秋田県医師会副会長 福田光之
(1)はじめに
「月経の初日から10日間は、まず妊娠は無いと考えられる。そこで、放射線検査やワクチン注射など、胎児への安全性が確認されない医療行為は、この10日間に行うことが望ましい」というのが『10日ルール』である。放射線検査における『10日ルール』は、医療で用いる放射線被曝量が少ないために、80年代半ばに事実上取り消された。
筆者は産婦人科領域を専門とするものではないが、県医師会感染症等危機管理担当の立場で、妊娠とワクチンとの関係について、特にインフルエンザワクチンを中心に、『10日ルール』の意義も含めて概要を述べる。
(2)妊娠とワクチン
妊娠とワクチンの関係について、わが国では従来の予防接種実施規則においては妊婦には何れのワクチン接種も禁忌とされてきた。わが国ではこの時の考え方が医療関係者の間でも未だ根強く残っている。
1994年の予防接種法改正で従来の接種禁忌者は予防接種不適応者と接種要注意者とに分けられ、やや柔軟に対応できる様になった。不活性化ワクチンは妊娠中でも接種可能であるが、医療現場の理解はまだ十分でない。その主たる原因として予防接種について関心を持って勉強している臨床家が少ないことであるが、添付文書が医学的、疫学的にみて全く実態に即さない、責任回避的立場からワンパターンに記載されていることもその一因である。添付文書の在り方は見直されなければならない。
(3)生ワクチンと不活性化ワクチン
まず、ワクチンはウイルスそのものを種々の方法で弱毒化した生ワクチンと、ウイルスを完全に不活性化し免疫原性のみを残した不活性化ワクチンとに二大別できる。従って接種するワクチンの種類によって妊婦に対する対応は二大別される。
生ワクチンの場合は原則的に禁忌
風疹、麻疹、ムンプス、ポリオ、水痘等は生ワクチンである。これらは弱毒化されているとはいえウイルスが体内で一端は増殖するため、ウイルスが胎盤を通過する可能性を否定できない。だから、生ワクチンは妊娠期間を通じて当然接種禁忌となる。生ワクチンの能書には接種不適当者として「妊娠していることが明らかな者」と記載されている。
「風疹ワクチン」については、特に先天性風疹症候群が生じる可能性があるために、その能書には接種上の注意として「妊娠可能な婦人においては、予め約一ヶ月間避妊した後接種すること、およびワクチン接種後約二ヶ月間は妊娠しないように注意させること」と指導に関する厳密な記載が追記されている。しかし、他の生ワクチンの能書にはこのような注意書きはない。
妊娠が分かっている状態では原則的に生ワクチンは接種すべきではない。しかし、医療上の判断は必ずしも絶対的ではなく、時には利益と不利益を勘案しながら相対的に判断しなければならない。麻疹、ポリオについては流行地への渡航の必要がある場合や、抗体のない妊婦の家族が感染した場合などは、妊婦が感染する恐れが強い。このような場合、ワクチン接種により著しい障害を来たさないと予想される場合には接種の対象となる。
水痘は妊婦が罹患したとしても先天奇形発生のリスクが少なく、通常は妊婦は接種の適応にならない。ムンプスも同様とされている。
生ワクチン接種後のウイルス増殖、抗体産生には1−4週必要とされる。従って『10日ルール』を適応しても意味はない。ただし、生ワクチン接種後の約二ヶ月間は妊娠しないよう指導するのが良いと考えられる。
不活性化ワクチンは接種可能
不活性化ワクチンの場合には体内でウイルスが増殖することはあり得ないから感染は成立しない。そのために能書の接種不適当者に妊婦という項目はない。
乾燥組織培養不活性化狂犬病ワクチン、組換え沈降B型肝炎ワクチン、インフルエンザHAワクチンなどの添付文書には「妊娠中の接種に関する安全性は確立していないので、妊婦または妊娠している可能性のある婦人には接種しないことを原則とし、予防接種上の有益性が危険性を上回ると判断される時のみ接種すること」と、一律に記載がある。インフルエンザワクチンに関して言えばもう完全に実態とかけ離れている。
不活性化ワクチンは必要があれば妊婦に何時でも接種可能であるが、実際にワクチンを何時接種すべきかは問題となる。必要性が相対的に高い時には全妊娠期間中接種可能であるが、在胎13週以内の妊娠初期は種々の原因で流産する可能性が高いので、この時期の接種は控える方が良い。因果関係は不明であっても、不要なトラブルの原因になりうるからである。この時期に接種する場合には十分な説明の上で接種すれば良いが、可能であれば接種時期を遅らせて在胎14週以降に接種するのが望ましい。
不活性化ワクチンにおいては当然『10日ルール』を考慮する必要はない。
(4)妊婦とインフルエンザワクチン
インフルエンザHAワクチンは上記の如く添付文書上では原則禁忌となっているが、実際には接種の危険性を示唆するエビデンスは得られておらず、妊娠中の接種は安全と考えられている。妊婦がインフルエンザに罹患した際に肺炎等の合併症の危険性が高いとされており、インフルエンザによる妊婦の入院リスクは約5倍とも言われている。更に、重度の合併症を生じた際には、疾患そのものの影響の他、その治療に抗インフルエンザウイルス薬などの薬剤を用いた場合、薬剤が妊娠に及ぼす影響の懸念も深まっていく。だから、妊婦はむしろ積極的にワクチンを接種すべきと考えられている。妊娠している医療関係者は特に感染の可能性が高いので特に適応となる。また妊娠を希望する婦人は流行前に接種を受けておけば良い。
以上が現状での医療上の判断である。添付文書とは逆で、妊婦にはインフルエンザワクチンの接種を積極的に勧めて良い。添付文書の方に問題がある。
インフルエンザワクチンの接種を受ける時期は不活性化ワクチン接種の原則と何ら変わることはない。
(5)ワクチン接種後に妊娠が判明した場合にも心配は不要
前述の疾患のうちで風疹以外は、例え妊娠中に感染したとしても胎児に催奇形等の異常を来す可能性は低い。したがって、弱毒化した生ワクチン接種後に妊娠が判明したとしてもウイルスの量、病原性から見て胎児への影響はまず無いと考えられ、実際にそのような例の報告もない。
風疹ワクチンの場合には接種後に胎児に感染したという報告はあるが、先天性風疹症候群が発症したという報告はない。従って、例え、風疹生ワクチン接種後に妊娠が判明したとしても妊娠中断を勧める理由にはなり得ない。
インフルエンザワクチン等の不活性化ワクチンの接種後に妊娠が判明したとしても何ら問題はなく、妊娠中断を勧める理由にはなり得ない。
(秋田医報No1256号 2006/6/15掲載)