於 サンパル秋田
「安楽死と尊厳死〜良い死を迎えるために」(要約)
講師 中通総合病院 副院長 福田光之氏
医者としてなすべきことは、ひたすら病気を治すことではなくて、患者さん一人一人の人生を医療の面からどう支えてあげられるか、ということではないかと思います。患者さんが望む生き方のために、もし患者さんが健康面や医療面で困った時に、どうすれば解決できるかを一緒に考えて、手伝ってあげる、ということです。
私は、幼少の時極めて病弱でしたし、医師である祖父の往診に同行し、垣間見た村人の死や家族の死を通して感じるものが多々ありました。また、その頃に村の人々からかけてもらった温かい言葉や期待が私を医師にしてくれたとも言えます。そして医師になってからも患者の病気や死にかかわりながら、自分自身の人生観、死生観が形作られてきました。
私たちにとって、少し前までは家族の死や隣近所の人の死は今よりずっと身近でした。しかし、今は大部分のヒトは病気になれば入院をし、更に死が近くなると個室に隔絶されます。その結果、病気や死は身近な親族にとってさえより遠いものになってしまっています。特に今の若い世代にとっては生老病死、特に死はドラマの世界のこと、ニュースでの事件の報道の中のこと、パソコンゲームやたまごっちの世界のこととなって、実感の伴わない観念的なことになって軽いイメージででしか捉えられなくなってしまいました。
死は決して怖いものでも苦しいことでもなく、迎えるべき状況にある人にとって死は「平安」「安息」であり「救い」なのだと思います。私たち日本人は誰しも例外なく必ず迎える死についてもっと勉強し、考える必要があります。誰にも避けられない死なのだから、どうしたら良い死を迎えられるかを学ばなければなりません。さんざん苦しんで地獄の思いを味わって死ぬ必要はありません。だからこそ、もっと論議をしなければいけないのです。でも日本ではなかなかこの論議が盛んになりません。
尊厳死とは、人間としての尊厳を保ったままで人生をまとうし、良い死を迎えるということで、その目的のために回復の見込みのない状況で苦痛のひどい状態では、その苦痛を最大限にとってあげる必要があります。私は尊厳死とはなんら特別のものでなく、誰にでも考慮される普遍的なものと考えます。
安楽死は臨死状態のヒトを「激しい疼痛、苦痛」から解放するという目的のもとに、意図的に迎える死、ないし、そのために意図的に行われる「死なせる」行為、と定義されますが、一口に安楽死と言ってもいくつかに分けられます。
安楽死の分類の一つとしてを「純粋安楽死」「間接的安楽死」「消極的安楽死」そして「積極的安楽死」と分ける考え方があります。このうち最後の「積極的安楽死」は「殺害的安楽死」に相当するもので人為的に死を迎えさせるものです。これはたとえ苦痛を取り除くという理由があっても、わが国では認められてはいません。これに関して過去に大学の付属病院などを始めとしていくつかの訴訟も起こっています。
安楽死を是と主張する意見に対しても、「不治の病気に限定すると言ってもいつか難病にも及ぶのではないか」「人を殺すのに倫理的な方法というものがあるのか」「苦痛の軽減と言っても、精神的苦痛というのは主観的訴えに頼らざるをえないので、自殺の容認、生命軽視になりやすい」「家族の介護の大変さや経済の問題が安楽死の問題とすり替えられるのではないか」などとして強固に反対する意見もあるのです。
他の国の安楽死の現状をみてみます。オランダでは2001年に安楽死法が成立し、年間2000〜3000人もの人が医師の手によって薬物で安楽死していますし、ベルギーも安楽死法が2002年発効しました。スイスには安楽死法はありませんが、医師や弁護士のチームが判断に当たっています。日本との違いはそれぞれの国の国民性や文化や歴史によるものです。
これらの諸外国における安楽死や尊厳死についての解釈が日本に当てはめることが出来るかというと決してそうではありません。宗教観を含めて文化的土壌が全く異なるからです。まず、わが国は「誰もが公平に高度な医療を受けられる医療福祉制度が確立している」と言う状況にはありません。それに、日本の医療はまだまだ密室性が高く、残念ながら「信頼性の高い医療」と認められているとは言えない現状があります。また、先にあげた諸外国は「個人主義が徹底」されていて、家族の価値観が個人の意思より優先される日本とは全く風土が違います。もうひとつ、わが国の死生観、人生観、個人主義観、健康観等についてもまだまだその教育は普及しておらず、死への不安感、恐怖感ばかりがあります。この様な状況では現実からの逃避として死の選択もあ得るわけですから、安易に安楽死を論じるべきではありません。
今の日本で出来ること、やるべき事は、自分の人生は自分が主役で自分で設計するものであること、現状では医療には一定以上期待できないのだから過度な期待はしないで、自然にあるがままに生きる、などということを日頃から考えておくことです。また、死は人生にとって何れ来るべき「安息」であり「休息」ととらえることも必要でしょう。死をいたずらに恐れるだけでなく、何れ誰にでも来る死を迎える覚悟と準備をしておくことが大切です。日本では死は自分にとって人生最大の重大事だと思われていますが、自分にとってと言うよりは、周りがどう受け止めるかが重要なのです。だから、元気なうちにまわりの人に自分はどう死にたいかを話したり書き残して置くこと(リビング・ウィル)も良いことです。そして尊厳死について話を聞いてくれたり、その考えを理解してくれる医師との出会いも大事になってきます。尊厳死協会の活動などもいいことだと思います。自分の死に際は自分で決めて日ごろから家族やかかりつけ医とも話し合っておきましょう。
この世に生を受けたからには、よい人生や楽しい人生を送り、逝くべき時期には良き旅立ちをしたいものです。