メールの怪(1)憎悪に憎悪を重ねるツールでもある
2004年5月、小学6年生が同級生の頸をカッターナイフで切り死亡させるとい
う、信じがたい事件が生じた。もうあれから2年も経つ。詳細はよく解らないが、誰もいない教室に呼び出し、後ろ側から斬りつけたらしく、傷の深さは
10cmもあったという。計画性と、かなり深い憎しみ感情があったことを推定させる。
11歳ほどの少女が抱く愛憎とはなんだろうか?私はそんなに根が深いものだとは
思っていない。ただし、加害者、被害者共にパソコンを自由に駆使し、ホームページさえ持っていて、通常からメールを頻繁に交換する仲であったらしいが、こ
のことが深く関連していると思う。
私はメールは便利ではあるものの、怪作用の一つとして、憎悪に憎悪を重ねてい
く、即ち「憎悪育成器」と言っても良いような道具にもなりうるツールだとも思っている。
私は、この事件はパソコンゲーム上で不利・不都合になったときに気軽にリセット
する感覚とほぼ同じ感覚で、被害者の少女はリセットされた、即ち、消されてしまったのだと思う。リセットとは完全消滅させる行為である。だから、そこには
手加減なんてあり得ない。100%消滅する結果だけ、即ち、目の前で即死することこそが重要なのだ。だから最大の力をふるったのだろう。陰惨、悲惨な事件
であった。
何でこの様になってきたのか。合理主義の近代科学文明は人間に備わっているべき
感性、情念を奪ってしまった事に起因するだろう。本来、子ども達はすべて生まれたときは「この世の王様」として生まれて来る。泣けば全ての欲求が満たされ
る。例外は生まれたときに数歩歩き、「天上・・・唯我独尊」と言ったとされるお釈迦様位だ。
子どもは成長過程で、自分に備わった五感全てを用いて周辺からあらゆる情報を吸
収し、生きる術を学んでいく。その過程で同時に、悲喜こもごも、愛憎、挫折などを体験し、徐々に自分は王様どころか、実は「大勢の中のたった一人の存在」
に過ぎない、と言う自覚が育って行く。それには10数年、いや、それ以上かかるものだと思う。時には、一生涯かかる場合もある。この感覚は、しかしなが
ら、人間としての成長と同義でもある。
そのような、人としての成長の基礎も作られないうちに合理的、ヴァーチャルな、
視覚だけの世界に接していくと感性等は育たない。「百聞は一見にしかず」ではなく、実は「百聞は一見に勝る」のだ。感性を備えるには時間がかかる。だか
ら、いわゆる、ゆっくり学習「スロー・ラーン」が必要なのだ。そういえば、数日前に小学校低学年から英語も教科に入れるようなことが報道されていた。
遊び感覚で学ぶ語学なら私は賛成なのだが・・。
(2006/4/12)
メールの怪(2)投書箱、葉書、手紙等とは一線を画すメールの内容
患者さん及びその家族から当院へ投書や手紙、メールにていろいろの意見や提言、
クレームが寄せられる。これに関して私はすべてに目を通し、どんな意見であっても「天の声」と考え前向きに対処している。
内容的にみて、広く患者さん方に知っていただきたい内容の場合、院長からの返事
を併せて玄関ホールに掲示している。また、住所や記名のある投書や手紙に対しては可能な範囲でご返事を差し上げている。
投書箱への投書は年齢的には20歳代から各年齢層に分布しているが、中年の方々
が中心で、メモ程度で、字数は少なく、書き殴り調で、内容もより直接的である。多くは匿名である。手紙によるものは圧倒的に中高年の方が多い。
手紙はクレームも少なくないが、どちらかというと礼状が多い。礼状のなかにソフ
トにクレーム的内容を含むが、一般的に好意的なものが多い。丁寧に記されているものが多く、見事な筆跡、文体に感心させられるものも少なくない。せっかく
の内容の豊かな手紙を戴きながら、匿名でご返事を差し上げられないのもある。
一方、メールによるものは、数は少ないが、圧倒的に若い年代に集中し、内容的に
はクレームが多く、かつ、徹底的に厳しい内容のものが多い。ここ半年ばかりの間に県医師会の相談メール、私個人宛のメール、当院ホームページを通じて届い
た当院の診療に関連するメールは私が知る範囲で14件ある。メールの場合には差出人が誰であるか分からなくとも返事を出せる仕組みであり、相手側も返事が
迅速にあって当然と言うつもりで書いているから、直ぐに対応しなければ2-3日後には追加のメールが来る。その際には更に内容が一層エスカレートしている
のが常である。
最近の14件をザッと見直してみたがその中の9件は手紙などよりは厳しいが、文
章も短く、比較的表現もソフトであった。当方からの返事メールに対し、直ぐに対応してくれた事へ礼を述べた返事が来て、それで対応は終了している。
残りの5件は長文であり、内容は時間が経った今見直してみてもメール特有の、こ
こは「怨念の自己増殖」部分だな、と思われる様な表現が随所にみられ、考えさせられる内容である。
(2006/4/13)
メールの怪(3)メールと書簡の違い
14件のメールの内、特に長文で内容的に厳しかったのは5件であった。このう
ち、4件は医療関係者からであった。以下はそのうちの一例である。
これでもか、これでもかと厳しい言葉が次々と折り重なっている。読んでいて圧倒
され、管理者として暗くなる文章である。心が痛む文章である。
心が痛む理由はメールの内容に対してではない。言いたい内容については出来るだ
け何を言いたいのか、真意は何かをくみ取り、実情を調査して状況を確かめたのは当然である。心が痛むのは、画面上で文章を綴って、次々と言葉を加え、文章
を重ねているその方の姿、心境についてである。
最初は一人の看護師の虐め
から始まり、翌日には複数が寄ってたかって虐め始めたそうです。集団で虐めるとはもってのほかです。子供の虐めと同じです。狂っているとしか言い様があり
ません。呆れてものが言えません。 彼女等は病棟の何なのですか?病棟あるいは病院の全員がそういう人たちなのですか?それとも一部の悪質なボスを中心と
して、周りが逆らえない何かがあるのですか? 管理者の神経を疑います。徹底的に調査して改善して下さい。被害者をこれ以上増やすべきではありません。全
く許せません。医療従事者として恥を知るべきです。同業者として信じられません。入院して不安に思っている患者の気持ちも解らない様なら、医療者として失
格です。早く辞めてしまった方が良いです。研修・教育病院の名も返上したらどうでしょうか。
この文章は、一部であって実際にはこの数倍の長さですごい内容がめんめんと続
く。お書きになった方は現場に立ち会っていない方である。知人から又聞きした内容に対し、家族として居たたまれなくなって抗議したくなったとのことであ
る。多分、書き始めた文章はこれほど激しくなかったと思うが、読み返しては単語を追記し、また読んでは文章を追記する、という形を取ったものと推定する。
この文章が私はメール文の特徴の一つだと思う。
紙による手紙の場合であったら、例えワープロで書いた文面であっても恐らくはこ
のような表現にはならないと思う。手紙は単に言いたいことを伝えるだけではなく、書く人本人をも表現する素晴らしいツールでもあるからである。
プリントされた場合には、読み返しながら文章としてのバランスを調整し、修正す
るだろうし、その過程で、選ぶ言葉も表現法も変わってくるはずである。私など自分で作った文章をプリントして見直す段階で、呆れて赤面する事も少なくな
い。何しろ、文章を読んで貰うと言うことは、自分自身を読んで貰うことと同義でもあるから、手を抜けないのである。
ところが、画面上で作られる文章は、実は文章ではなく、文章の形をした単なる画
面であり、画像なのだ、と私は思う。だから書簡とは異なる怖い一面を持つ、と思っている。
私は毎日のミニ随想は時間的な問題から画面上だけで作るので、過剰な表現をとら
ないようにと言うことだけには留意している。それでもお前の文章は過激だと指摘されることも少なくない。
(2006/4/18)
メールの怪(4)情感表現は苦手だが厳しい追求は得意
メールは実に便利なものである。贅肉をそぎ落とした内容で連絡し合うには最高に
便利である。
私はワープロ文でも、自筆の場合でも同じであるが、書簡として送る際には、季節
の話題や挨拶など、何らかの序文を添える。実はこの部分が一番困難で、かなり時間を費やす事もある。
書簡だと相手に失礼にならない表現になっているのか、と配慮するし、文章と共に私自身も読まれているのだ、と考えるから自然と緊張するからである。
一方、メールの場合には序文は一切書かない。せいぜい「前略」だけである。あとは要件だけを進めていく。そこに心はあまり伴っていない。大部分が単純な
手作業である。
メールの苦手とするところは人間的な、ファジーで、やさしい、ふんわりとした、
あたたかい心や感情の表現であろう。だから、メールでは恋文は書けないと私は思うのだが、今の若い方々は恋を語るとき、プロポーズをするときにメールを
使っているのだろうか?この部分は、もはや私の知識や考えの及ばない世界である。
無理して例文を作ってみると、私なら「私と付き合うと貴方は将来、資料1の如く
に多方面で得すると思われる。また、結婚すれば得するだろう内容を資料2として添付ファイルとして送ったので明日までに検討し、返信を・・・」こんな風に
書くような気がする。こんなプロポーズの文章なんてクリック一つで一瞬に消されてしまうだろう。
ところが、メールはこの逆が得意なのだ。即ち、分析的で白黒のはっきりした論旨
の展開にとても長けている、ということである。メールの世界にはグレイゾーンは存在しない。特に「分析的で、冷徹な、刃の如くの鋭い言葉、単語をしつこく
並べる」ことはことのほか得意である。そこで展開される文章は、画面上の画像と化し、ヴァーチャルの世界のことになり、画像を操作するのと同じ感覚で、手
作業で、湧き出てくる類似した言葉を屋根瓦を積み重ねるごとくにいくらでも重ねられる。
メールを用いない学者は極めて希であるが、文筆家、作家の多くは今でも原稿用紙
に万年筆や鉛筆で書くのだという。画面上で名文を書くのは難しいことは私もいくらかは理解できる。
以下のメールも実に厳しい内容でありました。
先日、夜間診療を受診しました。看護師さんから「なん
で日中受診できないのですか?」と言われました。
誰もが皆、日中にだけ体調不良を訴えると思っているのでしょうか。そちらの病院ではいつもこのような対応ですね。 私としては夜間にそちらにかかりたくな
いのですが、秋田では夜間診療できる病院が少ないので仕方なく受診しています。新患の受付が午前中しかやっていない病院でこのような対応をされたのは不快
です。
追伸。先日友人が夜間で受
診した時、診てもくれず逆に怒られたと言ってました。そして病院の診察に不審を感じ別の病院へ行ったらまったく違う診断でした。噂のとおり「信用できない
病院」ですね。
(2006/4/19)
メールの怪(5)女子中学生殺害にも関与?
つい一週間ほど前には中学3年の女子生徒が男子高校生に殺害された。
空き家になっているパチンコ店で会い、それほどの間をおかず鈍器で頭部を殴り、
更に頸を絞めて殺害したらしい。あらかじめ二人の間には携帯電話とかメールとかの交換を通じて感情のすれ違いが生じていたのではないかと思う。
15-6歳ほどの男女が抱く愛憎とはなんだろうか?小6女生徒の場合と同じよう
に私が理解できるはずもないが、根が深いものだとは思えない。現代の時代の特徴の一つと私がいつも挙げる、顔の見えない情報交換による「愛憎の一人歩
き」・「自己増殖」、「リセット感覚」での殺害なのかもしれない。
もう一つのメール投書である。
妹から病院にとんでもなく
無礼千万な人間がいると聞いて連絡しました。 患者を誹謗中傷する愚劣な発言を担当医は言ったそうです。赤の他人が自己中心的見解で決め付ける、ただの愚
者では済まされません。
仮にも医療に携わる人間な
らば、病気で苦しむ沢山の患者さんを心で以って支え、慈しみ、そして患者の家族も励ますのが、当たり前だと私は思います。その方の言葉で母や叔母たちはと
ても傷付き、ショックのあまり言葉も出なかった、とその場に居た叔母が言っていました。あまりにも残酷で、憤りを覚えない家族は誰もいません。本当に許せ
ません!そんな人として人の道を外れた人間が病院で働けるなんて信じられません! 本当に信じられない事実です。
人を傷付けていると気付か
ない人間に謝られても、怒りが増すばかりだと思いますが、多分、土下座されても許すことは出来ないと思います。そんな言葉を平気で吐ける人間は、私達家族
にはいません。周りにもいません。居たとしても先ず関わろうとは誰も思わないでしょう。なのに、何でそんな馬鹿な人がよりにもよって病院に存在するんです
か。酷過ぎます。
これも実に厳しい内容である。勿論、ここに記載された内容について私どもは謙虚
に受け止め、対応してきた。しかし、何度読見返しても苦しい記述・表現である。
今回、3例のメールによる投書の一部分を引用させていただいた。共通しているの
は、3例とも自分以外の家族とか友人の体験を情報源にして論旨を次々と展開し、次々と言葉を重ねていることと、一方ではいろいろ提言も含んでいることであ
る。このことの意味はまた後に論じたいと思う。
最後に、私はメールによるやりとりは単純な内容にとどめ、難しい内容の論争は
メールでやり取りすべきでないと考えている。その理由は、一言で言えば危険だからである。言葉尻をとらえる様な内容になりやすいし、誤解が誤解を呼ぶ様な
結果になりかねないからである。だから、複雑な内容のメールに対しても、私の返事は通常は相手の方に失礼かと思うほど、短く、単純である。
メールはとても便利である。利点も大きいが欠点も大きい。それをしっかりとわき
まえて利用したいものである。
(2006/4/27)