2011年5月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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先月の日記 来月の日記
5/31(火)晴れ 雇用契約満了日 外来 法人常務会 医局内引っ越し 医局カンファ
2:00起床、新聞チェック他。6:40自転車病院着。回診他。8:40-13:45外来。14:45-16:00法人常務会。医局内引っ越し。17:30-18:30医局カンファレンス病理解剖症例検討。20:00帰宅。21:00就眠。 昨年iMac購入。
私の雇用契約満了日 静かに移行出来そう ?
5月31日,本日雇用契約が満了し私は退職する。
ここ10日間ほど各種の会合の席で若干の時間を頂き退任の挨拶を繰り返してきた。5月21日「卯月の会」、25日「友の会理事会」と「療養病棟」、26日「医療安全全体学習会」、27日「看護師長会議」と「法人理事会」、28日「法人管理職会議」、30日「管理会議」、「運営会議」、「長副会議」、本日「医局会」で最後の挨拶した。こんなに並べても意味はないのだが,お世話になった方々、共に働いた方々に、一人でも多くの方々に職員に院長として直接話しかけたかったからである。会議の性格に応じてサッと済ましたのから、若干枝葉を付けたの迄いろいろであったが,「現場力」、「共感」、「感謝」を表現したつもりである。暖かい気持ちで聞いて頂いた,と感じている。
師長会の方々からは寄せ書き付きのミニアルバムをいただいた。各部門でこのためにわざわざ撮影した写真で、コメントも暖かい。心にしみる。その他、数人の方々、部署から花束や書簡、書籍もいただいた。多くの方々から新たなスタートを祝って頂き、感謝である。
慰労会を企画して下さった部署もあったが,これについては有り難かったが、去る者は次の世代の方々に些かなりとも負荷をかけるべきでないし、自分にとっても最も不得意な分野であることから、丁寧にお断りした。
明日から嘱託医として働く。新しい契約では、勤務は週5日間、時間は効率的に業務を行い、かつ自身の時間も有効に用いられるように7:00-15:30を希望し,受け入れて頂いた。嘱託だから土日祭日は業務はないが、入院患者の状況によっては柔軟に対応することになるだろう。この一年は近隣の病院に勤務した家内と帰る時間を合わせるために、院内で過ごす時間を短縮したが,それでもウイークデイは12-14時間であった。それが、明日からは8.5時間となる。医師になって40年、初めてフリーの時間が豊に得られることになる。
評議員会の席では秋田市医師会長から「自分の在任中に先生への弔辞を読むことになるのではないかと思ってました。・・」と挨拶があった。私自身もそれを危惧してきたが,大病を患うことなく今日まで何とかやってこれた。結果として得られる貴重な時間である。何時までもあるものではない。大切に、有効に用いたい、と考えている。?
5/30(月)晴れ 管理会議 安全管理者と打ち合わせ 療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、新聞チェック他。6:40病院着。7:15回診他。7:45-8:25管理会議。10:00-10:45安全管理者・事務長と打ち合わせ。15:45運営会議で挨拶。16:00-16:30療養病棟判定会議。17:00-18:55長副会議。20:00帰宅。夕食、 21:00就眠。 昨年iMac購入。
複数のパソコンを同期する便利なDropbox データ持ち運び不要へ
6月以降、私は嘱託医として働くこととなった。原則的には病院で過ごす時間は週5日、一日8時間。だから自宅で過ごす時間が増える。自宅の私用の部屋はここ10年ほどは用いる事もなく物置化していたが、ここ2-3週間で徐々に復活しつつある。ここには私のメインのオーディオセットがあるのでこれも復活させた。
先日,子供達が帰省したときに私の部屋にLANケーブルを敷設してくれた。私は彼らの作業を見ているだけであったが、手際よく進み、子供達と私の行動力が逆転しつつあるのを感じた。これで居間と自室でほぼ同じ作業が出来るようになった。
息子が「Dropboxを使用してみたら?・・」と言う。私にとっては初耳である。説明してくれるが良く理解出来ない。私はそんなにコンピューターに詳しいわけではない。数少ない利用環境の中で頻用しているに過ぎない。だから新しいソフトなのどの導入はそれほど積極的ではない。「Flash memoryなどによるデータの持ち運びが不要になるソフト」と言ってくれれば飛びついたのだが分からず、熱意に押されてダメ元と入れてみた。しかし、実に素晴らしい、便利なソフトであった。
Dropboxは無料のオンラインストレージのサービス。
私の場合、自宅で3台、病院で1台のマックを用いているが,これらの作業環境を同期させるにはWeb経由でアップロードしたり、ファイル添付 メールを自分に送信したりする必要があった。つい先日までは暗証番号付きのフラッシュメモリーを介して4台を同期していたが、持つのを忘れて通勤途中で引き返したことも頻回であった。
Dropboxは作業中のデータを自動的にバックアップするほか、複数のコンピューターへファイルを転送し、自動的に同期してくれる。そのほか、知人や家族間等で共有ファイルを持つ事が出来る。だからいちいちメールで連絡をする必要もなくなる。私はまだやっていないがモバイルアプリを使用するとiPhoneとも同期することが可能らしい。
まだ使い始めたばかりで詳細は分からないが、面倒、煩雑であった4台のマックの同期の手間が一切無くなっただけでも貴重である。
複数のパソコンを使用し、同期に気遣いしている方々にはお勧めのソフトである。
5/29(日)快晴 病棟拘束
?1:00起床、本読み、文献チェック、新聞処理、微睡みなど。7:00病院。引っ越し準備、回診他業務。10:00車帰宅。自宅に持ち帰った文献、書籍整理、本読み、文献整理廃棄。11:00家庭菜園、苗の植え替えその他。15:00秋田日赤病院へ、知人が入院中で見舞う。カリモク展示場で家具購入。高速経由19:30帰宅、夕食、21:00就眠。??
私にとって最後の挨拶(2) 平成23年度第1回法人管理職会議
私が驚嘆した一例を挙げますと、世界医師会が患者の権利宣言である「リスボン宣言」を採択したのは1981年ですが,当法人ではそれよりも20年も前から「患者の立場に立つ医療」を一貫して追求してきた発想と積み重ねに対して心から驚きました。
そのようなこともあって、辞する気持ちを忘れて本日まで居着いてしまいました。その最も大きな動機は職員の方々との共感とそれに伴う信頼を今日までずっと持ち続けられたことにあった,と考えています。更に、医師会活動に参加する機会も与えられ、5年前には院長職を拝命してしまいました。26年前にドアをノックしたその部屋で執務をとる事など全く思いがけないことでありましたが、おかげで数多くの貴重な体験をすることが出来ました。
今、こうして最後の挨拶をする時を迎え、中通病院に勤めさせていただいたことで、医師としても一個人としても、これ以上望めないほどの充実した人生を過ごし得た、と思っております。
その意味でも、本日ここにおられるすべての方々に感謝申し上げます。本当に今日まで有り難うございました。
今後ですが、前からやりたいと思っていた「人間とは?」について、歴史や社会学、文学や芸術を通して学びたいと考えております。同時に、臨床医として患者に対する責任は負わねばならないと思っております。今年度は嘱託医として働かせていただきながら、私の出身県であり、医師としてのスタートを切った岩手県、三陸地方の復興のために、何らかの形で寄与し続けたいと考えております。
本当に、本日のこの機会を含め今までいろいろ発言の機会をいただきました。いろいろ聞いて頂きましたことについても改めて感謝申し上げます。本日は最後にちょっと格好を付けさせて頂き、この挨拶を最後に静かに去ることと致します。この後に行われます懇親会には一人でも多くの方々に参加いただき、そこでは次期院長を中心に中通総合病院、法人の将来についていろいろ語り合っていただきたいと思っております。
皆さん、長い間、本当にお世話になり、ありがとうございました。
5/28(土)晴 病棟拘束 管理職会議
2:30起床。ドック総括x1他。6:20病院着。7:30回診他。病棟業務他、14:00-16:30管理職会議、差額問題説明、締めと退任の挨拶、懇親会は欠席。18:00帰宅。20:00就寝。
私にとって最後の挨拶(1) 平成23年度第1回法人管理職会議
本日は本年度第1回の管理職会議に多くの方々のご出席を頂き、平成22年度の業務の評価と各部署の次の取り組み状況に関して多数のご報告頂き心から感謝申し上げます。
今回も私は皆様方の発言を聞き、私共法人の各職員,各部署の底力を感じ取ることが出来ました。
いつもであれば会議の締めとして,今後についての所感を含めて述べるところでありますが、本日の次第にもありますように、私は今月末日をもって雇用契約が満了することで退職いたします。あと数日しか任期が残っていない私が、本日、法人あるいは病院の将来、運営等についてのコメントを申し上げる訳にはいきませんので、長くならぬ範囲でお時間を戴き、退任の挨拶をさせていただきます。
私は明和会に、実に26年間の長きにわたって勤めさせていただきました。
26年前のある夜、中通病院の院長室を訪れ、瀬戸院長に「医局人事ではない個人の医師として」雇って戴きたいと申し出たときのことを改めて思い出しております。とても驚かれたようでしたが,その場で採用して頂くことになりました。その頃、私は地域医療を担う内科医へのための再研修と思って当院を選び、3 年ほどの勤務かな、と考えておりました。
出勤してみて、最初の1-2年ほどは本当に驚きの連続でありました。当初はなかなか病院の環境、人間関係の中に入り込めず、決して居心地の良くはありませんでした。大きなインパクトは秋に行われた県連学術集談会の場でありました。秋田県内の医療の今後の有り様とその中で自分たちが何を担っていくべきか、どうリードしていくのか等を300名ほどの集団が熱く論じ合ったのを唖然として聞きながら、ここは医療関係の宗教団体でないのか?とすら感じたほどでした。そのこともあって民医連についてもかなり勉強しました。
時と共に病院あるいは法人の医療に対する確固たる姿勢、多くの職員方の意識や技能の高さ、チーム医療の素晴らしさを実感するようになり、私自身も地域医療を担う医師としての考え方、治療理念、ケアの方法等を学び取りながら、次第に驚きが共感に変わって行った様に思います。
5/27(金)曇り 入院患者死亡 病院機能評価受審委員会 法人理事会 Legend演奏会?
4:00起床。この時間の起床だと時間的に厳しい。ドック総括他。7:00自転車病院着、7:30回診他。机上書類処理、13:00婦長会議、16:00-17:00
No2病院機能評価受審委員会。17:30-18:20法人理事会。19:00オペラユニット「Legend」演奏会。21:00帰宅、21:40就眠。
警察、検察、裁判官は何故業務上過失が問われないのか?(7)布川事件も無罪判決
5月24日、水戸地裁土浦支部で開かれた布川事件の再審の判決公判で、検察側の求刑は確定審と同じ無期懲役だったが、被疑者2人に無罪を言い渡した。
布川事件は、昭和42年に茨城県の布川で男性が殺害され、現金が奪われ、桜井氏と杉山氏の二人が強盗殺人などの罪で無期懲役が確定した。操作段階で2人の自白調書と現場付近での目撃証言が有罪の根拠となったが、再審請求審では「現場で見た人物は別人」とする目撃証言などが認められ、再審開始が決まったもの。弁護側は、自白を誘導、強要した捜査の違法性や証拠隠しなどを主張、確定審での裁判所の責任も追及した。
当時、21歳、20歳であった二人は犯人とされて29年間も身柄を拘束され、現在63歳である。実に44年ぶりの名誉回復である。この国家権力に奪われた貴重な時間、人生を国はどうあがなうのだろうか。恐らくお二人の親族も先日まで辛い思いをしたと思う。無念の気持ちのまま亡くなった方々もおられるだろう。そのことまで考えれば誤った司法判断の及ぼす影響はとても大きい。
この事件でも別件で逮捕され、捜査段階で強引な取り調べが行われ、強引に強盗殺人罪に仕立て上げられたとされる。思い込みで作り上げた操作側のシナリオにそって作り上げたようなイメージである。決定的証拠を欠いていたためにこの自白調書が判断の根拠とされたが、重要な証拠を検察側が隠蔽したともされている。
証拠の隠蔽は医療裁判におけるカルテ改竄等以上に重い犯罪行為である。医療者なら厳しく断罪される。なのに・・である。
この事件の詳細は私はまだ不勉強であるが、今回の判決では過去の裁判の問題点については言及していないようだ。検察官,裁判官の責務は犯人を創り上げ事件の解決を図ることではない。警察の捜査を再評価し、正義と人権を守ることにある。弁護士は目的は同じであるがアプローチ方法は対極にある。検察と同じ証拠品を利用できることが前提であろう。現実には異なるようだ。ここでも捜査段階の可視化の意義が如何に大きいか分かるものである。
この件に関して大手新聞各社の論説、社説を読んだがいつもと同様、誤った判断を下した司法関係者の責任を具体的に問うべしといった論調は見られなかった。実に不思議である。
これで、戦後に死刑か無期懲役が確定した事件で足利事件に続いて7件目の再審無罪となった。私は大学生の時に正木ひろし著『裁判官:人の命は権力で奪えるものか』光文社 - 1955年を読み感銘を受けたと同時に司法の面から国家権力について興味と関心を抱き,未だに疑問を持ち続けている。
5/26(木)快晴 入院患者対応 外来 医療安全全体学習会講演 県新興感染症部会
2:00起床。ドック総括他。6:00-7:00徒歩病院着、7:30回診他。机上書類処理、8:30-13:15外来。13:30-14:15医療安全全体学習会講演と退職挨拶。16:00-17:30県新興感染症委員会+辞任挨拶。19:50帰宅、夕食、20:40就眠。22:00病棟より電話、患者急変、病院へ死去、見送り、1:00帰宅、再就寝。
本日をもって県の委員会もすべて任期終了となった
本日、県の新興感染症部会が行われた。
この部会は感染症分科会のもとに置かれ、新たな、未知の感染症の他、再興感染症と言われる、従来からある感染症が新たな驚異のもとになったような際に集中的に検討し、県の施策に反映させるために置かれている。
感染症としてはSARS対策、H5N1を想定した新型インフルエンザ対策、流行した H1N1新型インフルエンザへの実践的対策を中心に検討を行い、医療体制を構築してきた。この過程で県の対策ガイドラインなどを改訂してきた。今回はこれのVer7の作成に着手した。
長く県医師会役員であったことから、県の委員会にいろいろ参加させていただいた。最も多いときには20ほどの委員会の委員で、そのうちのいくつかは委員長も務めさせていただいた。特にこの県の新興感染症危機管理対策部門では長く委員長を務めた。実際に脅威が迫りつつあったSARS対策、一昨年のH1N1新型インフルエンザ対策では知事を筆頭として組織される危機管理対策本部にも出席する機会を得て、県庁のトップクラスの会議等がどの様に運営されているのか垣間見ることも出来た。
SARS、新型インフルエンザ等、県内のマスコミも関心が高く積極的に報道いただいたが 、会議後の記者発表やTV取材などもほぼ連日で多忙を極めたのも今となれば思い出である。
昨年春、病院の退職が間近になった事で県医師会の役員を辞した。同時に県の委員会メンバーからも徐々に抜けたが、その時点では更なる新型インフルエンザ対策も必要と予想されたこともあって、この感染症部門だけは県医師会の意向・推薦があって今日まで続けてきた。
現実には昨年はH1N1新型インフルエンザはH3N1インフルエンザと混在して流行したが社会の混乱を来すこともなく終演し、この3月には通常のインフルエンザ扱いになった。この状況の中で私は院長職を辞することになったが、この委員会は個人の資格で参加するには荷が重すぎる。この先々、何かの懸案事項が生じた際の、県を巻き込んだ医療体制の構築には県医師会の力が必要であり、医療機関の力が必要である。そのために任期を一年残して委員、委員長を辞することとし、県医師会長の理解も得られた。間もなく新しい担当が決まるはずである。
行政の世界は医療とは大きく異なる。行政の拠り所は法律、規則であり、ほぼ絶対でこれを崩すのは至難であった。一方、医療現場をあずかるわれわれの視点はあくまでも県民の健康維持であり、そのための危機管理対策を考えるわけで、発想はあくまでも柔軟で相対的で、両者の違いは歴然としていたが、健康福祉部長、健康推進課、医務薬事課のスタッフとはよくディスカッションすることが出来て結構フレキシブルにも対策いただいた。
県の委員会を通じて、私は得難い、有意義な体験が出来たと思っている。
5/25(水)晴れ 患者家族面談 外来 病院友の会理事会 療養病棟食事会
2:10起床。文献チェックほか。6:10車病院着、7:00回診他。8:45-13:50外来。混雑。 14:00-15:10友の会理事会、退任挨拶。18:00-21:00療養病棟食事会、中座しTaxi帰宅。21:45就眠。
医療事故、医事紛争は何故減らないか?(18)患者側は朗報に敏感,逆も真
確かに医療を受ける側の医学知識は増えた。関心も高い。しかし、いかに患者側が勉強したとしても、私どもの持っている知識には及ぶ訳はないし、患者側はわれわれ医療人の持つ倫理観、責任感なども、負っている苦悩なども分かるはずがない。
逆に医療人が理解しなければならないのは医療を受ける立場にある患者側の気持ちであるが、これとて医師に理解できるはずがない。私は、自分のこと,家族の気持ちすら分かり難いと思っているから,他人の気持ちなど分からないものだと割り切っているほどである。このように立場大きく異なる間での情報提供であるから、医療者側は十分に理解して頂いたと思ったとしても、また,理解し納得しましたとサインを戴いたとしても,受け取る側と話した側の感覚が大きくずれていることも少なくない。
だから、医療者側はインフォームドコンセント自体に限界があることを知ったうえで対応しなければならない。
ここで医師側が十分知っておくべきは「患者側は医師の病状説明時に用いられる、朗報を示唆する言葉にはとても敏感で、悪い情報の言葉にはとても鈍い」という特質である。
例えば手術直後の主治医からの説明で「手術はうまくいきました。」と説明があれば,心配して待機していた患者家族は「良かった。もう治ったも同然」と短絡的に考える。医師側の説明は「現時点の判断ではうまく行きました。これから慎重に術後経過を観察します・・・」と現状報告である。術後の合併症は想定の範囲の場合もあるし想定外のもある。合併症は手術室を出る頃から生じ始めるし、時には数日後にも生じることもあるから医師側は慎重に経過を追う。
このために術後経過が思わしくなかった際の期待と現実の差は患者側の方の感覚が遙かに大きいものとなる。
患者側への情報提供はポイントを押さえて明快でなければ伝わらないし,話した内容は記録に残しておくことは当然で,可能であれば看護師を同席させるのが良い。それでも言った言わないは生じうる。私は最近は録音機を間において説明をすることもある。10回分ほどの病状説明が記録されているが、まだ再生したことはない。
5/24(火)晴 外来 ドック説明 法人常務会 新築関事務局会議 医局MC輸血療法
2:10起床。ドック判定総括、文献、6:10車病院、6:30回診、8:45-13:50外来、14:45-15:40常務会+ 新築関事務局会議。17:30-18:45医局カンファ、秋田赤十字血液センター所長講演。19:00-20:45長副会議。21:15車帰宅、夕食、22:00就眠。
医療事故、医事紛争は何故減らないか?(17)インフォームドコンセントの限界を知ろう
近代医療の特徴は,医療内容の面、スタッフ面、医療機器、国の医療政策面などの発達、患者・医療者側の関係など広範囲な分野に及ぶが、もう一つの大きな特徴はインフォームドコンセント(IC)である。 かつての医療は患者側に十分な情報を与えず「だまって私に任しておけ・・」的で、これをパターナリズムというのであるが、特に維新時にドイツ医学を導入し国策として医療改革を進めたわが国ではその傾向がとても強かった。今から見れば考え難い医療がなされていた。かつて、といってもそう遠い話ではなく、つい30-40年前までの話である。
患者の権利が具体的に話題になり始めたのは、私が調べた範囲では1970年代米国で始まったようだ。世界医師会のリスボン宣言採択は1981年に制定されたが日本医師会は反対はしなかったが支持もしていない。当時の日本の医療を顧みれば「患者の権利宣言」などとんでもないことであり、もし、賛成したとしたら医師会関係者は帰国できなかったのではないか、とさえ思っている。それから見ると、私が勤務する病院はその20年も前から「患者の視点に立つ医療」を実践していたことは驚嘆に値することであり、諸先輩の努力には頭が下がる。
リスボン宣言の中に十分な情報提供を受ける権利、その上での自己決定権がうたわれている。IC の主たる目的はここにある。
IC が普及してから医師・患者間の対話の時間が大幅に増え、患者と医療人間の情報共有という面ではかなり改善された。
中央教育審議会会長で劇作家の山崎正和氏が某新聞で「 IC が医師、医療機関にとっての自己防衛に使われていると感じる」と述べたことがあり、紙面やネット上で話題になった。そうとらえられるのは心外であると言った医師側の意見も少なくなかったと記憶している。
私は ICは情報提供と医療者側の自己防衛の双方の意義を一体として有していると思う。自己防衛と言われても全然困らない。むしろ強調すべきである。医療者側が無用なトラブルを未然に防ごうと考えるのは当然であるし、自己防衛のための詳細かつポイントを押さえた情報提供が IC内容を一層豊かにし、結果的に患者のためにもなる、と割り切っている。
そもそも、患者と医療関係者側は知識も立場も全く異なるのだから同じ土俵に立ち得ない。
いくら時間をかけて懇切丁寧に情報提供をしてその場で理解いただいても、結果が期待に反した場合、突然「説明を受けていない」ということになる。医師側は十分説明したと思っているから、言った言わないの論争になる。こうなると、双方の信頼関係が崩れ、収拾つけ難い、とても困難な事態に入り込んでいく。
5/23(月)晴れ 畑仕事 管理会議 外来 療養判定会議 法人評議員会
2:20起床、文献、新聞、ドック他処理。5:00-6:00トマト・きうり・ナス植え付け。7:00自転車病院着。7:45-8:20管理会議、8:45-14:10外来、混雑。16:00療養判定会議。17:30-20:30法人評議委員会+懇親会。退職の挨拶。20:50Taxi帰宅。 21:30就眠。
『あいさつ』を心掛けてほしい(5)患者への挨拶「ご苦労様」
私は外来では、患者が診察室に招き入れられると間髪を入れずに「どうですか?具合は・・」とワンパターンに聞く。それでも、理解できない高齢者もいて診察がスムーズに始まらない。同じ事を何度も何度も繰り返して説明しなければならない。次回来院希望日を確かめるとそれからおもむろに考え始める。いつも、予め考えて来るように言っているのだが、通じない。数十秒考えた上、「私は暇ですからいつでも良いです・・」と言う。高齢者中心の外来はとても疲弊する。忙しい医師に対するいじめの様なもの。予約に合わせて処方が済むと終了。その際、「ご苦労様・・」と声をかける。一般的には「お大事に・・」であろうが、私はそう言うことはまず無い。
当院には薬学部学生が実習に何人か来る。その際、外来診療見学が組まれ,私が担当している外来が選ばれる。患者との対話が面白いかららしい。僅か2時間足らずの見学であるが,患者が途切れたときには学生から薬学分野に進んだ動機、将来への夢等について聞き取る。私の方からは医療情勢、医療機関の機能的分担、急性期病院の外来診療のあり方や問題点について説明する。結構喜ばれているらしい。
その際、薬剤師も一人同席するが、先日の実習の時、「患者にご苦労様と声をかけるの院長だけです。何年も気になってました。何故ですか?」と質問してきた。私からは、多くは生活習慣病の予防対策のために来院しているから元気な方が多い。「お大事に」されては足腰が弱るからダメなのだ、と言う理由が一つ、もう一つは自分にも言い聞かせているから、と答えている。
私が担当する外来は50-60人で、特殊な内科疾患患者も混じっているが、もし「症状のない方は来院不要」とすれば僅か5-6人になってしまう。こんな外来を延々と繰り返している自分だから「ご苦労様」である。
各患者とも事情はいろいろである。予約しているにもかかわらず早朝に家を出て、遠方から病院に通い、診察前にさんざん待たされ、3分にも満たない診察時間の上に院長から嫌み混じりの生活指導され、更に会計窓口で待たされ、血を採られたほかにお金まで取られ、院外薬局でまた待つ。患者のこの一連の動きを見ていると心から「ご苦労様」と言いたくなる。
5/22(日)晴れ 病棟拘束 ナンナン命日
2:30起床、いつもの如し。9:45フォンテで行われるチャリティバザーに家内と提供物を届け病院。回診そのほか。12:00書籍等運んで帰宅。ネコの命日で花届く。16:30息子夫婦・孫・犬離秋、家内帰宅。講演準備、文献整理などで過ごす。20:00夕食、21:00就眠。
『あいさつ』を心掛けてほしい(4)不機嫌は環境汚染に等しい
職員同士がすれ違うときなど笑顔と明るい挨拶があると、それだけで職場環境、雰囲気が変わる。
医療界は小泉首相のころ感じた氷河期に向かっているようなどんよりと暗い雰囲気よりはずっと良い状況になっているが、東日本大震災の影響が今後どのようになるのか、経営面で、業務環境面で明るい話題はなかなか出てこない。日医は来春の診療報酬の改定を延期するよう申し出ているが先行き不明瞭である。もし改訂されるならば厳しい方向にシフトしていく可能性は大きい。
いま、節電対策で環境が暗くなっている。こんな時だからこそ働く職場を明るくしたいものだ。
そんな効果が笑顔、挨拶にある。病院の環境を良くするのはかなりの投資が必要であろうが、挨拶、笑顔は経費がかからないし,効果は絶大である。
制服を着た職員が同士が互いに挨拶も会釈も交わさず廊下をすれ違っている光景は私にはとても奇異な感じがする。私が無視されそうになることも決して少なくないが、そんな時は私から声をかけている。
人間は環境、その場の雰囲気に左右されやすい動物である。特に人間関係の影響は大きい。学習した範囲からザッと言えば、人間以外にも個体間に互いに相性はあるようだが、仲間内で一定のルールがあって大きなトラブルになる事は少ないようである。
私は院長に就任した際に、病院には半世紀にわたって培い、確立した理念や方針があり、強固な現場のスタッフの実力があるから、それを補充するツール、マナーとして「挨拶・笑顔・ディスカッション」を標語として挙げ、機会ある毎にその意義を話してきた。
提起していて私が不機嫌でいてはいけないと出来るだけ実践してきた。間もなくリタイヤするが、就任していた期間の間で若干は職場の雰囲気は良くなった、と思っている。
良い環境に置かれると心が和らぎ表情や言葉も態度にも反映される。逆も真なりで不機嫌そうな顔をした上司の下では誰でも自分の殻に籠もってしまう。
環境破壊はゴミや二酸化炭素、放射能だけによるのではない。不機嫌な人間も立派な環境破壊因子である。
5/21(土)快晴 病棟拘束 病診連携「卯月の会」
2:10 起床。ドック関連,徒然。6:40自転車病院着.回診他、患者家族面談。退院総括、紹介状など。 14:00帰宅。18:00-21:00View病診連携「卯月の会」+懇親会、院長辞任の挨拶。21:30Taxi帰宅、22:00就眠。
警察、検察、裁判官は何故業務上過失が問われないのか?(6)マスコミも何故問われない?(2)
マスコミは事件の報道の際、逮捕、送検されるとほぼ犯人扱いとして報道する。逮捕や送検された段階でマスコミはほぼ犯人扱いである。報道による裁判前の社会的制裁はかなりひどい。その逮捕や送検が結果的に間違いだとしたら、あるいは裁判で無罪判決が出た際にマスコミはどの様な行動を取るのだろうか。
今回、厚労省の村木厚子局長の逮捕関連の報道について考えた。
局長は一貫して事件への関与を否定した。2010年9月大阪地裁にて無罪判決が言い渡され、9月21日に大阪地検が上訴権を放棄し,無罪が確定した。検察の自白強要があり、検察官がフロッピーディスク内容を改竄したことで事件は思いがけない方向に進展した。この事件を振り返ると捜査が如何に杜撰であったか、検察側は立てたシナリオに無理矢理当てはめるために欺瞞に満ちた操作をしたのかが分かる。そして、辻褄を合わせるために検察が証拠物件を改竄した。前代未聞と言って良いような愚を犯している。
この件ではマスコミ各社は逮捕時、送検時に検察側から発表された情報に枝葉を付けて連日大きく報道した。大阪地裁が無罪を言い渡したのを受けて新聞各社は検証記事を掲載したとのことである。私が購読しているのは朝日新聞と秋田魁新聞の2誌と少ないが、前者にも,後者の記事発給元である共同通信社の記事にも明快な謝罪文を見いだすことが出来なかった。
両社とも検証記事の中で、村木氏が事件への関与を否定していることをきちんと掲げた事を強調している。私共の報道は対等報道の原則は貫かれており、他社の姿勢とは些かことなる、問題は無かった、という意味での、弁解めいた説明に感じられる内容であった。朝日新聞は社説でもこの事件、無罪判決について取りあげている。その中で、地検の問題点を挙げ、村木氏は一貫して無罪を主張していたこと、捜査の可視化に触れている。そして最後の2行に「それと共に報道する側も、より客観的で冷静なあり方を考えたい。」と付け加えただけである。誤った視点で報道をし続けた事に対する謝罪の姿勢とは違う。無罪が確定してから村木氏は会見の中で、「逮捕前の相当乱暴な取材は辛かった。検察からの情報を書くなとはいわないが、それ以外に何を書いたのか,何故それを書いたのかは検証して欲しい」と述べている。
村木氏は冷静であった。本当はもっともっとマスコミについて,検察の捜査について具体的に述べて欲しかったが、立場上グッと押さえたのであろう。
村木氏は復権し、元の職場に復帰した。再登庁日、職員らに祝福を受けていた。
一方、最近の医療裁判の中では福島県立大野病院の産婦人科医、患者の爪はがし事件で師長が無罪判決を得ている。しかし、両者とも前の職場と地位には復帰していない。何が背景にあるのか不明であるが,例え無罪と判断されても一連の逮捕から無罪判決までの過程で失った絆は小さくないし,マスコミの報道が果たした負の役割は大きい。端から記事を見ているとそう思う。
誰でも間違えることはある。問題は間違いであることが判明してからの姿勢が大事である。マスコミには道義的責任が問われないのだろうか。あるいはそれを感じる良心はないのだろうか。
5/20(金)曇り・小雨 緑のそよ風コンサート
2:30起床。ドック判定総括,文献検討、徒然。7:05自転車病院着。回診他。 院長室整理、書類処理、18:30-20:30 緑のそよ風コンサート。 21:00車帰宅、夕食、21:30就眠。
落語 桂歌丸「高座60周年記念会」
5月12日の春風亭二人会に続いて18日には桂歌丸「高座60周年記念会」を聴いた。
会場は秋田県民会館で一階席は8-9割くらいの入り。私は当日券を得て入場したのであるが、私が会場に着いたときには当日券残席はS席のみで10数席のみであった。件販売の若いスタッフに「随分混んでますね・・」と声をかけたが何故か返事がなかった。実際入ってみると少なくともA席を含め、残席表の10倍ほどは空いていた。当日券はS席のみ販売した様である。これは招聘元の経営なのだろう。窓口でスタッフが返事をしなかった理由がわかったような気がした。それでも、県民会館をこれだけ埋めるのだから大したものである。
緞帳が上がると高座の前に椅子が二つ置かれ、桂歌丸氏と 林家たい平氏の対談で始まった。背中が丸く、小さく縮こまり、弱々しい雰囲気の高齢者と,気鋭豊かな若者の取り合わせ。桂歌丸氏は横浜出身、今年75歳 自宅は置屋だったとのことで、小学生の頃から落語が好きになり中学卒業と同時に五代目古今亭今輔氏に入門したのだという。15-20分ほどトークがあった。
その後、柳亭小痴楽氏が高座に上がり古典の「 浮世床 」を演じた。若手の高座はわかりやすくて良い。
次いで、林家たい平氏が登場した。人気TV番組「笑点」でおなじみの顔である。笑点で見せる軽妙で若いタレント風の雰囲気とは全く別の、若手の芸人であった。演目は古典落語「紙くず屋」。たい平氏は多才なのだろう。言葉は流ちょうでテンポも早く、声も堂々としていて、聴くのに,演技を見るのに気が抜けなかった。打ち上げ花火の様子の描写、物まねも上手である。主人公が紙くずの中から手紙を見つけていろいろな場面を作るのだが、その展開も妙技であった。
歌丸氏の演目は 同じく古典の「左甚五郎、 竹の水仙 」。長話であったがこれを名人の域というのだろうか、私を全然飽きさせず、時に政治の風刺を入れたりして一気に聴かせてくれた。トークの時の姿勢の悪さなどはなく背筋も十分伸びていた。通常は途中でだれて眠るのであるが、もう二度と歌丸氏の実演に触れる機会がないだろうと考えると勿体なくて眠れなかった。芸は完成度が高かったと思う。そんな目で見ていたわけではないが、私は何ら芸に傷を感じ取れなかった。75歳と言うが、まだまだ活躍されるだろう。
私はどちらかというと枯淡の味と言われる雰囲気は、一応敬意を払うがするが,そんなに価値を感じない方で、珍重もしない。少しでも年齢による芸の傷が外に表れる様になったら、重要な立場にある人ほど自ら悟って退くべきだと考えている。並のレベルならば自然淘汰される。後は、そう言う味を評価する方々の中で活動すればいい。
私の立場は医療とビジネスの分野であるが、そう考えて年齢制限のない分野、役職からもすべてリタイヤした。今後は一介の高齢の医師として身の丈にあった診療のみ継続することとする。
5/19(木)快晴 外来 ドック結果説明 秋大医学部訪問
2:30起床、ドック判定総括x1、文献新聞チェック他。6:40自転車病院着.7:40回診・関連書類他。8:45-14:00外来+ドック結果説明、混雑。15:30秋大外科系医局訪問。20:30帰宅、夕食、21:15就眠。
相撲界に再び衝撃、八百長疑惑 (6) 技量審査場所
日本相撲協会は八百長相撲に関与したとして23人もの処分者を出し、その殆どが引退した。人的欠損が大きくなったため5月夏場所開催を断念、次の番付表を作るために技量審査場所として入場無料で開催している。
これで一応の線引きをした如くに見えるが、私は23人は生け贄として挙げられ、処分された、と思っているし、重すぎる処分であった。断罪された力士の多くが異議を唱えることもなく各界を去った。異常事態である。しかし,一般の方々、マスコミの論調は意外と協会の処分決定への批判は少ない。無理矢理、エイやっと決めた処分に感じられてならない。
場所も間もなく千秋楽である。力士入場口には携帯電話預かり所があり、支度部屋では監察委員の親方が力士達に不振な動きがないか見張っているという。また、従来の5人の勝負審判に加えて監察委員会の親方も土俵脇で勝負をチェック、更に客席最上段ある観察委員室で勝負を見守っているという。怪しいと判断されれば観察・審判合同委員会を開いて処分を決めるという。
携帯については厳しい扱いを受けたから、もう怪しい取引などを携帯でする力士はいないだろう。だから、無駄であろうが、これは対社会的なパフォーマンスだろう。いかに監察委員の親方がその目で見たとしても、八百長勝負の見分けがつくのだろうか。無気力相撲なら指摘は困難ではないだろうが、心身そのほか、人間だもの、何らかの事情があって勝負に集中できず早めに勝負を諦めて投げ出す力士もいるだろう。それと八百長とどう区別するのだろうか。
新聞で星取表を見た。かなり取り組みが進んでいる。最下段にいるブラジル出身の何とかという若手が白星を重ねている。
数えてみれば、何と41人中19人の出身地が外国である。約半数である。これで、日本の国技、神技などといえる状況なのか、と感じてしまう。日本相撲協会の名称を国際相撲協会にしてはどうだろうか。幕内力士41人のうち6人が引退し、名前だけが掲載されている。その内の4人がモンゴル出身、一人が韓国で、日本の力士は琴春日ただ一人である。
何か異様である。金銭取引の文化の違いなのか? 相撲で求められる心技体の育成が未熟だったからか?はたまた、処分に際して何らかの不公平な扱いがなかったのか?などと新たに疑問に思ってしまった。
5/18(水)快晴 外来 院内感染対策会議 患者面談 桂歌丸落語会
2:10起床。ドック判定総括x1,他処理。徒然。6:40自転車病院着。7:20回診、書類他。8:45-14:00外来、16:00-16:40院内感染症対策会議。18:30県民会館 桂歌丸落語会。21:30自転車帰宅、夕食、22:15就寝。
警察、検察、裁判官は何故業務上過失が問われないのか?(5)マスコミも何故問われない?(1)
マスコミは事件の報道の際、逮捕、送検されるとほぼ犯人扱いとして報道する。
「最終判決までは原則的に無罪」の法則があるはずであるが、完全に犯人扱いである。被疑者は判決が出る前にマスコミによって社会的に断罪されてしまう。最終的に無罪が確定しても過去に遡って被疑者に陳謝することもない。これは医療関係者の立場から見ると実に不思議なことである。
北秋田市市長選挙で公選法違反事件で逮捕された岩川氏のに関する魁新聞の報道にも疑問を持った。
今回は厚労省の村木厚子局長の逮捕関連の報道について考えた。2009年6月、厚労省の村木厚子局長は自称障害者団体「凛の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安く発送させたとして逮捕された。逮捕当時から局長は一貫して関与を否定した。2010年9月10日、大阪地裁にて無罪判決が言い渡され、9月21日に大阪地検が上訴権を放棄し,無罪が確定。検察の自白強要が問題と、検察官がフロッピーディスク内容を改竄したことで思いがけない方向に進展していった。
この件ではマスコミ各社は検察側から発表された情報に枝葉を付けてドキュメンタリー風に仕立て連日大きく報道した。
本来、「容疑者と捜査当局の対等報道」はジャーナリズムの原則である。しかし、実際にはマスコミは逮捕当時にはそれほどの情報は持っていないことが多いし、容疑者、弁護人、関係者への取材の困難さがある。接見禁止がでていることもある。わが国のマスコミはこの報道の原則から完全にずれていて、容疑者の人権は「ほぼ」完全に無視されている,と思う。「ほぼ」というのは「本人は無罪を主張している」などと免罪符的に一行程度の記述があるからである。
この「容疑者と捜査当局の対等報道」が成り立っていない背景には、特にわが国では特捜部の関与する事件の有罪率が99%と著しく高く、他の事件でも有罪率はとても高い。このことが背景になっていて,逮捕=犯人間違いなし、との前提に立つ報道姿勢が作られてきた。対等報道は実際にはとても困難であり、対等に報道してはセンセーショナルには表現できない。何故かこの件に関して人権保護のプロである弁護士側は大きく異議を唱えても良いように思うが、それほど目立つ主張もない。日弁連と報道機関との間で検討すべき問題である。日本新聞協会は裁判員制度発足に合わせ「容疑者、被告は犯人に決まっている」と言う予断を与えないような指針を策定している、と言う。しかし、実行されている様には到底見えない。
村木氏は本人を知る人達の評価はとても高く将来が嘱望されていた方だという。しかし、無罪が決定するまで,マスコミによってあること無いことを書かれ,TVを見る者、新聞等を読む物に「異常な人間像,権力を自在に繰るとても悪い人」、と言うイメージを植え付けられていった。
5/17(火)快晴 外来 法人常務会 県病院協会通常総会+情報交換会(欠)
1:30起床,文献チェック、ドック関連書類ほか.7;05自転車病院着。7;30回診。 8:45-14:20外来。疲弊。14:45-16:20常務会。18:00-20:10県病院協会定時総会は役職御免で欠席。20:30帰宅、21;00就眠。
警察、検察、裁判官は何故業務上過失が問われないのか?(4)
医療が安全になされることは当然である。医療関係者もその自覚と意識の元に改善を図ってきたが,医療が急速に高度化し、複雑になってきた現実の中で後手に回っていたことは否めない。
結果として1999年の横浜市立大学付属病院の患者取り違え事件を嚆矢として大きな医療事故が続いてしまった。結果的に、医師や看護師等の医療人が刑事訴訟され有罪判決を受けた。これ以降マスコミの医療バッシングが高じた。これ以降、医療の安全性はシステム化され急速に改善されたことは否定できない事実である。
医療安全の追求過程で医療事故を検証していくと、私は同じ国家資格を受けている立場でありながら、医療人と警察や検察、裁判官等の司法関係者の業務上の扱いが何故こんなに大きく異なっているのか疑問が沸いてくる。
明らかな判断ミス、過誤を犯した警察、検察、裁判官は、後に誤った判断だと分かった後にも何故業務上過失の罪が問われないのだろうか。マスコミもそうなのだが、誤逮捕、誤送検による拘束、誤報道を通じて被疑者に法的にあるいは社会的に被害を与えながら、何故罪が問われないのだろうか。われわれ医療職ならば即業務上過失である。
例えば、刑事裁判で死刑執行後に無罪が確定したような場合、裁判官は業務上過失致死罪が問われてしかるべきだし、民事裁判でも誤判決に対して過失が認められて当然である。なかなか良い資料がないが、調べた範囲では、上記の如くの甚だしい例を含めて、刑事裁判の誤審を理由に裁判官が過失責任を問われた例は皆無らしい。民事裁判も前例がないという。
解釈として、裁判官の過失は「権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したと認めうる特別の事情がある場合には適応されうる」とのことであるが、これは論じるまでもなく当然である。要するに司法関係者は与えられた権限の中で良心に基づいて業務をこなしているのだから、例え間違っていても過ちとして問われることはないと言うこと。
裁判官の場合、上告審で無罪が確定しても下級審で誤判断を下した裁判官は過ちを問われることはない。更に、刑事事件において無罪の判決が確定した場合、逮捕・拘留等も誤ってなされた事になるが、警察や検察も過失を問われたことはない。その逮捕・拘留の時点で相当な理由と必要性が認められる限りは適法であるのだそうだ。大変な権力が与えられているものだと改めて思う。
5/16 (月) 快晴夜小雨 管理会議 医療安全関連打ち合わせ 療養病棟判定会議 長副会議
1:00起床。文献検討。徒然、6:40自転車病院着。7:45-8:15管理会議。10:00医療安全打ち合わせ。書類作成など。病棟対応、16:00療養病棟判定会議。17:00-18:10長副会議、20:00帰宅、夕食、 21:00就眠。
私のながら勉強・ながら仕事 50年以上の習慣だが、TVとは両立しない
私は小学校低学年の時に兄から鉱石ラジオなるものを作ってもらった。イヤフォンで微かな音で鳴った、電源も全く要らずいつでも鳴っているという不思議なラジオであった。この頃から私は何時もこのラジオを聞きながら勉強したし、寝ていた。眠っている間に耳からイヤフォンが外れるのが常だったが、実害もなかった。その後真空管ラジオの古いのを貰い、高校の頃には当時珍しかったソニーのトランジスタラジオに替わった。目が飛び出すような値段だったが工学部に進学していた兄の教材だったかも。
大学の時はパチンコの水揚げで小さなFMラジオを購入した。
医師になってからはポータブルのレコードプレーヤー、カセットデッキ、CD・MDと替わっていき、ここ2年ほど前からはiPodを用いている。
恐らく、端から見ると緊張感のない仕事ぶり態度とかと思われていたのかもしれないが本人にとってはそんなことは一切なくて実害もなかった。ただ、私は他人の居るところでは音を出さないから、そんな時にはヘッドフォンに頼ることになる。職場ではここ6-7年は個室を与えられたのでその意味では最高の環境であった。勿論、鳴らすのは小音量なので、スーパーウーファーを身近に置くととても心地良い音になった。
ながら仕事の時に、仕事に没頭し集中した際には、実際には鳴っていても殆ど無音状態と同じになる。だから、能率が大きく低下することはないどころか、むしろ音楽は能率を上げてくれていると思っている。しかし、この際に流す音楽は限定される。グレゴリオ聖歌、バロックからモーツアルト、特に宗教曲が良い。
モザイク状にしか聞こえていないがこれらの曲だと曲想も予想できるし繰り返しも多いからそれでも十分である。それ以降の作曲家だと曲の構成が複雑だし、活発な曲になると業務と共には成り立たない。
ここ5年ほど前まではソースは音楽が中心であったが、最近ではラジオ深夜便の「こころの時代」「明日へのことば」も時折聴きながら仕事している。だが、講演や会話を聴きながらのながら業務は断片的になってしまうやからダメである。
TVとのながらは更にダメ。目と耳の両方が占拠されてしまう。だから、居間の私の仕事コーナーはTVはパソコン画面に隠れてしまうような配置にして家族達の楽しみと両立を図っている。
5/15(日)晴れ 病棟拘束
3:30起床、家内不在。文献新聞チェック。病院医報巻頭言準備中心。10:00鯉に餌撒き兼ねて自転車病院着、パソコン上で確認する範囲で患者に問題なく回診せず。13:40帰宅。音楽三昧、CD整理、運び込んだ書籍・文献整理など。19:00まかないさんと夕食、20:00就眠。23:00過ぎに家内帰宅。
東日本大震災(23) 9.11以前と以後 3.11以前と以後
最近、3.11以前と以後と言う表現が見られる。3.11は私共日本人の価値観が衝撃と共に崩壊した日でもある。
2001年の9.11でも確かに同じようなことが語られた。9.11は世界に通じる象徴的数字となった。非民主的手法をとっている発展途上国ではテロが頻発していたが,9.11を機会に、テロに対する考え方が一変した。対テロという意識で世界各国がほぼ一致して対峙する機運が作られた。その中でブッシュ大統領が勇み足的行動を取り、2003年3月20日の対イラク開戦に至った。その後も長い間、テロ対策は目に見える成果がなかなか得られず混迷状態は続いていた。この4月下旬に米軍がパキスタンの潜伏先を奇襲してビンラディンを殺害したことで9.11以降は一つの節目を迎えたと言えよう。
11、奇妙な数字の一致である。9.11は米国で、本年の3.11は日本でしかも、東北圏内で起こった。地震に引き続いた津波の映像は瞬く間に全世界に配信された。9.11、3.11の映像は共に鮮明な画像で,あたかもSF映画の一場面を見ているが如くの、通常では想定できないレベルの衝撃的映像であった。そういう意味でも両者には共通点がある。更に、直接の被害だけでなく、9.11では2棟の貿易センタービルが崩壊し、3.11では福島原発の事故が引き続いた。
3.11では過去の記録から、あるいは地震予知科学の知見から想定できないような規模の津波が襲った。わが国では何所で同規模の地震が生じ得るし,その際、同じような被害が生じうる。だから、東日本大震災は日本人に共通の問題点を意識させたし、痛みを感じさせた。今後は復興という大事業が進められるが,ここでもまた全国民が何らかの形での負担を分担することになる。3.11大震災は日本の価値観を刷新した。決して東日本だけの問題でない。日本は,かたちとレベルは異なるが大戦後がそうであったように、一つになった様に思う。
更にそれに引き続いた福島第一原発の事故は、フクシマ、Fukushimaの事故として全世界を震撼させている。放射能汚染は時には国境を越えた汚染となる。今のところそこまで至っていないが、単に半径何10Kmの領域の汚染に矮小化できない。世界のエネルギー確保問題に大きな影響を与えている。世界各国でエネルギー対策の見直しが始まっている。エネルギー対策は国の有り様、人の有り様にまで影響をもたらす。
3.11のM9.0の大地震、引き続く大津波、更に続いたFukushima第一原発の放射能漏れの問題は世界各国の共通の問題となっている。3.11は9.11と共に歴史に残る大きな節目となるだろう。そんな気がする。
5/14(土)快晴 病棟拘束 66歳初日
2:30起床。家内が突然、西武球場で行われている「第13回国際バラとガーデニングショウ」に行くと言い出した。「エーッ」と言うところだが、もう慣れた。この無計画な行動力が羨ましい。8:20駅に送り出勤、回診他、業務と講演準備。自宅に本など運び14:30帰宅。午睡、17:00夕食、文献整理他のんびり。1:00就寝。
66回目の感謝の日
5月14日は私の66回目の感謝の日。
今年はあまりこの日を気にしなかった。何かの大きな節目がなければ私にとってこの小さな記念日は桜が散った後に黙っていてもおとずれる通常の日だからである。
別に何かあるわけではない。横浜の娘から白の薔薇が送られてきた。数人から祝いのメールがあり、元職員の方からネコの写真集が送られてきた。家には誰もおらず、静かで平穏である。家内は明日は西武球場の薔薇展に行くと行って今朝そそくさと出かけた。今頃は横浜で長女夫婦交えて会食でもしていることだろう。
私は賄いのおばさんとひっそりと夕食である。まあこんなもので、これが通常の姿である。古いレコードを出して数枚聴いた。小編成の曲ならCDよりずっと良い。
年齢と関連ある節目としては、やはり20歳の時かな。もう昔のこととなった。厄年、これを私は全く意識していなかったのだが、周りからやんやと勧められてお参りか何かやった様な気がする。最近では還暦を迎えた時。親戚たちが祝宴してくれ、赤いマフラーの様なものを頂いた。この時は私自身も退職し、生き方を変えようと計画していたが、気を失し実行出来なかった。
昨年は待ちに待った大きな節目が訪れた。雇用契約が満了する年だから何もせずとも退職となる。就業規則にあるから選択肢はない。私は年度最終日に照準を合わせて2-3年前から退職の準備を進め、医師会他の対外活動も縮小、ほとんど整理し終わった。
しかし、退職が5月末日となった。法人の常務理事としての任期が5月末日であったからで延びた。あと半月である。
別に医療職が嫌になったわけではないが、 特に50代の後半頃から別の分野にいろいろやりたいことが増えてきている。振り返ってみれば、私は背伸びし切っても届かず、更に高い足駄を履いた状況だったと自分で思うほど頑張って何とか新潟大学に進学出来て医師になれた。医師になってからも無理に無理を重ね背伸びして業務をこなしてきた。だから、多くの興味の分野を捨てざるを得なかったし、いつかはきっと、と思いながら多くを延期して来た。
社会的には引退すべき年齢であるが、やっと私の願望の一部を実現できる機会を迎えることになる。私的にはまだそう捨てたものでない、知識欲、興味、活力はまだあると思う。これからが楽しみである。
私の66回目の感謝の日を無事迎えられてとてもうれしい。特に今年は私の再出発の年になる。
多くの、お世話になった方々に、心から感謝いたします。
5/13(金)雨・曇り 法人理事会
2:30起床、入院患者対応、ドックほか関連書類処理。8:30出勤する家内伴い病院へ。この時間はさすがに渋滞しストレス。9:30回診ほか患者関連業務。院長室整理。17:30-18:45法人理事会。20:00帰宅、軽食、21:30就寝。
落語「春風亭昇太・柳家花緑 二人会」(2)「笑点」から予想できない春風亭昇太の至芸
休憩の後、三番手として登場したのは「紙切り師」の林家二楽氏。落語家の雰囲気は持っているが落語家と言って良いのか,それ以外に分類される芸人なのか見ただけではよくわからない。
会場からのリクエストを受けてたが、「コーヒー」「なまはげ」「M.ジャクソン」など、難しい注文であった。あまりにも茫洋としすぎて私など、これではどんな作品になるか皆目見当がつかなかった。二楽氏は切っている間も軽妙に体を揺らし、トークを交えて会場を沸かせる技能は大変なものである。
全く迷いも、考えている素振りも見せずに一気に切り上げた。作品はOHPにて拡大して見せたが、いずれも複雑な図柄で驚いた、シルエットとして浮かぶ人物像は躍動感があり、とても素晴らしい出来であった。
ところで、リクエストに途惑う振りはしたものの、本当だろうか?巧妙に仕組まれたサクラではないか?と疑いたくなる。しかし、例え、予めリクエストが決まっていたとしても、そんなことはどうでもいいと思えるような見事な技能である。
彼の説明では落語家は全国で約600名とのことであるが紙切り師はわずかに4人に過ぎず、絶滅が懸念されている貴重な「絶滅種的人種」だと笑わせた。 この方々の能力は実に素晴らしいものだと思う。
細かい、複雑な手作業とトークを同時に進行させるのは脳の中の働きが機能的に二分されているからであろう。同様のことはピアノでも可能で、ピアノの弾き語りは一つの表現のジャンルにもなっている。一方、弦楽器を演奏しながら語る方を私は知らない。ヴァイオリンでもチェロでも弾きながら断片的には話すことは出来るが系統的な噺、アドリブで長く話しながら奏でるなど不可能の様な気がする。同じ音楽の分野でも脳の中の機能は大きく異なっているのかもしれない。
最後の登場は春風亭昇太氏。人気TV番組「笑点」でおなじみの顔である。グレーの羽織袴姿で登場した彼の雰囲気は笑点で見せる軽妙で若々しいタレント風の雰囲気とは全く別の、年輪を感じさせる芸人という雰囲気であった。高座の照明の関係もあったとは思う。
演目はこれも古典の「ちりとてちん」。別名「酢豆腐」とも言うようで、本来は「長崎名物」であるが、現在では「台湾名物」とする演出もある。今回もこちらで行った。知ったかぶりするある男が腐った豆腐を食べさせられるという筋であるが、適当な名前を付けた腐った豆腐を出されたが、あたかも知っているがごとくに振る舞まった結果、結局食べざるを得ない羽目になるという陳腐な話。このことから半可通の知ったかぶりのことを「酢豆腐」と言うようになった、ともされる。この演目を昇太氏は全身を使い、身振り手振り、顔の表情も豊かに演じきった。さすが、と思ったが、私は今まで彼を半ば誤解していたようである。
「笑点」は毎週放送され毎週同じ顔ぶれの落語家が登場する。もう45周年も迎えたという。600人もいる中で毎週TVに出演する落語家は、実力は別としても知名度を上げるにはかなりの良い機会になっているといえる。ただ、あの番組で見せるタレント風の顔と真の落語家の顔とは全く異なるものであることを今回の春風亭昇太氏の芸を目の当たりにした。彼にとっては笑点で見せる軽妙なイメージは殆ど影を潜めており、これが同一人物なのかとさえ思ってしまった。TVとかで作られるイメージが必ずしも芸にとって良い作用だけではないこともあり得る、と思った。
近々、桂歌丸氏の独演会が秋田で開催され、笑点の他の一人のメンバーも出演するという。チケットが手に入るものであれば二人の芸に直接触れてみたいものである。
5/12(木)小雨・曇り 外来 厚生連病院院長来訪 県健康推進課スタッフ来訪 ABS落語二人会
2:30起床。文献等若干処理。6:50病院着。7:30回診他病棟関連業務。8:45-14:00外来,超混雑。14:00厚生連病院院長来訪歓談。16:00県健康推進課スタッフ来訪、打ち合わせ。18:30-21:00ABS落語二人会。帰路降雨に合い自転車無理、途中で迎え要請。21:45帰宅.夕食、22:30就寝。
落語「春風亭昇太・柳家花緑 二人会」(1) ヴェテランの熱演を堪能
私は落語好きである。幼少の頃から座右にラジオを常に脇に置いてながら勉強していたのであるが、その際、落語の放送はとても楽しみであった。新幹線がまだなかった頃の東京出張の際の帰路は上野発22:00または22:20発の寝台特急「あけぼの」を利用したが、出発までの時間を利用して上野文化会館や鈴本演芸場にはよく通ったものである。新幹線や空路が便利になってからはほとんど行くことはなくなった。
ここ数年の間は、知人からCDなどを借用し個人的に楽しむライブラリーを作った。300演目ほどになり、とても聞ききれないのが悩みである。
ただ、落語は音声だけではホンの一部しか味わうことの出来ない総合芸術の一つと思う。十分楽しむには五感全部を動員する必要がある。だから、落語の公演があると私はできるだけ出かけて聞くようにしている。
第7回ABS秋田放送特選落語会「春風亭昇太・柳家花緑 二人会」は3月23日公演予定であったが東日本大震災の影響で本日に延期された。ほとんど失念しかけていたが数日前に机上を整理していてたまたま公演延期連絡の手紙とチケットを見つけた。
会場は秋田県児童館ホール。778席の中乃至小規模であるが578席の一階席はほぼ満席であった。前回のABS特選落語会も聴いたがその時は7-8割の入りであったことから考えるとこの二人、特に春風亭昇太の人気がわかるというものである。席は演台のほぼ正面、2列目という恵まれた席で、演者の表情なども間近にみることが出来た。
演目とかの詳細はメモしてこなかったので残念ながらはっきりとは記述できない。
前座の20代と思われる若手の落語家は「おなら,知ったかぶり」を話題にした古典的演目「転失気(てんしき)」。極めて上手によどみの無い完璧な演技であった。言葉もとても聞き取りやすく将来が嘱望されるような方であった。一方あまりにも爽やかで、いわゆる「間」や「味」が不足していた、と思うが、それは今後の精進に期待したい。
私は柳家花緑氏の名前は知らなかったのだが,顔はTVとかで本で何度か見たことがある。既に名が知られている名手だろう。演目の題名は忘れたが、「将棋とかで帰りが遅くなり閉め出された若者が,同じように閉め出された若い女と連れだって、隣町のおじさんの所に泊めてもらう」ことを題材にした、有名な古典の一つである。花禄氏は味わいのある語り口であった。さすがにヴェテランの芸はすごいと思いながら堪能した。
5/11(水)曇り 外来 新築関連ヒアリング
2:00起床。ドック総括、文献チェック他。7:00自転車病院着。7:20 病棟回診、関連書類。8:40-14:50外来。14:30-15:30新築関連ヒアリング。業務処理、中通病院医報巻頭言着手。21:50帰宅、夕食、22:45就眠。
東日本大震災2ヶ月 死亡14.949人、不明9.880人、避難117.085人
東日本大震災から2カ月になる。直接被災された方々の苦難は知るよしもないが、出身県である岩手の状況には無関心ではいられない。報道に接する度に心が痛む。
今朝も4:30am頃緊急地震情報が福島・茨城両県に発信された、と放送があった。少なくなりつつあると言え、東日本ではまだ身体に感じる余震も続いている。
大震災後一ヶ月後の4月10日時点での警察庁の発表では死亡13.013人、行方不明14.608人で、死亡+不明者の総数は27.621人となっていた。この時点で、仙台市、東松島市、南三陸町は集計されていなかった。
5月10日の時点での警察庁のデータでは、死亡14.949人、不明9.880人、避難117.085人とのことで一ヶ月前に比較して死者+不明者は3.000人ほど減少、避難者は3万人ほど減少している。数値で見る限り避難者は減少していることにはなるが、どの様な形でこの統計から抜けていくのかが気になる所である。恐らく、満足出来るような生活に戻った方は極めて少ないのではないか、と思う。
この一ヶ月間で死亡+不明者のうち減少した3.000人は不明者のリストから生存が確認されて統計から抜けたと言うことなのだろうか。私は震災後一月経った時点の不明者は死亡が確認されて死亡の方にカウントされるから死亡+不明者の総数は殆ど変わらないものと思っていたので、これだけの多数が抜けるなどとは予想していなかった。仙台市、東松島市、南三陸町は集計に入ったのだろうか。これらの地区が集計されれば大幅に増えると思うのだが、よくわからない数字である。
2ヶ月経ってもよく分からないのが福島第1原発事故そのものの状況、放射能漏れの実態、復旧状況の進行程度である。連日・連日現場のニュースとして報じられるが、内容は断片的であり全体像がよく分からない。結論から言えば、ほとんど収束に向かっていない様に感じられる。
TV・ラジオは東電、保安院等の記者会見を直接中継しているが意義は乏しい。時間の割りには内容のない会見が多い、会見が終了した時点で国民に伝えるべき点をかいつまんで国が指定するスポークスマンが説明すればいい。その際、当然政治家ではなく物理化学の専門家で、説明に長けた方が良い。
環境汚染や農産物、魚介類への不安はさらに強まり、避難指示区域も目まぐるしく変わる。風評被害は関係のない地域、分野にまで及び、工業製品の輸出も滞っている。
全国から支援の輪が広がっているが5月連休後は撤退する。中でも医療機関の復旧は遅遅としているとのこと。もともと医療過疎にあった地域で、今回死亡した医師も10名近くらしい。今後は医師会を中心に息の長い医師派遣が望まれる。
この間、やはり菅政権の復興対策はもたついているが、自民党を中心に野党側の姿勢は理解出来ない。何とか方向性が確保できたのは■第一次補正予算成立、■浜岡原発停止くらいであって、■復興構想会議構想、■復興実施本部構想、■復興基本法案・閣僚増員法案等のアイデアはいずれも野党側の反対にあって挫折している。
菅氏の技量が問われるということであるが、私はこの危機的状況を乗り切るのに超党派的決断が必要な時に、野党側は党利党略、菅降ろしの材料にしている。残念なことだ。
5/10(火)曇り後雨 外来-ドック説明 常務会 新築関連事務医局会議 医局会
2:00起床、文献検討他。新聞チェック。6:20自転車病院着。7:30回診他。 8:40-14:30外来+ドック結果説明2名、混雑。14:45-16:10常務会、16:15-17:10新築関連事務医局会議。17:30-18:45医局会。20:00帰宅。軽食、21:00就眠。
鯉とスズメ、カラス(4)自転車通勤の楽しみ再開
徐々に天候も良くなってきたと言えども今年はなかなか暖かくならなかった。
冬期間止めていた自転車通勤を3月21日から再開した。ただ、降雪降雨があり、寒くて4月中旬までは週2-3回程度に止まった。この頃やっと寒さから解放された。
車での移動と異なり自転車は自由度が高いからいろいろな楽しみが伴っている。道路脇の草花も良いし、自転車道路脇の庭先の花も美しい。
私の自転車通勤の楽しみの一つが秋田北高校の側の橋から旭川の鯉たちに餌を妬くことである。3月はまだ水量が多くて水も濁り、かつ水温が低かったためか鯉の姿を全然確認できなかった。4月に入ってから、時に1-2匹姿を見せる様になったが、餌を撒いても食いつくわけでもなかった。桜が満開になった下旬頃から急に多数が集まるようになり、今朝は50cmほどの鯉が10数匹姿を見せた。そうは言っても餌への食いつきはまだ決して良くない。 昨年は鯉がエサを旺盛に食べ始めたのは連休明けであったからやや遅れ加減である。今後、水温の上昇と共に日に日に活動性も増し、数も多くなって行くだろうから秋までの間楽しみでもある。
私が用意する餌は干し飯が中心で、それに乾燥した野菜くずなどをブレンドしたものである。病院の給食から医局に届く検食は時に手が付けられないまま栄養科に回収されていくのであるが、そのご飯を失敬し、電気スタンドの余熱で乾燥した。昨年はセミモイストほどまで乾燥し、冷凍したのであるが入りきれないし、どうしても黴びるためにほぼ乾燥状態にしている。冬の間作り続けていたので10数Kgもたまった。この餌はとても固くて直ぐ沈むのが悩みで、何とかして浮かせたいと考えているがまだアイデアが出ない。
餌を撒くと、鯉だけでなくスズメ、カラス、カルガモも集まってくる。私はカラスが嫌いではないから分け与えたいのであるが、カラスに餌付けするとこの付近の方々が迷惑するだろうと考え、カラスには盗られないように注意して餌を撒いている。
秋田の春は遅い。桜の季節も終わって、新緑が綺麗になり始め、やっと自転車通勤に相応しい季節になってきた。満開の桜を見ながら、散る花びらを受けながらの自転車通勤はこれまた良い。旭川沿いは桜が所々にあり実に綺麗である。
5月6日雲一つ無い快晴のもと、川縁にあるしだれ桜が満開で空の青さと花のコントラスト実に見事であった。
5/9(月)曇り 外来 管理会議・長副会議なし
2:00起床。ドック処理X2。文献チェック。6:10自転車病院、6:20回診他病棟業務。7:45-8:20管理会議.8:45-14:00外来。連休明け、混雑。13:00秋大産婦人科教授医局長来訪。16:00療養病棟判定会議。19:50車帰宅,夕食、20:30就寝。
わが家のゴールデンウイーク2011 いつもよりゆっくりと、静かに過ぎた
今年のゴールデンウイーク(GW)は4月29日から5日の間であったが、私にとっては出勤日の2日、週末の6,7日はたまたま外来担当が無い日であったので8日の日曜日まで時間的には比較的余裕を持って過ごせそうな予感がした。
東日本大震災の影響で新幹線が直前まで不通、空路は満杯でいつも帰秋する娘達が来れるか否か分からなかった。ならば、かつて私共がお世話になった宮古を中心に三陸地方を訪れようかとも考えた。しかし、この時期に明快な目的も持たずに被災域に近づくのは邪魔以外の何者でも無かろうと取りやめた。
現実には連日病棟拘束で重症者対応で秋田を離れられる状況ではなかった。この間、溜まっていた退院総括、ドック等の業務を前半で集中的に処理したので、後半は一層身軽になった。
病院の机周囲、書棚の整理を始めた。
また、ここ数年来ほとんど使うこともなく半ば物置状態になっていた自宅の自室を整理し、メインのオーディオの復活させ、LANを敷設しパソコン環境を準備した。この間、ほとんど使わなかった電池駆動のプリアンプは蓄電機能が劣化していていてその特徴を発揮できなくなっていた。古い型だからこの利点はもう生かせない。超低音域をスーパーウーファーで微かに響かせながら、真空管アンプのほのかな光、レコードの反りでゆったりと上下するアームの動きを見ながら大型の装置で聴く緩徐な曲は実に素晴らしい。これからが楽しみである。
2日から長女夫婦が、4日には息子夫婦と孫も来て家族が全員揃った。これに通いの賄いのおばさんを加えれば総勢9人と犬一匹、ネコ2匹である。我が家は一時9人家族であったことがあるがこの間はそれを凌ぐ大所帯となった。今後も揃う機会はそうあるわけではないので、ネコを除き市内のスタジオで家族写真を撮り、ついでに私共の何回目かの遺影用写真を録った。犬と孫が勝手気ままに動き写真館の方々に迷惑をかけた。
4日からの二日間は1歳半の孫中心の生活。徐々に知恵、体力が付き一層可愛くなったが対応は大変。昼寝すると家中がホッと安堵する感じ。子育ては実に大変である。嫁殿に頭が下がる。
5日夕方からもとの静けさに戻った。陽が陰ってから近所から借用している家庭菜園の畝興して汗流す。クワを持っての作業は50年振りほどとなるが、高校生までやっていたから結構満足出来る仕上がりとなって溜飲を下げた。
この期間中、自炊作業も積極的に進めた。この場合の自炊は料理のことではなく、書籍や文献の電子化のことである。病院にあった書籍、文献類の大部分は電子化後廃棄したので書棚はかなり隙間が目立つようになった。物が少なくなると言うことは心を浄化する作用もあるようで、とてもすっきりした。
一昨年あたりまでのGWと比較すれば、時間を自分のために有効に使えたと思う。
昨年までは自嘲的にシルバーウイークと称したが、今年はゴールデンウイークと評価したい。
5/8(日)母の日 降雨・曇り 病棟拘束
2:00起床。文献整理,新聞チェックなど。朝はバロック三昧。母の日である。子ども達を中心に生花のセットが数ヶ届く。ドック総括など業務も若干。レコード再生機能復活。CDも整理、分類し直しなど。16:00病院、回診・書類、19:00帰宅、夕食20:30就寝。 これで私のGWは終了。
医療事故、医事紛争は何故減らないか?(16)原因・結果間に「ある程度の可能性あり」でも賠償
過失と医療事故の因果関係、法的責任の考えは、かつては過失があるか否かがまず重要であった。その上で、例え過失があっても死亡等の悪い結果がそれによって引き起こされたのでなければ、医療側は法的責任を負う必要はなかった。これは私共にとって対応の拠り所でもあった。
しかし、因果関係の考え方もこの10年でかなり変わってきた。
2000年代になって、最高裁が判決の中で採用したのが「相当程度の可能性」という考え方である。「相当程度の可能性」というのは、過失と不利益との問に「高度の蓋然性」があるとまでは言えないが、「その可能性は相当にある」と判断されれば、数100万円程度の慰謝料を認める、とする考え方である。
この概念はとても分かりにくい。私は「高度の蓋然性」とは「限りなく黒に近い灰色」を指し、「相当程度の可能性」は、「いろいろな濃さの灰色」を示すと理解している。灰色の色調にクリアな線引きがあるはずもないから評価は難しいのだが、灰色のままで大雑把に決めてしまおう、と言うことである。
要するに、過失と迄ははっきりと言えないが、医療機関側に一定の落ち度はあったのだから、多少なりとも賠償をすべきと言うことである。過失と結果の間に確固とした因果関係がを証明しなくても良いのだから、ある意味で感情論的でもある。しかし、2000年代以前に.「期待権」と言うもっと茫洋とした感情論的考え方があった。これが近年「相当程度可能性」に姿を替えたが、これによって「期待権」からある程度の「因果関係認定」と言うことになるから、感情論は若干ながら後退するだろう。
今後の問題点としては「相当程度の可能性」理論がどのような状況にまで適用されるのかである。広く適応されれば、医療を受けた患者に何かの不利益・実害があれぱ安易に適用される可能性がある。対象範囲があまりにも広がれば、例えば後遺障害が無くとも医療側がやるべき医療行為をしなかった、と提訴され、賠償責任が認められてしまう事にもなる。
これでは医療は到底成り立たない。だから、今後の動きを見守らなければならない。
また、最近知ったのであるが、和解交渉、示談交渉の中でも「相当程度の可能性」理論を応用して事をまとめる動きも出てきているようだ。
5/7(土)快晴 病棟拘束
2:00起床、文献検索そのほか。6:50自転車病院着。今日は風強く大変だった。8:30回診他机上処理中心。患者関連書類多数処理。机上からカルテが消えた。14:00自転車帰宅、オーディオ関連の整備、調整、十分堪能。19:00夕食、20:00就寝。
医療事故、医事紛争は何故減らないか?(15)増えるクレーム
横浜市立大事件を機にマスコミが大きく取り上げたこともあって、医療機関側でも医療ミスや診療に関する患者との認識の違いを減らそうと努力するが増えた。今では、医療事故が起こった際には院内に調査委員会を迅速に立ち上げて対策することは大規模病院では一般的になったと思われる。
それに伴い、診療の方針やこれから辿るであろう経過を詳しく説明する、いわゆるインフォームドコンセントがより重視されるようになり、カルテに説明した内容や行った診療内容を詳しく記録することも浸透した。その結果、医療者側と患者側の医療に対する認識の違いも埋まりつつあり、事故が起こった際にも訴訟まで至るケースが少なくなっている。
そうは言っても、患者側の権利意識が高まったせいか日常の診療の中では医療者側に頻回に面談を申し込んできたりクレームをつけてくる事例は増えている様に思う。面談の意義を否定することは出来ない。このような場合に、医師や看護師は懇切丁寧に病状を説明する。クレームに対しては悪しき方向に発展しないように真摯に対応する。しかし、患者・家族との面談の中で私どもが一番困るのは発展性のない不毛な議論の繰り返し、どうどう回りである。忙しい状況の中、それに付き合うことほど無駄なことはなく、辛い。面談経過を文章にして渡しても、である。
知人が勤務する病院で、夜間に看護師が家族に2時間以上詰め寄られた例があったとのことである。冷静に伝えれば数分で済むような内容であったが、家族は興奮し、話題に次々と枝葉が付き、かつどうどう回りしたと言う。何とか切り上げられなかったのかと思ったが、看護師の立場ではとても話を終えられるような状況ではなかったとのことである。
医療の中で患者の病状の悪化、死亡といった結果は往々にして避けがたいが、理想論を前面に出してあくまで納得できないと感情的に主張してくる家族もいるし、人的体制や療養環境等が自分の考えに沿わない等と、現状の医療制度の中では何ともできないことにまで感情を顕わにしてクレームをつけてくる患者家族もいる。
このような場合、医療者も同じ人間である。誠意を持って業務を進めていても「こんなことまでクレームつけられるのか」と一旦思ってしまうと、その患者の医療や介護に過度に慎重になる一方で、患者との共感を失い、かつ熱意を失う。結果として患者の不利益にもなりうるから互いに不幸である。
私は譲りに譲って、患者、家族の気持ちには誤解があるとしても嘘はない、と思いたい。だから、面談を求めてくるのは良い。ただ、欲しいのは冷静な話し合いの場である。
5/6(金)快晴 ドック診察
2:00起床、文献検索、その他。6:20自転車病院。快晴だが気温低く冷え切った。7:30回診他業務。外来他無く若干余裕、13:30ドック診察、15:00人事部長と6月以降の業務について打ち合わせ、医師面談他。20:00車帰宅、夕食、21:00就眠。
ベイカーベイカーパラドクス(baker-baker paradox)(2)初老夫婦の会話
私は認知症にそう詳しくないが、身体的に問題のある認知症の方々を多数受け持っている。
認知症と言ってもそれは結果であって原因はいろいろある。最も有名で頻度も高く患者もよく口にするのはアルツハイマー型認知症である。原因疾患によって
異なるが、診ていると、認知症によって失っていく知的分野、感情の分野にはある程度の順序があるように思える。固有名詞や家族を含む人間関係、清潔の概
念、排泄などは人間の発達史の中では付け足し的な軽い分野なのかもしれない。
健忘症と認知症の物忘れは違うものだと教科書には書いていて実生活上でそれほど実害がないのが健忘で、そうでないのが認知症による記銘力低下とされてい
る。私も講演などではその違いを強調してご高齢の方達を安心させるのだが、心底では両者には共通の点も少なくないと思っている。
家庭内では各人の行動パターンがほぼ同じであることと、日常生活を通じて家族同士が互いに物事の概念を共有しているから些細な表情やしぐさを交えて会話
すれば特段固有名詞を用いなくとも会話は可能である。「ホレ、いつものアレを取ってくれ・・」で通じる。しかし、非日常的な分野、業務の範囲ではこれが通
じないから記憶力の衰えは周囲も気づくし、本人は自信を喪失する。この様な経験をした方は物忘れを気にして早期に受診する様になってきた。検査しても殆ど
異常が出ないのが通常であって「トシですね・・」と慰める。今後更に高齢化が進む。認知症についての知見が一層進み、早期診断、治療法の実現が望まれると
ころである。
ある時、家内がTVでN響を振っているある指揮者を指して「アレ誰だっけ」と私に聞いてきた。いつもなら顔を見れば直ぐ分かるはずだがど忘れなのだろ
う、名前が出てこない。「元モントリオール響の常任で・・、今はフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督してて・・、元N響常任で今は名誉指揮者だよ。アルゲ
リッチの夫でもあったし、フランス音楽を得意としていて、私も何年か前にN響で実演を聴いたが、とても良かったね・・・」と、うろ覚えの知識を総動員して
説明しながら、頭の中では必死に名前を思い出そうとしたが、ついに説明の種が切れた。「フーン、大したキャリアなんだ。で、名前は何て言うの?」とまた容
赦ない。それほどこの分野に興味を持っているわけでないのに、今日は何かしつこい。
そのうち思い出すよ、と話題を替えた。喉元まで出かかっているし、本で調べれば数分で分かることであるが、私自身の為にもならない、と意地張って考えて
考えても出てこなかった。思い出すのに3日かかった。「あの指揮者はシャルル・デュトワだったよ、やっと思い出した」と喜びと共に告げたら「え、何のこ
と?」と彼女は話題にしたこと自体を忘れていた。
マア、私共はまだ認知症レベルでは無かろうが、初老夫婦間で交わされる情けない会話の一コマである。
5/5(木) こどもの日 晴 病棟拘束 50年振り畑仕事で汗流す
1:30起床。文献チェックその他いつもの如し。10:10横浜に帰る長女夫婦を駅に送り病院へ。回診+病棟業務。書類処理。13:45帰宅。孫つれて平
和公園へ。16:30息子夫婦盛岡へ。家内が近所から借用した畑で畝興して汗流す、50年振りほどか。19:30夕食、20:30就寝。
ベイカーベイカーパラドクス(baker-baker paradox)(1)個人名が出てこない!!
3年ほど前に、「私に声をかける患者さんに せめて名前を名のっていただけませんか?」と小文を書いたことがある。
病院の廊下などで私に親しげに声をかけて下さり、ご自身やご家族の病状のその後の経過等を報告してくれる方は少なくない。先方は私のことを知っている
し、当然私が自分の事も知っているはずだという前提で話してくる。だが、私にとっては、「何処かでお会いしたことがあるような、あるいは診たことがあるよ
うな・・」の程度の方から、名前は思い出せないが大体のことは知っている、と言う方までいろいろである。私は診療に必要な情報以外には入り込まないように
しているから、カルテをみないと顔と名前が一致しないことが多い。この現実を知ったら皆さん方は大きなショックを受けるだろうと気遣いするし、自分の記憶
力を悟られるのも嫌である。だから「どちら様でしたか」となかなか聞けない。だから、「話しかける時にはせめて名前を名のっていただけませんか」と思って
いる。
先日、ある文章を読んでいたらこの現象について記述があり「思い出したい事柄の周辺のことは次々と想起されてくるのに、肝心の事柄、特に名前が思い出せ
ない」という現象を「ベイカーベイカーパラドックス(baker-baker paradox)」
という、と紹介していた。私にとっては初耳の単語であるが、なかなか面白い表現をするなあ、と感心した。
この表現の由来は、「その相手の方の職業がパン屋(baker)という事、美味しいパンを焼く方でサービスもとても良い・・等と周辺のことは思い出す
が、その方の名前がベイカー (baker) 氏である事をなかなか思い出せなかった」というジョークから由来しているらしい。
周辺のことは比較的簡単に思い出す事が出来るが、何故固有名詞が出てこないのかよく分からない。記憶の脳生理学というのは興味深い分野であるが、私にとってはこれから学ぶべき分野である。
今理解しているのは、多分、人間の歴史の中で、環境や状況の把握や表現は生命を守るために必須で重要な分野であるのに対し、物事に固有名詞をつけて会話
し合うようになったのはごくごく最近のことで、脳細胞間のネットワークが表層的でがっしりと構築できないからではないのだろうか。そのため、特に物の名
前、人の個人名は容易に忘却してしまうのだ、と考えているが実際の所よく分からない。
5月4日(火) みどりの日 病棟拘束
2:00起床。徒然,新聞、文献検索。7:15病院着、患者関連業務若干、9:00帰宅。11:00息子夫婦+孫+犬来訪。12:00家族全員8人揃った
のを機会に写真館にて記念撮影。ついでに夫婦の遺影用写真撮影。午後は書斎のメインオーディオを調整整備し、小音量時のためにウーファーも設置した。
LAN敷設しパソコン設置他環境整備。19:30夕食。孫風呂に入れて私が湯あたりした。20:30就眠。
雇用契約満了退職(2 ) 外来は今迄と変わらない予定です
本年5月末日をもって私は長年お世話になった法人を退職する。
雇用契約満了による退職で、一般的には定年退職である。この日をもって職員としての籍も資格を失う。私も、つい先日までは社会的慣習に沿って定年退職と
いう言葉を用い、退職される方々へ祝辞や挨拶を述べてきたが、自分に関連する場合にはあえて雇用契約満了退職と称している。
定年の言葉が持つイメージは雇用者側優位だからである。法人の規則で医師は65歳が定年と明記されている。何時決められたかは分からないが、65歳を迎
えた医師は心身共に一定の限界を迎えているから、雇用側からは正規の職員としてはもう不要です・・と言う宣言である。個人差があるので一概には言えない
が、こういう規定がある以上この年齢に近づいたらもうそれほど当てにされていないのだから、その日まで働くか否かは自分で決めればいい。別に定年を迎える
まで頑張る必要はない。
私は2005年に還暦を迎えた。私はかねてから60歳を迎えたら現病院を辞し、別な道を歩もうを考え辞表まで用意していたが、身辺周囲の状況が変わり提
出の機会を失したばかりか、院長職を拝命することになってしまった。ウジウジしていたのが悪かった。私は自分の経験からも、諸先輩方の姿からも感じていた
のであるが、人は一般的には十分に能力を発揮できるのは40?50歳代であって、その後は体力・気力共に下り坂になると思う。
勿論、私自身と私の独りよがりの観察と感覚であって、各人毎に大差があるのは当然である。少なくとも今の私は確実に降り坂上にある。外来診療は5時間程
度であるが、私は疲れて途中で1-2回5分程度の微睡み時間をとる。しかし、私の周辺の医師達は休憩も取らず元気に診療を続けている。その体力気力の差は
歴然としている。廊下を歩いていると追い越されて行く。体調はそれほど悪くは無いが脈は不整で酸素飽和度測定計、自動血圧計はエラーが出るか信じ難い値が
出る。これらは昨年あたりから顕著になってきた。これでは責任ある仕事は無理である。
私は雇用契約満了は何者にも優る重要な規定ととらえており、自身が籍を失う日を心待ちにして来たが間もなくである。
先月来、時折、退職のことを記述するものだから私が担当している外来はどうなるのかの問い合わせが何件かあった。本日の時点では6月以降も同じスケジュールで担当する予定となっている。
5/3(火) 憲法記念日 晴れ 病棟拘束 患者死亡
2:00起床、昨夜長女夫婦来秋。文献、新聞等種々処理。6:40病棟より連絡、病院へ。患者死亡、見送り。10:30車帰宅。家財道具、文献その他整理廃棄、午睡。午後は物置化した書斎を片付けて一部機能復活。19:00夕食、 20:30就眠。
米、ビンラディンを殺害(2) 疑問点
国際テロ組織アルカイダの指導者であるオサマ・ビンラディンが潜伏先のパキスタンで米軍部隊の攻撃で射殺された。テロの首謀者を大国側のテロで葬った。仕方がなかったと言う考え方もあろうが、実際、どう評価されていくのだろうか。
報道を見て以下の点で私は疑問を感じた。
■パキスタンが匿っていたのではないか?
隠れ家と言って良いのか分からないが、隠れ家はかなりの規模の施設で、首都イスラマバード近くのアボダバードに在った。ここにはパキスタンの陸軍の司令
部がある場所とのこと。パキスタン高官はビンラディン潜伏をキャッチしていなかったと言うが、本当だろうか。考えがたい。
■急襲に関してパキスタン側の了解は得ていなかった?
今回の攻撃は米軍の発表では単独行動でパキスタン側には知らせてなかったというが、陸軍司令部がある重要な地域に自国軍以外のヘリが進入したのに警告も
攻撃もしなかったのは何故だろうか。パキスタン空軍は現場に向けて緊急発進したが、接触することなく米軍はパキスタン空域から逃れている。
■パキスタン側の抗議が無いのは何故か?
本当に作戦がパキスタン側の了解なしに行われたとすれば、他国の領地に勝手に進入して軍事行為をした米側の行為は重大な国権の侵害になるはずである。それに対して反米感情の強いパキスタン側の動きが乏しいのはどうしたことなのか。
■水葬は正しかったのか?
イスラム教では24時間以内に土葬することにはなっているらしい。水葬の概念はない、と言う。米国側は遺体を引き取る国が見つからない、と言うことで水
葬を事前に検討していたという。確かに遺体を葬るとその場所は同士にとっては特別な場所となるだろうからその後の治安も問題になる。結局、米国は水葬と称
して遺体を海に捨てた、と言うことでないのか。
■本当に捕獲は視野にあったのか?
米側の発表では捕獲も視野に入れていたが、水葬も事前に選択肢の一つとして検討していたという。捕獲目的であったが反撃に出たので攻撃したとのこと。よ
く分からないがヘリによる空からの急襲で捕獲出来るものだろうか。遺体の回収まで40分、実に手際良い。失敗が許されないだけに練りに練られた作戦とエキ
スパート達による遂行だったのだろう。
5/2(月)雨・曇り 米、ビン・ラディン殺害発表 管理会議 安全打ち合わせ 外来診察対応数人 療養病棟判定会議 長副会議
1:30起床,新聞・文献チェック。自炊。6:30病院。7:45-8:25管理会議。10:00安全管理者と打ち合わせ、外来診察数人。
16:00−16:45療養病棟判定会議、17:00−18:30長副会議、長女夫婦来秋、20:00帰宅、夕食、20:45就眠。
米、ビン・ラディン殺害を発表した。
米、ビンラディンを殺害 これで良かったのか
国際テロ組織アルカイダの指導者であるオサマ・ビンラディンが潜伏先のパキスタンで米軍部隊の攻撃で射殺された。発表するオバマ米大統領の表情は喜びそ
のものであった。米国民も歓喜しているとのことであった。テロの犠牲になった方々の遺族や、テロの不安にさらされていた人達が喜ぶ気持ちは理解できる。
しかし、これで良かったのだろうか。他の選択肢が無かったのだろうか。私は良くない解決法であったと思う。遺体は既に水葬にされたというから異常な早さの処理で、これにも不自然な感じを受けた。
2001年9月11日に起きた同時多発テロから今年はちょうど10年、ビンラディンは当時、アフガニスタンに滞在していたと見られていた。当時のタリ
バーン政権は米ブッシュ政権の身柄引き渡し要求を拒み、ブッシュ大統領は「これは戦争である」と宣言し、対テロ戦争を仕掛け、タリバーン政権は倒れた。
ブッシュ前大統領はビンラディンの身柄を「生死を問わず」捕らえると宣言し、これに当時の小泉首相が相乗りした形となった。現実的には泥沼化しビンラディンの所在も明らかにならなかった。オバマ大統領もブッシュの意向を引き継いだ。
ビンラディンは歴史上に例のない方法と規模のテロを仕掛け、米国のみならず世界を震撼させた。国と国民の安全性と利益を守るのが政治家の義務であること
からブッシュが厳しい判断したことは当然であろう。しかし、だからと言って自由と民主主義を旗印とする米国が急襲によってビンラディンの生命を奪うという
報復的行動は国際的に、法的に果たして許されることなのだろうか、と思う。
新聞報道によるとかなり前から潜伏先は特定されていたらしい。集中的に武力を行使したほどの正確な情報であったならば彼を捕獲できなかったのだろうか。
今回はパキスタン領内のことで、当然パキスタン側の了解は得ていたと考えられる。ならば、恐らくは困難であっただろうが、本当に捕らえられなかったのだろ
うか。よく分からないが今回ははじめから射殺目的の急襲だったのではないのだろうか。
彼の死によって数々のテロ事件の意図や背景が解明される機会は失われた。一つの解決法であったかもしれないが、彼の命を失ったことよりも全容解明の機会が永遠に失われた損失の方が大きいような気がする。
5/1(日)雨 病棟拘束 大震災集計 死者14,517人、行方不明11,432人
1:45起床、本読み、そのほか。午前は家の片付け、家具修理、文献整理、書籍の自炊中心に過ごす。18:00夕食、19:00病院、回診、患者関連業務。21:00帰宅、22:10就眠。
地方選挙が終了 当選者のバンザイ・バンザイは見苦しい
国政であれ、地方であれ、わが国では当選者は支持者と共に万歳を三唱する。別に習わしになっているわけでは無かろうが、ほぼすべての事務所で行われる。
当選確実が出た時に各候補者の事務所で繰り広げられる風景である。このばか騒ぎは見苦しい。それをTV、新聞等のマスコミが待ってましたとばかり画像にお
さめ報道する。両者共に同じ穴の狢である。
私はこの光景に違和感を持つ。嫌いである。選挙で当選すると言うことは確かにうれしいことではあろうが、ゴールではない。なのに、まるで当選することだ
けが目的の様に見える。有権者から政治を託されたと言う、厳粛なスタートの瞬間である。選挙期間を通じて、選挙民に約束したことの責任の重大さを考えれ
ば、当選したと言って喜んでは居られないはずだ。むしろ、任期が切れたときに、引退するときに自分がなしえた足跡に対して大きくの評価が出来るとすれば、
その時に眞の喜びを表現すれば良い。
それに、バンザイは「天皇陛下バンザイ・・」を連想するから嫌だ。
あのバンザイコールのルーツは分からないが、中高年の支持者集団がこぞって声を出しているのを見ると、利権とかをめぐるドロドロとした人間関係を連想し
てしまう。大体、候補者がよく使う選挙関連の言葉、「選挙で勝つ」「厳しい闘いでした」等のワンパターンの言葉にも違和がある。選挙って勝負?そんなもの
ですか??
そろそろ「バンザイ三唱を止めました・・」と言う当選者が出てきても良いと思うのだが、私が知る範囲ではそんな動きは聞いたことがない。日本の選挙は政策選挙でなく、しがらみ選挙である。だから、なかなか変わらないのだろう。
因習打破はここから始めて欲しいのだが、現実にはこの時代錯誤の、妙な習慣を当たり前と思うような方々が政治に打って出る社会だから、日本がなかなか良くならない。
かつて、パソコンの日本語入力が未発達の頃、公職選挙法と入力したら好色選挙法と出て苦笑したことがある。確かに選挙や政治に絡んでは「金」「黒」「灰
色」「赤」「桃色」・・といろいろなカラーが纏わり付く政治家もいたし、今も中枢に居座っている。 選挙って、政治ってそんなものですか??
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |