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「感謝の日」、誕生日を迎えての感想集  

2002年/2003年/2004年/2005年/2007年

2002年

2002年5月14日 57歳、感謝の日

 本日は私の誕生日でもある。超虚弱状態で生まれ、気道や消化器系が弱く、医師であった祖父ですらも何度か諦めた、という幼少期。

 臨死体験? 虫垂膿瘍の穿破による腹膜炎で開腹した小学生期、・・。

 せめて15歳頃までは生きたい、と思いながら、共に暮らした猫に「おれが死んだら一緒にあの世に行って欲しい・・」といつも頼んでいたことなどが懐かしく思い出される。病弱な私の側にいつも寄り添い、母親のようなやさしい目で私を見守り、生老病死などについて身をもって教えてくれたこの猫は、勿論、先に逝ったが、私の中では今でも13歳のままの姿で生きている。

 丈夫になったのは盛岡の私立中学に入学し、女生徒ばかりしか乗らないバスに乗るのが気恥ずかしくて雨の日も風の日も片道16Kmを自転車通学してから。風雨の日など実に辛かったが、心身共に確実に丈夫になり、継続・頑張りの大切さを体感した。
 成年以降は、家族を始め、関わりのあった多くの人たちに助けられながら、とにかく今日まで、とても有意義に過ごすことが出来ている。

 私にとっての今日は、生まれ落ちた偶然の記念日ではない。そのときから今日までの、全ての関わった人達、事象、動物たちに対しての「感謝の日」、「ありがとう、の日」、である。 ありがとう!!

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2003年


2003年5月14日  58歳を迎えた

 本日は私の誕生日でこの一年無事生きたと実感する。何をやってきたのかなと思っても意外と何もやってきていない。ただひたすら日常の業務を淡々と,かつ余裕無くこなしながら過ごしてきただけだ。

 かねてから、何かの時のためのアリバイ証明のためにと,どの時間帯に私が何処でどんなことをしていたのか程度の簡単な記録だけは記述し続けてきた。事実、それがないと自分がどんなことをして過ごしてきたのかなど全く思い出せない。このホームページを開設してからこの方までの約1年半は,ミニ随想も書いている。一日一回、このために30分ほど呻吟することが私の生活の一つの節目とオアシスになっている。毎週日曜日には昔のことを思い出す時間にしているので、最近少しは中身が濃くなったような妙な自己満足感を味わっている。 

 余所の方々から見ればくだらない努力と思われるではあろうが,「継続は力なのだ」という言葉は私の好きな言葉の一つであるし,・・・とこの一年間364日書き続けてきた。また,それらが記録に残るから,ちょっと読み返すとその日のことが思い出されて,以前の私よりは良い過ごし方をしているように思える。

 この自分の経験から,高齢者等の講演の際,自分の生活記録,出来れば自分史を作ってみることを薦めている。
 なかなか良いものである。

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2004年

2004年5月14日 59歳、感謝の日 「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」

 本日は私の誕生日。
 大勢の・・と言っても10人ほどの方々から祝福のメールをいただきました。有り難うございました。心から感謝申し上げます。多くの人たちに助けられながら、とにかく今日まで、とても有意義に過ごすことが出来ています。こんな幸せなことはありません。今日までの、全ての関わりあった方々に対して感謝したいと思います。

 本日は、この一年無事生きたと言う感慨、いや59年もよく生きたな、と言う感慨に若干ですが浸れた良い日だったと思います。

 今日一日、私の頭を何度も過ぎったのは松尾芭蕉の辞世の句、「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」でありました。何でなんでしょうね。この句は、彼が死を迎える3日前に、弟子の呑舟に墨をすらせて書き取らせたとされ、死を覚悟した彼の心境がうまく表現されています。彼の駄作の一つなのだ、という説がありますが、こんな時期に何を彼に望むのですか。無理ですよ。健常者の感覚で死に逝く人の心境を論じるまでは許されるとしても、その感覚を押しつけてはなりません。私はこの句が大好きです。

 実際に死を迎えつつある患者さんの最期に近い様子を見ながら・・、だいたい人が死ぬときに、もう医療なんて、何も価値もありませんから、この時側にいる私はもう医師なんかではありません。人生の最後のホンの一時期ですがお世話した友人、知人、同胞、後輩の一人として、この方の生を終える大切な時を、見送るために側にいるのです。この方の心はもう既に幽界をさまよっているのだ、この世の苦しみから解放され、真に幸せになる瞬間を待っているのだ、と、患者さんの傍らでいつもこの句を思い出しながら、実は喜び、祝福の心境で側にいるのです。そして、診断書を書くとき、医師に戻ります。

 実は、私はここ数年、ずっとこの句の心境にあります。勿論、芭蕉とは違います。私の「枯れ野」とは、私にとっての、未知の世界、世のしがらみ、立場、その他から一切から解放された自由の世界・・・のことなのです。

 私は、自分で設定している人生の定年60歳を迎えたら、何にチャレンジしようか、と考えています。その何はもう既に決めています。人類の文化的遺産、歴史的蓄積など、に出来るだけ触れたい、それを通じてヒトとは何ぞや・・・とか、いろいろ考え直してみたい・・・そんな夢です。

 こんな良い時代、こんなにいい環境に恵まれていながら、一介のヒトとして考えれば「旅に病んで」いるような今の余裕のない生活、もう残りはそんなに多くはありませんから、早めに「枯れ野」に踏み出したいと願っているのです。

 59歳、定年まで後一年、この一年、多分いい年になるでしょう。
 人生、なかなか良いものだ、と思います。有り難うございました。

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2005年

2005年5月14日60歳、 ザルツブルグで迎えるはずだった感激の還暦を秋田で迎えて

 本日は私の誕生日。大勢の・・と言っても10人ほどの方々から祝福のメールをいただきました。病棟では看護師の方々からもたくさん声をかけて頂き良い気分。こんなにたくさんの方々から祝福されたのは初めてです。今年は特に日常から還暦、還暦と一人で騒いでいたからでしょうか。

 何はともあれ、有り難うございました。心から感謝申し上げます。多くの人たちに支えられ助けられながら、とにかく今日まで、とても有意義に過ごすことが出来ました。こんな幸せなことはありません。

 関わりがありましたすべての方々に感謝申し上げたいと思います。

 今日は、この60年よくマア生きてきたな、と言う感慨と共にまた新しい意欲が沸いてくるのを感じています。10年ほど前までは、もし生きていて還暦を迎えられるような状態なら、その前に退職して誕生日をザルツブルグで迎えよう、半年乃至1年間ほど滞在しよう、と計画していたのですが、果たせませんでした。何で、ザルツブルグなのか?  それは、勿論、モーツアルトです。今年は彼の250年祭が行われるはず、と計算もしていたのですが、秋田で静かな朝を迎えました。多少はあがきながらも、何とかしたいと思いながらも、結局は今の環境の流れの中に身を任せてしまいました。

 本日は、土曜日だし、60回目の節目の誕生日だし、最近も随分多忙だったし、対外的予定も入っていないので、少し早めにかえってのんびりしようかと考えながら出勤したら、何と、無情にも机上にリハビリ病院の当直担当を告げるの伝言が乗っており、帰宅出来ない事態になり、今これをリハビリ病院の当直室で認めています。なんと言うこと無い、医局のスケジュール割り当て表配布時に自分の予定表に入力するのを失念していたからです。

 ザルツブルグならぬリハビリ、マア、両方ともカタカナ書きと言う微々たる共通点があるから、これで納得しますか。これも私らしい誕生日の迎え方なのでしょうね(笑)。
 とにかく、有り難う御座いました。一日一日を大切に過ごすことにいたします。



(付)還暦を迎え祝福を受ける

 今年、私は還暦を迎えることになる。

 一人で還暦、還暦・・、今年こそ生き方を変えるぞ、などと意識していたが、思いがけないことに秋田市近隣在住の老若男女28名ほどで、「港の銀水」なる料亭で還暦の祝いを催していただき、感無量であった。
 若い頃は秋田の存在は岩手の隣県と言うだけで、地図上の存在だけ知っていたが、それ以外には殆ど意識無く、関連もなく過ごしていた。そんな私が、秋田出身の女性、今の家内ですが、と知り会ったと言う偶然を出発点として、秋田で学び、子育てし、医師として30数年も過ごしているが、若い頃には考えたこともなかったことであった。
 あれよ、あれよと言ううちにここまで来てしまったと言うのが実感である。しかし、本日出席いただいた2-3歳の子供から80歳代のメンバーに親しく囲まれ、私が秋田で暮らすにあたってこんなに多くの方々に支えられているのか、と改めて有り難いと感じ入った次第である。

 長女は今夕NYから日本に無事戻ったと言うし、次男は札幌でラグビーに興じている。だから出席していないが、これも含めて皆のお陰であり、有り難いものである。
 還暦記念に、えんじ色のアスコットタイというものと同色のニットのベストをいただいた。前者は最初マフラーか?いや、スカーフか?と思ったが、私はこんなタイの存在すら全く知らなかった。何か他にも使い道はあるのだろうか。これを用いるには私の暮らしぶりに発想の転換が必要なようである。

 身体上でマイナーな問題点はあちこちにはあるものの、健康上でも大きなトラブルも無く、無事還暦を迎えられるなど、もしかすれば、と勿論小さな期待はあったが、現実になって本当に味わい深い事態である。数年ほど前から、「もしも、還暦を迎えるなら、その年が勤務医としての定年」と勝手に設定していたので、現実に考えなければならくなった。今までは夢として見続けて来たが、本当にこれからどうしようかと考えねばならない。それが自身に対する責任でもあるような気がする。
 多分、思うような方向には事が運ばないだろうが、その様に真面目に考えていた、という事実だけは大事にして行きたいと思う。

 出席した中年女性群を中心に滝廉太郎の「花」など数曲披露されたが、適当にずれているのが親しみ深く、とても良かった。今後の道に迷う私に、相応しい「花」を副えて貰ったような気がする(5月7日)。


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2007年

2007年5月14日  62歳  改めてダ・ヴィンチ、エル・グレコの名画「受胎告知」を思う

 本日は62回目の感謝の日、すなわち私の誕生日です。

 昭和20年5月14日に生まれました。ひ弱だった私にしては随分長く生きたものです。これだけでも驚きであり、感謝、感謝であります。私にとっての今日は、単にこの世に生まれたと言う記念日だけではなく、今日まで関わって下さった全ての方々、事象に対して改めて感謝する「感謝の日」ととらえています。  

 お祝いメッセージを数人の方々から戴きました。病院でも数人のスタッフから声がかかりました。この徒然日記を見た、とわざわざハガキをくださった方もおられます。有り難いものです。

 さて、この一年もよくまあ無事に生きたものだ。不整脈が数日続くとそろそろ何かが生じるのでは、と思いつつも何も生じなかった。長く続いてそろそろかな?と思う頃になると何故か止まる。不整脈を打ち続けていることに心臓の方で疲れてしまうからでないか、等と思っている。

 一言でこの一年を言えば、「ひたすら日常の業務を余裕無くこなしてきた一年」と総括することになる。結局いつもの通りである。その過ぎ去った日々の記憶は、かなり近い日々のことでも殆ど残っていない。

 しかし、スケジュール表の過ぎ去ったページ、徒然日記の過去のタイトルだけでも読み返すとその日あったことが鮮明に思い出される。それによって決して無為に過ごして来なかった、意義ある一年であった、と改めて確認出来る。  
 毎日コツコツと記述し続けて来たことの意味はとても大きい。時間に迫られた中でひたすら続けるのは時には困難を伴うが、そのために費やした時間、労力は決して無駄でない。

 私が生まれた背景には、歴史があり、社会・文化があり、両親の人生があった。11年ぶりの妊娠が分かった際に母が、両親が何と感じたのか、その点に実は大いに興味がある。その一つ一つの背景を知ることは到底出来ない。

 折しも東京でダ・ヴィンチ展が開催されている。その目玉として初期の問題作「受胎告知」が話題になり新聞雑誌、TVの美術番組で何度か取り上げられていたが、不思議な絵である。宗教画としての「受胎告知」は私が画集として所持しているのだけでも20数種あるが、そこには驚きと言う共通した情景が展開されているが、作品毎に大きく印象は異なる。私はこの「受胎告知」の絵が大好きである。エル・グレコの有名な「受胎告知」は25年ほど前に大原美術館で直接観た。ダ・ヴィンチの作は鋭角的であくまでも分析的であり、後者はソフトな雰囲気の良い絵である。

 これらの宗教画を引き合いに出すのも恐れ多い話であるが、自分の誕生日を迎える度に、母が私を身ごもったことを体感したとき、果たして何と感じたのか?何を考えたのか?・・・と興味は尽きない。その時必ず浮かんでくる情景はこれらの宗教画である。

 この62年よくマア生きたものだ。本音ではそろそろ滝にあたる生活から、コツコツと井戸を掘るタイプの人生にシフトしたいのだが、まだ実現は困難なようである。

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