大学時代 医学部時代(1967〜71)



医学部に通学
 昭和42年4月から全ての授業が医学部の講義室にて行われるようになった。入学時にオリエンテーションを一度だけ受けたが、それ以来二年ぶりで級友が一堂に会した。これから4年間、殆ど同じ教室で全員が、あるいは小グループで行動を共にし学ぶ仲間達である。
 当時は附属病院のみは新しかったが、学舎や各教室の研究室は古い歴史のある建物にあり、たこ足の如くの構造で、各講座・研究室毎に講義用の階段教室を持っていた。そのために学生は解剖学、生理学・・・と講義の内容によって基礎医学校舎を移動する必要があった。各々の階段教室は、教壇の机上に並べられる臓器等の資料などを後ろの席でも十分見れるようにする配慮なのか、狭い空間を利用するためなのか、傾斜はかなりきつい構造になっていた。また、何年の歴史があったのか解らないが床や木の机は角が丸くなり、黒光りしていたものである。
 丁度、基礎医学を学んでいた時期は大学の改修増築工事たけなわの時期で、臨床医学を学ぶ頃には講義室は各教室付属ではなく共用の講義室となり、広く傾斜の緩い、机も椅子も合板で出来た近代的な講義室になった。

解剖実習など
 授業は解剖学、生理学、生化学 ・・・・と基礎科目から始まる。専門課程の授業は一定の講義のあと実習が行われる。何事も新しい未経験の世界であったが、一年目に迎える大きなエベントは何と言っても解剖実習であった。正確には何月から始まったのか覚えていないが、多分夏期休暇後からだったと思う。医学生6人ずつが一つの小グループになって2ヶ月ほどかけて3人の遺体で実習させていただくものである。
 午前は各科の授業があり、午後は連日解剖実習に取り組むことになる。この間はバランスよく実習作業を進めなければならないから、グループ内のメンバーは互いの時間を調整しながら行動することになる。6人のグループの中に秋田出身の女子学生がいた。テニス部での練習のためか、地グロかわからなかったが、色の黒いやせ形で、性格はユニーク、なかなか面白そうなヒトだとの印象を持っていた。卒業間際の臨床実習まで基本的にはこのグループ単位で行動することになるが、この女性と卒業翌年に家庭を持つことになるなど、その間は全く予想だにしていなかった。人生、先のことなど全くわからないものである。


インターン制度反対運動の最中に。私がクラスの実行委員長に!! 何故だ!!!
 専門課程に進んでクラスとしてのまとまりが出始める間もなく、私どももいわゆるインターン廃止運動の荒波の中に漕ぎ出していくことになる。それなりの指導者、各人が持つ背景や思想については様々であった様であるが、が数名いて強力にクラスを牽引していった。私もインターン制度を始め医局講座制度、博士号問題などについて勉強し数々の疑問や問題意識を持っていたのでこの闘争には比較的前向きに参加した方である。

 このこともあって私は今回の初期臨床研修必修化問題について無関心ではいられないのだ。
 ここで、医師の卒後研修を簡単に振り返ってみる。太平洋戦争終了時までは医師には卒後研修はなく、国家試験が通れば医師として仕事をすることが可能な状態であった。戦後日本を占領したGHQが、日本の医師はあまりにも医療技術が低いので何とかする必要があるとの視点で医師の卒後研修としてインターン制度を発足させた。
 制度は,昭和21年(1946)「国民医療法施行令」の一部改正によって創設され,昭和23年(1948)医師法制定により規定された.インターン制度の目的として「所定の病院及び保健所において各科を巡回して行わせるものとし,病院における実地修練は,指導医の十分な監督のもと,その助手として勤務せしめ,専門に偏することなく診療全般にわたって修練を行わせ,おおむね日常遭遇する疾病について,一般医師として取り扱う場合の診療治療に必要な知識と技術とを体得させる他,保健所における実地修練は,実地修練者をして保健事業を通じて公衆衛生の実際を修得させるもの」であった.
 このインターン制度では,医科大学(医学部)を卒業後に医師国家受験資格を得るため,1年以上の診療および公衆衛生に関する実地修練を受けることを義務付けたものである.
 このインターン制度は,実地修練生の地位や身分の不安定,研修体制の不十分,生活の補償がない,修練病院に対する不十分な助成策などに問題があるとして,早くから問題提起はされていたが何故か大きな廃止運動には至っていない。

 当事者は問題点をもろに受けていても喉もと過ぎれば何とやら、と改革運動には盛り上がらなかった様である。これが医者の社会の変なところの一つである。
 ところが、1965年頃よりインターン中の医師の医療行為について無資格医問題として新聞を賑わせるようになり、制度の問題点が一気に明らかにされたこともあって、全国の医学生が立ち上がりインターン闘争が始まることになる

当時、60年安保闘争は新安保条約が自然成立後,退潮に向かっていた学生運動はベトナム戦争問題、私学の授業料値上げ、それにこのインターン闘争などで、全国各所で再び盛んになって来ていたが、私は政治や思想には疎く、いわゆるノンポリ学生であった。何でそんな私がクラスの「インターン制度反対実行委員長」などに選ばれたのか、というと、はっきり言ってダミー的委員長であった。先鋒的意見の持ち主がトップに立つとそれだけ周りへ与える印象が変わってくる。その点、私あたりをトップにしておけば反対運動自体のイメージもソフトとなり、クラスが一致しての運動のようなイメージになる。その様な効果をねらって推薦を受けたのだろう。どのようにしてクラスの中で指名を受けたのかなど具体的なことはもう記憶にはない。自分がどう考えようと、指名されたからにはそれだけの働き、責任を果たす必要がある。それ以降は2-3ヶ月間はあらゆることを投げ打ってこの運動に集中した。同級生の一人が大学近くのアパートの一室を提供してくれたので、週のうちの大半をそこで過ごし、時に雑魚寝して仲間と語らいながら運動を進めていった。

 この運動を通じて私は多くのことを学んだ。当時新潟大学では、各クラスが、医局への非入局、博士号ボイコットのスローガンも掲げていた。私どものクラスは約100人おり、インターン制度とかには反対の声はさすがに少なかったが、クラスとしての運動を進めることについて否定的な意見、学生はまず運動とかではなく学ぶべきが第一、と言う意見、さらに、初めてこの様な反対運動の渦中に組み込まれそうになったことへの不安感、運動自体に強い拒否的を態度を示す等、各人が様々な反応を示し、当初はうまく運動を進められるかについて私自身が自信に欠けていた。

 その様な状態で委員長を引き受けたものだから大きなストレスになった。今でも、新潟大学を退学処分になって路頭に迷い、落ちこみつつも再度大学医学部受験のために机に向かう夢、を時々見ることがある。それだけ負荷を感じながらも、地道にクラスをまとめ上げるための作業を進めていった。

インターン制度反対実行委員長」として当面やるべき仕事は多様な考え方を持つ級友の個々人の考え方、自主性を生かしつつ、方向性として制度反対の方向にまとめあげることであった。私が選ばれたときには医学部各学年で授業ボイコットをする方向にあり、私どももそれに歩調を合わせるか否かが大きな論点であった。委員会としては共同歩調を取るべきとの判断をしたが、クラスをその方向に持っていくためには態度を保留している、あるいは反対の意見を持っている級友達に対する対話と説得活動が必要であった。指導的立場にあった何人かの級友の意見等を取り入れて解剖実習のグループ単位に意見をまとめあげるようにした様に記憶している。私達6人のグループの中は授業ボイコットに対しても前向きに意見がまとまりつつあったが、一人秋田出身の女子だけがなかなか運動の意義を納得してくれず、私が担当して説得を続けていたが、なかなかクリアな返事が貰えず難渋した。内容とか理屈とかについては十分納得していても自分として如何に行動すべきかと言う点になるとなかなか決断しない。決して優柔不断と言うわけではないのだが・・・。何度かの対話を経て最終的には了承して貰ったがなかなか大変であった。
 詳細は忘れたが、結果的にクラス内での投票が行われ、8:2ほどの比率で授業ボイコットに参加することと決定した。決定を受けて委員長としての挨拶をしたが、全級友にとって初の体験である授業ボイコットをすると言った決定が下されたという緊張感が高まった中、私語一つ無い静まりかえった中で、一つ一つの言葉が隅々まで染み渡るような異様な雰囲気を感じたものであった。

 蛇足ながら、説得に難渋した女学生が今の家内である。当時は将来一緒になるなどとは露程にも考えていなかった。彼女の性格、物事を即断しない性格は今でも何一つ変わっていない。そのために夜半でなければ仕事が終わらないのであろう。彼女はどんなヒトなのか、私も未だよく理解出来ていない。

当時は医局民主化の要求もあり、新潟大学でも構内のあちこちにバリケードが作られ、医局・研究室の占拠もあった。1967・68年(昭和42・43年)卒生は国家試験をボイコットしてまで闘ったような気がするが、この辺の記憶はもう定かではなく若干の間違いがあるかも知れない。
 私が実行委員長を務めたのは昭和42年度の運動の時でしたが、この間に、街頭デモ行進、医学部の運営に携わっている教授室訪問(半ば押しかけ)と対話、教授会との深夜に及ぶ団交、過激なデモでクラスメートが拘束されたことを受けての新潟警察署前の長時間の座り込み、・・・などを経験した。あのころは何かにとりつかれたように次々とエネルギーが湧いてきたように記憶している。膠着状態を打破する手法などについても学ばせられた。私どものクラスも都合3回の授業ボイコットに参加した様に記憶する。

 一方、政府は、我々学生や若い医師達の要求を無視し続けた。最終的には若い医師の身分や経済的な保障に関しての施策を欠いた状態で、1968年度からインタン制度を廃止した。制度廃止後は、医学部卒業生はどこかの病院や大学の医局で自主的に研修し、厚生省に2年間どこかの医療機関で研修しましたと報告するだけの「報告医制」となった。この制度には義務も罰則もなく、この後長期間にわたって、本年の初期研修必修化につながるまで卒後臨床研修は混迷した状態のままとなった。

 私にはこのインターン闘争への参加はいろいろな意味で良い経験となったが、今でも心の傷になっていることも少なくない。時に悪夢としてうなされることもある。ただ、当時発言したことなどには今でも責任を感じ、自らとらわれ続けていることも少なくはない。私自身の臨床修練のために秋田大学に入局し、結果的には博士論文も提出した。このことは当時の自分は否定的な発言をしていたことでもある。しかし、自らに課した一連の目的を達するためには他の方法は考えがたい状況であったために自身に反する行動を選んでしまった。私は医局を辞してから20数年間、病院の公務で1-2回医局を訪れたほかは一度も訪れなかったし、招待を受けても医局の行事には一切参加してこなかった。私の行動は医局にとっては迷惑、不可解な行動、礼を欠いた行動とうつったであろうが、そのルーツはここにある。博士号取得前後にも周辺に多大な迷惑をかけてしまった、と思っているが、自分の考えを通すための一方法であった。

新潟大学管弦楽団第一回定期演奏会 
 19967年(昭和42年)7月2日は医学部オーケストラから全学規模の新潟大学管弦楽団として再スタートを切ったオケの記念すべき第一回の定期演奏会が新潟市公会堂で行われた。これは同時に医学部オケとしての創立40周年記念演奏会でもあった。
 演奏曲目は(1)ベートーヴェン「エグモント序曲」(2)組曲「ロザムンデ」(3)「歩み」(4)ベートーヴェン交響曲第7番、でアンコールとしては「運命」の第一楽章を演奏した。他の曲は名曲で説明も要しないが、(3)の「歩み」はオケの大先輩で、東京で開業されていた小林勝郎氏の作曲となる曲である。氏は熱烈な音楽の愛好者でありわれわれのオケにも援助を欠かさぬ方で、実に有り難かったように記憶している。その後も永く新潟学士会報に音楽関係の小文を投稿されていたがいつしか途絶えてしまっている。多分、死去されたのであろう。彼の熱烈さとは裏腹に彼の作品8にあたるというこの曲は何だかようワカラン迷曲で今となってみればそのことだけが懐かしく思い出される。
ところでベートーヴェン交響曲第7番は大曲であるが当時のオケの弦楽器はVlaが少なくアンバランスで調整する必要があった。ならば、と自ら申し出てこの会からVlaを担当することとなった。VlaはVnより一回り大きく体格によっては演奏は困難であるが、もともとVnもまだそんなに巧くなかった私にとっては大差がなかった。それ以上に良かったことは楽譜がVnパートほどは密度が濃くないと言うこと。要するに細かい動きが少なく、若干余裕が生まれたと言うこと、であった。そのために各パートの音をじっくり聞くことが出来、曲の理解にも大きく役だった。

 で、この演奏会から第2Vnの末席からVlaの最前列で弾くことになった。牛尾から鶏頭になったようなモンである。驚くような変化であるが、これで当時の管弦楽団が如何に人材が乏しかったか分かると言うものでもある。下手とはいえ指揮者の真ん前で弾くので緊張度も高いし、1st VnやVcとの掛け合わせもあるし、希に短い独奏部分もあるし、責任は重くなっていく。それが私にとっては一番良かったことなのかもしれない。Vnの時よりじっくりと個人的練習に励んでから練習に出かけることになった。尤も、一人で練習するときにはVlaの音は地味であまり楽しくないために自分のVnをVlaに見立てて練習し、合奏の時だけVlaに持ち替えてやっていた。
 その後、部活から離れるまでの3年間ほどVlaを受け持ったが、お陰で良い経験が出来た。

新潟大学医学部管弦楽団第1回定期演奏会(創立40周年記念)
 昭和42年7月2日は新潟大学医学部管弦楽団から新潟大学管弦楽団に組織改編があってから記念すべき最初の演奏会であり、私個人にとってはVla転向の初回の演奏会であった。会場は新潟市公会堂。演奏曲目は
(1)ベートーヴェン「エグモント序曲」(2)組曲「ロザムンデ」(3)「歩み」(4)ベートーヴェン交響曲第7番、でアンコールとしては「運命」の第一楽章を演奏した。

 曲のうち「エグモント序曲」は私をいわゆるクラシック音楽の世界に誘ってくれた思い出の曲である。心から堪能出来た。今でも、小品として何か一曲をあげるよう求められれば、最初に聴いたときの感動と、演奏出来た歓びと共に、多分この曲をあげるだろう。組曲「ロザムンデ」は軽快な曲であり、随所随所に作曲者の特徴である名旋律がちりばめられている。演奏自体はそれほど困難ではなかったように記憶している。ベートーヴェン交響曲第7番は私にとって技術的には超難曲で第一楽章の基本的リズムについては徹底して絞られた。第二楽章の第一VnとVlaの掛け合わせは実に楽しい。第3楽章、終楽章は演奏は困難で私は付いていくのが精一杯と言う状態であった。

合唱と管弦楽の夕べ
 昭和42年11月30日は新潟大学合唱団と共に「合唱と管弦楽の夕べ」が新潟市公会堂で開催された。演奏曲目は
(1)グリーグ「心の傷で」、「過ぎし春」(2)モーツアルト交響曲第35番「ハフナー」。(1)についてはもう記憶にも残っていない。(2)に関してはこの前後に福井県で行われた全国学生オーケストラ連盟北陸信越支部の合同演奏会でも演奏した。後者の演奏会では私のVlaの調弦が演奏途中でくるうと言うハプニングを経験し、第一楽章は演奏に乗り切れなかった。私にとってこの曲はその想い出と共にあり続けている。
昭和43年はインターン闘争も一段落した年であるが、この年は私のオーケストラ活動のなかでは未だに忘れられない思い出を持つ貴重な年となった。
 まず、6月29日は新潟大学管弦楽団の第2回定期演奏会。会場は新築された新潟県民会館。演奏曲目は
(1)ロッシーニ「泥棒かささぎ序曲」(2)ドビュッシー「小組曲」(3)モーツアルト「クラリネット協奏曲」、独奏:田中 恵氏(4)ビゼー「交響曲第1番」。

 曲のうち(2)(4)においてはベートーヴェンまでの時代とは全く異なる構築をもっており、自分が弾いている部分の価値、意義もよう解らないような複雑な構造で、何が何だか解らないまま楽譜を単に音にすり替えていただけなような気がする。特に、ビゼー「交響曲第1番」はVlaにとっても演奏は困難で、下手な私は何とか誤魔化して流してしまったと言う厭な体験が残っている。今でもFMとかでこの曲が流れると冷や汗ものである。
 
 モーツアルト「クラリネット協奏曲」は私は大好な曲の一つである。特に、静かに心にしみいるような第二楽章は私にとっては特別の曲で、今でもCDにリピートをかけ、一日中BGMとして鳴らしていることもある。この曲によって日常如何に癒され、救われているか、計り知れないものがある。
 この曲を演奏出来るなんて、それだけでも十分であった。楽譜上の難易度から言えばそれほど困難ではなく、Vlaでは比較的余裕を持って独奏部や他のパートの演奏を聴くことが出来た。独奏の田中 恵氏は当時芸大在学中の方だったと記憶する。

 第二楽章、ゆっくりと独奏部にオケが弱音で伴奏をつける。独奏クラリネットの低音部、哀愁を帯びた旋律はあくまでもゆっくりで、可能な限りの弱音である。舞台は勿論十分な光を受けて明るいが、舞台から見渡す巨大なホールは暗く、天井の弱い光が点々と、あたかも夜空の星のように見える。独奏楽器の音が、シーンと静まりかえったホールにしみ入っていく。最高!!!、独奏だけの部分は後半に数小節と短いが、私は完全に聴き入って呆然自失となってしまった。伴奏部分になっても私一人だけ座ったまま微動もしなかったらしい。指揮者が私の譜面代を叩いてくれてハッと我に返り、演奏を続けた。

 この時の演奏、私の音楽体験のなかで最高の一瞬であった。それ以後も同曲のコンサートは2-3回は聴いたし、集めた演奏も数10種類はあるだろうが、第二楽章に関して言えばこの時の演奏を凌駕する演奏にはまだ接することは出来てない。FMのライブ録音で近いものを聴いたことはある。恐らくは、今後も無いだろう。あのような演奏は何度も聴かれることを前提にしたCD録音ではあり得ないのだろう。それでも良い。この曲にじっくり耳を傾けて聴くとき、私はその時の状況を思い出す。それだけで私にとっては十分である。

指揮者に抱きつかれる
 昭和43年12月14日は新潟大学管弦楽団演奏会。会場は新潟県民会館。演奏曲目は
(1)ベートーヴェン「コリオラン序曲」(2)グリーグ「ペールギュント組曲No1」(3)モーツアルト「交響曲40番」。
 
 それほど技術の無かった私にとってVlaパートの最前列で弾くのは大変なことであったがそれだけやりがいもあり、自分としては相当準備をして演奏会に望んでいた。(2)のアニトラの踊りでは第一VnとVlaとの掛け合わせ部分が繰り返されるが、これが結構難しく、練習中にも満足するような出来は滅多になかった。本番の演奏中にエキストラを含めて6人のVla奏者がいたが、この部分で次々とこけて最終的には私一人が残って掛け合わせ部分を無事通過した。もし、この部分のVlaパートが鳴らなければ曲想自体が陳腐になってしまぅ重要な部分であった。練習の時にはろくに出来なかったが本番では思いがけなく上手く決まって自分自身でも驚いてしまった。
 演奏が終了して舞台の袖に引き上げたときに、待ちかまえていた指揮者に抱きつかれた。私までこけたらどうしようかとハラハラしていたのだという。私自身が今までにソロをやったののはこの時、この部分以外にないし、大人の男性に抱きつかれたのもこれが初めてでかつ最後である。

 第3回定期演奏会は昭和44年6月28日、新潟県民会館で、曲は(1)ロッシーニ「絹のきざはし序曲」(2)モーツアルト「ファゴット協奏曲」、(3)ベートーヴェン「交響曲No3英雄」を演奏した。徐々に勉学の方も大変になっていく時期を迎えていたので、私はこの演奏会終了後オーケストラ活動を中止した。後は自分で時折適当に楽器をとりだして楽しむ程度となり、付け焼き刃の如くの私の技術はどんどんと劣化し、下手になっていった。

学費枯渇 岩手県医療局の奨学金を受ける
 専門課程3年目になる頃から私の軍資金が尽きつつあった。親から貰った50万円、兄夫婦からの毎月の援助金、日本育英会からの奨学金を計画的に配分して1万数千円で生活していたが、徐々に書籍や教科書の購入量も増え、友人達とのつき合いも増えていき、さすがに残金が乏しくなってきた。どう考えても卒業までの2年間には不足どころか全く枯渇する状態となった。
 いろいろな方法を考えたが、従来の如く時間を大切にすることを第一に考え、そこで月額2.5万円の岩手県医療局の奨学金を借りることとした。条件は借用したのと同期間を岩手県立病院の何処かに勤務するというものであった。岩手県は四国ほどの広大な面積があり人口密度も低い。私的病院が十分に機能する環境にないためか県立病院が32もある。勿論すべて大病院ではなく300-600床規模の病院から有床診療所レベルまでいろいろである。医療局によると奨学生は卒業後に何処に配属されるか解らないが、従来からの方針では基本的には大病院中心に配属し、それなりの指導は行うとのことでその面では安心して良いとのことであった。
 奨学金を受けてから経済的には突然豊かになった。欲しい書籍も十分に買えたし、外食なども、友人達とのつきあいもある程度気楽に出来るようになったが、その他のことでは基本的には変えることはなかった。必ずしも寮に居続けることはなかったが、それなりの人脈もあり、5年目ほどになると先輩方に気を遣う必要もなく、居住環境もそう悪くはなかったからそのまま居続けた。
 この奨学金を受けたことから卒業後の進路は決まったようなものである。豊かな卒後研修のコースには乗れそうもないために大学の授業にはより一層身を入れ、前にもまして勉学するようになった。卒業後、三陸の宮古市の県立宮古病院に配属になり2年間働いたが、私を育くんでくれた岩手県に雀の涙ほどでも貢献できたことを含め、私は医師としとても良いスタートをきれたと評価している。
昼食時にスパゲッティ・ミートソースなるものを初めて食べて驚く
 専門課程1年目になると解剖実習を始め、組織学実習、生理学実習・・と続くので何かと席順に近いメンバーで動くことが多くなる。多分秋頃だが昼食時に皆で街に出るというので珍しく私も付いていった。通常私は学生食堂を利用するか、時間があれば寮に帰って昼食を摂っていたのであまり一緒したことがなかった。
 学生でも入れる程度のちょっとしたレストランで昼食を摂ったが、私がそれまで入ったことのない様な西洋風の瀟洒なところ。見たこともないような洋風のメニューが並んでいる。何を注文すればいいのか??分からない。だから、みんなに合わせてスパゲッティ・ミートソースなるものを初めて注文、どんなものが出てくるのか??が、一口食べてあまりの美味さに驚いてしまった。

 私の育った家は食事に関しては比較的恵まれていたが内容的にはきわめて保守的、純和風であった。外食など殆どすることなど無かったし、あったとしてもラーメンとか蕎麦屋程度、希にカレーライス程度でしかなかったような気がする。高校生の頃も、仙台での浪人中も、新潟においても外で食事をしなければならなかったときは殆どラーメンかカレー程度と何も変わることはなかった。スパゲティと言えば定食とか添え物としてついてくるケチャップ味のモノだけしか知らなかったからである。

 あまりの美味さに驚いて側にいた友人達に感想を述べたら、隣にいたF嬢、呆れたように「あら、こんなモノ私でも作れるワヨ」と言う。私はその言葉にまた大きな衝撃を受けてしまった。この様な美味いもの、洋風のもの一般の家庭で作れる??、しかも、普段テニスだけやっていて真っ黒に日焼けしている、料理をするなどのイメージを全く欠く女学生がケロッと言ってのけたのには心底驚いた。この日を機会に私の食事に関する保守的な感覚は一変し、機会あるごとに、積極的にいろいろなものを食べるようになった。思えば、小さな人生観の転換だった。

スパゲッティ・ミートソース余話
 スパゲッティ・ミートソースなるものを初めて食べて驚いたが、この時のエピソードを機会に食事を始めとして生活自体に対する考えがより広い方向に変わっていった。今から見れば当時の私は視野が著しく狭かったと言うべきだろう。
 そのルーツは経済的には若干恵まれてはいたものの、岩手の田舎の、極めて保守的な家に育ったこと、祖父母が生存中は二人の考え方、価値観で家の全てが切り盛りされていたこと、祖父は蓄音機やSPレコード蒐集、戦後米国製のオートバイのインディアンを購入するなど新しもの好きな一方で、食生活に関しては実に質素であったこと、実際に家事炊事をしていた母も超保守的人間であったことがそのルーツかも知れない。
 小学校5年のとき我が家にもTVが入りいろいろなことを知ることが出来るようになったが、当時は世の中の種々の事象、事件、文化などすべてが自分達の生活に関係のない遠い世界の物事の様にしかとらえることが出来なかった様に思う。我が家にとって知識としては若干入ってきたものの、生活上の変化は殆ど無きに等しかった。

 結果的にはミートソースを食べてみたことは私にとっては発想を変える良い機会になった。「あら、こんなモノ私でも作れるワヨ」と言ったF嬢と数年後に家庭を持つ事になるが、そんなことになろうとはその後数年、卒業間近までは考えもしなかった。しかし、あの日のことを今でも鮮明に覚えているところを見れば、あの時、彼女自身にも何らかのインパクトを受けていたのかもしれない。確かにその後卒業までの間に何度か手料理をご馳走してもらいその度に腕前に感心したが、家庭を持ってからは彼女の料理を食べる機会はあまりない。要するに、当時、私は食品に対して無知だったし、寮の食事で常に腹が減っていた状況にあったので、結果的に餌で釣られてしまった、と言うことになろう。250円のミートソース様・・・と言うべきか・・・。人生はワカランものだ。

基礎系では病理学と法医学に興味を、内科系では血液内科に興味を持つ
 大学の講義はオーケストラ関連でやむを得ず若干休んだ他は殆ど皆勤と言っていい状態であった。朝は寝坊することなく連日殆ど6時頃には起床し、実に規則正しい毎日を過ごしていたから8:00頃に大学に向かうことは何ら苦痛ではなかった。また、講義にでることが最も効率の良い勉強方法だと信じていたから、例え居眠りしていたしていたとしても講義にはでる方がいいと考えていたからでもある。最も、専門課程3年目からは岩手県医療局の奨学金の貸与を受けたことで卒後すぐに病院勤務することが決まったためによりまじめに勉強しておくべき必要性を感じたこともある。
 当時はコツコツとノートを執ったものである。今の自分なら多分、ノートパソコン、デジカメ、録音機を持ち込み、講義録はインターネットで友人達とやり取りしたのではないかが、当時はとにかくノート執りであった。コピーすら当時は湿式で能率も悪く、値段も高く学生にとっては高嶺の花であった。私のノートは一部の友人たちによく利用されたものであった。

 多くの講義の中で私は基礎系では病理学と法医学に興味を持ち、内科系では特に血液内科に興味を持った。

 法医学への興味は実はひょんな事で深まっていった。法医学の講義は第一時限で8:30から始まるが、開始の時間には数名、時に1-2名のこともあり後ろの席に座るわけにはいかず、毎回一番前の席に座ることになった。講義は少人数の中で始まるために最初の頃は対話を交えながらの講義となる。そのために教授と若干ではあるが親しくなってしまった。そうなると講義にも自然に身が入ることになり、難解な部分を含めかなりの部分を理解できた様な気がする。

病理学は北村教授の姿、生き方に感じ入った
 最初の病理学の講義の日、ちょっと早めに講堂に出かけた。黒板には前の講義の内容であろう、よく解らない単語や図が書かれ、そのままになっていた。中程に席を取り講義を待っていたが、10分ほど前に薄汚れた白衣を纏ったやせ形の、貧相な感じの初老の爺さん・・と表現すべき男性が入ってきてじろっと周辺を見回し、黒板を消し、チョーク等を整え、教壇の周辺を片づけてた。長年この様な仕事をしてきたのだろう、一つ一つの動作に無駄が無く、私はずっと見続けていた。なぜか今でもその場面を鮮明に思い出す。当時、各医局や研究室には秘書や小間使いをする方々が1-2名ずつ居たものであるが、一般的に基礎系では年輩の男性が一人で、臨床系では若い女性が数名は居たように思う。
 講義時間となり同級生達で講義室は満杯になったが、爺さんは落ち着いて片づけをしている。やがて彼は一旦講義室を出ていったが間もなく戻ってきた。教授を呼びにでも行ったのか、と思っていたが、彼はそのまま教壇にあがりしわがれ声で、淡々と病理学の講義を始めた。何と、彼は病理学第一講座の北村教授であったのだ。
 講義内容は今から見れば形態学中心の古典的な病理学であったが、毅然とした威厳を伴っており私はすっかり魅了されてしまった。彼の毅然とした態度は病理解剖の際にも発揮された。学生の間に教授が担当する病理解剖を数体分見学できたが、臨床側に対しててきぱきと質問し、鋭く問いつめる場面もあった。私は当時は深く感心したが、病理学的考えと臨床側との考えの間には広い溝があるものだと感じた。


内科系では血液内科に興味を持つ
 私が学んでいたときには新潟大学には4つの内科学講座があった。
 第一内科は血液学の松岡松三教授で当時DICについて先駆的であった。第二内科は木下康民教授で亜急性腎炎の概念をうち立てていた。第三内科は市田文弘教授でウイルス性肝炎で先んじていたと思う。神経内科は椿 忠雄教授でSMON、新潟水俣病の分野で脚光を浴びていた。
 個々の教授について、教室の運営や研究等について詳しくは知らないので言及は控えたいが、私がこの4人の、巨匠と呼びたくなるような教授の講義に出て感じたのは、学者としての迫力と威厳と男のロマンを感じたことである。
 ベットサイド、臨床講義では第一内科の血液疾患の患者達から大きなインパクトを受けた。今覚えているのは急性白血病の3人の少年少女のことである。カルテを見る限りでは厳しい状況のことが書かれてあって、生命予後も相当悪い状況あると思われた。学生として受け持たせていただいた時はたまたま小康状態にあった時期であった。当時の私とほぼ同じ年の3人患者は、自分が白血病に罹患しており、間もなく生を終えるであろう事を薄々と感じていたようであるが、あくまでも明るく、実習生の私の下手な手技による検査にも良く耐えて協力してくれた。私は、この同じような年代の青少年が自らそれほど先は長くないと悟っていて何故この様に明るく振る舞えるものであろうかと感心し、かつ感動した。第一内科の実習が終わって約1ヶ月ほど後にたまたま病棟を訪れた際、3人中2名は既に死亡退院されておりショックを受けた。この時の経験がずっと尾を引いており結果的に私は血液学の分野に進むことになったのだろう。

突然の休講。実習グループの一人のF嬢と弥彦に出かけた
 専門4年の9月頃だと思う。もう記憶も定かでないが、二時限に予定されていた何科かの講義が突然休講になった。その日は午後は授業がなかったために私どもは突然フリーとなった。帰り支度しているときにたまたま実習仲間のF嬢と一緒になり、あまりの天気の良さにどちらからとなく何処かに行こうかと言うこととなった。私はそうは言っても新潟市内のそれなりの場所は一切知らないし、・・と言うことで、一度自転車で往復したことのある弥彦神社に行ってみることとした。国鉄(1982年にJRへ)で吉田駅乗り換えで弥彦駅に向かい、弥彦神社を見学、時間があったためにバスで弥彦山の山頂付近まで行った。山の上は景観はとても良かったものの、思いがけなく風が強く、実に寒かったこと以外あまり覚えていない。
 この時は休講を利用した、一寸したハイキング程度であったが、以降、若干だけ彼女と親しくなるという効果はあったようである。

 弥彦行きから1-2週間後以降、F嬢から食事の招待を受けた。住んでいた寮の電話当番から「医学部4年のフクダさん、お電話です」との呼び出しがあった。「何だ??誰だ??心当たり一切なし・・・」と訝りながら電話に向かった。六花寮では女性からの電話は「お電話です」、男からの電話は「電話です」と呼び出すことになっていた。もう記憶も定かでないが、弥彦行きからそう長い時間がたっているわけではないので多分、専門4年の10月頃だと思う。電話口にはF嬢がいて、グループの何人かも来ているのでアパートでご飯でも食べませんか・・と言う。みんなも来ているなら良いだろう、と私も誘われたのをうれしく思い、気軽に出かけていった。
 メニューは何であったか、もう忘れてしまったが年老いた母の手作りの田舎料理しか知らず、寮の130円/日の食事にもそれほど大きな不満もなく耐えていた??いや、順応していた私は、出された食事にいたく感心し、喜んでご馳走になり、集まった同じ実習グループの4-5人のメンバーで楽しく一時を過ごした。

 今から考えれば、私は完全に餌で釣られた空腹の痩せ魚の一匹だったと思うが、私自身にも友人としての長いつきあいを通じて、釣り上げられるための、それなりの準備状態があったのだろう。
それ以降、2週に一回ほど食事の招待を受けた。例の2年ほど前に喫茶店で「こんなの私も作れる・・・」と言って私を驚かせたミートソースも作ってくれた。その日まではとても信じられなかっただけに感心するやら驚くやら。忘れたが、多分とても美味しかった。私は完全に餌を与えられて、餌を通じて彼女を見直していったことになる。

 2-3回は数人でご馳走になったが、その後は何故か私一人だけ招待されるようになった。二人だけで、しかも彼女のアパートで食事をするなどと言うことは想定もしておらず、かなり緊張しギクシャクした様に思うが、徐々に慣れていった。

 そのうち、数人で招待されたのは、気が小さく決断力のない私を上手に誘うために彼女が仕組んだプロセスではないのか??と、ある日ふとしたことを切っ掛けに考えた。このことはつい先日も確認したから本当らしい。で、多分、間違いではないだろう、今後どうなるのだろうか??と考えてから責任を感じて、否、感じすぎたのであろう、2週間ほど全く食事が喉を通らなかった時期があった。
 空腹感はあって食卓に向かうのだがどうしても飲み込めない不思議な体験である。水分なら何ら支障なく飲み込める。これは理屈に合わない現象である。恐らく、心因的原因で身体に変調を生じたのではなかったのか。 この間の2週間ほどは誰にも気付かれないように配慮しながら殆ど水と味噌汁、牛乳等だけで過ごし、3-4Kg痩せてしまった。しかし、むしろ体調は軽やかで良好であった。

そのうち、彼女との間はなるようになれば良い、と思ったことでとても気が楽になった。専門課程4年の秋の頃である。
 私が漫然とイメージしていた好みの女性とは異なっている点も決して少なくもないが、予想していたよりもデリケートだが、いい人だし何も今決めることはない。奨学金の関係で彼女は卒後数年間は秋田に行くと言うし、私は岩手県医療局との話し合いの結果2年間は三陸の宮古病院に赴任する予定になっている。だから、まだ時間はたっぷりあるし、最終的にもし将来一緒になることになっても十分やって行けそうし・・・などと考えたような気がする。
 郷里では母親が私の将来の結婚相手として何人かの候補を持っているらしいと言うことは多少は気がかりではあった。
 卒業試験も無事クリアし、私は卒業式には出るつもりはなかったから3月上旬にクラスメートとは別行動になったが、最後の集まりが終了したとき実習グループのみんなからは二人に対して祝福の言葉をもらった。このまま順調に行ってもまだまだ遠い先のことだし、実感は全くなかったがうれしく気恥ずかしかった。



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