徒然日記
2012年2月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


2/29(水)快晴 外来 
2:00起床。文献チェック他。徒然。7:00病院着。回診他、8:40-13:00外来。入院一名。16:00帰宅。幹線道路はまだ雪が残り狭いが、明日から自転車通勤とする。20:45帰宅、21:45就寝。

エコカーが多様化してきた(2)燃費に関する日米の考え方の違い  
 私が購入したプリウスは今となっては旧いが、ガソリン消費はカタログ上では36Km/Lとある。実際は長距離走行時も含めても毎回の給油時の計算では10−20Km/Lと極めて低レベルである。ソフトな走りをしているのに、この差は一体何なのだ?と思う。それでもわが家で用いている1300−2000ccの車よりは1.5倍から2倍ほど良い。だから、私は評価しているが、カタログ値の方に問題はないのだろうか、といつも思う。

 米国でホンダのハイブリッド車が「カタログ通りの燃費でない!」と訴えられて敗訴した。1万ドルの要求額に対し9876ドルの賠償を命じられた。米国らしい事件だと思うと共に、日本人も日本の企業も考え直す必要があるようだ。裁判は米国の基準で争われた。米国の基準値は実燃費との間に10−20%程度の差と評価される。燃費21km/Lとされる2006年式シビックHVを中古で購入。しかし、実際には13km/Lだったとのこと。バッテリーは劣化する。この点はどう評価されたのだろうか。激しく劣化すれば複雑なハイブリッドシステムは逆に重さと抵抗の面で足かせになる。

 日本ではどうなっているのだろうか?カタログスペックと実燃費に大きな差があることは前から指摘されていたが、私が知る範囲では裁判になったことはない。日本では力タログ値は国土交通省がの基準に従って、無風でチリ一つ無いような環境下で専門のスタッフで計測されるらしい。はるか前は10モードのような基準もなかった。スペックと実燃費の間に20-30%の差はあるものとユーザーには暗黙の了解があった。昨年からは実測値により近いJC08モードの測定結果の表示が義務になった。

 エコカーは第一が燃費だから注目されるのは当然だが、わが国の価はあまりにも差が大きすぎる。最近のプリウスはJC08モード32.6Km/Lとうたっているが、一般のユーザーは19Km/L程度らしい。新基準の60%、旧基準では50%のレベルである。ホンダのインサイトも27・2Km/Lに対し18Km/L、マツダデミオも25Km/Lに対して約17Km/Lだとの言う。
 米国の基準は市街地走行と高速道路の燃料消費が別に掲載されていて、プリウスの場合、それぞれ約22と約20Km/Lと実用値に近い。何で同じ車なのにこうも表示が異なるのだろうか。メーカーも問題だが、国交省もユーザーにも問題がある。


2/28(火)曇り・寒い  外来  
1:00起床。新聞・文献など。税金の申告の準備など。7:00病院。回診など、8:45-13:45外来、16:10帰宅。本読み他、夕食、20:30就寝。??

エコカーが多様化してきた(1)燃料消費の計測値も変わった  
 普通自動車の燃費は10・15モードで測定されて来たが、測定が実際の使用条件と離れていて実用燃費との差が大きかった。2011年4月1日以降に認定を受ける自動車は、実際の走行パターンに近づけたとされるJC08モードでの燃費の表示が義務付けられた。車のカタログなどで40.0(35.4)Km/Lとあるが()内の数値がこれである。
 私はプリウスのユーザーである。2005年、車を購入せざるを得ない状況になってやむなく購入したが、その際は車のコンセプトで選んだ。当時はエコカーとしてはハイブリッドのプリウスが代表的であった。メリットは誰しも分かっていても高額感があってそれほど普及していなかった。その後、ガソリン価格の高騰、地球環境保護の高まり、加えてエコカー減税と補助金導入などで急速に販売台数を増やし、現在国産車の販売台数の中ではトップクラスを維持している。

 プリウスも改良が進んだ。排気量が300cc増えて1800ccとなった。私は車は1500cc程度が最も効率が良いと考えていたが、排気量を高めたのは高速道路等での使用を考えてのことらしい。私のは電池だけでは1Kmも走らないが、最近のは電池容量が増えたと言う。電池だけで26.4Km走れるプラグインタイプのプリウスも発売された。更に、より小さめのアクアを発売し、カタログ値は40.0(35.4)Kmで予約後納車まで数ヶ月待ちほどと大好評という。トヨタは今後もハイブリッド車種を増やし増産体制を敷くと言うが、一方ではレアメタル入手困難の話題あって、こんな状況でも増産し続けられるのだろうか、とも思う。
 エコカーと言われるジャンルの車が増え多様化した。第3のエコカーと言われる低燃費ガソリンエンジン車、クリーンディーゼル車、ハイブリッド車、電気自動車の4種類となった。
 電気自動車は2車種市販されているが、電池容量の点から航続距離は日産のリーフは200Km、三菱の軽のミーブは180Km、または120Kmと制限がある。日常の使用には十分であるがこの点がネックとなる。
 低燃費ガソリンエンジン車はマツダのデミオが注目されている。1300ccでピストンの上下運動の長さを伸ばして効率を上げ、30.0(25.0)Km/Lである。クリーンディーゼル車はヨーロッパで普及しているが、国内で先月発売されたマツダのCX-5は20.0(18.6)Km/Lとなっている。
 車がクリーン化していくことは良いことだ。ただ、どんなに改良型であってもCO2は排出する。また、車を持たないと多くの人は生活できない。そんな社会構造になっている。だから、エコカーを購入してなおかつ出来るだけ乗らないように工夫するのが現時点での最良の選択肢である。


2/27(月)曇り寒い 外来 
1:50起床。録音、文書整理、徒然他。7:00病院着。7:45回診、8:30-13:10外来、人数的には比較的余裕あっても時間はそう短縮できない。16:00帰宅、新聞読み、ヘッドフォン改良。19:30夕食、20:30就眠。

生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(5) 現代版浦島太郎(2)
 最近の高齢者は「浦島太郎」に似ている、と思う。

 私は職業柄多くの高齢者と接して来たが、思うことは、高齢者は70-80年あるいはそれ以上、日数にして25.000日以上も生きて来たのに、長生きしたという自覚に乏しく、急速に進む老化を自覚してから意識し「歳は取りたくないものだ・・」等と嘆いている。要するに、自分自身の感覚としては突然歳を取ったという感覚の方が勝り、毎日毎日の積み重ねの結果で今日があるのだという実感、感慨が乏しい。
 これは浦島太郎が玉手箱を開けて老化した時の感覚そのものに近い。

 私は10世紀前の人達が童話の浦島太郎を通じて伝えたかったことは、何だろうかと思う。弱いものいじめに対する戒め、弱いものを保護する大切さ、恩返しの大切さ、が第一義的なのだろうと思うが、ならば何で一瞬で太郎を老け込ませると言う、懲罰的な終末を用意したのか?

 私はむしろ「光陰矢の如し」「時は得難く失い易し」「時は金なり」「時は人を待たず」「少年老い易く学成り難し」・・などなどと同様に「時間の大切さ」に対する教訓を伝えるものだと解釈している。我を忘れて遊びこける、あるいは無為に過ごすことは人生を無駄にする事になる、と言っているのだ。

 加えて、ファーブルの昆虫記を読むと、昆虫たちの時間の推移は一体何でコントロールされているのか、と思う。一斉に誕生し、長い時間かけての成長し、繁殖行動後に直ぐに迎える死、これらの行動を支えるセンサーは何だろうか。また、短命の昆虫たちの時間感覚はどうなっているのだろうか?興味は尽きない。ヒト以外の生命体、生物の命の密度を考えてみたい。

 私自身が自覚すべきは時間感覚が鈍くなっている、と言うことである。不自由もないし、通常に歩いているつもりであるが、廊下で若いスタッフに追いつかれる様になった。かつての私は年長のスタッフを追い付きくのも追い抜くのもとてもストレスで歩く速度を調節したものであった。今は後ろに付かれることがストレスである。だから、そんな気配を感じたときには足早にしたり、脇に寄って先に行って貰う。私の時間感覚がずれてきた所以だろう。だから、より一層時間を大切にしなければならないのだ、と思う。


2/26(日)曇り・小雪  
2:10 起床、徒然など。ヘッドフォン・時計修理など。16:00−18:30病院重症者回診他。録音・画像データ整理。夕食、20;15就寝。


生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(5) 現代版浦島太郎(1) 
 『昔むかし、浦島は助けた亀に連れられて、龍宮城へ来て見れば、絵にも書けない美しさ。乙姫様の御馳走に、鯛やひらめの舞踊、ただ珍しく面白く、月日の経つのも夢の中。遊びに飽きて気が付いて、お暇乞もそこそこに、帰る途中の楽しみは、土産に貰った玉手箱。帰って見れば、こは如何に、もと居た家も村も無く、路に行き会う人々は、顔も知らない者ばかり。心細さに蓋とれば、開けて悔しき玉手箱、中からぱっと白煙、たちまち太郎はお爺さん。』
 上記は童謡の浦島太郎の歌詞である。童話の浦島太郎の話そのものがこの短い歌詞にほぼ込められている。

 童話を読むのは楽しい。童話にいろいろな言い伝えや教訓が描かれる。浦島太郎は古くから伝わる日本のおとぎ話の一つである。この話は矛盾も疑問もある。開けてはいけない玉手箱を何で持たせた?など理解出来ないが、おとぎ話はそう言う点を認めながら読むのが面白い。

 最近の子供達はこの様な場面設定を理解出来ないようだ。太郎は海の底で何で呼吸が苦しくないのか等と質問してくると言う。想像力が欠けているのだろう。読み聞かせ、かたりもちょっとしたブームであるが喜んでいるのはいい年した大人で、子供達の反応はクールだという。映像文化がもたらした影響の一つと思う。

 それはさておき、浦島太郎の中で最も飛躍しているのは時間感覚についてである。
 竜宮城で太郎が過ごしたのは僅か数日だったが、地上ではその間に700年が経っていた。人には「歳と共に時間が過ぎるのが早くなる」、「楽しい日々はあっという間に過ぎ去る」と言う感覚はあるのだが、そんなレベルで理解し得ない様な著しい時間差である。

 この様な不自然な設定の中で、物語として何を伝えたいのか、童話として子供達に何を伝えたいのか、が今ひとつハッキリしない。
 この物語の原形は8世紀に書かれた「丹後風土記」に出ているとされる他に「日本書紀」や「万葉集」にもあるという。どうして現代に至るまで童話として確固たる位置で存在し得たのか?

 「生物にとっての時間とは命そのものである」と私は思う。だとすると、浦島太郎は何歳まで生きたと言うべきだろうか? 郷里は時代も様子もすっかり変わっていたから、設定通り亀を助けてから700年も、しかも老化もせずに若さを保ったまま生きていた事になる。すなわち、超長命である。一方、浦島本人の主観的感覚では亀の背に乗ってからたったの数日間で一気に老化してしまったことになる。その後の太郎についてはいろんな説があるが、間もなく死んだと言う版に従えば短命だったと言うことになる。


2/25(土)小雪のち曇り 歯科受診 
 1:00起床、文献・本読み、徒然他ゆったり過ごす。昼頃、雪に埋まっていたホンダ・デルソル掘り出す、充電、エンジンは快調に回った。午後、マウンテンバイク整備。16:30−17:00佐々木歯科医院受診、録音整理、夕食、20:00就眠。

生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(4) ファーブル「昆虫記」が面白い
 人間は社会を形成して生きている。しかし、各人は自分にしかない五感で、見て、観て、読んで、聴いて、触って・・で、自ら形成した世界の中でのみ住んでいる。たぶん、これは各個人の独自の世界であって、極言すれば、誰とも共通しない、出来ない、固有の世界である。簡単に言えば各人が異なった種類のサングラスをかけて生きているようなものであって、同じ対象物を見ていても誰一人として同じふうに見えていない。更に言えば、例え同じ人間であっても、長年暮らした夫婦であっても、親子であっても、互いに全く異なった世界の中に住んでいる、と言う事である。

 人間なら、同じ国民だとか人種、宗教、資格や仕事とかが共通だと言うような外的要因から生まれる共通点がある。さらに、個人的な価値観や生きる指向性のホンの一部が同じ方向に向いている、と言う程度の共通点があり、それで家庭を、社会を形成していることなのだろう。実に危うい関係である。
 この様な個別性を考えると、人は真に自分以外の人を理解出来るのか、お互いに真から共感できるのか、と言う点では私はとても懐疑的である。いや、それ以上に強くそれらを否定する立場に立つ。

 人間以外の動物に目をうつすと話しはより分かりやすくなる。身体の構造も知能も生活も全く異なるから、動物と人間が同じ感覚を共有出来ると考えない。どだい不自然である。
 ペットと飼い主が見つめ合っているシーンなど良く紹介されるが、そこに共感はない。互いの別々な思惑でたまたま見つめているだけ。ペットフリークは自分で良いように拡大解釈して感想をまき散らしている。何と感じようと自由だが、私からはバカに見えるし、新聞紙面など勿体ないように思う。相手のペットに確かめたら、本音を聞いたら、恐らく飼い主は一瞬で地獄に堕ちるだろう。人間関係と違って、自分勝手な解釈が成り立つから良い関係である、と言えば納得できる。

 人間以外の生きものの生態は意外と知られていない。ウナギやアナゴなどの産卵場所と思われる海域がやっと最近分かってきたが、彼らは何のために、何に誘われて日本まで来るのか、分かっていない。大きめの動物、特に、ほ乳類、脊椎動物ならば生態を知識として知る機会も多いが、小動物、とりわけ昆虫になると名前と姿が一致すればいい方でその生態は殆ど知られていない。少なくとも私はまだよく分からない世界である。

 ほ乳類、脊椎動物からこの世界はどの様に見えているのだろうか? 昆虫にとってはどうなのか?動物の感覚器の機能をもっと知りたい、と考えている。その点でNHK-TV日曜19:30から放映されるドキュメンタリー「ダーウインが来た」は参考になる。しかし、編集者の意図がみえみえで嫌になることもある。動く図鑑として淡々とやって欲しい。

 小動物に関して私はいまファーブル「昆虫記」に取り組んでいる。読む度に驚くことばかりである。良い作品を残していってくれたものである。


2/24(金)降雪曇り 
1:20起床、いつもの如く。7:00病院着、回診他、患者対応、書類処理、文献に集中。16:00帰宅、本読み、楽器練習。夕食、20:30就眠。

湯たんぽ、湯湯婆 昔の生活を思い出すほのかな暖かみ
 私は湯たんぽを離せない。電気敷布や電気毛布を用いたことがあるが、子供達が家を出てからの10数年はもっぱら湯たんぽである。

 私が書斎として用いている部屋は北側に面しているためによく冷える。真冬にはその弱点を生かして生鮮食品等の貯蔵室になるために、暖房が必要になると居間で過ごすことになる。この期間は食事から本読み等のデスクワーク、運動、楽器練習と全てを居間一室で行う。さらに、寝るときはソファーベットを伸ばして布団を敷く。要するに機能的にはワンルーム生活である。一応、25畳ほどあるので少人数で暮らすにはまず十分である。

 だから、布団はそれほど冷えているわけではない。それでも私は連日湯たんぽを離すことはない。流石に夏の間は用いないが、部屋の暖房よりは使用期間がずっと長い。別になくても困らないのだが、無いと寂しい。毎晩、高齢になって背も丸くなってきた賄いの石井さんが用意してくれるが、湯たんぽは漢字では「湯湯婆」と書くが、昔の家族の関係や暖かさが何となく分かるなァ、と思う。私は布団に入るとすぐに 引き寄せて胸と腹に密着して暖まる。

 私が湯たんぽを好むのは、小一から高校卒業まで一緒に過ごしたネコとの生活を思い出すからだと思う。当時の暖房はこたつか火鉢で、部屋は寒く、布団は実に冷たかったが、毎晩互いに暖め合って寝ていた。再びネコを飼う気になるのに20年ほどの期間が必要であった。2年前まで3匹、いまは2匹いるが、私との仲はあまり良くなく、布団にもぐってくることは一切無い。私にとって昔のネコは別格であり、湯たんぽを用いる度にこのネコと当時の生活を懐かしく思い出す。

 私の用いている湯たんぽは岐阜県多治見市の製陶所の製品で茶色で波模様のあるオーソドックスな形と色である。金属製、プラ製のもあったが、やはり陶製が一番である。欠点は滑りやすく割れ易いと言うことで、昨秋も落として割ったが、すぐには手に入らない。秋田市の瀬戸物専門店を通じて注文し届くのに3週間もかかった。これを厚手のタオルでつくった袋に入れ、更に長女が編んでくれたニットの袋に入れる。これで適温で長時間維持出来る。さいわい低温やけどなど起こしたことはない。朝は温んだ湯も有効に使われるらしい。

 財団法人製品安全協会の推計では湯たんぽの出荷数は2004年までは年間100万ヶ程度であったが、可愛いデザインのプラ製のがヒットし08年度で890万ヶまで増え、いまもその傾向が続いているという。
 


2/23(木)晴れ、春めいてきた 外来 
1:30起床。いつもの如く。7:00病院着。回診他、8:45-13:30外来、比較的余裕。医局の会議室では「インフルエンザ対策会議」が開かれている。16:00帰宅 。読書、文献読み、楽器他、夕食。20:30就寝。

身体に触れる、触れられる(2)皮膚感覚の重要度は状況によって異なる
 患者の立場では入院と外来は大きくな差がある。
 外来受診は患者にとって生活のほんの一部でしかないが、入院となると社会から引き離され、24時間医療環境の中での生活となる。だから、患者個々に状況は違うが、医師や看護師との関係も外来とは異なることになる。対応も診察も変わってくる。

  特に症状はなく、検査や化学療法目的の場合と、病気が重くなって治療目的で入院する場合は別である。私は毎朝回診するが、前者の場合は外来の延長だから何か新しいことがなければ殆どは会話と観察だけにしている。後者の場合は具合が悪いところがあり、終日病気のことを考えていることなども考慮に入れてより丁寧に対応する。その際、触診は欠かせない。

 皮膚は感覚器として極めて重要で、乳幼児期には感覚の中心であるが、成長するにつれて他の感覚器官、すなわち視力、聴力が著しく発連し、日常の中では皮膚感覚の意義はそれほどの意味を持たなくなる。大体、皮膚感覚が意味を持つ状況下で仕事なんか出来るはずはない。だから、セクハラなどと騒ぐ状況下ではそれほど感じていない、と私は思う。私はその方面の趣味は無いが、痴漢行為は何が楽しいのだろうか。私の理解の向こうにある。

 しかし、皮膚感覚はひとたぴ状況が変わると一変し皮膚感覚の持つ意味が増すことになる。具合が悪くて病床に臥した場合はその一つである。
 この様な患者は具合が悪いところに全神経が集中し、自らもその近くに手を添えていることが多い。だから、回診時に私もそっと手を添える。その際、私の第一の目的は当該部位の変化を察知する触診であるが、もう一つの目的は「手当」効果である。患者は触診されると安堵するのか、例え触診が多少の痛みを与えることになっても責められることはない。この様な限られた状況下では触ると言うことの意味は大きく広くなる。医療が今ほど発達せず治療が少なかった頃でも、今でも「手当する」ことの意義は大きい。

 隣のネコの話であるが、死戦期にあったとき頻回に痙攣発作を生じたが、飼い主が身体に触れるとピタッと止んだ。何度かの痙攣の時にそれを実際に目の当たりにし、触ることの意義を再確認した。また、一度心肺停止となった患者に家族が取りすがった途端、心拍動が30分にわたって再開した経験がある。

 私は人の身体に触れるのを好まない。それ以上に、嫌である。
 かつては医師は私に合った職業だと思って生きたが、こんなこともあって最近ではそう思えなくなってきている。ただ、発達した医療機器でかなり助けられ何とかなっていると言うことである。


2/22(水)晴れ 外来   
1:30 起床。新聞・文献など。6:45病院着。回診、8:45-13:50外来。16:00帰宅。途中いつもの書店に寄り10冊ほど仕入れる。庭の雪崩し・氷砕き。新聞・文献、自転車こぎ、楽器など。夕食、8:30就寝。

身体に触れる、触れられる(1)医療上で必須なんだけど、つらい
 いまさら何であるが、私は内科医をやってきた。まだしばらく続けていく。何でこんな表現するかというと、私は患者に触りたくなくて、この面から見てあまりいい内科医でなかったという反省し始めているからである。
 医師ならば、とりわけ内科医は患者の身体に触れて内部に起こっている事情の情報を得る。患者に触らずに出来ない仕事と言って良いほどである。
 患者に触ることは、診療上では欠くべからざることであるが、分かっていても私にはとても辛いことである。今まで患者の身体に出来るだけ触らないようにしながらやってきたことに改めて自責を感じている。

 私は他人の身体に触るのがとても嫌である。しかし、診療にあたって欠くべきでない、と判断した時には勿論触診を行う。それまで避けることはない。

 一方、自分が触られるのは更に耐え難く、鳥肌が立つ。唯一、止むナシと割り切っているのは理髪の時だけであるが、それでも可能なだけ回数を減らしている。実際に触られなくとも他人が近くに立つだけでも緊張する。
 他人のことは知り得ないが、誰でも身体に触られるのは嫌ではないかと思うのだが、必ずしもそうとは言えない。わが家の家族は旅行などの歳にマッサージを依頼するし、家内は日常的にも週一回定期的に受けに行く。とても良い気分なのだそうだが、私は一度も経験はない。
 患者の立場では、医師に触られることに違和感はなさそうであるが、日常の場面では、相手とさわり方によるだろうが、一般的には触られるのは嫌なのだろうと思う。ただ、若い、あるいはそれほど若くない看護師に狭い通路等でたまたま触れたのにセクハラなどと大騒ぎされると、これまた不快である。そんな時には「10円拾って逮捕され、留置場に入れられたようなものだ」と説明すると、それほど低い評価もセクハラだ・・と言う。セクハラに関しては女どもは騒ぐことを楽しんでいるようだ。


2/21(火)晴寒波緩む 外来  患者・家族面談  
0:30起床,文献、本読み他、6:45病院着、回診。8:45-12:45外来。余裕があった。16:00帰宅、自宅前の雪排除、氷砕き若干。新聞チェック。楽器若干、夕食、22:00就寝。

生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(3) 視線の高さの違いも大きい
 わが家で今はネコが2匹いる。
 年齢不詳ヨボヨボのブチと6歳ほどのクロである。後者はチビの頃からわが家にいるがなかなか人に慣れない。僅かの期間ながら生まれ落ちてから拾われるまでの生活環境が厳しかったためと思うが、ヒトと親しい関係になるという発想が乏しい。6年ほど経過して、若干は恐れると言った感情はなくなり、早朝には私にちょっかいを出す様になって来た。未だに不用意に手を出すと引っ掻かれたり囓られたりするので注意しながらコミュニケーションをとっている。このネコは一体何を考えているのだろうか。理解不能である。

 先週末、時間があったので30分ほど、このクロネコを相手に遊んでみた。親しくなるには相手の立場により合わせればどうか、とヒゲも伸びたし、と私が這いつくばって相手の視点の高さにしてみた。いつもよりは警戒感をといてくれたような気がした。床面に這いつくばって追っかけたりしていると、側を歩く家内、キャスター付きのワゴン等が巨大で、倒れて来たら圧死する!!と恐くなった。
 ネコは人間と共に暮らすなかで体格の差をどう感じているのだろうか。ヨボヨボのブチはちょっと無防備過ぎるのではないか?先日もシッポを思い切り踏んでしまったし、椅子の上にいるのに気づかず腰掛けそうになった。ネコも命がけのはずなのに、こののんびりさは何なんだと思う。それから見るとクロネコの用心深さの方が理解しやすい。

 私から見て、ネコがいつもこんな視点の高さでいるのは気の毒である。テーブルの上にはネコが喜びそうな私の小道具もいろいろあるのに、である。ものを上から見下ろしている私共と見上げているネコでは同じ空間にいても全然違う。視点の高さの違いは情報量としてかなり違う。

 物心付き始めた孫はだっこをせがみ、だっこすると歩き回ることを求める。その間は玩具を持っていてもそっちのけで大人と同じ視点の高さから見える世界に嬉々とする。普段子供から親は、大人はどう見えているのだろうか?
 高身長の人と低身長の人では環境観、世界は異なっているはずである。

 人は他者と生きる世界を共有できるし、他者の気持、例え相手が動物、時に植物であっても、理解しようとする実に不思議な、かつ面白い生きものである。多分、人間以外にはないのではなかろうか、と思う。いや、ペットとの間で十分コミュニケーションがあった、としみじみ語る人は少なくないが、これは飼い主の勝手な思い込みに過ぎないのではないか? ペットは与えられた環境が、餌、安全性、快適性等への打算で都合良く行動しているだけではないだろうか、と思う。

 他の生きものが、あるいは私以外の人がどんな世界に住んでいるのか、決してわかり得ない事だろうが、少しでも近づいてみたいと思っている。


2/20(月)晴れ 
1:00起床、文献・本読みなどいつもと同じ。積雪無し。7:00病院着、回診、以降は事務処理、カルテ記載など。患者家族面談2件。16:00帰宅、路面はシャーベット状でひどい状況。今期これが最後か。新聞・文献などチェック、夕食、20:30就眠。??

書評 秋田の子供はなぜ塾に行かずに成績が良いのか 浦野 弘著 講談社+α新書 講談社 

昨年12月末、秋田市将軍野中学校で教職員の方々を対象に講演した。
 引き受けた時点では医療と教育は、共に人間を対象としているということのほか、例えばスタッフの過重労働や精神障害、モンスターペアレントの問題などで共通な部分がありそうだから「医療人から見た学校教育」あたりについて普段感じていたことをまとめて述べようと準備した。教育関連のスクラップが増えたし、書籍も5冊ほど購入した。結果としては教育界のことについてまとめ切れず医療面のことを中心に講演した。しかし、この期間を通じて教育についていろいろ勉強できて有意義であった。

 この本はその中の一冊である。秋田県は2007、08年に小六、中三を対象に行われた全国学力調査結果で小六で連続一位となり、中三も連続で上位を占めた。初年度はまぐれだろう、との見方もあったが、2年連続同じ結果だったことは全国的に驚きを持って迎えられた。更に、2010年4月に行われた3回目の調査は30%程の学校の抽出方式に変わったが同様にトップクラスであった。ここまで続くと秋田には何か特別の教育環境があるはずだ、それは何か、という分析が欲しくなるのは当然である。

 著者は秋田大学教育文化部教授で秋田県検証改善委員会委員でもある。著者は2009年の段階で2年連続で学力が全国有数であったことを受けてその背景についていろいろな視点からの分析を試みている。まえがきによると著者が到達した結論は「あたりまえの学習環境と生活環境が残っている」こととしている。更に、秋田県は「昔のやり方を変えていないこと」で好成績を修めたとコメントしている。

 内容は、以下の五章に分けられて論じられている。■秋田が大躍進した秘密■親の力が子供を変える■ベテランと若い教師の力■学校をつくる地域、地域の中心となる学校■子供の学力を上げる学習術。更に各章が10程の項目で論じられている。第一章の「秋田が大躍進した秘密」は、大手進学塾、秋田の常識十か条、もとは全国最低レベルであった秋田県・・等が挙げられて記述されている。

 私は読んでみて労作だと思う。
 各章、各項目毎に秋田が他の比較して決定的に優れた点は殆ど無いのにもかかわらず分析をすすめて一冊の書籍としてまとめたと言うことに対しての私の感想と評価である。
 私共の医療の分野に於いては分析をすすめる対象に数値的に表現できる特徴があることが必要であるし、それを欠く場合には何とか客観視できるように努めるのであるが、教育を論じるには数値化は極めて難しいし、データの収集が困難である。だから、各項目毎に筆者の感想が中心になって論旨が展開され、どちらかというと論理性が乏しく、随想的内容になっている。同じ教育者であるという筆者の立場からはどうしても一般論的にまとめざるを得なかっただろう。だから、この本を通じて著者の主張から秋田に特有のものをくみ取ることが難しい。著者自身も結論を前書きの如くにせざると得なかったと思う。 

 気負ってこの本を読んだ方はつかみ所が少ない、と思っただろうし、秋田に住むものであれば「フンフン、何となく分かるなァ」と言った感想を持つのではないだろうか。
 まず、機会があったら一度は手にとって見ることをお勧めしたい本である。


2/19 (日)快晴 
 2:00起床。新聞文献処理、録音データ処理など。積雪6−7cmほどで7:30−8:30除雪。9:00盛岡へ向かう家内駅に送り病院、10:30帰宅。午後の日差しは春の訪れを思わせる。ヘッドフォン修理、午睡、14ヶ月振りに楽器取り出し若干練習、時間的に若干余裕が出てきた。夕食、 20:30家内を駅に迎え、21:00就寝。

秋田の雪11−12年(3)昨年との比較では?
 昨年暮れ頃から寒波襲来、結構雪が多かった。私も12月24日以降、連日自宅や路地の除雪に追われた。昨年も多かったが本格的に降り始めたのは1月10日過ぎからで、今年は20日以上早かった。

 秋田地方気象台によると、12月の降雪は秋田市で99cmで、ここ60年の中で5番目と言う。年末年始頃、市の除雪は不十分で苦情や間い合わせが一日500件ほどあったことが地方紙に掲載されたが、それ以降も降雪が続いたが、市民も慣れたためか、諦めたか、あるいは北陸地方を中心とした異常降雪のニュースが連日報じられたためか、役所への苦情のニュースは影を潜めた。大雪に伴う除排雪費の増大で自治体の財政圧迫も深刻になっていて、秋田市では、除雪費が3度にわたる追加補正で約30億円に達した、というから除雪には対応しているのだろう。ただ、それが見えない。

 秋田は昨年暮れから青空を見ることが少なく、週の半分ほどで雪が降ったが、北陸や山形、青森に比較すると降雪量は相対的に少ない。それでも例年より3倍ほどと多く、雪下ろしや除排雪中の事故が頻発し、けが人は150人に及んでいる。死亡は12名で、屋根から転落2人、除排雪作業中3人、落雪3人、雪崩3人、その他1人で、今月1日に玉川温泉の雪崩で湯治客3人死亡した。全国の死者数は82人と言う(魁新聞)。10日ほど前の集計だから実際にはもっと増えているかもしれない。

 秋田市周辺でも高齢者世帯、あるいは独居が多く、外来患者の主たる話題は雪下ろしと除雪である。転倒して大腿骨、手首等を骨折し搬送される患者も例年以上に多い。

 昨年は2月10日の15cmの降雪をもってピタッと降らなくなったが、今年は昨日18日に同程度の降雪があり、それが溶けて本日の帰路は路地はひどい状況になっている。ただ、垣間見える日差しはすっかり春のそれであり、まもなく雪との闘いは終わりになる。
 昨年の寒波大雪は北極圏の気圧が高いために偏西風がより南下し、北極の寒気団も南下したから、という。今年は太平洋北部に「居座り高気圧」があり、偏西風に押されて東に移動する低気圧が、高気圧に行き先を阻まれて動きがゆっくりになったためという。
 ただ、何でこんな現象が起きているのか、環境破壊、温暖化との関連については明快な説明は出来ないとのことであった。


2/18(土)寒波・降雪 飯川病院日直
1:00起床。文献,新聞整理他、録音データ整理一段落、今後は如何に利用するかに移る。午前から降雪が凄い。日直で除雪できなかったが15cmほど。17:10病院に移動、回診。18:00帰宅、近所の方が除雪してくれていた。感謝。本読み、夕食、21:00就寝。

生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(2) オーディオ、音楽の場合
 私は音楽を聴くのが好きで10数歳から現在に至るまで飽きもせず聴き続けてきている。それなりの再生装置を用いて来たが、私の聴力の衰えと共に、今聴いている音は、同じ音源、装置であっても昔とは別なふうに聴こえているという事になる。

 聴覚が鈍くなってきていることはよほどの障害でも来たさない限り自覚することはない。現に、私は聴力に自覚症状はなく、自信を持って検査を受けたのであるが、13.000Hz以上の高音域は全然聞こえずショックであった。
 私は一時オーディオ装置に凝ったことがあるが、30代で撤退した。当時高額で評判の高かったYAMAHAのプリアンプC1が故障した際に、代用とした廉価のテクニクスのプリアンプとの間で音質の差を聴き取れなかったからである。両者の値段の差は5-6倍もあったのに・・・・である。で、機器に投資することに空しさを感じ、以降、針はDL-103、プリは最安価テクニクスに米国製管球アンプ、英国製スピーカーGRF memoryで、いずれも30年以上前の製品だから音域もDレンジも狭いと思うが、音楽を楽しむのに問題は一切無い。

 先日、オーディオの専門誌なるものを手に取ってみた。組めば簡単に500万円超になる製品が多数掲載されて、老練の評論家達、いずれも中年以降の方々が高く評価し、熱っぽく語っていたが、彼らの衰えつつある聴覚で音の微妙なニュアンスは聴き取れているのだろうか、と思った。評論家の方々の聴力を確認したいものである。

 音楽家のうちで、指揮者は細かい動きを必要としないだけ演奏家としての寿命は長い。70歳代どころか90歳近くまで現役にいる指揮者も希ではない。何度も録音を残している指揮者の場合は、加齢と共にテンポは確実に遅くなり、きらびやかさが乏しくなる。これを枯淡の境地と称して崇める向きもあるが、老人の音楽であって私は楽しめない。時間感覚が鈍化して遅くなり、演奏もろくに聴こえないから大雑把になっているのだろう。加えて、用いる装置による減衰、部屋の音響効果の影響、個々人の聴覚の衰退など考慮すれば、個々人が聴機能に応じて少しずつ異なっている音を聴いている事になる。尤も、それぞれにどのように聴えているのかなど確かめようもない。演奏会やオーディオなど、音楽は楽しめればそれで良いのだが、何が何だか分からない世界である。

 ちなみに、私が所持している音源はカラヤンとBPOの演奏が多い。同じ曲の録音も何種かあるが、80年代後半ころの優れた録音よりも、録音は劣るが1960年代の旧い盤を私は好んで聴いている。


2/17(金)晴れ・寒波 入院患者,書類対応
1:20 起床。文献チェック、徒然など。7:00病院着。 回診。8:00入院患者家族面談。以降は患者関連書類、紹介状他に集中。16:10帰宅、本読み、録音データ整理、夕食、 20:30就寝。

生物は、人も含め、みんな、ちがった世界で生きている(1) 加齢による変化
 年齢と共に、私にとって過ぎ去る時間が非常に速くなってきた。これはデータに基づいたのもでなく、私の個人的な感覚であるが、一般的にも言われているし、高齢者が書く随想などにしょっちゅうとり上げられるから、ほぼ万人に共通の感覚なのであろう。

 学術的な研究の対象にもなっていて「Janetの法則」とされる知見もあり、論文や本も出版されている。この時間感覚の変化は私も興味を抱いている。私もいろいろ読んだが、一川誠・著「大人の時間はなぜ短いのか」、本川達雄・著「 ゾウの時間とネズミの時間」は教えられるところが多い本であった。

 この時間に対する感覚は、変化がとてもゆっくりだから日常的にはそう意識しないのであるが、暦などで節目節目を意識した時などに感じ取る。 要するに、若かった時と今では異なった時間感覚の中にいるということである。

 ところが年齢と共に変化するのは時間感覚だけでない。
 私たちは五感すなわち、視・聴・触・嗅・味感覚を通じて体内外からの情報を察知し、それを脳で統合して感じて評価している。実際には感覚は五感だけではなく、前述の時間感覚や倦怠感とか浮球感、恐怖感などもあるから、九感とするのが良いという説、20種類以上もあると言う説もある。まあ、一般的には五感で十分であろう。

 この五感は発達にかなり時間がかかるし、その情報をどうとらえるようになるかは文化や教育も関連してくるから複雑である。その一方では衰えるのが早く、ベストな状況はせいぜい40歳程度までと短い。例えば視力の完成は6-8歳とされているから就学前の子供と大人は同じものを見ていても同じに見えていない。聴力は30歳以降衰え始め、40歳にもなればモスキート音とされる超高音域の音は例外なく聞こえなくなっている。この高音域は音楽の分野では倍音成分として微妙なニュアンスを醸し出すから意義が大きいが、高齢になるにつれて意味は乏しくなる。

 この様に、同一人でも加齢によって感じ取れる世界は違ってくると言う事になる。ましてや個体差も考慮すれば、極言すれば百人百様の世界に住んでいることになる。


2/16(木)晴れ・寒波 外来 電子カルテ操作講習会
1:30 起床。、6:10病院着、6:45回診、8:45-14:00外来+患者家族面談、15:30銀行スタッフ来訪、16:00-17:15電子カルテ化研修会。複雑で患者を前に対応できるか不安。電子カルテのために転職した話を聞くが,人ごとでない。17:45帰宅、病院駐車場で氷に足を取られ転倒、怪我無し。本読み、夕食、20:20就寝。

医師と患者関係(4)加齢に伴う変化であることの自覚の誘導も重要
 医師・患者関係は頻回に論じられている。待ち時間短縮、患者様などと呼ぶ、療養環境を整える・・などなど。しかし、医療にとって一番大事なことは「患者・病気関係」の自覚の誘導である。
 この関係が近代医療においてはお座なりになってきたが、それとと共に患者医師関係にすり換えられ現場に混乱をもたらし、患者・医師の関係を悪しきものにしている。医療技術が発展してかなりの病気がコントロールできることになってきたこと、情報が複雑で患者から実際の医療が見え難くなってきたことが「病気を治すのは医師、専門家」という考え方になってきた一因の様な気がする。

 確かにそうのように見えるところもあるだろう。外科系の疾患の治療体系などはまさしくそうである。苦痛を伴う医療行為を受けるのは患者自身である。
 しかし、どのような治療であれ、患者が耐えられるか、治癒力がどれだけあるのかに負っていることからみても主役は患者自身であってどのように優れた手術手技であっても治療する側は脇役である。内科系の多くの疾患、とりわけ慢性病、生活習慣病の分野では言うまでもない。治るのも死んでいくのも患者自身。その意味では患者は常に主役である。

 不安、不満を自分以外の何かに転嫁することは、社会の動き全体にもあるのだが,医療の場合に於いては担当する医師が十分に機能を発揮していない、と言うことの現れでもある。患者の闘病に真剣に立ち会い、寄り添い、良き仲介者として能力を発揮するのが、優れた、親切な医肺である。そのためには、温かい笑顔とやさしい言葉遣いで人に接することが必要である。穏やかでやさしい表情を持つこと、思いやりに満ちた言葉をかけることは「無材の七施」と言われる中に含まれているが、人に接する際の最上の態度であり、医療関係者にとっても大切なことである。

 私は自身の診療態度がベストなどとは思っていない。医師に相応しいキャラクターを有しているとも思っていないが、医療者が身につけるべき技術の一つとしてそうありたいと思ってはいる。ただ、患者や家族に対する病状説明には十分配慮しているつもりである。 
 その際に、医療の限界についても説明し、結果的にたどるであろう先々のことまで言及することが多い。患者・家族は医療に過剰な期待を持っているが、不適切な期待はを抱かない様に配慮する。
 高齢の患者には「年のせい」という説明を頻繁に用いることになるが、この点が意外と患者・家族と考え方が一致し難い分野である。


2/15(水)曇り・再び寒波 外来 
1:20 起床。いつもの如く。降雪なし。7:00病院、回診、8:40-13:50外来、16:00-帰宅。録音データ整理、本読み。夕食。20:30就寝。

医師と患者関係(3)病気と対峙する自覚を誘導すべき(1)
 昔の医師・患者関係をパターナリズム、上下関係とみなし、患者から、社会からは旧き悪しき時代の例として話題になる。
 確かに、当時、医師は自分の非力を隠すために、責任を背負う振りして権威を振りかざし、患者とのコミュニヶーションを絶ち、結果が悪しきときは十二分に頑張ったのだが、病気には勝てなかったとのだ,と保身を図っていた、と思う。医療の限界、医療の無力さを最も分かっていたのは医師だったからであった。

 類似のことは時代が新しくなって、悪性疾患の病名告知の是非が盛んに問われていたとき,一番躊躇したのは古い考え方の医師達だった。経過途中で何らかの手違いで病名を知った患者の例をいろいろ挙げて、病名告知が患者の残された人生のためにならない、と一見患者のことを考えての事のように論じていた。しかし、本態は病名告知した後の患者と自分との医師患者関係の維持に自信を持てなかったためである。このときの背景も医師の保身であった。

 医師・患者関係を論じたエッセイや論文やガイドはよくある。しかし、医療にとって一番大事なことは「患者・病気関係」なのだ、として論じている意見は決して多くない。これはあまりにも当たり前の関係の事なのであるが、現代医療の中で軽視されている。理解し難いことである。

 医療の中で重要なのは患者医師関係などでなく、患者・病気関係にある。医師は患者と疾患との間に立って、患者の闘病意欲を高め、患者の状態を良き方向に治療し,良き生をまとう出来るよう、専門家として手を貸していく立場である。医師が治せる病気,機会は決して多くはない。医療現場におけるこの一番大切な関係が近代医療においては患者医師関係にすり換えられている。

 このことは医療現場の混乱のもとになっており、患者と医師の関係を悪しきものにしているルーツである。
 患者の不安の対象はあくまでも自分の病気であり、実際に恐れるべきなのは、例えばがんであったり、心筋梗塞であったり、自分の病気の経過、時には死そのものである。このように、「疾患と身体の間に生じる力関係」こそが重要である。なのに、患者の不安、不満の対象は疾患そのものでなく、医師との関係に転嫁される。「治してくれない」,「治らない,効かない・・」が一例である。
 勿論、これにはそれなりの背景がある。


2/14(火)晴れ 外来  
1:10起床。録音データ整理、本読み他いつもの如く。7:00病院着、回診他。8:45-13:50外来。インフルエンザ猛威。16:00帰宅、新聞他処理、18:00微睡。19:00夕食、20;30就寝。


マイペースで(12)伸びたヒゲ(4)安部公房「他人の顔」を思い出した
 ここ数ヶ月、職場ではマスクを離すことが出き難くなった。数年前から業務で着用が日常化していたのであるが、とりわけ手放せなくなった。

 マスクの主目的は衛生上の目的であるが、今は無精ヒゲ隠しも大きな目的の一つになった。別に無精ヒゲを隠す必要は無いが、初対面の患者、あるいはまだヒゲ面に気付いていない患者が不潔感を持つと困るので、病棟や外来診察室ではマスクで隠している。それが、最近はヒゲでマスクが浮き上がって困っている。 

 最近、中高校生達が別に病気でもないのに、顔を隠すと安息が得られるから、四六時中着用することが流行っているという。確かにその心理効果はあると私も思うが、その目的で着用するのは人とのコミュニケーション上、相手の方に対して失礼である。対話の際には原則的にマスクは取るべきである。

 最近の各医療機関は院内外向けのパンフレットを発行している。それに医師の顔写真が掲載されるのが一般的であるが、中にはマスク顔のままの写真が掲載されていることがある。写真撮影から掲載までの間にいろいろ対応しようがあったのであろうが、説得しかねたか、と笑うしかない。個人情報保護のため?と言うならマスクだけでなくサングラスも付けてはどうか、と思う。??

 ヒゲ面になって私の人相が変わった。最初はただ剃るのが嫌で伸ばしはじめたのであるが、ヒゲを引っ張る感触も楽しいし、人相が変わることに意外と気分がいいと思い始めた。折角、しがらみから離れてマイペース生活に変わったのに一見何も変わらないようでは区切りがなくて何か面白くない。それで、このヒゲ面をそのために利用しようと考えている。無精ヒゲのレベルではいつかは剃らなければならない、と思っていたのだが、生活の切り替えの小道具と考える様になってからは無精ヒゲと負い目に感じなくなった。

 顔は個性が現れる部分だから、顔つきが変わる事は何か楽しい。大げさだが生まれ変わったような感じ、と通じるところがある。
 この感覚が生じた時に、突然、大学生の時に読んだ安部公房の長編小説「他人の顔」を思いだした。爆発事故後のケロイドで自分の顔を失った男を取りあげた作品であった。粘着質の性格の主人公がおりなす心の執拗な葛藤の表現に、作者の天才的才を感じ取って何度も何度も読み返し、その後の作品もフォローしていたが、道半ばにして70歳前に死去された。また機会をえて作者の作品群を読みたいと思っている。


2/13(月)晴れ寒波緩む 外来
1:20 起床、新聞、本読みなどいつもの如く。積雪なし。7:00病院着、回診他、8:45-14:10外来。混雑した。16:00帰宅。室内自転車こぎ、新聞、本読み、夕食、20:30就寝。

映画(33)秋田上映する会主催映画「純愛」 
 1月27日夜、市文化会館小ホールで上映された日中共同映画「純愛」を観た。何かの催し物の際にいただいたパンフレットの中にこの映画のパンフが入っていて、日本の近代史の勉強に少しは参考になるか?と考え、観ることとした。

 一般的に「○○を上映する会」主催の上映とあるとちょっと興味が湧く。内容的にペイしないだろう作品ながら、伝えたい主張が明確で、上映に共感した方々や団体が主となっている。私は昨年夏までは映画館で映画を観たことは殆ど無かったが、この様な趣旨の会の映画は年に1本ほどは見ていた。
 今まで観たこの様な趣旨の映画はこの徒然のメモから抽出してみた。
■カンダハル ーー米国の攻撃で荒廃するアフガニスタン、貧しく逃げ惑う国民達。
■里湖〜八郎潟物語 ーー食糧増産政策で埋め立てられた八郎潟の現状。
■しっこ ーー米国の医療の現状、貧乏人は治療を受けられない。
■ジョンQ・最後の決断 ーー同じく、米国の医療の現状.勝手に切られた健康保険。
■アンダンテ・稲の旋律 ーー家庭崩壊と農業振興に音楽を絡めて。
■ふたたび swing me again ーーわが国のハンセン病行政と犠牲者達。
■いのちの山河 ーー沢内村の医療費無料化対策

 この「純愛」の場面設定は1945年夏の中国。戦争が終わったにもかかわらず中国大陸に渡った日本の若者達や開拓団は、国の庇護もなく厳しい環境の中で何とか日本に帰りたい一心で放浪し、生死の淵をさまよっていた。主人公である若い夫婦はある村に逃げ込むが、村人達は日本軍に家族の命を奪われており、憎悪のはけ口として二人は暴行を受け殺されかけた。しかし、村の老婆の機転で助けられる。二人は次第に村に溶け込むが、夫は抗日軍に殺される。妻は老婆の息子山龍に助けられ、村に残って、助産婦の仕事をして村人を助けながら、やがて山龍と結婚する・・。その後、殺されたはずの夫と再開する。ドラマとしてはこんな感じの作品に仕立てられている。

 これは中国の東北地方の村の実話に基づいた作品と言うことで、制作者にはそれなりの主張点があるのだろう。しかし、かけられる経費も少なかったのだろう、内容的には「自主制作」映画のレベルかな?と思われる。カメラワークは、場面の切り替えが頻繁過ぎて落ち着きのない画面構成になっていたし、一つ一つの小場面が結論的締めがないままフェードアウトし次の話題に移っていくから、何を表現したいのかよく分からない部分が頻繁にあった。また、「純愛」という、背が痒くなる様な題名であるが、名前に相応しい構成や場面が何所にあったのだろうか、と疑問に思った。

 中国の山村の風景、森、現地の生活振りなどの様子には見るべき場面はたくさんあった。また、逃避行等の極限状態における病人の発生や妊婦達の苦難、貧しい山村における妊娠出産などがいかに大変で命をかけたものであったのか・・等は十分に伝わった。
 終演後、この映画の主演・総指揮の小林桂子氏の挨拶があったが、私は会場が明るくなる前に失礼した。


2/12(日)曇り  
1:30起床、医学文献、新聞チェックPDF化など。入院患者に問題なく出勤せず、終日自宅で過ごす。読書、自宅書庫整理、音声データ整理等々で、時間は足りない。19:30夕食。20:30就寝。

マイペースで(12)伸びたヒゲ(4)人から無視されるようになった
 私はヒゲ剃りが嫌いで、10月中旬以降剃るのを止めた。上唇にかかってきた部分を若干切ったが、他は自然に任せて一切手を入れていない。無精髭である。
 
 今、最も長い下あごのヒゲが4cmほどになった。自分のヒゲを引っ張って感触を楽しんでいる。私のひげ面は実に貧相であり、人相も一層悪くなった。それでも家族は剃るべき、とは言わない。院内ではほぼいつもマスクを付けているが、横と下からかなりはみ出てい手びっくりされる。職員や患者がうける印象はいろいろだろうが、患者はおなじみの方々だからそう問題にはなっていない。「クリスマスにサンタの役をやるため」と言っているが、そのうちに不潔だから何とかせよ、と言われるかもしれない。

 剃るのが嫌で伸びただけだが、最近はヒゲの効用が出始めている。自身でもヒゲ面を介して考え方が変わったが、よその方との関係でも変化がみられるようになってきた。これが、予想以上の面白い変化が生じていて、もっともっと伸ばしたいと思い始めた。

 通勤時や立ち寄る書店、コンサート会場などで時折知り合いに会うが、気が付かないらしい。ヒゲ面を機に無視していただいているのかもしれない。私は病院外で業務で知り得た方と会っても自分から挨拶したり声をかけることはまず無いが、声をかけられたときは通り一遍対応するのだが、その機会が減った。こんな事も含めて何かと変化があって、楽しい。

 ヒゲ以外でも過去に似たような体験はある。
 子育ての頃、住居の近くではまだスーパーとかはなく、週末に土崎ジャスコに買い出しに出かけていたが、この時、私が子供の頃から愛用していたジャンパーを着ていた。親ゆずりだから30年以上経った品だろう、変色し、形は崩れ、袖口とかはボロボロであったが、これを着ると安らいだ。家族達が浮浪者みたいで嫌だ、などと言っていたが手放せないでいた。はっきり言ってひどい代物であったが、これを着ていると出会う知人や患者からも明らかに無視された。時折思い出すが、いつの間にか無くなってしまった。処分されたらしい。新書に「人は見た目が9割」といのがあり私も読んだが、見た目が及ぼす影響は結構大きいものである。

 で、私は「話しかけられ恐怖症」なので、かつてのボロジャンパー、最近のヒゲ面は共に私にとって都合の良いアイテムと言うことである。後者はこれから一層役に立つようになるだろう。


2/11(土)建国記念日 晴れ 飯川病院日直 
0:00起床。1:00送別会出席の家内帰宅、いい年してマアこんな時間まで、と驚くばかり。徒然。ほか。6:20-7:30積雪は5-8cmで除雪。8:20-17:00飯川病院日直、平穏に経過。17:30帰宅、本読み他、夕食、21:00就寝。


年金(6)民主の年金試算公表(3)昨日公表、なーんだこんなものか
 民主党が公表を控えたことで新たな論議をかもした党の新年金試算内容は、10日に「社会保障と税の一体改革調査会」の総会を開き、新しい年金制度案について4通りの財源試算を公表した。基本的には朝日新聞紙上にあった、2015年の消費税率10%への引き上げとは別に、約60年後には最大で7%の引き上げが必要になる」というものであった。

 なーんだ、こんなことを公表するか否かを閣内で論じ、国会で論じていたのかと呆れてしまった。

 民主党は野党の要求に沿って公表したのだから、と野党各党に税と社会保障一体改革の協議を呼びかけると言う。しかし、自民・公明両党はこんなあいまいな試算では協議につくことは出来ない、と言っている。

 よく分からない試算である。消費税の増税幅は4通りもある。が、前提となる条件設定が理解しがたいから、結果が読み取れない。民主案には弱者対策という名目のばらまきのにおいが漂う。例えば、自営業者等の所得の申告、把握の仕方によっては最低保障年金の対象者が増える。そんな印象である。それと日本の将来、特に景気、経済基盤がどうなるのか、についての予測が全般に甘い様な印象である。半世紀以上右肩上がりの成長があることを前提にしているが、これだけで良いのだろうか。

 この民主党の試案の評価、意義、実現性などについては個人的にはよく分からなかった。対案を持つ野党や、その道の専門家の評価に委ねるしかないが、印象として、もっとドラスティックな内容で、国民に対して日本が向かいつつある厳しい状況についての提示も含まれ、真剣な論議を求めるようなもの、と私は期待していた。肩すかしであった。

 数日までの出し惜しみは何だったのかと思う。民主党、政府は隠蔽体質にあることがまた示された。
 ここで思い出されたのは尖閣諸島近海における中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件であった。あの映像をめぐって喧々ガクガクあった。画像が漏洩してYu-Tubeにアップされたとき何で始めから公開されなかったのか疑問であった。アレが国家機密扱い?と言う感じで、結果的に中国の圧力に屈して弱腰であやふやな対応で船長を釈放し、後々の対中対応も誤ってしまった。
 原発関連でも政府による隠蔽と思われる件が次々と明らかにされている。公表することで国民がパニック状態になる恐れがあるから、と言うことであったが、パニック状態にあったのは政府関係者で、ド素人的対応がなされていた。この善意の?隠蔽は自分たちの狼狽を隠蔽するためであって、この過程を介して菅内閣は国民の信頼を失った。

 どちらにせよ、税と社会保障一体改革の協議に早く入って欲しい。もう時間的余裕はないのだ。


2/10(金)寒波再来、曇り降雪  
2:00起床、徒然。新聞・データチェック。積雪2-3cm、除雪不要。7:00病院着、回診、外来なく2名のみ対応。ずっと机上処理、紹介状5件、総括2件。疲弊した。16:00帰宅、本読み、夕食、20:30就眠。

マイペースで(11)ご招待状への返事は「出席(都合で中座いたします)」から「欠席」に
 退職を機に全ての肩書きから解放された。残っているのは嘱託医の身分だけである。私は生活環境が変わる度に旧い環境との関わりを出来るだけ持たないようにしてきた。岩手、新潟、宮古,そして秋田と変わった。秋田では、秋大、中通総合病院で勤務し、後者としては勤務医から嘱託医に変わった。最近までは医師会役員でもあった。

 居住地と勤務地、身分が変わる度毎に新しい環境の方を大事にしてきた。私は跡取りの立場であったが、大学に進学して以降、現在に至るまで郷里の親戚の慶弔関連の行事を全てお断りしてきたので極めて評判が悪かったらしい。郷里の両親には迷惑をかけた。過ごしてきた各々の環境の中で多くの方々にお世話いただき,いろいろ教えていただいたのに、社会的にみて失礼かつ非常識な事をしてきたものだとつくづく思う。

 そう言いながら今後も続けていく。もう社会的な肩書きは無いし、職場の立場も細い糸一本で限定されている。だからほぼ何もないに等しいからとても身軽である。それでもまだ時折いろいろな会に招待されたが、招待戴いたことへの感謝と、申し訳ないと言う気持ちに抗して全てお断りしている。

 昨年までは夜の会議や会合で、ザッと言って自宅で夕食を摂れるのは週の半分以下であったが、最近は連日自宅で摂っている。これだけの違いが生じると別世界である。尤も、出席した多くの会合では失礼のない程度の時間で中座していた。

 最近の紹介状の返事は、「出席(都合で中座いたします)」から「欠席いたします」に変わった。ただ、こんなことを通じて私は徐々に孤立化していくような気がするが、身から出た錆、と割り切るしかない。


2/9(木)寒波再来、曇り降雪  外来 
2:30起床、徒然。新聞・データチェック。積雪3cm、除雪なし。7:00病院着、回診、8:45-14:50外来。混雑し疲弊した。16:00帰宅、本読み、夕食、20:30就眠。??

年金(5)民主の年金試算非公表(2)あるなら出せ
 党の試算内容は、いま論じられている消費税率10%への引き上げとは別に、約60年後には最大で7%の引き上げが必要というものらしい(朝日新聞)。理解困難だが、私はそんな甘いレベルでは済まないと思う。

 政権を取ってからの民主党政権のばらまき体制は改善されていないし、人口構成は変わっていく。日本の経済は国際的に一層厳しいものになっていく。このような状況をどう見積もって試算に反映させたのだろうか。

 この日本の景気については、景気回復すれば企業からの税収入が増えるから国の経済基盤は改善し、消費税増税も不要となる。あるいは消費税増税は必要だが、国の景気が回復基調になってから上げれば良い、という意見を持っている政治家は多い。自民党の多くのベテラン達、首相経験者はこぞってそういう意見を述べている。が、何を今さらそんな夢物語を考えているのか?と思う。回復できるものならとっくにしているはず。経済が爛熟し、豊かな時代しか味わっていない世代が多くを占める様になった国は、国民の意欲が低下して目標と競争力を失う。途上国の追い上げは厳しい。

 民主党がいうように約60年後までに、あるいは景気回復後の増税許容論者はそれまでに何年かかり、保険料や税を、誰がどのくらい払うのか、等の問題をどう考えているのだろうか。その間、日本の経済の推移を座してみているだけなのか。最近、厳しい年金事情の改善策として、高所得者層の年金を減額する案も浮上してきている。年金は納めた額に応じた給付を受けることが出来る平等性がうたわれてきたが,この原則すら崩されそうとしている。

 民主党が年金一元化などを言い出して8年、政権交代からも2年経つ。なのに何にも進展していない。どの様に進めるのかのヴィジョンも示されていない。民主党は理想を掲げたに過ぎないように思う。もし、試算があるのであれば、まず公開して欲しい。驚くような数値が出る,と予想する。ホントに各界が混乱するかもしれない。

 こんな状況なのに、昨年11月に野田首相が年金一元化などの抜本改革法案を13年に提出したい、と述べた事も驚きであった。試算も公表できない状態なのに何で?と思う。まさか、次の政権に委ねるつもりでのリップサービスではあるまいが。

 試算があるのであれば是非とも公表を。どんな内容でも、評価に耐えるしっかりした試算ならわが国の現実として受け止めなければならないし,あまりにも適当な内容なら政権の足下が一層揺らぐことになる。


2/8(水)曇り・寒波再来・降雪 外来 北都銀行関連の会で講演
1:00起床。本日夜の講演準備に集中。新聞チェック、徒然。降雪無し。7:00病院着、回診、8:40-14:00外来。紹介状総括、講演関連等処理。16:00帰宅、再度降雪。17:45Castle。18:20-19:10講演。21:00帰宅、21:20就寝。

年金(4)民主の年金試算非公表(1) 出来るわけ無かろう
 民主党は年金制度の一元化と、月額7万円を最低保障年金とする案を年金改革の表看板にしてきた。しかも、消費税の値上げをしない、とも記載して国民へ約束した。そして政権交代をなしえた。

 私は当初から民主党のマニフェストは資金の面から実現困難な案と思っていた。
 消費税について鳩山政権で副総理兼財務大臣に就任した菅前首相は、経済の国際会議に出席した以降、突然消費税のことを言い始めた。民主党のマニフェストが、計画性のない独りよがりの考え方であることを認識し、かつ国際経済の中で日本の経済破綻が一刻の猶予もない危険域にあるのだと責められたからであろう。
 菅氏自体はそれまでは「逆立ちしても鼻血も出ない程完全に無駄を無くしたときに必要なら議論する」と述べてきたが、私は菅氏の変化を、責任ある立場になって日本の経済の実態を初めて知り危機感をいだいて、大きく変化したと前向きに評価していた。

 そして、首相となり、不用意な発言で選挙で大敗を喫したが、消費税に関してはぶれることはなかった。野田政権も消費税を前面に出している。民主党は完全に変貌した。変わることなく消費税を上げるべきでないと主張し続けているのはマニフェスト作成を主導した小沢氏とそのグループだけである。

 政権交代すれば誰でも7万円以上の年金がもらえる、と有権者も半信半疑ながら期待したことは確かであろう。ところが、社会保障と税の一体改革の論議が具体的に進むにつれ政策にいろいろ歪みが生じてきた。公明党は与野党協議に入る前提として民主党の言う新年金制度の財源試算の公表求めていた。

 ここまで来れば逃げられない。政府は急遽対応を協議したが、1週間あまりで公表を先送りしてしまった。その理由として、公表はむしろ混乱をもたらすから、とした。当然である。出せるほどしっかりした試算を党自体が持っているはずはない、と私は思っている。党の言う新年金制度実現には政界が、経済界が、国民が混乱に陥るような状況、例えば消費税は20%が必要になると思われる。
 
 そんなことを今公表したら大変なことになることは必定であるが、試算の公表先送りは民主党の新年金制度と消費税増税の無計画性を示したことになったし、野党に協議を拒む口実を与えたことになる。火に油を注いだようなものである。


2/6(月)曇り・晴れ 寒波緩む 
2:00 起床。新聞・文献チェック、PDF化。7:00病院着、紹介状、レセプト、病棟業務他、長女離秋、16:00帰宅、寒波緩み、駐車場や路地の路面シャーベット状。運転困難。本読みなど。夕食、20:40就寝。

中2の女子スキージャンパー、高2のバレエダンサーの快挙 二人の落ち着きがすごい
 スキージャンプのHBC杯女子の部で14歳の中学生2年生、高梨沙羅さんが優勝した。K点越えどころか141mも飛んだ。当日の男子優勝者ですら139mで、大倉山の新記録、国内女子最長不倒記録とのこと。高梨さんは先月インスブルックで行われた第1回ユースオリンピック冬季競技大会で金メダルを獲得している。実力は本物だろう。

 また、若手バレエダンサーの登竜門として知られるローザンヌ国際バレエコンクール最終選考で神奈川県の高校2年生菅井円加さんが優勝した。また、創作バレエ部門賞も受賞した。菅井さんは3歳からバレエを始め、同世代の友人と遊ぶこともなく、深夜まで練習するなど、バレエ漬けの日々を過ごしてきたという。

 二人ともすごい快挙である。
 私はジャンプもバレーも内容的な評価は出来ないが、驚いたのは二人ともインタビューで示した異様とも言える落ち着きと、明快な口調、何とも言われない素敵な笑顔である。 

 高梨さんのインタビューはインスブルックでのメダル獲得後に放映された映像をみた。短時間で2,3言だけであったが、そう言う印象で聞いた。

 菅井さんのは本日6日に厚木市で開かれた記者会見の様子を夕方のニュースで見た。「大震災もあったので日本人に元気をあげられたら・・・」「応援してくれた方々に有り難うと言いたい・・」と述べるなど、周囲へも十分な気配りを示したのが印象的で、口調にわざとらしさが無く自然で、これで高2なのかと驚いた。
 最後に会見場でリクエストに応じてポーズをとったが、それは気の毒であった。マスコミの側からみればテーブルに座って話すだけでは画像としてのインパクトが乏しいからであろうが、ジーパンにスニーカー姿と条件が整っていないところでそれを求めるのは酷だと思う。マスコミの無礼、場をわきまえない求めに対し、菅井さんあるいはエスコートしていた方が断われば良かったと思う。

 最近、少人数の演奏会、あるいはリサイタルで演奏者がスピーチする事は少なくない。一般的に評判は良いようであるが、私には「スピーチは不要であった」と思わせる機会の方が多い。また、患者として現れた高校生との対話を通じて、あるいは学生への講義を通じて私が抱いている印象と大きく異なっていた。
 勿論、日常の延長線上でのスピーチと、頂点に立った時の喜びのインタビューとは同一に出来ない。そう考えてもお二人にはとても良い印象を持った。今後の一層の飛躍を望みたい。


2/5(日)曇り 三浦秋大前学長叙勲祝賀会(欠)
2:00起床。新聞・文献チェック。終日読書、データ整理で過ごす。午睡若干。19;00夕食、21:00就寝。??

マイペース(9)録音・音楽、書籍・書類の電子化(3)自炊データを読む工夫 
 私はいま、書籍、文献の電子化、いわゆる自炊作業に勤しんでいる。本の電子化は何故か自炊と言われている。かなりの量であり手間もかかるから、時折人手も借りて作業を進めている。

 本や文献は私にとって大事な資料であり、豊かな本に囲まれている環境が好きである。ただ、置き場所が乏しくなってきた。各部屋の書棚に収まりきれず、廊下や階段下のスペース、古いのはガレージの二階に箱詰めになっている。
 しかしながら、私の本はレコードもそうであるが、先々私と共にゴミ同然となる運命にある。私にとっては宝だが、大部分は価値も認められず、売られることもなく、廃棄され、焼却されるだろう。子供達に廃棄の手間をかけさせるのは気の毒である。だから、ザッと読み返しながら自分で電子化し、廃棄している。これだと読みたければ適宜呼び出して利用出来るから一挙両得である。

 もう数100冊電子化し、データは手帳サイズのハードディスクに収まっていて、必要に応じてパソコン画面で見ることが出来る。ハードディスクはバックアップをとってあるから職場でも何所でもパソコンさえあれば同じ状態で読むことが出来る。

 パソコン各々に17−24インチの外付けTFTディスプレイをつなぎデュアル画面で用いている。兎に角画面は広いに越したことはない。このサイズだと本読むのに十分である。文庫本などは2−3倍に拡大して読めるから、本よりむしろ楽である。 

 ところが、更に欲が出てきた。
 20インチ以上のディスプレイは画面は大きいが横長なので本のページとは合わない。験しに24インチのディスプレイを縦置にしてパソコン上で画面を90度回転させてみた。何と!!驚いたことにパソコンが起動しなくなった。実際には別のディスプレイをつなぐと通常に起動したので実害は殆ど無くホッとした。パソコンと験したディスプレイ間のマッチングに何か不具合が生じたらしい。

 で、横長ディスプレイを縦置きにして用いるのは諦め、家内のディスプレイ増設の機会に乗じて、私が縦長にも用いることが出来る機能を持つディスプレイを購入し家内には古いのを回した。結果は上々である。読書する時だけでなく作文の時にもとても重宝している。
 実際にはiPhone、iPad、iPodでも自炊データをみることは可能であるが、後二者は私は持っていない。子供達は各々持っているからいずれ安価で私に回ってくるだろう。iPhoneで見ることは可能であるが、本より小さな画面で読む気はしない。


2/4(土)秋田降雪→晴れ フォーレ「レクイエム」(欠)
 1:00起床。新聞、徒然他。7:30-8:30除雪。蓄積文献整理、書籍修理。フォーレ「レクイエム」演奏会は混雑が予想されキャンセル。壁にヘッドフォンホルダー作成。16:00−17:30病院。事務処理他。本読み。20:00夕食、21:30就寝。

国民皆保険制度(21)医療費亡国論(3)医療費負担を他の経費と比べてみれば
 日本の公的医療保険が安く押さえられていることで日本の産業は大きく守られているのであるが、最近報道されている日本企業の業績は軒並み厳しい状況にある。特に家電メーカーは軒並み厳しい。パナソニックは7.800億円の赤字が予想され、ソニー、シャープの電機大手3社の累計は1.3兆円にもならんとしている。タイの洪水の影響、異常な円高も一因である。自動車産業も同様の傾向にある。公的医療保険が安く押さえられていることのメリットは国際競争力の維持に寄与しなくなり、逆に、今後は経済界や企業では医療・社会保障費の負担増に難色を示してくるであろう。

 わが国の医療費負担は、実感は得られないのであるが、 安いことから国民の生活に余力をもたらしているはずである。このことももっと認識されていい。消費税増税されると消費が冷えてむしろ経済は低迷する、だから値上げの時期でないとされているが、現在まで5%の消費税で国の経済が成り立って来た背景には低医療費政策がある。この辺の評価、今後の見通しをもっと広報すべきである。

 年33兆円余の国民医療費は先進国中でみるとGDPに占める割合は最も低い。うち約1/3にあたる10兆円程度が国民の健康保険料である。この保険料負担も高いと言われ続けてきた。確かに、いくらであっても負担は負担であり、快く支払う人は少ないだろう。しかし、他と比較してみれば状況が理解出来る。

 例えば、わが国のパチンコ産業の年間売り上げは国民総医療費とほぼ同じ30兆円、葬式産業の売り上げは15兆円と言われている。パチンコや葬式に費やすお金がわが国の総医療費と同額及び半分と言う現実と比較してみれば、医療費の立場が分かってくる。
 一方、生命保険等の民間保険料として国民が支払っている保険料は、年間50兆円と言われ健康保険料の10倍にもなっている。日本人の生命保険好きがよく分かる。それでいて民間よりも安定安全な公的な年金の負担はいつも目の敵にされている。

 パチンコ、葬式費用、民間保険には亡国論等聞いたことはない。何で医療だけなのだ?
 そんなことを考えている方が異常なのだろうか。


2/3(金)曇り 内科外来代診 
1:10起床、文献チェック、新聞PDF化、徒然など。雪2−3cmで除雪なし、7:00病院着。回診、入院患者対応。8:45-13:30内科外来代診。研修病院評価受審のため。患者関連書類処理。16:00帰宅、新聞、本読み。夕食、20:00就寝。夜半に長女帰秋。

国民皆保険制度(20)医療費亡国論(2)別の一面もある
 日本の医療・社会保障の状況を端的に言えば、■国民医療費のGNPに占める割合がとても低い■日本の社会保障に対する国家支弁率がきわめて低い■患者の窓口角担は高い■日本の医療は平均寿命・健康寿命で見て大きな成果を上げている■長年の医療費抑制策で医師不足他で医療の現場が青息吐息■結果的に国民の健康・いのちの保障が危なりつつある・・ことである。

 日本の医療が抑制方向に舵を取り始めたのは、1983年「医療費亡国論」を契機にしている。医療費は国の財政を圧迫している、将来はもっと圧迫していく、ということだけが強調され、増え続ける医療費・社会保障費常は常に目の敵にされて来た。

 医療関係者は、日本の公的医療保険がとても安い費用で国民の健康を守っていること、そのあおりで自分たちの環境が厳しい状況にあることは十分に周知し、何とか堪え忍んできている。実際には、医療費・社会保障費がそれだけ安い状態にあることは日本の産業そのものをも守っている事にもなっている。この視点から医療費・社会保障費が話題になることは殆どない。しかし、いまTPP問題が浮上してきている。TPPは関税の問題であるが、これに参加することは関税だけですまない面も持っており、貿易面で新たな局面を迎えることになると思われる。
 
 企業においては従業員の福利厚生費用は製品のコストに反映される。だから、安い医療費負担は経営に寄与し、安価な製品の生産に結びついている。このことは、特に、先進国間の貿易に於いては重要な意味がある。例えば、日米の自動車産業で比較してみると、製品一台あたりに占める福利厚生費は10倍ほどの差があり、高級車においては一台あたり50万円ほどの差にもなる、と言う評価もある。それだけ日本車は安く生産でき、競争力が付いていると言うことである。更に、日本車は質的にも優れている。この結果、優れた製品を安く提供できることになり、日米間では自動車産業は十分な競争力が維持されている。
 現在、米国は乗用車に2.5%の関税をかけているが、日本は関税をかけていない。米国の圧力で不公平な税制となっている。それでも日本車の輸出は十分成り立っているが、その背景には自動車のコストの中に占める福利厚生費が少ないことが寄与している。

 米国の自動車ビッグ3でつくる米自動車通商政策評議会のマット・ブラント会長は「米国が一台輸出する間に日本は200台輸出してくる・・」と敵意を顕わにし、これでこの関税が撤廃されたら状況はもっとひどくなる、と日本がTPP交渉に参加することに反対している。米国では全ての業界がTPP参加を希望しているわけではない。巨大な力を持つ自動車産業が反対していることには注目すべきである。


2/2(木)曇り・寒波若干緩む 外来 
2:00起床、文献チェック、論文・本読み、徒然など。降雪無し。6:55病院へ。回診他。8:45-13:50外来。16:00帰宅。文献読み、夕食、20:15就眠。

マイペース(8)録音データ・音楽、書籍・書類の電子化(2)MP3録音の蓄積 
 私は朝の静かな環境で過ごすのが好きなので30年ほど前から朝型生活に変えた。電話も少ないし静か、快適である。朝が明けてくるときの風情も味わえる。まず、年間を通してワンパターンである。例外は少ない。

 この時間帯、私に付き合ってくれるのはネコとラジオである。時々は決まった生活パターンを持たない家内も付き合ってくれるが、あまり歓迎しない。夜はまともに寝て欲しい。健康や仕事の事を考えると心配になる。

 深夜にラジヲを聴くのは小学生の頃、鉱石ラジオのころからだから60年以上のキャリアである。ただ、長くNHKラジオは早朝は放送がなかった。0:00am君が代の演奏終了と共にで終了し、4:55am頃からオルゴール音が、5:00からニュースで放送開始となった。この間は文化放送、ニッポン放送とかを探して適宜聞いていた。ガーガーピーピーの雑音の中から内容を聞きとっていた頃のことが懐かしい。

 昭和天皇が崩御されたあと間もなく、深夜番組が試行され、1990年頃からNHKラジオは24時間放送となり、いろいろ変遷しながらラジオ深夜便として確立された。要するに、NHKラジオの深夜放送の歴史はほぼ平成の歴史と同じで、私もずっとこの変化を楽しんできた。

 1998年からラジオ深夜便は1:00amからAMとFM双方で放送されるようになり、私はもっぱらFMで聞いている。興味深い内容はカセットに録音していたが、週に何巻かのテープが溜まり置き場にも困った。2003年からMDにしたが、数100枚に達して机の引き出しを占拠した。2008年11月に直接ハードディスクにMP3で録音できる便利なラジオを購入してからスペースという意味では全く困らなくなった。このオリンパス製のRadio Server VJ-10は私の生活を支えてくれる優れものである。ここ数年、1:00、3:00、4:00amからの番組が自動的にポケットサイズのハードディスクに蓄積されている。録音は目録も作っているから、2003年以降の録音はいつでも呼び出して聴く事が出来る。

 講演会等は生録用機器でMP-3録音しながら聞いてきたのでこの関連のデータもある。
 その他、レコードもある。最近、私は文字関係ではPDF化した新聞記事、本、書類、文献に、音声関係ではレコードやCD、自分で蓄積した録音データに追い回されている。とてもハッピーなのであるが、どうやって効率良く聴きなおすか、効率良く読みなおすかが新たな悩みとなった。いろいろ工夫している。


2/1(水)曇り・寒波・吹雪 外来 
1:00起床。新聞チェック、本読み、徒然。本日降雪3-4cmで除雪せず。6:50病院着、回診、8:40-13:30外来。患者・家族面談、紹介状総括等。16:00帰宅、本読み中心。古本PDF化、夕食、20:45就寝。

マイペース(7)録音データ・音楽、書籍・書類の電子化(1)自炊データ蓄積
 私は2003年から2007年11月まで約4年間、ミニディスク(MD)に音楽、講演等を録音してきた。昨年の今頃はこれらの録音をMP3化する作業を進めていた。情報の携帯性と永続性と保管場所の縮小という利便性を得た。机の引き出し3ヶを占拠していた300枚ほどのMDは手帳サイズのハードディスクの一部に収まった。今も連日3時間分の録音が蓄積されている。私の大事な音楽、講演資料となっている。

 いま、新たに集中しているは自炊作業である。本の電子化のことで、なぜかこの作業を自炊と言われている。書籍や雑誌を裁断しスキャナでデジタルデータに変換する。

 退職時職場に置いてあった大量の書籍を持ち帰ったが、2階にある6畳程の私の書庫に入りきれず、廊下や他の部屋にまで溢れてしまった。地震で書庫が転倒すれば人が埋もれる危険もあるし、逃げ場を失う。また、本の重量で下の居間は安全でないだろう。だから本の軽量化は理にかなう。それで、読む機会が少ないだろうが、さりとて廃棄することの出来ない本や雑誌、専門誌をPDF化することにした。

 私は10数年前から新聞や文献をスクラップしていたが、実に場所をとる。みるみる本棚を占拠してしまった。それで、記事をスキャナーで取り込んで蓄積してきた。当初はヒュレット・パッカード社のScanJet4Sを用いた。なかなか便宜であったが、マックのOSの更新に沿ってくれずダウン、2008年から富士通のScanSnapに乗り換えた。

 今も毎日50枚ほどの新聞6誌分の切り抜きを取り込み蓄積している。これらも手帳サイズのハードディスクに収められ、簡単に画面上に呼び出して見ることが出来る。私の大事な資料館、図書室である。

 昨年、本の電子化の代行業者の法的立場が話題となった。これを新聞で見ているうちに私も本のPDF化を思い立った。新しく用意したのは自宅用のスキャナーと本の裁断機だけで、あとは時間と労力と工夫だけである。ただ、きれいにスキャンするには紙質による制約や裏写りなども考慮せねばならず、裁断を含めて相応の技術を要する。このところマンガ本、新書、文庫など300冊以上自炊した。書架の一つが空になった。

 2011年12月20日に作家7人が連名でスキャン代行業者2社を東京地裁に提訴したこともあって代行業は殆ど業務を止めたらしい。個人が自分で処理し、用いるのであれば全く問題はないから更に進めていく。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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