腸閉塞体験記
私は2012年10月中旬、自転車で交差点を右折時に不注意で自転車の高校生と接触した。スピードが出ていたのですぐには転倒せず、右に大きくカーブしながら90度曲がったところで車道と歩道間のブロックに前輪を引っかけ、はずみで外側の歩道に投げ出された。左半身中心に全身を強打したが頭部や手足は何ともなかった。転倒時、よく大怪我しなかったものと、思い出す度に冷や汗ものである。その際、かなりの衝撃だったから、かなり強い腹圧が一瞬かかった、と思われる。 10月14日、不明の腹痛が生じたが経過を見ていても改善なし、翌日の受診で腸閉塞と判断された。入院3日目に全身麻酔下で腹腔鏡による腸閉塞修復手術を受けた。入院10日、術後8日目で許可を得て退院した。 詳細は不明であるが、先天性と思われる腹膜の欠損?に小腸の一部が嵌頓したための腸閉塞だったらしい。自転車の激しい転倒と全身打撲と腸閉塞発症との因果関係は多分あるのではないか?と今にして思う。その頃から右下腹部のヘルニアが増悪し始めた。 以下に腸閉塞の体験、その間の思考、療養生活の一部をまとめた。 |
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目次
腸閉塞体験日記(1)症状発現から入院まで
2012年10月14日 03時57分42秒?|?近況・報告
腸閉塞体験日記(2)入院から手術まで
2012年10月15日 14時02分09秒?|?近況・報告
腸閉塞体験日記(3)ヒゲよさらば 手術室入室からICUを出るまで
2012年10月17日 02時30分41秒?|?近況・報告
腸閉塞体験日記(4)怪我人、病人とは何か、患者とは何か?
2012年10月20日 05時28分04秒?|?医療、医学
腸閉塞体験日記(5)患者とは何か?(2)「病魔からの攻撃に耐える人」
2012年10月21日 11時41分09秒?|?医療、医学
腸閉塞体験日記(6)患者とは何か?(3)「医療関係者の攻撃に耐える人」
2012年10月22日 16時31分30秒?|?医療、医学
腸閉塞体験日記(7)入院雑感(1)
2012年10月23日 12時48分45秒?|?近況・報告
腸閉塞体験日記(8)入院雑感(2)接遇・名前確認など
2012年10月24日 03時41分30秒?|?医療、医学
腸閉塞体験日記(9)入院雑感(3)自宅療養期間を短縮する
2012年10月29日 13時30分27秒?|?コラム、エッセイ
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腸閉塞体験日記(1)症状発現から入院まで
2012年10月14日 03時57分42秒?|?近況・報告
10月13日早朝から上腹部痛と通過障害?と思われる自覚症状が出た。
ここ数日来、単純ヘルペスが口唇に出て微熱感があるなど若干体調が良くなかったこともあってそのための消化管機能障害か?と考え、何時もの如く絶飲食で経過を見た。
通常なら一日程度で快方に向かうのであるが今回は改善の兆しがない。胃が全く消化排出機能を失ったような感じで過伸展している様子である。胃にかかっている負荷を減ずるために午前午後と2回自ら嘔吐してみたがそれでも改善乏しい。
この時点での状況をまとめると、
■上部消化管の機能的閉塞はあるだろう、
■症状が乏しく、少なくとも腸閉塞ではなさそう、
■排ガス排便は通常、
■自然嘔吐無し、
■腹痛無し・・で「機能的な上部消化管閉塞状態が疑われる、
■自然治癒の可能性はあるだろうが全身的に見てこのまま経過観察では脱水が進行して危険、
■さりとて急性腹症ほどの緊急性もない、
■症状が続けば翌日に救急受診とし、終日だらだらと過ごした。
この間摂取したのは口を潤す程度のミネラルウオーター50mlほどだけ、尿量は減少し始め、体重は一気に3Kg減少した。思った以上の脱水であろう。
10月14日自覚的に悪化傾向はないものの改善傾向もない。
救急外来を受診し、症状に応じた一般検査施行した。検査結果は強度脱水、レントゲン検査は私自身の予測に反して明らかな腸閉塞の像であった。
続いてCT検査を行った。所見は、
■トライツ靱帯付近に空腸の壁肥厚を伴う閉塞病変、
■過去の手術との関連、悪性疾患の有無については不明、
■空腸に虚血病変はないが口側空腸に浮腫、と言う所見であった。
救急外来でNGテューブ挿入した時点で廃液600ml、入院後も同僚の廃液があった。外科グループが担当となったが、緊急手術を要する状況とは判断していないようで、補液2000ml開始された。NGテューブで上部消化管が有効に減圧されたためか胃の膨満感、圧迫感は大きく軽減した。
高齢者の腸閉塞は悪性疾患に伴うのが多いが、CTにて閉塞付近に不明の腫瘤陰影はなさそうで若干安堵した。
腸閉塞体験日記(2)入院から手術まで
2012年10月15日 14時02分09秒?|?近況・報告
10月15日、経鼻胃管挿入後かなり自覚症状は改善した。体動時の経鼻胃管の刺激はかなり強く、鼻・咽頭部は辛いが、やむなし。廃液は入院当日4100ml、尿量250ml。CTにて閉塞付近に不明の腫瘤陰影は否定的であったが胃がんは否定しておく必要がある。午前に上部消化管内視鏡検査を受けた。結果は胆汁性胃炎、噴門部の線状潰瘍のみであった。
10月16日、自覚症状は殆ど無かったが、血圧は90/50程度と低下し、データ上でも脱水はむしろ悪化した。その後、点滴は尿量を勘案しながら3.5Lから5.5L以上に増やされたようである。入院翌日の廃液は2500mlであったが、尿量は徐々に増えて1500mlであったから脱水状態からは脱し得たようであった。
明日手術と告げられる。手術は全麻下でまず内視鏡的に腸閉塞の修復を試み、不可あるいは困難であれば開腹手術に移行する、とのことであった。
手術が決定した時点で主治医は今月一杯は休業すべしとの意向であった。過去のアキレス腱断裂修復手術、膀胱頸部硬化症手術の際には如何に業務を休まないで過ごすかを考えたのであるが、今回はかなり消耗した上に全麻手術になるので、素直に受け入れることとした。 嘱託医と言う立場だし、歳をとって気力も乏しくなった、と言う事だろう。診断書には25日退院、31日まで自宅療養、11月1日から職場復帰可能であると記載されていた。
通常の外来診療、大曲の外来は内科医師グループで代行して戴くうこととした。問題は10月18日の社会福祉法人連絡協議会での「院内感染関連の講演」であったが、事実上不可能であり、その旨連絡して戴いた。会の方から代理に関しての問い合わせがあれば2,3候補は推薦出来たが特に対応は求められなかった。10月29日の看護学校の講義は2週遅れで行う事とした。
上記のごとく業務上の整理がつき、療養に専念することとした。
腸閉塞体験日記(3)ヒゲよさらば 手術室入室からICUを出るまで
2012年10月17日 02時30分41秒?|?近況・報告
ヒゲよさらば:
全麻とすれば約一年間伸ばしたヒゲが邪魔になる。気管内挿管のテューブを固定できないからである。剃らなければならない。
私にとって重要な会であった昨年の10月22日の秋大第三内科同窓会を最後に対外的、対社会的行事には一切参加しない予定でいたので、私は嫌いなひげ剃りの要がなくなった。
手術当日の朝行きつけであった院内の理髪店に依頼して病室で剃毛した。 1年間の蓄積は10分間で消滅した。当初は剃るのが嫌だっただけで伸ばし始めたのであったが、伸びるにつれてどんどん容貌が変わっていくのが面白かった。カミソリもハサミも一切入れたことがなかったから恰好は最悪であったが、私は楽しんでいた。不思議なのは、くち髭、あご鬚、ほほ髯共にバランス良く伸び、食事などに邪魔にならない様に伸びる方向が決まっており、食事等の邪魔に一切ならない事であった。上手くできているものと感心した。本日以降、再びヒゲを剃ることは無いだろう。
手術室入室からICUを出るまで:
10月17日15:20車いすにて手術室に入室。前回挿管に手こずったこともあって今回は前投薬は手術室で行われた。これ以降直ぐに意識を失ったから以後のことは全く不明。18;00手術終了の声かけあり、ICU入室。
主治医グループによる説明は、
■内ヘルニア、
■内視鏡下腸閉塞解除、
■裂孔縫合、
■癒着剥離、であったように記憶している。
開腹にまで至らずに閉塞が解除されたとのことで安堵した。これで術後はかなり楽に推移するはずである。半ば開腹を覚悟していただけに、主治医グループの技能に改めて感謝した。
入室後数時間は眠ったようであるが夜半からは覚醒、時間をもてあました。病棟から書籍とラジヲを取り寄せ、読み・聞き・微睡と繰り返しつつ転出を待った。手術直前まで経鼻胃管を通じて続いていた廃液はゼロだったから、通過障害が解除された事が実感された。
前回もそうであったが、今回も口渇がひどく口を潤す水分が欲しくなった。恐らく、大量の酸素が吸入されているためもあろう。氷のかけらを求めたら応じてもらえた。経鼻胃管が入っているため水分負荷にはならないはずである。転室まで数回もらった。ただ、氷片は頬張るには大きすぎる。小さくなると誤嚥が心配になる。アイスキャンデーの如く棒が付いた氷が欲しいものである。
静かな一夜であったが満室だったという。 ICUは喧噪なものと思っていただけに驚いた。9:00頃からスタッフの出入りが急に増え、転出・転入準備業務でスタッフ間で大声も飛び交い、一気に喧噪となって私のイメージに一致した。11:00病棟に転出した。
腸閉塞体験日記(4)怪我人、病人とは何か、患者とは何か?
2012年10月20日 05時28分04秒?|?医療、医学
私は10月中旬、自転車で転倒、「怪我人」となった。大きな外傷は無かったがいまでも左胸痛が続いている。
その数日後に腹部症状をかかえた「病人」となり、受診・入院によって「患者」となった。病気そのものは内ヘルニアによる腸閉塞で腹腔鏡的修復手術にて改善した。幸い経過は良好で今のところ困るような後遺症状はなさそうである。
入院すると非日常的生活になる。経過が良く自覚症状が乏しいと見・聞・読・観・考に使える時間が豊かになる。それで、徒然なるままに「怪我人」、「病人」、「患者」とは何んなのか、と考えてみた。
これらの三者は辞書的な意味で言うならば極めて簡単である。
即ち、 「怪我人」と「病人」は、何かしらの外傷や病気を持っている人のことを指す。傷病者ともいう。傷病者が専門の医療関係者の診断や治療、助言を受ければ「患者」になる。更に受ける医療によって患者の立場は変わってくる。通院や在宅医療は主役はあくまでも患者であるが、入院すれば主役は患者なのか医療機関なのか、医療制度なのか、バランスが微妙に変わって別の意味でも患者になる。受ける医療によって同じ患者でも別な意味の患者になってしまう。
人は社会的存在である。個々の人は社会的メリットを享受する一方、社会人としての義務を果たす必要がある。わが国では国民皆保険制度、福祉制度が高度に発達しており、社会の仕組みから逃れて存在することは極めて困難である。
だから、傷病者,患者のことは社会的立場からも考える必要がある。
社会学的立場に医療の分野にが関わってきたのは、社会保障の制度が出来はじめたたかだか1世紀ほど前からとされている。しかし、農耕的文化の中で社会を営んできたわが国においては各々のコミュニティの中における傷病者の立場、それを援助する立場は古い時代からあったと考えられる。
社会人として、人は社会で享受しているレベルに応じた役割を果たすことが求められる。傷病者は社会的義務が軽減ないしは免除される代わりに、医療関係者の助言等を得て治癒を早める社会的義務を持つ、とされている。医療は、傷病者個人、医者と患者という個人間の関係だけに止まらず、患者は社会的義務と巨大な医療組織との間にサンドイッチ状態の中にはめ込まれる。これによって、患者の立場はきわめて弱くなるのだが、多くは傷病者の直りたいと言う意欲と一致するから余り大きな問題にはならない。
コメント
腸閉塞体験日記(5)患者とは何か?(2)「病魔からの攻撃に耐える人」
2012年10月21日 11時41分09秒?|?医療、医学
私の手元には簡単な辞書しかないが、国語辞典で「患者」を引いてみれば、一行「(医師から言う語)病人」とあるだけで素っ気ない。和英では、 病人はa sick person、患者はa patientである。
Collage Crown英和時点で「patient」を引いてみると以下の如くである。
1 しんぼう強い、しんぼう強そうな、がまんできる、根気のよい,勤勉な、持続的な
2 許す 許容する
3 (医者にかかっている)病人,患者 受動者.
1 、2に関して例文等もあり18行も記述、3についてはたったの1行だけである。語源辞典とか広く引けば由来等が分かるかも知れないがそんな機会は得られないだろうから推論する。1と2は古くから使われ続けてきた日常的言葉であろう。3は近年,医療が発達してきて以降に「(医者にかかっている)病人」の意味で用いられる様になった?と推定出来る。
何で患者にpatientと言う文字を当てたのか興味深い。当然、「病魔と闘っている辛抱強い人」という意味で当てられたのであろう。そう言う意味では良い文字を当てたものである。
病魔との関連については東大第一解剖学教授で若くしてガンで逝った細川宏氏(1922−1967)の遺稿集の冒頭を飾る「病者(ペイシェント)ーPatients must be patientー」という長い詩に的確に表現されている。英語部分はこの詩集の編者は「患者は辛抱が肝心」と訳している。日々次々と襲いかかってくる病魔の攻撃、迷い、悩み、疲労困憊する患者,不安の心理が綴られている。
知ったかぶりして細川氏について紹介したが、今回私の入院を知ったある若き女医さんが、「お暇なら・・」とソッとベッドサイドに置いていった本とDVDの中の一冊である(小川鼎三ほか編 詩集病者・花 小川宏遺稿集 現代社 1977)。私も早速一冊購入した。この種の書籍の購入は私にとって初めてであるが、この巻頭の長編詩「病者」に動かされた。
患者の悩み,入院患者の心理を綴ったもう一作に遠藤周作氏の「満潮の時刻」も参考になる。この作品はご自信が37歳の時に体験した結核の再発による入院生活を基に書かれたとのことでいろいろ参考になる。途中ではいろいろな考えが頭をよぎり,時には主治医を恨んだりしたが、最後は「多くの人が自分の治療に総力をあげてくれる。感謝に堪えない」と言う心境に達して退院する(新潮文庫 2002)。この作品は作者の死後に出版された作品でそれほど知られていない。しかし、私はもっと読まれてしかるべき作品と思っている。
腸閉塞体験日記(6)患者とは何か?(3)「医療関係者の攻撃に耐える人」
2012年10月22日 16時31分30秒?|?医療、医学
何で患者に「耐え忍ぶ」と言う意味のpatientと言う文字を当てたのか,とても興味深い。当然、「病魔と闘っている辛抱強い人」という意味で用いられたのであろう。
私は患者が堪え忍ばなければならない相手は病魔だけでない,実は医療機関、医療関係者からの攻撃にも耐えなければならない存在なのだ、と言うことに興味があってかつて調べてみたことがある。
医聖ヒポクラテスは医の倫理について言及しているが、医療の聡明期である紀元前400年頃から患者は「病魔と闘う」だけでなく「医療関係者の攻撃に耐える人」と言うもう一つの側面があったことを読み取ることが出来る。
よりよい医師患者関係のために、貝原益軒等、多くの著名人が提言しているが、それは医師患者関係には問題が常にあったことの証明でもあるが、提言はあくまでも倫理観の強い一部の医療者側から発せられた諫めであった。
受療者からまとまった動きが形として見られる様になったのは、1972年に米国病院協会の「患者の権利章典に関する宣言」を嚆矢とする。
患者の権利がはっきりと語られ始めたのは意外と新しく、まだ半世紀しか経っていない。最も医師患者関係がオープンで良好であったと思われた米国で台頭してきたのは驚きであったが、半ば当然でもあった。当時の日本はまだパターナリズムの時代であって、「患者は一方的に医師に支配されてきた弱者」で声も出せない存在であったからである。
1981年世界医師会総会は「患者の権利に関するリスボン宣言」を発表した。以下の11項目からなる(表現は改変し短縮した)。
■良質の医療を受ける権利、
■選択の自由、
■自己決定権、
■意識喪失患者の権利、
■法的無能力者の権利、
■患者の意思に反する処置・治療の拒否権、
■情報に関する権利、
■秘密保持に関する権利、
■健康教育を受ける権利、
■尊厳性への権利、
■宗教的支援を受ける権利。
これらの項目で、患者側からみて権利が大きく侵害されて来ていたことを示す。
やはり、患者とは「医療関係者の攻撃に耐える人」でもあったと言うことである。
この「リスボン宣言」に日本医師会は棄権した。その背景は以下の如くと推論できる。
■まだ日本の医師患者関係はパターナリズムで、日医執行部の頭も固かった、
■医師・医療関係者は業務上で多くの権利を有しているが、その自覚が乏しかった、
■有資格者・有識者の多くは患者側から発せられる権利・義務という言葉に強いアレルギー感情を有す、
■自分たちは奉仕の精神で、自らを犠牲にして医療を行っているのだ、と言う高邁な意識にあった。
従って、当時の日本の患者は米国の患者に比し、一層の忍耐を強いられてきた、と言える。現代の日本の患者は随分恵まれていると思う。
今回の10日間の入院生活で、病院とか医療関係者から何らかの「攻撃」を受けた、と言う感覚は私には一切ない。あえて言えば、求められるちょっと厳しい病院の規則、それに対する同意、ちょっと逸脱した希望を出した際の対応法、苦しい中で読む気にもならない分厚い説明文・・、程度だろうか。
ただ、私は長くこの病院のスタッフであったから、と言う事情は大きいから一般論とはなり得ない。もし、他の病院に入院していたらどうだったのだろうか。別の受け止め方をしていただろう、と思う。
腸閉塞体験日記(7)入院雑感(1)
2012年10月23日 12時48分45秒?|?近況・報告
ついに本日午後退院した。診断書上の予定退院日は25日であったが、経過が良いこともあって繰り上げ退院である。
■発症から退院までのミニ総括
受診前の1日半こそ上腹部の通過障害に由来する症状があったが、入院後から手術までの2日間は経鼻胃管による減圧が奏功し症状は殆ど消失、入院3日目に全身麻酔下で腹腔鏡による腸閉塞修復手術を受けた。
麻酔から覚醒した後も全く疼痛もなく、術後4日目から流動食から始まり、一日ごとに三分、五分、七分粥、全粥と徐々に食事内容が固形化してたが、腹部症状全くなし。
術後4日目ほどから自分としては体力気力共に退院可能状態と感じたが、腸管の浮腫とかの改善のためにも一定の時間が必要、と言うことなのだろう。主治医グループは食事による合併症の発症について慎重に経過観察している、と理解しじっと時期を待った。
経過が良かったためか処置も検査も無く、主治医グループとの対話数分、看護師チェック数分、三食摂るのに10分ほどだけだったから、時間を有効に用いることが出来た。
入院10日、術後8日目で朝全粥、昼から普通食となり、許可を得て退院した。
関係された全スタッフに感謝である。
■ダブルの「不幸中の幸い」で済んだ幸せを噛み締める
詳細は不明であるが、先天性と思われる腹膜の欠損?による小穴に小腸の一部が嵌頓したための腸閉塞だったらしい。病変部の小腸に浮腫はあったものの血流障害等による強い障害は無かったらしく、腹腔鏡下で修復出来たと言うことで、全経過とても幸運であった。
私は10月中旬、自転車で交差点を右折するために走行中に不注意で自転車の高校生と接触した。スピードが出ていたのですぐには転倒せず、右に大きくカーブしながら90度曲がったところで車道と歩道間のブロックに前輪を引っかけ、はずみで外側の歩道に投げ出された。左半身中心に全身を強打したが頭部や手足は何ともなかった。その際、かなりの衝撃だったから、かなり強い腹圧が一瞬かかった、と思われる。
このことと腸閉塞発症との因果関係は多分あるのではないか?と今にして思う。転倒時、よく大怪我しなかったものと、思い出す度に冷や汗ものである。
ダブルの「不幸中の幸い」で済んだ幸せ、をじっくり噛み締めながら退院した。
いい歳してちょっといい気になっていた。これが転倒の遠因である。これからも通勤時を中心に自転車には乗る積もりであるが、背伸びすることなくスピードを控え、慎重に走ることとする。
腸閉塞体験日記(8)入院雑感(2)接遇・名前確認など
2012年10月24日 03時41分30秒?|?医療、医学
■看護師達の接遇 余りにも丁寧すぎて気恥ずかしい
今回は約5年ぶりの入院であったが、看護師の接遇に関しては随分改善されていた。尤も、前回も今回も入院したのは時折私も患者を受け持つことのある内科病棟なので業務を通じてスタッフとは知り合いである。
それが、そうとも思えないほど丁寧な言葉遣いと笑顔で接してくるものだから、他人行儀を感じて気恥ずかしくなった。日常の業務上のやりとりの中で私はこんなにも丁寧に扱われたことは無かった。マア、それは当然である。私の回診は早朝なので会うのは疲れ切った深夜勤務の看護師である。挨拶はするが、多くは無言である。
医療関係者の患者接遇に対する患者や社会の目は厳しい。マニュアルに沿って繰り返し訓練され、それなりに底上げされたのだろう。業務を通じて個々の看護師にいだいていた印象とは異なった看護師が日替わりで担当になった。
ただ、私のこの印象は一般的でないだろう。恐らく、患者の多くは看護師達の接遇に満足しているのではないだろうか。
問題はマニュアルにない状況を迎えた時、例えば、対応が難しい患者や家族に対してどのように対応できるのかである。
■安全確認のための名前確認がしょっちゅうで煩わしい
1999年、20数名のスタッフが関与していながら誰一人として患者取り違えに気付かず、肺と心臓の手術が開始され、切開後に間違いに気付いた信じ難い事件が発生した。患者取り違えは確実な確認作業で100%防げただけに、この事件以降マスコミの扇動もあって医療関係者に対する社会の目は一気に厳しくなった。
患者確認は医療安全の要である。いろいろな方法があるが、各検査や処置毎に名前を確認するのも一方法である。私は手術が予定されていた患者だったから名前を記載したリストバンドを着けていた。これは切断しなければ外すことも出来ない。バンドに操作することは自身が被害者になるだけにそんな患者はいないだろう。
私は点滴交換、採血等の度に名前を名乗らせられるのが辛く、途中から返事の代わりにリストバンドを示したが、看護師は不満気で、それでも名を名乗らせられた。よく知っているスタッフも同様である。聞くとマニュアルでそうなっているから、と言う。術後バンドを外しても良いと言われたが、自宅に戻ってから切断した。
■室内灯、空調等のスイッチが何故入り口にあるのか?
今回は入院経過を通して私は元気だった。手術翌日も動くことも自由に出来たから家族の援助は不要であったが、それだけ自分で動かなければならなかった。照明、空調のスイッチは何で手元になく、入り口のドア付近にあるのだろうか。私は照明、空調とも殆ど使うことはなく余り困らなかったが、動けない患者は何とするのだろうか。部屋の主役は誰なのかなァ。
■備品の清掃等は臥位の患者の視線で確かめよう
天井、天井付近の壁の汚れは何でついたのか?サイドテーブルの裏は?・・など気にならないと言えばウソになる。スタッフはたまには臥位で低い目線で周りを見渡してみることも必要である。
これは汚れのことだけの問題ではない。患者の立場になって見る、聞くことで、通常気付かないことに気付くことも少なくないだろう。
腸閉塞体験日記(9)入院雑感(3)自宅療養期間を短縮する
2012年10月29日 13時30分27秒?|?コラム、エッセイ
入院後、特に術後は体調良好で、豊かな時間をもてた
術後は翌日から若干の倦怠感はあるものの疼痛もなく、退院したいほど体調は良好であったが、主治医は術後10日間ほどは入院の要があるという。ならば時間を有効に用いるしかない。
今回は、読書、DVDで映画、文献新聞のPDF化、蓄積した新聞等の電子データの整理、録音データの整理等に当てることとした。術後3日後からは早朝医局で過ごしたので、書類処理等の業務も処理できた。
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(1)書籍、
■池上 彰ー日本語の大疑問、
■昭和10年以降の近代日本の歴史関連書籍数冊、
■日中・日韓関連の歴史、領土問題関連書籍、
■太平洋戦争関連 武器兵器編 戦略編 真珠湾以降の激闘の記録など、
■團 伊玖磨著 パイプのけむり 5巻、6巻、
■死刑絶対肯定論 、
■詩集 病者・花、
■在宅ホスピス物語
(2)専門誌関連、
■日本医事新報4615-17号、
■西村書店 カラー版内科学の総論部分、
■Infectin Front2冊
(3)DVDによる映画
■剣岳、
■硫黄島からの手紙、
■父親たちの星条旗、
■男達の大和、
■雨に唄えば、
■サウンドオブミュージック
(4)その他
■ラジヲ深夜便『こころの時代」 2007年2ヶ月分、
■NHK落語選集、
■ブルックナー交響曲6−9番
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23日午後退院し自宅療養したが、振り返ってみれば、この間随分読み、観、聴いたものである。今迄、これ程集中して読・視聴出来たことは無かったが寝不足になった。それだけ症状がなく元気だったという事。貴重な時間を得たと言う喜びが大きかったが、それだけに私の代診をしている同僚医師に申し訳ないという気持ちも大きかった。
昨日28日には近隣の飯川病院の日直を行った。他院の仕事をこなしていながら本業を休み続けることは出来ない。主治医から29日から出勤の了解は得たが時間的に中途半端になったために診断書の期限を二日前倒しし、30日から復帰することになった。
多くの方々にご心配・ご迷惑をかけたと思う。
上記の如く明日から復帰するので「腸閉塞体験日記」は本日で終了とする。
お世話戴いた方々に職場復帰のお知らせと共に、心から感謝申し上げます。