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新潟大学46会同級会参加記録 
その2 (2011-2016)

   毎年10月連休の日曜日は新潟大学46会同級会が行われる。私は迷うことなく、何処で開催されても出席することにしている。
 ほぼ同じ年齢の同級生が集まると,肩の荷をおろして自由にしゃべれるのがとても良い。明日からはまたお互いバラバラだから責任も問われず、気楽な会話となる。

 私は年を重ねてくるにつれて若い世代との会話が億劫になってきている。世代が異なる方々との対話を避けるようになっているが、そんな私だから同級生との対話は貴重である。

 前日にはゴルフもセットされている。私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する宴会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。しかし、それでも年に一回、同級生と挨拶を交わし、元気な姿を見るだけで十分楽しく、それだけでも十分出席の意義はあると思っている。
 最近は、加えて、年に一回私ども夫婦がまだ生存していることを示しに行く、と言う目的が加わった。
 

2011年新潟 卒後40年の同級会開催 六華寮、野の花寮、念仏寺など

2012年秋田(1) 秋田の魅力をどうアピールするか 
(2) 思った以上の盛り上がり
(3)秋田での会に満足戴けたようだ
(4)男鹿一巡り(1)男鹿も観光地として深い魅力

(5)男鹿一巡り(2) 主役は青空と太陽
 
2013年  何故か開催されなかった。

2014年新潟・佐渡   残念!! 佐渡にいけなかった

2015年松島(1) 松島にて開催 久々の松島
      (2) 面白い講演と豪華夕食の会
      (3) 東日本大震災後4年半、何も残っていない爪痕

2016年新潟県月岡温泉
      (1) 行程1日目 残念、タレカツ店には入れなかった
      (2) 行程2日目(1) 国営越後丘陵公園 月岡駅
      (3) 行程2日目(2) 懇親会
      (4) 新米「新之助」 現美新幹線


新潟大学46会同級会2011 新潟で卒後40年の同級会開催 六華寮、野の花寮、念仏寺などに立ち寄った
 10年ほど前から新潟大学46年卒の同級会にはほぼ皆勤状態である。今まで新潟3回、長岡、東京、犬山、会津、富山と7回出席したことになる。東京を除くとこれらの地はこの会が縁で訪れたことになる。

 会は「体育の日」の前日でゴルフもセットされている。私はゴルフは出来ない。宴会に出てもすぐに酔って早々に中座する。だから、何のために出席しているか分からないのだが、それでも年に一回、何人かの同級生の顔を見て、何人かと簡単な挨拶・会話を交わすだけで十分楽しい。
 それに、犬山での会の後、家内も私も開腹手術を受けたりして、どちらかが2番目の物故者になり得るだけに、年に一回 「われらはまだ生きている」ことを示しに行く目的が加わった。それに、どうせ行くなら最短距離・最短時間移動の予定とせずに、開催場所周辺を楽しむ事とした。

 今年は卒後40周年という節目で新潟で開催された。36名出席であった。私も含めて定年退職者が何人かと、来春退職予定者も何人か居て、それなりの節目に達したことが実感出来た。みんな老けてきたが、元気で良い表情していた。尤も、元気がないなら出てこないだろう。

 今年は物故者が一人いて黙祷を捧げた。新潟がんセンター院長をつとめたT君で、これから、と言う時なのに惜しまれる死であった。

 今年の挨拶の中では東日本大震災に関する話題が並んだ。津波の被害を直接的に、間接的に受けた話、厳しい風評被害のこと、脱原発への強い思いなどが語られた。何れも身につまされる内容であった。
 今回も、私は数人と言葉を交わし、ビールを少々飲んだだけで一人ホテルに戻った。?? 翌日はからりと晴れ、空は高く清み渡った。帰りのJRまで若干時間があったので、古町通りを半分ほど歩いた後、タクシーにて学生時代の懐かしいところを回ってみた。昭和46年以来初めてである。私が6年過ごした大学の「六華寮」は老朽化して何れ取り壊されるとのことで閉鎖され、無残な姿を呈していた。家内が過ごしたアパート「野の花寮」は既に建て替えられ名称も違っていた。解剖実習用の大型の蛙を捕まえるために夜中に懐中電灯片手に境内をウロウロした「念仏寺」にも寄ってみたが、境内は近代化され昔の池など面影もなかった。
 最後に「とんかつ太郎」で軽く昼食を摂り、帰途についた。
(2011/10/16)


新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(1) 秋田の魅力をどうアピールするか 
 私共、新潟大学医学部昭和46年卒業生は結構結束が強く、ほぼ毎年の如く同期会を開いている。期日も決まっていて10月の体育の日の連休である。私は初期の頃は出席しなかったが、2000年頃一度出席、2003年からは皆勤している。

 昨年の会で秋田での開催が決まった。同期生の中で秋田県出身者は12名いるが、現在秋田県内で医療を行っているのは5名で、うち4人が秋田高校出身者、それに岩手出身の私である。
 100名余の同期生の出身地を見ると秋田・岩手が北限で,青森と北海道出身者はいない。秋田・岩手以北で医療を行っているのは北大教授を務めたM氏一人だけである。

 2003年以前のことは分からないが、その後の開催地は、新潟が3回で、犬山、長岡、東京、富山、会津若松と続くが,秋田での同期会は多分北限の会になるだろう。

 同期生は全国に散らばっているが、北限の秋田で開催するにはいろいろハンディがある。まず、■近隣県に住んでいる同期生が少ない、■多くの方々にとって秋田は遠い、■たのみの交通の利便性も良いとは言えない、■遠方の同期生を秋田の魅力でうまく誘い出せるか・・・等である。

 5人による幹事会では私が代表幹事となった。どうあがいても無いものは無い、不便なものは不便、この際背伸びせずに美味い酒と料理でもてなし、メンバーの一人である北里大循環器科教授講演を聴き、会話を楽しもう。それにアトラクションとして竿灯演技、なまはげ太鼓、秋田民謡を織り交ぜよう、と言う結論になった。幹事の一人が翌日オプションでミニツアーを組みたいと言うことで一任した。

 同期生への連絡他は主に私が担った。文章も練った。ミニツアーは直前まで最終決定が無く私をヤキモキさせたが幹事は参加希望者と直接連絡取り合って進めているからと平然としていた。

 結果的にゴルフ12名、講演・懇親会28人の参加があった。と言えども後者のうち5人は幹事であるから、やはり秋田への誘いには乗り手が少なかった。ミニツアーは10名であった。

 同期会は恒例として会の前にゴルフ大会、次いで講演、懇親会と言うことになる。ゴルフのために10名余がホテルに前泊する事になっており、幹事のうち酒豪を自認する二人がもてなすことになった。私はアルコールがからきしダメなので、前夜祭的会合には遠慮した。前泊までの間に手続き上での問題の発生はなく安堵した。

(2012/10/07)



新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(2) 思った以上の盛り上がり
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 (懇親会前になかいち広場で行われた竿灯となまはげ太鼓のワンシーン。観客が大勢で盛り上がった)

 本日10月7日は秋田での新潟大学46卒同期会であった。

 12名は朝からノースハンプトンゴルフクラブでコンペをやったが、私はアルコールもダメだがゴルフもやったことがないために不参加、快晴を良いことにわが家の外仕事と翌日のミニツアーの準備を手伝った。

 17:00から「なかいち広場」にて竿灯となまはげ太鼓の実演を見学した。
 本日は隣の広場で別のエベントも行われており、そちらの観客も多数移動してきて、300名ほどがこの実演を一緒に楽しみ、会場の雰囲気はとても良く盛り上がった。祭りのデモ等はやはり観客の数と観客の高揚感が大事である。私共にとっても大勢の方々と一緒に演技を楽しめるなどとは思ってもいなかった。観客がわれわれ20数名だけであったら寂しい演技になったものと思われた。

 竿灯は二竿で20数名のスタッフ、なまはげ太鼓は3人によって見事な演技を繰り広げた。見物された大勢の方々、遠来の同期生はいたく感心した様子であった。私共の企画が秋田市民をも喜ばせたことにもなり嬉しい限りである。


 18:00からキャスルホテルにて北里大学循環器科教授の「心不全の予防」と題する講演を拝聴した。
 「心臓移植の現況」では心移植を受けた患者について米国での手術例、国内手術例は件数として同じ程度に近づいてきたが、国内例の予後が素晴らしく良好で多くが社会復帰出来ていることが示された。
 「薬物による心不全悪化の予防効果」についてはスタチンの意義が強調された。最後に「高齢者医療の在り方」にも教授はホンネで言及した。この最後の領域に関しては私と意見が一致した。
 とても分かりやすい講演で、循環器系に疎い私は久々に深い感銘を受けた。
(2012/10/08)



新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(3)秋田での会に満足戴けたようだ
 次いで懇親会に移ったが、途中で浅野梅若社中の4名による秋田民謡4曲と踊りが披露された。
 先代の梅若氏は外来でお世話したこともありちょっと身近に感じた。見事な音色の三味線と太鼓をバックに若手の歌手3名が唄ったが、何れの方々も全国レベルの大会で数々の入賞歴があるとのことで、張りのある見事な声量の歌唱ときびきびした所作の踊りで私は圧倒された。
 今迄、良いメンバーに直接触れたことがなくて秋田民謡の素晴らしさを知らなかっただけだったのだ。同期生達もほぼ一様に驚きと感心の表情を浮かべていた。

 10人で一つのテーブルを囲んだ。マアこのくらいの人数の会が適当かと思われるが、同期会が何時もこれではまずいだろう。先の新潟の会は倍以上の出席者がいた。
 各人がスピーチ行ったが、年々言うことが変わってきている。政治のことしかり、中には政界に出るのでは?と思わせるような熱弁をふるった方もいた。かかえている持病の話も出て「なんぼ迄生きるか・・・」と言うことが何人からか話された。80歳位を一つの目途にしているようであるが、私は「食べられるうち、動けるうち・・」と何時もの意見を述べた。

 話題豊富で盛り上がった会を、中断するのは忍びなかったが、21:15で中締めにし、ほぼ全員同じホテルに用意した二次会場へ移った。
 ここでは気に入った仲間同志で言いたい放題、いろいろ楽しめた。私も雰囲気に誘われて飲めない水割りをあたかもジュースのように三杯飲み干した。酔い始めたので明日のオプションのことも考え一人会場を抜け出した。歩いている間に酔いが回ってホテル前のタクシーにたどり着くのが大変であった。

 始まる前までは心配であった同期会、多くの方々が満足されたことが実感され、代表幹事として心から安堵した。これも秋田、能代で地道に医療活動を展開している院長達のアイデアと采配に依るところが大きい。

 問題は明日のエキスカーションの男鹿観光である。担当幹事の性格上、何かが起こるかもしれない。
(2012/10/10)




新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(4)男鹿一巡り(1)男鹿も観光地として深い魅力
 10/8(月)は体育の日である。東京五輪の記念日としてかつては10日であったが休日法の改正で10月の第2月曜となった。幹事の一人の深い思い入れでエキスカーションとして男鹿巡りを行う事になった。参加者は現地のガイドを含め10名。私は助手として朝から飲み物、果物、氷の用意など結構大変であった。

 早朝から雲一つ無い快晴で一日の楽しさが予感できた。

 9:00前から私はホテル前で待っていたが予約のマイクロバス卯がなかなか来ず私をヤキモキさせたが、全員無事ホテル前に集合、予定通り出発できた。

 私は観光バスの相場などはよく分からないのであるが定員29名のマイクロバスで運転手付き、7時間で5万円程度だという。私は倍以上を想定していたので驚いた。バスは内装も良く、定員の1/3の利用だから実に快適であった。

 男鹿は景観は悪くない。でも売り物がなまはげ一辺倒であるのが気になるところである。幹事とガイドは海の側から男鹿の景観を楽しんで貰おうと観光船を予約していた。ところが予約の港について船を待てども来ない。ホントに来ない。確かめたら、私共が待った港は下船する港であった。これが担当幹事の一つ目のポカである。マア、この幹事ならのの程度のことは起こってもおかしくない。乗船する港に先回りして待っているバスを呼んで男鹿の景観を陸上から楽しんだ。そそり立つ断崖絶壁と紅葉の始まりは青空と太陽の下、満足すべき景観だった、と言えよう。

 さて、次は昼食である。今日の予定のコースは男鹿名物「石焼き料理」である。漁師達が一日の疲れを癒すために捕れた魚に野菜をたらいに入れ、そこに真っ赤に焼けた石を投げ入れることで煮上がるという豪放な料理である。観光船キャンセルしたのでやや早めにレストランに到着したのであるが、まだ客が一杯でここでも45分ほど待つことになった。幹事とガイドは恐縮していたが誰一人からもクレームが生じなかった。第二のポカとしておこう。

 私は昔一度だけ石焼き料理を経験したが、あまり良い印象でなく、今回もあまり期待していなかったが、今回は食材が中型から大型の真鯛で味、質共に一級品で私は十二分に満足した。思い出すと前のはアイナメとかの魚が主だった。その差は歴然である。昔のは釣り宿での料理であって経費を絞っていたから当然だろう。男鹿の推奨料理として私のリストに入れることとした。

 帰路、男鹿真山の神社で当時のなまはげ行事の再現を見た。これも、目からウロコであった。住居から服装まで昔の男鹿の山漁村の雰囲気十分、家の主人となまはげの鬼達のやり取りも見るべきものがあった。私は男鹿のなまはげは「恰好だけでつまらん」と思っていたが、その地域の文化の一部に駆け足ながら触れられたことを喜びとして帰路についた。なお、ボランティアでガイドを申し出てくれた女性はこの真山の神主の新婚の奥さんであった。

 第三のポカは千葉に帰る同期生が乗る新幹線を幹事が16:56発と頑なに思い込んでいたこと。実際は16:42発でこの14分は大きかった。途中で間違いに気づき男鹿街道、高速道を含めカーチェイスの如く走り、何とか間に合った・・と思う。その後何も連絡無いから多分間に合っただろう。多分発車まで1分もなかったのではなかろうか。
 この幹事にとって新幹線に遅れるなど日常茶飯事であって、9月29日に花巻に発つ時も一列車遅れて出発したはずである。
(2012/10/11)




新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(5)男鹿一巡り(2) 主役は青空と太陽
 10月8日の男鹿観光は適切なガイドもお願いしたこともあって大成功であった、と総括する。男鹿観光を担当してくれた幹事の頑張りが生きていた。代表幹事としても思った以上の出来であった、と思う。

 幹事の思い込みがあって、船が来なくてガックリさせたり、空腹に耐えさせたり、新幹線に遅れそうになったなどポカもあったが、誰からもクレームは出なかった。それ以上に、全メンバーが空いた時間、北の日本海でさわやかな海風と共に、太陽の光を全身で浴びているという幸せを思い思いに味わう事が出来たと思う。

 男鹿巡りの日は早朝から夜にかけて本当に雲一つ無い快晴であった。
 折しもこの体育の日は昭和39年の東京五輪の開会式の日である。当時は10月10日であった。私はその日を岩手の片田舎でモノクロTVの前で迎えた。東京は雲一つ無い快晴と報じられた。モノクロでも十分味わうことが出来る快晴で、500Km離れた岩手も同様に最高の秋晴れであった。その日の細かいことは忘れたが、開会式の熱気と大歓声、自衛隊機が上空に作った見事な五輪マークは忘れたことはない。

 この日、開会式の実況中継を担当したNHKのアナウンサーは放送を『・・・、本日のこの東京五輪の主役は、選手でもありません、大会関係者でもありません、大勢の観客でもありません・・・「それは太陽です!!!!・・」』、と奇跡的に晴れ上がった天空ときらめく太陽を賞賛して感動豊かに表現した。世界的大エベントの五輪の主役を、選手でもない、役員でもない、観客でもない・・と否定する事から始めたこの名導入部は当時浪人中であった私の脳裏にしっかり記憶されていた。何しろ、前日まで天候ぐずついており、大会関係者をヤキモキさせていたからである。

 私は男鹿巡りの間中、太陽の光をさんさんと浴びながら、昭和39年のこの日の秋の様子を思い出しながら「・・・、本日のこの男鹿巡りの主役は、太陽です!!!!ホントです。太陽です・・」、と評価したい。この太陽があったからこそ担当幹事のポカも誰からも苦情も出なっかったのだ。

 私のこのブログにも2003年以降10月中旬には新潟大学46卒同期会を取りあげてきた。今回の秋田版は出席者も少なかったこともあり、出席できなかった同期会メンバーに報告のつもりで秋田の良いとこを紹介しながら、5回にわたりちょっとばかり詳述した。
                              (2012/10/12)



新潟大学46会同級会2013
 何故か開催されなかった。



新潟大学46会同級会2014 残念!! 佐渡にいけなかった
 私は昭和40年から46年春迄の6年間新潟に住んだ。ここで学生生活を送った。
 しかも、住まいは金衛町の六華寮であった。寮は浜に近く、休日の日の夕方や夏の日々には海辺でよく過ごした。何しろ、私は岩手の片田舎育ちで、海を初めて見たのは小学6年の修学旅行でみた松島の海だけだったから海にはあこがれがあった。いつかは海の近くに住んでみたいと思っていた。それが、新潟で実現した。

 山に囲まれた生活しか知らなかった私は、海の側での生活は6年間と短かったが、満足した。海は広大であった。山にはない自然があった。冬の海、嵐の時の海の荒れようには驚いた。おかげでちょっとは大きなスケールでものを考えることが出来る様になった気がした。

 日本海にはぽっかりと佐渡が浮かんでいた。天候の良い日に日本海に沈む夕日は赤くて幻想的であったが、そこに佐渡があったから季節によっては佐渡の山に沈み、季節によっては水平線に沈んだ。佐渡を眺めるたびに、新潟にいる間にいつかは佐渡に行ってみたいと漫然と考えていたが、貧乏学生であったし、出不精、観光など興味なしで、ついに佐渡に行かないまま新潟を離れた。
 その後、佐渡に付いて想いを馳せたことは一度もなかった。

 今夏、今年の大学の同級会が10月12日佐渡で開催されるとの知らせが届いた。会の前後にはミニツアーもあると言う。ならば、と思い立ち、準備した。秋田から佐渡へのコースは意外と不便であった。秋田新潟間の羽越線のコースでは前泊しなければ間に合わない。新幹線で大宮経由とした。

 私の計画は、秋田を離れる時間を最小限にするために、12日朝6:08分こまちで発ち、大宮にて上越新幹線に乗り換え新潟に、13:30新潟港発の水中翼船ジェットフォイルで佐渡へ、と言う8時間コース。帰路は13日両津港発15:30で逆コースで秋田に戻るルートを予定した。結構ハードな旅程となった。

 ところが、9月下旬に飯川病院の院長が体調不良とのことで急遽休暇を取ることになり、10月1日から私が午後の業務をカバーすることになった。12日〜13日は連休であるために時間的には佐渡に行けないことはなかった。しかし、この間、重症患者を日当直医師に全て委ねるわけにはいかないので、佐渡行きは中止した。実際、12日の早朝、入院患者が急変し2:00amから出勤し対応した。この状況だと行けなかった。

 私は佐渡に付いて何ら知識もないし、訪ねてみたい所も特にない。私の郷里には「大ヶ生金山」と言う小規模な金山があり、そこが私の遊び場の一つでもあったために、佐渡金山に関してはちょっとだけ興味があったくらいである。

 今回佐渡行きを計画したのは、40年ほど前に「行ってみたい」、と漫然と考えていたことが現実になる、と言うことがメインだった。従って、未練はない。
 ただちょっと残念だったのは同級生達に生存報告が出来なかったことである。
(2014/10/13)



新潟大学46会同級会2015(1) 久々の松島
 ここ10年ほぼ皆勤状態の新潟大学46会同級会の出席記録は2003(H15)年から残っている。私にとっては今年は11回目となる。
 実際にはその前からほぼ定期的に開催されていたらしいが、私は人の集まりの場が嫌いなので出席せず家内だけが出ていた。何回か付き添った娘の話によると私が一緒に出席しないことで家内がかなり憤慨していると聞いたので折れて出席することにした。出てみればそれなりに楽しい。最近では各々健康に問題を抱える我ら夫婦の生存報告を兼ねて出席している。

 今年の同級会は仙台在住のA氏のもと、松島で開催され、本日出席している。
 新潟以北での開催は2012(H24)年の秋田以来2回目である。

 私にとって松島は小学校6年の修学旅行以来の訪問である。多分2泊3日だったかもしれないがよく覚えていない。村内の近隣の3つの小学校の合同での旅行であった。当時、私は健康状態がすぐれず出席が危ぶまれたが、担任や学校の配慮で我が家のお手伝いのハツさんが同伴して身の回りの世話をしてもらう条件で出席が決まったものである。付き添い付きで修学旅行に参加するなど、子供の立場でも恥ずかしかったが、実際には修学旅行の間は体調が良く、手を煩わすことはなかった。
 1957(S32)年のことで、当時は何合かのお米を持参して宿屋に収め、夕朝食および昼食用の握り飯弁当になった。握りは2ケで梅干しが入っていて、おかずは2枚の味噌漬けのみであった。それでもみんなで食べる握りは美味であった。
 宿屋での枕投げは実に楽かった。
 私はこの時初めて海を見た。その時の驚きは忘れていない。

 60年振りの松島訪問である。
 本日13:06のこまちにて仙台に向かった。仙台付近で激しい降雨に遭遇し先の天候が思いやられたが、仙台に着く頃は雨があがり青空が見えるようになった。仙台駅から東北本線小牛田行きの普通列車で松島駅に移動した。その時に駅構内以外の本線が単線であったことに驚いた。1982(S57)年6月に盛岡-大宮間の新幹線が開通するまでは日本の幹線鉄路の一つであったが、それが単線であったとは・・今更ながら驚きを禁じえない。

 松島駅からはTaxiにて同窓会会場である松庵に向かった。その間、ドライバーの説明では東日本大震災では松島湾も巨大な波に襲われたが、松島湾の場合風光明媚な場所は多くの小島が自然の防波堤となって津波波のエネルギーが弱められ、大人の背の高さほど浸水はしたものの壊滅的は被害が生じなかった、という。一方、外洋に面した浜では破壊的エネルギーを持つ津波波で壊滅状態になった、とのことである。

 会場となった松庵は松島湾の水際に立つ老舗旅館である。にもかかわらず、松庵には津波被害の後は一切見られなかった。
 松島は立地条件で津波の被害には天と地の差がある。各地の防波堤が根こそぎ破壊され被害を防止できなかったのに対し、自然の小島が防波堤として果たした役割は実に大きかった、ということ。
(2015/10/11)




新潟大学46会同級会2015(2) 面白い講演と豪華夕食の会
 新潟大学46会同級会の前日にはゴルフもセットされている。出席者の多くはこれにも参加するのも楽しみにしているようであるが、私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する宴会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。だから、何のために出席しているか分からないようなものである。しかし、それでも年に一回、私ども夫婦の生存報告を兼ねて同級生と挨拶を交わすだけで十分意義はあると思っている。 更に、最近ではどうせ行くならきつい予定を立てずに、開催場所周辺への小旅行を楽しむ事としている。

 特に、昨年の佐渡での会は出席直前になって家内が急遽腹部の手術を受けることとなりドタキャンしたので、今回はやや意気込んで出席した。

 今年は近場の松島での開催で、出席者は30名であった。みんな老けてきたが、見る限り元気で良い表情していた。
 今年は物故者は一人おられた。犬山での同級会を主催してくれたY氏が亡くなったという。詳細は聞かなかったが、何でもヨットの外壁の掃除中にお亡くなりになったとのことで事故と考えられているらしい。明日は我が身かもしれない。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 今回は、まず浜松市で手広く眼科クリニックを運営しているK氏による「加齢と眼疾患-特に白内障と老人性黄斑変性症」の講演を1時間ほど拝聴した。おかげでが、両疾患についての理解が進んだが、古希を迎えての仕事に対するK氏の熱意にも感心した。氏は地元ではかなりの名士らしく、厚い人脈もうかがい知ることができ、何事にも消極的な私とは別世界の人生を送っているように思えた。

 引き続き恒例の宴会に移ったが、会場は鰻の寝床の様に、と言えば語弊があるが、宴席は縦に一列に並べられた。だから、両隣と向かい側の数人としか会話できなかった。
 驚いたのはテーブルに並べられた料理の数々である。海の恵みを中心に、質量ともに十二分であった。幹事のA氏が特別に注文しただけでなく、マグロの刺身は自分で調達されたという。私はこの料理を見た瞬間、何としてでも完食しなければ罪を犯すに等しいと感じた。で、もともと飲めないアルコールには手をつけず、会話を楽しみながらひたすら食事を楽しんだ。お開きの頃までかかって私は完食し得たが、近くのテーブルを見る限り結構残っていて、ケチな私にとっては至極残念におもえた。尤も、アルコールがかなり飲まれていたからやむを得ないだろう。


 二次会場も用意されていたが、私は満腹で意欲がわかず部屋に戻り早々に布団に入った。

 今回の同級会は出席者と会話を交わす機会は少なかったが、全員とても元気そうであったのを確認できただけでも十分である。さらに加えて評価すると、面白い講演と超豪華な夕食の会であった、といえよう。
(2015/10/12)




新潟大学46会同級会2015(3) 東日本大震災後4年半、何も残っていない爪痕
 同級会の翌日には近隣のミニ観光が組まれている。今回は奥松島・松島・瑞巌寺拝観のコース他が予定され、16名ほど参加した。
 当日朝は雲ひとつない快晴。数日前の天気予報では荒れるとのことであったが、不安定な天候は昨日のうちに通り過ぎたようだ。

 9:30、ワゴン車を含む車数大つらねてまず東松島市の奥松島に向かった。奥松島は観光で有名な松島より数10Km北側の岬にある。外洋に面しており、小島も少なくて必ずしも風光明媚とは言えない。観光客と思しき人影もほとんど見られない。

 奥松島の「ちっちゃな船旅。嵯峨渓巡り」と称する定員10名程度の小さな遊覧船に二手に分かれて乗船、湾内を一周した。屏風岩、メガネ埼、日本地図、天狗岩、かえる島など観光のためにこじつけたような名前の小島や岬があったが 、素直に認めてみるほうが楽である。津波にて形の変わった小島もあり、岸壁の姿は痛々しかった。

 奥松島で見るべきは東日本大震災の津波の住宅やそれに伴う人的な被害状況であった。現在かさ上げ工事されているが、堤防は低く、海面とほぼ同じ高さの土地に住宅が密集していた、とのこと。案内された地域は殆ど全ての住宅が根こそぎ流された地域が中心であったが、既に大部分がススキや雑草に覆われ、建物の土台、敷地の区分けのなどの構造物すら見えない状況であった。所々に重機やクレーンが並び復興作業が進んでいると思われた。

 この一面の荒れ地、草地は震災前は住宅が密集しており、巨大な波で壊滅的被害を受けた住宅地の名残である。人影もなく、やや山際に住宅がパラパラと立ち始めている。津波によって破壊された住宅はもう撤去されたか修理されたかでその面影を残していない。
 私は震災の年の9月、翌年8月に岩手の三陸を訪れたが、その際には破壊された住宅、瓦礫等が残っており、被害の甚大さを直接目で見ることができたが、奥松島の状況はその名残すらも見えない異様な静けさに覆われていた。4年半の歳月を経ても住民が戻ってきていない現状の厳しさが表れていた。

 今回の奥松島訪問で見た海は、静かで美しかった。これが4年半年前に突然牙をむき、市街地を破壊し尽くしたあの海だとは思い難かった。

 ちょっと気持ちが沈んだが、正午頃に松島に向かった。松島に近づくにつれ渋滞がひどくなり、予定を変更して13時頃から昼食をとった。この昼食がまた豪華なもので、唖然とする見事さであった。ここでもまた、私は完食しなければなるまいと考え事実その通りにした。満腹以上の満腹であった。昨日の夕食のメニューを含め、今回の幹事のA氏は超美食家なのか??と思ってしまった。

(予めテーブルに用意された山海の珍味。この後、汁物、煮魚、茶碗蒸し等が並べられ、最後はコーヒー、果物、シャーベットであった。)
(2015/10/13)




2016年 新潟県月岡温泉(1) 行程1日目 残念、タレカツ店には入れなかった
 ここ10年数年、ほぼ皆勤状態の新潟大学46会同級会の出席記録は2003(H15)年から残している。今年は12回目の出席となる。
 実際にはその前からほぼ定期的に開催されていたらしいが、家内だけが出ていた。何回か付き添った娘の話によると、私が一緒に出席しないことで家内がかなり憤慨していると聞いたので折れて出席することにした。消極的な参加であったが、出てみればそれなりに楽しい。

 過去の開催地。
2003年 長岡市
2004年 犬山市 台風22号襲来で中止に
2005年 犬山市
2006年 新潟市 悪天候でJR遅れ10分間だけ参加
2007年 東京
2008年 新潟
2009年 会津若松
2010年 富山
2011年 新潟
2012年 秋田
2013年 (未開催)
2014年 佐渡
2015年 松島
2016年 月岡温泉郷

 最近では健康に問題を抱える我ら夫婦の生存報告を兼ねて積極的に出席している。

 今年の同級会は新潟在住のH氏が中心となり、新発田近郊の月岡温泉で開催され出席した。上記のごとく、原則的に隔年は新潟で、それ以外の時には同窓生の出身地または勤務地で持ち回りで開催している。2012年には秋田で開催した。

 私は旅行嫌いである。現役を退いてからの私の旅行は全てこの46会同級会のみとなった。そのために最近は若干の時間的余裕を作るようにしている。今回は家内の希望で長岡市の郊外にある国営丘陵公園のバラ園を見学することとし、夕食には新潟名物の一つとされるタレカツ店で摂ることとした。

 前日12:58発の特急いなほで新潟に向かった。降雨に遭遇し先の天候が思いやられた。新潟の宿泊は前々日にホテル日航新潟をなんとか確保できた。自分としては初めてネットで確保したのであるが便利なものである。空室としては最後の一室ということであった。このホテルには2003年に、開業間もなくの頃一度宿泊している。当時西日本でいちばんのノッポビルだったという。



 連休であることに加えて、歯科医療系の全国学会が開催されるために新潟市内の宿泊施設の確保は極めて困難になっていたという。この点では運が良かった。

 19:00タクシーで古町通りにあるタレカツ店に向かった。もともと繁盛している店で、数名が店の前で待っていた。タクシーから降りる直前にその人たちが店に入った。同時に店の入り口に紙が貼られた。「本日は完売にて閉店します」、とあった。ガイドブックには20:00まで営業とあったのであえて遅くしたが、期待は裏切られた。この点では運が良くなかった。
 その晩は古町通りのイタリア料理店にて摂った。それなりに満足した。
                                (2016/10/11)



2016年 新潟県月岡温泉(2) 行程2日目(1) 国営越後丘陵公園 月岡駅

 行程2日目は朝食も摂らずに上越新幹線にて長岡に移動、11:15駅のデパートにあるレストランにてタレカツどんぶりで昼食を摂った。新潟の店とは勿論別物であったが略満足した。12:15Taxiにてバラを目当てに国営越後丘陵公園に向かった。

 公園の地は国営事業の長岡近郊のニュータウン開発で大規模に開かれた山であったが、交通が不便であったことなどありほとんど売れなかった。Taxiでも30分近くかかったほどである。そのため土地の一部を国が都市公園として開発し国営公園と認定した。北陸では唯一の国営公園とのこと。
 国営公園とは私は初耳であったが全国では20け所以上あるという。さらに公園には国立公園、国民公園というのもある、という。国定公園と言うのもある。

 国営越後丘陵公園は1998年に開園し以降順次面積を拡大していて莫大な面積を持つ。公園内には「花と緑の館」、「暖の館」、休憩施設、展望台、香りをテーマにした「バラ園」などを持つ。造園公園としては私はこれほど広大な規模の公園は見たことはない。レストランに新潟タレカツの支店があった。しかし、残念なことに最早腹は一杯で余裕がなかった。今回は本場のタレカツには縁がなかった、と諦めた。

 「バラ園」は国営越後丘陵公園の中では20%ほど?を占める。私にはそう見えた。これほど大規模なバラ園は初めてである。
 各種のバラは区域で綺麗に分けられ、その間の通路も広い。それ以上に根元に雑草一つ生えていない。見事なほどの手入れである。国営公園の強みなのだろうか。私にとってはバラそのものに対する興味はほとんどない。名称などはほとんど知らない。大輪の黄色、白色、赤・・が好きである。バラ園の脇にあったコスモス畑が見事であった。



 残念ながら「バラ園」見学中もずっと雨にたたられた。雨に濡れたバラは一層美しい。



 14:30公園発の乗り合いバスにて長岡駅に向かった。
 長岡から信越線にて新津へ、さらに羽越本線にて同級会会場のある月岡温泉郷に向かった。一般的に保養地とか温泉郷は同名の駅があればそこが玄関口になっている。私どももそのように考えて月岡駅に降りたが、期待に反して無人駅で民家もほとんどなし、タクシーもなかった。



 会場である清風苑に電話して迎えに来てもらった。ドライバーの話によると、来訪者は通常は豊栄駅または新発田駅に降りる、と言うことで月岡駅を利用する人は珍しいと言う。確かにパンフのアクセスにはそう案内されていた。
      (2016/10/12)



2016年 新潟県月岡温泉(3) 行程2日目(2) 懇親会 
 会場のある月岡温泉「清風苑」に私どもが到着した時には講演会が始まった直後であった。

 講演はA氏の「気の医療」、「気功の医療」と言っていいような、私どもみたいに西洋医学を学び実践している立場の者から見ると「雲を、霞をつかむ」ような内容であった。
 気功医療はまだ日本では社会的には認められていない。医療者の間でも認知されているとは言えない。2名の同級生が被験者となって実践も行われた。その効果は少なくとも私の目には有効とは思えなかった。
? A氏によると、気功は、すべての症状・治療に効果ある、とまで言っていた。
 同級の一人が真摯に学び実践している医療に対し軽々に結論を持つわけにはいかない。それを判断する知識にもかける。この領域について、私も文献的検討が必要なようである。

 約30分の講演の後、記念撮影し、懇親会に移った。
 会場となった「清風苑」は月岡温泉老舗旅館である。
 大広間に33名が一堂に会した。並べられて料理は見事であった。
 みんな嬉々として笑顔に溢れ、元気な様子であった。これが同級会のいいところである。尤も、元気でなければ出席しないだろうと思うから、まあ当然でもある。
 ここ1年間の間に物故者はいなかった。

 若干の時間をおいて出席者の近況報告があった。さすがにこの歳になると仕事そのものの話は少なく、孫の話、ゴルフの話、健康の話・・などなどと多彩であった。
 私は秋田での同級会の後に続いた自転車の転倒、腸閉塞手術、脳梗塞発症、崖からの小滑落で危なかったことなどについて述べ、何の後遺症もない今の健康状態がいかに運が良く恵まれたものであるかを話し、次の物故者の有力な候補の一人であろうと述べた。

 宴会の始まりと共に幹事のH氏から新しい品種のコメ「新之助」の新米が一人3合配られた。コシヒカリを凌駕しうる新作で、正式発売は来年からとのことであったが幹事が並んで確保したのだという。

 同級会の前にはゴルフもセットされている。出席者の多くはこれにも参加するのも楽しみにしているようであるが、私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する懇親会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。だから、今回も席の周囲の数名と声を交わしただけである。何のために出席しているか分からないようなものである。しかし、それでも年に一回、私ども夫婦の生存報告を兼ねて同級生と挨拶を交わすだけで十分意義はあると思っている。

 二次会も用意されていたが、私は軽く酔い、かつ満腹で早々に部屋に戻り布団に入った。

 翌朝、朝食を摂りながら数名の方々と言葉を交わし、次回の再会を約して8:50新発田発の特急いなほで帰秋した。午後に秋田で家内の高校の同級会が開かれるためである。  
   (2016/10/15)





新潟大学46会同級会2016(4) 品種のコメ「新之助」 現美新幹線

 翌朝、朝食を摂りながら数名の方々と言葉を交わし、次回の再会を約して8:50新発田発の特急いなほで帰秋した。午後に秋田で家内の高校の同級会が開かれるためである。
新潟大学46会同級会2015(4) 新米「新之助」
 ▼品種のコメ「新之助」を食べた。
 宴会の始まりと共に幹事のH氏から新しい品種のコメ「新之助」の新米が一人3合配られた。コシヒカリを凌駕しうる新作で、正式発売は来年からとのことであったが新潟では今秋から先行販売されているという。幹事が並んで確保したのだという。
 品種改良の交配マップを見ると「新之助」にはコシヒカリ、秋田こまちの遺伝子が共に含まれているようだ。幹事の説明ではコシヒカリの遺伝子が25%含まれている、という。

 「新之助」は、新潟県農業総合研究所で平成20年から研究・開発してきた新潟の自信作。「新之助」は、コシヒカリより収穫時期がやや遅い晩生種。粒が大きく、収穫がコシヒカリより1週間程度遅いため夏の高温の影響を受けにくいこと、も特徴と言う。開発途中の平成22年には酷暑が襲い、コシヒカリなどの新潟米の品種低下があったが、新之助は品質低下がなく、暑さに強い品種であることが確認されている。

 新潟県ではコシヒカリの作付面積が70%を占めるという。その一方で、1品種に集中することで天候災害が起こった際に被害が増大することや、収穫時期が集中することで生産コストが増大することが課題となっていた。

 我が家では二人分、6合いただいた。翌日から3回ほどたいてみた。
 私は区別を述べるほどお米については知識はないが、通常我が家で食べている秋田こまちよりは大粒のように思われ、炊き上がった姿も張りがあって表面が艶やかなような気がする。食感はもち米様の粘りと弾力があるようだ。炊く度に一部はおにぎりにして食べたが、冷めても硬くなりにくく、おいしさが保たれているように思われた。

 私は初物を追っかけるような趣味はないが、「新之助」に関しては貴重な体験が出来た。幹事に感謝である。
 わずか3合からの体験であるが、「新之助」は多分、新潟県の思惑通り、コメの新種として今後普及していくだろう、と思った。

▼現美新幹線を見た。
 上越新幹線の越後湯沢〜新潟間に4月から運行されている世界最速の芸術鑑賞「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」を新潟駅で見た。新幹線で移動しながら現代アートを鑑賞するというユニークな発想でできた、ジョイフルトレインという。



 車両は旧秋田新幹線こまちを改造したもので秋田県人には親しみも感じるが、先頭車の前面は濃い藍色に塗られ、殆どの車両は窓のない構造で、その外面は綺麗なアートで満たされている。見事な変身にむしろ異様な感じも受けた。狭い駅舎から出て外を走っている姿はそれなりの見栄えがあるのではないだろうか。


(この車両は窓がある)
 「現美新幹線」は週末などを中心に、臨時列車「とき」として運転し、上越新幹線(越後湯沢〜新潟間)の各駅に停車する。
 自由席として乗車できるというので、時間があれば、と思ったが、本日は車両の外観だけで我慢せざるを得なかった。
(2016/10/15)


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