車よ騎るなかれ!!
車を騎らせるなかれ!!
---------ある交通弱者の叫び--------
福田 光之
日本医事新報3575/1992,pp68
はじめに
車は実に便利な道具である。今更車なしの生活は考えられないが、私は日常,バイクを利用している。交通行政に不満で、車を気分良く利用出来ないからである。わが国では歩行者、自転車は交通弱者と書われる。私は.バイクは乗物のうちで最も危険なものと思っているので弱者に加えたいが、異論が続出するだろう。
いずれにせよ、交通弱者は車との関係では常に危険と紙一重である。特にバイクを利用していると、わが国の交通体系の欠陥が体感出来る。わが国の年間の交通事故死者は、ここ3年連続して11000人を超えている。うち約1/3-1/4が歩行者と自転車利用者で、特に高齢者、幼児が多い。車は自由な道を自由な速度で走れるという特性を持つ以上、車同士の衝突事故は避け難い。ドライバーは自身の安全は自分で守らね.ばならない。だから、シートベルト着用を法的に義務.つける必要などは全くない。一方、交通弱者が車によって傷害されるのは別次元の問題である。
車の対人事故の大部分は道路の構造的欠陥に由来するので、事故を防ぐ手立ては幾らでもある、というのが本稿の結論である。
交通戦争
秋田の地方紙である魁新聞の昨年10月5日版に以下の一記事があった。10月4日現在、わが国の交通事故死者が8000人を突破、3年連続11000人を超えるのは確実視されている。秋田県内でも10月4日99人目の死者が出た。県警では「交通安全教育を徹底し取締を強化しているが死亡事故は止らない」と頭を痛め、「新たな犠牲者を一人でも減らすために、職場や家庭でも交通安全の声掛などを実践して欲しい」と訴えている。また、同じく10月12-14日の読売新聞秋田版に、「交通事故死100人突破、緊急レ.ボート」と題した特集が見られたが、その中で秋田大学の某教授は「交通事故の85%は人的要因である」と述べていた。このような記事を読むと私は落胆する。交通取締りを強化し、声掛け運動をすれば、交通事故が防げると考えるのは甘い幻想でしかない。
わが国では昭和30年以降車が急速に増.え、全国で約7000万台ほどが走っているとされる。道路の改修、増設も行われ、舗装道路は総延長110万・になったとされる。しかし狭い路地にまで車が溢れ、場所をわきまえない速度で走っている。かつては道路の主役であった歩行者、自転車はすっかり脇に押しやられ、道路の端を利用しなけれ.はならなくなった。わが国では新しい道路ですら歩行者の安全確歩は十分でない。歩道を欠く道路が多く、たとえあっても、その安全対策は不備である。歩道・車道を分けるブロック一つ程の段差は車は容易に乗り越える。交通信号も問題がある。横断者は青信号でも右・左折車に擾ねられる危険がある。道路脇の白線は何のためにあるのだろう。自転車はもとより歩くことさえ出来ない幅である。
多くの人は経済活動の維持のため歩行者よりも車が優先されて当然と言う。しかし経済の維持と交通弱者の安全が脅かされることは、分けて考えなけれ.はならない。とかく人間は何かに慣れ親しむと、その長所だけを都合よく拡大解釈して弱点を軽視し、それ.が最高と、知らず知らずのうちに自己暗示にかかる。現実と意識のアン.バランスが作り上げる錯覚である。車の場合、その傾向が特に大きい。国民も車の普及は生活レベル、経済レベルの向上の成果であると喜び、この恩恵を享受するためには、若干の問題は止むなしとしてきた誤ちに気付いていない。子供の学芸会などでは、なりふりかまわずビデオカメラを回す親達も多いが、この交通地獄の真只中に可愛い子供達を平然と出せるのは、どういう感覚なのだろうか。
ヒトと車の運動エネルギー差
機能的で素晴らしい特性は、別の方向から見れば決定的欠陥になる。車の特性を十分いかすには車同士の衝突を防ぐ手段と、交通弱者の安全を確保する対策が、同時に実行されなければならなかった。歩いている体重50・の人間と、50・/hで疾走する1tの車との運動エネルギー差は2000倍ほどあり、幼児の場合は数万倍の差にもなる。人は車と如何に危険な共存を強いられているのか、こんな事態を何時までこのままにしておくのか、不満である。
交通マナーの順守は重要であるが、その効果が発揮されるのは、道路の安全対策が充実してからである。道路の構造的欠陥をそのままにしてマナーの順守を強調しても、事故予防対策としては無力に近い。特に、歩行者の多くを占める幼児や老人に交通マナー順守を求めても限界がある。幼児は後先を考えずに道路に飛び出すし、高齢者は交通システム、車の特性を理解できない。 ドライバーの技量や安全への考え方は百人百様で、運転は本人の意志に任される。通常は安全運転を心掛けている人でも、平静な心理状況の時にのみ運転するのではない。遮断機が降りつつある踏切を無理に渡るドライバー、レーサー気取りで公道を走り回るドライバーもいる。酒酔い運転については、自制が呼び掛けられ、罰則も強化されイいるが効果が乏しい。この現実こそが重要である。交通マナー順守に期待して安全を確保しようとするのは姑息的な対応で、本質的問題を隠蔽する。秋田県警では「20年程前の交通事故は道路の不備が原因であったが、最近の事故はマナーの欠如によっている」と分析しているらしいが、現在の道路事情を容認する限り交通事故は減らない。
事故と交通教育
連日、交通事故の悲惨な話題が新聞、テレビ、ラジオで伝えられる。その度に根本にある問題点に触れることなく、ドライ.ハーのマナーの悪さ、被害者の注意不足が原因であるように「スピード違反」「安全運転義務違反」と締めくくる。交通事故防止のキャンペーンも、個人的自覚を啓蒙する内容なので、事故は当事者の不注意に因ると考えられるよのも当然である。 生体肝移植は、ここ一年マスコミを賑わし、新聞でも社説、特集記事として登場した頻度は交通問題よりは多かったが、実際にはまだ50人ほどにしか行われていない。何らかの形で交通事故に関与したことのある人が、国民の数%もおり、年間10000人以上も死んでいるというのに、なぜ社会問題にならないのか、私には疑問に思える。交通事故に関しては国民全体が不感症に陥っているように感じられる。昨秋の交通安全週間でも、老人・子供に対する安全教育と、運転者へのマナーの遵守が強調された。 安全運転講習会も各地で開催されたが、参加者はもともと安全運転を心掛けている人達であろう。このような企画に期待できないことは、交通事故死が減らないという事実が示し、現に1991年秋の交通安全週間に秋田県で7人死亡した。取締りも交通課の警察官の体制が組めない程まで強化したと言うが、道路を利用する側には変化は感じられなかった。警察官による取締りはもう限界に達している。むしろ、あるポイントを通過する総ての車を24時間チェックし、ドライバーに警告する自動安全運転警告装置や自動取締り装置を開発する必要がある。車の使用は、原則として歩道が完備された道路だけに限定すべきだが、過渡的対策としては自動車に思い切った走行制限を加えざるを得ないだろう。即ち、進入禁止区域の拡大と速度制限である。特に後者は、マナーのみに期待するのではなく、スピードを出したままでは通れないような凸凹道路も導入すべきである。今の交通教育、交通安全週間は、現状を100%容認し、注意を喚起する程度である。このままでは貴重な命がいつまでも失われ続ける。 交通、公害、原子力発電などの社会的レベルの安全教育は、義務教育の中で問題点をも隠すことなく教え、将来一人一人が何をなすべきか自覚できる素地を養うことである。わが国では電力の約25%が原子力発電で賄われるが、その危険性はチェルノブイリでの事故で初めて知った人が多い。教育には時間が必要である。交通安全教育は低学年から必要である。運転免許の保持者は、たとえペーパードライバーでも、歩行中に事故に遭う確率は有意に少ないと言われる。交通教育の成果と言える。
車の大型化とエネルギー、公害問題、そしてマナー
車は生活の必需品である。画期的な方策がなければ利用の抑制は不可能だろう。最近3ナンバー車の売れ行きが好調で、前年比の150%ほどと言う。国産車も3-5Lエンジンの時代が到来した。より豪藁に、より快適に、は人のあくなき願望であるが、車に関しては個人の自由に任せておいてよいものか。過去二度のオイルショック時、わが国では電気もガソリンも供給停止まで至らず消費生活には一過性の影響しかなかった。せめて、わが国が経済力に任せて原油を買い漁り、大量に消費していることが、発展途上国に打撃を与えていることだけでも、理解しておく必要がある。税金が安くなったことでより大型の車に飛び付くユーザーも情けないが、機に乗じて稼ぎ捲る自動車メーカーの社会的責任は大きい。
欧米では公害の点から1Lカーが見直されてきているが、評価すべきである。昨春、家の車(1971年型)が不調で修理困難だというので買替えを検討した。私にとって車は短距離の移動の道具で、安全に走れて止まれる基本性能がしっかりしていれば良いが、最近よく売れているといわれるクラスの車は、走る応接間の如くで実に豪華である。安全性を重視し、ABS装着車を選択すると内装品も増えて、高額になる。もはや、車は単に移動するための道具でなく、その中で快く過ごすことを目的としている。大きく、なめらかな車体、豪華な車内空間と装備、強力なパワーが、ドライバーの所有欲、自尊心を刺激する。メーカーの宣伝もあの手この手で、宣伝文句は化粧品紛いとなり、広告のキャッチフレーズだけを並べても面白い。
豪華な運転席に座りドアを閉めた瞬間から、車は外から隔絶された空間となる。外気温や天候がどうであれ、その影響を殆ど受けない。車の窓面積は大きくなったが、視野が狭くガラスも着色されている。現代を生き抜くには、外界と隔絶された空間で心身を休めることは、ある程度必要だが、行き過ぎは反社会的犯罪の土壌になる。運転席に身を置き、豊かな.パワーに身を任せていると、窓外の歩行者、自転車、バイクなどは自分の行く手を阻む虫けらの如くに感じるようになる可能性がある。車の巨大なパワーは恰も自分自身に具わっていた能力と錯覚し、車の差をドライバーの差と感じてしまう。車に乗ると性格が変わるとはよく指摘されるが、その傾向は高額車、高機能車の所有者ほど大きい。進路妨害などで殺人事件にまでなることがあるが、これこそ車の持つ魔力の一つである。社会的に十分むくわれておらず、自己のアイデンティティがまだ確立していない人ほど、自分の支払能力も省みず、高性能車、高額車を求める傾向があるとされるが、その背景は以上の如くに理解し得る。
対弱者事故防止対策を
車は衝撃吸収構造に加えてシートベルト、エア.ハックなどが付けられるようになった。しかし、ドライバーが安全装置で身を包むことによって、危険に鈍感になるとすれ.は寧ろ怖い。車の装備は改良されてきたが、歩行者保護対策は皆無に近い。運転エネルギー差が2000倍もある人と車とが同じ道路を利用しているというのに、対弱者安全対策を取り入れようとしないメーカーの姿勢は問題である。対策がないなら、事故が生じても大事に至らない速度でしか走らせるべきではない。歩行者と同じにするには、車の方の運転エネルギーを約2000分の1にすればよい。それには時速1・にも満たない速度、ということになる。ドライバーは、幼児、老人、自転車、バイクが怖いという。しかし、ドライバーがそう感じるということは、既に状況に見合った安全運転をしていないことの証明である。十分危険を回避できる走り方をしていれば、怖くはないはずである。究極的には道路の分離しかないが、今出来ることは、外からドライバーの表情を見易くすること、スピードやブレーキ操作などの運行状況を明示するインジケーターを前部またはルーフに付けることである。また、会社名の入った車を運転する時は気を遣うといったドライバーは多いので、車の後部に車の所有者を大きく明示することも間接的に事故防止になるだろう。
自動車税はスライド制に
わが国は国際的に内需拡大が求められ、政府も対応に苦慮している。道路の改良には巨額の費用がかかるが、理に適う内需拡大策である。外国企業も入札できるようにすれば、国際的評価を得るだろうし、貿易摩擦問題の一部は解決するかも知れない。歩道は歩行者の安全が脅かされない構造にし、跳ね水、排気ガスの直撃を受けないようにしなければならない。さらに、自転車のための余裕も必要である。車同士の事故防止のため幹線道路には可能な限り中央分離帯を造るべきである。
道路の改装、環境の整備に必要な費用は、車の所有者、使用者から分に応じて徴収して充てればよい。発展過程で国が犯した過ちの一つは、社会的費用をそれほど負担させず安価に車を利用出来るようにしたことにある。自動車税は、軽自動車が年間6000円、5ナンバー車は4万円弱、3ナンバー車は5万円ほどである。この程度の負担のみで万人共通のスペースに大きな道具を持ち出し、有限エネルギーを消費し、有毒ガスを排出しながら高速で走る権利が認められていること自体、納得し難い。大きな車の使用者は、それなりの社会的費用を負担するのは当然である。排気量100・当り年間一万円程度の負担として、車社会の維持費に充てては如何。車を走らせると燃料を消費する。道路の改良費は燃料の値段に上乗せして徴収すれば良い。現在、軽油取引税(地方税)24.5円/L、ガソリンには揮発油税(国税)53.8円/Lであるが、不足である。燃料の価格は少なくとも今の二、三倍にはなるだろうが、やむを得まい。経済的負担が困るなら、車をより小型にすればよい。車の運行費用が高騰すれば流通面の停滞により経済活動が低迷するだろうが、これはある程度はやむを得ない。国内で年間11000人もが事故で死ぬような状況を容認しつつ成り立っている交通体系の方が異常である。賢い日本人のことだ、新たな流通体系、経済体系を構築して乗り切るかも知れない。流通に関しては航空、船舶、鉄道、車と、総合的立場からの再編が必要だろう。通信のネットワークの有効利用により、車の運行量を減少させることも可能である。
おわりに私は、四年ほど前、通勤時に歩道を自転車で進行中、脇のガソリンスタンドから歩道を横切って国道に出ようとした乗用車と衝突した。危機一髪、転倒しないですんだが、あの時、国道側に押し倒されていたら、と思うと身の毛.がよだつ。この時から交通行政へ抱いていた不満は怒りに変わった。私は今バイクを利用している。自分から事故を起こすとは考えていないが、今の交通体系の中ではバイクは最たる交通弱者である以上、車と衝突して死の結末を迎える可能性は大いにある。その危険をいつも感じるだけに、交通行政の不備を強く感じる。
本稿の内容を人に話すと、あきれられ、道路の改良など無理だと言われる。交通弱者として過ごした経験は誰にでもあり、車の横暴さに怒りを感じたことも少なくなかったはずである。しかし、車の便利さを享受出来る立場になってからは、すっかり忘れ去ったようである。交通事故による犠牲者が天国で、今のモータリゼーションについてどう感じているのか、知りたいものである。
〔参考資料〕
(1)秋田魁新聞、毎日新聞、読売新聞(特に平成3年10月1日以降〕
(2)宇沢文一 自動車の社会的費用、岩波文庫、1974
(3)杉田聡一 人にとってクルマとは何か、大月書店、1641
(4)鳥羽銭一郎 二つの顔の日本人、中公文庫、1973
(5〕田村理 医師よ驕るなかれ、医事薬業新報社、1970
(秋田市・中通病院〕
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