乙部中学校同級会に出席
〜44年振り 旧交を温める〜
(1)参加表明はトップで、到着はビリケツ
2005年2月12日、夕方から繋温泉にて、昭和36年乙部中学校卒業生同級会(還暦祝い)なるものが開催され出席した。今まで何度か開催されたようであるが、私にとっては初参加。そうそう、一度数年前に関東地方で開催されたが、この時は仙台での医師会会合の翌日と言うことで仙台のホテルに宿泊、翌朝出発の予定であったが、どんな伝を辿ったか不明だが幹事から連絡があり、その日が同級会の当日であったとの事。平謝りに謝り、物理的にどうしようもないからキャンセルした。原因はどちらにあったか、その時も多忙で特に詮索はしなかったが、今考えると多分私の方だろう。
今回も予定のこまち、10分前まで自室で机に向かって業務に没頭していた。パソコンをシャットダウンする暇などなくスリープ状態のままにして駅に急ぐ。発車1分ほど前に無事すべり込む。
田沢湖を過ぎ、岩手に入ったら突然雪の量が少ない。17:30頃雫石にて下車。途端に頬を刺すような寒気。黒く澄み切った夕刻の空、これだこれだ、これこそ郷里の冬なのだ。タクシーいるか??いなきゃ遅刻だね。居た居た、たった一台。私のためによう居てくれた、と何でも善意に解釈する。定刻5分前に会場に到着。ちょっと後悔するほどタクシーの運転手さんにチップをはずむ。
間髪入れず記念写真、同級会が始まる。私の立場だけを考えると実に効率的時間配分。
聞くところによると、出席のハガキで第一番目に着いたのは私のだったという。にもかかわらず最も遅く会場に着いたのも私だとのこと。その間、幹事達は私の性格を知ってか、自宅に電話を入れて出かけたか否か確認して、それでも前歴があるから無事着くかヤキモキしていたらしい。受付では幹事の女性達が、満面の笑みを浮かべて迎えてくれたが、さぞやホッとしたことだろう、心配をおかけして申し訳なかった、とミニ反省。
(2)年と共につのる里心
中学卒業以来、同級会は今まで何度か開催されたようであるが、私にとっては今回は実質的に初参加。40歳代までは人の集うところへの参加は好まず大部分を断ってきた。結婚式の招待など、50回以上はご招待を受けたと思うが、実際に出席したのは数回のみ。大部分はこの5年間の中に集中している。私自身の人の集う事の意味が変わってきている、意味が解ってきたからなのだと思う。心狭い、若気の至りとは言え、大変迷惑をかけ、礼を欠いてきた、と今更ながら思う。
その頃にもの同級会の招待、多分あったと思うが、あまり考えることもなく欠席にしてきたと思う。ところが、矢張り年齢と共に考え、人に対して、級友に対して、故郷に対しても感じ方がかわってきた。
実質的には高校卒業した年から、乙部を去ったわけだが、大学の時に住宅を処分し、盛岡の外れに転居した。以降も年に1度は墓参りを欠かしたことはない。最近、故郷に対する親しみの心が徐々に大きくなっていくのを自覚していたが、それでも実際には懐かしい乙部の町並みを、同級生の家の前を車でサッと通過するだけ。バイパスも出来ているが、私はそちらは通らない。40数回は訪れているわけだが、その間、乙部では一度も同級生に会ったこともないし、姿も見たことはなかった。車って言うのは多くのことを捨て去る道具であることがよく解る。
昨年秋、還暦祝いを兼ねての同級会が開催されるとのハガキが届いた。翌日は東京出張が予定されていたので駄目かと思ったが、場所も行き慣れた繋温泉、何度か宿泊したことのある「愛真館」、開催時間も問題もない。しかも、幸運にも30分ほど前に雫石に停車する「こまち」もある。障害になるものは何にもない、迷うことは全くなかった。即座に出席を決め返信のハガキを投函した。結果的に、私のハガキが幹事のもとに第一番に届いた事になる。
級友73人中、33人集まった。会場には私は33番目の到着であった。最高に効率的移動で満足していたのは私だけだったらしい。
(3)会話を通じ、懐かしくいろいろ思い出す
中学卒業以来、44年振り。この間会ったことのあるのは数人だけで本当に44年、全く音信もなく、面影も一切見ることはなかった級友達であるが、すぐに全員、迷うことなく中学の時の顔を想い出した。みんな良い表情していた。実際の生活の場では、必ずしも今日の日のような円満そうにみえる表情だけではないだろう。が、この場ではみんな同じ気持ちで集まり、考えていること、感じていることもほぼ同じだろう。だから、みんな良い表情であった。だからこそ、今日、来なかった、来れなかった級友達、それぞれ、今どうしているのだろうか、と、渡された中学時代の記念写真のコピーを眺めながら一瞬思いをはせた。
乙部中学校は乙部、大ヶ生、手代森の3つの小学校から集まって、それでもたったの70数名。私は乙部書学校から盛岡の岩手中学校に進学、3年目に一年間だけ戻っただけなので、大ヶ生、手代森小学校出身者とは僅か1年一緒に勉強しただけでしかない。それでも殆ど全員記憶に残っている。2年間学んだ岩手中学の100名ほどの級友、3年間学んだ盛岡一高では400名の同級生ほどの級友がいるはずであるが、その中で想い出せるのは数人でしかない。この違いは何だろうか。私自身の心の余裕だっただろうし、生まれ育った地域、人達、友人達の豊かな包容力だったのではなかろうか、と思う。
当日、私は初参加であったこともあって、記念写真、宴席でも中央に席が用意され、乾杯の挨拶迄させていただくなど、思いがけない歓待を受けてしまった。有り難く受けさせていただいた。約6時間、大広間、カラオケ会場で、翌朝は朝風呂の中でも語り合った。目に映るのは会場の様子でしかないが、語りながら心はすっかり古い校舎の教室、廊下、グランドにワープしていた。そう言う時間を持てたことがとても懐かしく嬉しい時間であった。年に一回、墓参りのために郷里を訪れるが、そんなときとは全然違う。この6時間でいろいろ想い出した。私の生い立ちを綴った中で乙部中学時代のことはさらっとしか表現していないが、何れ後ほど追記せねばなるまいと思った次第である。
(4)会話の中心は?
全員ほぼ60歳、何れも中学校時代の面影を顔面に残しているが、年齢より老けて見える人、若く見える人など様々であった。中学時代はみんな大同小異だったのに、この44年間、各人いろいろの人生をたどった事の証が表情に出ている。味わい深い変化である。乾杯の音頭の時、今宵無事集まれたことに対しする祝辞(縮辞)として、各人の表情に刻まれた、一筋の皺の中に各々がたどった、知られざる個人史が刻まれている、旨を述べたが、実感である。この様な変化を一気に概観できるのも同級会ならではの味、価値の一つであろうと感じ入った次第。
飲めない酒やビールを片手に、最期の方はオレンジジュースを片手に6時間余、よう語り合った。開放感のある、満面の笑みはとても良かった。しかし、その中にも決して順風満帆ではなかったであろう影の部分、実際には日常的には決してこんな良い表情ではないだろうと思わせる、厳しい表情が一瞬一瞬現れる。大病を患った方も数人。しかし、いずれも今はその雰囲気を残していない、見事な回復振りで驚嘆させられた。
話題は、病気あり、失意あり、と実に様々であったが、言う方も聞く方もサラリと流し深く突っ込まないところで適当にセーブが利いているのがまた良かった。何しろ、一夜明ければまた各人バラバラ、現実の世界に戻っていくのだから。一夜明ければまた各人バラバラ、現実の世界に戻っていくのだから。今宵の集合は泡沫の夢の中の一シーンに過ぎないのだ。
その中で語られたことを集約すると以下の如く。()は私のコメント。
●腰が痛い、膝が痛い。目が、耳が・・・(長生きするからだよ。仕方がないね。せめて痩せれば・・・)
●こんな手術を受けましたよ。医療ってすごい世界ですね(無事生還できて良かった、良かった・・・)
●孫がとても可愛い、最高!!(へー、孫のことはわかったけど、何で夫や妻のこと、子供のことは語らないの??---無言)
●今は嘱託の身分で、若い後輩連中に頭を下げながら気を遣いながら働いているよ(ウーン、厳しいね。私はむしろ積極的に嘱託になりたい、と思っているよ。)
●医師は定年ってないでしょう、良いですね(イヤイヤ、そりゃ誤解だよ。定年はもう少し先だけど、私は60歳が定年実質的だと思っているよ)
●3年後、生きていたらまた会いましょう(アハハ、もし生きていたらね・・・)
6時間、とても時間が短かった。生きるという事についてはみんなすごく淡々としている印象で感心した。これも同級会ならではの味。
(5)翌朝、東京出張に
翌朝、5:00起床、同室の級友3名は熟睡中、静かに起きだし朝風呂を楽しみ、ロビーにて新聞などでのんびり過ごし、身体が冷えたらまた風呂と何度か繰り返す。
7:00コーヒーとレタスだけの朝食を摂る。広い会場には数人だけで快適、再度風呂。
級友の何人かと挨拶を交わし、8:15私だけ旅館のシャトルバスにて盛岡駅に。大型バスに私一人だけ、と勿体ないほど快適。温泉街の山並みを通り過ぎ、バスが盛岡駅に近づくにつれ、徐々に気持は日常のそれに戻る。
9:38新幹線「はやて」にて東京へ、13:00-16:10駒込日本医師会館にて医療政策セミナー「国民皆保険下における医療供給体制のあり方」に出席。16:56東京駅発こまち、21:00秋田着。この二日間のエベントは愉しく、かつ慌ただしく終了した。
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