中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長を悼んで




 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長は、病気療養中のところ、2006年5月25日午前に中通総合病院で永眠された。心から哀悼の意を表したい。先生は昭和5年広島県生まれで、享年75歳。今の時勢から見ればまだまだお若く、先生の死は先生を知る多くの方々から惜しまれている。

 中谷先生は、中通診療所の創始者である瀬戸泰士現中通総合病院名誉院長とともに、種々の困難の中、日夜を問わず精力的に診療にあたられ、明和会の礎作り、中通病院、中通リハピリテーション病院の発展に大きく貢献された。当時の医療活動については、それを知る秋田市市民、秋田県民からは今も半ば伝説的と言っていい様相で語られている。

 先生は昭和29年に東北大学医学部を卒業され、青森県の健生病院勤務を経て、昭和31年中通診療所に入社、翌年副院長に就任された。当時、秋田県では脳卒中が多発し、県民病と迄言われていた時代である。先生はその診療に誠意あたられていたとのことであるが、一生懸命になればなるほど治療の限界を体感されたのであろう、当時脚光を浴びつつあったリハビリテーション医学に注目され、独学でリハビリテーション医学を学ばれたのだという。

 昭和44年6月には139床の中通リハピリテーション病院を発足させ、翌45年院長に就任した。昭和50年4月には新病院を建設し、以降、都市型のリハビリテーション施設として全国的にも注目をされる存在にまで発展させた。平成2年6月に院長職を辞し、名誉院長に就任されたが、その後も往診や外来診療を担われていた。


 上記は私の手元にある資料・文献を参考に中谷名誉院長の足跡を私の目でまとめたものである。私は昭和60年に中通病院に赴任したが、中通リハピリテーション病院は僅か2-300mしか離れていないものの、私にとっては遠い存在で、残念なことに先生とはそれほど接点を持つことはなく、直接お話しする機会も実に乏しかった。会話を直接交わした時間は全部合わせても1時間に満たないかもしれない。先生と私の接点は患者の紹介を介してと、先生が書かれた数々の文献、文章を通じて、が主たるものである。ここ数年体調がすぐれなかった、とは聞いていたが、最近まで外来診療にあたられていた、とも聞いていた。先週、私どもの病院に再入院されたとは連絡を受けていたが、予想していたよりも経過が早く、直接お見舞いする機会は得られなかった。残念である。

 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長のご葬儀は本日14:00より明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれたが、私は新型インフルエンザ・パンデミック時の危機管理が主題である東北ブロック感染症危機管理会議への出席を優先させた。尊敬出来る数少ない臨床医のお一人として個人的にも、また、法人内の立場の上からも葬儀に列席できず実に残念であったが、私は今回は別の立場の方を優先させた。とても残念であるがやむを得ない。

 中谷先生の業績は法人や病院の発展に貢献されたことに留まらない。兵器廃絶、被爆者援護法生態などの平和運動、労働者の健康問題、各種の社会保障制度改善運動などの方面での活動も挙げなければならない。常に社会をクールに見つめ、弱者に温かい目を注ぎ、社会運動に参加されていた。

 先生は広島県出身で、自らも被爆体験がおありになったと聞いたこともあるが、秋田市近隣の被爆者の検診や健康管理も一手に引き受けられていた。その二次検診の役割は私がずっと担当している。数少ない先生と私との間の接点である。

 私が中通病院に赴任してきて2年目のこと、秋田県民医連学術集談会を主催する機会があったが、その時特別講演を依頼した。その時に初めて直接お会いして対話したのであるが、私が血液の臨床を学んでいたことを知っておられ、「自分が若い頃、急性虫垂炎から敗血症を起こした患者さんを慢性骨髄性白血病と誤診しましてね・・」と切り出された。その時の先生の謙虚な表情、表現から臨床医としての優れた姿勢が直感でき、互いの距離が急速に縮まったことを自覚し、その後は先生の書かれた多くの文献を親しみを持って読ませていただいた。病院の図書室にこもり文献を収集されていた先生のお姿にも数多く接した。

 心に残った著書として前後編からなる二冊の「長生きの本」がある。高齢の方々に対する先生の暖かな慈しみの気持ちがあふれ出ている名著である。私の講演の資料としても何度も何度も使わせていただいた。

  私の問題点の一つとして人と交わることが少ないこと、を挙げねばならない。この病院に勤務してからもう20年にもなるが、医師をはじめ、共に働いている職員達との対話は少なく、プライベートな事に関しては興味も知識も殆どない。中谷先生に関しても、臨床医として、社会運動家の一人として注目はしていたし尊敬も気持ちもあったが、私が中谷先生に関し記述できることは余りにも少ない。

 後に、医師会雑誌他に先生をしのぶ追悼文が掲載されると思う。私はそれを読むのを楽しみにしている。恐らく私の知らない先生の面影が語られると思う。さらに、先生の遺稿集がまとめられないのであろうか、とも思うし、願っている。

 中谷先生、心からご冥福をお祈りします。

 
偲ぶ会 

 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長は、病気療養中のところ、5月25日に中通総合病院で永眠された。ご葬儀は5月30日明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれたが、私は業務を優先させ葬儀には欠席とさせていただいた。私は5月27日、斎場にてお別れをした。

 本日、2006年6月17日17:30より弥高会館において「偲ぶ会」が開催された。

 実行委員会より私に献杯の発声を、という役割が与えられた。先生のご活躍の足跡の大きさから見て、私以上に適任の方が居られるはずだとは思ったが、哀悼の意を表するせっかくの機会であり、謹んでお引き受けすることとした。中谷先生についての思い出とかについては献杯の前に、先生と親しい友人であるK先生にお願いしてあるとのことで、私は簡単に発声のみ行うつもりで、挨拶など何も用意はしていなかったし、物理的にも用意は出来なかった。

 「偲ぶ会」は約100名の出席があり、実に盛会であった。実行委員の話では先生が深く関与された団体毎に「偲ぶ会」が計画されているとのこと、本日の会は病院関連、特にOBの方々を中心に声をかけたとのことであった。確かに、懐かしい顔ぶれが方々に座っていた。
 小さなハプニングがあった。 私の前に登壇されたK先生は「彼を・・、中谷先生を想うとき、感無量で声も出ません、何も語れません。別の機会に、いずれは・・・」と少ない言葉と表情で十二分に哀悼の意を示され、降壇された。

 私は、これまで「数少ない」故人を見送ったが、このような気持ちになったことは一度もないし、多分、今後もないだろう。ホットな人間関係を維持できないのが私の問題点の一つであると自認しているから、この様な気持ちになりうるのは別世界の方々なのだとも思えるし、一方では羨望の気持ちが全く無いかと思えば、決してそうではない。複雑な気持ちを味わった。

 続いて献杯である。私は何としようかと考えつつ、杯を片手にマイクの前に立った。献杯の発声の前にやはり一言は必要だろう、そうでなければ私は単に中通総合病院院長という役職で献杯の発声する役割を引き受けたことになりかねない、それでは中谷先生にも、本日出席された方々に対しても大変失礼なこととなる、と決心し、先にホームページの徒然日記に記載した内容を思い出しつつ、どのようにまとめ上げられるかも分からない状態で、マア、最後は形式に則ってしめればいいさ、と割り切って話すこととした。


献杯の挨拶

 私は本日、「偲ぶ会」実効委員会より献杯の発声を、と命じられておりますが、献杯の前に中谷先生について若干お話しさせていただきたいので、今一度ご着席下さい。

 私は昨年秋から中通総合病院院長を仰せつかっております福田です。本日は法人のOB/OGを含む大勢の方々のご出席を戴きました。懐かしい顔ぶれの方々がテーブルに座っておられます。多くの皆様方には院長としては初めてのご挨拶になると思います。

 さて、私は本日ご列席の皆様方の表情を見て、あまり悲しんでいる様に見えないのでとても安堵しております。多分、お聞きすれば言葉としては悲しみの言葉が語られとは思いますが、先生の旅立ちは、まだご活躍いただけるお年であったがために惜しむ気持ちを持つのは当然としても、実はこれで良かったのだ、先生は十分に生きられたのだ、お送りする立場の皆様方は、恐らくそう思われているのではないでしょうか。私自身は心からそう思っております。

 中谷先生は昨年秋に急性の呼吸不全を発症されまして集中治療室に入院されました。私も見舞いに駆けつけたのですが、その時、私の院長としての初仕事がもしかしたら先生をお見送りすることになるかもしれない、と覚悟を致しました。しかし、先生はその危機的状況を乗り切られて退院なさいました。私は驚くと共に、早晩、来るべき時は来るのだ、と心を決めておりました。それが、遂に現実のものになってしまいました。

 実は、私は中谷先生とこの20数年間の間に交わした会話と言えば全部合わせても小一時間にも満たないと思います。私が明和会に就職して間もなくの頃、「先生は血液の臨床を学ばれたそうですね。私には悔やんでも悔やみきれない経験があります・・。」と、類白血病反応例を慢性骨髄性白血病と誤った判断をしたと言う経験を語られました。医学的な判断とは別に、私はこの時の先生の表情から患者の事を何よりも大切にしている、臨床医として尊敬できる方である、との強烈な印象を受けました。

 その後は直接会話を交わす機会は殆どありませんでしたが、私は目に触れる中谷先生の文章から先生の人となりを学ばせていただき、広範な社会活動に尽力なさってきた姿に感銘を受けました。最近は体調を崩されていたと聞いておりましたが、病院の図書室を訪れて文献を探しておられる姿を垣間見て、変わらぬ探求心を持続されている姿にも感心しておりました。

 被爆者の健康管理もその地道なお仕事の一つでしたが、ある時、二次検診を私に担当して欲しいと考えておられることを伝え知り、私は喜んで担当させていただいております。この仕事が唯一、先生との接点として、つい先日まで続いておりました。中谷先生が逝かれた後この分野がどの様になるのか分かりませんが、お役に立つことがあれば私も継続していきたいと考えております。

  中谷先生は脳卒中の診療に精力的に取り組まれたとの事で、その診療のお姿は「だるまの会」の会員の方々が今でも熱く語ってくださいます。その診療を通じて、結果的に医学、医療による診断や治療には限界があることを悟られ、失った機能に注目するよりも残った機能を伸ばすことの方がより患者のQOL維持に重要と考えられてリハビリテーション医療の方に徐々に傾倒されて行ったのだと思います。

  私自身は血液免疫学の領域の勉強をしてきましたが、医師として果たしてどんなことを患者のためにしてあげる事が出来たのか、自問自答した時期がありました。結果的に何もしてあげていない、単に患者の持つ力に便乗してきたに等しい事しか出来ていない、との心境に至っておりますが、そう考えるようになってきてからは私の患者に対する視線が、気持ちが、すごく和らいだ、と自覚しております。そして私の医療観の第一は、医師として患者の求めに医療の面から許される範囲で対応し、患者のQOL、人生の満足感、充足感を維持する手伝いをすること、と言うことに落ち着いたような気がいたします。今、私は病院の療養病棟を中心に仕事をしておりますが、人生の最終コースにあるご高齢の方々をお世話している毎日はとても充足しております。

 中谷先生の代表作と言っていいと思いますが、「長生きの本」には先生が患者を診る際の気持ちがしみじみと記されておりますが、この本から私も多くのことを学びました。先生から時折戴きました、特徴ある直筆の紹介状にすら先生の臨床医としての視点のみならず人間としての慈しみの気持ちがにじみ出るものでありました。このようなことを感じ取れる私も些かは先生と価値観を共有出来ていたのではないかと思います。その面でもじっくりと時間をとってお話しできなかったことをとても残念に思っております。

 さて、長々とお話申し上げました。そろそろ献杯を致したいと思いますので、どうかご起立下さい。

 私は中谷先生の人生を端から垣間見ていただけに過ぎませんが、私の目で見た範囲では一つの完成しきった人生のように思いますし、先日、神のもとに旅立たれたことにも意味があると感じております。

 心静かに、しみじみと中谷先生をお送り申し上げたいと思います。

 献杯!!  皆様方、どうも有り難う御座いました。

(2006.7.17)


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