巻頭言:医療事故、医事紛争を防ぎたい(2011.5.26)

巻頭言:医療事故、医事紛争を防ぎたい


 
 私は本年5月末日をもって雇用契約が満了し退職する。長い間共に働いてきた全職員の方々に感謝申し上げたい。

 今まで数多くの文章をこの中通病院医療に掲載してきたが、これが最後となる。

 医療事故関係、医事紛争関係については折りにつけて講演等を行ってきた。退職数日前の5月26日には医療安全に関する全体学習会で最後の講演をする予定になっている。今回、医報の巻頭言を担当するにあたって、講演の内容整理をかねて「医療事故や紛争を防ぐにはどうすればいいのか」などについてまとめてみた。




医事紛争は増えている 
 
最近、重大な医療事故は減少している。しかし、医事紛争やクレーム件数は増加傾向にある様に思う。
 医師・患者関係は時代と共に変化してきた。その背景は種々、多彩であるが、最も大きいのが患者の権利の向上と考えられる。 患者の権利が主張され始めたのはたかだか40年とそう古い話ではない。1972年にアメリカ病院協会の「患者の権利章典に関する宣言」が嚆矢と思うが、1981年には世界医師会総会が「患者の権利に関するリスボン宣言」を出した。国連総会で1991年「精神病者の保護及び精神保健ケア改善のための原則」を決議 、WHOは1994年「ヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言」を採択した。

 日本は明治維新の際に謹厳なドイツ医学を取り入れた。そのためにパターナリズムが強かったが、やはり時代と共に変わってきた。患者・医師関係の変遷を知るのに良い例が、「丸椅子」議論、「患者様」の普及である。かつて、診察室で患者が丸椅子で医者のは肘掛背もたれつきであることが差別的だとした論争が交わされた。 今では多くの病院で患者を「様」付けで呼んでいる。これについて私は賛成できない。「患者様」のルーツは厚労省の通達とされているが、これは誤解されている。厚労省は国立病院に対し患者の個人名を呼ぶときに「○○様」と呼ぶよう求めたものであって「患者様」と呼ぶことを求めてはいない。なのに、この通達を機に「患者様」と呼ぶ医療機関が一気に増えた。患者を「様」付けで呼ぶ動きはその前からあって、亀田総合病院では1995年に「患者様」という言葉を取り入れている。 どちらにせよこれらを通じて、患者・医師関係は大きく様変わりした。

(2)重大な医療事故頻発 医師の信頼感が大きく失墜したのは1999年横浜市立大の患者取り違え事件、都立広尾病院の注射器取違え事件等の重大な医療事故の頻発である。 これらの事故以降、医療事故関連の報道は一気に増え、医師や医療機関の権威が失墜し、患者の権利意識の高まりも加わって、医療訴訟件数が急増した。 医療に対する不信を高めた一因は過剰なマスコミ報道もあった。悪しき結果が生じると、すぐに医療バッシングを重ね、世問の医療不信に拍車をかけた。そのバッシングの標的は医療機関であり、医師であり、決してその背景にある日本の医療制度、医療行政の問題点に言及することはなかった。医療裁判では個人の責任のみが問われ、背景因子にまで深く立ち入ることはなかった。 そんな中で2004年に福島県立大野病院事件が生じた。産科医が標準的医療を行ったのに業務上過失致死罪、異状死届け出義務違反に問われ、医師が逮捕された事件である。これに対し医師会等の医療団体が強く抗議した。 結果的に、産科医は無罪となった。無罪自体は当然であったが、小泉首相の厳しい医療費抑制策以降に地域医療が崩壊しつつあった情勢、死因調査委員会設置の論議の高まりも加味した判決と思われた。 この裁判で地裁は、患者の死亡原因を癒着胎盤という疾病と認定し「診療中の患者が診療を受けている当該疾病によって死亡したのであるから異状死に当たらない」と判断した。これは異状死の範囲を判決で認めた画期的判断であった。この大野病院事件の判快を境に、マスコミの論調も変化し、医療訴訟の件数、警察への異状死の届け出が減少に転じた。 かねてから「医療は安全・安心なもの」という幻想があって、ミスや過誤は医師や看護師の個人的問題に由来するとして責められていた。2000年11月「人は誰でも間違える To Err is Human」の日本語版の出版は医療安全の面で画期的な発想の転換を促した。これを機会に、医療行為は危険を包含すること、医療上のミスは個人の注意では防止不可能であるとの考え方が浸透し、事故防止のシステム化に向けて大きく進展した。

(3)責任回避の姿勢が不信の元に ある病院に入院中の高齢患者が転倒して骨折し、私共の病院で手術を受け退院したが、骨折に関する医療費の支払いをめぐってその病院と患者家族の間でもめているとのことである。このケースは私共の病院が関与する問題ではないが、この転倒事故において医療費をどちらが支払うかは、病院側に過失があったか否かによって決まる。過失があれば、全部または一部を病院が支払うことになるだろう。病院側の責任の有無は、患者の転倒骨折が予見可能であったか否か、回避する努力がなされていたのかがポイントとなる。 それと共に、事故後の患者や家族への説明が問題になる。トラブル回避としてはこちらの方も重要である。最近、医療関係者への要求度が高まり、とりわけ医師・看護師には厳しい視線を向けている。そして、容易に不信感を持ち、納得できないと病院への要求はエスカレートしていく。このようなケースを調べてみると原因の多くは、患者側と医療者側のコミュニケーション上のすれ違いから始まっている。最初はほんの小さな疑問でも時間と共にわだかまりが高じ、対話を重ねるうちにかえって溝が深まていく。こうなると当事者間で話し合いでは解決出来ない。 特に最初の説明の中で、病院に落ち度はないという防衛的な説明や態度を示すと不信感の因になる。先の患者の場合も、最初の説明の際に、「病院にミスはない」という説明が一方的に行われたことが家族の不信につながったようである。

増えるクレーム
 横浜市立大事件を機に、医療機関側でも医療ミスや診療に関する患者との認識の違いを減らす努力が増えた。今では、医療事故が起こった際には院内に調査委員会を迅速に立ち上げて対策することは大規模病院では一般的になっている。
 それに伴い、インフォームドコンセントがより重視されるようになり、カルテに説明した内容や行った診療内容を詳しく記録することも浸透した。その結果、医療者側と患者側の医療に対する認識の違いも埋まりつつあり、事故が起こった際にも訴訟まで至るケースが少なくなっている。
 そうは言っても、日常の診療の中で患者側が頻回に面談を求めたり、クレームをつけてくる事例は増えている。その度に医師や看護師は懇切丁寧に病状を説明し、クレームに対しては悪しき方向に発展しないように真摯に対応している。しかし、私どもが困惑するのは発展性のない不毛な議論の繰り返し、どうどう回りである。忙しい状況の中、それに付き合うことほど無駄なことはない。
 医療の中で患者の病状の悪化、死亡といった結果は往々にして避け難いが、理想論を前面に出してどうしても納得できない、と主張してくる家族もいるし、人的体制や療養環境が自分の考えに沿っていない等と、現状の医療制度の中では何ともできないことにまで感情を顕わにしてクレームをつけてくる患者家族もいる。
 このような場合、医療者も同じ人間である。誠意を持って業務を進めていても「こんなことまでクレームつけられるのか」と一旦思ってしまうと、その患者の医療や介護に過度に慎重になる一方で、患者との共感を失い、かつ熱意を失う。結果として患者の不利益にもなりうるから互いに不幸である。
原因・結果間に「ある程度の可能性あり」でも賠償 医療事故の法的責任は、かつては過失があるか否かが重要であった。例え、過失があっても死亡等の悪い結果がそれによって引き起こされたのでなければ、医療側は法的責任を負う必要はなかった。これは私共にとって対応の拠り所でもあった。
 しかし、因果関係の考え方もこの10年でかなり変わってきた。
 2000年代になって、最高裁が判決の中で採用したのが「相当程度の可能性」という考え方である。これは、過失と不利益との問に「高度の蓋然性」があるとは言えないが、「その可能性は相当にある」と判断されれば、数100万円程度の慰謝料を認める、とする考え方である。

 この概念はとても分かりにくい。私は「高度の蓋然性」とは「限りなく黒に近い灰色」を指し、「相当程度の可能性」は、「いろいろな濃さの灰色」と理解している。灰色の色調にクリアな線引きがあるはずもないから評価は難しいのだが、灰色のままで大雑把に決めてしまおう、と言うことである。

 要するに、過失と迄は言えないが、医療機関側に一定の落ち度はあったのだから、多少なりとも賠償をすべき、と言うことである。過失と結果間の因果関係を証明しなくても良いのだから、ある意味で感情論的解決法である。しかし、この考え方以前には「期待権」と言うもっと茫洋とした考え方があった。これが近年「相当程度可能性」に姿を替えたが、ある程度の「因果関係認定」と言うことになるから、感情論は若干ながら後退するだろう。

 今後の問題点としては「相当程度の可能性」理論がどのような状況にまで適用されるのかである。広く適応されれば、医療を受けた患者に何かの不利益・実害があれぱ安易に適用される可能性がある。更に拡大すれば、後遺障害がなくとも医療側がやるべき医療行為をしなかった、不快な扱いを受け心に傷を負った,等と提訴されても賠償責任が認められてしまう事にもなる。これでは医療は到底成り立たない。だから、今後の動きを見守らなければならない。
 和解・示談交渉の中でも「相当程度の可能性」理論を応用して事をまとめる動きも出てきているようだ。

おわりに
 医療行為は「大きなリスクを回避するためにより小さなリスクを加える」ものである。かつ医療人は人である限り過ちをおかしうる。従って医療を安全に行うには事故防止のシステム化、事故を生じた際の拡大防止策を含む事故防止の文化の育成が重要である。加えて、医療を受ける患者や家族と医療人の価値観が一致することはまずあり得ない、との前提に立って一定の緊張感を持って対応しなければならない。

 私は新しく入職してきた医師との面談において、必ず医療安全についての十二分な配慮と医療を受ける側への細やかな配慮をお願いしているが、その背景について記述した。
               

(中通病院医報43(1):1-3.2010に掲載)


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