いじめ問題
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いじめ問題は学校だけでなく職場でも生じている。いじめが引き金になっていのちが失われる悲惨なニュースが散発している。
2011年秋に大津市で中学2年生の自殺事件が生じたことを機会に、私は2012年に学校のいじめについて若干学んだ。
私の郷里である岩手で、2014年滝沢市で、2015年には盛岡市矢巾で中学生が自殺した。滝沢市は両親とともに一時住ったこともあり、矢巾は私の育った郷里の隣町であったことからより身近な問題としてとらえている。
いま、矢巾の事件がマスコミを賑わしているが、私ももう一度いじめについて検討してみたいと思っている。手始めにいままでの記述をまとめてみた。
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いじめ2006 いじめ自殺防止に、子どもの訴えを引き出す工夫を
いじめ2012(1)人間に備わった本質的性格に由来しているのか
いじめ2012(2)集団があるところに「いじめ」がある
いじめ2012(3)そもそも文部科学省が定義している「イジメ」とは?
いじめ2012(4)「いじめ」に対する素朴な疑問
いじめ2012(5)何故誰にも相談なく死を選ぶ? 何故傍観するのか?
いじめ2012(6)学校を閉鎖社会にしてはならない
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いじめ2006 いじめ自殺防止に、子どもの訴えを引き出す工夫を? いじめが引き金になって子どもの命が失われる悲惨なニュースが続いている。
最近報じられた福岡県の中学2年の男子生徒の場合のいじめは担任教師が主導したという信じられない状況下で生じている。教師にとって冗談であっても、生徒はどんなに傷ついたか、想像にあまりある。
私は高二の時の面接で、国立の医学部を受けたいと高校の担任に告げたら、担任は「ならば東大医学部以外無いね」と最大級のイヤミで返してきただけでなく、書類に大きな字で「東大医学部志望」と記載した。これも一種のイジメであった。その日のことは担任の人を小馬鹿にしたような表情も含め、今でも鮮明に思い出す。担任のその目はその後も、授業の時も変わることはなかった。勿論、私は傷付いたが、結果的にはむしろ励みの方に有利に作用した。この言葉、あの嫌らしい目の表情がなければ今の私は無かったかもしれない。
事件の時にマスコミの前に出てくる校長、教育委員会等の面々であるが、殆ど爺さんばっかりである。この人達は打ち合わせの通りなのか、硬い表情で同じ事を繰り返すのみで、体面、保身のことしか考えていない様である。何処かの国の高官と似ている。彼らは学校のハード面の管理、職員室内の管理のことしか眼中にないのではないか?本当に子供達のことを考えているのだろうか。分かっているのだろうか、と思う。このような頑なな面々に囲まれている子供達が、自殺しようとまで思い詰めていたとしても、実際に何を言えるのだろうか。
私は、校長が子供の悩みを直接受け取る目安箱のようなものを設置するのも一案だと思う。イジメを受けた本人、見ていても何も言えなかった友人達の声が集まるのではないだろうか。
原本は保存を義務づけ、直筆文は非公開としてプライバシーを守る配慮も必要である。何らかの工夫で子供達の声が直接届く工夫、子供達の声を吸い上げる工夫がなければ、教室内の問題点など上層部には届かないし、悲惨なイジメ自殺は無くならない。
(2006 . 11.8)
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いじめ2012(1)人間に備わった本質的性格に由来しているのか
「いじめ」の報道があとを絶たない。特に大津市の事件以降報道が加熱していることもあるだろう。ただ、「いじめ」に関する有用な統計はないようである。実際には、粗い統計はあるのだが、「いじめ」そのものの判断基準が確立されたものはない。だから、それほど有用な統計にならない。
文科省が平成12年2月発表したデータによると平成10年度の統計ではいじめと認知された件数は7万7630件で、6.7%の増加としている。これは、遅ればせながら現場での実態把握が進んだためと考察されている。しかも、最近、「いじめ」の判断基準が一層幅広くなっている可能性もある。
「いじめ」は恐らく人間と言う生物が持つ野蛮な闘争的意識に由来するものであって、歴史的にも長いだろうと思われる。私の子どもの時もあった。しかし、私が経験した「いじめ」などはそれほど深刻なものではなかった。私の場合は、ちいさな小中学校であり、環境因子も大きかったと思う。最近の例では海上自衛隊の「いじめ」事件もあった。「いじめ」は決して子供達の問題ではない。
「いじめ」が陰湿となるなど質的に大きく変わっているようである。この陰鬱になった背景は、恐らくは、子供達が時代の変化について行けないからではないか、と私は思うのだが、それを含め、枚挙にいとまがないだろう、と思う。
中にはほとんど犯罪にと言って良い「いじめ」もある。
はっきりしているのは傷害事件の範囲である。かつて、マットに簀巻きにして死に至らしめた例もある。
問題は、「いじめ」を介して自死に追い込んだケースである。学校側、教育委員会側は、恐らく箝口令もあるのだろうが、総じて「いじめ」の存在を否定してかかっている。最初から認めた例などは殆どないように思う。一人一人の教師のホンネを聞けば別な意見も、別な解決法も出てくると思う。こんな状況の中、果たして「いじめ」は、学校という閉鎖社会の中で対応できる問題なのだろうか。今までの事件を並べて見ると、私にははなはだ疑問に思われる。
最近、学校側は加害容疑者を司直の手に渡して取り調べも行われるようになってきた。大津市では生徒たちから事情聴取が行われた。47都道府県のうち10の教育委員会が地元の警察を交えた会議を開催している。
他方で「いじめ」の現場、すなわち学校から被害者を逃げがせば良い、という提言がしだいに大きな輪がひろげがり始めている。緊急避難のすすめであるが、危機回避のためにはそれしかない、という半ば絶望的な解決法である。ただ、これとて無制限に、長期的に出来る問題ではない。
「いじめ」は人間の本質に関わる問題である。対策に特効薬はあるのだろうか。
(2012.11. 21)
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いじめ2012(2)集団があるところに「いじめ」がある
ヒトは社会的動物とされるが、実際には好戦的な動物なのだろう。というよりは動物共通の縄張り争い、生存競争、メスの獲得等の本質的性質なのかも知れない。
人は社会的教育を受けずにほったらかしにして置かれると、徐々に野性化していくとされる。それを抑制しているのが教育その他であろう。それでも、人はパニック状態、極限的状況に陥るといつでも野獣化する。数多くの犯罪行為がそのような状況下で行われている。
野生化した状態では社会など成り立たない。人類はそのために、ヒトの野性化という串態を回避するために、いわば大人しくするために、社会的良識を備えるために、文化的システムを開発してきたのだと思う。
もっとも普遍的な意味で重要なのが家庭教育であり、「学校」という教育の場である。特に、学校は思春期に達する前から子どもたちを長い間かけて統合された価値観と人生観をビルトインする場だからである。それと、宗教活動もこれに相当するかも知れない。個々の人間に対してはいのちの尊さ、人の尊厳、社会の規範を教えてくれる。ただ、集団となると宗教戦争というものがあるから、判断は難しい。
闘争本能を中和するのに「スポーツ」も有用と考えられる。スポーツは自分がやるか否かは別にしても、野性化するエネルギーの中和や昇華するのに欠かせない。一定のルールの中でのエネルギーの昇華になるだろうが、闘志むき出しの選手の姿に自らをかさねあわせるファンも少なくないだろう。いっぽう、武道など精神統一を厳しく求めるものもある。
その教育の場で「いじめ」が行われていることは問題である。
ところが「いじめ」は大人の世界にもあるし、学校の場合より根が深い。職場で精神的に追い込まれてうつ病などの精神疾患を発症するケースも少なくない。高齢者の集団生活の場にも「いじめ」がある、とされる。家庭にだってDVがあり、幼児虐待、育児放棄もある。
こう考えると集団があるところには必ず「いじめ」があると考えて良い様である。
( 2012.11.22)
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いじめ2012(3)そもそも文部科学省が定義している「イジメ」とは?
2007年に文部科学省は「いじめ」の定義を変更した。
「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。そして、いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」、となった。
それまでの定義は、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」であったが、「一方的に」、「継続的」、「深刻な苦痛」などの相対的言葉が含まれ曖昧なものにしていた。この定義では本人が「深刻な苦痛を受けていない」と被害を受けた側が言えば定義から外れてしまう。
先日22日に文科省が緊急の「いじめ」調査結果を発表した。
それによると、「いじめ」の把握件数はこの半年間だけで昨年後の約2倍の14万件ほどとなった。都道府県別の発生件数では160倍もの差がで、14万件の内の1/3強が鹿児島県が占めた。恐らく、調査自体の絞り込み条件が甘くて調査する現場に混乱が生じたことが伺われる。そうは言えども、出来るだけ軽微な「いじめ」も掘り起こそうとする意図が見え、従来の「いじめ」を隠蔽する体質に変化が見えてきたことを示している。
秋田魁新聞によると、秋田県内の学校では1020件で、昨年一年間の2.6倍であった。小学校が398件、中学校318件、高校303件、特別支援学校1件となっている。
この調査で分かることは、学校では集団がある以上「いじめ」があって当たり前、と言う前提に立たつべきと言うことである。従来は「いじめ」 の存在をひたすら隠蔽し、否定してきた学校や教育委員会は発想の転換を迫られるし、過去の姿勢は何だったのかと問われることになる。
同時に、学校が今の体制で良いのかについても考慮しなければならない。超多忙とされる教員に「いじめ」対応は出来るのだろうか、教員の増員、養護教員に加えて「いじめ」に対応するために訓練を受けたスクールカウンセラーの配備なども検討すべきだろうと思う。
(2012.11.23)
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いじめ2012(4)「いじめ」に対する素朴な疑問
「いじめ」問題を考えていくと子供達の行動に理解しがたい状況に突き当たる。また、学校は教育の場として専門家集団が担っていて、セミクロースドの近づきがたい存在でとなっているように思う。ひとたび「いじめ」事件等が生じると、いままでのケースではその壁を越えるのは一般的には至難の業のようである。
わが家には3人の子どもがいる。今とは、時代も異なっているが、わが家で「いじめ」が深刻な話題になったことはなかったと思う。しかし、次の世代の孫たちがいる。まだまだ学童期ではないが、「いじめ」問題は私にとっても看過出来ない問題である。
最近の「いじめ」問題の報道を通じて以下の疑問がわいて来た。
■なぜ、学校側・教育委員会は事実をこれほど隠すのか?
■学校は危機管理の面で組織的機能を果たしていないのではないか?
■学校と教育委員会間の関係は過度に緊張関係、上下関係にあるのでは?
■教職員、教育委員会に人間をあつかっていると言う感覚が乏しくないか?
■何故被害者は誰にも相談なく死を選ぶのか?
■なぜ子供達は同級生や学校のいじめを見て、見ぬふりするのか?
■加害者側は遊び感覚、楽しんでいる様子で、多くの場合「いじめ」の感覚なし。
■一部に名誉毀損、強要、恐喝、暴行などを伴うことがある。これはほぼ犯罪行為であるが、被害者はそれでも隠し通そうとするのは何故か。
■ほぼ犯罪行為と言って良い「いじめ」もあるが、この場合には学校組織だけでの対応は困難だろう。
■被害者は尊厳がずたずてにされる。大人になっても深いトラウマとして残っている様である。
■一定以上の身体的障害を伴った場合は警察に届けるべきと思う。
( 2012.11.27)
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いじめ2012(5)何故誰にも相談なく死を選ぶ? 何故傍観するのか?
「いじめ」によって死を選ばざるを得なかった子供達たちの辛い気持ちは到底推し量ることは出来ない。保護者の気持ちも推し量れない。
何故、被害者は誰にも相談なく死を選ぶのか? このことがよく分からない。担任や他の教職員も子供達にとっては意外と話しづらい相手なのかも知れない。何分にも教師は多忙で十分相談に関わっていられないという。両親ですら多忙でじっくり相談できない存在なのかも知れない。
「いじめ」にあった子供達は最初のうち保護者や担任には相談している。先日の文科省の統計によると、相談した相手は、担任が7割、担任以外教職員が1.5割、保護者3割、友人1割、誰にも相談しないが1割であった。しかし、あまり親身になって貰えず、大人の感覚で軽く扱われることで次第に一人で悩みをかかえる様になるという。この初期の時点での対応のあり方がポイントになると思われる。
「いじめ」問題から読み取れることは今の子供達は孤立していると言うことである。
「いじめ」は、加害者側は遊び感覚、楽しんでいる様子で、多くの場合「いじめ」の感覚はないという。そのために教師が関わろうとしても初期の段階で頓挫してしまう。また驚いたことに被害にあった子供達も「いじめ」を否定することが多いと言う。これはどうしたことか。これも大人に話しても理解して貰えない、何もして貰えない、と言う世代間のギャップなのだろうか。
なぜ子供達は同級生や学校の「いじめ」を見て、見ぬふりするのだろうか?これも分からない。子供達は絶えず空気を読みながら友人との間にいさかいを作らないように緊張している、らしい。次は自分なのかも知れない。メールの返事が遅れただけで仲間はずれになることもある、と言う。だとすれば、「いじめ」られている友人の存在は自身にとっては都合が良い、とも言いうる。
子供達が一番情報を持っているはずである。陰鬱な「いじめ」に至らぬようにするには、子どもたちから如何に情報を集めるかにかかっている、と思う。
(2012.11.28)
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いじめ2012(6)学校を閉鎖社会にしてはならない
私の感覚から言えば、「いじめ」にあった被害者がなぜ学校を休学したり、転校したり、止めたりしないで死を選ぶのか、これも理解出来ないことである。死を選ぶほどの深刻な悩みであれば保護者や担任に相談すればそのような道をとることもやむなし、と緊急的回避策として恐らく反対はしないはずである。
この点については元電通大教授の中島義道氏は著作の中で日本人の画一主義に問題がある、と述べている。
学校ではあらゆる事柄に集団的行動を要求され、そこからはみ出すものは厳しく指弾される。「いじめ」の加害者側に協調性の欠如があり、被害者は従順な性格であり問題はない、と言う。協調性欠如や画一的でないことは何ら教育的、道義的価値はないのに彼らへの締め付け行動が「いじめ」行動につながっていく、と論じている。
しかしながら このような画一主義は被害者にも深く浸透しており、学校という集団からドロップアウトすることは敗北者であり、もはや生きていけない、と言うことになる。だから、「いじめ」られても「いじめ」られても登校するのであり、思いあまって自死を選ぶ事になる。
中島氏が言うがごとく、学校以外の道を模索してやればいい。保護者にとっては辛い選択になると思われるが死を選ぶよりは良いし、それで人生がだめになるわけでもない。
「いじめ」は人が集まるところには必ずあるだろう。学校現場では「いじめ」は存在しないと長い間言い続け、隠蔽もしてきたが、これからは発想を変える必要がある。今まで学校は閉鎖社会でありすぎた。「いじめ」情報をは出来るだけ公開し、教師と保護者及び地域で共有し、学校現場にいじめを許さないという環境をしっかり構築する必要があるだろう。保護者と教師の交流も必要である。
大津市の事件を契機に「いじめ」問題がクローズアップされている。「いじめ」問題は学齢期にある子供を持つ保護者にとっても、家族にとっても無関心ではいられない問題である。また、「いじめ」を受けた経験がトラウマになっている大人も多数いるとされる。
だから「いじめ」問題は誰にとっても無関心でいられない重要な課題である。
(2012.11.29)
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