2008年8月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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8/31(日)晴時々小雨、病棟拘束 ACO第29回定期公演
2:00起床、ドック判定総括、新聞チェックなど。6:00病院、回診他。8:30救急カンファ。10:30帰宅、業務若干。14:00-16:30 アトリオン室内オーケストラ第29回定期公演。18:00帰宅、夕食、20:45就寝。
アトリオン室内オーケストラ教会機関誌「響き」vol 29 「15周年記念特集号」 2008.8
上記の協会の機関誌に「会員便り」というコーナーがある。協会の常務理事の方から「第28回定期演奏会を聴いて」と言う題での執筆を依頼された。私はコンサート評などの様に形に残らない分野についての記述は苦手の分野である。しかし、せっかく与えられた機会である。先に演奏会を聴いた印象を徒然に記載していたのでそれを改変して届けた。拙文であるが以下の如く上記機関誌の3ページ目に掲載された。関係者の方々に感謝したい。
アトリオン室内オーケストラ第28回定期演奏会から
難曲を華麗に笑顔で「名曲の贈り物」 福田光之
アトリオン室内合奏団(ACO)第28回定期演奏会は「名曲の贈り物」として大谷康子氏をヴァイオリン・ソロに迎えて行われた。指揮は秋田大学教授でACO音楽監督の四反田素幸氏。
プログラムは、◎エルガー「愛の挨拶」に始まり、バッハ:ヴァイオリン協奏曲第1番、「G線上のアリア」、そしてクライスラーは「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」、マスネタイスの瞑想」等名曲を次々と。(「愛の挨拶」「G線上のアリア」、とクライスラー三部作と「中国の太鼓」は四反田素幸氏編曲のオーケストラ伴奏)。
ヴァイオリン・ソロの大谷康子氏は東京交響楽団のコンサートマスターで東京音楽大学教授でもある。かつて東京シティフィル、東京交響楽団の演奏会を東京文化会館で聴いた時に氏がコンサートマスターの席に座ったが、氏が登場すると華やかな雰囲気が漂ったことを記憶している。
彼女のソロ演奏を聴くのは初めてである。ACOとの競演は2回目というが、初回は多分聴いていない。
柔らかい音質、深い音色、高度の技巧の持ち主である。楽器は1708年製のグァルネリとのこと。オケをバックに難曲を、華麗に、サービス精神豊な笑顔と共に弾きあげた。四反田氏と交わされたトークも軽快で絶妙であった。
ピアノ伴奏では恐らく一層細やかな、より型にはまった演奏するのでは?と思われたが、今回は室内オケがバックでむしろ自由度があったのではないかと感じられた。大谷氏がトークで「とても素敵なアレンジ」と言っていたが、四反田氏の編曲の妙も大いにあったのではないか。
今回の曲のほとんどは私にとっても身近な曲であるが、これだけ並べられるとうれしさを飛び越え申し訳なくなるほどであった。
そのうちの一曲、「椿姫」ファンタジーより「乾杯の歌」のみ初めて聴く曲である。自身の解説によると、この曲は何故か氏しか演奏しないのだそうだが、オペラの旋律が随所で奏でられ、変奏されるなかなか面白い曲であった。後でCDを求め、じっくり聴きたいものである。
アンコールのチャルダッシュは意表を突いて客席後方から弾きながら現れ、ステージに向かって歩きながら、時に立ち止まり、表情豊かにサービスしてくれた。足下は大丈夫かと心配したが、床の段差などは演奏には全く影響なかった。
良いひとときを過ごし得た。
ACOの賛助会員になってから、私にとってACOは一層身近な存在となり、その演奏を心から楽しんでいる。極めて細い糸であっても繋がっていると言う事で聴く楽しみも倍加している。
ACOの一層の発展を願っている。
8/30(土)曇り時々雨 病棟拘束 就職内定者懇談会 患者・家族面談
1:30起床、ドック判定総括x
1他。本日午前の講演準備。5:10病院着、6:30回診その他。8:30救急カンファ、10:00-13:30就職内定者懇談会にて、講演「新人看護師にのぞむこと」。14:10家内生花届けに来院、華やかになる。16:00-16:45患者家族面談。家内高校同級会へ。19:00帰宅、20:00就寝。
反応の乏しい子供達、若者たち その背景を考えよう
先日8月14日にキグレサーカスに行ったが、滅多にないことなので親戚の6歳と4歳の子供とお守りにその父親も誘って7人で出かけた。
驚いたことに、私が感動して、大喜びして手を叩きまくっているのに、脇の子供達は何ら感じている様子が見られなかったことである。4歳の子は出演者達が手を変え品を変え必死に演技をしているというのに家内に抱かれたままぐっすり寝入ってしまった。上の子はさすがに眠らなかったが、その表情からは何か乗り切れていない、醒めた表情で見ていた。それよりも会場の中でさえポータブルのゲーム機を取り出そうとしていたが、さすがに父親に止められた。マア、これほど小さな子供の心理は分からないが、おかれた環境の中で遊びを見つけたり楽しみを見いだす事出来ないのには些か驚いた。
しかし、この子達をこの様にしているのは周辺の大人達なのかもしれない、と考える必要がありそうである。
更に、昨日は、私共の法人に就職が内定している40名ほどの看護師の卵達を招待しての懇談会があった。人事部長の挨拶に続いて私が「新人看護師に望むこと」と題する歓迎の講演を行ったが、出席者達の表情は終始固く、反応が今ひとつでなかなか雰囲気を作れず、大変であった。さもありなんと予想し、かなりくだけた内容も織り込んで構成したのであるが、最初から最後まで反応は今ひとつであった。会の最後の頃は若干ながら座が和んできた事から考えると、緊張が解けなかったのでは無かろうか、と思いたい。
この会の始まりに、来年就職する予定の病院の人事部長が、次いで院長の、硬そうな題名の講演がセットされていては、それも半ば当然のことだったのかもしれない。
私はまだ3回の出席経験しかないが、中通高等看護学校の卒業式の日の謝恩会では卒業生達は本当に同じ人達なのかと思わせるほど明るく自由奔放に振る舞う。そのことを考えれば、昨日の表情の硬さは、会の設定、運営自体に問題があったことを示しているのだろう。
人事課の担当者にも発想の転換が求められる。次の機会には、思い切って若手のスタッフを起用して運営してみてはどうだろうか。私は脇役としてこの会の推移を見守る事としたい。
8/29(金)曇り晴れ雨 ドック診察 県立病院法人化準備委員会 明治大学マンドリンクラブ演奏会
1:40起床、ドック判定総括x1。など。5:10病院着、6:30回診他、各種処理。8:00救急カンファ。15:00-16:15県立病院法人化準備委員会に代理出席。思いがけず早く終了、18:00明治大学マンドリンクラブ演奏会(県民会館)に行くも当日券売り切れ満席で帰院。20:00帰宅、夕食、22:50就寝。
明治大学マンドリンクラブ演奏会 満席で入れなかった
約10年ぶりの明治大学マンドリンクラブ秋田公演会が本日あった。県立病院法人化準備委員会が予想に反して短時間で終了したので明日の私の講演は何とかなるさ、と聴きに出かけた。
いつもの如く開演間際に県民会館に着いたが、無情にも「当日券完売」と言うことで入れず、すごすごと病院に戻った。極めて残念であった。大学の楽団であるし、県民会館は1839席もある施設である。よもや満席で入れない事態になるなど考えもしていなかっただけにガックリ来た。
秋田で私が入ろうとした演奏会が満席で入れなかったのはこれで3回目である。
一度目は2002年3月のオカリナ奏者の「宗次郎」演奏会、2回目は2002年夏のアトリオン室内オケ17回定期演奏会で、会場は共にアトリオンホールでここは704席の中規模ホールだから時にはそんなこともあるさ、と比較的簡単に諦めることが出来た。
今まで何度か秋田公演があったがあまり興味を持たなかった。今回聴く気になったのは第一には最近の何でも聴いてみよう、見てみようの一環である。第2はほぼ毎日聴いている3:00amからのNHKラジオ深夜便の「にっぽんの歌こころの歌」で「古賀政男作品集」などが年に何回か放送される。これでかなりマンドリン曲に興味を持ったからである。「古賀政男作品集」には良い唄が沢山ある。
本日の演奏会のプログラムは3部構成になっていて第一部がお目当ての「影を慕いて」「丘を超えて」等が、第2部ではイージーリスニングクラッシックスで「タイスの瞑想曲など」となっていた。時間の関係で入ったとしても途中でまでだっただろうが、第一部だけでも聴きたかった。
それにしても明治大学マンドリンクラブの集客能力は大変なモノである。在京の大学オーケストラの秋田公演も少なくはないが県民会館を一杯にしたのを私は見たことがない。
やはり、明治大学マンドリンクラブの場合には特別なのだろう。同楽団の生みの親の一人で大先輩の「古賀政男氏」のメロディが中年以上の日本人の心の隅に深く根付いていることで、特別の郷愁、感傷の念をもって聴きたいと思う県民が沢山居たということである。確かに、遅れて会場に到着した方々とすれ違ったがその中に若い世代の方は居なかった。
8/28(木) 晴→雨 外来 ドック結果説明 KKエンカレッジ来訪 療養病棟診療部会議
2:10起床。ドック判定総括x1。5:10バイク病院着、6:20回診その他、8:00救急カンファ、8:45-14:00外来、16:00KKエンカレッジ社員来訪、17:00-17:40療養病棟診療部会。20:50帰宅.夕食。21:30就寝。
最近、Prius関連のニュースが“うるさい”(2)Prius購入は本当に特か?
TOYOTA Priusはクリーンのイメージと燃費の良さでとても注目を浴びている。売れに売れてなかなか手に入らないという。
しかし、年間5000Km程度しか用いない私にとって、ガソリン価格が180円/LとしてもPriusは経済的には必ずしも特ではない、と考えている。だから、余所の方にはあまり積極的に勧めていない。
ハイブリッドで電池のアシストはあるとはいえ、大部分は1500ccのエンジンで走るから、他の同程度のサイズの車の60-70%のガソリンを消費する。Priusのカタログ値は35Km/Lとなっているが、実際の値とは大きく異なる。私のPrius、私の乗り方はでは夏場の長距離でさえ最高で22Km/L程度、通常17-18Km、雪の季節は10Km/Lである。季節による差が大きいのは電池の効率との関連があると考えられる。
私のPriusの年間のガソリン消費量は280L程度、180円と仮定して5万円ほど。同じ排気量のHONDA Delsorは同程度使用すれば410L程度で、7万5000円/年程度である。Priusとの差は10年使用して差は25万円、15年使用して33万円程度でしかない。Priusは車両価格が50万円ほど高いから、必ずしも特ではない、と言うことになる。
年間1万Km以上利用する方なら良いのかもしれないが、それでも10年以上用いてトントンの話である。
わが家では家内の車の買い換えが話題になっている。16年目の車でハイオク仕様、6Km/Lしか走らない。調子は悪くなく、車としての機能は充分保たれている。ハイオク価格が190円/L、としても年間5000Km程度の走行とすれば、Priusとの差は年に10万円程度でしかない。だから今燃費がPriusレベルの車に買い換えるとしても無駄であり、費用の面では乗り続ける方が得である。ただし、CO2排出量、温暖化と言う点ではちょっと後ろめたい。退職したことで乗る機会も減っているから今のままで良いと思う。
私にとってPriusのメリットは費用面ではなく、渋滞の際などエンジンが停止するからとても静かであることと、環境面への悪影響が若干少ないかな、という自己満足感だけである。
Priusがこれだけ売れていると言うことは、ユーザーの多くは費用面のメリットでなく、高邁な精神で乗っているのだろう、と理解するしかない。
8/27(水)晴れ 外来 入院患者家族面談 県医師会理事会
2:00起床。ドック判定総括x1、他。5:10バイク病院着. 6:10回診等。8:00救急カンファ。8:45-14:00外来、混雑。入院患者家族面談、16:30-19:30県医師会理事会。20:50帰宅。夕食、21:45就寝。
最近、Prius関連のニュースが“うるさい”
モノの価格は需要と供給のバランスで決まるのだが、米国のサブプライムローン破綻以降、投機筋の資本が大量に原油に流れた。
その結果、それほど品薄でないにもかかわらず原油が高騰し、ニューヨークの原油市場の価格は従前はバレルあたり40-50ドルであったが昨夏頃から高騰し、一時150ドル程度まで上昇した。今は120ドル前後で取引されているようである。それでも倍の価格である。
先進国の生活は殆どがエネルギー依存型どころか高消費型である。その多くが化石燃料由来のエネルギーで賄われている。
我が国でも衣食住は勿論、生活の全て油まみれと言っていい状況である。原油価格の高騰は末端のガソリン、軽油、灯油、重油等の価格に大きく影響している。運送業、漁業関係者は大打撃を受けているが、いずれもっと広範な分野に影響が及んでいくだろう。
秋田市内のガソリンは今だいたい176円前後である。昨夜、バイクを満タンにした。16.5Lで2900円であった。ちなみに2006年8月は2150円で満タンだからザッと言って1.5倍近い値段になっている。
ガソリン価格が高騰し始めてからはハイブリッド車や電気自動車の話題が新聞紙上をにぎわしている。その中では実用車として最も普及しているPrius関連の話題が、どこかの大臣の言葉を借りると、“うるさい”。
TOYOTA Priusの需要は世界的に高まり、累計生産台数は100万台に達したという。これほど急に生産台数が増えている車種は無いらしい。そのため、国内では購入希望をしても3ヶ月待ちだというし、中古車も入手が極めて困難と言うことである。私はたまたま2005年11月に試乗車をそのまま購入できたから幸運だったと言える。
英国の自動車メーカーのロータスはハイブリッド車にわざわざ騒音を発生する装置を開発したという。電池で走っている場合に騒音が少なく歩行者とかに危険だ・・と言う理由らしい。Priusがヨーロッパでも如何に普及し、かつ静粛であるかと言うことの現れである。
この原油価格の上昇で景気も落ち込み、先日下方修正された。企業体は経営が困難になりつつある。
世界一の生産台数を誇るTOYOTAですらもその影響をもろに受け、製品価格を上げなければ危機的状況になりうる状況と言う。さりとて全車種を均等に値上げすれば競争力が落ちるというので、競争力のあるハイブリッド車2種だけ値上げすると言うことで、Priusは約7万円の値上げだという。
苦渋の選択であろうが、多くの車種のうち2車種くらいの値上げでは経営改善は困難ではないのだろうか。
8/26(火)晴れ 外来 法人常務会 社会情報センター員来訪 医局カンファ
2:30起床,ドック判定総括x1。民医連関連文書検討。5:10病院へ。6:30回診他病棟業務。8:00救急カンファ。8:45-13:00外来。14:45-16:00法人常務会。16:00-17:00社会情報センター来訪、面談調査。17:50-19:20職種間交流学習会、「リハビリ部門」。20:50帰宅、夕食、21:30就寝。
洋式の生活が日本人の足腰を駄目にしていないか 自分の体験より
我が家では年に一度だけ、盆の墓参りの時に家族が集まる。その前後の一晩、みんなでゆったり過ごすために盛岡近郊の繋ぎ温泉で一泊することが多い。家族旅行などの際にはどちらかというと和式の旅館がいい。一緒に過ごす時間が多いからで、全員一部屋で雑魚寝で過ごすこともある。今年は四季亭で一泊した。
四季亭は3度目ほどである。浴場付近にアブが多数いて刺されそうになるのが難であるが、なかなか良い雰囲気で気に入っている。
わずか一泊であるがこの間は完全に和式の生活になる。
最近感じてきたのは和式の場合に起居動作にとても力が要ると言うこと、正座が出来なくなった、ということである。わざわざ意識しないと簡単には立ち上がれなくなった。これは情けないことでもある。
この和式ホテルの一泊の間に10数回か座ったり立ったりしたが、次第に起居動作が、歩いたり階段を上ったりすることまで含めて、楽になった。要するに足腰、特に下肢が弱っていたのだ。
私は職場では年間を通してエレベーターには乗らず、毎日数回7階の病棟まで階段を歩いているし、外でも近距離は歩くようにしているが、それでも不十分だったのだ。
確かに自分の生活を顧みれば、自宅で床に直接座すことは殆ど、と言う以上に、全く無くなった。年間何回か、せいぜい数分間、例外的に余所のお宅に訪問した時だけ程度になっている。
この体験から、生活の洋風化は日本人の、特に高齢の方々の足腰をかなり弱めているのでは無いだろうか、と考えに到達する。
高齢者の寝たきりになる要因として最も多いのは転倒による大腿骨骨折であり、その要因はバランスを崩した時に持ち堪えられないほどの筋力低下である。この筋力低下の原因に、便利さ、安易さを求めた洋風への生活様式の変化が関連している様に思えてならない。椅子からの立ち上がりは床面坐位からの1割程度しか筋を使っていないのではないだろうか。
高齢者の施設、病院などでも全て椅子とベットの生活になっている。お世話する側から見ればとても便利だが、果たしてこれが本人達にとって良いことなのか?と考えてみる必要もあるようだ。
不自由な方々のベットにはいろいろな補助具があり動作を助けているが、和式の生活を好む方々には安易に洋式化を勧めるのではなく、手すりとかの立ち上がり補助具などをうまく提供すれば、より長い期間和式の生活を維持できるのではないだろうか。そのことが高齢者の健康寿命を若干ながら延ばすのではないか?
わざわざ運動する時間はない。生活自体がリハビリを兼ねるのが最も自然である。だから、私は自宅で床に座す機会、時間を意識的に増やそうかと考えている。
8/25(月)晴れ 管理会議 安全管理者・事務長と打ち合わせ 療養病棟判定会議 長副会議
1:40起床、ドック判定総括x1、紹介状他作成。5:10病院、6:15回診他。7:45-8:30管理会議、10:00-11:00安全管理者と打ち合わせ。11:00患者家族面談。重症患者対応など。17:00-18:30長副会議。再度回診、20:15帰宅、夕食。21:00就眠。
「人体の不思議展」を観た いろいろ問題のある企画だ
8月16日盛岡の墓参に行った際、たまたま岩手県民会館展示室で「人体の不思議展」が開催されているのを知り行ってみた。
これも、最近の何でも見てみよう、聴いてみようと言う欲求の一つである。私は精密な模型が展示されていると思っていたが会場に着いてから、ヒトの遺体をそのまま標本にしたものを陳列と言うことを知って驚いた。
一方では、どのようなものなのか興味も持った。
私は知らなかったが2002以降、全国で「人体の不思議展」が開催されていたという。会場入り口の説明のパネルによると、生前に同意を得た方の遺体にプラスティネーションという処理を行い、遺体から水分と脂肪を充分に取り除いた後にいろいろ手を加え、各種の臓器の全身、あるいは部分標本にしたものだとのことである。
会場には神経、運動器、循環系臓器、消化器系臓器などを顕わにされた標本が20体ほど、各月齢期の胎児が10体ほどの他、内臓の一部が個別に展示されていた。
会場は老若男女、多くの観客で混雑し、なかなか標本の近くに進めないほどであった。観客の多くは興味本位、珍奇な見せ物を見ているという雰囲気であった。
私は職業柄とても興味深く見たが、その立場を離れば、遺体を提供された方には悪いが、グロテスクな物体でしかない、と感じた。本来、この様な標本は大学とかの医育機関で見るべきものであって、この様な場所に陳列され、公開されるべきものではない。
恐らく我が国では同意を得れば医学関係の教育分野での標本として保存することは出来るとは思うが、この様な陳列用の加工を加え衆目に触れさせることは許されていないだろう。どういう過程で「人体の不思議展」が成立しているのか、疑問である。我が国では確か死体解剖保存法で制限されているはずである。
案内書には岩手県教育委員会を始めとする教育団体、県や盛岡市医師会を始めとする医療関係団体が後援しているが、これについてもはなはだ疑問である。私共の医師会に後援要請が来た際には現実に観た立場から反対しなければならない、と考えた。
「人体の不思議展」を催し、多くの方々に素晴らしい人体の仕組みを分かってもらうことには何ら問題がないが、ヒトの遺体を加工しそのまま標本として用いる必然性はゼロである。今なら精密な模型で、あるいはコンピューターグラフィックでもっと詳しく,より正確に表現することが出来るはずである。
ただ、実際の標本になった遺体を観て、一人の人間にはいずれ死するべき時が来るのだと納得しているが、頭から足先までの隅々までこの様な精密な構造をしている完成度の高い身体が死を迎えて崩れ、消滅して行くことは実に勿体ないことである、との妙な感慨も抱いてしまった。
8/24(日)雨 病棟拘束
1:00起床、ドック判定総括、その他作文多少。7:30出勤、回診。8:30救急カンファ、回診。11:00帰宅し、自宅で業務継続。13:00-14:00午睡、ドック判定総括x2、診断書他作成。文献等整理。19:30夕食、20:30就眠。
マンガ「とりぱん」(1)-(5)とりのなん子著,講談社
ここ2年ほど、家内は鳥に興味を持っている。鳥類図鑑や関連したDVD、CDなどを買い込んで勉強している。更にエスカレートして野鳥観察会にも参加、録音機も購入した。春には近所の野鳥が集まる沼地の掃除までかってでた。私も直接的に間接的に付き合わされるから、今後どうなることかとハラハラしながら見守っている。家中、鳥関連の資料が散らばっている。
今夏、休暇を利用して長女が帰省したが、「とりのなん子」という聞いたこともない著者によるマンガ、「とりぱん」(1)-(5)を持ってきた。鳥を題材にした不思議なマンガである。家内の行動は娘まで影響を与えているようである。寝る前に見るとはなしに手に取ってみたが、これがまた意外と面白い。
最大の魅力は、私の出身地である盛岡が舞台になっていると言うことである。作者は地名を明かしてはいないが、大型の渡り鳥が飛来する場所として描かれている「T松の池」は「高松の池」のことである。ここは春は桜の名所であり、冬は天然のスケートリンクであり、子供の頃から私も何度も訪れている懐かしい場所である。浅田次郎の「壬生義士伝」以来久々に私の郷里を舞台にした作品に触れた。
内容は盛岡に母親と住む30代独身女性の漫画家が,自宅の庭に置いたエサ台に集まる野鳥達の姿を中心に,田舎生活をエッセイ風にユーモラスに描いた作品である。野鳥、ネコ、風物、方言、地元料理など盛岡での生活のすべてを題材にしている。これらの題材は私にとって殆どが懐かしい。題名の「とりぱん」は鳥に与えるパンの耳なのだそうだ。
エサ台に集まる野鳥が題材であるが、登場する鳥は数え切れないほど多彩であり、観察がとても細かく、絵は各々の鳥の特徴をよく捉え、エサを食べるしぐさなども見事に描写されている。さらに、自然に関する感性がとても鋭く、所々に挿入されている自然描写の文、絵がまた良い。幼少の頃、山や原っぱの中で無邪気に遊んだ頃が懐かしく思い出される。
頻繁に登場する母親もかなり面白い性格で、この母にしてこの娘ありという感じで、適当な距離を保った良い母娘関係が描かれている。この母を通じて盛岡の生活、風習など描かれる。単に鳥を中心にしたエッセイ風マンガとして見ただけでも十分に面白いが、私にとっては懐かしい郷土の風景、風土、自然、生活、習慣などが表現されているという意味で、かつての生活を思い出させる特別な作品である。
8/23(土)快晴 病棟拘束 外来 次男のお祝いの日
2:00起床、ドック判定総括作業開始した途端に病棟から電話。2:25Taxi病院着。患者死去。5:10見送り、ドック判定総括。6:30回診他。8:30救急カンファ。8:45-10:30外来。11:00重症患者対応など。書類と格闘。13:00-16:30View、次男の祝いと先方様ご家族と懇談・会食。16:30病院、18;00Taxi帰宅、18:45就寝.
秋大医学部慰霊式に出席した
8月22日午後、Castles
Hotelで行われた秋大の慰霊式に出席した。平成19年度の系統解剖、病理解剖に協力戴いた方へ130数体の御霊に礼を捧げる催しである。
会場には正面中央にシンボルとして「霊位」が置かれ、その両側を白の菊で飾った質素な、かつ宗教色を廃した祭壇が設けられた。
次第の記載によると、ご遺族、学生、教職員、白菊会会員等の関係者約400余名の方々が出席している。
会はモーツアルトの曲が低く流された中でしめやかに行われ、ご芳名奉読、学部長の式辞の後、副病院長、講演会副会長、白菊会理事長の追悼の辞があった。次いで医学部学生による謝辞、解剖学教授による挨拶があり、会は滞りなく終了した。その後は遺骨返還式等が予定されており、私はこの時点で中座した。
式辞、追悼の辞、謝辞、挨拶共に内容的にはほぼ共通で、剖検は教育上の意義、臨床と病理の照合、病院機能の向上に大いに役立っている。死因を究明し、医学医術の進歩のため、剖検に御協力頂いた130余名の御霊に心から御冥福をお祈り申し上げると共に、御遺族の方々の御協力に対し衷心より感謝中し上げる、と言うものであった。
130余名の方々のうち約40名が病理解剖の方々であった。医学・医術・医療機器・看護は日進月歩で進んでおり、かつては診断がつかなかった病気、障害も今では診断がつき、治るものが沢山ある。そのために最近は病理解剖の例数は減少している。私共の病院では年間15体ほどの方々の協力が得られている。
私は今回初めての参加である。大学から毎年連絡があった様に記憶しているが、今年は何故か出席してみたくなった。病院長としての立場での出席要請とのことで、最前列の招待者席に案内された。招待者席は12席であったが、周辺には私の知っている医療関係者の姿はなかった。
大学主催の会で、大学で解剖に供された方々を対象とした慰霊式であったが、私は私共の病院で協力いただいた方々へ感謝の気持ちを持ちつつ式の進行を見守った。医療関係者として感謝の意の一端を示すことが出来たと思っている。
8/22(金)快晴 外来 患者家族面談 秋大慰霊式 法人理事会
2:10起床、ドック判定総括x1等.5:20バイク病院着、もう寒くなった。6:30-7:10入院患者家族面談、その後回診、8:00救急カンファ。8:45-12:00外来、担当者が大幅に予約数を減らしてくれていた。13:15秋田大学主催の慰霊式に参列。患者関連書類他。入院患者対応そのほか。17:30-19:00法人理事会。重症者対応。21:00帰宅。21:20就眠。
「キグレサーカス」秋田公演に行ってみた(2)心から楽しめたが・・
8月14日午後、「キグレサーカス」に行ってみた。私は小学校時代の思い出に浸りながら心から楽しめた。
元秋田空港特設会場にしつらえたカラフルな大型のテントがサーカスの巡業に相応しい雰囲気を持っている。入場する前から心が騒いだ。しかし中に入ると工事現場のような雰囲気で雑多な雰囲気で椅子などもかなり古びた装置であった。入場料他決して安いとは言えないが、それでも運営は楽ではないのだろう。せめてテントの内装面が白ければ空中ブランコなどがもっと映えただろうし、音響、照明による演出ももっと派手にあっても良かったのではないかと思われた。
20名ほどの若者総出演によるオープニングに続き、一輪車芸、手玉芸、犬・猿・ロバによる芸、竿灯に似たハシゴ芸、綱渡りなど、比較的小さな芸が並んだ。なかなか細やかなで結構見応えはあった。
私が最も感心したのはアラビア風のイメージの曲に乗せて若い女性が額と手足にワイングラスを重ねた盆を水平に保ちながら次々と体位を変えていくという芸である。身体の柔らかさと強靱な筋力を必要とするこの芸を演じた若い女性は、バランスのとれた素晴らしいスタイルの体躯と端正な良い表情をしており、実に見事であった。
途中15分間の休憩時間には出演者がパンフレットや風船を売るのだが、たどたどしい言葉から、中国人でないのかと思われた。出演者のかなりの方々が中国人なのかもしれない。
後半はやや大きめのスケールの芸であった。おなじみの球形ネットの中の2台のバイク走行であったが、あんな狭い空間で縦横無尽に走り回るからすごい。時には3台での芸も見せるという。最後の出し物は空中ブランコで、目隠しブランコではあわや落下するのではないかと言った場面も見られた。
公演を通じて会場の反応が今ひとつで、拍手などが意外と乏しかったのが不思議であり、熱演したスタッフ達に気の毒でもあった。秋田県人の気質なのだとも言われているが、おりしも北京オリンピックの洗練された高度な技が連日放映されているということも一因かもしれない。確かにそれらと比較すれば見劣りするのはやむを得ないが、私にとっては目の前で展開されていることの方が重要であり、充分堪能出来た。
同伴した家族達は、「観客の中で一番喜んでいたのは私だったかもしれないね」と言っていた。9月中旬まで開催されているが、もう一回行ってみようか、とも思っている。
8/21(木)雨 対策会議 外来 臨床研修制度マッチング
2:00起床,ドック判定総括x2他、文献、徒然などいつもの如く。5:00出勤。6:30回診そのほか。7:40対策会議、8:00救急カンファ。8:40-14:00外来、混雑。15:00-16:20新臨床研修制度マッチング5名。20:00回診他。21:10帰宅、夕食、21:50就眠。
「キグレサーカス」秋田公演に行ってみた(1)
8月14日午後、年休を4時間頂き「キグレサーカス」に行ってみた。
サーカスは子供の時に盛岡で見た以来で私にとっては2回目である。そのころ小学生だったと思うが、今でもその時の驚き、感動を鮮明に思い出す。
秋田では数年毎に旧秋田空港跡地で「キグレサーカス」公演が催されてきたと思うが、子供達も行きたいと言わなかったし、私自身も興味を感じなかったから観る機会はなかった。
私は人が大勢集まるところは嫌いであまり出かけない。しかし、今年は突然いろんなイベントに出かける気になっている。とはいえど、具体的にはそれほどは行けない。「ケーシー高峰ショー」、「池田理代子ソプラノリサイタル」、「渡辺玲子レクチャーコンサート」などである。
今年は急に他の分野で頑張っている方々の足跡や成果に触れたいと言う気持ちや、かつての感動を再確認したい、等という欲求が芽生えてきている。このルーツは3月の肺異常陰影を知った時から、と思う。場合によっては残り時間が少ないかも、と思った途端に視野がパッと開けたと言う感じである。20-30年前に読んだ清張、井上靖等にも再度手をつけ始めている。かつて読んだ時と全く違う感じ方で、いろいろな発見がある。
今年も「キグレサーカス」が来る、とのニュースにふれた時、無性に観たくなった。
家族が揃ったら休日に、と予定していたが時間確保が出来ず年休をとってウイークデイに観る事となった。仕事を休んでまでこんなのを観に行く、等と言うことはこれまで抵抗もあり、初めてのことである。
娘の友人を介してJTBから7枚のチケットを手に入れた。次男を除く4人と家内の甥とその子供二人の総勢7人で出かけた。どうせ観るならと更にロイヤルシートを奮発し最も条件の良い正面席に座った。
回りの人達を見渡せば、ほとんどが子供連れで子供の世話で余裕が無さそうであったが、年齢を重ねてから観るとずいぶん印象が違うものである。
今回はずっと心待ちにしていたから、私は心から楽しめた。
8/20(水)雨 外来 院内感染対策委員会
2:20起床,ドック判定総括x2、5:10出勤。6:30回診、病棟業務他。8:00救急カンファ、8:45-14:30外来+ドック診察+ドック結果説明。15:00小児科科長夫人来訪。16:00-17:10院内感染対策委員会。再度回診。総括、主治医意見書など。20:30帰宅、夕食、21:20就寝。
福島県立大野病院帝王切開裁判 医療ミスを否定し医師無罪に
本日8月20日福島地方裁判所は、2004年12月に福島県立大野病院で帝王切開手術を受けた女性が死亡し業務上過失致死などの罪に問われ、禁固1年、罰金10万円の求刑を受けていた産婦人科医師に対し、医療ミスによる過失はないとし無罪を言い渡した。
妥当な判決だと思う。検察側が控訴しないと思うが、是非そうであって欲しい。これで結審として欲しい。
子供は助かったが、この件に関して福島県の調査委員会は医療過誤を認める調査報告を公表し、担当医師を減給処分にした。この調査報告書が切っ掛けとなって福島県警は業務上過失致死などの疑いで執刀医を逮捕した。
お亡くなりになった患者とそのご家族には心からお見舞い申し上げるが、この医師の逮捕は犯罪性、悪意共にないはずの医療現場への司法の不当な介入であり、しかも医師を逮捕、拘束するという、医療を担っている私共にしてみれば青天の霹靂と言ってもいいほどの大事件であった。日本医師会も、県医師会も産婦人科学会等も抗議の意を表明した。
私が知り得た範囲の医療情報、不適切と思われる逮捕、送検などの過程から見て、無罪判決が出るものと期待していた。もし、これが有罪判決であったら明日からの医療界は大混乱をきたして行く可能性があった。治療崩壊とでも言うべき状態、すなわち、医師は少しでも危険を伴う様な医療行為を避けるようになる萎縮診療の方向に大きくシフトしていく危険はあった。
また、現在法制化の準備過程にある第三者的な医療事故調査委員会の内容も再検討しなければならなくなる可能性もあった。
この、医療の現場に司法が不当に介入した事件は、結果的に病院の産婦人科医師の減少に結びつき、産科医療の崩壊の大きな一因となった。その影響は産婦人科領域だけの問題にとどまらず医療崩壊の一因にもなり、我が国の医療に及ぼした影響はとてつもなく大きい。県警、検察側は過去に強気の見解を出していたが、謙虚に振り返って欲しい。
今回の判決をまだ読んでいないので何とも言えないが、日本の医療行政についてはどう評価されたのであろうか。今回の逮捕、起訴、裁判は執刀医個人の判断以上に国の医療政策そのものが問われなければならない事件であったと思う。
今の病院医療は余りにも余裕がなく、過酷である。私共医療人はいつ自分がミスを犯すか不安を抱えながら業務をこなしている。患者、主治医、医療界、司法界も大きな犠牲を払ったこの事件、裁判が、このような医療環境の改善にも結びついて欲しいものである。
8/19(火)曇り→雨 外来 法人常務会 入院患者家族面談 高額医療機器共同利用委員会
2:20起床,ドック他いつもの如く。5:10病院着。6:30回診、紹介状他準備。8:00救急カンファ。8:45-14:10午前外来、盆明けで混雑。14:45-16:00常務会。再度回診、18:00患者家族面談。19:00-21:10高額医療機器共同利用委員会+情報交換会。21:40帰宅、22:10就眠。
患者がドリンクを置いていく 医療崩壊・勤務医の激務が理解されてきた?
外来業務というのはなかなか大変である。私はどちらかというと不得手で出来るだけ避けたい業務である。特に、いろいろと話を並べなかなか椅子から立たない患者は苦手である。しかし、内科医として避け得ない大事な業務であるから仕方がない。
私の場合、暗くした独りの空間で、淡々と書類処理、事務処理をするのが一番向いているようだ。木曜の午後から月曜の朝までの間の時間は、殆ど余裕はないが私にとってはとても快適な時間帯である。
私は週3回ないし4回外来を担当し、毎回8:45amから約5時間余、50-60人ほどの、高齢の患者さんを中心に診ている。スタート時点では比較的状態の安定した元気な患者が並ぶからスムーズに進む。それでも人数は多いから正午頃には疲れてくる。
この頃から比較的対応が困難な患者、独りでは通院できないような患者が集中して来る。疲れて気分は相当落ち込んでくるがそんな雰囲気を出すわけにいかない。忍耐力、演技力も必要である。頃合いを見計らって5分間ほど休憩をとり座ったまま眠る。短時間であるが確実に眠りに落ちる。これで結構疲れがとれる。
外来が終了した瞬間の開放感、特に木曜の外来終了時の開放感は格別である。
最近の特徴として診察終了時に「先生、お大事に・・」、「健康に気をつけて・・」と声をかけて労ってくれる患者が増えてきていることである。病院医師の激務が患者方にもやっと浸透してきた様である。
更に面白い現象として「これを飲んで頑張って・・」と小瓶のドリンク剤、ミネラルウオーターなどを1本だけ置いていく患者も出てきた。有り難いものである。今月に入ってから4人の患者から頂いた。
診療介助の看護師達、事務職員は交代交代で昼休みをとる。医師は受付した患者が終了するまで連続である。私は昼食をとらないが、16時頃に弁当を開いている医師もいる。この様に外来業務にエネルギーを割くのは本来の病院のあるべき姿ではない。
しかし、現状の医療行政の中ではなかなか入院医療中心にシフトできない。勤務医の激務はまだまだ続いていく。
8/18(月)晴れ曇り 管理会議 外来 療養病棟判定会議 長副会議 県医師会委員会
1:30起床,ドック判定総括x1、文献チェック他。5:20病院着。6:00回診、7:45-8:25管理会議.8:45-14:10外来、盆明けで混雑。16:00-16:30療養病棟判定会議、17:00-18:30長副会議。19:00-20:10県医師会委員会。21:20帰宅、21:50就寝。
多忙で有給休暇を取れないのに代診が割り当てられる苦しさ
私の夏休みは8月15日(金)に早退して、週末を墓参で過ごし、終了した。それでも時間がゆっくり流れ、家族と共に過ごす事が出来た。さらに、盛岡市の先人記念館で歴史の一端に触れたし、映画「シンドラーのリスト」を観ることも出来た。
楽あれば苦あり、である。
本日から通常業務であるが、今週は月曜から木曜の定期的外来に加え、金、土曜の外来も割り当てられた。一週間連続午前外来と言うことになる。金、土曜は私にとって溜まった患者関連の書類処理等に充てる大事な時間なのだが、これが外来業務に取られるのは辛い。しかも盆明けと言うことで患者も多い。
私共の病院では夏休みの制度はない。そのため医師がその診療科の業務状況を見ながら5日間程度の有給休暇を取る。内科系の何人かの医師が今週末にかけて休暇を取ったために私に外来が割り当てられた。
夏期、週末であろうと病院業務はいつもと何ら変わることはない。従って、同僚が休暇を取るとその仕事を仲間同士でカバーし合わなければならない。だから自分が休暇をとる前後は多忙である。総合内科とか人数が多い診療科は比較的計画しやすいが、1-2名で運営されている診療科の医師はなかなか休暇を取り難い。私も総合内科の一員と思っているが、ここ数年サブメンバー的扱いで休暇の相談の時など仲間に入れてもらえない。
私の場合はまとまって有給休暇を取るだけの時間的余裕を確保できないので、毎年その権利というか、機会を返上して業務をこなしているのだが、外来要員として業務を割り当てられる事になる。
これは、これは勤務医の辛いところでもある。多忙で休暇を取れないのに業務が上乗せされるのは「泣き面に蜂」的である。しかし、そのように対応しなければ医師及びその家族のQOLは確保できないし、外来診療を維持できない。だから、文句は言いたいが納得せざるを得ない。
今週はこんな感じで自分に愚痴りながら連日外来に出ることにする。愚痴らなければ腹がふくれてくる。
8/17(日)晴時々小雨 病棟拘束
2:30起床、ドック判定総括x1。文献読み、新聞チェックその他。日中は文具、書籍、家具の片付けなどで過ごす。17:00病院、総括、紹介状など。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。
小児外科科長急逝す 強固な信念を持った方だった ご冥福を祈ります
当院診療部長・小児外科統括科長 松田 淳氏(53)は去る8月11日、自宅で急逝された。
先生は昭和57年から1年間、平成3年から2年間、平成6年より現在に至るまで勤務され、平成12年から2年間医局長も務められた。
小児外科医としては、小児の外科的疾患の広い分野の診療を担っており、患者からの信頼はとても厚かった。外科的治療が終了した後も彼をしたって、他の疾患、内科的疾患等であってもわざわざ診療を求めてくる患者も多かった。また、成人に達した患者も少なからず外来に通院していた。このことに彼の仕事ぶりの一端が示されている。
禁煙関連の活動は特筆ものであった。禁煙と言えば松田先生を思い浮かべる方は多いだろう。彼の代名詞でもある。
私も禁煙の推進には方向性としては同じであるが、方法的に、あるいは進める過程では大きな違いがあり、指導も批判も受け、彼にはいつも背中を押されていた。禁煙教育に特に力を注ぎ、県内の小中学校、高校だけでなく、大学からも講演依頼があり、その講演は私も聴講したことがあるが、評価は極めて高かった。最近は社員教育として企業からの講演依頼も少なくなかった。
成人だけでなく高校生、未成年者を対象とした禁煙外来を開設し、彼の指導、治療で禁煙に成功した患者も少なくない。
私共の病院も比較的早く分煙化、全館禁煙を経て敷地内禁煙となったが、ここでも彼は大きく力を発揮した。
彼はアスリートであり、がっしりとした体躯の持ち主であった。バトミントンではかなりの実績もあったと聞いている。その他にもランニングとかボーリングとかにも関心があったようで、汗を流して出勤する姿、運動着に着替えて出かける姿を最近まで時折目にしていた。
研修医教育、禁煙運動等において必ずしも私と意見が一致したわけではなく、何度も話し合いをもち調整を図ったが、彼は強固な信念の持ち主であり、歩み寄れず、時間の経過に委ねたこともあった。
彼の部屋は院長室から近い。出勤も早く、廊下で医局の医師達と交わす元気な声が毎朝聞こえてきた。8月12日、救急担当医から電話連絡があったが、にわかには信じられず絶句した。今でもとても信じられない。
ご葬儀は8月16日、午前10時よりカトリック秋田教会で営まれ、各方面から多数の参列された。
お亡くなりになる数日前の朝、医局で「院長がいれた朝のコーヒーは格別だ。どんなに濃くしてもこの味は出ない。何かコツでもあるか?・・・」、と問われ、交わしたのが私との間の最後の会話となった。
信念の人であった。信じがたいことであるが彼の急逝は事実である。いろいろご指導いただいた。提言もあった。心からご感謝し、ご冥福を祈りたい。
8/16(土)盛岡・秋田快晴→雨 帰秋 夜から病棟拘束
2:30四季亭で起床、ドック判定総括x1。DVD「シンドラーのリスト」後半観る。8:00朝食、10:00発、小岩井農場へ、11:30岩手県先人記念館、→高松の池 14:30直利庵、15:30岩手県民会館「人体の不思議展」。17:00新幹線で横浜に向かう長女夫婦を駅に送り帰秋。20:00帰宅、20:00就寝。
S・スピルバーグ監督、「シンドラーのリスト」 重い重い史実を映像で知った
昨日は終戦記念日であった。終戦から63年目である。
私は昭和20年生まれで、私はもっと日本の歴史、世界の歴史、歴史の節目節目に人はどう行動したかについて学びたかったが、今まで上面の事しか学んでこなかった。それが私の心の傷にもなっている。折りにふれていろいろな記念館、遺跡、資料にふれる機会を持ち、文献等を求めて学んではいるが、まだまだ不満足である。
その中では2000年9月にポーランドのアウシュビッツを訪れた際大きなショックを受けた。
昨日と本日、休暇を取って墓参に来ている。今年の墓参は二日間ゆっくりと家族と共に過ごすスケジュールにした。その際、1993年作のS・スピルバーグ監督「シンドラーのリスト」を観ることとしDVDを借用した。この作品は、ナチスのユダヤ人迫害の模様を再現した大作と評されていたが、今まで見る機会はなかったものである。
基本映像はモノクロ映像で、時折少女の衣服とかに淡い、地味な赤色のカラーが用いられている。最後の数分間はカラー映像である。モノクロの方が時代を表すと言う意味でも説得力がある。
第2次世界大戦中時のドイツがどれだけ狂っていたか、映像がよく示している。私の表現力では何とも説明し得ないが、何100人か、恐らく1000人以上かもしれないが、子供達の表情を含めて、画面に登場する登場人物一人一人の表情は真に迫っていて、地獄絵図そのものである。これは作り物でなく記録映画ではないだろうかと思わせるほどで、ぐいぐいと引き込まれていく。
シンドラーは1200人ものユダヤ人を救った実在の人物である。この映画の中で実質的主役なのであろうが、実際の主役はとらわれたユダヤ人すべてである。
思わず息が止まりそうになる情景がいくつもあった。理由もなく兵士に頭に銃弾を撃ち込まれ、崩れ落ちるシーンは信じがたいほどのリアルさである。
ナチスは、ソ連軍の進撃にともない、証拠隠滅のため更に狂気の行動に出るがシンドラーは多額のカネにものをいわせて、自分の工場で働く労働者をチェコに連れていく。その時に1,000人を超えるユダヤ人のリストを作ったが、それが題名になる「シンドラーのリスト」である。1945年5月、ドイツは無条件降伏し、生き残ったユダヤ人たちは自由の身になった。
シンドラーは巨額のカネを使ってユダヤ人1,200人を救った。彼は最後にもっとカネがあればもっと多くの人を救うことが出来た・・と嘆き、立ち去る。何年か後、シンドラーの墓に助けられたユダヤ人達が大勢訪れる。この場面だけがカラー映像である。
素晴らしい映画である。今日まで観ていなかったことを悔やんだ。しかし、あまりのリアルさに心は暗くなった。今後しばらくは見直す気力は湧いてこないだろう。
8/15(金)終戦記念日 秋田曇り・盛岡雨 有給休暇とり墓参り
2:30起床、ドック判定総括x1他。5:10病院着、5:50回診、事務処理他。救急カンファ間に合わず。8:45ドック診察。10:00盛岡に出発、12:30盛岡駅にて舩杉氏と合流。13:30江岸寺墓参。14:30長岡本家訪問→花巻→矢巾叔父(92)宅訪問→四季亭泊。21:00DVDでレンタルした「シンドラーのリスト」前半を観て重い気持で就眠した。
今年のお盆の墓参りは私にとって特別
今日から二日間は墓参り等のために秋田を留守にしている。年に一回、この時期に墓参することは私にとっては幼少期からの重要な行事であり、わが家の家族にとっても同様に根付いている。
また、この日は私のただ一人の実兄に年に一度会う貴重な日でもある。
かつては双方の家族がほぼ全員揃ったこともあるが、徐々にいろいろな都合で集まれなくなっている。ある年は、兄一人という年もあった。我が家も子供達が揃わず二人だけ、という年もあった。次男は2003年の墓参を最後に参加できていない。今年も同様で、病院で業務をするというので、私の受持患者の対応を依頼してきた。これも一つの参加のスタイルと考えよう。
今年は小雨降る中、寺には兄の家族達10名、我が家の家族は長女夫婦を含む5人、総勢15人が集まった。いつも7-10人程度なのだが今年は特別多かった。
私は今年の墓参は特別なのだと一人勝手に捉えて、約一ヶ月前から計画していた。これだけの方々が一堂に会する機会になってとても良かったと思う。
特別と言ってもご先祖方に何回忌かがあたっていたとかではない。
まず、秋には私共の家族構成が変わる予定なのでこのメンバーでの墓参は最後になるはずである。また、この墓参は寺の住職、ご本家、兄の家族、叔父のご家族等と年一回、短時間ながらは互いを確認し親交を深める重要な機会でもあるのだが、多くはもう高齢であり、特に叔父は92歳と高齢である。この様な状況の中、このメンバーでの墓参・親交は今年が最後なのかもしれない、と一人思ったからでもある。現に、一昨年、江岸寺の住職鷲盛瑞良氏(78)が急逝された。
もう、私の周囲の高齢者は、自分を含めてこんな状況である。
いつもは駆け足のスケジュールで動くのだが、今年は比較的時間をゆったり確保して行動した。私にとっては記憶に残る墓参となりそうである。
8/14(木)晴れ 外来 年休 小児外科関連打ち合わせ
2:30起床、昨夕から入院患者状態不良、4:00出勤。患者死亡等.6:30回診。8:00救急カンファ、8:45-12:30外来。13:00-16:00年休。家族と親戚の子供連れてキグレサーカス楽しむ。16:00病院、小児外科関連の打ち合わせ。20:00帰宅。夕食、21:00就眠。
北京五輪、甲子園野球、全国高校総合体育大会、プロ野球後半戦 ・・何がなんだか
8月8日北京オリンピックが始まった。
私は日常あまり新聞のスポーツ欄は読まない。ザッと眺めるだけであるが、ここ一週間ほどスポーツ欄は各種の競技大会の結果のニュースが入り乱れて大変である。ページ数も増え、何がなんだかよく分からない状況にある。そのあおりか、学芸欄や各種の解説記事は若干減っている様に感じられる。
特に、秋田の地方紙は北京オリンピック、プロ野球などのニュースに加えて、全国中学校軟式野球大会東北予選会の結果、甲子園の東北地方からの代表校に関連するニュース、大相撲秋田場所の記事などで一層華やかである。甲子園も随分長くやっている感覚であるが、本日年休を取って外出したとき流していたラジオでやっと三回戦が終了したばかりとのことで驚いた。もうとっくに決勝に近いものと思っていた。青森の山田高校、仙台の育英高校は本日共に敗退した。
北京オリンピックの結果を伝えるニュースは悲喜交々である。入賞、あるいはメダル獲得した選手は目立たない存在であったとしてもそれなりの実績を積み重ねてきた精鋭である。逆に大きく期待されていた多くの有名選手達の苦戦・劣勢のニュースが胸を打つ。
選手達が出場できたことに関しては無情の喜びなのだと思うが、マスコミが作り上げる膨らんだイメージ、大きな期待感を背負わされる選手達は、恐らく随分辛く戸惑っているのだろうと思う。実に気の毒である。もっと静かに扱ってあげたいものである。
北京オリンピックの個々の競技についてはそれほど興味はないが、大会直前の準備状態が報道されなかった割には準備が隅々まで周到で華やかに進められているのには驚いた。中国の底力を改めて認識した。ところが、その中に、開会式のTV中継の一部がコンピューターグラフィックであったり、少女の歌が吹き替えだったり、ここまで用意し尽くしたのか、と別な意味での驚きを覚えた。
私はTV映像ほど信用できないものはないと思っているが、全政界が一時完全にだまされていたことになる。
中国は「見た目の完璧さ」を国を挙げて演出し、偽装し、世界に発信している。オリンピックは国の威信を示すその手段として利用されている。
この華やかさの裏で犠牲を強いられている多くの国民の姿が報道されることはない。この「オリンピックが終了した時、中国は内外共に変わっていくのだろうが、特に内政がどの方向に変わっていくのだろうか。興味が持たれるところである。
8/13(水)快晴 熱暑 外来 入院家族面談
2:30起床。ドック判定x1。5:10バイク病院着、6:30回診。8:00救急カンファ。8:45-13:00外来、予約患者30名程度で久々余裕ある外来。小児外科関連諸調整その他。20:00帰宅、夕食、21:40就寝。
家内が家にいると言う不思議な感覚(4)早めの帰宅、仕事のセーブを考える機会に
今年の7月から家内が退職して家で過ごす時間が増えた。私の帰宅時はたいてい家にいる。夕食を一緒に摂る機会も増えた。なかなか良いものであるが、逆に私には若干プレッシャーにもなっている。
私は朝型人間である。大体2:00前後起床、5:00出勤、帰宅は21:00前後である。
家内は典型的夜型生活で、起床、出勤時間のことを私は知らないが、帰宅は大概23:00-2:00頃、時には4:00頃の帰宅もあり、私が出勤するまで帰宅しないことも時々あった。帰宅してもそのまま起きていてTVを観たり、家事等いろいろやっていた。365日ほぼワンパターンで動き、私的時間が殆ど確保できない私から見て羨ましいほどの自由人であった。いちいち確認はしていないが、恐らく病院で適宜睡眠をとってから帰宅していたと考えられる。
従来は互いに勝手なスケジュールで生活していて、日常は家内のことを気にかけることはまずなかったが、家にいるようになってからは何をしているのだろうか、具合悪くしていないか、とか気になることもあり、夜は若干早く帰らねばならぬと言う意識も生じてきている。
まだ、具体的に帰宅時間が早まった訳ではないが、最近は私のこの生活パターンが私自身にとってもかなりの負荷、ストレスになっていることを、起床時の虚脱感、不整脈の発作や慢性的な疲労感、仕事に向かうときの意欲や気分、などを介して自覚するようになってきているので、家内の生活が変化したのを機会に私も生活を変えよう、と考えている。
従来は増える業務を隙間なく積み重ね、私的時間、睡眠時間を削ることで対応し処理してきたが、物理的にも、体力的にもちょっと無理になってきた。今後は回避する、断る、簡素化するなどの工夫を取り入れる。
「ダメ人間、裏切り者、臆病者といわれる勇気を持つことが、自身を守る唯一の方法であった」とラジオ深夜便「心の時代」の中でしみじみと語った元軍人がいた。確かにその通りだろう。
8/12(火)快晴 外来 常務会 大学小児外科学教室訪問 医局カンファ(-)
2:30起床,ドック判定・総括x1など。虚脱・脱力感若干。3:30病院救急よりTELありTaxi出勤、種々対応。6:30回診等。8:00救急カンファ、8:45-13:30外来。14:45-15:30法人常務会。16:00医師宅訪問、17:00秋大小児外科学教室訪問、机上書類処理等。入院患者対応。20:20帰宅、夕食、21:00就寝。
医師受難を防ぐ(2) ペストの時には医師が真っ先に犠牲になったが
13世紀以降ヨーロッパを中心に蔓延したペストの悲惨な状態は絵画、風刺画、文学作品から知ることが出来る。
私はタイムライフ社「人間と科学シリーズ」1979に掲載されている数々の絵画、その中でも17世紀のナポリでの混乱と恐怖を題材にしたミコ・スパダロの絵、及び記載事項を見て大きなショックを受け、疫病の恐ろしさを知った。
このころの医療事情について、自らも九死に一生を得たある外科医は「医師自身の死亡率が高く、感染を恐れて患家に入らなかった。往診してもやることはなかった。医療費は患者の全てが死ぬので請求できなかった・・」と記載している。
デフォー「ペスト」は17世紀のロンドンの流行について記述している。その中で、使命感と勇気を持って診療にあたった医師はみんな罹患して死亡し、国外に逃亡した医師は卑怯者医師として帰国後も誰にもあてにされなくなった、と記載している。
19世紀末には第三次の世界パンデミックの余波として我が国にもペストが発生した。この時は大阪で160余名が犠牲になったとされるが検疫医、臨床医が真っ先に犠牲になった。
歴史を辿っていくと、疫病の際には医師が真っ先に受難していることが分かる。
このころは病人や死体に接したことで罹患する感染症らしいことは分かっていたものの病原体や感染経路も不明であった。
富裕層はこぞって国外に脱出したが、船上で全員が死亡、屍を乗せた船が多数大西洋を漂った。このあたりは「幽霊船の恐怖」などの本を幼少の時に読み心を踊らせた記憶がある。
新型インフルエンザもウイルスがどのような性格を持つかによって変わるが、最悪の場合にはペスト類似の状態にもならないとは限らない。
パンデミックは瞬く間に全世界に生じると危惧されている。安全な場所などどこにもない。この時医師はどう行動すべきか、何も規範はない。今は病原体についても、感染経路も、感染予防法も対応法も分かっている。医師に求められる責務は大きい。誰一人として責務から逃れられない。
ならば、方法は一つしかない。医師は自らと家族を守るために、患者と社会を守るために「新型インフルエンザ」対策を身につけるべきだし、時期が来たら「新型インフルエンザ・プレパンデミックワクチン」の接種を受けるべきだろう。今の時点で出来る最前の対策方法である。
過去のインフルエンザ大流行の状況を知ることが出来る文献として「史上最大のインフルエンザ」2004年、みすず書房、「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」2006年、藤原書店、が参考になる。
8/12(月)快晴 管理会議なし 医療安全管理者・事務長との打ち合わせ 療養病棟判定会議 長副会議
2:30起床。ドック総括x1。文献処理他。体調不調で4:10-6:00微睡む。最近早朝の体調不快が増えてきた。6:30病院着、回診、紹介状など。本日管理会議無し、8:00救急カンファ。紹介状作成。10:00-10:45医療安全管理者・事務長との打ち合わせ。11:30入院患者対応。16:00療養病棟判定会議。17:00-18:30長副会議。20:15帰宅、夕食。21:00就寝。
医師受難を防ぐ(1) 新型インフルエンザ対策
新型インフルエンザは発症するか否か?ではなく何時発症するか?のレベルにある。
ここ2-3年その恐怖が語られてきたのにまだ発生していないので世の中は平然としているが、専門家達は生じる社会的混乱を如何に防ぐかまで考え、ずっと緊張を強いられている。勿論冗談であろうが、「疲れた。どうせ来るなら早く来て欲しい・・」とぼやいた感染症の専門家もいた。
対策は遅々としているが、確実に進んでいる。
本年8月4日から「新型インフルエンザ・プレパンデミックワクチン」の接種が始まった。都内の病院で医師、看護師、薬剤師70人に接種された。今年中に医師や検疫官を中心に6.400人に接種する予定という。
このワクチンは新型インフルエンザインフルエンザそのもののワクチンではなく、インドネシア、中国で採取された鳥インフルエンザ(H5N1)の株から作ったもので,鳥インフルエンザワクチンである。これを実際にヒトに接種するのは世界初の試みである。
果たしてこのワクチンが将来発生するとされる新型インフルエンザにどの程度効果があるのか、などは未知数である。だから、接種に異議を唱える専門家もいないわけではない。しかし、今予防医学的に考えられる方法論としてこれしかない。国は国民の生活を守るために、今回の試行で問題なければ来年度は警察官や自衛官、ライフラインの関係者、医療関係者等1.000万人程度接種し、再来年度には更に子供達、希望する国民にも拡大していく方針である。
新型インフルエンザが発生した際に診断・検査・治療の最前線にでるのは医師である。流行期には全医師に対応が求められるであろう。来年度には専門領域にかかわらず全医師は「新型インフルエンザ・プレパンデミックワクチン」の接種が勧奨されることになる。私は関係ないよ、となどと言っていられない時が来る。忌避しても医師である以上患者を診なければならないから、感染死する可能性が高くなる。
何ら予防策の無かった14-17世紀ヨーロッパを中心にペストが流行し、14世紀の死者は12.500万人ともされる。この時に真っ先に犠牲になったのは医師であったとされる。
「新型インフルエンザ・プレパンデミックワクチン」の接種はこの時の轍を踏まないための方策の一つである。
8/10(日)快晴 病棟拘束 雄物川花火大会
2:00起床、退院総括、文献整理、書類書籍廃棄などでのんびり過ごす。救急カンファは欠。家内の引っ越し荷物整理、私の作業机周辺の整理、レコード整理など。メインのオーディオに2年ぶりにスイッチを入れた。なかなか良い音がした。17:00花火に出かける娘を送り病院、患者関連書類処理。20:00帰宅、夕食、20:45就眠。
家内が家にいると言う不思議な感覚(3)台所奉行二人共存は無理か?
今年の7月から家内が大部分の時間家にいる様になった。なかなか良いものであるが、それだけではない心配ごとも生じてきた。
私は定年退職者の健康管理の講演を頼まれることがある。定年退職を迎えた亭主が家に始終居るようになると、1-2ヶ月後にその奥さん方の一部に微妙な身体的・精神的異常が現れることを日常的に経験している。これを「定年退職亭主在宅症候群」と私は名付けている。
家庭を顧みず、仕事中心に生きてきた亭主の業績は大変なものである。しかしながら、給料をコツコツと運んできた実績がたたえられ、迎えた定年退職を心から労ってもらえるのは退職したその日だけである。マイペースでかつ必死に家庭を守ってきた主婦にとって、いつも家にいる亭主は異分子そのものであり、場合によっては邪魔な存在でしかない。そんな夫婦にとって、奥さんはいろいろサインを発しているのだが、亭主は自信満々、かつ鈍感だから、この微妙な変化に気づかない。結果的に落ち込むのは決まって主婦である。
わが家でも、今までは、家事一切のことは取り仕切るのは物理的に無理と割り切って家内は賄いの石井さんにかなりの部分依託してきていた。家内も日常言いたくても言えない状況を我慢してきたし、目をつぶって来た部分もあるようであるが、その二人の勢力関係に最近微妙な変化が生じつつある。
かねてから、かなりの食材が食べられることなく変質し、コンポストに無惨に捨てられたり、同じものがダブって購入されていて不思議と思っていたが、これは一方が購入したものには一方は絶対に手をつけない、と言う不文律が自然と出来上がっていたためらしい。私から見れば実に勿体ないことであった。
鍋料理を食べるとき、材料を入れる順序や食べ頃などをあれこれと指図する人を「鍋奉行」というらしく二人いてはダメらしい。私からみると「台所奉行」という地位もあって、これも二人ではダメらしい。今までは石井さんが奉行であったが、これからはその地位は危うい状況にある。家内が台頭しつつあるからなのであるが、家内には個々は私の台所なのだ、と言う絶対的強みがあるから鼻息が荒い。勝負は見えているがどのような関係で落ち着くことになるのだろうか。
本日午後、一週間の夏期休暇で函館の娘のところに行っていた賄いの石井さんが戻ってきた。これから先、二人の勢力争いはどうなるのか、石井さんに「定年退職亭主在宅症候群」類似の症状が出るのではないか、と私にとって心配の種が増えた。
8/9(土)快晴 終日書類処理 休宝寺49日法要・会食
2:30起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。5:20Taxi病院着。6:30回診、8:30救急カンファ。本日は外来その他デューティなし。先月分の総括・DPC入力など終了。11:00病棟患者対応。16:30帰宅。17:00-19:30休宝寺49日法要と会食。一杯のビールで酔って中座、帰宅、就寝。
国は国民の命を軽視ししていないか(2) 真綿で首を絞めている感じを受ける
戦時中は平時と違うと言えばそれまでであるが、私が知る範囲において我が国がとってきた数々の戦略の陰には人命軽視が見え隠れする。この辺のことを含めた近代日本の歴史について更に更に勉強したいと思っているが、今はとても出来ない。もう時間がないから、消極的にその時期を待つのではなく、積極的に求めるべきか、とも考えているこの頃である。
昭和という年号は書経の中の「百姓昭明、万邦協和」が出典で国民の安寧と盛会の平和を祈願したものであった、と習った記憶がある。しかしながら、実際には当時、内憂として金融恐慌が、外患として満州の権益をめぐって中国と衝突があり、昭和初期は陰鬱、退廃的なムードで過ぎていったとされる。その頃の象徴的事件の一つが超エリートであった芥川の自殺であり、国民は漠然とした不安、焦燥観を持っていたとされる。
1931年9月18日、満州事変が勃発、軍部も国民もマスコミすらもこの軍事的成功に酔ってしまった。これを機会に日本の歴史はあらぬ方向に転がり始めた。
この頃の人命、人権尊重がどのようなものであったか不勉強で知らないが、人命軽視の風潮が一気に高まったのは、敵前の鉄条網に爆弾を身に付けて突入し爆死した、有名な肉弾三勇士がある。今の自爆テロのようなものであるが、軍はこれを象徴的に利用し軍神として銅像を作り、国民が自らの命を国、天皇に捧げることを美化し奨励した。何も知らぬ国民もこの三銃士を讃える歌を歌うなどし、すっかりマインド・コントロールされてしまった。
これ以降の人命軽視関連の事項は簡単に挙がってくる。
どれだけの犠牲者が出たのか定説のない南京事件、後方支援を欠き多数の犠牲者が出た陸軍の侵攻、防備機能を欠く軽量ゼロ戦、護衛を欠く戦艦大和の出航、神風特攻隊、人間魚雷、日本玉砕論、ポツダム宣言無視と広島・長崎の被爆、シベリア抑留への無策、などなど。資料、文献を見る度に唖然とさせられる。当時の写真を見ると人びとの顔から真の笑顔が消えているが、それを見る私も暗くなる。
この頃、ヨーロッパではユダヤ人絶滅作戦が展開していた。私はその現場の一つアウシュビッツ、ビルケナウを訪れ大きな衝撃を受けた。
戦後はGHQのリードもあって人権、人命が重視されるようになり、憲法にも明確に定められ、事態は一変した。
暗い過去には国家権力、軍部、銃が国民の命を蹂躙してきた。勿論、今はそんなことはない。ただ、最近の国の医療・福祉政策は、特に高齢者に対しては「真綿で首を絞める」ような施策でないか、と思えてならないものがある。
8/8(金)快晴 患者家族来訪 ドック診察法人理事会 内科外来看護師送別会
2:30起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。5:20バイク病院着。6:30回診、8:00救急カンファ。本日は外来なし。DPC入力など。11:00病棟患者対応、新入院患者対応。14:00-14:20患者ご家族来訪歓談。14:30ドック診察。17:30-18:30法人理事会。重症者回診後、内科外来看護師送別会に合流。21:50Taxi帰宅。22:30就寝。その後に長男長女帰省した。
国は国民の命を軽視ししていないか(1) ヒトの寿命に定年はない
昨日は何年か降りに秋田県老人クラブ連合会で講演した。平成20年度の秋田県老連大学校講座?健康づくりリーダー養成講座---の全12回のコースのうちの4回目、と言うことであった。
今回求められた演題は「高齢期を豊に過ごすためには」で、要するにこれからどう健やかに過ごすかを話して欲しいということであったが、私はいつもの如く、これからの健康を考えるよりも明日来るかもしれない旅立ちに備えて準備を整えて置くことが最も重要で、その上で下手な節制するより楽しく生きようと言う、「不健康講座」とした。旅立つ準備として用意するものとしては(1)財産管理棟の委任契約(2)成年後見契約書(3)尊厳死要望書(4)遺言書を挙げ、最後は検診を受ける、病気はしっかり治療する、死ぬ時はガンが一番、とお勧めした。
小泉首相は医療の米国化を押し進めた。米国では75歳以上の高齢患者にはガンの場合、告知はするものの治療は行わないことの方が多い、との文献を見た。平均寿命を過ぎているから、もうヒトとしての定年だよ、と米国らしい考え方である。
首相は郵政選挙で圧勝した余勢を駆って、米国にならって75歳以上の高齢者を対象に後期高齢者医療制度を作り上げ、今年から施行されたがその歪みが今一気に吹きだしている。これは、当然である。日本は世界一の平均寿命の国であり、米国は先進国の中では短命国の代表である。長命国が短命国の方に医療や保険制度を近づけようとするのだから国民感情、考え方に馴染むはずがない。
ヒトは生まれたときは一定の規格の範囲にあるが、高齢者は70年以上もそれぞれ固有の生活スタイルで暮らしてきた方々であるから、千差万別と言っていいほど個性がある。それを、単なる数値で、それに何らかのエビデンスがあろうとも、線引きするという発想自体に、また、有病率の高い集団だけを束ねた制度にすることは保険制度の理念にも反している。
世界一の長寿命国、高齢化国である我が国がなすべきことは、時代に逆行する短命化の方策でなく、今後どのように工夫して前向きに医療・福祉を支えていくか、と言うことである。これは困難を伴う。モデルはない。我が国固有の解決策が求められている。
8/7(木)快晴 外来 秋田県老人クラブ連合会講演 患者家族面談
1:30起床、熟睡したが3時間はきつい。本日の講演準備。ドック判定総括。文献など。5:15バイク病院着。6:15回診、退院総括、紹介患者経過報告書処理。8:00救急カンファ、8:40-13:00外来。13:30-14:55秋田県老人クラブ連合会講演。たまった書類処理。重症患者発生、19:00入院患者家族面談。19:30出前で夕食、21:50帰宅、22:10就寝。
本日8月7日は立秋 早朝はもう秋の空
連日の新聞、TVニュースは全国的な猛暑を報道しているが、早朝の夜明け前の空、出勤時の空は、2週間ほど前から秋の雰囲気を持った雲、巻き雲などが天高く見える様になってきた。もう早朝の空はすっかり秋である。
私はかつてはいつも8月14日の早朝、墓参りの時に夏から秋への気象の変化を足下の草の露から体感し、この日を境にして日中が如何に暑くとも私にとってはもう秋であった。そのころの体感は足下からで、暦の立秋より遅れていた。
ここ20年ほどは春から秋にかけて、雨が降らなければ自転車とかバイクで通勤している。これだと季節の移ろいは足下でなく、風、空の雰囲気から体感する。朝5:00に家を出るのだが、ここ2-3週間ほど、秋田が梅雨明けになった頃から、陽が昇る東側の空を見上げると、空が澄み、徐々に高く感ずるようになっていた。空の変化は暦上の立秋より先行する。
本日8月7日は立秋である。夏至と秋分の中間の日であり、今日から立冬になるまでの間が暦の上では秋と言うことになる。日中の気温はまだまだ暑いが、今日以降の暑さは残暑と表現される。
日中、東の空には縦長の大きな入道雲が見られていたが、そのスケールはこれから徐々に小さくなっていく。そして、箒で掃いたような縞状の、横に広い薄い雲が青空に浮かぶが、朝の雲はそれを先取りしている。
私は四季の中では桜が散って緑の季節となり、秋の息吹を感じる時までの間、特に太陽がギラギラと照りつける夏が最も好きである。
今年は事情があって毎日曜日毎のテニスも止めているので特に感じるのだろうが、今年もまた夏を味わうことなく私の好きな季節が去っていくのか・・と少しだけ寂しい思いを味わっている。特に今年は秋の訪れはいつもより早いような気がしてならない。
8/6(水)快晴 竿灯最終日 外来 秋田県感染症評価会議 県医師会常任理事会
2:30起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。5:20バイク病院着。6:30回診、7:00患者急変あり、脳出血であった。8:00救急カンファ、8:30患者家族面談。8:45-13:30外来、混雑、疲弊。14:00-15:00県感染症評価会議。17:30-21:00県医師会常任理事会。重症者回診、21:50帰宅。22:30就寝。
家内が家にいると言う不思議な感覚(2)
今年の7月から家内が家にいる様になった。私の体調、行く末を心配して世話をしようと仕事を離れる決心したのだ、という。
幸い、私は元気だが、家内は急にフリーになった。日中は何として過ごしているのか、ゆったりと寝ているか、家事か読書か、はたまた花作りか、畑仕事か、些か気になるところであるが、あまり聞くと煩がられるから聞けず、推しはかるのみである。
ウイークデイの夕食時に私が帰ると家内がいる。これは30数年あまり経験したことのない、不思議な感覚である。今までは私は早朝出勤、21:00頃帰宅、賄いの石井さんが用意した夕食を粛々と摂り、すぐに寝るのが私の日課で、家内のことは殆ど心配もせず、気にかけることもなかったが、最近は何となく家内の存在が気になってしょうがない。結果として、夜に少しは早く帰らねば、と言う気持ちが働くようになった。
しかし、現実には逆で、オーダリング入力は病院で完結しなければならないために、私の帰宅時間は徐々に延びつつある。
家内はあまり時間を気にしない、細やかなことも気にしない、時間感覚欠如人間か?とさえ思うこともある、私から見れば羨ましいほどの自由人である。
秋田に転居したのは昭和48年で、この時は生まれたばかりの長女と3人だったので、19:00頃を目処に私が組合病院に家内を迎えに行き、預かっていもらっていた叔母さん宅から長女を連れて帰宅、そそくさと夕食を摂り、風呂に入れ、寝かせつけた後、私が再度病院に戻るという、多忙ながら比較的規則的な生活であった。
ところが、家内の叔母である石井さんが賄いとして同居し、家事育児の殆どをやるようになったことと、運転免許を取って車を使い始めたと言う二つのステップを経て突然家内は自由人になった。さすがに子供達がまだ家にいるときには今よりは帰宅時間が早かったが、夫婦二人だけになってからは私が帰宅する時間にいることはまず無く、2:00頃私が起床する頃に帰ってくるか、帰宅しない日も稀ではなかった。仕事が遅いから、疲れ果てて病院で寝て来ていたのであろう。
私にとっても大きな変化であるが、家内にとってはそれ以上に大きな生活上の転機のハズである。
今後どのような生活に変わっていくのか、変えていくのか、楽しみでもあり、恐ろしくもある。
8/5(火)快晴 患者家族面談 外来 法人常務会 医局会
2:30起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。5:10バイク病院へ。早朝は涼しく既に秋の雰囲気が漂う。6:30回診、7:00患者家族面談。定期処方その他病棟業務。8:00救急カンファ。8:45-14:30外来、超混雑、疲弊。14:45-16:00法人常務会。17:30-18:50医局会。重症者回診、20:50帰宅。21:30就寝。
筆記用具(4) 鉛筆----自分で鉛筆を購入した記憶はない
鉛筆には他の筆記具には得られない、魅力、利便性があってとても良い。だから、メモを取ったり、下書き、重要書類や専門誌を読むときの線引きや書き込み等に今でも頻繁に用いている。鉛筆だと消せるので、後でコピーを取ったりする際に邪魔にならない。
小学校入学時に2ダースほど買って貰った。とても嬉しく大事に、大事に用いてきた。随分使って来たはずなのに、その後ずっと今に至るまで自分用に鉛筆を買ったという記憶は全くない。
小学校の頃は何かの行事の際に記念のプリントされた鉛筆が1-2本配られるのが常であったし、運動会の景品などでも配られた。更に、うちは田舎の医院だったから、希望すれば短くなった鉛筆を貰うことが出来たからである。
短くなった鉛筆には市販のホルダーやキャップをつけて1cmほどになる迄使った。それでも捨てるのが惜しく、何で鉛筆は端まで芯がしっかり入っているのか疑問に思ったこともある。5cmほどは芯のない軸だけで良いのではないか?と思っていた。
小学校5年の時に医院を廃業したが、数10本の鉛筆が私のものになった。それをずっと使い続けた。
職場では4-5cmと短くなった鉛筆は引き出しの隅に転がっているか、捨てられる運命にある。それらは今も私が回収している。
3人の子供達の机からも回収した。今は古くなったが全く手の着いていない新品もあった。
等々の経過で私の机の中にはいろんなサイズの、いろんなメーカーの色彩豊かなちびた鉛筆が100本ほど次の出番を待っている。
これほど鉛筆に思い入れがあり、毎日使っているのにハット気づいたのは、私は鉛筆業界に一切の寄与をしてこなかった、と言う現実である。私が鉛筆を購入したという記憶が一切無いからである。
小刀でじっくり削ることで得られる精神的安堵感、私だけの形に削り込んだ一体感、小さい、ちょっとしたものでも大切にし、持てる機能を使い切ることで得られる満足感、等々、私は鉛筆を通じていろんなことを得てきた。だから、大事に扱ってきた。
もう貯めた鉛筆を使い切る時間は私には残っていない。引き出しの中の鉛筆達は私と共にいずれ生を終えることになるだろう。
8/4(月)晴れ 竿灯祭り二日目 管理会議 外来 患者家族面談 療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、ドック総括、文献チェック。5:30病院、6:30回診他。7:45-8:25管理会議。8:45-14:10外来、混雑,疲弊。患者家族面談後来訪者あり歓談。16:00療養病棟判定会議は対象者無し。17:00-
18;30長副会議。20:45帰宅、夕食、21:15就眠。
家内が家にいると言う不思議な感覚(1)
今年の4月、家内が37年間勤務した秋田組合総合病院を5月末日をもって退職することを決めてきた。6月一杯は残務処理等で非常勤勤務となり、7月以降は月一回の外来を担当する、と言うことにしたとのことであった。
2年ほど前、自身が体調を崩したとき勤務に自信が無くなったのか、一時退職を口にしたことはあったが、体調の回復後は復職し、相変わらずマイペースで何時帰宅しているのか分からないような生活をしていた。
今回の退職のきっかけは私の肺の異常陰影であった。
4月中旬のある日、私の肺に異常陰影があって経過観察しており、まだはっきりは分からないが厳しい判定が出うる可能性がある、と家族達に告げた。そんなに深刻に告げたつもりは無いのであるが、この時、家内は私が恐らく肺ガンなのだろう、と思い、ならば退職していろいろケアをしよう、と考えたらしい。
家内は時間感覚が疎い。だから、のろい。計画が時間通りに進むと言うことはまず無い。 つき合っていくのに実に大変なヒトである。この手の決断はのろいハズなのであるが、この退職の話に関してはしっかりと動いたらしく、ことはトントン拍子(?)に進み、4月下旬には送別会も催された。
一方、私の肺の異常陰影は皮肉にも、イヤ、嬉しいことなのだが、検査の度に陰影は縮小する方向にあり、悪性疾患である可能性は徐々に薄らいで行った。
と、言う過程を経て家内は退職した。
6月一杯は残務整理であったがずるずるとやっていたのであろう。相変わらず深夜から朝帰りであったが、7月以降は私が21:00前後に私が帰宅すると家内が家に居る、という生活になった。私にとってはちょっと馴染みがたい、不思議な感覚の毎日が始まっている。
8/3(日)秋田曇り-雨 病棟拘束 竿灯祭り初日
2:30起床。ドック判定総括、特定疾患継続用紙記入、文献・新聞チェック他。数日後の講演の準備。その後、持参の業務と家内の引っ越し荷物の一部を整理する。古い学術雑誌、書類の廃棄、そのほか。17:00-20:30病院、竿灯の大型バスで結構渋滞。20:50帰宅、夕食、21:00就寝。
当院女性事務職員事故で死去 ご冥福を祈ります
去る7月28日夜、当院に長く勤務されている女性職員(55)が自動車で脇の川に転落、秋田赤十字病院に救急搬送された。
私はこの事故を早朝回診時に患者のベットサイドのNHK-TVニュースで知った。病院名は報道されなかったし、テロップで流された名前は字が異なっていたが、病院職員との事である。年齢や事故の場所から見て、学会準備のスライド作成などでいろいろ配慮いただいた当院の職員なのではないかと思った。
事実確認の結果、当院職員と確認された。
秋田赤十字病院の交通災害センターの集中治療室で治療中とのことであったが極めて厳しい状況との報告を受けた。ご家族に当院への転院治療の意向があるとのことなので直ぐに受け入れの準備をすすめ、当院の集中治療室に転入院した。
しかしながら、状況は予想していた異常に厳しく、懸命の治療の甲斐無く、29日夜にお亡くなりになった。
長く勤められた方である。移送も危ぶまれる厳しい状況の中、ご家族、職員の期待に添う様な結果にはならなかったが、当院で最後のお世話出来たことが、せめてもの慰になった、と思う。多分、ご本人も納得されたのではなかろうか、と思いたい。
彼女の移送に関しては交通災害センターの医師団の理解もあったし、当院の救急部、集中治療室等の関係者たちの理解と迅速な対応が得られた。心から感謝したい。
本日、葬儀が営まれた。私は予定があって出席できなかったが、心からご冥福をお祈りしたい。
8/2(土)曇り
病棟拘束 ドック結果説明
2:00起床。ドック判定総括、特定疾患継続用紙記入、文献・新聞チェック他。5:30病院、6:40回診。8:30救急カンファ、9:00ドック結果説明。以降は机上に溜まった患者関係書類処理。退院総括x4,DPC入力、特定疾患関連書類、主治医意見書、退職医師の代理としての入院証明書など処理。古い学術雑誌、書類の廃棄そのほか。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。
筆記用具(3) 鉛筆----鉛筆削り機は鉛筆の処刑場であり墓場である
私は筆記用具の中で鉛筆も好きである。
鉛筆には独特の使用感、木の感触、安定感ある書き味、削ったときの木くずのにおいなど、他の筆記具には得られない、魅力、利便性がある。だから、今も家でも職場でも机脇のペン立てには数本の鉛筆が立って出番を待っている。
私は漢字や英語の単語などはなかなか覚えられず、記憶すると言うより手で覚える方が向いていた。だから、机に向かっているときはいつも鉛筆を握っていた様な気がする。だから結構、鉛筆の使用本数は多かったし、頻回に削らなければならなかった。しかし、決して煩わしいと思ったことはなく、鉛筆削りを毎日楽しんでいた。
特に、勉強を始める前に、あるいは疲れて一休みする際に、愛用の小刀や折りたたみのカミソリでじっくりと自分に合った形に削り挙げる、自分の望む形に自分で整えて使う、あの感触,快感は捨てがたい。今は、より切れ味の良いカッターで削るから尚更良い気分になれる。
鉛筆削りと言えば、私が子供の頃は手動の削り器があった。消しゴム程度の大きさの、斜めに羽が付いていて穴に鉛筆を差し込んでくるくる回すタイプである。私は好きになれず殆ど用いなかった。高校の頃ハンドルを回すタイプの削り器を求めて一時的に使った。便利ではあったが、固定する爪で鉛筆に傷が付くこと、無駄に削りすぎること、短くなった鉛筆は削れない・・などの欠点もあって、私の性に合わずあまり使わなかった。
最近はオーダリング、電子カルテが普及して様相が変わったが、病院では結構鉛筆が用いられる。特に看護師は二色鉛筆を頻用する。職場ではハンドル式あるいは電動削り器が備わっていて、鉛筆は驚くほど鋭く削られている。私はこれを見る度に心に大きく傷が付く。本来、鉛筆の芯は削る必要はないのだ。私は基本的に芯自体を削らない。二色鉛筆も同様である。芯を一定の長さにすれば、鉛筆を回しながら用いることでほぼ同じ条件で字を書くことが出来るからである。だから、一本の鉛筆の寿命は極めて長い。
削り器で削った芯は減りやすいから頻回に削らなければならない。悪循環である。
私の感覚では、自動鉛筆削り器、電動削り器は鉛筆の処刑台、墓場である。何にも悪い事などしていないのに、鉛筆として持てる機能の大部分、恐らく芯の90%はこの器具で削り捨てられている。実に気の毒で、勿体ないことである。
8/1(金)雨 手術一周年記念日 新型インフルエンザ対応研修会
2:30起床。手術から一年。ドック判定総括、特定疾患継続用紙記入、文献チェック他。6:00一週間の夏期休暇で函館に向かう賄いの石井さんを駅に送り出勤、6:40回診他。8:00救急カンファ。患者関連書類処理中心に過ごす。14:00ドック診察。15:00-17:20県主催の新型インフルエンザ対応研修会。20:10帰宅、夕食、21:00就寝。
未体験ゾーンから一年 夢の様な毎日を過ごしている
昨年の今日8月1日、私は膀胱頚部硬化症と膀胱憩室で手術を受けた。前者は経尿道的に硬化部を切除、後者は開腹による摘出である。
膀胱憩室と言うのは膀胱の一部が外側に袋状に飛び出したものである。私の場合には膀胱の一部が排尿時の内圧に耐えかねて飛び出したのであろう。
これの処理については経尿道的に憩室の開口部を閉じ、自然に退縮を待つと言う方法もあるとのことであったが、より確実な方法として私の方から希望して開腹による摘出を選択した。40数年来の懸案で限界がきたらその時が決断の時、とずっと覚悟してきたことだし、療養に時間もかけたくなかったから苦もなく決断出来た。
ただ、今から考えると憩室に陰圧をかけて膀胱内に反転させて引きずり込み、切除する方法も無かったのかな?と思う。尤も、この方法については文献的に検索したわけでもなく、泌尿器科医に聞いたわけでもなく、最近私の頭の中に一つのアイデアとして浮かんだだけで、実行できるか否かなどは確かめてもいない。
手術周辺のことは一切何も分からない状態で終了し、無事覚醒したが、後で聞いてみるといろいろ大変なことがあってスタッフを慌てさせたらしい。
私も患者にいろいろな手術を勧めて来たのでその苦痛を自ら味わってみるのも医師の努めの一つと割り切って硬膜外麻酔テューブ抜去後は鎮痛剤を使わないで見ようと目標を立てた。結果的にやり切ったが、やはり術後の疼痛、特に体動時のそれは生半可でなく随分痛いものであった。
術後一ヶ月ほどはまだ膀胱容積が小さいために頻尿があり、毎回様々な程度の血尿が続いたが、尿の色が便器の白にマッチして実に綺麗であった。
その後の経過はもう言うことはない。40数年間、いつかは・・と夢に見続けてきたさわやかな排尿感覚ってこんなに素晴らしいものだったのか、と今でも時折感じ入る。もう連れションしても負けることはない、と自信満々である。しかし、この年では競争してくれそうな人は居ない。膀胱も必死に頑張らなくても良くなったために壁が薄くなって容量も増えたのであろう、排尿の頻度も半分以下になった。排尿に無駄な時間を費やさずに済んでいる。
とにかく、毎日が快適である。気遣ってくれた家族達、関連された多くのスタッフの方々には心から感謝している。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |