした。今度の場面は薄茶色に着色されていた。側にいる家族達は前の場面と異なり落ち着きの無い様相で動き回っていた。自分が居なくなったことでみんなが動き回っているように感じられ、すごく悪いことをしたような気がしたが、いつしか体の中に戻った・・。

 この様な経験を背景に、死ぬのは「昇天する」のであって、苦痛などを伴わず意外と気持ちのいいものなのでないか?と思うようになった。今でも私の脳裏から離れていない。


9/1(火)曇り、夕方から降雨 外来 飯川病院
0:30起床、腰臀部痛は体動時に時に鋭い痛みが走るがかなり軽減。書斎のMac mini起動せず。リカバリー試みるも不可。文献検討、新聞チェック。家内の車で7:55飯川病院着、8:45-12:00中通外来、比較的余裕。14:00-18:30飯川病院。Mac mini修理見積もり4.7万円という。新品購入の方がいい??Blu-ray Disc視聴:「そこまで行って委員会;バトル集」、「世界は今:中国景気減速」観る。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計7136Km。

四季20156) ついに秋 夜長の日々も楽しみにしている
 私は自分では8月14日から秋にしているが、2015年は8月8日が立秋であった。朝夕が涼しくなり、秋の気配が立つ日である。
 立秋は立春からちょうど半年、この日から立冬の前日までが秋になる。暦の上では秋であるが、日中はまだ残暑が厳しく1年で最も気温が高くなる時期である。それでもよく観察してみると秋の気配が感じられる。夏の風と秋の涼やかな風が混在し、空を見上げると、巻雲、いわし雲やうろこ雲が広がって秋が見えている。

 この日から、書簡の挨拶などは残暑見舞いになる。

 喉もと過ざれぱ熱さ忘れる、という諺があるが、しかし今年の夏は暑かった。 
 今年は梅雨入りが平年より2週間ほど遅い6月27日。その梅雨も、特に秋田は雨が少なく周囲の農家の方も水田の水が足りないとか、野菜が育たないと悩んでいた。とはいえ、猛暑日続きで、明けても暮れても「熱中症に注意」の警告がでて、自己判断で熱中症です、と言ってくる患者が頻繁に外来に訪れた。
 その後「今年1-7月の世界の気温、史上最高」というニュースも報じられた。その中でひところほど聞かなくなったエルニーニョ現象が起きていて、今後も冬にかけて高音が続く見込み、と報じていた。

 しかしながら、今年は立秋以降、朝夕の気温は急速に下がり、時には肌寒さも感じる。この秋に向けての変化が今年ほどはっきりした年もないように思う。さしもの今年の猛暑も、さすがに一段落した様だ。

 私が8月16日に不注意で受傷して、腰臀部の痛みがひどく体動が困難だったために園芸や畑作業ができず、旺盛にのびるいわゆる雑草の成長力に感嘆しながら何とかしなければと焦っている。痛みは改善しつつあるので来週頃からまた作業を開始できるだろう。秋との対話ができる。

 秋の夕暮れはとりわけ情緒深い。日は短く暗くなりかける中、静かに届く風の音、虫の声がある。耳をすませば、コオロギなどの秋の虫が鳴きはじめている。私は右肩あがりに暑くなる日々が好きだから、逆向きの秋の夕暮れは大きな喪失感を伴う。だから、秋は五感が敏感になる。夏の間はそれほど気づかなかった夜の孤独感が一段と心にしみる。

 秋になると私の畑作業は終わりに向かう。秋の花はまだ咲くが、作業も細かいことはなくなる。来年に向けての準備に入ることになる。

 外仕事から解放される分、自室で過ごす時間が増えてくる。今秋は何に取り組もうか、何を集中的に読もうか、と思案している毎日である。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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