自伝 特別編 「兄を語る」

 唯一の兄弟である兄、正明が2015年1月8日死去した。享年80歳であった。

 兄と私は11歳違いである。
 この大きな年齢差が私と兄の関係に決定的影響を与えた。
 兄はとにかく私が物心つく頃から私の前にそびえる山のような大きな存在だった。私の人生を通じて一度も越すことができなかった、逃れることも出来なかった兄に対するコンプレックスがあった。

 兄の訃報を告げられた瞬間、やっと私は兄に対して優位に立つことができた。
 私たち兄弟は互いに、その存在を意識し合っていた兄弟であった、と思う。

 一人になった今、兄との間で交わされたエピソード、私の立場で感じていたことを中心に、私の気持ちを綴って置く。

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実兄死去に際して(1) 70年生きてやっと兄に対して優位に立てた瞬間
実兄死去に際して(2) 小一の時、兄との間で交わした密約
実兄死去に際して(3) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わって成長(1)
実兄死去に際して(4) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わう(2)
実兄死去に際して(5) 障害者になったが常に明るい姿に感じ入った
実兄死去に際して(6) 兄とともに生きられたことに感謝 冥福を祈る
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実兄死去に際して(1) 70年生きてやっと兄に対して優位に立てた瞬間 
 唯一の兄弟である兄、正明が2015年1月8日死去した。享年80歳であった。

 兄と私は11歳違いである。この間には誰も生まれなかった。戦争末期、産めよ増やせよの時流に乗ってその気になったのか、久々に授かったのが私である。
 私の出生のルーツは戦争にあった。そう考えて私は今日本の歴史を学んでいる。

 この大きな年齢差が私と兄の関係に決定的影響を与えた。
 兄はとにかく私が物心つく頃から私の前にそびえる山のような、あたかも岩手山のような大きな存在だった。「ふるさとの 山に向かいて言うことなし・・・」、その通りで、私の人生を通じて一度も越すことができなかった、逃れることも出来なかった兄に対する心境である。

 それが、70年生きてやっと兄に対して優位に立つことができた。そう思ったのは兄の訃報を告げられた瞬間であった。私が兄に対して絶対にしたくなかったこと、あってはならないことと念じていたのは、「弟の私が兄より先に旅立つという悲しみを、病床にある兄に味あわせてはならない」、ということだったからである。

 兄に直接問うたことはないが、私たち兄弟は互いに、その存在を意識し合っていた兄弟であった、と思う。

 本日13日、火葬、葬儀、食事会があった。身の丈にふさわしい規模のいい別れの会であった。火葬直前に見た表情、息子たちが選んだという笑顔の遺影を見て、私は深く感じ入った。

 一人になった今、兄との間で交わされたエピソード、私の立場で感じていたことを中心に、私の気持ちを綴って置く。



実兄死去に際して(2) 小一の時、兄との間で交わした密約
 昭和27年4月、私が小一、兄が高三の時に自宅・医院が火災にあった。11軒が焼け、しばらく「乙部大火」として知られていた火災である。

 我が家は自宅と医院が完全に消失した。そのショックもあって、医師であった祖父はすっかり意気消沈し、兄を後継者にする夢を失い進路変更を認めた。兄も長男である立場上医師になるつもりにはなってはいたようであるが、興味は通信工学にあったようである。
 大学受験を控えていた兄は進路変更を許され嬉々として工学部に鞍替えし、東北大学に進学した。

 消失した自宅も立派に完成し、全てが一段落しつつあったある夜、久々に盛岡の下宿先から帰宅した兄は私を一室に呼んだ。具体的な言葉一つ一つは覚えていないが、「自分は祖父から許可が出たので工学部に進む.自分は長男としてのすべての権利をおまえに委譲する。今後はお前が長男の立場で親をみて、出来れば医師になって家業を継いで欲しい。この話はしばらく内密にしておきたい・・・」、と言う意味のことを述べた。長男であるという自覚は十分にあったということである。

 私にとっては細かいことは分からなかったが、「家族と一緒に暮らせて、この家や好きな生活環境を引き継ぐことが出来る」ことだけでも魅力的だった。私はなんら疑問を持たずにその申し出に同意した。

 今から見れば、こんな重要な話を小学一年の私と二人きりで交わすなど、非常識極まりないと思う。対外的に問題にすれば笑止千万といわれるだろう。しかし、私も兄も約10年間は口に出すことはなかった。また、兄も私も紆余曲折はあったが、生涯を通じてこの時の話し合いを尊重して行動した。兄の死を迎える今日まで、二人の間でこの話の内容に文句をつけたり、蒸し返されることは一度もなかった。
 私にとって、兄もおそらくそう考えていたと思うが、あの夜の約束を守り通したことが、お互いの絆と信頼感を深めていた、と考えている。

 二人の間ではこれで良かったが、地域や親戚の中では通用しない話であった。当時、時代は変わりつつあったと言え、個人より家が、長男が格別に尊重され、年端もいかない次男坊なんて付録のような軽い存在であった。



実兄死去に際して(3) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わって成長(1)
 兄と私の間はの関係は歳の離れた兄弟ということで仲も良く、私は兄を尊敬していた。しかし、地域や親戚の中では二人の密約など通用しない話であった。当時、個人より家が、長男が格別に尊重され、年端もいかない次男坊なんて軽い存在であった。
 
?挫折(1) 長男は正明 私は影の薄い次男坊
 家族間では兄が大学進学のために家を離れ、私と兄の立場が変わっり何れは私が家業を継ぐことことは理屈としては容易に受け止められたが、母や祖父母にはかなり未練を喉していたと思われる。地域や親戚の方々にはなかなか通用しなかった.彼は何時までも我が家の長男であり、私は影の薄い次男坊のままで、長男の立場を果たさんと意気込んでいた私は自尊心をいたく傷つけられた。

?挫折(2)  私立中学で「正明の弟」
 中学は地元の中学校ではなく兄と同じく盛岡市にある私立岩手中学校に進学した。
 この岩手中学は中高一貫校である。11歳違いの兄は同校で学び、優秀な成績で卒業し東北大学に進んだ。兄の友人は東大医学部に進学したこともあって、この高校にとってエポックメーキングな記念すべき年に見なされていた。

 私立学校の教職員は転勤がほとんどなく閉鎖的である。殆どの教師は私は卒業した「福田正明」はまだ記憶に新しく私は「福田正明」の弟としての扱いであった。入学して数日後、私は教頭室に呼ばれた。そこで話されたのは、「正明の弟」として「学校では君に大きく期待している、・・・」と言うことであった。私は兄よりは「鈍」であり頭も良くない。中学に入ってのちもそれだけの成績は示してはいたが、いつも私個人というよりは「正明の弟」として比較されながら見られていることに大きな煩わしさ、不満、プレッシャーに変わっていった。

 中学2年の夏頃、岩手中学の生ぬるい学習環境に嫌気がしはじめ、このまま中高として在籍していては医学部への進学は困難ではないかと感じ始めていた。心の中では中退し盛岡一高に進学する気持を固めた。ちょうどその年に村役場の職員であった父が村長と言い争いが元で突然退職した。私はこの機会を利用、経済的問題が生じたために、という理由をあげて地元の中学に転校した。この話を告げた時の担任の表情は未だに忘れられない。


実兄死去に際して(4) 兄と比較され常に挫折・悲哀を味わう(2) 挫折(3) 長男の結婚
? 
 時満ちて盛岡市の古い料亭を借り切っての結婚式が盛大に??行われた。その結婚式の時の兄の扱いは完全に跡取り息子、長男のそれであり、私なんぞ、実に影の薄い存在であった。
 この頃には私が家督である事は親戚間では知られていたが、この結婚式を機会に私の予想に反して兄の長男としての立場はより堅固になった。私は次男坊の悲哀を更に長く味わうことになる。

?挫折(4) ヴァイオリン購入で兄嫁から責められる
 新潟大学進学後管弦楽部に入部し、ヴァイオリンを購入した。この楽器は当時の私にとっては大冒険であった。大学進学後は兄夫婦は余裕のない生活の中から学資の援助をしてくれていた。この楽器の購入の件に関しては当時からほぼ現在に至るまで兄嫁から責められている。具体的に話題に上ることは年と共に少なくなったが、当時の兄夫婦の生活の大変さを考えれば当然であった。楽器の話題になると私は頭が上がらない。今はただただ兄嫁と兄に頭を下げて感謝するのみ、である。兄は、ヴァイオリンについては一度も話題にしなかった。

?兄は兄嫁の家に養子縁組し道を変えた 
 兄は兄嫁の生家の事業を手伝うために道を変え、盛岡に転居することになる。その経緯は私はほとんど知らない。私はそのころ大学3-4年目くらいであったが、兄が自分の納得のいく生き方が出来るのであれば姓が変わることも含め問題なしと賛成し、新しい道に進むことも祝福した。また、両親のいる盛岡へ兄が戻ってくることは私に取っても好都合であった。
 この兄の改姓によって、私の家督としての立場は周囲にやっと認めらることになった。

?兄は瀕死の重傷を負う
 兄が盛岡に転居してからしばらく経ったある日の夕方、兄は業務でコンテナ車を操作中に、自損事故を起こし、救急病院に搬送された。
 その頃、私は三陸の病院勤務を経て秋田に住んでいた。
 22:00頃、秋田に電話連絡があった。電話の主は兄嫁の姉さんだったと思うが、なかなか話がうまく通じない。解ったことは、夕方に何らかの事故に遭い、救急病院に搬送されたが、命が危ないので直ぐに来て欲しい。もしかすれば到着までに間に合わないかも知れない、ということであった。 

 到着時、兄は死を目前にした状態で横たわっていた。貧血状態、腹部が膨隆、意識も朦朧としており、輸血、点滴は入っていたが血圧は60mmHg以下と厳しい状況であった。  
 病態としては外傷による血管障害か内臓破裂が考えられたが、この状況のままで様子を見ている現状に驚くとともに憤りを感じた。

 私は若い、当直医に面会し、「救急病院として患者を引き受けた以上、こんな対応はあり得ない。今からで良い。死を覚悟で開腹手術し止血を試みて欲しい・・・」旨申し出た。そのときの当直医の迷惑そうな表情は忘れられない。彼は状況を理解できていないと判断、責任者と交渉するよう迫った。
 結果的に部長クラスの外科医を中心に、岩手医大からの応援医2名で夜半過ぎに手術を開始、出血の原因は肝破裂で、8000mlの輸血によって幸いに一命を取り留めた。この輸血に関しては、肝炎ウイルス等の検査が行われていない血液の使用の許可を求められ、私は了承した。約6000mlの未検査血液が輸血された。

 この時の手術の決断に私が寄与したことは確かである。あの時の判断がなければ救命できなかった。勿論、救命には手術を行った外科部長の卓越した技能に負うところが大きい。感謝している。



実兄死去に際して(5) 障害者になったが常に明るい姿に感じ入った
?奇跡的に救命されたが、治療の後遺症で障害者となる
 兄は臨死的状態から奇跡的に助かった。救急病院では患者として受け入れていながら、ろくな判断、対応もせずにいたずらに経過観察し重症化させてしまった。手術にはあの時間がラストチャンスで、助かる可能性は極めて少なかった、と思う。
 外科医たちの卓越した技術、未検査血含め8000mlの保存血を使用できたことで、幸いに一命を取り留めた。

 兄は救命のためには欠くことができなかった未検査血輸血によりC型肝炎を発症した。各種の肝庇護剤が使用されたと言うが効果は乏しく、ステロイドホルモンの長期治療が行われた。この副作用による右側大腿骨頭壊死を発症、下肢機能不全で身体障害者となった。初期は松葉杖を必要としたが数年後はなんとか歩行できる状況になったようである。

?兄の明るく生きる姿勢に感心
 骨頭壊死の状況判断と対応を求めて発症数年後に秋田大学整形外科を受診した。結果は回復不能との厳しい判断が下された。兄はそれまでの経過と過程の中で覚悟はでできていたのであろう。表情からは大きなショックを受けたようには思われなかった。

 兄は大学進学直前に自宅が火災にあったために医師への道から通信工学の道に進んだ。さらに見込まれて養子縁組までして商家へ道を変えたのであるが、この自損事故、後遺症のためにそれも継続できなくなった。
 大きな転機が彼の人生を変えてしまったが、その辺のことは私は詳細を知らない。

 仕事に関して私が知っている範囲では、再びエレクトロニクスの分野に戻り、盛岡の企業で働いていたようである。私は会うたびに明るく生きる兄の姿に感じ入った。

 最近まで兄嫁も働いていた。多分、家計的には余裕はなかったと思うが、金融機関の経験のある兄嫁はやりくりのプロと言っていいのだろう、息子3人を立派に育て上げた。私は学生時代に学費の援助を受けた大恩があるためにバックアップの心づもりをしていたが声がかかることはなかった。

年に一回、墓参りで会う
 兄一家が盛岡に引っ越してからは私は秋田に住んでいた。隣県にいると言っても私自身が郷里を訪れるのは毎年盆に墓参りする時のみと言ってよく、墓参は双方の家族の定期的行事にな30年近く続けてきた。
 我が家の子供達も、叔父である兄からいろいろ影響を受けただろう。彼らの兄を見る目は総じて暖かい。

 不自由な体になっても墓参り行事もそれは最近まで続いた。
 約10年ほど前からは、兄は肺機能不全にて在宅酸素療法を行っていた。加えて加齢による衰弱もあり、ここ数年は寺まで来ても駐車場で待つ身となった。さらに、ここ何年かは兄一家とは墓参の時間調整ができず、寺で会うこともなくなった。その後は私の方が墓参の度に兄宅を訪問して短時間親交を温めてきた。



実兄死去に際して(6) 兄とともに生きられたことに感謝 冥福を祈る
 ?昨年、「互いの死亡時には最小限連絡だけはし合う」と確認
 昨年のお盆、私は墓参りの後、秋田に戻る途中でいつものように兄宅を訪問した。この時の会話が最後になった。
 兄の様子は加齢による体力の低下の様子は認めたが、まだ酸素を吸いながらベットから離れることもできた。もっと弱っているかと思ったが、一昨年の印象と大差ない状況に見えた。短時間の面談の範囲ではボケの症状も感じ取ることは出来なかった。

 交わされた話題の中で、兄嫁は「あと数年は生かしたい。生きててほしい・・」と述べた。私は兄本人の気持ちを確かめた。通常、高齢になると別な返事をするものであるが、「自分としても生きたい・・」と明るい口調で述べた。その時の表情に私は感じ入った。通常は夫婦二人の生活で、ヘルパーの援助はあると言え、不自由な体と呼吸障害を抱えた80歳の病人のケアは大変なはずであるが、兄嫁との生活に満足しているからこそ発すつことができる言葉である。

 最後に二人で並んで写真を撮った。二人とも髭面で満面笑みをたたえており、年齢差など分からない。記念すべき一枚となった。

 約30分後、「来年の再会」を期して兄宅を辞した。最後に互いに病気を抱えている身であるので、「互いの死亡時には最小限連絡だけはし合う」ことだけ確認した。これが最後の別れの言葉になった。

 兄は肺炎を併発したのであろう、1月8日に死去した。

兄とともに生きられたことに感謝 長い間ご苦労様
 兄の死去を機会に弟の私から見た兄の姿、兄に対しての心情を綴ってみた。

 私どもは二人兄弟であり、年齢差が11才あった。この年齢差が二人の結びつきを堅固にしたように思う。さらに、彼が高校三年生、私が小学一年の時に交わした約束は私の立場からみて勝手すぎる約束だ、と思ったこともあるが、二人の間では一度も蒸し返すことはなかった。

 兄の人生は私よりは波乱に満ちていた、と思うが、一度も愚痴らしい話は聞いたことはない。常に明るかった。
 私は、社会的は恵まれた道を過ごしたが、たまたま運が良かっただけ。本心とはかけ離れたコースであったが、自分としては厳しく辛い日々でもあった。壁に当たった時に、挫折しかかった時に、ふと思ったのは語られることのなかった兄の心境であった。比較など到底できないが、私より遥かに厳しかったことだろう、と思い、私は生きるための教科書として参照してきた。兄にとっても私の存在は生涯を通じて小さくなくなかった、と思いたい。

 私が、兄の訃報を聞いたとき最初に思ったのは「私が先に逝く悲しみをあじあわせなくて良かった、これで恩の一つは返せた」、であった。
 兄とともに生きられたことに感謝し、「長い間ご苦労様でした」と霊前に語りかけた。








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