2013年8月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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8/31(土)終日曇天膏雨
0:40起床、新聞・文献他、本読み。週末の休日をゆっくり過ごす。11;00書店他、石灯籠購入。他科依頼の準備2件。8:01こまち。8:45-15:00大曲中通病院外来。16:30帰院、17:00-19:00DVD映画裕次郎主演の「赤いハンカチ」見るも中断。古の日活アクション映画は入り込むのが難しい。次いでDVD映画「二つの祖国」途中まで。19:00夕食、20:30就寝。歩数計1356Km。
避難行動に反応しない住民(1)鹿角市の降雨の場合
8月17日午後、私は墓参り後の家族小旅行で東北自動車道上にいた。猊鼻渓を観たあと宿泊の夏油温泉に向かうためである。
奥州市水沢付近でそれまで晴天であったが、にわかにどす黒い雨雲が発生、突然バケツをひっくり返したような激しい降雨に遭遇した。ゲリラ的降雨である。こんな時は視界が濃霧の時の様に白く見え殆ど前が見えなくなる。ワイパーを最強にしても前が見えず、ハイドロプレーニング現象などで車のコントロールを失う可能性もあったために一時パーキングエリアで待機した。豪雨は15分くらいでさっと止み、晴天となった。1-2Km北上したらもう雨の痕跡も無かった。狭い範囲の降雨であった。これがゲリラ降雨の恐さでもある。
8月9日の秋田の県北、仙北地方の豪雨は時間的にも長かったであろうが、一時的にはこんな降り方だったのではなかろうか。国道13号線で雫石町では土砂崩れが何カ所かあった。如何に激しい降雨であったか、と思った。
この日、大館や鹿角市では避難勧告が出ていたと言うが、激しい降雨の下では避難行動自体が事故のもとになるのではないか、大雨による避難は激しい降雨や河川の増水などが生じてからでは危ない、前もっての避難でなければならない、と感じた。
9日の豪雨で、鹿角市は増水した福士川流域の1150世帯、2707人に避難勧告を出した。市内では床上26軒、床下186軒の浸水被害があったが、市が開設した避難所に避難した住民はわずか31人であった。
避難勧告は、市内でつながるほぼ全ての携帯電話にメールで送信、各自治会役員を含む約4千人の防災メール登縁者にも送られた。対象地域には広報車2台も出動した。にも拘らずこんな結果であった(データは魁新聞を参考にした)。
避難しなかった人も、それぞれに理由があったのだろう。
勧告警告を軽く聞き流した?家族の居場所が分からなかったなら、家を離れることをためらった?などなどあったのかもしれない。新聞から知る範囲では市はかなり真面目に対応した様に思われるが、今後の危機管理のために今回の避難の実態について市は詳しい事情調査をしておくべきであろう。
この調査自体が大きな広報活動になると考える。
8/30(金)曇天時折膏雨 大曲中通病院外来
0:40起床、新聞・文献他、本読み。ゴミ出し。7:30Taxi、8:03こまち、晴れ間あり徒歩病院、9:00-14:45大曲中通病院外来。徒歩駅に、16:45Taxi帰宅、DVD映画「明日への遺言」を見る。B級戦犯の岡田中将の裁判を扱った映画。19:00夕食、20:30就寝。
徒歩通勤(18) 偉人伊能忠敬(8) 宮城県北部を通過中 津波被災状況
私は4月7日以降、伊能忠敬が歩いたルートを辿って歩いている。現段階で伊能式積算歩数計はΣ1340Kmで、宮城県北部に入った。
(地図はグーグルから引用させていただいた。)
宮城県に入ったのは7月21日で、東京からΣ963Kmであったからその後は377kmを39日かけて歩いた事になる。一日平均9.7Kmであった。一時、漆関節痛のために一日7Kmまでペースを落としたが、8月6日以降は再び往復徒歩通勤可能になった。
福島県境から仙台港に至る県の南部の海岸線は地形的に単純であって距離も約40kmであるが、それ以北はリアス式海岸となるために海岸線は長く、仙台港から気仙沼市を経由して岩手県境まで約500kmもある。
宮城県について地図上で多少勉強した。
私にとって宮城県も仙台以外はあまり親しみがない。学会ほか医師会の仕事で毎月の様に行ったが用事のみでとんぼ返りであった。塩竈市、松島には小学校の修学旅行で訪れた。岩沼市は伝書鳩の岩沼盛岡間200kmレースのスタート地点で鳩を何度か送った事があって親しみを持っているが直接訪れたことはない。
仙台以南の海岸線は福島まで広大な仙台平野が広がる。この平野に山元町、岩沼市、名取市、仙台市がある。仙台市中心部はやや内陸部にあるが、若林区、宮城野区は海岸により近い。
東日本大震災について宮城県は全死亡者数の60%、1万人に近い。8月下旬時点での被害状況について調べてみた。
死亡者数、行方不明者は、■宮城県 (9417名、2291名) 、■岩手県 (4649名、1927名)、■福島県 (1603名、245名)である。
宮城県の津波による死亡者数、行方不明者数はリアス式海岸で複雑な地形である北部地域の被害が大きい。石巻市 (約3600名)、気仙沼市 (約1400名)、東松島市 (約1100名) 、女川町 (約900名)、南三陸町 (約850名) となっている。
平野にある山元町 (約800名) 、岩沼市 (約180名)、名取市(約1000名)、仙台市 (約850名) と続く。
市の中心にあると思われる役所の海抜を調べてみると、仙台市は46mと高いが、塩竈市、岩沼市、名取市、東松島市は海抜5m以下、石巻市の場合は約10mの所にある。これからも広い平野を津波が押し寄せてきた状況が推測できる。
私は大震災の後一年ほど被災者の数を毎週調べていたがしばらく中断していた。いまそれを調べていて4463名もの方々がまだ行方が分かっていないのを知り、改めて被害の大きさに驚いた。
宮城県の海岸線の長さは552Kmで、私の歩数計では岩手県境まであと150Kmほである。この付近と通過しながらその土地に関していろいろ調べてみたいと思っている。
8/29(木)早朝降雨・終日曇天、外来 職員検診
1:00起床。文献読み、PDF化他いつもの如し。ハトに給餌、7:50徒歩病院着、回診その他、8:45-13:00外来、13;15職員献身。2月に比し2Kg体重増。15:30徒歩帰宅。歌謡曲分類。2011−12年分は終了した。19:30夕食。20:10就寝。歩数計1340Km。
領土問題2013(3)中国を理解するために
中国の対応を理解するために、中国人を理解する為に、麗澤大学教授三潴正道氏は三つの側面から理解する必要があるとしている。■民族の歴史から、■商業民族、■礼儀、である。
■古くからの侵略の歴史ーー中国の歴史は異民族による侵略と占拠と言っていい。歴史に疎い私などとても覚えられない。そのために、何か事が起こると互いに連携して命がけの助け合いを行い、抵抗も行う。これが集団の抗議行動とかデモとか、破壊行動に結びつくのだろうか。中国人の絆の強さはいろんな場面で発揮されてきた。華僑の助け合いは有名である。
■商業民族であること。ただ、決して洗練された商売をする訳ではない。一部であろうが狡猾と言われかねない様相も持っている。贋作を本物と偽って販売する、会計の時に別物とすり替える、諸外国のコピー製品を作り販売する、製品の管理がずさん・・などなどである。
■人付き合いの礼儀に関しては、中国人の基本は、相手に自分の事を知ってもらうことにあり、自分の事を話し、相手の事を知り、その上での親密な付き合いと言う事になる。だから、中国人は自らを積極的に主張するし、初対面の相手であっても日本人では考えられないようないろんな事を微に入り細に入り質問して来る、という。この習慣は諸外国人には理解されがたい。北京五輪の際しては初対面の人に根掘り葉掘り聞き出すのは良くない、と人民日報の一面に注意を換気する記事が掲載された、と言う。
さらに、中国は周辺国とトラブルを抱えているが、国益がらみの内容に関してはかなり強硬であり、相手国によってダブルスタンダードを使い分けて迫っている。例えば、領海の設定は日本に対して大陸棚を主張し、ベトナムに対しては距離の中央を主張する。大陸棚を基準にすると不利だからである。このように、国益が絡んでいると中国は一貫性がない論理を上げてくる。
このような国、文化を有する中国にわが国の論理がそのまま通用すると考えてはならないようである。
尖閣諸島に関しては、時間を戻して結論をうやむやにして凍結するしか無いだろう。中国側は軍備増強で脅しをかけて来るだろうが、日本側の姿勢は変える必要は無い。中国側が一方的に強行に主張してきた以上、何処かで線引きしなければ解決しない。「中国は尖閣問題について日本に領有権を主張する権利がある」と表明し「未来永劫、請求権がある」と言うことを明確にすることが最低限の条件だろうが、日本は領土問題は存在しないと表明しており現状では解決の糸口は無い。
8/28(水)夜半に激しい雨 快晴 外来
23:00激しい雨、戸締まりのために起床、そのまま起きる。文献・新聞ほか大量処理。3:30微睡。7:45ハト給餌後病院着。回診他病棟業務。8:45-13:00外来。書類等処理。15:30徒歩帰宅。新聞検討、DVD「二つの祖国」一部見る。19:00夕食、20:45就寝。歩数計1326Km。
領土問題2013(2)中国の対応を理解する困難さ
中国の対日対応はには理解を超えたものがあり驚かされる。
私は中国人に友人も知人も居ない。だから中国人の考え方などはメディアから受け取っている知識しか無いが、中国人との付き合いは大変なようである。進出企業であっても中国を理解するのが困難で、いろいろな歪みや問題点が生じているようである。国家としての姿勢を見てもなかなか日本人には解りがたい。
一例として2010年9月7日に起きた漁船の衝突事件を見る。この事件の対応においてわが国と中国の政府の対応に大きな違いがあった。多分、わが国の国民は中国の対応について驚きと不快感を抱いたことだと思われる。
沖縄県の尖閣諸島は日本、中国、台湾が領有権を主張している。一方、現在は中国の沿岸漁業は乱獲で壊滅状態にあり、漁民は各国の領海で違法操業している。そうでもしなければ漁民は生活できない所まで追い込まれているのだ、と言う。
違法操業していた中国のトロール漁船が、海上保安庁の巡視船の再三の停船命令を無視したばかりでなく、巡視船2隻に衝突した。後に明らかになった画像を見る限り故意で船をぶつけてきたとしか思えない。
第11管区海上保安本部は8日、船長を公務執行妨害で逮捕した。25日に那覇地方検察庁は処分保留のままで船長を釈放した。中国政府は間髪を入れずわが国に対し謝罪と賠償を要求してきた。そればかりでなく、中国では逮捕直後、要人の訪日中止、東シナ海ガス田交渉の延期、レアアース等の実質的輸入禁止、などを表明し日本政府に揺さぶりをかけた。中国国内では大規模な反日デモが起った。観光や民間交流にも大きな影響が出た。
中国には謝らない文化、罪を認めない文化がある。日本人にとっては「謝ること」は「トラブルの収束に向かう」ためのスタートである。中国人にとっては「争いの開始のサイン」ととる。だから、中国人は例え目撃されてたことでも誤らない。トロール船の船長は一切を認めなかったと言う。
日本側は両国の関係を友好的に済まそうと考え、漁船の船長を釈放した。一切を認めなかった船長は帰国後英雄扱いであった。中国政府は謝罪と賠償を要求してきたが、その見解は「釈放されたことは罪が無いことであり、いわれの無い逮捕への抗議すると共に事件一切に関する損害を日本政府が負うべき」との立場であった。また、中国国民に対してその事実関係を毅然として表明した、と言うことである。勿論、日本側はこれには応じていない。中国政府はその数日後、「中国はこの問題について日本に賠償を要求する権利がある」と表明した。「権利がある」と言うことは「未来永劫、請求権がある」と言うことを公式に通達したこととなる。
このような考え方を理解することは困難である。こんな思考をする中国を相手に領土問題で対峙することは、日本人側から見た正当な論理では通用しないと言うことである。大変な相手である。
8/27(火)快晴 残暑 外来
0:00起床,論文読み、データ処理・整理他、5:45家庭ゴミ出し。畠収穫。7:45ハトに給餌後病院着.回診、8:45-12:45外来。15:15徒歩帰宅。新聞・本読みなど。DVD「226」、「眉山1」の続き、終了。19:00夕食、20;45就寝。歩数計1312Km。地図上では仙台市、石巻市を過ぎ牡鹿半島付近。リアス式海岸なので岩手までまだ220Km。
領土問題2013(1)昨年からの動き
昨年7月、ロシアのメドベージェフ首相が北方領土の国後島を訪問し、領土問題は一切譲歩しないと明言した。ロシアでは日本の変換要求に対して首相や大統領による表明は時折見られるが、国民世論などどうなっているか、新聞レベルでは情報はあまり得られない。現在住んでいる住民の意見は時折伝えられることは、一般的に静かに見える。ロシア国民にとってそれほど関心のある話題ではないのでは?
首相の訪問は世論喚起のためではないのだろうか。
8月、韓国の李明博大統領が竹島を訪問した。さらに天皇訪韓の条件として植民地支配の謝罪を入れた。さらに、一連の行動に対して遺憾の意を評した野田首相の親書を送り返した。ことで大統領の支持率は一気に70%台にまで上昇し、両国の関係は一層悪化、高官協議や民間レベルの対話等が延期となった。
一国のリーダーが、政治がナショナリズムをあおると危険である。韓国では朴大統領が誕生した。新大統領は日本との関係を重視すると言う発言が見られるが実際のところ関係改善の兆しは見えていない。韓国はむしろ中国と接近しつつある。
尖閣に関して日本が国有化を表明してから台湾、中国で抗議運動が高まったが8月15日香港の活動家14人が接近し、うち7人が上陸した。沖縄県警は出入国管理法違反逮捕したが17日に強制送還した。これに対して台湾、中国で抗議行動が全土で起こり日本関連の商店、企業などが破壊された。9月11日に日本は尖閣諸島を国有化した。この後中国では反日暴動が激化した。
領土問題は最もナショナリズムを刺激しやすい対象である。領有権を主張している国では異議を唱える国民は殆ど居ない。わが国の国民で竹島が、尖閣が日本の固有の領土でないと主張を展開している方を私は知らない。国土の領有権を否定することは国家としての主権を否定することに等しく、自らの立場の否定にもつながる。
顧みてわが国の世論はどうだろうか。ロシア、韓国、中国、台湾の一連の行動をにたいして多くは不快の念を持っているだろう。ヘイトスピーチ等問題になっているものの抗議行動などは少ない。領土問題を抱える二国間の歴史認識の差がなせる結果であろうが、いつまでも「認識」で論じているうちは両国間のずれは永遠に続く。
解決のためには「史実」を解明する努力が二国間で必要である。
8/26(月)曇りのち晴れ、暑い 外来
1:00 起床。文献・新聞、医学論文チェック、その他。徒歩、ハトに給餌、7:50病院着。回診等、8:45-12;30外来、混雑せず、書類処理他。15:00徒歩帰宅、新聞チェック後睡魔に負ける。1時間ほど午睡。19:0夕食、20:45就寝。歩数計1292Km。
書評: 「葉っぱのふしぎ」田中 修著 2008年4月 ソフトバンククリエイティブKK 952円
一昨年から花壇、庭、畠作りをしている。植物に対しても興味を抱く様になってきた。何でも興味を抱いて進めると苦労が苦労でなくなる。むしろ毎日の作業が新たな刺激になる。これは重要なことである。積極的に集めている訳ではないが新聞雑誌等で、あるいは識者の講演、お話とか目に触れる機会も多くなる。学校の勉強は辛かったが、自発的な勉強はとても楽しい。
2010年1月4日ラジオ深夜便の4:00amこころの時代で甲南大学田中修教授の「葉っぱの不思議」と言う話を聞いた。実に興味深い内容をお話しされた。私が今まで「植物から学ぶ」として取り上げたげた「植物と色彩」「植物と温度管理」「植物と日照時間」はこの放送を聴いたことがきっかけとなって若干調べた結果である。
やはり、耳学問だけでは不足で体系だった書籍が欲しくなってこの本を買い求めた。
著者の田中氏は私とほぼ同年代、京大農学部卒、現在は甲南大学理工学部教授。「花のふしぎ100」「雑草の話し」「ふしぎの植物学」等々の著書が多数ある。
植物の葉っぱを知ることは自然や生命現象の原点を知ることでもある。
本書は、葉っぱの機能を解りやすく解き明かしている。本の構成は左のページに説明文、右のページに図解があってとても理解しやすい。
話題は7つの項目に分類され解説される。■葉っぱがおこしたミステリー、■時を刻む葉っぱ、■光の色を見分ける葉っぱ、■働き者の葉っぱ、■葉っぱのパワー、■葉っぱの悩み、■葉っぱの運動。
植物の活動の基本は、■太陽、■炭酸ガス、■水の存在のもとで行われる光合成である。私は光が必須だと思っていたのであるが、光合成には「光が必要な明反応」と「不要な暗反応」があることなどはこの本を読むまで知らなかった。暗反応では、明反応で得られた物質と炭酸ガスから糖が生成されるのだ、とのこと。
明反応は太陽光発電の様なものだが、二酸化炭素不足のために太陽のエネルギーの3分の1しか利用出来ない。それでも太陽光発電より効率が高い。植物は常に二酸化炭素不足にあるらしい。
「光呼吸」という機能も知った。大気中の二酸化炭素は0.04%ほどしか無く、植物はもっと多くの炭酸ガスを欲している。太陽のエネルギーが炭酸ガス不足で十分に利用されない状態では、植物に有害な活性酸素が生じてくる。この様なときには植物が自ら代謝を変えて二酸化炭素を発生させて自らを守っている。
この本を通じて植物の「葉の機能」についていろいろ勉強できた。初心者の私にとって驚くことばかりであった。
8/25(日)快晴・降雨2回・暑い 県立博物館・鉄道展
1:00飯川病院で起床、新聞/文献チェック。本読み。データ整理。9:00病院をでて数100mでにわかに暗くなり15分ほど激しい降雨。家内の迎えあり帰宅。3週間ほど帰秋していた長女と孫、迎えの夫とともに横浜に。寂しくなった。自宅の整理など。飯川病院日直。昼頃から畠の草刈り。14:00自転車で県立博物館に向かうも1Kmほどでにわかに曇る。激しい降雨。15:00-16:60車で県立博物館・鉄道展に。本読み。19:00夕食。20:30就寝。
墓参り2013(5)夏油温泉郷の瀬美温泉
年に一度の墓参りはその前後岩手の保養地で宿泊して家族の親交を深める。
今年は私のスケジュール調整の関係で計画が出遅れた。沿岸地方への訪問の希望もあったが、「あまちゃん」効果なのか、適当な宿泊地が見つからず、県南地方へ足を伸ばす事とした。私は岩手生まれ育ちであるがこの地をウロウロするのは初めてである。
一泊目は志戸平温泉、2泊目は夏油温泉郷をとった。私は聞いたことも無い地名であった。その時の印象は、ひなびた、民宿レベルかな?と思っていた。
実際には夏油温泉郷のなかの一つの瀬美温泉であった。瀬美温泉の歴史は約850年前にさかのぼるらしい。昔は白猿の湯と呼ばれ。その後、獄の湯となり、現在は夏油温泉郷の瀬美温泉と呼ばれている。
東北自動車道の北上江釣子ICを降り、国道107号線から県道122号沿って走行、20分ほどで到着した。
付近に夏油高原スキー場がある。客室は37と意外と大きかった。浴室も凝った作りであった。私どもは特別室2室を使わせてもらった。夕食、朝食は予想以上の質で満足できた。ただし、お値段もそれなりで、前泊の志度平ホテルの倍近くであった。
瀬美温泉には人家も少なく、旅館は私が見た所本館新館からなる桐の花・山吹の花と言う一軒だけのように見えた。(瀬美温泉旅館は桐の花・山吹の花)
私ども家族の中でこの温泉郷を知っていたのは次男の嫁さんだけで、独身のときに仲間で何度もスキーに来たことがあると言う。若い女性型の行動力には驚いてしまう。
三日目は、奥州市の後藤新平記念館、田んぼアート、奥州宇宙遊学館を見学した。
旧水沢市には国立緯度観測所(明治32年設置)があることは子ども頃から知っていたが、具体的どんな施設で何を観測していたのかなど全く知らなかった。
奥州宇宙遊学館館は、緯度観測所の建物をそのまま用いているとのこと。時代を感じさせる一方、とてもモダーンな印象の建物である。(奥州宇宙遊学館ーHPより借用)
展示室は決して広くはないが、国立天文台プロジェクトが開発した4次元デジタルシアターのほか、宇宙科学の不思議を見たり触ったりすることができる展示品が所狭しと並んでいた。また、天文台やJAXAの最先端装置の展示もあった。
短時間で、かつ孫同伴であったためにはホンの一部しか見ることが出来なかった。いつか再訪問をし、じっくり見直したいと思いつつ帰路についた。
年に一度の墓参りとその後の小旅行は毎年いろいろな思い出作りにも役立っている。今年の状況を一言で表すと何事も3人の孫中心であった。3人を中心に大人達が和み、時にその旺盛な行動力に翻弄された。
ともあれ、今年の行事の一つが無事終了した。
8/24(土)早朝降雨 午前から快晴 映画「ひまわり」 飯川病院日当直
1:30 起床、文献・新聞チェック等、週末の時間を楽しむ。10:00文化会館へ、10:30−12:20 映画「ひまわり」、ドラマ化が見ててつらかった。Taxiで飯川病院に移動、日当直業務に就く。蓄積データ整理に集中。日差しを浴びれず残念。第87回全国花火競技会は天候に恵まれてよかった。 18:00検食。読書三昧。21:30就寝。
映画「ひまわり--沖縄は忘れないあの日の空を」 沖縄復帰40年企画作品
映画「ひまわり」秋田上映する会の主催による上映会が8月24日秋田市文化会館で行われて見に行った。関心があるテーマだったからである。
■1959年6月、沖縄・宮森小学校に操縦不能となった米軍ジェット機が墜落し、学童11名、近隣住民6名が犠牲となった。
パイロットは民家のない方向に機種を向けた後脱出したが、機は旋回し、民家を次々となぎ倒した後、小学校に突っ込んだ。重軽傷者210人、校舎3棟、民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。
この宮森小の事故は我が国の航空機事故としても注目されるべき事故であるが、当時は、沖縄は米軍統治下にあったこともあり、本土では殆ど知られていない。
■2004年に 沖縄国際大学に米軍ヘリコプタが墜落した。
乗員3名は負傷したが、幸い住民や学生・職員に犠牲者はでなかった。原因は整備不良。沖縄県で住宅地に米軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めてであった。事故直後、米軍が現場を封鎖し、日本の警察・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかった。さらに機にストロンチウム90が含まれる部品が6個装着されていたが、1つが事故で損壊した疑いが持たれた。米軍によって機体のほか土壌も回収され、真相は不明である。この事件の処理に対する抗議は現在も続いている。
私が宮森小学校の惨事について知ったのはラジオ深夜便である。
平成10年2月5日宮森小学校校長平良嘉男氏の「5 0年たっても・・」と 題するお話を聞き、それまで知らずに不勉強を恥じた。平良氏は当時最も犠牲者が多かった2年生の生還者の1人である。 もう一本、平成10年6月19日に放送された石川宮森会会長豊浜光輝氏の「沖縄で生きる」も、沖縄住民でなくては語れぬような深い内容で忘れることが出来ないお話であった。
この映画は後者の墜落事件にも触れているが、主に前者の事件をめぐって、基地と住民との関わりについての問題を提起する為にドラマ仕立てされた作品である。よく出来た映画だと思うが、私はドラマ調よりももっとドキュメンタリーに近い部分を濃厚に取り入れてほしいと思った。
沖縄では嘉手納基地の移転問題も暗礁に乗り上げている最中、昨年からオスプレイが配備され、最近さらにその機が増やされた。県民は、オスプレイ配備に反対し続けている。そんな中本年8月5日、キャンプ・ハンセン内の演習場で、救難ヘリHH-60が訓練中に墜落し乗員4人中1人が死亡、3人が負傷した。原因不明のまま同型機の訓練が再開されているなど不安が高まっている。
沖縄県民の気持ちには到底なり得ないが、少しでも近づくために沖縄に関する記事や論評から目が離せない。本作を通して沖縄について、米軍基地問題について、認識は一歩進んだと思う。
8/23(金)曇り、時に降雨 大曲中通病院外来
1:00起床、新聞・文献他いつものごとし。7:40Taxi、8:02こまち。徒歩病院へ。明日の花火の準備が方々に見える。8:45-15:00大曲中通病院外来。帰路、町の様相は一変していた。16:30Taxi帰院、夕方から降雨、19:00夕食、20:30就寝。
大仙市大曲 明日の全国花火競技大会で様相が一変
昨年4月から大曲中通病院の内科外来を週一回手伝っている。
法人内の医師不足のためである。状況に応じて法人内の施設の診療応援をするのは当然であるが、私の診療が本当に必要なのだろうか。疑問である。だから、往復2時間ほどの移動はストレスである。とりわけ冬期間が厳しい。
春から駅と病院間は歩く。街路には人影が殆ど見られないのは異様な感じである。この1年余の間に閉鎖した店舗も2,3見られる。スーパーなどの様子は分からないが、町中の商店にも活力が乏しい。にも関わらす病院の外来は高齢の患者を中心に混雑している。どこからわいてきたのか、と思う。
本日の帰路は町中の様相が一変していた。
明日は第87回全国花火競技会が行われる日である。観光客がメインストリートを大勢歩いているし、駅舎内や周辺は車や人で溢れていた。下りの新幹線からは通常の数倍の乗客が降りてきた。年に一回、町が活気づく時期である。本日の天候は時折雨も降りはっきりしないが、幸い明日は徐々に晴れて行くと予想されている。先の京都の露天で生じた爆発事故等の事故もなく、無事に運営される様願っている。
大曲の花火は数回見たが、実に素晴らしい。明日の競技会は雄物川河川敷で1.8万発の花火が予定されている。今年は80万人の人出が予想されるという。 桟敷席は2.1万席で今年から禁煙となった。初秋の夜空にあがる花火を楽しみたいが、会場の人ごみ、交通渋滞を考えると二の足を踏む。
ところで、大曲駅ではこまちが発車する直前に、まだ私がホーム上を歩いているうちに、ホームのスピーカーから20秒ほど「民謡と思われる雑音」が鳴りだす。私はヘッドフォンで消音しているがそれでも突然の大音量はつらい。この地方の民謡の一節らしい。1年余耐えてきたが、つくづくイヤになった。こんな雑音を平然と流している駅関係者の無神経さに腹が立つ。さりとて車で来るのはもっと嫌だから何ともしようがない。聞きたくないから診療応援をやめたいのであるが、こんな理由など法人には通用しないだろう。ただ、私は真剣である。
駅にお願いしたい。民謡まがいの雑音を鳴らすのをやめるか、100歩譲ってせめて音楽に聞こえるレベルの機器に変更し、小音量でならすよう求めたい。世の中うるさすぎる。
8/22(木)雨のち晴れ夕方降雨 外来
1:45起床。医学論文、新聞チェック、般若心経関連本読む。6:45徒歩で向かったが数100mほどから大降り、戻ってプリウスで出勤、7:15病院着、回診その他、8:45-13:30外来、ドック判定。15:30徒歩帰宅。自動販売機のつり不足。19:00夕食。20:50就寝。歩数計1258Km。
参議院は何のためにあるのか?
昨年12月の衆院選、先の参院選は、ともに自民、公明の与党が圧勝して国会の「ねじれ」は解消なった。野党の力不足、足並みの乱れるから棚ぼた式に自公が票を獲得した。ねじれの解消は安倍首相の大きな目標であり、それをなし得たことは与党側から見れば大きな業績となろう。
しかし、政治そのもの、議会民主主義を考えたときにこれで良かったのか疑問である。参議院は衆議院のコピーになりそうである。
参議院はあるべき機能を果たしていない。あらためて参議院の存在意義と役割を見直してみる必要がある。
私は中学の頃、参議院は「良識の府」であると学んで来た。衆議院は必ずしも「良識の府」でないからだろう。
参議院は、衆議院で議決された議案が果たして正道にかなっものなのか、倫理性・論理性の立場から見て正当なのか等の検討を加える存在である。本来、参院の議員は政党色の薄い学者や評論家らによって構成され、その中での議論は、党利党略に偏らないものであるべきである。
最近の参議院議員は各党の党員であり衆議院と変わりがない。せめてねじれていれぱ、野党側の奮闘によって衆議院の結論の一方通行を阻止することもあり得る。ねじれがなくなれば、与党の即断政治がまかり通る。野党側が力を発揮する場も乏しくなる。
ねじれていれば存在意義が高く、ねじれが無ければ低いでは情けない。議員一人一人の存在意義も同じである。参議院の存在は「多様な民意の反映」、「衆議院の監視役」としての機能の維持である。 少なくとも党利党略の傀儡であってはならない。
諸外国では、議員は政党に属していても政策に関しては自主投票だ、と聞いたことがある。我が国では党の方針に逆らって投票した議員は懲罰、除名の対象になる。これではまともな議論は出来無い。参議院には解散がなく、議員の任期は6年である。この長期の身分の違いを背景に衆議院議員とは何らかの差別化が必要である。参議院議員は採決に関して自主投票を原則にしてはどうだろうか。
8/21(水)晴れ 外来 飯川病院
1:00起床。文献他。涼風、寂しい。6:45-7:45徒歩病院着。回診、8:45-14:00外来。混雑。13:45-17:00飯川病院代診、院長講演との事。18:00書店その他に立寄り家内の車で帰宅。庭・畠に散水、新聞、文献処理。19:00夕食、20:20就寝。歩数計1248Km。
家庭菜園2013(1) キウリに追いかけられる日々、でもみそ汁がおいしい
数年前から家内が近所の方から借りた畠で野菜を作っている。私が第一線にいた間は直接手伝うことはなかった。適宜、親戚の農家の方の手を借りていたようである。
一昨年、退職してから私の労力がアテにされ、彼女は退化して口を出すだけとなった。
いつも5月GWに,キウリ、トマト、大豆、ナスなどの苗を植えつけていたが今年は家内の体調の事もあって、また低温が続くために植え付けは3週間ほど遅れた。大豆だけは種の直播としたが発芽率が約3割と悪く失敗した。連作のためだったのだろうか。7月中旬にミニカップに種を播き、発芽、成長させたてから再度植え付けた。 だからまだ収穫できていない。
7月下旬頃からナス、キウリ、トマトが収穫できている。次々と実をつけ収穫に追われている。8月下旬になってそろそろ終わりになる。キウリは毎日の如く一夜漬け、サラダ、味噌汁、酢の物等で消費しているのだが、毎朝、台所の脇のカウンターに採り立てのが次々と並ぶ。
私はキウリのみそ汁が大好きである。この季節ほぼ連日食べる。と、いっても私だけしか食べない。こんなに美味しいのに家族は一切箸を付けない。私は幼少の頃から親しんできたおふくろの味の一つである。余所で話題にしても耳を疑われ、びっくりされるだけである。狭い範囲での判断であるが、少なくとも秋田ではキウリをみそ汁にして食べる習慣はないようである。
キウリの良さは、■生でも食べられる手軽さ、■シャキシャキとした食感、■季節感、涼感を演出する緑の色合い、■他の食材を邪魔しない淡白な味であろう。これがみそ汁にすると食感と色調は失われる。要するに、みそ汁にするとキウリの良さが失われるからであろう。
我が家ではタイムリーに収穫出来ず巨大化したキウリ、時にはあえて過熟させたキウリをみそ汁に用いる。皮は厚く硬く、しまった肉質がうすい味噌味にすると引き立つ。たっぷり具を入れるからお椀では面倒、ラーメンどんぶりに盛って食べる。時はごはん代わりにもする。
「県民ごはん作ってみました」と言う本を入手した( もぐら著、大和出版)。それによると富山県の東部の方ではみそ汁の具にキウリを用いる食習慣があり、それに相応しい「どっこキウリ」、「富山三尺」と言う超大型のキウリも流通しているそうだ。
スーパー等で売っている標準的なキウリはみそ汁には向かない。だからといって過熟したキウリは流通していない。プランターで栽培して大きくして食べる事を推奨したい。
8/20(火)夜半まで雨、曇りのち晴れ 外来
1:00起床,文献・新聞ほか。早朝涼風、むしろ寒い。初めてTシャツ着用、普段は裸。5:50家庭ゴミ処理。7:00-8:00徒歩病院。回診他病棟業務。
8:45-13:20外来。盆の翌週で混雑。楽あれば苦あり。15:30徒歩帰宅。DVD「青い山脈」終了「ピンポン」に。新聞、医学雑誌読書。17:00夕食、20:45就寝。
墓参り2013(4)三日目 後藤新平記念館 田んぼアート
岩手県は歴史に名を残すべき人材を沢山輩出しているが、十分に知れ渡っている訳ではない。
昨年記念館を訪問した新渡戸稲造は国際的に評価されても良い業績を上げ、5000円札の肖像として用いられているにもかかわらず、「しんとと稲造」「にいとと稲造」などと誤って呼ばれることもあると言う(藤井著:新渡戸稲造75話)。
今回、私どもは後藤新平の足跡を学ぶために記念館を訪れた。
後藤新平(1857−1929)は現奥州市に生まれ、須賀川医学校を卒業した医師である。24歳で愛知県の病院院長兼愛知医学校校長となった。如何に優秀であったか、驚かされる。
36歳で内務省衛生局長、台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁として多いに実績をあげ、逓信、内務、外務大臣を務めた。鉄道が国有化された明治41年、初代の鉄道院総裁に就任した。拓殖大学学長も歴任した。
また、東京市長となり国家予算15億円のとき9億円もの予算を要する近代化案を作成し大風呂敷と言われた。市長退任後の大正12年、関東大震災が起こり一面焼け野原となった東京の帝都復興院総裁として復興に尽力した。
晩年には「ラジオ放送」、「家庭の電化事業」、「ポーイスカウト」の指導にあたったほか、「政治の倫理化」を唱えた。昭和4年71歳で死去した。
新平の計画はすべて100年先を見通した大計であり、今日の新幹線や高速道路、都市計画から家庭の電化生活に至るまで新平の大構想にあった。新平の大構想は議会などの賛意を得られず縮小せざるをえなかったが、東京の都市計画の中に生かされている。その先見性には驚かざるを得ない。
また新平の生涯の足跡をざっと辿ってみただけでも多彩な業績に驚かされる。如何に優秀だったとはいえ、誰にとっても時間は平等に経過する。彼の一生は休息の間もない、常に全力投球をし続けたように思われ、生涯持ち続けた意志の強さにも感嘆した。
後藤新平、斉藤実、高野長英は岩手県奥州市水沢の三大偉人と言われている。いずれも記念館があるが、今回は時間の関係で後藤新平記念館だけとした。楽しみを残してきた、と言う感じである。いずれ訪れたい。
(2)田んぼアート
美人画 | バイキンマン |
奥州市水沢の跡呂井地区は水と気象に恵まれ岩手県内でも有数の穀倉地帯である。この地で田んぼアートが行われている事を知り見に行った。10mほどの櫓の上から「美人画」、と「バイキンマン」の絵が描かれており孫たちが大喜びであった。
目的とかはわからないが、地区内外から多数のボランティアが参加して田植えを行ったのだそうだ。
8/19(月)曇り後雨、時に激しい
2:20 起床、小旅行の荷物整理、文献チェック他いつもの如く。 7:00畠、2泊3日の小旅行なのに、畠には巨大キウリが多数ぶら下がっていた。ほぼ終日、各種データ整理、家内の講演準備補助。雨読。19:00夕食。20:10就眠。歩数計1229Km。
歌謡曲の魅力(7) 映画俳優の歌の魅力
6月下旬から私は歌謡曲を集中的に聴いている。約2年前からFMのラジオ深夜便「日本の歌」をハードディスクに蓄積しパソコンで管理しているが、この間約5.000曲となった。これらの曲のデータベース化、インデックス作りを始めたからである。
この2ヶ月で14ヶ月分の作業が終了した。約3.000曲のを聴き直した。インデックス作りだから全曲聴き直している訳ではなく、好まない曲は冒頭を聴いてスキップしている。この作業はTPOにあわせ、iPodを自宅や病院の再生装置に、あるいはヘッドフォンに、ミニステレオなどにつないで進めている。
3.000曲分は曲名で検索をかけると瞬時に探し出すことが出来る。3年ほど前に同じ作業したので併せると6.000曲くらいになるはずである。この中でかなりの曲が方々にだぶっているから、実質的には8割くらいの曲である。
早朝の番組で、高齢の方々向き選曲のためにやや古めの曲が多いが、これは私にとっても都合が良い。
この番組の人気のトップは女性では美空ひばり、男性では石原裕次郎である。
裕次郎は「自分は歌手ではない、子供の頃から歌が大好きであっただけ」と言うのが口癖だったと言うが、なかなかどうして見事な歌唱力である。勿論プロとは一線を画すと思うが独特の世界を形成している。かなりの上がり症のためにレコーディングのときにはビールを飲んで臨んだと言う。
私はかつては裕次郎の歌をそんなに好きでなかったが、この作業を通じて見直した。とても良い、と思う。スローなムード歌謡的な作品が特に良いと思うし、彼の曲にはサックスの伴奏が特に似合う。「錆びたナイフ」「銀座の恋の物語」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜も有難う」・・等、オリジナル曲が約350曲、カバー曲が約200曲あるとされ、全体の売り上げは5000万枚近くに達している、と言うから驚いてしまう。
裕次郎に限らず、俳優の歌はとても情感豊かである。やはり、歌の内容にそった役柄になりきる演技力、言葉による表現力が優れていて、それが生きていると思う。私の知っている範囲でざっと挙げると、高峰美枝子、西田敏行、松坂慶子、高田浩吉、森繁久彌、鶴田浩二、小林旭・・・である。さらに俳優のが歌う曲は、比較的テンポが遅く、音域が狭く、難解な歌い回しが少ないから、とても歌いやすい。それが人気の秘密の一つなのだろう。
8/18(日)晴れ 暑い日 後藤新平記念館 田んぼアート 奥州宇宙遊学館 帰秋
2:00夏油温泉にて起床。部屋にて読書など、入浴数回。8:00朝食他。11:00後藤新平記念館。昼食後田んぼアート、奥州宇宙遊学館へ。15:40水沢江刺駅にて長女の夫横浜に。息子一家は新幹線で帰秋する家内とともに盛岡に。私は長女と孫の侑奈を連れ兄宅訪問。兄は比較的良い状況にあると見受けられた。21:00帰宅、軽夕食、21:45疲れ果てて就寝。歩数計1225Km。
墓参り2013(3)二日目 賢治記念館 厳美渓
墓参り後は家族揃っての小旅行が恒例となっている。
今年も三陸へと希望があった。私にとって医師としてスタートした地であり、長女が生まれた地であることなどから、三陸地方は愛着がある。津波からの復興には私も参加しているのでその様子も見たかった。が、 あまちゃん効果で混雑が予想され、今回は岩手の県南地方に足を伸ばした。
乳幼児3人含む10人での移動である。何をするにも時間がかかる。ホテルのチェックアウトが11:00と言うのは有り難かった。朝ゆったりと過ごしたが、この時間帯、花巻東と愛媛の済美高校の対戦があった。後半戦から見たが、延長戦を制して花巻が勝利した。薄氷を踏むような場面は何度も迎えたが、見事な試合であった。旅行中にその地の高校の対戦が、しかも勝利した試合を見れるなど、そうあることではなかろう。花巻市内が何となく明るく活気が漲っているように感じられた。
17日はまず賢治記念館を訪れた。
私にとっては2回目、7-8年振りである。相変わらずの人出で駐車場も満杯、坂道の下の駐車場しか確保できなかった。子連れで困ったが幸い記念館と駐車場の間にはシャトルバスが運行されており助かった。
記念館は老若男女で賢治が年代を問わず広く支持されていることが分かる。同じ東北の青年であった太宰の場合には、近年、人気に陰りが出てきている様であるが、ファンは圧倒的に20代の男女が多いとされる。私にとっての賢治と太宰は、いまのところ違いが大きい。後者は私小説的作品が多いのに対し、賢治のはロマンにあふれている。その程度である。賢治の直筆原稿が多数陳列されていたが、書き込み、校正の後が著しい。書いているうちに次々と発想が浮かんでくるからなのだろう。これほど加筆しても論旨が乱れないのには驚く。
賢治の作品は世代、年代を超えて読まれている他、広く諸外国でも読まれている。何故なのか?
いま太宰を再読中であるが、いずれ賢治に再挑戦するつもりである。
夕方、一関近郊の厳美渓を訪れた。
(にぎわう賢治記念館) | (上流側を見る) | (下流側を見る) |
両岸が岩石からなる渓谷を散策しようと期待していたのであるが、残念、一カ所の、足場の良い場所からしか景観を見ることが出来なかった。上流下流方面は通行禁止となっていて、奥入瀬渓流をイメージしていた私の夢はもろくも崩れ去った。ならばせめて名物の、綱渡りしてくるという「渓谷まんじゅう」でも・・と思ったがこれも売り切れ、私は気落ちして次の宿泊地に向かった。
8/17(土)晴れ一時激しい降雨 志戸平→賢治記念館→厳美渓→夏油温泉へ
0:00志戸平ホテルにて起床。ロビーのコーナーを借りにて新聞チェック、読書、DVDにて乃木大将関連の「203高地」、2,26事件を扱った「226」など見ながら6:00まで過ごす、入浴数回。8:00朝食他。11:00賢治記念館→厳美渓へ。16:00頃高速道路走行中に短時間ながらゲリラ的降雨に遭遇、ワイパー最強にしても前が見えず、一時パーキングエリアで待機。18:00宿泊の夏油温泉着。19:30夕食、21:00就寝。歩数計1220Km。
墓参り2013(2)初日 途中で見た一周間前のゲリラ豪雨の傷跡
今回の墓参りは一週間前にゲリラ豪雨があり仙北地方で大きな被害が出たほか、新幹線の運休、国道46号線の不通などがあった。新幹線は三日間運休、46号線もほぼ同じく開通したが岩手県側で何カ所か片側交互通行になっているという。
片側交互通行の詳細が解らないために、秋田道経由で北上まで行き、盛岡近郊まで戻って墓参するルートも考えたが、片側交互通行で30分ロスしたとしても46号線経由の方が距離的にベターと考えこちらを選択した。
仙岩峠までは殆ど問題がなかったが、峠を抜け、雫石に入った頃からは道路から垣間見える雫石川は汚く濁り、所々に流木が引っかかり、この地域で豪雨の被害が大きかった事が類推出来た。46号線沿いの急峻な崖は5ヶ所ほどで木々を巻き込んでの土砂崩れがありこれで国道が寸断された。今は片側通行できる様に路上の土砂の一部は片付けられ、土嚢が積み上げられ、通行が出来る車幅が確保されていた。それにしても土砂崩れの威力は大変なものである。植樹された杉はかなり径30cmはあろうかと思う立派な機に育っていたが、根こそぎ流され、崖の地肌が露出、杉の木は皮がはげ落ち、無惨に折れ曲がっていた。
私は斜面に植樹をすることで地中深く張られた根によって崖崩れがかなり予防できると教わっていたが、決して万全なのではなくその効果も程度次第であることを知った。仙北の土石流の規模は映像で見た範囲からの推定で、46号線わきのに比較して数100倍〜数千倍も大規模だったと考えられるが、自然の脅威、パワーは凄まじいものだ。
46号線わきの地形からみて、このような土砂崩れが生じてもおかしくない箇所はまだまだ多いが、なんでこの場所なのか?一見共通点はない様に見えた。これが自然災害の怖さでもあろう。
本日が東京方面に向かう帰省客のピークになると報じられていたが、実際には連年よりは交通量が少なく、片側通行の待機のためにロスした時間は10分くらいであった。恐らく多くの帰省客は、このルートを回避し秋田道を経由したものと考えられた。
江岸寺にて読経を頂いた後住職より短時間ながらお話を伺ったが、9日は午前中に激しい土砂降りが数時間続き、寺の近くを流れる北上川、乙部川も反乱し付近の住宅の近くまで水があがり危機一髪であったという。一方、盛岡在住の息子の弁では市内は通常の降雨であったとの事。寺と盛岡は20Kmほどだから、この地域でも狭い範囲でのゲリラ的豪雨であった事になる。
ここ10年ほどの天候は変である。想定外の寒冷、ゲリラ降雨、降雪、竜巻、猛暑・残暑、地震、津波・・・などなどである。これが地球環境の変化によるものなのか、自然現象の大きなうねりの一環としての現象なのか、よく解らないが、公私共々、命を守るための危機管理を進めておく必要がある。
8/16(金)秋田・岩手晴れ 秋田→盛岡→花巻へ
0:10起床、文献・新聞チェック、小旅行前の家の片付け、掃除など。二泊三日と短いが家を空けるにはネコや畠のケアなど含め相当の準備必要。家庭ゴミ処理。8:30新幹線で発つ家内を駅に送り、息子・長女一家5人で盛岡に向かう。9日の豪雨の被害で雫石近辺で片道交互通行。ひっつみ亭で家内、息子一家と合流、14:00江岸寺墓参り、読経頂く。今年も兄一家の参加はない。ご本家に挨拶後宿泊の志戸平ホテルに。運転せずとも疲弊し微睡、19:45夕食、バイキング料理。自由に摂れたデザートがよかった。20:45就眠。
墓参り2013(1)「老化は他人から指摘されて自覚する」 初めて助手席で
本日、私は一日年休を取り、土日を利用して墓参りを兼ねて岩手で過している。
嘱託となってもなかなか休めない。
盆の墓参はわが家にとって年1回親族・家族が集合する重要な行事であり、私にとって年一回の故郷訪問でもある。両親・祖父母の供養のほか、健康問題を抱える実兄に会う機会になっている。本家への年一回の挨拶もある。家族揃っての小旅行の機会でもある。
今年、私は運転させてもらえなかった。同乗の長女から運転が下手になった、注意力が散漫になった、心配だ、との声で、全コース他人が運転した。盛岡まではプリウスの助手席、合流後は息子のワンボックスカーの後部座席で過ごした。
この家族揃っての墓参、一度も欠かさず続けて来たが、40年で初めて運転無しで過ごした。気楽で良いものであるが、暇で大変であった。道中よく寝た。
私自身は心身の若干の衰え、注意散漫を自覚しているが、まだまだ運転技能は保たれていると思っているだけに息子も加えての子供達の指摘はショックであった。
尤も、私は車の運転が好きでない。日常的には天候によっては通勤時に乗るだけである。この墓参が年一回の長距離運転の機会で私に取ってストレスだった。だから運転しない事には問題はない。
ただ、「老化は他人から指摘されて自覚する」と言われている。日常の高齢者診療を通じても私もそう思って来たが、私自信がそういわれてしまった。子供達だから言ってくれたのだ、と思い、あえて抵抗せずに指摘を受け入れた。
宿泊した志戸平温泉郷は中学生までの間、祖父母について頻回に訪れた懐かしい所である。ホテルは2回目の利用であるが、久々ゆっくりとした時間が流れた。
8/15(木)終戦記念日 晴れ32℃らしい 外来 飯川病院
1:20起床,いつもの如く。5:30資源ゴミ処理、6:45-7:50途中コイとハトにえさをやり徒歩病院着。書類処理。回診。8:45-12:30外来。予約患者は昨日同様15名前後と少なく余裕。院長体調不良で13:00飯川病院代診、読書ほか。病院の花壇に撒水他。17;30家内の車で帰宅、自宅の花壇・畑に撒水。19:00夕食。20:30就眠。歩数計:本日分19.789歩。
68回目の終戦記念日 未来志向で迎えたい
終戦から68年を迎えた。私はこの年の終戦直前の5月に盛岡市近郊の田舎で生を受けた。当然の事ながら私は全くこの日の事を知らないが、自分が生まれた年でもあるという事もあり、過酷であった戦争から平和な時代へと価値観が180度方向転換したとされる昭和20年を特別な感慨を持って受け止めている。
戦中戦後は日本全国が窮乏の中にあった。母親の栄養状態も悪かったのだろう、私は未熟児ではなかったが身体的には未熟でひ弱で、母乳も不十分だった事もあって、いつもよく育ったものだ、と言われていた。私の記憶は昭和25年頃からだろうか、白い衣装で白い箱を持って盛岡の街角に立っていた傷病兵、体格が別格だったGHQの米兵の姿やジープなど。田舎生活の中では頭からDDTをかけられた事、子供たちの栄養状態を改善するために米国から提供されたと言う脱脂粉乳給食があった。それに、何故か30年代まで我が家にあったインディアン社の軍用の大型バイクなどを思い出す。
私はいま日本の近代史を学んでいる。歴史は流れがある。決して一面だけをとって論評してはならず、決して新聞の見出し記事にあるような目を引く刺激的な言葉で表現してはならない。それと未来志向に立った上での評価でなければならない。
引き際を誤り、勝算もないのに行われた無謀な大量動員は、国民のすべてに悲惨な結果をもたらした。兵隊の壮行風景はある時期まで盛大だった。集落総出で馳走と濁酒等が振る舞われ、若者たちは地域民が寄せ書きした日章旗を手に万歳の声で見送られた。しかし、戦局悪化につれて壮行風景は様変わりを見せる。入隊は「名誉」でなく「災厄」となった。赤紙が届くと、ほとんどの家は号泣したという。それは生きて帰れぬことを意味した。大動員が地域の働き手を奪い、国土は疲弊し、国民の間に溝ができた。進藤監督の「一枚のはがき」にこの辺の様相の一面が描かれている。そして、広島・長崎である。
8月15日は単にポツダム宣言を受諾し、戦争終結が宣言されたと言う歴史的な日、と言うだけではない。この日以降も方々で悲劇は続いた。
この日は国内のみならず、近隣諸国との関係、歴史認識等が問われ、日本が一方的にバッシングを受ける日でもある。68回目の今回はこれまでにない異常な雰囲気の中で迎えた。この1年で中国、韓国との関係が一気に悪化した。ヒロシマ・ナガサキ、原爆投下、靖国参拝問題、ナチス発言、従軍慰安婦問題、日本の右傾化、首相の戦没者慰霊祭での式辞などなど。シベリア抑留問題や原爆投下など我が国から問題にすべき事実もあるが、その動きは殆ど見えない。
中韓の強硬姿勢は私も腹立たしく思う。だが根底には日本に対して拭えぬ不信がある。それが年々増幅してくる。相互理解は人と人の対話でしか得られない。今、その対話の窓口すら閉められている。実に残念な事である。こんな状態でも民間ベースの交流は政治とカップリングさせず進めて行かなければならない。その素地は維持されている。
8/14(水)晴れ 外来
1:00起床,新聞・録音のデータ整理中心。5:30ペットボトル処理、集積所に。7:00-8:00徒歩病院着。書類処理。回診。8:45-12:30外来。15名前後と少なく余裕。15:45徒歩帰宅、新聞、歴史本など。庭掃除、撒水他。19:00夕食。20:30就眠。歩数計:本日分18.789歩、積算1.187Km。
植物から学ぶ(7) 日朝時間 (1) 植物は季節を先取りする
私は秋の訪れを感じ取るのは、朝の高い空と雲、涼風、草木の露などからである。今年はいつもより2週間も早く、8月上旬に感じ取り、夏の短さにいささかがっかりした。
ほかの方々は秋の訪れを何から感じ取るのだろうか。
一方、植物はどうしているのだろうか、と思い若干勉強してみた。食物は可憐な花や美味しい果実、強靭な幹や枝に隠れてしまいがちだが、葉っぱは植物が生きるために、動物達をの命をつなぐために、自然界の環境保持のためにとても重要な役割をしている。葉っぱは太陽の光と地中の水と二酸化炭素から、黙々と光合成をしている事は誰でも知っている事である。
動物に比較して植物の成長等の変化は遅々としている。だから、日本の植物の場合には四季の移ろいを敏感に感じ取って次の季節の、さらには翌年の準備を早々に開始しているのだ、という。
要するに、植物の葉っぱは単に光合成をするだけではない、精密な情報収集機能を持ち、これから迎える厳しい夏、冬に向かって2ヶ月以上も前から備えを怠らない、という。葉っぱの季節に対する情報収集は何から行われているかというと、気温とかではなく、日照時間を測定して行っているらしい。
研究者の田中修氏によれば、葉っぱには日照時間を感じ取るセンサーが備わっており、敏感に時間の変化を感じ取っている、という。例えば桜の場合、初春に一斉に咲き始めるが、その花になる花芽、葉になる葉芽は夏の間に準備され、約半年の間絶妙に隠している。そして、春になると日照時間が長くなった事を感じ取り、一斉に蕾となり、花を咲かし、次いで葉を出すのだ、という。
私はかつて、葉が全くないのにあれほどの花を咲かせるエネルギーをどこから得ているのか不思議に思っていたが、夏の間に、旺盛な光合成の最中にしっかりとエネルギー源も蓄えながらしっかりと準備をしていた、と知り自然界の絶妙な仕組みに感心した。
私はいつも早朝に徐々に明るくなってくる朝を訪れを感じ取っているが、昼夜の長さの変化を感じ取るのは、せいぜい2−3週ごとである。いつ冬至が来て、夏至が来ているかなど、毎日の日照時間の変化など、調べてみなければ知る由もない。
しかし、植物はもっと敏感に数分単位あるいはそれ以下でも感じ取っているらしいから驚いてしまう。
8/13(火)晴れ 外来
23:20起床,いつもの如く。深夜からの貴重な時間をじっくり楽しむ。5:30一般ゴミ処理、7:00-8:00徒歩病院着。書類処理。回診。8:45-12:30外来。15名前後と少なく余裕。15:45徒歩帰宅、新聞、歴史本など。庭掃除、撒水他。19:00夕食。20:30就眠。歩数計:本日分18.789歩、積算1.187Km
天候2013(3) 10日前から早朝は秋の訪れ 涼風、秋の空、雲
ついに秋が来た。今年の秋田の夏は短かった。秋は嫌だなあ。
秋田は日中まだ暑くて31℃もある。この暑さは私にとっては嬉しいが、10日ほど前から早朝3-5時頃はかなり冷え始めた。涼風が足下を冷やす。早朝の空は高く、秋に細切れの特徴的雲が出始めた。朝6:00過ぎには裏の畠にキウリ、トマト、ナスなどの収穫に行くのが日課であるが、足下の雑草でスリッパ履きの足が濡れる。この秋の朝の雰囲気を一度感じた後は私にとっては夏の終わりで、いつもやや落ち込む。
通常は8月中旬、お盆の頃からであるが、今年は早かった。昨年は夏の猛暑が長引き約1ヶ月ほど延びた。これからの日々は夏の付録としての残暑が一日も長く続くことを願っている。
季節に関してはいろいろ風情があるが、私にとっては、好きなのは夏>春>冬>秋の順である。私にとって夏の熱暑の毎日、最高である。その中を今は往復徒歩で通勤して汗だくになりながら楽しんでいる。
今年は日本全体が異常気象である。東北地方はなかなか暖かくならず夏の訪れは遅かった。、そんな一方、関東関西方面では酷暑の日々が続いていた。35℃以上の地域が各所に及び、四万十市では41℃を記録した。体温より暑い環境っていったいどんなものだろうか。熱中症なども頻発している。今年の熱中症による搬送人数の累計は、7月末まで3万9944人となった。高齢者を中心に死亡例も多い。局所的ゲリラ豪雨が東北・関東以南で頻発して水の被害が報じられた。秋田でも先日局所的豪雨による土石流が発生した。一方では東京などで渇水が心配されている。
私はたとえ残暑が続いていようと、やはり秋が嫌いである。何れやってくる厳しい冬の生活のイメージを早取りする。そして、日を重ねるごとに確実に冬に向かう。だから落ち込む。
世間では秋の到来をよろこび、実りの秋だ、観光だ、紅葉狩りだ、スポーツは・・とメディアなどは大はしゃぎ、大騒ぎである。確かに秋は実りの秋で活力を感じるし、暮らしには快適な季節なのだが、私はそれ以上に冬の予感を感じ取ってしまう。
マア、いろいろだが四季の移ろいには味がある。それを毎日体感出来る生活であることに喜びを感じる。好きだ嫌いだ・・と言ってても必ず冬は来る。そんなことを言っているより、毎日を楽しむ方が良い・・と納得。
8/12(月)快晴暑い 外来
1:30起床,新聞・文献チェック他。7:30バスと徒歩で病院着。回診、8:45-12:45外来、盆で閑散、10数人のみ。理想的な外来。15:30徒歩帰宅。新聞ほかデータ入力。歴史関連本読む。外回り掃除若干。撒水、19:00夕食、20:30就寝。
朝の連続ドラマ2013:「あまちゃん」「てっぱん」が楽しい
かつて私はニュース、ドキュメンタリー以外の番組、とりわけ娯楽系のTVを毛嫌いしていたが、最近は考えが変わって観る時間が徐々に増えている。
ほぼ定期的に見ているのは「19:00NHKニュース」、「てっぱん」、「あまちゃん」「題名のない音楽会」、「のど自慢」、「笑点」、「アルプスの少女ハイジ」の7番組である。NHKニュース以外は録画で都合の良い時間帯に見る。
NHKの朝の連続ドラマを観たのは昭和40年代の「おはなはん」で、次は昨年の「梅ちゃん先生」でその間40年経っていた。基本的にドラマは嫌いであるが主役が堀北真希というので見始めた。堀北が出なければこのシリーズに興味を持つことはなかった、と思う。
表情の良い若い女性を観るのは楽しい。「梅ちゃん先生」、「てっぱん」、「あまちゃん」ともドラマ自体はどたばた劇である。ストーリーの展開も「なんでこうなるのか!! バカらしい」と思う様な内容である。朝の連続ドラマである事による制約もいろいろあって、このように軽い内容になっているのだろう。そう考えると楽しめる。「あまちゃん」の方言や「じぇじぇ」などは同郷人としては、やはり違和感があって乗り切れない。
ただ、ドラマのストーリーについてはうるさい事は言えない、私が好きなオペラの作品など、内容を吟味してみると矛盾だらけでばからしいが、良い曲があるから楽しめる。
この3作ともに笑顔が良くてとても明るい雰囲気の女性が主人公である。いずれも見ていて気持ちが明るくなる。制作者達の人選については感心する。それほどの理由はないが 私の好みから言えば、「てっぱん」の瀧本、「あまちゃん」の能年、堀北真希の順である。
朝の連続ドラマの主役は新人の抜擢が多かった様であるが、「梅ちゃん先生」の堀北は既に名声を得ている女優で、朝の連ドラは必ずしも適役でなかった様に思う。堀北は見続けているうちに当たり前の美女の一人になってしまった。いつか適役とされる作品に触れてみたい。能年は目元、鼻筋、口元も整っていてとても可愛い。ただ、口元にどこか抜けた雰囲気がありそれが役として生きている。瀧本はバランスとれた美人である。ただし、この印象は各々のドラマの役柄を通じて受けた印象である。役者は役柄に寄ってがらりと印象が異なるからこれ以上のことは言えない。
朝の連続ドラマは私の夕食後の楽しみの一つとなった。「面食い」趣味を満たしてくれている。
8/11(日)晴天 日航事故28年 飯川病院日直
12:00起床、のんびり読書、新聞、蓄積データ整理など。早朝は花壇、畠の作業若干、もう熱くて長時間の作業は無理。8:30-17:00飯川病院日直。18:00徒歩にて帰宅、汗でびしょ濡れ。撒水など。19:00夕食、20:30就寝。
天候2013(2) 秋田県で局地的豪雨 山崩れで4人死亡1人行方不明
秋田の天候は、6月は快晴と暑い日々が続き、7月は一変して降雨の日々が続いた。今年の秋田の天候は落ち着かない。気象情報会社の予測では東北地方で今夏の局地的豪雨の発生回数を昨年の5.3倍と予測した。しかし、何時、何処で、どれだけの降雨があるのかの予測は困難だ、と言う。
それが現実のものとなった。
8月9日午前、気象庁が緊急会見で「直ちに命を守る行動を」と警戒を呼び掛けるほどの、従来経験したことのない大雨が大館、鹿角、仙北地方で降った。
今回の豪雨は、1時間雨量が県内5地点で観測史上最多となる記録的な大雨となった。田畑の冠水や床上、床下浸水なども広範に及んだ。仙北では大規模な土石流が発生、犠牲者が出るなど県内に大きな爪痕を残した。
土石流が発生したのは仙北市田沢湖の供養佛集落。猛烈な雨で山の斜面が大きく崩れ、住宅など8棟がのみ込まれた。4人の死亡が確認され、まだ1人が行方不明となっている。
幹線道路の寸断や交通機関の乱れも生じた。秋田岩手を結ぶ国道46号は土砂崩れで通行止めとなった。秋田新幹線は昼近くの便から運転を見合わせた。
県内北部と大曲近郊でこんな惨事が起こっているのなど、私の周りは天候も雨模様であったが平穏で全く気がつかなかった。
9日、秋田市は早朝から小雨であった。私は8:02発の新幹線でいつものように大曲に向かい、大曲中通病院で通常に外来診療をしていた。大曲も午前は小雨模様であった。この日は飯川病院の診療応援の要請があり13:25発のこまちで戻る予定であったが、県北や田沢湖地区に集中豪雨があり秋田新幹線は終日運休となったと連絡があった。13:30頃秋田に戻る同僚医師の車に便乗して秋田道経由で秋田に向かったが、この頃は小雨も上がり快晴で、夜のニュースを見るまで全く知らなかった。
これが局地的なゲリラ豪雨と言うものだろう。恐ろしいものだ。
昨日夕、秋田に来るはずだった家族の一人は新幹線の不通が長引いたために東京で足止めくらっている。土石流が発生した仙北市田沢湖の付近を通る。新幹線への直接のダメージがあったか否かについては分からないが、これほどの豪雨の後である、安全が第一と納得するしかなかろう。
8/10(土)快晴暑い 晴耕晴読 ゲリラ豪雨で県北・仙北地区の被害甚大
1:00起床、本読み中心、データ整理。7:00-8:30枝豆の苗畠に転植、成長を望む。それ以降は暑すぎて外の作業は無理、本読み中心。この時期は晴耕雨読は無理で晴耕晴読となる。15:00午睡、17:00自転車長浜コーヒー往復10Km。撒水、19:00夕食、20:00就寝。歩数計1143Km。
原爆投下問題(4) 核兵器の非人道性の世論が高まってきた
米軍は45分間にわたってしつこく小倉への投下を目指したが果たせず、第二目標の長崎に向かったが長崎も雲に覆われており投下を諦めかけたが、雲の切れ目から一瞬眼下に市街地が見えたことで投下された。長崎市の中心部から3Kmずれ浦上地区が爆心地をなった。長崎は偶然が重なった悲劇の地となった。おそらく被爆した大部分の方々は何がおこったか解らないまま死亡したと思われる。
長崎に投下された原爆はプルトニウムを使用した原子爆弾。威力は広島へ投下されたウランを使用した原爆の1.5倍とされた。にも拘らず長崎市の被害が広島より軽かったのは山に囲まれた地形のためとされている。史実に「もしも」は成り立たないが平坦な平坦な地域であったら被害は広島を超えていた、とされる。
当時の長崎市の人口24万人、うち約149.000人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。原爆死没者名簿に記載された総数は162.083人とのことである。
最近の世界的な流れとして原爆の抑止力に頼る上空からの政治的動きもある一方、被害の甚大さから核兵器の非人道性のを訴える地上からの声が徐々に強くなってきている。半世紀以上経過してたが喜ばしいと思う。
ただ、その中で唯一の被爆国のわが国の世論が今ひとつのような気がしてならない。例えば、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で核兵器の非人道性に関する声明に政府が賛同しなかったことなど、どれだけ国民に知られているのだろうか。被爆国でありながら、米国の核の傘に頼っているから、が理由であった。長崎市の田上市長は「日本政府に被爆国としての原点に返ることを求める」と平和宣言で述べた。今後一層世論の高まりを求めていく必要がある。
現在、核弾頭は19.000発ほどあり、90%は米ロにある。オバマ大統領は6月「核兵器が存在する限り真の安全は無い」と述べたが核軍縮の動きは遅遅としている。
加えて原子力の平和利用としての原発も、一度事故が起これば甚大な参加を及ぼすことをわが国は身をもって知った。平和利用であっても核の持つ驚異的威力、核のゴミ処理は人間の英知を超えた所にある。
核は軍事利用でも平和利用でも大差ない、と言わざるをえない。
8/9(金)雨 長崎に原爆投下 県北でゲリラ降雨 大曲中通病院外来 秋田新幹線不通 飯川病院代診
1:30起床,文献・新聞チェックその他。一般ゴミ処理、7:50Taxi駅着。8:02こまち。8:45-13:00大曲中通病院外来。県北・仙北でゲリラ豪雨あり秋田新幹線不通、同僚医師の車で14:20飯川病院に。院長不調で代診、気管カニューレ交換、胃瘻テューブ交換他。17:30家内の車で帰宅。19:00夕食、20:15就寝。
原爆投下問題(3) 68年目を迎えた長崎「原爆の日」
長崎に「原爆」が投下されてから 68年目を迎えた。 本日しめやかに平和記念式典が行われた。
国力、国民が疲弊しつくした状態の中、原爆投下など不要であった。 トルーマン大統領はほほ個人的事情と実験的意義で広島に原爆を投下した。大統領は広島での成果を十分知ったはずであり、2発目の原爆投下は止められたはずである。不要な一発目、さらに不要な2発目の投下を決断した。この点でもトルーマン大統領の人道上の大罪は逃れ切れない。 ソ連の宣戦布告が8日佐藤駐日大使に対して通告され、翌9日から満州に侵攻が始まった。その10時間後9日午前11時02分2発目の原爆が長崎上空で炸裂した。この一発により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。
わが国の降伏に2発の原子爆弾が及ぼした意義は大きいが、最も大きいのはソ連参戦であった。日本はソ連を介して停戦交渉をしていたからで、ソ連の参戦で八方塞がりとなった。2発の原子爆弾は無くても日本は降伏しいていた、と思う。
米軍は投下の第一目標地に小倉を設定していた。テニアン基地を出発したB29ボックスカーは午前9時40分、小倉市の投下目標上空へ到達したが、雲のために目視による投下目標確認に3度失敗し、この間45分浪費し、燃料に余裕が無くなり第二目標地である長崎に変更した。
長崎は雲に覆われて目視爆撃が困難だったが、雲の切れ間から一瞬だけ長崎市街が覗いた。高度9,000mから核爆弾を手動投下した。約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmそれた上空、高度503mで炸裂した。
ボックスカーは旋回して爆発を確認後長崎市上空を離脱したが残燃料約1000であり、沖縄の手前100kmまでしか飛べないと考えられた。乗員はかなり焦っただろうと思われるが、エンジン回転を落とし降下しながら燃料を節約し沖縄の飛行場に緊急着陸した。残燃料は僅か26であったという。
B29ボックスカーが燃料切れで着水または不時着していれば原爆投下の評価は変わったと思うが、2発の原爆投下は無用であったと思う。
8/8(木)快晴 外来
1:00起床、新聞データ化と整理。野菜収穫。7:30バスと徒歩病院着、回診、8:45-13:30外来。人間ドックデータ整理。15:30徒歩帰宅。暑くて大変であった。歴史の勉強、自室の整理、DVD「アポロ13号」、「青い山脈」。19:00夕食、20:30就寝。歩数計1134Km。
天候2013(1)6月降水量は過去最少、7月降水量は過去最多、8月上旬は記録的豪雨
最近の天候は変である。今年は降雪量が多く、春の到来は遅く春先は寒い日が続いた。初夏になって6月は突然快晴と暑い日々が続き、7月は一変して降雨の日々が続いた。今年の秋田の天候は落ち着かない。
19:00のNHK-TVニュースはほぼ連日各地の猛暑と関西以南の局地的豪雨から始まってている。山口県では集落が水没し死者も出た。
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6月
■降水量;6月中の県内のは、36観測地点のうち15地点で過去最少だった。秋田市では、1883(明治16)年の観測開始以来最少の19.0mmを記録した。平年117.7mmの16%にとどまり、これまで最少だった1937年の21.0mmを2.0mm下回った。
秋田地方気象台によると、この記録的な少雨は太平洋高気圧の勢力が弱く梅雨前線が北上しなかったため。秋田市では東北北部が梅雨入りした18日に3.5mm、翌19日に13.5mmの降雨があったが、以降は雨が降らず空梅雨となった。
ほかに新記録だったのは、大館市陣場28.0mm(平年135.7mm)、由利本荘市本荘23.5mm(同122.1mm)、湯沢市腸の岱52.5mm(同136.0mm)など。
■気温;高めに推移した。秋田市の6月の平均気温は21.4℃(平年より+2.2度)と観測史上最高、真夏日が6日もあったのも史上最多。10-14日の5日間の連続真夏日も初めての記録だった。
■日照時間:日照計を設置している24地点中16地点で過去最長を記録した。最も長かったのは能代の269.0時間(平年179.0時間)。
記録的な少雨を受け、県内一部地域で農作物の渇水被害が深刻化するなど、水不足の懸念が高まった。私がケアしている花壇、畠も連日撒水が欠かせなかった。秋田市水道局の検針で通常の2.5倍近くに跳ね上がったことから、漏水とか無いか確認に来たくらいである。ところが、この小雨の天候は7月に入ると一変した。
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7月
■降水量; 梅雨前線が東北地方に停滞し、暖かく湿った空気が入った。このために連日の雨模様であった。7月の降水量が過去最多となったのは、多かった順に並べると、湯沢市湯の岱(662.9mm)>仙北市鎧畑(661.0mm)>角館(616.0mm)など。県北では鹿角市八幡平が460.0mm、県央では男鹿市が398.5mmで、いずれも平年の2.1〜3.3倍。
■ゲリラ豪雨:27日には横手市西部で1時間に100mmの猛烈な雨を如胴し、2010年以来となる記録的短時間大雨情報が出された。
農業やレジャーに影響が出て、海水浴場、ビアガーデンなど軒並み不振、中華、そうめんなどが例年に比べて売り上げが約5%ダウン。半面、毎夏売り上げが落ちるチョコレートなど莫子は1割ほど伸びた、と言う。
■今後の降水予想:気象情報会社の予測では東北地方で今夏の局地的豪雨の発生回数を昨年の5.3倍と予測している。しかし、天候の変化は急激で何時、何処、どれだけの降雨があるのかの予測は困難だ、と言う。
8/7(水)快晴 外来 ポール・デルヴォー展
1:00起床。文献新聞整理。日本語勉強。7:30バス利用病院着、回診。8:45-13:30外来。人間ドックデータ整理。15:00市立千秋美術館「 ポール・デルヴォー展」。 16:00帰宅、自室の映像関連のシステム構築、スピーカータンノイ不調。DVD「アポロ13号」一部観る。19:00夕食、20:00就寝。歩数計積算1123Km。
原爆投下問題(4) 東京裁判
東京裁判は日本の指導部がおかした罪を裁くための裁判で1946年から48年まで東京で行われた。戦勝側が敗戦国の指導者を断罪する裁判であった。同様の裁判はニュルンベルク裁判があるが、両者の意義は本質的に異なっている。そもそも両者の存在自体疑問である。国家間の賠償責任は別に問われるとしても、個人への戦争責任は国内の裁判で法に基づいて裁かれるべきである。
戦争が犯罪人の区分で指導的立場にあった人をA級戦犯とし28人を起訴し、東条ら7人に死刑、16人が終身刑に、2人が有期刑とした。東条や広田弘毅については足跡を読んだが、なぜ死刑判決になったか解らない。木村兵太郎、土肥原賢二、松井石根、武藤章の死刑も、終身刑の16人の個別の罪状についてはまだよくわからない。
しかし、これらA級戦犯とされた人たちは時代の流れのその時々に各部門のトップの地位にいた政治家、軍人であった。集団で戦争について打ち合わせ、あるいは合議して戦争へ導いたの訳ではなく、職務上の責務を果たしていた。一つ一つの判断の中で後の評価で誤った判断はあったかもしれないが。
この裁判については、■平和に対する罪、人道に対する罪など評価し得ない罪状で裁かれている、■戦勝国側の論理で行われ不公平、■判事として不適格者が含まれた、などの問題点があった。東京裁判の存在そのものが問題がある、との意見も多い。
さらに、■判決はあらかじめ決められていて判事は裁判長から同意を強要された、■裁判長は裁判の不当性を訴えた2人の米国人弁護士を裁判から除籍した、■弁護人は原子爆弾で無差別殺戮を行った連合国側に裁く資格があるのかと問うたが、裁判長は無視した。■ニュルンベルク裁判ではドイツの法曹界が協力したが、東京裁判に日本の法曹界は参加していない・・・と言った問題点も明らかにされている。
まだまだ勉強する必要があるが、「人道に対する罪」を問うとすれば、米国のトルーマン大統領と国務長官バーンズの二人を罪人として上げなければならない、と思う。原爆についてはその存在も極秘にし、投下について秘密裏に進め、対ソ的戦略的意義はあったとしても実験的要素で2発の投下を決断したことは厳しく評価されなければならない。原爆投下は連合国側の作戦ではなく、トップ二人の作戦だった。
東京裁判についてわが国の総括、評価はどうなっているのだろうか。連合国側が判断したA級戦犯への評価は正しかったのか?それ以上に、東京裁判の意義についてはどう評価しているのか?その辺がはっきりしないから靖国問題が何時まで尾を引くことになる。今年は安倍首相は参拝を取りやめた。
8/6(火)快晴 暑い 広島に原爆投下 外来 竿燈祭り最終日
0:00起床,新聞入力、文献整理。本読み。ゴミ日。7:50徒歩病院、回診等。 8:45-13:15外来。15:30最終日なので竿燈通り、なかいち広場、旧産業会館跡地、ダイエイ跡地に設置された売店など見ながら帰宅、汗だく。新聞文献入力、19:00夕食、20:20就寝。積算1112Km。
原爆投下問題(3) 68年目を迎えた広島「原爆の日」
広島に「原爆」が投下されてから 68年目を迎えた。 本日しめやかに平和記念式典が行われた。
私はよくわからないが、毎年毎年同じような式典が行われている。歴代の首相も参加しているが、何も変わっていないような気がする。歴代首相の挨拶は毎年似たような内容である。挨拶文を読み上げた後もう原爆のことなど頭に無いのではなかろうか。2010年の式典には駐日大使が公式に式典に参加したが、それはオバマ大統領の指示であったことが最近ニュースで明らかにされたが、これにも政治的配慮を感じる。
ところで、「平和記念」式典と呼ばれているが、何故、「平和祈念」式典でないのだろうか。私は後者の名称がふさわしいと思う。「記念」は静的であり、「祈念」には動きを感じるからである。それに、何を記念しているのだろうか?解らない。
また、何で「平和」記念公園なのだろうか?「非人道的無差別殺戮を糾弾する」公園とでも名付ければ良かったのだ。あまりにも差し障りの無い名称にまとめてしまったと思う。ホロコーストとヒロシマ・ナガサキは人類がおかした二大犯罪である。これを「平和」などと美しくまとめてはならない。
国力、国民が疲弊しつくした状態の中、原爆投下など不要であった。 不要であった原爆投下で非戦闘員を含む殺戮を実行した米国が罪を問われないのは理解できない。トルーマン大統領の原爆投下の決断と実行は国際法的に見ても人道的立場から見ても許されない違反行為で疑問を挟む余地はない。しかし、公的にはどこからも避難されていないばかりかトルーマンは英雄扱いである。原爆のみでは無い、東京など各都市の空爆、土崎空爆は非戦闘員の大量殺戮を目的としていた点で国際法上も許せない。ニュルンベルク裁判・東京裁判も疑問である。
1945年当時、鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺したことが原爆投下を招いた、とする意見・論評は多いが正しくなかろう。逆に、トルーマンはソ連が対日参戦するまで日本の降伏を引き延ばす工作までしている。ソ連の参戦が8日と知り、選ばれたのが8月6日であり、天候の関係で広島が選ばれた。
原爆は人類史上で行われた最大の無差別殺戮である。トルーマンの頭の中には原爆の破壊力についての知識はあっただろうが、広島市民の身に何が生じるのか、関心すらなかったのだろう。
原爆に関する歴史認識、米国による犯罪行為を明らかにすべきだが、米をはじめ他国には期待できない。その責を担うのは我が国である。平和記念式典の繰り返しでは何ともならない、毎年の式典の際には史実がどこまで解明されたのか、どう総括したのかを国民に向けて報告すれば良い。
8/5(月)晴れ 健康クリニックドック 竿燈祭り三日目
0:30 起床。文献処理他録音データ整理。バス利用7:39病院着、回診など。9:00-11:00
健康クリニックドック。患者関連書類処理。15:45千秋公園横断して徒歩帰宅。公園は人影まばら。自室の整理など歴史関連文献読む。18:00孫二人男鹿に。19;00夕食、20:30就寝。歩数計1099Km。
社会保障国民会議最終報告(1) 社会保障国民会議とは
昨年夏、消費税増税の法案が成立した。消費税増税は、■国の財政を安定させる、■社会保障を改革する、と言う2つの前提があった。これを受けて社会保障国民会議が発足し、11月以降議論を重ねてきた。
会議のメンバーは社会保障に詳しい民間の専門家15名からなっている。会長は清家慶応大学学長。15名のうち私が知っているのは、大島国立長寿医療研究センター総長、永井元東大内科教授で現自治医科大学学長のお二人で、いずれもセミナーとかで数回講演を聴いている。先進的なお考えをお持ちである。恐らく有用な発言をなさったことだろうと思う。なお、メンバーには医療・福祉関係で直接利害関係にある団体の代表は入っていない。日本医師会メンバーも入っていない。この選択は良かったと思う。
報告書は案の段階から新聞とかで紹介されてきた。最終案はほぼそれに沿っているが、予想通りに国民の負担の増加と給付の抑制が骨子となっている。医療提供体制、すなわち大病院は機能分化が強調されている。秋田市にある4つの総合病院、秋田日赤、市立秋田総合、秋田組合総合、中通総合の各病院も機能分化のための政治的誘導が国、県を介して行われることになろう。その際、私的医療機関軽視が気になる。
私は年間3兆円ほど増加していく社会保障は一日も早く改善していかねばならないと思っているが、医療福祉の改革には国、国民、医療福祉提供機関のそれぞれがバランスよく痛みを分かち合う必要がある、と思う。しかしながら、今回の報告書は、国民の負担増、給付減のみが全面に強調されている。しかも、財源確保のために消費税増税は必須としている。
この報告書はあくまでも委員会報告である。これ以降政治家の手によって、変えられていく。安倍内閣は今月21日までに改革案骨子を閣議決定するという。国民の負担がかなり増加することで与党がこぞって反対する可能性が高い。それと共に関連団体、自治体や保険団体、病院団体や日本医師会も修正を求めてくると考えられる。
法案は秋の臨時国会に提出されると考えられる。このときねじれの解消を背景に与党が我が物顔に振る舞うのだろうか。野党側は反対反対と叫ぶだけでなく、議論に耐えるだけの対案を提出して対抗すべきである。そうでなければもはや存在意義はない。
8/4(日)快晴・猛暑 飯川病院日直 竿燈祭り二日目
1:00起床、文献整理、書類廃棄などいつもの如く。撒水、野菜収穫、8:00自転車飯川病院へ、8:20-17:00日直業務。帰宅後撒水十分に。孫3人、とにかく大変である。19:00夕食、20:45就寝。
植物から学ぶ(6) 炎天下、一晩で「はす」が枯れた
私は一昨年から庭で「はす」を育てている。まだ試行錯誤である。プラスチック製の大きな鉢に植えている。
一昨年は二つの鉢で栽培、きれいに花が咲いたが、厳寒期に凍らせてしまったらしく、春になっても若芽が出てこなかった。昨年春先、寒気の影響を軽減するために鉢をふた周りほど大きくし、新しい株を入手、その年はまだ根の成長が悪かったらしく小さな花が数ヶ咲いただけであった。心配した厳冬期も何とか乗り切って、春には沢山の葉が顔を出した。<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/64/e8e78180c31b6aaec9d3617649d1b76c.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3a/64/e8e78180c31b6aaec9d3617649d1b76c_s.jpg" border="0"></a>(昨年咲いた花)
今年こそは立派な花を咲かそう、と意気込んでこまめに水管理をし、肥料も追加して育てていた。葉は驚くほど密集し1m以上の長さに成長した。7月下旬、元気な花芽が数本姿を見せた。
7月は前月と一変して降雨の日が続いたが、26日〜28日は久々快晴が続き気温も高かった。27日は飯川病院の日当直があたっており、正午から翌日午前まで留守にした。すなわち27日は夕方「はす」 の鉢への給水が出来なかった。家族に頼むまでもなかろうと思っていた。何と、翌日10:00過ぎに帰ってみると「はす」の葉の大部分が萎れて元気がなくなっていた。鉢の土も干上がって固くなっていた。
すぐに給水を行ったが、ダメージはかなり大きかったらしく約半数の葉は枯れ、残った葉も周辺から内側に向かって変色が進み壊死に陥っていった。数本の花芽はすべてダメになった。その後も水を絶やす事無く給水し続けているが今はかなりひどい状況にになっている。<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/01/481d0a96a16dba095fbb3cbe50720006.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/16/01/481d0a96a16dba095fbb3cbe50720006_s.jpg" border="0"></a>(大部分の葉は枯れかかって変色、萎縮している)
それにしても、まる一日給水しなかったことで干上がったのは私にとって予想外であったが、繁茂したは葉が旺盛に新陳代謝し、水を蒸発しており、鉢の容積が不足していたためであろう。「はす」は池や沼に生育する花であることは、大量の水が必要なことを示している。秋には半坪ほどの埋め込み式の池に移そうと計画し、造園業者に依頼し埋め込む穴を掘ったばかりであった。
丹誠込めてケアしていたのに、もう開花などは望めないと諦めている。せめて、葉の壊死がこれ以上進行しないよう、根が死なないように願いながら朝夕の給水を続けている。
自然の摂理を無視して不自然な環境で育成をする。私どもの自己満足のために、である。このこと自体の問題点、罪深さを勉強させてもらった。
8/3(土)快晴 暑さは中等 孫3人来訪 竿燈祭り初日
2:30起床、新聞や文献読み。データ整理。キウリ・なす・トマト収穫、食べきれない。10:00孫付きで舩杉夫妻来秋、13:00-15:00畠、花壇の草刈り、盛岡の孫も来訪、今晩は10人となった。17:00ポタリング北インター往復10Km。19:00夕食、20:30就寝。
徒歩積算1080Km。
参議院選挙後の政策課題(2)一見順調?我が国の経済の内憂外患
マスコミ等の論評を見ると株高・円安傾向が出てきてから個人消費が順調だという。私は実感はなく、どこの世界の話?と疑問に思うが、現実に高級車、宝石、絵画、住宅などの高価物品の購買力が増してきていることはデータ上明らかである。失業率も3%台に減少している。
企業の業績、これは大企業についてのことであるが、円安のもとで輸出関連企業の業績が上向いている。しかし、べつに新しい戦略で海外に打って出ているから好調なのではない。従来と同じものを扱っているだけで収支が改善してきているだけである。この好調さが続いているうちに新戦略、設備投資が盛り上がってくれば良いのだが。
■個人消費や投資、■産業界の設備投資、■給与増が揃えばわが国の経済は良い傾向に回転し始める。しかし、経済は最早一国の問題ではない。国際的経済状況の影響をもろに受ける。
我が国の経済の内憂外患が目白押しである。
内憂は、■産業界の構造改革がうまく行くか否か、■第二は消費税率のアップである。 前者に関して言え成長戦略が実効を生むか否か、後者に関しては増税前には駆け込み需要が生じるが、反動として長期間の消費低迷が続く。これをどう乗り切るか、である。
外患は、 ■米国。経済指標としては景気が良くなっているが、デトロイドが破産するなど問題を抱えている。米国がどこで緊縮政策に回るか、世界経済への影響は大きい。■ユーロ圏の通貨の信用低下。特にポルトガルの財政事情が危機的状況にある。■中国の諸問題、が挙げられる。
外患の中で最も大きな懸念は中国にある、と考えられる。
背景は中国は世界第二位の経済大国になったが、金融の仕組みが旧態依然で、需要に十分対応できていないことが挙げられる。共産党指導で力で無理矢理押さえつけていて、巨大化した経済規模に対応しきれていない。そのために非合法(?)的なシャドウバンキングが大量の資金を集めており、不動産への投資がかなり多い。不動産価格はどこかで落ち始める。その時、資金回収、元本維持ができない、利息さえも払えなくなる可能性が生じる。あたかも米国のサブプライムローンの破綻と類似したコースをたどっている。そんな兆候が出てきたら瞬発力のある対応が可能か?はなはだ疑問である。
中国では農村地帯と都市部での貧富の差は大きい。ところが、都市部の富裕層、貧困層5%の世帯の年収を比較したところ242倍もの開きがあったと言う。この背景には共産党独裁の中で生まれた特訓階級の独占がある。中国政府は所得の格差是正を進めると言っているが、状況は一層悪化している。新政権が大きく乗り出すと既得権保有者の反発を買い、政権の安定まで失うことになる。
中国では景気が減速しつつある。失業率も5%を超えている。世界経済にとって、わが国の経済運営に中国の現状は大きなリスク因子となっている。
私どもは、だからといって具体的に何が出来るのか、と問われても何も出来ない。が、関心を向けることが出来る。中国の現況、動向から目を離すことは出来ない。
8/2(金)超快晴 大曲中通病院外来
1:30起床,文献・新聞チェックその他。一般ゴミ処理、7:35Taxi、8:02こまち、徒歩、8:45-14:45大曲中通病院外来。徒歩駅に、こまち何故か旧車両、Taxi天徳寺まで、Seriaに寄る。16:30帰宅。DVD「アポロ13号』。19:00夕食、20:30就寝。終日眠い日であった。歩行積算1073Km。
参議院選挙後の政策課題(1)経済政策
今回の参議院選挙では自民党が圧勝した。票の動きを見ると民主党の票が各党に移っていった状況である。決して圧倒的支持とは言えない。衆参間のねじれは解消した。
これで自民党の掲げる政策は比較的スムーズに立法化できることになるが、果たしてねじれの解消は議会制民主主義として良いことなのだろうか。疑問は残る。
選挙後の主な政策課題は、■実のある成長戦略、■原発とエネルギー、■TPP問題、■憲法改正、■東アジア諸国との軋轢、■財政健全化、■社会保障問題 などであろう。
日本の経済であるが、異例の金融緩和のもと10ヶ月ぶりに景気は確実に持ち直し、大企業の収益の上方修正もあり、一定の効果をあげている。ただ、その効果は弱い。張り子の虎のようなものにみえる。その理由は、経済の回復に産業の国際競争力の回復が重要であるが、その活力が低下のままで止まっていることである。
いまの景気回復は強い金融緩和のおかげである。要するに、有利な為替レートで額面上で利潤があがっているように見えるだけである。この状況はやがて限界を迎えてくる。その前に産業界が活性化しないとアベノミクスの悪しき点だけが全面に出てくる可能性がある。そうなったときの日本経済はどうなるのだろうか。予測も出来ない。
円安なのに貿易収支の赤字が続いている。輸出の数量が減少しているのに輸出金額が増えていることで、輸出の収支が額面だけで改善している状況である。円安が日本の産業衰退を覆い隠している、と言えよう。この状況は大企業や資産保有者だけが儲ることになり、社会の格差は一層広がってくる。
我が国の状況は我が国単独でみれば一見良いように見えるが、世界の経済は米国経済のちょっとしたことで変わる可能性がある。世界が米国のFRBの金融緩和に依存していることは明らかであるが、米国の内情は自動車産業の中心都市であるデトロイトが破産するなど地域経済はかなりひどい状況にあると考えられる。
世界の経済は微妙なバランスの中で維持されている状況にある。米国経済は日本同様弱体化している。こんな中、次にどんな事件が起こるかもしれない。
参議院選は終わった。安倍政権は一定の支持を得た。今後は実効ある成長戦略をいかにして実現するか、産業構造を如何にして再構築して世界に打って出るか、にかかっている。注目していかなければならない。
8/1(木)雨午後から快晴 外来
0:30起床、新聞・文献など。空き缶・ビン等資源ゴミ車で3回運ぶ。7:30バス利用病院着、回診、8:40-13:30外来。混雑疲弊。15:30徒歩帰宅、文献読み、DVD映画視聴。19:00夕食。20:00就寝。歩数計1061Km。
先人の言葉から学ぶ(4) 「石の上にも3年」 私の道を決めた言葉
「冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくる。がまん強く辛抱すれば必ず成功する」ことのたとえ。
3年座っていても尻の体温で石が暖まるはずが無い。その間に寒い冬も来る。あり得ないことでバカらしくもあるが、物事にじっくり取り組め、との例えとしては理解できる。3年と言う期間は寿命が短かった昔にしては十分に長い期間である。
ただ、3年がんばっても結果が必ずしもいいとは限らない。人生には運が付きまとう。それでも3年間の忍耐を通じて必ず何かは得られるであろう。
1985年春、私は大学病院を辞した。中通病院の院長に直接面会し、雇って欲しい、最低限3年は働きたい旨申し出た。忘れたが、その時多分「石の上にも3年」がよぎったからであろう。
医師不足もあって結果的に採用されたが、なかなか病院の雰囲気、医師たちに適応できず、当初は自ら発した3年と言う期間に苛まれた。赴任当時感じた印象は「私は異分子、外様」だと言う事であった。私は「最低限3年」と発した言葉に縛られたが、これがなければ更に異なった道を求め、恐らく岩手県のどこかでひっそりと働いていた、ことだろう。今は「最低限3年」という言葉に助けられた、と思っている。
3年間耐えている間に「患者の立場に立つ医療の実践」というポリシーに共感し、自分が考えている医療を表現する環境としてはスタッフの能力も含めて恵まれている、と考え、そのまま働き続けて今日に至っている。ずいぶん働いたが、病院のためではなく自分のために働いた。だから満足している。今は嘱託医として外来診療の一部を担っているだけであるが、30年近く働いて院長まで経験させていたが、「私は外様」だ、と言う意識からは未だに逃れられない。
「石の上にも3年」、今どき、こんな事を言っても通用しないであろう。仕事が面白くない、時間も長い、給料も安い・・と文句ばっかりを言っている人達が多いが、与えられた環境の中で、自分を生かせる分野を探す、自分で面白い仕事を作る、希望や夢は自分の中にあるということを考える、そのための3年の投資、と考えれば無駄にはならない。
似たようなことわざに、■ 茨の中にも3年の辛抱、 ■ 牛の歩みも千里、 ■ 菰の上にも3年、 ■ 3年居れば温まる、 ■ 辛抱する木に金がなる、 ■ 火の中にも3年、 ■ 待てば甘露の日和あり、 ■ 待てば海路の日和あり、などがあるが、ほぼ共通して3年という期間をあげているのが面白い。短くもなし長くもなしが3年という期間なのだろう。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |