徒然日記
2013年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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10/31(木)曇り 外来 午後飯川病院 家内慰安旅行へ
 0:40起床,新聞・文献チェックほか。家内の旅行準備の手伝いなど。8:35慰安旅行へ発つ家内駅に送り車病院.回診、書類処理、8:45-12:45外来+ 健康クリニックドック判定。13:00-17:00飯川病院代診。18:00バス利用帰宅、新聞、医学文献読みと入力。家に一人ぽつんとして過ごしていると安易な方向に走りやすい。自分の書斎のストーブを初めて焚いた。19:30夕食、20:00就寝。歩行計Σ1944Km。

先人の言葉から学ぶ(5)「微力であるが、無力ではない」 
 先人の言葉ではない。長崎の平和運動を行っている高校生の言葉である。

 1970年代に長崎の教師の会が調べたところ、長崎に原爆が落とされた事を知らない子供たちが増えてきていたと言う。またこの頃、8月8日の原爆の日を登校日として平和教育をしていた高校は2割程度であった、とされる。
 それは日本の平和教育、反戦運動が第二次世界大戦の経験をもとに残虐性、悲惨さを材料にして進めてきたことの当然の帰結でもあった。恐怖感、無力感を植え付けるだけの教育は教える側も聞く側もつらいだけである。

 この状態を憂いた平和運動活動家たちは市民の意識を高めることに努めたが、当事者である被爆者の高齢化、活動家の高齢化が避けられなかった。それで次世代の高校生に運動を託すこととし、1998年以降高校生平和大使を毎年国連に送っている。

 当初、高校生の意識はとても低かったが、署名活動などを通じた地道な反核運動に対してその効果や意義などを高校生同士が討論を重ね、その中でスローガンとして到達した言葉が「微力であるが、無力ではない」と言う言葉であった。このスローガンを掲げた高校生の反核運動は市民からの支持もあり、次第に広がりをみせ、いまでは自主的に活層を続けていると言う。

 上記の経過は平和活動支援センター所長平野伸人氏がラジオ深夜便で述べた内容の一部である。

 高校生が到達した「微力であるが、無力ではない」、と言う境地は、私を始め、私ども大人たちこそ、いや日本人のすべてが考えなければならない事だと思う。平和運動に限らず、選挙の一票、護憲運動、などへの参加はその効果を実感する事は難しい。だからといって何もしなければすべてが無になってしまう。無からは何も生まれない。

 社会が抱えている問題点を変えていくには地道か運動、行動をやり続けるしかない。何かに参加したり、運動すればその効果がすぐに見えてくるような、そんな甘いものではない。社会を変えていくには、一体自分に何が出来るのかを考えて、しらけず、諦めず、息長く行動し続けなくてはならない。

 その辺の事を、長崎の高校生が創作したこの短いスローガンが如実に物語っている。


10/30(水)雨 外来 健康クリニックドック判定
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。7:45バス利用病院着.回診他。8:45-13:00外来,途中で入院患者家族面談。15:35バスにて帰宅。廃棄新聞・雑誌等梱包ほか。19:30夕食、20:00就寝。歩数計Σ1938Km。

小川洋子氏が解説するラジオ番組Panasonic Melodious Libraryはとても良い
 私は自称ラジオ派で、かつ活字派である。
 作家の小川洋子氏を知ったのは、1991年に「妊娠カレンダー」という作品で芥川賞を受賞したときであるが、作品はまだ読んでいない。他に関心を持った作品に「博士の愛した数式」があり、これはいま読みかけ状態である。この作品は設定が斬新で文章も美しい。注目している女流作家の一人である。近著に「いつも彼らはどこかに」がある。これも面白そうである。

 昨年の秋、知人からそれほど本とラジオが好きなら小川洋子氏が文学作品を解説するラジオ番組「Panasonic Melodious Library」を聴いてみては?と勧められた。この番組は秋田ではFM秋田で毎週日曜10:00amから30分間放送されている。

 その後約一年経つ。私にとってはいい番組である。聴きはじめてからの放送は予約録音を続けていてすべて録られているはずである。iPodに移しNHKのラジオ深夜便の録音ととりませて適宜聴いているが、まだ追いついていない。

 この番組では氏の解説により、次世代に残したい古今東西の名作を1つずつ紹介する。ジャンルは小説、童話、随筆、詩歌、ノンフィクション、映画の原作まで多様である。番組中で氏が選んだ曲も3曲流される。録音の聞き直しだから私には役立たないが、あらかじめ読めるように作品の予告を3週分行っている。

 氏は普通に話している感じであるが、その語り口は独特の味がある。氏の人柄、本への愛情、多くの人達と作品の魅力を共有したいという気持ち・・・、が伝わってくる。声が心地よく、私には「癒し」効果もある。

 1つの作品を30分かけて紹介する労力は大変だと思う。それをもう6年以上続けている、と言うから驚きである。継続は力なり、である。氏はその労力を無駄にはしていない。この番組を元に「心と響き合う読書案内」(PHP新書)を出版している。これも良い本だ。私が聴き始める前に取り上げられた作品が紹介されている。

 取り上げる本は毎回私にとっては刺激的である。自分が探すとどうしても自分の趣味の世界でしか本を探さないので、どうしても狭い分野に留まる。だから、実に新鮮である。

 読書好きな方には本当におすすめの番組である。


10/29(火)早朝から雷雨、終日降雨 外来
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。3:00am頃から激しい雷鳴伴う雨、6:00頃から晴れ間がのぞき徒歩にて病院。7:45病院着.回診他、8:45-13:00外来、15:10雨でバス利用で帰宅。文献整理他、戦後の歴史読む。19:30夕食、20:30就寝。2933Km。

裏庭にミニ石灯籠を設置した(2) ペットたちは埋められて責務を果たした
 今年、ミニ石灯籠を裏庭に設置した。私の手で遺骸を庭に埋葬したペットたちをしのぶためである。ペット達の霊などの事などは一切考えていない。

 私はペットの死体はゴミ、廃棄物と同じと思っている。東京のように条例とかで禁止されているのなら別であるが、秋田ではペットの埋葬に関する条例など探したが見つける事が出来なかった。秋田市の市民便利帳には「飼っているペットが死んだとき、埋葬や廃棄物処理と言った方法があります。火葬希望される方はペット霊園等の業者に相談ください」とある。ゴミ・リサイクルの項にはペットの死体に関して特に記載がない。だからゴミに出しても良いと言う事になる。

 たまたま私は埋葬する場所があるから、人手に頼らずに自分で処理しているだけである。

 ペットを敷地内に埋葬することに関しては場所や方角への拘りや、たたりがあるなどいろいろな言い伝えなどもあるようだ。秋田ではどうなのか?あっても私は一切気にしない。

 患者と時にペットの話になる。死んだ場合には火葬し、読経し、ペット霊園に埋葬しているケースが多い。骨を全部または一部をペンダントとかに入れて身近に置いていると言う方もいた。ペットに気持ちを入れ込んでいる方が多いが理解出来ない。私には火葬するなどの発想は一切ない。自宅敷地に埋葬していると言うと驚いていた。

 動物が生まれ生きる目的は、子孫を産み育てる事、他の動物の餌になる事である。我が家のペットたちは土の中でその責務を果たし、自然に還った。もし、埋める場所がない環境であったなら、多分ゴミ処理に出す事になっただろう。

 私は動物が大好きであるが、愛玩という気持ちはない。ともに生きたと言う事。ペットたちは餌を与えられて満足していただけ。私がとても癒され、満足していた、と言う事など気づいてもいないだろう。

 今回、ミニ石灯籠を設置した。私自身のために、である。石灯籠を見る度に埋めたペットを思い、癒された日々を思う。


10/28(月)曇り・晴れ 健康クリニックドック
0:30飯川病院で起床、文献新聞他チェック。この時間からだと余裕あり。8:30病院に移動、9:00-11:00健康クリニックドック. 回診ほか病等業務。紹介状その他書類関連。15:00徒歩帰宅。夕方まで、本読み、文献読み等に集中。19:30夕食。20:45就寝。歩行計1923Km。

裏庭にミニ石灯籠を設置した(1)
私が埋葬したペットたちをしのぶ 今年のお盆過ぎにミニ灯籠を裏庭に設置した。長年、家族の一員として暮らし、私の手で遺骸を庭の隅に埋葬したペットたちをしのび、私自身を慰める為である。

 私にとって記憶に残るペットは、古くは小中高生の頃飼っていた数10羽の伝書バトと一匹のネコである。

 ■伝書鳩は、飼っている途中で20羽ほど死んだのが、すべて私が畠の隅に埋葬した。
 ■ネコは、年に1−2回出産したが、仔の多くも私の手で埋葬された。そのネコは13歳で老衰と思われる状況を迎え、行方が分からなくなった。ネコは死ぬときに飼い主の前から姿を消すといわれている。そのまま死亡したのであろう。だから死体はなく、思い出だけが残っている。今もそのネコの写真を見ては癒されている毎日である。

 その後、25年ほど間を空けて今度は子供たちの希望もあって熱帯魚・金魚、犬とネコを飼い始めた。

 ■熱帯魚・金魚は1990年代、数年間飼った。小さなグッピーなどの他、中型のタイガーオスカーなど飼った。数年間生きて巨大化した金魚が死んだのを機会に飼うのをやめた。この間、数10匹死んだ。すべて庭の隅に埋められた。

 ■犬は90年代に飼った中型のハスキー犬で名前はルーチェ。一度に8匹の仔を産んで驚いたが、それらに囲まれた3ケ月ほどは私にとっても至福のときでもあった。ルーチェは10歳に満たずして糖尿病で死んだ。死体は庭の隅に深く埋葬した。

 ■ネコのナンナン、性格は今ひとつだったが美しいネコであった.2010年5月に20歳で死んだ。
 ■ネコのミーシャはお手伝いの石井さんのネコであったが、 昨年我が家で引き取った。とても謙虚で控えめの性格であった。12月5に衰弱して死んだ。年齢不詳だが13歳程度か。両者とも白木の箱に入れ裏庭に丁重に埋葬した。

 私は動物が大好きであるが、愛玩という気持ちはない.飼われていると言う条件の下で出来るだけ自然体で過ごさせた。だから、積極的に関与したわけではなく、必要な事を最小限世話したに過ぎない。だから、私は地位としてはペットたちの僕であったが、のびのびと生きる姿に癒された。それらを自分がみとり、自分の手で埋葬した事に満足している。

 今回、ミニ石灯籠を設置したが、私自身のために、である。


10/27(日)雨時々やむ 飯川病院当直   
1:00起床。新聞チェック。資料、種々こなす。午前は台所を中心に掃除、備品等の汚れ落とし。16:00西武にて菊購入、17:00車飯川病院着。当直業務に、18:00検食、新聞チェック,切り抜き。昭和初期の日本の歴史読む。20:00就寝。1898Km。

兵庫県立芸術文化センター管弦楽団演奏会 
今年はオーケストラ演奏会が少ないような気がする。
 10月26日、16:00秋田県民会館で佐渡裕氏指揮の兵庫県立芸術文化センター管弦楽団演奏会を聴いた。私にとってオーケストラは今年2回目である。観客は8割り方か、私は指定席には座らず一階の最後部の座席で聴いた。内容的には十分楽しめた。

演奏曲目は
(1)ワーグナー「タンホイザー序曲」
(2) ピアソラ「バンドネオン協奏曲」独奏 御喜美枝氏(アコーディオン)
ブラームス 「交響曲第4番」ホ短調 作品98
 アンコールとしてシュトラウス2世の「ハンガリー万歳」が演奏された。

■「 兵庫県立芸術文化センター管弦楽団」は直接聴くのは初めてであるが、日曜朝にTVで放送される「題名のない音楽会」に頻繁に登場する楽団である。
 阪神・波路大貫災からの復興のシンボルとしてオープンした兵庫県立芸術文化センターの専属オーケストラとして2005年9月に設立された若いオーケストラである。 芸術監督は佐渡裕。

 楽団員の在籍期間は最長3年と、世界的にも類を見ない新システムを採っている。世界的規模でオーティションを行い、将来有望と見られる若手演奏家を集め、経験を積んだ人材を董出している。
 毎年1/3のメンバーが入れ替わることになる。まるで中学校・高校のオーケストラの様なものである。音楽的レベルを維持するのは大変だろうと思う。
 
 地元民に愛されるオーケストラとして定期会員数は4.500名を超えている。定期演奏会の回数は年に9回27公演と国内でもトップクラスである。
 私がTVの演奏を通じて注目していた女性チェリストの姿は見えず、メンバー表にも掲載されていなかった。巣立って行ったと言うことだろう。

■「 バンドネオン協奏曲 協奏曲」を演奏したのはクラッシックアコーディオン奏者の第一人者の御喜美枝氏。本来は蛇腹楽器として同類に分類されるバンドネオンのために書かれた協奏曲である。作曲者のピアソラはバンドネオンの名手でバンドネオンと弦楽・打楽器のための協奏曲を作曲した。数少ない協奏曲の代表曲としてバンドネオン奏者はこぞって演奏するレパートリーである。

 今回アコーディオンでこの曲を独奏した御喜美枝氏は世界的演奏家の一人で、彼女のために書かれた新作は60曲を超え、幅広い支持を持ている。今回私は初めて聴く方である。アコーディオンは演奏が難しいと思われるが、弦楽器と織りなしたその音色を楽めた。ただ、バンドネオンであれば強烈に表現されたであろうタンゴっぽさは乏しかったが、楽器の性格の違いであろう。

■「タンホイザー」、「ブラームスの交響曲4番」、「ハンガリー万歳」も久々に生で聴けて十分楽しんだ。良い演奏会だった。


10/ 26(土)降雨 兵庫芸術文化センター管弦楽団演奏会
 1:00起床、新聞・文献、徒然、その他、ゆったりと。午前は先の私がやった配線工事以降つながらなくなった電話機の回線等修理。2階居室整理整頓。戦前の近代日本史中心に本読み他。16:00-18:30佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団演奏会。19:00帰宅、夕食、20:15就寝。歩数計1892Km。

歌謡曲の魅力2013(10)「好色一代女」、「智恵子抄」とても良い曲だ

 初夏あたりから私は歌謡曲を集中的に聴き始めた。録りためた録音のデータベース化、インデックス作りを始めたからである。
 私はラジオ深夜便の午前3時から4時までの「日本の歌・こころの歌」を2011年からはハードディスクに自動録音し、適宜iPodに落として聴いてきた。連日約8-10曲録音されるから6.000曲ほどがディスクに蓄積されている。データ化しないと聴きたくとも探し出すことは全く不可能で、このままでは100%無為な蓄積なる。

 一曲そのままじっくり聴き通すか否かは別として、データ化する過程でほぼ全曲聴き直す。出来上がった分から検索をかけると所在を一瞬で探し出すことが出来る。本日の段階で9割方済んだ。

 この作業を通じて分かった事は、関心を持って聴く分野は時代で言えば昭和20年−40年代前半のグループサウンズ時代、後半からのシンガーソングライターの時代までの約20年間の、いわゆる歌謡曲の隆盛期の作品が多い。勿論、最近の曲の聴くが、 これ以降の曲はあまりにも多様化したから歌謡曲全盛期の曲とは印象がずっと異なる。

 この作業を通じて初めて聴いて良い曲だと思ったのは、■石田あかり「好色一代女」、■2代目コロンビアローズ「智恵子抄」、である。今まで知らなかったのが実に惜しい。

 ■「好色一代女」は井原西鶴の作品とは全く関係ない。母の姿を知らずに育った作詞家の吉岡治が生涯を通じて求め続けた空想上の母の面影を、例え、どんな悪女でも自分の母ならば受け入れたい、と言う気持ちを詠った、と手記に残しているそうである。
 平成元年発表の曲で、作曲は三木たかしである。情感がこもった詩、それを支える見事な旋律とリズム、その曲を石田あかりが時にさらりと、時に情感豊かに官能的に歌い上げる。美しい熟年女性の姿が想定される曲である。

 この曲は2週間前に初めて聴いて感動した。歌手の石田あかりも初めて聞く名前であった。

 ■「智恵子抄」は童心を失わず、自然が好きだった与謝野晶子を歌った高村光太郎の同盟の詩集にインスピレーションを得て作られた曲である。

 作詞は丘灯夫、作曲は戸塚三博で1964年の作。2代目コロンビアローズが実に清楚で美しく、品のある声で歌い上げる。私はまずこの声に魅了された。歌詞・メロディが共に良い。サックスによる間奏もとても良い。この曲から受ける知恵子の印象は精神的に大人になり切っていない一人の少女である。

 6.000曲もの歌謡曲を聞き直す作業は大変であるがとても楽しい。特に、聴いた事のなかった素晴らしい曲に出会った時は、何とも言えない快感を覚える。それにしても聞いたことの無い曲の多いこと、今後どんな曲に出会うか、楽しみである。


10/25(金)降雨 大曲中通病院外来   
 0:30起床、新聞チェック他。歴史関連本読み、ゴミ出し他。7:05Taxi病院、昨日から高熱の重症者回診、オーダーだし。8:45-14:40大曲中通病院外来。16:30Taxi帰宅。医療関連文献など。本読み。19:00夕食、20:00就寝。

 原発事故2013(3) 地球温暖化に及ぼす脱原発の影響
 私は、原発については、■核のゴミ問題、■核エネルギーの安全な利用に人の英知は達していない、■大規模事故が生じた際の対応は多岐に渡り、きわめて困難、かつ被害は甚大、などから、やはり我が国のエネルギー政策として原発の推進には異議を唱えざるを得ない。

 原発がない場合、(1)電気が不足する、 (2) 地球温暖化に悪影響、 (3) 電気料金が高騰する、 などの論議がある。

(1)本当に電気は不足するのか
  9月15日に関西電力の大飯原発4号機が停止し、国内で稼働している原発はゼロになった。しかし、その後も電気が不足して困っていると言う話は聞かれない。現実に原発稼働ゼロでも電気が間に合っているという事自体が驚きで、国の原発推進政策は何だったのか、と思う。
 高度成長期には電力の需要の伸びは大幅であった。最近は生産体制の拠点が海外にシフトしたことで電力の需要が頭打ちになっていることも関連している。

 火力発電が再びメインになったために原油、天然ガス等の輸入が急増している。貿易収支に及ぼす影響は無視できないが、そもそも原発で用いられる核燃料は輸入から核のゴミの処理費用、備蓄費用までを含めると幾らになるのか、化石燃料と比較してみればどうなのか、私はまだデータを探せないでいる。

 輸入された原油は各種のエネルギー源になる他、化学工業の分野を中心に広く用いられており、無駄にならない。原油購入代金以上の経済活性効果を持っている。この点、核は応用性は乏しい。

 今後も国内の電気は不足しないのかと言うと、省エネとエネルギー生産の双方の政策を両立させる努力が継続的に必要である。ただ、太陽光発電以外の循環型エネルギー分野の実績の伸びが乏しいのが気になるところである。

 (2) 地球温暖化に悪影響を与えるか
 原発の発電量を火力で代替すると大量の化石燃料を消費し地球環境を悪化させる。だから、原発政策は必要である。このような主張も見られる。

 我が国の原子力発電は、原発事故の前でも発電量の3割ほどであったので、原発がすべて火力発電に置き喚わったとしても、二酸化炭素の排出量は全体の1割増加する程度であるとのデータがある。この数値は決して小さくはないが、致命的な値ではない。

 二酸化炭素の排出量削減は省エネの考え方とほぼ共通である。省エネ政策の浸透、自動車の省エネ化、燃料電池の開発と普及、循環型エネルギー分野の拡大など温暖化防止に向けてできることはまだ沢山ある。

 シェールガスの採掘が可能になり化石燃料の供給マップは変わろうとしている。これらのエネルギー供給が潤沢になると省エネ指向は後退し、循環型エネルギー分野の開発の熱意が落ちる傾向がある。これをどう維持して行くのかは政府の姿勢にかかっている。
 原発再稼働なしでは二酸化炭素の排出量抑制は不可能である、との結論はまだ速い。


10/24(木)曇り午後降雨
 0:30起床。文献・新聞他。7:50徒歩病院、回診ほか、8:45-13:15外来。医局マック0S入れ替えで時間とった。16:30雨で車帰宅。DVD「寅さんシリーズ』一部。 自宅マック2台に0S入れ替え。若干不便も感じる。 新聞・文献スクラップ入力。19:00夕食、20:00就寝。歩行計 Σ1880Km。 往路56分30秒。

原発事故2013(2) 原発事故は人災
 私は原子力発電に関しては「核のゴミ」問題で当初から疑問を感じていたが、あくまでも疑問のレベルであった。わが国で次々と原発が建設され続けていた事にはあまり関心を向けていなかった。

 スリーマイル島とチェリノブイリ原発の2大事故の後からは、人類の英知が核のエネルギーを安全に利用するにはまだ未熟ではないか、と思ったのであるが、実際には2大事故は遥か遠方の出来事であり、身近な問題とは思えていなかった。

 今回の東京電力福島第一原発事故以降身近な問題として考えている。

 私も事故の後に明らかになってきた事実から学んだ事が多いのであるが、原発事故は明らかに人災と言わざるを得ないと思う。
 感じている事はまだまだあるが、大雑把に項目にすれば以下のようになる。

■原発は安全である。十分制御可能と事実と異なる宣伝がなされて推進された。地域住民も危険性を理解していなかった。
■政治的に強力に推し進めるられたが、段階での前では有識者、科学・学術関連者の意見は無視または軽視された。
■想定される地震・津波等の自然災害の脅威を甘く評価して設置した。
■何で、最近に成って活断層が問題化したのだろうか。
■原発事故への対応は後手後手で東電の危機管理体制、国の危機管理にもに問題があった。
■一たび深刻な原発事故が生じた際には、当たり前の自然現象である風、雨、地下水等が関与して事は一層複雑になるが、これらの関与など、どう評価していたのか。
■炉心の冷却が事故拡大を防ぐ最重要かつ最後の砦だと思うが、何重の安全対策がなされていたのか?
■汚染水処理機能がなんでいつまでたっても向上しないのか。
■放射能の自然減衰は別として、人為的に行われている除染対策は単に放射能物質の移動であって移染と言うべき。時に濃縮され、地域から真の意味で消滅する事はない。
■高濃度汚染区域は、恐らく長期間居住区域には成り得ないと考えるが、避難している住民や地域に事実を甘く説明していないか。最早、一時的な避難者と言えないのではないか。
■わが国のみならず、世界の原子力関係の英知を集めた対策に、国を挙げての対策になっているのだろうか、見えない。あたふたする東電の姿しか見えない。
■原子力規制委員会の判断基準、代表者の発言はぶれていないか。
■政治的判断がなされているが、その科学的裏付けはあるのか?政治的な言葉だけ?例えば「メルトダウン」、「住民の安全評価」、「収束宣言」、「汚染水の影響は港湾内で完全にブロックされている」などなど。
■政治家のパフォーマンス。福島の米を一口食べて「安全です」という。毎日食べてから言ってほしい。


10/23(水)曇り晴れ 外来 往路所要時間記録開始   
0:30起床。読書、録音データ整理と処理、分類など。歴史関連本読み。7:00徒歩病院着、回診、8:45-12:40外来。15:30徒歩帰宅、「ミスパイロット」見る、新聞ほか、19:00夕食、20:15就寝。Σ1872Km、往路50分30秒。

原発事故2013(1) 自然災害は天災だが偶発ではない 原発事故は人災だった
 おびただしい数の流木と大量の土砂。伊豆大島で発生し、多数の尊い命が奪われた土石流災害の現場の映像は自然の威力、脅威をまざまざと見せつけている。
 伊豆大島に限らず、近い過去に経験していない災害を前もって警戒するのは極めて難しい。我が国の危機管理の考え方は長い間、「起ってもいないことに予算はつけられない」という姿勢だったと思う。東日本大震災を機に考え方は変わりつつある。現在作成中のハザードマップも全ての災害の危険性を網羅できていない。
 もともとわが国は災害大国とも言われている。阪神淡路大災害、東日本大震災、豪雨、竜巻などの「これまでに経験のなかったほどのひどい災害」は決して偶然起こるのではない。おのおのの災害はその地区にとってはすべて必然の現象である。
 これまでに災害が起こっていなかったことを人間が都合よく考えて、「偶発的」、「偶然」の様に思い「未曾有の、想定外の・・・」と思い込んでいるだけである。わが国の自然災害を予防するには、予想、予知しかない。この作業には過去の実績を評価することから始めなければならない。「想像できないことまで想像する」という矛盾を含んだ作業は過去の記録を軽視せずに分析し、シミュレーションを繰り返すことによって先を読むことしかない。
 自然界の暴威の前には人間が行う防御対策などは限界がある。堤防を作ったから、防波堤を作ったから、護岸工事をしたから安全が保障される訳ではない。被害を若干軽減するだけである。災害時に自分の命を守るのはやはり自分であることは論をまたないが、 地域全体で災害に対する備えを共有することが求められる。

 東京電力の原発事故は巨大地震と大津波に襲われたことで生じたが、その後たどっている状況を見ると、こちらの災害は人災といわざるを得ない。


10/22(火)朝小雨午後晴れ 外来 
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力などいつものごとし。7:40小雨でバス利用で病院へ。回診、紹介状、介護保険書類等処理。8:45-12:45外来、15:30徒歩帰宅。新聞切り抜き。DVD「ラストサムライ」「プライベートライアン」一部観る。 19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1868Km。

三楽園バラ園見学 ずぼらな私には栽培は無理
 10月20日終日雨の予報であったが、昼頃若干小雨になった時間を利用してで秋田市郊外の老人保健施設「三楽園」のバラ園を見学した。
 「三楽園」はバラの庭園が有名である。 バラまつりは年2回、6月と10月に開催されていて、今年の春に家族達が行った事もあって今回の会の招待状がきていた。本日は最終日と言う事もあり天候は選べなかった。

 「三楽園」の施設案内には、「当施設では入所者の自立を目指し、個人の尊厳を重視した居住空間を提供してまいります。緑とバラに囲まれた環境で、入所者の皆様がより良い療養生活が送れますよう、職員一同真摯にお手伝いさせて頂きます」とある。入所者は
バラで癒されると評判はいい。

 330株のバラが栽培されている、と言う。三楽園のバラ園は先代の施設長が自らバラを栽培したのだと言う。今は2名の専任の世話人と施設のスタッフらで維持しているのこと。本日が 「バラまつり」と言う事で特別なのだろう、花壇には雑草は一つもなく良く手入れが行き届いていた。

 小雨が降る中の見学であったが見学者は私どもだけでゆっくりと説明を受けながら見ることが出来た。一本一本が独立して植えられており、プロの剪定と世話のため背丈が1m程度と揃い、スッと直立していた。

 私はバラの花は嫌いではないがあまり好きではない。私に比較して高貴すぎるからである。私は小さな花が密集して咲く様な、草花系の、しかも雑草のような雰囲気の花を好む。そんな事もあってバラ園なるものはまだ数カ所しか見ていない。その中では宮沢賢治が自ら設計したと言う花巻のバラ園が印象に残っている。

 私も最近はバラを10本程度世話している。世話と行っても水やりが中心である。。「バラまつり」のエベントとしてバラ相談コーナーなるものがあり、栽培の秘訣を教えてもらったが、剪定、虫害防止、肥料・・などなど年間に渡って実に細やかなケアが必要とのことで、わが家のバラの花に元気が乏しい理由がよくわかった。

 見事なバラの花は雨に濡れてとても美しかった。目の保養になったが、私には無理だということもばっちり学んで帰ってきた。


10/21(月)快晴 外来
23:50飯川病院で起床。3:00微睡30分、いつもの如く持参のデータ新聞とか検討。8:30徒歩病院、8:45−13:30外来。人数の割に時間がかかった回診ほか。15:30徒歩帰宅。TV、ネット関連の配線工事。新聞チェック、歴史本など。19:00夕食、20:00就寝。 歩行計Σ1859Km。

台風26号の伊豆大島の惨事(2) 避難の判断、勧告は論理的でなければならない
 台風26号の影響で伊豆半島に降った雨は24時間で800mmを記録した。想定外の劇雨であった。火山灰土が広い範囲で流出し、土石流となって住宅地を直撃、死者・行方不明者は50人近い大災害となった。

 この様な自然災害はこれからも起こりうる。豪雨だけではない。■洪水、■高潮、■津波、■土砂災害、■火山などによる災害が起こりうる。それだけでない。■異常気温、■超大型台風、■雪害、■干ばつなどもある。

 このうち、東日本大震災の教訓をもとに、日本全国で津波対策、ハザートマップ作りが進んでいる。秋田で作成中のマップを旧マップと比較してみると被害予想は大きく拡大している。旧来の津波の予測を根本から見直したからである。今後はこれをどの様に生かすか、にかかっている。

 豪雨に対しては土砂崩れと洪水への対応が必要である。突発性、緊急性、局所性、危険性から前者への対策をより優先しなければならないだろう。

 既に作られ始めていると思うが、全国の土砂崩れ危険箇所のハザードマップが必要である。現在の調査はまだ不十分である。8月初旬に被害があった仙北市の土砂崩れ箇所は危険区域に指定されていなかった。伊豆大島の今回の地域はどうだったのであろうか。 
 災害対策基本法は、市町村を住民の命と財産を守る基礎的地方公共団体と位置づけ、市町村長には警報の伝達や避難勧告・避難指示を出す権限があると定めている。
 しかし、地域の特殊性を加味した具体的な対応方針は何ら提示されていない。市町村長は感覚的に危険と感じられれば避難勧告・避難指示を出すのか?? とすれば、あまりにも論理性に欠ける。今回、町長は電話で状況報告を受けたが、避難勧告や避難指示を出す判断をしなかった。町長には情報が十分伝わっておらず、かつ、勧告や指示を出すべき拠り所が無かったのだから、責められない。

 全国にある危険区域を抽出し、過去の雨量等の記録等を生かして、その土地柄、土壌の特徴を加味し、どの程度の雨量までなら危険が少なく、それ以上ならどんな異常事態が想定されるのかを明示し、それをガイドラインとして判断をすべきである。勿論、ゲリラ豪雨が来る前、予測される時点での避難行動の発令でなければならない。

 この計画を進めるのは内閣府、防災担当相の仕事である。早急に進めるベきである。

 今回の大島町町長に向けた非難には以下のもあった。みんな後出しの意見である。
■特別警報は気象庁が「広域ではない」として発表を見送ったが、東京都の避難助言があり、警察が避難を要請したにもかかわらず、それが生かされなかった。
■土石流が発生する直前まで町が非常配備体制をとっていなかった。指示するトップが不在ならば、何もできないのか。
■自治体は危機管理の優先度を高めるべきだ。小規模自治体では防災担当職員が1人か2人で兼任職員も多いのは問題だ。
■判断のスピードや専門性が要求される災害時にこんな状況では不安だ。災害は多様化し、どこで起きても不思議ではない。積極的に対応すべきである。
■などなど・・・多数。


10/20(日)終日雨 三楽園バラ園 飯川病院当直
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。昨日ほどは寒くない。足温器と時折の入浴で十分であった。午前はDVD映画「ラストサムライ」一部。午前は屋内のインターネットとTV関連の配線関連。前者はLANに移行したが配線はまだ複雑。12:00−14:30三楽園のバラ展へ。バラ栽培の指導受けたが私には無理。配線関連再度, 15:45秋田駅kobo受け取り。16:15病院重症者回診対応、17:00飯川病院へ当直に。18:00検食。19:30就寝。歩行計Σ1852Km。

台風26号の伊豆大島の惨事(1) 首長の責任? そんな無茶な
 台風26号の影響で伊豆半島の台風26号で大島に降った雨は24時間で800mmを記録した。火山灰土が広い範囲で流出し住宅地を直撃、死者・行方不明者は50人近い。

 大島で起きた大規模な土石流は予想外の惨事だと思う。誰が予想出来たのだろうか。予測をきちんと公の文書に残しておられる方は名乗り出るべきである。居ないでしょう。

 識者、マスコミはこぞって、市町村の首長がとるべき役割が不備だったと言う立場である。大島町の町長と副町長の2人がともに島外に出張中という不幸も重なった。災害時に首長は住民に危険を周知し、避難を呼びかけなければならない、と言うのがその理由である。 町長は会見で「過小評価」であったことを認めた。

 しかし、私は首長にそこまで責任を問うのは無理だと思う。「想定外のことでした。今後同様の惨事が起こらない様、手を尽くしたい・・」で済ませば良かった。

 8月中旬の私の周辺の経験について振り返ってみる。
 8月9日に秋田県.仙北市では約350mmのゲリラ豪雨があり、土石流で5人が死亡した。
 8月16日、私は国道13号線を盛岡に向かっていた。13号線は土砂災害で一時不通となったが片側通行可能な状態まで修復されていた。数ヶ所で中規模の土砂崩れがあった。何でこんな場所に土砂崩れが??地形などから見てその必然性が分からなかった。
 8月17日は東北自動車道上にいた。奥州市水沢付近でにわかにどす黒い雨雲が発生、突然バケツをひっくり返したような激しい降雨に遭遇した。こんな時は視界が濃霧の時の様に白くなり、殆ど前が見えなくなる。ワイパーを最強にしても前が見えず、車のコントロールを失う可能性もあったために一時パーキングエリアで待機した。恐ろしい体験であった。豪雨は15分くらいでさっと止み、晴天となった。これがゲリラ降雨の恐さでもある。

 こんな時に外に出ることが出来るのか?舗装道路上であったが水が川の様に流れた。傘など全く役に立たないし、呼吸も苦しくなりそう。勿論会話もままならない。大島の斜面の住宅地、舗装もしていない道路がどんな状態であったか、予想も出来ない。泥水の中で足を取られて危険だろう。こんな雨の中、住民に「避難せよ!!!!」というのは簡単であるが、実行動は困難であり、論外である。

 更に、大島の降雨は深夜から未明であった。深夜に避難勧告を出せば混乱し、被害が拡大する。そう考えて町は防災無線で川の氾濫を伝えて注意を呼びかけただけという。今回の惨事が十分予想されたのならもっと強い指示や命令を出すことが出来ただろうが、過去に類似の災害は生じたことはあるのだろうか。

 私は、豪雨が始まる前に避難勧告、避難命令を出し、町をあげての避難行動をとることしかなかったと思う。豪雨が始まってからでは遅い、事実上不可能である。認知症の老人も居るだろう、病人も、乳幼児も妊婦も居るだろう。在宅酸素療法している方、寝たきりの家族を抱える方、老老介護をしている家庭に、具体的にどうしろと言えるのか。

 識者、マスコミの方々に言いたいのは、もしあなた方が主張されているような方策をとっていたら今回の惨事は防げたのか、検証してほしいと思う。町長への非難は言うだけならサルでも出来る発言である。


10/19(土)雲一つない快晴 秋田県立博物館「秋田大鉄道展」 
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。夜間から早朝にかけてかなり寒い。10日ほど前から用い始めた足温器だけでは不足、湯たんぽを胸に入れて暖をとった。かなり快適。中高の頃はネコをどてらの胸元に入れて暖をとったものだ。午前はDVD映画「菜穂子」。11:00庭掃除など。14:00-16:00 秋田県立博物館「秋田大鉄道展」, 久々クロスバイクで往復。koboが無事秋田駅に届いていた。20:30夕食、21:30就寝。Σ1849Km。

なんか変だが,まあいいか2013(3)債務不履行---米国経済の老化が原因
 下院で多数派の野党である共和党は、債務上限引き上げを駆け引きを材料に、オバマ政権の医療保険改革法を大幅に見直すための交渉を要求していた。オバマ大統領は拒否し、対立が続いた。この間、政府機関の一部は職員を自宅待機させざるを得なくなり、グランドキャニオン、平和の女神像などの観光業界が影響を受けた。

 米国が置かれている国際的責任、国内での労働者へ与える影響の大きさから見て、いくら何でも土壇場での決着するだろうと思っていた。その通りになったが、決着は問題の先送りにすぎず、数カ月後に同様の状況が再現されうる。

 基軸通貨であるドルを発行している米国の責任を共和党内の強硬的保守派はどう考えているのか? 国への信頼や信用が失われると、基軸通貨としての米ドルの価値が損なわれる可能性がある。そのような状況に陥れば全世界の経済にリーマンショック以上の影響が及ぶ事になろう。

 その中で日本への影響を考えてみれば、米国外で米国債を保持しているのは圧倒的に日本と中国である。米財務省の本年7月時点の統計によると、日本が保有する米国債は約111兆円で、海外保有の米国債の20%を占める。

 だから、米国債への信用が揺らぎ価値が下がれば、日本経済にも多大な影響が及ぶ。米国債を持つ日本の銀行は保有資産に損失が出るため、貸し渋りや貸しはがしに走ることが予想される。投資家は米国債を売り、代わりに日本国債を買えば、円高が進む可能性がある。円高は日本の景気を冷え込ませ、賃下げや雇用情勢の悪化につながりかねない。アベノミクス効果も消滅する。

 日本に対する影響だけではなく全世界の経済に影響を与え景気は冷え込む。
 こんな世界の経済、米国内の公務員の生活を障害するような強硬な姿勢をとる共和党内の強硬的保守派政治集団がなんで存在し得るのか?私は分からない。米国のある調査機関の調査では共和党内の強硬的保守派を「好ましくない」とする答えが2010年の25%から49%に伸びた。しかし、共和党支持層の53%、無党派層の30%が「好ましい」と指示する回答をしているから驚く。選挙による淘汰は期待出来ないのだろうか。

 米国の資本主義経済は日本と同様に人の生老病死に例えれば「老」のレベルに達したのではないだろうか。だから、債務上限引き上げを繰り返して借金を繰り返す事でしか経済を維持できない状況でないだろうか。私はそう理解している。

 これからの世界は脱米国に向かうだろう。活力ある中国や中南米諸国、インドなどの途上国が中核的存在として世界経済の責任の一端を引き受ける様になろう。「老」からの世代交代、若返りが目前に来ているのかもしれない。


10/18(金)大曲中通病院外来 中国映画「幸せの絆」
 0:30起床、いつものごとし。7:35Taxi、8:03こまち、発車15分後ほど経って微睡んでいる時に座席移動させられた。何で発車時からでなかったのか?9:00-14:45外来、殆ど休息もなく5時間、今までで最高の患者数。病院駅間は往復徒歩、16:30Taxi帰宅。18:30-20:00文化会館、映画「幸せの絆」中国映画、平凡だが子役の演技が良かった。こまちにkobo忘れた。20:30夕食、21:30就寝。歩行計Σ1835Km。

なんか変だが,まあいいか2013(2)米国債務危機がもたらしたもの
 私は経済について少しずつ勉強しているが、とても難しい。まだまだ理解できない事が多い。要するに経済の基本が分かっていないからだろう。その中でも特に分からないのが、常に成長を求める資本主義経済はどこまで発展可能なのか、という事である。分からないから現段階では「なんか変だが,まあいいか・・」と言いながら静観するしかないのが悔しい。

 私は資本主義経済は、覚醒→成長→熟成→爛熟→維持→衰退のコースを辿るものだと思っている。人の一生、生老病死と同じようなものでないだろうか。いわゆる先進国は既に「老」の段階で、もう維持から衰退へのコース上にあり、途上国と言われる国が旺盛な経済活動で迫ってきている、と考える。

 考え方、論議はいろいろあると思うが、私は我が国の経済はとっくに「老」の段階に入っていると考えている。そんな中で債務が1000兆円突破している状況、更に増やしていく政治的判断をどう考えるべきなのだろうか。経済再建を優先しなければならない段階なのに、なぜ政治家も国民も平然としていられるのか?
 まだ、日本が成長期、熟成期にあると誤解しているのではないか、もう一度息を吹き替えすのではないかと幻想を抱いているのではないか、としか思えない。日本の経済の現状には内憂外患が多数存在する。このグローバル化しつつある時代、経済は自国単独の問題ではない。自国の活力、少子高齢化、世界の経済状況、景気等の影響をもろに受ける。

 私は経済の視点ではやや悲観論を抱いているが、やはり、まだ分からない。

 加えて、世界の注目を集めたのが米国の債務不履行問題である。
 17日が最終期限となっていたが、16日夜に、「来年1月15日までの暫定予算と、2月7日までは現行債務上限を超える借り入れを可能とする法案」が可決、成立し、当面の危機は回避された。しかし問題は「先送りされた」だけで根本的には何も解決していない。
 今回の問題を介して基軸通貨であるドルを発行している米国の威信低下、オバマの指導力の問題点が強く印象付けられる結果となった。そのように評論する識者が多い。

 しかし、この問題は米国の議会の問題、ねじれ等が招いた問題と矮小化してはならないと思う。米国の経済力が「老」の段階になって二進も三進もいかなくなり始めている事の現れでないかととらえるべき思う。


10/17(木)降雨後曇り 外来 腸閉塞手術から一年
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。途中まで歩くも降雨にて引き返し、車で出勤。7:15病院着、書類処理。回診。8:45-12:20外来、15:30徒歩帰宅。新聞切り抜き。 DVD映画「歩いても歩いても」後半観る。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1826Km。

水素エネルギー2013(2)家庭用の燃料電池も実用段階へ入った
 家庭用燃料電池は、発電しながら、出る熱でお湯を沸かす「発電できる給湯器」と言っていい。
 2000年代前半に技術の切り札として期待を集め、まず「高分子型燃料電池」が自動車や家庭用に実用化された。まだ価格が高く、家庭用が年に数千台売れる程度にとどまっていたが、東日本大震災後、分散型電源として注目されている。

 家庭用燃料電池は外壁面に設置する大人の背丈ほどある貯湯タンクと、エアコン室外機の倍ほどある燃料電池本体から成る。

 ■「高分子型燃料電池」
 都市ガスから水素を分離して使用、熱と約700wの電気が発生する。現在4万2000台販売実績があり、2030年には530万台への普及を目指している。価格も現在250万円であるが70−80万円に下がるだろうとされる。上限45万円の国補助金があり、地方自治体で補助金5ー20を上乗せしている所もある。

 ■「固体酸化物型燃料電池」
 発電効率が最も高い「固体酸化物型燃料電池」も実用化が進み2009年から市販されている。価格も同じ270万円。 一般家庭で使う電気の7割程度をまかなえるとのこととで「電気をたくさん使う家庭に向いている」という。
 発電時の温度が約800度と高いのも長所。水素の純度が低くても電気を作る化学反応が進む。天然ガスなどから水素を取り出す装置も簡素にできる。将来の低コスト化の余地は大きいとみられている。

 両タイプの違いは発電効率。「 固体酸化物型燃料電池」は「究極の燃料電池」と呼ばれるほど発電の潜在力が高いことで知られる。「固体酸化物型燃料電池」は「高分子型燃料電池」の約20%増の45%で、大規模な火力発電所の全国平均を上回る水準だと言う。業界では「これほど発電効率が高い技術はほかに見あたらない。分散型の発電機や大規模発電所など多用途に使われていくだろう・・・」と注目している。
   
 水素エネルギーの問題点は水素の供給のインフラであるが、わが国では重工業地帯で発生する水素を集めるプラント計画が進んでいる。
 北九州では八幡製鉄所で鉄の製造過程で発生する水素を分離する世界3番目のプラントを目指している。神奈川県が水素革命を起こそうとしている。京浜工業地帯で水素を生産できるし、製油所で水素の生産も可能である。 

 燃料電池を普及させ、地球温暖化防止に向う方向性、安全・経済性の向上技術など、日本は先進的な技術力を有している。
 さらに、この分野での発展はわが国の経済力の向上に寄与する可能性も大きい。


10/16(水)雨模様 外来 寒くなってトランクスでの通勤不可に
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。7:10車にて病院着、書類処理、紹介状、介護保険書類等処理。回診。8:45-12:20外来、14:30車帰宅。午睡1時間。新聞切り抜き。録画「ミスパイロット」、 DVD映画「歩いても歩いても」一部観る。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1816Km。

水素エネルギー2013(1)電気自動車、ハイブリッド車、燃料電池自動車の現在
 私がプリウスを購入した7年ほど前はハイブリット車の台数は決して多くはなかったが、今はハイブリット車が各社から発売され、その普及率はすごいものがある。一方、電気自動車は秋田で見る事はきわめて少ない。昨日、道路脇の住宅で納車されたばかりと思われるリーフの新車をみた。

 電気自動車の現状はどうなっているのだろうか。若干調べてみた。
 ■電気自動車
 発売当初注目された電気自動車が伸び悩んでいる。2009年に三菱自動車が「アイ・ミープ」を、2010年には日産が「リーフ」を発売したが、12年の日本での電気自動車の販売は約1万5千台と、新車販売の0.3%を占めるにすぎない。一方、ハイブリッドは85万台以上である。
 先進国では新車そのもの売れ行きが良くない。電気自動車は一層少ない。シエールガスの供給などでガソリン高騰の心配が薄らいだ事も関係しているようである。
 こんな情勢の中、電気自動車市場の先頭を走ってきた日産ルノーが世界で150万台売る目標達成時期を2016年度から4年先送りした。
 世界で最も売れているりリーフの場合、フル充電でも走れるのは228Kmと短い。家庭用電源でで充電できるがフル充電には8時間ぐらいかかる。30分ほどで急速充電出来る施設はまだ全国で1900カ所しかない。だから遠出には用いる事が出来ない。日産のある営業マンは秋田ではお勧めできませんと言っていた。
 電気自動車の今後は電池の改良、充電施設の拡充でまだ改良されるだろうが、私はあまり普及しないだろうと思っている。水素を用いる燃料電池車が本命だと思うし、その間をハイブリッド車が埋めるだろう。
 日産のリーフは非常用の家庭用電源としての機能も持っている。非常時に五合炊きの炊飯器を80回、一般的家庭の電気を2.4日分まかなう事も出来る、・・とは言うものの、いつもフル充電しているとは限らない。それでも助かるだろう。隣近所がうらやましがる事は必定である。

 ■燃料電池車
 水素と酸素を反応させて得られたエネルギーで発電しモーターを回して走る点では電気自動車と同じである。廃棄物は理論上は水だけ。一回の水素の充填で500km以上可能、充填も3分くらいと、電気自動車の弱点を解決する。
 世界中の大手自動車メーカーは次々と技術提携して実用化を狙っている。2015−17年ころ500万円程度で量産車が市場に出回る予定となっている。
 課題は価格、安全性、水素をどう供給するかである。水素供給に限ってみれば、現在は充填所はまだ13ヶ所しかないが、2015年で100カ所、2030年には5000カ所に増やす予定となっている。ここまで増えると自動車の大部分が燃料電池車に置き換わっていくだろう。その頃にはコスト、安全性も大幅に開戦されるだろう。

■ハイブリッド車
 ハイブリッド車は燃料電池車の普及までの間をうめる方式としてまだまだ改良され、搭載車も増加していくだろう。


10/15(火)雲一つない快晴 外来
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力などいつものごとし。7:40徒歩病院着、回診、紹介状、介護保険書類等処理。8:45-13:00外来、15:30徒歩帰宅。新聞切り抜き。 DVD「キネマの天地」観る。 19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1810Km。

富士山は日本一の山 でも郷土の山はもっと良い
 6月22日三保の松原を含め富士山の世界文化遺産登録が決まった。
 富士山はわが国を代表する名峰である。これを否定する者は恐らく居ないだろう。

 私が富士を日本の山と認識したのは35年ほど前の事である。モントリオールで開催された国際血液学会の帰路、アンカレッジから成田に向かっていた機が長い夜間飛行が明けた時に通過していたのが三陸上空であった。雲一つない快晴の早朝、仙台上空で機は右側に方向を変えたが、そのとき遥か向こうに小さいながらくっきりと見えたのは、朝日を浴びて頂が金色に光る富士山だった。10日間ほどの短い旅であったが富士を見てほっと安堵したが、同時に日本は随分狭い国だと言う事も自覚した。

 富士はやはりすごい山だ、世界遺産に指定されてよかった・・と言いながら、何だか割り切れない悔しい思いを抱くのは私だけではないと思う。私の胸の内には富士山以上の名峰が鎮座している。

 私は岩手山を毎日見て育った。そんな私にとっては、富士山は遠い山、岩手山は身近な山である。私にとっては何と言っても岩手山である。日本一の名峰、いや秀峰と言っておく。

 秀峰岩手山の眺めの第一ポイントは私の生家の井戸端からの眺め、第二のポイントは盛岡駅前の北上川にかかる開運橋からの眺めである。父なる山、母なる川が織りなす景色は素晴らしい。第三は・・もうあげられない。何処から見ても秀峰岩手山である。この際、あえて一つ追加するとすれば繋温泉郷からみる景色をあげておく。眼下に広がるダム湖の向こうに、雄々しくそびえ立つ岩手山、素晴らしい。

 あまたの岩手の偉人賢人を育んだのはこの岩手山なのだ、と私は合点している。私は残念ながらその道をそれて変人になってしまった。

 多くの人たち一人一人の心の中には富士山以上に素晴らしい郷土の山があるはずだ。多分、富士山以上、と思っているはずであるが、同意は得られないからあまり大きな声では言えない。それでもそう思っている。それが故郷の山と言うものだ。故郷の山に向かって言うことはない。

 全国各地に「郷土富士」と呼ばれる山がある。
 「郷土富士」はその地域を代表する山、富士山に似ている山、歴史的に富士山と関係している山、などに付けられている名前である。 それらの多くは郷土の名前を冠して「○○富士」と呼ばれている。それだけ富士がすばらしいということであるが、国内だけでも300以上あると言われる。北から、「利尻富士」、「阿寒富士」、「津軽富士」、「南部富士」、「讃岐富士」、「讃岐七富士」などである。

 岩手山はその形から「南部片富士」と呼ばれている。秋田山形にそびえる鳥海山、これも秀峰であるが、私にとってはいつまでも異境の山である。


10/14(月)体育の日 快晴 庭仕事・片付け
1:00起床、本読み、蓄積データ整理等に集中。9:30庭仕事、11:00家内迎えに駅に。飯川病院に立寄りキャスルに送る。13:30−15:30庭仕事後半。TVアンテナ2階に引き回しし、従業員福祉用のTV設置。午睡。 DVD「なくもんか」、続いて「キネマの天地」前半観る。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1796Km。

スナップ写真とVサイン 
 現役を離れたのを機会に自分が関与していた対社会的な部分はほぼすべてリセットした。先を見ての過ぎし日との決別である。残っているのは家族間の付き合い、細々と続けている外来診療だけ。時間が出来たので展覧会、演奏会、講演会等にはよく行くが、会話しなければならないような会合には一切出ない。

 身辺整理の一環として写真の処分を始めた。さすがに岩手で撮った写真等は古いアルバムにあるだけである。秋田に来てからの40年間のスナップ写真、記念写真は未整理のまま大きめの段ボールに乱雑にため込まれている。
 私は写真に趣味はないから、自分で撮った写真は一枚もない。殆ど頂いたものである。

 捨てるにあたってこれらを見直していると、特に若い女性たちとのスナップ写真にはいわゆるVサインのポーズをとっているのが多い。私はあんまり良い慣習と思っていないし、今も嫌である。年代のこともあるが、私は Vサイン をした経験も一度も無い。

 この若い世代の特にスナップ写真を撮る時の Vサイン は何なんだろうか。
 欧米ではVサインは英語のVictory、すなわち勝利を示すサインと言われる。だから選挙等でもスポーツでも年齢問わずVサインを出して写真に納まっている著名な人も多い。

 日本の政治家は当選した時に万歳三唱する。Vサインを出したのを見たことは無いが、政治家のなかで公的な場でも頻繁に出していたとされるのはイギリスのチャーチル首相だったと言われる。彼はカメラを向けられるとヒョイと気軽にVサインしたという。

 そのチャーチルが広島、長崎に原爆投下の報告を受けた際にも記者団に向かってVサインを出し、「これは勝利ではなくピースサインだ。広島・長崎に落とされた原爆によってもたらされた平和だ・・・」と答えた、と伝えられている。真偽は定かではないが結構有名な話である。だから私は嫌である。

 我が国で写真を撮る時のポーズとして用いられるVサインには何ら深い意味は無いと思われる。楽しさ、喜びを表す意味でしかないだろう。 また、写真だけでなく日常生活の中でも、物事がうまく行った時などにも喜びを表すポーズとして用いられる。平和を願うサインとしての意味は皆無だろう。

 日本のVサインはいつ頃からあるのか分からないが、私が秋田大学で勉強し始めた1970年中頃のスナップ写真にも見られている。
 なお、一部の途上国などでは卑猥な意味の場合もあるらしい。要注意である。


10/13 (日)快晴 飯川病院日直 
0:30起床、新聞、医学文献、録音データチェックなどダラダラと整理。7:45徒歩飯川病院、8:45-17:00日直。18:00徒歩帰宅したが、この時間帯は暗く懐中電灯等必要。DVD「なくもんか」観る。新聞データ化。19:00夕食、20:00就寝。家内は学会後横浜。歩数計Σ1789Km。

境界からはみ出た枝(2)隣家に伸びた枝葉をばっさりと切り取った
 庭に木を植えたりする時に境界近くに寄せて植えたくなるものであるが、大きく生長する木を植える時にはかなり内側に寄せて植えなければならな。何年か後に隣家との間にトラブルになりかねない。日当りの問題も、虫害なども発生する。そんな樹木がある場合には、すくともトラブルを防ぐような気配りは必要である。

 今年は天候のせいなのかアメシロが大発生した。といっても私の家と隣家の事しか分からない。家庭菜園の枝豆の葉にもアメシロがついていて、葉がかなり食べられてしまった。作業の度に衣服や手にも虫がついたり、靴の中にまで虫体が入っていることもあった。

 私の家の樹木も隣家の樹木も枝枯れが目立っていた。私はこの分野はまだ不案内であってそれほど深刻には考えていなかったが、隣家では盆以降に庭木のほとんどの枝をかなり太い所から切り取ってしまった。アメシロ対策だと言う。だとすればかなり積極的な対応である。
 アメシロ対策隣は地域ぐるみでやらねば効果は乏しい、だからといって町内会が音頭をとる訳では無い。隣家がそれほど頑張っているのだからわが家としても静観は出来ない。
 
 我が家の樹木はケヤキや柿の木、栗の木、桜など結構背が高い。脚立程度で届く低い部分のは私でも対応出来ない事はないが、危険なので知り合いの造園業の方に依頼した。
 ■8月下旬にアメシロがついている木々すべてに薬剤散布を行った。これでかなり駆除でき、気持ちの上では一段落した。
 ■9月中旬に両隣の敷地内に伸びている木々の枝葉をばっさりと切り取った。枝は2/3くらいに減ってちょっと寂しくなってしまった。この作業はプロの手でなければ不可能であった。庭師の木登りの技術にも感心した。

 我が家の木々の枝葉は隣家の敷地内にも伸びていたが、隣家では切り落とす事が出来ない。隣家があれほど徹底してアメシロ対策をした以上、私の方も黙って見ているわけにはいかない。薬剤散布でアメシロは殆ど見えなくなったものの、枝葉の越境問題がなくなった訳ではない。お隣も伸びてきた枝を何とかしたいと考えているはずである。そんな気持ちを先取りした。 
 
 樹木を食い荒らす害虫の代表はアメシロである。私がこれほど虫害を意識したことはなかった。今までは駆除の重要性に気づいていなかったが、来年からは6月と8月に自宅の樹木の消毒をしなければならない、と思った。枝葉の伸びもチェックしてもう様、年間スケジュールの中に組み込んでおくこととした。


10/12 (土)終日降雨強風 重症患者回診 
 1:30起床。何時もと同様、書類・録音データ整理、新聞、医学論文などチェック、DVD「舞妓Haaaaan!!!」など、ゆっくり早朝、午前の時間を楽しんだ。10:30-12:30重症患者回診、オーダーだし。車で往復。午後も本読み中心に DVD「なくもんか」一部観る。19:00夕食、20:00就寝。家内は学会後横浜に。

境界からはみ出た枝(1)道路脇のフェンスから伸びたバラの枝で額に傷 
 私の通勤路に教会風の建物がある。結婚式場なのだそうだ。敷地内の庭はよく整備されている。歩道に面しては腰の高さ程度のブロック塀があり、その上に金属製のフェンスがある。

 夏頃から敷地内のバラの枝が数本フェンスの隙間から30-40cmほど真横に歩道に伸びてきている。ちょうど私の顔面の高さである。あぶないのでいつも避けて通過していたが、先日10月10日に前の高校生を追い抜く時にたまたま枝に額が触ってしまい、うっすらと血がにじむほどの傷がついた。目も危なかったが、いつも眼鏡の上に大型のサングラスを着用しているので幸い目の方には影響がなかった。早速当日昼頃施設の管理者に電話をかけて処理してほしいと申し出た。帰路同じ所を通ってみたがバラの枝は切られ、他の長めの枝はフェンスに括り付けられていた。対応は早かった。

 こんな場合には私どもが勝手に枝を切って良いものだろうか?多分ダメだろう。この辺の事は民法に決められている。
 民法 第233条第一項、第二項には以下のようにある。
 1 隣地の竹木の枝が境界を越える時は、その竹木の所有者に、その枝を切除させることが出来る。
 2・竹木の根が境界線を越える時は、その根を切り取ることが出来る。
 
 要するに、超えてきた枝葉は所有者の財産だから勝手に切ってならないが、根は切っていい、と言う事である。上記の決めごとがあるので施設の管理者に善処をお願いした。

 ついでながら、もし隣家のタケの地下茎が伸びてきて自分の庭にタケノコが生えてきた時は無断でいただいて良い、と言う事。残念ながら我が家はそんな環境にない。

 一方、我が家のクリ、柿は隣家に伸びた枝にも沢山の実をつけている。これは我が家ものと言う事になるが、所有権云々・・などと言いたくもないから盆過ぎに庭師に依頼して越境した枝をばっさりと切り取った。すっきりした。


10/11(金)降雨 大曲中通病院外来 
0:50起床、新聞その他文献チェック何時ものごとく。7:35Taxi駅に。8:02こまち、徒歩病院、9:00-15:00大曲中通病院。回数券が変更になった。復路新幹線30分ほど遅れ。16:45Taxi帰宅、 DVD「三丁目の夕陽64』 .歴史関連勉強。19:00夕食、20:00就寝。 家内は学会で東京。

大仙市大曲2013(2) 大曲駅の騒音 新幹線回数券値上げ 自由の女神像
■9月24日、大曲駅駅長に以下の2点についてお願いした。
 一つは新幹線発車時に鳴らされる民謡調の騒音に関して不快なので中止して頂きたいこと、もう一つは新幹線の遅れが構内放送のみで告げられるが、せめて改札口には掲示して欲しい旨の2点についてである。

 これに対して10月4日に丁寧な書簡をいただいた。その内容は、前者についてはおもてなしの一環として大仙市との協議で決めた事なのでご理解いただきたい、後者については放送を一層強化しますと言う内容であった。本日も駅を利用したが、この返事のごとく全く何も変化していななかった。

■新幹線の回数券が10月1日から様変わりし、実質値上げになった
 私は週1回の大曲中通病院の外来を手伝っているが、いつも新幹線を利用する。
 秋田〜大曲間は通常料金は指定券なしで2100円であるがいちいち切符を購入するのは面倒なので「こまち特定特急回数券」を利用している。これは6枚綴りで10800円、有効期間が3か月で、いつも3セット18枚ずつ購入していた。本日購入しようとしたら先月末日でこのタイプの回数券は発売終了となったとの事。知らなかったのででちょっと驚いた。

 10月1日からは新たに「新幹線W切符」が発売になっていた。有効期間が1か月との事なので使い切れるようとりあえず6枚を購入した。2枚綴りで3800円であった。
 何らかの事情があっての変更と思われるが、利用客の立場からは、「こまち特定特急回数券」と比べて有効期間が短いのでまとめて買いできず煩雑となる。かつ1枚当たり100円値上げされているなど、むしろ不便になった。利用者に不便を強いるのだから、むしろ値下げされてしかるべき改訂と思う。

■自由の女神像
 大曲市内を流れる丸子川にかかる橋の近くの広場に8月中旬に真っ白な「自由の女神像」がこつ然と姿を現した。先週たまたま天候が良かったので写真に収めておいた。それが本日10月11日には忽然を姿を消した。何でこんな所に「自由の女神像」が設置されたのか分からなかったが、大曲の花火大会に関連してのエベントの一つだった様である。

 「自由の女神像」は米国独立100周年を記念して、1886年に建立され、1984年に世界遺産に登録された。自由と民主主義の象徴なのだそうだ。レプリカながらその像を身近に見れた事は有り難いが、花火とこの像の関連性は何処にあるのか、像の脇に簡単な説明があったが、私にはいまだに分からない。


10/10(木)雲一つ無い快晴 外来 飯川病院代診 
 0:30起床。文献・新聞他。7:35徒歩病院、回診ほか、8:45-12:40外来。13:00-16:55飯川病院。17:50バス利用帰宅。DVD「三丁目の夕陽64』一部。新聞・文献スクラップ入力。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ1754Km。家内は学会で東京。

自転車転倒から一年目の振り返り(2) 腸閉塞手術から退院まで
 救急外来のCT所見は、空腸の壁肥厚を伴う閉塞病変、悪性疾患の有無については不明、と言う所見であった。

 ■10月15日−16日:脱水治療と手術
 腸閉塞と言っても腹部所見は軽く、腸管のダメージは軽い事が予想され、緊急手術でなく脱水治療後となった。胃管からの廃液は入院当日4.100ml、尿量250mlで、一気に体重3Kg減、血圧も90以下までなったが、点滴量増やし、翌日は2.500ml、1.500mlで脱水は改善傾向にあった。
 手術は16日午後と決まった。 腸閉塞の原因は内ヘルニア疑いで、手術は全麻下でまず腹腔鏡的に腸閉塞の修復を試み、不可であれば開腹手術する、とのことであった。

 ■10月16日:手術、腹腔鏡的腸閉塞解除で終了 
 手術は15:20から始まった。全身麻酔なのでその後の事は不明、18:00頃覚醒、ICUに入室となった。開腹を覚悟していたが腹腔鏡的に修復出来たとのことであった。腹痛無し、体調不快ならず、眠くも無し、病棟よりラジオと本を取り寄せて一晩ゆっくり過ごした。

 ■10月17日以降:術後経過は順調、23日退院、28日から復帰
 17日、ICUから一般個室に転室。経鼻胃管が抜去され、19日から流動食開始、点滴終了し一日上がりで23日に全粥となった。自覚症状全くなく、腹部レントゲン、採血検査に異常ないとの事であったので希望して退院、数日自宅療養し、28日飯川病院の日直から通常勤務に戻った。

【考察・感想】
 CT所見は悪性疾患の有無については不明、と言うことであったが、私自身は恐らくは消化管あるいは近傍臓器の悪性疾患による腸閉塞と考えており、術前には自転車転倒事故とと腸閉塞の関係は思いつかなかった。

 転倒は左側を強打したが腹部は打った気はしなかった。あまりにも痛みが強かった胸部に関しては、肋骨骨折、気胸や血胸は考えたがそれらしい所見なく、腹部損傷は考えなかった。
 術前の診断は「内ヘルニア疑い」となっていた。内ヘルニアには傍十二指腸ヘルニア、先天性の腸間膜欠損部位もあるというので、私の場合には転倒時に防御的に腹圧が上昇した際に、何らかの機序で腸管が嵌頓し、腸管の動きで徐々に閉塞に進んだと考えている。確かに、右鼠径部のヘルニアが転倒後に大きくなり、時に疼痛も感じるようになったが、これもその関係と考えている。

 思えば、いい歳して調子に乗っていた。自分の力でどれだけの速さで走れるのかなどを楽しんでいた。これが転倒の遠因である。 転倒時、よく大怪我しなかったものである。引き続き生じた腸閉塞も腹腔鏡下で修復出来た。あれからちょうど一年、ダブルの「不幸中の幸い」で済んだ幸運をじっくり噛み締めている。

 業務復帰して一週後の11月4日、今度は脳梗塞を発症した。


10/9(水)終日雨天 外来 飯川病院 昨年自転車で激しく転倒
 0:30起床。読書、録音データ整理と処理、分類など。歴史関連本読み。7:45バス利用にて病院着、回診、8:45-12:40外来。13:00飯川病院、院長学会出張で代診。17:30車帰宅、DVD「てっぱん」、新聞ほか、19:00夕食、20:00就寝。Σ1747Km。

自転車転倒から一年目の振り返り(1) 転倒から腸閉塞まで
 昨年の10月9日(火)早朝、6:30ころ通勤途上、手形陸橋付近の交差点で対向してきた高校生の自転車と接触した。私の方はスポーティタイプの自転車でかなりスピードが出ており、コントロール出来ない状態で10mほど走って舗道上に転倒、左側半身を強打した。駆け寄って確かめたが、高校生には怪我はないようであった。

 この転倒は体表面の傷は殆どなかったが、私の健康に大きな影響を与えた。この後、私は、■激しい左胸痛→■上腹部痛→■腸閉塞発症、手術→■脳梗塞発症、抗凝固剤開始→■鼠径ヘルニア増悪、と言うコースを辿った。幸い経過良好で、一年間無事だったので振り返ってみる。

■10月9日転倒直後:何ともなかった
 左の肩から転倒し、その瞬間は肩あるいは左上肢の骨折でもしたかと思った。四肢は通常に動き、頸部にも頭にも疼痛がなくほっとした。左上肢を中心に半身に若干の疼痛はあったが、その場では大した障害無く、そのままほぼ通常に走行し出勤した。回診、外来、を通常にこなし、17:00自転車で帰宅した。ヘルメットには左前方、側面に擦り傷があった。

■10月9日夕以降;胸痛で眠られず
 帰宅した頃から徐々に左半身が痛くなってきた。夕食も進まなかった。増悪しつつある左胸痛でよく眠られず。悶々として数時間を過ごした。23:30胸痛にて眠られず早めに起床。起きた方が痛みが軽減し楽であった。新聞・文献・本読みなどいつもの如く過ごした。10日も疼痛あったが、ヨタヨタと自転車で出勤。左半身の疼痛は続いていたが通常に業務こなし帰宅。11日も同様、悪化もせず、改善もせず。ヨタヨタと自転車で出勤、帰宅。

■10月12日:胸痛増悪 上腹部に違和感
 大曲中通病院出張であったが、外来中に胸痛増悪、胸部レ線撮影。幸い肋骨他に異常はなく、気胸、血胸の所見もなし。安堵したが、夕食後より上腹部に違和感あり早めに就寝。

■10月13 日:上腹部違和感増悪  早朝からシクシク程度の上腹部痛が始まった。体調不良の際に生じる消化管の機能障害と自己判断し絶飲食とし経過を見た。症状は増悪したので午前午後2回自分で誘発し嘔吐をするも改善乏しかった。「自然治癒のレベルでないが緊急性もなさそう」と判断し、翌日救急受診とし終日だらだらと過ごした。

■ 10月14 日:上腹部痛増悪 救急受診 腸閉塞で入院
 10:00頃救急外来受診。 検査では強度の脱水、レントゲン上は腸閉塞であった。CT撮影後、経鼻胃管で減圧開始、13:00入院となる。胃管より大量の廃液あり腹部症状は消失、脱水治療のために24時間持続点滴となる。【考察・感想】
 この時点で転倒と腸閉塞の因果関係は思いつかず、自分では消化管の悪性腫瘍による通過障害と考えていて、手術は避けられないだろう、ついにくるべきときが来たか、と言う気分で淡々と手術を待った。


10/8(火)雨 外来 コインバス初利用
 23:30起床、新聞・文献チェック、徒然など。早朝の時間が長くて嬉しい。家庭ゴミ出し。7:45バス利用病院着、 コインバス資格証明所初利用 、ちょっと気恥ずかしかったが快適。回診、8:45-13:15外来。14:50久々プリウス動かし帰宅。睡魔で不調、午睡す。読書、19:00夕食、20:30就寝。Σ1740Km。

ノーベル賞 スタチンの遠藤博士 今年も受賞ならず
 スタチンの遠藤博士、今年もノーベル賞の受賞ならなかった。実に残念である。

 昨年iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授がノーベル賞の医学・生理学賞を受賞した。私はかつてちょっとだ
け造血幹細胞をいじっていた事もあってiPS細胞についても関心があり、「近々受賞すべき方が受賞した・・」と思った。山中教授が受賞された事には驚かなかったが、「スタチンの遠藤章博士」が選考から漏れたのにはがっかりした。

 昨年、山中教授が受賞しているだけに今年は不利だと思っていたが、やはり遠藤章博士は今年も選考に漏れた。いままで日本人は19人受賞者がいるが、連続して受賞したのは2000年白川氏、2001年野依氏、2002年小柴氏と田中氏の場合だけである。米欧の場合ははっきりしないとされているが、途上国やアジア等では地域性が考慮されている、との見方もあるようだ。私もそのように感じている。

 遠藤氏は79歳と高齢である。ノーベル賞は生存中の研究者に贈られることになっている。日本人受賞者のうち3名は80−87歳なので年齢が受賞のために不利と言うことはないので、今後もご健勝であることを願いつつ待つしかない。

 iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授が受賞してからiPS細胞についての動き、発展は一層目覚ましい。しかし、受賞から一年経ついままでただ一人としてiPS細胞の恩恵を受けていない。眼科領域で臨床応用が準備されている段階である。一方、「スタチン」の恩恵を受けている人は億の単位を越えるはずである。

 山中教授の研究は素晴らしい。 私は将来性は大事だが「どれだけ人類の健康に寄与した研究なのか」、と言う実績を評価して欲しいと思う。 

 遠藤氏は由利本荘市出身、本荘高校定時制課程から現在の秋田県立中央高校に転校し,東北大学農学部に進んでいる。私は氏の講演を2度拝聴し感銘を受けた。遠藤氏の受賞を県内でも多くの方々が期待し、見守っている。


10/7(月)雲りのち晴れ 外来 
 0:50起床。いつもの如く。7:30徒歩病院、重症者回診対応、回診、8:45-13:15外来。15:30千秋公園一周、徒歩帰宅。本日ノーベル賞発表、今年も「スタチンの遠藤章博士は選考に漏れた。新聞チェック、歴史本など、DVD「津軽 太宰治生誕100年」を観る。19:00夕食、20:00就寝。

東京オリンピック(3)64年の大会で金メダルの女子バレー主将中村昌枝氏死去
 7年後の東京オリンピックが話題になっているが、私にとって東京オリンピックと言えは何と言っても1964年の東京オリンピックである。
 当時、TVを観れる環境になく、連日ラジオ中継の熱戦を手に汗を握って聴いていた。特に女子バレー決勝の熱気はすごかった。到底忘れられない。新聞報道もとりわけ熱狂的であった。

 記憶に残っている選手と言えば、日本人で最初に金メダリストになった三宅義信、体操金の遠藤幸雄、マラソン銀の円谷幸吉、ハードル5位の依田郁子、金の女子バレーチームの主将河西昌代の各氏である。円谷氏、依田氏は後に自死されたが、円谷氏の遺書は繰り返し読んだが、読むたびに胸を打つ。

 65年に公開された映画「東京オリンピック」を見た時の感動も忘れられない。1985年レーザーディスク版を購入、何度も観た。最近、9月20日にも久々見直したばかりである。

 多くの名選手の中で最も印象深かったのは女子バレーの主将河西昌枝氏であった。 同氏は後に中村姓になったが、東京オリンピックというと私には彼女の顔と名前が浮んでくる。
 その中村昌枝氏が10月3日脳内出血のために急逝された。80歳であった。ご冥福をお祈りします。

 私が一層中村氏に関心を持ったのは昨年7月にラジオ深夜便のシリーズ「時代を創った女達」に登場し、キャスターと対話を聞いてからである。78歳とは思われない若々しい声、よどみの無い話し振り、明晰な記憶力で自分達の過ぎし日々のことを熱く語った。「アッハッハ」と豪快に笑う方であった。
 その時の内容は以下のごとく
■子どもの頃から身長が悩みの種。■高3で身長が縁でニチボウに採用。■数100回、1000回も同じことを繰り返せば難技も出来るようになる。■ニチボウ貝塚は国内で頂点に立ったが、鬼と言われた大松監督は選手以上にハードな練習に耐えた方。尊敬すべき人。■オリンピック決勝戦第3セット12:6から追いつかれるも表情一つ変えずにチームに声をかけ、それも評価されたが、内心はハラハラ、ドキドキ。■50年にもなった今でもチームメートと集まる事があるが、結束は固い。
■・・・。

 私はこの放送で記録映画等からは知り得なかった厳しい練習等の様子などを知り、氏のキャラクターを含め一層親しみを感じた。
 もう一つ感じた事は、大戦で生き残った兵士たちは亡くなった同僚の供養をかね毎年のように集まった、と言うが、このチームのメンバーにも似たような結束力が形成されている、という事である。厳しい環境の中で共に耐え、共に過ごした方々にだけ生まれる心の結びつきが形成されたのだろう、と思った。


10/6(日)晴れ一時小雨 重症患者回診 飯川病院日直
 0:00 起床。夕食後に観ていたTV番組が3本終了し就眠時間早まった。そのため起床時間が早まった。夜間から早朝の自分だけの時間が長くなった。データ整理、読書、歴史本など。6:15 徒歩にて病院、7:10回診、治療検査指示だし。8:20飯川病院、日直業務。雄和のダリア園から立ち寄った家内の車で帰宅。19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ1720Km。

認知症徘徊高齢者の鉄道事故死の判決について(3)認知症ケアの後退を誘導する
 今回の事件で、企業側は一定の被害を被っているから損害賠償を求めることは止むを得ないだろう。ただ、線路に入った経路は不明で、男性はホームの端から数mの線路上に立っていて列車にはねられたが、時間は17:47分頃だったという。ホームに保安員や利用客は居なかったのだろうか。この事故で上下線で20本に約2時間の遅れがでた。

 判決による家族の責任に関しては介護に直接関与しているメンバーの責任が問われている。介護に参加していない別居の娘息子は賠償責任を問われていない。介護に手を出さない方が良いと言う事なのだろうか。

 男性が徘徊したのは妻が少しまどろみ、長男の嫁が玄関を片付けているわずかな時間である。二人は認知症の患者を365日、年余に渡ってケアしてきたが、その日、その時にちょっとした隙間に事件が起きた。横浜に居る長男には「監督義務を怠らなかったとは認められない」とし、妻には「目を離さずに見守ることを怠った」とした。要するに、水も漏らさないような見守り体制を求めている。しかも要介護度2の高齢者に。

 こんな見守りなど不可能である。時間にして99.9%以上うまく行われた二人の介護が全く評価されず一瞬の失敗のみが問われている。徘徊や火の始末などが出来なくなった認知症患者の在宅介護は如何に困難であるか、裁判官には分かっていない。

 年老いても、住みなれた地域で人間らしく暮らせるようにすると言うのが、この国の政策目標である。介護保険の理念は家族の介護の過重な負担から解放することにあったはずである。この理念は素晴らしい。しかし、実態は全く異なる。その責任は国と自治体にあると思う。

 介護に深くかかわるほど重い責任を問われるのであれば在宅ケアなどやめて施設に入れた方が安心、施設も出入り口にカギをかけて外出させない方が安全ということになる。認知症のケアの後退を誘導しかねない判決である。

 今回の判決は被害がが生じたから誰かが賠償しなければならない、それでは誰が支払うべきか、と言う2つの視点からだけ検討されたように思える。

 損害を受けた被害者の救済は必要である。認知症患者が地域で人間らしく暮らすことも重要である。これらが両立出来る社会的なシステムを設けるべきだ。
 ■第一は在宅介護のケアシステムの改善である。
 ■第二は犯罪被害者援護法のごとく、被害を被った側に給付金を支給する制度も必要。
 ■認知症を抱える家族のために私的な損害保険があっても良い。

 要介護の認知症高齢者は、2010年時点で280万人。2025年には570万人にまで増えると推計されている。私の遠い親戚もかなり前であるが徘徊して自動車にはねられ死亡している。決して人ごとでない。認知症問題は喫緊の課題である。


10/5(土)曇り・晴れ 畠作業  
 0:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。週末の大切な時間。5:30休宝寺に届け物、久々クロスバイク45分。11:00畠作業、本日は片付け中心と栗拾い・イガ拾い。周辺草刈。15:00緩和医療講演会、買い物につき合う。 DVD映画「三丁目の夕陽」二本、東フィル演奏会記録観る。 19:00夕食、20:00就寝。大曲駅町より返信あり。Σ1710Km。

四国お遍路めぐり(1) それは、ひょんな事から始まった
 9月上旬愛用の歩数計「平成の伊能忠敬」を硬い床に落としたら反応しなくなった。大事なデータを蓄積し続けるために代替品を購入した。今度は「四国お遍路めぐり」にした。その後、「平成の伊能忠敬」がうまく直ったためにムダにしないよう二つの歩数計をセットにして「日本の海岸線1万9000Km一周コース」と「四国お遍路めぐり1200Kmコース」を同時に味わう事とした。

 私は四国お遍路に興味があった。現役を退いた時にボロ・ハーレーを繰って一周に挑戦しようと思ったが、そのまま嘱託医として勤務し続ける事になり果たせなかった。その後ボロ・ハーレーを手放したので果たせぬ夢で終わった。

 それが、歩数計上のバーチャルな体験であるが、歩数計が故障したのを機会に今回実現する事になった。

 四国霊場めぐりは弘法大師ゆかりの聖地を訪ねる旅である。弘法大師( 774〜835年)は平安時代初期の高僧で真言宗の開祖として知られている。大師は生地である四国の山や海辺に修行を求めた。洞窟の中からみた外の風景から後に名を「空海」と改めた。空海は宗教家、書家、芸術家、科学者、哲学者など万能の才に秀でた天才だったらしい。
 四国を一周ぐるりと囲むように空海ゆかりの八十八の札所寺院。それらを繋ぐ道の遍路は「同行二人」と言われ、いつでも空海がついて一緒に歩いてくれているとの事である。最近では年間約40万人が行っているという。
 私は考えている事、言っている事は無宗教的であるが、宗教にはとても興味がある。それに冠婚葬祭は宗教的である事に抵抗感もない。神社仏閣にも興味がある。宗教への興味の背景には人間としての心理学的立場、歴史的立場、民族的、文化的・・・からであり、とてつもなく大きな研究対象である。
 9月20日お遍路コースめぐりを開始した。
 徳島県鳴門の近くの第一番「霊山寺」から始め、297Km、現在26番「金剛頂寺」に向かっている所である。座右には大きめの四国全図と参考書として出版文化社発行の「四国八十八ヶ所周辺ガイド」を置き、各霊場に関する由来等を学んでいる。


10/4(金)大曲中通病院外来
 0:30起床、いつもの如く。6:40Taxi病院。重症患者回診。徒歩駅、8:02こまち、徒歩病院、9:00-14:45大曲中通病院外来。16:00入院患者対応そのほか。17:00Taxi帰宅。本読み。 DVD映画「三丁目の夕陽」一部、19:00夕食。20:00就寝。Σ1704Km。

認知症徘徊高齢者の鉄道事故死の判決について(2)介護保険以前の判断基準を持ち込んだ
 今回の判決を受けた事故は2007年12月におきた。
 死亡した男性は「認知症高齢者自立度4」で「常に介護が必要」とされ、在宅療養中であった。家族がちょっと目を離した隙に徘徊して鉄道線路に迷い込み電車にはねられて死亡した。JR東海は振り替え輸送などにかかった費用の損害賠償を申し立てた。

 上田裁判長は、■事故は予見でき家族が注意義務を怠った。■介護ヘルパーを依頼するなどの措置をとらなかった。■同居の妻が目を離した隙に男性が外出し、事故が発生したとして 「妻には見守りを怠った過失あり」と認定。■別居している長男を「事実上の監督者」とし、「徘徊を防止する適切な措置を講じていなかった」として約721万円をJR東海支払うよう命じた。■男性の介護体制は介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない、とした。

 裁判の過程で、男性の家族らは、妻は当時85歳で要介護度1、十分手を尽くしていたが、常時監視することが不可能だったと主張した。家族側は控訴した。

 この判決はきわめて厳しい判断である。「認知症の治療や在宅ケアのあり方と、現実の厳しい実態との乖離」について殆ど理解していない判決である。しかも、「介護は家族の手から社会で担う」と言う理念で始まった介護保険の趣旨にも反している。

 ただ、私はこの判決についての新聞記事を見た事で知ったので事件の背景や詳細は分からない。患者は施設ケアをどう考えていたのか、ケアマネージャーは関与していたのか、主治医はそれだけ介入していたのか、この辺での人間関係はうまくいっていたのか・・・、その辺の事は分からない。情報不足は否めない。

 認知症のみならず高齢者の医療・介護は、住み慣れた地域で、気心の知れた家族とともに過ごしながら治療・ケアすることがベストである。そのためには家族だけでなく、医療者・介護者を含め、地域全体として見守っていくことが大切である。厚労省は高齢者医療の経費を軽減するために病院・施設医療から無理矢理在対医療に移行させようとしているが、地域のシステム化にどれだけの関与をするつもりなのか。関係者に丸投げの様に思う。

 本人、家族責任の状況と責任について、裁判では、■本人91歳、「認知症高齢者自立度4」で「常に介護が必要」で責任能力なし。■妻85歳、要介護度1、に見守りの過失。賠償責任あり。■横浜在住の長男は介護の方針等を決めたので事実上の監督者と認定。 賠償責任あり。 ■長男の妻は介護のために近くに転居し10年以上介護してきた。見守る事を怠ったとして責任を認めた。■次女、三女、次男は別居し介護の家族会議に参加していない等の理由で賠償責任なし。

 裁判による判決は当事者達、損害を受けた側の立場から離れ、法に照らし合わせた建前論でなされる事が多いが、この件もそのように判断されている。責任を負うべきは家族だけなのだろうか。


10/3(木)夜半降雨、曇り晴れ 外来 
 1:00起床、新聞、医学文献他読む。徒然。コイにエサ、7:40徒歩病院着、回診他業務。8:45-13:00外来。13:30健康クリニックドック判定総括。15:30帰宅。新聞雑誌入力。新聞、読書データ整理。 DVD映画「首都消失」。 19:00夕食、20:00就眠。Σ1692Km。

認知症徘徊高齢者の鉄道事故死の判決について(1)不十分な医療・介護ケア体制が元凶
 認知症を患う高齢者が徘徊することは珍しくない。
 先日、徘徊する認知症の患者が列車にはねられた事故について家族に損害賠償を求める判決がくだされ、複雑な思いを持った。

 私は在宅ケアに直接は関わっていないが、外来と入院で主に高齢者の医療も担当している。最も懸念するのが判断能力が乏しくなった認知症を伴う患者の治療である。患っている内科的疾患の治療以上に気遣う。私が一番懸念しているのは認知症患者の事故である。

 ■外来患者の場合は、火のしまつ、徘徊などについて事故防止を念頭について家族に介護上のケアについての注意を受診する事に十分に話しあう。しかし、家族介護の能力には限界がある。主治医としての限界も責任を感じる。その際には本人、家族の希望を聞きながら施設入所も考慮し、ケースワーカー、ケアマネ等を中心に進めていく。この場合本人の抵抗が最も大きな障害因子である。入所が出来た場合には本当に安堵する。

 ■施設入所又は利用している方も外来を受診する。この場合にはそれぞれの施設にマニュアルがあるのでそれを尊重しながら、各患者毎にそった注意をする。一般的に在宅療養よりも安心して診ていれる。

 ■認知症を持つ高齢患者が入院治療の対象になりうる疾患を発症したとき、入院適応が絶対的であれば判断には困らないが、グレーゾーンの場合、可能であれば入院を回避しつつ治療を進める。入院によって認知症症状が悪化するのが常である。入院当日から刻々と変わる認知症の状況を先取りしながら看護スタッフと打ち合わせを行う。病院には認知症を伴う患者の介護マニュアルなどが十分準備されているが、それでも十分安心できない。認知症は個別性が強いから何が生じるか分からない。必要に応じて精神科医師の参加も求める。
 しかも、病院ではスタッフの数が十分でない。特に夜間の看護体制は入院患者50−60名ほどの病棟でも3−4名となる。だから認知症を伴う患者の主治医になったときには認知症の病状が安定するまでの数日ないし1−2週間は主治医としてとても不安である。夜間に呼ばれて対応せざるを得ない事もまれではない。

 このような中、上記の事故について8月9日名古屋地裁(上田哲裁判長)は家族が見守り義務を怠った、として家族に損害賠償を求める判決を下した。
 私は納得出来ない。
 医療・福祉関係者はもっと声を上げていいと思う。


10/2(水)晴れ後曇り 外来 患者面談 ドック判定総括
 1:20起床。文献・新聞チェックなど。録音整理、徒歩、コイにエサ後7:40病院着.回診他病棟業務、8:45-13:00外来。健康クリニックドック判定総括。15:30徒歩帰宅。コイの餌作り。紙書籍など廃棄準備。 DVD映画「首都消失」一部。 本読みなど、19:00夕食、「アルプスの少女ハイジ」最終回となった。20:15就寝。歩行Σ1677Km。

歌謡曲の魅力(9) 時代を反映  「音頭からバラードへ」、「警官にたてつく」
 いま私は録りためた歌謡曲に索引を付けるために集中的に聴いている。その過程で普段聞く機会が乏しい曲にも触れる。歌謡曲は時代の動き、文化を表現していて面白い。

 ■「東京五輪音頭」 vs 「霧と虹のバラード」
 1964年、東京オリンピックが開かれた。その時に国民的に流行し、オリンピックを盛り上げたのがテーマソング「東京五輪音頭」であった。
 この曲は東京オリンピック開催の前年の6月に発表された。当時歌謡界の代表て歌手たちの歌手達による競作となったが三波春夫のレコードが最も枚数が多く販売された。私も橋幸夫盤、坂本九盤、北島三郎盤等を聞いた事があるが三波盤が最も力強い歌唱で、戦後はじめての国際的イベントを迎える世相の明るさ、力強さを表現仕切っていると思う。
 「音頭」とは曲の主要部分を独唱者が歌い、唱和者が斉唱する掛け合いがある。基本的に祭りなどの際に用いられる。歌うもの、聞く者共に前向きの気持ちにさせられる。だから、日本が高揚した東京オリンピックの時期は、やはり『音頭」がよかった。日本全体がその気にさせられた。
 1972年、札幌オリンピックが開催された。この時のテーマソングは「虹と霧のバラード」である。これも競作となったが最終的にトワ・エ・モワ盤が定着し大ヒットとなった。私も菅原洋一盤、左良直美盤を聞いた事があるが、トワ・エ・モワ盤は清楚で、静かな、雪の季節を思わせるた。
 「バラード」はゆったりとした静かな曲想、美しいメロディとハーモニー、感傷的な歌詞などを特徴とする楽曲である。東京オリンピックからわずか8年であるが、片や「音頭」でとても日本的、片やニューミュージック系の「バラード」で表現された。この間に日本は復興のレベルから経済大国に向かって邁進中であった。国民の多くが豊かになり、個人も文化も多様性を帯びてきた。急速は変化である。この時代から、演歌を中心として隆盛だった歌謡曲は衰退し、シンガーソングライター達の台頭が始まった。

■「若いおまわりさん」 vs 「ペッパー警部」
 1956年曽根史郎「若いお巡りさん」、1976年ピンクレディ「ペッパー警部」はともに大ヒットした曲である。公園にいる恋人達と巡視の警官との対話と言う共通の情景を歌っている。並べて聞くと面白い。20年の開きがあるが、これからも時代の変遷を読み取る事が出来る。

 1956年の頃までのわが国警察官は「おい、コラ!!!」的であったが、その頃からとても優しくなった。その事を風刺しているともとれない事はない。恋人達もより落ち着いた年齢の二人と類推できる。まだ夜も更けていない早い時間、多分警官の注意で歌詞のごとく大人しく帰宅したような感じである。

  もしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 日が暮れる  野暮な説教 するんじゃないがここらは近頃 物騒だ  話の続きは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える

 1976年になると恋人達はより若い年代である。恋の表現も直線的でより激しい。注意されても怖じ気つくどころか警察官に堂々と文句を言っている。多分夜も相当更けた時間と考えられるが、「何してても私たちの勝手でしょ。ほっといてよ」と反抗的である。もう何でも言える時代になった事の風刺でもあったように思う。

  ペッパー警部 邪魔をしないで ペッパー警部 私たちこれからいいところ
  愛しているよと 連発銃が私を殺してしまいそう ああ 負けそうよ
  都会の空では 奇跡のような  星空ひろがる夏の夜 ああ 夢みたい
  その時なの もしもし君たち帰りなさいと
  夢からうつつに戻されたのよアアア……
  ペッパー警部 邪魔をしないで ペッパー警部 私たちこれからいいところ


10/1 (火) 晴れ 外来 消費税8%増税表明 秋田市コインバス乗車可能に
 1:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。7:40徒歩病院着.回診他。8:45-13:00外来。レセプト対応。15:30千秋公園一回りし徒歩帰宅。庭の落ち葉掃除、DVD映画「リンダ・リンダ・ リンダ」途中まで。新聞入力、データ整理ほか。19:00夕食。20:45就寝。まだトランクスでOK。歩行計Σ1664Km。

コインバス乗車資格証明書の交付を受けた
 秋田市では高齢者コインバス事業がある。
 平成23年10月から満70歳以上の市民を対象に、市が交付する「コインバス資格証明書」を提示すると、市内の路線バス、マイタウンバスに現金100円で乗車できる制度が発足した。
 この事業を平成25年10月1日以降、要するに本日以降、満68歳以上の高齢者に引き下げた。2ヶ月ほど前に秋田市から私に「コインバス乗車資格証明書」取得の案内のはがきが来て私も対象になる事を初めて知った。先月末に交付を受けた。

 私は今春から徒歩通勤にしているが、雨のとき、体調がやや悪い時になどたまにバスも利用している。7月中には過度に歩いたためか右膝関節痛が生じ、数週間ほどは自転車とバスを利用した。今までバス通勤は20回程度だろうか。幸い膝痛は改善したのでその後バスはちょっと疎遠になっている。季節柄今後は少し頻度が増えるだろう。

 市は「エイジ・フレンドリーシティ」構想を掲げ、高齢者対策にも力を入れている。ならば、高齢者に分かりやすく日本語で表示すれば良い。68歳以上の市民がどの路線でも100円で乗れる制度は分かりやすく久々のヒット政策だと思う。 路線バスの業績は長期にわたって低迷を続けている。市ではコインバス対象者を拡大することバスの利用者が増え、運行業者の収益も上向くとみている。市では年間約1億円弱の負担金をバス会社に支払っている、とのこと。

 以前は高齢者に割引回数券を発行していたが、無くなる度に買い足す手間がいらなくなって評判は良い。開始後1年間で、バスの年間利用者は、中央交通が9.1%(約70万人)、マイタウン・バスも4.3%(約8千人)増えたという。バス利用者は子供、学生、高齢者が多いが、コインバス対象年齢の乗客のうち半数ほどが証明書を用いているという(データは朝日新聞秋田版)。確実に利用客は増えている。

 高齢者がこの制度を利用して行きたいところに気軽に行けるようになる意味は大きい。高齢者は移動の手段が乏しい。どうしても出不精になる。通院、買い物、ちょっとした気晴らし自転車は危険である。タクシーは高額である。バスは廉価で安全であるが距離によっては片道500円程度になる。これは結構大きい。だから、コインバスは救いになる。

 私にとってのバスは片道290円、滅多に乗らないのでそう負担ではない。当初は市に負担をかけるのではないかと思っていたが、折角の制度だし、一人でも多い方が市の為にもなる、と逆に考えて認定書交付を受けた。

 秋田市のバスはまだ一路線しか乗っていない。これを機会である、秋田市を知る為に全路線を乗ってみようと思っている。


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