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医療の時代と死生観
仏教用語で人生には免れることのできない四つの苦しみがあるとされる。すなわち生老病死である。生まれること,年をとること,病気をすること,死ぬこと、これを合わせて四苦という。 誰でも人は生きて死ぬ。これが生物としての自然の姿である。死ぬべき状態の時は死ぬしかなかった。 江戸末期から少しずつ、明治時代は大きく医療が発達した。 戦後は、医療医学の発達はめざましいものがある。 その結果、人間は若干ではあるが科学的知見を応用して健康状態を修飾することができるようになってきた。 私は現代人の死について、とくに医療との関連でいろいろ考えてきた。 結論は、人は誰でも、とくに高齢者は自分の死についてどうあるべきか、「自分なりの死生観」を考えておかなければならない時代になった、と思う。 |
目次
8月21日 医療の時代と死生観2015(1) はじめに
8月22日 医療の時代と死生観2015(2) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(1) 虚弱児
8月24日 医療の時代と死生観2015(3) 医療の歴史を振り返る(1) 出産を例に考える
8月25日 医療の時代と死生観2015(4) 医療の歴史を振り返る(2) 子どもの死亡を例に考える
8月26日 医療の時代と死生観2015(5) 医療の歴史を振り返る(3) 疫病と天皇
8月27日 医療の時代と死生観2015(6) 医療の歴史を振り返る(4) 戦後日本人は死を忘れてい
9月02日 医療の時代と死生観2015(7) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(2) 臨死体験
9月03日 医療の時代と死生観2015(8) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(3) 祈祷に委ねられた
9月04日 医療の時代と死生観2015(9) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(4) 祖父母、両親の死
9月05日 医療の時代と死生観2015(10) 自分の場合 私の医療観は奇異に映った?(5)
9月11日 医療の時代と死生観2015(11) 健康寿命 平均寿命 平均余命
9月12日 医療の時代と死生観2015(12) 人間の特性 知能が高いゆえの不安
9月13日 医療の時代と死生観2015(13) 不安・恐怖の解消のために
9月14日 医療の時代と死生観2015(14) 自然宗教感の衰退で「いのち」が語られなくなった
9月15日 医療の時代と死生観2015(15) 医療の時代はいつからか? やはり国民健康保険以降だろう
9月22日 医療の時代と死生観2015(16) 医療と医学の発達 死を語らず遠ざけた時代に
9月23日 医療の時代と死生観2015(17) 死への不安への対応は医療者では困難
9月24日 医療の時代と死生観2015(18) 臨床宗教師が欲しい
10月04日 医療の時代と死生観2015(19) 健康添加物
10月05日 医療の時代と死生観2015(20) 長命の秘訣
10月29日 医療の時代と死生観2015(21) 尊厳死という言葉(1) 私にも尊厳なんてあるの?
10月30日 医療の時代と死生観2015(22) 尊厳死という言葉(2) 「尊厳」は権利以上の哲学的言葉
8月21日 医療の時代と死生観2015(1) はじめに
私は10月上旬、「秋田生と死を語る会」からのお誘いがあって講演をすることになった。講演は久々である。演題は自由に決めて良いというので「医療の時代と死生観」にした。
この機会を利用して散発的に自分の考えを述べてきた、「医療と人の死」について考えをまとめたいと思ったからである。
私は医師としてほぼ標準的なレベルで医療を行ってきた・・・、と思っている。優れた医師である、という自負はないが、少なくとも悪い医師であったとは思っていない。私を知る方々には、この程度に自分を評価することを許していただきたい、と思っている。
私は医師としてずいぶん勉強してきた、と思う。今もそれは続けている。医師が自ら努力してほぼ標準的なレベルの臨床力を維持していくことは医師に課せられた義務であり、医師に対して患者が求める姿勢であり、医師に対する社会的要求でもある。
ただ、医療行為、治療行為は危険を包含するものであることから、私は患者の理解が得られればときには検査もせず、治療もせずに自然経過に任せる、すなわち自然治癒力に期待することは多かった。自然治癒力への期待、これが私の医療の原点でもある。
人は生まれた以上、生老病死のコースから逃れられない。今まで死ななかった人は一人もいない。死はあまねくすべての人々に降りかかる問題である。この人の「いのち」に関与する仕事を選び得たこと、本日に至るまで継続できたことは私にとって実に幸せなことであった、と思っている。
いずれ死の転機を迎えるような疾患や病態に罹患した患者には、本人・家族が望むならより長く生きられるように治療してきた。これは医師の務めである。そのような場合であっても医療行為を突出させず、患者と疾患とが共存する病態で維持するのが往々にして最も患者のためになると考え、経験を積み重ねてきた。
ただ、いわゆる延命的治療は1985年に中通病院に赴任してからは滅多に行わなかった。苦痛にさいなまれている患者自身が延命治療を希望することは滅多にないが、家族たちの強い希望があれば止むを得ず選択した。もちろんその際には病状についての情報を十分に説明し、「延命治療は、健康人である家族たちによる、病人に対する苦痛の強要であり、苦痛の持続時間の延長である」と説明してきた。要するに、「延命治療は延苦痛治療」に等しい、と主張した。
それでも納得が得られない場合には、家族の意向に従わざるを得なかった。
医師としての無力感を感じた時であった。
8月22日 医療の時代と死生観2015(2) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(1) 虚弱児
私は昭和20年、盛岡市の郊外の医師の家に生まれた。
私は生まれ落ちた時から幸運に恵まれていた。出生時2000gほどで弱々しい、活力の乏しい虚弱児だったらしい。この程度の体重でも現在なら問題ないが、戦時下でもあり、当時としては育たないことのほうが多いとされていた。
当時は食糧事情も悪く、母乳の出も悪く、私は、成長が遅く、病弱で頻回に感染症に罹患し何度もなんども死にそうになったという。私の写真は小学校入学以前のはほとんどないが、2歳ほどの、祖母に抱かれた貴重な一枚は痩せこけたサルに似ていた。もし、医師の家庭で生まれていなかったなら、おそらくは育たなかっただろう、と中学生頃まで家族達からいつも聞かされながら育った。それだけ大変だったことだろう。
私にとっては死の意味などわからなかった時から、死は身近な、親しみのある言葉であった。
祖父は往診時になぜか私を連れて行くことがあった。
当時、社会が貧しく、高齢者が医師の往診を依頼するのは死を迎える時であった。患者宅では死を迎えつつある高齢者が座敷に寝かされ、周りを家族達が取り囲み、その時間を待っていた。私が見たのはそんなに多くはないが、死を迎えつつある高齢者が苦しむ情況を一度も見たことはなかった。静かな死で「自然死」とうべきものであった。この時の在宅死の印象は、今でも理想的な死の姿として私の脳裏から離れていない。
祖父も昭和31年在宅で死去、祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。
私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、多少の矛盾を感じつつも、患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療でで治療した。それが医師の務めであり、患者のためと考えていた。
私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった時代である。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
昭和53年母が肝不全で、昭和58年父が急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、もう治療をせずにそのまま看取る方法を選択した。どちらもいわゆる死に目には会えなかった。
私は今から考えてもいい選択であった、と思っている。
8月24日 医療の時代と死生観2015(3) 医療の歴史を振り返る(1) 出産を例に考える
現代人にとって誰もが健康への関心か一段と高まっている。健やかに、長生きをすることを望み、そして、最後はポックリ死ぬことかできればと思っている。医学や医療は、誰にとっても多かれ少なかれ関心のある話題である。
しかし、ことはそう都合よく進まない。これが現実である。
最近のメディアには私の目から見てほとんど効果が期待できないような健康食品、健康法などが頻繁に取り上げられ、TVの健康番組はいずれも高視聴率を記録している。それだけ国民が求めているからとも言えるだろうが、メディアは売らんがために視聴率を上げんがために番組で取り上げる。まるで、これらのアドバイスに沿ってお金をかけていれば、なんら努力をせずともいつまでも若さを維持できて、長生きできるような錯覚に陥る。健康維持には王道はない。楽をして得られる健康法などない。無責任だ、と思う。
医療・医学の歴史を振り返ると、医療の発展の素晴らしさにひたすら感嘆するだけである。しかし、表裏一体のほころびも見えてくる。また、自然界の生物達の生き様を見る時に、私ども人間も本来彼らと同様に素晴らしい自然治癒力をもっているはずだ、と教えてくれる。しかしながら、人間の場合はもはや科学的と言われる人工的な医療環境の中で自然治癒力は宛にされなくなった。実際には、超近代的医療の中においても医療の最後の拠り所は自然治癒力、生命力である。
昔は人間は胎内にいるときから危険にさらされ、生まれたあとも、さまざまな危険が待ち受けていて、健やかに生きることは容易ではかった。
生まれること自体、産むこと自体危険を伴っており、実に大変であった。
歴史中の人物で、お産で命を落とした例の記録は枚挙に暇がない。宮廷貴族社会の生活史の記録でもある『栄花物語』は平安時代後期の古典で女性の手になる物語風史書で,全40巻、1092年までの2世紀にわたる時代についての記述があるとされている。
この中に、村上天皇中宮安子から白川天皇女御道子まで47名の妊娠・出産が記述され、中宮安子を筆頭に後朱雀中宮まで11名が妊娠・出産に伴い死亡しているとの記載がある。死亡率は実に23.4%にもなる(佐藤千春 お産の民俗 日本図書刊行会 1996)。
この当時の医療はどのようなものであったかは想像も出来ない。身分の高い高貴とされる方々の環境だから記述として残っており、状況を類推できるが、一般庶民の出産はもっともっと危険で、悲惨であったと思われる。
この歴史から間接的に知ることが出来るのは人間の妊娠出産が基本的にいかに危険なものなのか,ということである。妊娠中の各種の合併症、出産困難、出血だけでなく,出産後の感染症に対しても当時はなすすべは無かったはずである。
当時、若い人たちの死も珍しくはなかったと思われるが,妊娠出産に関連して死亡した産婦は成仏できずにこの世をさ迷うと言った民話や言い伝えは多数もある。特に出血死した産婦の死は悲惨だったと思われ、下半身血まみれの状態の亡霊として現れ、「私の赤子を抱いて欲しい・・」と赤子を差し出すと言う話は民話、怪談として各地に伝わっている。そして、成仏し得なかったそれら亡霊は次の妊産婦にとりつき妊娠出産の邪魔をするとされ、死亡した妊産婦については特別丁寧に弔ったとのことである。
医療の歴史を振り返ってみれながら、私は今の世に生を受けていることに無上の喜びを感じる。私は当時なら絶対に生きながらえることはできなかった。
8月25日 医療の時代と死生観2015(4) 医療の歴史を振り返る(2) 子どもの死亡を例に考える
たとえ母子ともに無事に出産のハードルを乗り越えても、新生児は天然痘や消化不良でぱたばたと死んでいった。
天然痘は中国・朝鮮半島からの渡来した人を介して伝播し、6世紀半ばに最初の流行が見られたと考えられている。735年から数年間西日本から畿内にかけて大流行し、高位貴族も相次いで死亡し、朝廷は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である。
天然痘の死亡率は20-50%とされる。当時、麻疹と並び子どもや若者の命を奪う2大感染症であった。そのため、天然痘を無事に乗り越えたときに、はじめて誕生を祝い、名前をつけた地方もあった、とされる。また、麻疹を乗り越えて一人前、と評価する風習もあった。
天然痘、麻疹を乗り切ったとしても一人前に成長するまでに、命を脅かす様々な感染症が多数あった。現代医療の発達した中で生きる我々とは次元の違う世界であった。だから、子どもの成長にあわせた祝い事、すなわち通過儀礼が重い意味をもったのである。
それらを拾ってみると以下のようなものが挙げられる。
# 帯祝い。妊娠5か月目の戌の日に、腹帯を巻く。
# お七夜。誕生7日目の祝い。
# お宮参り。男児は生後31、32日目、女児は32、33日目とされる。
# お食い初め。生後100日目の子どもに、食べものを食べさせるまねごとをする。
# 初誕生祝い。満1歳の祝い。
# 初節供の祝い。女児は3月3日、男児は5月5日に祝う。
# 「七・五・ 三」の祝い。三歳は乳児から幼児への成長(髪置き)の祝い、五歳は男児から子どもへの成長 (袴着)の祝い。七歳は女児から子どもへの成長(帯解き)の祝い。
# 「十の峠」の祝い。
# 「十三詣り」の祝い。
# 「成人式」の祝い。
私など子どもの安全がほとんど確立した時代の子育てで、これらの通過儀礼を意識したことはあまりない。「七・五・ 三」の祝いだけは親の責任の一つと、3人まとめて護国神社にて一回で済ました。恥ずかしながら、写真で証拠を残しておくというよこしまな目的もあった。
しかし、医療が発達していなかった当時、いつ急にいのちが奪われるかわからない時代、親・親族たちは常に不安を抱えて子育てしていたと考えられる。これらの通過儀礼の一つ一つが神への感謝と、その後の子どもの健やかな成長の祈願という、大きな意味を持っていたことを、今回医療の歴史を見直して再認識した次第である。
8月26日 医療の時代と死生観2015(5) 医療の歴史を振り返る(3) 疫病と天皇
古代の遺跡から発掘された骨には慢性的な疾患の痕跡等を見ることができる。
縄文時代まで遡ってみれば、外傷の後、骨折の治癒像を示している。その当時の生活の厳しさを物語っている。これらの幾つかは当時の強靭な意志力、生活力や自然治癒の威力をまざまざと物語っている。そのほかにも関節炎、ポリオの後を持つ骨も見つかっている。これらの多くは疾患の罹患後も相当長く生存したと考えられ、当時も家族によるケアがなされてたことを示している。
弥生時代になると、結核や梅毒を病んだ骨が現れる。江戸時代の遺跡から無数に発掘される。結核は20世紀に抗結核剤が見つかるまで人類を苦しめ続けた。梅毒はいまは抗生物質で治るようになった。かつては無数の命を奪った天然痘は現在地球上から撲滅された。ひとつの病が洽るようになっても、エイズ、エボラ出血熱、重症急性呼吸器症候群(SARS)、MERSのように別の病、多剤耐性感染症などが現れて、人類を悩ませ続けている。
歴史の推移を疫病や疾病の立場から論じている文献は少ないが、実際には歴史の転換に病気が大きな意義を持ってきた。身分制度が明らかであった時代でも、流行病や疫病はどんな身分の人も分け隔てなく罹患した。西欧におけるペストの流行が契機となって民主化の機運が開かれた。
古代では、神が疫病を支配すると信じ、疫病が広がるのは天皇の失政に対する神々の怒りの現れであると、天皇自ら天に向かって神の怒りをやわらげるために大々的な祈祷を行った。当時も原始的な医療・医術はあったと思われるが、近代以前は無力な医療より祈祷が信頼されていた。日本書紀、新日本書記には天皇の迷いや悩み、疫病を乗り切るための努力が頻回に記載されている。
しかし、時代と共に疫病が海外から人と共に入ってくること、伝染病は人から人へと感染するらしく、病人を隔離することが効果あるらしいという考えが生まれた。拙い政治と疫病は関係ないことがわかった。
そして近代になって、伝染病の予防法を教えた西洋医学が我が国に伝わり、それまで一斉を風靡していた漢方医療を凌駕し、我が国は西洋医療一辺倒ととなった。
いかに科学が発達しても、人間は自然の中でその一員として生きていかねばならない。あれほど恐れられた天然痘が科学の力で撲滅されたが、自然は簡単に引き下がらない。人間と感染症との戦いは終わりなく続く。また、ここ半世紀余りは生活習慣病といった新しい概念の病気が蔓延している。
近代医学は、病気の原因を科学的に明らかにしてきている。しかし、病に悩むわれわれの多くはいまでも、病からの回復を神に折り、健康を祈り、神社仏閣に詣でる。私どもは科学が発達した現代で先進的な医療を受けながらも、結局は、人は科学の領域を超えた広大無辺な自然のなかに生きていること、自然の威力には結局は逆えない、科学でも解決できない分野があるのだ、という限界を察しているからだ。
現代の医療は、治療法も格段に進歩し、公衆衛生がすすみ、病を予防することが出来るようになった。それでどれだけ多くの人々が助かったか。歴史を見るとその重みがよくわかる。
しかし、人の老病死に対する不安は時代と共に質的には大きく変わったが、消えることは全く無いようだ。
私はこのことこそが重要だ、と思っている。いまは医療の時代である。だから、いま生きるものにとっては時代に沿った死生観の確率が求められる。それが不安に対峙する一方法である。
8月27日 医療の時代と死生観2015(6) 医療の歴史を振り返る(4) 戦後日本人は死を忘れてい
8月は、お盆を中心に各家庭でご先祖様の霊を迎える行事を行い、墓石に手を合わせ、寺の本堂でご先祖を忍ぶ。ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされ、秋田の土崎の空爆もあり多くの方々が亡くなった。240万ともされる戦没者に思いを馳せ、靖国の意味についても考える時期である。
こんな行事を通じて、おのずと「死」が身近に感じられる。
日本は2005年から人口減少社会に入った。人口問題研究所の推計によると、高齢化は一層進み、05年に約108万人だった死亡者は2040年ごろには170万人にもなる。既に高齢者の死は日常茶飯事になってきている。秋田県の新聞の訃報欄は掲載しきれず、県南、県中、県北別に分けられて掲載される。
戦時中は「いのち」は個人のものでなく、国民は天皇のものと考えられ、「いのち」が軽視された時代であった。戦後「いのち」の尊さを個々人が味わうことが出来るようになったが、逆に「いのち」、「死」を正面だって論じることは少なくなった。特に高度成長期を迎えることから、医療の世界ですら「生老病死」は忘れられ、患者の「死」は医療の敗北とさえ見なされた。現代人は「いのち」と「死」と「あの世」についての思考を放棄した。
日本は高度成長期を迎え、すべてがスケールが大きくなり、スピードは速くなり、個人の生活も豊かになった。この時代に社会に出て、身を粉にして働いた、いわゆる団塊の世代の方々にとっては人生設計を全て右肩上がりに設定できた。
すなわち、住宅を購入し、自動車で移動も便利になり、家事は電化し、暖冷房を含め生活環境も自由に調整出来る様になった。同時に、国民皆保健制度が施行され、医療医学が発展し、従来であれば救命出来ない様な重症な患者が助かる様になった。わが国の平均寿病も急速に伸びた。
その結果、生きていることのリアリティーは喜びとともに十分に味わうことが出来たが、「死」の意味が見えなくなり、生活の中で「あの世」、「死」の実感が希溥になり、語らなくなった。「あの世」への思いと「死」とへの思いは表裏一体である。現代人は「死」について深く考えることをやめ、つとめて「死」を忘れて生きるようにしてきた。
私など、医師になってからいままでずっと診療や講演を通じて人の「生老病死」を説いてきたが、さっぱり効き目が無く空しい努力であった。この主張が徐々に通じるようになったのは少子高齢化が現実のものとなり、医療費の窓口負担が増やされ、介護保険の負担が増額され、年金が減額され、かつ、生きる意欲が萎えた孤独な老人が増え始めてからである。
「いのち」の問題を社会保障の経済的問題にリンクさせて論じることは我が国では忌避される。政治家がそんなことを言うと強いバッシングを受ける。が、高齢者医療の考え方は、「いのち」に対する考え方、死生観を変えていかなければ解決出来ないと思う。
政府は社会保障費を、特に高齢者の医療費を出来るだけ縮小しようといろいろな策を提起して来る。しかし、制度や経済の締め付けだけからの発想は高齢者いじめにも繋がるし、「いのち」の価値にダブル、トリプルスタンダードを持ち込むことになり、社会のひずみを拡大することになる。
各人が「いのち」を緩やかな曲線ととらえ、何れは消え去って行くのだととの発想に立てば全てが解決に向かう。
必要な医療を受けながら、医療が発達しておらず、「死」がもっと身近にあった時代の感覚、すなわち「死生観」の確立に回帰することである。
これは退歩ではなく、現代における生き方のための新たな進展なのだ、ととらえたい。
9月02日 医療の時代と死生観2015(7) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(2) 臨死体験
私は昭和20年、盛岡市の郊外の医師の家に生まれた。
病弱であった私にとっては死の意味などわからなかった時から、死は身近な、親しみのある言葉であった。
一つは祖父の往診時に垣間見た高齢者の最期を迎える時の姿である。静かな死で「自然死」とうべきものであった。この時の印象は、今でも理想的な死の姿として私の脳裏から離れていない。
二つ目は小学3年頃にいわゆる臨死体験と思われる経験である。小学3年の頃のことだったと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態まで行った。大量皮下輸液もやっていたから恐らく強度の脱水などもあったと思う。祖父も今度こそダメかもしれないと思ったらしい。この時、いわゆる臨死体験と言われる現象を経験した。
この時は意識も朦朧とし、うわごとを言っていたらしい。この時、自分が身体から抜け出した不思議な体験は、単なる夢だったのであろうか?
フット気がついたら、自分自身が高いところから自分を見つめていた。ぐったりと無表情な自分が布団をかぶって寝ている。周囲には家族達が数人居たが、具体的に誰が居たのか、その人達の表情とかは全く覚えていない。ただ、静かな、凍り付いたような動きのない、灰色の情景であった。
次の場面は、突然、小学校の校門の前にいた自分である。歩いて行ったようだが、動きは軽く、すごく楽に動き回ることが出来た。自分が通学している小学校に行ったのであるが、いつもと様相は異なり校庭は一面黄色のお花畑になっていた。全く隙間無く、びっしりと生えている不思議な光景であった。花は菊のように見えたが、コスモスのようにも思えた。鮮やかな、明るくい黄色で景色全体がまばゆいほど明るかった。一体どうしたのだろうか?と思い、しばらく中を覗いていたが、門から校庭に入ろうとした。しかし、どうしても足が重くて前に進まない。何度も何度も試みてもどうしても進まない。そうこうしているうちに遠くからかすかに母親が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返っても母の姿はなくどこから呼ばれているのか解らない。随分遠いところからの声のように聞こえた。「まずい所を見つかってしまった?見つからないうちに帰らねば・・・」と、来た方向に向かって歩き始めたら全く問題なく歩けた。数歩歩いただけで突然場面は自分が寝ていた部屋にワープした。今度の場面は薄茶色に着色されていた。側にいる家族達は前の場面と異なり落ち着きの無い様相で動き回っていた。自分が居なくなったことでみんなが動き回っているように感じられ、すごく悪いことをしたような気がしたが、いつしか体の中に戻った・・。
この様な経験を背景に、死ぬのは「昇天する」のであって、苦痛などを伴わず意外と気持ちのいいものなのでないか?と思うようになった。今でも私の脳裏から離れていない。
9月03日 医療の時代と死生観2015(8) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(3) 祈祷に委ねられた
私が経験した臨死体験は、実際何なのか解らない。臨死体験されたと言う方々の体験記などを見と、不思議なことにみんな似通っている。私は、死に向かうストレスの過程で一定の条件下で見る夢のようなものでないかと考えている。
臨死体験は医学的には殆ど解っていないなかったが、脳の一定の個所を刺激すると患者が臨死体験に類似する現象感じることがわかった、と言う。
ジュネーブ大学病院神経科のO・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」部を電極で刺激したところ、その度に患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したと言う。
角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する部分で、ここに異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはいたり、手や足が体とつながっていないと感じたりする、という。
私は臨死体験は脳の機能障害の過程で見る夢のような現象と考えていたが、それにしては、その体験談が年齢、性、地域や文化を問わずほぼ共通していることを不思議に思っていた。もしこの発見が本当なら長い間抱いていた疑問の一つが解けることになる。
その時は祖父は本当に駄目か、と思ったらしい。その時、祖父は使用人の一人を遣わして恐山のイタコに願をかけさせたという。イタコは「約10日で回復し床離れが出来る。その後は徐々に丈夫になるだろう。それ迄の毎日、祈祷した紙切れを切って湯のみに浮かべて飲ませる様に」、と告げた。私はその予言通りのコースで回復した。
「臨死体験」も「イタコ」も余りにも出来すぎた話であるが、祖父は自分の経験から医療の限界を悟り、「自然の摂理に任せよう」と選択したのだろうと思う。当時はそれほど治療学があったわけではない。苦渋の判断だったと思う。私はそう思ってきた。
私は医師になってからも回復が困難と思われた状況の患者には治療行為を行わず「みまもりの医療」の視点を大事にしてきた。その背景は子供の頃の経験におっている。
9月04日 医療の時代と死生観2015(9) 自分の場合 幼少時から死が身近にあった(4) 祖父母、両親の死
祖父は昭和31年家族に見守られて在宅で死去した。今の私から見てうっ血性心不全で、盛岡から連日往診を受けた。73歳であった。小学校5年、私は何もできなかったが、時折傍で寝るなどそれなりに介護できた。私のひ弱であった命を維持してくれた祖父である。感謝を込めてできるだけ側にいた。祖父も喜んでくれたと思う。
祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。80歳、急性腎盂腎炎と引き続き敗血症だったと思う。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け新潟から急遽見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。翌朝、医療スタッフに囲まれ、延命処置を受けつつ死去した。側についていたのは母のみであった。濃厚な治療を受けていたらしかったが、詳細は不明である。祖母は死ぬ直前に地獄を味わったのではないか、と思う。気の毒に思っている。当時は私は何もできなかった。
この祖父と祖母の死の10年間の間で医療環境は大きく変わっていた。
私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、大きな矛盾を感じつつも、チーム医療の一員として患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療で治療した。それが当時の医師の務めであり、患者のため家族のためと考えざるを得なかった。
私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
具体的には死に向かう患者もいわゆるスパゲッティ症候群とされるような状態、呼吸器装着、心マッサージなどが行われる時代であった。すでに心停止し死亡したと思われる体にさえ電気ショックを与えた。振り返ってみて無駄な医療であったし、あるものは形式的な、儀式的な臨死期の治療であった。このような姿勢は医師の自己擁護のためでもあった。
昭和53年母が64歳で肝不全で、昭和58年父が79歳で急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、そのまま治療せずに看取ってくれるよう指示した。どちらも私はいわゆる死に目には会えなかったがそんなことは問題でない。
私は二人の性格を考え、病状を考えて判断したが、今から考えてもいい選択をした、いい最期を迎えさせることができた、と思っている。
昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。
9月05日 医療の時代と死生観2015(10) 自分の場合 私の医療観は奇異に映った?(5)
昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。
新しい病院に移ったからといって実際に診療内容にそう差があるものではないが、患者層は高齢者が多いこと、いわゆる社会的弱者と言われる問題を抱えた患者が多いことは驚きであった。ここでは疾病の治療だけでは不十分であった。治療が終了しても帰る場所が無い患者、ベット上寝たきりの患者、コミュニケーションがとれない患者、重度の痴呆患者、食事も全くとれず鼻から胃に流動食を流して生命を維持している患者、大きな褥瘡を形成している患者などであった。この様な患者への治療は、ただ生命を維持してあげることなのか、毎朝回診しながら困惑させられたものである。
私から見て既に人生のターミナル期にある患者達に対して、何故看護師達はこれほど直向き、積極的なのか関心もしたし、驚かされた。医師の治療も同様に最後まで積極的であった。
私は幼少期に抱いた高齢者の自然死に抱いた憧れ、約15年の医師としての経験から、疾患の治療、患者の治療において手を尽くすべき時は患者が治療に反応して改善する余力がある間、と思ってきたし、この時期に十二分の診断と治療を行っても進行性に状況が悪化して行くときは次第に治療方針を対症的治療に移して行くべしと考えていた。医療が先進的で高度であるほど、当時の医療は一体誰のために行われているのか。家族の満足は得られたが、それ以上に自分たちの自己満足のためではなかったのか、一番辛い思いをしたのは誰なのか、患者自身なのだ、と考えた。
中通病院赴任以降は、長い経過の慢性疾患を持つ、特に高齢の患者については、ある時期から治療方針を患者の苦痛をとる対症療法中心に切り替えた。最終的に死を迎える場面でも昇圧剤の使用とか蘇生治療は原則として行わなかった。死の場面には医療は不要である。患者の死に方をアレンジしてあげるのも医師の重要なつとめなのだ、と思っていた。勿論、この治療方針は家族の了解を得て行ったが、当時はなかなか納得得られず、やむなく気管内挿管、人工呼吸器装着も行ったケースは少なくはない。
私のこの様な治療方針は病棟の看護師たちには異様だったらしい。ある時、カンファレンスの際に主任から「先生の医療は手抜きで納得できません!!」と厳しい抗議を受けた。当時は尤もな意見であった。しかし、医療の方針を変えることはなかった。
その後、私は療養病棟を担当した。ここには人生のターミナルを迎えた患者も少なくない。その方々が生を終わり旅たつときに私は静かに送ってあげた。
幼少時から抱いていた、私の医療観に沿った医療を実践できた時期であるが、現役引退を機に原則的に入院医療から退いた。
最近、高齢社会を迎え、高齢者の死生観は変わりつつある様に思われるが、家族の視点はそれほど変わっていない様に見える。
9月11日 医療の時代と死生観2015(11) 健康寿命 平均寿命 平均余命
今は人生80年時代。過去400年間人生50年以下だった。
人生50年時代は死生観などなかった。勿論、宗教家とかは考えていたと思われるが、一般の人たちは常に常に必死に生きて働いて、ただ死ぬだけであった。
現在はのびた寿命に身を任せ、死を待つ日々が長い。死生観の大切さが浮かび上がってくる。
有史前から疫病が流行っていたと思われるが、人口も増え、集団生活を営むようになってからは飢餓と疫病に散々苦しめられてきた。その古い記録は「古事記」「日本書紀」に記録されている。
当時疫病は神仏の祟りと信じられていた。とりわけ大流行する疫病は失政によって天地に怒りが生じて発生すると信じられ、疫病が発生すると天の支配者、すなわち神に対して大々的に祈祷を行ってきた。これが自然宗教である。
古代日本人にとって、死とは魂が肉体から離れることを意味していた。当時生命の代わりに魂が体を支配していたと考えていた。
古代日本人を悩ませたのは飢饉と疫病。日本書紀の疫病の最初の記述は崇神天皇のこととして記載がある。「国内に疫病多く、民の死するところ半ば以上に及ぶ・・・」などとある。
当時の疫病としては、結核、マラリア、ツツガムシ病、住血吸虫、天然痘などが蔓延していたと考えられる。
当時の医療はどうだったのか??
決して手をこまねいて座して死を待っているだけではなかった。実際には医師も居て、治療薬もあった。しかし、神の怒りを鎮める祈祷はそれらを凌駕していた。
聖武天皇の死去(755年)に伴い光明皇后から東大寺に薬品が奉納され、それが正倉院に納められている。「大黄」、「人参」、「甘草」などが含まれる。これらは今でも使われている薬物である。
寿命の表現には幾つかの種類がある。
(1)平均寿命:縄紋人の平均寿命を推測すると、20歳に達するかどうかという状況。多くの縄紋人が若くして、病気や事故で死亡していたと考えられる。江戸時代にもせいぜい30歳程度と推論されている。
現在の平均寿命は女性86.83歳で世界一 、男性80.50歳で世界三位となっている。この値は誤解されている。個々人の方には毎年発表される平均寿命は関係ない。平均寿命はその年に生まれた新生児が生きられる可能性を示す値である。
平均寿命の延長は、(a)平和、(b)社会格差の縮小、(c)医衣食住・生活環境改善、(e)食生活、(f)国民皆保険、(g)医療技術、・・であり、寿命延長がもたらした問題点は医療費増大、介護、寝たきり、認知症、孤独死・・など問題点は多い。どう人生を終えるか、自らが考えなければならない。
(2)平均余命:各人にとって関係のあるのは平均余命である。各年代の方々があとどれだけ生きられるかは余命として推定される。例えば現在70歳の方は男性で15.5年、女性が19.9年で、一般的に平均寿命より数年長い。若死せずに70歳まで生きたという実績があるからである。ちなみに現在90歳の方は4.5年ないし5.5年余命がある。
(3)健康寿命:人生はただ単に生きているだけでいいわけではない。健康上の問題がなく自立して日常生活を送れる期間の平均を健康寿命という。日本の場合、男性が約71.19歳、女性が約74.21歳でともに世界一であるが、男性が約9年、女性が約13年要介護状態で生きることになる。
この健康寿命こそが人生であり、どう生きるか、どう死を迎えるか、人生観が問われることになる。認知症、寝たきり状態になって判断力、自由を失えば人生観なんてそれほど価値を持たなくなる。
9月12日 医療の時代と死生観2015(12) 人間の特性 知能が高いゆえの不安
最近の遺伝子学の発達はすごい。最近分かってきたことは、人間は時間をかけて少しずつ進化してきたのではなく、ある発達過程でウイルス感染によってDNAが修飾され、一気に進化してしまった様である。
かつて、私は小さくて未分化であったわれわれの先祖が悪性腫瘍に罹患して個体の巨大化、次いで知能の発達が生じ、そのガン遺伝子の活動がブロックされて生じたのではないか、そのために人は多数のガン遺伝子を持っているのだなどと空想していたが、ちょっとそれに近い現象が生じていたらしい。興味深いが、この辺の詳細の勉強は今後の課題にとっておく。
人として発達を遂げ、知能を有し、経験は記憶され口述によって次世代に伝達されるようになった。また、情感、感情、愛や憎しみ、不安などの幅広い精神活動も身につけた。
進化の結果、二本足で立位で行動できる様になり手を自由に使える様になったことも大きい。そのために下半身の筋肉は大きく発達し、骨格、内臓も含めて立位の生活に順応した。筋肉の60%以上下半身に集中している。
立位での生活は、特に女性の骨格、内臓機能に大きな影響を持った。安定して胎児を維持するために骨盤底の構造がより堅固になったが、それによって出産が困難になった。結果として胎児はより未成熟な状態で娩出される様になり、母親一人では出産・育児が困難で人手が必要になった。ここで家族が形成された。
人は有史前から家族を作り、共同で生活してきたが、その時期の人間にとって最も大きな関心事は「飢え」と身近な「家族の死」であったことは容易に類推できる。
古代の日本人にとって、死という現象は魂が肉体から離れることを意味していた。当時生命現象など何だかわからなかったであろうが、魂が肉体を支配していたと考えていた。
縄紋人の平均寿命を推測すると、20歳前後と考えられている。多くの縄紋人が生後間もなく死亡したであろう。あるいは無事に育ったとしても若くして病気や事故で死亡していたと考えられる。当然、悲しみに悲嘆する家族たちは長老や霊能者に依頼して魂を呼び返そうとしたであろうが、死者の魂がかの国から帰らないと分かると諦めて死を認識し、魂の抜けた亡骸を葬ったのだろう。その背景には一見死者と見まがう様な仮死状態の人が祈祷の最中に息を吹き返す様な事例が少なくなかったと推定している。
この時代の生命現象は魂が中心であって、魂の抜けた亡骸はいずれ腐敗して消え去る不要なものであり、したがって埋葬はそれほど丁寧ではなかった。鎌倉時代まで屍体は路傍に捨てられていたとされる。
古い記述を文献でたどりながら振り返ってみると、医療が未発達の頃は身体より魂の方が重要視されていたことが分かってくる。実際、魂、こころの存在は身体以上に大きい、と思う。これに対して近代医療は魂、こころをそっちのけにして身体の方を重要視して発展してきた。そのために現代人は高度の医療を受けながら、こころは決して満足していない。それよりも不安はますます高じている。
近代医療を通じては魂、こころはほとんど救済されない。
9月13日 医療の時代と死生観2015(13) 不安・恐怖の解消のために
人間は発達を遂げ、知能を有し、経験は記憶され口述によって次世代に伝達され、遅々としながらも文明を形成する。また、情動・不安などの幅広い精神活動も身に付いた。
子育ての困難さから、人は家族を作り、一族で共同生活してきたが、その頃の最も大きな関心事は「家族の死」であったことは容易に類推できる。
縄紋人の平均寿命は20歳前後か、と推定される。多くが生後間もなく消化器疾患や感染症で死亡したであろう。あるいは無事に育ったとしても若くして病気や事故で次々に死亡した、と考えられる。
この時代の死は魂が肉体から離れることであった。古代人にとって人間より強く、人を殺すことができる強いもの、あるいは人間よりも長く安定しているものは全て神であって、神にも魂が宿っている、と考えた。太陽、雷、山々、巨石、巨木をはじめとして狼、マムシなどの毒蛇も神であり、畏怖の念を抱き、それら神々の怒りを常に恐れていた。そしてなんらかの不幸が訪れた時、神々の怒りをかったためと考え、自ら反省し、許しの祈りを捧げた。カミナリは「神なり」、狼は「大神」と記載されることもあるが、神に由来した呼び名とされる。祈りを捧げるにあたって超能力を有している、と思われる人間はいわゆる祈祷師となり、祈りを捧げる行為は神事となり、のちには社を作り、神への感謝の行為は祭りとして現代まで伝わってきている。
ここでも強調しなければならないのは、人間に不幸をもたらす病気などに際して救いを求める対象は身体的健康でなく、魂・いのちの救済であった。
私は、近代医療は科学的知見を背景に進歩して来たが、一方で、魂・いのちへの対応をお座なりにしてきた、と思っている。
知能の発達が情動活動の元となり、抱える不安はより大きくなり、悠久のものに神の姿を見て、神事に発展、社を建立、地域の祭りのもとになった。このプロセスを考えながら祭りの意義を考えると味わい深い。古代人と現代人は精神活動において共通なものは多いと思う。伊勢神宮も、出雲大社も人々の不安の蓄積の賜物である。
このような営みを単に観光名所として捉えるならば日本人のこころは救われない。古代人の方が精神活動が豊かで、それなりに恵まれていたのではないか、と思うこともしばしばである。
加えて言うならば、いわゆる生活習慣病の大部分はやはり生活習慣の乱れ、安易な習慣に由来する。だから、何らかの異常が見つかった時、ついに神々の怒りをかってしまったと考え、許しの祈りを捧げるとともに、自ら神に誓って反省し生活習慣の是正を計ることが肝要である。安易に医者にかかるのは間違いであり、愚の骨頂と言っていい。これで国民医療費は半減する。この時、特別の宗教なんて意識する必要がない。「お天道様」に謝り、祈りを捧げればいいのである。
9月14日 医療の時代と死生観2015(14) 自然宗教感の衰退で「いのち」が語られなくなった
古代人にとって人間より強く、人を殺すことができる強いもの、あるいは人間よりも長く安定しているものは全て神であって、神にも魂が宿っている、と考えた。
私は日本人の宗教観を理解する時にこの自然宗教がベースになっていると考える。しかも、その恐れとその救済の対象は『いのち』である。自然宗教とは文字どおり自然発生的であって、いつ誰によって始められたのかもわからない。特定の教祖などいない。教義もない。あくまでも自然的に発生し、無意識に今に至るまで続いている宗教観のことである。
自然宗教的な考え方は現代まで日本人の心の中に連綿として続いている。
自然宗教は、しかしながら、儒教、仏教等の創唱宗教が我が国に伝わってきたことで神道として分類されてしまった。その時点で自然宗教的面影を失ってしまった。以来、神道・仏教・儒教は互いに影響を与えあい、為政者、宗教学者によって互いに主導権争いも繰り広げられた。
神道と仏教はミックスされた状態で1000年以上も続いていたが、江戸時代、徳川幕府は仏教を保護して民衆教化の手段として利用し、一方、為政者たちは教養を重視する儒教を尊重していた。神道は神仏習合によって仏教の陰に隠れ影が薄くなった。
一方、江戸末期には神道の復権を学問的に集大成しようとする動きも生じた。この面で秋田出身の平田篤胤の功績は大きい。平田の考え方は「日本が万国の本源であり、あらゆる面で優れており、天皇が最高の存在である」、と主張し「廃仏思想」と「尊皇」をもとに民族としてのアイデンティティーを高揚させる思想につながった。
結果として徳川幕府は崩壊して明治維新を迎えた。明治維新のスローガンは「尊皇攘夷・王政復古・敬神・祭政一致」であり、神社行政が整えられていく。明治政府は日本を近代国家にするために神道を利用した。
平田の考え方はオーバーにいうとナチのヒトラーの考え方にも通じ、明治以降経験した日清戦争、日露戦争の勝利もあってナショナリズムの高揚に結びついた。
しかし、日本人が持っている自然宗教感は「いのち」に対する原始的な畏怖に対するものであり、人為が複雑に介入した神道という名でまとめられるものではないように思われるが、江戸から明治にかけてすっかり様変わりした。
9月15日 医療の時代と死生観2015(15) 医療の時代はいつからか? やはり国民健康保険以降だろう
人間及び他の生物体は外傷の他、ウイルス、細菌、寄生虫他の多くの感染症に苛まれてきた。しかし、具体的に記述されるようになったのは日本書紀、古事記などの記述によってである。
以下に、縄文時代以降に日本人を苛んだ疾病の代表をあげた。
# 縄文時代(骨や異物から推定);慢性関節炎、ポリオ、結核、回虫、横川吸虫など。
# 古代人の病気(日本書紀);疫病と飢饉の悪循環、痘瘡(器量定め)、麻疹(命定め)、結核、マラリア、住血吸虫、ツツガムシ、らい病、糖尿病
# 源氏物語以降;物の怪、赤痢
# 江戸時代前後:梅毒(1512年以降)、乳ガン、インフルエンザ、脚気、コレラ(1822年以降)、白内障
# 明治時代:ガン、ペスト(1896年以降)
# 現代社会:生活習慣病、公害病、医原病、新興感染症、高齢者に特有の疾患(要介護状態、寝たきり、認知症、孤独死・・など。
医療はいつ頃から行われていたのか?
さすがに縄文時代のことはわからない。しかし、墓から下半身の発達障害のある成人の骨が発見されている。幼少時にポリオに罹患し歩行も出来ないような状況の中、成人まで生きながらえた、と推定される。おそらく、家族や一族によって手厚く介護されていたのであろう。この時、超原始的な医療行為もなされていたと思われる。
施療は仏教の中でも取り分け重要な行事であった。日本に仏教が伝来してきたのは6世紀と考えられているが、このころの医療は仏師によって行われたが、同時に読経も行われた。例えば鑑真和尚は有能な医術師でもあった。
聖徳太子は難波に施薬院、療病院ほか施療をする4院を建立したとされる。光明皇后の時代には医・針の師が患家を巡っていたと言うし、聖武天皇の死去(755年)に伴い光明皇后から東大寺に薬品が奉納され、それが正倉院に納められている。薬品として60種含まれ、「大黄」、「人参」、「甘草」などが含まれる。これらは今でも使われている薬物である。
感染症の蔓延は感染によるものと分かったのは近代になってからであるが、長い間、天皇を中心に祈祷が中心であった。その天皇の多くも次々と罹患し死去している。
明治維新後、ドイツから科学的な西洋医療が輸入された。その理由は富国強兵策であるが、感染症の制御の分野で一長があったからである。その後の我が国の発展は目覚しい。これ以降の足跡は医学文献としてみることができる。
歴史的に見て、一般大衆がどれだけの施術、医療を受けられていたのか??施術や原始的な医療、専門家による治療は高貴な方々しか受けられず、一般大衆は恐らくは神仏に願うしかなかった、と思われる。
医療が国民に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。私の子供の頃、貧しい農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前であった。
私の講演の演題の「医療の時代と死生観」の「医療の時代」とはこれ以降を指す。
9月22日 医療の時代と死生観2015(16) 医療と医学の発達 死を語らず遠ざけた時代に
医療が国民に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。それまでは農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前だけであった。
皆保険以降は日本の経済成長期にあたる。盛岡郊外の農村地帯の祖父の診療所にも患者が増えた様に思ったが、それでも医療費を払えない貧しい患者が多数いた。
日本の敗戦までは国民は天皇の臣民であり自分の身体、いのちは自分のものではなかった。国民のいのちは実に軽々しく扱われた。戦後は身体も心も個人のもになったと同時に、いのち=死に関して時代に対する反動なのか、何者にも代えがたい貴重なものとみなされたと同時にいのちそのものを話題にすることもなくなってきた。
医学医療の進歩は人間の身体状況を科学的に分析し生命現象を科学的に説明できる様になりつつある。現代人はもう完全に科学の信者である、というか科学の奴隷でもある。
この様な状況は、しかしながら人類の長い歴史の中では極めて特殊である。
日本人はつい先日まではなんらかの宗教を信じていた。そして、死後人間の魂はあの世に行くと信じられていた。最近は仏教の世界ですらあの世を語ることはない様だ。今はあの世に関する説法などは恥ずかしくでできない、という。
あの世についての信仰を失い、あの世について語らなくなった現代人は、死についても語らなくなった。現代人は死について深く考えることをやめ、努めて死について語ることを忌避する様になった。
医学医療は完全に身体医療になってしまった。
私はこの時代を見ながら育ち、医師となった。幼少のことから寺の行事に親しみ、あの世の存在を信じていた。その頃、私が垣間見た人の死は今でいう自然死に近いものであった。私にとって臨死状態は決して地獄の苦しみを伴いようなイメージはなかった。考えてみれば、医療が一般人のものにならない時代、つい先日前までであるが、いろんな死に方があっただろうが、医師に管理された人工的な死ではなかったはずである。
しかし、私が学んだ医学教育は完全に科学的論理的な内容であった。患者は身体的な存在であり、不安・悩みを抱える弱い存在である全体の人間像はそこにはいなかった。
私も若い時の10数年にはかつての印象を離れ、出来るだけ長く生かすことを金科玉条に医療をやってきた。
9月23日 医療の時代と死生観2015(17) 死への不安への対応は医療者では困難
人間は唯一死への不安を抱く生物だ、と言われている。不安があるから精神文化が発達したとも言えるだろう。
医療が未成熟だった頃は高貴な身分の方々は医療を受けられたであろうが、民衆は死を迎えるような厳しい状況でも祈祷しかなかった。不安はさぞや大きかっただろうと推定される。家族も一族も、生きていて欲しいとの願いは強く大きかったと思われる。当時の方が不安を介してより濃厚な人間関係があったのではないだろうか。
医療が民衆に門戸を開いたのは昭和34年に施行された国民皆保険制度以降である。それまでは農家の高齢者達が医師にかかることが出来たのは死亡する直前だけであった。
皆保険施行は丁度日本の経済成長期にあたる。社会が徐々に豊かになり始めた時期である。
医学医療も進歩し人間の身体状況を科学的に分析し生命現象を科学的に説明できる様になってきた。
現代人はもう科学の信者である。自ら理解ができないにもかかわらず科学の奴隷でもある。
この様な状況は、しかしながら人類の歴史の中では極めて特殊である。
不安という人間にとって最も基本的な精神的活動を取り扱う場所が、近年そっくり欠如してしまった。こんな時代はなかった。医学・医療は完全に身体医療になってしまった。かつ、科学的思考は宗教的安寧から安息を得るというプロセスを患者を遠ざけた。この場合の宗教的ということは具体的に特定の宗教の信者である、ということではない。日本人に特有の自然観、自然に対する恐れ、などを示す。
勿論、現代医療の一分野として精神科学が存在する。しかし、精神科学は宗教的安寧を求める姿には対応できない。質的に異なるのである。患者がその周辺の不安を訴えても精神科の診療の範囲でない、と言われるだろう。
人間は生老病死に関して悩みが尽きることはないが、現代医療においてこれらの不安感を受け止めるには技能的に困難である。
私の外来は今も細々と続けているが、私がそこでやっているのはほとんど医療とは言えない。お年寄りの悩みよろず相談所である。身体的苦痛、家庭内の問題、死への不安、人間関係の悩み等が話題になる。私の外来は血圧だけは自分で測るが、身体的苦痛や違和感等の訴えがない場合には殆どしない。形だけの超打診は意味がない。そんな重症者はまずいない。
面談を介して「常になぐさめ、時に治療する・・」レベルの診察である。本来、私がやるべき仕事ではないのに時間だけは長い。基本的に傾聴の姿勢である。患者は話すことで自分で解決の糸口を見つける。
「外来に来るより、寺に行って坊さんに相談すべき・・」は、私の外来の常套句の一つである。
9月24日 医療の時代と死生観2015(18) 臨床宗教師が欲しい
人間は知能が高い。知能が高いから生老病死に関して悩みが尽きることはない。なんら具体的理由がないのに先々のことを不安に思う人、過ぎ去ったことをウジウジと思い返して先に考えが及ばない人など、実に様々である。
医療の現場においてこれらの悩みを受け止めるには困難であるが、他に代わるものがないために私も含めて一部の臨床家が止むを得ず対応しているケースが多い。
「こんなことは病院より、寺に行って坊さんに相談すべき・・」は、私の外来の常套句の一つであるが、今までにそう実行した方は一人もいない。なぜなのだろうか。
おそらく既存の宗教は現代人のこの様な悩みに対峙する力を欠いてしまい、仏教に例えて言うと葬式と過去の仏の供養の行事をこなすことに甘んじてしまい、一般人に対して教義の力をもって生きる力を、問題解決能力を喚起することを放棄しているからだ、と私は思う。
私から見ても、仏教の場合、唱えられる経には生きるものに対して人生の指針を含む。僅か300字の般若心経をとってみても生きる指針が込められている。お経など坊さんだけが学び修行するためではないのだ。説法集などもすごい内容を持っている。
仏教が門戸を閉じていたから新興宗教が台頭し、教養高い若き信者たちが集まり、方向を見誤ったのがオウム真理教だとも言えよう。
ここで言いたいのは、信ずるとか入信するとかの問題ではない。
宗派も問わず宗教者が寺を出て、例えば秋田市ならばアトリオンの研修室などに週1-2回程度、定期的に説法と対話できる様な環境を整えてみてはどうだろう。まず環境整備して宗教家が出かけてくること、それが大事である。
多分この様な試みはすでに行われていて臨床宗教師なども養成されている様であるが、終末期医療に限定して活動するのはもったいないと思う。悩める対象者はガンとかの患者だけではない。一般の方を対象にして生老病死を語ることこそ意味があるだろう。
この様な活動が当たり前になって医療と宗教者がコラボすれば、こころの安息を得て素晴らしい高齢化社会が到来する様に思う。
高齢者は常に死を意識しなければならない状況にある。高齢者の医療は身体的悩みのみを対象にしては解決しない。
10月04日 医療の時代と死生観2015(19) 健康添加物
健康は大切だ。健康であってこそ充実した人生を送ることかできる、と考えることはより常識的だろうが、そうだろうか。健康でなくなれば人生の意義は乏しくなるのだろうか。
私はそんなことはないと思う。一度しかない長い人生、健康でない時もある。
ところで健康とは何か。これを定義しなければならない。
もっとも代表的なのはWHOの定義だろう。WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます(日本WHO協会訳)」とある。
私はこの定義は納得できない。この定義によると健康な人はいなくなってしまう。人生は生老病死の苦労がつきものであって、すべてが満たされた状態などあるわけはない。
私は「健康とは、病気とか、障がいとかのハンディキャップがあっても、それを乗り切る気力が充実している状態にあること」、と定義したい。
今、新聞、雑誌、TVなどのメディアは健康に関する記事、番組を積極的に取り上げている。
健康にいい食品にせよ、生活習慣にせよ、あれが悪い、これはよくないと、健康のことを取り上げる。健康ばかり気にしていると、生きるのに窮屈になってしまう。
さらに、健康食品会社、製薬会社、サプリメント業界、室内運動器具のメーカーは巨大な広告費用をかけて売り込みを図っている。この業界はかなり景気がいいのだろう。
多くの人が懐く漠然とした健康への不安、弱みをついて、あやしい説をとなえる本や高価な「健康食品」、「健康器具」を売り込む商売が盛んである。新聞の全面広告、あるいはTV番組をしつこく頻回に流すということはかなり需要があることを示している。街には「健康器具」売り込みのセミナーも開催されている。
私が外来で「楽して健康を維持する方法はない」と指導しているが、足腰が弱り始めたある70代の一人暮らしの女性患者の言動に引っかかるものがあったので、ある時に探りを入れたら健康器具、健康布団など300万円近く購入、毎月のサプリ代が6万円ほどという。さらに、「私は健康のことしか興味がありません」という。私の外来のほか、整形外科を始め3ヶ所のクリニックを受診、服用中の薬品が12種類、外用薬が3種であった。
この方は重症の「健康追求病」である。しかも頑固、今後どう指導していくか悩んでいる。10年前からだ、という。こんな状況で10年も生きているのだから効果も実害もないだろう。「マア、いいか」とするか。
10月05日 医療の時代と死生観2015(20) 長命の秘訣
健康であることは大事な条件の一つであることは論を待たない。しかし、健康追求が人生の主目的では悲しい。健康は大切だが、それが目的になってやりたいこともやらず、食べたいものも食べずに窮屈に暮らすのでは本末転倒だろう。
確かにわれわれの身の回りには健康に影響がありそうとされているものがたくさんある。
食品添加物、大気汚染、仕事や人間関係のストレス、放射能、アレルギー物質、残留農薬などなど、気にする方は気にする。しかしながら、各種の食品添加物を含む食品を食べ、この日本の空気を吸って生きてきた人のほぼ全てが、元気に長生きしている。だから心配ない。多くは杞憂である。何しろ80歳以上の高齢者が1000万人超、100歳超の方が1万人もいる国である。
日本は世界に名だたる長命国である。戦後に我が国が果たした生活環境の改善から加齢による身体の機能低下はどんどん遅くなってきている。もう誰でも、それなりに注意をはらいながら、肩の力を抜いて大らかに暮らすことでも結構長生き出来るのだ。
もし長生きしたければ、払うべき注意というのは以下である。
■検診を受けること、
■疾患は治療する、
■生命短縮因子を徹底排除していく。
生物の生命は基本的には遺伝子の支配下におかれているが、高齢者は関係ない。加齢とともに遺伝子の影響は薄まり、周囲環境や生活習慣の影響が主になってくるからである。
人間は上記のごとく100歳以上までは長生きできるが、122歳の記録があるから120歳までは生存する可能性を秘めている。どうすれば、生きられるのか。
老化は避けることのできない自然の摂理である。日本の生活環境が十分アンチエイジング効果を果たしている。だから、個人的なアンチエイジングは無駄である。自然の摂理にはかなわない。もちろん化粧とか服装とかでごまかすことはできる。
長寿達成のために用いることのできる薬品、サプリメントなどは存在しない。
短命化因子の除去を第一に考えることである。大集団としてみて短命化因子には、戦争・飢餓・天災・環境汚染、感染症などがある。
個人レベルの短命化因子は、以下が挙げられる。
■喫煙、過度の飲酒
■過食・肥満
■運動不足
■男性
個々人がより長命を願うなら、短命化因子を徹底して排除して・・・天命を待つことである。勿論、肥満体でタバコを吸い、ろくに運動しない男性も稀ながら100寿者にもいるようである。最後はその人の持って生まれた運である。
ただ、80歳以上が1000万人超、100歳超が1万人もいるというものの生活の質は総じて低い。中には寝たきり状態にある方も少なくない。
「寝たきりを 増やして今年も 世界一」、どなたの作だろうか。
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10月29日 医療の時代と死生観2015(21) 尊厳死という言葉(1) 私にも尊厳なんてあるの?
高齢化社会を迎え死について語ることが不自然でなくなってきた。私が講演活動を始めた1980年代はまだ死に関してなかなか言及し難い時代であった。
1991年に東海大学病院で塩化カリウム静注で死期と早めた安楽死事件が生じた。これを機会に安楽死という言葉が一人歩きし、この事件を機に終末期医療における治療のあり方が社会問題化した。私も講演の中で死を話題にしやすくなった。また、講演の中では安楽死の対岸にある言葉として尊厳死という言葉について強調しその意義を説明してきた。
時代も変わって、現在では、今はもう安楽死という言葉を使う患者はほとんどいなくなった。病院でも延命治療に対する意思を患者に聞くようになった。隔世の感がある。
安楽死が消えてしまえ尊厳死という言葉も意味を失ってくる。だから、最近、私は、一切尊厳死という言葉を使わない。
人間の尊厳は生涯において重要である。それがなんで死に際にだけ強調されなければならないのか?
日本には尊厳死協会という組織がある。かつては安楽死協会と名乗っていたが、死期を積極的に早めるような措置をも含む、と誤解されやすいことから、現在は、尊厳死協会と名称を変更している。そこでは「不治かつ末期になった場合延命措置を拒否する。苦痛を和らげる措置は最大限実施してほしい。回復不可能な意識障害になった場合は生命維持措置をしないでほしい」と明記した意思表示の登録を管理している。
私は尊厳死協会に登録する気持ちはないが、各自が自身で死に方を検討しておくべきであって、そのことが、自分自身を、家族を、医療を、国を救う唯一の方法と思っている。少なくとも私にはそう思えてならない。その意味で日本尊厳死協会の活動が一層普及して欲しいと思っている。
そもそも尊厳とは何か??これの定義は難しい。尊厳とは何と立派な言葉であろうか。自分に尊厳があるのか??甚だしく疑問である。
尊厳という言葉は主に終末期の医療に関連する言葉として用いられることに私は大いに違和感を覚える。
尊厳については明快な定義はないようであるが、日本国憲法において「個人の尊厳」がうたわれている。また国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも記載されている。
10月30日 医療の時代と死生観2015(22) 尊厳死という言葉(2) 「尊厳」は権利以上の哲学的言葉
「人間の尊厳」について明快な定義はないようだ。
私は哲学的言葉として権利以上の高次の言葉として、大切に扱っている。
調べてみると「個人の権利、尊厳」について日本国憲法でうたわれている。また、国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも「個人の尊厳」が記載されている。それぞれどんな定義で用いているのだろうか??それが明快でないと単なる美麗な言葉にしかならないのだが。
(1)1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法13条に「すべて国民は、個人として尊重される。」、24条2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定し、「個人の尊厳」と人格価値の尊重を憲法の基本原理に据えた。
(2)1945年(昭和20年)に発効した国際連合憲章は、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認」するとして、人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としている。
(3)1948年(昭和23年)に世界人権宣言も、前文で「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎」、「国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認」する、としている。
(4)1976年(昭和51年)に発効した国際人権規約も、前文で、「・・これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認める」としている。
「人間の尊厳」が上記の憲章とかにうたわれているということは、「ゆりかごから墓場まで」人間として尊重されなければならない、ということらしい。しかし、尊厳が日常的言葉として用いられることはほとんどない。頻用されるのは医療や看護、福祉の業界である。「介護・看護、人生の尊厳のために」、「尊厳ある死について」、「社会保障と尊厳」・・・と枚挙にいとまがない。何でこの世界だけ?と思う。
一方、「権利」という言葉は分かりやすく多方面で頻用される。「権利」と対をなす言として「義務」も頻用される。しかし、今のご時世では義務を果たさずに権利だけ主張しする傾向があるようだ。一方、「尊厳」と対をなす言葉を探してみるも、私の中では不勉強ながら浮かんで来ない。要するに、この世に人間として生まれて来るだけで尊厳が保障されているということなのだろう。この重要な言葉を人生の終末期にのみ使うのは実に勿体ない。
憲法にも保障されているから日常的に「尊厳」、「尊厳」と騒げばいい。しかし、「権利」と違って「尊厳」をいう言葉は使い難い。使うのに気恥ずかしさを伴う。実体がないからである。
上記のようなことをつれづれと考えている。
「尊厳」という言葉を思い浮かべれば、安易だが「尊厳死」という言葉が浮かんでくるが、私は尊厳死なる扱いはされたくない。私の人生には尊厳という言葉は似つかわしくない。死ぬ時は放っておいてくれ、というのが私の本心である。
死生観2015(1):私はどんな状態で死にたいか