ジジババ・孫論2014
私には現在孫が3人いる。その成長は驚くことばかりである。孫たちの育ちぶりを見ていると飽きることはない。 もうひとつ興味深いのはその親たちの親としての成長過程である。親の子育てもつぶさに観察しているが、これもまた興味は尽きない。 孫は確かに可愛い。 血縁関係など分からない孫たちは、たまに接するジジババをどんな気持ちで接しているのだろうか。孫たちの気持ちは到底わからない。だからこそ面白い。 2014年にそんなことを考えながら14回記録した。 これはジジババの成長過程でもある。 |
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目次
(1)幼稚園生活発表会(1) 年長組、これでも『幼稚園」児なの?(2014/2/23)
(2)幼稚園生活発表会(2) 孫からみたジジ・ババ論 親の重圧から逃るオアシスに
(2014/2/24)
(3)育児は時代とともに様変わり( 2014/2/26)
(4)孫の共感の育成のためにジジババあえて乗り込む(2014/7/6)
(5)経済優先の考え方が反省期に入ったようだ( 2014/7/7)
(6)子どもの「共感力の発達」(1)核家族化(2014/7/10)
(7)子どもの「共感力の発達」(2)まず母親との間から(2014/7/11)
(8)子どもの「共感力の発達」(3)育児の基本( 2014/7/16)
(9)「まね」余談:私のネコは私のまねをした( 2014/7/17)
(10)「共感力」は「痛み」を教えることから(1)(2014/8/10)
(11)「共感力」は「痛み」を教えることから(2)痛み感覚の共有( 2014/8/11)
(12)「共感力」は「痛み」を教えることから(3)「つねって他人の痛さを教えよ」
( 2014/8/21)
(13)しつけに於ける親の責任(2014/9/27)
(14)しつけにおける社会の責任(2014/9/28)
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(1)ジジババ・孫論2014(1)幼稚園生活発表会(1)年長組、これでも『幼稚園」児なの?
本日、2/22(土)は 孫の幼稚園の生活発表会ということで、声がかかった。声をかけてきたと言う事は「出来れば来てほしい」と言う事だろう。その場にジジババがいる事だけでも意味があるだろうと考えて参加した。付録につなぎ温泉の一泊が用意されていた。
秋田は朝方から吹雪で降雪も激しかった。秋田発7:12こまちにはぎりぎり間に合った。全席完売と言う事であったが、幸いに盛岡までは座れた。盛岡は雲一つない快晴、道路脇に若干の雪が残っているだけ。2時間前は雪と格闘していただけに秋田の気候によるハンディキャップは小さくない。しかし、秋の豊かな実りのためには我慢我慢。
孫は4才で「X幼稚園」の年少組である。幼稚園の発表会は幼稚園の講堂?で行われた。大勢の園児達の黄色い声に触れるのは久々であったが、心地よく耳に響いた。本当に黄色である。声に色を付けた先人の知恵には感心する。
10:00-11:45の2時間弱、歌あり遊戯あり、小さな演劇ありであった。会は整然と進行した・・と言いたいが、実際にはそうではなかった。園児の様子はというと、個性豊かに行動する子が何人かいて担任の先生は実に大変そうであった。見ていた両親たちもハラハラしていたであろう。孫は私どもを見つけて壇上から盛んに手を振っていた。これだけでも来た甲斐があったと思った。
職員の方々の事前の準備、園児の練習、当日の運営など実にご苦労なことであった。
会が終わった後、園児たちは親たちと待ち合わせて一緒に帰ったが、何れの子供たちも緊張がとれて満足げ、かつはつらつとした様子がとても愛らしかった。
年長組はあと一月後には小学生である。年少・年中組とは明らかに異なる成長ぶりであった。劇や歌う曲目などは自分たちで選択し、内容も考えたのだそうだ。ここまで成長した子供たちを育成する施設が「幼稚園」というのも必ずしもそぐわない様な気がした。
全員で昼食をゆっくり摂り、16:00頃つなぎ温泉ホテル大観に到着した。家内は疲れていたのであろう、2時間ほど深く眠ってしまった。私はインターネットも繋がらない非日常的環境で読書三昧で過ごせたのがよかった。
私は風呂好きである。温泉地では私は夜から早朝にかけて誰もいない浴場に通い7-8回も入浴するのであるが、部屋と大浴場の間が驚くほど遠くて4回しか入れなかった。これは残念な事であった。
(2014/2/23)
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(2)ジジババ・孫論2014(2)幼稚園生活発表会(2)孫からみたジジ・ババ論 親の重圧から逃るオアシスに
まあ、なんであれ孫に接する時間がある事はとても良い事だと思う。孫は確かに可愛い。血縁関係など分からない孫たちは、たまに接するだけのジジババはどんな存在なのだろうか。我が家の孫たちはひげ面のジジを何だと思っているのだろうか。興味がある。私は孫たちを単に可愛いか否かではなく、孫たちとは出来るだけ接しなければならない義務がある、と考えている。
とはいえ、私は孫たちのペース、活動力に到底対応出来ず疲弊してしまう。辛いのだが、孫たちとは時間を作って接しなければならないのだ、と思っている。
子供が2歳3歳と年齢を重ねていくと、親の「しつけ」が始まる。当然の事である。しつけにおいては「けじめ≒がまん」などの言葉と威圧が子供を縛る。子供は本来自由にしていたいものであり、威圧などして欲しくないはずである。核家族での子育て、狭い住宅の中で親とべったりの生活の中で育てられる現代っ子。親も大変であるが、子供の側も大変だろう。
絶対に逃れられない親子の関係の中で、「しつけ」を介して親と子供は強い緊張関係にある・・、と私は感じている。これは子供の側から見れば大変な事と思う。この年代の子供の行動の基本は甘えだから、いろいろな要求をして、表情をして、いろいろな仕草を仕掛けて、どうすれば緊張関係から甘えの関係に切り換える事が出来るか、年端も行かない子供は常に探っている。親の緊張関係から逃れようとしている。子供の「赤ちゃんがえり」現象はその駆け引きの結果だろうと思う。
子どもを親の重圧から解放し、自由な感覚のなかで過させる時間がなければ子供は重圧に負ける。そのときに必要な条件は、親と子の間に第三者が介在する事だろう。この際、他人の関係では駄目である。ジジババである事に意味がある。
自分の両親とジジババの間で交わされる親密な人間関係が、自分に向けられる視線と同一である事を子供たちは見抜き、そこに安心感を得てジジババを含めた三角関係が構築されて行く。しかも、両親とジジババの子育ての考え方の違いも見抜く。ジジババからも親と共通のしつけの言葉が発せられても軽い。威圧なんて殆どない。しつけに関する責任もないからである。子供にとっては救いのはずである。しかし、ここで必要なのは、両親とジジババの子育ての考え方が同心円上にある事である。勿論、両親が同心円上の中心である事は論をまたない。この中心点の軸が狂っていてジジババによる甘やかし放題、おやつの買い与えなどが表面化すると、特に女同士の諍いの原因になり、子供は大人の顔色をうかがうようになる。
孫とジジババの人間的関係の構築には両親とジジババ間の関係がホットであるとの前提が重要である。少なくとも孫の前では互いに誹りあう事などはあってはならない。要するに、良き子育ての前には「敬老の精神」がなければならないと言う事である。
こんな事を考えながら、内心ではホントかいな、と思いながら私は孫と接している。
(2014/2/24)
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(3)ジジババ・孫論2014(3) 育児は時代とともに様変わり
孫は確かに可愛い。私は孫たちを単に可愛いか否かではなく、その発達段階を観察し自分の目で楽しんでいる。孫たちの発達に取ってジジババの存在の意義は何なのか?そんな事を考えている。ジジババには孫たちと出来るだけ多く接しなければならない義務がある、とも考えている。
わが家の孫は4歳、2歳、間もなく1歳の3人である。前二者は盛岡に、後者は横浜在である。年に数回わが家を訪れる。前者は次男夫婦のサービスなのだろう、ちょっとした時にも機会を作ってくれる。後者は長女の息抜き帰省の様である。先方にはジジは滅多に出かける事はないが、ババは時折会いにいっている。
私は孫たちにたまに会うだけだから会う度毎にその成長ぶりに驚かされる。私にこんなに驚きを感じさせる対象物が3人もいるのに十分観察しないのは片手落ちで勿体ない。そんな目で私は孫たちをとらえている。
私も一応3人の子供を育てた。当時の子育てと今はかなり様相が異なっている。私は自分の育った環境から考えて、出来るだけ、大勢の、子供たちが多い環境、さらに出来れば親族たちの中で育てられるのが理想だと考えていた。
私自身は比較的大勢の大人たちの中で、大事にされて育ったが寂しい子供時代だった。私は小学一年から高校卒業まで一匹のネコと心身とも戯れながら暮らした。中高生のころは離れで二人で?暮らしたが最高の安らぎであった。このネコの生き様から教わった事、特に生老病死について教わった事は大きい。死別してから50年以上も経つが、未だにそっと声をかけ、心の中で戯れている。
そんな中、私どもは夫婦の医師としての勉強のために、子育てのために秋田で過ごす事となった。縁あって家内のおばにあたる石井さんとその子供たちと同居し、隣家には義姉と3人の子供たちがいた。こんな環境の中でわが家の子供たち3人は成長した。喜怒哀楽もそれなりにあったようだが、子供たちもいい環境で育った・・と思っているに違いない。私も満足している。
ひと世代異なった今、盛岡、横浜では核家族の中で子育て中である。核家族の中で育つ子供は、人とのふれあいをどう構築して行くのか、さきざき環境にどう対応して行くのかなど、ちょっと気にかけながら、観察して行こうと思っている。
(2014/2/26)
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(4)ジジババ・孫論2014(4)孫の共感の育成のためにジジババあえて乗り込む
先月、6月14日(土)生まれた仔犬を見に家族が集まるので私も参加するか?と訪ねられた。私に世代間ギャップ、疎外感を抱かせない様に、と言う子ども達の配慮だろう。
まあ、何であれ、孫たちが親以外の人間、ジジババと接する機会を持つこと事はとても良い事だと思っているので参加した。
孫は可愛い。私はそれとは別の興味があって孫たちに接している。自分の子育ての最中には深く考えなかった子供の発達過程に興味を感じているからである。そのために散発的ではあるが幼児や小児の精神の発達に関連する書籍、文献も読んでいる。
この時代、核家族の中で子どもは育てられる。この育児環境は育つ側から見ても決して良いとは思っていない。私が育った環境は他人数家庭であった。我が家の3人の子ども達も大勢の子ども達がいる環境の中で育った。私はとても良かったと思っている。
時代柄、世の中の趨勢から、もう多人数家族には戻れないが、子どもの発達段階に於いて、特に人間関係,共感力の確立のためにとても不自然な環境だと思っている。 ジジババとしては出来るだけ頻回に接しなければならない、と考えている。
ところで、何で核家族化が進んだのだろうか?
旺盛な経済活動の結果であって、子どもは被害者だ、と思う。
核家族化の進展は、日本が農耕文化から急速に工業化に進んだために、若い世代を中心に人口移動が生じたことがきっかけである。平成4年には全就業者の約8割が雇用者という状態に、平成2年には親族世帯のうち77,6%が核家族世帯となっている。
このような核家族世帯の増加は、子供が狭い環境の中で、両親の価値観のみで、あるいは父親が多忙で育児に関与し難い家庭では母親中心の価値観の中だけで育つことになる。また、若い親世代がジジババ世代の受け入れを忌避する傾向もある様に思われる。
結果的に、ジジババと子ども達が日常的にふれあうことが無くなり、ジジババの持つ、親にはない穏やかさや暖かさ、優しさなどを学ぶする機会を減少させた。それは、子供の心の中に自分のジジババを介しての高齢世代や他人に対する理解やいたわり、思いやりといった共感の感情が育つのを妨げることにもなりかねない、と私は思っている。
そこで、休日などを利用して祖父母を訪問したり、子供と高齢者がふれあう機会を作りだしていくことなどが今後重要になるであろう。
だから、孫達の共感力の育成のためにジジはあえて乗り込むことにした。
(2014/7/6)
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(5)ジジババ・孫論2014(5) 経済優先の考え方が反省期に入ったようだ
核家族化は時代の趨勢であるが、子どもの養育の面にもたらしたネガティブな影響は小さくない。
経済優先の社会構造は若い世代に核家族化をもたらしただけでなく、女性の職場進出も進み、両親は日中は家にいない家庭が増えて来ている。これによって、家事、育児等の家族が持つ機能のいくつかが家庭外に委託されるようになり,本来持つ家庭機能は縮小化した。
核家族化のメリットもあるが、家庭機能は縮小は、両親、子供双方に余裕のない生活を強いる。それは、家族間の絆や情緒的結びつきを弱めるという面を持つ。この事は成長過程のこども達に大なり小なり影響を及ぼす、だろう。
私は長女が誕生した時点から核家族化の問題を上記の様に考え、子どものために何とかしなければ、と考えていた。
そのため、私が判断したことは、
■私ども夫婦だけでの子育ては困難、
■子育ては血縁者のいる環境がベター。私どもに取って盛岡市も候補だが、家内の出身地の秋田がより相応しい。
■私はかねてから「血液の臨床」を勉強したいと思っていたが、秋田で子育てと両立出来る環境を得られそうであった。
■当初、家内のおばさんに通いの形で子育て、家事、食事一切を委ねた。
■後におばさんとその娘二人と同居することとなった。我家の子どもも三人となり8人の大家族に。一時盛岡の父も引き取ったので9人となった。
■秋田では家内の両親を核にした豊かな人間関係があった。
この大勢の中で成長した我が家の子ども達に取って、かけがえのない経験になったはずだ、と私は思っている。勿論、目に見える変化ではないが。
核家族化による家族機能の変化は少子化と無関係ではない。出生率の低下の原因として一番多く挙げられているのは経済的な負担であるが、育児そのものの負担の増加も大きい。私どもだけでは多分3人の子育てと仕事との両立は不可能だったと思う。
ある調査で、「家族機能に何を求めるのか?」と言う設問に対して、53.6%の人が「心の安らぎ」と回答している。これは、人が家族を最小の社会的単位としている以上、「やすらぎ」は普遍的な要求と思われる。とくに、子どもに情緒面でより豊かな環境を与えたいと願わない親はいないはずはないが、現実にそのための選択肢は乏しいのが現実であった。
最近、子育てに関して変化が生じてきている。女性の育児休暇の取得率の向上とイクメンの登場である。社会も変わりつつある、労働に対する考え方も変りつつある。人生観も変わってきた。
やっと、経済効率優先から家庭のあり様についての振り返りと実践が始まった、と思う。子育ての重要性、特に子どもの情緒面での発達を大切にすると言う考え方が見直されてきた。 ( 2014/7/7)
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(6)ジジババ・孫論2014(6) 子どもの「共感力の発達」と核家族化
核家族とはいろんな組み合わせがあるが、簡単に言えば、ジジババと同居していない家族、あるいはジジババだけ、と言うことであるが、一般的には前者を指す。
核家族は増加傾向にあり、全体の60%を占める。主に経済的な社会構造の変化によるが、世代間の人間関係の希薄化も背景の一つとなっている。
核家族化の是非についてはいろんな意見があろうが、一つ、子供の成長に関して、とりわけ、「人間としての最大の特徴である共感力の育成」の面で私は問題があると思っている。だからと言って、もう多世代同居時代にはもう戻らないだろう。そうであれば、核家族下での子育はその問題点を認識してそれなりの配慮が必要である。
人間の歴史は300万年と言われる。今は飽食の時代と言われているが、歴史の99.99%は飢餓との闘いであり、飽食出来るのは一部の先進国だけで、それもたかだかこの100年程度である。そのために過食による健康上のひずみが生じてきている。過食、肥満対策は今や喫緊の問題である。
核家族化も同様である。わが国では核家族化の流れはまだ半世紀程度でしかない。それまでは子育て、家庭内教育などは多人数で分担して行ってきた。今は、核家族の中で両親が、あるいは父親が多忙だったりすれば、母親が一人で奮闘している。その様は状況は各所に垣間見ることが出来る。その努力には本当に頭が下がる。
一般的に若い世代の核家族による子育ては、心理的にも、経済的にも、マンパワーの面でも余裕が乏しく、両親の間にも、子どもとの関係に於いても、過剰な緊張関係が慢性的に生じているのではないだろうか。
私自身はそういう子育て環境を持ったことがないから何とも言い難いが、結果として、「家庭の育児力・教育力の低下」、「共感の乏しさ」、「人間関係の希薄化」、「非行」、「不登校」、「児童虐待」、「DV」などのキーワードで語られる問題の一因に核家族化を影響を挙げざるをえない。
その中では、特に「人間としての最大の特徴である共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。
(2014/7/10)
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(7)ジジババ・孫論2014(7) 子どもの「共感力の発達」はまず母親との間から
家内は休日を利用して頻回に孫に会いにいく。とても良いことである。
私は滅多に孫と会うことはないが、会う度にその発達ぶり、成長ぶりをつぶさに観察し、密かに楽しんでいる。
人は生まれた時に出来ることと言えば、泣くことと、吸啜だけであとは何も出来ない。こんな状況で生まれてくる動物は他にはない。だから、新生児期の子育ては大変であり、しかも、成長、知的発達もゆっくりしている。人が半人前になるまでに10年以上もかかる。
にもかかわらず、人は2-3年の短い間隔で子を産む。手がかかる子どもを抱えながら次の子を産む動物も、私が知る限りにおいて他にはない。
それが長い間、人間で可能だったと言うことは、多人数の家族間で子育てしたから出来たことであって、母親が中心になって子育てをしている現代の育児環境は決して自然でない。そのしわ寄せは子どもに及び、ストレスは母に及び、そして父親にも及んでいく。
核家族のでの子育ての苦労は大変で、イクメンとしての夫の協力がえられないと、夫を厳しく評価するだけでなく「もう子どもなんて生むか・・」と言うことになる。こんな状況では少子化になるのは当たり前である。この辺にもジジババ、特にババの支援が重要である。
現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。その中でも、特に「人間としての最大の特徴である子どもの共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。
新生児は周りのことから多くのことを学ぶ。毎日が学習の日々である。母の顔の認識は2ヶ月ほどからで、他の人と区別が出来る様になるらしい。コアとなる対象は多くの場合は母親であるが、私はいわゆる動物で観察されるインプリンティングに似た様な現象ではないか、と思っている。
新生児は快適な状況では反射的に笑顔を作るとされている。1ヶ月頃から赤ちゃんが笑っているように見えたり、眠りながらふっと笑顔を見せてくれる瞬間が見られる。生理的微笑や新生児微笑ともいわれるが、この時点では、笑おうと意識して笑顔を作っているわけではない。繊細な表情を作る顔面筋が発達し始めた結果である。この笑いの表情で周囲の者が、特に母親が一層良い表情をになり、自分に優しくしてくれることを学習する。その結果、目的を持って笑顔を繰り返すようになる。
これが最初の「共感の原始的始まり」である。
次いで、多くの人からあやされることを通じて 、母親以外の異なる人もいると言うことの認識、母親と別の人間の存在の認識である。この時期には例え核家族であっても機会を見つけては他人との関係を経験させることに意味があるらしい。
これが最初の「社会性の原始的始まり」である。
次の共感の獲得は赤ちゃんのモノマネの行為である。
( 2014/7/11)
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?(8)ジジババ・孫論2014(8)「共感」、「共感力」の育成が育児の基本
現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。その中でも、特に「人間としての最大の特徴である子どもの共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。
共感とは何か? あまり定義しない方が良いように思うが、簡単に「他人の意見や体験、感情を共有すること。芸術作品や自然などから受ける感情も含む」,とでもしておこう。
豊かな共感力は人に特有,とされている。一般的動物と異なる人間のユニークさは、他人の喜び・感情にも共感してしまう事だと思われる。ネガティブな共感力は動物にもあるが、危機感、恐怖感と関連した情報の共有・伝達であり、それは保身のため、命を守るためにの感情でもある。
人間は他人の喜び、ハッピーなことに対しても共感してしまう。共感力は信頼感覚にも繋がり、人間同士を連結する重要な能力となる。他人に共感を持てなければ人間関係は全然成り立たない。
この共感する能力をどう育てていくか。それが人間として育てる育児の中で最も重要な課題の一つである。
ヒトは生後数日から「まね」をする、とされる。「まね」こそが共感の発達のスタート,と考えられる(京都大学大学院准教授明和政子氏)。「まね」することの大事さは「まね」を通じて学習が行われるし、共感が育っていくからである。「まね」は他人のこころに気づく過程でもある。「まね」をするから共感する。共感するから「まね」をする。
子どもはよく笑う。最初は反射的な現象であったかもしれないが、相手の笑いの行為を通じて他人の,多くの場合は母親の、うれしい気持ちに気づいていく。成長とともに単にうれしさだけでなく、母親の表情から怒りや哀しみなどの感情にも気づく。何れは親以外の他者の存在にも気づき、親と他人との違い、も知って来る。
「まね」から共感が生じてくる。社会性が養われていく。この段階では、子どもが安心して「まね」が出来る対象者は多いほど良い。ここでは、やはりジジババの登場である。両親と良い関係にあるジジババの表情は両親の表情そのものよりも優しい。子どもにとってオアシスだろう。ここに、ジジババにしかない価値がある。
ところで、「猿まね」と言う言葉がある。辞書には「猿が人の動作をまねるように、人がむやみに他人の真似をすること」、と記載されているが、前述の明和政子氏は「猿やチンパンジーは人のまねはしない。誤解されている。反対に、人はしょっちゅう猿のまねをしている」と述べている。
霊長類でも「まね」をしないなら他の動物、例えばネコは「ネコまね」をするのだろうか??私はネコのことしか知らないが、ネコは「まね」をする、と思う。
(2014/7/16)
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(9)ジジババ・孫論2014(9)「まね」余談:私のネコは私のまねをした
霊長類でも「まね」をしない(京都大学大学院准教授明和政子氏)なら、他の動物、例えばネコは「ネコまね」をするのだろうか??私は一匹のネコのことしか知らないが、私のネコは「まね」をした、と確信している。
私が小学一年の秋から飼ったネコは13年間,高校卒業まで私の最愛の友であった。学校に行っている時間以外は殆ど一緒に過ごしたから、生老病死の現実を含め生き物としての一面を観察出来たし、教えてくれた恩ネコである。もう50年も前の事である。
このネコは私が勉強している時は机の角に置いた座布団の上で過ごすのが常であった。
■三三七拍子のリズムを取った。
ネコに短い尻尾の種類があるのか否かは知らないが、このネコははじめから10cmと短い尻尾であった.それが3−4歳の頃、犬にでも襲われたのか、先端の4cmほど骨が露出し、血まみれ状態で戻って来た。露出した骨を私はハサミで切断した。もともとの傷が痛かったのだろう、特に騒ぐ事もなかった。傷は化膿する事もなく一週間ほどで癒えた。だから,ネコの尻尾は5−6cmと短かくなった。そのためか、くるくると回す等よく動いた。
ある日,鉛筆で机をたたいていたらそれに合わせてネコも尻尾をタンタンと動かしているのに気づいた。たたく間隔を空けてみたり,リズムを替えてみたり何度か試みたがそれに応じて反応している。3つたたくと3回、5回なら5回尻尾を振る。毎回2−3分で飽きるみたいであったが、機嫌良くまどろんでいる時は互いにこんなことをして遊んでいた。ネコの表情も満足げであった。
何処までまね出来るのか?何度も何度も練習させたら何とか三三七拍子のリズムまで覚えてしまった。楽しい交流であった。わが家の「ネコ」まねをした。
■手を握ると握り返した。
ネコの手は握るのにちょうどいいサイズである。ツメを出さない状態の手は形も良い。私は勉強の傍ら、机上で休んでいるネコの手をそっと握っているのが好きだった。かなり長時間握っていても嫌がらなかった。
そのうち、私がちょっと力を入れて握ると,ネコも軽く爪を立てる様になった。熟睡している時はさすがに握り返さなかったが、私とネコのコミュニケーションの一つであった。
九官鳥等ヒトの言葉を覚えるとされているが、どんな気持ちでやっているのか?分からない。しかし,これも広く「まね」ととらえると、ヒト以外でも物まねする動物は結構いるのではないか?と思う。
(2014/7/17)
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(10)ジジババ・孫論2014(10)「共感」、「共感力」は「痛み」を教えることから(1)
現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。核家族での子育て環境にも問題がある。時代柄親子関係の有り様も変った。
私は、特に「人間としての最大の特徴である共感力の育成」の面で問題がある、と思っている。
共感とは何か? 簡単に「他者の意見や体験、感情を共有出来る能力」,とでもしておこう。
豊かな共感力は人に特有,とされている。共感力は信頼感覚にも繋がり、人間同士を連結する重要な能力となる。他人との間に共感を持てなければ人間関係は全く成り立たない、と言って良い。この他者と共感する能力をどう育てていくか。それが育児の中で最も重要な課題の一つである。
人間の特徴の一つである「まね」する行為を利用するのも良い。「まね」は共感の発達のスタート,と言う学説もある。「まね」は他人のこころに気づく過程でもある。「まね」を通じて共感する。共感するから「まね」をする。
次の重要なしつけは「痛み」感覚の共有なのではないかと私は思う。
子どもの痛覚がいつ頃から発達するかは分からないが、「痛み」感覚は生まれたときから備わっていると考えるのが一般的である。ただ、おむつが濡れた感覚、暑い寒いの感覚などと明快な区別がない「不快な感覚」として感じるのだろう。おそらく、これらの感覚は、脳が発達していく過程で識別されていくのだろう。
「痛み」感覚は身を守るための貴重な情報源であると同時に、人間にとって最も不快な 感覚のひとつである。
生後1年ほどの時期、乳児の手背の皮膚をつねると明らかに不快な表情をする。他の不快観とは異なる表情と、逃れる動作をする。この頃には「痛み」感覚が発達していることを示唆している。ハイハイから立ち上がる時期になると「痛み」感覚がもとになっていると思われる防御的行動が見られる。何でもやみくもに立ち上がるのではなく周囲の状況を観察して身を守っている。
さらに心身ともに発達すると徐々にイタズラが増えて来る。乳幼児にとって自分の行いに大人から見る様な善悪の区別は無い。この善悪を教え込むのに「痛み」感覚を利用すべきである。
私の子育ての過程では、禁止事項のレベルに応じて、声かけ→手背の皮膚をつねる→頭を軽くゲンコ→尻を平手で叩く、の4段階であった。今も間違っていたとは思っていないが、息子の子育てを見ていると声かけを重視しているようである。時代なのかな?と思う。 ( 2014/8/10)
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(11)ジジババ・孫論2014(11)「共感力」の育成は「痛み」を教えることから(2) 痛み感覚の共有
子どもの痛覚がいつ頃から発達するかは私は分からない。
娩出される過程は赤ん坊にとっても厳しい環境であるはずだ。「狭い」、「圧迫」、「暗い」、「長い時間と距離」、「・・・」、この間どう感じているのだろうか。娩出直後の様子から見て意識が無いわけではなかろう。何らかの感覚はあるのだろうが,混沌とした訳の分からない妙な感覚だろうが,私は覚えていない。孫に聞いてみたが「ハア?」,と言うだけで教えてくれない。
新生児期に何らかの手術を受ける赤ちゃんは少なくないが、術後の様子を見ていると大人の様子とは全く異なる。私の目から見れば痛いはずだが、様子からはそうは見えない。かなり鈍い?殆ど感じていないのでは?とさえ思う。
「痛み」の原始的な感覚は不快な感覚の一つとして生まれたときから備わっているのだろうが、具体的なものでなかろう。脳が発達していく過程で「痛み」として識別されていくのだろう。
「痛み」感覚は危険を感知する重要なセンサーである。不快感から徐々に具体的な感覚になる。自分を害する可能性がある「不快感を痛いと感じるためには情動的な感覚へと変換が必要」である。その区別がつき始めると「痛み」として徐々に意味のある存在となる。高等生物ほど痛覚神経が発達していて、特に霊長類やヒトなどは小さな物理的刺激でも痛みとして感じる様になる。
私は長く一緒に暮らしたネコには痛覚がある事は教わった。安全ピンでちょっと刺したら優しくたしなめられた。今,魚に「痛み」感覚があるのかどうか、調べている。大量に水揚げされた魚達の,あるいは釣り上げられた魚達に苦痛の表情を読み取れない。これはしょっちゅうお世話になっている私にとって大きな救いである。まだ魚の「痛み」感覚の有無について結論は得ていないが、「魚の生き造り」は人間の奢りで許し難い。
「魚の生き造り」などを愛でる大人達の感覚がこども達の情操に与える影響は小さくないだろう。佐世保の事件等に繋がらないか?と思う。
「痛み」感覚は不快な感覚であるが、これが無いと、生存に著しく不利である。「痛み」感覚は全く感じない特別な疾患の患者を除くとほぼ万人に共通な感覚である。自分と同じ「痛み」感覚が他人にも、動物にもある事を教える事は、「共感力」を養うために極めて重要である。そのためには痛みを経験させる事は、子育て上重要である。
(2014/8/11)
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(12)ジジババ・孫論2014(12)「共感力」の育成は「痛み」から(3)「つねって他人の痛さを教えよ」
「痛み」は生まれたときから備わっているのだろうが、赤ん坊のときは具体的なものでなく、不快な感覚の一つなのだと思う。脳が発達し、言語が発達していく過程で「痛み」として識別されていく。言語化して行く過程で不快感から徐々に「痛み」と言う具体的な感覚になる。
「痛み」感覚は不快な感覚であるが、身体防御のために重要である。これを欠くと、生存に著しく不利である。
「痛み」感覚はほぼ万人に共通な感覚である。自分と同じ「痛み」感覚が他人にも、動物にもある事を教える事は、人としての「共感力」を養う基本である。そのためには適切な「痛み」を体験させる事が重要である。生きるために身を守る、危険を教え込む必要があるが、その時には「痛み」感覚を利用すべきである。
言葉を覚え始めた頃の幼児が救急外来に受診する事は多いが、中耳炎で耳が痛くとも頭が痛くとも「ポンポンが痛い」と表現する。母が何となく不機嫌な子供に対して「ポンポンが痛いの??」と問いかける事から痛みの表現法を学習している過程である。
「わが身をつねって人の痛さを知れ」とか「足を踏まれたことがない人は踏まれたときの痛みがわからない」とよく言われる。つねられて痛かった体感を持つ人は、面白半分や無目的に、人をつねるようなことはしない。人が社会の中で成長していく過程において、痛みを体験させることは教育的に必要である。そういう経験を通じて、人の痛みに対する共感力、想像力も育ち、自分の行動を制御していく。
稀ながら「痛み」を感じない先天性無痛症と言う疾患がある。痛みを感じない子供は、「痛み」による防御反応が欠如しているため自傷,他傷を受け易い。外傷でも疼痛は無いから行動に制御がかからず外傷死に至る事もある。内臓痛も無いために命の危険もある。
この疾患の場合にもっと重大なのは「他人の痛みを全く理解出来ない」事である。他人と「痛み」感覚の共感力が育だたずに性格が粗暴になり暴力行為に走り易い。社会生活に順応困難になる。
「痛み」の感覚は生命を守るだけでなく、他人との共感力を養うのに重要である。最近の子育てではこの面での教育が乏しくなっているのではないか?結果として他人と「痛み」を共有出来なくなっていないか? いじめ問題の背景にもなっていないか。私は話して理解出来るまでの間は軽い「痛み」を利用するのがいいと確信している。「わが子をつねって、他人の痛さを教えよ」である。
「梅干し」を頬張る姿を見ただけで「酸っぱさ」が伝わってくる。これぞ共感である。視覚を通じての生理的反射作用でもあるのだが、「梅干し」文化の無い外国人は恐らく何も感じないはずである。「痛み」の経験はこれと同じ効果がある。
( 2014/8/21)
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(13)ジジババ・孫論2014(13) しつけに於ける親の責任
今年は孫の幼稚園の運動会にはジジババが参加、学習参観日にはババが参加した。
その際、面白いことに気づいた。しつけなどに関して自我が少しずつ発達している孫二人は、親の言いつけは中なか守らないが、口だけは達者になり、親の言い方をしっかりまねしながら二人が互いに言い合っている。一部など、まるで親の発言そのものでもある。こども達は親をしっかり見ているものだと感心している。
人間の学習の大半はまねによって学ぶ。教え込んだりするよりも、多くは日常的に見聞きしていることを、まねすることで身に付けていく。だから、しつけは親やジジババが「口で言うより、日常手本を示していること」が肝要である。
例えば、挨拶一つとっても親が普段から家庭内でも、あるいはご近所の中でも気持ちよく挨拶する姿を見せていれば、子どもにとってそれが当たり前の姿に映り、自然に身に付く様になる。そのためには、家庭内では両親間の間柄、ジジババ世代との人間関係、少なくとも隣近所あたりの人間関係が良くなくてはならない。
多くの親は、子どもには社会生活に自然に入って行ける様、「当たり前」のことを「当たり前」に出来る様になってほしいと願う。そのためには、まず親自身が「当たり前のことを当たり前にする姿勢」を示し続けることが最も重要なことである。しかも、その姿勢は絶え間なく一貫していなければならない。これは大変なことである。少なくとも自我が発達して親離れが始まってくる年代に至る迄はそうあって欲しい。
中学生頃、高校生の頃になると親とのコミュニケーションよりも友人同士で互いの考え方の擦り合わせが行われる様になる。
少しずつ親との間の距離が広がっていく。これは成長過程の当たり前の姿であるが、それ迄の間と違い、その過程とは異なる価値観が家庭内に入って来る。親との摩擦も次第に増えて来る。親としてしつけるべき社会性の基礎的能力は、それ迄の間に養っておかなければならないだろう。
(2014/9/27)
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(14)ジジババ・孫論2014(14) しつけにおける社会の責任
子どもの社会は、よくも悪くも大人の社会の影響を受ける。
この情報化社会、子どもは大人社会から隔絶された純粋培養の社会ではあり得ない。子どもには興味津々たる大人社会の現実のニュースが次々と飛び込んで来る。
最近生じた例を多少挙げて見る。子供達の目には何と映ったのか。それを知る方法は私は持ち合わせていないが、興味はある。
■いじめ問題:これは大きな教育課題である。国レベルでも対策が講じられた。しかし、いじめは学校だけでなく、職場や地域など一般社会でも起きている。子ども社会の手本は大人社会にも多数ある。教員の不祥事は教育成果も水泡に帰してしまう。海上自衛隊、某県県警などの件が大きく報道された。
■東京都議会の女性都議セクハラやじ問題。
■現代のベート−ベン氏のゴーストライター事件
■某県県議の号泣会見
■STAP細胞関連
■食品偽装問題
■女児誘拐・・・・・。
これらはみんな「こんなことしても良いんだろうか、いや、そうであってはならない・・」と反道徳の教育材料とな成り得る事件であった。
学校では、家庭でも、多分「正直であれ・・」と教えているはずであるが、上記のごとくの事件は「正直でなくても許されるのではないか?」と言う発想を植え付けてしまいかねない。
勿論、この世の中は聖人君主ばかりではない、いや、逆で凡人から成っている、と言って良い。だから、社会では「よろしくない」ことはしばしば起きるし、起こす。これが社会の現実でもある。
だからこそ、「よろしくない」ことを正視して、教育的に生かすことが重要である。その際の要になるのは親であり、ジジババであり、教育者であろう。
( 2014/9/28)
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